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山本七平語録

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日本史

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明治維新はなぜ成功したか
(『日本人とは何か(下)』(p341~351)山本七平
  グレゴリー・クラーク氏が、日本は明治維新という「半革命」だけで近代化・工業化へと進み得たことについて、氏はその理由を日本の農村共同体の特質にあったと指摘されているのは卓見である。もちろんそれがすべてではないが、この基盤がなければ、革命は空まわりをしてしまう。
 日本の農村の基本構造についてはすでに記した。それは、何らかの指導原理で統合されれば、連合して「百姓の持ちたる国」を形成しうる機能的な共同体であり、徳川時代になっても、時には遠慮なく百姓一揆を行う強固に団結した自治体であったことは変わりはない。そこに何らかの新しい指導原理をもって、彼らをある方向へと向かわせる者が出てくれば、言いかえれば近代化・産業化とそれによる富裕化を説いて。これを信じ込ませる「経済成長の蓮如」のような人物が出てくれば動き出す。いわば「極楽往生」のかわりに「現世での向上‐近代化」を説いてそれと信じさせれば、彼らは、一向一揆ならぬ近代化一揆へと動き出す。もちろんそれは簡単には行かないが――。342
(中略)
  ただここでつけ加えることがあるとすれば、和時計に見られるような江戸時代の技術、またさまざまの技能を身につけた下級武士という名の内職技能者集団、鎖国下の奇妙な「金余り現象」から新しい投資先を探していた三井組、小野組、鴻池、住友などの豪商や豪農たちもまた無視できない。さらに新技術で国土の開発を提言した本多利明の考え方を実施に移したように、生涯マニアのようにそれに没頭した人びとも忘れることはできない。  一例をあげれば明治四十三年にロンドンで客死した井上勝である。その生涯は、彼自らの記す通り「吾生涯は鉄道を以て始まり、已に鉄道を以て老ひたり、当さに鉄道を以て死すべきのみ」であった。こういう人材は、数えて行けば際限がない。
  明治はそれらの指導者を「徴集する方法を改善し、その組織を改め、これによって支配階級(指導者階級)を変形するのに成功した」。確かに明治は成功した。明治は苦しい近代化の道と強国との対外戦争に耐えつつ、昭和のような決定的な失敗はしなかった。その指導者たちを偉大だと言ってよい。しかし彼らに「ゆだねられた仕事は、先任者によってすでにはじめられ、進められていた」というモスカの指摘もまた無視すべきではあるまい。351
 富永仲基を援用すれば、すべては、長い歴史の、さまざまな「加上」の上に成立している。では途上国の人びとの質問にわれわれはどう答うべきなのか。どの国にも文化の蓄積はある。その文化、富永仲基の言葉を借りれば「くせ」は同じではない。日本には日本の「くせ」があり、アジアの他の諸国にはそれぞれの「くせ」がある。それをどのように生かして将来への発展へと向かうか。それは各民族が自らの「くせ」を探究し、それをどのような方法で将来への発展へと向かわせるか、これだけは、それぞれが自ら探究する以外に方法がないであろう。351
 日本が何か「手品」のタネを持っていたわけではない。また自らの伝統文化を否定し抹殺したがゆえに近代化に成功したわけでもない。そのような錯覚を途上国の人びとに与えれば、それは新しい「罪」になるであろう。われわれは自らの歴史的体験を誇る必要もないし。卑下する必要もない。それを知りたいという人びとに、「御参考までに、どうぞ」と提供すれば、それでよいはずである。351

 
現場主義の海保青陵
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p333~339)
  海保青陵は本多利明とほぼ同世代で、経済に注目したという点でしばしば本多利明と対比される。しかし二人は、全く違う立場にあった。利明が西欧を基準とし、中国と対比し、ちょうど地球儀の中の日本を見るように鳥瞰図的な視点から細部へと目を向けたのとは違って、青陵は元来荻生徂徠の学説を継承する武家出身の儒者であった。ただ彼は旅学者として広く世間を見、その直接的な観察――彼の表現に従えば「ぢかどらまえ」(直接的把握)――を基準として経済を論じた。
  そして鳥瞰図的に日本を見た洋学者利明と、現実を「じかどらまえ」にした儒学者青陵とは、奇妙に似た指摘をしている。それは統治者階級である武家に経済的感覚が全くなく、またないことを誇り、同時に商業を賤業として蔑視する傾向である。これは武士気質と儒教との混合といえよう。そして二人ともこの意識が経済問題解決の大きな障害となっていると見ている。p333
  ここまでの指摘は利明・青陵の両者は似ているが、そこから先が違う。利明は単純に官営を考えているが、現場主義の青陵はそう簡単には考えていなかった。(中略)p333
  この点、青陵の現場主義の方が現実を鋭く見ていた。彼は武士階級の意識改革がない限り、国営はおろか藩営も可能とは思わなかった。彼は「江戸(幕府)ノコトハ鶴(青陵)知ラズ」「江戸ノ大政ハ一向二知ラヌトコロ」で。日本国全体よりもまず藩という経済単位に着目し、藩自体が経営体になり、藩主もしくはそれに等しい者が経営者精神を持たない限り、藩営もうまくいかないと見ていた。彼は儒者でありながら「五常」の「君臣義あり」を否定し、「君臣ハ市道(取引)ナリ」という画期的な定義をして次のようにいう。
  「君ハ臣ヲカイ、臣ハ君ヘウリテ、ウリカイナリ。ウリカイガヨキナリ」
  彼は世の中を二種の人間に分ける。今日的にいえば資本家と労働者。
「天子ハ天下トイフシロモノ(経済的財貨)ヲモチタル豪家ナリ。諸侯ハ国トイフシロモノヲモチタル豪家ナリ。コノシロモノヲ民ヘカシツケテ、ソノ利息ヲ喰フテヲル人ナリ」 「卿大夫士(上級・下級武士)ハ己レガ知力ヲ君ヘウリテ、其日雇賃銭ニテ食フテオル人ナリ。雲助ガ一里カツギテ一里ダケノ賃ヲトリテ、餅ヲ得、酒ヲ得ルニ何モチガイナシ」 彼の考え方は実にはっきりしており、まことに独創的といわねばなるまい。当時の東アジアでこのような発想をし、士大夫も雲助も、知的労働力を売るか肉体的労働力を売るかの違いだけで、基本的には違いはないと言ったのは彼だけであろう。
 商人を蔑視し、金銭を不浄な物のように見る武士たちを彼は嘲笑した。336
  彼は自分の生きている時代が「下」に富が集中している時代であることをよく知っていた。彼は商人たちに「山地河海ヲカシツケテ、利分ヲ滞リナク取り上ゲル」ことだと考えた。今日的にいえば、国鉄という「シロモノ」をJRという「町人」に貸しつけて利益を取るといった方法であろう。さらに興味深いのは、十分の一税を商人・農民等すべての所得にかけよと提唱していることである。これは「五公五民」が当然とされた時代には、驚くべき提案といってよい。この提案は利明の国営論より現実的であろう。利明の計算のように国富二六六分の二六五を商人が取っているなら、そこから「シロモノ」貸付の「利分ヲ滞リナク取り上ゲ」て、一割の税金を賦課すればよいからである。
  青陵が完全に儒学を否定したと考えてはならない。彼はやはり、広い意味の儒者というより中国思想の継承者であり、桂川甫周の影響があったとはいえ。西欧の思想的影響は殆ど無かったと見てよい。ただ中国思想に対する彼の思考がきわめて自由だったとはいえる。この点では「儒教の異端であっても異教徒ではない」と言うべきであろう。
「今ノ儒者、王道ハ善、覇道ハ悪シ斗説コト愚ノ至也。書ヲ読ムコトヲ知ラヌ者共ナリ」と彼はいう。
「覇」が悪いというなら「頼朝・足利・豊臣・御当家様ハ皆覇也」(以上『養心談』)であるから、将軍も諸侯もあってはならぬ者になる。これらの存在を肯定するなら「覇はいかにあるべきか」という発想をしなければならぬ。
「隣国ニモ油断ナラヌト云ハ、乱世ノ攻伐ノ類二非ズ、売買損徳ノ事ナリ」
と彼がいうのは「経済的覇者」の行き方で、「王道」ではない。従って彼が「徳治」でなく「法治」を主張し、「簡法厳刑」を主張したのもまた当然であった。こう見ていくと、彼は、儒教の枠をはみ出しているが、儒教をはじめとする中国思想を自分の思考の手段としたといえる。339

 
儒学と決別した「脱亜」の先駆者本多利明
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p318~328)
  本多利明は、関孝和の正統の後継者で、いわば和算家すなわち数学者であって蘭学者とは思っていなかった。・・・数学は蘭学に入らなかった。・・・日本の数学は中国から来て、ヨーロッパとは無関係に微分積分学まで独自の発達を遂げたからである。ただ関孝和の門弟たちがヨーロッパの天文・暦学に関心を持っていたことは事実である。
  ただ(利明の)西欧への関心が『西域物語』となり、ヨーロッパとの対比で日本は今何をなすべきかを説いた『経世秘策』となり、これに『経済放言』を加えて彼の三代代表作と見られるため、蘭学系の経世家と見られたのであろう。・・・
  江戸時代の「経世家」の中で、彼ぐらいはっきりと儒学と訣別した者は珍しい。彼は、まず数学・天文学・暦学・測量を基本として、彼のいう窮理学すなわち西欧の自然科学への関心を深め、それを基礎にものごとを考察する。簡単にいえば算学と南蛮学統の結合で中国には一貫してきわめて否定的である。この点で、「脱亜入欧」は福沢諭吉でなく、彼にはじまるというべきであろう。p318
  彼の考え方の基本は「自然治道」で、これは天然自然に即した富国論もしくは富国策であると言ってよい。『経世秘策』は別名『国家豊饒策』また単に『豊饒策』であることにも、これが表われている。その基本は生産増強、経済成長、重商主義的貿易政策、富の平準化であり、まことに戦後日本的である。もちろんその方法論には徳川時代という限界があったが――。319
  その主張の主なものを上げると、(以下要約)
一、彼は貨幣の数量が物価の高下を決定するという一種の貨幣数量説に立ち、「国君の転職」は、まず通貨と物価を安定させて、各人がその家業に専念できる状態を現出すること。
二、焰硝(硝石)を増産し土木に用いて、特に農業基盤と河川の改修、運河の掘削、湖沼の干拓、道路の建設等に活用せよ。
三、豊作の国より凶作の国へ渡海・運送・交易して有無を通じ、万民の飢寒を救うべし。そのためには、「天文・暦数・測量・算法」(自然科学)に基づく渡海術を学べ。
四、こうした努力による生産増強より人口増加の方がはるかに早いので、蝦夷地などを測量し開業すると共に「開国し」「万国に船を遣りて、国用の要用たる産物」を日本に入れ国力を厚くすべし。
五、こうした貿易の主導権を持つためには、国内の統制を撤廃し、自由競争にする。「左すれば相互に事業に励み、精密に丹精するゆへ、自然と国内に名産物多く出来、異国交易などに大利を売るを得る助けとならん」
  彼の主張は明治以降の日本の行き方をそのまま示しているが、「自然治道」で軍事を考えていない点ではむしろ戦後的といえるであろう。徳川時代を通じてこのような発想をしたのは彼だけだと言っても過言ではあるまい。それだけに彼は自給自足的な鎖国内での経済すなわち経世済民を考えた先人に対して辛辣であった。前述のように彼は多少は評価した蕃山・祖像もこの点では落第なのである。p328 
 
西欧に先んじた日本の数学
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p313~316)
  日本の算学は文字通り和算だが、もとをただせばその源流はやはり中国である。中国人は西暦紀元前後にすでに代数の初歩に到達していたから、この時点では日本とは段が違う。日本はどうやら稲作が広がり出した段階で、この時代の日本と中国とを比較した者がいたら。両者の隔絶はまさに絶望的と見えたであろう。
  この中国の数学は奈良時代以前にすでに日本に入り「算道」といわれたが、平安時代の末期に滅びてしまい、ただ、日常生活に必要なものだけが細々と存続していた。「九九」もその一つである。そして室町時代になると、商業上の必要からそろばんと算術はある程度の発達を見、また戦国武将の多くはそろばんを用いて、作戦に必要な数値を計算していたが、いわばそれが限度だった。
  そろばんは算術にはきわめて便利な計算機だが、代数となると二次方程式のあるものまでが限度である。そしてこれの活用をさまざまな面で研究したのが江戸時代のはじめに出た「毛利重能」で、そのその弟子「吉田光由」の『塵劫記』(1628)は最も広く読まれた名著だが、民の程大位の『算法統宗』(1593)の翻案ともいえる著作で、ここでやっと日本の数学はそろばんでは中国に追いついたわけである。314
  光由は自己の著作を何回か改定し寛永18年(1641)の版には自分で解けない問題12題を載せた。これが後の数学者がそれを説いて自己の著作に載せ、その末尾に自らの解けない問題を「遺題」として載せる伝統を生じた。・・・「遺題」はますますむずかしくなり・・・佐藤正興の『算法根源記』の「遺題」百五十題は誰も解けない。そのとき京都の沢口一之(がこれを)ことごとく解いて、さらに十五の「遺題」をつけた。・・・
  (中国の)天幻術では手に負えない・・・(この)十五の「遺題」を解いたのが有名な関孝和(?~1708)で、ここで日本は始めて、中国人がと解き得なかった問題を解く段階に来たわけである。p312
  その後、関孝和の弟子建部賢弘が「算木のかわりに筆算で行いうる代数」を確立した。これが後に天幻術とは違うものとして「天竄術」と呼ばれるようになった。・・・
  また、建部賢弘は、円弧の長さを無限級数で表すことをはじめた。その後もこの研究は進み、ついに西欧の微積分学に相当するようなものとなった。一方「天竄術」も発展した。係数が数字でなく文字でもよく、未知数が一つでなくてもよかった・・・これは「伏題」と呼ばれ、西欧の行列式に該当するもので、この方法の発明では世界で日本が最初である。p316

 
山片蟠桃の思想
(『日本人とは何か(下)』(p296~310)山本七平
  山片蟠桃は寛延元年(1748)、仲基が世を去った翌々年に生まれた。蟠桃も仲基と同じ懐徳堂で学んだ。この頃には町人の社会的地位も向上し、懐徳堂も設立から22年経っており、初期の雑学的青雲状態は過ぎ内容も充実し、詩集や医書の講義も認められるようになっていた。仲基は西欧を全く知らなかったが、蟠桃はコペルニクスからニュートンに到る西欧の影響が現れている。
  蟠桃は升屋の番頭で、倒産しかかった米の仲買商兼大名貸の升屋を再興し、全国数十藩の大名貸しとなり、仙台藩や岡藩の財政を再建した名経営者であり、今日的に言えば「雇われ社長」であった。彼自身にとって学問はあくまでも一種の道楽であって本業にはしていないが、このことが逆に、彼に誠に自由な視点を与えたものと思われる。
  蟠桃の考え方はその著『夢の代』に現れている。この中で注目すべき点は天文第一の地動説と、無鬼論上下に出てくる「無神論」もしくは「無霊魂論」であろう。これは、いわば朱子学的・儒教的自然主義を突き詰めていく中で生まれた進化論的発想であるが、次にその朱子学的世界を簡単に見ておく。(以上298まで要約)
  「朱子学的思惟によると、この宇宙には「気」(ガス状物質)が充満しており、この「気」が集まれば万物を形成し、散ずれば消滅してまたもとの「気」にもどる。この「気」の集散離合をつかさどるのが「理」(構成原理)であり、それによって万物ができる。この「理」は一切の個物に内在するが、これに「蓋(けだ)し合せて之をいえば、万物の統体(全体)は一太極なり。分ちて之をいえば一物ごとに各おの一太極を具う」といった状態で、これはしばしば田の面に浮かぶ月とたとえられる。いわば月は一つだがすべてがその影を宿しているような状態である。」300~301
  従って、人間も「人ノ生ズルハ草木ノ萌スルガゴトク、ソノ死スルハ枯ルゝが如シ、又其子アルは種実ヲ蒔(まい)テ生ズルガ如シ、スベテ一盛一衰ノ道理生レテ、ダンダント陽気盛ンニナリテモ、亦ツヒニオトロヘ、命尽テ死シ、消散シテ土二帰ス」。また、「鬼神(霊魂)は残る」という者がいるがこれは誤りであると幡桃は次のように主張する。「ソノ魂魄卜云モノ、生アレバ有、死スレバ無、コレ有無卜云テ可也」と。p299
  こう考えると、祖先を祀るといった行為は一体どうなるであろうか。人間は「無鬼=無神論」では死後は「気(ガス状物質)にもどってしまうのなら、祖先の霊を祭るなどと言う行為は、およそ意味がないことになる(p303)・・・これについて蟠桃は、孔子の「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす」を踏まえて、「祖先ノ心ヲヨク考ヘテ、己ノ決断ヲ用イ、無鬼トシテ置イテ如在(いますがごとく)ノ礼ヲホドコスベシ」という。
一方、無鬼論・地動説(蟠桃は地動説だけでなく万有引力の法則も知っていた)の彼は、当然に神話は神話にすぎないという事実、それが神道の信仰の対象であるという事実しか認めなかった。「日本紀神代ノ巻ハ取ルベカラズ、願クハ神武已後トテモ大抵二見テ、十四、五代ヨリヲ取用ユベシ・・・」。大体現代の学説と同じである。
  では彼は、朱子学的な世界観と西欧の天文学・医学との間に矛盾を感じなかったのであろうか。彼は、「天文学ヲ以テ天ト云所ノモノハ、天アリテ後地アリ、地アリテ後人アリ、人アリテ後二仁義礼智忠信孝悌アリ、ミナ人ヲ治ムルノ道ナレバ、コノ件々ハ天アリテ後ノコトナリ、然レバ則ソノ元ハスベテ天ニアリ」としている。
 簡単にいえば彼は朱子学的な発想すなわち「天理即本然之性」をそのまま肯定しており、この点では他の朱子学者と変わりはない。だが彼の説く「天理」はまことに近代的な天文学なのである。ではその天体を動かす原理はそのまま「仁義礼智忠信孝悌」すなわち彼の内なる道徳律であると思ったのであろう。p309~310

 
富永仲基の思想
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p286~295)
  富永仲基(なかもと)(1715~1746)は醤油醸造業者道明寺屋の三男で、大阪の懐徳堂(町人たちが資金を出して子弟や使用人を教育するため設立した私立学校。幕府がその設立を許可した)で学んだ。学生の町人たちはみな「町人的合理性」をもっているから不合理ははじめから受け付けない。そうした雑学的、よくいえば自由闊達な学風の中で、仏典や四書五経、朱子学の宇宙論などを学んだ。
  仲基は「加上」という言葉を用いて、仏典や儒教の教えなどは、釈迦や孔子の教えに新たな解釈が「加上」され発展してきたと考えた。また「加上」は、一、人(部派性)、二、世(時代性)、三、類(用法の多様性)に規制される、つまり、民族文化によって、その加上を規定する傾向が違うと考えた。いわば、加上の原則にさらに「文化の型」を導入したわけで、これは文化人類学的発想と言ってよい。(以上293まで要約)
  これは『翁の文』に記されており、彼はこれをくせと呼び「三教にみな悪しき癖あり。是をよく弁えて迷うべからず」と記す。摘記すれば、一、仏道のくせは幻術なり、二、儒道のくせは文辞なり、神道のくせは、神秘・秘法・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり、という。言いかえれば、一、神秘的傾向、二、修飾的傾向、三、秘伝的傾向である。 そして加上はこのくせを増幅し、始末におえないものにする。そんなくせの輸入は意味がない。「日本にはさのみいらざる事也」である。また日本人のくせ、「秘伝の伝授」といったようなことは「誠に悲しむべし」であり、「其(その)かくしてたやすく伝へがたく、又価を定めて伝授するやうなる道は、皆誠の道にはあらぬ事と心得べし」という。これは簡単にいえば、幻術的・修飾的・秘伝的なものは、みな無価値だということであろう。
  仲基の方法論はまことに独創的・現代的であり、この点ではまさに天才である。西欧では「語の三物」によく似た発想で、旧約聖書を分析し。「モーセ五書」をモーセの著作でなく、さまざまな「加上」によって成立したことを論証したのは二十世紀に入ってからである。仲基を見ると、不思議な人間が現われたものだという気がする。しかし「仏は天竺の道。儒は漢の道。国ことなれば。日本の道にあらず。神は日本の道なれども。時ことなれば。今の世の道にあらず」といった彼は、どのような規範を持たねばならぬといったのであろう。
  彼はもちろん。無規範であってよいと考えたわけではない。彼はいう。「唯物ごとそのあたりまえをつとめ。今日の業を本とし。心をすぐにし。身持をただしくし。・・・君あるものは。よくこれに心をつくし。子あるものは。能これををしへ。臣あるものは。よくこれをおさめ。夫あるものは。能これに従ひ・・・今の家にすみ。今のならはしに従ひ。今の掟を守」ればそれでよく、「是レ天地自然ノ理、因ヨリ儒仏ノ教ヘニ待タズ」であった。
  これは「三教の否定」というより「三教への彼の加上」であろう。一言でいえば、世俗倫理であり、同時に情況倫理であった。フレッチャーの『情況倫理』が出版されたのは一九六六年。西欧キリスト教世界はすぐれて固定倫理の国で、常に「原理原則」を口にし、それを人類普遍の原理としてきた。富永仲基にいわせればそれは欧米キリスト教世界のくせであろう。もっともこのことは、仲基とフレッチャーが同じ思想であったということではない。
  ただフレッチャーがその著の冒頭で引用している「『正しいかまちがっているか』という考えを単純に用いることが理解の進歩を妨げるもっとも大きな障害である」というホワイトヘッドの言葉は仲基を思わせる。そして現在の日本で、仲基の思想を根本から否定する日本人はおそらくいないであろう。もっとも「イデオロギー的偽善」に陥れば別であろうが――。
  「無宗教です」というまじめで勤勉な日本人を見ると私は仲基を思う。ただ残念なことに、彼は余りに早く世を去った。「加上」という概念を導入した彼は、自らの思想も、過去の思想的蓄積への「加上」と考えたであろうし、さらに将来、彼の思想に新しい加上が行われることもまた当然と考えていたと思われる。しかしこれについての彼の言説を聞くことはできない。295

 
石田梅岩の思想
(『日本人とは何か(下)』(p278~282)山本七平
(次に、こうした鈴木正三の思想を継承した町人学者石田梅岩の考え方を見てみる。正三は)幕府初期のまだ仏教強勢な頃の武士であり、後者は儒学がむしろ主流になった時代の農民の子、町家に勤めて住み込みで番頭で終わった人である。梅岩は競歩14年(1729)45歳で退職し、旧都で一般大衆のため小さな講義所を開いた。これが後に広く日本に流布した町人思想すなわち「石門心学」の始まりである。278
 彼の結論は結局正三と同じようになるが、その考え方の基本は「形ある者は形を直に心とも知るべし」であろう。いわば馬が馬の形をしているがゆえに草を食うことが天理にかなっているように、人間は労働して食を得るような形であるがゆえに、その形の通りに、ひたすら働けば天理にかない、安心立命の状態になるわけである。そしてこうすることが自然の秩序に従っているわけだから、同時にそれが社会秩序の基本すなわち「礼」になっていると彼は考える。280
 いわば以上の原則は梅岩にとって士農工商に通ずる原則だったわけである。そして「天理=善」であるから、働くことは善、働かないことは悪となる。言いかえれば勤勉なら善人、怠惰なら悪人で、勤勉か否かが善悪の問題になってしまう。
  さらに彼は倹約を説いた。『倹約斉家論』が彼の最後の著作である。彼は、これに反対する者に次のように言っている。
「・・・汝人間のたのしみは、衣食住の三つといへり、尤(もっとも)衣食住の三つを楽めども、今日のごとくおごりたかぶるを以て楽みとするにあらず。此三つ人の身のやむ事を得ずしていとなむことなり。只不飢(ただうえず)さむからずして心やすらかに過すを楽みとす。周礼に曰、家は高きにあらざれども漏ざれば便よし。衣服は綾羅(あやうすもの)にあらざれども、和暖(あたたか)なれば便よし。飲食は珍しきそなえにあらざれども、一度飽ば便(すなわち)よしといふ。又論語にも、君子は食飽(あかん)ことを求むることなく、居安からんことを求むることなしとのたまへり」と。
 いわば人間は生活に必要なだけの支出をすればよいので、彼が何より嫌ったのは「名聞・利欲・色欲」またそれに起因する虚栄心である。虚栄への支出は際限がない。彼は勤勉と倹約、それに基づく少しの無理もない心の余裕が人間を正直にすると考えた。
  「・・・倹約をいふは他の儀にあらず、生れながらの正直にかへし度(たき)為なり。天より生民を降(くだす)なれば万民はことごとく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆえ本(もと)私欲なきもの也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物、貸たる物はうけとり、借たる物は返し、毛すじほども私なく、ありべかかりにするは正直なる所也。此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし、我願ふ所は、人々ここに至らしめんため也」281
  いわば所有と貸借をはっきりすることが、正直の基本といえる。いわば彼は、資本主義社会の「正直」を主張した人間であった。そして以上の言葉を彼の結論と考えてもよいであろう。彼の弟子は多く、その人たちが後に京都・大坂・江戸に心学黌舎をつくり町人たちの教育にあたった。さらに地方に発展し、主として商人および商業的農民から多くの信奉者を得た。彼もまた一面では御用思想家といえるし、幕府自身がそう考えていたらしい。しかし彼の思想を順守していれば、否応なく豪商や豪農は資本を蓄積していき、やがて幕藩体制を崩壊させてしまう。その点ではきわめて危険な御用思想家であった。そしてこの正三――梅岩の思想が日本人に与えた影響はきわめて大きく、後に日本人の常識のようになり、日本資本主義の基礎となるのである。282

 
民間学者輩出の時代
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p268~272)
  時代は明らかに変わってきた。綱斎という何の社会的地位も持たぬ町人の子の一民間学者が、国家とはいかにあるべきかを論じ、六千人といわれる門弟を擁して大きな影響をその時代にも後代にも与えうる時代がきたのである。・・・いずれにせよ戦国時代と違って武力ではなく思想が人を動かす時代が来たのである。
  そしてこの思想や宗教が人を動かしうることを素朴な形で日本人に強く印象づけたのは、一向宗とキリシタンだったであろう。同時に幕藩体制という「下剋上的エネルギー」が封殺されたやり場のない誉積の世界で、人はその上昇志向をどの方向に向けて生くべきかという探求が当然に要請される。これはまた社会的な問題でもあり、持続的平和は、単なる武力的な弾圧で押えつづけて達成できるわけではない。押えつづければ、″一向宗”が再出現しうるが、一方で、戦国的混乱はもうたくさんだという気持ちもあり、これは徳川末期までつづいているから、この方向へ向かうわけにいかない。(中略)269
「仏法則世法」と説いた鈴木正三
  この点で鈴木正三は後々まで日本人に強い影響を与えた思想を提供したといえる。彼は元来は武士で三河の生れ、家康の部下で関ヶ原には秀忠の下に従軍し、大坂の陣にも出陣したが四十二歳で出家し、『破吉利支丹』という反キリシタン文書を著作している。著作目的はキリシタン化した島原の人びとに、もう一度仏教を伝道するためであったが、この著作にもまた他の著作にも、人間はいかに生くべきかといった発想が強く流れている。一向宗的なまたキリシタン的な宗教的エネルギーをどの方向にどのように昇華するか、いわば、いかなる宗教的救済を万人にもたらすかが、彼の問題意識であっただろう。270
  彼は社会の混乱を「心の病」として捉えた。そしてこの「病の源を尋るに、夢幻の此身を実と留るが故に、日夜心をなやます病也。貪欲・瞋恚(怒り)・愚痴、三毒の念、おこり来り、我を責る事、只、身をおもふ一念を元とする」・・・彼はすべてのものは「悉有仏性」で、人間はもちろん「仏性」をもっており、この「仏性の通りに成る」すなわち「成仏」すれば、前記のような状態から救済されると考えた。ということは。「貪欲・瞋恚・愚痴」という病に自らの内なる「仏性」がかからないようにすること、もしかかっていれば医してなおしてもらえばいいわけで、彼はその方法を「仏法」と定義した。すなわち「仏法は成仏の法也」である。ここまでは仏僧として、別に珍しい考え方ではない。
 彼の考え方は、基本的には禅宗であるが、興味深い点は「仏法則世法」と説いたこと、そしてこれを推し進めれば僧俗の区別もなくなることである。通常の考え方からすれば、前述のような煩悩から解脱するには世俗社会から自らを絶ち、「出家」して僧となり、禅の修行に専念すべきだという結論になる。
  ところが「仏法則世法」で「仏法ハ世間法二異ナラズ。世間法ハ仏法二異ナラズ」と彼はいう。それならば。「世間法」通りに生きて、人間はあらゆる煩悩から脱して自由になれるのか。それは世間法を仏法とし、世間での生き方を修行の手段とすれば、だれでも「自由」になれると彼は説いた。
  ここで彼のいう「自由」とは、次のような状態から脱却することをいう。すなわち。 「・・・夫(それ)愚人の心は、更に人道に住事叶わずして、おほくは唯(ただ)餓鬼畜生の住家として、縁に逢時は修羅地獄に入て、片時も安き事なしとみへたり。しかりといへども是を悦びて、はなるる事を弁えず。かりにも誠の理を聞ては恐あざけってののしる、・・・あきらかに此の理を知て、そこそこをはなれて立あがり、自由なる身となるべし」(中略)271
  以上のような状態から脱して「自由」になるために「仏法=世法」には、具体的にどのような方法があると正三はいうのか。それは原則をいえば実に簡単で、日々の業務を修行とすることである。これをさらに簡単にいえば「労働=成仏のための修行」とすることである。彼の思想の基本、いわばすべての者に修行をさせ、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒による病から解脱させて仏性そのものを生きさせようという方法論は、『四民日用』に示されている。四民とは士農工商のこと、各人がその社会的任務を修行として行えばそれでよいわけだが、この点で問題なのは農工商であり以下にその要約を記そう。(以下略)272

 
自己の存在意義を未来におく日本で初めての思想
(『日本人とは何か(下)』山本七平(259~262)
  浅見絅斎のような思想家が出てきた社会的背景には、長く続いた粗暴な下克上的上昇社会の一応の″終焉″があった。確かに世の中は平和になった。それを歓迎しない者はいないが、同時に社会は士農工商と固定され、農民から太閤へという秀吉的な夢は消えてしまったように見えた。その意味では野心的な人間は鬱屈した状態にならざるを得ない。絅斎の父が財産を蕩尽しても絅斎とその兄の教育への投資を惜しまなかったのは、これからの上昇は学問によるしかないと考えたからであったが、科挙のない日本では、その学問は下剋上的上昇の直接的な手段にはならなかった。簡単にいえば、前に記した宋の真宗の詩にあるように。経書を学べはその中から黄金や馬車や美人が跳び出してくるわけではなかった。
  こういう状態の中で。絅斎は自己の存在意義を未来に置いた。その思いは『靖献遺言』の「燕歌行」に現われている。主人公は処士劉因、モンゴル王朝のフビライ汗の時代の人、処士とは「君主に仕えざる士」であり、この章は「劉因は・・・保定容城の人なり」ではじまる。保定は尭舜が都したと伝えられる地、いわば中国発祥の地だが、まず契丹の支配下に入り、ついで遼、金の支配下にあり、さらに全中国が元に征服されるという歴史を経てきた。いわばすでに約三百年間、中国の領土ではなかったわけである。そして彼の時代にはすでに中国そのものが消えて、モンゴル族の元の王朝になっていた。そしてフビライ汗は劉因の名声を聞き、何とか彼を仕えさせようとしたが、劉因はことわった。彼は、たとえその支配が何百年つづこうと、夷秋の王朝に正統性を認めることはしなかった。
  絅斎は彼を自己の生き方の規範としていたように思われる。彼もまた多くの諸侯から高禄で招聘されたがすべて断わり、弟子の三宅観瀾が『大日本史』編纂要員として水戸の招聘に応ずると即座に破門している。いかなる理由があろうと。正統性のない権力に仕えるべきではないのである。劉因も貧しかったが絅斎もまた貧しかった。だが決して自らの信念を曲げようとせず、その著作とその生き方が、必ず後代に生かされると信じて疑わなかった。絅斎は劉因の記した「孝子田君の墓表」を引用し、現代文になおせば、次のようにいっている。
「ああ天地は至って大きく、万物は至って衆(おお)い。而して人間は万物中の一つとして天地間に存在しており、その形はと言えば、天地に比して極めて微小である。・・・
  しかしながら、たとえその形が微小であっても、天地に参(まじわ)って存在しているものがある。たとえ時間に於てはしばしであるといっても、至広至大の天地の無窮と相終始するものがあって存在している。たとえば孔子や孟子の如く、伯夷や叔斉の如く、世界の存在する限りその教訓が遺り、万世の末まで人道の手本をとどめてさえおけば、たとえ体は数千年の昔に死んでしまっても、その心は数千年の後までなお生きている。これを天地と共に参るといい、天地と相終始する者があって存在しているというのである……」
  劉因にとっては、たとえ滅びてしまっても中国は絶対であり、それを絶対として生きることが、自分が生きるということであった。それは彼にとっていわば「創造から終末」まで貫く絶対的な規範であり。それを守ることが後代に自己を生かすことであった。やがて元は滅び明の時代が来た。彼は生きて中国の復活を見ることは出来なかったが、それはいっこうにかまわなかった。
  ここに劉因に託した絅斎の心情が表われているであろう。彼は、簒臣政権の幕府が消えて天皇制が復活する時代を目ざして生きていた。そして劉因が教育と自己の生き方そのものを後代に残して、それによってあるべき正統性を回復しようとしたように、絅斎も同じことを行なった。彼は単に著作だけでなく、生き方そのものもまことに峻厳で、一分の妥協もしなかった。前述のように彼は貧しかったが、諸侯の招聘をすべてことわった。一つの思想を生きることに生き甲斐を見出す、戦国時代にはない新しいタイプの出現である。p262

 
幕府を非合法政権とみなした浅見絅斎の思想
(『日本人とは何か(上)』山本七平(p256-258)
  天皇を絶対とした闇斎の正統論を幕府が認めて、彼が幕府の客老の師であったことは、以上の点から別に不思議ではない。だが前述のように、この考え方を一歩進めると、幕府にとってきわめて危険な思想にもなりうる。
  絅斎はその一歩を進め、幕藩体制を認めなかった。幕府も藩も、排除さるべき非合法の存在と見たのである。おそらく彼は、このような見方をした徳川時代の最初の日本人であろう。
  彼は朱子の「正統の三原則」を厳密に日本にあてはめて見た。すなわち「(一)夷秋、(二)賊后、(三)簒臣は正統とせず」である。そういった者の支配がどれだけ長く続こうと、またその支配権が全国に及ぼうと、またその統治がきわめて巧みであろうと、正統でないものは正統でないと彼は考えた。現在われわれが軍事政権は正統でないと見るのと同じである。しかし、このようなことを幕府の統治下で公然と主張することはできない。
  そこで彼はあくまでも正統を絶対として、正統ならざる者にはたとえ処刑されても仕えなかったような八人の中国人を選び出し、その評伝を『靖献遺言』として公刊した。簡単にいえば、この著作は正統を絶対化してそれに殉じた「殉教者列伝」の観があり、中国人の評伝を記すという体裁をとりながら、それがそのまま幕藩体制の否定となるように記されている。
  彼がこのような体裁をとったのは、単に、幕府の弾圧を回避するためだけではなかった。 「空言を以て義理を説くも、人を感動せしむること薄し。事蹟を挙示し、読む者をして奮然として感憤興起せしむるの愈(まさ)れるに如かず」 と記しているように、朱子学を絶対化するなら、ここに記されている八人のように行動すべきだと説いたわけである。これもまた幕府にとって少々困る問題であった。というのは幕府は朱子学を官学としているから、これを真っ向から否定するわけに行かない。
  さらに絅斎は「朱子学は絶対である」と言っただけで、そこに示された規範を自己の絶対的規範としてそれを行動に移さない人間を真の朱子学者とは認めなかった。この非常に厳しい自己規定は李退渓の『自省録』を思わせる。そして彼は人びとがこの「殉教者列伝」に感動すれば「幕府は自らその勢を失い、皇室古に復らん」と信じ、それを目的として記したわけである。刊行は元禄二年(一六八九年)である。
  『靖献遺言』の内容をいま細かく記す余裕はない。簡単にいえば幕府は天皇から政権を奪った「簒臣」であるから正統性はなく、諸藩とともに排除されて、政権は天皇に返上さるべきだという主張である。この発想は彼の思想を継承した栗山潜鋒によってさらに明確になる。
  だが奇妙なことに、では統治権を行使する天皇の下に、どのような組織の政府が構成されるべきかについては、絅斎は何も記していない。もし中国を模範とするなら、聖人の教えを試験問題とする科挙を実施し、聖人の教えを知悉した官僚すなわち士大夫でそれを構成すべきなのだが、この発想は彼にはなかったと思われる。
  明治維新への道はこの書によって開かれたといえるが、彼の考え方は、天皇の正統性さえ絶対化されれば、その下における政治体制の構成は全く自由だということになる。それは、西欧の体制がよければ。それを持ってきてもよいという発想にもなり得た。もちろん絅斎にはそういう発想はなく、さまざまな面で西欧から摂取すべきものは摂取したらよいとする考え方が出てくるのはさらに後代のことである。
  西欧の多くの国では、封建制を脱して絶対王制となり、やがてそれを脱して近代的な民主主義体制へと移行するが。日本もややこれと似た経過をたどっている。そしてその第一歩へと踏み出したという点で、浅見絅斎は忘れることのできない思想家である。p258

 
江戸時代の民間学者がなぜ政治哲学を論じるようになったか
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p250~255)
  学問を、僧侶および公家という名の「一部の宮廷貴族」が握っているという点では、その状態はむしろ西欧に近かったと言ってよい。これは徳川時代のはじめでも変わりはなく、今では儒者とされる林羅山も身分は僧侶である。この時代には日本にはまだ儒者といった概念がなく、「僧侶でない儒官」の出現は羅山の孫の信篤のときであろう。
  ところが幕藩体制による「平和時代」の到来とともに多くの人が学問に目を向けだした。ここには家康の学問好きと奨励も作用していたのであろうが、「これからは学問の時代だ」という風潮もあったらしい。簡単にいえば「戦国は武力の時代、これからは学問の時代」ということである。そしてこういう場合の日本人の意識の転換は常に速く広く、この傾向は武士・農民・町人にまで及んだ。いわば学問は「僧侶と公家」の独占でなく、「民間学者」が活躍する時代となったのである。そして「町人学者」の出現は、東アジアにおける日本の特徴である。p251
  徳川時代の初期もまた歴史ブームであった。林羅山は司馬光の『資治通鑑』にならって『本朝通鑑』を著わし、水戸では司馬遷の『史記』にならって紀伝体の『大日本史』を編纂していた。さらに世の中が平和になると、自らの過去を振り返ってみようという風潮が生じ『太平記』が広く読まれ、また「太平記語り」という、これを一般民衆に読んで聞かせる職業も出てきた。こうなると少なくとも承久の乱以降は、幕府とは武力を行使して朝廷から政権を簒奪した者と見るものが出てきても不思議ではなく、果して幕府は合法的な政権なのかという疑問も生じてくる。
  徳川家もまた一諸侯であるという意味ではプリムス・インテル・パーレス(同輩中の第一人者)にすぎず、幕府とは徳川藩の政府なのか日本国の政府なのか明らかでない。幕藩体制とは「戦国時代の凍結」であっても、戦国的体制を一掃した新しい体制ではない。もし何らかの正統性らしきものを主張しようとするなら、天皇より将軍に宣下されたということであろう。いわば「天皇より将軍に宣下されたがゆえに幕府は統治権をもつ。それゆえこれに反抗する者は叛乱である」とでもいわないと、同輩中の第一人者という位置以上の権威は保持できない。これは幕府自身が天皇を絶対としなければならぬことを意味する。そしてその上で、朱子学を援用して社会を秩序づけねばならない。これが林羅山らの御用学者の任務であった。
  この点、幕府は奇妙なジレンマがあったが、以上のような見方で一応このジレンマを回避していた。朱子学に基づいて天皇の正統性を強く主張したのは絅斎の師の山崎闇斎だが、幕府はむしろこれを歓迎し、彼は秀忠の庶子客老保科正之の師であった。いわば天皇絶対が朱子学的に論証されれば、その天皇から宣下された将軍の幕府もまた絶対化できるからである。この点では幕府が導入した朱子学は、幕府の「御用哲学」になっている。
  林羅山は意識的にそれを行なったであろう。しかし羅山を「腐儒」と批判した闇斎とて、それが幕府の統治権を保証するという点では基本的には変わりはない。しかしこれが、ほんのわずかにずれると、逆に、幕府にとっての危険思想になりうる。というのは、ある点までは幕府にとって有利だが、これをもう一歩進めると、「天皇が正統な君主なら、幕府が統治権を持つのは歴史的に見ておかしい」という考え方が出てくる。p254   とはいっても現実に日本を統治しているのは幕府であって天皇家ではない。その歴史はすでに五百年近くつづいており、当時の儒者は将軍を「皇上」「国王」と呼び勅使の下向を「来聘」といい、国学者さえ幕府を「江戸の朝廷」と言っていた。当時の現実をそのまま言葉で表現すれば、そうなって不思議ではないし、以上の見方を進めれば天皇無用論か、少なくとも無視論になる。ではこの見方が幕府に有利かといえば、必ずしもそうはいえない。もしそうなると、徳川家より力ある者が出現すれば。当然にその者が「天下人」になってよいことを認めることになるからである。これが幕府のもつジレンマであった。p255
 
江戸時代の民衆生活
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p234-246)
 徳川時代の成年・結婚・夫婦財産制・借家・離婚・養子・聳養子・親権・入夫・遺言・相続・隠居等について記した。・・・これは徳川時代前半期末から後半期にかけて、京・大坂を中心とする「上方」のこと、そして一部が江戸と共通するが、日本中がみな同じであったわけではない。しかし大体において、どの地方でも「貞永式目」的な発想が基本になっていたとはいえる。これが徳川時代の、普通法下における一般人の生活形態の骨子であった。(以上要約)
成年
  徳川時代は大体十五歳(数え年)が成年であった。「すべて人間生まれてより十五才迄を幼といふ廿才迄を少といふ三十才迄を若といふ」で「凡ソ十五歳未満ヲ幼年ト称スルコト一般ノ通例ナリ」で、今と同様、犯罪をおかしても刑罰は大人よりはるかに軽かった。・・・ただ多くの場合は「親子と申ても最早十五歳以上になれば一人前の男と申すもの」で、ここで、「元服」を行う。「しかれどもこの元服は法律上の要件にあらずして、単に成人たることを公示する社会的儀式に過ぎざるもの」であったから、必ずしも十五歳に行う義務はない。ただ「婚姻年齢につきては慣例必ずも一定せざりしも、男女とも十五歳以上を通例とせしに似たり」で、ここで結婚ということになる。p234
結婚(以下要約)
  徳川時代の結婚は通常「親がきめる」と一般に思われている。この場合、「父母は男女子に結婚を強ゆること得ざるにあらずといえども、予めその同意を求むること普通の順序なり」であった。
夫婦財産
  徳川時代の結婚はある意味で相互契約であった。これは「夫婦財産制」が明治の旧民法の時代よりはっきりしていて、妻は夫に対して自己の持参した持参金・土地・諸道具・着物等への、明確な権利を主張できたからである。徳川時代には「闕所」(けつしょ)という財産没収の刑罰がある。この場合の規定を見ると(一)妻名義諸道具、(二)妻持参金、(三)妻持参不動産、(四)妻名義不動産、(五)妻名義金子があったことがわかる。そして夫が闕所になった場合も妻名義のものは関係がない。  問題は(二)妻持参金、(三)妻持参不動産である。「持参」した以上、夫のものと見なされて闕所のときは没収される。こうなると所有権は完全に夫に移転したように見えるが、離婚のときは妻名義のものはもちろん、持参金も持参不動産も完全に返却しなければならない。さらにややこしいのは、(四)妻名義不動産や(五)妻名義金子は、たとえ妻がそれを持って嫁入ってきても、持参金でも持参不動産でもない点である。それはあくまでも妻のもので、夫はタッチできない。仲人とはこういうことの契約の取り決めを仲介し、またその保証人になる人間のことで、そこで持参金の一割り謝礼をもらうのが普通であった。
婿養子
  だが、日本独特の聳養子との縁組となると、少々事情が変わって来る。子供がない家へ敷銀を持って養子に来たような場合は当然に養家を相続する権利を生ずるが、「聟養子の場合は往々養子は家名のみを相続し、遺産に至りては家女これを相続することあり」であった。もっとも当時は、武士を除く普通法の世界では、後述するように鎌倉時代同様、自由相続制だから、娘と聟養子に相続させる場合も、また聟養子だけに相続させる場合があっても不思議ではない。ただこれは例外で「聟を大切にしたる事、めずらしき親心と、世の取沙汰に合けり」であった。
離婚
  離婚は、「三行半」といわれる離縁状を妻にわたさねばならぬが、これは、だれと再婚しようと文句はいわないという証文であり、大体次のように記された。
一、離縁状之事 其元との不熟二付双方熟談之上離別致然ル上は此後何方江縁付いたし候共差構無之為後日仍如件  年  月  日  夫名      たれどのへ
  以上は典型的な協議離婚である。離婚の権利は原則として夫にあった。前述のように妻またはその実家が申し出て夫に離婚を求めることはできたが、許否は夫の権利であった。また夫側に問題があり、しかも離婚を拒否された場合、訴え出ることはできたが昔も今も日本人はこういう問題を法廷に持ち出すことは好まなかったらしい。さらに当時は、儒教倫理を基に、妻の方から離婚など申し立てるべきでないといった風潮が強かった。そこで「縁切り寺」に駆け込むというケースも相当にあり、この寺にはさまざまなケースが記録されているという。p240
養子
  このようなトラブルもなく結婚は継続したが、子供が生まれないという場合もある。こういう場合は養子をもらうのが普通であった。この養子は、成人した娘の夫として聟養子をもらう場合と違って、大体、幼少年を迎え、養家と実家の間で証書を授受するのが普通であり、保証人が必要であった。養子は少年の場合も、少女の場合もあった。(中略)
 日本のような養子という契約に基づく親子は中国にはなく、韓国にも原則としてなく、例外的に限定された血縁の中でのみ許された。そこで日本の養子は「異姓養子」といわれ、儒教の影響が強かった徳川時代には、これに反対する意見もあったが定着しなかった。
親権
  後述するが日本には父権と親権はあっても大家族制の国のような家長権はなかった。鎌倉時代の惣領制はやや家長権を思わせるが、すでに述べたように、それは急速に崩壊して消失していた。一方、親権はきわめて強く、「勘当」という懲戒権をもっていた。これも中国や韓国のように血縁が絶対視される国にはないといわれる。勘当は親の子に対する懲戒権だから、これを取り消す宥免権はもちろんあった。
 正規の勘当は町中五人組に届け、勘当帳に記載する。これをすれば、その子の行為には一切責任を負わないでよい。この正規の勘当を「本勘当」といった。これに対して実際には勘当して家が追い出しておきながら、この手続きを行わないのを「内証勘当」といった。そして隠居しても親権を喪失するわけでないから、相続をした子供を勘当できる。すると相続は無効になる。これは鎌倉時代の「悔還し」と同じような効力をもっていたから、隠居は、子による扶養に不安を抱く必要がなかった。p241
借家法
  幕府の借家法は現代にやや似て、借家人保護の色彩が強い。いわば家賃を払っている限り、家主は一方的に立ちのきを請求することはできない。ただ家賃滞納と特別な事情がある場合は「店明(たなあけ)」を請求できた。家の修理は家主の責任である。また家賃を払わず居すわっている場合でも、家主は、借家人の意に反して家具等を差し押えることはできなかったらしい。
隠居
  このようにして日々を送るうちに、父は老齢(といっても現代から見れば若いが)となって隠居する。「隠居とは生前において家名と家督(家産)とを相続人に譲渡すの行為なり」であるから、徳川時代も鎌倉時代と同様、生前相続が普通である。ただこの際「隠居銀」という形で一部を留保して手許におき。資産のある者は隠居所を建ててここで老妻と暮らすのが普通であった。p242
相続
  では一体だれが相続するのか。この点では鎌倉時代とやや違って「徳川時代の法定の家名相続人と称すべきものは、惣領男子なり」で「惣領(長男)が跡を取るは天下の掟」といった言葉はさまざまな文章に頻出する。だがしかし、これは「タテマエ」で、「惣領が家名相続の重任に堪えざるか、また父の意に叶わざるときは、父これを退身せしめて、次男を相続人に指定し(指定相続人)、あるいはまた実子をことごとく退身せしめて他より養子なして、家督を継がしむるを得、実子が勘当されまた出奔したる場合もまた同じ」であった。この点は「貞永式目」以来、変化がないといってよい。そして「親父の相続人指定権は甚だ自由なるものなり」であった。・・・
 大体以上のような形で、「家存続」のため、ある種の能力主義的勤務評定に基づいて相続順位がきまる。そうなると惣領に「長子権」があるとはいえなくなる。いわば「惣領が有能ならば、それが跡を取るのは天下の掟」という所が常識だったのであろう。いわば親権の中に相続人指定権も含まれるわけで、今のような法定相続でなく、この点では鎌倉時代と余り変わらない自由相続制である。p246 遺言
  生前相続といっても、人間は頓死する場合もある。そこで「遺言」を書くのは一種の法的義務であった。というのは。自由相続制ではこれがないと相続人が決定できないからである。だが法律はもちろん。遺言なき頓死の場合も規定しておかねばならない。「貞永式目」の「未処分の跡の事」は前述したが、徳川時代の法律は慶安四年(一六五一年)の「頓死之者は、親類町之者立会、節目に跡式相立可申事」(『町中跡式定』)とある。p246

 
和時計で蓄積された伝統技術が日本の精密工業の基礎をつくった
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p210~228)
  人類の長い歴史において、灯火によって昼を夜へと自由に延長できるようになったのは最近のこと、それも電気が自由に使える先進国のことであって、昔は昼と夜で生活の仕方を変えねばならなかった。こういう時代には。日出・日没が生活の区切りとなる。そしてその区切りの中で、時を区切った方が便利であった。いわば生活に密着した時の計り方、言いかえれば「生活時間」であり、そこで徳川時代には、天文暦学の専門家はこれを用いず定時法を用いており、一般人は「生活時間」に不定時法を用いていたわけである。
  これを日本的にいえば「明け六つ」と「暮れ六つ」で一日を区切り、その間をまた区切るということである。こういう時代には、今の時計のように、二十四時間、同じ速度で針がくるくるまわっている時計などは不便で使えなかったのであろう。この不定時法の時計を造ろうと思ったら、大変である。いわば夏は昼には時計の針がゆっくり進み、夜にはその分だけ早く進む。そして冬にはこの逆になる。この、世にも不思議な不定時法時計を造り出したのが日本人であった。(p210)
  この時計をつくるには、まず季節ごとの「明け六つ」と「暮れ六つ」を確定しなければならない。徳川時代の灯火は「行灯」であって余り明るくなく、しかも菜種油は高価であり、これが櫨の実の蝋燭となるともっと高価だから、昼と夜の生活の仕方を変えねばならない。そこで城の櫓で太鼓を打ったり寺院の鐘を鳴らしたりして、明け暮れの「六つ」を知らせる。このことは、古くから行われていた。そして長い間この「六つ」の定め方は一に人間の感覚によっていた。
  「明暮ノ六ツ甚ダ定メカタキモノ也、先ツ六ツヲ定ルニハ大星パラパラト見エ、又手ノ筋ヲ見テ細キ筋ハ見エス、大筋ノ三スヂ計り簡成(かなり)二見ユルトキヲ六ツト定ム・・・」とあり、さらに曇天のとき、満月のときにどう定めるかの記述がある。(p214)
  太陽が地平線下に入っても、光の屈折・散乱のため相当に明るい。これは太陽が出るときも同じで、これが「黄昏」「薄明」である。そして不定時法は生活時間だから「明るい間」は昼である。天文学では太陽が地平線下十八度にあるときまでを「薄明」「黄昏」というが、徳川時代には七度二十一分四十秒のときをそれぞれ「明け六つ」「暮れ六つ」とだけ暗くなるまで、また明るくなるまで、少し余裕を置いたのであろう(p215)
  (この)不定時法時計の中の傑作で、その中での最傑作は「波板付尺時計」であろう。「尺時計」は長さが一尺(三十・三センチ)なのでこの名があるが、最も初期のものはこの三倍ぐらいの大きさがあった。まず面白い点は、重錘時計には丸い文字盤もくるくるまわる針もいらないはずだという発想の転換である。重錘が振子によって一定の速度で下がるから針が正しくまわるわけ、それなら重錘に横向きの針をつけ、そこに定規のような文字盤をつければ、それで十分で、重錘の垂直運動を針の円運動にかえる面倒な装置はいっさい不要になる。そしてこの定規型文字盤の目盛は上から六・五・四・九・八・七・六・五・四・九・八・七とすると、「暮れ六つ」に巻き上げておけば二十四時間、自動的に時を示してくれる。
  この定規型文字盤は「節板」といい、これを割駒式にして文字を動かすという形になったが、すぐ「二十四節」ごとに数字を動かすより、二十四枚の節板をつくってかけかえた方がはるかに簡便と気づいた。二十四枚というが裏表を使えば十二枚、さらに春と秋で同時刻になるからその半分の六枚でよいことになるのだが実際は七枚で、この一枚は片面だけ、厳密にいうと六枚半であった。(p219~220)
  尺時計の進歩は、これで止まらなかった。前記の裏表六枚半の「節板」を一枚の板に入れ、しかも時に応じてその数の鐘を打つという「波板」もしくは「波形板」文字盤の時打時計が造られるようになった。以上の説明を読み、次ページの図と写真を見て下されば説明の必要はないであろう。すべての尺時計のように、上から「六五四九八七六五四九八七六」の時刻が刻まれている。そして縦に十二等分され、それぞれの線の上に「三八節」とか「二八中」とか記されている。いうまでもなくこれは「三月節(清明)」と「八月節(白露)」であり、前の表を見て下さればこれの昼夜の時刻が同じことがわかる。
  写真に示されているように。上から横棒が下がって来て、それに左右に動かせる針がついている。「二十四節」を見て、その針を所定のところに動かせば、波形の目盛りが時 を示してくれるのである。これで節板を取りかえる手間もいらなくなり、だれでも自由に時計を調節してこれを用いることができるようになった。ここで日本独特の技術である不定時法時計はほぼ完成したと言ってよい。(p223~226)
  この世界で唯一の、最高の技術的水準に達した「不定時法時計」も壊滅するときが来た。新しい明治政府は太陽暦と定時法を採用することになり、明治五年(一八七二年十二月三日を明治六年一月一日とし、定時法を採用した。和時計の技術は不要になり、同時にすでに「工場生産」の時代に入っているアメリカのボンボン時計が、無関税に等しい状態で日本に入ってきた。
  しかし、打ちのめされた彼らが輸入されたボンボン時計を分解したとき、その構造が意外に単純であることを知った。確かにボンボン時計は、和時計よりも進歩したものであったであろうが、定時法時計の原理は、不定時法時計よりはるかに簡単である。彼らはすぐ定時法の「尺時計」をつくり、目盛りをⅠⅡⅢⅣ・・・Ⅶにかえた。二挺棒天符も、印籠時計の割駒も、その外側の昼夜百刻の目盛りも六枚半の「節板」も「波形板文字盤」も必要でなかった。
  一度は壊滅した和時計もたちまち洋式時計として再生し、失業した藩の時計師たちは会社を創設してボンボン時計を造り出した。工場生産というシステムでは劣っていたが、二百数十年蓄積した技術は強い。日清戦争(明治二十七~八年=一八九四~一八九五年)ごろ、アメリカ輸入のボンボン時計は十四~五円だったが、日本製は四~五円、三分の一の価格である。たちまち日本製はアメリカ製を国内から駆逐し、明治三十五年(一九〇二年)ごろには中国、インド、東南アジアからアメリカ製を駆逐してしまった。経済摩擦第一号かもしれない。p227
  日本はもちろん工場生産方式の導入と、新しい西欧の技術の習得も怠らなかった。文久二年(一八六二年)幕府暦局御用時計師大野規周はオランダに留学し、時計だけでなく航海用クロノメーターと測量機械の製作技術を五年間学んで慶応三年(一八六七年)に帰国した。彼は和時計の日本技師長というべき位置にいた人であったから、必要なことは実に能率的に吸収してきた。・・・(p227~228)
  和時計の遺産はそれだけではなかった。徳川時代の時計師は、時計だけでなく様々なものをつくっている。大蔵永常の『農具便理論』に、彼が揚水にも利用すべきだとして図入りで説明している消防ポンプの図をよく見ると、その作者は時計師である。こういう時計氏が蒸気機関を見ればすぐその構造がわかる。ペリーの来日で蒸気船を知った日本人が、すぐ同じものをつくっても不思議でない。(p228)

 
幕藩体制下の経済発展が日本を鎖国から開国へと導いた
(『日本人とは何か(下)』山本七平(p189-205)
  藩が多くの産物を売るには、船で運ばねばならない。河村瑞軒が全国航路を開くとすぐに諸藩がそれを利用して大坂へと産物を送った。家康は江戸を経済の中心としようと考えたが、これは成功しなかった。大坂は立地条件がすぐれていただけでなく。商都としての条件も整っていた。前述のようにこれらの船が松前から乾鰊を運んできたが、これと乾鰯は新しく起こった綿作や藍作に不可欠のものであった。綿作の中心は河内から瀬戸内海沿岸であり、これらによる付加価値の高い商品は、さらに大坂に富を集中させた。
 これらの輸送に用いられた北前船は有名だが、この物資の大集散地大坂から人口百万の大消費都市江戸への物資輸送にも船が必要であり、それが菱垣廻船・樽廻船である。当時の江戸の灯油の三分の二は四日市から来たという。酒・醤油などの液体の輸送には樽が用いられたが、不思議なことに。米俵と同じように、甕よりも樽は、東アジアでは日本だけらしい。樽と紋章は日本とヨーロッパの特徴と言った人もいる。
  大坂は幕府の直轄地で、大名がここに屋敷をもつことは禁じられていた。そこで町人の家を借りて、藩から武士が出張して来て藩の物産を売ることになる。これが蔵屋敷だが、やがてその販売の実権は蔵屋敷の主人である蔵元の手に移った。いわば藩の代理店である。彼らの多くはその売上を管理し、同時に融資を行う掛屋も経営していた。藩はしだいに彼らから借金をするようになり、二年先、三年先の物産まで担保に入っていた。
  これらの物産の取引所が会所で、米・塩・灯油・綿は毎日のように取引が行われ、一七三〇年ごろから公然と信用取引も先物取引も行われるようになった。そしてこの取引所の代表的なものが大坂堂島の米会所である。蔵元の米は入札に付される。落札したものには米切手という倉荷証券がわたされ、これを倉庫に持って行くと現物が渡されるという仕組みになっていたが、彼らの多くはそれを会所に持って行って売り、また米が必要なものは相場が下がったときを見計らって会所で米切手を買った。(中略)
  この売買は投機であり、巨利を得る者もいれば倒産する者もいる。・・・
では一体なぜ相場が高下するか。「相場の高下は人の売買するに付けて高下するといえども、これをなすは人力の及ぶ所にあらず。天地自然の道理なり」とか「相場は人の和(人間の心理の集計)」といった言葉が出てくる。いわば人びとが自分の利益のみを考えて行動すると、その総計が、市場原理という鉄則になり。それが「天地自然の道理」の「見えざる手」のように作用して相場がきまると記されている。ここにはすでに資本主義的発想の芽があるといってよい。・・・
  徳川時代はしばしば「米遣いの経済」といわれるが。それはむしろ「米が貨幣にリンクした経済」といってよい。そしてこのような大きな取引が行われることは、その背後に米だけでなく、膨大な商品の蓄積があったということである。そしてそれを可能にしたのが「大開墾時代」だが、そのため不可欠なのが農具の改良であり、その背後にあったのが鉄である。豊富で廉価な鉄がなければこのような状態は現出しない。(日本には原始的設備でも精錬できる砂鉄が豊富にあった)
  また、「それらを生み出すには、新しい「経済的人間」が出現しなければならなかった。そしてこの「経済的人間」は身分を問わなかった。(そして)・・・その主役は町人であった。(中略)
  「このようにさまざまの企業が起こり、藩の産出する米をはじめとする商品を売買するようになると、当然に金融業の両替商や送金などを行う飛脚問屋を生ずる。そして決済手段として為替手形、小手形(約束手形)。振手形(小切手)、預り手形等が登場する。預り手形は両替商の発行する預金証書だが、これをそのまま支払いに当てることが出来たので銀行振出の小切手に似た点もあった。すでに当座預金があり、当座貸越があった。こうなると両替商の倒産の社会的影響は大きい。
  そこで、「両替商の両替商」である「十人両替」ができて、その筆頭が鴻池である。このようなシステムは、関ケ原からほぼ一世紀の間に完備したが、これはごく自然発生的なもので、だれかがプランを立てたわけでもなく、どこかの国のシステムを導入したのでもない。いわば「鎖国」という封鎖された世界の中で、生産から運送・流通・販売・金融まですべて自らの手で行なっているうちにこのような世界を現出したのである。」(p200)
  幕府が紙幣を発行したのは幕末になってからだが、多くの藩では藩札を発行した。しかしその乱発は物価の騰貴を招き、民衆暴動のもととなった。そのため、藩札の発行は豪商、主として両替商の保証の元に発行せざるを得ず、ほとんどの藩が、蔵元や両替商や問屋に二重三重に拘束されるようになった。   こうして多くの資本を蓄積した大町人たちは、もはや投資先がないという、鎖国下の閉塞状態の中での金余り現象という奇妙な状態となった。(中略)
  幕藩体制は確かに日本の経済を発展させた。そしてその発展はついに、田沼意次が老中の頃(1772~1788)、鎖国はすでに無理だという状態になっていた。単に欧米からの刺激だけでなく、日本自体がもう鎖国に耐えられない状態になっていたのである。(p205)
 
 
家康の一国一城制がもたらした意外な経済的効果
(『日本人とは何か(下)』山本七平(186-188)
そしてこのほかにもう一つ見逃すことができないのは、兵役と軍事的労役がなかったことだが、このことは意外に忘れられている。家康は一国一城制を敷き、新規の築城は禁止し、修理・拡張もまた厳しい許可制にした。彼の目的はもちろん別の点にあったが、これが結果として非生産的な軍事的労役をなくしてしまった。徳川時代にはもちろん夫役があり、そのために「人別帳」があったことはすでに述べた。水利や築堤などのための夫役はもちろん農民にとって楽なものではないが、いずれはその経済的効果が自らに還元される。
 ところが軍事的労役はそうではない。これがなかったことも、経済的にプラスであったが、さらに大きかったのは兵役がないことであった。 まさに徳川三百年の平和、島国のありがたさである。だが大陸国家の一部である韓国はこの点まことに気の毒であった。金教授は前掲書(『儒教文化圏の秩序と経済』)で次のように記されている。
  「・・・農民負担としての兵役は、軍役と徭役に分けられた。この身役は最も農民を苦しめたものであり、しかも、農業生産力を低下させる重要な原因になった。軍役は、男子十六歳から六十歳までの者に軍籍を持つようにし、非番者二人が、現役者一人の土地を耕作してその家族を養う制度である。しかし、だんだん変質して、すべての非番者に布二匹を賦課したりして、重い負担をかけた。また、佳役は、宮廷、山城、堤防など、いわば土木工事に農民を動員するものである。
  農民は、自前の食糧を負担し、牛馬も動員しなければならなかった。賦役とも呼ばれるこの負担に耐えられず、廃農、夜間逃走をする例が多かった。  のような、農民の過重な租税その他の負担は、農民は勢力ある家の奴婢になるか、流浪するまでに追い詰める場合が多かった。農民が逃げた場合は、残った農民に負担を転嫁したので。ますます農民の負担は重くなったのである」
  もちろん日本の農民も楽だったわけではない。しかしもし徳川時代に十六歳から六十歳までの男子に軍籍があり、非番者が二人で現役者一人の土地を耕すといった負担がかかっていたら、多少の余裕も消えてしまったであろう。
  徳川時代の大土木工事の多くは、幕府が、富裕な大藩に「御手伝」を命ずるという形で行われている。前述の伊達綱宗のように「小石川堀浚い」を命じられたような場合、仙台藩の農民に「自前の食糧を負担し、牛馬を動員」させて行うわけにはいかず、人足を傭わなければならない。
  幕府の目的は一面では藩の弱体化で、農民の搾取ではない。そして藩がその負担にたえようとすれば、富藩政策をとらざるを得ない。こう考えると、兵役と軍事的夫役がなかったことが経済の発展に与えた影響もまた無視できないと思われる。
  人口増加にかかわらず自給自足をほぼ達成し、生活水準を向上させ、江戸文化を形成していった背景には、以上のような経済的前提があった。擬制の「五公五民」が、もし擬制でなく本当に徳川時代の農民を拘束していたならば、近代の基礎は形成されなかったであろう。検地という、徳川時代を通じてほぼ二回しか行い得なかった測量による「石盛」を基準として課税するという方式は、悪名高い徴税請負制や人頭税よりも、はるかによい方式であったであろう。

 

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