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山本七平語録

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昭和天皇論

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昭和天皇の「自己規定」を形成した教師たち
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓――そのとき、なぜそう動いたか』(p44~46)祥伝社
 人間の性格、ものの見方や考え方、さらに嗜好などがどのようにして決まるかは、今でも完全に解明されているわけではあるまい。たとえば天皇の趣味以上の趣味が生物学であることはよく知られているが、本職生物学者を除けば、生物学が趣味の人は珍しいと言うべきである。
 天皇は幼時から昆虫や植物に興味を持たれたといわれるが、これは別に珍しくない。たいていの男の子は、セミやトンボのような身近な昆虫に興味を持っており、私の世代で、トンボ採りやセミ採りをしなかった人間がいれば、むしろ例外であろう。しかし、それらの男の子がみな大人になっても生物、ないしは生物学に興味を持っているわけでなく、中学に入るころには、興味がほかのものに向いてしまうのが普通である。
 ただこういう時、自分の尊敬する、もしくは気の合った教師などに生物学者がおり、そその人に触発されて新たにより深い関心を生物に対して抱き、専門の生物学者への道を歩む、といった例は少なくない。(中略)
 以上のように考えれば、天皇の生物学好きに決定的な影響を与えたのが、御学問所で博物を担当した服部広太郎博士であったことは間違いあるまい。二人がいかに気が合い、いかに嬉々として採集や観察にはげんだかは、さまざまな人の思い出にある。
 もちろん、天皇は生物学者への道を歩むわけにいかなかったが、ただ少々驚嘆すべき持続力を持って生物学研究をつづけておられる。これはその関心が並々ならぬことを示しており、崩御される前、最後の意識が混濁する直前まで、生物学へのご関心を失っていなかった。
 天皇には、大変にお好きなのだが、周囲が問題にしたのでやめてしまったものがある。それがゴルフで、ハンディ20であったといわれる。
 そして戦前、ゴルフに劣らず問題にされたのが生物学御研究だが、これだけはいかに妨害があっても、天皇はやめようとしなかった。それについて記されているものを読むと「王者の不自由」という言葉を思い出す。本書は天皇の生物学御研究について記すわけではないので、以上の摘記にとどめるが、この生物学御研究の継続もまた、天皇の自己規定の一つの現われであり、ここに天皇の生き方の一端が現われている。
 そこで当然に関心を持たざるを得なくなるのが、一章で記したような天皇の自己規定の形成において、生物学の服部広太郎博士のような影響を与えたのは誰で、その内容はどのようなものであったのかということである。
 天皇は小学校は学習院で学ばれた。院長は乃木(希典)大将で、彼は殉死の直前に、山鹿素行(江戸前期の儒学者)の『中朝事実』(日本の皇統を明らかにした歴史書)と三宅観瀾(江戸中期の儒学者)の『中興鑑言』(建武の新政の得失を論じた書)を、献上したという。
 天皇は中等科へは進まれず、宮中の御学問所で学友とともに学ばれることになった。総計六人、期間七年である。七年はやや変則な期間に見えるが、当時あった七年制高校と同じと考えてよいであろう。ということは、旧制の中学・高校をこの御学問所で学ばれ、前述の服部広太郎博士もその教師陣の一人だった。
 では、天皇の自己規定、および倫理的規範は、誰の影響によって形成されたのであろうか。言い換えれば、生物学における服部広太郎博士の役割を誰が演じたのであろうか。それは、おそらく白鳥庫吉博士と杉浦重剛である。もっとも、この二人だけとは言いがたいが、『倫理御進講草案』を残して、その跡をうかがわせるのは杉浦であり、自己の教育方針と一部の資料が明確なのが白鳥である。
 
昭和天皇の倫理学教師、杉浦重剛の青年時代と自己形成
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(P46~52)
 ここでまず、資料の最もはっきりしている杉浦重剛(通称・じゅうごう、一八五五~一九二四年)について、少し記さねばならない。(中略)
 彼は安政二年≧八五五年)、近江膳所藩の儒者の二男に生まれた。藩校で十四歳まで学び、成績優秀で十五歳で句読方という職に取りたてられた。彼は儒者の家の出身だが、幕末という時代の影響であろうか、藩校のほかに三人の師について漢学と洋学を学んでいる。(中略)
 その後に杉浦が師事したのは、黒田麹盧(きくろ、一八二七~九二年)である。・・・漢学は言うに及ばず、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語さらにサソスクリットまで手を伸ばしたという。いわば草創期に出てくる典型的な。百科全書的学者″であろう。この麹盧に約一年半にわたって教育を受けたことが、杉浦に大きな影響を与えた。(中略)
 そして重剛の関心は漢学からしだいに洋学へと傾き、やがて藩の貢進生として大学南校に入学すると、専攻に化学を選んだ。彼が大学南校に人学すべく故郷を出立するとき、麹盧は、もう蘭学は時代おくれだから、英仏独のいずれかを選択して学ぶように言った。彼は英語を選び、それが英国留学へとつながったわけだが、彼がなぜ、英語を選んだかは明らかでない。(中略)
 明治になると、政府は近代国家を担う人材の養成が急務であると感じ、全国各藩から優秀な青年一人ないし三人を推薦によって集め、蕃書調所の後身の大学南校で洋学教育を行なうことにした。総計三一〇人。彼らは文字どおり新しい日本を担うエリートであり、その多くは、今までにない新しい学問を日本に根づかせた人たちである。

イギリスか杉浦に与えたその精神とは
 明治九年六月、彼は外輪船(蒸気で水掻を回す初期の汽船)アラスカ号で、アメリカを経由してロンドンに向かった。サンフランシスコに上陸し、はじめて米大陸の土を踏んだとき、彼は大変な文化ショックを受けた。当時の日米の懸隔を思えばこれも当然で、幕末から明治初期に米国経由で西欧に行った者は、すべてサンフランシスコでショックを受けている。(中略)
 彼が化学を選んだのは、後の彼を考えると少々奇異な感じがするが、農業改革のため農芸化学を学びとることが日本の急務と考えてのことらしい。そこでイギリスに着くとすぐ農芸化学に進んだが、彼はこれを途中で放棄した。理由は、イギリスの農業は牧畜・麦作中心で、日本と違いすぎたからである。
 そこで彼は純正化学へと転じ、マンチェスターのオーエンス・カレッジに移って、ロスコー、シャーレマルという二教授について化学を学んだ。彼はこの二教授を深く尊敬して熱心に学び、イギリス人学生を抑えて首席となった。語学というハンデキャップを考えれば、超人的な努力であったろう。ここに、強い文化ショックから、一日も早く欧米を凌駕しようという方向に向かった彼が現われているといってよい。・・・「百聞不如一見」の章で、彼は次のように述べている。
 「思うに人間の知識なるものは、単に耳を以て聞き、書籍にて読みたるのみにては、いまだ真実を得がたきことあり。自らその境に臨み、あるいはその地を踏み、あるいはその物を実験して、初めて正確を期すべきものなり。たとえば政を施すには、自ら民情を視察するを有益なりとし、学問を修むるには、実験踏査等を必要とするが如し。(物理・化学・地理・歴史の如きは最も然り)。
 その他、商業、工業、および軍事等凡百のこと、みな実地に就きてこれを見るを切要なりとす。もし然らざれば、則ちいわゆる机上の空論の弊に陥るを免れざるべし」と、大いに実験を主張している。(後略)
 
後の昭和天皇が、独伊を信頼しなかったのはなぜか
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(52~55)
 (杉浦重剛の)英米についての関心は、さまざまな問題に関連して出てくる。これはアメリカが文化ショックを受けた国、イギリスは学んだ国だから不思議でないが、面白いのはそれが、特に一章を設けるという形でなく、ごく自然にさまざまな例の中に散見していることである。
 これと比べると、このような形で全然出て来ないのが独伊である。これは、知らないから当然ということになるであろうが、重剛はこれらの国に明らかに親近感を持っていない。
 ドイツについては「前独逸皇帝ウィルヘルム二世の事」との一章がわざわざ設けられているが、これはあくまでも「反面教師」として出てくるのであり、天皇は決してこうなってはいけないという例である。
 第一次世界大戦での敗戦とともに、ウィルヘルム二世が何もかも投げ出して退位、亡命したことは、決して責任を全うしたことにならない。こういう時こそ自らが身を捨てて正面に立つべきだ、ということを天皇はこの「反面教師」から学ばれたであろうと想像される。
 天皇の親英仏米・反独伊は、たとえば、「独伊が如き国家とその様な緊密な同盟を結ばねばならぬような事で、この国の前途はどうなるか」(昭和十五年九月十六日、『天皇秘録』)といった言葉にも現われている。「独伊が如き国家」という言葉は少々「差別的」だが、これが、マジノ線(フランス北東国境の要塞線)が突破され、イギリスがダンケルクの総退却となり、フランスが降伏し、イタリア軍がリビアからエジプトへの侵攻を開始したとき、独伊枢軸側がいわば得意の絶頂にあったときの言葉であることを思うとき、そしてその結果、マスコミはもちろん、日本国中が独伊ブームといった現象を呈していたときの発言であることを考えると、天皇の親英米仏感は、決して一朝一夕のものでないことを思わせる。
 もちろんそこには、イギリス王・ジョージ五世への強い親愛感と、専攻された第一外国語がフランス語であったことも深く関連するであろうが、少年期に、重剛が不知不識のうちに植えつけたものが根底にあったであろう。
 以上のような点で見ていくと、重剛における英国と化学は、決して消えていないと思わざるを得ない。だが彼は、帰国後もイギリス式に日常生活を送った穂積陳重(のぶしげ、法学者)のような生き方はせず、また「日本化学の祖」と言われるような位置にもつかなかった。(中略)
 その後、明治十五年東京大学予備門長、そのかたわら同志と私立英語学校(後の日本中学校)設立、また家塾「称好塾」を開いて青少年の教育した。またジャーナリズムの世界にも進出し、一時は文部省にも勤め、明治二十三年には、第一回帝国議会の選挙に郷里から推されて当選したが、政治の世界に失望して半年で議員を辞め、日本中学校の校長となり、教育と言論の世界に身を置くこととなった。(中略)
 代議士を辞めた後は政界・官界・学会などに、一切野心も関心もなく、私立中学校の校長を天職と心得てこれに専念していた。そして明治も終わるころになると、世間からわすれさられた存在になっていた。
 
 
杉浦重剛、三種の神器は「知・情・意」の象徴
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(66~69)
 『倫理御進講草案』(以下「御進講」と略す)には、その冒頭に「趣旨」が記され、次の言葉ではじまる。
「今回小官が東宮殿下に奉侍して倫理を進講すべきの命を拝したるは無上の光栄とする所なり。顧(おも)うに倫理の教科たる唯口にこれを説くのみにして足れりとすべからず。必ずや実践躬行、身を以てこれを証するにあらざれば、その効果を収むること難し。故に、学徳ともに一世を超越したるの士にして始めてこれを能くすべし。
 小官の浅学非徳なる果たして能くこの重任に堪え得るや否や。夙夜恐惺(しゅくやきょうく)して措く能わざる所なり。然れども一旦拝命したる以上は、唯心身を捧げて赤誠を致さんことを期するのほかなし。いま進講に就きて大体の方針を定め、左にこれを陳述せんとす。
  一、三種の神器に則り皇道を体し給うべきこと。
  一、五箇条の御誓文を以て将来の標準と為し給うべきこと。
  一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うべきこと」
 となっている。これが彼の「倫理御進講」の趣旨で、時代を考えればごく常識的といえる。ただいまの時点で見ると「少々神がかり的超国家主義くさい」と感ずるのが普通であろう。しかし早合点はしばらくかいて、まずこれらについて、重剛がどのような講義をしたかを調べてみなければならない。彼はまず、『御進講』の最初の項「三種の神器」の冒頭を、「皇祖天照大神、御孫瓊瓊杵尊を大八洲に降し給わんとする時、三種の神器を授け給い・・・」
 とはじめるが、すぐにこれを非神話化して「知仁勇=知情意」の象徴であると、次のように説きはじめる。  「三種の神器即ち鏡、玉、剣は唯皇位の御証として授け給いたるのみにあらず、これを以て至大の聖訓を垂れ給いたることは、遠くは北畠親房、やや降りては中江藤樹、山鹿素行、頼山陽などのみな一様に説きたる所にして、要するに知仁勇の三徳を示されたるものなり」
 いわば神話的要素を一気にはずして道徳基本論へと入り、ついで中国と西欧の基本的な発想に進み、再び日本にもどるという形で論を進める。すなわち――
世に人倫五常(父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信ありの五つ)の道ありとも、三徳(知仁勇)なくんば、これを完全に実行すること能わず。言を換うれば君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の道も、知仁勇の徳によりて、始めて実行せらるべきものなりとす。支那の学者すでにこれを解して、知はその道を知り、仁はその道を体し、勇はその道を行なうものなりといえり」と説き、ついで西欧に進む。
「またこれを西洋の学説に見るに、知情意の三者を以て人心の作用を説明するを常とす。知は事物を知覚すること、情は自然の人情にして悲喜愛憎みなこれなり。その至純にして至清なるものを仁となす。意は事を行なわんとする志にして、困難に当りても屈せず挑まず、これを断行するを尊ぶ。これ勇なり。知情意の完全に発達したる人を以て完全なる人物となす。換言すれば優秀なる人格の人は、完全なる知情意を有するなり」
として、西欧も中国も同じことを主張していると締めくくって、また日本にもどる。
「以上述べたる如く、支那も西洋もその教を立つること同一なり。要は知仁勇の三徳を修養するを以て目的とす。ただ彼にありては理論よりしてこれを説き、われにありては皇祖大神が実物を以てこれを示されたるの差あるのみ」・・・
 重剛はここで「完全なる知情意」という「三種の神器」を「有する」のが「優秀なる人格」と規定しているから、これは「三種の神器」という言葉を、近代的な意味で象徴的に用いたはじまりかもしれない。
 
「普通倫理」と「帝王倫理」は分けがたい
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(69~75)
 重剛は「帝王倫理」と「普通倫理」は分けがたい点があるとしているが、その教育方針は、大体「普通倫理から帝王倫理」という行き方で、はじめは、ほとんどこれを分けることをしていない。「知仁勇=知情意」などは、両者に共通する基礎と見ている。当然といえば当然であろう。
 「道徳には種々の綱目あり。ことに王者として具備せらるべき徳も多々あるべしといえども、要は知仁勇の三徳に着眼して修養せらるること大切なり。即ち知を磨くには、まず能く諸種の学問を修め、古聖賢の教訓を味わい給うべし。『中庸』にも学を好むは知に近し、と見えたり。かくの如くに学んで能く道を明らかにするときは、あたかも明鏡の物を照らすが如く、いかなる混雑にも迷わず、直に善悪正邪を判断することを得るに至るべし。
 また仁は人を愛するの情なれば、単に一個人としてもこの情け無かるべからず。ことに幾千万の民の親として立たせらるる帝王には、下、民を愛憐せらるるの情をそなえさせらるること最も肝要なり。何となれば上に愛情なき時は、下これを慕うの念、また自ら薄かるべきを以てなり。
 現今の如く列国相対峙して、競争激烈なる世にありては、種々困難なる問題の起こり来るは、けだし免れざるの数なるべし。かかる際には十分勇気を鼓舞して、臆せず恐れず、これを処理し、これを断行せざるべからず。これすなわち勇なり。勇気を修養せんには、種々の方法もあるべけれど、『中庸』に恥を知るは勇に近しとあり。思うに能く恥を知りなば、その行為必ず公明正大にして、真正の勇者たるべし。
 以上述べたる如く、支那にても西洋にても三徳を尊ぶこと一様なり。能くこれを修得せられたらんには、身を修め、人を治め、天下国家をも平らかならしむるを得べきなり。皇祖天照大神が三種の神器に託して遺訓を垂れ給いたるは、深遠宏大なる意義を有せらるるものなれば、よろしくこの義を覚らせ給うべきなり」
 以上が「第一 三種の神器」の本文であり、重剛はこれを「知仁勇=知情意」に変え、神秘的な要素は記していない。一言で言えば、化学者らしい「非神話化」で、重剛はこれを個人倫理の象徴に還元してしまったわけである。

五箇条の御誓文について
 維新体験者の「御誓文」に込められた思いとは
 「五箇条の御誓文」にうつる。「趣旨」のその部分を次に引用しよう。
 「わが国は鎌倉時代以後およそ七百年間、政権武家の手に在りしに、明治天皇に至りて再びこれを朝廷に収め、更に御一新の政を行なわせられんとするに当たり、まず大方針を立てて天地神明に誓わせられたるもの、すなわち五箇条の御誓文なり。
 爾来世運大いに進み、憲法発布となり議会開設となり、わが国旧時の面目を一新したるも、万般の施政みな御誓文の趣旨を遂行せられたるに外ならず。単に明治時代に於て然るのみならず、大正以後に在りても、政道の大本は永く御誓文に存するものというべし。
 故に将来、殿下が国政を統べさせ給わんには、まず能く御誓文の趣旨を了得せられて、以て明治天皇の宏謨(広大な計画)に従い、これを標準として立たせ給うべきことと信ず」
 ついで五箇条の解説が来るが、重剛は、明治からの天皇制は、この五箇条を天皇が天地神明に誓ったことを基礎としているという。
 俗にいう天皇の「人間宣言」(33、356ページ参照)は、そのまま読めば、実は、五箇条の御誓文の再確認と再宣言であることが分かる。
 すなわち「須ラク此ノ御趣旨二則リ、旧来ノ階習ヲ去リ・・・」であり、天皇と国民との紐帯は「単ナル神話卜伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」で、いわばこの五箇条を共に誓ったという「相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」たる一体化だという。事実『倫理御進講草案』には神話は出てこない。三種の神器は非神話化されて「知仁勇=知情意」の表象とされ、それでおしまいである。
 
 
「日本は、道徳では負けないか、科学で劣っている」
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(75~80)
 ついで重剛は各条の解説に入る。そのすべてを紹介する必要はないが、面白いと思われる部分を次に引用しよう。まず第一に、重剛は、「広ク会議ヲ興シ」の会議とは、町村会、郡会、県会、帝国議会などを指すのだとして、次のように述べていることである。
 「第一条においては、門閥専横の政を斥け、天下の政治は、天下の公論によりてこれを決せんとす。天下の公論を聴かんとするには、広く会議を興して、つぶさにこれを問わせられんとするの御思召なり。今日、町村には町村会あり、郡には郡会、県には県会あり、全国の政を議するには帝国議会あり。大小の政治、これら会議によりて議せらるるは、すなわちこの御趣意の実行せられたるものなり」
 この「門閥専横の政を斥け」を「軍閥専横」とすれば、それは昭和の十年代ということになる。天皇にとっては、五箇条の御誓文とそれに基づく明治憲法を否定されることは、自分が否定されることであった。
 二条以下は、特にこれといった面白い解説はないが、第五条の「智識ヲ世界二求メ・・・」に関連して、重剛は『御進講』の中で特に「科学者」という一章を設けて、西欧の科学者や技術家を紹介している。
 そしてその冒頭に彼は、日本は科学において西欧に劣っている点を指摘し、御誓文の第五条を極力実施に移すよう強調する。こういう点、彼はやはり、イギリスで学んだ化学者であった。次に引用しよう。
 「さて諸外国、ことに西欧諸国の長所は、果たしていずれの点に存するか。これ疑いもなくその科学の進歩にありと断ずべきなり。わが国には古来忠孝一本の道徳発達して、世々その光輝を発揚せることは、あえて西欧諸国に譲らざるのみならず、さらに数等を抽(ぬき)んでたるものあり。しかれども理化学的の研究に至りては、彼に比して大いに遜色あるを免れず。故によろしく彼が最大の長所たる理科の諸学を取りて以てわが短所を補うべきなり」(中略)

原子論の創始者・ダルトンの生涯を語る
 道徳を最高の精力と見た彼が、道徳では「譲らざる」なのに、国力の基本である「理科の諸学」で劣ることを認めているのは少々矛盾のようだが、ついで彼は、科学の振興もまた道徳の力が基になっているというに等しいことを、次のように主張する。
「西欧の学者が科学の研究に従事するや、奮励努力、夜を以て日につぎ、百折不撓の忍耐を以てこれにあたり、あえて世のいわゆる名利に拘泥せず、超然として一身を学理の闡明に捧ぐるの態度すこぶる崇高なるものあり。これを以て科学大いに進歩し、これを実地に応用しては則ち文明の利器の続々として発明せらるるあり。たとえば汽車、電信、電話などの如き、これみな理化学の応用に外ならざるなし。
 されば我国においても、将来大いにこれを奨励し、彼に比してあえて譲らざるに至るを期せざるべからず」
 以上のように述べてから、ニュートン、ダルトン(色盲の研究、および化学的原子論の創始者)、ダーウィン、さらに計算で海王星の存在を予言したレヴェリーヘと進み、ワット、スティヴンソン(蒸気機関車を発明)、ジェンナー(種痘の発明)、アークライト(水力紡績機の発明)、マルコニー(無線通信装置を発明)を挙げる。(中略)  彼はその他のさまざまの例を挙げ、科学の進歩とその実地応用によって大いに国力を増し、人類の進歩に貢献した旨を述べ、日本は「理化学の研究においては、遺憾ながら彼に譲らざるを得ず」と率直に認める。そこで「よろしく彼の長所を取りて、以てわが短所を補うべきなり」「これ御誓文第五条の御旨趣なりと拝察す」と結論づけている。
 
昭和天皇は、神話や皇国史観をどう考えられたか
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(84~87)
 アメリカ人が「日本人は天皇をGODと信じ、このGODが戦争の開始を命じたから戦争をし、停止を命じたからやめた」と信ずるのは彼らの自由である。説明すべきことをことごとく説明してもなお彼らがそう信じるなら、「そう信ずることを止めよ」という権利は誰にもない。また、これに同調する日本人がいても別に不思議ではない。外国人の日本観を金科玉条とする日本人は、昔からいたからである。いまそのことを採りあげようとは思わない。
 ただ参考までに、半藤一利氏が雑誌の論文(『天皇とマッカーサー』/『オール讃物』昭和63年11月号所収)で記されている昭和十九年四月号『フォーチューン』誌の、アメリカ国内の世論調査を引用させていただく。すなわち、「日本国民にとって、天皇とは何か」の設問にたいして、「唯一の神である44・2%、名目上の飾り18・6%、独裁者16・4%、英国流の国王5.7%、無回答15・1%」である。
 だが問題は天皇御自身が自らをどう規定していたか、である。天皇はしばしば「立憲君主として」という言葉を使っておられるが、「現人神」はもちろん「現御神として」という言葉も、いくら探しても発見できない。一体、天皇は、日本の神話や皇国史観的歴史認識をどう考えていたのであろうか。
 これは『倫理御進講草案』からは分からない。というのは、前述のように杉浦重剛は「三種の神器」を知・情・意の象徴として非神話化すると、すぐに神話から離れてしまうからである。
 次に神話が出てくるのが第二学年二学期の「御即位式と大嘗祭」だが、この中で、時々さまざまな形で採りあげられる「大嘗祭」への杉浦の説明は、ごく簡単で次のとおりである。
 「・・・御即位の大礼に引きつづき行なわせらるる大嘗祭は、新帝即位後、始めて新穀を天祖および天神地祇(天の神と地の神)に供え給い、かつ親らも聞(きこ)し食(め)す所の大祭にして、天皇御一代に一度行なわせらるる重大の神事なり」と。
 そして次に、明治四年にこれが行なわれたとき神祇官が上奏した文書が掲載されている。これによると、昔は毎年、新穀が出来るたびに行なっていたが、天武天皇のころから、「毎歳の大儀を省き、全くの式は践祚の大祀を以てす」
 となっている。簡単に言うと、豊作を感謝し来年の豊作を願う祭りで、盛大に行なわれたらしい。ただ今回の維新に当たり、
 「・・・衰頽修飾の虚礼を改め、隆盛純粋の本儀に復し」
 で、一代一回のみとする旨定められたとあり、その祭りの由来は、瓊瓊杵尊の天孫降臨のとき、「神器を賜わり、かつ稲穂を与えさせ給いて」の結果であるとする。杉浦の言い方はあくまで稲作民族の農業祭で、次のように記す。
 「天孫稲穂を携え来り、これを播種して以て国家万民の食物を供給し給えり。我国において米の尊きこと即ち言わずして知るべきなり。かるが故に、天皇新に御登極の上は悠紀主基(ゆきすき、新穀を供える東西の祭殿)の田を定め、ことに神聖に作り上げたる米を以て天祖および諸神を祭らせ給う。これ実に天祖より封ぜられたる日本国を統御せらるるにおいて、まず大祭を行ないて天職を明らかにし、同時に政を統べさせ給うことの責任をも明らかにし給うの意義なり」と。
 簡単に言えばオカルト的な要素は全くないと言ってよい。
 この場合の天皇は祭主であり、祀る側であっても祀られる側ではない。そして杉浦が説いているのは、いつもこのような形で、オカルト的ないしは神がかり的な要素は感じられない。この種のケース以外に彼は神話には触れていないが、おそらくそれは、歴史の教育は白鳥庫吉博士の分担と考えたからであろう。
 後年、天皇は、新聞記者の質問に答えて、購入する本は「生物学と歴史」と答えておられる。生物学に生涯ご関心を持たれたことはよく知られたことだが、このときのお答えから拝察すれば、研究成果は何も公表されていないとはいえ、歴史にも深い関心を持ちつづけられたと言ってよいであろう。
 となると、他からの見方はさて措き、天皇御自身が「神代史」をどう解釈されておられたかは、きわめて重要な問題である。こうなると、歴史学において、生物学における服部広太郎博士の位置にいた白鳥庫吉博士の「歴史観」は、きわめて重要な問題を提起する。
 
明治時代、日本の「歴史学」は存在しなかった
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(87~101)
 『白鳥庫吉全集』の末尾にある『小伝』によれば、氏は慶応元年(一八六五年)千葉県に生まれ、明治二十三年(一八九〇年)帝国大学文科大学史学科を卒業、ただちに学習院教授に任じられている。

日本で最初の「歴史学」教授(p90)
 「・・・当時の世間には、もちろん歴史などは全然問題ではありませんでした。こうした社会へこうした私が、第一回の歴史科卒業生として乗り出しだのは明治二十三年七月のことで、同年の八月、学習院教授を拝命しました」  「・・・元来『東洋諸国の歴史』といっては、当時知らないのは私たち二人(白鳥・市村両教授)だけではないので、世界中どこにもいまだ東洋史の研究家はなく、私たちが困ってしまったのは、学習院において改革案を施すに際し、遠く時勢に先んじていたからです。東洋諸国の歴史を高等科に置いたことは、卓見と言えば卓見で、実際文部省では、これより十年後において各学校に東洋史を課した位ですから、その教授者があろうはずはありません」(p92)
 明治三十四年(一九〇一年)、白鳥博士は欧州諸国への留学を命じられた。そこでどのように学ばれたかの細部は省略するが、簡単に言えば、当時のヨーロッパの最新の史学を吸収されたわけである。そして帰国、三十七年(一九〇四年)に東大教授を兼任され、大正三年(一九一四年)東宮御学開所で国史、東洋史、西洋史の御進講を担当するようになった。
白鳥博士は「神代史」をどう解釈したか
 さてここで問題になるのはまず第一に、白鳥博士がどのような歴史観を持ち、日本の「神代史」をどう解釈されたかであり、第二は、それを何の妨害も掣肘もなく、裕仁親王すなわち後の昭和天皇に教え得たか否か、という問題である。

明治における「神代史」研究の状況
 では「明治時代の合理的説明」ではどうであったか。白鳥博士はまず次のように記されている。
 「明治の代になって、西洋の文物が輸入せられ、国家の文運は各方面において全く面目を一新するほどに発展を遂げたのであるが、言語の学問は、ほとんど停滞して何ら進歩の成績を見ない。したがって神代史の研究なども、徳川時代のありさまで、別に新しい意見が発表せられなかった」
 しかし徳川時代のまま、というわけにもいかない。そこで、
 「本居氏や平田氏のように、神代史をその文字のとおりに信ずることは出来ないので、やはりこれを合理的に解釈しようと努めた。ただ神話学というものが閑却せられていたために、その見解は徳川時代の新井白石などのそれと大差はなかった」と。

 新井白石を一歩も出ずに、ただ安直に「合理的に解釈しよう」とすればどうなるか。
 それは「神代史の神とは人である。人であるから歴史である」という解釈になる。これはまことにおかしな話で「アダムとエバは人であるから創世記は歴史書である」というようなもの。「人である」「人が登場する」は、それが神話・伝説ではなく歴史であることの証拠にはならない。
 「神代史が普通の歴史物語のように解釈されて、この現世の上に出来た出来事を、譬喩的に書き綴ったものと考えられたから、日本人種も単純なものでなく、土着の出雲系の民族と、外国から進入してきた異民族とが存在し、今日の日本人はその混合融和した複雑なものと思われるようになった。それとともに、神代史の上に活動している神々は、無論、普通の人間と解せられたから、神典の中で至高の神と記されてある天照大神でさえ、後世の天皇の如き人間と見倣されたのである。それで、もしもこの神を天ツ神と見るときは大不敬事と思惟せられることになった。何となれば、これを神と見ればそれは思想上の話になって、事実虚空のものになるからと信じられたからである。この見解は今日においても大なる勢力を有している」(p100)
 「今日」とは博士が講義をされた昭和三年のことである。まことに面白いことに、この時点ではまだ「皇国史観」は出現しておらず、天照大神を「人」と見なければ不敬罪になりかねない状態であった。そしてこれを「裏返し」にして天照大神を天ツ神とすると、天皇もまた「現人神」になってしまう。こうなったのは結局、明治における「徳川時代的で神話学抜きの一見合理的な解釈」が基本となっているであろう。
 「しかるに近年になって、ようやく神話は神話であって歴史でないという事が了解せられて来たので、我国の神話も他国の神話と同様に取扱われて研究せられるようになってきた。それで追々と新しい意見が提出せられて、従来の合理的解釈とされたものが排斥せられるようになってきたのは、実に斯界の一進歩として慶賀すべきことである」
 と記されて「神代史に関する古来諸家の解釈」は終わっている。もちろん講義ではさらに話を進めたであろうが、残念ながらそれは明らかではない。しかし大正十三年にすでに津田左右吉博士の『神代史の研究』『古事記及日本書紀の研究』は出版されていたから、講義はその方向に進んだであろう。というのは、これらの著作は明らかに「慶賀すべき」「新しい意見」であったから――。
 
「創業と守成のいずれか難き」
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(132~133)
 一人間の生涯を考えると、すべてが幼少時の予定どおりにいったという例は皆無に近いであろう。これは天皇とても例外でない。
 天皇の自己規定に大きく寄与したと思われる教育者に、明らかに共通している傾向があった。それは若き裕仁親王を、「憲政の王道を歩む守成の明君」に育てようとはしても、決して「覇王的な乱世の独裁君主」に育てようとはしなかったことである。
 これは考えてみれば当然のことである。彼らはみな明治維新をくぐり抜けている。後代は、明治維新をさまざまに論評できるであろうが、実際にそれを体験した人にとっては、それは多くの先輩や同僚の血をもって贖った成果であった。と同時に、その犠牲を思うとき、二度と繰り返したくないことであったであろう。戦争であれ革命であれ、これは常に体験者が抱く矛盾した感慨だが、この矛盾は「あの苦しみを二度と体験しないためには、その成果を確実に守れ」という形になる。それが「守成」であろう。
 (唐の太宗と群臣たちとの問答をもとに、政治の要諦を説いた書)の「創業と守成と」は有名な言葉だが、この唐の太宗の問いに魏徴が答えているように、守成の方が創業よりむずかしいと言って過言ではない。この『貞観政要』が、『倫理御進講草案』でも採りあげられていることは、「目次」を見ると分かるが、残念ながら本文は残っていない。しかし「ペートル大帝」のところで、杉浦は『貞観政要』の前記の問と答の部分を全文引用している。そして「憲政の王道を歩む守成の明君」のイメージは、この草案の全編を貫いているといってよい。
 以上のほかに、天皇が教育を受けられた時代も考えてみなければならない。学習院初等科へのご入学が明治四十一年、東宮御学開所での授業開始が大正三年、以後七年間ここで学ばれ、ついでイギリスにご外遊、ジョージ五世とイギリスの憲政に深い感銘を受けられ、帰国されて大正十年摂政宮となられ、実質的に政務をお執りになっている。もっとも、以後も勉学をつづけられており、その御教育期間は、ほぼ大正時代といってよい。議会制度はやや軌道に乗り、「憲政の常道」で議会の多数党の党首に大命が降下するというイギリス的ルールが、確立しそうに見えた時代であった。
 維新を生き抜いて来た教育者たちは、これでやっとその成果を守り、その枠内で将来の発展を目指せる「守成の時代」が来たと感じたであろう。ライシャワー博士の持論のように、民主主義は戦後とともに始まったのではなく、軍部により中断された大正自由主義の再生と見るなら、戦後こそ天皇への教育とそれに基づく天皇の自己規定の生かされていた時代といえるであろう。
 
昭和天皇の、かたくななまでに憲法を遵守する姿勢のルーツ
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(214~217)
 天皇はしばしば「立憲君主として」という言葉を口にされ、また「憲法の命ずるところにより」とも言われている。そしてその私生活は、まことに生まじめなぐらい「教育勅語」のとおりである。そしてその基本を「五箇条の御誓文」に置かれていた。この「憲法遵守」は少々、「杓子定規」といった感じさえするほどで、近衛(文麿)などはそれに対してある種の″不満″さえ口にしている。p146

天皇自らか、「機関説」の信奉者(p214)
 (北一輝)彼もまた機関説の信奉者である。二・二六事件に先立って、相沢中佐が永田軍務局長を斬殺したが(165ページ参照)、その理由の一つを「機関説信奉」だからとしながら、彼は北の『日本改造法案大綱』をまるでバイブルのように四冊も持っている。そしてこの点では二・二六事件の将校も変わりはない。
 では一体、機関説のどこがいけないと彼らは言うのか。細かい点は除くが、俗にいう一木・美濃部学説の問題点とは、まず一木喜徳郎(宮中政治家・枢密院議長)の「天皇と議会とは同質の機関と見倣され、一応、天皇は議会の制限を受ける」と、美濃部達吉の「立法権に関する議会の権限を天皇のそれと対等なものに位置づける」「原則として議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」であろう。
 しかし軍部が最も問題にしたのは、統帥権が国務から独立しているかの如き現状を改め「軍の統帥についても、等しく内閣の責任に属さしめ」るという点であろう。  その点はひとまず措くとして、まず立憲君主制とは、言葉を換えれば制限君主制であり、国会が天皇に服従したのでは、国会の意味がなくなってしまう。当然のことを言っているだけである。さらに当時盛んに口にされた「国体」という言葉を、美濃部は「本来法律上の語ではなく、歴史的観念もしくは倫理観念」として峻別している。
 一方、機関説否定派は「国体」とは天皇と一体化した倫理的かつ政治的実体であるとし、これが「神聖ニシテ侵スヘカラス」の対象であるとした。  ただ問題は、これが憲法学者の論争から離れて、いわゆる機関説問題となって政争の具となり、攻撃する相手へのレッテルになっているので、今では逆にその実体がわかりにくくなっている。というのは、北一輝は明らかに機関説だが、彼にはそのレッテルは貼られていないからである。前にある会でこの話をしたとき聴衆の若い女性が「じゃあ一体、戦前はどうなっちゃってんの」と言われたが、全く「どうなっちゃってんの」である。
 そしてもっと奇妙なことは、天皇自身が機関説の信奉者であった。磯部浅一はこのことを知らないで死んだが、もしも知ったら、衝撃で口が利けなくなったであろう。これは、たとえ天皇がそのことを口にされなくとも、その行為を見れば明らかなはずである。簡単に言えば「議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」を、天皇自身当然のこととし、この原則を破ったことはもちろん、触れたこともない。
 そして『鈴木貫太郎自伝』によれば、天皇は、機関説問題は”正統・異端”の不毛の”神学論争”になることを、これがまだ世間の耳目を集めないうちから指摘していたという。『西園寺公と政局』の次の記述は、絶対秘密だと言って鈴木貫太郎侍従長が西園寺(公望)公の秘に語ったものだが、これはこの”神学論争”への天皇の批判であろう。
 「主権が君主にあるか国家にあるかということを論ずるならば、まだ事が分かっているけれども、ただ機関説がよいとか悪いとかいう議論をすることは、すこぶる無茶な話である。君主主権説は、自分から言えばむしろそれよりも国家主権の方がよいと思うが、一体、日本のような君国同一の国ならば、どうでもよいじゃあないか」
 と、まず天皇は言われる。いわば”神学論争″は、それによって現実が何か変更されるわけではないが収拾がつかなくなる。天皇自身としては、機関説が排撃されようとされまいと、立憲君主という今までの生き方を変えるわけではない。それなら自分にとって無関係な議論ということであろう。そして、それにつづく言葉は「一般論として言えば」ということであろう。
 「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。で、今に、もし万一『大学者でも出て、君主主権で同時に君主機関の両立する説が立てられたならば、君主主権のために専制になりやすいのを牽制出来るから、すこぶる妙(結構)じゃあないか。美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して(排撃論者の言うように)不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体、何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」
 『岡田啓介回顧録』には「陛下は『天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか』とおっしゃった」とある。
 
機関説排撃がもたらした思わぬ影響
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(217~217)
 しかし機関説は軍内部の主導権争いから”異端”のレッテルに用いられるようになると、天皇のご意向などおかまいなく、この排撃論はますます強くなる。さらにそれが政界にも及び、政敵追い落としにも使われる。こうなると始末が悪い。
 これへの天皇の憂慮に対して、本庄侍従武官長が「陸軍大臣は建軍の立場より、天皇機関説に対する軍の信念を述べているだけで、学説に触れることは避けている」と言いわけをすると、天皇は次のように言われたと『本庄日記』にある。
 「陛下は、もし思想信念を以て科学を抑圧し去らんとする時は、世界の進歩に遅るべし。進化論の如きも覆(くつが)えさざるを得ざるが如きこととなるべし。さりとて思想信念はもとより必要なり。結局、思想と科学は平行して進めしむべきものと想うと仰せらる」
 天皇の言葉は、簡単に言えば、「常識」である。機関説という学説には触れない、ただ信念を述べているだけだという意味の言葉への批判であろう。
 さらに天皇が本庄武官長に言われているのは、機関説否定が、実は明治憲法否定につながるという点である。

 「憲法第四条の『天皇は”国家元首”云々』は、すなわち機関説なり。これが改正をも要求するとせば、憲法を改正せざるべからず」
 と言われている。これは、武官長の「軍においては、陛下を現人神と信仰申し上げ・・・」への天皇の答えだが、この言葉は、見方によっては「憲法では自分は元首という機関である。現人神と言いたいなら、憲法をそう改正してからにしろ」と言われているようにも受け取れる。
 在郷軍人などの排撃論者の中には、「機関」という言葉を「蒸気機関」の機関のように思って「信念」を述べていた者もいたというから、こうなるともう始末が悪い。
 それは度外視するとしても、機関説排撃の影響は戦後の天皇の戦争責任論にまで及んでいる。というのは「天皇と議会とは同質の機関と見倣され、一応天皇は議会の制限を受ける」のなら、当然に「帝国議会の戦争責任」は問われねばならない。この点、前述したように近衛の言葉(161ページ)はおかしい。
 機関説否定は、天皇絶対とすることによって一切合財の責任を天皇に負わせることが出来るが、その責任に対応する権限は「機関としての天皇」に一切与えてはいなかったという妙な結果になっている。戦後、この点を的確に指摘しているのが津田左右吉博士である。 ただここで一言、真面目人間の本庄侍従武官長を弁護するとすれば、その原因は政党の腐敗にあったであろう。今日的に表現すれば「リクルート内閣に管理され、その命令で死ねるか!」といった感情であろう。’本庄侍従武官長が言っているのは、こういった感情の代弁である。

天皇が、中国型皇帝とならなかった五つの理由(p314)
 津田博士は天皇を象徴と規定した最初の人であり、その「天皇論」は戦前・戦後一貫して変わっていない。そして、中国の皇帝は決して「アラヒト象徴」ではなく、天命により地の民を支配する支配者なのである。「公判記録」では、この中国思想についても詳しく述べられているが、この中国思想の圧倒的な影響下にありながら、天皇がなぜ中国型皇帝にならなかったかを述べた、精緻をきわめた論証は省略し、それを要約したような、前記の『世界』の論文の中の五つの条件だけを、次に記そう。
 「第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服し、それによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、民族の内から起こって、しだいに周囲の諸小国を帰服させられたこと」――この点、天皇はウィリアム征服王(ノルマン王朝を開いたイギリス王、在位一〇六六~八七年)とは基本的に違う。
 「第二は、異民族との戦争の無かったこと」――もちろん局地的紛争があったことは事実だが、それらは政治体制に決定的影響を及ぼすようなものではなかったこと。
 「第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業が無かった、ということ」――簡単に言えば、当時の日本の「生活の座」は、そのようなことを要請しなかったということであろう。もちろん時代とともにそうはいかなくなるが。
 「こういう状態が長くつづくと、内政において何らかの重大な事件が起こってそれを処理しなければならぬような場合にも、天皇みずからはその局に当たられず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになってくる」――これが政権と教権の分離のようになり、朝幕併存体制へと進む。
 「第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる」――日本の律令制は中国をそのまま模倣したのでなく、天皇の下に神祇官と太政官とがあり、天皇はこの二つの上に君臨していた。太政官の方は時代の要請で変化し、摂関制となり、幕府制となっていくが、神祇官の方は変わらないで継続している。これは祭儀権と政権の分離といってもよい。
 「第五には、皇室の文化上の地位が考えられる」――いわば、中国の先進文化を導入し、それによって、「皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊さと親しさとがそれによって感ぜられ・・・その文化の恵みに浴しようとする態度を採らせることになった」――このことは鎌倉時代になり、武家が政権を取っても明確である。朝廷は彼らにとって、あくまでも文化的に尊いもので、そのあこがれは、絶対的とさえいえる。
 以上が津田博士の挙げている五条件である。そして津田博士は、このようにして形成されていった文化の継続性を願う気持ちが、言い換えれば民族の継続性への希求が「万世一系」という思想を生み出し「そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治・社会的状態に一層大いなる意味があることを、知らねばならぬ」とされる。
 ということは「天皇は国民統合の象徴」であるだけでなく、「民族の継続性の象徴」でもあるということになる。そしてこの点から「元号」について論じられている。だがこれについては省略しよう。
 
 
文化的統合の象徴としての天皇
『裕仁天皇の昭和史 平成への遺訓』(316~323)
 では天皇とは何なのか。戦前・戦後という大激変の間、一貫して変わらなかった津田左右吉博士の説を援用すれば、昔も今も「人間・象徴」であるということになろう。そしてその思想は、上代の日本人の「生活の座」と、その「国家形成」における、非軍事的、さらに非政治的ともいえる文化的統合によって生まれ、以後、さまざまな変転があり、時には例外もあったが、ほぼ一貫して継続してきた。この点で、故高倉テル氏の「本来、これは政治的な問題でなく、文化的な」問題であるという定義は興味深い。
 天皇御自身はこのことをどう考えておられたであろうか。天皇もまた、白鳥博士の教えを受けている。天皇は生物学御研究の成果は公表されているが、読む本は「生物学と歴史」と言われても、歴史についてのご発言は特にない。だがさまざまな機会に、生物学者の歴史観を思わせるような面白い発言がある。軍部の機関説排撃に対して、天皇はしばしば本庄武官長と議論をしているが、そのなかに(昭和十一年三月十一日)、「自分の位はもちろん別なりとするも、肉体的には武官長と何ら変わるところなきはずなり」というお言葉がある。「肉体的には天皇はわれわれと何ら変わることのない人間じゃないか」と言えば、天皇御自身、「まさにそのとおり」と言われたであろう。すなわち「アラヒト」である。ただ、それでありながら象徴でありつづけたのは、まさに「文化の問題」であろう。
 人間は単なる「政治の対象」ではない。人間が、もし政治だけの対象であるならば、「少数民族問題」は発生しない。ソビエトがいかに強権を揮っても「民族」を消すことは出来ず、強圧が多少ゆるめばすぐ噴出するのが民族問題である。民族はもちろん人種ではなく、共通の継続的文化をともにその「生活の座」の中で保持しつづけてきた者である。
 そして文化的統合の象徴が天皇であり、同時にそれは民族の継続性の象徴である。ヘブル大学の日本学者ベン=アミ・シロニー博士は、津田左右吉博士とは無関係だが、ほぼ同じような結論を出しているのが興味深い。

捨て身」の覚悟で成功したマッカーサー会談
 では天皇は、この「民族の文化の力」といったものを信じておられたのであろうか。
 天皇は単身、マッカーサーに会いに行かれた。丸腰で完全武装の相手に会いに行く。このときの天皇の行き方も、その論法もまさに「捨て身」である。何が起こるかは、一切予測できない。天皇がそのまま逮捕されるのではないかと思っていた側近もいたという。どのような会見であったか、信頼できると判断した資料はすでに述べた。そして、マッカーサーが、皇居へ帰る天皇を見送ったときのことについて半藤一利氏は、次のように記している。
「・・・文字どおりに一身を犠牲にして責任を負う覚悟で会見にのぞんだ天皇に、マッカーサーが心を揺り動かされたことも、また確かのように思われる。会見を終え、宮城へ帰る天皇を見送ったあと、彼は副官のパワーズに言った。
 『私は生まれながらの民主主義者だし、自由主義者として育てられた人間だ。しかし、これほど高位の、そしてすべての権威を持った人間が、いまこのように低いところに下ろされてしまったのを見ると、なんとも痛々しい』と」(『天皇とマッカーサー』/『オール讃物』昭和63年1-一月号所収)
「勝ちたい」という野心、いわば「占領政策を成功させ、あわよくば大統領に」といった野心は、「捨て身」にはかなわない。会談を重ねていくうちに両者の関係は微妙に変わっていく。
 第三回の会談で天皇は御巡幸についてのマッカーサーの意見を求める。マッカーサーはこれに賛成し、次のように言ったと半藤一利氏は記しておられる。
 「『・・・米国も英国も、陛下が民衆の中に入られるのを歓迎いたしております。司令部にかんするかぎり、陛下は何事をもなしうる自由を持っておられるのであります。何事であれ、私に御用命願います』――この最後の、誇り高きマッカーサーが言ったという言葉”Please Command Me.”が、まことに印象的に響くではないか」
 

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