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山本七平語録

(山本七平の独創的見解の紹介とコメント。逐次追加します)

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研究主題 論題 説明
日本思想 『現人神の創作者たち』序言一体何で今ごろ尊皇思想の発端から成立、さらにその系譜などが問題になるのかと。そんなものはすでに過ぎ去った悪夢ではないか,と。問題はそこにあるであろう。
『現人神の創作者たち』あとがき戦前の天皇制とは一体何であったか。これは25歳までを戦前で送り、その下で戦場に行った私にとっては、生涯をかけても解きたい謎であった。
徳川幕府の朱子学の導入が掘り起こした復古思想戦国時代・朝鮮戦争の戦後政府としての徳川政権のもとで、新しい思想導入の前駆ともいうべき「慕夏主義」が起って、まず中国が絶対視される。ところが明か滅びて多くの亡命者が来、同時に明回復の援助が要請されるようになると、現実の中国は「畜類の国」となり・・・
徳川光圀の『大日本史』編さんから水戸学の成立まで光圀の野心は、おそらく、自分のもっているイデオロギーを歴史的に証明したいという点にあったであろう。彼にとっては、正統性をもつ忠誠の対象はあくまでも朱子学的原則に基づいて、天皇であっても、決して幕府ではなかった。
日本人と慕夏思想 日本においてはどういうふうにして理想主義が出て来たかと申しますと、必ずしも中国や西欧と同じタイプではありません。神代の理想化が皆無ではありませんが、むしろ中国を理想化するという形があったと思います。こういう中国文化を慕う思想を「慕夏思想」と申します。
正統論と理想主義 山崎闇斎です。彼は羅山その他を俗儒と言って退け、朱子の正統論に適合するものが正統であって、その正統の下に秩序をつくるのが理想であると言います。つまり、正統論と理想主義が一体化している
「逆臣」の位置づけ 正統に服するのが理想である、という一つの理想主義が現われてまいります。そして、それがあらゆる面で問題になってきます。なかでも否応なしに問題とせざるをえなかったのが、水戸の彰考館の『大日本史』の編纂です。
王政復古と天下の公論 一つの正統論が確立し、その正統論に基づく理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起っているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。
朱子学的理想主義の敗退 面白いのは西郷隆盛で、ある程度それを実行しようとします。彼は、明治維新後に東京にいた期間は非常に短く、すぐ故郷に帰ってしまいます。最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行います。
神道はどのように儒教や仏教と三教合一したか唐を絶対的な権威と考えた日本人が受け入れた仏教とは、三教合一論的な仏教と見なければならない。いわば「仏教」の名のもとに輸入された宗教的思想の中には、道教も儒教も含まれていたということである。
仏教は日本人の思想形成にどのような影響を及ぼしたか仏教の受容とは、実は中国の宗教文化(儒教や道教を含む=筆者)のすべての導入であった。
神道はどのように自らの思想形成をしたか「神道」――この言葉ぐらい定義しにくい言葉はなく、その内容ぐらい模糊として捉えがたいものはなく、時代によりまた人によりその定義・内容は常に一定しない
日本の固有法である貞永式目を作った北条泰時の思想はどのようなものだったかその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違っでくる。
言葉なき思想の自己増殖 伝統的規範は、日本人がこの島で生きて行くための「知恵の集積」であり、その思考の体系は、一種、生物の生態系のようになっている。
日本軍隊論 統帥権の逆用 「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立たるべし」という発想、だがそこには恐るべき逆用の道が開けていた。
帝国陸軍は日本一般人国を占領した 満州事変から太平洋戦争に進む道程を仔細に調べていくと、帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国は実は日本国であったことに気づく。
臨時費(=戦費) 国民が軍を支配するか軍が国民を支配するかは、「戦費の支配権」をどちらが握るかにあった。軍がこれを握れば、国民は文字通り、一方的収奪をうける被占領状態になる。
2.26事件の心理的背景 「あれじゃーね。二・二六が起るのはあたりまえだよ。二十越えたばかりの若僧があんな扱いをうければ、狂ってしまわない方がおかしいよ」
大に事える主義 事大主義=大に仕える主義とは、時の勝者に事えることを正義とする主義のことではないのか。
星の数よりメンコの数 帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。
私的制裁 そのとき、通常、二年生の先任上等兵によって、その日の「総括」がはじまるわけであった。まさに「総括」であった。
「とっつき」と「いろけ」の世界 行く道ですべての人がまるで挨拶のように口を揃えて言った言葉は「ドロガメにトッツカレンようにな」であり、帰る道で言った言葉は「大丈夫だったか、ドロガメにトッツカレンかったか」であった。
空閑大佐の自決事件 一体全体「捕虜になったら自殺せねばならぬ」という「規定」はだれが制定したのかという問題である。陸軍刑法にはそんな規定はない。・・・部隊長の意見では、そうではなくて、実は日本の新聞がきめた「規定」だ・・・。
日本軍の捕虜 「絶対に日本に帰さないでくれ、帰さないでくれれば、何でも言います」これが日本軍の捕虜のお定まりの台詞であることは前に記した。
日本軍の行軍 バターンにおける米比軍の降伏部隊の炎天下の強行軍が残虐行為なら日本軍の行軍は何と表現すればいいか。
バターン死の行進 「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。
日本軍の敗因は飯盒炊さん 「日本軍敗北の原因は飯盒炊さんにあった」と言った人があるが、私も、少なくとも大きな原因の一つだったと思う。
宿営地での「黄害」と害虫天国 日本軍はハエの大軍に包まれて移動していたと言っても過言ではない。普通のハエ、大きな銀バエ、アブ。さらに入浴も洗濯もできない状態から当然発生するシラミ、ノミ。それに南京虫、ダニ等々々。
日本はアメリカと戦うつもりはなかった それまで何となく感じていた疑惑が、私の中で、しだいに、一つの確信へと固まっていった。「日本の陸軍にはアメリカと戦うつもりが全くなかった」
軍の学歴主義 学生をあれほど信用しなかった軍が、実は学歴偏重主義で、幹部候補生の選抜基準は一に学歴なのである。
「気魄」という名の演技 演技力の基礎となっているものを探せば、それは”気魄”という奇妙な言葉である。この言葉は今では完全に忘れられているが、かつての陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。
なぜ日本はフィリピンから「石をもって追われた」か 陸軍ぐらい、徹底した「仲間ぼめ」の世界はなかった。内部では派閥闘争、集団間のいがみあい、集団内の学歴差別と、あらゆる足のひっぱり合いをしていても、ひとたび対「外部」となれば、徹底した「仲間ぼめ」である。
組織の名誉と信義 名誉は組織のものか個人のものか、かっての帝国陸軍にはそういう問題意識すらなく「組織の名誉」以外に名誉はなかった。
補給について ニューギニアやフィリピンの戦死者を克明に調べてみればよい。「戦死」とされているが実は「餓死」なのである。
バシー海峡の悲劇 一体、何が故に、制海権のない海に、兵員を満載したボロ船が進んでいくのか。・・・だが、この断末魔の大本営が、無我夢中で投げつけているものは、ものでなく人間であった。
末期米 不思議なことに―否、少しも不思議ではないのだが―ほんの一握りの米を「お守り」のように雑嚢に入れたまま餓死している者は、少しも珍しくなかったのである。
回虫 「が島は餓島」にはじまる日本軍の飢えとの戦いは、一面、回虫との戦いであり、それはいわば「黄害」との戦いでもあったわけである。
平和ならしめる者 「私は軍医だ」と彼は自己紹介し、いきなり「歩けない病人と負傷者は何名いるか」と言った。一切の緊張感が一気に去って、全身の力が抜けていくような気がした。
武装解除の恐怖 あの自動小銃を奪って船を乗っ取ってやろうというわけでもない。だだ自動小銃が頭から離れないのである。
出家遁世した閣下たち 閣下たちが、無口だったということではない。否むしろ饒舌であり、奇妙に和気藹々としていた。
A級戦犯 「あいつらはみんな気違いだ」捕虜収容所の兵士たちの言葉の背後には補給なしで放り出されて餓死した何十万という人間がいた。
参謀支配 帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。
私物命令 大本営参謀の肩書を持つ、マレーに戦った作戦参謀辻政信中佐は、シンガポールから東京に赴任の途中、ここに現われて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各級指揮官に。捕虜を殺せ”と督励して歩いた。
収容所の暴力団支配 各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した。
「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」の議論 人間の能力を極限まで使いつくすような死闘をして、そして「無条件降伏」という判決を得た現実、しかもあまりに惨憺たる現実を否応なしに見せつけられた者には、二つの感慨があった。
はじめに言葉なし 日本軍は、言葉を奪った。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。
生者を支配する「死の哲学」 軍部ファシズムの四本柱「統帥権・臨軍費・実力者・組織の名誉」の底にあったものは何か。それは「死の哲学」であり、帝国陸軍とは、生きながら「みづくかばね、くさむすかばね」となって生者を支配する世界であった。
復員船のリンチ 彼は得々として、復員船の中でやった将官や下士官へのリンチの話をした。その話は、昔の内務班の、加害者・被害者の位置が逆転しているだけで、内容は全く同じであった。
地獄を見たもの 『なかったな。何もなかった・・・。この人たちはみな地獄を見たのだ。本当に地獄を見たものは、そういうことはしないものだ。』
日本人論 日本人は、安全と水はタダと思いこんでいる 駐日イスラエル大使館がまだ公使館であったころ、日本人に親しまれたある書記官がつくづくと言った。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」と。 
日本人は秘密を守れない 確かに日本人には「秘密=罪悪」といった意識があり、すべて「腹蔵なく」話さねば気が休まらない。と同時に、秘密を守るということがどういうことか知らない。 
日本には独裁者は必要ない 日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、ひとりのナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。 
「朝廷・幕府併存」の政治体制 私の目から見れば、日本人のみが行いえた政治上の一大発明については、だれも黙して語らないし、だれも一顧だに与えていないのである。私か言うのは「朝廷・幕府併存」という不思議な政治体制である。 
全員一致の議決は無効 日本では、「全員一致、一人の反対者もない」ということが、当然のこととして決議の正当性を保証するものとされている。時には、多少の異議があっても、「全員一致」の形を無理にもとる。 
世界で最も強固な宗教=日本教 日本人とは日本教徒なのである。ユダヤ教が存在するごとく、日本教という宗教も厳として存在しているのである。くどいようだが、これはイスラム教やユダヤ教を宗教と考えれば、の話である。 
ユダヤ・キリスト教と日本教の神観念の違い 有名なモーセの十誠の第一誠には何と書かれているか、「汝、われのほか、何ものをも神とすべからず」と。この言葉は何を意味するのか。これは養子縁組の根本条件である。 
処女降誕なき民 ユダヤ人すなわちユダヤ教徒が、キリスト教徒に対して徹底的に反発したことの一つは、彼(イエス・キリスト)の偉大性は、その出生が常人と違う点にあるというキリスト教徒の主張である。 
忍び寄る日本人への迫害 「朝鮮戦争は、日米の資本家が(もうけるため)たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊っちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。 
そろばんの民と数式の民 ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういったものである。一方、日本語は実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できる。 
日本教は「天秤の論理」の世界 日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)である。そしてその支点となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた世界」で、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もう一つの世界である。 
日本教の世界とはどのような世界か 日本教の教義:第一条 人間は「天秤の論理」の支点であって、言葉で規定できるものではなく、その働きは「実体語」と「空体語」の「言葉の天秤」のバランスをとり、現実問題をいかに犠牲少なく処理するかにある。 
広津氏の「日本人の証言の信憑性」を見抜く四原則 広津氏には明確な(「日本語は写生の言葉」という特長を生かした)「診断基準」すなわち選別の基準がありました。その第一条は、情景の描写または記述が明確に脳裏に再現できること。再現できないものは、供述している人の脳裏にもその情景がない証拠である。
「語られた事実」と「雲の下論」 これは「雲表上に現れた峰にすぎないものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」「雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である」という考え方である。 
ハビヤンの生涯とその時代 ハビヤンは、仏教・キリスト教・儒教から絶えず影響をうけながらも、キリシタンへの入信を契機に『妙貞問答』(1605年)を書いて仏教と神道を否定した。その後、キリシタンの「殉教」や「告解」に疑問を持つようになり、1620年『破堤宇子』を書いてキリシタンを棄教した。 
ハビヤンがキリシタンに求めたもの ハビヤンはキリシタン神父(パードレ)のために日本紹介の書『ハビヤン版平家物語』を書いた。ここに彼が描いたのは、恩を基準とした一つの合理的な貸借関係の世界である。そして彼がキリシタンに求めたもの、そしてキリシタンにあると信じていたものは、この合理性であった。 
ハビヤン版『平家物語』における恩の思想 人は「恩をうけた」という債務を感じなければならないが、「恩を施した」と権利を主張することは許されない。人は天地に恩を感じねばならない、しかし天地は人間に対して「恩を施した」と権利を主張しているわけではない、人はこれと同じように行動すべきである、というもの。 
ハビヤンを棄教させた「殉教」と「告解」 「初条(第一戒)ニでうすノ内証ニ背ク事ナラバ、君父ノ命ニモ随ハザレ、身命ヲモ軽ッゼヨトノ一条ハ、国家ヲ傾ケ奪ヒ仏法王法ヲ泯絶(絶滅)セントノ心、茲ニ籠レル者也。何ゾ早此徒ニ柄械(手かせ・足かせ)ヲ加ヘザラン。 
日本教的自然法 何かの対象を絶対化し、同時にそれに基づく個人的規範を絶対化しながら、この両端の関係は常に一方的な思い入れであっても組織的発想でつなごうとせず、逆にそれを「不純」として嫌悪する傾向、これは常に日本人にあると言ってよい。 
日本教の聖書「大和俗訓」 脱宗教化”を行なった場合、人は、一種の「自然哲学」を作り、その体系で、自然(宇宙)と自己との関係、および人と人との関係を律し、各自がそれを自己規定としない限り、社会の統合は不可能になるはずである。そしてその役目を果したのが貝原益軒の『大和俗訓』である。 
日本史 英語はうまいが日本のことは知らない日本人 「このごろは本当に英語がうまい日本人が増えましたね。しかしそういう日本人に日本について質問すると何も知らず、何も答えられないのに驚きます。
日本歴史の「弁証法的発展」を捉えた伊達千広の歴史区分 伊達千広(一八〇二-一八七七年)は紀州藩士、有名な陸奥宗光の父である。彼はあるがままに日本の歴史を見、徳川時代に至るまでを「骨(かばね)の代」「職の代」「名(みょう)の代」と三つに区分した。今の言葉になおせば「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」ということになろう。
日本と中国そして韓国の文化的関係 当時の中国と日本とを比較した人がいたとしたら、その文化格差は、まさに絶望的懸隔と見えたでしょう。常にそう見られて不思議でない民族なんです。それが何かの刺戟で恐ろしいばかりの速度で駆け出すというだけです。
いつ頃日本人は発生したか 一万年ほど前、すなわち新石器時代に入るころ、日本はアジア大陸から切り離され、ここに住む人びとは、大陸と共通性があるとはいえ、独自の文化を形成しはじめた。
日本語はどのようにしてできたか では縄文人はどのような言葉を話していたのであろうか。これが日本語の基本になり、従って日本語は少なくとも一万年の歴史があるわけだが
縄文文化から弥生文化への発展は日本に何をもたらしたか 結局、水田と言うものは、急に一人が思い付いて鍬や鋤一本でできるものではなく、大勢の共同労働と、その共通技術と、統一組織の中ではじめて成功するもので、日本が早く水稲栽培で国家成立に成功したのは、これが出来得たためだと強調したいのである。
日本の国作りはどのように進められたか 日本の古代史を論じる際最も困惑することは、左記のような中国の史書や考古学的な研究によって確定された史実と、古事記や日本書紀によって語られた建国物語を比定することが極めて困難だという事です。
日本文化の源―かながなければ日本はなかった 「平安前期までの日本は、ほとんど中国文化のとり入れに明け暮れた。その中で本当に創造的な仕事といえるのは、仮名の発明ぐらいである」
律令制はなぜ崩壊したか、また、律令制は崩壊しながらなぜ天皇制は存続したか まるで西欧の教権と帝権の分離のように、天皇の役割と武家の役割(が分かれたのである。このことは、日本の律令制度が「神祇官と太政官の併存」から出発したことにも現れている。
神仏混合の寺院が多数決という議決方法を生んだ 日本の大寺院には、重要な決定に対しては全員で会議をし、多数決で議決の上決定するという方式があった。
武家はどのようにして天皇の権威を棚あげし、政治の実権を握ったか いずれにせよ天皇を虚位に置き、全日本を実質的に統治するようになった幕府は、当然に法治に進まざるを得なかった。
律令に代わる日本の固有法「貞永式目」はどのようしてに制定されたか では一体どのような法律が制定されたのであろうか。・・・まず大きな特徴はこの法律はいわば当時の社会の「常識の結晶」であっても、中国の法律とは全く無関係であったことである。
武士の所領への貨幣経済の浸透は、一族という血縁集団を、一揆という契約集団に変えた 「貞永式目」の公布が一二三二年だから、このころすでに貨幣が猛威を振るい出して不思議でない。そして皮肉なことに武士である清盛が切り開いた貨幣経済への道が、武家法をつくった泰時を苦しめることになった。
日本の平等主義・集団主義は、武士の自力主義・能力主義を前提とする「一揆」から生まれた 武士は元来、自力で墾田を切り拓いて来た人びとが主流である。従って「自力主義」ともいうべき特質をもっていた
日本の組織はピラミッド型ではなく、「一揆」組織が「ぶどうの房」のように中心の茎に連なったもの いわば一揆連合のような戦国大名は、決して、上下契約によるピラミッド型の組織ではない。しかし個々のぶどうは房となってつなかっていないと存立し得ない。
武家社会への貨幣経済の浸透が縁族を越えた一揆という契約集団を生んだ 土地を掌握しても貨幣を管理できないで倒壊した鎌倉幕府の次に出現したのが、貨幣は握っても殆ど領国支配のできない足利幕府であった。
農民への一揆の浸透が一向宗やキリシタン信仰の基盤となった 農民への一揆の浸透は一二〇〇年代にすでにはじまり、「隠し規文」などといわれる一種の「村法」をつくって自治的体制を敷いていた
ザビエルの来日とキリシタン伝道 ザビエルの日本評「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接した民族の中で一番傑出している」
秀吉のキリシタン禁止令の真意 ザビエルの日本評「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接した民族の中で一番傑出している」
秀吉の全国統一のための五ヶ条の詰問状 ザビエルの日本評「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接した民族の中で一番傑出している」
日本のキリシタン政策 「日本はなぜキリシタンを禁止したのか」こういう質問が欧米人から出て不思議でないが、多少キリシタン史を知っている人は、「いつ禁止したのか。何を禁止したのか、よくわからない」というのが普通である。
江戸時代初期、イギリス人使節の観察した日本 九月六日、駿府に到着するまで、毎日十五、六里を旅行した。一里は三マイルである。道路の大部分は、驚くほど平坦で、山を通過する部分は、開削されている。
なぜ一向宗は信長や家康と対立したか(まとめ) 王法を尊重しつつ、仏法による信心の王国」の樹立を目指した蓮如の教えが、「一向一揆」という強固な政治的・軍事的集団に発展し、戦国の覇者である信長や家康と死闘を繰り返すことになったか。
キリシタンを黙許した家康が切支丹国禁令を出したのはなぜか 徳川家康は、基督教の信徒と雖(いえども)、国法に従ひ、公序良俗を乱さぬ限り、敢て之を禁制しようとはしなかった。
島原の乱に到ったもう一つの真相 この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎない。
仏教を、民衆指導から民衆支配に代えた「寺請制度」 簡単にいえば日本人は、全員が寺に登録されているという意味では全員仏教徒になり。寺は戸籍役場になった。
家康の創出した「諸法度」による統治体制 何らかの新しい原理に基づいて全く新しい法や制度を制定したのでなく、すべての典拠を過去の先例に求めた。
韓国から見た徳川幕藩体制の優れた点は何か 徳川時代の政治体制は、分権的でありながら集権体制であるという、世界でも稀に見るものであった。韓国、李朝の完全な中央主権体制と、ヨーロッパ中近世の完全なる分権体制と較べてみると、両者をほどよく結合した形になるのである。
「幕藩体制の統治神学」としての朱子学が採用されたのはなぜか 秩序の維持はそれだけでは不可能で、そこには新しい統治の思想が必要であった。いわば「幕藩体制の統治神学」の確立である。
朱子学の導入過程 藤原惺窩以降の思想的系譜
戦国から幕藩体制への切り替えはどのようになされたか 命知らずで好戦的な特攻的日本人が、なぜ急に経済成長を絶対とする有能な経済人に一瞬にして変わったのか。
ヨコ組織である一揆はタテ社会の幕藩体制をどう支えていたか 「将軍→大名→家臣」の序列を作りあげたのが家光の時代だが、次の家綱の時代になると、家臣団が連携して無能もしくは暴君的な主君の「押込」という「逆タテ化」がはじまる。
五公五民で搾取された農民が豪商になり得たのはなぜか 年貢が、その年の収穫高に応じて課税する「検見」から、豊凶に関わらない「定免」に代わると、ますます付加価値の高いものをつくるのが有利となる。
家康の一国一城制がもたらした意外な経済的効果 家康は一国一城制を敷き、新規の築城は禁止し、修理・拡張もまた厳しい許可制にした。彼の目的はもちろん別の点にあったが、これが結果として非生産的な軍事的労役をなくしてしまった。
幕藩体制下の経済発展が日本を鎖国から開国へと導いた 幕藩体制は確かに日本の経済を発展させた。そしてその発展はついに、田沼意次が老中の頃(1772~1788)、鎖国はすでに無理だという状態になっていた。
和時計で蓄積された伝統技術が日本の精密工業の基礎をつくった 人類の長い歴史において、灯火によって昼を夜へと自由に延長できるようになったのは最近のこと、それも電気が自由に使える先進国のことであって、昔は昼と夜で生活の仕方を変えねばならなかった。
江戸時代の民衆生活 徳川時代の成年・結婚・夫婦財産制・借家・離婚・養子・聳養子・親権・入夫・遺言・相続・隠居等について記した。
江戸時代の民間学者がなぜ政治哲学を論じるようになったか 幕藩体制による「平和時代」の到来とともに多くの人が学問に目を向けだした。ここには家康の学問好きと奨励も作用していたのであろうが、「これからは学問の時代だ」という風潮もあったらしい。
幕府を非合法政権とみなした浅見絅斎の思想 綱斎はその一歩を進め、幕藩体制を認めなかった。幕府も藩も、排除さるべき非合法の存在と見たのである。おそらく彼は、このような見方をした徳川時代の最初の日本人であろう。
自己の存在意義を未来におく日本で初めての思想 綱斎は自己の存在意義を未来に置いた。その思いは『靖献遺言』の「燕歌行」に現われている。
民間学者輩出の時代 幕藩体制という「下剋上的エネルギー」が封殺されたやり場のない誉積の世界で、人はその上昇志向をどの方向に向けて生くべきかという探求が当然に要請される。
石田梅岩の思想 梅岩は競歩14年(1729)45歳で退職し、旧都で一般大衆のため小さな講義所を開いた。これが後に広く日本に流布した町人思想すなわち「石門心学」の始まりである。
富永仲基の思想 学生の町人たちはみな「町人的合理性」をもっているから不合理ははじめから受け付けない。そうした雑学的、よくいえば自由闊達な学風の中で、仏典や四書五経、朱子学の宇宙論などを学んだ。
山片蟠桃の思想 仲基は西欧を全く知らなかったが、蟠桃はコペルニクスからニュートンに到る西欧の影響が現れている。
西欧に先んじた日本の数学 日本の算学は文字通り和算だが、もとをただせばその源流はやはり中国である。中国人は西暦紀元前後にすでに代数の初歩に到達していたから、この時点では日本とは段が違う。
儒学と決別した「脱亜」の先駆者本多利明 彼は、まず数学・天文学・暦学・測量を基本として、彼のいう窮理学すなわち西欧の自然科学への関心を深め、それを基礎にものごとを考察する。
海保青陵の思想 青陵の現場主義の方が現実を鋭ぐ見ていた。彼は武士階級の意識改革がない限り、国営はおろか藩営も可能とは思わなかった。
明治維新はなぜ成功したか グレゴリー・クラーク氏が、日本は明治維新という「半革命」だけで近代化・工業化へと進み得たことについて、氏はその理由を日本の農村共同体の特質にあったと指摘されているのは卓見である。
昭和史 「一握りの軍国主義者」論 『一握りの軍国主義者』などという抽象的存在がこの世にいたのではない。そこにいたのは具体的存在としての個々の人間である。
青年将校の「矜りたかぶり」 まったく戦前の青年将校の「矜(ほこ)りたかぶり」と「あなどり傲り」は正気の沙汰とは思えないほどだった。
ヤンキー・ゴーホーム アメリカは、今でこそ世界を圧する国力と豊富な物資でチヤホヤされているが、いずれ「ヤンキー・ゴーホーム」の声が起こるであろうなと思った。
青年将校の被害者意識 ”軍は加害者”は戦後の通説であるから、彼らが強烈な被害者意識をもっていたとは、今では信じがたいであろう。
昭和天皇への無謬性の寄託 当時の陸軍には、天皇が自分の決断、自分の意志で、自ら行動を起こすだろうと思った人間は一人もいなかったというのがある。
派閥と法と権利の世界 そしてそれに代わって登場した「純粋」な青年将校で構成されているはずの軍部もまた「派閥争い」の世界であった。
民主制とは法を創出し制度を作る世界 明治から現在に至るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にある。
明治維新は「疑似中国化革命」 この連載を始めてから「明治維新が中国化革命であった」という話は生まれてはじめて聞いて驚いた、といった手紙が余りに数多く来たので、私の方が驚いた。
中国人「天孫論」と「犬猿論」 今はまた「中国天孫・日本人土下座時代」であろう。これは当然いずれは逆転する。従って私は、最初にのべたように、日本人の中国観は南京攻略戦当時と少しも変わっていないと考えている。
日支事変の原因を世界はどう見たか 日支事変が始まったとき、世界の列強の殆どは、これを・・・「満洲領有確認=満州国承認獲得戦争」、すなわち中国政府に満州国の独立を承認させるための軍事行動乃至は軍事的示威行動と見た。
犬が去って豚が来た 「犬」すなわちすべての実権を握って、吠えかつ威張っていた日水軍も日本人も去った。しかし日本は一応ここに法的秩序を、それが手前勝手なものでも、確立していた。しかし、新しく駐留した国民党軍はそうでなく、温順な庶民の生活を侵害した。それが大暴動の原因であった。
「大義」が「妄想」を生む 「武器」と「大義」、この二つが結びつくと個人的倫理観を喪失させ、その結果いかに人を狂わせるか。
希望的観測1 後代の歴史家は記すかもしれない。このような無謀な戦いをしたもの、すなわちアメリカ帝国の領土を爆撃して自ら戦端を開いたのは、日本人だけであったと。
希望的観測2 当時の多くの日本人は、自分たちが立ちあがれば、植民地として圧迫されているアジアの民が、ともに立ちあかって全面的に協力してくれるであろうと信じていた。
動乱、殺人、掠奪は人を変えていく この世の中に「残虐人間」という特別な人間がいるわけではない。戦場において残虐な行動をした人間が、故郷に帰れば最も温和な通常の人間であるのが普通の状態である。
緒戦の大勝利が敗戦への道 (なぜ日本はアメリカ軍を撃滅しうると信じたのであろうか)その心理的作用は真珠湾攻撃の”大勝利”に(あった。)
百人斬り競争 論争の発端(イザヤ・ベンダサンと本多勝一) 朝日新聞の「中国の旅」は、虐殺事件の責任者個人を告発しているのではなく、「私の責任といって謝罪すれば責任が解除される」と考える日本的な考え方が背後にあると指摘。 
論争の発端(鈴木明と本多勝一)本多氏の記事では、戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。しかし、いかに戦時中の日本といえ、戦闘中以外の「殺人ゲーム」を許すという人はいないだろう。
論争の発端(山本七平と本多勝一) 本書(『私の中の日本軍』)執筆の動機の一つは、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の「百人斬り競争という昭和12年の、誠に悪質な「戦意高揚記事」という名の「虚報に接したことであった。
戦場のほら・デマ 苦しみが増せば増すだけ、人間はあらゆる方法で、あらゆる方向に逃避し、また妄想の世界に『遊ぶ』ことによって、苦痛を逃れようとする。
輜重輸卒が兵隊ならば 横井さんが興奮して、思わず「一人斬り」を口走ったときの報道と解説によると、横井さんの手元に「お前なんぞは炊事番で後方にいたくせに……」といった手紙が山積した。
私的盟約は死刑 「向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、後であの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。」 
「副官」と「砲兵」を歩兵小隊長にしたのは誰か 「二将校の大言壮語」の収録であろうと「週刊新潮」に書かれていたが、おそらくそうではあるまいと前に私か書いた理由はここなのである。 
「中国の旅」の”殺人ゲーム”で加えられたこと 「本多版」の記事を仔細に見てみよう。ここで初めて「上官」が登場した。しかし、これを単に姜氏の創作というわけにいかない。浅海特派員の記事にも暗黙に登場しているからである。 
記者は「見たまま、聞いたまま」を書いたか ここでわれわれは大きな疑問につきあたるのである。それは浅海特派員も二少尉にだまされていたのかどうかという問題である。 
「虚報」作成の原則 常識や通念が、潜在的願望や希望的観測といっしょになると、情報のうち隠された部分を、無意識のうちに創作しておぎなってしまうのである。「百人斬り」にはこの点がよく現われている。 
「虚報」の恐ろしさ さらに恐ろしいことは、内部の人間がそのようになるに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。 
ベンダサンの「虚報」を見抜く目 本多・ベンダサン論争で、・・・「浅海版」が三十五年ぶりに再登場したとき、ペンダサン氏はすぐに「浅海版」もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。 
事実として聞いたか、フィクションとして聞いたか 「浅海特派員は、この事件における唯一の証人である。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたか」・・・
軍人の手柄意識 向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談をいったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集る」といった。
戦場の軍人にとっての女性と里心 「精神的里心」とは、人が「殺されることが当然」という戦場に連れて行かれたとき、何としても自分が生きていることを肉親に知らせたいという気持ちが異常なほど強くなることをいう。
日本刀神話の実態 次に中国人R氏のお手紙を紹介する。氏のお手紙は大分長く、中国の刀剣の説明があり、ついで日本刀に言及し、成瀬関次氏の著作に言及しておられる。
生への希求 部隊長の顔には、奇妙な激情が走った。「切ってこい。遺体の一部なりとも遺族にとどけにや相すまん。絶対にとどけにゃならん。とどけにや相すまんのだ。 
向井少尉の紫金山での「長広舌」のわけ 彼はこの時点で、今までのべて来た「負傷」のもつあらゆる恐怖から解放されたところなのである。そのわき出るような喜びはだれも抑えることはできない。しかし一方、非常に気が弱くなっていることも事実である。 
野田少尉はなぜ記者の誘いに乗ったか 何らかの示唆に基づくだれかからの暗黙の慫慂もしくは許諾がない限り、一少尉というものは、軍隊という官僚機構の中で、これほど大胆に振舞うことは不可能である。 
戦闘中の「非戦闘員殺害」は有罪 戦犯の実行犯においてはそうでなく、ある人間の同一の行為が犯罪になるかならないかは、その置かれた情況によって全く変るわけである。これも軍法の特例であろう。それは通常(一)戦闘行為、(二)戦闘中ノ行為、(三)非戦闘時ノ行為、の三つにわけられる。
東京法廷はなぜ二少尉を無罪放免したか なぜ東京法廷が二人を不起訴にしたか。それはこの「百人斬り競争」の英訳を読めばわかる。英訳は、これを「インディヴィデュアル・コンバット(個人的戦闘行為)」と規定している。 
虚報が故意に欠落させたもの 虚報には常に一つの詐術がある。それは何かを記述せず、故意にはぶいているのである。そしてそれは常に、それを記述すれば「虚報であること」がばれてしまう「何か」なのである。
南京法廷は「戦闘中の非戦闘員殺害」とみた 少なくとも、日本語の「新聞記事」には、どこにも「完全軍装の正規軍兵士に対する個人的『戦闘行為』」だとは書いていない。浅海特派員がこれを明言しなかった理由は、もちろん、本多氏の場合と同様「虚報を事実らしく見せかける」ためである。 
紫金山麓一二月十日の向井、野田の会見は事実か 最後まで問題になり、ついに二人を処刑させてしまったのは「十日の紫金山麓の会見記事」なのである。「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」・・・向井少尉はこの会見を否定した。 
「南京大虐殺」を”まぼろし”にしたもの あくまでも公正を期すなら、法廷は、浅海・鈴木両特派員を喚問すべきであった。それをしなかった点では一種の「政治裁判」といえる面を否定できない。 
無錫における三者談合が全ての始まりだった 結局この事件は、無錫における三人だけの談合にはじまり、十二月十日正午の虚構の会見で終り、これを一つの計画の下に推し進めたのは実は浅海特派員一人で、鈴木特派員も、佐藤カメラマンとその写真も、そしておそらく光本特派員も、すべて、カムフラージュのための材料にすぎなかったわけであろう。 
最後の「言葉」 向井・野田両氏は、その生命にかえて実に貴重な遺産をわれわれにおくってくれた。またK氏はよくそれを持ち帰ってくれた。それがなければ「百人斬り競争」も「殺人ゲーム」も、そしてその他のこともすべて「事実」として押し通され、結局すべては戦時中同様にわからずじまいで、探究の手がかりが何一つなかったであろう。しかし処刑の直前によくこれだけのことができたと思う。 
歴史評論 派閥の歴史、派閥はかって表組織だった一審有罪の刑事被告人田中角栄氏がなぜ権力を保持できるのか。理由は簡単で彼が木曜会(田中派)という派閥を掌握しているからである。ではなぜ派閥さえ掌握していれば、自民党員でない一陣笠が「キングーメーカー」といわれ、外人記者に「私は馬主で中曽根はジョッキー」だなどと放言できるのか。
「派」(主義主張に共鳴する者)+「閥」(出自を同じくする者)=派閥「閥」という言葉を広く定義すれば「出身を共にする者が団結して結成する排他的な集り」(広辞苑)ということになるであろう。確かに藩閥、閏閥、学閥、財閥等は、出身母胎は違うが「出身を共にする者が団結して結成する排他的な集り」である点は共通している。だがこう見ていくと「派閥」は純然たる「閥」ではない。
派閥の原型となった「寄り親/寄り子」社会が複雑になると「出身を共にする者が団結して」排他的な集団、すなわち「閥」をつくって団結する。多くの場合それは一定の血縁原則で行われるが、この場合「閥」は、当然、出生と同時にその所属する「閥」は決定され、死亡までそれを動かすことはできない。
徳川時代の「学閥」に見る師弟関係こうなると多くの弟子を持つ学派は「閥」のようになり得る。「医学部閥」などは、その長はかつての親権に等しい権力を持ち、勘当され、放逐されればどうにもならないといった現象があるという話も聞く。
「学閥」から「政治的派閥」になり自滅した水戸藩斉昭は藤田東湖一派のいう通り改革を行なったが、これを家老その他の譜代の大身たちは喜ばない。これと翠軒派とが手を結び、藤田派は立原派を「旧弊因循派」と罵り、立原派は藤田派を「功利派」と罵る。そして立原派は老臣結城寅寿を領袖として要路を占める藤田派に対抗する。こうなるともう学問上の争いでなく、藩政の主導権を争う純然たる「派閥争い」となる。
明治時代の「正論」――朱子学的神道から西欧思想への転換明治における「自由党」という言葉は、今の自由民主党とは違って、「有司専政」に対抗する「自由民権の闘士」であった。彼らが主張したことはその時代の「正論」であった。そして徳川時代の正論が輸入の朱子学ないしは神儒妙合の朱子学的神道だったのが一転し、西欧思想となった。
藩閥批判は自由民権運動か始まった。「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而シテ独有司ニ帰ス、其レ有司、上帝室ヲ尊ブト曰ハザルニアラズ、而シテ帝室漸ク其ノ尊栄ヲ失フ、」という形で「有司専政」(=藩閥)を非難し「天下の公議ヲ張ルハ民選議院ヲ建ツルニ在ルノミ」と主張した。
地方政治結社の誕生まず板垣の土佐の立志社、阿波の自助会、松江の尚志社、熊本の相愛社、名古屋の覇立社、伊予の公共社、久留米の共勉社、福岡の共愛会、三河の交親社、常陸の潮来社等々と、あげていけば際限がないほどの地方政治団体が族生してくる。
文明開化で掘り起こされた中国の政治思想外来の強烈な普遍主義的思想を受け入れると、それは一見そのまま受け入れたように見えながら、実は、その国もしくは民族の文化的蓄積の中から、その普遍主義的思想と似たものを掘り起して共鳴する。
明治の初め日本は「国教」を作ろうとした従って日本の伝統の中に、西欧の「国教」に対して共鳴する文化的蓄積はないといってよい。しかし明治はこれをやろうとした。そこで平田篤胤の門人大国隆正の門から出た玉松操が岩倉具視の顧問となり、神道の国教化を行おうとした。
欧米の政治制度導入における「掘り起こし共鳴現象」だが「議会制度」とはいえないが、合議制で事を決するという「議会制度もどき」を起し得る伝統は日本の文化的蓄積の中には実に豊富にあり、これが欧米の議会制度を知った場合、非常に敏感に共鳴現象を起して少しも不思議ではない。
議会制度の導入「虎を描いて猫になる」小楠以降、大鳥圭介も大久保一翁も建言している。一翁の説は、松平春嶽に上奏したもので、この時代のものとしてはある程度の形をなしている。彼は議会を二つに分け、大公議会は全国に関することを議し、小公議会は地方に関することを議するとした。
足利時代の一揆に根ざす派閥の歴史と政党政治の現在では一体「派閥」とは何なのであろうか。それは「藩閥」といわれようと「地方閥」といわれようと「金権閥」といわれようと、すべて「派閥」の一形態といい得る。そして政党の前に派閥があり、藩閥の前に藩があったのだが、この藩なるものが一種の派閥連合であった。
派閥に代わる統合の原理を創出する将来への課題「板垣死すとも自由は死せず」と彼はいった。しかし皮肉なことに現実は前述のように「板垣去るとも派閥は死せず」であった。星亨が暗殺され、政党出身の総理が次々に殺されても派閥は消えなかった。そしてそれに代わって登場した「純粋」な青年将校で構成されているはずの軍部もまた「派閥争い」の世界であった。
責任内閣制の確立と国民の「代議士なる者」への意識の変革明治から現在に到るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にある。有吉氏の言葉の一部をもう一度引用すれば、明治は「統一的な国家意思は、制度上、各機関を満している藩閥という非制度的人脈集団を媒介としてはじめて形成される仕組になっていた」。
歴史人物 渋沢栄一の思想と行動日本における近代の創造は、徳川時代と明治時代の連続・非連続を統合的に把握してはじめて理解できる――では、どのような方法を用いればその「統合的把握」が可能なのであろうか。
明治時代を現出した幕末人、尾高藍香と渋沢栄一言うまでもなく栄一は、第一国立銀行の創設者、生涯に五百の会社を設立したといわれる人、一方藍香は有名な富岡製糸所の建設者で経営者で日本の「絹」が国際商品になる道を拓いた人である。
一農民の藍香や栄一になぜ「国の制度を変えるべき」という発想が生まれたか人はその財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、又人の世に交際する上には、智愚賢不肖に因りて、尊卑の差別も生ずべき筈である。苟(いやしく)も稍々(しょうしょう)智能を有する限りは、誰れにも会得出来る極めて賭易(みやす)い道理である。
なぜ武士と農民が「逆転」したか「国民の大多数を占めていた農民は此の如く窮乏のどん底にあえぐ被搾取階級、被圧制階級であった・・・」以上がだいたい”定説”であったが、そのどこを探しても尾高藍香も渋沢栄一も見当らないのである。
「農村ブルジョアジー」を支えた勤勉の哲学と質素倹約の思想十四五の歳までは、読書・撃剣・習字等の稽古で日を送りましたが、前に申す通り父は家業に付いては甚だ厳重であったから、十四五歳にもなったら、農業商売に心を入れなければならぬ、と言われました。
豪農を志士に変えたものは何か二町歩たらずの小農民の渋沢家が何故に豪農になり得たか、どれくらいの経済力とそれかを記したが、それは、社長自らが仕入れも販売も行い、時には車の運転もするといったような中小企業であった。
明治維新を準備した思想、その発火点となった『靖献遺言』「発火点」は『靖献遺言』であって、水戸学はそれにそそぐ油のようなもの、そして外圧はこれを煽ぎ立てる風のようなものであって、油と風だけでは何も起らないわけである。
日本が「不倒翁」になるための「不易と流行」とは「『不易』とは時代がどう変っても一貫している詩の心』「『流行』とはそのときどきの時代感覚」この「二つが両立すれば立派な俳句だ」とされ、栄一の生涯もまた「不易」と「流行」であったと見ておられる。
高崎城襲撃を断念した栄一が郷里を出奔する時の父親との会話だが栄一は黙って故郷を出奔するわけにいかない。一応、父の許諾を得、また買い集めた武器等の後始末やさらに流用した購入資金の処理などもしなければならぬ。
農民出身の栄一に目をつけた平岡円四郎という不思議な人物そこでこの京都行の手続は如何したかというに、その頃一橋家の用人に平岡円四郎という人があって、幕吏の中では随分気象のある人で書生談などが至って好きであったから、自分と喜作とはその前から度々訪問して余程懇意になって居ました」
平岡園四郎は、なぜ栄一と喜作に一橋家への出仕を勧めたか就てはこの際足下等は志を変じ節を屈して(これは現代的に表現すれば『思い切って転向して』であろう)、一橋の家来になっては如何だ。随分この一橋という家は諸藩と違って所謂御賄料で暮しを立てて居る
一理屈つけて志願しようじゃないか「一ト理窟」とは簡単にいえば、自分たちは「天下の志士」を任じているから、志士として「私共両人に於ても聊か愚説もありますからそれを建言致した上で御召抱えということにして頂きたい」というわけである。
水戸藩士はなぜ一橋慶喜の側用人平岡円四郎を殺害したか日本ではしばしば、主義主張が「派閥争い」の「旗印」になってしまうことである。これは水戸の場合には明らかに見られる。この水戸の「大義を掲げての派閥争い」・・・これは最終的に殺し合いの悲劇で終る。
水戸の尊皇攘夷が内ゲバで自滅したのはなぜか(水戸の尊皇攘夷運動に)派閥争いや長州の討幕の策謀が入ってくると、議論を越えた生ぐさい政争と情念の激発になってしまう。すでに水戸では武田伊賀守、藤田小四郎が兵を挙げ、一方京都では池田屋騒動が起っていた。
一橋慶喜家臣としての渋沢栄一は、薩長の動きをどう考えていたかだがここで少々奇妙な位置に立たせられたのは栄一である。元来彼の主張は攘夷鎖港・尊皇討幕のはず。彼の夢のような構想は、長州と結び、水戸の一部とも連携し、共同蜂起して幕府を倒すことであった。
なぜ栄一は第十一代水戸藩主徳川昭武に随行しフランスに行ったか因りて公(徳川昭武)の御内意に、篤太夫(栄一)は嘗て攘夷論者たりしこともあれば、中にありて調停せんに適任ならん、殊に有為の材なれば、彼が前途の為にも、海外に遊学せしむべしとの仰せなり。
いわゆる「歴史とは勝者の産物に過ぎぬ」ことを忘れてはならない頼朝以来の長い幕府制に終止符を打ったのは彼らではなく、大政奉還をした慶喜であるというのが、当然のことだが、当時の人間の常識だったわけである。その慶喜がなぜ朝敵なのか。冗談じゃない、彼こそ「王政復古」の最高の殊勲者ではないか
明治が孕んだ虚偽に昭和維新の破綻の芽があった岩倉は明治の天皇制を招来したのは、天皇自身の力によるのでなく、「天下の公論」によるとしている。だがこの「公論」には二つの虚偽があった。というのはそのスローガンは、「尊皇攘夷・王政復古」のはずである。
幕府のみならず江戸人が最も嫌いかつ信用しなかったのは長州ではなく薩摩許し難いのはむしろ薩摩で、彼らは元来、京都守衛総督の慶喜の下に、会津とともに居だのではないか。それが「薩長密約」で秘かに慶喜を裏切り江戸で放火をして挑発する。これだけは絶対に許せんと思っていたところが、征東軍の参謀は西郷だという。
尾崎行雄の「天皇三代目論」これは、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。
イザヤ・ベンダサン ペンネームについて ペン・ネームは偽名でも匿名でもない。別名すなわち別人格を意味する名前である。
日本人が差し出す言葉の「踏絵」 『日本人とユダヤ人』を出版した後、私は、踏み絵を踏んでお奉行に褒められたような、妙な気を再三味わった。
「雲の下」論 この論法は、「語られた事実」を「事実」だと主張して、その「事実」の証拠を他の「語られた事実」に求めるとき必ず出てくる議論である。
教育論 飽食の時代の教育 飽食・順境の時代は、粗食・逆境の時代より教育はむずかしい。多くの国は極盛期を迎えると必ず衰亡への道を歩む。
教育とは自己抑制を教えること 新約聖書のパウロの言葉に「それ忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずればなり」というのがあるが、こういう原則は二千年前でも現代でも変りはあるまい。忍耐の基本は自己抑制である。
日本の伝統と教育戦後に、一つの誤解があると私は思っているのですが、それはデモクラシーという言葉を民主主義と訳したことです。クラシーという言葉は、元来クラティア、ギリシャ語から来た言葉で、制度を意味しても、主義を意味する言葉ではありません。
教育とは民族の智恵を教え込むこと私などはイスラエルに行きまして大変おもしろいと思いましたのは、その点に関する限り、教育とは民族の知恵を教え込むという以外に何もないのだ、ということが如実にわかることです。
親子の対話を成立させる共通の古典よく親子の対話がないとか、親子の話し合いがないとか申します。もっとも、話し合いとか対話というのは何によって初めて成り立つのか。その人間が共通の古典を読んでいれば、すぐできるのです。
「話し合い絶対」の問題点両方で話し合いで決めたということは二人だけのことである。だから、ほかの人間は関係がないというのは、すでに他の人とも共通の規範がないということです。
日本人の共通の古典は『論語』日本人が一番長く読んできた本というのは、実は論語です。・・・それから四書を読むという順序になる。四書というのは、いわゆる大学、中庸、論語、孟子、これが徳川時代の学習です。ところが非常に不思議なことに、明治になってスパツとこれはやめてしまった。
コーヘレトは言う「全ては空虚」聖書を読んでみたいと言う人に、「伝道の書」の冒頭を読んでごらんなさい、と言う。たいていの人は一読してあきれ、「聖書とは一体宗教書なんですか、宗教否定の書なんですか。こりゃ全くニヒリズムの極致みたいなものだな」と言う。
知識と知恵では人は何によって知恵を得るのか。彼らは「主(神)を恐れることは知恵のはじめ」と言い(詩篇)また知識のはじめともいった(箴言)。言うまでもなくこれは、人は全知でないから、全知全能との対比において自己を規定せよの意であり、それをすることが知恵の第一歩だということである。
日本資本主義の精神
禅とエコノミックーアニマル――自分で自分を表現できない日本文化を表現した正三 日本の資本主義をつくった人物としての鈴木正三。彼の時代は、戦国末期から四代将軍家綱までの、すなわち混乱の時代から秩序確立の時代までの、過渡期に位置し、その生涯の内容もまた、それにふさわしく戦国武士、官僚としての武士、出家という多彩なものであった。
禅宗の三位一体論、「月」と「仏」と「大医王」 鈴木正三は、宇宙の本質を「一仏」であるとした。そして、この「本質としての一仏」は、見ることも知ることもできないが、この仏には三つの「徳用」があり、それが人間に作用してくるがゆえに、人はこの存在を知ることができると考えた。
農民は、社会の寄生虫である僧侶より、立派である 百姓は自分の食べた以上を世に返している、したがって百姓が最も偉大であり、再びこの世に生れることがあれば、そのときは百姓になりたいという意味のことを言っている。
「本心では……」は宗教的表日本的実力主義の伝統 正三にとって、信仰とは、前記の唯一絶対神を信ずることでなく、「唯自身を信ずべし」ということである。この信仰を、今も日本人は持ちつづけている。
商人は、国中の「自由」をまもる大切な職業だ 「売買の作業は、国中の自由をなさしむべき役人に、天道よりあたへたまふ所也」と思い定めようとしている。彼は、自由の基礎を、売買、流通に置いているのである。
日本を変えた、結果としての利潤は善である、という思想 「世俗の業務は、宗教的修行であり、それを一心不乱に行えば成仏できる」ということである。この原則は、士農工商を通ずる彼の大原則であった。 
神学と心学――日本のプラグマティズムは梅岩にはじまる 梅岩においては、基本は「善」であり、この三つは「天」「性(本性)」「薬」である。この場合の「善」は、彼も言っているように、「善・悪」の「善」よりむしろ「宇宙の継続的秩序」の意味である。
聖書に一度も出てこない「本心」が、なぜ日本で問題になるのか 梅岩の「善」は「人間性」といった言葉とほぼ同義と理解してよいが、これが当時の庶民にはわかりにくかったので、弟子の手島堵庵が「本心と言いなおした。 
「結果としての利潤」が、なぜ日本にあふれたのか 彼は、武士が主君に忠でなく禄をもらっていれば、それは武士とはいえないように、商人も「売り先」への誠実がなければ商人とはいえない、という。いわば「消費者への誠実」が第一であった。 
なぜ、「池の鯉」が非難され、清貧が評価されるのか 日本人は「浪費、贅沢は罪悪なり」という発想が非常に強い。何かあれば「池の鯉」まで非難される。また「財界天皇」といわれる人が質素な生活をしていれば、それだけでその人は社会的信用を克ちうる。
現代日本の本質は、梅岩の思想の国際版 地球は、かつての鎖国内日本人のように、狭くなった。そして、この中の秩序の安定による市場の確保こそ、町人日本が最も欲する状態である。だが、その責任は自ら負おうとはせず、それをあるときはアメリカに、あるときは国連にと委託しても、自らは絶対にそれに触れず、ぞの責任を負って、自らの手でそれを確保していこうとはしていないわけである。これは梅岩の発想の国際版と言うべきであろう。
日本資本主義の美点と欠点――売りものの「信念」を捨て、経済的合理性の追求へ 町人にとっては「資本の論理」は当然であり、その上に「資本主義の倫理」の樹立が要請され、これに対応したのが梅岩なら、武士には「武士の倫理」のまま、改めて、「資本の論理」が要請され、武士の立場からこれに対応したのが、鷹山のような名君、いわば典型的な名経営者大名だったといえる。
わか国の伝統「飢えの瀬戸際政策」 明治のはじめであれ、戦中戦後であれ、大部分の日本人は、糞盗人が出現するような最低の状態におかれた。日本はそうじて生活水準が高かったとはいえ、そういう一時期の水準を考えれば、それは決して、現在のアジアの国々より生活水準が高かったとはいえまい。
事実を事実のままに見ることかできれば、問題は解決する 徳川三百年は本当に停滞であったであろうか。欧米に比べて日本は、本当にそんなに遅れていたであろうか。冷静に見れば、徳川時代は少しも停滞していない。否、むしろ進歩発展しているのである。 
倒産は経営者の責任というのは健全な発想 ある意味で当時の倒産は、明治維新という情勢の大変化に即応できなかった犠牲者であったともいえる。しかし倒産はあくまでも経営者の責任であって政府の責任ではない。この点では、あらゆることを政府の責任といいたがる新聞も、倒産に対してだけは今もなお、これを経営者の責任としている。 
経済的合理性のあまりに早い追求か裏目に出る 非倫理性への糾弾はもちろん当然であり、これを失えば日本の資本主義は崩壊する。しかしこれとは別の、経済的合理性の余りにも早急な追求が、逆に、将来への投資を否定するという面が出てくることも否定できない。 
日本資本主義の伝統を失わないために 梅岩にとっては、消費者のために徹底的な合理化を行うのが「正直」であり、鷹山にとっても竹俣当綱にとっても、藩の経済的合理性を確立するためには、愛馬に人糞を積み、家老が鍬を握って泥田に入ることが「善」であった。 
日本は、常に、倒産が必要な社会である 日本の機能集団が共同体化するという問題の克服には、簡単に言えば、「資本の論理」の徹底と、それを無視した倒産への「小野組への評価」のような、一種、冷酷とも言える評価が必要であろう。
「あたりまえ」の実行を阻害する「民主主義」という権威 厳格な現状把握のもとに倹約を実行に移させれば、多くの抵抗があり、そしてその抵抗は、常に、その時代の「権威」とされる言葉によって行われた。いわば「聖人の教え」であり、「武士の道」であり、戦後ならば、「民主主義」であろう。 
経営論
日本的実力主義の伝統 日本における最初の成分法である「貞永式目」は基本的に武家法であり、軍隊的秩序を基本としていた。その特徴は功績が地位に転化するという原則である。これは身分が制度的に固定化されている社会ですら、ある程度は無視できない原則であった。 
一揆的集団主義 伊達千広のいう「下より起こりて次第に強大にして止むことなき勢」はしだいに底辺にまで及び、ついに農民にまで達し、それまでの社会秩序を根底から覆しそうに見えた。 
「礼楽的」一体感の秩序 日本も形式的には「法契約社会」だが、実質は「礼楽的社会」だから、社内は「礼楽的秩序」である。すなわち、「楽は同を統べ、礼は異を弁つ」で、同時に「仁は楽に近く、義は礼に近し」である。 
人望=九徳的リーダー (人が人格・人望を身につけるためには)『近思録』には、「具体的中間目標は、九徳である」とは記されていないが、「九徳最も好し」とあるから、具体的には、これに到達することを目指せばよいであろう。 
勤労絶対化の規範労働により己が生活を支えることは、梅岩にとっては、「人という形」に生れた者が自然の秩序に従う道であった。いわぱ「馬という形」ならば草を食うような「心」が自然にそなわっているようなものである。
徳川時代の町人の思想商人とは、その目的が非常にはっきりした存在であるから「目的が手段を正当化する」という考え方は、成り立たない。逆であって、「利潤」という目的の追求が正当化されるのは、その追求の「手段」が正当な場合に限られる。
政治評論 『存亡の条件』まえがき われわれが専ら”まね”をしてきた西欧と西欧思想は、大体、一七世紀の末期以降のものであり、彼らがそこに到達するまでの長い長い期間のことは、実際には、検討しようともしなかった―― 一部の専門家を別にすれば。
東は東、西は西でない――合理・非合理について 組織は常に合理性を要請する。しかし、人間に非合理性がある限り、その組織が完全に合理化すれば、その瞬間に、その組織は人間を排除してしまい、その結果、組織として機能を失って形骸化し崩壊することは、論をまたない。
知識人の「殉教者自己同定」 殉教者の権威を自己の権威として絶対化するには、虚構の”現世牢獄論”を展開し、自分も民衆もその牢獄の中で殉教者同様の状態にあり、自分を苦しめているその勢力は、殉教者を殉教させた勢力と同じだと規定しなければならない。
奇妙な前提――〈私は正しい〉 一体、非合理性とか矛盾とかいった問題を、どう見、どう解し、どう扱うべきであろうか。これは、最終的な無謬性と可謬性。整合と矛盾の問題になると思う。では一体、無謬性とか無謬性の主張とかは、どういう形で現れるのであろう。
歴史的対象把握による正統・異端論争の克服 (聖書)はあくまでも歴史的文書であり、イエスは、過去において史上に存在した一人物として把握し、その歴史的な一人物を歴史的背景のもとに捉えて、自己はその歴史的対象と、相対して、現在の自己の歴史位置でそれを把握しなければならないのである。
リーダー論「組織的家族」と「世話人型指導者」 日本軍・・・この戦闘のみを目的としそれに対応して構成されたという意味で、非常に単純明快なはずであるべき組織が、実は、「家族集団」として規定されていた。
「組織的家族」の「植物化」からどう脱却するか 自己の表現ができない限り、人問は自己の現況から脱却できない。一言でいえば進歩はあり得ない。もちろん模倣はありうるが、模倣は、実際は退化にすぎない。
アメリカのまねはできない レイオフは日本では簡単にできない。これは組織的宗族では当然であり、勘当か破門同様に本人が受けとり、社会もそう規定するからである。したがって日本には正当解雇という概念はが在せず、解雇はすべて不当になり、そして不当な扱いをうけた者は犠牲者とされる。
組織の非合理性からの脱却 新たな戦後世代と日本の国際化、過去には考えられなかったような諸外国との接触は、組織的家族の中に「和」よりも合理性を求める結果にもなっているであろう。
肯定的戒名より否定的戒名 自己検証から出てくるものは「これはすべきでない」という形の「否定的戒命」であり、それで構成される大きな枠の中での各人の方向は、自由にみずからが探究すべき問題である。
人望論
人望の条件―「九徳」とは何か 九徳については『尚書』(五経のうちの『書経』の別名)の「皐陶謨編」(こうようぼへん)にもあり、行為に表われる九つの徳目を、舜帝の臣・皐陶が舜帝の面前で語ったものとされている。
「十八不徳人間」にならないために 人間は大体、逆を考えてみると、ものごとがはっきりする。まず、上役が「十八不徳」だったら、どうであろう。おそらく、次のようにならざるをえまい。
時代を問わず、世界中に通用する徳目 この「九徳」は、世界中どこへ行っても通用する徳目だということを記しておこう。なぜそうなったかは別に記すが、このことは、幕末や明治の初めに欧米へ行った使節などが、なぜ高い尊敬をかちえたかを考えてみれば、自ずから明らかであろう。
学ぶには、どこから始めてもいい 学ぶということは、一面では知識の獲得、一面ではそれを活用する訓練であろう。そして、ある種の能力を獲得するために学び、かつ訓練するという点では、「人徳」といわれる、さまざまな能力とは異質の、それを超える能力を獲得する点でも変りはない。
 ”智に働けば角が立つ……”にみる日本人の心情 この夏目漱石の有名な『草枕』の冒頭を知らない人は少ないであろう。われわれはこれを、ごく「当り前」のことと受け取っているから、なるほどと思いつつ読んでしまう。だが、この文章は少々おかしくないであろうか。
常識論
「理想郷」(キブツ)からの逃避経済的には何一つ不自由ないキブツで生れ育ちながら、資本主義社会の荒波の中へと去って行く若者も多いのだから。社会主義が魅力を失って当然であろう。
海上秩序(航行の自由)の傘われわれが「傘の下」にあるのは「核」の場合だけであろうか。それがなくなったら急に「何とかの傘」が意識され出して、それがなくなった状態における基本的な発想が何一つ確立していなかったことに気づくのではないであろうか。
日本人とアラブ人(聖地からの日本人論)「聖地からの日本人論」がテレビ放映された後で、アラブ連盟を中心とする国々から抗議があった。もっとも放映前からNHKには強烈な圧力があったが、放映後は専ら抗議の対象が日本国政府ということになり、NHKにも私にも何の抗議もなかった。
「自由」のない「民主」はあり得るか?「自由民主」という言葉について、あらためて考えてみたい。というのは、少なくとも戦後の日本においては「自由」と「民主」は「結合しなければ共に存在し得ない概念」とは考えられていないからである。
伝統文化と近代化私は、少年時代に「これだから日本人はダメなんです」といった種類のお説教を聞かされて、「では一体あなたは『なに人』ですか」と反問したくなった経験がある。
高齢化社会を生きる道高齢化社会は、遠慮なく近づきつつある。現在の日本は生産人口七人で老人一人を養っているが四十年後には、二・五人で一人を養うことになる。
防衛の四原則私は、企業の防衛であれ一国の防衛であれ、その原則――これはあくまでも原則だが――は同じであり、この二つに全く別の原則が作用するとは思っていない。
国民感情と国家感情のあいだ国家の行動の原則はあくまでも「理性」であり、国家それ自体が「感情」をもって、この感情に基づいて行動することはあり得ないという前提で、現代の国家は運営されていることを意味する。
カトリックの戦争観カトリック教会のアメリカ司教団が発表した「戦争と平和に関する司教団教書」が、『平和の挑戦』の書名で邦訳され出版された(中央出版社刊)
老人問題の方向日本人にも「生と死の哲学」はあった。ところが戦後、それをどこかに置きわすれてしまった。家族に見とられながら最期を迎える、いわば「在宅の死」が日本の伝統なのである。
「人種的憎悪」について ……あと八センチ背が高かったら、日本人は真珠湾を攻撃しなかったはず、という報告書があるかと思えば「現代に生き残った一種の奇形」と言ってのける雑誌もあった。
宗教
日本への仏教の伝来 通常仏教伝来の年は『日本書紀』の記述に基づき欽明天皇の十三年(五五二年)とされるが、これは百済の聖明王が仏像と経論を欽明天皇に献上し、天皇がその礼拝の可否を群臣に問うたときである。
仏教国家創建の功罪 仏教の受容とは、実は中国の宗教文化のすべての導入であった。ただ唐の時代は中国仏教の最盛期であったから、それは仏教中心の宗教文化の輸入であったと言ってよい。従って、仏教の僧侶が儒教の講義をしても人は少しも不思議に思わなかった。
呪術性と末法思想で仏教変質 彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたわけである。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけた。
念仏のみ選択した法然 源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(一一三三~一二一二年)の浄土宗であろう。前に法然のことをプロテスタントの宣教師に話したところ。「それではキリスト教ではないか」とか「まるでマルティン・ルターのようだ」とかいう反応が返ってきた。
戒律死守した唯一の僧・明恵 彼(法然)のような思想に対して当然に対抗宗教改革が起こった。その代表が華厳宗の栂尾(とがのお)高山寺の明恵であり、『催邪論』を記し、仏典のどこを探しても法然の主張するようなことは記されていないと批判した。
日本仏教の独自性 法然も親鸞も旧仏教勢力によって流罪にされたが、このとき親鸞は越後で妻帯して関東に赴いた。彼は堂々と妻帯した仏教史上最初の僧かも知れず、この点では彼の方がルター的かも知れない。
秘密投票のルーツ 全員が一つの目的をもつ宗教的組織的集団は、氏族や大家族とちがって血縁順位がなく、その意味では平等な「一味同心」であり、重要な決定に対しては全員で会議をし、多数決で議決のうえ決定するという方式があっても不思議ではない。
多数決は神意の現われ 古代の人びとは、将来に対してどういう決定を行なってよいかわからぬ重大な時には、その集団の全員が神に祈つて神意を問うた。そして評決をする。すると多数決に神意が現われると信じたのである。
理不尽な強訴の尖兵たち 大寺院は「鎮護国家」を任とし、国家は王法・仏法で支えられているのだから、仏法もまた法であるという理屈が成り立つ。だがこの仏法という意味が、現実に存在する寺院勢力を意味するようになると、その衆徒による「満寺集会の議決」は神慮を現わすからこれまた法であり無視してはならないとなる。
「自然(じねん)」の思想にみる他力の人間学 日本ではごく普通に「自然にものごとが進む」のがよく、「不自然な作為」を伴う行き方はよくないとされている。それがまた殆ど意識されないほど各人の身についており、社会を律する一般的で常識的な規範になっている。
在家主義への傾倒 親鸞は三善氏に仕えていた女性、後の恵信尼と結婚した。結婚は出家主義を捨てて在家主義に徹することを示すわけで、さまざまの点で注目される。しかしこれは法然の下で、すでに定まっていた方針であった。
「信仰」は阿弥陀如来からの授かり物 念仏したいという心が起るとき、その人はすでに救われているということになり、その前には老少・善悪など一切無関係ということになる。必要なのは「信心」だけであるとはっきり自覚せよ。ということである。
プロテスタンティズムとの共通点 ここで連想されるのがカルヴァンの予定説であり、彼はその人が救済に予定されているか否かは、神の意志であって、人がこれを如何ともできないと説いた。一方親鸞は、信心を賜るのは一方的に弥陀からであるとしている。
親鸞にみる「寛容」の精神 怠惰な者の行く浄土の辺境・・・それは一種の地獄、すなわち救済されないものの行くところかといえばそうではない。次の言葉を読むと、親鸞は「辺地往生」を一種の煉獄(浄罪界)としているように思われる。
日本は明治の初めに仏教と神道をあわせて国教を作ろうとしたが失敗した 「国教」(これは「国民的宗教」といってもよいかもしれぬ)という概念は日本人にはない。もちろん聖武天皇が東大寺に大仏殿をつくり、国々に国分寺をおいたころは仏教が国教化していたといえるかもしれぬが、鎌倉幕府、特に「貞永式目」以降には、国教という概念は日本になかったといってよい。 
聖書学 モーセ五書が基本である 旧約聖書三十九の本は、通常、律法、歴史、預言、諸書、の四つに分類される。もっとも三十九書という数も順序もまた分類の方法も、キリスト教のカトリックとプロテスタント、またユダヤ教とでは必ずしも同じではない。だがいずれの分類をとるにしろ、「五書」がその冒頭にきている点では変りはなく、これを基本とする点では共通している。
預言者は未来を占わない それは必ずしも未来予知を意味していない。未来を見るものとして聖書に「見る者」「先見者」(この訳語は必ずしも統一されていないが)という言葉があり、「預言者」にその能力がある場合があっても、その本質は神の言葉を預託された者という意味であろう。
正典化への複雑な歩み 以上のように「律法」を基本とした旧約聖書が、預言書その他が付加されたうえで、どのように形成されて今日のようになったか、なぜ、四十六書と三十九書という差異が出てきたかについて記すことにしよう。
「現代の聖書」への道筋 旧約聖書がほぼ現在のかたちで成立したのは、紀元一〇〇年のヤブネの会議においてである。だが、そのときに記されたのでなく、長い年月を経て徐々に形成された。
キリスト教にとってのギリシャ語訳聖書 キリスト教が形成されたのは、イスラエルがローマの支配下にはいり、多くのユダヤ人がヘレニズム世界に散った時代である。それらのユダヤ人の多くはヘブライ語ができず、ギリシア語を使っていたので、キリスト教はヘレニズム世界の宗教として発展していった。
考古学が裏付ける聖書の記述 遺跡の発見や発掘の結果、これまで史実として疑問視されていた聖書の記述の、歴史的信憑性が証明された例は少なくない。だが、この逆、すなわちその記述が歴史的には事実でなく、何らかの原因譚説話であることが明らかになった例もある。
旧約に来世という考え方はなかった 来世という考えは宗教につきもののように思われているが、旧約聖書の古い層にはこれがまったくない。このことはたんに興味深いというよりも、歴史上の一つのなぞになっている。
聖書はリアリズムの世界だ 自分の内部に内なる合理性が厳然とあり、それが「社会正義」を求めているという自覚の一方、この内なる合理性と外なる合理性が一致しないということは、聖書だけでなく、多くの書で取りあげられ、つねに人が問題にしてきたことである。
歴史的見方は聖書から出た 聖書は歴史という意識を人間に与えた。歴史的見方というのは、聖書から出た。ヨーロッパ人には、この見方が古くから非常に深くしみ込んでいる。
旧約聖書はいつ完成したか 聖書の編纂はこの捕囚期にはじまったと思われる。旧約聖書が正典として形成されていったわけである。このことが、第二神殿期の「宗教改革」の基礎となったといえる。
聖書の「契約」とは 聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセの十戒」といわれる「シナイ契約」である。「神と契約を結ぶ」などという発想は、われわれからみればまったく突拍子もない考え方である。
ユダヤ人の生き方を規定する(律法) たとえば、ユダヤ教における結婚は、「結婚契約編」により、その第一条を読むと「処女なる初婚のものは水曜日に結婚し、再婚者は木曜日に結婚しなければならない」と結婚式の曜日まできめている。
宗教は律法だ――中東の考え方 宗教は法律であるという考え方は、聖書の律法から出ている。旧約の律法そのものが「法律である宗教」である。ではキリスト教社会だけがなぜこのなかにあって、近代的市民社会へと進んだのであろうか。
預言者とはどんな人か キリスト教徒は旧約聖書のなかで、むしろ、この預言の伝統を重視し、かつ継承する。一方、ユダヤ教はその中心を律法の伝統におき、イスラム教もそういえる。ユダヤ教、イスラム教に対するキリスト教の独自性は、ここにあるといえよう。
捕囚時代の預言者 無名の預言者――それも一人ではない――の著作であり、しかも時代もはるかに後のバビロン捕囚の終るころ、一部はおそらくさらにその後なのである。そこで学者はこの無名の預言者を第ニイザヤ、第三イザヤと呼ぶ。
現代に生きる申命記の教え その大きな特徴は、貧者救済のための社会福祉的な条項である。それも数が多いが、この中のほんの数例をあげておこう。▽兄弟に利息を取って貸してはならない。・・・
王も国土も失ったユダヤ人 紀元前五八七/六年にはエルサレムが陥落し、いわゆるバビロン捕囚がはじまる。国民の主だった者は捕囚としてバビロニアに連れて行かれ、エルサレムは荒れはてた丘と化してしまう。王も国土も神殿も失い、このときにイスラエルの歴史は終りユダヤ人の歴史がはじまることとなった。
エズラの宗教改革 エズラはバビロニアから帰国するに当って、モーセの五書をたずさえてきた。どこまでが事実か伝説かわからないが、民衆の前でこのトーラーを読んで聞かせ、この律法のとおり実行することを人びとに約束させた。これが、紀元前四四四年とされている。
律法体制は預言者を消滅させた トーラー体制の確立は、一つの重大な結果をもたらした。それはイスラエルの貴重な伝統であった預言の消滅ないしは休止という思想が出てきたことである。
応報思想につながる”教育書”箴言  箴言とは、たしかに広く浸透してはいくだろうが、その反面、日常訓となって思想の力は失われる。思想がたんなる日常訓に還元されると、これさえ守っていればいいというかたちになってしまう。
悪魔は正義の味方か 旧約、とくにその古い資料におけるサタンは決して「神と悪魔の対立」というかたちにならず、サタンは神のかたわらにあって人の罪を告発するものになっている。とするとまさに「正義の味方」なのだが、ではなぜそれが「悪」なのか。
ヨブ記は箴言思想を批判する まことに「正義は必ず勝つ」とか「正しい者は報われる」といった発想は、逆転すると恐ろしい。いわばヨブが「報われないのは、正しくない証拠」になってくる。
理解しにくい「被造物感覚」 神は大嵐のなかから大声でヨブに答える。この答がわれわれには実に奇妙に聞える。それは一言でいえば「お前は被造物ではないか」ということである。創造者は被造物の上に絶対意志をもっている。
キリスト教 キリスト教への胎動(一)――ユダヤ教の三派 新約の発端をどこに求めるか。おもしろいことに「新約はアレクサンドロス大王にはじまる」という言葉がある。確かに全東方のヘレニズム化か七十人訳聖書を生み出し、これがギリシア語世界への旧約の進出となって、新約への足がかりをつくったことは否定できない。
キリスト教への胎動(二)――黙示文学と終末論と救済者 日本人にとっていちばん親しみにくいのが、この黙示文学だろう。難解という反面、どうにでも解釈できるという一面を持っている。だから、ダニエル書やヨハネの黙示録の通俗的注解書は非常に多い。
キリスト教への胎動(三)――洗礼運動とガリラヤの風土 ユダヤ教三派の中で、一番進歩的で柔軟性があったのは、パリサイ派だった。精霊、天使、復活、救済者という考え方を持ち、会堂を中心としながらも神殿を否定せず、民衆の中に積極的に入っていって,海外のユダヤ人にも伝道していた。
聖書における民族主義と普遍主義 新約聖書は旧約聖書を無視しては新約聖書は理解できない。というのは新約に表われるさまざまの概念は、すでにのべてきたように、旧約に由来しているからである。ではその新約聖書はどのような構成になり、いつごろに成立したものなのであろうか。
イエスの生年月日は西暦紀元のクリスマスではない ヘロデの統治期間は、前述のように、紀元前三七年から前四年で、この年に死んでいるのだから、イエスが生れたのは紀元前四年以前でなければならない。現在では、紀元前六年というのがほぼ定説である。
イエスに似た人物の同時代の記録 イエスの基本的性格は福音書に共通している。このイエスの働きは]」肉体の病気をいやすこと、口悪霊につかれたものの悪霊祓いをすること、曰罪ある人に罪の赦しを与えることになる。
新約聖書の中のイエス 三十歳すぎてから公的生涯に入る以前のイエスについては、信頼しうる正確な記録はほとんどないといってよい。前述のようにその履歴書は「生年月日 記述なし。学歴 記述なし。職歴 記述なし」なのである。
イエスはなぜ殺されたか まさしく「神のことば」として現われたイエスが、当時の律法体制、律法絶対主義と対立したのは当然である。個々のイエスの教えには、パリサイ派はとくに反対する要素はないはずだが、律法遵守のみとするか否かではパリサイ派と徹底的に対立する。
律法を無視したイエスの裁判 イエスの死刑そのものが、律法主義すなわち律法によって義が確立するという主張を自ら否定していることになろう。というのは、これを行なった人たちは、律法体制を護持する者と自負していた人だちなのだから――
キリストとは何か――メシア、人の子、神の子、主 ギリシャ語のクリーストスはクリオーという動詞から出た言葉で、クリオーは「塗油する」という意味。ヘブライ語のマーシア、アラム語のメシアすなわち「油を注がれた者」という意味の訳語である。元来は「メシア」と「キリスト」は同義語である。
パウロの歴史的背景 イエスが処刑されたのが紀元三〇年、皇帝ネロによる迫害が紀元六四年。これはまことに不思議な現象といわねばならない。というのはイエスの死後わずか三十四年で、キリスト教は、ローマにおいて、弾圧に値する宗教団体となっていたのである。
パウロの特徴 パウロには「内なる人」と「外なる人」という言葉があるが、この考え方もこれに該当する言葉も旧約聖書にはない。いわば、この思想は新約聖書、とくに国際人パウロにおいて独特なものと考えられる。
パウロと旧約聖書 パウロの思想は旧約聖書から非常に離れたものなのであろうか。決してそうではない。「義」とは、人間が律法を「行う」ことによって自らを「義」とすることでなく、神の一方的な自己主張(自己の「義」の主張)であるという考え方は「ヨブ記」にある。
未来論 21世紀の展望 明治も過去を消そうとした。そして、戦後も過去を消そうとした。「我々に歴史があるとすれば、消すべき恥ずべき歴史しかない」と考えた。
「どうなるか」ではなく「どうするか」を考える 自ら履歴書を検討してみれば、自分の特技も、また欠けた点も明らかになる。個人が生涯学習の時代なら、民族もまた、それ以上に常時永続学習を要請される。
明治から昭和の「履歴書」 日本の存立も発展もその伝統的文化が基盤であることは言うまでもない。それは明治を可能にしたし、戦後の繁栄をも可能にした。
ユダヤ人より上回る現代日本人への反感 「お前たちは貸す者となっても借りる者とはならないであろう」という旧約聖書の『申命記』の言葉は確かに日本にもあてはまる。しかし、それがどれだけ大きな反感になるか。
民族は伝統文化を失わない限り存続する 民族は、たとえ国土と政治的独立を失っても、伝統的文化を失わない限りその存続する。
祖国をポケットに入れて世界中を歩き回る 世界中にばらばらにばらまかれても、「共通の民族の遺産をみなが読んでいる」という意識は強い連帯をが成したであろう。丈化的統合をいかにして保持するか、これはわれわれの問題でもある。
経済的裏付けがあって民族の存立も可能 勤勉を失えば、日本人であれユダヤ人であれ、経済的自立は不可能である。さらに彼らは、たとえどのように富裕になっても、いつ政治的災難が降りかかるかわからぬことを考えて、つねにその用意をし、また苦難のとき、貧しいときのことを絶対に忘れなかった。
昭和天皇論 昭和天皇の「自己規定」を形成した教師たち 人間の性格、ものの見方や考え方、さらに嗜好などがどのようにして決まるかは、今でも完全に解明されているわけではあるまい。たとえば天皇の趣味以上の趣味が生物学であることはよく知られているが、本職生物学者を除けば、生物学が趣味の人は珍しいと言うべきである。
昭和天皇の倫理教師、杉浦重剛の青年時代と自己形成 明治九年六月、彼は外輪船(蒸気で水掻を回す初期の汽船)アラスカ号で、アメリカを経由してロンドンに向かった。サンフランシスコに上陸し、はじめて米大陸の土を踏んだとき、彼は大変な文化ショックを受けた。
後の天皇が、独伊を信頼しなかったのはなぜか 英米についての関心は、さまざまな問題に関連して出てくる。これと比べると、このような形で全然出て来ないのが独伊である。これは、知らないから当然ということになるであろうが、重剛はこれらの国に明らかに親近感を持っていない。
三種の神器は「知・情・意」の象徴 重剛はここで「完全なる知情意」という「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」と規定しているから、これは「三種の神器」という言葉を、近代的な意味で象徴的に用いたはじまりかもしれない。
「普通倫理」と「帝王倫理」は分けがたい 重剛は「帝王倫理」と「普通倫理」は分けがたい点があるとしているが、その教育方針は、大体「普通倫理から帝王倫理」という行き方で、はじめは、ほとんどこれを分けることをしていない。「知仁勇=知情意」などは、両者に共通する基礎と見ている。当然といえば当然であろう。
「道徳では負けないか、科学で劣っている」 わが国には古来忠孝一本の道徳発達して、世々その光輝を発揚せることは、あえて西欧諸国に譲らざるのみならず、さらに数等を抽(ぬき)んでたるものあり。しかれども理化学的の研究に至りては、彼に比して大いに遜色あるを免れず。
日本の「歴史学」は存在しなかった 当時の世間には、もちろん歴史などは全然問題ではありませんでした。こうした社会へこうした私が、第一回の歴史科卒業生として乗り出しだのは明治二十三年七月のことで、同年の八月、学習院教授を拝命しました。
「創業と守成のいずれか難き」 天皇の自己規定に大きく寄与したと思われる教育者に、明らかに共通している傾向があった。それは若き裕仁親王を、「憲政の王道を歩む守成の明君」に育てようとはしても、決して「覇王的な乱世の独裁君主」に育てようとはしなかったことである。
かたくななまでに憲法を遵守する姿勢のルーツ 英米についての関心は、さまざまな問題に関連して出てくる。これと比べると、このような形で全然出て来ないのが独伊である。これは、知らないから当然ということになるであろうが、重剛はこれらの国に明らかに親近感を持っていない。
機関説排撃がもたらした思わぬ影響 しかし機関説は軍内部の主導権争いから”異端”のレッテルに用いられるようになると、天皇のご意向などおかまいなく、この排撃論はますます強くなる。さらにそれが政界にも及び、政敵追い落としにも使われる。こうなると始末が悪い。
文化的統合の象徴としての天皇 では天皇とは何なのか。戦前・戦後という大激変の間、一貫して変わらなかった津田左右吉博士の説を援用すれば、昔も今も「人間・象徴」であるということになろう。「知仁勇=知情意」などは、両者に共通する基礎と見ている。当然といえば当然であろう。
論語
民主主義のもとでは外から「私立が犯されることはないが、内から腐る 戦後は民主主義の時代でありその原則の一つが「思想信条の自由」である。それは、政府は各人の持つ思想や信条に一切干渉してはならないということであるが、では、その人の内面的・自律的規範はどうやって身につけるか。かってそれは『論語』であったが? 
なぜ、戦後の「論語批判」は的外れか 終戦後「ホーケン的」なるものと、自称民主主義者が最も強い拒否反応を示した言葉は「女子と小人とは養いがたし」とらしむべし、知らしむべからず」であり、この二つは『論語』からの――まことに不正確ではあるが――引用だからである。
「孔子は・・・世の乱れや人の道を乱す」ための基本を自国の伝統に求めた 「子日く、私の目的は祖述するにあって、私個人の創作ではない。伝統の中に不変のもののあることを信じて疑わず、それを見出す。前代に老彭という人があって、そのようにした。私も自らを彼になぞらえてそのようにしている」
シャカやキリストのような”生誕伝説”のない孔子孔子には、出生伝説らしいものはなく、生れたときシャカのように「天上天下唯我独尊」と言ったとも、イエスのように、大工の子として馬屋で生れたとき、星に導かれて東方の三博士が貢物を持ってやってきたとも記されていない。
『論語』はあらゆる教育の”バイブル”である 「子日く、教有りて類無し」(衛霊公第十五417)これは、たいへんにおもしろい言葉で、「善玉・悪玉」とか「善人・悪人」という区別をしないという点では、新約聖書とある種の共通性を持っている。孔子はそれを一に教育によると考えた。
生涯教育を目指した『論語』「学ぶ」ことへの孔子の態度は『論語』の冒頭の、「子日く、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや。朋、遠方より来たる有り、亦楽しからずや。人知らずして惺みず、亦君子ならずや」(学而第一1)
『論語』は神秘主義的要素はなく現世の秩序形成を目指した孔子は前述のような生涯を送り、現実の政治にタッチし、生きている人を教育していたのだから、当然に「現実主義者」であった。空理空論や神秘主義は孔子とは無関係であり、また、地上に天国を招来しようという空想的社会主義とも無縁だった。
孔子のいう「秩序の基本」は「徳」にある 「政治的・社会的救済」となれば、それは当然に、「政治・社会はいかにあるべきか」「それを構成する個人はいかにあるべきか」に問題は集中する。そして、その前提として「秩序の基本」は何かということになる。孔子はこれを「徳」に置いた。
「礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず」では一体、当然に天子の権限とされる「礼楽・征伐」とは何であろうか。通常これは「政策」「軍事」と訳す。征伐が軍事のことはだれでもわかるが、一体全体、なぜ「礼楽=政策」なのか。だれでも少々不思議に思うであろう。
日本人にとって、君子とは「完全な社会人」を指す 孔子は社会の基礎を教育と礼楽に置いた、ということは強権・刑罰・弾圧に置かなかったということである。『論語』のどこを探しても、理想的社会をつくるには強大な軍事力と秘密警察が必要であるといった倒錯はまったくない。
なぜ、日本は伝統的に平等社会なのか日本は平等主義の国だといわれる。これは何も戦後にはじまったことでなく、また、明治の四民平等ではじまったことでもない。われわれは、秀吉と同じような出生の「天下人」をその時代のヨーロッパに、見出すことはできない。
「平等社会=管理社会」を証明したイスラエルのキブツ平等社会とは管理社会であるといえば、ちょっと奇妙な感じを受けるかもしれないが、「管理を意識させられる社会である」といえば、人は「なるほど」と納得するに相違ない。
「論語」には安直な「救済」や「悟り」は書かれていない言うまでもなく、孔子が目指したのは個人の社会人としての完成に基づく、完成された社会であって、その目標である人間関係を律する至上の状態の「仁」を目指す、実に根気のよい道程なのである。
対談    
   
   
吉本隆明  
論争
司馬遼太郎 ベンダサンの司馬批判
浅見定雄浅見氏の「にせユダヤ人論」について  
apemanさんとの論争1  
自己絶対化を克服すること  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(1)  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(2)  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(3)  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(4)  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(5)  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(6)  
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(7) 
浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』の山本七平批判を検証する(8)