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山本七平語録

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日本資本主義の精神

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論題 引用文 コメント
禅とエコノミックーアニマル――自分で自分を表現できない日本文化を表現した正三
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p92~95
 ある思想、特に改革的・独創的な思想と、それが後代へ与えた影響とは、決して同じではない。
 たとえば、イエス・キリストが法王庁にくれば、自分の教えとこの巨大な宗教組織は関係ないと言うかもしれない。また、マルクスが収容所群島を視察し、これはあなたの思想が生み出した施設だと言われれば、驚いて否定するであろう。同じことは、宗教改革者にも言える。カルヴァンにアメリカを見せて、この資本主義社会はあなたの精神が生み出したのですと言えば、この峻厳な思想家は驚いて口がきけまい。
 私は、これから、日本の資本主義をつくった人物として、鈴木正三をとりあげようとしている。それを知ったら、彼も、前記の人物たちと同じような反応を示すにちがいない。
 だいたい、彼自身、現代の資本主義日本を予見しえたとは思えないし、元禄・享保の時代さえ予見していたとは思えない。それを自分の思想の成果だなどと言われれば、彼は禅坊主だから、一喝がきたであろうし、今でもその系統をひく人から抗議がくるかもしれない。
 だが、思想は、つねに、その社会の現実の情況の中で、さまざまに作用するものであっても、その思想の内容どおりに社会が変っていくものではない。しかし、その思想の中に、本人が気づかなくても、その変化を生み出す要素があったことは否定できない。
 そして、これが、たとえば、カルヴァン主義そのものを研究するのと、それが後代に与えた影響を研究するのとの、視点の違いである。これから記す正三は、いわば後者の視点に属するもので、前者ではない。
 鈴木正三は、時代の過渡期に生きた。生れは天正七年(一五七九年)、本能寺の変の三年前である。三河(愛知県)の武士で家康の旗本に属し、関ヶ原にも大坂夏の陣にも出陣した実戦参加の戦国武士、いわば戦国末期の戦乱の「戦争体験」をもつ人であった。そして戦後の平和到来とともに一時大坂番を務め、文官官僚的な武士も経験したが、元和六年(一六二〇年)、切腹、お家断絶を覚悟の上で出家してしまった。
 その動機は明らかでないが、非常に強い何かが、彼にこの心的転回をもたらしたものと思われる。以後七十七歳でこの世を去るまで、彼は禅宗の僧侶、それもまことに桁はずれの坊さんであった。
 彼の時代は、戦国末期から四代将軍家綱までの、すなわち混乱の時代から秩序確立の時代までの、過渡期に位置し、その生涯の内容もまた、それにふさわしく戦国武士、官僚としての武士、出家という多彩なものであった。この点では、前述の梅岩とは全く違う境遇に生きた、タイプの違う人間といわねばならない。
 梅岩の時代が、町人の成長期から停滞期への転換期であったとするなら、正三の時代は、まさに武士のそれであった。確かに秩序は確立したが、そのことは、「戦国武士」の存在理由を否定し、「足軽から太閤へ」の夢もなくなったことを意味した。これが彼らに、心理的閉塞状態を招来しても不思議ではない。三代家光の時代も過ぎれば、由比正雪的な野心を抱く余地さえなくなってくる。といっても、一方には「もう戦国の混乱は池くさんだ、この秩序を何とかして維持していかねばならぬ」という要請があり、自分も基本的にはそれを望んでいることも否定できない。そしてこのことは、武士にも、武士以外の者にも、ある程度、共通した思いだった。
 この矛盾を自己のうちにどう解決するか。これが、正三の時代の問題であった。正三の思想が、この現実の社会情勢の中で、ある種の作用をし、それが享保の町人に、世俗の思想に形を変えて熟成されても、不思議ではない。正三の思想の中に、それを世俗の思想として活用しうる要素があったということである。この点では、カルヴァンと共通しているといえるだろう。
 さて、日本の思想家を扱う場合、最も困難を感ずるのは、その思想が体系化していないことである。キリスト教の場合は組織神学があるから、たとえば「キリスト教社会倫理」という形で、これを社会的にも把握でき、宗教と社会との相関関係をつかみうる。日本には、残念ながらこれに対応する「組織禅学」はないし、この言葉自体が語義矛盾だから、あるはずもない。
 ただ、不思議なことに、正三だけはその著作の中から「組織禅学」と、これに対応している「禅宗社会倫理」とを抽出できるのである。この点で彼は、まことにユニークな思想家と言わねばならない。
 理由は、おそらく彼が反キリシタン思想家としても活躍した人物だからであろう。彼の記した『破吉利支丹』には、面白いことに「神学的反論」ともいえる面が見えるのである。相手の伝道に対抗するには、相手の論理でこれを論破しなければならず、それには自己の思想を相手に対応する形で表現しなければならないからである。
 思想は、元来このような論争を経て構築されるものだが、残念ながら日本は、その機会に乏しい国であった。と同時に、明治、昭和という模倣の時代もまた、この機会を生まなかった。模倣は論争にはならないからである。そのため日本文化は自己表現の能力を失った。
 もちろん、それは、対外的に失ったというだけでなく、対内的にも失い、そのため自己把握ができなくなったというのが現状であろう。
 したがって、まずここで、正三が、キリシタンに対抗するという形で、どのように日本文化を再把握したかを振りかえってみよう。
    
 鈴木正三が、キリシタンの教えとの対決を通して把握した自らの思想はどのようなものであったか。それを見ることで、ユダヤ教に淵源するキリスト教文化の神観念と、神儒仏混合して発展してきた日本人の神観念の違いを知ることができる。
 正三の書いた『破吉利支丹』には次のようにある。
 「神といい仏というは、ただ是水波の隔てなり。本覚真如(平等法身の覚体、で法界の根本本体)の一仏、化現して、人の心に応じて、済度し給う。されば神を敬い奉る心も、かの一仏に報い奉るなり。喩えば、国王を敬い奉るには、臣下大臣をはじめ、その次第次第(階層に応じて敬う)、物頭役人、百姓等は、代官下代までを敬うこと、定まれる法なり。是上一人(天子をさす)を尊び奉るの儀なり。キリシタンの教えの如きは、上一人を尊び奉る人、その下を用いざるを正理というにあらずや。かようの非儀をよしとせんや」(日本思想史大系『キリシタン書・排耶書』)
 ここには、人間は神の被造物であり神に似せて作られたがゆえに自由意志をもつが、その人間と神との関係は、あくまで、神が人間に与えた契約(戒律)を守ることを条件とするというような、キリスト教的な「上下契約」の考え方はない。
 正三は、人間には生まれながらに「仏心」が備わっており、神の働きは、人間がその「仏心」に目覚め、悟りを開くよう「人の心に応じて」助けることであり、それが国王から百姓に到る社会秩序維持につながっていると考える。この点、キリシタンは、日本の社会秩序を無視し、デウス一身への忠誠を求めているのではないかと。
 確かに、正三の生きた時代は、戦国時代から江戸時代の初めにかけてであり、宗教勢力が政治に干渉することが厳しく禁じられた時代であった。一方、この時代のキリスト教は教会組織に支えられたカトリック教が、新教プロテスタントの挑戦を受け、反撃に転じたことで、教会刷新運動が布教の情熱へと転化した時代だった。
 そんな中で、「信教の自由」を定めた1648年のウエストファリア条約以前のカトリックと、日本の政治権力との間に摩擦が生じたことは必然だったが、一方、そうした争いを経て、正三は、徳川幕藩体制のもとでの秩序形成に資する日本仏教の有り様を考えた。それは「本覚真如の一仏」への信仰に基づいていた。
 そこで、この「本覚真如の一仏」への信仰と、キリスト教的な「契約神」への信仰の違いであるが、それは戒律に対する考え方の違いに現れているのではないだろうか。前者は、人間には仏の分身ともいうべき「仏心」が備わっていると考えるが故に、それへの報恩としての自律心が求められる。後者は、あくまで契約としての戒律に沿うことが求められる。
 
禅宗の三位一体論、「月」と「仏」と「大医王」
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p95~96
 鈴木正三は、宇宙の本質を「一仏」であるとした。そして、この「本質としての一仏」は、見ることも知ることもできないが、この仏には三つの「徳用」があり、それが人間に作用してくるがゆえに、人はこの存在を知ることができると考えた。
 この徳用を、彼は、「月」と内心の「仏」と「大医王」と表現している。この表現は、キリスト教の三位一体論と共通性がある。彼らが「父なる神、子なる神、聖霊なる神」と言ったように、正三は「月なる仏」「心なる仏」「医王なる仏」と言ったわけである。
 この「月」とは、宇宙すなわち天然自然の秩序を意味する。月の心が一滴の水にもその影を宿すように、各人の心も、この「月」すなわち天然自然の秩序を宿している。これが「心なる仏」である。いわば人間も宇宙の秩序に組み入れているのだから、その内心の秩序も当然に宇宙の秩序に即応しているはずであり、人間はこれに従っていればよい、というのが彼の人間観・宇宙観の基本である。
 もちろん、この発想は、彼だけのものではない。中世キリスト教思想にも朱子学にもある発想であり、人間の基本的な発想の一つである。
 だが、それなら、なぜ、三百年にもわたる戦乱で人びとが苦しんだのか。月の光を各人の心が宿しており、それが仏ならば戦乱で苦しむことはありえないし、この世に犯罪や不正や殺人などがあるはずはなく、全員が「ホトケ様」のようになるはずではないか。なぜそうならないのか、その理由は何なのか。これは当時の思想家が等しくもっていた問題意識である。
 正三は、これを、心が病いに冒されているからだと考えた。人間の体が病むように心も病む。病み苦しむのは病毒のためであるが、それは貪欲、瞋恚、愚痴の三毒であるとした。そして、この病いを癒してくれるのも、また仏で、これがすなわち「医王なる仏」であって、この仏に癒しを願うのが人間の宗教心であると考えた。そして、人が癒されて「心なる仏」どおりに生きるようになれば、戦乱も起らず社会の諸問題も解決され、人の集合である「衆生もまた仏」という形で、理想的な社会ができると考えた。
 もちろん、これは、三種類の仏があるという意味ではなく、基本は一仏であり、一仏に三つの徳用があるということである。そしてこれが、キリスト教の三位一体論と同じように、社会倫理の基本となるのである。
 彼は、「仏法をもって世を治めたい」という言葉があるように、政治的・社会的な面にもつねに関心をもっていた。たとえ出家しても、この点では決して「世を捨てた」人ではなかった。
 したがって、彼に「禅宗社会倫理」という発想があって少しも不思議ではない。これが、彼の思想が現実の世俗世界の中に、さまざまに作用した理由である。いわば、前記のような世界観・人間観のもとに社会秩序をうち立てるために、人びとがいかに生くべきかの具体的指針を打ち立てたのである。こうなると、その影響は、禅的修行の世界を超えて、社会全体に広く及んだとしても不思議ではない。
 それでは、彼は、人びとはいかに生きるべきだと言ったのだろうか。
     
 こうした正三の「一仏」への信仰が、次のような、仏教独自の世界観に基づくものであることを忘れてはならない。
 「大千世界も、阿弥陀の体中に比量せば、九牛の一毛にも及ぶべからず。清(す)めるは上って天となり、濁れるは下って地と成て、陰陽と分れ、天は陽を司り、地は陰を体として、世界ひらけ、始まりしより、事起こりて、天を父とし地を母とし、陰陽合して、森羅万象出生す。是すなわち、一仏の徳用なり。・・・
 仏性法界に普くして、一切衆生の主人となる。さる間、一切衆生、悉有仏性と説き給うなり。たとえば、天上の一月の、万水に移るが如し。大海にも一月、一滴の露にも一月あるに似たり。・・・この心仏を、悟るときは仏なり。この心仏に迷う時は凡夫なり。さらば自己の仏性を、知らしめんための方便に・・・大日・薬師・観音・地蔵菩薩などと異名、数多しといえども、仏に二仏なく、法に二法なし。」(『破吉利支丹』)
 ここには、朱子学の陰陽五行説も見られるが、哲学的には仏教の世界観が中心で、こうした世界観をもとに、「一仏」の分身たる「仏心」が、全ての人に備わっていると説くのである。この事実を悟ることで、人間は「仏」となり、迷えば「凡夫」に止まるという。つまり「一仏」への信仰こそが、「心の病」を癒やし安心立命する力の根源だというのである。
農民は、社会の寄生虫である僧侶より、立派である
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p96~98
 いい社会をつくるためには、彼の基本的な世界観から見れば、当然に、まず、「心なる仏」が三毒に冒されないことが必要である。
 そのためには「成仏」しなければならない。彼の「成仏」とは、俗語的な意味、すなわち「死ぬ」という意味でなく、字義どおりに「仏に成る」こと、すなわち「内なる仏どおりに生きる」ことなのである。そのためには、当然、修行すなわち仏行にはげまねばならぬ、ということになる。
 しかし、一般の社会人にはそれはできない。人びとには日々の務めがあり、苦しい労働がある。それによって、自らの生活を支えて生きているのであって、僧侶のような社会的寄食者ではないからである。
 正三の面白い点は、これを明確に意識し、自己を社会的寄食者と規定していることであった。自分は、食べただけをこの世に返して世を去るわけにいかない。しかし、百姓は自分の食べた以上を世に返している、したがって百姓が最も偉大であり、再びこの世に生れることがあれば、そのときは百姓になりたいという意味のことを言っている。
 このように、生活の業を立派な行為と考えた彼が、心掛け次第で労働をそのまま仏行となしうる、と考えていても不思議ではなかった。彼はこの発想を基にして、「禅宗社会倫理」ともいうべきものを打ち立てたのである。
 これが『四民日用』である。後に『三宝徳用』と合せて一本となり、『万民徳用』とされた。弟子の恵忠は、これを、「師弟一の法典」なり、と記しているが、正三が出家したのも、この教えを広めるのが目的ではなかったかと思われる。
 『四民日用』は問答体になっており、四民、すなわち士農工商が、それぞれ、どのようにしたら成仏できるかを質問し、正三がこれに答えるという形になっている。まず「農人日用」からはじめよう。
 ここで、農人は、「後生一大事、疎ならずといへども、農業時を逐て隙なし、あさましき渡世の業をなし、今生むなくして、未来の苦を受べき事、無念の至なり。何として仏果に至べきや」と問う。
 簡単にいえば「仏行にはげめ」などと言われても、農民にはそんな余暇は全くない、どうしたらよいでしょう、ということであろう。
 これに対する正三の答は、実に明確で、「農業則仏行なり」なのである。したがって「隙を得て、抑生(おうじょう)願と思は誤なり」である。いわば農業を修行と考え、「極寒極熱の辛苦の業をなし、鋤鍬鎌を用得(もちいえ)て、煩悩の叢茂此(くさむらしげきこの)身心を敵となし、すきかへし、かり取と、心を着てひた責に責て耕作すべし」なのである。
 そして、「身に隙を得時は煩悩の叢増長す、辛苦の業をなして、身心を責時は、此心に煩なし。如此(かくのごとく)四時ともに仏行をなす、農人何とて別の仏行を好べきや」としている。これを実行すれば、ろくに修行していない僧などよりはるかに立派であり、そうなるか、ならぬかは、「心に有て業になし」なのである。
 また、それをすれば、たんに本人が仏果を得るだけでなく、社会につくし、社会をも浄化する結果になると、彼は次のように説く。「夫(それ)農人と生を受事は天より授給る世界養育の役人なり。去ば此身を一筋に天道に任奉り、かりにも身の為を思はずして、正天道の奉公に農業をなし、五穀を作出して仏陀神明を祭、万民の命をたすけ、虫類等に到迄施べしと大誓願をなして、一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏、なむあみだ仏と唱へ、一鎌一鎌に住して、他念なく農業をなさんには、田畑も清浄の地となり、五穀も清浄食と成て、食する人、煩悩を消滅するの薬なるべし」と記し、一念の中に農業をなさば大解脱、大自在の人となって、成仏できると説いているのである。
 これが、正三の考え方の基本である。他の職業に対しても同じだが、それぞれについて特色ある説き方をしているので順次にその要約を記していこう。
     
 正三の生きた時代の仏教が、当時の人々にどのように受けとられていたかということであるが、当時、禅僧を経て、イエズス会の修道士となった不干斎ハビアンは、次のように仏教を痛烈に批判している。

 「サテゝ仏法ハ苦々シキコトナリ。コノ分ニ後生ハナキゾトノミ見破ッテハ何カハヨクアランヤ。後生(善所)モナリ立タズ。現在ノ作法モ、上ニ恐ルベキ主ヲ知ラザレバ、道ノ道タルべき様モナシ。人ノ心ハ私ノ欲クニ引レテ邪ノ路ニ至ントノミスルニ、無主無我ト云テ、何タル悪ヲ作リテモ罰ヲアタエン主モナク、善ヲ勧テモ利生(御利益)ヲ行ルベキ所モナシ。只何事モ空生空滅ト云テ自由自在ニ教テハ、ナジカハヨクアラン。カヤウノ法ヲコソ邪法トハ云ベケレ」

 日本の仏教は、アプリオリに、人間の心には生まれながらに「仏心」が備わっており、煩悩の叢(くさむら)を取り去れば、自ずと「仏心」が現れると考える。一方、キリスト教の信仰は、あくまでも、神との契約に基づく戒律を守ることで得られると考える。ここに、「一仏」とキリスト教の神の風貌に、慈悲と厳正の違いを見る思いがする。
 正三は、こうした日本仏教の伝統的な「仏心」観を基礎に、煩悩の叢を取り去り安心立命するための方法論として、世俗における士農工商の労働にそのものに宗教的価値を認め、同時にそこに社会倫理的な価値を置いた。それが、後世、資本主義の発展をもたらす労働のエトスの転換となったと山本はいうのである。
一方、キリスト教においても、教会組織に支えられたカトリック信仰に対する新教プロテスタントの抵抗から、神による救いの保証を、現世における社会経済活動の成功に求める、いわゆる「プロテスタンティズムと資本主義の精神」が生まれたという。
「自分か信じられない」、「本心では……」は宗教的表現
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p98~100
 次に、職人がきて、正三に次のような質問をする。
 「……家業を営に隙なし、日夜渡世をかせぐ計なり、何としてか仏果に到べきや」
 正三は答えて言う。
 「何の事業も皆仏行なり。人々の所作の上にをひて、成仏したまふべし。仏行の外成(ほかなる)作業有べからず。
 一切の所作、皆以(もって)世界のためとなる事を以しるべし。……鍛冶番匠をはじめて、諸職人なくしては、世界の用(ようずる)所、調(ととのう)べからず。武士なくして世治べからず。農人なくして世界の食物あるべからず。商人なくして世界の自由、成べからず。此外所有(あらゆる)事業、出来て、世のためとなる。……唯是一仏の徳用なり。如此(かくのごとく)ありがたき仏性を、人々具足す……」と。
 人はみな仏性をもっているのだから、成仏にはそのもっている「我身を信ずるを本意とす。誠(まこと)成仏を願人ならば、唯自身を信ずべし。自身を信ずるといふは、自身則仏なれば、仏の心を信ずべし。仏に欲心なし、仏の心に瞋恚なし、仏の心に愚痴なし、仏の心に生死なし……是非なし……煩悩なし……悪事なし……」といって、最後に「一筋に信仰せよ、信仰せよ」と述べている。
 ここで正三の言っていることは、現代をも律している貴重な言葉である。「日本人は無宗教」というのは驚くべき誤解であり、その宗教性が西欧と違うというにすぎない。正三には「神=唯一絶対神」は存在しない。それが存在しないから無宗教というなら、正三もまた無宗教ということになるであろう。正三にとって、信仰とは、前記の唯一絶対神を信ずることでなく、「唯自身を信ずべし」ということである。この信仰を、今も日本人は持ちつづけている。
 日本では「神が信じられなくなった」といっても、社会はこれを問題にしないが、「自分が信じられなくなった」と言えば、その人は社会的に失格する。もちろん「自信を喪失した」との意味で使われる場合ではない。ついでにいえば、「唯自身を信ずべし」も、もちろん「ウヌボレよ」の意味ではない。
 日本においては、信ずべきものは、内なる仏であり、自己がその責任を負うべき対象もそれなのである。そして、責任を負うべき対象――それが「内なる仏」であれ「神」であれ――を喪失した人間は、いかなる社会も、これを信用しなくて当然である。以上のような意味における宗教性をもたない日本人はいない。したがって、日本人が非宗教的とは決して言えないのである。
 ただ、徳川時代の中期より表現が儒教的になり、同時に明治のはじめの廃仏毀釈で仏教的表現を国定教科書から抹殺したので、人びとが、自己の使う言葉がいかなる宗教的意味を内包しているかが、わからなくなっただけである。人びとが無意識に使う「自分が信じられない」も「本心では……」も宗教的表現で、それを自覚していないだけだが、これについては後述しよう。
     
 問題は、この、自分の「仏心」を信ずるということが、「一仏」への信仰なくして可能であるかということである。いうまでもなく「仏心」は、「一仏」の「本覚真如」の性質が人間に分与されたことによって存在するもので、その「一仏」なくして「仏心」が存在するはずはないからである。
 その意味では、正三においては、この、人間の心に「仏心」が備わっているとの確信は、あくまでも、「一仏」への信仰に支えられていたと見るべきであろう。それ故に「自身則仏なれば、仏の心(「仏心」)を信ずべし。仏に欲心なし、仏の心に瞋恚なし、仏の心に愚痴なし」ということができたと思う。
 では、こうした信仰心が、平和が確保され、経済が発展し、社会活動が安定することで、「一仏」への信仰心がなくても、自身の心に内在する「仏心」を信じ、自身の心に生じる欲心・瞋恚・愚痴の三毒を抑え、勤勉かつ奉仕的な社会生活を送ることができるかどうかということである。
 おそらく、それは、「大日・薬師・観音・地蔵菩薩などと異名、数多しといえども、仏に二仏なく、法に二法なし。諸法実相とと観ずる時は、松風流水妙音と成、万法一如と悟る時は、草木国土則ち成仏といえり」というように、自ずと、自然界を支配する「万法一如」の法則を感得するということなのかもしれない。
商人は、国中の「自由」をまもる大切な職業だ
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p100~101
 さて、次は、「商人日用」である。商人蔑視はいずれの国にもあり、徳川時代の日本だけが特に強かったわけではないが、この「封建性」が未だに尾をひいているのは、日本の新聞だけであろう。そういう点から正三の商業論を見ると、実に面白い。
 まず、彼は、「売買の作業は、国中の自由をなさしむべき役人に、天道よりあたへたまふ所也」と思い定めようとしている。彼は、自由の基礎を、売買、流通に置いているのである。
 われわれは、自由という言葉をさまざまに使うが、少なくともその基本的な「不自由でない」という状態は、流通によって支えられていることに、案外気づかない。一切の流通がとまれば、人はあらゆる面で拘束をうける。現代なら、石油の流通がとまり食糧の流通がとまったら、日本人の全員が動くに動けない状態となり、「自由」を論ずる自由さえ失ってしまうであろう。
 そして、この流通の基本をなすのが「売買の作業」であり、これを担当するものはまさに「国中の自由をなさしむ」べく、天道から命じられた役人なのである。したがって、正三には、「売買の作業」とそれに従事する商人への蔑視は皆無である。こういう人が十六世紀の日本の武士にいたというのは不思議であり、この点だけを取り上げても、まさに独創的な思想家であろう。
 もちろん「心にあって業(わざ)になし」の原則はあり、商業という「業」そのものが問題なのでなく、それに従事する者が、仏行としてそれを行なっているか否かが、問題なのである。商人は次のように問う。
 「つたなき売買の業をなし、得利(とくり)を思念(おもいねんじ)、休時なく、菩提にすゝむ事不叶(かなわず)、無念の到なり。方便を垂給(たれたまえ)」
 これに対する正三の答は、決して「得利否定」ではなく、「先(まず)得利の益(ます)べき心づかひを修行すべし」であり、その道は「一筋に正直の道を学べし」なのである。
 そして、この「正直」こそ正三の原則であり、「国中の自由をなさしむべく役人」と信じ「正直の旨を守て商せんには、火のかはけるにつき、水の下れるに随(したがい)て、ながるるごとく、天の福、相応して、万事、心に可叶(かなうべし)」と記す。だがこれで喜んではならない。こういうのを有漏善(うろぜん)といい、これだけでは成果が出てきたときに、心がおごって必ず悪道に落ちてしまう。真の善は無漏善なのだから、「売買の作業則無漏善」としなければならない。
 ではどうすればよいのか。「此身を世界に拗(なげうっ)て、一筋に国土のため万民のためとおもひ入て、自国の物を他国に移、他国の物を我国に持来て、遠国遠里に入渡し、諸人の心に叶べしと誓願をなして、国々をめぐる事は、業障を尽すべき修行なりと、心を着て、山々を越て、身心を責、大河小河を渡て心を清、漫々たる海上に船をうかぶる時は、此身をすてて念仏し、一生は唯、浮世の旅なる事を観じて、一切執着を捨、欲をはなれ商せんには、諸天是を守護し、神明利生を施て、得利もすぐれ、福徳充満の人となり、大福長者をいやしみて、終に勇猛堅固の大信心発(た)て、行住座臥、則禅定と成て」ごく自然に成仏できる、こうすればよいと説いたのである。
     
 ここで正三は、商人においては「正直」が原則であるとしているが、石田梅岩は、商人における「正直」の定義を「宇宙の継続的秩序にそのまま従っている状態」と捉えて次のように具体的に説明している。
 「天より生民を降すなれば、万民はことぐく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本私欲なきもの也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物。貸たる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私なく、ありべかゝりにするは正直なる所也。此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし。我願ふ所、人々こゝに至らしめんため也」
 これは、「天地に欲心がないように、人間にも本来、欲心はないものである。その小天地たる自分に返るために、正直があり、みながこれを行えば、「世間一同に和合し、四海の中皆兄弟」になる秩序が確立するといっている」のである。(同書p122)
 では、この「正直」は、「全ての世間のことについて、さっぱりと裸になり、正直であれ」ということかというと、そうではなく、物事の実情に応じて判断すべきで、惻隠の情を働かして、その情に正直であることが本当の正直であるという。
 つまり、商人という「得利」を目的とする職業において、貪欲を戒めるために倹約を説き、そのためには、所有関係や貸借関係を明確にし、相手を欺して利を得たり暴利をむさぼったりしない。それが商人の信用を高めるための「正直」の有り様といったのである。
日本を変えた、結果としての利潤は善である、という思想
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p101~104
 以上が農工商に成仏の道を説いた、彼の教えである。これらはたいへんに面白い考え方で、一言で表わすなら、「世俗の業務は、宗教的修行であり、それを一心不乱に行えば成仏できる」ということである。
 この原則は、士農工商を通ずる彼の大原則で、「修業之念願、三宝之徳用、武士日用」の中に「仏法則世法也」という形で要約され、「世法にて成仏するの理なり」と説かれ、「世法にて成仏する道理を不用(もちいず)ば、一切仏意を知らざる人也。願は世法を則仏法になし給へかしとの念願なり」と記されている。
 正三のこのような発想には、戦乱から秩序へという時代的背景があったであろう。確かに秩序は成り立った。平和は来た。しかし同時に「戦国の夢」は消え、一種の精神的閉塞状態を招来した。士農工商は徐々に固定していき、人びとが何に「生きがい」を求めてよいかわからぬ時代が来た。
 この中で、正三は、日々の業務の中に宗教性を求めることに、解決を見いだそうとしたといえる。農業は仏行であり、一心不乱に行えばそれは自らを成仏さすだけでなく、社会を浄化しうるのである。職人が一心に働けば、品々が限りなく出て世のためとなるが、これも一仏の徳用であり、それを行なっている者はありがたき仏性を具足しているのである。商人が前記のごとく需要と供給のあいだをつなげば、それは世の人を自由にし、同時に自らも成仏できるのである。
 この発想はまことにユニークだが、もとを探れば、やはり禅からきたものであろう。当時、武士に「剣禅一如」といった考え方があった。一心不乱に剣術を学ぶのは「殺し屋」になるためでなく、禅の修行と同じであるという考え方である。
 この考え方を農工商の三つに広げれば、農民が一心不乱に耕すのも禅の修行であり、職人が一心不乱にノミを振うのも修行であり、商人の巡礼もまた修行でありうる。そのように修行として自己の職業を行うようにすること、すなわち「世法を則仏法になし給へ」というのが彼の念願であった。これが、彼の思想が「禅宗社会倫理」といえる理由であり、その基礎にあるのは、最初に記した「組織禅学」である。
 武士であり、同時に禅僧である正三が、その発想を四民のことごとくに広げ、これを一種の国民道徳として秩序の基礎を確立し、同時にそれを行うことの中に、宗教的な精神的充足を求めようとしたわけである。彼は、この仏法によって世の中を治めたいと記しており、本当の念願は、以上のような意味の仏教体制の確立であったであろう。
 そして、この中の、職人が物を造り出すことを一仏の徳用とし、また商人が完備した流通機構を造り出すことも人を自由にするという発想は、きわめて近代的であると言わねばならない。そしてこれが新しい職業観の確立になり、同時に日本資本主義の倫理の基礎となって不思議でなかった。だが、いずれの思想であれ、それは現実の利害関係に対応してさまざまに作用する。この考え方は「士」にとってはべつに問題はないが、農工商、特に商には一つの問題があるはずである。それは利潤である。
 士がいかに剣を修行しても、これは利潤を生じないが、商が巡礼のごとく一心不乱に働けば、利潤を生ずる。これは農でも工でも同じであり、この点では士と基本的に違う。では、利潤を追求してよいのであろうか。もちろん否であり、それをすれば三毒の一つである「貪欲」に冒される。では、それを追求したのではないのに、結果において利潤が生じた場合はどうなのであろうか。
 正三は、この「結果としての利潤」は、決して否定していない。すなわち、「正直の旨を守て商せんには、火のかはけるにつき、水の下れるに随て、ながるるごとく、天の福、相応して、万事、心に可叶(かなうべし)」なのである。
 ただ、この「福徳を得て悦べきにあらず」である。これは「有漏の善」であるから、それで満足していては堕落し「必(かならず)悪に入なり」だから、この状態のままであってはならず、さらに「無漏善」となすべく願い、巡礼のごとくにあらねばならない、と説いている。だが、彼は、決して、結果としての利潤そのものまで否定しているわけではないのである。
 この考え方は、受け取り方によっては、世俗社会の肯定となる。カルヴァンが、それを意図せずに、世俗社会を肯定していたように、正三もまた、自ら意図せず、世俗社会を肯定していた。彼は、「世法を仏法」にすべく説いたが、受け取るほうは、「仏法を世法」にしてしまったわけである。

     
林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ(2016年4月7日)に「有漏」「無漏」という言葉についての次のような面白い説明がある。
 「有漏路(うろじ)から 無漏路(むろじ)へかえる 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け。」
 この句は一休宗純のものだと伝えられている。有漏(うろ)とか無漏(むろ)とはあまり聞かない語であるが、漏とは仏教で、漏れ出ずるもの、汚れを意味し煩悩のことである。この煩悩が有る状態を有漏といいい、無い状態を無漏という。
 一休禅師は、煩悩が充満するこの世(有漏路)から、煩悩の寂滅したさとりの世界(無漏路)へかえる自己の境地を自分の名を詠みこんで「一休み」としたのであろう。仏教で迷いとは目指すべき方向が判らないことを迷いという。一休禅師のような禅門では、目指す処、かえるところが判れば、あとは「雨ふらば降れ 風ふかば吹け」であろう。
 良寛禅師が大地震の見舞いに「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」とされているのも同じ意であろう。
 さて、この有漏と無漏は修飾語としても使われる。有漏智(有漏の煩悩より生じた智)と無漏智(煩悩の無い領域から生ずる智)や、有漏善(煩悩から生じた善)、無漏善(煩悩の雑わらない善)などである。
 浄土真宗は、本願力回向の全分他力のご法義という。これは阿弥陀如来の大願清浄の報土へ往生することは、凡夫の修す有漏の善では不可能であるということを意味する。人間のなす行為は有漏であり、
「有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく」(*)なのである。
 かって、浄土真宗に善の勧めはあるか?、などとあほなことを問題にしていた団体があった。浄土真宗とは往生浄土の真宗という意味であるから、さとりの世界である無漏の浄土に往生するには有漏の善では不可である。
 ゆえに、阿弥陀如来は、・・・無漏である、至徳の尊号である「なんまんだぶを」を、如来の至心として回施して下さったのである。
神学と心学――日本のプラグマティズムは梅岩にはじまる
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p108~111
 それでは、こうした鈴木正三の思想をふまえた石田梅岩の思想とは、いかなるものだったろうか。現代とのかかわりにふれながら説明していこう。
 梅岩は、四十二、三歳で退職し、四十五歳のとき、京都の車屋町の居宅で、小さい私塾を開いた。もとより、無名の番頭の塾、はじめはだれも相手とせず、「あの無学で何を説くやら」と言う者、面と向っては誉めるが、陰で嘲笑する者など、まちまちであった。もっとも殊勝だという人もいたが、これは少数者であったろう。というのは、ほとんど聴衆がいなかったからである。
 もっとも、彼は、一切謝礼は受けなかったから、聴衆がいてもいなくても経済的にはべつに変りはなかった。彼にあったのは、自分がつかみえたと信ずることを、他にも説き分ちたいという情熱だけであった。したがって、聴衆が増加してきたのは、もっぱら俗にいう「口コミ」によってであった。
 梅岩は、毎朝と隔夜に講義し、このほかに月に三度「月次会(つきなみかい)」というセミナーを開いていた。弟子は少数の例外を除けば町人である。
 始めてから七年目に、ある大長屋の裏座敷で1ヵ月の連続講義を行なったが、このときは男女の聴衆が群れをなしたという。そしておそらく車屋町の居宅が手狭になったのであろう、九年目に堺町へ移転している。そのころから出張講義の依頼も多くなり、京都だけではなく大坂でも講義している。
 といっても、まだ小規模なもので、これが石門心学として、京都、大坂、江戸という当時の三大都市はもとより、広く日本国中に広がり、武家・公家社会にまで浸透していったのは、その弟子と孫弟子の時代である。
 では、梅岩は、どのような世界観に基づき、どのような実践哲学を説いたのであろうか。基本的にいえば、その世界観は正三と同じであった。
 もっとも、これは彼だけではなく、徳川時代の多くの思想家も基本的には同じだといえる。しかし、その発想、すなわち宇宙の秩序と内心の秩序と社会の秩序は一致しているし、また一致させねばならない、という発想は、彼の場合はむしろ、朱子学からきているであろう。したがって、表現は儒教的になるが、世界観の基本は同じだから、図式化すれば同じになり、正三の言葉は、ほぼそのまま梅岩の言葉で置きかえることができる。この意味で、両者の違いは、ある点までは表現の違いにすぎないともいえる。
 もっとも、後述するようにその内容が完全に同じだとは決して言えないし、「仏法をもって世法を治めんとするは、馬、駕籠にて海川をわたるに同じ」として、この点では梅岩は、正三の考え方をはっきり否定している。
 しかし、ここでは、わかりやすく要約するため、まず正三の言葉を梅岩の言葉で置きかえてみよう。
 正三は、宇宙の基本を「一仏」とし、その徳用を「月」「内心の仏」「医王」とした。梅岩においては、基本は「善」であり、この三つは「天」「性(本性)」「薬」である。
 この場合の「善」は、彼も言っているように、「善・悪」の「善」よりむしろ「宇宙の継続的秩序」の意味である。これが「天」すなわち宇宙の秩序に表われ、同時に人間の本性であるという意味では、いわゆる「性善説」だが、これもまた、決して俗にいう「性善説」ではない。また「医王」が「薬」になっているのは、それはすでに「医してください」と願う宗教的対象ではなく、処方して使うべき対象となっている。この点では、正三のような宗教性はない。
 両者のあいだには、宗教改革期の思想家と啓蒙主義時代の思想家との違いに似たものがあるであろう。正三にとって、宇宙は「一仏」という人格神的対象であり、癒してくれるのも「医王」という救済者的対象だが、梅岩においては、これが「天」と「薬」という非人格的なもの、いわば理神論的対象に変化し、薬を使うという主体性はむしろ人間の側にある。正三より非宗教的で、市民思想的な道徳律へと変化しているといえるだろう。
 もちろん、正三にも、「仏経は薬」という発想はある。しかし、それは医王が使ってくれるべきものだが、梅岩の場合は、自ら処方して使うべきものであり、この点で彼は、自らをも「医師」の位置に置いている。
 そして、「名医ハ何ニテモ、病ノ可愈(いゆべき)モノヲ用ヒテ疾ヲ愈シ、諸薬ヲ尽(ことごと)ク遣(つか)ヒ覚テ療治スルコソ善(よか)ルベケレ。古シヘヨリノ薬種トテ出シ置ルゝ物何ゾ棄ルコトアランヤ。一モ舎(すて)ズ一ニ沈(なずま)ズ、能用ルハ名医ナルベシ」であるとした。
 というわけで、彼は孔子・孟子・老子・荘子・仏典から日本の古典まで、自由自在に使っていっこうに差し支えない、と考えていた。その行き方は、「役に立つものが真理」であった。ある意味で完全なプラグマティズムである。
 したがって、問題は、彼が何を引用したかでなく、どのような目的で、いわば何を癒そうとしてそれを使ったのか、ということにある。彼が、原典の文脈を無視し、自己の所見を述べるために間違って引用していても、彼の思想を知るという点では、はじめから問題にならない。これがすなわち、前にもふれた、断章取義である。
 これは、宗教・思想の方法論化だが、さらに彼は、宗教を思想流布の手段とも見た。その意味では、彼にとって、神儒仏の三教が併存することは、いっこうに差し支えはなく、この三教を彼は、金、銀、銭の通貨の並行流通にたとえている。とすれば、七五三は神社で、結婚は教会で、葬式はお寺で、でいっこうに差し支えないことになる。そうすることは、決して無節操でなく、一つの明確な考え方、見方から出ている生き方ということになる。
 
     
 ここに「仏法をもって世法を治めんとするは、馬、駕籠にて海川をわたるに同じ」として、この点では梅岩は、正三の考え方をはっきり否定している。」とある。
 また、「正三にとって、宇宙は「一仏」という人格神的対象であり、癒してくれるのも「医王」という救済者的対象だが、梅岩においては、これが「天」と「薬」という非人格的なもの、いわば理神論的対象に変化し、薬を使うという主体性はむしろ人間の側にある。正三より非宗教的で、市民思想的な道徳律へと変化しているといえるだろう。」とある。
 ここで理神論(りしんろん、英: deism)とは、「神の存在を啓示によらず合理的に説明しようとする立場。この宇宙の創造主としての神の実在を認めるが、聖書などに伝えられるような人格的存在だとは認めない。神がおこなったのは宇宙とその自然法則の創造だけで、それ以降、宇宙は自己発展するとする。人間理性の存在をその論の前提とし、奇跡・啓示・預言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。神の存在を認めるという点において、有神論(theism)の一つと言えるが、啓示を肯定する他の立場との対比から、有神論とは区別する場合もある。
 理神論は「啓蒙時代に流行した。17世紀のスピノザらを起源として、イギリスで論争が起こり、18世紀のフランス・ドイツの啓蒙思想家(フィロゾーフ)たちに受け継がれ、フランス革命期の「最高存在の祭典」の思想的背景になった。」(wiki)というものである。
 これと同じ現象が、日本でも、鈴木正三から石田梅岩の間に生じたということであろう。といっても、「理神論」は「宇宙とその自然法則」をつかさどる「人間理性」としての自然神の存在は認めており、梅岩の場合はそれを「天」といい、「仏」とはしなかったということである。
 いうまでもなく、日本仏教は、戦国時代末期から江戸時代はじめに生きた不干斎ハビアンによって次のような厳しい批判を受けていた。
 「無主無我ト云テ、何タル悪ヲ作リテモ罰ヲアタエン主モナク、善ヲ勧テモ利生(御利益)ヲ行ルベキ所モナシ。只何事モ空生空滅ト云テ自由自在ニ教テハ、ナジカハヨクアラン。カヤウノ法ヲコソ邪法トハ云ベケレ」
 そして、梅岩生きた時代(貞享2年9月15日(1685年10月12日)~延享元年9月24日(1744年10月29日))の仏教は、徳川幕藩体制下における檀家仏教として政治的統治システムの末端に組み込まれており、宗教本来の生命力を失っていたことが、その背景にあったものと思われる。
 
聖書に一度も出てこない「本心」が、なぜ日本で問題になるのか
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p111~114
 梅岩は、自ら述べているように「理屈者」であった。したがって、正三のように、「月の光が一滴の水にも影を宿しているように」という形で、宗教的に人と宇宙と社会の関係を把握することはできず、理づめで把握しない限り承服できなかった。
 この点で、彼が「性」とは何かを徹底的に考え抜いているのは面白い。この「性」は、いま使われている「人間の本性」とかわかりにくかったので、「人間性」といった言葉とほぼ同義と理解してよいが、これが当時の庶民にはわかりにくかったので、弟子の手島堵庵が「本心と言いなおした。「本心」という言葉が仏典にもあるし、正三も使っているが、だいたい今われわれが無意識に使っている「本心」は、堵庵の系統であろう。
 まことに面白いことだが、「本心」の存在を信じていない日本人はいないのである。「君の本心に問うてみろ」とか「それは君が本心から言っているのか」とか「本心においては悪人はいない」「本心どおりにしていればよい」などとわれわれは言い、すべての人はこれを当然としている。しかし、では、いったい「本心」とは何なのか、それが本当にあるのか、と問われれば、これの存在を証明し、その内容を明確に説明できるものはいないであろう。ということはこの存在は日本人の共通信仰であり、この信仰のないものを社会は受け入れないということである。
 正三は、まず自己を信ずることが信仰の第一要件であると、「職人日用」で説いたが、「自分が信じられなくなった」といえば社会的に失格するように、「本心に問うてみろ」といわれて「本心なんてものは私にはないよ」といえば、社会は絶対にその人を信用しない。日本の社会秩序は、各人が「本心」をもっているという前提で成り立っているからである。
 となれば、神を前提とした社会に「神学」があるように、本心を前提とした社会に「本心の学」すなわち「心学」があって当然である。では「心学」とは何を学ぶのか。簡単にいえば本心どおりに生きる方法を学ぶ学である。そのための方法、すなわち「薬」として、諸宗教・諸思想があるのであって、諸宗教・諸思想のために本心があるのではない。
 正三の基本は正直であり、梅岩の基本も正直だが、ごれは「本心」に対して正直であれの意味である。したがって、それが、外部への嘘となる場合もある。日本人は、通常それを不思議としない。
 神の存在は信ずるが、本心の存在は信じない世界に行けば、日本人に神学が理解できないように、その世界では心学は理解されない。
 聖書には「本心」は登場しない。口語訳の旧新約聖書を調べると、旧約に一ヵ所、新約に一ヵ所だけ「本心から」という訳語がある。これは「熱烈に」とか「心の底から」とかいった言葉にも訳せる言葉である。「本心」はこのような意味に使われることもあるが、しかしその本来の意味は違う。聖書には、たとえば「本心においては悪人はいない」といった意味の「本心」は存在しないのである。
 ではいったい「本心」とは何なのだろう。われわれは無意識でこの言葉を使っているが、「理屈者」の梅岩には、それが耐えられない。彼は一心不乱にこれを探究する。
 だれでも気づくことだが「反省をせよ」は「本心に問え」の意味を含み、この場合反省させているのも反省の基準もその人の本心のはずである。となれば人間には反省させている自分と、それによって反省させられている自分とがあるはずであって、この場合は反省させているのが本心だということになるであろう。梅岩も一応こう考える。
 しかし、すぐ、「と、考えている自分」に気づき、それを本心ではないかと思うが、さらにその奥にそう考えている自分のいることに気づく。ではこれが本心なのか、否、そう考えた瞬間、その奥にさらにそう考えている自分がいるはずであって、このように追究して行けば、際限がないのである。だが、これが明らかにならない限り、本心どおり生きる、すなわち本心との一体化は不可能である。
  このとき彼は、師の小栗了雲から「性に目なし」といわれる、いわば人間の本性もしくは人間性は「目なし」であるから、そのようにして探究する対象ではない、ということであろう。いわば見ている自分と見られている自分が一つであり、天地自然を見ている自分もまた天地自然であるといった形の悟りに到達して、はじめてその基本が理解できるということである。  
     
 キリスト教に三位一体という言葉がある。要するに宇宙の創造神がイエス・キリストという人間の姿で現れたり、聖霊として現れ人間を聖化したりするが、その本質は神と一体のものであるとする考え方である。
 正三の場合は、「宇宙の基本を「一仏」とし、その徳用を「月」「内心の仏」「医王」」とする。それは、「一仏=月」の慈悲の心が人間の心にも備わっており、心の病を癒す力を持っているとする考え方である。
 これが、梅岩では「一仏」が「天」となり、「仏心」が「本性」(これを「本心」と言いかえたのがその弟子の手島堵庵)、「医王」が「薬」となった。ここでは、神の理解の仕方に宗教臭さが消えて、朱子学の概念が用いられてた。
 そうなると、神の理解が思弁的になり、「本心」とは「反省する自分→自分を反省させている自分」となり、この部分はデカルトの「我思う故に我あり」に似てくる。しかし、これは「思考をしている自分だけは確かに存在する」という意味であり、価値判断を含まない、あくまで合理性を追求する思考力のことである。
 これによって「考える自分と、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった」(wiki)とされる。ここから、いわゆる科学的思考法が生まれたのだろう。
 では、梅岩のいう反省力はどういうものかというと、それは、思想的な流れからいえば正三の「一仏」から出た「仏心」=「慈悲心」というべきもので、キリスト教における「隣人愛」に近いものではないかと思う。
 しかし、キリスト教の場合は、この隣人愛が独立して存在しているわけではなく、神への信仰とペアになっている。従って、梅岩のいう「本性」=「本心」も、その背後の「天」=「一仏」への信仰があると見るべきであろう。それが、「天地自然を見ている自分もまた天地自然であるといった形の悟り」になっているのではないか。
「結果としての利潤」が、なぜ日本にあふれたのか
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p117~119
 梅岩のこういう発想は、どこからきたのであろうか。正三のもつ商人という概念は、むしろ行商的なもの、いわば「需要と供給をつなぐ巡礼」であった。
 しかし、梅岩のころの商家は、すでに一つの営業体であり組織であった。同時にそれは利潤獲得を目ざして機能している、有力な階級であった。その実力は、前述のように「外見には日本国中武家の所領なれ共、其内実は商家の所領也」という状態になっていた。それでいながら、当時の社会の秩序の中で一種、反社会的な存在と見られていたことは否定できない。
 梅岩は、これを当時の社会の中で、正当に位置づけようとして、その基本を求めたといえる。そして彼は、これを士農工商に共通する一つの基本的な「道」に求め、内にはその励行を説くとともに、外には一種の「市民権」を主張したわけである。
 いわば、「商人ノ道ト云トモ、何ゾ士農ノ道ニ替ルコルト有ランヤ。孟子モ道ハ一ナリトノ玉フ。士農工商トモニ天ノ一物ナリ。天ニ二ッノ道有ランヤ」であり、その基本を求めたのが上記のような考え方なのである。
 と同時に、彼は、外部よりの商人への非難には、はっきりと反論している。 「商人ノ売買スルハ天下ノ相(たすけ)ナリ。細工人二作料ヲ給ルハ工ノ禄ナリ。農人ニ作間(さくあい)ヲ下サルゝコトハ、是モ士ノ禄ニ同ジ。天下万民産業ナクシテ、何ヲ以テ立ツベキヤ。商人ノ買利モ天下御免(おんゆる)シノ禄ナリ。夫(それ)ヲ汝独(ひとり)、売買ノ利バカリヲ慾心ニテ道ナシト云ヒ、商人ヲ悪ンデ断絶セントス。何(なんぞ)以テ商人計リヲ賤メ嫌フコトゾヤ。汝今ニテモ売買ノ利ハ渡サズト云テ利ヲ引テ渡サバ、天下ノ法破リトナルベシ」と記し、利潤は正当であると明言している。
 もちろん、この正当性には、武士の禄と同じように、その忠誠によってはじめて正当性をもちうるとの条件があるが、それは決して不当なものではない。
 「吾(わが)禄ハ売買ノ利ナルユヘニ、買人アレバ受ルナリ。ヨブニ従テ往クハ、役目ニ応ジテ往クガ如シ。慾心ニアラズ。士ノ道モ君ヨリ禄ヲ受ズシテハ勉(つとま)ラズ。君ヨリ禄ヲ受ルヲ欲心ト云テ道ニアラズト云ハゞ、孔子孟子ヲ始トシテ、天下ニ道ヲ知ル人アルベカラズ」と記している。
 では商人が、「慾心」でなく、その「道」を実行に移すにはどうすべきか。面白いことにそれが一種の合理性の追求なのである。
 まず、彼は、武士が主君に忠でなく禄をもらっていれば、それは武士とはいえないように、商人も「売り先」への誠実がなければ商人とはいえない、という。いわば「消費者への誠実」が第一であり、さらに「且(そのうえ)第一に倹約ヲ守り、是マデ一貫目ノ入用ヲ七百目ニテ賄(まかない)、是迄一貫目有リシ利ヲ九百目アルヤウニスベシ」である。経費を三割節約して、利益を一割減にするという方法をとれといっているのだ。そして、「算用極メノ外ニ無理ヲセズ」に経営すればよいのであり、この際には、ひたすら消費者に奉仕することを心掛けて、欲心を出してはならないのである。貪欲になると道をはずれるから、必ず倒産する。「奉仕に明けて、奉仕に暮れる」なら、必ず栄えると彼は説くのだ。
 さて、ここで出てくるのが、「倹約」である。「道」を実行するには、倹約が第一と記されている。では、倹約とは「けち」すなわち貪欲ではないのであろうか。梅岩はしばしば倹約を説いているが、彼が最後に記した本が、その集成ともいうべき『倹約斉家論』である。
 梅岩や正三をはじめとするこれらの著作を読んでいくと、なるほど日本は資本主義国家の先頭をいっても不思議でないなという気がする。
 どのような国であっても、「何の事業も皆仏行なり」という考え方をして、世俗の業務に宗教的意義を感じ、すべてを度外視してこれに専念し、同時に合理性の追求を人間の踏むべき「道=倫理」と考えて、これを実行することで良心を満足させ、さらに倹約について、次節に記すような考え方で大きな精神的安定を感ずるなら、その国には否応なく資本が蓄積し、その「結果としての利潤」が世界最高になってしまっても、不思議ではないのである。
 
     
 正三や梅岩の「何の事業も皆仏行なり」という考え方が、日本資本主義の発展の基礎を作ったという。
 これは、マックス・ウエーバーの「プロテスタンティズムと資本主義の精神」の考え方に大変似ている。しかし、結果は似ているが、その宗教的・論理的メカニズムは、正三や梅岩の仏教を背景とする考え方とは違う。
 ヴェーバーの考え方は次のようなものである。
「カルヴァンの予定説では、救済される人間は、あらかじめ決定されている。したがって、人間の努力や善行の有無などによって、その決定を変更することはできない。つまり、善人でも救われていないかもしれないし、悪人でも救われているかもしれないのである。また、人間は、神の意思を知ることができない。したがって、自分が救済されるのかどうかをあらかじめ知ることはできない。・・・
 このように、善行を働いても救われるとは限らない。また、自分が救われているかどうかをあらかじめ知ることもできない。・・・このような予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強いる。
 そして、人々はそこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出した。・・・こうして、人々は禁欲的労働(世俗内禁欲、行動的禁欲、アクティブ・アスケーゼ)というエートスを生み出した」(wiki)
 では、正三や梅岩にカルヴァンのような予定説があったかというと、彼らは「仏心」=「慈悲心」と考え、梅岩は、これを「目なし」(あれこれと考える疑いはないということ)とした。さらに日本には、親鸞の「悪人正機」の考え方もあったわけで、ここに成仏への疑いはない。
 では、この両者の違いは何かというと、畢竟「契約神」と「慈悲神」の相違ということになろうが、いずれも、見返りを求めない「信仰」の大切さを説いている点では、同じなのではないだろうか。
なぜ、「池の鯉」が非難され、清貧が評価されるのか
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p119~121
 日本人は「浪費、贅沢は罪悪なり」という発想が非常に強い。何かあれば「池の鯉」まで非難される。また「財界天皇」といわれる人が質素な生活をしていれば、それだけでその人は社会的信用を克ちうる。たとえ収入があっても「私的に消費しない」という自制をもっている人間は、立派な人間なのである。
 なぜであろうか。梅岩のいう倹約とは、いわば自制の倫理であり、同時にそれが斉家、すなわち商家という企業体の秩序の基本であるという考え方である。いわば、利潤追求という欲心を自制して、ひたすら消費者に奉仕するという発想は対外的自制だが、それは否応なく合理性の追求となり、その追求は対内的自制すなわち倹約になっていく。倹約は「消費の倫理」であり、正三の『四民日用』には、まだ登場していない。簡単にいえば、正三自身が禅僧であったこととともに、当時の一般的な消費水準は、それを説くまでに至っていなかったのであろう。したがって彼には「消費もまた仏行なり」といった言葉はない。
 しかし、梅岩はすでに、元禄を経過した人間であった。消費ということに、たいへんな関心をもっていた。
 いったい、人間はなぜ消費するのか。まずこの基本にかえるべきだと梅岩は言う。彼の倹約励行には多くの反対があったらしい。まず、倹約はつまり吝嗇で、これは欲心から出ている、という反対である。  たとえば、ある人は「聖人の民をおさめ玉ふは、親の子を養育(そだつる)如く漸々(ぜんぜん)を以て治め玉ふべし。一軒の家にていはゞ、妻子より小者に至るまで吾民なり。其民を次第にやすく治るが主人の職分なり。先人間の楽は、衣食住の三つなり」といい、その楽しみを奪うのは「是皆欲心よりなす所なり」で正しくないという。
 これに対して、梅岩は、「汝人間のたのしみは、衣食住の三つといへり。……此三つ人の身にやむ事を得ずしていとなむことなり。只(ただ)不飢(うえず)さむからずして心やすらかに過すを楽みとす。周礼に曰(いわく)、『室は高きにあらざれども、漏ざれば便(あうなわち)よし。衣服は綾羅(あやうすもの)にあらざれども、和暖(あたたか)なれば便よし。飲食は珍しき饈(そなえ)にあらざれども、一度(ひととび)飽(あけ)ば便よし』といふ。又論語にも、『君子は食飽(あかん)ことを求むることなく、居安(きょやす)からんことを求むることなし』とのたまへり」と答える。
 面白いことに、これは、「必要以外のものは身につけない」というピューリタンの倫理とたいへんに似ているのである。  同時にここには時代も作用していた。彼は「凡て世の有様を見来(きた)るに、町家ほど衰へ安きものはなし。其根源を尋れば、愚痴といふ病なり。其愚痴が忽変じて奢となる。愚痴と奢と二なれど分がたきことを語るべし」と記す。
 ここでいう奢りは、いわば虚栄心のことであり、彼はその一例として、町人がまるで武家のように「嫁を後室の奥のと称(とな)え」させて、それで神社へ参る。このような虚栄心は「又旦那名よせ帳を見れば三四十年以前迄京大坂にて、大金持といはれたるかくれなき町人も往方(ゆきかた)しれぬ者もあり。又身上衰へ自炊(じせんじ)して暮すもあり」と記し、これはまさに「愚」であり「痴」であるといっている。その病毒におかされないためには、人は何ゆえに消費するのかという根本を踏まえねばならぬという。
 さらにもっと大きな問題は、これが秩序を乱すということである。ここで彼は、大坂へ行ったとき火事に遭遇した例をあげ、ひとたび秩序が乱れたら、人間はどんな状態になるかを記し、そういう事態があっても天下泰平だからまだ被害が少ないので、これが戦国時代であったらそれこそ、逃げてきた者も裸にされてしまうと警告する。
 「戦国の時、食物や着物が撰み分ていらるべきや。虱だらけの物ならで、着ることは成まじ。其時木綿布子は重(おもい)などゝ理屈がいふてゐられふか。をしいたゞいて着るべきぞ。又食物に乏く、おほくはつかれゐるべし。其時に麦飯や白粥は嫌なりといふべきや。食(やしな)ひくるゝ者あらば、神仏のやうにおもふべし。
 忝(かたじけな)くも今の御代、天下一統に養るゝはありがたき事にあらずや」と記している。
 それに対して、確かにそれは、「町家相応にては面白し」しかし、それでは「大道の用にたゝず」、武家や公家までふくめた、社会一般の倫理になりうるのであろうか、という当然の疑問が出てくる。
 これに対して梅岩は次のように答える。
 「汝は町家のことは瑣細(ささい)にて、大道に用られずと云。某(それがし)思ふは左にあらず。上より下に至り、職分は異なれども理は一なり」と記し、彼は士農工商を一種の職分と見、その基本倫理は一つであるという。
 これは、梅岩の全論を貫いている考え方である。そこで、「倹約の事を得心し行ふときは、家とゝのひ国治り天下平なり。これ大道にあらずや。倹約をいふは畢竟身を修め家をとゝのへん為也。大学に所謂、『天子より以て庶人に至るまで、壱(ひとつ)に是皆身を脩(おさむ)るを以て本とす』と。身を脩るに何んぞ士農工商のかはりあらん。身を修る主となるは如何。これ心なり」と記し、この倫理が町人だけのものではないことを強調している。
 となると、すべての階級にとって、上記の考え方に基づく「経済性」と「合理性」の追求は、そのまま倫理になり得る。というのはここに要請されるものは「自制」であり、それが社会秩序の基礎と彼は考えているからである。
 これは今のわれわれにもある考え方であり、法律・社規・社則等で、外から規制されることをわれわれは拒否し、内なる自制で秩序を維持しようとする。社会がそれを基本とするなら、梅岩のような考え方は当然であり、したがって、「池の鯉」が非難され、清貧の「財界天皇」が信頼されて当然なのである。 
     
 或(アルヒト)問(トウテ)曰イワク、倹約ハ如何心得テ勤ムベク侯ヤ。今世間ニ吝(シハイ)コトヲ倹約ト申候。然レバ物ヲ愛シテ容易(タヤスク)不用(モチイザル)コトニ候ヤ。
 答、倹約ト云コトハ世俗ノ説トハ異ナリ、我為ニ物ゴトヲ吝クスルニハアラズ。世界ノ為ニ三ツ入ル物ヲ二ツデスムヤウニスルヲ倹約ト云。
 書曰、民惟(コレ)邦本(クニノモト)、本固(モトカタケレバ)邦寧(クニヤスシ)、其本ハ民ニ食物ヲ足(タス)ニアリ。
 コノユヘニ人君ハ民ヨリ年貢ヲ薄ク納テ民ヲ豊ニシ玉フ。譬(タト)ヘバ民ヨリ三石納ル所へ二石納メサセ、君ノ用々ヲ調へ玉ヘバ、百姓五石作ラザレバタラザル所へ四石五斗作リテモ、御年貢ヲ三石納メシ所へ二石納メテスムユヘニ、百姓ノ手前ニ是レマデ二石アマリシ所へ二石五斗アマルナリ。コノ五斗が民ノ沢(ウルオ)ヒトナル。
 若シ又飢饉ニテ、五石アル所三石トレテモ二石ノ年貢ヲ立、残ル一石ニテ飢ヲタスカルナレバ上ニモ事足り玉ヒ、下ニモ相続ナレバ箇様ニナサルヽヲ実ノ倹約トハ云ベシ。民ニ食物不足(タラズシテ)乏クナレバ盗ミス。如何トナレバ民ノ命ト云ベキ者ハ食物ナリ。世ノ人賢キガ如クナレ共食ガ人ノ命ト実ニ知ル者少シ。凡ソ天地ノ間ニ生ヲ受ル物育ヒ無クシテ有ルベカラズ。
 扨(サテ)又人間ノ性ハ本来無心ナル故ニ、聖賢教ヲ立テ玉ヒ、君ニ忠、父母ニ孝、朋友ニ信、下(シモ)ニ慈愛ヲ失ハズシテ勉レバ中心イタマズシテ無心ノ性ヲ養フコトヲ教玉フ。又躰を育(ヤシナフ)コトハ唐(モロコシ)ノ神農黄帝五穀を植え身を養フコトヲ教給フ。其ノ五穀ヲソダテ養フニ本(モト)トアルベシ。
 其ノ根本ヲ尋レバ糞土ノコヤシニ如(シク)ハナシ。此ノコヤシノ為ニ浦々嶋々ニテハ猟師ハ舟ヲ浮(ウカ)メ漁捕(スナドリ)シテ日夜ニ殺生ヲナス。
 狩人ハ山林ニ入テ獅子猿ヲ狩モ是レ皆五穀ヲ養育(ソダテル)ト、又害ヲフセグガ為ナリ。如是(カクノゴトクシテ)五穀ヲ育ヒ立ル為ニハ万人コトゞク苦シムナリ。此ノ苦ミヲ哀シメバトテ一日モ食ネバナラヌ此ノ身ナリ。此ノ身ヲ養フコトヲ思ハヾ無益ニ舎ル物ノ費(ツイ)ヘヲ思フベキコトナリ。
 我モコノコトヲ思ヒ、三十年来以来、一日半日、又ハ五日三日出ルコトアレバ賤キ細キコトナガラ、二便ゴトキモ心ヲ付、カハヤニ(俗ニ云セツチン)入テコレ便ズ。コレ無キ時田畠ノ中ニ入テ用ヲナス。コレヲ舎ルハ五穀ノ育ヒヲ舎(ス)ツルナリ。舎(スタ)リナキヤウスルハ身分相応ノ倹約ト思ヘリ。
 又ゴモク箱ニ紙クズナド散ジアル、不浄ナルガ如クナレ共ヒロイ挙、紙クズ籠ニ入レ置モ再ビ紙トナル物ノスタレユクコトヲ愛(オシム)ハ、是レヲ売払ヒ銭ヲ得ン為バカリニハアラズ。
 炭薪(タキギ)米大豆ムギニ到るマデ下賤(シズ)山賤(ヤマガツ)ノ汗と思ヘバ(『石田先生語録』より)
 
現代日本の本質は、梅岩の思想の国際版
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p124~126
 梅岩は、たんにこれらのことを口にしただけでなく、文字どおり実行した。彼は『倹約斉家論』を発行した直後の延享元年(一七四四年)九月二十四日に世を去ったが「歿後宅に遺りし物、書三櫃(き)、また平生人の問に答へ給ふ語の草稿、見台、机、硯、衣類、日用の器物のみ」で、不必要なものは一切なかったと記されている。その生涯は一言でいえば、何の波乱もない平凡なサラリーマンの一生で、簡素、清潔であり、彼自身もなんら世の耳目をひこうなどとしてはいなかった。
 ところが、その死後、これが、彼の弟子たちにより、「石門心学」として社会的な一大教化運動となっていくのである。そしてこの教宣活動で最も大きく貢献したのが手島堵庵であった。
 梅岩の「性」を庶民にもわかりやすいように「本心」と言いかえたのも、前述のように彼であった。また、これまで述べてきたような形で到達しうる、一種の心的転回を「発明」と言った。
 これが広がったのは、はじめは関西が中心であったが、安永九年(一七八〇年)、中沢道二が日本橋通塩町に参前舎を興してからは急速に江戸に広まり、彼の弟子によって新設された心学黌舎(こうしゃ)は二十一舎にも及んだという。また、彼は、九州を除き二十七力国を遊説してこれを広めた。
 そのころになると、石門心学はたんに「町人の学」でなく、武家社会にも広まった。これは梅岩自身が、自分の考え方を士農工商を通ずる普遍的な考え方としていたから、不思議ではないが、武士の社会にも一種の「町人的合理性」が求められていたことは否定できないであろう。
 そして、後には、京都所司代松平伊豆守や、大坂町奉行久世伊勢守といった直接の支配階級まで、その講義を聞こうとするようになる。またその領民教化のため、その教師を招聘した藩も決して少なくなかった。
 ただ、この間、前に記した松翁や鎌田柳泌のような方向への発展はあっても、心学そのものの新たな展開はなかったと見るべきである。したがって、梅岩から一歩も出なかったとも言えるが、その梅岩の発想に全くないものといえば、それは政治的責任の問題である。
 町人はすでに、日本国はその内実は町人の所領なり、と言われるほどの力をもちながらも、政治はあくまでも武士の分担であった。そして、これは社会の秩序を保ってくれるのだから、あくまでも四民の一番上に立つもので、町人はこれを立てるべきだという発想から、一歩も出なかったのである。
 言うまでもなく「平和は町人の味方」である。梅岩も「戦争否定、戦乱否定」では徹底していたが、しかし、それを武士の責任として自らは負わず、その武士が平和を確保してくれている社会の中で、商人としての職務を行なっていればよいのであった。
 これは、西欧の商人が、自らの手で参事会を形成して都市の政治を自ら担ったのとは、違う行き方である。したがって梅岩のような発想からは、市民革命は出てこなくて当然であっただろう。
 したがって、徳川時代には、「体制の変革」を目ざすという積極的な発想は、町人の中から出てこなかった。これは、正三のように、これから新たに秩序を立てようという時代に生きた人間の発想としては当然だが、それが固定して日々の業務が宗教的意義をもち、それがそのまま一種の生きがいとなり、同時にそれは機能集団での合理的行為が共同体への奉仕に転化するという形になれば、全宗教的情熱の日々の業務への投入となる。こうなれば社会を固定させて当然である。
 いわば、社会は動かないものという前提に立って、その中でいかに生きていくべきかを考えることが、梅岩の思想でも根底をなしており、それが広く広まれば、社会はますます固定しても不思議ではない。そして、そのような中で、町家という機能集団が、そのまま共同体に転化すれば、それに対応している精神もまた石門心学のような考え方を求めて当然であったろう。これが梅岩の思想が広く受け入れられていった理由だと思われる。
 と同時に、現代の日本は、国際的にはまさに梅岩のような発想をしていることも否定できないし、それが完全に国民の支持を受けていることも事実なのである。
 地球は、かつての鎖国内日本人のように、狭くなった。そして、この中の秩序の安定による市場の確保こそ、町人日本が最も欲する状態である。だが、その責任は自ら負おうとはせず、それをあるときはアメリカに、あるときは国連にと委託しても、自らは絶対にそれに触れず、ぞの責任を負って、自らの手でそれを確保していこうとはしていないわけである。これは梅岩の発想の国際版と言うべきであろう。 
     
 日本では、正三や梅岩によって資本主義成立の基本的条件である「労働即仏行」とする考え方が生まれ、能力主義、自由競争の商業が発達した。そこでは、「優勝劣敗」が当然で、この競争に打ち勝つためには、商店は機能集団であると同時に運命共同体であることが要請された。その結果、支配階級は依然として武士だが、その「内実は商家の所領なり」という状態が生まれた。しかし、武士に代わって商人が政権を担うという動きは生まれてこなかった。
 西欧社会の場合は、「市民革命」という概念があるように、資本主義の成立を前提として、経済力を持ったブルジョワジーが誕生し、労働力の移動、流通の自由や私的所有などを求めて、封建的・絶対主義的制約の撤廃を要求するようになり、そうしたブルジョアジーの経済力に支えられた自律的行動が、「市民革命」と呼ばれる政治体制の変革をもたらしたとされる。
 では、この両者の違いはどこにあるかというと、神あるいは仏による秩序が理神論的に理解されたという点は同じだが、日本の場合は、その秩序が「仏心」として内在論的に理解されたのに対し、西欧の場合は、信仰そのものが、「神との契約」という上下契約で理解されたところに、その根本的な違いがあるように思う。
 その結果、西欧の場合は、理性による神の秩序の認識が、自然秩序の科学的研究に結びつき、それが宗教と科学の分離を促し、自然科学や社会科学の発展をもたらした。これが政治思想にも反映し社会契約説が流行した。こうした「理性の普遍性や不変性は人間の平等の根拠とされ、平等主義の主張となって現れた。一般的に性善説的傾向が強く、この時代の自然法はほぼ理性法と同義である」(wiki)とされる。
 しかし、こうした「理性万能主義」は、自然科学や社会科学分野においては、方法論としては有効であるとしても、宗教的・道徳的分野においては自己絶対化や政治的独裁を生みやすい。こう考えれば、日本人の課題としては、科学的な思考力を身につけることは当然として、正三の「仏心」や梅岩の「自性」の存在を、しっかり自己反省の鑑とすることが求められていると思う。
日本資本主義の美点と欠点――売りものの「信念」を捨て、経済的合理性の追求へ
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p149~151
 町人にとっては「資本の論理」は当然であり、その上に「資本主義の倫理」の樹立が要請され、これに対応したのが梅岩なら、武士には「武士の倫理」のまま、改めて、「資本の論理」が要請され、武士の立場からこれに対応したのが、鷹山のような名君、いわば典型的な名経営者大名だったといえる。
 そして、両者の発想の共通の祖を求めれば、そこには武士であった鈴木正三のような「宗教的労働論」があったであろう。したがって、この論理が、士農工商に共通するという梅岩の考え方には、明確な根拠がある。と同時に、正三の「四民日用」という職能論は極限まで進めれば明治の「四民平等」に通じるであろう。そこに要請される基本的倫理は、大名であれ、商人であれ同じであって、いわば「私欲なき経済的合理性の追求とそれに基づく労働」は「善」、そしてそれ自体価値をもつという発想である。この点では梅岩も鷹山も共通しており、日本はこの状態で明治を迎え、同時にこれによって戦後という最悪の状態を乗り切ったわけである。
 正三も梅岩も鷹山も、労働を尊しとし、生産活動を神聖な業務と考えた。その考え方は、最初に記した日本の中小企業が、ほぼ共通してもっていた発想である。ただ、徳川時代の生産は農業が主体であったから、農業が特に尊いとされ、これは後に問題を生ずるが、正三自体がすでに、製造業も商業も共に同じように尊いとしており、決して偏狭な農本主義者のように農業だけを尊しとしたのではない。
 また鷹山にも、付加価値の高い商品を目指し、同時に金融も利息も当然とする考え方があり、その行き方も農本主義とはいえない。だが、一方において、「商」への蔑視があり、それが現実には存在理由を失っている武士イデオロギーの信奉者には逆に狂信的に強く、当時の儒者にもそれがあったことはすでに述べた。これも徳川時代が生み出したタイプの一つである。
(中略)
 しかし、徳川時代には、いずれの立場に立つにせよ、両者ともに農業的労働を決して蔑視しなかった点では、共通している。鷹山は自分の愛馬で人糞を運ぶのを当然とし、竹俣当綱は刀を捨てて、鋤鍬を取って泥田に入ることを武士の誇りとした。この伝統は今でも残っている。
 長谷川町子さん原作で、NHKのドラマ「マー姉ちゃん」に、食糧不足時代に自家菜園のために馬糞をひろいに行く場面があった。ところがある日それがない。さらに早起きしてひろった者がいるのである。そこで一種の早起き競争になり、ノイローゼになりそうになる。
 これを見てつくづく面白いと思ったのが、明治九年一月十四日の読売新聞の「糞盗人」という記事である。
 マア何といふ事で有ましゃう、馬喰町四丁目の旧郡代やしき跡の二十四番地丈は、今月四日に一軒残らず下糞を盗まれました。掃除をして呉(くれ)たのはよいが、糞いまくしい奴だと、差配人さんは気を揉ましたらう。
 これは確かに泥棒ではあろうが、新聞はむしろこの泥棒に同情的であり、ある種のユーモアをこめてこの奇妙な盗難事件を記している。
 町子さんの話は三十数年前、糞泥棒の話はちょうど一世紀前である。一方は「ひろい」、一方は「盗み」であり、厳密にいえば確かに同じとはいえないが、共に一種の「無断掃除」であり、その対象がそれをしてもなお入手すべき価値があったことを示している。考えてみれば共に大変な時代である。糞盗人は、見つかれば、盗んだことは恥としたであろうが、それを手に入れること自体は恥としなかったであろう。
 そして、戦時中に町子さんと同じような体験をした人は多いが、それを少しも恥とせず、むしろ、その時代にそれによって堂々と生きてきたことを誇りとするであろう。
 それは日本では当然である。だが、インドでこのことがテレビで放映されたら、どうなるであろう。それは全く違った反応を引き起し、その人は一瞬にして社会から蔑視されてしまう。ある支店長夫人が、使用人の雑巾のかけ方がひどすぎるので、模範を示したところ、次の瞬間、全使用人が、模範を示されたその当人をも含めて、この支店長夫人は「日本で下層の人」に相違ないと見て、その指示に一切従わなくなったという。こういう社会が、日本のような資本主義社会を形成しなくても不思議ではない。インドでは、鷹山のような行為は正気の沙汰ではない。そんなことをすれば、領民のすべてから軽蔑されてしまうだけなのである。 
     
 徳川時代とは、武士自体が「資本の論理」に基づいて、自己を「藩株式会社」の経営者、もしくは経済官僚と規定せざるをえない時代であった。その意味では、武士の町人化である。
 だが、しかし、この町人化には厳しい原則があった。すなわち、資本のみが利潤を生むことを認め、「資本の論理」どおりに運用はしても、それはあくまでも藩のためであって、絶対に自己の利潤の追求であってはならないという原則である。
 これは、貪欲を禁じ、すべてを修業のごとく考えた鈴木正三・石田梅岩などの発想にっうずるものだが、同時に藩の政策の原則ともなった。
 いわば、機能集団としての藩は「資本の論理」で動くけれども、その目的はあくまで藩という共同体の存立のためでなければならない。これは機能集団と共同体が一体化している場合は、藩であれ会社であれ、要請されて当然の原則なのである。
 さて、徳川時代のお家騒動には、さまざまな面があるが、それを大きく分ければ次の二つになるであろう。まず一つが、・・・「武士の論理派」と、町人型の「資本の論理派」との対立であり、これは基本的対立である。
 第二は、資本の論理はいちおう認めても、その利益を何らかの形で自己の利益とした者と、その利益にあずかれなかった者との対立である。この場合の「利益」にはもちろん、破格の登用という利益もはいり、これが門閥家格では上でも実権はすでにない「藩の窓ぎわ族」との間の争いとなる。
 そして、「明君」といわれた人の統治方法を見ると、一方では「資本の論理」どおりに行いながら、自らは質素倹約、同時に大いに武芸も奨励して、それに参与できない人間にも存在理由を認めて、心理的満足をもたせるという方法をとっている。(p133)
 いわば、「資本の論理」を厳格に実施しつつも、本人は無私・無欲であらねばならぬという倫理である。これはおそらく、かってピューリタンがもっていた倫理と共に、人類史においてきわめてユニークなものであろう。(p148)
わか国の伝統「飢えの瀬戸際政策」
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p151~153
 明治のはじめであれ、戦中戦後であれ、大部分の日本人は、糞盗人が出現するような最低の状態におかれた。日本はそうじて生活水準が高かったとはいえ、そういう一時期の水準を考えれば、それは決して、現在のアジアの国々より生活水準が高かったとはいえまい。
 命がけの状態におかれたのは、何も庶民だけではなかった。当時の政府もまさに、鷹山が上杉家を相続したとき以上の、破産状態なのである。実際、できたばかりの明治政府なるものの財政を見ると、これがはたして「政府」といえるものなのか、悪くいえば、富商へのたかりでかろうじて生きている総会屋のようなものではなかったか、という気がしてくる。
 また、第二次大戦直後もものすごい。これもまさに、政府・国民ともに破産状態である。なにしろ終戦時の八月の日本の鉱工業生産は、戦前の昭和九年から十一年ごろの十分の一であり、農業生産は六〇%、さらに、京都、奈良、弘前等を除く全国百十九都市は戦災で焼失し、人びとは生活上のストックを全部失っているに等しい。そこへ海外から七百万人の引揚者が裸で帰ってきている。一千万人の餓死説が出ても不思議ではない。
 以前韓国で、日本の陸軍出身の韓国軍人という珍しい位置にあった李鍾賛氏と話したとき、氏はつくづく次のように言われた。
 「朝鮮戦争後の韓国もすごかったが、あのときの日本人もすごかった。ああいった状態からどうやって立ち直ったか、どんなすばらしいコンピューターもこの謎は解けないでしょうな」と。  明治のはじめもこれに似ているが、それは必ずしも昭和の敗戦と同じではない。明治は経営のノウハウはもっていたが、新しい技術がなかった。戦後は、明治以来蓄積した技術はもっていたが、戦争と戦災で資本と設備のすべてを失っていた。ただ両者に共通していた点は、自己を遅れたものと規定し、しゃにむに欧米の新技術、新学問、新方式を採り入れようとした点である。これは、それさえすれば他はすでに持っている、という無言の前提があり、そのためには、一時的にどんな苦痛を国民に強いてもそれを実行すべきだという、一種の「飢えの瀬戸際政策」ともいうべきことを実施した点、同時に実施しえた点である。
 この状態は明治六年の、井上・渋沢建議によく表われている。次に引用しよう。

 苟(いやしく)も政理上のみを主とせん乎、人々愛国の情を存すれば、誰か敢て文明の政治、欧米諸国の如くなるを企望せざる者あらんや。是を以て現今在官の士、足未だ其地を踏まず、目未だ其事を見ず、僅(わずか)に之を訳書に窺(うかが)ひ、之を写真に閲(けみ)するも、亦且つ奮然興起して、之と相抗せんとす。況や此年海外に客遊する者に於てをや。
 其帰るに及んでは、或は英を以て優れりとし、或は仏を以て勝れたりとし、蘭や米や孛(プロシア)や、墺(オーストラリア)や、皆其長ずる所を以て、我に比較し、街衢(がいく)、貨幣、開拓、交易に論なく、兵に、学に、議に、律に、蒸気・電信に、衣服・器械に、凡そ以て我が文明を資(たす)くべき者、繊毫遺さず細大漏さず、以て我具備を求めざるなきに至らん。是固より人情の止むを得ざる処にして、未だ以て非となす可らずと雖も、徒に其形のみを主として、其実を重んぜずんば、政治遂に人民に背馳し、体制益(ますます)美にして、人民益疲れ、民度愈(いよいよ)張て、国力愈減じ、功未だ成に至らずして、国既に貧弱に陥り、善者ありと雖も、其後を善する能はざらんとす。……

 この批判の中に、明治のはじめの日本人の焦燥感がよく表われている。いわば「徳川三百年の停滞」で欧米に遅れてしまった、何としてもこの遅れを取り戻さねばならず、そのため、いかなる犠牲を払ってもその制度、文物、技術を導入しなければならない、という発想である。
 だが国民自体は、糞盗人が出る状態なのである。一方において、何としても追いつけという欲求があり、同時にそんなことをすれば、疲労し切った国民はさらに疲弊し、成果があがる前に、国自体が破産してしまうという現実がある。
 そしてこれは、傾斜生産を行なった戦争直後の日本と、この点ではきわめてよく似た状態であったといわねばなるまい。 
     
事実を事実のままに見ることかできれば、問題は解決する
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p154~156
 確かに現実はそうであっただろう。だが、「僅(わずか)に之を訳書に窺ひ、之を写真に閲する」という状態で見た欧米と、その現実がそのまま目に見える日本との対比が、はたして正確であったであろうか。
 徳川三百年は本当に停滞であったであろうか。欧米に比べて日本は、本当にそんなに遅れていたであろうか。冷静に見れば、徳川時代は少しも停滞していない。否、むしろ進歩発展しているのである。
 もちろん、その方向は欧米と同じではない。だが、教育水準ひとつを例にとっても、当時の日本は少しも欧米に劣ってはいない。また、正三、梅岩、布施松翁、鎌田柳&といった町人思想の系譜を見ても、思想的にも停滞とはいえない。さらに、心学黌舎は、身分、男女による差別なき聴講自由で、男席と女席は区切っているとはいえ、すでに、男女共学である。さらに経済的合理性を当然とし、同時にその合理性追求における倫理は確立し、その考え方が、藩主から町人、下級武士、郷士に至るまで浸透している。
 確かに技術格差はあったが、これまた機械さえ購入すれば、明日からでもこれを生産に活用し得る優秀な労働力があり、労働を仏行と考えても、これを少しも賤業と考えていない国民がいる。また合理的経営を当然とする町人がおり、一方、一藩の政治さえ経済的合理性に立脚しない限り不可能だということを、身をもって示した明君の伝統もある。
 だが、「革命」はしばしばそれ以前を全く否定するという態度をとる。明治政府も当然に、「明治の夜明け」「徳川時代は闇」と規定し、何かあれば、「すべて徳川幕府が悪かったのだ」という形で自己を正当化する。それはしばしば誤った自己規定を生んだ。
 そのひとつが、日本は模倣の民で、試行も探究もしないという見方であり、これは徳川時代を停滞の時代とするのと同様の誤りである。
 徳川時代こそ、まことに苦しい試行と模索の時代であった。そしてその中で、巧みな経営で、「富藩強兵」を実現しえた藩が、明治の政権を担当した。したがって、政策はすでに藩というパイロット・プラントで行なっており、これを全国的な規模に広げて、富国政策に転ずればそれで十分なのである。
 そのうえ、これを担当した薩長二藩は敗戦経験藩である。薩英戦争と馬関戦争で、この両者はヨーロッパ人の実力を知り、敗戦という冷厳な事実を経験している。イギリス艦隊の砲撃で鹿児島は、B29にやられた東京のように焼かれ、馬関戦争では敵が上陸して進駐している。その意味ではこれまた敗戦後の戦後政府なのである。
 したがって、その状態は、技術の一時的遅れで危機に瀕した企業が、さらにそのうえ戦災を受けたような状態であり、新しい高能率の機械を導入し、それに対応しうるよう機構を改革すれば、即座に業績が回復できるといった状態であった。
 したがって明治を奇跡とは考ええないし、同じような意味で戦後の復興をも奇跡とは考ええない。明治の日本人が「飢えの瀬戸際政策」でこれを乗り越えたように、戦後の日本人も、非常に苦しい状態の中で、傾斜生産でこれを乗り越えていく。
 だが、実際にはこれは大変なことである。戦争で崩壊した日本を復興させるには、まず原材料を生産しなければならない。そのためには、当時の唯一のエネルギー源である石炭を増産しなければならない。これは自明のこと、しかし当時の出炭量は二千三百万トン。戦前の石炭は工業用六割、工業用以外の鉄道・船舶・民生用が四割だが、この四割は需要に弾力性がないから、生産量が減ればこの比率が高くなる。二千三百万トンでは工業用には九百四十万トンしかまわらず、これでは復興に不可欠な原材料の生産が不可能になる。そこで生産量を三千万トンにあげることが最低の必須条件となる。これを実現するには鋼材がいる。しかし、昭和二十年の鋼材生産量はわずか五十五万トン、これは戦前の昭和九~十年の十分の一以下で、ゼロに等しい。
 ではなぜこの大減産となったのか、理由は石炭不足なのである。いわば石炭不足が鉄鋼不足を生み、鉄鋼不足が石炭不足を生むという悪循環であり、これを打ち切るには、石炭を鉄鋼に投入し、その鉄鋼を石炭に投入するという以外にない。
 となると、これが軌道に乗る間は、国民はすべて、極言すれば、無エネルギー・無原料状態になる。いわばこれもまた「飢えの瀬戸際政策」である。
 これを実施しない限り、どうにもならない。そしてどうにもならぬという事実は、厳然と存在する。しかし、人が事実を事実のままに見ることがいかにむずかしいかは、鷹山のところですでに記した。事実を事実のまま見ることができれば、問題の大半は解決したに等しい。そして、明治にも戦後にも、この行き方には常に強力な反対があり、絶えず騒乱があったとはいえ、だいたいにおいて、国民の大部分は事実を事実として見ていたと言える。
 もちろん虚構を掲げる煽動家は、いずれの時代にもおり、それが一時的には人を動かすが、経済的合理性の無視がどのような結果を生じたかは、ある意味では全日本人が戦時中にこれを学んでいた。同じように徳川時代にもこれを学んでいたわけである。
 
     
倒産は経営者の責任というのは健全な発想
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p156~159
 これは、こういう苦しい時代にも、経済的合理性を無視して倒産した者を、国民が決して犠牲者と見ず、自業自得と見、同時に、経済的合理性でこれを切り抜けた者を立派と評価している点にも表われている。戦後でも、明治初年でも大変動期には多くの倒産があって不思議ではない。問題はそれへの評価なのである。ここで明治七年の小野組と三井組に関する新聞記事を対比してみよう。
 小野組といっても今では知る人もいないであろうが、当時は三井と並び称された日本一の豪商の一つである。明治七年十一月二十三日の東京日日新聞の記事から、その情況と当時のマスコミの反応を探ってみよう。  世に名高き小野組は、当十一月二十日に戸を鎖(とざし)たり。そも此小野組は小野善助を総本家とし小野一家の組立たる所にて、御一新の初より三ッ井組と共に朝廷に対し会計向の御用を勤め、日本国中に於て三井小野と並らび称せられ、世上より見る時は万代不易とも云ふべき程の豪家なるが、今日に至りて俄(にわか)に戸を鎖したるは実に我輩の思ひ掛けざる所なれば、大に怪しみ驚かざるを得ざるなり。
 という形で、この記事ははじまる。だが、その文章を追って行くと、経済的合理性に基づかぬものはすべて倒産して当然という論旨になって行くのである。

 小野組の戸を閉めたるは思ひ寄らざる事と驚きたれども、熟考すれば誠に当然の事にて吾輩は能くも今日まで持ち堪へたりと怪しむべし。如何となれば、是まで日本の豪家は大抵其主たる人々才もなく能もなく、只先祖以来の財宝を伝へ受け、番頭手代任せにて其家政を釐(おさ)む、故に名は町人と雖ども実は大名も同様なり。其大名も廃藩立県より元の大名に非ざれば、町人とても争(いか)でか其の実力なくして数百万の素封を擁し永く長者物持の栄名を為すべき理あらんや。能々考へて見よ、東京大坂其外日本国中の豪家にて、戸を鎖し分散に及びたる大家は、此の四五年以来何千百人ぞや。而して其来歴は皆当主たる人々其才能に乏しく、全権を委ねたる番頭等が時勢に暗くして方向を謬まりたるに依らざるはなし、情を以て論ずれば気の毒なれども、理を以て論ずれば又尤の次第なり。

 ある意味で当時の倒産は、明治維新という情勢の大変化に即応できなかった犠牲者であったともいえる。しかし倒産はあくまでも経営者の責任であって政府の責任ではない。この点では、あらゆることを政府の責任といいたがる新聞も、倒産に対してだけは今もなお、これを経営者の責任としている。
 この点に関する限りは明治以来一貫しており、健全と言いうるであろう。それはある意味では、日本人のもつ健全性の一つであり、経済性を無視した者は倒産するのが当然とするのは、徳川時代以来ほぼ一貫した日本人の基本的発想の一つである。
 と当時に、機能集団としてそれを合理的に経営しつつ、共同体としてその利益を社員に分配する企業への評価はきわめて高い。同年五月十五日の郵便報知に、「豪商三井組利益金を店員に配当・一等は一万五千円」という次のような記事がある。
 「豪商三井組は維新以来王事に尽力し、勲功の大なるは天下一般人民の能く知る処にて、戊辰の際より本年迄、諸省各県の用度を勉務し、近頃若干金の利益を得たり、依て本月其金を有名の三野村氏を始めとして、同家に仕ふる者、一等より十三等迄の人員に賦与す、上一等は一万五千円余、下十二等に至ても五百円を下らずと、是れ畢竟比年公益を謀て、更に私利を顧みず、却て利益ある果して大商の能く致す所にして、且家政宜しきを得て、人々の協力によると、或人は語れり」と。
 事実がはたしてこの通りであったか否かはしばらく措く。しかし、この文脈で追う限り、「私利を顧みず」、結果において利潤を得、それが「家政=経営」が合理的であるがゆえであり、同時にそれを三井組という共同体に分配したということに対する高い評価である。これを小野組への評価と対比してみると大変に面白い。そしてこの批評の基準となっている経済倫理は、まさに徳川時代の正三・梅岩の倫理であり、その基準は明治になってもそのまま生きていたことを示している。
 日本人は「資本の論理」は否定せず、経済的合理性なきものは評価しない。したがってそれが確実に未来への発展を見通した経済的合理性をもつと納得すれば「飢えの瀬戸際政策」さえ行えるのである。
 したがって私は、オイルーショックや石油不足は、別に恐るべき問題ではない、と考えている。われわれはもっと大きな危機を通り抜けてきた。そして、恐るべき点があるとすれば、以上の伝統を失うことである。
 もちろん、前述の会田雄次氏の言われた「信念の人」も常に存在する。そしてこれもまた伝統であり、それによって一種のお家騒動的状態を現出するのは、常に、徳川時代以来の「資本主義の倫理」に違反した場合なのである。
 この点では、明治であれ、戦後であれ、「論理」は立派でも「倫理」という点から見れば、それは必ずしも立派とはいえない。それを象徴するものが「疑獄事件」の頻発である。前記の記事に見られるように、経済的合理性と経営力という点からの厳しい評価と同時に、この倫理的基準に違反した場合にも、同じように厳しい評価をしている。そしてこの点において日本人が峻厳であることを、為政者も経営者も常に銘記すべきであろう。というのが、この非倫理性への糾弾が、ときには基本的政策をさえ曲げることもありうるからであり、この場合の責任は確かに政府と経営者にあるといえるからである。 
     
経済的合理性のあまりに早い追求か裏目に出る
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p159~160
 非倫理性への糾弾はもちろん当然であり、これを失えば日本の資本主義は崩壊する。しかしこれとは別の、経済的合理性の余りにも早急な追求が、逆に、将来への投資を否定するという面が出てくることも否定できない。この二つははっきり分けて評価すべきで、この種の批判・糾弾は後になって振り返れば、むしろ批判する者の誤りと見られる点が多いのである。
 たとえば、同じ明治七年五月十二日の日新真事誌の「日本の無定見」という記事があるが、その典型的な一例であろう。次に引用しよう(原文のカタカナをひらがなに改めた)。

 横浜新聞に日く、日本にては無用の費を散じ四年の歳月を尽して鉄路を作れり。其長さ少かに英国里数の二十五里に過ぎずして、其工も亦見るに足らざるなり。其他電線の架する者あれど、其工拙(つた)なきを以て、輙(ちょう)すれば切断し、常に之を修繕せざる無き能はず。然るに或は之を過称し、頗る吾人をして日本政府を信ぜざるに至らしむ、又何の妄なるや。……支那に至りては、大に日本と異なり、……日本官人の如く、奇を追ひ、新を好み、独り朝令暮改、民をして其向ふ所を失はざらしむるのみならず、其国力を計らず、妄りに大業を企て、民人を駆って水火の中に投ずる如きは、稍(や)や少なしとす。此れ支那の商業日に盛んなるを致し、日本日に衰敗に赴くが如く、更に進む能はざる所以なり。嗚呼何ぞ日本独り過るの甚しきや。……

 この種の批評もまた常に出てくるのである。いわば、ある点では、文化大革命への高い評価と、経済成長政策への否定的評価の時代の新聞、また原発導入反対や、新技術の導入が必ずしもすぐ機能しないことへの批判などと共通する面があるであろう。
 以上の点を見てくれば、われわれの伝統がもつ美点と欠点も、それは決して明治や戦後に急に生れたものではなく、徳川時代以来の長い伝統の所産であることがわかる。したがって、われわれに必要なことは、その再把握とそれへの評価と、それに基づく将来への対策のはずである。 
     
日本資本主義の伝統を失わないために
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p160~162
省資源時代のエースも、また日本である
 今までいろいろなことを記してきた。しかし本書はいわゆる”学術書”ではないし、私自身、中小企業主であっても、梅岩の言う「文字芸者」ではないから、役立たずの空理空論を、荘重な言葉で飾って公刊する気は毛頭ない。
 また私自身、日本の伝統に生きる人間だから、呼吸させられているという宇宙の継続的秩序に従うことが「善」であっても、何らかのイデオロギーに奉仕して、何百人という同胞の「息の根」を止めたり、ボート・ピープルとしてその大部分を水の中で窒息させることを「善」と考えたことは一度もない。
 したがって、日本民族が平和に呼吸し、各会社が平和に存続し、各人が平和に生活できることが当然に「善」と考えている。ということは、本書がその点で、何らかの役に立ってくれない限り、その存在理由もなく、また読む価値もないということである。
 そして、その民族の社会構造がその精神構造に対応して機能している限り、各人にとって価値があるならば、その人の勤める会社にとっても、日本民族にとっても、価値があるはずである。もちろん、この考え方への批判はあるであろう。だがそれは、「事実」によって答えればよい。
 では、そうするためには、どのようにすればよいのか。ここでもう一度、本書で記してきたことを要約してみよう。
 徳川時代にすでに、経済的合理性なきものは存立しえないことは、多くの人にとって公理であった。
 いわば「資本の論理」を無視すれば、個人も商人も、藩も成立しないのである。
 したがって、合理性の追求は「善」であった。梅岩にとっては、消費者のために徹底的な合理化を行うのが「正直」であり、鷹山にとっても竹俣当綱にとっても、藩の経済的合理性を確立するためには、愛馬に人糞を積み、家老が鍬を握って泥田に入ることが「善」であった。ただしそれは、自己の利益追求すなわち「私欲」のためでなく、一に藩という共同体のためであらねばならなかった。同じように、梅岩も私欲を禁じた。彼にとって、「商」という行為自体が、社会に奉仕し、かつ、それを行いうる商家という共同体を確立し、それに属する人びとの生活を保障するための行為であった。
 この原則は、藩という共同体を維持するためには、これが資本の論理に基づく機能集団に転じねばならぬという発想であり、同時に、商家という機能集団は、それが機能するためには、共同体と化されねばならないという考え方であった。
 そして、この原則は明治にも、戦後にも生かされ、それが日本の「奇跡」といわれる発展を招来した。
 同時に、各人の精神構造もこれに対応して機能しなければならない。「農業即仏行」であり、すべての事業は「皆仏行」であって、それ自体を行うことに、「生きがい」すなわち宗教的な精神的充足を求めねばならない。その意味では、賤業といえるものはない。
 いざとなれば、武士が鍬を握るのも、馬糞をひろうのも、立派な行為である。そして、これが組織となるとき、機能集団の一員として機能することが、そのままそれと裏腹の関係にある共同体への奉仕という形で、精神的充足がえられるという関係になる。
 このことは、当然に「企業神的な対象」、ないしはその種の「目標」、またはその体現者のような教祖的人物が、この共同体の中心になりうるということである。またその集団は共同体であるから、当然に終身雇用であり、何らかの形の年功序列制であっても、雇用は契約にはよらないわけである。
 以上が大変にうまく機能してきたことは否定できない。と当時に、自制と、その表われである倹約が、秩序の基本であり、この倹約は社会的な義務で、今でいえば省資源という発想をしたことは、今後の日本にもプラスするであろう。長谷川慶太郎氏が、石油がバレル四十ドルとなっても、日本は発展するであろうと言われたが、私もそう思う。
 徳川時代には、資源が限定されていることが各人にとって自明であり、特に藩というせまい世界では、これがすべての人に明らかであった。と同時に、この倹約が個人の倫理としても確立していた。奢侈は罪悪であり、秩序の破壊であった。 
     
日本は、常に、倒産が必要な社会である
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p162~164
 だが、プラスに作用する点が、まさにマイナスに作用する点であることも、また否定できない。これは国家にも言えるし、企業にも言えるし、個人にも言える。以下にそれぞれの例をあげてみよう。
 機能集団が同時に共同体であるという状態は、一歩誤ればそれが、共同体を維持するためにのみ機能するということである。かつての軍部、いまの赤字の3K(米、健保、国鉄)、みなこの顕著な一例である。
 軍とは、元来は国民の生命財産を守るために機能する組織である。しかしこれが「軍部」という形で共同体になると、この共同体を維持するために逆に国民の生命財産を勝手に使うという形になる。これが日本を破滅に追い込んだ。  だが、この苦しい経験は、必ずしも生かされていない。前に記したように、国鉄は輸送のために存在する機能集団でありながら、国鉄一家という共同体を維持するために機能し、それによって生じた赤字は、納税者に負担させるという形で国民に転嫁して、平然としているのである。
 ノーキョー共同体も同じである。農業は、いうまでもなく国民に農産物を提供するために機能しており、梅岩のような考え方をすれば、完全に合理化して、少しでも安く提供するのが「正直」であり、「善」のはずである。しかし、現実には、国際価格の何倍という形で政府に売り渡し、その赤字は、やはり納税者に転嫁している。
 いずれの場合も、共同体維持の原則が先に立って、何のために機能しているかが従になっているわけで、これが日本の、機能集団=共同体という状態が生みだす、最大の問題点である。
 これの克服には、簡単に言えば、「資本の論理」の徹底と、それを無視した倒産への「小野組への評価」のような、一種、冷酷とも言える評価が必要であろう。小野組は、明治維新の樹立に大きな功績はあった。しかし、経済の原則を無視するなら、その倒産は当然としなければ、この機能集団=共同体という体制のプラスの面が、そのままマイナスに出てくるのである。
 したがって、日本では、政府を通じての、納税者の過保護の強要ほど、あらゆる面で悪しき結果を招来する状態はない。日本は、常に倒産が必要な社会なのである。そして、このことと、それに従事していた者への生活の保障は、はっきりと分けて考えるべき問題である。
 以上が国家もしくは国民経済における問題点なら、企業自体も同じ問題を抱えていることを自覚せねばなるまい。 
     
「あたりまえ」の実行を阻害する「民主主義」という権威
「山本七平ライブラリー『日本資本主義の精神』」p168
 最初に記したように、一個人の美点は裏を返せば欠点であり、長所はそのままに短所である。したがって、それをいかにしてプラスの方向に生かすかは、常に、厳格な自己把握が前提となる。これは、個人にとっても、企業にとっても、民族にとっても同じである。
 と同時に、その自己把握に基づく発展の原則は、常に、きわめて簡単である。だが、原則を実行に移すことは容易ではない。この点では、文字どおりコ言うは易く、行うは難し」である。
 鷹山が実行したことは、簡単にいえば「あたりまえ」のことである。だが、この「あたりまえ」のことを実行するには、「明君」が必要であった。梅岩の言ったことも「あたりまえ」であろう。
 しかし、その倹約を実行に移させれば、多くの抵抗があり、そしてその抵抗は、常に、その時代の「権威」とされる言葉によって行われた。いわば「聖人の教え」であり、「武士の道」であり、戦後ならば、「民主主義」であろう。
 そして、それを克服しえた人は、常に、日本の伝統、すなわち、その社会構造とそれに対応している各人の精神構造を正確に把握して、それに即して実施していくという方法論を身にっけていた。すなわち、それが、日本資本主義の倫理である。この論理と倫理は基礎が同じであるから、その倫理を失った者には指導力がない。
 したがって、現在、われわれに要請されているものは、同じように、その把握に基づく自己管理であり、同時にそれは、一企業の経営の方法論であり、さらにそれは、一国の経営の基本なのである。
 本書は、その基本となるべき、日本の伝統に基づく資本主義の精神の再把握と、それに基づく将来への対応のための一提案である。
 
     

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