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山本七平語録

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百人斬り競争


                     
 
論題 引用文 コメント
論争の発端(イザヤ・ベンダサンと本多勝一)
朝日新聞「中国の旅」
s47年『諸君』2、3、4、6月号
s46年11月5日 朝日新聞「中国の旅」"競う二人の少尉"掲載

s47年『諸君』1月号 イザヤ・ベンダサン「朝日新聞のゴメンナサイ」
  朝日新聞の「中国の旅」は、虐殺事件の責任者個人を告発しているのではなく、「私の責任といって謝罪すれば責任が解除される」と考える日本的な考え方が背後にあると指摘。

s47年『諸君』2月号 本多勝一「ベンダサン氏への公開状」
私は、日本的な謝罪の無意味さについてはすでに指摘している。南京では「南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児だったので直接の責任はない。中国の民衆と同じく日本の民衆も被害者だった。だから同じ日本人の罪悪であっても私自身は皆さんに謝罪しようとは思わない」と言った。「天皇制などというものはシャーマニズムから来ている未開野蛮なしろもので、戦争中の私達はあんなものにだまされひどい目にあった。それに対する怒りに目覚め、かつその怒りを具体的行動で現すこと。これこそが中国の民衆への真の謝罪なのだ。「真の犯罪人は天皇なのだ」。

s47年『諸君』3月号 イザヤ・ベンダサン「本多勝一様への返書」
 私は、日本人の謝罪の意味を「私の責任=責任解除」と指摘したのであって、「すぐ私の責任だという」だけの指摘ならいくらでもある。私の本多様への疑問は、なぜ二少尉を匿名にしたか。これは、すべての人間には釈明の権利があるということで、欠席裁判では何も明らかにされない。本多様は事実を知らせるのがルポだと言うが、「中国人はかく語った」という事実を示しているのか、「中国人が語ったことは事実だ」と書いているのか不明である。この物語はおそらく「伝説」と思うが、ルポとは、この伝説の中から事実の「核」を取り出す仕事のはずである。本多様は「天皇制は未開野蛮なしろもの」というが、自分の考え方を最も進んだものと勝手に自己規定し、それに適合せぬものを「消えてなくならねばならぬ」と一方的に断定する本多ナチズムこそ野蛮です。

s47年『諸君』4月号 本多勝一「雑音でいじめられる側の目」
 ベンダサンは、「天皇をどう見るか」ということには深く突っ込まない。私は裁判にかければ天皇は死刑だと思うが、ベンダサンは「極東軍事裁判で天皇を裁判にかけなかったのはなぜか」という私の問いに答えない。「競う二人の少尉」で名前が伏せられたのは、朝日新聞の編集権によるもので『朝日ジャーナル』等では原稿通り名前が出ている。ルポとは「伝説を事実だと強弁する仕事ではない」というが、では、先ず事実を列挙したい。"『東京日日新聞』(毎日新聞の前身)1937年11月30日、1937年12月13日の新聞記事"、月刊誌『丸』1971年11月号掲載の鈴木次郎特派員の記事、いわゆる志々目証言、以上四つの資料。戦後、二少尉は南京裁判で死刑になったが、惜しいことをした。「1949年4月毛沢東の人民解放軍が政権を取るまで生きていれば死刑にはならなかったにちがいない」
これらの史料には何れも、向井少尉及び野田少尉があたかも歩兵小隊長であったかのような書き方がしてあった。東京日日新聞の記事では野田少尉は○官となっていた。山本はこの時点ではこれを副官と気づかなかった。また、向井少尉については「幹候(幹部候補生)のアノ型だな」と思ったという。

『諸君』同号  イザヤ・ベンダサン「本多勝一様への追伸」(本多勝一氏とベンダサンの、いわゆる「贖罪」についての議論)

s47年『諸君』6月号 イザヤ・ベンダサン「百人斬りと殺人ゲーム」
 私が「殺人ゲーム」はフィクションであると思うと書いた書簡を本多様に送ったところ、反論とともに「事実である」という多くの「証拠」が示された。しかし、中国の旅の「殺人ゲーム」と、浅海版の「百人斬り」は、場所も、時刻も、総時間数も、周囲の情景描写も違い、登場人物も同じではない。もし浅海版「百人斬り」が事実なら本多版「殺人ゲーム」はフィクションとなる。これは、日本には「事実と語られた事実を峻別する」伝統がないためである。反論があるとすれば、「百人斬りという実行行為」が否定されない限り、細かな矛盾点を指摘して、犯罪事実の存在自体を架空にするかのような議論は正しくない」というものだろう。しかし、百人斬りという犯罪に関する複数の矛盾する「語られた事実」から、ぎりぎりの決着の「推認」に到達しようというのに、その前に、「犯罪事実の存在自体」と断言すれば、もう何も証拠はいらなくなる(これをベンダサンは「雲の下論」という)。おそらく、この記者もそして『諸君』の読者も、この「雲の下論」を自明の前提としているのではないか。
 このベンダサンの議論を聞いて、山本七平は、事務所に来た『諸君』の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」といって笑ったという。そのとき山本が気づいたのが「○官だがこれが副官とは見抜けなかった。」といっている。(『私の中の日本軍』「すべてを物語る白い遺髪」)

s47年『諸君』6月号 イザヤ・ベンダサン「本多勝一氏とおしゃべり鸚鵡」
 ここでベンダサンは、日本人は「事実と語られた事実を峻別」できず、「語られた事実」は「事実」ではない、ということが理解できない。このことを何らかの機会に「事実に直結してみたい」と考えていたという。丁度、本多勝一記者が、私の書いた「朝日新聞のゴメンナサイ」に対して、私宛の公開状を『諸君』に発表すると聞いたので、私が俄捜査官になり、本多氏を誘導して「殺人ゲームは事実だ」と証言させ、それを証明する(矛盾した)「証拠」を提出させることができれば実験は成功と考えていたことを明かした。本多氏には中国に対する迎合があり、そのため、これを逆用されると(つまり「百人斬りは伝説だ」といわれると)、本多氏のような高名なジャーナリストでさえも、私の誘導に引っかかってあらぬ証拠を提出することになった。日本人が世界一謀略の弱いとされるのはこのためで、これで「真珠湾」の謎も解けるはずです。
 これが、いわゆる百人斬り競争論争の始まりです。ベンダサンが、朝日新聞の本多勝一記者による「中国の旅」を例に、日本人の謝罪の意味を「私の責任=責任解除」と指摘したことに対して、本多氏が応答し、「日本的な謝罪の無意味」についてはかって自分も指摘した。私の中国に対する真の謝罪は、「真の犯罪人である天皇への怒りに目覚めること」だと言った。
 当時は、本多氏が示したこのような歴史認識が、氏が朝日新聞の看板記者であったことからもわかるように、当時の左翼知識人層の共通の歴史認識として通用していたのです。おどろくべきことですが・・・。
 これに対して根本的な批判を加えたのがイザヤ・ベンダサンでした。つまり、本多氏が本当に「天皇の責任を告発する」というなら、天皇個人を糾弾すべきではないか。「中国の旅」の「競う二人の少尉」についても同じだ。この「殺人ゲーム」をした二少尉の名前をなぜ匿名にした?「全ての人には釈明の権利」がある。欠席裁判では何も明らかにならない。
 その上でベンダサンは、「競う二人の少尉」の「殺人ゲーム」は伝説だと言う。本多さまは「事実を示してみせるのがルポだ」と言うが、「中国人がかく語ったのは事実」といっているのか「中国人が語ったのは事実」といっているのか判らない。ルポとは「伝説の中から事実の核を取り出すことであって、伝説を事実だと強弁することではないと。
 これに対して、では「事実」をお見せしましょう、といって本多氏が出したのが、昭和12年11月30日付けの東京日日新聞の記事「百人斬り競争」他の史料でした。ところが、この「殺人ゲーム」を立証するはずの記事が、「競う二人の少尉」の内容と大きく異なっており、さらに、鈴木明氏の調査によって、この記事自体の信憑性が大きく疑われることになったのです。
 本論争の最大の成果は、本多氏をはじめ当時の知識人が持っていた歴史認識が、厳密な史料批判や事実検証を経たものではなく、多分に中国の政治的プロパガンダを鵜呑みにし、それに迎合することが和解につながるという、日本人独特の「考え方」によるものであること。それが客観的な事実認識を不可能にしていることを、実証的に明らかにした点にあります。
論争の発端(鈴木明と本多勝一)
47年『諸君』4、8、10月号
s47年7月29日号 「週刊新潮」
s47年12月 鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』
47年『諸君』4月号 鈴木明「南京大虐殺のまぼろし」
 この記事を書いた動機について、鈴木は次のように語っている。朝日新聞『中国の旅』「競う二人の少尉」を読んで、洞富雄氏の書いた『南京事件』の一節を思い出した。この中で大森実氏が南京を訪れた際、同地の中華人民大概文化友好協会から聞いた「百人斬り競争」の話があったが、この二つの記事は微妙に食い違っていた。本多氏の記事では、戦闘中の話が平時の殺人ゲームになっている。
 しかし、いかに戦時中の日本といえ、戦闘中以外の「殺人ゲーム」を許すという人はいないだろう。そこで、その「もとの話」とは一体どんなものなのだろうかと思い、昭和12年12月前後の新聞をしらみつぶしに調べた。当時の東京日日新聞のマイクロフィルムから直ちに発見出来たが、トーチカの中で銃を構える敵にどうやって日本刀で立ち向かったか、本当にこれを「手柄」と思って記事を書く者がいたら正常な神経とは思われなかった。そこで、敢えて自分の目で見た「南京」のイメージを綴ってみようと思い立った。
「南京大虐殺」のイメージは極東軍事裁判と日中友好のための日本の罪悪「告発」を経て「幻」になってしまっている。これを実像に変えていく作業は、やはり誰かがしなくてはならない。いまの僕にいえることは、その「誰か」が「裁判」にも「告発」にも関係しない、ただ「人間」を信ずる「誰か」でなければならない、ということだけである。

s47年『諸君』8月号 鈴木明「向井少尉はなぜ殺されたか」
 鈴木は、『諸君』4月号 本多勝一「雑音でいじめられる側の目」で、二人の少尉は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられ銃殺されたことを知った。それにしてもこの35年前の東京日日新聞に書かれた「百人斬り」の記事は本当なのだろうか。僕は何回も何回も己に問い、周囲の人たちに問い、「日本人の残虐性」についても考えた。
 「朝日、毎日という巨大マスコミが”これが百人斬りの残虐事件だ”と鮮烈に報道した後で”あれは実は10人しか斬らなかった”と”真実”を書いたところでどういう意義があるか」と友人は言う。動揺する気持ちの中に「百人斬りの神話」はそのまま「神話」として、永劫に彼方に消え去るかに見えた。

s47年7月29日号 「週刊新潮」記事"「『南京百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」"
 これは「戦場のほらを浅海特派員が事実として収録したと推定し、ほらを吹いた二少尉も気の毒だが、一半の責任があったのではないかという内容」だった。山本は、この記事は常識的な考え方だと思うが、果たしてどうであろうか。戦場というところは、我々の常識では実に判断しにくい場所であるという。こうして、山本七平の『私の中の日本軍』をはじめとする軍隊三部作が生まれた。

(『諸君』s47年10月号「戦場のほら・デマを生みだすもの」山本七平)*新潮の記事には、佐藤振寿カメラマンの証言があり、常州で浅海記者に依頼されて二人の写真を撮った時、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲小隊長であると知ったとある。

s47年『諸君』10月号 鈴木明「向井少尉はなぜ殺されたか・捕逸」
 ある日『諸君』編集部に一通の手紙が届いた。差出人は向井少尉の未亡人で、南京で処刑された"向井少尉の遺書の一部と、南京裁判における向井利明付弁護人の上申書"が添えられていた。3月19日に未亡人に会う。3月24、4月10日向井少尉の娘さんたちに会って向井少尉の話を聞いて家に帰ると、もう一人の百人斬り競争の「犯人」野田少尉のお母さんからの投書が届いていて、中には、二少尉が死刑判決後に弁護人が出した"「上訴申弁書」"が同封されていた。

s47年12月 鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』刊行
 あとがき  僕はことさらに「素人が当然観ずる疑問」だけをとりあげ、「『南京大虐殺』のまぼろし」なる一文を『諸君!』昭和47年4月号に書いた。僕の書きたかったことは「南京大虐殺のまぼろし」ではなく「南京大虐殺」を”まぼろし”にしたのは、真実を語る勇気のなさであり、それは「昭和47年にも、また同じようなことが繰り返されているのではないか」という恐怖であった。
 ところが、この一文に対して、全く予期しないところから反響があった。「南京大虐殺の真犯人」と世上伝えられてきた「百人斬り」の少尉の未亡人からの投書である。僕は、この向井少尉の遺書を読んでいるうちに、そうしても関係者を歴訪したい衝動に駆られた。それは、僕が真相を知りたいという興味の他に、マスコミが当然伝えなければならないことを知らせていない、という抗議の意味の方が強かったかも知れない。「向井少尉はなぜ殺されたか」を考えることは、僕にとって「南京事件の真相」より、むしろ、過去現在のマスコミの在り方に対する怒りの方がはるかに問題であるはずであった。 
 鈴木明は本稿の末尾に「向井少尉はなぜ殺されたか」を考えることは、僕にとって「南京事件の真相」より、むしろ、過去現在のマスコミの在り方に対する怒りの方がはるかに問題であるはずであった。」と書いています。
   また、山本七平氏は『私の中の日本軍』の「時代の論理による殺人」の末尾に、「南京大虐殺の”まぼろし”を打ちあげたのは、実は、われわれ日本人であって中国人ではない。そして、「日本の軍部の発表および新聞記事」を事実と認定すれば、それは必然的に「非戦闘員虐殺の自白」になるという図式でも、小は「百人斬り競争」より大は「大本営発表」まで、実は共通しているわけである。」と書いています。
 幸いこの事件は、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、山本七平という市井の「人間」を信じる「常識」を持った人びとの手によって、戦意高揚のための”やらせ”記事であったことが明らかになりました。
 だが、稲田朋美氏が弁護士時代中国で講演した際、「南京にある南京大虐殺記念館の百人斬り競争の記事写真の展示について「なぜ撤去しないのか」と問うたら「これはあなたの国の新聞が書いたことです」と言われた」そうです。
 事実、この記事を掲載した戦前の東京日日新聞今の毎日新聞は、今なお”報道された新聞記事は両少尉が記者たちに語ったことをそのまま伝えた”といい、朝日新聞は、平成18年5月24日の高裁判決で「『捕虜据えもの斬り』の根拠として日日記事を掲げるのは誤りである」とされたのに、未だに捕虜据えもの斬りであった」とする主張を撤回していません。「百人斬り競争」の根拠は日日記事以外にはないにもかかわらず。
 つまり、この問題は、中国との戦いである以前に、国内における「事実認識」をめぐる未だ終わらざる戦いだと言うことです。
論争の発端(山本七平と本多勝一)
s50年12月15日単行本『私の中の日本軍』下(あとがき)
s47年『諸君』7月号 山本七平「私の中の日本軍」連載開始
 本書は偶然の産物と言える。というのは、横井さんが出てきたり、テルアヴィヴ事件や赤軍派の集団リンチが’起ったり、南京「百人斬り競争」の記事が再び事実と強弁されるようなことがなかったら、「諸君!」へ連載を始めることはなかったと思うからである。
 
横井さんのとき、まず驚いたことは、マスコミがいきなりそれを『戦陣訓』に結びつけたことであった。また赤軍派の諸事件のときは、ある論説委員がこれを「戦前には考えられなかったこと」と断じ、事件の原因を戦後教育に結びつけたことであった。そしてさらに驚いたことは、昭和十二年の、国民を戦争にひきこむための創作記事、悪名高い「戦意高揚」である「百人斬り競争」が、そのまま現代でも、断固たる事実として通用することであった。
 
日本軍や、それが行なった戦争の実態について、戦争中、真実の報道が皆無に等しかったことは事実だが、戦後もまたこれが、戦争中と方向が違うとはいえ、一種の政治性をもって歪曲されたことは否定できない。そしてそれが、反射的に『戦陣訓』が出てきたり、リンチは戦前にはなかったかのように言われたり、戦争中の記事がそのまま「事実」と強弁されても、人びとがそれを不思議とも不審とも思わない結果を生んだのであろう。
 
「報道の偏向」とは実に恐ろしいことである。横井さんのとき、私はある週刊誌記者に、私自身『戦陣訓』を読んだことも、読まされたこともないし、軍隊でこれが奉読された記憶もない、従ってその内容も体裁も知らない、と言ったが、その人は私の言葉を信用しなかった。私は自己の体験した事実しか語っていない。そしてその人は戦後生れだから日本軍なるものを全く知らない。それでいて『戦陣訓』が一兵士に至るまでを拘束し、戦後三十年近く横井さんを拘束しつづけたと信じて疑わないのであった。

さらにこのことは「百人斬り競争」でも同じであった。私自身、軍刀をぶら下げていた人間であり、本書に記したように、軍刀で人体を切断した体験のある人間である。その人間が、「百人斬り」などということは、バカバカしくてお話にならないと言っても、人は信用しないのである。それでいてその人たちは、戦争中の日本人が大本営や当時のマスコミにだまされていたと、一種、憐れむような口調で言うのである。
 
これはいったい、何としたことであろうか。このままに放置しておいてよいのであろうか。われわれの世代には、戦争に従事したという罪責がある。もちろん、個々人にはそれぞれの釈明があるであろう。しかし釈明は釈明として、もしわれわれの世代が、自らの体験をできうる限り正確に次代に伝えないならば、それは、釈明の余地なきもう一つの罪責を重ねることになるであろう。そして以上の事態は、われわれがすでに、その「もう一つ罪責」を重ねつつあることを証明しているのではないか、と私は思った。
 
これが、日本軍について書きはじめた動機である。もちろん、最大規模のとき七百万といわれた日本軍のすべてを、私が、上は大将から下は二等兵まで、また歩・騎・砲・工・輜重から航空兵・船舶工兵の全兵科にわたって知っているわけではない。従って本書の内容は書名の如くに『私の中の日本軍』であり、記述の基準は、自己の直接間接の体験を、自己を偽ることなく、そのままに記すことであった。
 
本書は、その意味で、膨大な日本軍の中で、私が触れ得たその一断面といえる。その意味で量的には日本軍のすべてとは言えないが、その「質」は示し得たであろうと思う。そして常にさまざまな方向へ歪曲されつづけたその「質」の実態を示すことが、本書の意図であった。(s50年12月15日単行本『私の中の日本軍』下あとがき)
 
 『戦陣訓』については、テレビの戦争番組を見ていると、必ずその一節「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」が引用され、あたかも「『戦陣訓』が一兵士に至るまでを拘束していたかのような解説がなされます。しかし、当時の陸海軍の軍法には、捕虜となることそのものを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在せず、捕虜となる権利が否定されたわけではありませんでした。
 『戦陣訓』のもともとの狙いは、中国戦線における軍紀紊乱対策として提案されたものでしたが、伊藤桂一陸軍上等兵(のち戦記作家)は、(その)大袈裟をきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどで」「腹が立ったので、これをこなごなに破り、足で踏みつけた。」と言っています。
 「それまで十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。・・・このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹たる心情を覚えたからである」と。
 こうした『戦陣訓』の神話化に見るように、戦場における日本軍の実情はほとんど知られていません。そのため、戦場では起こりえない「百人斬り競争」が事実とされ、戦後は「殺人ゲーム」に改変され、それが事実として報じられたのです。では、こうした「神話化」は何故生じるのか?
 
戦場のほら・デマ
『私の中の日本軍』(p77~80)
 苦しみが増せば増すだけ、人間はあらゆる方法で、あらゆる方向に逃避し、また妄想の世界に半ば意識的に『遊ぶ』ことによって、苦痛を逃れようとするのである。それが軍隊におけるほら・デマ・妄想であって、これは、狂い出さないための安全弁だったといえる。
(中略)
 (人間は)「遊び」がなければ生きて行けない。苦痛から逃避するには「架空のエヴェレスト」とともに、この「遊び」も必需品なのである。従って互いにこの必需品を供給し合うことすなわちほらを吹き合い、妄想をまことしやかに語り合うことは一種の「遊び」であって、いわばお互いに残酷映画やポルノや低俗番組や低俗記事を供給し合っているのである。そしてその内容が、今のそれらよりさらにさらに低俗で、残酷で、荒唐無稽なのは言うまでもない。
 「管理社会」とか「人間を歯車にする」とかいう言葉があるが、これが最も徹底していたのは軍隊であって、その徹底ぶりは戦後社会の比ではない。そしてこれが徹底すればするほど、また現実の苦痛が増大すればするほど、残酷映画やポルノや低俗番組顔負けの、ものすごいほらやデマがとびはじめるのである――斬り殺した、やり殺した、焼き殺した、人肉を食った、等々々々・・・。
 しかし、おそらくこれらと同じような内容は、現在でも、常に、どこかで何らかの番組なり劇画なり映画なりが取り上げている主題であろう。そしてそれらは、あたかもまるで事実であるかのように演じられ描写され描かれている――しかし、もちろんだれもそれを本当のこととは思っていないのだが、この場合、「あれは現実ではない」などという者がいたらかえってそれがおかしいように、兵士のほらやデマや妄想を、それは現実でないといって論破する人間がいたらかえっておかしいのである。
 しかし一方、そういうほらやデマや妄想を収録して、「これが戦場の現実だ」と主張する人間がいたら、それは「人斬り」劇画を現実だと主張するのと同じことで、これも少々おかしいと言わねばならない。「嘘と知りつつ本当のこととして見、かつ聞く」これが娯楽への態度であろう。
 戦場は確かに非常に残酷だが、その残酷さは、これらのほらやデマとは全く違った残酷さである。そしてもう一度いうが、これらのほらやデマは、その残酷さに耐えられない人間の逃避なのである。
 そしてその様相には、現代と似た一面もあって、管理社会が性的不能の人間を生み出せば生み出すほど露骨な性描写が氾濫するように、前記のような状態で兵士が完全に疲労しきって、実際は性的不能に陥った時、必ず強姦致死――いわば「やり殺した」というほらやデマが横行するのである。
 また、強行軍につぐ強行軍で、いわば強制収容所なみの虐待に近づくと、自分たちの水準をはるかに越えて残虐に扱われている人間の話が創作される。まだまだわれわれ以上の虐遇にある者がいると考えて、自らを慰めるのかも知れない。だがこういうことの分析はフランクル博士でないと無理であろう。
 以上のことは、日本軍に虐殺も強姦も皆無だったという意味ではない。現に私の隣の部隊に、強姦のため軍法会議にかけられ、降等の刑で上等兵に落された軍曹がいる。だがこの事件一つとっても、その解説には何十ページも必要とするほど複雑であるが、簡単にいえば、まず日本軍には和姦という概念が存在しない。住民と「情を通じて」問題になれば、すべて強姦事件であって、軍の慰安所以外の性行為はすべて違法である。
 一方カトリック教徒のフィリピン人から見れば、こういう場合、隊長が命令を出しても二人を結婚さすべきで、それをしないなら日本軍も本人も強姦を自認したことになる。だが「戦争花嫁」などという概念は、そもそも日本軍にはない。従って、たとえ当人同士は熱烈な恋愛関係でも、両親から「強姦」と規定されるわけである。従って個々のケースで調べればその間の実情は実に複雑であるが、そういうケースを全部除外した純然たる強姦・虐殺ももちろん存在した。
 戦争中の新聞では「恩威並び行われる聖なる皇軍」だったのであろうし、またどこの国の軍隊にも「聖兵士神話」はつきものであろう。おそらく一般民衆の側にも、何かこの「神話」を求める心理的要因があるらしく、日本軍が壊滅すればアメリカ軍、アメリカ軍がイメージ・ダウンすれば中国軍と、常にこの神話は求めつづけられている。
 (中略)
 聖兵士神話が全て神話に過ぎないことは、一般社会を見ればすぐわかるはずである。一昔前なら、大久保清も森恒夫も岡本公三もおそらく兵士であり・・・そういう特異な例は別としても、ラッシュの電車には一車両に一人ずつ痴漢がいるというのが本当なら、当然一個中隊にも一人ずつ痴漢はいるはずである。さらに毎日の新聞を開けば、強盗殺人、痴情殺人、かっとなった意味不明の殺人、集団暴行、集団輪姦、強姦殺害、死体寸断等等々、こういった記事が載らない日はないと言っても過言ではあるまい。
 だがそのような事件と、兵士のほらやデマを事実だと強弁することとは別である。そしてそのことは、日本の実情を記すと言うことと、低俗番組や残虐映画やポルノや「人斬り」劇画をそのまま事実だと主張することとは別なのと同じである。
 しかしもちろん、このほらやデマが現実に人を動かして異常な行動に走らせることもある。従ってコン相互関係は実に複雑なわけだが、いわば低俗番組や俗悪記事が原因で非行に走る少年がいるのと同じであろう。
 
 この「戦場におけるほら・デマ」という問題は、なぜ二少尉が「百人斬り」などという講談調の「ほら」を吹いたかということを理解する一つの鍵だと思います。いわゆる「百人斬り競争裁判」では、原告側は、この「戦場におけるほら・デマ」の問題を回避し、二少尉の常州や紫金山山麓における会話を「記者の創作」としていますが、ここに無理がありました。裁判では「ほら」も「自白」とみなされ不利になるからだと思いますが、それでは、この事件の真相を隠蔽することになると、私は思います。
 「百人斬り競争」という事件の最大の問題点は、「ほらと知りながら、それを事実として新聞報道し、それが非戦闘員殺害の証拠とされ、ほらを吹いた二人が処刑されたという事実。それを記事にした記者は、証言を求められ、二少尉の言葉を真実と思って「見たまま聞いたまま」記事にしたという、この「事実」をどう考えるか、という問題です。
 二少尉が、常州と紫金山山麓における記者会見で行った会話が「事実」であるということは、山本七平が自らの戦場体験をもとに断言しています。ただし、昭和12年12月10日の二人の間の「106対105」の会話は記者の創作としていますが、私は、野田少尉の最後の遺言"「新聞記事の真相」"に「無錫から南京までの間の戦斗では、向井野田共に100以上ということにしたら」という会話がありますから、この言葉も、向井少尉が「記者との打ち合わせ通り」言ったのではないかと思います。
 つまり、この事件の真相は、新聞記者による戦場の兵士、それも砲兵や副官という後方の兵士の、前線の兵士だけが持ち上げられることへの不満や、郷里に自分の無事を知らせたいという里心――戦場特有の兵士の心理――などを利用し、同時に、戦場特派員の「特ダネ意識」が合わさって作られた「虚報」事件であるということ。これを、戦後のジャーナリズムはどう総括するかという問題なのです。  
輜重輸卒が兵隊ならば
『私の中の日本軍』(p92~94)
 横井さんが興奮して、思わず「一人斬り」を口走ったときの報道と解説によると、横井さんの手元に「お前なんぞは炊事番で後方にいたくせに……」といった手紙が山積し、それを読んで思わずカッとなって、「俺だって白兵戦をやったんだ」という意味のことを口走ったのであろう、ということであった。
 もっともこの解説が正しいかどうかはわからない。一見正しそうに見える解説ぐらい危いものはないからである。しかし、横井さんのところに、こういった種類の手紙が来たことは事実であろう。
 私はこれを読み、憂鬱になった。戦後もう三十年近くたち、戦争に対してさまざまの面での反省も批判もなされたはずなのに、まだこういった手紙が来るのであろうか。こうしてみると、日本軍のもっていたあの病根とも宿痾とも病的体質ともいいたいあの体質がまだ残っているのか、いや、これは単に旧軍人に残っているだけでなく、もっと根の深い民族的体質なのではないか、といった感じである。これは私にとっても実にいやな思い出だからである。
 炊事番への蔑視は、大きく考えれば補給の、および後方業務への軽視、同時にそれに従事する者への蔑視である。「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョ・トンボも鳥のうち」とか「輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花が咲く」といった嘲歌が平然と口にされた日露戦争時代から太平洋戦争が終るまで、一貫して、日本の軍人には補給という概念が皆無だったとしか思えない。確かに「百人斬り」が戦争の実態として通る世界には、補給という概念が入る余地はない。
 このことは大きく見れば、戦後有名になったインパール作戦における牟田口司令官と小畑参謀長の対立にも関係する。輜重出身で補給の権威といわれた小畑参謀長はあくまでインパール作戦に反対する。これに対して牟田口司令官は小畑参謀長を罷免しても作戦を強行する。事実かどうか知らぬが、これに対して小畑参謀長は「神がかりの司令官の下では云々」の一言を残して去ったという。これを聞いて歩兵出身の牟田口司令官が何と言ったか知らないが、おそらく腹の中では「フン、輜重あがりの腰抜けめ……」と呟いたであろう。こう書いて来ると牟田口司令官が異常な人間のように見えるが、私の知る限りでは、当時は、いやおそらく今も牟田口司令官のような型が普通で、小畑参謀長のような人は例外だったのである。
 日本人でなければ、読んだ瞬間に「物理的に不可能」と感じられる「百人斬り」が事実で通り、これを報ずることが大いに意義ありと信じられ、それを否定する者が常に「非国民」にされる世界とは、いわば「神がかり」が主導権を握る世界であり、それはまた「物理的に不可能」なインパール作戦が「事実」になってしまう世界であり、同時に必ず小畑参謀長が排除される世界であり、またそれは、後方にいるかまたは後方にいると目されている者が、心理的に排除されまいとして、いわば無視されまいとして、異常な興奮とともに「一人斬り」やら「百人斬り」やらをしゃべり出す世界である――横井さんは炊事番、野田少尉は大隊副官で軍隊の渾名は「当番長」、向井少尉は歩兵砲小隊長、いずれも白兵戦には無関係の人、すなわち後方にいるか、後方にいると目されている人たちである。
 この「神がかり」に対する態度は四つしかない。「長いものには巻かれろ」でそれに同調し、自分もそれらしきことをしゃべり出すか、小畑参謀長のように排除されるか、私の部隊長のように「バカ参謀め」といって最後まで抵抗するか、私の親しかった兵器廠の老准尉のように「大本営の狂人ども」といって諦めるかである。「バカ参謀」とか「大本営の狂人ども」とかいっても、これは単なる悪口ではない。事実、補給の権威者から見て、インパール作戦を強行しようとする者が「神がかり」に見えるなら、補給の実務に携わっている者から見れば、大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。
 彼らの狂人ぶりを示す例ならありすぎるほどあるし、またあるのが当然である。何しろ、狂人でないにしろ「神がかり」が正常視されてその意見が通り、常識が狂人扱い乃至は非常識扱いされているのだから、そうでなければ不思議である。 
      
 前項で、向井少尉と野田少尉が、砲兵と副官という「後方」の職務で、前線の兵士だけが新聞で持ち上げられることに不満を持っていたことを紹介しました。記者は、二人が「砲兵と副官」であることを知りながら、記事では、あたかも二人が「歩兵小隊長」であるかのように描いたのです。
 これだけで、この「百人斬り競争」記事が「作り話」であることが判りますが、記者はこれを本当らしく見せるため、副官を○官にし、日本刀で切り込んだ敵の武装については全く言及せず、日本刀でバッタバッタと敵を斬り倒したという、庶民のもつ時代劇のイメージに合わせ、機関銃や手榴弾で武装する近代戦争の実態を隠したのです。
 結局、南京裁判では、この記事は戦闘行為とはみなされず、非戦闘員虐殺とみなされ二少尉は死刑になったのですが、この記事を書いた記者及びその所属する新聞社はこの結末について、記者は前述した通り、当の新聞社は自らの記事が証拠とされ二少尉の死刑になったことについて何らのコメントも発表していません。
 さらに、戦後、二少尉が残した遺書や裁判所に提出した上申書等によって、「百人斬り競争」の新聞記事が虚報であることが判明した後も、当の新聞社は今なおその責任をとろうとせず、また、それを「殺人ゲーム」として報道した新聞社は、逆に居直って、これを新たな「捕虜据えもの百人斬り競争」に作り替えようとしたのです。
 
「私的盟約」は死刑
『私の中の日本軍』(p188~p192)
 「向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、後であの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。」
 これは「戦犯」向井少尉が、助かりたいために言った言葉ではない。また「大変驚き、且つ恥ずかしかった」という言葉を今の「びっくりした」とか「恥ずかしい」とか「テレくさい」と同一に考えてはならない。「恥を感じた」というこの言葉は、「恥を知れ」といわれれば腹を切らねばならなかった社会の一員の言葉として聞かないと、この供述の意味は正しく受けとれない。
 「恥を知れ!」この言葉は軍隊では「死刑の宣告」に等しかった。従って、一種の禁句でさえあった。向井少尉がこの言葉を使ったのはほかでもない。この記事には、もし意地の悪い上官が、そのことを問題にして彼に徹底的に「トッツイたら」、彼を自殺に追いこむことすら可能な、ある意味では、「死刑の宣告文」に等しい言葉が含まれているのである。これを読んだ瞬間、おそらく彼は、驚きの余り、一瞬顔面蒼白になったであろう。それは浅海特派員による、次の記述である。

  ――翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬って先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。――

 なぜ、この記事で驚いて顔面蒼白になるといえるのか。言うまでもない。ここには、日本軍というタテ組織では絶対に許されないことを行なったと書いているからである。
 彼の中隊長が非常に意地の悪い男だったら、次のように言うであろう。「向井少尉、この記事は事実か。事実ならば貴官にききたい。貴官は中隊命令が眼中にないのか。わしがそういう命令を下したおぼえはない。貴官は直属上官を無視し、『上官の命令は直ちに朕が命令』という軍人勅諭のお言葉を無視し、統帥の本義を無視して、野田少尉との私的盟約に基づいて陛下の兵士を動かしたのか。陛下の兵士を私兵と心得トルのか」
 「私的盟約に基づいて陛下の兵士を動かす」これは実に恐ろしい言葉なのである。こう判定されたら、自分が死ぬか、こう判定した者を殺すか、そして共に死ぬか、日本軍ではそれ以外に道がない。
 二・二六のとき参謀本部の片倉少佐が「大命なくして兵を動かすとは・・・」といった瞬間に磯部浅一が拳銃を発射する。片倉少佐は奇跡的に助かったが、磯部浅一が、この言葉を口にした人間を間髪入れず射殺しようとしたのは日本軍では当然である。いうまでもなく彼らは「大命なく、私的盟約に基づいて、陛下の兵士を動かした」のが現実である。すなわちヨコの私的盟約に基づいての行動である。
 そしてそれを何とかタテに取りつくろおうとしているのが、事件後の軍首脳部との交渉である。このことが今ではよくわからないので、この交渉の顛末を解説した本の多くは、少しピントがはずれているように私には思われる。彼らは、私的盟約に基づいて兵を動かした、しかし、そう言われたらそれですべてがおしまいなのである。そこで、その一言を口にした者は全部を言わせず即座に射殺しようとする。
 (中略)
 彼は歩兵砲の小隊長なのである。従って中隊長の命令が天皇の命令であり、この命令以外に耳を傾けることは絶対に許されない。これがタテ社会の精髄の鉄則である。それをヨコの私的盟約に基づいて兵を動かしたとなれば、これだけは、たとえいかなる理由があっても許されない大権の干犯・統帥権の侵害であり、日本軍では、これを行なったと判定されたものには、死以外にない。
 あらゆる関係者は一致して、向井少尉が「百人斬り」に触れられることを生涯いやがったと証言している。だがその理由を今の常識で憶測してはならない。当時はこういう記事が堂々と新聞紙上を飾った時代である。人びとは新聞同様に彼を英雄にしてもちあげ、彼自身も、そのことを不思議に思わない当時の社会の一員なのである。従ってその理由は、上記の点にしかない。
 彼の上官は良い人だったのであろう、また彼も上官に信頼されていたのだろう、そして戦争中は、少なくとも軍人だけは絶対に新聞記事を信用しなかったから、だれもこの記事を事実とは思わなかったであろう。しかし、それでも彼は、きびしい戒告はうけ、実につらい立場に立たされたことは、疑問の余地がない。そしてこの事件は彼にとっては一日も早く忘れたいことであったであろう。
 彼に関するあらゆる記述は、そのことを如実に物語っている。この点、野田少尉の方が気が楽だったように見える。彼については「兵を動かした」とは書かれておらず、あくまでも彼だけの行動とされているからである。このことはこの記事に対する両者の態度の差にはっきり出ている。 
      
 東京日日新聞の「百人斬り競争」の記事が、「タテ社会」の軍隊では絶対に許されない「指摘盟約」のもとに兵を動かすことであるとの指摘は、この記事を読んだだけではわかりません。この記事では、二人の少尉が「企てた」とだけ書かれており、一般の読者は、それが軍隊ではあり得ない話だとは思わないからです。
 しかし、こんなことはどの国の軍隊でも許されないから、中国人の姜さんが本多氏に伝えた「百人斬り競争」には、上官が登場し二少尉に「殺人ゲームをけしかけた」ことになっています。つまり、中国側はこれを、上官の命令による組織的な「殺人ゲーム」と捉えているのです。
 それにしても二少尉は、何故、こんな恐ろしい話に乗ったのでしょうか。軍人特有の心理的要因があったことは先に述べましたが、この謎は、実は、野田少尉は陸士出の現役将校だが、向井少尉はいわば臨時雇いの「幹部候補生」上がりだったことによると山本は指摘しています。つまり、向井少尉の目は軍内の評価より内地の評判に向いていて、内地受けする武勇伝のほら話を「記者との打ち合わせ」通り、常州と紫金山山麓でしゃべったのです。
 そのため、新聞記事に出てくる二将校の会話はほとんど向井少尉のもので、野田少尉は、常州発の記事「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」だけです。
 この言葉は、山本に言わせれば将校言葉ではなく、向井のほら話に付き合った「おふざけ」言葉だといいますが、これが事実であることは、野田少尉が最後に残した遺書"「新聞記事の真相」"に明らかです。(この文書は裁判所には提出されず、日本人への弁明として書かれた)
 
「副官」と「砲兵」を歩兵小隊長にしたのは誰か
『私の中の日本軍』(p192~197)
 あるいは読者は不思議に思うかも知れない。そんな恐ろしいことが書かれているのに、どうして何百万という当時の読者が、それに全然気づかないのであろうかと。この記事の問題点はそこなのである。「二将校の大言壮語」の収録であろうと「週刊新潮」に書かれていたが、おそらくそうではあるまいと前に私か書いた理由はここなのである。それはこの記事は、この点が非常に巧みに隠蔽され、少なくとも外部に対しては、いわば全くシッポを出していないからである。
 ただ一ヵ所さすがに隠しきれなかった点があるだけである。このように巧みに計画的に隠しおおせた記述を、「ほらの収録」と考えるわけにいかない。また向井少尉が何かをしゃべったにしろ、「私的盟約に基づいて陛下の兵士を動かした」などということは、たとえ口が裂けても新聞記者に言うはずがない。そしてそのことを浅海特派員は知っている。そして知っているが故に、この点を巧みに隠蔽しているのである。それを今になって、「聞いたままを書いた」などと主張することは、いかに「死人に口なし」とはいえ、あまりに白々しい。
 この隠蔽は実に巧みなので、鈴木明氏の克明な資料の収集によって初めて真相が明らかになったわけで、普通の人はもちろん、当時の一般読者も、私のような軍隊経験者でも、記事そのものだけでは、何もわからないのである。従って、軍隊のことを知らないので、間違った記事を書いたのだともいえない。それなら、いたるところでボロが出るはずである。この記事には全くポロは出ていない。その点では「おみごと」と申し上げる以外にない。では一体どんな隠蔽方法がとられたのであろう。
 それは、この記事が「同一指揮系統下にある第一線の歩兵小隊長である二少尉が・・・」という意味にとれるように書かれているからである。このことは、この記事と、この記事を要約した英字新聞の記事と、さらにそれに基づいたと思われる中国人姜氏の語る物語との三つを並べてみるとはっきりわかる。だがそのことは後まわしにして、なぜこの暗黙の前提に読者がひっかかったかを考えてみよう。これは、いわゆる「常識」とか「通念」とかを逆用される恐ろしさである。
 われわれには、みな、その時代時代の常識とか通念とかいったものがあり、それを前提にして新聞を読み、ラジオを聞き、テレビを見ている。ところが、もしそれが逆用され、悪用されると、全くあり得ないことをいとも簡単に信じこますことが出来るのである。それは今でも同じであり、その例はまた別の機会に記すが、幸い今の人の常識は戦前の常識と違うから、その点で、かえって、この記事が書かれたころの常識の検討はしやすいであろう。
 「一知半解は知らざるに劣る」というが、当時の日本人はそのほとんどすべてが軍隊や戦争に対して一知半解であり、そのため文字通り「知らざるに劣る」状態になって、それが米英撃滅論的な世論を生み出してしまったと私は思っている。何しろ世をあげての軍国熱があり、遊びといえば兵隊ゴッコ、読むものといえば忠勇美談、武勇伝、殉国美談であり、さらにマンガでは、犬まで兵隊を演じ、パンダと白黒を逆にしたような『のらくろ』は今のパンダ以上の人気もの、その上、中学校に入れば学校教練という正課の「兵隊ゴッコ」があった。これが普通であって、私のような特別な家庭に育った者は例外者であった。
 というのは、「兵隊ゴッコ」というが、これは正確にいうと「歩兵隊ゴッコ」なのである。軍事教練というが、これは歩兵教練で、大体、中隊単位の戦闘訓練、軽機や擲弾筒の訓練まで正規の学科であった。今では想像もつかないことであろう。これが、「軍隊=歩兵」という観念をいつしか全国民に植えつけた。同時に当時のマスコミも、いわばこういった読者を対象とするため、この観念をますます強めてしまったことと思う。同時にそういった軍事常識に基づいて、少尉といえばすぐそれを「歩兵小隊長」と考えることも、だれ一人疑わぬ状態になってしまったのである。いわばこれが当時の「常識」である。(中略)
 従って、当時の人が向井・野田両少尉と書いてあるだけで、何の疑いもなくこれを歩兵小隊長向井少尉と同じく歩兵小隊長野田少尉と受けとり、当然のことだから「歩兵小隊長」を略したと考えるのがあたりまえである。私自身もこの記事を読んだとき、当然のこととしてそう読んでいた。そう読んでしまえば、この記事は全くシッポが出ないし、さらに何となく「同一指揮系統下」と思い込ませれば少しの疑念もわかないのである。
 ただ一つ私がひっかかったのは「僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」という野田少尉の言葉である。この「○」だが、ここには「副」という字があったはずだ。一体だれがこの「副」を「○」にしたのだ。この「副」を「○」にした人間は、いかに白を切ろうと、はじめからこの記事を、全部嘘だと知りつつ書いていたはずである。だがこの問題は次章にゆずり、一体、外国人がこれをどう要約したかを調べてみよう。これが明らかになったのも鈴木明氏のおかげである。

 南京”殺人レース”
 "一九三七年十二月七日「日本新聞(The Japan Advertiser")という東京にあるアメリカ人経営の英字日刊紙が、次の記事を掲載した。
 陸軍少尉、中国人百人斬りレースで接戦す。句容(Kuyung)にあった片桐部隊の向井敏明少尉と野田毅少尉は、日本軍が完全に南京を占領する前に、刀による単独の戦闘(individual sword combat)でどちらが先に中国人百人を斬り倒すかという腕くらべ (friendly contest)でギリギリの終盤戦に入っているが、ほとんど五分五分のせり合いを演じている。

 となっている。この書き方は、すでに、記者が同一指揮系統下の二小隊長を前提にしている書き方である。
 
      
 実は、山本七平は「幹部候補生」上がり、いわば臨時の将校(少尉)であり、兵種は「砲兵」、隊内では部隊長付の「副官」のような職務も経験していました。その山本が、幹部候補生上がりの砲兵であった向井少尉と、副官であった野田少尉を主人公とする、東京日日新聞の「百人斬り競争」の”虚報”の証明を、自らの体験に基づいて行うことになるとは・・・。
 山本は、イザヤ・ベンダサンと本多勝一記者の「競う二人の少尉」の真偽をめぐる論争で、本多記者がその証拠として東京日日新聞記事「百人斬り競争」を提示した時、ベンダサンがこの記事もフィクションだと断定したことに対して、事務所に来た「諸君!」の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと言って大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」と言って笑ったと言っています。(『私の中の日本軍』p227)
 つまり、二少尉は「オレたち二人は第一線の歩兵小隊長だ。二人は中隊長の示唆に基づき、『百人斬り』競争をシトル」といい、浅海特派員もそれを信じたのなら、確かに同氏も関係者も口を揃えていう通り「見たまま、聞いたまま」を書いたといえよう。もしそうなら、たとえ二少尉が処刑されてもそれは自業自得であり、浅海特派員も被害者の一人にすぎない。
 だが、私は、この点だけはもうわからないと思っていた。二人は死に、「死人に口なし」であるだけでなく、「お前がそういったからだ」「いや、おれは言ったおぼえはない」などという水掛け論は、三十五年前ならもちろんのこと、二、三日前のことでも結論は出ない。私かこの問題をはじめて「文藝春秋」で取りあげたとき、これはもう良心の問題だと書いたのはそのゆえである。
 ただその際、どうしても気になったのが前述の「○官」である。しかし私はこの「○」が「副」だとは夢にも思わなかった。私は二人を歩兵小隊長と信じこんでいたのと、野田少尉の言葉が実に奇妙なので、この「○官」を何か副次的な職務と考えたからである」。ここから山本の自らの軍隊経験に基づく「百人斬り競争」の謎の解明が始まったのです。
 
「中国の旅」の”殺人ゲーム”で書き加えられたこと
『私の中の日本軍』(p197~199)
 (これがさらに中国に伝わるとどうなるか。)本多勝一氏の「中国の旅」では次のように「書かれざる前提」がはっきり出てくる。
 
AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。
 二人はゲームを開始した。結果はAが八十九人、Bが七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが百六人、Bが百五人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官はいった――「どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城までの八キロで、こんどは百五十人が目標だ」この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標に達した可能性が高いと、姜さんはみている。

 
「本多版」の記事を仔細に見てみよう。ここで初めて「上官」が登場した。しかし、これを単に姜氏の創作というわけにいかない。浅海特派員の記事にも暗黙に登場しているからである。
 ここを明確に書き直せば、部隊は歩兵部隊、上官は中隊長、AB両少尉はそれぞれその部下の小隊長ということになる。そしてここでは、上官は三度「命令」を下し、二少尉はあくまでもその命令に従って「百人斬り競争」を行なっているのであって、私的盟約に基づいて行動しているのではない。なぜそう変化したのか、いや、変化したのではない――浅海特派員が当然の前提として書かなかったことを、書いたにすぎないのである。
 すなわち日本軍はもちろんのこと、軍隊はどこの国でも原則としてタテであり、中国軍でもタテであろう。中国軍が階級を廃したということは、系統的指揮権(すなわち日本でいえば統帥権)がなくなったことではあるまい。軍隊には、階級は不可欠のものではない。日本軍でも階級なしに成立しえたのである。大佐がなくても連隊長があれば、少佐がなくても大隊長があれば、大尉がなくとも中隊長があれば、そしてその指揮の系統さえ明確ならば、軍隊は成り立つ。それだけでなく、階級というヨコの階層をなくせば、軍隊はますます徹底的なタテになっていくはずである。
 従ってこのように徹底したタテの世界では、この事件は上記のような設定の下以外では絶対に起りえないからである。これが、すなわち「同一指揮系統下の二小隊長」という設定であって、浅海特派員は、こういう設定のもとに書き、もう一度言うが、「そんなことは言わずもがなの当然のこと」としてはぶいている、という態度をとっているからである。そしてそれが「少尉=歩兵小隊長」という当時の通念および常識に、ピタリとマッチしてしまったのである。
 「中国の旅」の記事の焦点は、「上官がそそのかし、また、命令を下して、それによって二少尉が競争した」という点にある。すなわち二少尉が勝手に「私的盟約」を結んだのではないのである。だが上官にはあくまでも、「そそのかし」という伏線をはり、正規の「命令」とはしていない。ここが、実に微妙な点まで正確に修正してあると思うのだが、確かに、軍隊内の私的競争は、上官のそそのかし的な命令がなければ、本人の発意があっても成立しない。そしてこれが事実ならば確かに成立しうる。
 ただこの上官の「そそのかし」だが、これはタテ社会では、部下にとっては「命令」に等しいのだが、しかし正規の命令ではないわけである。いわゆる戦犯裁判のとき、「命令はしていない」という言葉が、どれほどひどい虚偽に満ちているかを私は知った。この場合も、上官が正規の「命令」を下したなら、上官も戦犯のはずである。従ってここを「そそのかし」にしたのは、実に巧みで、戦犯裁判の実態を知っている者の創作と見るべきであろう。
 私は浅海版「百人斬り」と英字新聞版「百人斬り」と本多版「百人斬り」との三つを並べてみて、なるほど伝説というものはこのようにして出来てゆき、それがいつしか事実とされて、だれも疑わなくなるのだなと思った。ただ本多版「百人斬り」は、非戦闘員殺害に改変されている。これは非常に興味深い改変だが、今はこれについてはのべない。
 ただそのほか面白い点は、「賞を出そう」という付加である。これは民族性なのであろうか。私は、部下の作戦的行為に対して「賞金」もしくは「賞」を出そうといった大日本帝国の軍人は、おそらく、その初めから終りまで、一人もいなかったと思う。これはおそらくだれにきいても、何を調べても、同じだろうと思う。「滅私奉公」の「天皇の軍隊」には「経済的刺激」や私的な「賞金」や「賞」が入る余地はない。これは、日本軍が徹底的に罪悪視した考え方である。もちろん中隊演芸会などで、中隊長が一升出すということはある。ただしその場合は、「全員に」が建前である。従って「賞云々」は中国的付加であろうし、これに気づかない本多記者はやはり「戦後の人」で、日本軍の実態は何一つ知らない証拠であろうが、それ以外は、浅海特派員による「書かれざる前提」を明確に書いたというだけであって、これを中国人の「創作」と考えてはならない。あくまでも創作への「増補・改訂」である。
 
      
 前項で述べたように、山本でさえ、新聞記事の「百人斬り競争」の二少尉は「同一指揮系統下の歩兵小隊長」だと思い込んでいたのです。また、浅海記者が二少尉が砲兵と副官であるという事実を隠して「百人斬り競争」を行ったとしたことが、「中国の旅」の「競う二少尉」では、必然的に、「同一指揮系統下の二小隊長」が、上官の「そそのかし」によって「百人斬り」は行なったとされたのです。
 これは、中国人がそのように話を作り替えたのではなく、 浅海記者が二少尉の職務を隠すことで「思い込ませようとしたこと」を、中国人が「明確にした」ということです。しかし、実際には二少尉砲兵と副官であって「同一指揮下の二小隊長」ではなかったのですから、彼らが戦闘の第一線に出て「百人斬り競争」をすることは不可能です。従って、この事実が判明した段階で、この話が「作り話」であることは明白になったのです。
 ところが、百人斬り競争裁判では、二少尉が「「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり全くの虚偽であると認めることはできないと言うべきである」としています。
 つまり、「百人斬り競争」という武勇談をした二少尉が、それが新聞報道されることに違和感を持たなかったのは、数はともかく、何らかの「人斬り競争」を行ったに違いないと認定したのです。なぜこうなるか。裁判では、その武勇談を「自白」と見なしたのかも知れませんが、「自白」にも物証が求められるます。本件の場合、物証も何もはじめから実行不可能なことであって、これが、記者の「やらせ」による「作り話」であることは明白とせねばなりません。
 
記者は「見たまま、聞いたまま」を書いたか
『私の中の日本軍』(p199~203)
 さて、ここでわれわれは大きな疑問につきあたるのである。それは浅海特派員も二少尉にだまされていたのかどうかという問題である。すなわち二少尉は「オレたち二人は第一線の歩兵小隊長だ。二人は中隊長の示唆に基づき、『百人斬り』競争をシトル」といい、浅海特派員もそれを信じたのなら、確かに同氏も関係者も口を揃えていう通り「見たまま、聞いたまま」を書いたといえよう。もしそうなら、たとえ二少尉が処刑されてもそれは自業自得であり、浅海特派員も被害者の一人にすぎない。
 だが、私は、この点だけはもうわからないと思っていた。二人は死に、「死人に口なし」であるだけでなく、「お前がそういったからだ」「いや、おれは言ったおぼえはない」などという水掛け論は、三十五年前ならもちろんのこと、二、三日前のことでも結論は出ない。私かこの問題をはじめて「文藝春秋」で取りあげたとき、これはもう良心の問題だと書いたのはそのゆえである。
 ただその際、どうしても気になったのが前述の「○官」である。しかし私はこの「○」が「副」だとは夢にも思わなかった。私は二人を歩兵小隊長と信じこんでいたのと、野田少尉の言葉が実に奇妙なので、この「○官」を何か副次的な職務と考えたからである。というのは「・・・○官をやっている」という表現である。軍隊では、自分の職務を絶対に「やっている」とはいわない。ちょうど天皇が「私は天皇をやっている」とはいわないように、「中隊長をやっている」という言い方はないのである。彼は「中隊長」なのであって、「中隊長をやっている」のではない。
 将校がその連隊に来るのは、すべて天皇陛下の命令であり、そのため「命課布達式」という式を行う。通常、連隊の全員を集め、連隊長が台の上に立って「天皇陛下の命にヨーリ、陸軍中尉何のだれだれ、本日当連隊づきに補セラール、よって同官に服従し、各々その命令を遵奉スベーシ」と宣言するわけである。ついでその職務を「命ぜられる」。この「命ぜられた職務」は「やっている」のではない。(中略)
 ところが鈴木明氏の調査で、驚くなかれこれが副官とわかった。つづいて「週刊新潮」に佐藤振寿カメラマンの驚くべき証言がのった。氏はこの二少尉に会ったのがただ一回なのに、三十五年後の今日でも、驚くほど正確に証言している。「・・・野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね」そしてその傍らに浅海特派員もいっしょにいたと証言しているのである。従って浅海特派員は、はっきりと二人の正体を知り、一人が歩兵砲の小隊長、一人が大隊副官であって、全く指揮系統も職務も違うことを知りながら、同一指揮系統下にある第一線の歩兵小隊長として描いているのである。
 関係者は「見たまま聞いたまま」を書いたと証言している。しかしそれは嘘である。といってもこれは「百人斬りの現場を見ていないではないか」という意味ではない。現に目の前に見ている二人、すなわち副官と歩兵砲小隊長を、見たままに書かず歩兵小隊長に書きあげているという意味である。従って二人はすでに、筋書き通りに歩兵小隊長を演じさせられている役者であって、副官でも歩兵砲小隊長でもない。これが創作でなければ、何を創作といえばよいのであろう。
 そして、向井少尉が歩兵砲の小隊長であったということは、「週刊新潮」に氏の談話が載るまで、浅海特派員と佐藤カメラマンと、関係者以外は全く知らなかった事実なのである。というのは「諸君!」八月号の鈴木明氏による向井少尉の証言では「向井は砲撃の指揮官だったから・・・」となっている。これは当然砲兵を連想させる言葉であり、この言葉から歩兵砲(歩兵?)という連想は浮ばない。従って向井少尉が「歩兵砲小隊長」であることは、ここではじめて活字になって公表されたわけである。浅海特派員は、実に三十五年間、第三者には、だれ一人彼の本当の職務はわからなかったほど巧みに、それを隠し切っていた、そして永久に隠し切るつもりであったのであろう。
 「いや、そうではない。氏は向井少尉の言葉を信じただけだ。歩兵砲の小隊長が私的盟約に基づいて砲を捨てて敵陣へ飛びこむことなどありえない。もしそんなことをしたら軍法会議だなどという知識を浅海特派員が持っていなかっただけだ」という人もいるかも知れない。しかし本当にそうなら、すなわち無知から来た誤解なら、その記事は至るところでボロが出るはずだし、第一、「○官」の説明かつかない。
 関係者は「見たまま聞いたまま」を書いたと証言しているが、前述のように「見たまま」が嘘なら、「聞いたまま」も嘘である。野田少尉は本当に「マルカン」と言ったのか、そんなはずはない。もしそうなら一回しか会わなかった佐藤カメラマンに「野田少尉は大隊副官・・・」といえるはずがないではないか。彼ははっきりと「副官」といったはずである。副官をマル官となおしておいて、どうして「聞いたまま」を書いたと言えるのか。一体なぜ副を○に変えたのだ。副官は世界のいずれの国の軍隊にもあり、秘密の職務でも何でもない。野田少尉が副官であっても、軍は少しもこまらない。こまるのは、「副官」を「歩兵小隊長」に仕立てあげようと意図した人間だけのはずだ。それ以外にはいない。(中略)
 何のために、意識的に二人の正体を隠す必要があったのだ。理由は一つしか考えられない。それはこの記事が真っ赤な嘘だということを、書いた本人が知っているからである。そうでないなら、こんな細工をする必要はないはずである。はっきりとこれだけのことをしておきながら、なぜ二少尉が処刑されるのをそのままに放置した。二人がこの記事によって処刑されたのは、鈴木明氏の調査でも明らかではないか。二人を処刑されるがままにしておいて、死人に口なしをよいことに、今なお、「見たまま聞いたまま」を書いたとか「信憑性があるから書いた」とか証言するなら、それは三重四重の嘘になるではないか。(中略)
 ただ私か関係者の証言で非常に驚いたことは、この人びとが平然と「戦意高揚」のため書いたといっていることである。そしておそらくこれが、軍部が、この記事を、すなわちもし事実ならば向井少尉を軍法会議にまわさねばならぬほどのことが書かれているこの記事を、また向井少尉自身を、不問に付した理由であろうと思う。前にのべたような典型的な、外部から軍部へのゴマスリ記事を、彼らは鷹揚に受け入れたのであろう。しかしその結果、それによって徹底的に苦しめられたのが、一般の日本人であった。外部の人間の上役へのゴマスリが、どれだけ下っ端を苦しめたか。
 
      
 副官をどうして○官としたかと言う問いに対して、浅海記者は「副官」と書いたが、軍の検閲あるいは新聞社の校閲で○官にしたのではという反論があります。浅海記者は二少尉が副官と歩兵砲小隊長であることを知っていたが、彼らが「百人斬り競争」をしていると言ったので、それを眞実と思い「見たまま、聞いたまま」を記事にした云々。しかし、浅海記者は、米国パーキンソン検事による尋問で、軍の検閲をうけたが「妨害はなかった」と証言しています。
 東京、大阪の新聞社の校閲の段階で、記事の削除や修正がなされ違いがありますが○官については同じです。なお、浅海記者はパーキンソン検事の尋問に答えて、記事に書かれた素材は「眞実です」と答えていますので、副官や砲兵であっても戦闘行為として「百人斬り競争」をすることは可能だと思っていたのでしょうか。
 常州で浅海記者に頼まれ両少尉の写真を撮った佐藤振寿カメラマンは、両少尉が副官と歩兵砲小隊長であることを知り、百人斬り競争すると言うが、誰が人数を確認するのかと質し、当番兵を交換して数えると聞いても、「しかし,実際いつ白兵戦になって,中国兵を斬るのか,腑に落ちなかった。」と言っています。
 「すなわち、通常の戦闘では、敵兵に接近することはほとんど無い。白兵戦はほとんど無いとさえ言えるのである。日本刀を振るって中国兵を斬ることのできるのは、稀に起きる白兵戦の場合に限られるのではなかろうか。その場合、当然戦場は乱戦になるわけである。その時、大隊副官・野田少尉は大隊長を助け、その命令を各中隊に伝えなければならない重要な任務がある。
 他方、歩兵砲の小隊長である向井少尉は、歩兵砲の射撃を指揮しなければならない。野田少尉にしても向井少尉にしても、以上のような状況の中でどうやって白刃を振るって、中国兵を斬ることができるのか、大きな疑問が残っていた。」("「従軍とは歩くこと」"
 浅海記者はこうした記者として当然持つべき疑問を全く持たず、「百人斬り競争」は「眞実」と思い、東京に記事を送り続けたというのでしょうか。
 
「虚報」作成の原則
『私の中の日本軍』(p213~218)
 前にものべたが、その時代には、その時代の常識と社会的通念とがある。当時の日本人には連合艦隊というイメージがあり、また近海まで敵艦をおびきよせて一挙にこれを全滅させた「日本海海戦」という記憶があった。そのため民衆の頭の中には、どこかに連合艦隊という「艨艟(もうどう)」がおり、アメリカ軍が近海まで来れば「皇国の興廃この一戦にあり」とZ旗をかかげての一大決戦が起るはずであった。
 そしてこの常識や通念が、潜在的願望や希望的観測といっしょになると、情報のうち隠された部分を、無意識のうちに創作しておぎなってしまうのである。「百人斬り」にはこの点がよく現われており、二人の言動のすべてが、当時の人びとの頭の中にある歩兵小隊長そっくりに記されていて、否応なく歩兵小隊長と思い込ますよう、非常に巧みに誘導している。しかしひとたび実体がわかると、少なくともその実体を知っている私などには、あまりにわざとらしく、芝居気たっぷりで、何でこんなものにだまされたんだろうと腹立たしくなる。それは戦争直後に「大本営発表」という言葉を聞いた人がいだいた感情とよく似ている。
 そういうものが、すなわち「虚報」なのである。従って「虚報」とは「人手した情報の一部、特に最も重要かつ不可欠の部分を故意に欠落させて発表し、その部分を、情報の受け手が無意識のうちに創作して補うよう誘導する報告もしくは報道をいう」と定義してよいと思う。従って、もう一度いうが、発表された部分と事実との誤差は、いくら調べても、虚報の実体はつかめない。それはただその機関が人手した情報の「総量」と「発表した部分」と「隠した部分」を対比したとき、はじめてつかめるのである。しかし後でのべるが、現実問題として、これは不可能に近い。従って「虚報」の発表者は、その責任を追及されることは、まず、絶対ないと言ってよい。(中略)
 このことは虚報が事実で通ることと、言論弾圧とは別の問題であることを示している。 「百人斬り」が昭和十二年でも現代でも同じように事実として押し通せることが、その良い証拠である。いかな強弁の名人でも、この虚報が「言いたくても言えなかった」という言論弾圧の結果だとはいえまい。
 ではここで、大本営にあてはめた虚報作成の原則を「百人斬り」にあてはめてみよう。浅海特派員が入手した情報の総量を知っているのは、原則的にいえば向井・野田両少尉だけである。従って向井・野田両少尉を処刑させてしまえば、この虚報は永久に事実で通る。従って関係者はみな平然としていられるわけで、それは次の二つの言葉が雄弁に物語っている。

 最後の手段として、この二人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかはありませんね。でも、それは物理的にできない相談です。二人は戦後、国民党蒋介石政権に逮捕され、南京で裁判にかけられました。そして野田は一九四七年十二月八日、また向井は一九四八年一月二十八日午後一時、南京郊外で死刑に処せられています(注―この日時は誤り)。惜しいことをしました。ともうしますのは、それからまもない一九四九年四月、南京は毛沢東の人民解放軍によって最終的に現政権のものとなったからです。もしこのときまで二人が生きていれば、これまでの日本人戦犯にたいする毛沢東主席のあつかいからみて、すくなくとも死刑にはならなかったにちがいありません。そうすれば、当人たちの口から、このときの様子を、くわしく、こまかく、ぜんぶ、すっかりきいて、ベンダサンサンにもおしらせできたでしょうに。(「諸君!」本多勝一「雑音でいじめられる側の眼」)

「諸君!」にあのように書かれて、私が十分に答えなくても、私は一つも損などしない。私の周囲のインテリは、あのような指摘があっても、一つも私かかつて書いた新聞記事のような状況がなかったとは疑いませんからね。何が真実かは、大衆と歴史が審判してくれますよ。鈴木(明)さんもジャーナリスト、私もジャーナリスト。彼の、私の書いた記事によって二人の生命が消えたという見方は、むろん異論はあるが、私のプライバシーをそこなわない限り、ジャーナリストが一つの考えにもとづいてお書きになることは、それが当然だ、私は文句はいいません。(「週刊新潮」浅海特派員の談話)

 おっしゃる通り、情報の総量がつかめない限り、絶対に虚構はバレない。この点では、海軍などとは比べものにならぬほど完璧である。(中略)
 (しかし)総量はわからなくても、何を消したかは、佐藤カメラマンその他の証言でわかる。すなわち虚報の実体は、消した部分が明らかになってくればくるだけ、はっきり姿を現わしてくるのである。
 では何を消したか。系統的指揮権と職務と兵器が消された。野田副官の直属上官である大隊長と向井歩兵砲小隊長の直属上官である歩兵砲中隊長が消され、ついで本人の職務、すなわち副官と歩兵砲小隊長が消され、ついで兵器、すなわち歩兵砲が消された。前にも書いたが、軍隊とは系統的指揮権と職務と兵器で成り立つもので、この一つが欠けても成り立たない。従って三つを消せば二人は軍人ではなくなってしまう。(中略)
 そうしておいて二人をあくまでも軍人として描く。するとこの虚報の受け手は無意識のうちにそれを補ってしまう。それが「……その部分を、情報の受け手が無意識のうちに創作して補うよう誘導する」という部分である。
 すなわち、二人を前述のように、あくまでも第一線の歩兵小隊長という印象を与えるように書く。当時の日本人の通念では、歩兵小隊長とは、着剣して六歩間隔に展開した散兵の先頭に立ち――実はこれも誤りで実際は傘型散開であるが――日本刀を振りかざして敵陣へ突入するものであった。そしてそう思わせる描写に誘導されると、この架空の二小隊長の直属上官すなわち中隊長までが、ごく自然に創作されてしまう。これが本多版「百人斬り」に登場する「上官」である。いわば「上官」のいない軍人は、天皇以外にはありえないから創作されてしまうわけである。こうなると「百人斬り」はまさに「虚報作成の原則」の通りであり、これが私か「大本営発表」も「浅海特派員発表」も同じ原則で構成されているといった理由である。 
      
 浅海記者は二少尉の言葉を眞実と信じて「見たまま聞いたまま」を記事にしたと言っています。しかし、その記者会見に浅海記者に頼まれて同席した佐藤カメラマンは、「百人斬り」と言うが「しかし,実際いつ白兵戦になって,中国兵を斬るのか,腑に落ちなかった」と言います。続けて、その理由を次のように説明しています。
 「すなわち、通常の戦闘では、敵兵に接近することはほとんど無い。白兵戦はほとんど無いとさえ言えるのである。日本刀を振るって中国兵を斬ることのできるのは、稀に起きる白兵戦の場合に限られるのではなかろうか。その場合、当然戦場は乱戦になるわけである。その時、大隊副官・野田少尉は大隊長を助け、その命令を各中隊に伝えなければならない重要な任務がある。
 他方、歩兵砲の小隊長である向井少尉は、歩兵砲の射撃を指揮しなければならない。野田少尉にしても向井少尉にしても、以上のような状況の中でどうやって白刃を振るって、中国兵を斬ることができるのか、大きな疑問が残っていた。」("「従軍とは歩くこと」"
 浅海記者と鈴木記者は、戦後、東京裁判のため,昭和21年6月15日市ヶ谷陸軍省380号室で行われたパーキンソン検事の審問で「百人斬り競争」の記事は眞実か虚偽か問われ、両記者とも「眞実です」と答えています。ところが、昭和21年7月1日向井少尉が東京の国際検事団の尋問を受けた時、検事は向井氏に次のように語ったと、"向井少尉答弁書(11月15日検察底尋問後提出)"で述べています。
 「審査終了時,国際検事団検事は微笑して,『あなたを召喚する以前において新聞記者を喚問して審査した結果、記者の証言により新聞記事の百人斬り競争の真相は全く事実無根の作為記事であることが判明した。あなたの答弁した当時の状況と符合し、無根の真相が一層明確になり、何ら犯罪事実は認められない。』と言明し,『遠路来庭させて驚愕苦慮させましたが、本件に関しては再度喚問することはないのでご安心下さい。新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。野田さんは終戦時に満州で死亡したとのことで気の毒です。』と謝し握手して別れた。」
 
「虚報」の恐ろしさ
『私の中の日本軍』(p219~222)
 しかしさらに恐ろしいことは、内部の人間がそのようになるに比例して、外部に対しては的確な情報を提供して、すべての意図を明らかにしてしまう結果になるからである。これは今でもよく理解されていないようだが、アメリカの情報将校などには、このことが、考えられぬくらい不思議なことであったらしく、前にも書いたM中尉などは、肩をすくめて「わからん」と言うのだが、一体何か「わからん」のか未だにわからない人もいるのではないであろうか。
 前にも言った通り、その者のもっている情報の総量を知っている者には、そのうちのどれを発表し、どれを隠したかは一目瞭然である。そうなると、この発表した部分と隠した部分を対比さえすれば、相手の意図、目的、実情、希望的観測、潜在的願望といったものが、手にとるようにわかるのである。同時に彼ら、特に情報関係の者は、日本国内では通用する虚報を瞬時に見破るのである。なぜかというと、虚報は、欠落部分を日本人だけに通用する常識や通念で無意識のうちに創作して補わないと成立しないので、それがない彼らは、かえってすぐに見破るわけである。従って発表部分を検討するだけでもわかる場合が多いのである。
 これはちょうど、最初にのべた軍司令官には「わが方の損害」を欠落させた報告は通用しないのと同じで、常識や通念が根本から違う者には虚報は絶対に通用しない。そしてこのことは、太平洋戦争の初めから終りまで、ついにだれも理解しなかったらしいし、今でも理解していないように思われる。というのは浅海版「百人斬り」を見た瞬間に、ベンダサン氏がなぜこれを即座に「フィクション」と断定したか(『日本教について』の中で)、その理由をまだだれもつかんでいないからである。だがこれは後述することにして、まずここでは、虚報を出すと、どういう結果になるかを記しておこう。
 これを最近のことを例にとって説明してみよう。ある新聞の中国関係の報道に偏向があるとされ話題になったことがあるが、たとえその報道が虚報であっても、それは、その新聞社のもっている中国関係の情報の総量はだれにもわからないから、結局は水掛け論で終るであろう。
 だがその総量を確実に把握している者がいるのである。言うまでもなく中国政府である。どの機関によりどういうルートを通じて流そうと、情報源を握っている者には、これは確実にわかる。中国政府は、おそらく非常に細かい点まで的確に把握しているであろうと思われる。それは「南京事件」の”報道官”として登場する中国人が、いつも同一人物だからである。
 従ってこの一事に限っても、与えた個々の情報のどの部分が公表され、どの部分を欠落させたかは、調べさえすれば、手にとるようにわかるわけである。おそらく全体的に見ても同じであろうから、発表部分と欠落部分を彼らは非常に正確に対比分析ができるわけである。
 これさえできれば、相手の潜在的願望から秘匿した意図まで的確に見抜くことができ、そこへ時々、自分の分析が正しいかどうか判断するため、わざとある種の情報を流せば、すべてが的確に把握できるのである。これの具体的な一例をあげれば「林彪は生きている」である。これははじめから非常にあやしげな情報だが、おそらく故意に流したのであろう。これにダボハゼのようにとびつく者があれば、とびついた者に内在する希望的観測が把握できる。希望的観測は潜在的願望や秘められた意図から生ずるものだから、今までの分析と、投げた情報へのとびつき方から、相手の意図は的確につかめるわけである。
 戦場では「意図」を見抜かれた者が破滅する。大日本帝国陸軍は、われわれ下っ端に「企図ノ秘匿」「企図ノ秘匿」と口がすっぱくなるほどお説教をしながら、大本営自身が国民に虚報を発表することによって、敵に正確な情報を提供しつづけたわけである。というのは、日本人にはわからなくても、彼らは、大本営のもっている情報の総量はほぼ正確につかんでおり、虚報はすぐに虚報と見抜き、隠した部分と明らかにした部分と誘導を図った部分とを明らかにできたからである。従って国民が何もかも見えなくなるに比例して、彼らの目はますます的確にこちらを見抜いていくのである。
 日本の陸海軍の首脳は、今でも、自分で何かをしたつもりでいるかも知れないが、実は、潜在的願望も秘匿した企図もすべて見抜かれ、その希望的観測を巧みに誘導されて、真珠湾から終戦まで、文字通り鼻面をつかんでひきずりまわされていたのであろう、と私は思っている。そのよい例が比島作戦かも知れない。
 M中尉は「なぜこんなばかなことをやるのか、われわれには到底理解できない」と言うのだが、彼が何を言っているのか、実は、私にもなかなか理解できなかった。われわれが、虚報が当然とされる世界に生きているためかも知れない。彼の言ったことを一言で要約すれば、「虚報を出すくらいなら、なぜノーコメントで押し通さないか」ということなのである。彼らだって一定期間ノーコメントで押し通すことは少しも珍しくないし、倫理的に彼らの方が立派だとは思わない。
 おそらくこれは別のことで、虚報を出すことによって、自国民をあざむいて判断を誤らすだけでなく、その結果、敵には正確な情報を与えるといった考えられない愚行は、やれと言われてもバカバカしくてできないと言うことだと思う。従って、言うときは全部言うし、言わないときは言わない。何もかも全部ぶちまけて知らんぷりをしているのも、ノーコメントで知らんぷりをしているのも、自分の潜在的願望や企図を相手に知らせない、手がかりを与えない、という点では同じ事である。「発表する」というのは、それ以外には彼らは考えられないからである。 
      
 ここで米検事が「野田さんは終戦時に満州で死亡したとのことで気の毒です」と向井に伝えたことについて、秦郁彦氏は「事情を察した復員局の旧軍人が野田を守る為に偽情報を伝えたのかもしれない」と推測している。(「政経研究第42巻第一号」)実際は、野田は昭和21年8月15日鹿児島の警察に逮捕されています。
 なお、鈴木記者は、極東軍事裁判所の法廷事務局から召喚され尋問を受けた時の様子について次のような回想記を残しています。
 「いまでもわたしの手元に、二十五年前の昭和二十一年五月三日に開始された「極東軍事裁判所からのウスぎたない一枚の「証人喚問呼出状」があります。
 この呼出状は、同年六月二十四日付けで……全文英文タイプのもの。とうじの係りであったジョージ・W・ハンレイ中佐のペン字の署名があり……七月一日午前九時に証人室一二三号室まで出頭せられたし。(中略)……浅海、鈴木の二人が……証言をとられてからは、法廷内の証人控え室に連日かよって証人台への出廷に待機……(検事から)両将校の真意をするどく追求されたが、じっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく・・・両将校が”二人とも逃げるのは斬らないといった言葉をたよりに……「立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない」と強調した。
 検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間「書類不備」?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて「もう二人ともこなくてよい」といわれた。」(前掲書)
 見てもいないのに、近代戦争ではあり得ない「百人斬り競争」の記事を伝聞で書き、その素材を眞実と思うかと聞かれて「眞実です」と答える記者の宣誓証言など聞く必要はないということだったのでしょう。
 
ベンダサンの「虚報」を見抜く目
『私の中の日本軍』(p225~234)
 本多・ベンダサン論争で、・・・「浅海版」が三十五年ぶりに再登場したとき、べンダサン氏はすぐに「浅海版」もフィクションだと一笑に付したが、その根拠は何かという問題である。
 私は資料を読んでいるうちに、資料も何一つ出てこないうちに、氏に、こういうことが言えるはずがないという気になった。私かこれを解明していく根拠は、あくまでも資料・体験・同境遇の三つだが、氏はそのいずれももっていない。そして、この三つがない限り、絶対に解けないはずだ。何しろ今までに何百万という人が、あらゆる体験者がこれを読んだはずなのに、結局、記事だけでは、だれ一人シッポをつかまえることができなかった。その記事をはじめて目にした人間が、その記事だけを見て、なぜすぐにフィクションだと断定できるのか。それは不可能のはずだ。ハッタリでフィクションだと言ったら偶然そうだっただけなら、これを「事実」と強弁しようと「フィクション」と強弁しようと、共に強弁にすぎず、一方がマグレであたっただけで、本質的には双方とも何ら差はないことになる。
 私は、自分の方法で解明を進めて行けば行くほど、この疑問は強くなった。そしてついに氏に質問状を送った。要旨は簡単で、「これは確かにフィクションである。しかし二人が、同一指揮系統下の歩兵の二小隊長であれば、フィクションと証明することは不可能である。そして記事は、二人が歩兵の二小隊長でないという事実を、伏字まで使って消している。従ってこの記事のみから、これもフィクションと断定することは不可能なはずである。そして不可能なゆえに事実とされてきたはずである。あなたはいかなる論拠でフィクションと断定されたのか」ということであった。
 大分かかったが返事が来た。一読して私は驚いた。軍隊経験とか資料とか同一体験とかいったものが全くなくとも、いや軍隊も戦場も中国も何一つ知らなくても、「本多版」「浅海版」の二つだけで、これをフィクションと断定しうる鍵はちゃんとあったのである。まさにコロンブスの卵、と言われればその通りで、今となるとなぜそれに気づかなかったか不思議なくらいである。以下に氏の分析を要約しておこう。氏は次のように言われる。(p228)
〈これは競技の記事である。たとえ場所を戦場に設定しようと、競技の対象が殺人という考えられぬような想定であろうと、これは競技の記事であって、戦争の記事ではない。言うまでもなくすべての競技には「ルール」「審判」「参加者」が必要であり、それを記録するなら「記録者」が必要であり、そしてその全員がルールを熟知していなければ、競技も競技の記述も成立しない。全員が自分たちが何を争っているかわかっていない競技は存在しない。従ってこの二つの記事にも、もちろん最初にまずルールが記述されている。ルールは「本多版」も「浅海版」も同じで、それは「本多版」に次のように明確に記されている通りである。

 「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような「殺人競争」を紹介した。
 AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。」

 従って、この競技は、「フィールドの範囲を示し、次に数を限定し、時間を争う型」の競技である。従ってその原則は基本的には百メートル競走と差はない。「一人斬り」を「一メートル走り」となおせばそれでよい。すなわち競技者は、どちらが早く百に達するか時間を争っているはずであって、時間を限定して数を争っているのではない。
 通常、競技は、ルールという多くの確定要素の中の一つの不確定要素を争うもので、不確定要素が二つあっては競技は成立しない。またこの不確定要素すなわち争点が絶えず変化する競技も存在しない。
 しかしこれはあくまでも原則であって、実際には、不確定要素が二つある場合もある。これがいわば「百人斬り競争」であって、百という数は確定していても、これは百メートルのように予め設定されているわけではなく、現実には、競技の進行と同時に発生していく数である。
 この種の競技に審判が判定を下す方法は原則として二つあるが、通常採用されているのは「ストップ」をかける方式である。一応「ストップ方式」としておく。すなわち、一方が百に到達した瞬間にストップをかける。その際、もちろん、相手の数が百を超えることはありえない。この際、相手が九十八ならその差は数で示されるが、この数はあくまでも時間を数で表現しているのであって、争われているのは時間である。
 この方式は、通常、減点方式がとられるはずである。明らかにこの「ストップ方式」を想定しているのが「本多版」である。これについては後述するが、いかにフィクションとはいえ、戦場においてストップ方式を採用させることは出来ない。理論的には別だが、実際問題において、この種の競技はストップ方式しかとれないのが普通だから「事実」にしようと思うのなら、戦場もしくは戦闘行為という想定をはずさねばならない。従って「本多版」は、実質的には戦場ではない。前記のルール通りなら、こうする以外には不可能である。
 ここで「浅海版」を見てみよう。恐るべき論理の混乱ではないか。この点「本多版」から本多氏の加筆を除いた部分は、論理の混乱は全くない。中国人は日本人より論理的なのかも知れぬが、これは恐らく「浅海版」が、基本的には上記と同じ論理を戦場にあてはめようという「不可能」を無理に行なったため生じた混乱であろう。
 「百人斬り競争」という言葉自体が、「数を限定して時間を争う」ことを規定しており、同時に部隊が移動していることは、場所の移動が時間を示している。言うまでもなく、向井少尉の「丹陽までには云々」は、丹陽につく時間までには、百というゴールに到達して見せるぞ、という意味であって、この場合の彼の言葉は、あくまでも「百という数を限定して、それを争っているこの競技において、おれは、時間的に相手を引き離したから、おれの勝ちになるぞ」といっているわけである。ここで彼は、はっきりと数を限定して時間を争う競技と意識しており、これへの野田少尉の返事も同じである。ところがいつの間にか、このルールをあやふやにして、時間を限定して数を争う競技でもあったかの如く、次のように変えている。
 野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」・・・両少尉は”アハハハ”結局いつまでにいづれが先きに百人斬つたかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」
 いかなる競技であれ、本当に競技を行なったのなら、そしてそれが「時間を争う」競技なら、百に達した時間を記憶していないということはない。第一その時に出てくる質問はあくまでもまず相互に「お前は何時何分に(場所にかえて「どこで」でもよい)百に達したか」であっても数ではない。次にそれにつづく「改めて百五十」とは何を意味するのか。数をきめて時間を争おうというのか、時間をきめて、百五十を目標に数を争おうと言うのか。
 もし、本当にルールが設定され、競技が行われ、その結果を摘記要約したのなら、いかなる競技の記事であれ、このような混乱は生じえない。たとえばオリンピックの百メートル競走において、百メートルという数を限定してそれに到達する時間を争っていると書いているものが、途中で、時間を十五秒にきめてその間に何メートル走れるかを争っている、と書きかえていたら、すべての人が、この記述はおかしい、何かの混乱か、誤記か、とまず考えるであろう。私の考えでは、そう考えない人の方がおかしい。だが、事実を記述した場合の混乱は、記者の認識不足から生ずるのであって、「事実」が混乱を生じているのでない。従って事実を整理すれば、記者の認識不足が浮びあがる。そしてこの場合は、フィクションではないと考えるのが本当であろう。だがここで、この点で「本多版」の検討にうつろう。
 「本多版」は論理的構成においては破綻を来しておらず、ルールの設定、審判の態度、その他すべて筋が通っており、二人は終始、はっきりとそれを意識して数を限定して時間を争っている。第一回は百に達しなかった。これは百メートル競走において一人が八十九メートル、もう一人が七十八メートルで転倒したに等しい。これでは競技をやりなおすより仕方がない。しかし第二回においては、一方が百に到達した瞬間にストップをかけよと審判に注意すべき者が失念し、二人が共に百を越してしまったときに、はじめて審判がこれに気づいた。いわばゴールにテープをはるのを忘れて、一方が百六メートル、一方が百五メートルまで走ってしまったときにそれに気づいたに等しい。当然審判は不機嫌になり、コースを百五十メートルにのばして、もう一度競技を再開することを命じた。
 この設定を読んだ場合、本多氏のように、「・・・二人はたぶん目標を達した可能性が高いと、姜さんはみている」と見ることは少しおかしい。そうでなく姜氏は、三回目には、審判もストップ係も緊張して、一方が百五十に達したときにストップをかけ、従って一方は百五十以下にとどまり、競技は成立したであろうと見ているはずである。記者の認識不足により生ずる混乱はこのような形で起る。従って本多氏がこの話を聞いたという事実は、絶対にフィクションではない。これが、事実を整理すれば記者の無能と理解力の欠如に基づく誤認およびこれに基づく混乱がわかる例である。だが「浅海版」はそうではない。しかし「本多版」をさらに検討しよう。  なぜ上官が登場したか。これは、審判である。前述のように不確定要素が二つあるに等しいため、ストップをかけて時間を数に還元して勝敗をきめるという方式の競技は、実際には、審判の目の前で行い、審判がストップをかけねば成立しないからである。従って、「百人斬り」という競技を行いうるには、「本多版」の設定以外に不可能である。従って、数に異常な誇張がなければ、「本多版」は、論理的には「ありえなかった」とは断言できない。
 従ってこのように記者の誤認を整理すれば、論理的設定が完全な場合の真偽は、数を単位に還元して調べる以外にない。たとえば長距離競走の記事があり、その論理的構成は完全であっても、逆算すると百メートルを三秒で走ることになっていたら、そういうことはありえない。しかしこれは人間の能力測定の問題であって議論の対象ではないから、これを議論の対象にすることはおかしい。
 ではここで「浅海版」へもどろう。戦場においてもし競技が行われうるなら、それは、「時間を限定して戦果を争う」競技以外にはありえない。「戦果を限定して時間を争う」ことは、「本多版」のように、一方が無抵抗な場合に限られる。いかにのんきな読者でも、少なくとも相手の存在する戦闘において、戦果が一定数に達した瞬間に何らかの形でストップをかけうる戦闘があることは納得しない。
 もちろん二人の背後に測定者がいて、百までを数え、同時に百に達した時の時間を記録し、その時間を審判に提示しうれば別であるが、それを戦場における事実であると読者に納得させることは不可能である。走者と共に走りつつ、巻尺で百メートルを計測しつつ、百メートルに達した瞬間にストップウォッチを押すという競技は、平時でも、理論的には成り立ち得ても実施する者はいないであろう。しかし、もしこの「百人斬り」が数の競技なら、読者からの質問に、何者かに数を数えさせたと答弁しうるであろうが、時間を測定させたのではだれが考えても作為になってしまう。従って、この作者は、非常に注意深く、人に気づかれぬように、時間の競技を数の競技へと書きかえていったのである。従ってそれによって生じた混乱は、「本多版」の混乱とちがう。
 なぜこういう混乱が生じたか。その理由は言うまでもない。この事件には、「はじめにまず表題があった」のである。「百人斬り」とか「千人斬り」とかいう言葉は、言うまでもなく俗受けのする慣用的俗語である。何者かが、この言葉を、新聞の大見出しにすることに気づいた。そしておそらく三者合作でその内容にふさわしい物語を創作した。
 しかしその時三人は、この言葉を使えば、それが「数を限定して時間を争う競技」にならざるを得ないこと、そして戦場ではそれは起りえないことに気づかなかった。そしておそらく第一報を送った後でだれかがこれに気づき、第二報ではまずこの点を隠蔽して、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切り替えて行った。この切替えにおける向井少尉の答弁は模範的である。事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう。すべての事態は、筆者の内心の企図通りに巧みに変更されていく。事実の要約摘記にこのようなことは起らないし、誤認に基づく記述の混乱にもこのようなことは起こらない。人がこのようなことをなしうるのは創作の世界だけである。そしてこの判定を基礎に、広津氏の四原則をあてはめたわけである。〉 
       
 山本七平=イザヤ・ベンダサンとする人は、この「ベンダサンの「虚報」を見抜く目 」を読んで、何と手の込んだ「偽装工作」をやるものかと驚くと思います。しかし、私は、この部分は、山本七平がイザヤ・ベンダサンとは別人格であることを最も明瞭に示すものだと思います。
 もちろん、イザヤ・ベンダサンとは、山本とジョセフ・ローラー及びミンシャ・ホーレンスキーという二人のユダヤ人の合作ペンネームであって、三者の人格が入り交じって区分けすることはむずかしいのですが、この部分の論述については、ミンシャ・ホーレンスキーの見解がはっきり出ているのではないかと思います。
 それは「百人斬り競争」の虚報性の見抜き方の違いとなって現れているわけで、山本は、「百人斬り競争」の二少尉を、はじめは「歩兵小隊長」と思い込んでおり、それが新聞記事になったのは、二少尉が「百人斬り競争」をシトルと言い、記者がそれを信じて記事にしたのか、記者が二少尉の名前を借りて戦意高揚の「百人斬り競争」を書いたのか、三十五年前のことであるし、一種の水掛け論でもうわからない、良心の問題だ、と書いていたのです。
 これに対してベンダサンは、東日の「百人斬り競争」について、「それを「事実」だと書きうるのはこの記事を書いた記者ぐらいなもので、小銃・拳銃・手榴弾・機関銃湯で武装した兵士五十五名と「戦って」軍刀だけでこの五十五名を斬り倒した「戦闘行為」が存在するなどという話が「事実」として通用するのは、「語られて事実」と「事実」との区別がつかない世界だけの話ですから、当然これは、「武器を捨てて降伏したものを処刑・惨殺した」と認定されるはずです」と書いていました。
 これに対して山本七平は、「事務所に来た『諸君』の記者に「氏はヤケに自信がありますなあ、あんなこと断言して大丈夫なのかな。事実だったら大変ですな」といって笑った」と言っています。
 そこで、山本は「資料も何一つ出てこないうちに、氏に、こういうことが言えるはずがない」と思い、ベンダサンに「あなたはいかなる論拠でフィクションと断定されたのか」と問うた結果帰ってきたのがこの手紙だというのです。
 この手紙の中でいくつかの推論がなされていますが、最も重要なものは、この事件には、「はじめにまず表題があった」ということ。この表題が「百人斬り競争」だったわけですが、その後出て来た資料によって、この表題を持っていたのは浅海記者であり、二少尉は、あっぱれ英雄になれば嫁さん候補がどっと来る話や、新聞記事に載れば、故郷に自分の活躍や無事を知らせることができるなどの誘いを受けて、「百人斬り競争」の”やらせ”を演じることになったのではないか。
 しかし、途中で「数を限定して時間を争う競技」が戦場ではそれは起りえないことに気づき、第二報(実際は第4報)で、読者に気づかれぬように、巧みに「時間を限定して数を争う」別の競技へと切り替えが行われた。この切替えにおける向井少尉の105対106のドロンゲームの「てんまつ」会話について、ベンダサンは「事前の打合せがあったか、三者相談の結果を向井少尉に語らせたか、であろう」としています。
 山本は、この部分は、浅海記者の創作としていますが、私は、大阪毎日の第二報に向井が「第二回の百人斬り競争」をやるつもりといい、野田少尉の「新聞記事の真相」には、向井が「無錫から南京までの間の戦斗では、向井野田共に1〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」とあることから、向井少尉がこの数字だけは語った可能性があると思います。
 なお、この段階では、山本七平もイザヤ・ベンダサンも、東京日日新聞に掲載された「百人斬り競争」の記事が、第一報が常州発、第二報が丹陽発、第三報が句容発、そして第四報が紫金山山麓発であり、かつ、同様の記事が大阪毎日新聞から発行されていた事実を把握していません。そのため、山本は無錫の記事と常州の記事二本に分け、12月10日と12月11日の紫金山山麓の記事を二本に分けるなどの間違いを犯しています。
 しかし、大阪毎日の丹陽の第一報には、「記者等が「この記事が新聞に出るとお嫁さんの口がどっと来ますよ」と水を向けると何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤めて照れること照れること」という向井少尉の証言に符合する記事があるなど、これらの存在を知れば、さらに虚構性を示す分析が可能になったものと思われます。
 
事実として聞いたか、フィクションとして聞いたか
『私の中の日本軍』(p241~246)
 「浅海さんは、たしかに好意的にいろいろ相談に乗ってくれました。しかし、肝心の部分を書いてくれないのです。浅海さんに書いて頂いたのは”(1)同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。(2)両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。当時とはいえども、残虐行為の記事は、日本軍検閲当局をパスすることはできませんでした。(3)両氏は当時若年ながら人格高潔にして、模範的日本将校でありました。(4)右の事項は昨年七月、東京に於ける連合軍A級軍事裁判に於て小生よりパーキンソン検事に供述し、当時不問に付されたものであります”という内容のものでしたが、私はできれば、あの記事は創作であると書いてほしかったんです。しかし、それはやはり無理だったのでしょう。もっとも、当時は私は、あの内容でも充分大丈夫とは思いましたし、それにまだ軍人のプライドみたいなものが残っていましたから、あれ以上頭を下げて頼むことができなかったのです。今なら・・・」と、少し言葉を切って、「今なら、土下座してでも、ウソだったと書いてもらったと思いますが・・・」(中略)
 前々から述べているように、浅海特派員は、あらゆる手段を使って「話の内容に適合するように」主人公を創作し、いわば灯台守をセールスマンにし、そう見せるため伏字まで使っている。それだけでなく、「表題」が戦場の実情にマッチしないことがわかれば、巧みに記述の内容を転換している。これをした以上、前述の通俗作家と同様、「二少尉の話を事実として聞きました」という権利は浅海特派員にはない。フィクションとして聞いたから、こうしたはずだ。従って、浅海特派員がこのフィクションの創作にどれだけ関与したかは一応別問題としても、少なくとも証言(1)は、「私は二人の話の内容をフィクションとして聞き、それを事実として報道するため、話の内容に合うよう別人格の主人公を創作し、その主人公のために二人の実名と写真を借りました」のはずである。
 ところが氏の証言は「同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞きとって記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」となっている。この証言は確かに非常に巧みで、典型的な「戦犯の証人」の証言の仕方で、どっちにころんでも、浅海特派員には全く責任はありません、という結果になっている。従って、これでは偽証ではないかといわれれば、氏は「冗談じゃない。『記載されてある事実』はあくまでも事実だ、と証言したのではない。話をきいただけで、現場は目撃していないと証言しているではないか」と言えるのである。しかし問題はそこなのだ。そして向井猛氏が問題としていることも、そこなのだ。
 浅海特派員は、この事件における唯一の証人なのである。そしてその証言は一に二人の話を「事実として聞いたのか」「フィクションとして聞いたのか」にかかっているのである。いわば二人の命は氏のこの証言にかかっているにもかかわらず、氏は、それによって「フィクションを事実として報道した」といわれることを避けるため、非常に巧みにこの点から逃げ、絶対に、この事件を自分にかかわりなきものにし、すべてを二少尉の責任に転嫁して逃げようとしている。しかし、もう一度いうが、そうしなければ命が危かったのなら、それでいい――人間には死刑以上の刑罰はない、人を道連れにしたところで死が軽くなるわけでもなければ、人に責任を転嫁されたからといって、死が重くなるわけでもないのだから。
 しかし、死の危険が浅海特派員にあったとは思えない。それなら一体なぜこういう証言をしたのか。確かに浅海氏が小説家で、これが「東京日日新聞」の小説欄に発表されたのなら、この証言でもよいのかも知れぬ。しかし氏は新聞記者であり、発表されたのはニュース欄である。新聞記者がニュースとして報道するとき、実情はどうであれ、少なくとも建前は、その内容はあくまで「事実」であって、この場合、取材の相手の言ったことを「事実と認定」したから記事にしたはずだといわれれば、二少尉は反論できない。従って、すべてを知っている向井少尉がたのんだことは、「建前はそうであっても、これがフィクションであることは三人とも知っていることなのだ。しかし二人は被告だから、残る唯一の証人、浅海特派員にそう証言してもらってくれ」と言っているわけである。
 それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言することは、「二人の語ったことは事実であると私は認定する。事実であると認定したが故に記事にした。ただし現場は見ていない」と証言したに等しいのである。すなわち浅海特派員は向井少尉の依頼を裏切り、逆に、この記事の内容は事実だと証言しているのである。この証言は二人にとって致命的であったろう。唯一の証人が「二人が語ったことは事実だ」と証言すれば、二人が処刑されるのは当然である。これでは、この処刑は軍事法廷の責任だとはいえない。(p246)
 
      
 では、こうした浅見記者に対して、向井、野田少尉はどのように対応したのでしょうか。
 向井、野田少尉は南京刑務所に収監されていた同僚に「この事件は創作、虚報であると繰り返し訴え、浅海記者がそのことを証明してくれるだろうと言っていました。そして「待望の証言書が届き、その時彼は声を上げて泣きましたが、この証言内容は・・・うまく書いてあるが決して「創作」とは書いてありませんでした。」(『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明)
 この浅海記者について具体的な言及をしているのは向井少尉だけです。死刑判決後の向井少尉の遺書には次のようにあります。
 「書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。・・・冨山隊長の証明書は真実で嬉しかったです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ケ条だけ誤解をすればとれるし正し見れば何でもないのですがこの一ケ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。」("向井少尉「遺書」(甲35)"
 ここには、”確かに自分は「百人斬り競争」という武勇談を”ほら話”としてしゃべったけれども、それはあなたと打ち合わせてやったことで、この事実を証言して欲しかった”と言っているのです。
 12月26日の向井少尉の"「獄中手記」"には、「証明なれば現実以ての証明なりとぞ思ふも「記者自ら書き」となぜ言へぬ。記事が原因と知りて何とせん。二つの命とこしへになし。我も人の子、人の親、二度と書けまい。」とあります。  
軍人の手柄意識
『私の中の日本軍』(p272~278)
 以上の点から、私は「上申書」にある、浅海特派員と向井少尉の不幸な出会い、まず二人だけの談合、ついで冗談半分の野田少尉の加入という結果になる記述、および隆(注1)弁護人の「申弁書」の記述は、多少の誤差はあっても基本的には事実であると思う。まず「上申書」のその部分を引用しよう。
 (二)特派員浅海が創作記事ヲナシタル端緒(原因)ヲ開明スル処、次ノ如ク解セラル
 記者は「行軍ばかりで、さっぱり面白い記事がない。特派員の面目がない」とこぼしていた。たまたま向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談をいったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集る」といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は作られたのである。
(中略)
 何しろ娯楽どころか、水道も電灯も、いや家も暖房もないのである。今の世界には娯楽があふれている。テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌、マンガ等々からゴルフ、ボウリング、パチンコ、バー等まである。これが一瞬にして消え、しかも女性の姿が皆無で、みなカーキ色一色、すべてが文字通りの殺風景になったら、一体全体、自分がどうなるか、無理と思うが想像してほしい。
 唯一の娯楽は食事と放談になる――今のように娯楽があふれていても「赤提灯」は満員盛況だから、そのほかのものが一切姿を消したら、人びとが文字通り寸秒をおしんでバカ話やホラ話を交換しても、少しも不思議ではないであろう。特に食後――戦場での食事、これは単に胃袋を満たすということだけでなく、唯一と言ってよいほどの娯楽なのである。
 こういう情況のときの、前述の浅海特派員の「誘い」は、実は、拒否できないほど強い「誘惑」なのである。・・・まず、その誘惑の内容を一つ一つ調べよう。それはまず「手柄意識への誘惑」だが、幸いこれは私には皆無だったのでかえってよくわかる。「手柄」とか「功名心」という意識は、いわば「出世意識」の一つであろうから、当時もそしておそらく今も、日本では普通の人がだれでももっている意識で、何も軍人の専有物ではない。
 事実この「百人斬り競争」や「殺人ゲーム」の底にあるものは、軍人の手柄意識より「特ダネ」「スクープ」という新聞記者の手柄意識であろう。しかし新聞記者の手柄意識は私にはわからないから、それは一応除外すれば、この記事の背後にあるものは、当時の軍人がほぼ平均的にもっていた「手柄意識」である。ただ後述するように、幹部候補生出身の向井少尉のその現われ方は、本職の現役軍人とは非常に違うので、ここではまず本職軍人の手柄意識からはじめよう。

 その「手柄意識」の方向は、上級者でも下級者でも、あくまでも軍の内部、軍の上層部に向いていても、彼らが蔑視した「地方人」(一般市民)の方を向いているのではない。従って下級者なら「個人感状」「勲章」「昇進」へと向うはずである。野田少尉は現役だから、もし彼がこの「百人斬り競争」に記された戦闘行為を実施し、それを「手柄」と考えているなら、自らの手で「戦闘要報」「戦闘詳報」に記さないはずはない。
 従って、軍人の「手柄意識」だけで創作がされるなら、その方向は軍の上層部であって、新聞ではない。「要報」にも「詳報」にもないのに、新聞にだけのっていたなどというバカな「手柄」は、軍の内部では通用しない。従って野田少尉の態度は、あくまでも多少の親切心から出た冗談半分の「おつきあい」のはずで、「記者は『行軍ばかりで、さっぱり面白い記事がない。特派員の面目がない』とこぼしてい」るのだし、仲のよい向井少尉にたのまれたのだから、つきあってやるか、の程度であろう。従って彼は、時にはやや皮肉に、冗談まじりに一般社会の「おんな言葉」に等しい言葉づかいをしながら「負け役・引立て役」を演じたのであろう。(中略)
 野田少尉に比べると、向井少尉の態度は、あくまでも「幹候の一つのタイプ」である。幹候の将校は現役でなく予備役であり、いわば「臨労」であって、階級は中尉どまり、戦争が終れば除隊して、一般社会に復帰する。もちろん特別志願をすれば――当時の言葉でいえば「カンコのトクシ」になれば別だが、これも少佐どまりである。
 幹候にも二つ、あるいは三つのタイプがあった。いわば「現役に負けるもんか」という負けずぎらい型である。大体一本気、積極的、単純、直情といった人に多く、後に特別志願をした向井少尉はおそらくこの型で、「百人斬り競争」にも、彼のこの対抗意識はよく出ている。このタイプには、前にものべたように、本職軍人以上に軍人らしく振舞う人が多かった。(中略)
 従ってこの場合、向井少尉の「手柄意識」が、野田少尉と違って、新聞英雄、社会の喝采の方へ向いたとしても、それは少しも不思議ではない。そしてこれは、「手柄たてずに死なリョーか」という軍歌が歌われていた軍隊内においても、また軍隊外の当時の一般社会においても、少しも不思議とされず、あるのが当然とされる「意識」であった。
 戦争から帰った者に人びとが求めるのは「手柄話」であっても、「ひざががくがくして声が出なかった」とか、「舌が上あごにはりついて号令が下せなかった」とかいう話ではない。従ってこの「百人斬り競争」という創作記事は、こういう「読者のニード」とそれに迎合して「特ダネ記事」をのせて自分の手柄にしようとする記者の手柄意識が、「現役に負けるもんか」型の、一本気でやや感情の振幅の激しい向井少尉の、軍の上層部に向かない、「対市民」という形の手柄意識と結合して出来あがったものであろう。 

(注1)ここでは隆弁護士となっているが、担当の中国人弁護士は崔培均であったと思われる。小笠原芳正氏(中支那派遣憲兵隊軍曹として終戦を迎え南京刑務所に収容され田中軍吉少佐、野田毅少佐、向井敏明中尉と同室した)によると中国側の官選弁護士は形式的なもので、小笠原氏等が答弁書を前もって書き、野田さん、向井さん、田中軍吉さんがその研究をし、それを中国語に訳して裁判長に提出したという。三人の遺書や公判記録は小笠原氏が持ち帰った。(『南京「事件」研究の最前線』平成19年版)
      
 ここに、向井少尉の浅海記者に対する複雑な気持ちが表れています。記事に書いて称揚してくれたことに感謝する一方、その記事が原因で殺人罪に問われたことについて、二人の命が掛かっているのになぜ、談合に基づく創作記事であったことを証言してくれなかったかと恨む気持ちも出ています。
 一方、野田少尉は、「予審庭における「何故新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」との質問に対して、自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐したころであるが、その後も各地を転々としたため,訂正の機会を逃し、かつ、軍務繁忙のため忘却してしまったこと、
 何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが、善事を虚報されれば,そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること、自分の武勇を宣伝され、また、賞賛の手紙等を日本国民から受けたため、自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく、積極的に虚報を訂正しようとしなかったこと、また、反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い,消極的には虚報を訂正したいと思ったが,訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」と率直に述べています。("「野田少尉12月15日申辨書(甲28)」"
 ただし、向井少尉が持っていたような、浅海記者に対する”感謝”の気持ちはなく、”うまく乗せられた”という思いが強かったようです。それが、最後に書いた"「新聞記事の真相」"に表れていると思います。
記者「どうです、無錫から南京まで何人斬れるものか競走[争。以下、同じ]してみたら。記事の特種を探してゐるんですが」
向井「向井「そうですね、無錫附近の戦斗で、向井二〇人、野田一〇人とするか。・・・おい、野田どう考えるか。小説だが」 野田「そんなことは実行不可能だ。武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
記者「百人斬競走の武勇伝が記事に出たら、花嫁さんが刹[殺]到しますぞ。ハハハ。写真をとりませう」
向井「ちょっと恥づかしいが、記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借[貸]してあげませうか」
記者「記事は一切、記者に任せて下さい」
 ここに、記者の誘いに向井少尉の方が乗り気で、野田少尉は負け役として付き合った様子が現れています。
戦場の軍人にとっての女性と里心
『私の中の日本軍』(p278~302)
 これがこの創作記事の背景であろうが、向井少尉がその気になった動機は別で、おそらくそれは、「女性」と「里心」である。戦場の兵士にとって、「女性」という言葉は、普通の人の想像に絶するほど強い魔力をもつ言葉なのである。だがそれは、その環境の下では、そうなる男性が正常であって、ならない男性がいれば、むしろその方が異常である。
(中略)
 向井少尉が浅海特派員という民間人に偶然会い、その背後に、女性の姿を見るように誘導された場合、彼が全く無抵抗になって、言われるままに何を演じたとて、これは彼が健全な普通の男性であることを示しているにすぎない。
 事実、世界のあらゆる国の兵士は、その兵士が健全な男性なら、女性を見た場合、一種独特の反応を起すことは、だれでも知っていることではないだろうか。
 アメリカの水兵が女性の後姿に口笛をふくことは周知のことである。しかし大日本帝国陸軍の兵士には、口笛を吹くという習慣はなかった。だが一種異様な奇声を発することは事実であった。(中略)
 私はこういう背景を知っているので、民間人の背後に幻の女性を見ていた向井少尉への浅海特派員の次の言葉、「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集る」を読むと、一種、慄然としてくるのである。これは恐ろしいワナだ。浅海特派員が意識して仕掛けたかどうか知らないが、向井少尉がこのワナに落ちて一種の「奇声」を発したとて、私には少しも不思議ではない。
 「天晴れ勇士」で手柄意識をくすぐられ、その上さらに「花嫁候補はいくらでも集る」で女性をつきつけられる――見方によっては、全く残酷な誘惑だ。これだけで彼は無抵抗であろうが、さらに大きな誘惑の追いうちがかかる。彼が口にした「花嫁を世話してくれないか」という冗談には、普通の人が考えるよりももっと広い意味があるのである。(p283)(中略)
 珍しくも民間人に会った。そのことが彼に、復員後の生活を連想させ、軍隊語でいえば「里心」を起させたのであろう。里心――これは、ある情況下で、戦場の人間を襲う発作的なホームシックである。戦場における全く原因不明の逃亡は、ほとんどがこの発作的ホームシックが原因だったと私は思う。
 これがどんなに強烈で抵抗しがたいものか、それを思うと、私か彼の立場にいたら、やはり同じ運命をたどったのではないかと、一種、肌寒くなる思いである。(p287)

 普通の将校・兵士には、通信の手段が一切ない。たとえハガキ一枚が支給されたところで、軍事上の秘密の保持のため「今どこにいる」ということすら書くことは許されない。しかし、新聞社は無電を利用でき、ハガキでは書き切れないほどの長い長い文章を送ることが出来、しかもそれが新聞という媒体を通じて、確実に自分の肉親の手にもとどく。
 しかも何月何日どこにいて、何月何日どこへ移動して、と細かく書いてくれ、さらに実に前後二週間にわたる自分の行動が、少なくとも場所と時間だけは大体正しく伝えてくれる。それだけでもう十分すぎるほど十分ではないか――たとえ「手柄意識」をくすぐられず、「女性」の姿を見せつけられなくとも。
 一少尉や一兵士にとって、こんなチャンスは生涯を通じて絶対にありえないことなのである。しかも その生涯は次の瞬間に終るかも知れない。確実に終るかも知れない。この感じ、「知っちゃいない、明日は生きてないかも知れないんだ」という感じ、前線のすべての人間に内在する「退廃」などという言葉では表現しきれないこの感じ、あれも死んだ、これも死んだ、次はオレの番かというこの感じは、向井少尉の最後の長広舌以外の記事全編の背後にみなぎっている。この感じをもっているだけで、確かに 前線では、全員が「明日なき男」だといえるであろう。もちろん「明日なき男」は、そんな言葉を口になどしないが・・・。
 そしてこの記事の登場人物、浅海、向井、野田の三人のうち、この感じをもっていないのは、主役兼舞台監督の浅海特派員だけであろう。彼だけは冷静で計画的で、すべてに気を配り、絶対に「虚報」の証拠が残らないように、記事も、他の記者にも、カメラマンにも、二人の上官にも細かく配慮する余裕をもっている。しかし二人にはそれがない。そこで、この記事が「創作」であることの証拠を提供してしまったのが、結局、二人の「談話」なのである。
 確かにこれだけの「紙面」の提供は、一少尉にとっては、考えられぬくらいの「大恩典」であったろう。日華事変から太平洋戦争終結までの全新聞記事を探索しても、単なる少尉の行動を、二週間にわたって、時間を追ってこれほど細かく報じ、これほどの大スペースでその「談話」が発表されたものは、これだけであろう。確かにこんな「大恩恵」に浴したのは、この十五年戦争を通じ、また最盛期七百万といわれた全日本陸軍の中で、二人だけであったろう。いわば、「一千万円宝くじ」の当選券をひろったぐらいの、全く思いもよらぬことの申し出に接したわけである。
 それは今の人の想像に絶する誘惑である。だがこれは別の面から見れば、新聞社が、軍事郵便の枠外に私設の電報局に等しきものをもち、内地に自由に送信でき、しかも軍隊の常識では想像もっかない長文の電報をうちうるという、下級将校や兵士には考えられないくらいの一大特権――たとえ公用でも、この「百人斬り競争」に等しい長さの電報をうち得るのは、将官クラスか大本営派遣参謀くらいのもの、それももちろん、私用やこの記事のような内容では不可能である――この大特権を浅海特派員が悪用し乱用し、実に、これの「私用」に等しきことをタネに、すべての者に潜在する戦場独特のホームシックを逆用して「あなたは、記事の形で内地と、連絡できますよ」と言った。
 無錫における浅海特派員の第一声は、簡単にいえばそういうことなのである。さらに、相手の「手柄意識」をくすぐり「女性」を見せつけ、それを基に二少尉を自分の思うがままにあやつったこと、それは、今まであげて来た「上申書」「遺書」「申弁書」その他の至るところにあらわれているのである。 
      
 浅海記者が、二少尉の戦場における「女性や里心」の心理をくすぐって、「百人斬り競争」という主題に沿った記事の主人公に仕立て上げていった様子は、向井少尉の"「答弁書」や「最終弁論」"にはっきり書かれています。
 「向井少尉の答辨書」には、「昭和12年11月,無錫郊外において,私は,浅海記者と初めて遭遇して談笑した。私は,浅海記者に向かって,『私は未婚で軍隊に徴集され中国に来たため婚期を失ったのです。あなたは交際も広いから,花嫁の世話をして下さい。不在結婚をしますよ。』と談笑した。浅海記者は,笑って『誠に気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね。それから家庭通信はできますかね。』と聞いてきたので,『できない。』と答えた。浅海記者とは,『記事材料がなくて歩くばかりでは特派記者として面子なしですよ。』などと漫談をして別れてから再会していない。」
 「野田少尉の答弁書」には、「昭和12年11月,無錫付近において,向井少尉とともに浅海記者に会い,たばこをもらい互いに笑談戯言した。これが浅海記者と会った第1回目である。浅海記者は,当時,特別記事がなくて困っており,『あなた方を英雄として新聞に記載すれば,日本女性の憧れの的になり多数の花嫁候補も殺到するでしょう。もし新聞に記載されれば郷士に部隊の消息をも知らせることになり,父母兄弟親戚知人を安心させることになるでしょう。記事の内容については記者に任せてください。』と言った。」
 さらに、向井少尉の「最終辨論」には、「浅海記者が創作記事を書いた原因として,向井少尉が冗談で,「花嫁の世話を乞う」と言ったところ,浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて,花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり,そこから察すると,浅海記者の脳裏には,このとき,既にその記事の計画が立てられたものであろうと思われ,浅海記者は,直ちに無錫から第一回の創作記事を寄稿し,報道しており,無錫の記事(大阪毎日)を見れば,「花嫁募集」の意味を有する文章があって,冗談から発して創作されたものと認められる・・・」とあります。
日本刀神話の実態
『私の中の日本軍』(p346~362)
 前線には新聞は配送されない。従って二人は一体全体、何が書かれていたか、内地に帰ってみなければわからなかったのが実情であろう。向井少尉は半年後に新聞を見て「恥ずかしかった」と上申書に書いているが、実際、前にものべたが、この「恥ずかしかった」は、いろいろな面で、実に実感のこもった言葉というべきであろう。というのは、読者の中に「つまらんホラをふきやがって」と思っている人間かいることを、彼自身、今よりもはるかに強く感じないわけにいかないからである。だがしかし、人間はつくづく弱いものだと思う。定説とか定評とかが作られてしまうと、向井少尉のようにノー・コメットで押し通すか、野田少尉のように、何とかとりつくろうか(志々目証言)、のどちらかをせざるを得なくなる。・・・
 しかし、人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮んできたり、夢に出てきたりするほど、衝撃的なことである。そしてこれは、私だけではない。従って本当に人を斬ったり、人を剌殺したりした人は、まず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないものである。(中略)
 私は実際に人を斬殺した人間、人を刺殺した人間を相当数多く知っている。そしてそういう人たちが、そのことに触れた瞬間に示す一種独特な反応――本当の体験者はその瞬間に彼の脳裏にある光景が浮ぶから、否応なしに、ある種の反応を示す――その反応を思い起すと、「本当に斬ったヤツは絶対に自分から斬ったなどとは言わないものだ」という言葉をやはり事実だと思わないわけにはいかない。(中略)
 次に中国人R氏のお手紙を紹介する。氏のお手紙は大分長く、中国の刀剣の説明があり、ついで日本刀に言及し、成瀬関次氏の著作に言及しておられるので、この「百人斬り競争」という記事に直接関係のある部分だけを摘記要約させていただこう。
 氏はまず「百人斬り競争」を「事実」だと強弁した者に対して憤慨しておられる。私は前に、なぜ姜氏の話では、この「百人斬り競争」が非戦闘員殺害に改変されているかを考えねばいけないと書いたが、その時から気がかりであったことが、事実になって現われたのである。こういう点、日本のジャーナリストの独りよがりの独善さは、戦争中同様、全く救いようがないように思われる。この「百人斬り競争」を「事実」だと強弁することが「日中友好の道」だなどと考えている者がいるなら、大変なことであろう。
 対象が非戦闘員ならいざ知らず、軍隊で、しかも戦闘行為として記されているのである。従って「殺人ゲーム」を事実だと強弁することと、「百人斬り競争」を事実だと強弁することは、全く違うことなのである。だが本多記者にはこのことが全く理解できないらしい。しかし浅海特派員は従軍記者の経験があるだけあって、「週刊新潮」所載の氏の所感の背後には、はっきりとこの配慮がある。ただこれを取材した「週刊新潮」の記者はおそらく戦後の人で、従って、この記者には浅海氏が何を配慮してあのような言い方をしているかがつかめなかったらしい。一面、無理ないことでもあろう。
 「百人斬り競争」という記事自体が、言うまでもなく、徹底した中国軍および中国人蔑視の記事、当時の言葉でいえば「チャンコロ記事」すなわち中国人を人間とみなしていない創作記事であって、それを、戦後三十年近くたった今なお「事実」だなどと強弁すれば、中国人、特に抗日戦を戦い抜いた老兵士たちが激怒するのが当然であろう――中国人の間で、なぜこれが、知らず知らずのうちに「非戦闘員殺害」に改変されていったか、もう一度冷静に考えれば、このことはだれにでもわかるはずである。特に「諸君!」にのった本多勝一氏の文章の一部などは、もし中国の軍人の目にとまれば、一悶着ではすまない部分があると思われる。
 軍人には軍人独特の感情がある。この感情は確かに国によって違うが、しかし共通した一面がある。・・・
 R氏は中国の大刀――俗にいう青竜刀――と日本刀との比較をしておられる。日本刀はかってずいぶん中国に輸出された。しかしそれらはほとんど姿を消した。氏によると、戦前の日本人は、これを「シナ人は大和魂をもっていないから、日本刀をもっても宝の持ち腐れで、結局、せっかくの銘刀を腐らせてしまった。魂の腐っている者に日本刀を持たせてもだめだ」と言ったそうである。
 しかし事実は――と氏はいわれる――日本刀は非常に消耗が早く、実際の戦闘では、一回使えばほぼ廃品になってしまうものであって、その最弱点は、特にその柄である――日本に多くの日本刀が残っていたのは、結局、徳川期以降これを戦場の兵器として使用することなく、単に、武士の身分を示す一種の「儀礼杖」となっていたからにすぎず、実戦に使われつづけたなら、いわばもっともっと実用品としての改良がなされたはずだといわれる。そういった改良は皆無で、ただひたすら「美術工芸品」としての完成へと向っていったのは、青貝ちらしの火縄銃と同じ行き方であろう、と氏は記されている。
 一方中国の大刀(青竜刀)は、その彎曲度は刃物として最も合理的で、かつ、幅広で肉うすに作られ、従って最も鋭利でかつ折れず曲がらず、さらに先端に重みがかかるように設計されている。この形態が戦闘において最も実用的であることは、議論の余地がない。一方、柄は、刀身と別でなく、ただここを円筒形の握りにかえてあるだけで、全部が一単体の刀身という構造になっている。こういう形態になったのは、一に実用のためであったと氏はいわれる。
 そして氏は「この日本刀の致命的欠陥は、すでに日本人の成瀬関次氏が詳細に指摘しておられます。(氏はここで今までの二人とほぼ同じことをのべられ)刀といった場合、その優劣はあくまで世界のあらゆる刀との対比において行われるべきであると思います。またその実態はあくまでも、専門家が現地で実際に調べたデータを基礎に論ぜらるべきでしょう。日本刀は世界一という一方的断定から、すべてを論断して、かかる記事(百人斬り競争)を事実と断定することに対して、強い不満を表明せざるを得ません。成瀬氏のデータだけなりとも何らかの機会に発表して下されば幸いです・・・」と記されている。(p353)
 そもそも、団体戦闘における近接戦の主力兵器は槍であって刀ではない。槍は銃槍、銃剣となり、刀は指揮官の「指揮杖兼護身用武器」に変化した。日本刀の構造上の欠陥は、日本刀は多少の彎曲はあっても直刀に近く、斬るより突くで、刀身で強打する場合、その柄への衝撃は大きく、これが目釘に直接作用し柄にガタがくる。さらに「鍔元から左かたに曲がる」従って、「鉄兜もろとも唐竹割」どころか、骨を切断することさえ、なかなかできない。また、人を斬った日本刀は血糊(塩分が強い)が付着して腐食が激しく、砥石で研ぎ上げる以外に腐食をとめる方法はない。「百六の生血を吸った孫六を記者に示した」というが、この部分こそ虚報の証拠の一つと言える。(本パラグラフはp362までの筆者のまとめ)
 
      
 「百人斬り競争」裁判では、大阪毎日新聞沖縄版他の新聞の「百人斬り競争」の後追い記事が発見されました。しかし、これらが、虚構の「百人斬り競争」の上にさらに虚構を重ねた、当時の新聞の”悪乗り”記事であることは言うまでもありません。
 実際の向井少尉については、母校である京城(ソウル)の公立商業学校では「長い間母校の『輝ける星』として、向井少尉の『業績』が語り継がれていた」そうですが、同級生の田辺氏によると、昭和15,6年頃、向井少尉が一度母校を訪れて歓談した時、校長から「生徒達に是非百人斬りの話を――」とすすめられたが、なぜか固辞して語らなかった」そうです。
 一方、野田少尉については、志々目証言の「『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから云々がありますが、志々目彰の大阪陸軍幼年学校の同期生であるAは「実際問題として、日本刀は役に立たない」Bは「百人斬りの英雄ということで有名になったが,自分は決してそういうものではない。迷惑で心外である。百人斬りなんて無茶なことができるわけはない。白兵戦なんていうのはめったにおこるものではない」と聞いています。
 wiki「百人斬り競争」には、「志々目は、三年以上後の陸軍幼年学校で二人を相手に語られた話だったと変更した」とあります。
 また、この「百人斬り競争」論争で話題となった日本刀の硬性についての議論ですが、もちろん戦闘行為においてこれが不可能なことは言うまでもありませんが、本多勝一記者らが持ち出した論理は、非戦闘員相手なら可能だというものです。
 歴史家の秦郁彦氏は、山本七平の「日本刀はバッタバッタと百人斬りができるものではない」とする指摘について、「無抵抗の『罪人』(捕虜)を据えもの斬りする場面を想定外としている・・・」として、トリックないしミスリーディングと決めつけました(「政経研究」第42号)。秦氏の「南京事件」に関する所論は首をかしげるものが多く、この日本刀をめぐる見解もそうで、捕虜を殺すなら何も日本刀ではなくカミソリでも十分です。山本は、あくまで日日記事の「百人斬り競争」について論じているのであって、最高裁判決でも、「捕虜据えもの斬り」の根拠として日日記事を挙げるのは間違っている、としています。朝日新聞さん、そんなに「捕虜据えもの斬り」を立証し断罪したいなら、まず鵜野晋太郎を断罪したらいかがでしょうか。
生への希求
『私の中の日本軍』(p417~419)
 ニューギニア戦線で、火葬が不可能なとき、戦死者の親指を切りとってこれを火葬し、その遺骨というより遺灰を内地へ送った――というより内地に送るべく保持していたという話は確かに聞いたことはある。軍人は多く短い丸刈だから、頭皮でもはがない限り遺髪はとれない。従って親指切断ということになったのであろうが、しかし、それが制度化されていたわけでもないし、もちろん規定があるわけでもないし、そのときそういう命令も指示もうけたわけでない。従って不意にこう言われた私は、部隊長が言っていることの意味が咄嵯に理解できず、一瞬返答に窮した。
 部隊長の顔には、奇妙な激情が走った。確かに少しノイローゼだったのであろう。「切ってこい。遺体の一部なりとも遺族にとどけにゃ相すまん。絶対にとどけにゃならん。とどけにゃ相すまんのだ。命令だ。切って遺灰にして、もって来い」 私は非常に意外であった。第一、部隊長は、こういう言い方をする人でなかった。第二に、部隊長は軍隊生活のベテランであったから、非常に細かく的確に指示する人であり、もし、このことがはじめから念頭にあったのなら、最前の私への指示が、「親指を切り取って遺灰にし、遺体は埋葬せよ」だったはずである。第三に、所定の報告も求めず、報告はよいともいわず、いきなり「親指」を云々するのは軍隊内の常識からみても異常であった。
 だが考えてみれば、部隊長の心労の一部は、その原因が私だったはずである。部下が戦死し、その上自分の部下が、参謀をブッタ斬るなどと言って駆け出したとあっては、そのショックは二重にも三重にもなるであろう。私はそのことを知らなかった。しかし何か異様なものは感じていたのであろう。そこでおとなしく「ハイ」と答えると、部隊長は「すぐ行け、ワシの車を使え」と言った。私は敬礼をし、再びタイマツをもって伐開路を五号道路へと下った。  あるいは私の誤解かも知れない。しかし、その時私は、部隊長の言葉に、部下の死から反射的に起った「生への希求」も聞いていたのであった。人間が「生きたい」と叫んだとて、それは当然の言葉であって、生を希求することは卑怯でも卑劣でもあるまい。卑怯とか卑劣とかいうことは、これとは全く別のことのはずである。
 第一、「闘う」ということ自体が、闘病であれ、闘争であれ、戦闘であれ、その根元にあるのは生への希求ではないか。ただ日本軍には「生きたい」という言葉はなかった。しかし言葉がなければ、人は、別の表現で「生への希求」を口にする。
 前にのべた「親孝行がしたいよナ」がそれなら、戦友の遺骨を「断固としてもって帰って遺族にとどける」も、それであった。この言葉は「オレは絶対に生きて、内地へ帰ってヤル」という決意が前提でなければ、成立しない。
 こういった種類のすべての言葉の無言の前提は、強烈な「生への希求」「生存への願望」であり、遺骨や骨灰を保持しつづけるのは、一種の「生存」と「内地帰還」を願うことへの、無意識の自己正当化であると私は思っている。
 戦後の戦争小説などで、この「生きたい」という言葉がナマのまま出てくるものがあるが、私の体験した限りでは、そういう事例はない。また別の表現方法があったのだから、そういうナマの言葉を口にしたとは思えない。
 しかしすべての人は、自ら意識せずとも、絶対的といえる「生への願望」を当然の前提にしたはずの言葉を、口にしていたのは事実である。「百人斬り競争」で処刑された向井・野田両少尉の遺書も、私が読むと同じことになる。そこには「新聞記者の創作記事で殺されるのはイヤだ、何としてもオレは生きたい」という叫びしか聞えてこない。

      
 「自分は一体、何のために殺されるのか解らなくなってきた。生来誰一人手をかけた事もないのに、殺人罪とは。自分を殺す奴こそ殺人罪ではないのか。余りにも呑気に南京迄も来たものだ。馬鹿さかげんにあきれる。信じてゐたのが悪かったがこれも馬鹿のいふことだ。天の命ずるまゝに死を知らずして死ぬるを宜とするか、知って反省し足らざるを悩みっつ死するを可とするか、なやむ」(向井敏明の手記より)
 「昨年十二月十八日判決があって、三十一日死刑を執行された鶴丸といふ人があります。二十一日朝、ここまで書いてゐるところへ、陳通訳官から『内地から浅海一男記者と富山大隊長の証言が着きました』といってこられました。真実に嬉しくて泣けてきました。
 しかし、上訴書と、この証言書が果して聞き届けられるかどうか判りません。それにしても、嬉し涙は後から後から流れました。絶対の死地に入ったわれわれでしたが、前途にかすかな希望の光が見えてきました。猛氏の手紙に『お父上が成田町においでになられた』とありました。この一句を読みました時、思はず大の男の毅は、『お父さん』と叫びました。そして、目前の死を直視して明鏡止水の境地にありました私の心に、生への執着が滲み出てきました。」("野田少尉12月21日の「日記」"
向井少尉の紫金山での「長広舌」のわけ
『私の中の日本軍』(p456~459)
 私がこれはほとんど向井少尉の談話そのものだと感じた理由の一つは、戦場の軍人の感情がはっきり出ているからである。
 戦場の軍人は必ず「敵は強かった」という。これは現実に敵と向きあっている人間の実感である。同時にこれは一つの自慢なのであって、「その強い敵に勝った」のだという意味である。この感情はほぼ世界共通だから、それを「自慢のタネにされている」と思わず、その言葉をそのまま受けとって、新井宝雄氏のように、日本軍が強大な武器をもった強力な軍隊であったことの証拠にしたり、アメリカ軍の自慢用日本軍賛美を「無敵皇軍」の証拠とする人がいるのは少々どうかと思う。
 これらは新聞記者と、本当に敵と向い合った人間の差であろう。そしてこの「敵が強かった」という言葉は、向井少尉の短い談話にも次々に出てくるのである。従ってここだけは彼の談話だと確かにいえる。
 この点はすぐ理解できたのだが、彼の態度があまりに陽気で浮き浮きしすぎているのが少し不可解であった。もちろん、前にのべたように、戦闘の緊張から急に解放され、そしておそらくその戦闘では部下に一人の戦死者もいなかったこと(と私は断定する)にもよるであろうが、どうもそれだけでは、何とも納得できかねるものがあった。そしてそれは、次の上申書の記述で氷解したわけである。

 
被告向井ノ中支二於ケル行動
 向井は富山部隊に所属。丹陽に向って前進中、十二月二日迫撃砲弾に依って脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため、後続の看護班に収容され、十二月十五日まで加療した。向井が、富山部隊に担架に乗って帰隊したのは十五、六日だが、それからも治療を続けていたので、東京日日新聞にあるように、十日紫金山で野田少尉とも新聞記者とも会っているはずがない。

 この「時日」にはもちろん問題がある。これだけでなくこの記事自体における「時日」は、明らかに辻棲をあわせるための虚偽がある。だがそれは後述するとして、彼が負傷して、この談話記事の直前まで担送されて、そして現地に到着した事実は否定できまい。
 彼はこの時点で、今までのべて来た「負傷」のもつあらゆる恐怖から解放されたところなのである。そのわき出るような喜びはだれも抑えることはできない。しかし一方、非常に気が弱くなっていることも事実である。
 喜び、弱気、実戦にほとんど参加しなかったというひけ目、それを裏返した強がり、もう戦争は終った(と現地の下級幹部は信じていた)という安堵感、と同時に「手柄タテズニ死ナリョーカ」という軍歌に象徴された、当時の「手柄意識」と、その意識を半ば強要してくる「世論」、その「世論」の評価で彼に対する知人や家族――あらゆる面で本当に「ホッ」としたときわき起るさまざまの感慨、おそらく厳密に読み進むと全く支離滅裂ともとれるあの「談話」も、そういう状態なら、ありえて少しも不思議ではない。
 彼はおそらくその後も、戦闘期間の大部分を担送されたなどとはだれにもいわなかったであろう。そしてこれが「百人斬り」の話をしてくれと人から言われたとき、時には非常識とも思える態度でそれを拒否した理由の一つであろうし、またそれが、すぐ無罪になると信じ込んで、全く躊躇なく戦犯法廷へ出頭して行った理由でもあろう。
 彼には「担送」という自信のもてるアリバイがあった。そうでなければ、あああっさりと出頭はできない――戦犯の取調べ方には、だれでも相当に疑念はもっていたし、自分の命の危険を毛すじほどでも察知すれば、人は、生物的本能で、何かの躊躇を示すはずだからである。
 ではなぜ彼は処刑されたか。その理由は浅海特派員の記事そのものの中にある。これは後で分析するが、彼を処刑場へとつれて行かせた遠因の一つがその負傷であったこともまた否定できない。
 だが、処刑さえされなければ、彼は幸運な負傷者であった。ルソン島なら、おそらくこれだけの負傷で、「生きたままの死体」として放置されたであろう。従ってそういう人たちと比べて、私は彼のことを特別に気の毒とは思っていない。そのことは前にも記した。
 しかしそれは、虚報を事実だと証言して無実の人間を処刑場に送ったことを免責にはしない。「もっと気の毒な人がいる」という言葉で責任を回避し、自分が目前に見ている殺害に対して何もしないことをその言葉で正当化しながら、しかし実際には、その「もっと気の毒な人」に対して指一本動かそうとしないこと、それが偽善と呼ばるべきことであろう。
 この偽善は常にある。今もあるが戦争中にもあった。苦しんでいる人間に「前線の兵隊さんのことを思え」という。また新聞もそう書く。しかしそういうことを書いたり言ったりするその人自身が、前線で苦しんでいる兵士のため、本当は指一本動かそうとしているわけではない。
      
 「百人斬り競争」裁判で私が大変残念に思っていることは、事実認定に関する議論で、両少尉は浅海記者と会って談笑したのは無錫郊外と言っているのに、佐藤振寿カメラマンの証言があるのでそれを「常州郊外」としたこと。また、富山大隊は紫金山攻撃をしておらず両少尉は紫金山山頂にも行っていないので、東京日日新聞の第四報「紫金山山麓における両少尉と記者との会見」はなかったとしたことです。
 しかし、東日の常州発の記事は11月30日になっていますから、その数日前、つまり無錫での談合があったとした方が自然です。また、紫金山山麓の会見については、鈴木次郎記者の証言がありますし、紫金山山頂のような描写がなされていますが、実際は、紫金山山麓の霊谷寺付近ではなかったかと山本七平は推測しています。。
 また、第四報の紫金山山麓発の記事における両少尉の106対105の会話と、その翌日12月11日の向井少尉の長広舌については、山本は、前者は浅海記者の創作、後者は、軍人の心理がよく現れているので事実としました。前者については、平成13年に発見された野田少尉の「新聞記事の真相」に「無錫から南京までの間の戦斗では、向井野田共に1〇〇人以上と云ふことにしたら」とありますから、向井少尉が、シナリオに沿った発言をしたとも考えられます。
 いずれにしても、紫金山山麓における両少尉と記者の会見はなかったとしたことは、事実認定における曖昧さを露呈することになりました。第三大隊がその近くまで行ったことは事実ですし、もし、紫金山山麓での向井少尉の会話が事実であったとしても、それは、無錫の談合に基づいた「百人斬り競争」の「やらせ」を、鈴木二郎記者の前で、向井少尉に演じさせたと見ることができるのです。 
野田少尉はなぜ記者の誘いに乗ったか
『私の中の日本軍』(p484~496)
 陸軍もお役所であり、典型的な官僚の世界であり、いたるところで「ハンコ」が必要で「日本軍はハンコがなければ戦争はできない」という冗談があったほどである。
 また「部隊印」と「部隊長印」があり、これは今の社会で使われているあの四角い「社印」「社長印」とほぼ同じ形で、すべての書類にペタペタ押してあった。
 部隊印の保管責任者は副官で、I副官は縞の布袋にこの二つの印を入れ、肌身離さずもっていた。事実これは大切な印で、もし盗用・悪用されて、だれかに勝手に「作命」でも作られたら、その被害は到底「小切手印の盗用」の比ではあるまい。まず副官が切腹ものである。
 「百人斬り競争」の野田少尉の「○官」が、「副官」だと知ったとき、こり創作記事の悪質さを瞬間的に感じさせたのがこの「印」であった。
 大隊命令に押す「印」は野田少尉が保管責任者のはずである。おそらく彼も肌身離さずもっていたであろう。元来「部下の兵士」といえるものがないに等しい副官が、大隊長を放り出して、印をもったままただ一人であっちのトーチカに斬り込んだりこっちの無名部落に斬り込んだりしたら一体どうなることか!
 もし野田少尉が一方的にホラを吹き、浅海特派員が無知からそれを信じたのなら、何も伏字にするわけはない。副官にはそういう「自由」はありえない――もちろん最下級の少尉には副官であろうとなかろうと「自由」などはないが、特に「嫁」で「印保管責任者」で、部隊長の身のまわりから、部隊内の「家政的雑務」までその責任である副官に、そんなことが出来るはずがない。
 そしてそのことを知っているがゆえに、これを隠した以外に伏字にした理由はありえない――これを一瞬強く私に印象づけたのが、あの「印」であった。
「ハンコ行政」という言葉を転用すれば、日本軍とは一面「ハンコ軍制」なのである。そしてそれから感じたことは、当時の私はいわば「ハン取り給仕」でありながら、「ハンも満足にとれない」状態にあったのだということである。
 いわば「ハン取り」を高級参謀からはじめて、形式的にすぐ参謀長の判をとり、いきなり師団長の判までとってしまって、下級の参謀は何も知らない状態におかれていたわけであった。そしてたとえ実質的にはすでに判をもらっても、下級の参謀の顔を立てて、そ知らぬ顔でまずそこから形式的に「ハン取り」をするという才覚が私にはなかった。
 そしてこういうことは、官僚組織においては、私には想像できないような大問題だったのであろう。(中略)
 (それにしても、なぜ副官の野田少尉が新聞記者の誘いに乗ったか、これは)ある一通の匿名の手紙が契機であった。(p496)
 その人は、浅海特派員と向井少尉の無錫における不幸な「食後の出会い」の傍らにいたのか、あるいは単に、推理と想像に基づいて断定しているのか、その手紙からは的確に判断できなかったが、いずれにしてもその人は、だれかが――というのは指揮系統上の直属上官ではないが向井少尉と親しい上級者、それも相当に上級の者が「おい向井、新聞記者も特ダネがほしかろう、ボーナスも欲しかろう、『百人斬り』でも披露して協力してやれ」と言ったというのである。
 これは当然に「想像」はできる。記者会見を公務と考えるなら(おそらく公務に入ると思うが)、何らかの示唆に基づくだれかからの暗黙の慫慂もしくは許諾がない限り、一少尉というものは、軍隊という官僚機構の中で、これほど大胆に振舞うことは不可能だからである。
 だがたとえこの手紙の発信者がその現場に立会っていても、示唆・指示・慫慂をしたその責任者は、絶対に出てこないし、追及も不可能である。・・・ただ向井少尉がせめて、その示唆と事の経過を直属上官に報告して内諾でも得ておけば、二人は法廷での有利な証言も期待できたであろうに・・・。それすらないと、「タテマエ」上で徹底的に追及していくと、・・・逆に「違命罪」という鞭で死屍を打つ結果にしかならないのである。それが日本軍であり、これと同じ図式は、満州事変から太平洋戦争まで一貫して存在しているのである。二人の遺書の底に流れる一つの「諦め」と「無力感」に、私は自分が感じたあの「諦め」と「無力感」とを感じざるを得ない。(p496) 
      
 二人の遺書の底に流れる「諦め」と「無力感」について、私は、「百人斬り競争」のヒーローとなり、故郷に自分の無事と活躍を伝えられるという誘いに乗せられ、「やらせ」を演じてしまった、一種の”自ら種を蒔いた”の後悔の念が大きかったのではないかと思います。
 その「やらせ」は、多分、常州と紫金山山麓の二回行われ、両少尉ともそれに参加したと思いますが、特に、そこで勝役を演じ長広舌をふるった向井少尉の、浅海記者に対する思いは複雑なものがあったようです。自分が同意した「百人斬り競争」はあくまで武勇記事であったと言う読者に対する弁解。それがあまりにも荒唐無稽な戦闘記事になったことへの驚き。”嫁さんを世話してくれ”といったことが、裁判では、「冗談」と受け止められるどころか、佳偶を得るための非戦闘員殺人競争と見なされたことへの絶望等々。("南京戦犯軍事法廷判決"
 おそらく、こうした流れの中で、両少尉は自分たちが常州と紫金山山麓で「やらせ」に応じたことを裁判では不利と判断し、この事実を否定し、新聞記事は全て浅海記者の創作であると主張しようとしたのではないでしょうか。
 裁判では「不利な証言をする必要はない」とされますから、そうしたのだろうと思いますが、日本における「百人斬り競争」裁判では、この新聞記事の非現実性、作為性(両少尉を歩兵小隊長のように描写したこと等)、虚偽性(特に、句容の戦闘には両少尉とも参加していないのに、記事では両少尉が「句容入城にも最前線に立つて奮戦」したとある)など、記者の創作記事としか考えられない部分を徹底的に実証すべきだったと思います。 
「戦闘中に非戦闘員を殺害」は有罪
『私の中の日本軍』(p502~505)
 われわれの日常生活においても、その時々の情況によって法の適用が変るということは、ないわけではない。同じ殺人でも、情況によって量刑はかわる。正当防衛なら無罪という場合もありえよう。しかしいずれの場合も「殺人」という行為が法にふれるという点では、基本的には差異はない。
 しかし戦犯の実行犯においてはそうでなく、ある人間の同一の行為が犯罪になるかならないかは、その置かれた情況によって全く変るわけである。これも軍法の特例であろう。それは通常(一)戦闘行為、(二)戦闘中ノ行為、(三)非戦闘時ノ行為、の三つにわけられる。 そして(一)戦闘行為ハ処罰セズ、であって、たとえば戦闘中は「敵に」手榴弾を投げようが、砲弾を打ち込もうが、これは当然処罰の対象にならない。この点、正当防衛以上に不問に付される。
 しかし、これと全く同じ行為を非戦闘時に行えば、相手が戦闘員であろうと非戦闘員であろうと処罰の対象になる。これは陸軍刑法も同じで、極端な例をあげれば、観兵式に参列している諸外国の駐在武官にいきなり手榴弾を投げつければ、これはまず軍法会議で「死刑」であろう。原則的にいえばこれと同じことで、戦線のかなたの、非戦闘地区における非戦闘時の住民や捕虜の殺害、停戦協定成立後の被包囲部隊に対する一方的攻撃による殺害等が(三)に入る。
 そして(一)は「処罰セズ」、(三)は「処罰ス」とする。この二つは戦犯であれ陸軍刑法であれ原則的には非常に明白であって、まず議論の余地がない。問題は常に(二)で「戦闘中ノ行為」なのである。すなわち戦闘中に非戦闘員を殺害した場合、あるいは殺害する結果になった場合、これは(一)と見るべきか(三)と見なすべきかという問題である。
 これは(三)と見なすべきである。従って、処罰すべきだという考え方は日本側にも連合軍側にもあった。日本側の例をあげると、中部軍司令部によるB29搭乗員の処刑である。この場合軍司令官の態度は、絶対に「にっくき鬼畜米英メ、ヤッチマエ」ではなく、「軍事施設を爆撃した者は戦闘行為であるから無罪」「住宅・住民を爆撃した者は『戦闘中ニオケル非戦闘員ノ殺害行為』であるから、事故でなく、故意にこれを行なったものは処刑」と、非常に明確な法的基準で処断している。
 彼は戦犯として処刑されたが、最後まで実に堂々としていたそうである。おそらく、そうであろう。彼の行き方が、そのまま「正義」といえるかどうか、それはわからない。しかし、当時のマコスミの論調や鬼畜米英的な風潮、またそれを裏返したような「中国の旅」的な視点、特に南京法廷における向井・野田二少尉の処刑に対する「鬼畜処刑は当然」といった本多勝一氏の態度――オフチンニコフ氏の ような視点から見れば、これは結局同じものであろうが――これらと比べれば、はるかに確固とした冷静な法的基準をもっていたとは言える。
 と同時に、これが実は連合軍側における、戦犯のうちの「実行犯」への判決の基準なのである。従って両者はほぼ同一の基準に依っている。
 だが、「判決の基準」が存在したということは、その基準が常に正しく適用されたという意味ではない。しかし、適用に問題があったということは、「基準なき首狩り」であったということでもない。と同時にその基準がそのまま正義であったということでもない。
 「戦犯とは何か」は「戦争とは何か」を追究する一つの鍵である。だがこれを、その時々の政治情勢や自分の都合に応じて、それを正義の裁きだといったり首狩りだといったり、また中国との復交という新しい政治情勢になると、本多勝一記者のように、南京軍事法廷による二少尉の処刑は正しく、東京軍事法廷による二少尉の不起訴は正しくないかの如くいい、さらに、「毛沢東ならこの残虐人間も赦したであろう」といったお追従を結論としていると、永久に何もわからなくなってしまうと思う。
 そこでまず「戦犯」というものの一部の基本的な見方からはじめて、なぜ向井・野田二少尉が東京不起訴・南京処刑となったかに進もうと思う。これにははっきり理由があるからである。
 前にものべたように、(一)(二)(三)という基準が「正義」かどうか私にはわからない。しかし一つの法的基準の有無という点からこれを見れば「有」は「無」にまさる。「悪法もまた法なり」という上日本帝国陸軍内部でこの言葉の妥当性を一つの実感としてつくづく感じたのは、おそらく私だけではあるまい。「陸軍刑法」を「善法」だという者はあるまい。否、これこそ「悪法」の典型かも知れぬ。
 しかしその「悪法」すら実質的になくなってしまうと、人は、「正義」の名のもとに一種の集団ヒステリーによって簡単に殺されてしまうのである。悪法でもやはり法には「法の保護」がありうる。しかし「集団ヒステリーの保護」はありえない。これはおそらく「赤軍派」や早稲田・法政における「リンチ殺人」についてもいえることであろう。
 私は前に、向井・野田両少尉の特別弁護人隆文元氏がつくづく立派だと「文蓼春秋」に書いたが、同じことは、後述するように南京の軍事法廷の裁判官にもいえるのである。それは彼らが集団ヒステリー的リンチに絶対に走っていないからであり、現在台湾にいる当時の裁判官の一人が、鈴木明氏に、自分は法律家だから法に従っただけだと自信をもって言い切っているのもうなずける。 
      
 末尾の「向井・野田両少尉の特別弁護人隆文元氏」についてですが、この特別弁護人隆文元氏というのはどの文献にあるのか私は知りませんが、昭和21年12月18日の判決二日後12月20日の日付の「"野田毅、向井敏明上訴申弁書"」の「参考文」を書いた崔培均氏の誤りではないかと思います。
 野田少尉の12月24日の日記に「流石弁護士で成る程と云うような名申弁書でした「中国にも此の人あり」。このような弁護士も居られるのかと思うと日本と中国は真心から手を握らなければならないと思いました」とあります。鈴木明氏は、台湾で崔培均氏の取材を試みましたがうまくいかず、後に友人から「官選弁護人として最善を尽くしたことは信じて下さい」との崔氏の言葉を受けています。
 もっとも、向井・野田少尉と一緒に南京拘置所にいて公判対策をやった中支那派遣軍憲兵隊軍曹だった小笠原芳正氏は「官選弁護人は形式的なものだった」と言っていますが。(『南京「事件」研究の最前線平成19年』)
 また、「南京の軍事法廷の裁判官(石美瑜)」ついては、鈴木明氏が『新「南京大虐殺」のまぼろし』に、中国が勝利する寸前汪兆銘政府を裏切って重慶に走り、その後漢奸裁判を指揮した人物であり「公然と法を無視した男である」と評しています。
 実際、南京における「百人斬り競争」裁判の判決を見てみると、「東京日日新聞」記事や写真を証拠とし、それを「南京大虐殺の一節」とするなど、「野田毅、向井敏明上訴申弁書も指摘する通り、全く以て「むちゃくちゃの判決」という外ありません。この点山本のいう「彼らが集団ヒステリー的リンチに絶対に走っていない」との評は全くあたらないと私は思います。
 なお、この判決について、浅海記者は「正常な裁判においては「伝聞による新聞記事」は証拠としない、というのは国際的な法律常識です」と言っていることに注目すべきです。
東京法廷はなぜ二少尉を無罪放免にしたか
『私の中の日本軍』(p514~516)
 戦犯については前にもふれたが、それは「容疑者」という体験を基にして、収容され、調べられ、裁かれるという側からの見方であった。だがここでは視点をかえて、裁く方の見方を調べ、なぜ東京の軍事法廷が二人を不起訴にし。南京の軍事法廷が二人を死刑にしたかを調べよう。
 この「不起訴から死刑へ」という逆転を、恣意的な復讐、いわば「首狩り」と見るのは誤りであることはすでにのべた。と同時に、二人が処刑されるのは当然だとして、本多勝一記者が。断固たる事実”(「諸君!」昭和47年四月号)と主張する証拠は全く意味をなさない。
 それがいかに信憑性の名にすら値しない無意味なものであるかは、すでに全部指摘したから再説はしないが――二人が処刑された原因は「首狩り」「本多氏の証拠」のいずれにもない。といって南京法廷が正義の法廷だったわけでもない。
 問題は、前述の(一)(二)(三)の軍法的基準と、浅海特派員の記事をこの(一)(二)(三)のいずれに解釈するかにかかっている。
 この場合、(三)ははじめから問題外だが、この記事は(一)にも(二)にも解釈できる上、浅海特派員は前に引用した上申書に示されている通り、この記述を「戦闘中ノ行為」だと証言しても、ただの一度も「戦闘行為」だとは証言していないのである。
 戦犯裁判のことを何も知らない人は「戦闘行為」という言葉と「戦闘中ノ行為」という言葉が、どれほど決定的な差であるかが理解できないので、この背筋が寒くなるような証言の重要性に全く気づかないだけなのだということは前述した。だがそれに加えて、さらに前記の「中部軍の処刑の基準」を思い出してほしい。(一)戦闘行為は無罪だが、(二)戦闘中の行為なら死刑なのである。とすればこの「中ノ」というわずか二字が、人の命にかかわっていることがだれにでもわかるであろう。
 ではなぜ東京法廷が二人を不起訴にしたか。それはこの「百人斬り競争」の英訳を読めばわかる。
 英訳は、これを「インディヴィデュアル・コンバット(個人的戦闘行為)」と規定しても「戦闘中ノ行為」とは規定していないのである。そして米人の検察官の「主たる証拠」は明らかに英文であり、英文がまず頭に入っている。
 鈴木明氏の取材による佐藤カメラマンの証言では、彼らは「ファン(遊び)」という字句を問題にしたそうだが、佐藤氏の証言の通りに、おそらくこの字句が呼出しの原因であろう。すなわち「戦闘行為」と規定するには若干の疑義が生じたわけである。従ってこの疑義さえ氷解すれば、この記事が(一)であって(二)でないことになり、従って戦犯の対象にはならない。
 だが後述するようにこの記事を文章のままに読めば、必ずしも「インディヴィデュアル・コンバット」とは訳しえないのである。誤訳ではなかろうが、ある先入観に誘導された意訳とはいえる。従ってこれは二人にとって、大変に有難い「意訳」だったわけである。
 だが問題は、米人であれ中国人であれ、検察官はすべて、直接か間接に戦場を体験した人たちである。体験者は、近代戦において「百人斬り競争」という「戦闘行為」がありうるとはだれも信じない。
 先日、会田雄次氏と対談する機会があり、そこに同席された編集の方が「戦場で敵を射殺した場合・・・」といわれたので、私か思わず「敵影なんて見えるもんじゃないですよ」と答えると、会田先生も「いまもその話をしていたんだが、これが今の人にはつかめないらしい」と言っておられた。
 向井少尉も、敵影を見たのは無錫で双眼鏡で見たことが一度あっただけだと上申書に書いているが、戦場の体験者には、みなこの「敵は見えないという実感」がある。
 従って検察官も同じであるから、「百人斬り競争」は「虚報=創作記事」と読むか、(二)すなわち「戦闘中ノ行為」いいかえれば戦闘中における非戦闘員への殺害行為を戦闘らしく書いたものと判断するか、どちらかしか、とりようがないのである。そしてそれは私も同じである。
 英訳では明確に(一)すなわち個人的戦闘行為と書いてある。従ってその判断に立てば、これは虚報である。彼らは明らかにそう解釈しており、それは彼らの浅海特派員への態度にはっきりそれが出ている。すなわち宣誓をして「宣誓口述書」を提出しようとしたところが、その必要なしといわれたことは、ある意味では一種の侮蔑であり、「こんな虚報を作成した記者の宣誓口述書などは三文の価値もない、もういいから帰れ」ということであろう。私でもそういう。
 だが向井・野田二少尉の「行動そのもの」は一応考えずに、昭和十二年十二月十三日の「記事だけ」を仔細に検討すると、驚くなかれこの記事は、(二)に読めるのである。
     
 東日の「百人斬り競争」記事を、(一)「戦闘記事」であるが故に「虚報=創作記事」と読むか、(二)「戦闘中ノ行為」、いいかえれば戦闘中の非戦闘員殺害と読むか、どちらかしかとりようがない。ということについて、山本は、連合国国際戦犯裁判において 「伝聞による新聞記事は証拠としない」として向井少尉が訴追されなかったのは、同裁判所がこの新聞記事を(一)「戦闘行為」と見なしたからだと言います。
 この裁判では浅海記者や鈴木記者も連合国国際戦犯裁判所に召喚され尋問を受け裁判を受けています。その際の模様を浅海記者は次のように説明しています。
 「筆者は,敗戦直後の東京市ケ谷で行われた連合国国際戦犯裁判に同事件の証人としてパーキンソン検事の事情聴取を受け,そして検事側証人として法廷に立ったことがあります。
 このとき,筆者の検事への陳述内容はすでに長文の文書にされて,あらかじめすべての判事,弁護人に配布されていたのですが,筆者が検事の請求によって陳述台に立ち,宣誓を終えるや否や,判事の一人から発言がありました。
 その趣旨は『この証人の陳述は伝聞によるものであり,また,この証人の書いた新聞記事は伝聞によるものであるから,当裁判の証人,証拠とはなり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない』というものでした。すると裁判長はこの発言をとりあげ,筆者は直ちに退廷を命じられたのでした。」要するに「伝聞は証拠とならない」ということだと思います。("「浅海記者に対する取材記事」"
 これに対して南京裁判の場合はどうだったか、山本は、南京裁判ではこの記事を(二)「戦闘中ノ行為」であり「非戦闘員殺害」と見たため裁判官は死刑の判決を下した。この記事はそういう読み方ができると言っています。
「虚報」が故意に欠落させたもの
『私の中の日本軍』(p516~518)
 新聞というものを、人びとは何の気もなしに読みとばし、読み終わればそのほとんどを忘れ、古新聞はトイレットペーパーに変えられてしまう。。従って「法廷の証拠」のようにこれを読むことはないから気がつかない。しかし虚報には常に一つの詐術がある。それは何かを記述せず、故意にはぶいているのである。そしてそれは常に、それを記述すれば「虚報であること」がばれてしまう「何か」なのである。
 本多記者の「殺人ゲーム」では、ベンダサン氏が指摘したように武器が欠落しており、武器を記入するとこの文章が成り立たなくなるわけだが、浅海特派員の「百人斬り競争」でも、ある言葉を故意に欠落させてあるのである。それは「目的語」である。
 すなわち「何を」斬ったかが書いてない。最初にただ一ヵ所「敵」という言葉が出てくる。しかし「敵」という言葉は、「敵国」「敵国人」「敵性人種」「好敵」「政敵」等、非常に意味の広い言葉で、必ずしも「小銃・手投弾・銃剣等で武装した完全軍装の正規軍兵士=戦闘員」を意味しない。・・・
 しかもこの非常にあいまいな言葉は一ヵ所だけで、あとはすべて「目的語」がなく、従って一体全体「何を斬った」のかわからないのである。もちろん(二)すなわち「戦闘中ノ行為」の記述であることは疑いないが、斬った相手が戦闘員なのか非戦闘員なのか、一切わからない。
 なぜそういう書き方をしたか。そうしないと「虚報」であることが、一目瞭然になってしまうからである。それは、記事にはっきりと「目的語」を挿入してみれば、だれにでもわかる。次にそれを例示しよう。〔 〕内が「目的語」の挿入で、この部分はもちろん原文にはない。
 無錫進発後向井少尉は鉄道線路廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵〔小銃・手投弾等で武装した戦闘員、完全軍装の正規軍兵士〕を斬って先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士〕を斬り伏せた。
 その後野田少尉は横林鎮で九名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕、威関鎮で六名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕、廿九日常州駅で六名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕、合計廿五名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士〕を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名〔の完全軍装の戦闘員=正規軍兵士を〕斬り、記者等が駅に行った時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
 「ヒトラーの原則」というのがあるそうで、それによると「大きな嘘をつき、しかも細部に具体的な事実を正確に挿入すると、百万人を欺くことができる」そうである。
 そして日本語の場合は、このほかにさらに、主語・述語・目的語を一部か全部を巧みに省略し、さらにそこに「感激的美談」でも挿入すると、ほぼ完璧にそれができる。ただし外国語に訳すとばれる。
 この記事はまさにその原則通りであって、距離とか地名とかを実に正確にした上で、目的語を省略している。この原則は、本多勝一記者の「殺人ゲーム」でも、実に、模範的に守られている。しかし、佐藤カメラマンの談話とも照合すると、前記の記述は全部嘘であり「二人が駅頭で会見してゐる」まで嘘なのである。
 南京裁判が、浅海版「百人斬り競争」の記事を(二)「戦闘中ノ行為」であり「非戦闘員殺害」と見たことについて、それが、妥当な判断であったかどうかについて、鈴木明氏は、台湾に行き裁判長であった石美瑜にインタビューし、次のような回想を得ています。
 「向井少尉たち三人については、日本人の書いた本に記載されていたもので、この本にある写真はお前か、ときいた時、彼は犯罪事実を容認した。証拠の刀もあった。この百人斬り事件は南京虐殺事件の代表的なもので、南京事件によって処罰されたのは、谷中将とこの三人しかいない。南京事件は大きな事件であり、彼等を処罰することによって、この事件を皆にわかってもらおうという意図はあった。
 無論、私たちの間にも、この三人は銃殺にしなくてもいいという意見はあった。しかし、五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定されたし、更にこの種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接意見も入っていた。私個人の意見はいえないが、私は向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えたことだけはいっておこう。彼は自分では無罪を信じていたかも知れない。彼はサムライであり、天皇の命令によりハラキリ精神で南京まで来たのであろう。(続く)
 
南京法廷は「戦闘中の非戦闘員の殺害」と見た
『私の中の日本軍』(p518~520)
南京法廷は「戦闘中の非戦闘員の殺害」と見た。
 「インディヴィデュアル・コンバット(個人的戦闘行為)」という先入観のある米軍の検察官は明らかに〔 〕を挿入した形でこの文章を読んでいる。
 今の読者はどう感ずるかわからないが、少なくとも戦場の体験者には全く「ばかばかしくてお話にならない」であり、こんな記事を書いた人間の「宣誓口述書」などはどうでもいい、「もう帰れ」となるのが当然すぎるほど当然である。
 だがしかし、少なくとも、日本語の「新聞記事」には、どこにも「完全軍装の正規軍兵士に対する個人的『戦闘行為』」だとは書いていない。浅海特派員がこれを明言しなかった理由は、もちろん、本多氏の場合と同様「虚報を事実らしく見せかける」ためであっても、二人が「非戦闘員を虐殺した」ことを暗にほのめかしたのではあるまい――それでは「武勇伝」ではなくなってしまうから――しかし「目的語」を省略すれば、この記事は、「戦闘中の」非戦闘員虐殺と読める記事なのだ。
 従ってもう一度いえば、「この記事は二通りに読めるが、『戦闘行為として読めば虚報であり、戦闘中の行為として読めば非戦闘員虐殺になる』」のである。そしてどちらに読むかによって、二人は「不起訴にもなれば死刑にもなる」のである。従って、東京法廷と南京法廷における極端な違いの原因は「『戦闘』とも『戦闘中』とも読めるこの記事そのもの」と「軍法」にあるのであって、他に理由があるのではない。そしてこれが、「首狩り」でも「正義の裁き」でもない「軍法会議」と同じ基準だと言った理由である。
 南京法廷は、日本の新聞を信頼し、少なくとも一応浅海特派員の記事を「事実の報道」として取りあげた。実は、この瞬間に二人の運命はきまったのである。というのは「戦闘行為とすれば虚報」なのだから、この記事は、どちらから――ということは「戦闘行為」「虚報」のどちらから――つついても「戦犯の証拠」とはなりえない。従って不起訴、「証言は不用、帰れ」ということになる。従って証拠として取り上げたということ自体が、一応(二)と認定したことである。そして(二)と確定すれば死刑である。これは仮に私が検察官でも同じことであろう。この記事に対しては、その二つ以外に対応の仕方はありえない。そしてそれはこの記事すなわち「虚報」そのものが自ら規定してくるものであって、検察官の恣意ではない。
 だが、検察官の立場に立つと、ここでまた矛盾が生じてしまう。これは「武勇伝」なのである。武勇伝とは「戦闘行為」においてのみ発生するはずで、「戦闘中ノ行為」すなわち、戦闘行為によって派生した非戦闘員殺害は、武勇伝になるはずがないのである。
 とすると、この矛盾を解消する論理はただ一つしかない――日本人は非常に特異な残虐民族であって、戦闘中に派生した非戦闘員殺害も武勇と考え、これをニュースとして大々的に報ずる民族である、と。こう規定するとはじめて(二)が成り立つ。と同時に、日本人=残虐民族説も成り立つ。
 虚報というものは全く恐ろしいものであり、それが日本人に与えた害悪は、本当に計り知れない。全日本人が欺かれている。みな、知らず知らずのうちにこの記事を「戦闘行為」「武勇伝」として読んでいる。しかし仔細に点検すれば、「目的語」が省かれているので、どこにも「戦闘行為」とは明言されてないのである。ただみなが勝手にそう思い込んでいるだけなのである。
 一方、中国の軍人にしてみれば、これが「戦闘行為」で、中国軍の完全軍装の正規軍兵士がバッタバッタと斬り倒された「戦闘行為」の記述だというようなバカげた話は、はじめから論外であり、事実としては当然受け入れられないし、軍人の感情からいっても、はじめっから反発するのが当然である。従って、虚報をごまかすため「目的語」がわざと省略してあれば、そこに、非戦闘員という目的語を知らず知らずのうちに挿入して読み込んでしまう。常識からいって、これは当然のことなのである。
 とすればこの記事は否応なく本多版「殺人ゲーム」すなわち「非戦闘員殺害競争」に読め、それを武勇伝とする日本人は残虐民族ということになってしまう。 
      
 (承前)私は法律家だ。それぞれの法律を守ることが正しいと思っている。・・・。
 昔中国は日本と戦ったが、今はわれわれは兄弟だ。われわれは憶えていなければならないこともあるし、忘れなければならないこともある。最後に、もし向井少尉の息子さんに会うことがあったら、これだけいって下さい。向井少尉は、国のために死んだのです、と――」
 つまり、この頃、蒋介石は、中国の覇権をめぐって毛沢東と厳しい戦いを続けており、抗日戦をめぐる情報戦の一環として「南京大虐殺」の存在を宣伝する必要があったのではないでしょうか。判事の中には銃殺にしなくてもいいという意見があったが、やむを得ず死刑にしたと言うことでしょう。「向井少尉は、國のために死んだのです」という氏の言葉には、判決への弁解と共に、裁判での二少尉の堂々たる態度に対する敬意が現れてと思います。
 先に、浅海記者が、「連合国国際戦犯裁判で、私(浅海記者)の書いた新聞記事は伝聞によるもの」だとして証人採用されなかった」ことをあえて紹介し、南京裁判の不法を非難したことを紹介しました。
 この背景には、戦後、浅海記者が毎日新聞を代表する「日中友好促進派」記者となり、”毛沢東を礼賛する本”を書いた人(『「南京大虐殺」のまぼろし』参照)であるという事情があったと思います。だが、南京裁判を批判する前に、自分の書いた「戦意高揚のホラ記事」が、その不法判決の唯一の証拠となった事実を、まず認めるべきではないでしょうか。
紫金山麓一二月十日の向井、野田の会見は事実か
『私の中の日本軍』(p521~523)
 もちろん、虚報はすべてこの形で、何もかも判然とさせれば、すぐそれが事実でないことはわかるから、常にこういった書き方になる。いわばどんな目的語を挿入しても変になってくるわけで「陣地」に非戦闘員だけが五十五人いて、他にだれも居らず、居てもそのものは手榴弾一つ投げることもせずこれを眺めていたなどという話は、少なくとも体験者には通用しない。第一、これでは日本刀を少なくとも三十本ぐらいかついで行かねばならない。彼らは大いに反論したであろう。
 そのほかにもどう反論したか、その一部は、向井少尉の上申書と隆弁護人の申弁書でほぼ推察がつくが、大体今まで私がのべて来たような点で、たとえ「戦闘中ノ行為」と規定しても、この記事通りのことは現実には起りえないことは、少なくとも実戦を体験した軍事法廷の判事には、大部分の記述では、納得させえたはずである。
 事実もし私が裁判官で、この記事だけが証拠で、被告と弁護人がその一つ一つを反論して潰していったら、二人に有罪を宣告することは不可能であっただろう。すべてがまことに馬鹿げた話であることは、ここまで本書を読まれた読者にも異論の余地がないことであろう。
 ではなぜ二人は処刑されたのか。明らかにこの記事のすべてが証拠として成立したわけではない。最後まで問題になり、ついに二人を処刑させてしまったのは「十日の紫金山麓の会見記事」なのである。その部分を引用しよう。

 〔紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発〕南京入りまで”百人斬り競争”といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。

 野田「おいおれは百五だが貴様は?」向井「おれは百六だ!」・・・両少尉は、”アハハハ”結局いつまでにいづれが先きに百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬がはじまった。(傍点著者)→下線

 これは致命的である。なぜなら、これは新聞記者の「記述」ではなく、二人の「証言」であり、「自白」の記載だからである。ここが焦点だったことは、向井少尉の上申書にも表われている。
 向井が、富山部隊に担架に乗って帰隊したのは十五、六日だが、それからも治療を続けていたので、東京日日新聞にあるように、十日紫金山で野田少尉とも新聞記者とも会っているはずがない。(傍点著者)→下線
 この十五、六日という日付には問題がある。これについては後述する。しかしここで向井少尉が否定しているのは「十日の会見」であっても「十一日の会見とその長広舌」ではないのである。「週刊新潮」の記者はこの点を誤解しているが、誤解するのも無理ないことで、ここにも「虚報」の原則通りに詐術が使われていて、会見の日付が十日とも読めるし、十一日とも読めるし、十日、十一日の双方とも読める文章になっているからである。
 では二人を処刑場に送った「十日の会見」は果して事実なのか。本当に浅海・向井・野田の三氏は「十日正午」に紫金山麓で会見し、浅海氏が、二人の会話を取材したのか。否、それは嘘である。その事実はない。これは浅海特派員の創作である。従って二人は浅海特派員の創作で殺されたのである。なぜそういえるのか――鈴木特派員の証言がそれを物語っているからである。 
      
 ここでの山本の主張は、「百人斬り競争」の対象者が仮に非戦闘員であったとしても、記事通りのことは現実には起こりえない。しかし、12月10日と思われる第四報の野田少尉と向井少尉の会話、「野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十 人はどうぢや」は、二少尉のいわば”自白”であり、これが有罪の決め手になったというものです。
 だが、この12月10日の会見記事は事実か、というと、これは向井少尉が”回想”として述べていることであり、この会話は、ベンダサンの指摘した100という数を決めて時間を争う競技を、到達地点(=時間)を決めて数を争う競技にたくみに転換していること等から、浅海記者の創作と見ています。ただ、この105対106という数字を向井少尉が語ったことは、鈴木記者の証言もあることから事実かもしれません。というのは、平成13年に発見された野田少尉の"「新聞記事の真相」"には、「無錫から南京までの間の戦斗では、向井野田共に1〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」とあるからです。
 だが、12月11日の浅海、鈴木との記者会見に向井少尉と殿田少尉が同席していたのなら、なぜ、この話をあえて向井少尉の回想としたのでしょうか。
「南京大虐殺」を”まぼろし”にしたもの
『私の中の日本軍』(p524~528)
 前章でのべたように、二人の致命傷となったのは「紫金山麓」「十日の会見」の記事である。そして向井少尉はこれを「事実ではない」と証言し、裁判官は結局これを「事実である」と判断したわけである。鈴木明氏の調査を基にすると判決は五人の判事の多数決であり、有罪・無罪は三対二であったと思われる。 山本は、二人の致命傷となったのは紫金山麓における「11月10日の会見」の記事である」と言っています。両少尉はこれを「事実ではない」と主張しましたが、裁判官はこれを「事実」と判断したわけです。鈴木明氏の調査によると判決は五人の判事の多数決であり、有罪・無罪は三対二であったようです。
 これらを検討すると、いかなる人間もその時代の一種の「論理」なるものから全く自由ではありえないと思わざるを得ない。問題は、ただその「論理」というものに迎合するか、あるいはそれに抵抗して自己の良心を何とか守り抜くか、という点だけであろう。この記事を「事実」と判断するにあたって、内心の躊躇を感じなかった判事はおるまい――彼らは「虚報」とは別の事実を体験していた。だがこの体験を基にすれば、この記事が「非戦闘員虐殺」「虐殺者の英雄化」「日本人残虐民族」という「論理」をたどらざるを得ない。
 だが、そうならざるを得ない点が探究の出発点のはずであって、痴呆のようにこの「論理」のコンベアに乗せられていくなら、それは裁判官の任務を放棄したといえるであろう。従ってこの際、あくまでも公正を期すなら、法廷は、浅海・鈴木両特派員を喚問すべきであった。それをしなかった点では一種の「政治裁判」といえる面を否定できない。喚問し徹底的に二人を取り調べれば、おそらく判決の三対二は逆転し、東京の軍事法廷と同じ結論が出たものと思われる。それをさせなかった一つの背景が、鈴木明氏のいわれる「南京大虐殺」の”まぼろし”である。

   本多勝一記者は、「百人斬り競争」が断固たる事実であるという証拠の一つとして、「百人斬り競争」の記者の一人である鈴木特派員が雑誌「丸」に掲載した記事を提出している。私は本多記者の指摘によってはじめてこの記事を知り、「諸君!」編集部に依頼してその記事を入手し、仔細に点検した。もちろんその主眼は、二人を処刑させた「十日正午紫金山麓の会見」の記事が、果して事実か創作かを追究するためであったが――
 一読して、まず唖然とする事実につきあたった。そしてそれが私にこの事件の背景としての南京大虐殺のまぼろしを考えざるを得なくさせたわけだが、その前にまず「週刊新潮と「丸」における鈴木特派員の記述へと進もう」
 鈴木氏(特派員)は杭州湾敵前上陸を取材する目的で、午二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終っており、「そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです」(中略。中略部分は後出)
 「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである。赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」
 ということは、〔紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。  これは、細部には誤差がありやや誇大な表現があってもほぼ事実であろう。とすると、結局、向井・野田・浅海・鈴木の四氏が、ただ一度、十二月十一日に紫金山麓で会見しただけということになる。鈴木特派員は、後にも先にも、このときしか二人に会っていない。
 そのことを氏は次のように記している。

  ・・・浅海、光本両記者がまずこの”競争”を手がけ、別の部隊に属していたわたしは、紫金山麓で はじめて浅海記者と合流、共同記事として打電された・・・。(「丸」)
  ・・・南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者 に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二 人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれ・・・。
(「週刊新潮」)そこではじめてこのことを知り、二人を追って紫金山麓で会ったわけで、もちろん「無錫における三人だけの談合」などは、今に至るまで氏は全く知らないわけである。これも事実であろう。そして奇妙なのはここにも出てくる光本特派員で、彼は向井少尉の上申書にも、遺書にも、また東京の軍事法廷に関する記述にも一回も登場していないし、証人としても喚問されていない。実際にはおそらく「名前を貸した」にすぎないのであろう。
安田特派員は無電の技師で記事の内容には関係ない。「週刊新潮」は最初のクレジットの日付からこれが十二日ではないかとも推定している。しかし「丸」によると、十二日には鈴木特派員は南京城内に入っており、浅海特派員も「東京日日新聞」の記事によれば、十二日正午ごろ中山門にいたはずだから、これが事実なら(これには疑問はあるが)、この取材はやはり十一日で、記述の日付の時点であることは、鈴木特派員の赤筒の記述と向井少尉の「十一日の午前三時、友軍の珍戦術、紫金山残敵あぶり出し」とが赤筒使用という点で一致することからも、まず疑問の余地はない。
 
      
 まず、12月10日に野田少尉と向井少尉が紫金山山麓の別の場所で実際に会ってお互いの戦果を報告し合ったかどうかですが、この会見には浅海記者は同席していません。それは東京裁判の予審で、浅海、鈴木両記者がパーキンソン検事の尋問を受けた時、次のように証言しているからです。
(答)私たちは別々の部隊に従軍していましたが,12月10日に丹陽で合流して,12月13日に中山門から南京入りしました。
 つまり、12月10日は浅海記者は丹陽にいたのですから、12月10の両少尉の会合に立ち会えるはずはありません。また、第四報は [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]となっていますので、両少尉との会見は12月11日と考えられます。この日、浅海記者は鈴木記者を誘って両少尉との会見をしたわけです。
 ただ、そこでの会話が「野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた」となっているのはおかしい!
 前項でも言及したように、向井少尉は105対106という数字は言ったかもしれませんが、これをわざわざ向井少尉の「野田少尉との会話の回想」という形で記述する必要はないからです。それは「百人斬り競争」の「ゲームの論理の矛盾」に気付いた浅海記者が、この矛盾を両少尉の会話という形で解消するために創作し挿入したものと考えられます。
 そもそも、両少尉は、実際は「殺人ゲーム」などやっておらず、従って、この「ゲームの論理の矛盾」にも気付いておらず、これに気付くことができたのは、第一報から第四報まで記事を書いた浅海記者以外にはないからです。 
無錫における三人だけの談合が全ての始まりだった
『私の中の日本軍』(p532~542)
 (紫金山山麓における)四人の会合は実際は安全地帯でなされたことは、鈴木特派員の言葉からもうかがえる。前にものべたように第一、銃弾が飛来する中で、こんなのんきなことはやっていられない。なぜこういうことをしたのか。結局、これは、この問題の解明にあたって最初にのべたように、われわれも砲煙弾雨の中で活躍しておりますという、従軍記者の自己顕示欲と、佐藤カメラマンのいう「ボーナス」獲得のための産物以外の何ものでもあるまい。戦場とはそんな所ではない。「人狩り」的感覚で「武勇伝」を語りたがっているのは実は記者なのである。
 だがこの問題は、以上の解釈だけでは解決がつかない。記事だけ読むとあまり違和感を感じないが、鈴木特派員の「週刊新潮」「丸」の記事と併読するとあまりにも異常である。というのは、現実には、二記者の前に二少尉がいるのである。普通ならそれとその言動をそのまま書くはずであって、それをわざわざ、二人の会見を前日のことにし、その前日に浅海特派員だけがその会見に立ちあったようにも読めるし、その会見の模様を当日向井少尉だけが二人に語ったようにも読める記事にしてしまうには、もっとはっきりした理由がなければならない。
 というのは、この記述は全くの虚偽であって、単なる誇張・潤色ではないからである。前にのべた「記者の自己顕示」だけなら、他の方法による誇張・潤色も出来るはずである。従ってこれは、単に誇張・潤色だけでなく、何かを隠蔽するために行なっていると考えねばならない。一体この操作で浅海特派員は何を隠そうとしているのであろうか。
 まずこの記事は、浅海、鈴木両氏のうちどちらが書いたものであろうか?  「週刊新潮」には次のように記されている。 「鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。『本人たちから、向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました・・・』」と。
 一方浅海氏は、「諸君!」によれば、両少尉については「・・・『どこかの戦場で会ったような気がする』という程度の記憶しかなかった」そうだから、この「第四報」はだれが書いたか、もう記憶している人はいないわけである。
 では私が記憶を呼びさまして差し上げよう。取材のメモは鈴木特派員ももちろん取ったであろう、しかし「記事」として書きあげたのは浅海特派員である。
 なぜそういえるか。文体その他からもいえるし、「週刊新潮」「丸」で見る限り、当時のことを鮮明かつ正確に記憶している鈴木特派員が、もし自分で書いたのなら、はっきり記憶していたはずという点からもいえるが、決定的な点は「(一)(二)報」とのつながりの問題である。「(一)(二)報」を鈴木特派員は知らない。鈴木特派員が今なおはっきり記憶している二人の言葉は「向って来るヤツだけ云々」で、この言葉はおそらく取材の際にメモされたと思う。しかし記事になっていない。なっていない理由はこの言葉は「(一)(二)報」にあるから不要なわけだが、これが「(一)(二)報」にあることを知っているのは浅海特派員だけである。

 だが、もっと決定的な点は、ベンダサン氏が指摘した「ゲームの問題」である。これは「百という数を限定して、それに到達する時間を争うゲーム」だと「(一)(二)報」では記されている。ところが、二少尉も佐藤カメラマンも鈴木特派員もこの点をはっきり把握しておらず、一応「百」をめどにして南京につくまでという「一定の時間(距離になおしてもよい)内に、どちらがより多くの敵を斬るか」という、「時間を限定して数を争うゲーム」と考えているのである。
 鈴木特派員は今なおこの二つの違いがはっきりしていないらしいことは、「週刊新潮」の記事を見ればわかることだが、これは氏が「(一)(二)報」にタッチしていないのだから当然の結果である。この点にはっきり気づいているのは、「(一)(二)報」(1937年11月30日常州発第一報=筆者)を書いた浅海特派員だけである。従ってもし鈴木特派員が書いたら、「(三)(四)報」(1937年12月13日第四報)は完全に「時間を限定して数を争うゲーム」の結果報告となったはずである。それを巧みに避けることが出来る人間は、その場には浅海特派員しかいない。
 この点、二少尉の「問答」が、「(一)(二)報」が内包する矛盾を巧みに隠した模範的台詞であることはベンダサン氏が指摘したから再説はしない。氏はこれを、二人があらかじめ浅海特派員から模範解答を教えられてそれを口にしたと解釈しているが、鈴木特派員の記述を読むと、おそらくそうではない。というのは鈴木氏の方が先に二人に会い、浅海氏は後から来たのだから、鈴木氏にわからぬよう二人をレクチュアする暇はなかったはずだからである。そのために、浅海特派員は、「数を限定して時間を争った」としても、「時間を限定して数を争った」としても、どちらにしても破綻を生じない模範的問答――これを氏は予め腹案としてもっていたと思う――を創作して、それを「十日正午」の会談として掲載したわけであろう。これで(一)(二)(三)(四)報は矛盾なく破綻なくつながったわけである。
 ところが鈴木特派員には、そういう問題意識すら今もないのである。もちろん二少尉にはそのことは全然念頭になかった。前線には新聞は配達されないから何もわからない――そしてこの問題点をはっきり知っているのは浅海特派員だけだから、そこで彼は向井少尉がその事実はないと証言した「十日正午の会見」を創作し、それを自ら書き込んで送稿したわけであろう。そうでなければ、十一日に四人が会っていたのに、それをあたかも「十日に三人」「十一日に三人」が会ったかの如くに創作する必要はあるまい。
 結局この事件は、無錫における三人だけの談合にはじまり、十二月十日正午の虚構の会見で終り、これを一つの計画の下に推し進めたのは実は浅海特派員一人で、鈴木特派員も、佐藤カメラマンとその写真も、そしておそらく光本特派員も、すべて、カムフラージュのための材料にすぎなかったわけであろう。そしてそのしめくくりである「十日の会見」という創作が、二人を処刑場へ送ったわけである。
 だがここで考えねばならぬことは、当時こういうことをしていたのは、浅海特派員だけではなかったという事実である。大本営も新聞社も、みないわば大がかりなさまざまの「百人斬り競争」を報道して国民を欺いていた。私か最初に「一読して唖然とする事実」につきあたったといったのはそのことである。
 というのは「南京城総攻撃」「大激戦」「城頭高く日章旗」等々はすべて嘘で、「南京入城」は実質的には「無戦闘入城」いわば「無血入城」であったという驚くべき事実を、自らそれと気づかずに鈴木特派員がのべているからである。
 本多勝一氏の記す「十万の中国軍(国府軍)」が、二万の日本軍を恐れて戦わずして一斉に逃げ出したなどというのは、全くばかげた話で、十万といえば約六個師団だが、本当に中国側に六個師団もの兵力があり、これの一部が市街に拠点を設けて市街戦を行いつつ別働隊が背後を絶てば、逆に日本側が全滅してしまう。実際は、日本軍が突入したとき、中国軍はすでに撤退を完了して、例によってもぬけの殻だったはずである。(p534~535)
 南京大虐殺の"まぼろし”を打ちあげたのは、実は「百人斬り」について前章で述べたと同様に、われわれ日本人であって中国人ではない。そして、「日本の軍部の発表および新聞記事」を事実と認定すれば、それは必然的に「非戦闘員虐殺の自白」になるという図式でも、小は「百人斬り競争」より大は「大本営発表」まで、実は共通しているわけである。すなわち、二人の処刑にも「南京大虐殺のまぼろし」にも全く同じ論理が働いているのであって、これがこの章の最初に「いかなる人間もその時代の一種の『論理』なるものから全く自由ではありえない」と記した理由である。この論理の基本を提供したのはわれわれ日本人である。
 従って、だれも怨むことはできないし、だれも非難することはできない。自らの言葉が自らに返ってきただけである。だがそこで「みんな、みんな、われわれが悪かった」式の反省、いわば「総懺悔」は全く意味をなさない。それは逆にすべてを隠蔽してしまうだけである。まして新しい大本営発表をしている当人が「反省」などという言葉を口にすれば滑稽である。そうでなく、そうなった理由、そして未だにそうである理由を徹底的に究明し、その究明を通してそこから将来にむけて脱却する以外に、これを解決する道はあるまい。
 自らの言葉が自らに返ってきて自分を打ち倒す、と感じた瞬間、人は打ちひしがれて立てなくなる。向井少尉にもそれが見られる。しかし彼はそれを乗り越えて、上申書と遺書を残した。そしてその書き方の視点は非軍人的といえる。彼はやはり最終的には「幹部候補生」すなわち「市井の一人」だったと思われる。そしてその精神状態は絶対に、「百人斬り競争」実施の主人公のものでもなければ、「百人斬り競争」や「殺人ゲーム」といった異常な虚報を得々と活字にできる記者のそれでもなかった、といえる。(p542) 
      
 ここで、山本七平は、1937年11月30日常州発の記事を(一)(二)報に、1937年12月13日の紫金山山麓発の記事を(三)(四)報」に分けていますが、これは、ベンダサン・本多勝一の論争で、本多勝一記者が、「百人斬り競争」の証拠として提出した東京日日新聞の記事が、常州発の記事と紫金山山麓発の二本だったためです。実際は、12月4日の丹陽発の記事と12月7日発の句容発の記事を加えると四報でした。
 山本の主張は、東日の「百人斬り競争」の「ゲームの論理の矛盾」に気づくことができたのは、第一報から第四報までの記事を書き、その全体的な整合性を整えることのできた浅海記者だけ。佐藤振寿カメラマンや鈴木二郎記者は、浅海記者が誘って両少尉との会見に立ち会わせたものであり、三者談合に基づく「やらせ」を隠蔽するためのアリバイ工作であった。それ故に、二少尉及び両記者とも、この「ゲームの論理の矛盾」に気付いていないというものです。
 つまり、この事件は、12月25~26日無錫近郊での浅海記者と二少尉の「百人斬り競争」談合に始まり、12月29~30日、常州で二少尉が会見をしているように装い、そこに佐藤振寿カメラマンを呼んで写真を撮らせた。12月4日の丹陽の記事は、「向井少尉の丹陽中正門の一番乗り」、「野田少尉右手負傷」(実際は向井少尉?)、「東日大毎の記者に審判官になつて貰ふ」(佐藤振寿記者は常州で「当番兵を取っ替えて数えると聞いている」)など矛盾だらけで、12月7日句容の記事は、そもそも第三大隊は句容攻撃に参加していないのですから、これが浅海記者の創作であることは明白です。
 なお、丹陽の戦闘で向井少尉が負傷したことについて、秦郁彦氏は、向井少尉の直属部下の田中金平の行軍記録にないことから、向井の紫金山戦闘不参加のアリバイは崩れたと言っています。しかし、向井少尉の負傷は他の部下の証言もあり、ただ、部隊を離脱したわけではなく馬に乗るなど同行し、12月10日頃部隊復帰、翌12月11日に、紫金山東方霊谷寺付近で浅海記者らと会見したのではないかと山本は推測しています。
 この点、平成15年から行われた「百人斬り競争」裁判では、原告側は、この紫金山山麓での二少尉の浅海、鈴木両記者との会合をなかったとし、従って、12月13日の第四報全部を浅海記者の創作としています。両少尉もそう主張しているわけですが、私は、前述した通り、存在しなかった12月10日の会合(105対106の戦果報告で一種の”自白”となる)を否定したかったのではないかと思います。
 「百人斬り競争」裁判の判決では、「冨山大隊は、草場旅団を中心とする追撃隊に加わり、先発隊として活動していたのであって、その行動経路には不明なところがあるものの、第九連隊第一大隊の救援のため、少なくとも紫金山南麓のおいて活動を展開していたと認められ・・・本件日日記事第四報の「中山陵を眼下に見下ろす紫金山」なる場所に誤りがないとは限らないが、両少尉の属する冨山大隊がおよそ紫金山付近で活動していたことすらなかったものとまでは認められない」としました。
 
最後の「言葉」
『私の中の日本軍』(p568~573)
 溺れるものはワラをもつかむというが、死を宣告された者は、・・・万分の一の生の可能性でも、それ目かけて脱兎の如くとびつき、助かったと思いたがるのである。さらに彼は、私などと比べれば、はるかに親切で思いやりがあり、そして何よりも「つきあいのいい」人であった。以上のさまざまな要素が、彼に、富田氏の上申書の日付へと自分を合すことになったのであろう。そしておそらくこれが二人の上申書の日付が合う理由であろう。
 人手しうるあらゆる資料を検討したが、以上で、私にはもう疑問点はない。向井少尉と最後まで同じ拘留所にいたK氏のその手紙の一部を次に引用させていただく。

 
前略、失礼いたします。
 偶然な機会に「週刊新潮」七月二十九日号の「南京百人斬り」の虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が・・・云々の記事を見ました。
 私は当時南京戦犯拘留所で向井、野田、田中、その他の人だちと一緒にいた者で、彼らが内地から送還されて来た時から死刑になるまで共に語り合った者ですが、当時の拘留所は木造の二階建で、元陸軍教化隊であるとかで一階が各監房、二階半分が監理室、半分が軍事法廷になっており、耳をすませば二階の裁判の模様がわかるほどでした。(中略)
 彼らは死刑判決を受け、直ちに柵を隔てた向うの監房に収容されたが、書籍、煙草を送ることや、話をすることは出来た。しかし判決前に彼らが話していたのは、貴誌既報の如く、全くの創作、虚報であり、浅海がこのことを証明してくれるであろうといっていた。
 そして判決後、その浅海記者の証言書をとりよせるため、航空便を矢つぎ早に出した。彼らにはその費用もなく、僕の背広を看守に流して、その金で航空便や、彼らに煙草の差入れをした。そしてやっと待望の証言書が届いた。彼は独房から、きましたかと、声をあげて泣いた。しかしその内容は誠に老檜というか狡猾というような文章で、創作であるとは書いてなかった。そして彼らは執行された。
 われわれ残る者は泣いて浅海記者の不実をなじった。浅海記者になんの思惑があったかは知らないが、何ものにもかえ難い人命がかかっていたのに新聞記者なんて不実な者よと憤慨した。
 裁判もまたでたらめであった。たしか二回ぐらいで次は判決であったと思う。証拠もその記事が唯一の証拠であった。
 彼らは克明に日記、遺書等を書いていた。われわれは手分けしてこれらや遺髪、爪を遺族に届けることにした。(中略)向井のは後に上海拘留所へ移転したとき、無罪で帰還する三重県の人に託し、巣鴨拘留所に帰ってから向井夫人(北岡千恵子)に照会したところ、確かに受取っていた。
 私はこの手紙を書くに当って、今さら空しいことをとも考えたが、僕たちが最後まで世話し、そして新聞記者の虚報のために犠牲となって死んで行った彼らのためにあえて書きました。(後略)p568

 また本多勝一記者の「殺人ゲーム」を読んで、多くの人は「こういう事実を全然知らなかった」と言つた。そういっているその時に、まだその人自身が、実は自分が何の「事実」も知っていないことになぜ気付かないのか。それでいてどうして、戦争中の日本人が大本営発表を事実と信じていたことを批判できるのか。「百人斬り競争」を事実だと信じた人間と「殺人ゲーム」を事実だと信じた人間と、この両者のどこに差があるのか。
 こういったさまざまな問題の解明に対して、向井・野田両氏は、その生命にかえて実に貴重な遺産をわれわれにおくってくれた。またK氏はよくそれを持ち帰ってくれた。それがなければ「百人斬り競争」も「殺人ゲーム」も、そしてその他のこともすべて「事実」として押し通され、結局すべては戦時中同様にわからずじまいで、探究の手がかりが何一つなかったであろう。しかし処刑の直前によくこれだけのことができたと思う。
 向井・野田両氏のような運命に陥れば、人はもうどうすることも出来なくなるのが普通である。自分が無実で、虚報で処刑されることは、その本人たちがだれよりもよく知っている。そしてそれゆえに、余計にどうにもできなくなる。何を言っても、何をしても無駄だという気になってしまう。・・・現実と夢とが混合していく一種の錯乱状態は、向井少尉の遺書にも見られる。「十五、六日」という問題の日付にはこれも影響していよう。一切は奪われていく。法の保護も、身を守る武器も、そして最後には自分の精神さえ。
 しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。すべて奪われても、なお、自分が最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、万人の平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。それは言葉である。もうそれしかない。だが、自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。
 処刑は目前に迫っている。確かに、言葉で戦っても、もう無駄かも知れぬ。発言は封ぜられ、その声はだれにもとどかず、筆記の手段は奪われ、たとえ筆記しても、それはだれの目にもふれず消えてしまうかも知れない。
 しかしそこで諦めてはならない。生き抜いた者はみなそこで踏みとどまったし、たとえ処刑されても、その行為は無駄ではない。「どうせ死ぬ」のだからすべての行為は無駄だというなら、すべての人はおそかれ早かれ「どうせ死ぬ」のであり、それなら人間の行為ははじめからすべて無駄なはずである。従ってその死が明日であろうと十年後であろうと三十年後であろうと、それは関係ないことである。
 誤っていることがあるなら、自分の誤りを含めて、それを申し送って行くことは、一面そういう運命に陥った者に課せられた任務でもあろう。消えてしまうなら、消えてしまうでよい。しかし、いつの日かわからず、また何十年あるいは何百年先かそれもわからないが、自分が全く知らず、生涯一度も会ったことのない、全然「縁もゆかりもない」「見ず知らず」の人間が、それを取りあげて、すべてを明らかにしてくれることがないとは、絶対に言えないからである――現に、ここにある。 

 平成15年「百人斬り競争」裁判の結果
 「なお、本件日日記事の「百人斬り競争」をその記事のとおり事実というためには、①戦闘中の行為であること、②昭和十二年十一月二十九日から同年十二月十二日までの行為であること、③無錫から(佐藤記者の証言によれば常州から)南京までの行為であること、④日本刀を使用して敵兵を斬ることによって殺害したものであること、⑤多数の中国兵を殺害したことの各事実が必要であり、特に①の戦闘中の行為であるということこそ本件日日記事において最も重要なものである。したがって、本件日日記事の根拠として「捕虜据えもの斬り」の文章を挙げ、「捕虜据えもの斬り」の根拠として本件日日記事を挙げるのは誤っている。」

 「南京攻略戦当時の戦闘の実態や両少尉の軍隊における任務、一本の日本刀の剛性ないし近代戦争における戦闘武器としての有用性等に照らしても、本件日日記事にある「百人斬り競争」の実体及びその殺傷数について、同記事の内容を信じることはできないのであって、同記事の「百人斬り」の戦闘戦果は甚だ疑わしいものと考えるのが合理的である。
 しかしながら、その競争の内実が本件日日記事の内容とは異なるものであったとしても、次の諸点に照らせば、両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず、本件日日記事の「百人斬り競争」を新聞記者の創作記事であり、全くの虚偽であると認めることはできないというべきである。」

 前者は、「本件日日記事(が「捕虜据えもの斬り」であったことの)の根拠として、①~⑤に該当しない「捕虜据えもの斬り」の文章を挙げるのは誤っている。」というものです。これは当然の判決だと思います。  これに対して後者は、両少尉は、数はともかく「南京攻略戦において・・・「百人斬り競争」として新聞報道されることに違和感を持たない」何らかの競争をしたと認定しました。その根拠は、「両少尉が、浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、「百人斬り競争」の記事が作成された」事、及びの両少尉がその後、新聞報道や地元で「百人斬り競争」を賞賛され、それを否定せず認めるような発言をしたことをあげています。
 だが、この前者の根拠は、それが「やらせ」であったことの結果であること。後者は、二少尉は、まさかこんな誇大妄想的な記事になるとは知らず、恥ずかしく思った。しかし、マスコミや故郷で「自分の武勇を宣伝され、また、賞賛の手紙等を日本国民から受けたため、自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく、積極的に虚報を訂正しようとしなかったこと、また、反面で、虚偽の名誉を心苦しく思い、消極的には虚報を訂正したいと思ったが、訂正の機会を失い、うやむやになってしまった」("野田少尉12月15日付申辨書")ということです。
 これが事実だと思いますが、この判決では、「やらせ」をさせた記者より「やらせ」をさせられた二少尉の言葉を”自白”と見て、数はともかく「報道されることに違和感を持たない競争をした」と認定しました。これは、原告側が、記事の全てを記者の創作としたことの結果だと思いますが、これによって、毎日新聞の「適切な取材だった」と朝日新聞の「捕虜据えもの斬り」が生き残ることになったのです。
 これが、歴史の事実に反する不公正かつ不正義な判決であることは言うまでもありません。私が、あえて、終わったはずの「百人斬り競争」論争を、本論争の始めに立ち返って再点検し、毎日新聞や朝日新聞の責任を問わんとする由縁です。
     
 平成15年「百人斬り競争」裁判の総括
 私は、この裁判の原告側が、12月13日の紫金山山麓における会見の存在自体を否定したこと、「12月25~26日無錫近郊での浅海記者と二少尉の「百人斬り競争」談合」を、常州での会見に一本化したことは大きな問題だったと思います。これは、二少尉の証言に合わせて、記事の中の”自白”ともとれる会話を否定し、浅海版「百人斬り競争」の記事全部を浅海記者の創作とするものでしたが、実証的に無理がありました。
 事実は、向井記者が最終弁論で指摘した通り、「浅海記者の脳裏には、このとき(無錫での三者会合)、既にその記事の計画が立てられ」ており、浅海記者はこの計画に従って、常州と紫金山山麓の二箇所で二少尉に「やらせ」をさせ、そこに佐藤振寿カメラマンと鈴木記者を呼んで取材してるように見せかけ、この間、「百人斬り競争」の特ダネ記事四報を、東京日日新聞と大阪毎日新聞に掲載したのです。
 つまり、この事件は、戦場の特ダネ記事を書きたい特派員記者が、いわゆる「後方」の軍人の不満と、激戦地に送り込まれた青年将校の手柄意識や「里心」(故郷に自分の無事を知らせたいという強烈なホームシック)につけ込み、「百人斬り競争」の「やらせ」を持ちかけ、それに、幹部候補生上がりで壮語僻のある向井少尉が乗り、野田少尉がそれに消極的に付き合ったというのが真相だと思います。
 では、ここで裁かれるべきは何でしょうか。「百人斬り競争」という「やらせ」をさせた人間とさせられた人間がいて、させられて人間は、この新聞記事が非戦闘員殺害の証拠とされ死刑になった。させた人間は、「見たまま聞いたまま」を「眞実」と思って報道したと証言し、戦後は、「日中友好促進派」として毛沢東や文革を礼賛する数冊の本を書き、毎日新聞を代表する「大記者」となって活躍した・・・。
 ところが、文革が失敗が明らかとなり、中国が、経済立て直しのため日中国交回復を望むようになると、中国は外交交渉を有利に進めるため、朝日新聞を使って日中戦争時の日本軍の残虐行為を宣伝させ、日本人の中国人に対する贖罪意識をかき立てようとした。その一つが「中国の旅」でその一遍が「競う二人の少尉」いわゆる「百人斬り競争」だったのです。浅海記者にとっては大迷惑だったに違いありません。
 実際、朝日新聞の報道がなければ、先ほど述べたような「百人斬り競争」の「やらせ」の構造がバレずに済んだからです。言うまでもなく、この事件の構造を解明したのが、イザヤ・ベンダサン、鈴木明、そして山本七平でした。これによって「百人斬り競争」の眞実が明らかとなり、続いてそれが「南京大虐殺」論争に発展し、その事実解明が進むことになりました。平成15年から始まった「百人斬り競争」裁判もその一つです。
 ところが、その結果は、誠に残念なことですが、この事件の「やらせ」構造を見えなくしました。毎日新聞は、浅海記者と同じく「見たまま聞いたまま」を記事にした「適切な取材だった」と言い、朝日新聞は、浅海版「百人斬り競争」が戦闘行為としてフィクションであることが証明されると、居直って、これは非戦闘員を対象とした「据えもの斬り競争」だったと主張し、中国のお先棒を担いだ自分を正当化したのです。
 これを放っておいていいのでしょうか? 

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