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山本七平語録

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聖書学

論題 引用文 コメント
モーセの五書が基本である
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p31~32
   旧約聖書三十九の本は、通常、律法、歴史、預言、諸書、の四つに分類される。もっとも三十九書という数も順序もまた分類の方法も、キリスト教のカトリックとプロテスタント、またユダヤ教とでは必ずしも同じではない。
 「律法」というおかしな日本語をなぜ使うか、なぜ法律といわないのか(「戒め」を含むためという)は前に記したので、ここではまず、上記の数と分類法について記そう。
 まず、カトリックの分類法を示すと次のようになる。〔 〕内はプロテスタントとユダヤ教にはない。
 歴史書――モーセ第一の書から第五の書、ヨシュア記、土師記、ルツ記、サムエル記上・下、列王紀上・下、歴代志上・下、エズラ記、ネヘミヤ記、〔トビヤ記、ユディト記〕、エステル記、〔マカバイ記上・下〕
 教訓書――ヨブ記、詩篇、蔵言、伝道の書、雅歌、〔知恵の書、集会書〕
 預言書――イザヤ書、エレミヤ書、エレミヤ哀歌、〔バルク書〕、エゼキエル書、ダエエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書――で合計四十六書。
 これがプロテスタントでは、〔 〕内の七書がなく、ユダヤ教のヘブライ語聖書と同じで三十九書、そして分類は七書を除いて、最初の「五書」を五書として別にしているほかは、カトリックと変りはない。
 しかしユダヤ教では、三十九書という点ではプロテスタントと同じだが順序と分類は次のようになっており、プロテスタントと同じではない。次にそれを記そう。
 律法――創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記
 預言書――(一)前の預言書=ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王紀、(二)後の預言書=イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、小預言書(十二の預言書を含む)
 諸書――(一)真理=詩篇、ヨブ記、蔵言 (二)巻物=雅歌、ルツ記、哀歌、伝道の書、エステル記 (三)その他=ダエエル書、エズラーネヘミヤ記、歴代志
 だがいずれの分類をとるにしろ、「五書」がその冒頭にきている点では変りはなく、これを基本とする点では共通している。
 ユダヤ教には「旧約」という言葉はない。いうまでもなく「旧約」とは「新約=新しい契約」という考え方があってはじめて成り立つ概念だから、「新約」のないユダヤ教で「旧約」がなくて当然である。かれらはこの”旧約聖書”を正式には「トーラー・ナービーム・ケスビーム」(律法・預言・諸書)と呼び、ヘブライ大学の校訂ヘブライ語聖書も、背にこの三単語が記されているだけで、「旧約」という言葉はない。
 しかし通常は、彼らはこの三単語を口にせず、総称的に「律法」と呼び、これが”旧約”を意味する言葉となっている。「律法」とはそのように五書だけでなく、旧約全体さらには宗教的教えの全般さえ意味する言葉になっている。このことはこの「五書」が聖書の中でいかに重要な位置を占めるかを表わしている。 
 

預言者は未来を占わない
山本七平ライブラリー『常識の研究』p35~38
 では次の「預言書」に進もう。「預言」という言葉も、他の多くの聖書訳語と同じように中国語訳の流用である。最近では「予」という字も使うが、「予」はあらかじめ、「預」はあずかるで、意味が違う。
 預言者のことをナービーというが、これは元来、沸騰するという意味だという学者もいる。いずれにせよ、内心から沸騰するものが口をついて出てくるような状態を示す言葉で、入神状態で神の言葉を人に伝えるものの意味だったのであろう。したがってその歴史はきわめて古い。
 それは必ずしも未来予知を意味していない。未来を見るものとして聖書は「見る者」「先見者」(この訳語は必ずしも統一されていないが)という言葉があり、「預言者」にその能力がある場合があっても、その本質は神の言葉を預託された者という意味であろう。
 したがって、その最後に未来における神のきびしいさばきをのべても、その主体が徹底的な現実社会の不正への糾弾で会って不思議ではない。
(中略)
 預言者が怒りかつ糾弾したのは社会的不義であり、彼らが求めたのは社会的正義であった。預言者”ミカ”は次のようにのべている。
 私は何をもってヤハウェの前に行き、
 高き神を拝すべきか。
 爆祭および当歳の子牛をもって
 その前に行くべきか。
 ヤハウェは数千の雄羊、
 万流の油を喜ばれるだろうか。
 ・・・
 人よ、彼はさきによきことの何であるかをお前に告げた。
 ヤハウェがお前に求めることは、
 ただ公義を行い、いつくしみを愛し、
 へりくだってお前の神と共に歩むことではないか。

 神に御供物もおさい銭も捧げる必要はない。神が求めているのは、公義(社会正義)を実施し、いっくしみを愛し、へりくだって神と共に歩むことだから、それらを捧げよと彼は説いている。
 しかし預言についてはさらに後述することにして、ここでは「旧約の預言」がいわゆる「大予言」なるものとはまったく別のものだということを確認してくだされば、それでけっこうである。

正典化への複雑な歩み
山本七平ライブラリー『常識の研究』p38~39
 さらに歴史書・諸書があるが、これはそれぞれ後述することにして、以上のように「律法」を基本とした旧約聖書が、預言書その他が付加されたうえで、どのように形成されて今日のようになったか、なぜ、四十六書と三十九書という差異が出てきたかについて記すことにしよう。
 前に記したように「五書」はバビロン捕囚期か、それ以後すなわち紀元前四四四年ごろ以前に成立し、これが「絶対神と人との契約」で、各人が守るべき絶対的規範として確立した。聖書はその公布を、エズラ記とネヘミヤ記で記している。
 では、この基本を同じくしながら、なぜ四十六書と三十九書という差異が生じたのであろう。キリスト教徒に関する限り、それは十六世紀にJ・ロイリヒン(一四五五~一五二二年)が旧約聖書はヘブライ語原典によるべきだと主張し、プロテスタントがその主張をいれたことによる。それまでのキリスト教の聖書は現代のカトリックのそれと同じく四十六書であった。
 だがこの差異はたんに言語によると考えてはならない。紀元七〇年ごろまでは、キリスト教徒にもユダヤ教徒にも「正典」という明確な考え方に立つ分類はなかった。そして両者ともに、ヘブライ語で書かれていない七書をも、正典のように見ていたらしい。そして「正典」はヘブライ語のみとするという考え方は、まずユダヤ教徒により、紀元六四年ごろ、そういった方針が打ち出されたらしい。
 しかし「正典化」はもっとあとで、その第一回はヤブネ(ヤムニア)の宗教会議、ここでほぼ現代のヘブライ語聖書は正典化し、ついで一四〇年のガリラヤのウシヤの会議で、今の三十九書となった。それをプロテスタントが、前述のような経過で用いているわけである。
 一方、キリスト教の正典化はこれよりはるかに遅れ、西方では四世紀、東方では七世紀に行われた。ヘブライ語原典をラテン語に訳したローマ・カトリックの教父ヒエロニュモス(四二〇年ごろ)も、前記の七書を正典から除外しているが、これは一般には認められず、ギリシア語古代訳から初代教会に至る数世紀にわたる伝統が、正典を四十六書とする結果となった。
 これが、四十六書と三十九書という差を生じた理由である。ただ日本のように聖書の伝統がない国では、三十九書よりも四十六書のほうが、旧新約がマカバイ記でつながるので理解しやすい。日本聖書協会では、今回新しくはじめた共同訳で、この七書をも刊行することになった。これは確かに一つの進歩と見るべきであろう。
 だがここで以上のことを、資料分析という視点から、もう少し詳しく検討してみよう。
 

「現代の聖書」への道すじ
山本七平ライブラリー『常識の研究』p42~44
 前述のように旧約聖書がほぼ現在のかたちで成立したのは、紀元一〇〇年のヤブネの会議においてである。だが、そのときに記されたのでなく、長い年月を経て徐々に形成されたことも前にのべた。
 ではそれはどのようにして形成されていったのか。この正典成立史は、それ自体が独立した学問で、専門的な大著が出ている。だが簡単に要約すればもっとも古いのがJ資料の成立で、これは紀元前九~八世紀、成立の場所はエルサレムの南のヘブロンと思われる。ついで約一世紀おくれて、北でE資料が成立したと思われる。このあたりはあまりはっきりとしない。これがD資料となると、聖書自体に、その成立の経過が記されており、わりあいにはっきりとしている。
 それが記されているのは列王紀下の第二十二章で、ユダ王国の王ヨシヤがエルサレム神殿を修復していたら「律法の書」が発見されたという記述がある。紀元前六二二~一年ごろのことだ。
 ヨシヤの宗教改革の支柱になったこの書は、申命記の中心資料をなすもので、これを申命記のギリシア語訳「デウテロノミオン」の頭文字を取ってD資料と呼ぶ。申命記にもいくらか他の資料も入っているが、ほとんどD資料イコール中命記といっていい。
 しかし、神殿から偶然発見されたというのはおそらくはフィクションで、むしろヨシヤ王にはこれに基づいて宗教改革を行うという目的があり、それにそって神殿の中で祭司が編纂した資料であろうと考えられている。もっとも、最近には、王の書記が編纂したという説もある。
 もうひとつのP資料というのは、祭司(その頭文字がP)資料で、だいたいバビロン捕囚時代に編纂が進められたものと推定されるが、その一部をDと同時代とする学者もいる。
 その名のように神殿の祭司グループの手になるもので、その祭司たちはこの資料を書いただけでなく、J・E・D・Pの四つの資料を編集して、モーセの五書にまとめあげた人たちでもあった。この特徴は、神を絶対的・超越的なものと見、J資料のように神人同型同性説をとっていない点にある。これは前に引用した創世記の一章(P)と二章(J)とを対比すれば明らかであろう。
 ではそのように編纂されていった旧約聖書が、明確に正典化されなくても、全体として一つのものにまとめられたのはいつだろうか。おもしろいことにこれは、聖書の書かれている皮紙の質によってわかる。
 羊皮紙とは元来は原皮一枚を二枚にはいで造るのが普通だが、尊いとされる聖書だけは一枚皮に書いてある。現在、正典に入っているものは全部、正典化される前からそのような一枚皮の羊皮紙に記され、その区別ははっきりしている。
 死海写本として発見されたヘブライ語のイザヤ書写本は、現在のところ最古のヘブライ語完本本文で、紀元前一世紀にさかのぼるが、これも一枚皮に書いてある。それだけでなく、同時に発見された多くの断片も、聖書に関する限りは一枚皮であり、すでにこのころ、正典という概念が生れていたと考えることもできる。
 その後、紀元六四年ごろ、ユダヤ戦争の前に非常に国粋主義的になったときに、エルサレムで行われた「賢者会議」で、ギリシア語文書が全部正典からはずされるということが起り、これが、前述の七書の差異を生ずる直接的原因となった。
 ユダヤ戦争後の1〇〇年ごろ、ヤブネで正典のだいたいの編纂が行われたが、そのときはまだ、伝道の書と雅歌とエステル記は正典に入っていなかった。
 この三つが正典とされたのは、紀元一四〇年ごろ、ガリラヤのウシャで行われた会議においてである。この会議で、最終的に聖書正典が確立した。

キリスト教徒にとってのギリシア語訳聖書
山本七平ライブラリー『常識の研究』p44~46
 正典に対して、外典・偽典がある。外典・偽典については、カトリックとプロテスタントでは規定の仕方が違う。プロテスタントが外典に数えるものをカトリックは第二正典としており、プロテスタントの偽典がカトリックでは外典である。偽典といっても、別に「にせもの」という意味ではない。ただ正典からはずされているというだけで、読むとおもしろいものが多い。だから、外典と偽典を合せて典外書と呼ぶほうが妥当だろう。
 典外書には、現在ではヘブライ語本文が発掘されたものもあるが、それまでは、ギリシア語で書かれたものしかなかった。イスラエルのギリシア語時代に書かれたもので、前述の経過ではずされてしまった。
 理由はそれだけで、史料的な価値という点では、正典も典外書もあまり差はない。広くいえばこれらすべてが聖書であって、それをどこで正典と典外書の線を引くかは、それぞれの宗派、あるいは宗教の立場による。
 キリスト教では、前述のように聖書の正典が成立したのは、西方で四世紀、東方で七世紀すなわちビザンチン時代である。そのとき採用された旧約聖書はヘブライ語原文ではなく、ギリシア語訳であり、したがってキリスト教の聖書の写本のもっとも古いもの――ヴァチカン写本やシナイ写本(四世紀)、アレキサンドリア写本(五世紀)など――は、みなギリシア語である。
 この旧約聖書のギリシア語訳は、キリスト教の発生よりもずっと早く、紀元前三世紀にエジプトのアレクサンドリアではじめられた。この翻訳については、典外書の中のアリステアスの手紙に言及がある。それによると、七十二人の学者が共同で訳したということになっており、そこから今日でも、このギリシア語訳を七十人訳と呼んでいる。これによって、ヘブライ語という地方的言語から、当時の全ローマ圏で公用語として広く使われていたギリシア語に訳され、ギリシアーローマ世界に聖書が登場したわけで、文化史的には「歴史的事件」というべきであろう。
 もっとも、このときに全旧約聖書が訳されたのではなく、はじめはモーセの五書だけで、その後、紀元ゼロ年ごろまで約二百年から三百年かかって全部が訳されたと思われる。それには、ギリシア語で書かれた外典も含まれていた。
 キリスト教が形成されたのは、イスラエルがローマの支配下にはいり、多くのユダヤ人がヘレニズム世界に散った時代である。それらのユダヤ人の多くはヘブライ語ができず、ギリシア語を使っていたので、キリスト教はヘレニズム世界の宗教として発展していった。したがって、用いられた聖書は、はじめからギリシア語の七十人訳であって不思議ではない。
 このギリシア語旧約に、さらにギリシア語で書かれた新約がついたものが、少なくとも宗教改革までのキリスト教の旧新約聖書であり、これによって「旧新約聖書一巻」というかたちになったわけである。異言語をまとめて「一巻」とすることはいずれの時代、いずれの国であれ、まずあり得ない。したがってヘブライ語旧約のあとにギリシア語新約が、同一文書として付加されることは、まずあり得ないと考えてよいであろう。とすると、この七十人訳こそ、キリスト教発生の端緒であったといえよう。

 ルターは聖書の数を減らした
 前述のように七十人訳ギリシア語聖書を基として、ヘブライ語から直接ラテン語に訳されたのが、ウルガタ訳と呼ばれる聖書で、ヒエロニュモスの個人訳を基本とし、一五四六年のトリエント公会議で力トリック教会の公認ラテン語聖書本文となった。
 さて、ルターによる宗教改革によってプロテスタントが起り、聖書正典の問題にも改めて目が向けられた。ルターは前述のようにロイリヒンの説をとって、旧約はヘブライ語原文によらなければならないと主張した。
 プロテスタントはカトリックの権威を否定し、ウルガタも七十人訳も捨てて、ヘブライ語聖書を自分たちの旧約正典とした。その結果、今日でもプロテスタントの聖書とカトリックの聖書には七書の違いが生じている。このプロテスタント聖書が日本では「聖書」として通用している。しかし前述のように新しい共同訳では「七書」も発行されることになっている。
 
 

考古学が裏づける聖書の記述
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p48~50
 聖書に書かれていることは、ほとんどが神話か伝説で、たとえ史実によるとしても、粉飾されていると考える人も多いだろう。この問題に考古学者が発掘という実証的方法で取り組んだのは十九世紀からで、今日までに、着々とその成果が積み重ねられている。
 遺跡の発見や発掘の結果、これまで史実として疑問視されていた聖書の記述の、歴史的信憑性が証明された例は少なくない。だが、この逆、すなわちその記述が歴史的には事実でなく、何らかの原因譚説話であることが明らかになった例もある。
 また直接ではないが、聖書の伝承がある事実を基にして形成されたことが明らかにされた例もある。その典型的なものは一九二九年にサー・レナードーウーリイによって行われた「大洪水」の発掘であろう。彼は粘土層によって三千五百年前の大洪水を確認した。
 次にその記述を引用しよう。竪穴は徐々に深まり、突然、地面の性質は変った。層になった陶片や瓦疎のかわりに、まったく純粋でことごとく同質の粘土に出会ったが、その構造はその粘土が水によって押し流されたことを示していた。
 労働者たちは、われわれが最下の地盤、つまり原初のデルタ地帯を形成していた河泥に達したと断言した。はじめは私もこの意見に従いそうであったが、その後、それはまだ十分な深さに達していないことに気づいた。最初の居住地が設けられた地域が沼沢地の昔の地盤の高さをはるかにしのぐものであったとは考えられない。
 私は測定をすませた後に、人びとにさらに深く掘るようにと指示した。純粘土層は相変らずつづき、一・五メートル以上の厚さになった。そのとき、粘土層は、そのはじめと同じように突如とだえ、再び、石器や道具類を割った燧石の芯の破片や陶片の層が出てきた。……
  シュメール人やヘブライ人の洪水の話の基になっている現実の大洪水があったこと、この発見はもちろん、二つの話のうちの、どちらの個々の事柄をも証明しない。もちろんこの大洪水は全世界的ではなく、チグリス・ユーフラテス川の下流の河谷に限られ、おそらく長さ六百キロ、幅百五十キロにわたる局地的な大災害であった。しかし河谷の住民にとっては、それは全世界と同じであった。
 現代ではさらに研究が進み、この大洪水から有名な人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』が生れ、それがどのような経路を経て聖書の世界にもたらされたかがわかっている。
 以上はもちろん間接的な証拠にすぎないが、これが、出エジプトからカナン定着となると直接的な証拠が決して少なくない。たとえばヨシュア記第十一章の、ヨシュアによるハソル攻略記事の、「そのときヨシュアは引き返してハソルを取り、つるぎをもって、その王を撃った。ハソルは昔、これらすべての国々の盟主だったからである……
  ただし丘の上に立っている町々をイスラエルは焼かなかった。ヨシュアはただハソルだけを焼いた」という記述が実に正確であることが、有名な考古学者イガエル・ヤディンのハソルの発掘で明らかにされている。
 さらに下ってダビデ王時代ともなると、彼がエルサレム攻略のとき利用した水くみ用の竪坑がそのまま残されており、またヒゼキヤ王の水道には、今も整々と水が流れ、聖書の記述のとおりなのである。 
 
 新約聖書については、次のような例が紹介されています。「同様に、新約聖書のなかの記述で従来伝説とされてきたが、神話・伝説的な物語は新約聖書にもある。たとえば、イエス誕生を告げた有名なベツレヘムの星。この星についても、天文学者たちは架空のことでなく、事実であるという結論に到達した。
 ベツレヘムの星が、紀元前七年に土星と木星の異常接近によって生じた大きな「一つの星」であることは、いまではほぼ間違いないとされている。また同時にそれが、・・・さまざまな社会的ショックを与えて当然であった。(中略)
 また、ルカによる福音書には「そのころ全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストスから出た」と記している。これに関して、聖書学者フィネガンは、さまざまな史料とテルトゥリアヌスの「イエス誕生の時の人口調査は『センティウス・サトルニヌスにより、ユダヤで行われた』」という記述から、紀元前九年から六年の間のいつかにそれが行われたと推定している。(これは、イエスの両親であるヨセフと身重のマリアが、ローマ皇帝アウグストゥスから出された人口調査の住民登録のため、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ戻り、そこでマリアはイエスを産んだとされる記述について述べたものです。)
 もちろんこれらは、直接的な証拠といえないともいえる。しかし、人びとの記憶の中で、以上の二つが、イエスの生誕と関連して記憶されていたことは否定できない。イエスの生誕を紀元前六年とするのは、今ではほぼ通説である。」
旧約には来世という考えはなかった
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p51~53
 来世という考えは宗教につきもののように思われているが、旧約聖書の古い層にはこれがまったくない。このことはたんに興味深いというよりも、歴史上の一つのなぞになっている。
 来世という考え方は非常に古くからあり、また輪廻転生という考え方が出てきたのは、いまからだいたい二千五百年前、イランにおいてであろうといわれている。この考え方はインドやギリシアにもあり、ピュタゴラス学派やフランスの古代宗教ドルイド教にもあったように、アーリア系の思想とみるべきであろう。
 紀元前一〇〇〇年ころのイスラエルは決して中東の先進国でなく、むしろ後進地域で、当時の中東の文化的中心はバビロニア、そしてエジプトだった。
 バビロニアにも来世という思想があり、イシュタールの冥府めぐりとか、あるいは死んで生き返る植物神といったような発想が、古くからあった。
 これがエジプトとなると『死者の書』に見られるように、来世のことばかり考えていた民族といえる。
 イスラエルはその両者に挟まれている小国で、両方から大きな影響をうけながら、なぜそういう発想がなかったのだろうか。これが、歴史のなぞ、聖書の不思議とされている点である。
 聖書に、われわれが「宗教的」と呼んでいるような発想が出てくるのは、ずっと後になってからであって、古くなればなるほどそれがない。
 すなわち人間の一生はあくまでも出生から死亡までと、はっきりと区切っている。そしてそれをただ、親から子、子から孫、過去から現在、現在から未来へと、歴史的にたどっていくだけである。
 小林秀雄氏が「あめを徹底的に引きのばすような歴史観には私は耐えられない」という意味のことをいっておられるが、聖書の歴史観がまさにそれである。聖書とは、長い一直線の歴史でつらぬかれており、人の一生はその一部を担っていくものにすぎない。それがアブラハムからはじまり、イサク、ヤコブ、十二人の兄弟と一つ一つつながっていく。
 来世、輪廻転生という系統の考え方では、徳川時代の日本人のように、現世の前に前世があり、現世の後に来世があると見る。日本人は簡略化して三つにしてしまったが、元来は六回で、それで一まわりすることになっている。いわば円環思想である。この思想には「歴史」という考え方はない。というのは自分の過去は前世であっても歴史的過去でなく、自分の未来は来世であっても歴史的未来ではないからである。
 一方ははじめがあり終りがあり、ひとすじにつづいていくという思想、もう一方ははじめもなく終りもなく、ぐるぐる回っているという考え方。そのいずれであれ、これは、人間がはじめて合理的にものを考えようとした結果の発想であることには違いはない。
 だがこの二つの、合理性の追究の仕方はまったく違った型になっている。
 
 

聖書はリアリズムの世界だ
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p53~55
 合理性は、ある意味では、聖書の中で一貫して追究されているテーマの一つである。
 聖書の考え方によれば、人間の内部にいわゆる内なる合理性がある。それに従って、人間は生きようとする。ところが、社会には社会の別な合理性があり、これとぶつかる。内なる合理性と外なる合理性が衝突する。これが端的に表われるのが「義人の苦難」というテーマである。正義が必ず勝ち、正しい者が必ず報われて幸福になるなら、人間は何の矛盾も感じず、すべてが合理的だと思うであろう。だが現実はそうではない。なぜか。神が義で全能ならなぜそんなことが起るのか。これが「神義論」で、この発想から探究がはじまるのだが、これはある意味では永遠につづく探究である。
 ヨブ記に出てくる「神の義」と「人の義」というのがこの問題で、神の義と人の義は同じなのか、同じならなぜ神が全能なのに義人が苦しむことがあるのか。では違うのか、違うのならばこれにどういう解決があり得るであろうか、という問題になってくる。
 自分の内部に内なる合理性が厳然とあり、それが「社会正義」を求めているという自覚の一方、この内なる合理性と外なる合理性が一致しないということは、聖書だけでなく、多くの書で取りあげられ、つねに人が問題にしてきたことである。
 その問題を、輪廻転生の思想はこう考える。つまり、現世だけを見ていると不公平だけれども、前世・現世・来世を通して見ると、プラスーマイナスして結局みんな平等になってしまうと。これは真宗の『妙好人伝』の発想だが、要するにどこかで合理性を求め、すべてを内心の問題として、心理的に解決したいというところから出た発想であろう。
 『妙好人伝』に、財布を盗まれたときにどう考えるべきかという話が出てくる。だがどう考えても、財布を盗まれたことを合理的とは思えないが、それを自分が前世で財布を盗んだ、と考える。
 前世で財布を盗んだ、だから現世でお返しした。本当は自分で返しに行かなくてはならないものを、取りに来てくださったのだから、たいへんに有り難い。それでは、現世で自分が財布を盗むとどうなるか。これは来世でお返ししなければならないから、やめておこうということになる。
 こう考えれば、いっさい問題は解決し、不合理なことはすべてなくなる。そしてこう考えなければ、自分の内なる合理性と、外なる合理性をつなぐことができず、世の中は矛盾に満ちた不合理なものとなってしまう。そこで上記のように考えることが、一種の「悟り=救い」になるわけであろう。
 また善悪二元論にも神義論はない。これは世の中に矛盾や悪があるのは当然で、両者はつねに、勝ったり負けたりしつつ併存していると考えるからである。
 だが、旧約聖書はこういう発想をいっさいしない。これは貴重な原則だが、そのため、いってみれば、『妙好人伝』のようなものが信じられれば、人間はいちばん幸福だろうと思う。それで割り切ってしまえば、たとえば義人の苦しみI正しい人がなぜ苦しむのかというようなことなど、前世の因果でかたづくから、旧約のように徹底的に執拗にそれを追究する必要はなくなる。日本人があっさりしているのは、こういう伝統に原因があるのであろう。
 簡単にいえば旧約の世界は安易な「悟り」がまったくない世界であり、その点では恐るべきリアリズムの世界である。 
 
 どうしてこのような考え方になるか。それは、旧約聖書における「内なる合理性」の追及が「神との契約」に基づいているからであるという。
 「まず、そこにあるのは・・・神との契約という考え方であり、この契約条項である律法を完全に守るという考え方、すなわち律法主義という考え方である。歴史への批判もすべてこの立場からなされ、神の律法を各人が徹底的に守れば、この社会に「義」が現出するという考え方であり、同時に守らなければ「裁き」があるという考え方である。
 人間の社会の義が、出生と死亡の間の一人生の間に実現しないなら、歴史的未来において絶対的に確立しなければならないという、われわれから見れば一種の執念のようなもの――これは必ずしも「執念」ではなく、それが「信仰」なのだが――が、そこから出てくる。
 輪廻転生なき歴史の世界で矛盾の解決を求めるなら、確かに、来世でなく歴史的未来にそれを求める以外にない。人間の一生の間でだめなら、歴史的未来に成就しなければ、「義」は存在しなくなるであろう。その未来を先へと伸ばしていくと、結局、終末論ということになる。
 こういう考え方は、われわれ日本人から見ると、前述のように、たいへん執念深いものに思われる。それに反して、現世のことは来世で自動的に決着がつくという発想は、非常にあっさりしていて、われわれには気分がいい。
 そういう気分のよさは、旧約聖書にはない。それを執念深いと感ずるのは自由だが、このようにどこまでも徹底的に追究していくところに、旧約聖書とそのリアリズムの特徴がある。」

歴史的見方は聖書から出た
山本七平ライブラリー『常識の研究』p56~59
 マタイによる福音書で、イエスが弟子のヘテロに天国の鍵を授けようと告げた直後に、その同じヘテロに向って「サタンよ、引きさがれ」といっている。
 同じ人間に対して矛盾したことをいっているのはどういうことか、というのがわれわれの受ける感じである。ここには聖書の考え方のもう一つの特徴である「時間」という問題がからんでいる。
 ある瞬間に一つのことが事実であって、次の瞬間、その事実が消え、別の事実が出てきても不思議でないというのが、聖書の考え方であり、この考え方はもちろん旧約聖書にもある。預言者エゼキエルは「悪人がもしその行なったもろもろの罪を離れ、私のすべての定めを守り、公道と正義とを行うならば、彼は必ず生きる。死ぬことはない。……義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの、憎むべき事を行うならば生きるであろうか。彼の行なったもろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、その犯した罪とのために死ぬ」(エゼキエル書十八章二十一節以下)といっている。
 イスラエル人は、「時」という意識がはっきりした民族で、すべてを歴史的・時間的にとらえており、ある状態を時間を無視して固定させ、永続させることはない。いわば「義」に基づく行為があっても、「義人」という人間が、それを越えて、永続的に存在するのではないのである。
 こういう発想は、輪廻転生の思想からは出てこない。輪廻転生はすべてを空間的にとらえても、歴史的・時間的には見ないからである。したがって、上記のような言葉はわれわれには一種の違和感があるであろう。前記の「時」を長いスパンで捉えれば「歴史的な『時』」になる。「いまは何の『時』である」といういい方が、旧約にも新約にも出てくる。たとえば、いまは「預言の時」、そして、その預言の時が終った「教会の時」というように。また前述のように、「ある『時』の終末」という考え方がある。
 後の歴史的時代区分という発想は、明らかにこれに根ざしている。いい換えれば、歴史的時代区分のいちばん古いものが聖書にあるのであって、これはわれわれにはなかった意識である。
 われわれはとかく、いまという状態が永久につづくものと錯覚している。その錯覚を持たせないのが、聖書の考え方の一つの特徴であろう。一つの時、時期というのは必ず終るという意識であり、したがって戦前のように「万世一系・天壌無窮」といった発想もなければ、戦後のように、戦後体制が永遠につづくといった発想もない。
 聖書は歴史という意識を人間に与えた。歴史的見方というのは、聖書から出た。ヨーロッパ人には、この見方が古くから非常に深くしみ込んでいる。
 われわれ日本人が歴史的な見方をするようになったのは、比較的新しい。朱子学や司馬光の『資治通鑑』を模範として歴史を、つまり『大日本史』を記した以降のことである。それ以前のたとえば『平家物語』といったものは、歴史書というよりも、むしろ叙事詩であろう。
 これは古代ギリシアの場合も同じで、ホメロスが書いたのは決して歴史ではなく、叙事詩であり、ヘロドトスの『ヒストリア』は「目撃者の記録」すなわちいまのルポの意味である。厳密な意味での歴史が出てくるのは、旧約聖書の歴史書であり、それを正しく指摘しているのが、歴史家ルドウィヒ・マイヤーであろう。 
 

旧約聖書はいつ完成したか
山本七平ライブラリー『常識の研究』p80~84
 南王国を滅ぼしたのは、北を滅ぼしたアッシリアではなく、それに代って興隆したバビロニアであった。そして、それからバビロン捕囚がはじまる。もっとも全員がバビロンに移されたわけでなく、いわば指導者階級が移され、残りのものはバビロニアが任命した総督に支配されていた。最初の総督ゲダリヤは過激派に暗殺されている。
 この捕囚が何年つづいたかは、捕囚も帰還も二次以上にわたっているので正確に数えにくいが、いずれにせよ彼らはペルシア王キュロスがバビロンを占領したときに釈放された。
 占領は紀元前五三九年、翌五三八年にユダヤ人釈放の布告があり、この年にパレスチナへの第一次帰還が行われ、ついで二次帰還、さらにその後にも帰還があったと推定されている。これでバビロン捕囚の終り、第二神殿期のはじまりとなる。
 第二神殿期というのも非常に漠然としたいい方だが、捕囚から帰った人びとによってエルサレムの神殿が再建され、神殿が政治の中心で、祭司侯国といわれる時期、これをユダヤ教の形成期とみていい。
 だが、待ちに待った捕囚からの帰還も、それが現実の問題となれば、さまざまな苦難がそこに待ちうけていて当然だった。発掘も、この時代のパレスチナがあらゆる面で退化し、経済的にはまったくひどい状態であったことを示している。帰還民にとっては、この状態から脱却する経済再建が第一であり、神殿の再建や精神的な復興が第二、第三の問題となったことは、戦後の日本を考えても当然のことであろう。
 その人びとを覚醒させ、神殿を再建して民族として再生させるために活動した預言者がハガイとゼカリヤである。これはあまり注目されないことだが、彼らがいなければ、ユダヤ人はその思想的・民族的独自性を失い、他民族の中に埋没して消えてしまったかもしれない。
 ハガイが預言を開始したのは「ダリョス(ダレイオス)王の第二年、六月一日」とされているから紀元前五二〇年である。預言は「万軍の主はこういわれる。この民は、主の家(神殿)を再び建てる時は、まだこないといっている」ではじまる。だが本当にそうなのであろうか。
「主の家はこのように荒れはてているのに、お前たちは、自ら板で張った家に住んでいる時であろうか。……お前たちは自分のなすべきことをよく考えるがよい……」
 彼は、総督のゼルバペルと大祭司のヨシュアをはげまし、また「残りのすべての民の心」を揺り動かしたので神殿の再建は六月二十四日にはじまった。そして、このようにして新しい時代は、はじまったのである。
 とはいえそれは、第一神殿期と同じような時代がきたということではない。バビロン捕囚の間に起きた最大の変化は、イスラエル人の宗教が神殿中心の祭儀宗教から書物による思想の宗教へ移行したことであろう。祭儀の中心である神殿が失われたため、聖書だけに頼らざるを得なくなり、それだけが、基準とすべき正典とされたからであろう。そしてこれがあったから、かれらはその地の文化に吸収されて消えてしまうことがなかったと思われる。その意味ではかれらは確かに「聖書の民」である。
 聖書の編纂はこの捕囚期にはじまったと思われる。旧約聖書が正典として形成されていったわけである。このことが、第二神殿期の「宗教改革」の基礎となったといえる。
 第二神殿期はエズラとネヘミヤの帰国で前期と後期とに分けるが、これはだいたい紀元前四四四年で、このころにはモーセの五書は完成していた。これが正典としての聖書のはじまりといえる。
 では、旧約聖書の最後の書ができたのはいつごろだろうか。それはダユエル書で、その中に記述されているのは紀元前二八七年までのことなので、このころと思われる。
 ダエエル書というのは、いま読むとたいへんわかりにくい。キリスト教徒はこれを「預言」にいれているが、ユダヤ教徒は「諸書」に入れ、黙示文学として扱っている。内容からみればユダヤ教徒の分類のほうが正しいであろう。
 この書はその思想がきわめて新約聖書に近く、学者によってはこれを「旧約の終りで、新約のはじまり」とする。 
 

聖書の「契約」とは?
山本七平ライブラリー『常識の研究』p85~89
 われわれは何の抵抗もなく旧約聖書、新約聖書という。その「約」とはいったい何だろうか。「約」は契約の「約」で、ヘブライ語では「ベリート」といい、ギリシア語では、「ディアテーケー」、ラテン語では「テスタメントム」といい、そこから「テスタメント」という英語になった。
 前述のように旧約という概念は新約という概念があってはじめて出てきたもので、旧約一新約といういい方はだいたい二世紀にはじまり、それ以前にはなく、現代でもユダヤ教徒は旧約という言葉を使わない。また新約時代にも、「新しい契約」「古い契約」(コリント人への第二の手紙三章六節・十四節)という言葉はあっても、すぐに旧約聖書という言葉が出てきたわけでなく、旧約のことは「グラッフエ」とも呼んでいる。「書かれたもの」という意味で、要するに「本」のことで、今日でも英語でBOOKと大文字で書くと、聖書の意味になる。いずれにせよ、「聖書」の基は「契約書」なのである。
 聖書の宗教は「契約宗教」と呼ばれ、それが明確に出ているのが、俗に「モーセの十戒」といわれる「シナイ契約」である。
 「神と契約を結ぶ」などという発想は、われわれからみればまったく突拍子もない考え方である。いったい、なぜ、このような考え方が出てきたのであろうか。
 「唯一絶対神という概念は砂漠から生れた」とよくいわれる。日本人には何でも風土に帰する伝統があり、そういう見方がでて不思議ではないが、砂漠があるから唯一絶対神という発想と、契約神という発想がでてくるわけではあるまい。もしそうなら、砂漠のあるところにはすべて、この発想がでてくるはずである。
 人間は文化的生物であり、自然的環境だけでなく、文化的環境の影響も強くうける。この「神との契約」が「オリエント宗主権条約」を基にしているという考え方は、おそらく正しいであろう。これもまたメンデンホールの説である。
 彼はヒッタイトの大皇帝とそれに従属している小王との間の上下契約に着目し、その形式がシナイ契約ときわめて類似していることを指摘する。
 このオリエント宗主権条約は次のようなかたちになっている。まず、
 (一)大皇帝の自己紹介
 (二)過去の歴史的関係と与えた恩恵
 (三))曰 契約条項
 (四)証人または証拠
 (五)契約を守った場合の祝福、破った場合の呪い
 シナイ契約はすくなくとも申命記では、確かにこのようなかたちになっている。すなわち、まず(一)神の自己紹介「私はお前たちの神ヤハウェであって」があり、ついで(二)過去の歴史と与えた恩恵に「お前たちをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである」とつづく。
 ついで契約条項の第一条「お前は私のほか何者をも神としてはならない」は、宗主権条約でも当然であり、この場合には「私のほかだれをも大皇帝としてはならない」であろう。
 以下の契約条項として十の戒めがあり、証拠として二枚の石の板にきざまれた契約書が与えられる。ついで「見よ、私は今日、お前たちの前に祝福と呪いを置く。もし今日、私が前たちに命ずるお前たちの神ヤハウェの命に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。もしお前たちの神ヤハウェの命令に従わず、私か今日お前たちに命じた道を離れ、お前たちの知らなかった他の神々に従うなら、呪いを受けるであろう」となっている。
 モーセの十戒を以上のようにみてくると、メンデンホール説には、なるほどと納得がいく部分が多い。自分のほかだれも神としてはならないという条項は、ここに「大皇帝」を入れてみれば当然であって、宗主権条約を結んでいる小王が他の「大皇帝」を自分の皇帝とするなら、それは反逆であり、罰せられて当然だからである。
 また、この神との契約に違反するような相互契約も許されない。イスラムは元来、アラーとの契約のみで、人と人との間の相互契約という考え方はなかったという。これは旧約でも基本的には同じでありそれが当然であろう。というのは宗主権条約からみていけば、二人の小王が勝手に相互契約を結んで、自分との間の上下契約をやぶれば、それは反逆に等しいからである。
(中略)
 このメンデンホール説は、さまざまの問題点を含むとはいえ、これにかわる納得できる説はだれも、提出していない。ただ問題は、このような国際条約がなぜ宗教にとり入れられて、神との契約を絶対化する宗教が生れてきたかということである。この点には明確な解答はない。
 この絶対主義は、個人の規範を絶対化する。そしてこれが、砂漠から出た一握りのヤハウェ主義者が社会変革の「核」となり得た理由であると思われる。
 新約の契約「ディアテーケー」は、「遺言」という意味もある。これは大変におもしろい言葉で、「遺言」とは死者と生者との一方的な契約であり、したがって、生者が相互契約でこれをどうにかすることはできない点で、まさに絶対的契約なのである。そしてこの契約を宗教化し絶対化するという発想は、聖書にのみある発想である。
 宗主権条約も契約の対象は「唯一であり、他とも契約をすることは許されない。したがって唯一絶対神という発想と契約とは切っても切れない関係にある。
 ブライトという学者は「唯一神論者とは、神は唯一であると説く者の意味なら、モーセは決してそうでない」というおもしろい定義をしている。モーセにとっては、人格をもつ契約の対象はヤハウェだけだということ、すなわち彼が宇宙の宗主権者であるということで唯一絶対なのであって、神という概念が他の対象にも付されていようといまいと問題ではないのである。
 この関係も、宗主権条約を結んだ大皇帝が唯一絶対で、他に大皇帝がいようといまいと、それは関係ないというのと似ているであろう。 
 

ユダヤ人の生き方を規定する(聖書の律法)
山本七平ライブラリー『常識の研究』p95~96
 私は前に旧約聖書から出た宗教に、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三つがあるといった。そしてそれぞれが、旧約につづいて、タルムード、新約、コーランを正典としていることも、すでにのべた。
 タルムードはわかりにくい膨大な本であって、全部読み切ることはわれわれにはもちろん、ユダヤ人でも、専門のタルムード学者でないと不可能に近い。このタルムードの基礎となっているのがミシュナで、紀元前二〇〇年から紀元二〇〇年ごろまでの約四百年の間に伝えられた口伝の律法の収録である。
 内容は律法(モーセの五書)の施行規則といったらいいだろう。安息日規定とか婚姻規定とかが、こまかく記されており、トーラーのこの言葉はこういうことを意味する、というかたちで規定された条文集で、全六巻から成っている。
 読みはじめるとだれでも少々げっそりするであろうが、同時に「なるほど、契約とはつねにこういうかたちになるだろうな」という気もする。欧米人と重要な契約を結ぶと「電話帳ぐらいの厚さになる」といわれるが、あらゆる場合を想定して完全に細かく規定すればそうなって不思議でない。
 たとえば「安息日編」である。これは出エジプト記(十六章二十九節)の「見よ、ヤハウェはあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には二日分のパンをお前たちに賜わるのである。おのおのその所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない」が基になっている。では「その所から出てはならない」とは何を意味するのか。部屋から出てならないのか、家から出てならないのか、村から出てならないのか。また「出る」とは、体全部が出ることなのか、手や足だけが出ることなのか。それを規定するため、この章は「出てはならない、とは次のことを意味する」ではじまっている。
 確かに少々うんざりするが、「契約」とは元来こういうもの、そして契約宗教とはこういうかたちになるであろうなと思わざるを得ない。
 たとえば、ユダヤ教における結婚は、「結婚契約編」により、その第一条を読むと「処女なる初婚のものは水曜日に結婚し、再婚者は木曜日に結婚しなければならない」と結婚式の曜日まできめている。そして、こういう発想は新約から非常に遠いと思わざるを得ない。しかし両者とも基本は旧約であり、ミシュナは新約理解のためのもっとも貴重な参照文献である。
 ミシュナとは「繰り返す」といった意味で、元来は、文書化した正典と分けるため口伝であったものを、繰り返し繰り返しして覚えよというところからきた名であろう。
 それを文書化したわけだが、文書化の完結は紀元二二〇年で、新約時代の一世紀末ごろまでは、文書化されていなかった。
 その理由は文書化し正典化すると律法解釈が固定するからということで、正典は聖書だけ、その他、施行規則などはたえず変えていっていいという弾力的な考え方があったからであろう。(後略)
 

宗教は律法だ――中東の考え方
山本七平ライブラリー『常識の研究』p101~103
   以前に、イスラエルのベギン首相が「女性の宗教的徴兵拒否の権利を認める法案」を議会に提出したが、労働党がこれに徹底的に反対して、ベギン内閣がつぶれそうになったことがあった。
 この案を出したのは、与党のリクード党と宗教党で、いわば保守派であり、反対しているのが労働党の進歩派である。これは日本で考えると少々奇妙で、進歩派こそ、この法案を出しそうである。だが彼らが問題にしてるのは、法案の元になっているのが、申命記の異装禁止だという点なのである。
 「女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。お前の神ヤハウェは、そのようなことをする者を、忌みきらわれる」と申命記第二十二章五節以下にある。
 軍服は歴然たる男装だから、女性は宗教的良心に従って軍服を着ない宗教的権利がある。その権利を認めるのは、ユダヤ教徒である限り当然のことだという論法である。
 ところが、労働党にしてみると、そういう宗教法から脱却して市民社会を作るということがシオニストの主張、すなわち現代イスラエル建国の目的だったので、彼らの立場では「宗教的な良心的徴兵拒否」に反対することが進歩的ということになる。現代のイスラエルでは、民法だけに宗教法が残っているが、他はすべて国会が定める国法である。そしてこの国法への宗教法の浸透は絶対に防ごうというのが、彼らの立場であった。
(中略)
 シオニストはここに現代的な社会を建設し、脱宗教法体制をめざしたから、「西欧の手先」として徹底的に排撃されている。そして中東全体が逆に保守化・宗教法化していることは否定できない。
 宗教は法律であるという考え方は、聖書の律法から出ている。旧約の律法そのものが「法律である宗教」である。
 ではキリスト教社会だけがなぜこのなかにあって、近代的市民社会へと進んだのであろうか。その謎はまさに、「新約聖書」と「パウロ」にあるであろう。だが、それが出てくる宗教的伝統もまた、旧約の中にある。旧約はこの点、決して一面的ではなく、どの伝統を強く継承しているかによって違ってくるのである。 
 

預言者とはどんな人か
山本七平ライブラリー『常識の研究』p104~107
 律法ばかりが旧約聖書ではない。聖書にはもうひとつ、預言という大きな流れがある。そしてこの「預言」という言葉が「ノストラダムスの大予言」などのような「予言」ではないことはすでにのべた。
 律法主義では、神との契約すなわち「法」を通じてしか人間は神と関係をもたない。神を信ずる信仰とは「神への忠誠」であり、それは「神との契約の絶対遵守だ」ということになる。ところが旧約には「契約」なしで登場して来る不思議な一群の人がいる。それが預言者であり、預言者は神との契約で登場するのではない。
 キリスト教徒は旧約聖書のなかで、むしろ、この預言の伝統を重視し、かつ継承する。一方、ユダヤ教はその中心を律法の伝統におき、イスラム教もそういえる。ユダヤ教、イスラム教に対するキリスト教の独自性は、ここにあるといえよう。
 預言者は歴史的には複雑な存在であって、律法との関係で、ある時期に急にあらわれたものではなく、おそらくは律法より古い時代から存在した。
 それもイスラエルだけでなく、東方一帯にあったもので、はじめは「神託を告げる者」といった意味で、多くの宗教にあるエクスタシー状態になってお告げをするような人であったろう。古代の東方では主権者の周囲にも必ずこのような人がいた。これが先見者であり、サムエル記上(九章九節)の次の記述は、歴史的に重要なものといわれる。
 「昔イスラエルでは、神に問うために行くときには、こういった、『さあ、われわれは先見者のところへ行こう』。今の預言者は、昔は先見者といわれたのである」
 また預言者が代言人の意味に使われている場合もある。
 では、いったい聖書における預言者とはどのような存在であろうか。それが見者(ホーゼー)、先見者から発展したということは、その歴史的根拠は明らかにしても、その独特の性格は明らかにならない。もちろん系統も大切で、後の預言者に、先見者的、代言人的性格も含まれていたことは事実だが、それは「イスラエルの預言者の特質」を示すことにはならないからである。
 ではその特質は何なのか。
 こういう場合、後代が預言者の代名詞のように使う一人の人物をあげるのがもっともよい方法であろう。それはエリヤである。エリヤは、中間時代にもイエスの時代にも、またその後にも預言者の典型とされてきた。

(南北朝時代の北イスラエルのサマリヤ王アハブ王が宮殿の側らにあるナボテを殺して彼のブドウ畑を奪ったことに対して、ヤハウェの言葉がエリヤに臨み、その預言を受けてエリヤがアハブを糾弾した話の紹介)

 そしてこの点でエリヤをみれば、それは神の命を受けて、王が果して神との契約すなわち律法を守っているか否かをつねに監視している「監査役」のような位置にいる。確かにイスラエルでは王制はナタン契約という前提だけでなく、民の希望による一種の必要悪のようにみられていた。
 申命記(十七章十四節以下)には「もしお前が『私も周囲のすべての国びとのように、私の上に王を立てよう』というなら、必ず、お前の神ヤハウェが選んだ者を、お前の上に立てねばならない。同胞のひとりを上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をお前の上に立ててはならない」であって、民が「王を立てよう」といわない限り王はないのである。
 さらに「彼が国の王位につくようになったら……」の律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神ヤハウェを恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない」であって、こうなると一種の「律法的憲政」というかたちになってくる。
 そこで預言者は、その「憲法違反」を追及しかつ糾弾するという姿勢になってくる。この意味では預言者は「護憲運動」ならぬ「護律法運動」の指導者のような位置におり、さまざまなタイプの預言者がいるとはいえ、この基本には変化はない。 
 

捕囚時代の預言者
山本七平ライブラリー『常識の研究』p117~121
   捕囚の地の預言者にはエゼキエルと第ニイザヤがいる。エゼキエルは別に触れるとして、ここで、旧約最大の思想家といわれる第ニイザヤに触れる。最初にこの「第ニイザヤ」という奇妙な名について記そう。
 前にも記したように、聖書の書名は決して著者名ではない。サムエル記もそうだし、エレミヤ書にしても弟子のバルクが書いたと記されているようにエレミヤ作とは必ずしもいえず、イザヤ書も、その全編をイザヤという預言者が書いたということではない。イザヤはヒゼキヤ王の時代の人だが、イザヤ書の四十章以下は、無名の預言者-それも一人ではないIの著作であり、しかも時代もはるかに後のバビロン捕囚の終るころ、一部はおそらくさらにその後なのである。そこで学者はこの無名の預言者を第ニイザヤ、第三イザヤと呼ぶ。
 この第ニイザヤの、それまでの預言者との大きな違いは、糾弾・告発でなく、むしろ慰めと、希望を唱っていることである。いま唱っていると記したが、預言はほとんど詩であり、とくに第ニイザヤは全編美しい詩である。

慰めよ、わが民を慰めよ、
ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、
その服役の期は終り、
そのとがはすでに赦され、
そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を
主の手からうけた。

 ここに前述の「神の罰」という考え方と「赦し」が現われているが、キリスト教にもっとも大きな影響を与えたのは「苦難のしもべ」といわれる第五十三章の長詩である。

だれがわれらの聞いたことを信じ得たか。
ヤハウェの腕は、だれにあらわれたか。
彼はヤハウェの前に若木のように、
乾いた土から出る根のように育った。
彼にはわれらの見るべき姿なく、威厳なく、
われらの慕うべき美しさもない。
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌み嫌われる者のように、
彼は侮られた。われらも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれらの病を負い、
われらの悲しみをになった。
しかるに、われらは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれらのとかのために傷つけられ、
われらの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われらに平安を与え、その打たれた傷によって、われらはいやされたのだ。(後略)
 この謎の詩は、だれのことを唱ったのか明らかでない。だが内容をみれば、それがだれか明らかでないにせよ、他人の病いを負い、他人の悲しみをにない、他人のとかのため神に打たれ、苦しめられ、傷つけられ、他人の不義のために砕かれ、懲らしめをうけ、暴虐な裁判で殺されて、人びとの罪を負うことによって、人びとに平安を与えた人のことを唱っていることはまちがいない。
 重要なことは初代キリスト教徒はこれをイェスーキリストのことを預言した詩と思い、イエスのなかに旧約の「苦難のしもべ」をみていたということである。(後略) 

現代に生きる申命記の教え
山本七平ライブラリー『常識の研究』p126~127
 申命記(ヨシヤ王の時神殿の修復工事中(前621年)に発見されたという「モーセ五書」の五番目の書で「第二の律法」と呼ばれるもの)さまざまな点でキリスト教、イスラム教に影響を与え、現代のイスラム法にもこれと似た条項がたくさんある。しかし何といってもその大きな特徴は、貧者救済のための社会福祉的な条項である。それも数が多いが、この中のほんの数例をあげておこう。
▽兄弟に利息を取って貸してはならない。
▽あなたが隣人のぶどう畑にはいるとき、そのぶどうを心にまかせて飽きるほど食べてよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。あなたが隣人の麦畑にはいるとき、手でその種を摘んで食べてよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。 ▽あなたが隣人に物を貸すときは、自分でその家に入って質物を取ってはならない。あなたは外に立っていて、借りた人が質物を外にいるあなたのところへ持ち出さなければならない。もしその人が貧しい人であるときは、あなたは質物を留めおいて寝てはならない。その質物を日の入るまでに、必ず返さなければならない。そうすれば彼は上着をかけて寝ることができて、あなたを祝福するであろう。
▽寡婦の着物を質にとってはならない。
▽ひきうす、またはその上石を質にとってはならない。これは命をつなぐものを質にとることだからである。
▽貧しく乏しい雇人は、同胞であれ、またあなたの国で、町のうちに寄留している他国人であれ、それを虐待してはならない。賃金はその日のうちに払い、それを日の入るまでのばしてはならない。
▽あなたが畑で穀物を刈るとき、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。
▽あなたがオリブの実をうち落とすとき、ふたたびその枝を捜してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。またぶどう畑のぶどうを摘み取るとき、その残ったものを、再び捜してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。
 こういった数多い貧者救済法のほかに、次のようなおもしろい法律もある。
▽人が新しい妻をめとったとき、戦争に出してはならない。また何の務めもこれに負わせてはならない。その人は一年の間、束縛なく家にいて、そのめとった妻を慰めなければならない。(後略)
 
 

王も国土も失ったユダヤ人
山本七平ライブラリー『常識の研究』p131~132
 「聖書誕生の秘密」(三一ページ)で、トーラー、すなわちモーセの五書の主要資料としてJ・E・D・Pの四つをあげ、そのD資料が申命記であることを述べた。
 JやEはDよりももっと古い資料で、申命記にはJ・E資料に基づく出エジプト記のひき写しと思われる部分も大分ある。その点、「第二の律法」と誤訳されたのも無理はなかった。
 しかし、JとEが一つのトーラーとして編纂されたのは、申命記より後と考えられている。申命記の編纂をいちおう紀元前六四〇年ごろからとすると、それに刺激されて、もっと古いJ・E資料も入れて、すべてを編纂して一巻にしようという動きがはじまったのではないであろうか。そしてそれが、つづくバビロン捕囚期かそれ以後に完成されたと見るのが普通である。
 ところで、ヨシヤ王が紀元前六〇九年に戦死して、改革が挫折し、この後は混乱につぐ混乱で、紀元前五八七/六年にはエルサレムが陥落し、いわゆるバビロン捕囚がはじまる。
 国民の主だった者は捕囚としてバビロニアに連れて行かれ、エルサレムは荒れはてた丘と化してしまう。王も国土も神殿も失い、このときにイスラエルの歴史は終りユダヤ人の歴史がはじまることとなった。
 この捕囚から解放されたのは、紀元前五三八年。これが第一回の解放で、順次帰国したユダヤ人たちによって、紀元前五一六年にはエルサレムに第二神殿が建てられた。
 J・E・Dと、これにさらにP資料を加えたトーラーの編纂は、前述のようにこの捕囚の時代にはじまっている。そして、これが正典として確立したのは、だいたい紀元前四四四年というのが通説である。ただ、これはすべて推定であって、将来、何か新史料が発見されれば変ってくる可能性もある。
 第二神殿の建設――建設というより修理といったほうが正確であろう――以後、この神殿を中心に、ユダヤ人たちはペルシア内の小自治国のようなかたちで、新しい体制に入る。
 この時期を第二神殿期と呼ぶが、この時期は、政治体制からものの考え方まで、大きな転回をとげた時代である。 
 

エズラの宗教改革
山本七平ライブラリー『常識の研究』p132~133
 第二神殿期の新しい政治体制のなかで、もういちど「契約」という問題が出てくる。このとき登場するのが、学士エズラである。
 エズラはバビロニアから帰国するに当って、モーセの五書をたずさえてきた。どこまでが事実か伝説かわからないが、民衆の前でこのトーラーを読んで聞かせ、この律法のとおり実行することを人びとに約束させた。これが、紀元前四四四年とされている。
 ユダヤの総督としてペルシアから派遣されたネヘミヤが、エルサレムの城壁を再建したのも同じころ、そしてこのときを期して、新たな律法体制をしくことになったものと思われる。
 ところで、その三年前の紀元前四四七年は、アテネにパルテノンの神殿ができた年だ。それと比べると、旧約の歴史がいかに古いかがわかる。アテネの開花期には、旧約の歴史はすでに捕囚からの帰還の時代だった。エズラやネヘミヤは、だいたいソクラテスと同じころの人である。
 このときまでに、第二神殿期は百年近くもっづいているのだが、律法体制はうまくいっていなかった。その点をついたのがエズラで、ちょうど文化大革命のように、人びとの力によって、悪くいうと民衆を煽動して、神殿を乗っ取り、祭司から権力を奪って、これを改革するというかたちになっている。
 エズラは神殿のほかに、もう一つの宗教的権威を打ち立てた。エズラの大シナゴーグと呼ばれるものがこれで、シナゴーグとは会堂のことである。
 こうして、神殿が絶対的権威を持っていた時代は終り、それに代って会堂――シナゴーグが神殿を支えかつ民衆を支配し、あるいは指導する時代がはじまった。
 ミシュナの中の「父祖の遺訓」に「律法はどのように手渡されたか」が、伝承的に記されている。それによれば、まず、シナイ山(ホレブの山)でモーセに授けられ、ついでモーセから預言者に授けられ、最後にシナゴーグが受け取った、と。
 もっとも、シナゴーグというギリシア語では書いてなくて、クネセト・ハ・グドーラというヘブライ語が書いてある。「大いなる集会」といった意味である。
 現代のイスラエル国でも、議会のことをクネセトというが、元来は「大集会」で、律法を読み、かつその解釈について討議し、票決する集まりをさしていた。
 シナゴーグこそ、律法の本当の継承者であるとして、宗教的権威が神殿からシナゴーグに移った。これがエズラの行なった宗教改革で、これ以後は神殿とそれを支配する祭司の指導権が落ち、シナゴーグとそこの指導者ラビが民衆を支配するようになり、それを基礎に、イエス時代のパリサイ派が出てくるのである。
 

律法体制は預言を消滅させた
山本七平ライブラリー『常識の研究』p33~35
 トーラー体制の確立は、一つの重大な結果をもたらした。それはイスラエルの貴重な伝統であった預言の消滅ないしは休止という思想が出てきたことである。
 トーラーが絶対化され、いっさいがトーラーに帰せられるようになると、これを超えて預言を通して、神が人に語るということはなくなる。
 トーラー体制の下では、預言者の活動する余地はない。「預言者も今はいません」(詩篇七十四篇九節)、「預言者が現われなくなって以来……」(マカバイ記上九章二十七節)といった言葉があり、タルムードにもヨセフスの文書にも「これとともに預言の声は絶えた」という意味のことを記している。旧約における預言という伝統が、ここで打ち切られたことになる。このことは新約に大きく影響してくるのであって、トーラー絶対という考え方に立てば、神のことばの体現者イエスという発想は出てこない。
 トーラーの解説者のみが権威を持ち、それ以外の者は権威を持って語ってはいけないことになる。「権威ある者のように教える」(マタイによる福音書七章二十九節)者が出てくれば、むしろ、排除すべきにせ者、神の権威にさからう者と考える傾向も出てくる。
 それにしても、このトーラー体制は、民衆の間にどれほど浸透していたのだろうか。エズラがこれを読みあげ、「このとおりにやれ」といっても、はたしてどこまで浸透したものか。実際には、そう簡単にいかなかったに違いない。
 その場合、どの宗教でもしばしば行われるのが、いわゆる「蔵言化」である。訓言化といってもよく、律法を短い戒めにいいかえて民衆に浸透させるわけである。
 ユダヤ教でも、この箴言化が、起っている。つねに箴言化、訓言化の現象を起すのが、ユダヤ教の一つの特徴で、これは、そのままではたいへんわかりにくいトーラーを、条文化、訓言化してわかりやすく要約し日常生活の規範にしようという行き方である。前に記した「シュルファン・アルフ」もそれで、十五世紀に、旧約聖書からタルムードにいたるすべての教えを、六百十三条に要約する試みが行われている。
 旧約聖書の中の「箴言」、外典の「ペン・シラの知恵」「ソロモンの知恵」は、このように蔵言化した三つの文書である。
 しかし、「箴言」の場合、これがトーラーのみに即した内容かというと、必ずしもそうとはいえず、これには「アヒカルの訓言」とか「アモン・エン・オペテの知恵」とかいうアッシリアやエジプトの訓言も入っていて素材として使われ、古代オリエントの知恵の集成のようなものになっており、その点では実に貴重な文書である。
 非常に国際的なのだが、それをそのままに採用しているのではなく、一定の思想のもとに、いわば卜ーラーのもつ思想のもとに再編集しているのが特徴である。
 昔の中東の人たちが持っていた生活上の知恵と、ヘブライ的な神観および思想とを結びつけたところに、箴言のおもしろさがあるといえる。
 トーラーの民衆化と、これを人びとに遵守させるために、箴言化を行なったのは、ハカミーム、コーヘレスと呼ばれる人たちである。
 ハカミームは「知恵ある者」の意味で、いわば教師。コーヘレスというのは「集会で語る者」を意味し、伝道の書の「伝道者」とはこのコーヘレスのことである。こういう人たちがいろいろと民衆を教育して、トーラー体制を支えたわけである。 
 

応報思想につながる”教育書”箴言
山本七平ライブラリー『常識の研究』p140~141
 「預言者の思想を溶鉱炉にたとえれば、蔵言というのはどこにでも流通する貨幣のようなものだ」とジェームス・フレミングという学者はいった。
 箴言とは、たしかに広く浸透してはいくだろうが、その反面、日常訓となって思想の力は失われる。思想がたんなる日常訓に還元されると、これさえ守っていればいいというかたちになってしまう。  わが国でも、江戸時代、この箴言形式のものが流行し、たとえば石門心学などは、人生いかに生きるべきかを百首ぐらいの和歌にして、民衆に教えた。「堪忍のなる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍、するが堪忍」などというのがその一例である。
 この場合、基本になっているのは儒教的な思想だが、そのむずかしい思想をそのまま教えるのではなく、こういう歌とか訓言にして暗記させる。これが民衆教化のいちばん手っ取り早い手段であって、これが浸透すると、自分がなぜそうするのかわからないけれども、それを当り前のこととして遵奉するようになる。箴言は、そういう効果を持っている。
 同時に、その基本的な思想が理解されなくなる。現在のわれわれ日本人の道徳律にしても、だいたい江戸時代の箴言が当り前のこととして受け入れられている上に成り立っているわけだが、それがなぜ当り前か、人は問わない。箴言化には、思想としての力を失わせるという大きなマイナス面がある。
 もっとも、ユダヤ教では、週に一度、安息日ごとにシナゴーグでトーラーその他を読んで聞かせていたから、たんなる箴言化におちいることはなかったはずだし、トーラーと箴言が並行している間は、あまり問題もなかっただろう。
 しかし、箴言が民衆思想となって支配するようになると、これが一種の応報思想に転化する。つまり「こういうことをすれば、主はこう報われるだろう」という考え方である。
 これはすでにエズラの思想にもうかがえることで、われわれがこういう状態にあるのは契約を破ったからであるということは、契約を守ればこういう状態から脱け出せるだろうという逆の発想になりうる。
 これが訓言化、箴言化されると、いっそう徹底されて、その一つ一つを守れば神はこういうふうに恵んでくださるという発想が出てくる。
 そして、それを逆にすると、そういうふうに恵まれない人間は、神の教えを守らなかった、だからその報いを受けたのだという考え方になって不思議ではない。
 これはたいへんにこわいことで、私はつねづね、正直者がバカをみない社会ができたらたいへんなことになるのではないかと思っているのだが、そういう社会だと、バカをみた人間はみな正直ではないということになってしまう。正義は必ず報われるということになると、では報われない人間はみな不義なのかということになる。義は必ず勝つとすると、敗れた者はみな不義かということになる。箴言化には、このように事柄を単純に割り切って、裁いてしまう一面がある。
 しかし、旧約聖書には、そういう箴言的発想に対して、徹底的に批判し、反抗している文書がある。それが、ヨブ記、この旧約文学の最高の作については、次の項で触れることにしよう。 
 

悪魔は正義の味方か?
山本七平ライブラリー『常識の研究』p143~145
 旧約の中でヨブ記こそ、われわれのいう宗教書に近い著作だと私は思う。
 「誤解されている聖書」でものべたように、聖書は簡単に宗教書とはいえない。そしてここまで読まれた読者は、聖書が日本でいわれる宗教書とは非常に違ったものであることを、すでに納得されているであろう。そのなかでヨブ記は確かに宗教書だが、見方を変えれば、劇とも劇詩ともいえる。ということは、これは他の著作とちかって、純然たる「創作」だからである。作者も年代も明らかでないが、だいたい紀元前四~五世紀以降と見るのが普通である。
 ヨブ記の主人公は、ヨブ。箴言的な意味での神の戒めを完全に守った人間、「その人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」と。さらに彼は恵まれた財産家、そのうえ多くの子女があり、家庭も幸福であった。
 「箴言」の発想からすれば、これは当然であり、彼は生涯にわたって報われるはずなのだが、ある日、不意にまったく理由なくあらゆる苦難にあうという物語になっている。そこに箴言的世界観への痛烈な批判がこめられ、そこから神義論が展開されていく。
 その構成は確かに一種の劇詩で、ヨブ記の冒頭は、後にゲーテがこれからヒントを得たファウストの序幕と同様に、天上における神とサタン(悪魔)との次のような問答にはじまる。
 ヤハウェはサタンにいった、「お前はどこから来たのか」。サタンはヤハウェに答えていった、「地を行きめぐり、あちこち歩いてきました」。ヤハウェはサタンにいった、「お前は私のしもベヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
 サタンはヤハウェに答えていった、「ヨブがいたずらに(ヒンナーム=求めることなくして)神を恐れましょうか。あなたは彼とその家とすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設け(て保護せ)られたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向って、あなたを呪うでしょう」
 この奇妙な問答には興味深い点が三つある。一つは――これはファウストのメフィストフェレスでも同じだが――サタン(悪魔)が神と対立せず、神のもとに来て、ヨブを告発しているということである。
 旧約、とくにその古い資料におけるサタンは決して「神と悪魔の対立」というかたちにならず、サタンは神のかたわらにあって人の罪を告発するものになっている。とするとまさに「正義の味方」なのだが、ではなぜそれが「悪」なのか。それは、告発は正義を□にしながらその動機が憎悪であり、憎悪を悪の根源とみるからである。
 この伝統は聖書に一貫しており、後代になると一見善悪二元論のようにみえるが――またそう誤解する人も多いが――、善悪の対立はむしろ宗教心理学的で、善き衝動と悪しき衝動の対立と見ている。
 聖書は決して正義対悪といった単純な見方をせず、この世の中に「正義の味方」と「諸悪の根源」があるといったような短絡的発想もしていない。また人間を「善人」「悪人」というかたちに分け、二種類の人間がいるとも考えていない。
 これはエゼキエルの例でも説明したが、人間とは憎悪が動機で正義を口にしたり行なったりする者ともみている。いわば「悪しき衝動」に基づく「義による告発」である。イザヤも「人間の正義は汚れた下着」という有名な言葉を口にしている。ヨブ記に描かれているサタンはまさにそのような存在である。 
 

ヨブ記は箴言思想を批判する
山本七平ライブラリー『常識の研究』p145~147
 サタンの言葉を聞いたヤハウェは、ためしにヨブをサタンの手にわたす。そのためヨブの上に理由なき災害がふりかかり、彼はすべての財産を失い、子供はみな不慮の死をとげる。だがヨブは神を呪わず、次のようにいった。
私は裸で母の胎を出た。
また裸でかしこへ帰ろう。
ヤハウェが与え、ヤハウェが取ったのだ。
ヤハウェの御名はほむべきかな。
 そこでサタンはヨブを病気にし全身を悪質の腫物で悩ます。これを見かねて妻が、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」というが、ヨブは「……われわれは神から幸いを受けるのだから災いをもうけるべきではないか」という。そこへ三人の友が慰めに来る。ここまでが序幕である。
 この主題はサタンの「人が求めることなくして神を恐れましょうか」という告発にあるであろう。いわば人にとって神とは何らかの御利益を得る手段で、「応報」すなわち「報われること」の方が絶対で、神はその手段であるから、ヨブはあのような生活をしているのだ。それは、人間への告発であると同時に、神の絶対性への挑戦である。神もヨブもこの挑戦に答えたわけである。
 そこへ三人の友人が慰めに来る。しかしこの友人の言葉は慰めにならない。というのは彼らは蔵言の思想を代表しており、その主張は要約すると次のようになってしまうからである。
 すなわち「神は全能であり、義であるから、理由なく人を審きかつ苦しめることはない。人間の苦悩はその人に原因がある。簡単にいえば、人は罪を犯す、それゆえ苦しまねばならない。したがって人が苦しむのは罪を犯すためである」――いわば応報の神学である。これからみれば、ヨブには隠した罪があったから、今日このような状態になったことになってしまう。
 だがヨブはこれに承服できない。まことに「正義は必ず勝つ」とか「正しい者は報われる」といった発想は、逆転すると恐ろしい。いわばヨブが「報われないのは、正しくない証拠」になってくる。そこで三人は、その隠している不義を告白して、罪を認めよ、そうすれば救われるであろうと、次のようにヨブをせめる。
いつまでお前は、そのようなことをいうのか。
お前の口の言葉は荒い風ではないか。
神は公義を曲げられるであろうか。
全能者は正義は曲げられるであろうか。
お前の子たちが彼に罪をおかしたので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
お前がもし神に求め、全能者に祈るならば、
お前がもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずお前のために立って、
お前の正しいすみかを栄えさせられる。
 いっさいを失った重病のヨブにこのようなことをいうのはまことに教条主義的だが、今でも重病人を「信心がたりないからだ」と責める新興宗教もあるから、洋の東西を問わず、応報思想は必ずこのかたちをとる。
 もちろんこの場合、日本人なら「前世の因果」とか「親の因果が子に報いた」とか「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃(よおう)あり」などという、自己の責任以外にその原因を転嫁して心理的に解決する方法があるであろうが、前にものべたように、その発想がほとんどない旧約聖書には、逃げ道がない。そしてヘブル思想はつねに、この逃げ場のない極限状態を徹底的につめていく。したがってヨブと三人の友の間には、延々たる議論がくりかえされていく。 

理解しにくい「被造物感覚」
山本七平ライブラリー『常識の研究』p147~149
 いっさいの論争に失望したヨブは、前述のように神に論争をいどむ。いわば「神が正しいのか、自分が正しいのか、決着をつけよう」というわけである。おもしろいのはこの考え方で、神を信ずるとは神に論争をいどむことなのである。これはヨブだけでなく、サムエルにもその記述があり、この考え方はわれわれのいう「信心」とはまったく別であろう。
 神は大嵐のなかから大声でヨブに答える。この答がわれわれには実に奇妙に聞える。それは一言でいえば「お前は被造物ではないか」ということである。創造者は被造物の上に絶対意志をもっている。これも旧約の根本的な思想、前に記した創世記の第一、二章に出てくる考え方であり、またイザヤはこれを陶器師と陶器の関係にたとえている。
 陶器は陶器師に抗議できない。ヨブはそれをはその無知を責める。ヨブはそれを自己の罪とい。それを自覚しないのがヨブの罪であり、神し、ここに神との和解が成り立つのである。
 「被造物感」という言葉があるが、これはわれわれには感得しにくい「感」であろう。しかし、このような神の「絶対性」は、御利益・応報のかたちで神を取引の対象とする「相対性」を排除する。いわば絶対なのは神であって応報ではなく、神は応報の保証人でもない。
 このヨブ記の思想はカルヴァンの予定説を思わせるが、そう考えると、この「ヨブ個人と神との対決」もまた、現代社会の一つの基礎となっているであろう。

 ヨブ記、蔵言、伝道の書の三つの書を知恵文学と総称するが、知恵文学にはこの二つの発想がある。一方で、現世で義は絶対に確立しなければならないという発想があると同時に、もう一方では、歴史的未来において義が確立するのを期待しようではないかという考え方もある。
 これらの考え方からは、当然、二つの秩序という意識が出てくる。現実の秩序とあるべき秩序の二つであり、これは現実の資本主義的秩序と、あるべき社会主義的秩序といったかたちにもなる。こういう考え方はすでに、エジプト時代からあった。古代エジプトでは、マート(社会主義)という言葉で表わされる神聖の秩序が、世俗の秩序に対置されていた。
 その場合、現実の世俗の秩序を否定し、それに対立するものとして神聖の秩序を絶対化する傾向があった。エジプトばかりではなく、多くの民族がそうであった。
 しかし、イスラエルの特徴は、世俗の秩序を否定しきらないことにある。これもまた、神が与えた秩序として受け入れて、単純に悪として退けてしまわない。これはマルクスの資本主義に対する態度と似ているであろう。
 現実に、神が与えたものとして世俗の秩序があり、一方に絶対的な神聖の秩序がある。この二つを結ぶのが知恵であるというのが、知恵文学の基本思想であろう。人間の知恵はなんのためにあるか。二つの秩序を結びつけ、世俗の秩序を神聖の秩序に近づけていくためにある、というのであろう。そして、歴史的未来のどこかで、世俗の秩序を神聖の秩序に完全に一致させることができるという期待から、終末論が出てくる。
 また「知恵」は擬人化される。まず、自らの中にあって自らと対立するものとして人格化され、さらにその人格化されたものが、何によってもたらされたのか、という発想になる。そこで知恵は神から来て、神は知恵そのもので、同時に人格化された知恵が神のかたわらにあるという考え方になる。
 新約のヨハネによる福音書の冒頭、有名な「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なりき」は、日本で普通受けとられている通俗的解釈と違って、この言葉とは知恵のギリシア語化であり、この考え方が、一四三ページ以下に引用した「蔵言」と「ベン・シラの知恵」の言葉と同じ考え方に基づいていることは明らかであろう。
 ヨハネによる福音書の著者は、イエスを、神のかたわらにある擬人化された知恵がそのまま人となったもの、すなわち「言葉は肉体となり、私たちのうちに宿った」(受 肉)としているのである。
 このように知恵文学は、新約の「イエス・キリスト」という概念の一つを構成する重要な基本となっている。 
 


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