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●寛永元年(1624)
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●寛永17年(1640)
●寛永18年(1641)
萩藩、百姓指出検地を実施。
検地に伴い、多くの家臣が減石、召し放ちとなる。
8月−検地完了。防長総石高は65万8299石となるが幕府の認める表高は36万9411石のまま。
毛利秀元(長門国豊浦郡長府)4万7349石(実質的な内高8万3011石)
毛利就隆(長門国都濃郡下松のち徳山)2万550石(同4万10石)
吉川広家(周防国玖珂郡岩国)3万7129石(同6万1石)
毛利輝元没。天樹院を建立する。
萩藩、一門以下家臣の知行替えを行う。吉敷(よしき=山口市)の福原氏は宇部へ。吉敷へは毛利元鎮(もとしげ)。
宍戸氏を右田から三丘(みつお)へ、毛利元倶(もととも)を三丘から右田へそれぞれ移封。
陶工・坂助八に高麗左衛門を名のらせる。
右田毛利氏、時観園(じかんえん)を創立する。
藩命により、小郡代官東条就類(なりより)が新田開発に力を入れる。
萩藩、山代で請紙(うけがみ)制度をはじめる。
萩藩、阿武郡・大津郡・吉敷郡などでキリシタンを捕らえて処刑する。
7月16日−毛利秀就、二条城で幕府から防長両国一円知行の朱印状を受ける。
3月−筑後久留米藩主有馬豊氏と幕府持弓頭安藤定智の仲裁により、徳山藩主毛利就隆が萩藩主秀就に誓詞を提出。
4月14日−〔萩藩、翌年の江戸城普請に半蔵門の枡形修築の分担を命じられる。〕
この年、全国でキリシタンでないことを証明する寺請制度が広がる。
3月26日−〔萩藩、江戸愛宕下の中屋敷を返上し、2万7000坪余の麻布下屋敷拝領を幕府より許される。〕
萩藩、幕命により美祢郡赤村において寛永通宝を鋳造する。
夏−牛の疫病により大量の牛が死ぬ。
12月22日−幕府が貨幣新鋳過剰のため,長州藩はじめ7藩に鋳造中止を命じる。
12月24日−幕府が長門の農民30戸、男女178人を肥前天草・島原に移住させる。