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山本七平語録

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未来論

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21世紀の課題
『1990年の日本』p269~
 明治も過去を消そうとした。当時の学生は「われわれには歴史がない」といってベルツを驚かした。戦後も戦前を消そうとした。そしてベルツを驚かした学生が前記の言葉につづけたように「われわれに歴史があるとすれば、消去すべき恥すべき歴史しかない」と考えた。このような考え方は徳川時代にもあり林羅山は日本人は東夷だが、天皇は呉の泰白の子孫すなわち中国人であるゆえに貴いと考え、また佐藤直方は、記紀に記された日本の歴史は、まことに恥ずべきものと考えた。これもまた日本の伝統の一つかも知れないが、この劣等感が裏返しとなると、奇妙な優越感となる。これは山鹿素行にもあるし、戦前の昭和の日本人にもあった。それが戦後にまた裏返しとなった。
 だが、こういう状態、劣等史観やその裏返しの優越史観、万邦無比的な超国家史観やその裏返しの罪悪史観、いわば同根の表と裏のような状態を離れてみれば、われわれは貴重な遺産を継承しているが、同時に欠けた点があることもまた認めねばならない。どの民族の履歴書も完璧なものではあるまい。諸民族の中の一民族である日本人もまた同じであって、貴重な遺産もあれば、欠けた点もあって当然なのである。要はそれを明確に自覚して、遺産はできうる限り活用し、欠けた点を補ってそれを自らの伝統に加え、次代に手わたせばそれでよいのであろう。
  現在がすでにそうであるように、二十一世紀は、おそらくは武力の時代でなく、経済が基盤となる時代であろう。前述のようにソビエトの威信の低下は決して武力の低下によるのではない。その武力は確かに今も世界を圧している。だが現実の問題として、それは少しもソビエトの威信を向上させず、諸民族に信頼感を抱かせるものでもない。過去の人類の歴史は決してこうではなかったことを思うとき、私はここに、全人類的な意識の変化がすでに芽生えており、この傾向は今後ともますます強くなって行くと思う。
  われわれは、この時代に対処するための、貴重な遺産をもっている。すなわち式目的能力主義、一揆的集団主義、礼楽的な情熱的一体感の秩序、それに要請される九徳的リーダー、勤労絶対化の規範などは、二十世紀のわれわれが創出したものでなく、文化的蓄積という遺産なのである。これからの時代にもこれらの遺産を十分に活用しつつ、これを次代に申し送る義務があるであろう。国際的競争に於て油断は常に大敵である。すでに記したように、アメリカに対する日本の優位は、実は、紙一重の差に等しいのである。そしてこの差を生じた重要な要素が、実に、遺産にあることを忘れてはならないであろう。
  と同時にわれわれに欠けた点があることは否定できない。一つが科学であり、一つが民主主義であった。これは、過去の歴史をいかに探ってもない。もちろん、「進化論もどき」「機械論的宇宙論もどき」はあったし、「民主主義もどき」もあった。しかし加藤弘之が強く主張した「科学」は『近思録』的であり、これは一見科学的な「神話」にすぎない。私は戦後、ある官学的社会科学者が、「マルクス主義は正しい、なぜならそれは科学であるから」と言ったとき、反射的に加藤弘之を思い出し、「なるほど、この系統は生きているのだな」と思った。加藤弘之の『吾国体と基督教』は、科学、科学を連呼しつつ、最終的結論は「天皇制が絶対であることの科学的証明」に終っているのである。いわば「天皇制は正しい、なぜならそれは科学的に証明できるから」となっている。これは「科学」ではないが、この『近思録』的擬似科学を、われわれは常に絶対化したがる傾向がある。従って「科学だ」といわれれば沈黙し、同時にそれへの反撥としての「反科学的自然順応主義」が出てくる。これもまた日本に於る最も強固な伝統だが、いずれも「科学」には関係あるまい。この点は常に用心しなければなるまい。
 同じことは戦後の「民主主義もどき」にもいえる。われわれはこの点をはっきりと自覚し、まず、「法を王の上に置き」「自らの手で法をつくる」という作業から、はじめるべきであろう。幸い、その萌芽はすでに現われているから、これを育成していき、政治でも、教育でも、医療でも、倫理を叫ぶ前にまず「法がどのようにあるべきか」を考えることからはじめるべきである。もちろん法は万能ではない。しかし、法なき野放し状態で徒らに倫理を叫ぶことは、民主主義よりむしろ聖人政治の待望であることを自覚すべきであろう。「星亨批判」から一歩も前進していないような状態を二十一世紀に申し送るべきではあるまい。
 これらの課題を、一九九〇年のわれわれの課題にし、自らの履歴をよく考えた上でその課題を解決して、この日本を二十一世紀に申し送っていくことが、残された二十世紀のこんにちに、われわれが行うべきことではないかと思う。
 これは山本七平の日本近現代史観を端的に表明したものです。氏は日本の歴史を思想史としてみる視点を確立しようとしました。こうした視点に立って日本の歴史を見たとき、それは、中国文化の圧倒的影響を受けつつ、それに対する憧憬と反発とを繰り返しながら、その独自の文化を育んできた、いわゆる辺境文化としての特性に強く有していることに気がついたのです。
 こうした日本文化の周辺文化としての特性は習い性となり、明治以降は、今度は産業革命以降のヨーロッパをモデルとして、それに追いつき追い越せと、猛烈な受験勉強を開始しました。そしてようやくその模範的解答を得たと思ったとたん、それまでモデルとしてきた相手方から、その模範的解答を破棄された、というようなことになったのです。
 この時はじめて日本は、「模範的答案」のない問題に、独自の解答を用意する必要に迫られました。しかし、そうした事態に冷静に対処することができず、西欧の近代文明に対する反発の方が先に立ってしまいました。そのため結果的に、泥沼の日中戦争そして悲劇の対米英戦争へと突入することになったのです。
 では、こうした悪循環を脱却する方法はあるか。山本七平は、そのためには、以上述べたような日本文化の特性を再把握する必要があるというのです。明治維新の成功は、「白紙」で西欧を模倣したのではない。それは、それまでの文化的蓄積があってはじめて可能となった。だが、明治はそれを消した。そのため、昭和になってその疑似中国化革命という遺産に食いつぶされることになってしまった。
 そして戦後は、さらにその戦前を消した。そのために、日本は無意識の伝統思想に二重に縛られることになってしまったと・・・。 
「どうなるか」ではなく「どうするか」を考える
『1990年の日本』はじめに
 自ら履歴書を検討してみれば、自分の特技も、また欠けた点も明らかになる。個人が生涯学習の時代なら、民族もまた、それ以上に常時永続学習を要請される。われわれはこれから、欠けた点を自学自習で補わねばならないが、それが何かも履歴書の検討で明らかになるであろう。・・・それを検討していけば、自己の未来が予測でき、近未来に何をなすべきかも、ある程度は明らかになる。
 「日本はどうなるか」といった本は多いが、こういう発想は、「おれの将来はどうなるだろう」と思いめぐらすのに似ている。ただ思いめぐらせても事態に進展はないから、この「どうなるか」といった発想にはもう終止符を打ち、「どうするか」を考うべきときだと私は思う。言うまでもなく「履歴書」は、書いた本人にとっては、それを眺めて「どうなるか」と考え込むものでなく、それを用いて「どうするか」を考えるためのものである。
 万能な人もいなければ、万能な民族もいない。そこでまず自らの履歴を検討すれば、進むべきおおよその方向が定まるであろう。と同時に履歴書を提出することは、それを検討して、「どうするか」と相手に決断を迫っていることである。いわば読者は、履歴書を提出された側でもあり、提出した者と共に、その履歴を将来に向ってどのように生かせば、両者ともに良き未来の展開があるかを考うべき位置にいるわけである。
 民族の履歴書とはその民族の歴史ということです。それを、自らの履歴書を書くように書くことがまず必要だというのです。そうすることで自らの民族の長所や欠点を再把握できる。そしてそれができれば、その長所を生かし、その欠点を補うというやり方で、次の時代に対処することができる。山本七平の日本人論は、そのための、日本人の詐りのない履歴書を書くことを、目的としていました。
明治から昭和の「履歴書」
『1990年の日本』はじめに
p19~20
 日本の存立も発展もその伝統的文化が基盤であることは言うまでもない。それは明治を可能にしたし、戦後の繁栄をも可能にした。しかしそこに常に問題が存在する。一つはそれを把握しないがゆえに逆に宿命のようになり、それが持つプラス面とマイナス面を把握して意識的にこれに対処することができなくなった点である。戦後の繁栄はだれもこれを予測したわけではなく、もちろん計画したわけでもない。気がついてみたらこうなっていたのである。
 これの裏返しは日華事変から太平洋戦争に、さらに敗戦の悲劇に至る道について言える。だれ一人として綿密な中国征服計画などはもっていない。それどころか戦争のための総合的プランさえない。否、終局的な作戦目標さえない。さらに対米戦争といえば、もう何から何まで全然ないと言ってよい。そして気がついてみたら廃滅の淵に落ち込んでいた。これについては『私の中の日本軍』で詳述したが、当時の新聞の論説・記事等を追っていっても、そう思わざるを得ない。いわば、繁栄も廃滅も常に予測せざる結果なのである。これは一定の理論に基づき意識的にニュー・ティール政策を実施していったアメリカなどと、基本的に違う点である。
 到達すべき目標をある先進国に設定しているときは、そこへ到達すればよいのだから、将来のことを「考える」必要はない。だがそれがなくなったとき、自己把握がなければ思考不能になる。これは問題の基本だが、このことが、対外摩擦と外国の疑心暗鬼を誘発する。というのは日本は何を目標とし、何をやろうとしているか、だれにもわからないからである。本人にもわからないのだから、だれにもわかるはずはない。さらに日本がそのときどきに掲げる美辞麗句を連ねた目標と、日本が現実に到達した状態とを対比すると、何とも白々しい感じにならざるを得ないのである。
 この状態からどのようにして脱却すべきか。振り返ってみれば、われわれは、新左翼の如くに暴れまわって挫折した太平洋戦争という一時期があったとはいえ、明治以降約百二十年、おおむね順調に欧米学校に学び、少なくともある「科」は卒業した。そして別の「科」に再入学する気は毛頭ないなら、ここで一先ず、自己の位置を整理把握するために、「履歴書」を書いてみる必要があるだろう。
 昭和史を研究していいて驚くことは、日本人は中国と戦争をするつもりは全くなかったのに、結果的に中国全土を占領支配するようなことになってしまった。また、ドイツと手を結んだのは、ソ連の脅威に備えるとともに、英米の中国支援を牽制し中国との戦争を終わらせるためだったのに、かえって英米との戦争を招くことになってしまった、というこの不思議さについてです。
 確かに、この間、軍が日本外交のイニシアチブを奪い、独断専行したことが、その失敗の主たる原因だったのですが、問題はこの間、軍の独断専行を支えた思想は、そも何だったのかということです。
 いうまでもなくこの思想は、当時の軍だけでなく国民をも支配した「一君万民」の平等主義を標榜する伝統的「尊皇思想」でした。
ユダヤ人より上まわる現代日本人への反感
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p261~262
 彼ら(ローマ時代のユダヤ人)が「カエサルの与えた特権」をもつように、日本人は「マッカーサーの与えた憲法」による軍備の重荷はなく、パクス・アメリカーナの維持にこの面で何一つ寄与せぬとされつつ、これを市場として百パーセント活用して富を蓄積してきた。そして日本人はそれを当然のこととし、高らかに平和論を口にしつつ、この面のアメリカの努力には全く敬意を払わず、むしろ批判し非難しつづけてきた。そして自らの独自の生き方を当然とするだけでなく、それが欧米よりはるかに勝ると信じ、勝るがゆえに今日の富強を招来したと信じて疑わなかった。
 そして、確かにそれは一面では正しい。それをしていれば、「お前たちは貸す者となっても借りる者とはならないであろう」という旧約聖書の『申命記』の言葉は確かに日本にもあてはまる。しかし、それがどれだけ大きな反感になるか。
 現代の日本人への反感が、かつてのユダヤ入へのそれを上まわっていることには多くの例証がある。かつてある国際会議で、天谷直弘氏が、ソビエトヘの防衛が問題になっているが、各国の自国産業の防衛が自由主義体制を崩壊させようとしている、この”防衛”も問題とすべきだ」と述べた。それに対して[GNPの一パーセントも自由世界の防衛に負担しようとしない日本があのようなことをいっている」といった趣旨の返答があり、同時に満場われんばかりの拍手になって、その雰囲気に異常なものを感じたという。
 「義務を負担せず、カネばかりもうけている」
 これが二千年間つづいた反ユダヤ感情の一つであり、それは実にローマ時代にはじまっている。
 ラッセル・ブラッドンの『日本人への警鐘』のように、警鐘を鳴らしている者もいるのだが、それは日本人の耳に入らない。
 ユダヤ人にもう少し協調性があれば、あのようにはならなかったであろうというユダヤ人が今ではいる。だが律法絶対、憲法絶対という絶対主義はつねに、人をある世界の中に心理的に閉じこめて一人よがりにするために、そのような協調性はもち得ない状態に陥れるのである。
 彼らはそれで破滅した。
  他山の石とすべきであろう。
 この日本人に対する警鐘は、35年前になされたものですが、日本の安全保障問題を考える時、決して忘れてはならない言葉だと思います。
  こうした日本人の安全保障観は、江戸時代の町人の基本的な発想だったと、イザヤ・ベンダサンは『日本の商人』の中で指摘しています。つまり、この時代、安全保障は武士の仕事で、町人はこれに対してなんらの義務も感じていなかった、というのです。
 もちろん、欧米において、市民革命を経て権力を握ったブルジョアジー(=資本家階級)は、自ら作り上げた市民国家の安全保障に責任を持っていました。
 この点、日本の明治維新は、下級武士が尊皇攘夷の旗印のもとに幕府政治を倒したものであり、欧米のようにブルジョアジー=町人が主体となって起こした革命ではありませんでした。
 こうした歴史的経験の違いが、町人国家=通商国家日本の安全保障観に、影響を与えているのかもしれませんね。 
民族は伝統的文化を失わない限り存続する
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p289~299
 現在”文化摩擦”の声が高いが、ヨセフスの努力はあらゆる方法で自民族を当時の世界に紹介し、同時にいわれなき「黄禍論的ユダヤ人論」の攻撃を粉砕することであった。これは現代の日本にも要請されていることであり、ある民族が武力も国土もなく生き抜いていくための、欠くべからざる手段であろう。
 彼はこの目的のため、すべてを利用し、ローマ皇帝さえ自己の目的のために使い、そのためには典型的な廷臣として振る舞うことも辞さなかった。
 ローマ皇帝の廷臣という位置は、悲惨な状態に陥った同胞の憤激と嫉妬を買った。だが、彼は意に介さなかった。・・・
 ヨセフスのような人間、一言でいえばそのときの世界帝国に向かって自己を正しく認識させようという人間は、平時でも必要である。そして戦前・戦後を通じて日本に欠けているのはこのような人間であった。
 これは確かに「日本に欠けている」不可欠の存在なのだが、もちろん、これだけでは民族存立が可能なわけではない。そのようにしている間に、ユダヤ人がローマ帝国に吸収されて、民族として消えてしまうなら、言葉をかえれば、ユダヤ人がユダヤ人でなくなってローマ人かその亜流になってしまえば、ヨセフスの仕事は、「過去にこういう時代もめったのだ」という「記録」にすぎなくなってしまう。そこに要請されるものは、耐えがたさを耐え、忍びがたきを忍び、たとえローマに屈従しても、民族存立の基盤を保持し、その伝統をあらゆる方法で子孫へと申し送っていこうとする人間の存在であった。
 そこに要請されるものもまた、外面的にはヨセフスに似た「最大限の妥協」であった。空虚な人間は、何もないがゆえに虚勢をはって突っ張らねばならぬ。そしてそれが不可能になったときゼロになる。しかし、内に強く何かをもち真に何かを行なおうとするとは妥協を恐れない。それがラバン・ヨハナン・ベン・ザッカイあった。・・・
  彼はエルサレムを脱出して戦後に備えようと決意した。・・・しかし、それは簡単なことではない。過激派は完全にエルサレムを制圧しており、和平派は見つけしだい即座に殺そうとしていた。このことは太平洋戦争の末期に「アメリカに武器を差し出して日本の諸都市の壊滅を防げ」と主張するのと同様に、否、それ以上にむずかしいことであっただろう。
 もっともこれはいずれの時代でも同じであり、戦後でさえ、マスコミが醸成した反米的気運の真最中に、いわば「米帝国主義は日中共同の敵であります」的な空気の中で、アメリカとの同盟においてのみ日本は経済的にも政治的にも存立しうると主張することは、実にむずかしいものである。
 無理もない。そのような「空気」ができてくるには、それなりの意識せざる文化的拘束があり、意識していないがゆえにこれが盲目的に強力だからである。ヨハナンにおいても同じであったことは、これまで述べたさまざまな文化的・歴史的経緯をもう一度頭に浮べてくださればされば、だれでも納得のいくことであろう。そこでヨハナンは次のような手段をとった。・・・
 彼は、滅亡が目前に迫ったエルサレムから「屍体として」脱出したといわれる。・・・
 だが、彼を非難するユダヤ人はいない。というのはもし彼がこのようにしなければ、ユダヤ人はおそらく、他の文化に吸収されて、民族としては消え失せていたと思われるからである。・・・
 ヨハナンは滅亡後のエルサレムを訪れ(破壊された神殿を前にしていった。)
 「私の子よ、悲しんではならない。私たちは、それと同様のもう一つの贖いの手段があるということを君は知らないのか。それは何か。(同胞への)愛の業である。”私(神)は慈しみを喜び犠牲を喜ばない。(ホセア書6章6節)”と(神は)いわれているではないか」と。
 彼は民衆統合の中心である神殿を失った民を同胞愛のもとに結集し、律法を保持し、自らの伝統を継承して、将来に向かって、民族として存続させることに全精力を集中した。そしてやがてこのヤブネで、彼の弟子たちが編集したのが現在の『旧約聖書』の基本である。それを民族の正典として継承していくことが、彼らを存続させていった。
 民族は、たとえ国土と政治的独立を失っても、伝統的文化を失わない限り存続する。これを証明したのが彼と以後のユダヤ人の歴史である。そしてこの原則は、日本人といえども変わらないであろう。
 だが、国土と政治的独立を失いつつ民族として存立することがいかに苦難多き歴史か。日本民族は絶対その道を歩んではならないことを示しているのが、以後の「ディアスポラ」の歴史である。

 この『一つの教訓・ユダヤの興亡』という本を山本七平が書いたのは、ユダヤ人が二千年前、集団自殺的な対ローマ戦争を戦い、そのため「国家が滅びながら、なお民族は生きのび得て、再び国家として再生し得た謎は何か」を探求するためでした。
 いうまでもなく、半世紀前に日本人が戦った対米英戦争は、ユダヤ人が対ローマ戦争を戦ったのに似ていて、ほとんど集団自殺を思わせるものでした。それは、双方の死者数を見ても歴然としていて、アメリカ軍の死者が9万人に対して日本人のそれは260万人に達しています。
 実は、西欧はこうした集団自殺的戦争について、ヨセフスの『ユダヤ戦記』を新約聖書の副読本として二千年来読み続けることで学んできた、というのです。そしてヨセフス自身がこの本を書いた目的も、「再びこのような過ちを繰り返すな」という自国民に対する戒めだったといいます。
 「この点『ユダヤ戦記』を知らず、桶狭間や関ヶ原といった戦争体験しかもたなかった日本は、戦争への思考にある欠陥があったし、今もあると言わねばならない。
 ヨセフスは、『ユダヤ戦記』のギリシャ語版を出しただけでなく、自国民をローマ世界に紹介し、同時に反ユダヤ思想を粉砕するために、残る生涯のすべてを捧げたと言ってよい。これこそ彼が、四十人の部下を自殺させてなお生き残った理由であり、それをすることに彼は、自己の存在の正統性を求めたからである。」  
  山本七平はこのようにヨセフスの生涯を紹介しています。そしてそう語るとき山本七平はおそらく、自らの戦争の記憶を、このヨセフスの体験に重ね合わせていたのではないでしょうか。HP「山本七平学のすすめ」『戦歴』に、その時のことが氏自身の言葉で語られていますのでご覧下さい。
祖国をポケットに入れて世界中を歩き回る
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p302~304
 西欧文化圏に属していないにもかかわらず、欧米的自由主義圏に組みこまれ、それによって生きている日本は、かつての彼ら(ユダヤ人)と似た位置におり彼らの轍(国家滅亡)を踏んだ。再度踏むべきではない。だが、この点を除外するならば、以後の彼らの生き方には学ぶべき点が多い。・・・
 それはまず「教育」である。ヤブネにはじまる「教育こそすべて」といった行き方を、W・ケラーは名著『ディアスポラ』の中に次のように記している――少々長いが、そのまま引用しよう。
 「ヤブネではじまり、後にユダヤ教の大きな特徴になった方式――学者のリーダーシップの受容――はユダヤ人独特のものになった。
 出自も地位称号も、コネも財産も、それ以後は人間の尊厳を決定するものでなくなり、ましてそれらでラビの仲間に入ることは不可能で、ただ学問的資質のみがそれを可能にした。血統や職業にぼ関係なく、だれでも学者ないしラビになることができ、従って権威の待ち主になることができた。ユダヤ人の歴史は、貧乏な若者が刻苦勉励して律法を学んで最高の名誉を得たり、最もきつい労働によって日々のパンを得ながら不朽の名声を得た人などの無数の例に満ちている。
 ラビ、シナゴグ、学校――ヤブネのとき以後、人々の生活はこれらのものに中心を置くようになった。セシル・ロスが指摘したように 、このとき置かれた基礎の上に発展した教育制度は、ヨーロッパでは十九世紀後半になってやっと到達した水準の完成度をもっていたのである。
 サンヘドリン(前述、ただしヤブネ以降はラビの合議の議決機関)の権威は急速に大きくなった。各地にいるディアスポラのユダヤ人たちはまもなくその決定に従うようになった。こうして父祖の地との新しいつながりができたのである。
 新しいサンヘドリンはまた祭事歴をも決定し、ユダヤおよび外国のコミュニティーに日どりを知らせるためヤブネから使者が派遣されるようになった。
 このときベン・ザッカイたちが創立したこの新しい伝統は、さまざまな面でユダヤ人の未来を決定した.
 「ノーベル賞受賞者の六割はユダヤ人である」という言葉に象徴されるように彼らの社会には学者が多い。だがベン=アミ・シロニー教授は、ユダヤ人は先天的に頭がよいといった俗説を断乎として否定した。先天的に頭のよい民族などはどこにもいない。ただここに記されている伝統、「貧乏な若者が刻苦勉励して律法を学んで最高の名誉を得る」伝統が、律法でなく近代的な学問、特に科学に向けられただけであるという。確かにその通りであろう。
 また、この知的にすぐれた者がサンヘドリンを構成して、それが民族統合の中心になっていることは、文化的・学問的統合なのである。長い間、彼らはそのようにして統合されてきたから、世界に散らばっても民族であることを失わなかった。
 さらに、古い律法や口伝律法を体系的にまとめることも、ベン・ザッカイによってはじめられた。いわば、自己の伝統を書物にして、世界のどこの国でももっていけるという状態にしたわけである。「祖国をポケットに入れて世界中を歩きまわる」これがユダヤ人への一評だが、世界中にばらばらにばらまかれても、「(『聖書』という)共通の民族の遺産をみなが読んでいる」という意識は強い連帯を形成したであろう。丈化的統合をいかにして保持するか、これはわれわれの問題でもある。
 絶対主義は常に、人をある世界の中に心理的に閉じ込めて一人よがりにするために、そのような協調性は持ち得ない状態に陥れるのである」
 こうしてユダヤ人はついに、ローマ帝国との正面からの対立に立ち、人類史上最も凄惨な戦争に突入した。その結果、ユダヤ国家は滅亡(第一次紀元67年、第二次紀元132年)し、1948年のイスラエル建国に至る「ディアスポラ」の歴史がはじまった。
 ユダヤ人は、こうした二度の敗戦とそれによる国土と政治的独立の喪失という高い代償を払ってはじめて次のことを知った。「世界帝国はいずれは崩壊する。それは、自己の文化的存立を維持しつつ、相手が崩壊するまで、根気よく、あらゆる方法で付き合っていく相手なのである」と。
 この第一次ユダヤ戦争のエルサレム陥落直前、玉砕を主張する過激派が支配するエルサレムを脱出して、後にローマ皇帝となるウェスパシアノスのもとに行ったのがベン・ザッカイでした。彼はウェスパシアノスに、ヤブネで左記のようなユダヤ人の学校を造ることを願い出、それ(「教長制」による間接統治)を許されました。
 こうしたユダヤ民族の祖国滅亡の歴史と、その後の民族の生き残りをかけた「教育指導体制」、そして「学者のリーダーシップの受容」という歴史的経験に、日本人が学ぶべきことは多いと、山本七平は言います。通商経済活動によってしか生きる道のない日本の運命が、かってユダヤ人とあまりに似ているが故に・・・。 
経済的裏付けがあって民族の存立も可能
『一つの教訓・ユダヤの興亡』
p304~308
 もっともこれだけでは民族の存立はできない。いわばそれらは経済的裏付けがあってはじめて可能なのである。  「シャイロック」などの印象からユダヤ人といえば商人や高利貸を連想される。だが高利貸は元来はユダヤ人の仕事でなく、皮肉なことに、中世にはキリスト教の僧院の仕事であった。もっともこれはいずれの国にもあった現象で、比叡山や熊野三山の、大金融資本家としての活動は、史料を調べれば明らかである。
 ところが、西欧では教皇イノケンティウス三世が僧院の高利貸を禁止した。そこで彼らは、異教徒であるユダヤ人を代理人にしてこれをやらせたわけである。この辺からその歴史がはじまるが、いわばサラ金の背後に銀行がいるが、銀行は非難をうけずサラ金だけが非難をうけるのと似た状態にユダヤ人は陥っていった。
 また、彼らがそのような代理人をせざるを得なかったのも、土地の取得を禁じられ、しばしば所有地を没収されたからでもあった。
 もちろん彼らは、ローマ時代から優秀な商人としての伝統はもっていた。だが、彼らの従事した職業の多くは広い意味の技術家ないしは職人であった。いわば「手に職をもつ」ことが生きていく最良の手段とされた。
 特に多かったのは医者であり、中世最大のユダヤ教哲学者のマイモニデスも本職は医者で、カイロのカリフの侍医であった。といっても彼はスペイン生れで、迫害を逃れてこの地にきたわけである。  たとえ王といえども病気になれば医師の指示に従わねばならない。さらに苦しい病いから逃れられるなら、ユダヤ教・キリスト教の区別など、どうでもよいのが普通である。そのため、中世の王侯の侍医の多くはユダヤ人であった。その待遇はよかったが、ひどいことに、王侯が死ぬと、医師の責任だといってユダヤ人医師もまた処刑されることが多かった。
 しかし彼らは、社会に出てゆき、経済的に自立するには、学問だけでなく、何らかの技術を身につけねばならなかったわけである。マイモニデスはその典型であろう。
 もちろんすべての人間が学者兼医師になれるわけでなく、多くのものは職人になった。それは女性でも例外でなかった。ユダヤ人の女性の編物は有名であり、その技術は今でも欧米で高く評価されている。

ユダヤ人は”想起の民”である
 いわば、全財産を没収され、身ぐるみはがされて街路へ投げ出されても、二本の編針があれば生活していけるという技術を身につけていたわけである。
 だが、職人としての彼らが高い評価をうけたことは、勤勉だったからである。ユダヤ人もまた 「勤勉の哲学」をもつ民族であり、「労働は律法を学ぶのと同じこと」であった。いわば、労働に宗教性を置いたのである。
 勤勉を失えば、日本人であれユダヤ人であれ、経済的自立は不可能である。
 さらに彼らは、たとえどのように富裕になっても、いつ政治的災難が降りかかるかわからぬことを考えて、つねにその用意をし、また苦難のとき、貧しいときのことを絶対に忘れなかった。その典型的なものが過越祭である。これはモーセのときの出エジプトを記念する祭だから実に三千年の昔のことである。
 われわれが終戦直後、イモの葉の塩汁を食べたことをもう忘れて贅沢をいっているのと比べれば、彼らの態度は全く違うといわねばならない。
 この祭は食事をしながら祝われるが、まず出てくるのが塩水のスープである。子供が驚いて尋ねる。「今日はなぜ塩水を飲むのですか」。
 父が答える「これはわれらの先祖がエジプトの地で奴隷たりしとき、その苦役のため流した汗を記念するスープである」と。
 そしてこのような食物が次々と出され。延々三時間、父子でそのいわれを問答しつつ、それを食べる。彼らは、「戦争体験を忘れるな」といった言葉を口にするのでなく、もう一度それを追体験して覚えていく。ユダヤ人は「想起の民」だといわれるが、これはあらゆる面に表われている。
 文化的・学問的統合、教育、経済的自立、勤勉、こういった伝統のほかに、彼らの特徴とされるのは、一点一画二をおろそかにしない厳密さと自由な討論である。そのほかにもさまざまな要素があるが、それら、すなわち文化的・学問的統合の民であることは現代のイスラエルの独立によく表われている。まず大学、交響楽団、研究所、労働組合等々ができて、最後に国ができたのがこの国の特徴であり、これこそ彼らの伝統であろう。
 祖国を失ってヤブネではじめられた彼らのこの伝統の中には、これから、複雑怪奇な国際社会で生きつづけていくため、われわれが参考とすべき、多くの遺産があると思われる。
 しかし、彼らがそこに至らなければならなかった歴史の中に、さらに多くの、学ぶべき点があるであろう。 (完)  
 ガバナビリティー【governability】という単語がある。意味は「1 国民が自主的に統治されうる能力。被統治能力。2 統治能力。統率力。日本での誤った用法」(デジタル大辞典)となっている。つまり、1の「 国民が自主的に統治されうる能力。被統治能力」というのが正しい訳であって、2の統治能力、統率力という訳は、日本で誤って用いられているものということである。
 このことは、日本人の「政府」に対する考え方のある特徴を示している。つまり、日本人の政府に対する考え方は、一種の家父長制的なパターナリズムの傾向を示していて、政府に対する依頼心・依存心が先にあり、統治される側としてどのように政府を作り上げていくかという主体的な発想が希薄なのである。そのため、その反動として、国家の存在・権威を否定する言論が平気でなされる。
 「アウシュヴイツツのとき、もし、どんな小さな国であっても「国家」があり、有能な統治者がいたらあんなことにはならなかった――『週刊現代』(昭和五十七年九月二十五日号)に載ったベン=アミ-・シロニー教授と藤原弘達氏の対談の中の、シロニー教授の言葉の背後には、明らかにこの感情があり、それらは以上のような、またそれにつづく歴史的体験に基づいている。
 だが、「国家」は一面、重荷であり、極めて危険な存在である。このことは冒頭に記したし、われわれの年代は太平洋戦争で骨の髄まで体験した。これが「国家の二律背反」だが、戦争中には「国家絶対」が戦後には「国家悪」に豹変するといった短絡的態度では、この二律背反に対処できまい。
 最後に、林健太郎氏の論文の最後の章「国家なしには生きられない」から一部を引用させていただこう。
 「そもそも民主主義とは国家の制度であって、国家がなければ成り立ち得ないものです。それなのに、国家を否定するのが民主主義だというような観念にとらわれて行動していると、そういう理論をふりまわしている勢力が天下をとることになって、そうなると今度はすさまじい国家主義の社会が出現することになる。共産主義国家というのはそういうすさまじい国家主義の国家です」(本書p145)

  

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