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山本七平語録

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論語

論題 引用文 コメント
民主主義のもとでは外から「私立」が犯されることはないが、内から腐る
山本七平ライブラリー『論語の読み方』「まえがき」p19
 戦後は民主主義の時代であり、その原則の一つが「思想・信条・表現・出版の自由」であることはいうまでもない。この言葉は、政府は各人のもつ思想や信条に一切干渉してはならないということであり、政府が、戦前の「教育勅語」のように、一定の道徳ないしは徳目を国民に強制することがないということ、言い換えれば、政府が法律をもって拘束するのは、その人間の外に現われた行為だけであって、内面には一切干渉しないということである。
  本書にも述べてあるが、たとえば両親を金属バットで撲殺したような場合、法が干渉するのはその事件が起ってしまった後、さらに発覚した後であって、事前にその行為にストップをかけることはできない。この点では法は無力であり、それにストップをかけうるのは本人の内的規範だけだが、政府はそれには一切タッチしない。われわれが生きているのはそれを原則とする社会だから、各人には強固で自律的な内的規範が要請される。それがなくなれば社会は完全に無規範となって崩壊してしまう。
 これが本当の民主主義の危機であり、その点を早くから警告していたのが小林秀雄だった。氏は福沢諭吉の「私立」について論じたとき、民主主義のもとでは外から「私立」が侵されることはないが、内から腐る恐れのあることを指摘している。「私立」を外から侵された苦い経験が生ま生ましく残っていた戦争直後は、「私立」を外から侵しそうなものに対しては過敏なほど警戒的であったが、豊かな社会は内からこれを腐らせるという点には、無関心であった。現代はそのツケがまわってきた時代と言えるであろう。
  ここに、「なぜ今、『論語』か」という問題がある。この問題への解答は『論語』を読んでくださればよい。強固な内的規範の確立とはどのような教育によって確立されるかが、自ずから明らかになるであろう。

なぜ、戦後の「論語批判」は的外れか
山本七平ライブラリー『論語の読み方』p24
 終戦後「ホーケン的」なるものと、自称民主主義者が最も強い拒否反応を示した言葉は「女子と小人とは養いがたし」と「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」であり、この二つは『論語』からの――まことに不正確ではあるが――引用だからである。
 さらに「男女七歳にして席を同じゅうせず」――これは『論語』でなく『礼記』の記述だが――は女性差別で、これらの「ホーケン的差別」を打破して男女共学にするのが民主主義だ、と言われたこともあった。
 この場合の恣意的引用ははじめから意味をなさず、「論語批判」になっているわけではないが、それでもこれだけで「論語なんてものは……」ということになり、だれも見向きもしようとしない時代が来て不思議でなかった。この時代は明治とは別の形の、一種表面的な断絶があったといえる。

 「子曰く、ただ女子と小人とは養いがたしとなす。これを近づくれば則ち不孫なり。これを遠ざくれば則ち怨むと」(陽貨第十七459)
 俗解は、これを俗にいう「おんな・子ども」と受けとり、「おんな・子どもは黙ってろ」と受けとったのかもしれぬ。だが、ここで注意しなければならぬことは、『論語』は「男子一般」「女子一般」という見方がなく、ここも「女子と小人」なのである。
 立派な男子は「君子」であり、立派な女性は「淑女」(『詩経』)であって、さらに『詩経』には「淑人(女?)君子は、その儀一つなり」と記されている。したがってそのままに解すれば、「(君子と淑女は別だが)唯だ、淑女でない女性と君子でない男性は、どうも扱いにくい。近づけて愛すると図に乗るし、遠ざけてうとんずると怨みに思う」という意味になり、ごく当りまえのことを、当りまえにいっているにすぎないのである。なぜこれが非難の的となったか、私にはわからない。(p120)

 この「民主的」な言葉と、「ホーケン的」と排撃された俗にいう「由らしむべし、知らしむべからず」とは実は関連を持っている。この言葉は「民には何も知らせてはならない、信頼させて黙ってついてこさせるべきだ」と解釈され、それを戦時中の日本になぞらえて批判されたわけだが、正しくは「子日く『民は之に由らしむべし。之を知らしむべからず』」(彰傑第八194)である。
 原文は「民可使由之。不可使知之」で、この「可、不可」は「できる、できない」の意味。したがって「民衆からは、その政治に対する信頼をかちうることはできるが、政治の内容を知らせることはむずかしい」という事実を、そのまま述べた言葉である。・・・というのは、複雑な国内的・国際的政治情勢の中で、「政府の政策の内容」をことごとく国民に知らせることも、また知らされたからといって、その全部を呼んでことごとく理解することも、現実に名「不可使知之」であろう(p26~27) 

 では一体、どのようにすれば、この「信」を得ることができるのか。前記のように、これは現代では「政治」だけの問題ではなく、企業であれ、個人であれ、「信なくば立たず」である。企業が消費者の「信」を失ったら立たないし、個人は社会の「信」を失ったら立たない。
 では現代なら、「知らしむ」ことで、「信」は獲得できるのか。できない。薬の使用注意書きさえ満足に読まず、保険の契約書の細かい字など見ようともしない人に、製品や証券の内容を完全に「知らしむ」ことさえできないのに、その複雑な組織や製造工程や成分のすべてを完全に「戸毎に暁(さと)す」ことなど、はじめから不可能である。これは個人とても同じである。
 そして政治・経済・個人の不信が極限までいけば、社会そのものが崩壊してしまう。社会そのものが信なくば立たずである。では一体、「信」とは何なのか。
 それは互いに同じ規範を持っているという信頼感であり、これを培ってきたのが伝統である。それが崩壊した社会は、現代では少しも珍しくないから、その恐ろしさはすでに多くの人が語っているし、私もそれを経験している。

「孔子は怪・力・乱・神を語らず世の乱れや人の道を糺す」ための基本を自国の伝統に求めた。
山本七平ライブラリー『論語の読み方』p36~38
 「孔子は奇怪なこと、力をたのむこと、世の乱れや人の道を乱すこと、神怪なことなどは、口にし、説明しない。常に当たりまえのことを説いた」これは諸橋轍次氏の注だが、この「当たりまえのこと」とは何なのか。簡単にいえば、それが『論語』の内容なのである。では、孔子はこの「当たりまえのこと」を新しく提唱したのか。決してそうではない。孔子はその基本を自国の伝統に求めた。
「子日く、私の目的は祖述するにあって、私個人の創作ではない。伝統の中に不変のもののあることを信じて疑わず、それを見出す。前代に老彭という人があって、そのようにした。私も自らを彼になぞらえてそのようにしている」
 「子日く、述べて作らず、信じて古を好む。窃かに我を老彭に比す」(述而第七149) また、「子日く、私は生れながらに知識をもっていたわけではない。古代の理想社会を慕い、こまめに知識を追求した結果なのだ」(宮崎市定訳)、「子曰く、我は生れながらにしてこれを知る者に非ず。古を好み、敏にして以てこれを求めし者なり」(述而第七167)や、「古典に習熟して、そのうえでそこに新しい意義を見出し、その新しい解釈のもとに、現実問題に適用できるようにして、はじめて人に教える師となることができる」「子曰く、故きを温ねて新しきを知れば、以て師と為るべし」(為政第二27)も、それを示す。
 これはひじょうにおもしろい言葉である。小林秀雄は、「伝統とは放置しても継続するものでなく、こちらが何もせずともそこにあるものでもなく、過去の中から救い出して獲得しなければならないものである」という趣旨のことを述べている。この観点で孔子を見ると、彼は一面では当時すでに古典であったものを救い出し、編集して「五経」とした編集者なのである。彼はこれを自らのものとし、それを基盤としている。
 おもしろいことにユダヤ人の学習法もまたこれと同じなのである。いわば、旧約聖書とタルムード(ユダヤ教のび僚に基づく法と生活規範)を徹底的に学び、それを基にしつつ、同時にその中にない新しいものを求めていき、それを余白に記す。こういう学び方は実に自然科学でも変らない。湯川博士は、自分の業績は過去の諸学者の業績の山頂に、また一つを積み上げたにすぎない旨述べられているが、これはすべてに通じて言えることであろう。そしてそれをやってみると、まさに「日の下に新しきものなし」(旧約聖書「伝道の書」)を思い知らされる。そこで、なにやら新しいことを言っているつもりの愚者にならないですむ。それを踏まえて孔子は、次のようにも言った。

 「思いて学ばざる」ことの悲劇
「子日く、新しい流行の真似をするのは、害になるばかりだ」
「子日く、異端を攻むるは、斯れ害あるのみ」(為政第二32)
 そしてこの句について、宮崎市定氏は、次のような解説を加えている。
「異端の異は、常態に対する異状の異、端は、根本に対する末端の端であろう。これを流行と訳したのは、根本の大きな道は永久不変であり、そこからはみ出たものが時と共に浮沈するというのが儒家の思想だからである」と。だが、これは儒家だけではない。ある意味では西欧も同じであり、彼らはその学問の基本を自己の伝統に求めても、他に求めようとはしていない。それが当然なのである。まして、その社会の規範となれば、伝統以外にどこに求められようか。
 伝統主義という言葉はしばしば伝統を絶対化し、その「訓詰」に専念して現実の社会を見ないという 意味にとられる。だがこの弊害は、実は最も。進歩的”とされているものにもある、ということはすべての学問にはこの弊に陥る危険があり、「マルクス訓詰学」まで存在するという。さらに、OECDの日本の社会学への批判を読むと、社会の現実に目をやらない「社会学訓詰学」もまた、日本には存在するらしいが、これらはいわゆる”伝統主義”の中にさえ入らない。
 だが、そういう訓詰学者と対比して孔子を見れば、孔子はまさに逆で、けっして「象牙の塔」にいた人でなく、自分の考え方を何とかして現実の社会に適用し、それによって現実に機能させようとし、そのための就職運動を当然と考えている人であった。その姿は、およそ「学窓」にたてこもって「訓詰」に専念し世間を知らない学者のそれではない。孔子が、「学ぶこと」と、この点とを、どのように考えていたかは、孔子の生涯と「子曰く、学びて思わざれ 『論語』とを考える次章にゆずるが、一言でいえば、それは、ば則ち岡し、思いて学ばざれば則ち殆し」(為政第二31) という、ひじょうに有名な一句に集約されるであろう。「学ぶだけで思索しなければ心がくらくても何も知り得ない。
 自分で考えるだけで学ばなければ落し穴に落ちる」の意味で、吉川幸次郎氏は「思索ばかりで本を読まない者はハッタリになる」といったような意味とされる。 

シャカやキリストのような”生誕伝説”のない孔子
山本七平ライブラリー『論語の読み方』p41~45
 「このような人間を、子路(孔子の弟子)は見たことがない。力千鈞の鼎を挙げる勇者を彼は見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意の各々から肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及無く均衡のとれた豊かさは、子路にとって正しく初めて見る所のものであった。闊達自在、いささかの道学者臭も無いのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑しいことに、子路の誇る武芸や膂力においてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。
 侠者子路はまずこの点で度胆を抜かれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、極めて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻らずにはいられない。とにかく。この人は何処へ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味からいっても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただ其処に孔子という人間が存在するというだけで十分なのだ。少くとも子路には、そう思えた。……」
 以上は、中島敦が『弟子』で描いた孔子である。おそらく孔子は、ここに描かれた像とあまり違わない人であったろう。この孔子は紀元前五五二年か五五一年に、中国のいまの山東省内の小都市国家「魯」の国に生れた。いわばソクラテスのように都市国家の出身であり、また同じように王朝国家へと移行する過渡期に生きた。出生伝説らしいものはなく、生れたときシャカのように「天上天下唯我独尊」と言ったとも、イエスのように、大工の子として馬屋で生れたとき、星に導かれて東方の三博士が貢物を持ってやってきたとも記されていない。
 姓は孔で名は丘だが、中国では通常「字」で人を呼び、その呼び名は「仲尼」であった。「仲」とは二男の意味だが、その兄はまったく知られていない。庶子説もあるが、中国は一夫多妻の国であるから、それが孔子の性格に特別な影響を及ぼしたとは考えにくい。中国や韓国では昔も今も、結婚しても妻の姓は変らない。したがって母親は顔徴在、幼くして父を失い、この母に育てられているが、若くして母も失ったという伝説もある。いずれにせよ、幼児時代の家庭は必ずしも恵まれたものではなかったらしい。
「われ、少(わか)くして賤(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり」
「われ試(もち)いられず。故に芸あり」(子罕第九212)
「子曰く、我は生まれながらにしてこれを知るものに非ず。古を好み、敏にして以てこれを求めし者なり」(述而第七167)
「われ十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順う 七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず」(為政第二20)
「子曰く、貧しくして怨むこと無きは難く、富み驕ること無きは易し」(憲問第十四344) 

『論語』はあらゆる教育の”バイブル”である
山本七平ライブラリー『論語の読み方』p41~45
 「論語」は、あらゆる教育の”聖書”である
 晩年の孔子は、いわば「孔子学園」の学長だから、『論語』を強いて分類すれば「教育書」に入れられるであろう。そこで、まず「教育」という面からこれを採りあげてみよう。そしてそのように見ると、『論語』は、まさに「子どもの教育」「学校教育」「社員教育」「部下の教育」等々の”聖書”だという気がしてくる。
 「人は教育によって善とも悪ともなるのであって、人間の種類に善・悪があるわけではない」  「子日く、教有りて類無し」(衛霊公第十五417)  これは、たいへんにおもしろい言葉で、「善玉・悪玉」とか「善人・悪人」という区別をしないという点では、新約聖書とある種の共通性を持っている。孔子はそれを一に教育によると考えた。だが、この「有教無類」とは、孔子が「人間とは能力・資質すべて無差別で平等だ」といったということではない。
 第一、顔回、子路、子貢といったさまざまの特徴のある弟子たちを抱えていた孔子が、現実問題として、そのような発想はしなくて当然である。弟子はみな一人一人違っている。だが、これについては後述するとして、孔子のこの言葉が日本にどのような影響を与えたかを考えてみよう。
 日本人は大体において、教育によって人は善くも悪くもなると考えており、この考え方は徳川時代に深く広く浸透した。徳川時代には「識字率五割」という、同時代の世界ではおそらく最高水準と思われるほど教育が普及したが、この背後には「有教無類」があったであろう。と同時に、儒教は「生涯教育」であり、「秘伝を授ける」とか「奥義を伝授する」とかいった考え方、同時に「それで卒業」という考え方がなかったことも影響していると思われる。
 これが神道などと違う点だということを、山崎闇斎(江戸前期の儒者)の弟子の佐藤直方は次のように述べている。「偖(さて)神道二伝受卜云テ、密(ひそか)ニ申聞(か)スル事アルト承候。……神ノ名ニモ伝授アルヨシ承候。唐(中国)デハ、孔子ヲ孔子、孟子ヲ孟子ト云タルニナンノ伝授モナク候」と。これが後に、神道に凝った闇斎から直方が破門される一原因となる。
 というのは、神道の「秘伝の伝授」を受けた者が、学問では劣っても上座につくことになり、「直方先生云(う)、今日モアホウナモノガ大分上座シテイタト」という結果になる。
 事実、「伝授」でその評価が確定するのはおかしい。「芽を出しても花が咲かず、花が咲いても実を結ばぬものもある」「子日く、苗にして秀でざる者あるかな。秀でて実らざる者あるかな」(尹罕第九227)からである。
 これは儒学から見れば「学問的序列」を乱すことであり、直方には耐えがたいことであっただろう。
こういう点、孔子の教育は近代的で、「秘伝の伝授」といった神秘的要素はまったくない。
 孔子にとって「学」とはそのようなものでなく、「学は及ばざるが如くするも、なおこれを失わんことを恐る」(泰伯第八202)で、安井息軒(幕末の儒者)はこれを、「学は逃ぐる者を追うて及ぶ能わざるがごとくすべし」の意味としている。一心不乱に追いかけても、学ぶところを見失いがちのものなのである。

   「論語」に能力平等主義の思想はない
 このリアリズムは当然、「人間全員資質能力平等」というあり得ないことを、あると信ずる”空想主義”をも排除する。人間には「才・不才」がある。しかし「才・不才」は「徳・不徳」ではない。「才あって徳なし」という人間はもちろん存在する。しかし大部分の人間は、天才でもなければ不徳義漢でもない。そう見ることは、現実をそのまま見ることであっても、上記のような”空想主義”ではない。
  この二つは一見似ているようだが、実はまったく違う。と同時に孔子は決して、教育は一律であってよいとはしていない。これは弟子に対する教育にはっきりと表われている。こういう点にも、孔子が決して「人間全員資質能力平等」とは見ていなかったことが表われている。すぐれてリアリストであった彼が、そんな空想的な見方をしなかったことは言うまでもない。(72)


生涯教育を目指す『論語』(山本七平ライブラリー『論語の読み方』p70~92)
机上の空論を戒め、「生涯学習」をめざす
 そしてこのことは、『論語』の中の「学ぶ」を追っていけば、自ずから明らかになる。そして「学ぶ」ことへの孔子の態度は『論語』の冒頭の、「子日く、学びて時にこれを習う、亦説ばしからずや。朋、遠方より来たる有り、亦楽しからずや。人知らずして惺みず、亦君子ならずや」(学而第一1)
 「学んだことを常に復習し、実習すると身につく。なんとうれしいことではないか。そうしていると遠方から同学の士が訪ねて来てくれる。それと話し合うのはなんと楽しいことではないか。そして世人が自分を認めてくれなくても、不平不満を抱かない。なんと立派な人間ではないか」に集約されている。(76)
あらゆる人間から学びつづけた”日進月歩の人”
 そして、孔子はあらゆる人から学ぼうとした。  「子曰く、三人行けば必ずわが師あり。その善なる者を択びてこれに従い、その不善なる者にして、これを改む」(述而第七169)  註解の必要はないと思うが「その不善なる……」以下は、「不善なる者を見て、自らの不善を改めようとする」の意味である。そして、自分より下のものに教えを乞うことを少しも恥とせず、むしろこれを立派とした。(77)
学問の方法論「博学・篤志・切問・近思」とは何か
 そしてその学び方は、「子夏日く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う。仁その中に在り」(子張第十九477)といった学び方である。このこ「博学・篤志・切問・近思」は儒教の学問の方法論になり、朱子の名著『近思録』の題名はこれに基づいている。
 宮崎市定氏は、これを「博く学んで熱心に理想を追い、切実な疑問を捕えて自身のこととして思索をこらす。学問の目的とする仁は、その中から自然に現れてくる」と訳されている。そして、このようにして学んだことを自分のものにして、それを倦まずに人に教えること以外に、自分には別にこれといった取り柄はない、と孔子は思っていた。(79)
「学問」とは、「高学歴」の意味にあらず
 このように見ていくと、孔子とは学問一点ばりで、無学なものを軽侮していたかのように誤解されやすい。だが孔子は、たとえ学問はしなくとも立派な社会人は立派と見、そういう人は学ばずとも学ある人と見ていた。これで見ると孔子の「下愚」とは、けっして学問のない者の意味ではないし、孔子のいう「学問をした人」は、けっして「高学歴の人」の意味ではない。(80)
孔子の説く「学問」と「就職」の関係
「生涯教育・生涯学習」の『論語』では、就職してもなお学ぶ。「子夏言う、就職と学問の関係をいえば、仕事に全力を尽して余力があったら学問をする。学問をしている者は、学が十分に進んで余力があるようになれば、就職してその学問を生かす」「子夏日く、仕えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う」
 孔子にとって(子張第十九84)のであらねばならない。 「学ぶこと」は象牙の塔にこもることでなく、学んだことを社会に生かすことだから、就職は当然であった。(82)
教育の四本柱「文・行・忠・信」の内容
 そしてその教えることは、次の四つであった。「子は四を以て教う。文・行・忠・信」(述而第七172)
すなわち「表現力の文、実践力の行、個人に対する徳義の忠、及び社会上のルールである信」(宮崎市定訳)ということである。
 だが、「教える」ということが一面、ひじょうに危険であることを孔子は知っていた。一歩誤れば、教えに乗って自分を売り出すことになってしまうからである。
 「人間は努力して正義の道を拡充しなければならない。どうかすると人間は、正義の道に乗りかかって自分の名を売り拡めようとする」(宮崎市定訳)
 「子日く、人能く道を弘む。道人を弘むるに非ざるなり」(衛霊公第十五407)
 自戒すべきことであろう。正義を売りものにしたり、正義や知識によって自分を売り出そうとする、それをやればもうおしまいである。(91~92) 

『論語』は神秘主義的要素はなく現世の秩序形成を目指した
(山本七平ライブラリー『論語の読み方』p93~97)
 孔子は前述のような生涯を送り、現実の政治にタッチし、生きている人を教育していたのだから、当然に「現実主義者」であった。空理空論や神秘主義は孔子とは無関係であり、また、地上に天国を招来しようという空想的社会主義とも無縁だった。このことは東アジア、特に日本の伝統に決定的な影響を与えたといえる。
 そして、孔子にとっての「現実」とは、「人間の救済とは政治的救済である」という点であり、まず「秩序の創出」が、人間社会にとって、何よりも重要だということである。このことは、その秩序の中での個人の救済は「教育的救済」ということである。
 そしてこの二つ、すなわち、社会の「政治的救済」と個人の「教育的救済」は、孔子にとって同一の原理であらねばならなかった。  したがって、その関心は「現世」に集中しており、「前世」とか「後世」とかいったものは、孔子にとっては関心の対象外のこと、それを問題にするときは、そのことが「現世」にどう影響するかという点に限られていた。(93)

 「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」
 「子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。『死者は知ることありや? 将(は)た知ることなきや?』死後の知覚の有無、あるいは霊魂の滅不滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。『死者知るありと言わんとすれば、将に孝子順孫、生を妨げて以て死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、将に不孝の子その親を棄てて葬らざらんとすることを恐る。』
 およそ見当違いの返辞なので子貢は甚だ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味は良く判っているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換えようとしたのである。
 子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、或時死に就いて訊ねて見た。『いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。』(先進第十一265)これが孔子の答であった。(94)

 「論語」と「旧約聖書」が近代文明に与えた重大な影響
 このことは、孔子にとって「救済とは現世的救済」、ないしは「政治的・社会的救済」であったということである。「現世で苦しめば来世で救われる」とか「前世の因果だから……」といった考え方はない。
 この点、たいへんにおもしろいのは、『旧約聖書』も同じだということである。もし「前世・来世・死後の霊魂」といった発想がないから「儒教は宗教でない」というなら、『旧約聖書』もまた宗教書でない。もちろん、孔子も晩年には「死後」への関心があったであろう。
 貝塚茂樹氏は、次のように記されている。
 「『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん』といって、死後のことをあまり問題としなかった孔子が、死後を問題としだした。『我を知る莫きかな』と嘆声を発した孔子は、ついに『我を知るものはそれ天か』とまで言うようになった。
 子貢が『夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり』(公冶長第五105)と言ったように、めったに天のことつまり運命を問題にしなかった孔子が、天のことをいうようになった。孔子が晩年に、人間の運命を占うことがもととなってできた『易経』を読んだという話(述而第七164)は、あるいはほんとうのことかも知れない」と。
 確かにそういうこともあったであろう。しかし、そういえば『旧約聖書』にも「冥府」という言葉はあるから、「死後」への関心が皆無だったとはいえないが、両者が共通しているのは、そのことを探究しようとせず、もっぱら、現世における救済を問題としている点である。そしてこの二つが、ともに近代文明に決定的影響を与えているのは興味深い。(97) 

孔子のいう「秩序の基本」は「徳」にある

 「政治的・社会的救済」となれば、それは当然に、「政治・社会はいかにあるべきか」「それを構成する個人はいかにあるべきか」に問題は集中する。
 そして、その前提として「秩序の基本」は何かということになる。孔子はこれを「徳」に置いた。
 「政を行うに徳をもってすれば、ちょうど北極星が自分の場所にじっとしており、多くの星がその方に向って挨拶しているように、人心は為政者に帰服する」
 「子日く、政を為すには徳を以てす。譬えば北辰の其所に居りて、衆星の之に共うが如きなり」(為政第二17)
 これが「為政以徳章」で、しばしば徳治主義の基本といわれる言葉である。では、「徳」があれば何もしなくてよいのか。(97)

では「徳」とは何か。 「永遠の道たる中庸は、至れり尽くせりの徳というべきだ。このみちが民間ですたれたことも久しいものだ」(宮崎市定訳)では、この「徳の極致である中庸」とは何であろうか。まず「四書」の一つである・・・『中庸』には次の言葉がある。
 「喜怒哀楽未だ発せざる、これを中という」と。おわばこのような環状に動かされていない状態である。そしてこの状態にあることが前提で、そこではじめて「徳」に到ることができる。
 この考え方は中国の伝統的な考え方で、朱子の『近思録』には次のように記されている。「……徳は、愛するを仁と日い、宜しきを義と日い、理あるを礼と日い、通ずるを智と日い、守るを信という。焉を性のままにし焉に安んずる、之を聖と謂う。焉に復り焉を執る、之を賢と謂う……」と。
 したがって、その状態にある者が指導者であれば、おのずから秩序ができあがり立派な政治となるのであって、これが『中庸』の「政を為すは人に在り」であろう。そこで、その道を修めることが教えとなるわけである。

政権交代の力学とメカニズム  では、為政者とは「徳」さえあれば「己れを恭しくして正しく南面」していれば、それで十分なのか。もちろんそれは理想で、現実にはそうはいかない。
 「孔子は言う。天下に道があれば礼楽と征伐は天子から出る。ところが、道が乱れて諸侯から出るようになれば、その政権が十代つづくことは稀であろう。さらにその下の大夫から出れば五代、さらにその下の家臣から出るようになると三代つづくことは稀であろう。天下に道があれば、一般の庶民は政治上の議論などしないですむ」
 「孔子日く、天下道有れば、則ち礼楽征伐天子より出ず。天下道なければ、則ち礼楽征伐諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋し十世失わざるは希なり。大夫より出ずれば、五世失わざるは希なり。陪臣国命を執れば、三世失わざるは希なり。天下道あれば、則ち政大夫に在らず。天下道あれば、則ち庶人議せず」(季氏第十六422)
 これは下剋上を否定した言葉で、日本では伝統的にこの訳のように「政権を実質的に奪った大名は、十代以上まで続かない」とされてきた。そして、大名の家老が実権を握ればこれは五代、さらにその下が握れば三代と、こう理解したのである。(102)

「礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず」

・・・では一体、当然に天子の権限とされる「礼楽・征伐」とは何であろうか。通常これは「政策」「軍事」と訳す。征伐が軍事のことはだれでもわかるが、一体全体、なぜ「礼楽=政策」なのか。だれでも少々不思議に思うであろう。 思議に思うであろ。(103)

「礼楽」とは、秩序・制度・政策・教育の芸術的表現
  この「礼楽」が何を意味しているかは、いろいろな解釈がありうる。しかし「礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず」という言葉は、これが単に「礼儀」と「音楽」の意味でないことは明らかであろう。
 通常ここは「秩序が確立しないと……」の意味とされるが、宮崎市定氏は「教育が進まないと……」の意味とされる。
 では、一体なぜ「秩序・制度・政策・教育」を含めて「礼楽」というのであろうか。ここで、少し『礼記』を探ってみよう。
 「礼楽は天地の情により、神明の徳に達す」礼楽は天地自然の情に則って生れ、その効果は神明の徳に達するものである。
 「礼楽は斯須(しばらく)も身を去るべからず」礼と楽とは国を治めるうえにも、教育のうえにも大切なものだから、いっときも身から離してはならない。
 「楽は内に動くものなり、礼は外に動くものなり」音楽は、人の心に作用するものだから内に動く。礼は、人の外容・行動に節度を与えるものだから外に動く。  「礼は民心を節し、楽は民声を和す」礼は、人民の心に節度を与えて区切りをつけるものであり、音楽は、喜怒哀楽の情をやわらげて人民の声を調和していくものである。(p105)

現代でも、日本企業の秩序は「礼楽」で律される 「法契約社会」では定款が憲法、それに基づいて「社規・社則」と組織が作られ、これに基づく各ポストの権限が定められて、それに応ずるマニュアルがつくられて、人びとはこのマニュアルどおりにするという契約を結んで入社し、そして契約に基づいて責任があり、賃金が支払われる。日本も形式的にはそうだが、実質は「礼楽的社会」だから、社内は「礼楽的秩序」である。
 すなわち、「楽は同を統べ、礼は異を弁つ」で、同時に「仁は楽に近く、義は礼に近し」であって、「楽」で人びとを和同させ統一し、一体感を持たせ、礼は人びとの間のけじめ、区別を明らかにする。一方が、身分・年齢・時間空間を超えて全体を和同させるなら、一方は、上役・下役・年長者・年少者・入社年次等々の間のけじめと区別を明らかにする――という諸橋轍次氏の定義どおりと言ってよい。(108)

「礼」がなければ、最終的な人望は得られない
 吉田賢抗氏は、
「克己復礼の四字は極めて有名である。己という私心にうち克ち、外は礼に従った行動をすることが仁である。克己によって調伏した自己が、復礼によって大きく社会性をおびて積極へ転ずる……」の自己は、自分の私欲という個人的なものを意味するのであって、復礼という積極面において、一たび否定された自己は大きく昂揚するのである。孔子の考えによれば、仁は人の心であり、人そのものであって、人の内なる心の自然の働きである。……人が宇宙間の一物であり、社会構成の一員であるならば、克己復礼において、初めて自然の心の働きに帰ることができる」とされている。(112)

日本人にとって、君子とは「完全な社会人」を指す
山本七平ライブラリー『論語の読み方』「まえがき」p113~114
 孔子は社会の基礎を教育と礼楽に置いた、ということは強権・刑罰・弾圧に置かなかったということである。『論語』のどこを探しても、理想的社会をつくるには強大な軍事力と秘密警察が必要であるといった倒錯はまったくない。ごの点では、まさに「人間信頼」の哲学で、吉川幸次郎氏が指摘されるように、「『仁遠からんや・我れ仁を欲すれば、斯に仁至る』(述而第七177)と、人間自体の可能性への信頼」を基にしている。
 そういう意味では、たいへんな楽観主義者といえるが、孔子自身はいわば乱世の苦労人であったから、けっして、手放しの空想的な楽観主義者ではなかった。教育と礼楽に基礎を置くということは、一面では、各人が完全な社会人でなければ、その社会は維持していけないということ、言葉を換えれば「君子」でなければならない、ということである。
 もっとも、この点は、『論語新探』(一九三ページ参照)のような解釈をして、「君子と人=統治者階級」「小人と民=被統治者階級」として、これを支配階級の哲学と考えれば、民と小人は「君子」である必要はなくなる。したがって「礼は士大夫、刑は庶人」という分け方ができる社会では、一般人は文字が読めず政治的発言をせず、同時に社会的責任も負わないで、ただ刑に服していればよいという考え方も出てくる。
 だが、後でも記すが、「古典」とは常に新しい解釈の下に文化を形成していくもので、日本人は伝統的に「君子」を「完全な社会人」の意味に解していた。いわば「全員が君子であらねばならぬ」であり、そのため教育は常に英才教育より、いかにして「底辺を上げるか」であって、これは実に徳川時代から行われている。
 私は、これが「近代化」と「主権在民」に成功した理由と考えているが、同時にこの社会、すなわち礼楽的民主主義ともいうべき社会は、法と契約的民主主義の社会とは違って、全員が「君子」でなければ存立していけないという、きわめてむずかしい点も持っていると考えている。
 いわば全員が政治的発言ができる社会は、全員に「有教無類」を徹底させねばならない社会、つまり、孔子の原則を孔子の時代よりさらに徹底しないと秩序が維持できない社会だ、ということである。そして教育とは、孔子にとって「社会人をつくる」ことであった。
 

なぜ、日本は伝統的に平等社会なのか
山本七平ライブラリー『論語の読み方』「まえがき」p132~133
 前章で記したように、孔子が評価しないといった人物を、「いや、私は高く評価する」という人間はまず皆無といってよい。考えてみれば、これはたいへんに不思議なことである。というのは、二千五百年以上の昔、しかも中国の春秋時代の人物評価が、高度工業国家の現代の日本と変らない、ということだからである。一体、なぜであろうか。
 人間と人間との関係、人間の相互の関係は、基本的にはそう変るものではないともいえるであろうが、また、それだけ『論語』は深くわれわれの中に浸透し、人を見る場合、不知不識のうちに「論語的評価」で、これを見ているともいえるであろう。このことは前にも記したが、ここでもう一度思い起してから、次に進もう。
 以上のように見た場合、明治以来の多くの指導者が「論語的評価」で人を見、渋沢栄一のように、これを経営と人事の指針としていたのも当然のこととうなずかれるが、同時に、では「論語的評価」で高く評価されるのはどのようなタイプかは、当然に気になるところであろう。だが、それに進む前に、このことが現代の日本でどのような意味を持っているかを、まず考えてみよう。
 日本は平等主義の国だといわれる。これは何も戦後にはじまったことでなく、また、明治の四民平等ではじまったことでもない。われわれは、秀吉と同じような出生の「天下人」をその時代のヨーロッパに、見出すことはできない。また戦前、アメリカはリンカーンに見るように、「丸太小屋から大統領へ」だといわれたが、それを聞いて、当時中学生のわれわれは「日本だって石屋からの総理大臣(広田弘毅)がいるじゃないか」と考えたものである。
 また戦後の日本では、入社すればすべての人間が社長になる可能性がある。だが、こういうことは、「自由・平等・友愛」が国旗のデザインで、その元祖のような顔をしているフランスにはありえない。
「社長=経営者=資本家」と「労働者・農民」とは、「生れながらにして別」である。これは多くの国においてそうであり、インドへ行けば決定的であろう。
 

「平等社会=管理社会」を証明したイスラエルのキブツ
山本七平ライブラリー『論語の読み方』「まえがき」p152~153
 平等社会とは管理社会であるといえば、ちょっと奇妙な感じを受けるかもしれないが、「管理を意識させられる社会である」といえば、人は「なるほど」と納得するに相違ない。
 というのは、不平等が当然で、「生れ」によって管理階級と被管理階級とが分れていて、それが当然とされている社会では、「管理されている」という意識そのものが、そもそも存在しないからである。
 「平等社会と管理」という問題を人類史上はじめて明確に取りあげたのは、おそらく『孟子』であって、『論語』では、『孟子』ほどにはこの点は明確ではない。しかし、『孟子』を背景にして読んでいくと、そこに深い洞察があり、これは現在にも通ずる問題だと思わざるを得ない。
 奇妙な対比になるが、現代の世界で最も徹底した平等社会を実現しているのはイスラエルのキブツだが、私はこのキブツにしばらく宿泊逗留すると、いつも、『孟子』における「平等社会と管理機構ないしは管理職の位置」を連想する。
 キブツは、その内部に入れば私有財産はなく、第一、「おカネ」というものが存在しない。各人は同じ広さの小住宅に住み、子どもは生後八日目に託児所に預けられ、食事は共同食堂のセルフサービスで同じものを食ベーといっても品数が多いから相当に選択の余地はあるがI、同じように労働し、同じように休息する。
 「能力に応じて働き、必要に応じて支給される」が原則だから、老人・身体障害者は、労働時間の減少、軽労働の割当てが行われ、一定年齢以上は希望者だけが希望時間だけ働く。私有財産はないが、生産性が高いので共有財産は増える。それが厚生・教養・娯楽施設となっていき、病院・図書館・映画館・談話室・遊戯場・体育場などが建っていき、同時に、これらのための総合的な機械室もあって、冷暖房から洗濯工場や各家庭への温水の給水なども行なっている。
 こうなると医師・技術家・司書等が必要となる。さらに生活水準が高くなるとともに、生産物を売って必需品やトラクター、車、フォークリフト等を購入したり、地方自治体や電力会社等と交渉する渉外係も必要となる。
 ノフーギネソールやアヤレ″トーハシャハルなどの歴史のある大キブツになると、それらの共有施設は実に立派で、ゲストハウスなどはホテルに比べて遜色ない。こうなると、どうしても相当大きく、かつ完備された管理機構と管理職が必要になってくる。本部が管理する諸機構の下部組織は、各作業班が月ごとに交替で担当する。しかし、そのすべてを管理する各管理委員は、直接選挙で選ばれ、任期は一年とされている。もちろん再任は妨げない。そして、長く再任されている管理職に会うと、そこには共通した一つのタイプがあり、「なるほど、こういう人が人望を得て、この平等社会で長く管理職にあるのだな」という気がする。そしてそのタイプは、一言でいえば「君子」なのである。
 

「論語」には安直な「救済」や「悟り」は書かれていない
山本七平ライブラリー『論語の読み方』「まえがき」p172~178
 「論語読み了(おわ)りて後に全く事無きもの(得るところが無かった者)有り、読み了りて後に其の中(なか)一両句を得て(なるほどと思う一、二句を得て)喜ぶもの有り、読み了りて後之を好むことを知るもの有り、読み了りて後手の舞い足の踏むことを知らざるもの有り」
  以上は朱子の『近思録』(巻の三38)に出てくる言葉だが、『論語』とは不思議な本で、今でもだいたい同じような反応が出る。なぜであろうか。
  ここまで読まれた方は「一両句を得て」いるであろうかと思うが、しかし、このような形で「上達」していけば、何らかの人生の目的に到達できて、「安心立命」といったような境地になるであろうか。
  一体全体「人生の意義とは何か」「真理とは何か」といったような言葉への解答は『論語』にはないのであろうか。こんな気持になった人もいるかもしれない。
  前にも言ったように、孔子は「深遠」そうなことも、「空想的理想主義」的なことも、「神秘的悟り」らしきこともけっして口にしないから、インスタント食品のように安直な救済や悟りや保証に類する言葉は、『論語』にはない。そのために『近思録』に記されているような現象は必ず起る。
  言うまでもなく、孔子が目指したのは個人の社会人としての完成に基づく、完成された社会であって、その目標である人間関係を律する至上の状態の「仁」を目指す、実に根気のよい道程なのである。その道には「近道」はなく、社会をひっくりかえしても、暴力を揮っても、そこに到達できるわけではない。そこでこの孔子の考え方に副って、もう少し先へとたどってみよう。そうすれば目標は自ずと見えてくるであろう。

「恭・寛・信・敏・恵」を広く行えば「仁」
 だがそれに進む前に、孔子の言う仁の定義とそれに類する言葉に目を通してみよう。
「恕」に対するような定義ならば、『論語』の中に前記のほかに「樊遅仁を問う、子日く、人を愛すと……」(顔淵第十二301)、また前に記した「克己復礼」も仁、また「君子親に篤ければ(誠実ならば)、則ち民仁に興る」(泰伯第八187)、「仁者は難き(いやなこと)を先にして、獲(う)る(報酬)を後にす。仁というべし」(雍也第六140)、「仁に里(お)るを美となす」(里仁第四67)等々とあり、また有名な「巧言令色鮮(すくな)いかな仁」(学而第一3)、「剛毅木訥仁に近し」(子路第十三330)もある。
 さらに、定義に近いものを挙げれば、次であろう。
 「子張仁を孔子に問う。孔子日く、能く五つの者を天下に行うを仁となすと。これを請い問う。曰く、恭・寛・信・敏・恵なり。恭なれば則ち侮られず、寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち人任じ、敏なれば則ち功あり。恵なれば則ち以て人を使うに足れりと」(陽貨第十七440)
 この答はおもしろい。子張は「仁」の定義を求めているが、孔子はそれに答えず「五つのことを広く行うことを仁とする」と答えている。この五つの部分を宮崎市定氏は、「五つとは、恭・寛・信・敏・恵のことだ。自身が恭倹に謹めば他から侮られない。他人を寛大に取扱えば多勢がついてくる。信用を重んずれば人が仕事を任せてくれる。敏捷に働けば能率があがる。恩恵をたれる人であって始めて他人に命令して動かすことができる」と訳されている。


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