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山本七平語録

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歴史人物

        
論題 引用文 コメント

近代の創造――渋沢栄一の思想と行動
 『近代の創造』山本七平(はじめに)
 『近代の創造―渋沢栄一の思想と行動』、この表題をみて、「近代は明治に創造されたわけではあるまい。それは徳川時代にすでにはじまっている」、という人もいるであろう。確かにその通りだが、しかし、徳川時代がそのまま明治に延長されたわけではない、といって徳川時代と明治時代が断絶しているわけでもない。では一体、日本の近代化という問題はどう理解したらよいのであろうか。源了圓氏の次の言葉は、この問題の把握の貴重な示唆となるであろう。
 「私は日本の近代を理解するさいに、徳川時代と明治時代とを統合的に把握することがたいせつであると考えている。一般には、二つの時代の非連続の関係だけが注目され、明治の初めに西欧の思想や文化、制度が受容されることによって日本の近代が始まったと考えられているが、徳川時代に蓄積され準備された潜在的近代性がなかったならば、明治以後の急速な近代化は不可能であったろう。われわれは、二つの時代の非連続性に対してだけでなく、その間の連続性にも注目し、両者の間の連続・非連続の関係を統合的に把握する必要がある」(『山片幡桃・海保青陵』中央公論社版の序章より)
   日本における近代の創造は、徳川時代と明治時代の連続・非連続を統合的に把握してはじめて理解できる――では、どのような方法を用いればその「統合的把握」が可能なのであろうか。さまざまな方法が考えられるが、私はここで、前記の「連続・非連続」を一身に具現していると思われる一人物を選び、その人の思想と行動を通して把握しようと試みた。そしてその人が渋沢栄一である。
 従って本書は渋沢栄一伝ではなく、徳川時代と明治時代との非連続が最も明確に出ている期間、文久三年(一八六三年)から明治六年(一八七三年)までの十一年間に限定し、必要に応じてその前後を記載したにすぎない。これを渋沢栄一の生涯でいえば、高崎城乗っとりという無謀なクーデターの計画から第一国立銀行総監役(実質的な頭取)に就任するまでの期間である。
 高崎城を乗っとってから横浜に斬り込んで異人を一掃しようとする狂信的な尊皇攘夷主義者と、わが国最初の近代的な銀行の創立者で初代頭取である合理主義者の彼が、果して連続するであろうか。常識的にいえば連続はすまい。だがこの間はわずか十一年である。 一人間が、わずか十一年前の自己と非連続でありうるであろうか。常識的にいって、これもまたあり得ない。彼はこの間を連続的に生きている。そしてその一面を見ていくと、彼は、生涯、、幕末人として連続的に生きているとも見えるが、他の一面を見ると、実にさばさばと惜しげもなく過去を捨て去っているようにも見える。
 この幕末人が連続して生きているように見える面は、源了圓氏のいわれる「徳川時代に準備された潜在的近代性」の明治への延長であるが、その同じ彼が、明治政府の改正掛長として旧来の制度を次から次へと廃止し改正していったという点では、非連続である。また一見無謀な高崎城乗っとり計画も、その『決起趣意書』を読めば、徳川幕藩体制の否定であることがわかる。
 彼は幕末にすでにこの古き体制への訣別を表明しており、この面では決して徳川時代に連続せず、はっきりと非連続である。だが、この非連続は決して西欧の思想や文化の影響ではなかった。幕藩体制の否定もまた浅見綱斎らによって徳川時代にはじまっており、この否定を継承したという点から見ると、これもまた一面では連続である。
 この複雑な連続と非連続の中で、さまざまな模索や挫折をくりかえしつつ、新しい時代が創出されていく。もちろんそれは栄一が一人で創出したわけではない。ただ第一章で引用した露伴の言葉のように、彼が「時代の要求するところのものを自己の要求とし、時代の作為せんとする事を自己の作為とし」て行動したこと、ここに「幕末から維新へ、近代日本の創立へ」の過程が、彼を通して見えてくる理由がある。本書をそのような視点で読んでいただければ幸いである。
 現在の日本も変革に直面している。それはもちろん、明治のような大きな変革ではないであろうし、変革の内実も同じではあるまい。だが、明治という一大変革期を乗り越えて大きな成果をもたらした先人の生き方は、われわれにもよき指針となるであろう。
 渋沢栄一と比べて面白いのは福沢諭吉である。福沢は豊前中津奥平藩の下級士族の家に五人目の子として生まれた。父は漢学者で、子供たちは「誠意誠心屋漏に愧ず」の厳格な漢学教育を受けた。だが、封建の門閥制度のため力を発揮できず、諭吉は父の無念を思い「門閥制度は親の敵」といった。
 本を読み始めたのは十四か十五だが、すぐに「左伝通読十一遍」というほどになった。母は慈悲心が強く、乞食が来ると土間の草の上に諭吉を座らせてシラミ取りをさせた。一方諭吉は、占いやまじないなどには一切不信仰で、十五六の時、「お稲荷樣を使う」という女の御幣を取りあげて弱らせたりした。
 この辺りの合理的精神は渋沢栄一と似ている。両者とも幼いころより儒教的薫陶を受けて育ったが、渋沢は豪商の謹厳実直・質素倹約の生活の中でそれを学び、福沢は士族の門閥への不平から、威張ることを嫌い「喜怒色を顕さない」「独立自尊」の生き方を身につけた。
 21歳(満19)で長崎に遊学してオランダ語を習い、22歳で大阪に行き緒方洪庵の塾に入り蘭学を学んだ。一度帰郷後再び緒方塾に戻り塾長を務めた。生活態度は、酒を好んだが清浄潔白でいわゆる「朱に染まる」ことはなかった。塾では自由奔放、寝食を忘れて学習に取り組んだ。学習内容は物理書や医書の翻訳が中心。
 安政6年冬、幕府はアメリカに軍艦咸臨丸を送ることになり、福沢も乗船でき「身分制度」のないアメリカ文明に触れることができた。帰国後幕府に雇われ外交文書の翻訳を務めた。王政維新に際しては、幕府の門閥圧政・鎖国主義を嫌い、また勤王家の攘夷論を嫌った。かつ青雲の志もなく維新前後は一人別物になっていたという。
 そんな中、江戸に義塾を立ち上げ「奸賊の間に偏せず党せず」で時局に対処した。新政府からの誘いも攘夷政府と思い希望を持たなかったが、意外と文明開化となり喜んだ。慶応4年慶應義塾と改名、日本でただ一つ洋学(数理)と独立自尊を学ぶ私立学校となった。
 
明治時代を現出した幕末人、尾高藍香と渋沢栄一
 『近代の創造』山本七平(p13~16)
 「明治時代」――この不思議な時代は、人類史が大きく転換した時代であることを、いずれは全世界が認めるであろう。後世の歴史家は人類史を「明治以前・明治以後」と分けるかも知れぬ。現代はまだそのような視点はないが、それでも、明治のもつ画期的重要性はしだいに世界的に認められつつある。特に、これに関心を示すのは第三世界の知日家乃至は歴史家だが、彼らの視点は完全な「知的関心」というよりもむしろ、「なぜ日本が急速な近代化・欧米化に成功したか、その成功のノウ・ハウは何か、それを知って自分たちの近代化に役立て得ないか」という点にある。
 だがこの種の質問を受けるとわれわれは常に戸惑わざるを得ない。というのは何によって「明治時代」という一時代を現出し得たかとなると、その理由がわれわれ自らに明確にわかっていないからである。このことは外国人の鋭い、突っ込んだ質問を受けると否応なく感ぜざるを得ない。というのは「明治維新は市民革命としては不完全であった」などという解答は、解答になっていないからである。
 まず第一に、明治を現出したのは「幕末人」であって明治人ではない。幕末人に西欧的な「市民」などという意識があるはずはない。さらに当時の「人生五十年」という基準からすれば、明治の指導者はみな、人生半ばを過ぎてから出現した。福沢諭吉の言葉を借りれば「一身にして二生を生きた」ような形である。だが人間の考え方、生き方、価値観、常識等々は、大体、二十五歳ぐらいまでに形成されているはずである。
 たとえその人の一生が、「一身にして二生を生きた」ような一生であったとはいえ、それはあくまでも「一生を生きた」のであって、その一生の根底には、生涯を貫いている「何か」があったはずである。その「何か」が維新を招来し、明治時代を形成したのだから、これから探ろうと思うのは、その「何か」である。そしてその「何か」を知ることができれば、日本の近代化は何を基礎としているかがわかるであろう。
 そこで、二、三の人を主人公にしてこの「何か」を探ってみたいと思うが、この点でどうしても見逃すことのできないのが、渋沢栄一、尾高藍香およびその周辺の人、さらにこの人々の人格形成に大きな影響を与えた人びとである。言うまでもなく栄一は、第一国立銀行の創設者、生涯に五百の会社を設立したといわれる人、一方藍香は有名な富岡製糸所の建設者で経営者、そしてこの事業を軌道に乗せ、日本の「絹」が国際商品になる道を拓いた人である。
 よく「フジヤマ、ゲイシャ」と言われ、これが長い間、日本への外国人のイメージのように言われるが、われわれのように戦前にも生き、ある点では「一身にして二生を生きた」経験をもつものにとっては、外国の日本へのイメージはむしろ「絹」であったことを今も覚えている。「外貨手取率百パーセント」といわれる絹は、日本が近代化のために必要な外貨を稼ぐ最も貴重な「柱」であり、日本の「象徴」でもあった。・・・
 いわば「絹」は当時、世界を征覇した日本の代表的輸出商品であり、「日本の貧弱な農家の屋根裏には、すばらしい”牧場”が隠されている」といわれたものである。この基礎を築き日本の絹を世界で最も優秀な国際商品にしたのが藍香、また年一回しかとれなかった繭を、「秋繭」として、二回とれるようにしたのも藍香であった。
 では尾高藍香とはどのような人であったのか、また彼の義弟で従弟、そして少年時代から強くその薫陶を受けた渋沢栄一とはどのような人であったか。・・・これらの人を通して、幕末から明治への移行、さらに急速な近代化がなぜ可能であったか、それが日本の伝統とどうかかわっているか・・・この点で渋沢栄一はまさに格好の対象である。
 ただ栄一に到っては、実に其時代に生まれ、其時代の風の中で育ち、其時代の水によって養われ、其時代の灝気とを摂取して、そして自己の軀幹を造り、自己の精神をおほし立て、時代の要求するところのものを自己の要求とし、時代の作為せんとする事を自己の作為とし、求むるとも求めらるゝとも無く自然に時代の息と希望とを自己の息と希望として、長い歳月を克く勤め克く労したのである。
 
 この「一身にして二世を経るがごとし」という言葉は、福沢諭吉の『文明論之概略緒言』にあるものだが、この福沢諭吉と尾高藍香及び渋沢栄一の「明治維新」という時代への対処の仕方は相当に違っている。確かに、両者とも幼いころより儒教教育を受け、それが「一身」の指針となった点は同じだが、それを身につけるに到った家庭環境、経済社会環境はまるで違う。
 藍香・栄一は、百姓から藍玉の栽培・販売で財をなした豪農の家に生まれ、「勤勉実直・質素倹約」の商人道徳を学ぶ中で、封建制度に疑問を持ち、郡県制に転換すべきと考えるようになった。一方、福沢諭吉は、豊前中津藩の儒学者で下級武士の家に生まれた。封建の門閥制度を憤り「儒教を親の敵」とする一方、「喜怒色を顕さず」の儒教倫理を貫いた。
 両者の幕末の攘夷論に対する対応もまるで違った。藍香や栄一は、世間の攘夷の動きに刺激され、1863年高崎城を襲撃して武器を奪い横浜外人居留地を焼き払い幕府を倒す計画を立てたが、藍香の弟長七郎に説得され断念した。一方、諭吉は、尊皇攘夷運動には冷淡で、長崎や大阪で学んだ蘭学を生かし1860年には日米修好通商条約批准のためアメリカに行く咸臨丸に乗り込み、1862年には幕府随員としてヨーロッパ6カ国歴訪の旅に同行した。
 その後、大政奉還まで両者は似たような道を歩いた。栄一は、従兄の喜作と共に幸運にも一橋慶喜の用人平岡円四郎に拾われ慶喜の家臣となり、栄一は1867年にはパリ万国博覧会に同行した。諭吉は1863年ヨーロッパ6カ国歴訪から帰国した5月下関砲撃事件、7月薩英戦争が起こり、幕府の外交文書の翻訳にあたった。
 1967年の王政復古後、諭吉は新政府から出仕を求められたが辞退、以後も官職には就かなかった。一方、栄一は、徳川慶喜の旧恩に報いるため一時静岡に止まり、1869年政府の招請に応じ新政府の経済財政制度改革にあたり1873年以降実業界に転じた。福沢は「一身にして二世」、栄一は「一身にして四世」を生きたように見える。
一農民の藍香や栄一になぜ「国の制度を変えるべき」という発想が生まれたか
 『近代の創造』山本七平(p17~24)
 文久三年(一八六三年)藍香は武装蜂起を計画した。之については後述するが、その『趣意書』の中で彼は次のように言っている。
 「公平の制度を立て、公明の政治を布きて、民と共に此国を守らむには、郡県の国体ならざるべからず。彼の官を代(よよ)にし、禄を世にし、所謂る門閥なるもの而已(のみ)を尊むで、人の才と徳とを問はず。国家の枢軸たる大官にして、治国の要を知ざる者あり。牧民の責ある地方吏にして、民家の痛苦を問ざる者あり。所謂る鎗(やり)奉行は鎗術を知らず。勘定奉行は算盤を知らず。旗奉行、旗の揮り方に暗ければ、町奉行、また市政の方針を弁へず。
 如是(かか)る情態(さま)にて此の天下を料理し国威を維持せむと欲するは、かの木に縁(より)て魚を索(もと)むると一般にして猶ほ轅(ながえ)を北にして越に行んとするがごとき而已(のみ)。恕(か)くの如きは抑も何故ぞ。予輩を以て之を見れば、日く、封建の弊なり。世官の害なり。故に今日の病は、其の根本の制度に在て存するなり。決して彼の大老〈井伊〉を斬り、老中〈安藤〉を傷けたるが如きを以て、之を改正釐革(りんかく)するを得べからず。
 然れば、此の封建の弊を破りて、郡県の制を建て海内一家。家即ち国、国即ち家にして後、始て能く攘夷成るべく、鎖国亦た行れむ。縦し開国は機運にして、終に彼等と和親の運びに到らむも国にして富み、兵にして強からん乎、吾又だ彼を恐れずして、対等の交友たるを得べきなり。否らずんば、城下の盟のみ。狗彘(こうてい)の奴隷のみ。何の和親か有らむ。交友か有らむ。故に日く、我に富強の実を挙げしめて、彼と和好の親を結ばしめむも、亦唯だ封建を廃し、郡県を復して、大小の官吏等、其器に応じ、其才に対して其職を授けむに在る而已(のみ)」
 藍香は、一言で言えば現在の埼玉県の田舎の農民である。一体なぜ一農民にこんな発想ができたのか。この『趣意書』を注意深く読まれた方は、そこに「天皇」という言葉が出て来ないのに気づかれたであろう。藍香の視点はあくまでも「制度」にあり、その主張は現代的に言いなおせば、(一)制度を変える。(二)その変え方は、封建制を排して郡県制にすることである。(三)役職の任命は、すべて能力順位・能力主義によって行う。(四)そして一国民が統一された国民国家にしなければならぬ。(五)制度を変えることを考えず徒らに閣老を暗殺したり負傷させたりしても無意味である。(六)制度を変えて富国強兵成ってはじめて外国と対等の交渉ができる、であろう。
 「制度を変えることが先決」そんな発想がなぜ、一農民の頭の中で生じたのであろうか。

 一方、渋沢栄一は、藍香が前記の『趣意書』を記す七、八年前、十七歳の時に体験した、故郷の血洗島の領主より言いつけられた御用金にまつわる、次のような話を『雨家譚』に記している。

 「この用金を自分の村方へ千両であったか千五百両であったか、言い付けられて、宗助は千両を引受け、自分の家でも五百両引受けなければならぬ訳であった。その時、父は自身で代官所へ行くことが差支えるから、自分が父の名代となって、近村で用金を言い付けられた連中二人と、自分と、都合三人連立て岡部の陣屋へ出頭した。その時の代官は若森とかいう人であった。
 その人に面会して、父の名代として御用伺いの為に罷り出たといった処が、同行の二人は何れも一家の当主であるから、御用金を承知いたしましたといって、調達を引受けた。然るに自分は、只御用の趣を聞いて来いと父から云い付けられたまでだから、御用金の高は畏りましたが、一応父に申聞けて、更に御受に罷り出ますといった。
 スルトこの代官中々如才ない人で、そのうえ人を軽蔑する様な風の人だから、嘲弄半分に、貴様は幾歳になるか、ヘイ私は十七歳で御坐ります、十七にもなって居るなら、モウ女郎でも買うであろう、シテ見れば、三百両や五百両は何でもないこと、殊に御用を達せば、追々身柄も好くなり、世間に対して名目にもなることだ、父に申聞けるなどと、ソンナわからぬことはない、その方の身代で五百両位はなんでもない筈だ、一旦帰って又来るという様な、緩慢な事は承知せぬ、万一、父が不承知だというなら、何とでもこちらから分疏をするから、直に承知したという挨拶をしろ、と切迫に強いられた。
 なれども、自分は、父から只御用を伺って来いと申付けられた折りだから、甚だ恐入る義であるが、今ここで直に御請をすることは出来ませぬ、委細承って帰った上、その趣を父に申聞けて、御請を致すということならば、更に出て申上げましょう、
 イヤそんな訳の分らぬことはない、貴様は詰らぬ男だ、とヒドク代官に、叱られたり嘲弄されたりしたけれども、自分は是非ともそう願いますといって、岡部の陣屋を出たが、帰って来る途中で、篤と考えて見ると、その時に始めて幕府の政事が善くないという感じが起りました。
 何故かというに、人はその財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、又人の世に交際する上には、智愚賢不肖に因りて、尊卑の差別も生ずべき筈である。故に賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せらるるのは必然のことで、苟(いやしく)も稍々(しょうしょう)智能を有する限りは、誰れにも会得出来る極めて賭易(みやす)い道理である。
 然るに今岡部の領主は、当然の年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とか名を附けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返す様に、命示するという道理は、抑も何処から生じたものであろうか、察するに彼の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ。
 かような人物が人を軽蔑するというのは、一体すべて官を世々するという、徳川政治から左様なったので、最早弊政の極度に陥ったのである、と思ったに付いて、深く考えて見ると、自分もこの先今日のように百姓をして居ると、彼等のような、謂わば先ず虫螻蛄(むしけら)同様の、智恵分別もないものに軽蔑せられねばならぬ、さてさて残念千万なことである。これは何でも百姓は罷めたい、余りといえば馬鹿々々敷イ話しだ、ということが心に浮んだのは、即ちこの代官所から帰りがけに、自問自答した話で、今でも能く覚えて居ります。
 去りながら夫れは只心にその兆しを発した丈けの事で、家に帰って、御代官が我儀をいって叱りましたから、かようかように申しました、と父に話すと、父のいわれるは、それが即ち泣く児と地頭で仕方がないから、受けて来るが宜しいとのことだから、翌日、金を持っていった様に覚えて居るが、夫れから後は、事に触れ物に応じて、益々その念慮が胸中に幡(わだか)まって来ました」
 
 『十八史略』を愛読した栄一は、もちろん秦の始皇帝が郡県制を採用したことは知っていたし、律令制が、たとえ形だけであっても、郡県制であることも知っていた。また封建制が能力主義と相容れないことは、中国でもしばしば論じられていた。
 だが歴史のある時期に、「封建制と郡県制のいずれがよいか」となると、これは簡単に結論が出ない問題である。宋以降の中国も韓国も封建制でなく郡県制である。そして韓国の学者の中には、韓国に封建制がなかったことが近代化に於いて日本に後れをとった理由だとする人もいる。
 いわば中央から派遣された任期の短い地方官、相避制によって出身地に派遣されない彼らは、地方の実情は把握できず、さらにその目は常に中央を向いているので、地方に根を下ろして殖産興業を図ろうとする者などなかったし、制度的にそれは不可能だった。そのうえ一種の徴税請負制なのでなるべく搾取して私財を蓄え、せいぜい賄賂をとり、一日も早く中央に返り咲こうとするだけであった。それが近代化の波に乗りそこねた原因だとする。
 中世の郡県制におけるこの欠陥は、『貞観政要』にも間接的に出てくる。一方、幕藩体制の下では、地方の外様の大諸侯には、中央の政界で活躍する余地は全く与えられていなかった。彼らはその土地に根を下ろし、経済的には自立して行かねばならなかった。この藩の独立採用算制がどのような結果になったか。
 「・・・幕府と比較すれば、諸藩の方が固定した観念に束縛されなかったといえる。一八世紀後期以降、一種の重商主義といえる殖産政策にふみきったのは、窮状に直面した諸藩のなかでも、経済的・政治的に自立性の高い、いわゆる雄藩であった。これらの諸藩は、経済活動において商業を抑圧しようとする政策の愚をさとり、商人と提携して、自ら独占的な商業を営み、ときには藩内の自由売買を禁止して、自ら特産物の『専売』を実施した。 専売制としては土佐藩の紙・漆・茶・樟脳、仙台・加賀藩の塩、長州藩の蝋などが著名であるが、とくに薩摩藩は顕著な事例であろう。」(J・ヒルシュマイヤー/由井常彦著『日本の経営発展』)
 だが大体において、一万石や二万石の藩で、しかも領地が飛び地になっている場合は、一経済単位とはなり得なかったらしい。そして数からいえば三万石以下の小藩が圧倒的に多く、これらに″島津藩”を期待することはもちろん無理であった。だが彼らとて藩内の商工業を抑圧するような発想はなく、その殖産興業に無関心でもなかったであろう。というのは栄一を憤慨させた御用金五百両だが、これの上納を命じうるのも彼らが藍をつくり養蚕をやっているからで、粟・稗でははじめから問題にならない。
 だが一万石そこそこでは自ら殖産興業政策を実施して農民に感謝されるという状態にはなり得ず、民の自発的殖産興業に寄生する寄生領主になり下がってしまう。そうなれば彼らが”総会屋”のように、排除されて然るべき存在と見られても致し方はなかったであろう。そこへ封建制を否定する考え方が入って来れば、「封建を廃して郡県を」という発想が出て来て不思議ではない。(p75~78)
なぜ武士と農民が「逆転」したか
 『近代の創造』山本七平(p29~34)
 「幕府は前述の如く重農主義であって表面に尊重を鼓吹し、百姓を撫育すべきことを奨励したが、事実上は農民を租税搾取の機械視していた。家康は農民は一年間の食料を残しておき、残余を凡て租税として徴収する政策を採っていたが、これは家康の子孫のみならず、大小名の踏襲した農民政策であった。
 政治家は常に農民の衣食住に干渉し、その生活の向上を妨げた。煙草をのむこと、魚を買うこと、酒を作ることを禁じる法令も出た。また雑穀を食し米食をしないようにと定めたこともある。百姓に対し乗物を禁止し、佩刀を許さず、庄屋を除いては衣類は布木綿のみなるべきことを規定していた。
 農民は穀物の生産者であるが、それは租税として多く徴発されてしまうから余剰生産物が残らなかった。従って子が生まれても堕胎するものが多かった。更に他地方に移住することも禁止された(佐野学『日本経済史概論』、同『日本社会史序論』)、遂に本多利明が『西域物語』に『胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』と述べ、家康の談話として『難儀にならぬほどにして気ままにさせぬが百姓共への慈悲なり』(『徳川実記』)が伝えられるに至った。
 ここにおいて荻生徂徠をして『今日の農民は古の奴婢である』といわしめ、更に『総て百姓の奢盛成より、農業を厭い、商人と成こと近来盛にて、田舎殊の外衰徴す』(『政談』)と述べるに至った。国民の大多数を占めていた農民は此の如く窮乏のどん底にあえぐ被搾取階級、被圧制階級であった・・・」

 以上がだいたい”定説”であったため、われわれの頭の中にも、この”定説化した農民像”が常識のようにこびりついている。だが以上の叙述のどこを探しても尾高藍香も渋沢栄一も見当らないのである。この記述によれば徴発によって「余剰生産物が残らない」、窮乏のどん底にあえぐ「被搾取階級」であるはずの彼らが、百両や二百両はたいした負担とは考えていない。
 また「佩刀は許さず」であったはずだが藍香も栄一も剣客であり、特に藍香の弟の長七郎は、「関八州並ぶものなき」剣客であった。また藍香は旅学者菊池菊城から学んでいるが、これは後述する渋沢宗助に招聘されて来たわけで、いわば「学者ひとり」を丸がかえにする資力と見識をもっている農民がいたわけである。もし前記の引用が正しいなら、一体なぜ、これらが可能だったのか。実はこの謎もすでに藍香が解いているのだが、それは後述するとして、栄一を憤慨させた安部摂津守の代官なるものに目を向けてみよう。
 安部摂津守は「小大名」と記されているが、石高は明らかでない。彼の所領は武州と参州にあったらしいが、武州の方は五千二百石にすぎず、いわゆる前記の『雨夜譚』の割当てからみると参州の方はもっと小さかったらしい。記録にはその後多少の加増があったらしいが、いずれにせよ「城持ち大名」でなく、岡部村の陣屋に住む小領主であった。地方へ行くとしばしばこの「陣屋」なるものが、実質的には豪農の家より貧弱であったという事実を目にする。
 全人口の八四パーセントの農民の純収入の半分を収奪して、わずか七パーセントの武士で分配していたのが事実なら、その生活は少々貧しすぎる。御用金とはていのよい「たかり」だが、御役目とはいえこれを命ずることは代官にとっては卑屈にならざるを得ない、いやな仕事であっただろう。栄一への居丈高な態度はおそらくこの卑屈さの裏返しであり、栄一は敏感にその「卑」を感じて軽蔑している。
 藍香にしろ栄一にしろ「こんな連中より、剣に於ても、学問においても、富においても自分たちの方が上だ」という意識は当然にあったであろう。では一体なぜこのような「逆転」が生じたのであろうか。ここに前記の、解くべき問題の鍵があった。
では一体、なぜ(農村ブルジョアジーを)創り出す結果になったのか。家康以来の政策が「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」「難儀にならぬほどにして気ままにさせぬが百姓共への慈悲なり」ならば、「農村ブルジョアから成る一階級」など出現するはずはない。では、出現するはずがないものが、なぜ出て来たのか。
実はこの疑問を藍香はすでに解いていた。そしてこれを読むと、その卓見に驚くとともに、一つの政策が社会の相互連関によって不思議に作用していくものだと思わざるを得ない。
 (ここで)藍香が目をつけたのが徳川時代の「忍び寄るインフレ」であったことは注目に値する。確かにインフレを抑えようとしたが成功しなかった。そしてインフレは「インフレ利得者」と「インフレ被害者」を生み出す。もっともこの「インフレ利得者」は必ずしも「インフレ便乗利得者」ではないが、・・・一方、固定給のみの俸給生活者は被害を受ける。徳川時代の武士は原則として家康以来「ベースアップ」なるものがない。
 これが金銭の支給だったら到底持ちこたえず、彼らの崩壊はもっと早かったであろうが、「米」という「現物支給」であり、米もまたある程度値上がりするから何とか持ちこたえていた。だがそれによる自動的「ベース・アップ」は、到底、インフレ利得者の町人の収入増加には及ばない。それだけでなく実質的な減俸である殿様の「借地」(過信の俸禄を借り上げる)がある。徳川時代は士農工商と言われるが経済的に箱の序列が逆転していたことを、福沢諭吉も記している。(p34)
 
 「徳川幕府の貨幣制度について、翁(藍香)の見識の卓越していたことは、最もお話する価値があると信んじている。慶長年間(一五九六-一六一五年)に金貨制度を立て、次いで金、銀、銅の貨幣を以て流通の手段にした有様は、西洋の経済学者、政治家の貨幣制度と殆どその軌道が同一である。
 わが国でも三百年の昔、徳川が、織田、豊臣の後を継いで、金銀銅の貨幣を造ってこれを流通させたのは、余ほどの進歩を示したもので、その以前足利時代は、判金の代りに、砂金や切金、竿金などを用いていた様である。これを判金に改めた、織田、豊臣、徳川の経済界に於ける功績は大きいと思う。其の後徳川の貨幣は、慶長から元禄、享保、元文、文政と五回その制度を変えている。・・・文政以後においても、貨幣改鋳が二度ばかりあったのである。」(その間貨幣改鋳によって貨幣価値が下落し十分の一になった)(p40)
 「ところが村方では一面の田畑の税が永楽銭で定められて居ったから、畑一反について、永楽銭二百五十文・・・」(p46)(『新藍香翁』渋沢栄一より)
 (これは)所得税というよりむしろ固定資産税という感じである。「五公五民」は元来は所得税のはずであったが、幕府は、吉宗のときに、豊凶に関係なく一定の税を田畑に課す定免制に切りかえた。こうなると、その畑で粟や稗をつくろうと、付加価値の高い藍をつくろうと、税金は同じ二百五十文ということになる。
 では、(それが)渋沢家や尾高家が払っている税金が実際にはどれくらいの負担であったか計算してみよう。畑一反が永楽銭で二百五十文ということは、鐚銭になおせば一千文である。御伝馬がインフレを考慮して「ベース・アップ」を行い、実質賃金を慶長時代と同じにしようとすれば二百四十文になる。ということは畑一反の一年の税金が四人分の人足の日当ということになる。これくらい安い税金はないであろう。今では個人事業で利益が八千万円あれば国税だけで八十五パーセントとられる。これが自動的に十分の一、すなわち八・五パーセントになれば、中小企業者は大喜びであろう。
 徳川幕府は妙な”善政”を彼らに施していたわけで、ここにインフレ利得者としての彼らの姿が明確に見えてくる。「五公五民」を原性に正しい評価で彼らの所得に負荷していたら、彼らの経済力は存在し得なかったであろう。(p47)(つまり徳川時代には「所得税」という考えがなかったのである)
「農村ブルジョアジー」を支えた勤勉の哲学と質素倹約の思想
 『近代の創造』山本七平(p70~72)
 渋沢栄一の父市郎右衛門の兄の宗助徳厚は、「旅学者菊池菊城を呼んで彼の宅で学塾を開かせていた」り、また、「上野の寛永寺の仏庵(?)という書道の大家を自分の家に呼んで書道の勉強をした」という。それくらいの財力があった。このように、)学者も呼べば書道家も呼ぶ。だがそれはあくまでも「生活学の一教科」であり、学問や書道に夢中になって生活学を無視することは本末転倒で絶対に許されないことであり、これは宗助徳厚にとっても市郎右衛門にとっても同じことであった。
 だがそのことは、伝統的な文化や芸術に全く無関心だったということではない。そして少々驚くことは、京都から公卿を呼んで、蹴鞠を習っていることである。一農民のこの財力には少々驚かされるが、これらも、すべて「心ヲミガク磨草」だったわけであろう。彼自身は、公卿になる気も、公卿的生活をする気もなかったであろうから――。『雨夜譚』には次のように記されている。
 「・・・十四五の歳までは、読書・撃剣・習字等の稽古で日を送りましたが、前に申す通り父は家業に付いては甚だ厳重であったから、十四五歳にもなったら、農業商売に心を入れなければならぬ、何時までも子供の積りでは困るから、向後は幾分の時間を家業に充てて、従事するが宜い、勿論、書物を読んだといって、儒者になる所存でもあるまい、左すれば一通り文義の会得が出来さえすれば、それで宜い、尤もまだ十分に出来たでもあるまいが、追々に心を用いて油断さえなくば、始終学び得られぬということもない訳だから、モウ今までの様に昼夜読書三昧では困る、農業にも、商売にも、心を用いなければ、一家の益にはたたぬといわれました」。・・・
 さらに質素倹約について市郎右衛門は、梅岩が『倹約斉家論』で言っているのとほぼ同じことを言っており、そこで引用されている「紂王為象箸」(紂王象牙の箸をつくる)まで梅岩と同じである。もっともこれはこの通りに市郎右衛門が言ったのか、栄一が後に別に引用したのか明らかでないが、おそらく似たことを言われたのがこの引用になったのであろう。これらの点から見ると次の物語はまことに梅岩的で面白い。
 「又、父が極厳正な気質だという証拠は、自分が十五の歳に、同姓の保右衛門という叔父にあたる人と、共に江戸に出て(初めて江戸へ出たのは十四の年の三月と覚えて居るがその時には父に随行した)書籍箱と硯箱とを買って戻った。これはその頃家にある硯箱は、余り粗造の品だに依って、江戸へ出るを幸いに、一個新調しようということを父に請求したら、宜しい、買って来いと許可しられたから、江戸へ来て、小伝馬町の建具屋のある処で、桐の二つ続きの本箱と同じく桐の硯箱とを、双方で能くは記憶して居ないが代金一両二分ばかりで買取った。
 さて帰宅の後に、これこれの二品を買ったという話をして置いたが、その後、間もなく荷物が到着した。サア来て見ると、これまで使用して居だのは、杉の板で打チ付けたのが真黒になって、丁度今日、自分の宅の台所で用いて居る炭取の様な物だから、較べて見ると、苟も桐細工の新らしいのとは、大いに相違して華美にみえる。ソコデ父は大いに驚き、且つ立腹の様子で、こういう風では、ドウモその方は、この家を無事安穏に保ってゆくということは出来ない、乃公は不孝の子を持つたといって、歎息しられました。但し打ったり敲(たた)いたりする様な手荒いことはなかったが、三日も四日も、心の中で自分を見限ったという様な口気で教訓されたことを覚えて居ます」
 これが五百両の上納金を右から左へとすぐ出せる人の言葉である。この考え方はまさに石門心学そのままだが、こういう点では栄一は、いかに譴責されても、父の言葉を正しいとしている。また、政治に対する考え方、武家に対する態度なども、『雨夜譚』に出てくる市郎右衛門は、全く梅岩と同意見(社会の秩序を自然の秩序のように受け入れる考え方=筆者)と言わざるを得ない。
 だが、この点では、父子の意見は相一致することなく、栄一はついに家を出る結果になるのである。そうなったのは、栄一に、おそらく道二以来、関八州の町人や農民が当然としていたのとは別の思想が、別の方向から入って来たからである。だが宗助徳厚的な、また市郎右衛門的な伝統は常に彼の心の底辺にあり、これが、政治運動に熱中しているような時でも、時々、表に出てくるのである。
   
 徳川幕藩体制は百数十年間の戦乱の時代を経て文治体制へと移行したが、その安定は、士農工商という社会的身分の固定化と、今までにない一種の逼塞状態を平和の代償としてもたらした。こうした問題の処方箋として、「仏法すなわち世法なり」「働くことが仏教の修行である」という新しい考え方を示したのが鈴木正三である。
 「プロテスタンティズムと資本主義の精神」という言葉があるが、日本における資本主義の精神的源泉は、この鈴木正三の考え方に求めるべきである。
 正三は「士農工商」といった分業は「本覚真如の一仏、百億分身して、世界を利益したもう」ためであり、「各人は「前世の業因」でその位置に生まれてきた責任があるのだから、武士は秩序維持、農民は食料、職人は必要な品々の提供を、商人は流通をそれぞれ担当するのが宗教的職務になり、それに専念することが仏行になる」と考えた。
 その後、元禄時代を経て亨保時代(1716年~)となると、町人階級が一大勢力となり、貨幣経済は武士階級や農民の間にも徐々に浸透し、「貨幣の論理」にる武士階級の窮乏化と町人階級の富裕化による矛盾が拡大した。
 しかし、このころの町人たちは、経済的実力を持ちながら社会的には低く見られ、四民の最下位におかれていた。そのため、その示威的発散から、その消費は自制なき奢侈と消費を生み、それへの羨望と模倣は多くの欲求不満をも生み出した。しかしそれは意外なほど早く商家を破滅させた。
 そうしたことの反省から「消費の倫理」が求められるようになった。こうして、正三の「労働=仏行」という考え方をさらに発展させ、商人的合理性をもとに「倹約斉家論」を説き、それを天下国家=社会秩序の基礎であるとする石田梅岩の「心学」が生まれることになった。栄一の父市郎右衛門やその兄宗助徳厚の財力も、こうした規範意識によってもたらされたものである。(『勤勉の哲学』参照)
豪農を志士に変えたものは何か
 『近代の創造』山本七平(p73~99)
 これまで、二町歩たらずの小農民の渋沢家が何故に豪農になり得たか、どれくらいの経済力とそれかを記したが、しかし宗助徳厚にせよ市郎右衛門にせよ、当時の三都(京都・大阪・江戸)の三井、小野、住友、鴻池等の豪商と比較すればまことに微々たる存在であった。・・・それまでの彼(栄一)が知る企業は、社長自らが仕入れも販売も行い、時には車の運転もするといったような中小企業であった。(P73)
 従って外部から何らかの刺戟がなければ、「制度を変えねばならぬ」といった発想をすることもなく、父の後をそのまま継承して家業を行なっていても少しも不思議でない位置にいた。その彼に新しい思想を吹き込み、高崎城乗っとりという直接行動にまで至らせようとしたのは、言うまでもなく尾高藍香であった。ではなぜ藍香はそのような思想をもったのか。
 ここに前に提出した三つの問題の‐藍香はなぜ封建制を排して郡県制にすべきだと考えたのか、圖郡県制などという当時存在しない制度を何で学んだのか、がある。さらに彼らは、目なぜ制度は変えうる、変えねばならぬ、それも自分たちが決起して、自分たちで変えねばならぬと信じたのか、という問題がある。(P74)
 「封建下、郡県か」を論じたのは、もちろん『貞観政要』だけでなく、中国では古来、この問題は常に論じられていたといってよい。また『貞観政要』に記されている議論の大要は『資治通鑑』にもある。そして、少なくとも「学問をした」と称する人間は、この書を読んでいるのが当然とされた。・・・従って藍香がこれを読み、ここから「封建か郡県か」という問題意識をもったと推定することも不可能ではない。(P84)
 だが、幕府を倒す、封建制を廃止する、郡県制にして能力主義の体制を立てるということは、彼らにとって、決して徳川家を仇敵視するとか、薩長を絶対視するとかいうことではなかった。いわば、慶喜が幕藩制を廃止してくれるなら慶喜を押し立ててよかったし、もし幕府自らが封建制を廃止してくれるなら幕府を押し立ててもよかったのである。
 栄一は慶喜には大きな期待をもっていた。慶喜が大政奉還して自らの手で幕府なるものを廃止したとき彼はフラyスにいたわけだが、その期待はある程度満足させられたであろう。そしてこの自らの手で幕府を廃止した者を朝敵として討伐に来た薩長を彼らは信用しなかった。だがこの時点で、論理的に見るならば、信用しないのはむしろ当然である。そして安直な「対立二分法」や「薩長史観」はこのことをわかりにくくするので、藍香や栄一の考え方や行動がわからなくなるにすぎない。(P92)
 以上のことを念頭に置きつつ、藍香を決起へと駆り立てた「革命への衝動」が何かを探ってみよう。もちろんそれは西欧から来たものではなかった。

 吉岡重三氏の『新藍香翁』に次のように記されている。
「・・・対岸の火災と見ていた外国船来航問題は、文化四年(一八〇七)北海道に於けるロシヤ艦の騒動に次ぎ翌五年には長崎の英国兵の乱暴、更につづいて世人を驚かせたのは天保九年(一八三八)英艦モリソン号の事件であったが、これは風説に止まり帆影も見えず砲音も聞えずという結果になって幕府も諸藩も再び泰平の安眠を続けると言う状態であった。
 このような情勢の中で、独り水戸斉昭だけはこれより先北海の警報を聞いて身みずから北海道に渡り、その防備を充実させようと努め、また海防の必要性を唱えて領内で寺院の梵鐘を鋳て数十門新式砲を造らせたりした。今なお水戸公園内常磐神社の拝殿にある大臼砲『太極』も多分当時のものであろう。そのうえ水戸藩家臣た多を訓練して他日外国と対抗する日のために備える意図から、天保十二年(一八四一)に水戸千波ケ原で模擬戦的追鳥狩を挙行した。
 思うに徳川の政権が確立して以来、日本国中太平が三百年もつづき、弓は袋に太刀は鞘という時代に於て、砲火剣光の演出をしたのだから世人はおどろいた。したがってこの評判は関東八州にひろがり、この壮挙の見物に集ったのは単に水戸領民だけではなく、近国近郷数十キロの遠方からも我勝ちに群集した。この時翁もまた父君に連れられた小さい見物人の一人だった。(中略)
 十二歳の藍香が、この大演習に興奮してその大将であるカリスマティックな斉昭に何かのシンボルを感じ、それが終世彼の心に残っていて不思議ではないし、またここから水戸学に関心を示したことも不思議ではない。だがしかし、理由はそれだけでなかっただろう。「水戸」というと人びとは何となく「神がかり的」なものを連想するが、藍香も栄一も経済人である。とすれば当然、藩を経済的に発展させるのが「明君」だという発想がある。 奈良本辰也氏は、全般的に失敗とされる天保の改革を一歩進めてこれを成功に転じた藩として、水戸・薩摩・長州・土佐・肥前・宇和島をあげておられる。斉昭の模擬戦の背後にそれを可能とする経済力があったわけで、少なくとも自ら経営にタッチした時点で、藍香はこのことに気づいていたであろう。いずれKせよ御用金をたかる貧乏藩の藩主では望むぺくもない。(P98)
 水戸学への関心は当時の国際情勢、すなわちアヘン戦争、それを記した『清英近世談』(後述)の影響にはじまり、ペリーの来航から両国の交渉等の大変化を通じて、ますます強まったのも当然であろう。『新藍香翁』をさらに引用させていただく。  「この時点に於ける外交劇のハイライトはアメリカから浦賀に乗り込んだペルリ、下田に入ったハリスと幕府役人の交渉であった。徳川幕府を倒して天皇親政の世に変革しようという尊皇の志士は一斉に幕府の役人がアメリカの要求に屈従するのを軟弱外交として論難したわけである。翁もこの理論をよろこんで、藤田東湖の『新策』『常陸帯』などの著書を手にし、相沢正志の『新論』を大いに論ずる有様であった。
 翁の目には和親を是とする幕府の役人はみな国家を誤る姦賊で、鎖国攘夷を唱える水戸派の人士こそあっ晴れ日本国の忠臣と映ってしまった。後日のことであるが渋沢青淵(栄一)が人々に昔を語った言葉に『この当時尾高先生が国家を憂い世情をなげく熱烈な気魄がなければ私も安然として血洗島の一農夫として一生を送ったであろう。渋沢が今日の地位に到ったのは全く翁が水戸学問に感化せられた余波である』とある」(P99)

 
 ここで、明治維新の担い手となった郷士(農業にも従事した下級武士)ではなく、「農村ブルジョア階級」ともいうべき豪農の一員であった藍香や栄一が、なぜ、高崎城乗っとりという暴挙を企てるに到ったか、その謎について、本稿の冒頭(近代の創造――渋沢栄一の思想と行動)で紹介した福沢諭吉との比較で、再度考えて見たい。
 この両者の違いが、攘夷論への対処の仕方の違いとして現れたことは先に述べた。諭吉は、攘夷論を「不文不明」として無視したが、藍香や栄一は、この熱狂の渦に巻き込まれ、危うく命を落としそうになった。その後の人生でも、栄一は、平岡円四郎という一風変わった一橋慶喜の用人に出会わなければ、維新後、新政府の経済財政制度改革で力を発揮するなどあり得ず、栄一のこの活躍は、いわば奇跡ともいうべき僥倖の賜だった。
 では、こうした諭吉の態度と藍香や栄一の行動とどちらが正しかったかといえば、維新後、あれだけ熱狂的に唱えられた攘夷運動は忘れ去られ、開国から文明開化へと進んだことを見れば、諭吉の方が正しかったということになろう。
 諭吉にとっては、「古風一点張り」と思っていた明治政府が「だんだん文明開化の道に進んで今日に及んだというのは、実にありがたいめでたい次第」だったわけだが、では、この無謀極まる尊皇攘夷運動がなかったなら、はたして明治維新があり得たかというと、福沢の理屈だけで明治維新が可能だったとは到底思われない。
 注目すべきは、明治維新は「革命」だったということである。そして、革命にはそれに先行するイデオロギーが必要であり、明治維新のイデオロギーは「尊皇思想」だった。では、なぜ尊皇思想が革命を起こす力を持ったかというと、それは、江戸幕府の体制の学であった朱子学の正統論が、国学の国体論(万世一系の天皇のしらす国)と結びつき、水戸学という国粋主義を生み出し、折柄、開国通商を求める欧米列国への恐怖が重なり、激越な排外運動へと発展したということである。
 ここで、この攘夷運動の急先鋒であった薩摩と長州は、薩英戦争と下関戦争を経て、欧米の近代文明を取り入れる必要を痛感し、また、幕藩体制下の封建制を郡県制(=中央集権国家体制)に切り替える必用を確信した。この点は、尾高藍香や渋沢栄一、さらには福沢諭吉も同じであり、それ故に、彼らの幕府との妥協もあり得たのである。
 しかし、薩長はこの改革には「革命」戦争が不可欠であると考えた。そのために尊皇イデオロギーを必要とした。こうして、維新後も、「天皇親政」というイメージが生き残ることになった。この幻の体制イメージは、攘夷が開国となり、天皇親政が「有司専制」となる中で下級武士の不満となって爆発し、西南戦争となった。これは西郷隆盛の死で一応収まったが、明治憲法制定後は「立憲君主制」と矛盾を来すことになり、昭和になると、昭和維新という新たな攘夷運動に姿を変えて、日本を破滅へと導くことになるのである。
明治維新を準備した思想、発火点となった『靖献遺言』
 『近代の創造』山本七平(p101~108)
 『靖献遺言』『保建大記』『中興鑑言』が、さらに『大日本史』の通俗版ともいえる『日本外史』『日本政記』が明治維新を招来した「思想教科書」であるとは確かに言える。このうち前の三冊は朱子学の系統の崎門学であり、『中興鑑言』の著者三宅観瀾と『保建大記』の著者栗山潜鋒は水戸彰考館の一員で、共に闇斎・綱斎系すなわち崎門学系の思想家である。そしてこの浅見綱斎こそ山崎闇斎の弟子で尊皇の志士のバイブル『靖献遺言』の著者である。
 だが、これらの人々の思想は『現人神の創作者たち』の中で詳述したから本稿では再説しないが、朱子学系統であり、朱子の正統論を絶対化し、正統を護持するためには殉死も辞せずという強い正統論者であったことは共通している。一方水戸には光圀が招聘した中国からの亡命学者朱舜水がおり、その弟子が安積澹泊で水戸彰考館の総裁、要約すればこの二系統を統合したのが初期の水戸学である。しかし観瀾の後は余りたいした学者も出ず、このころは日本の思想に強い影響力をもっていたわけではない。
 ところが藤田幽谷とその子東湖、さらに会沢正志などが出、斉昭がこの東湖によって水戸藩主となり、東湖を側用人、正志を侍読とすると共に、水戸は「思想的権威」のような様相を呈して来た。そしてこれらの人を出現させたのが立原翠軒である。翠軒も水戸の人で、江戸に学んだが、学んだのは朱子学でなく古学古文辞学であって、大体、彼によって国学が水戸に入って来たと見てよい。そこではじめは当時の彰考館総裁名越克敏などから異端視されていた。
 だが、光圀自体がすでに神道に深い関心をもち、彼自身の著編纂物に『神道集成』や『釈万葉集』等があり、翠軒が登用される下地は水戸にもあったと考えねばならない。古学古文辞学それ自体は、何らかの革新的エネルギーを持ぢ得ないことは言うまでもないが、崎門学と古学古文辞学が習合すると、そこには、ある種の思想的エネルギーを生じうる。いわば朱子学の内実を、古学古文辞学で包んで、これを日本の古来から一貫した伝統思想のように修飾すれば、そこに何ら新しい思想的発展はなくとも、人を動かす力になりうるわけである。
 藤田東湖や会沢正志の行なったことはまさにそのことで、学問的思想的には崎門学よりもはるかに後退した面があることは否定できない。特に会沢正志の『新論』は、徳川幕藩体制を基本から転覆させる革新の思想になり得るとは思えない。斉昭の臣で侍講であった彼に、水戸藩の存在を否定するような思想を期待することは無理であろう。水戸には常にこの限界があり、それを早くも見破っていたのが綱斎であった。彼は弟子の観瀾が水戸に仕えたことを怒り、これを破門している。(P101)
 だが会沢正志であれ、藤田東湖であれ、本来の姿は水戸藩の「お抱え学者」であり、藩に従属して禄をもらっている以上、浅見綱斎のような完全に自由な思想家ではあり得ない。彼らは「尊皇攘夷」は声を大にしてロにしたが、「藩」そのものの否定はもちろん、幕藩体制否定の「倒幕」さえ明確には口に出来ず、その点、決して「倒幕のアジテーター」とはいえない。水戸学が一見「過激」に見えるのは、学派とからみ合った派閥の新左翼ばり内ゲバ的闘争の過激さとそれに連関した過激な発言から来るのであって、思想そのものがラディカルだと言うわけではない。(P104)
 では一体、これらの文書がなぜ、「尊皇倒幕」を誘致したといわれるのであろう。これらの文書の主眼は、倒幕でなく激越かつ偏狭な「攘夷」にあった。東湖はしばしば「尊攘」という言葉を使うが、それは決して「倒幕」を意味せず、むしろ幕府に「攘夷」を要請するという意味である。そしてこの「攘夷」はファナティックを通り越していた。否、少なくとも表現はそうであった。もっともこの表現には陰惨な学閥的派閥争いが影を落していた。そして斉昭の失脚、東湖の幽閉以後はますます感情的な激越さが加わる。それらがある種の「煽動的要素」を持ち得たとはいえるであろうが、もの内実を詳述しても意味はないと思われるので、次に『新藍香翁』の短い要約を引用させていただく。
 「・・・水戸の学風は当時の青壮年で志ある人々に最も人気があったのである。すなわち、その理論にしても具体的な対策にしても、また評や文章の表現にしてもくどくどしい情実を抜きにして単刀直入であった。『神州の正気』つまり日本国の行き方はこうだ、と一気にきめっけてしまった思想は次の如くである。即ち、外国人が日本に入ってくること、そして外国の文化の影響を受けることは一切拒絶する。和親や通商貿易に名をかり開港を要求する外交を一切しりぞけてしまう論法である。
 今考えてみると、これは徳川三百年鎖国政策の結果あまりに視野がせまかったうらみはあるが、水戸公の主意は、わが方に戦う気力があってこそ初めて対等の和親条約が出来るが、若し戦う気力もなく外国の要求のままになるとすれば、これは屈従であるというものであった。当時外国人を犬か豚の類と排斥する思想だから、日本国民がこの前に屈服することはとても出来ないということである」。
 面白いことは、これらのフアナティックな「尊攘」がやがて「攘夷を実行しない幕府は倒せ」へ転化していく・・・(P106)

 藍香の苦い思い出
 だが藍香のような経済人が、水戸のような「攘夷」に賛成でなかったことは、『趣意書』からもうかがえるし、『新論』『常陸帯』を精読した彼に、それがむしろ体制側の思想だということが見抜けなかったわけはあるまい。またこの書だけで幕藩体制打倒が出てくるわけはない。
 尊皇思想を研究された三上参次博士は「一方に於て是書(『新論』や『常陸帯』)を読み一方に於て『靖献遺言』の所信を実行せば、皇政復古の大業の明治維新の際に於て成功せるも強(あなが)ち異とするに足らざるべし」と記されている。いわば「発火点」は『靖献遺言』であって、水戸学はそれにそそぐ油のようなもの、そして外圧はこれを煽ぎ立てる風のようなものであって、油と風だけでは何も起らないわけである。
 そして発火点とは、前に記した「思想の真髄」いわば、天動説を地動説に変えてしまうような「心的転回」を起したときである。そうなれば『新論』も『常陸帯』も激烈な行動へと燃えあがる油にはなりうる。そして多くの人の場合は発火点が『靖献遺言』であった。(P108)
 おそらくこの辺りが、藍香決起の基本であろうと思うが、それに従った栄一以下が同じような思想を共に持っていたかどうか。この点は少々疑わしい。彼自らが記すように藍香の「熱烈な気魄」に圧倒されてしまったのであろう。・・・この点、彼らの基本はあくまでも「足が地についた」豪農、いわば「農村ブルジョアという一階級」であって、この点、武士出身の「維新の志士」などとは違うし、「官僚」であった方孝儒とは全く違う。もちろん、その外観的無謀さへの共通性から、新左翼的蜂起と同一視すべきではあるまい。藍香はいわば中小企業のオーナー経営者なのである。・・・
 藍香もいろいろと考えたのであろう。彼はこの国事に奔走する任務の大部分を弟の長七郎に託し、自分は経営を守りつつこれを支え、また指示するという位置に立とうとした。そこで長七郎を江戸から遠く京都まで遊歴させ、情報蒐集しつつ天下の形勢を見させ、同時に各地の政治運動に積極的に参加させて行かせようとする。この藍香の態度もまた方孝嬬と同じではない。そこには政府から”月給″をもらう儒官と、自らの生活を自ら維持している企業者との、基本的な違いがあったであろう。そして面白いことに、「高崎城乗っとり」の暴挙をやめさせたのは、その推進役となるはずの長七郎だったのである。(P111)
 
 もし藍香がこの時、高崎城乗っ取り計画を実行していたとしたら、彼自身はもちろん栄一もその時にこの世を去っていたであろう。客観的に見ればそれは全く無謀なことであった。
 この時、藍香を過激な攘夷行動へと駆り立てたものは、後期水戸学の中心をなした会沢正志斎の「新論」(尊王攘夷の思想を理論的に体系化した)や藤田東湖の「弘道館記述義」(本居宣長の国学を大幅に採用し、尊王の絶対化と「尽忠報国」を説いた)などであったが、その他に、幕末の志士たちのバイブルとなった浅見絅斎の『靖献遺言』が、そうした無謀な行動の発火点になったと山本七平はいう。
 その『靖献遺言』とはどのようなものであったかというと、中国の8人の士(屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因及び方孝孺)をモデルに「正統の王朝に忠義を尽くし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗する生き方」を正しいとしたものである。そして、この書の末尾に取りあげられている人物が「方孝嬬」で、次のような生涯であったとされる。
 方孝嬬は明の「建文帝からは重用され、翰林侍講学士に抜擢されたが、燕王朱棣(後の永楽帝)による靖難の変が起こり捕らえられた。即位して永楽帝となった朱棣は、方孝孺を助命し「詔天下、非先生草不可」(詔勅を書いていただきたい。先生でなければダメなのですよ)と、彼に即位の詔を書くよう懇願したが、方孝嬬はその目の前で「燕賊簒位(燕の逆賊が皇帝位を乗っ取りやがった)」と大書した。これが永楽帝の怒りに触れて、一族800余名全てを目の前で処刑されたが屈せず、その後磔の刑に処された、というもの。(wiki)
 藍香は、明治になって、『靖献遺言』の方孝嬬でなく、改めて『明史』を読んで、方孝嬬を論ずれば、「確かに、彼は方孝儒が中国の国体に殉じ、節に死んだことに感動はする。だが政治家としては政略もなく、深謀遠慮もなくその事態を招来したことは笑うべきことだ」と言っている。そして、かって、「自分を高崎城乗っ取りという激越な行動に駆り立て「自らも方孝儒の運命をたどりそうになったことを思い出し、またその運命に陥った多くの同時代の人びとを思うとき、後の藍香には苦い思いがあったであろう」と山本七平は評している。
 では「それに従った栄一以下が同じような思想を共に持っていたかどうか。この点は少々疑わしい。彼自らが記すように藍香の「熱烈な気魄」に圧倒されてしまったのであろう。というのはあくまでも「生活学」の信奉者である父市郎右衛門との討論では、栄一が持ち出しているのはせいぜい当時流行の「楠公論」であっても、それ以上には何もないらしいからである。」とも。
 それにしても、徳川幕府が体制の学とした朱子学の正統論が、幕末にいたって「天皇を中心とする万世一系の国体こそを正統とすべき」という「国体論」に発展し、その正統に殉ずることを正義とする尊王論が、幕府の開国策を契機に、藍香や栄一など豪農の子弟をも巻き込んて討幕運動に発展したとは驚くべき事である。
   おそらく、こうした動きは単なる観念論ではなく、その背後には、こうした運動の担い手となった郷士と言われた下級武士や、藍香や栄一たちのような経営的農民の、徳川幕藩体制下の封建的身分制度に対する不満や怒りが、その背後に渦巻いていたことは間違いないと思う。
 それが朱子学の「正統論」を引き継ぐ水戸学の「忠孝一致」の国体論の登場によって、その「正統」への忠誠を絶対とする尊皇倒幕運動に大義名分を与えることになった。

 
日本が「不倒翁」になるための「不易と流行」
 『近代の創造』山本七平(p144~146)
 このことは『一九九〇年の日本』でも記したが、渋沢秀雄氏はその父栄一の思い出を記した『渋沢栄一』の末尾で、芭蕉の「不易」と「流行」という言葉を引用されている。「『不易』とは時代がどう変っても一貫している詩の心』「『流行』とはそのときどきの時代感覚」この「二つが両立すれば立派な俳句だ」とされ、栄一の生涯もまた「不易」と「流行」であったと見ておられる。聞くところによれば第一勧業銀行のマークはこの「不易と流行」を図案化したものだそうだが、この「不易」の維持が、大きく変転した社会の中で栄一が「不倒翁」であり得た理由であろう。
 もちろん栄一は詩人ではないし、それを目指したわけでもない。従ってこの「不易」と「流行」は芭蕉が用いたと全く同じ意味であると解する必要はない。彼らは『奥の細道』を記すために旅をしたわけではない。このときの旅の目的は、もちろん「物見遊山」ではなく、普通のセールスマンの旅と同じなのである。しかも「藍のセールス」という、そのときどきの出来・不出来(現代とは違うから、その年の天候や施肥、藍玉製造の巧拙によって非常にばらつきがあった)、その年の景気に基づく需給、先方の信用度、先方の支払能力に対応した延払いと自己の資金力との関係、それらを綜合した形での価格の決定、そのための駆引等々は実に複雑なものであったらしい。それはある意味において、「そのときどきの状態に対応する感覚」すなわち「流行」を要請される。
 だが同時に彼は、これとは全く別の世界、それがどう変転しようと、それとは関係なき「一貫している詩の心」をもっていた。それは彼が十七歳のときの、埼玉と長野の間の小さな世界の中でのことではあっても、この態度が青年時代にすでに確立していたことは、日本全体の大転換に際しても、変転する世界情勢に対しても、常に同じ態度をとり得たことを示すであろう。われわれは将来に対処するため、近代化の犠牲として失ったこのことの重大さをもう一度考え、あらゆる方法でそれを回復せねばなるまい。
 もちろんそのことは栄一と同じ内容の「不易」へもどれということではない。栄一の「不易」の内容は芭蕉の「不易」の内容と同じではないように同じでなくていい。言いかえれば記すのが「漢詩」でなく「英詩」でもよい。いわば「自分の詩的世界をつくり自らその中に居る能力」こそ人間のみが持つ「不易」なるものであろう。それは確かに人を「不倒」にしうるし、それがあれば変転する「流行」に対応しうる。
 余談になるが、全く予期せず、中曽根総理の「文化と教育の懇談会」のメンバーに加えられたとき、私に何か言うことがあるとすれば、この点だけであろうと思った。言うまでもなく、これは、大きく変転するであろう二十一世紀に対処して日本の教育がいかにあるべきかを論ずる懇談会だったわけだが、何事であれ奇策などはあるはずはないし、「天才的発想」ができる人間などというものは、一世紀の全人類の中で一人か二人しか出ないのが普通なら、それを待っているわけにはいかない。
 われわれ凡人にできることは「先人に学ぶ」ことだけである。それならば、幕末から明治という大転換に人びとはどう対処したか、どうすればそこで「不倒」であり得るかを学べばよい。もちろん、その中には軍人も政治家もいる。しかしこれからは、経済的優位と技術的優位を維持できなければ、どれだけ膨大な軍事力や政治力を駆使しても、国家の威信も国民の繁栄も維持して行けない時代になるであろう。
 この徴候はすでにソビエトの威信低下に現われている。それならば、一個人でなく日本自体が「不倒翁」になるために学ぶべき先人は、藍香や栄一であろう。そこで私はこの「不易」と「流行」こそ変転する未来への教育の基本であると主張した。その時にいつも頭にあったのがこの『巡信記詩』であったことは言うまでもない。
 長い議論の一部が要約されて答申になったのだから誤解もあったのかも知れないが、この「不易」をとらえて『朝日新聞』が「論説」で論難、「素粒子」で嘲弄罵倒したという話を聞いた。だが私はそれを読んでいないし、読む気もない。新聞の論説などは、私にとってはもうどうでもいいものになってしまった。

 
 渋沢栄一の「不易」の一端について。
 栄一が、明治6年、官をやめると言ったとき、栄一と共に循吏(規則に忠実で仕事に熱心な官吏)といわれた友人の玉乃が、
 「君も遠からず長官になれる、大臣になれる。お互いに官にあって国家のために尽くすべき身だ。しかるに賤しむべき金銭に眼が眩み、官を去って商人になるとは実に呆れる。今まで君をそういう人間だとは思わなかった。と言って忠告してくれた。
 その時私は大いに玉乃を弁駁し、金銭を取り扱うが何ゆえ賤しいか。君のように金銭を卑しむようでは国家は立たぬ。官が高いとか、人爵が高いとかいうことは、そう尊いものでない。人間の勤むべき尊い仕事は到る処にある。官だけが尊いのではないと、いろいろ論語などを援いて弁駁し説きつけたのである。そして私は論語を最も瑕理のないものと思ったから、論語の教訓を標準として、一生商売をやってみようと決心した。それは明治六年の五月のことであった。」(『論語と算盤』)
 また、「東京市長に推されそうになって断り、明治三十四年には、肝胆相照らした仲の井上馨が内閣総理大臣になる話が待ちあがり、栄一が大蔵大臣を引き受ければ組閣できる状況でしたが、頑として承知せず、井上内閣は流産に終わりました。
 また、伊藤博文に政党の必要を説いたのは彼であって、彼のいうことに大変感服した伊藤博文は二年後に立憲政友会を作りました。そのとき彼は伊藤から党員になれと勧められたが、しかし彼は断わりました。すると伊藤博文は大変に怒って「君は幾度も私に政党の結成を勧め、手紙までよこしておきながら、党員にならないとは不親切だ。まるで私をだまじたようなものだ」といいました。ところが彼は「自分が先に立って運動したり、実業家の立場をすてたりはしないと書いてあります。私は政治の舞台に立つ役者にはならないかわりに、役者に熱心に拍手喝采を送る見物人にはなるという意味です」と反論しました。
(『日本的リーダーの条件』山本七平)
 
高崎城襲撃を断念した栄一が郷里を出奔する時の父親との会話
 『近代の創造』山本七平(p147~152)
 人生は旅である」などとも言われる。それを思うと藍香や栄一の旅の仕方は、そのままその人生を現わしているようにも思われる。だが栄一は黙って故郷を出奔するわけにいかない。一応、父の許諾を得、また買い集めた武器等の後始末やさらに流用した購入資金の処理などもしなければならぬ。その間の事情を彼は晩年の『論語講義』の中で次のように記している。
 「されど父に何も打ち明けずに、郷里を出奔してはいけぬと思い、それとなく訣別のつもりで、文久三年九月十三日の夜、月見の宴に托して、尾高藍香と渋沢喜作と余との三人が、父と一座して月を見ながら天下の形勢を語り、いよいよ余が国事に奔走の決心を打ち明けたが、父は依然として不同意で『その位にあらざる者が、いかほど奔走したればとて、効のあがるものではない』と譚々として説かれた。
 これに対し楠公湊川の例をひき『楠公とてもかの戦いで必ず足利尊氏に勝てるものとは思わなかったろうが、死ぬまでも戦った処に、楠公の豪(えら)い処がある。自分が微力を以てなにほど奔走したとて、到底目的を達し得られずに終るかも知れぬが、楠公のごとく戦死しても構わぬゆえ、一番やれる処までやって見る気である』と、決心の次第を述べたれば、父も到底余の決心の固くして奪うべがらざるをみ『それほどまでの決心ならば、思うままにせよ。わしは干渉せぬから』といわれて、余の国事に奔走することを許された。しかしていよいよ出立の時には路銀として二分金で百両下さった。これは父の豪い所だと思う」
 これは晩年の回想で、さらに『論語講義』の中の一節だから非常に要約された形で記されているが、この間の事情はもっと複雑である。
 「勿論自分は敢て議論がましく無暗に父に反対して高声に討論した訳ではなく、只惇々と論じて居る中に夜が明けた。スルト父は思いきりのよい人で、夜が明けてからモウ何もいわない、宜しい、その方は乃公(自分)の子じゃないから勝手にするがよい、段々の議論で時勢も能く分ったから、ソウいうことを知った上からはそれがその身を亡ぼす種子になるか、或は又名を揚げる下地になるか、その所は乃公は知らぬ。
 よしや時勢が十分に知れても、知らぬ積りで乃公は麦を作って農民で世を送る。縦令政府が無理であろうとも役人が無法なことをしようとも、それには構わずに服従する所存である。然るにその方はそれが出来ないというなら、仕方がないから、今日からその身を自由にすることを許して遣わす。夫れに付いては最早種類の違う人間だから、相談相手にはならぬ、この上は父子各その好む処に従って事をする方が寧ろ潔いというものだ、といわれて、漸く十四日の朝になって、一身の自由を許されました。
 この時に自分は父に向って、これ迄は家業も勉強して藍の商売も拡張したけれども、既に国事に一身を委ねるという以上は、父母に対してはこの上もない不孝の次第でありますが、到底この家の相続は出来ませぬから、速やかに自分を勘当して、跡は養子でも御定め下さいと申しましたら、父のいわれるには、今突然勘当といっても世間でも怪しむから、兎も角も家を出るがよい。愈々出た後に勘当したということにしよう。又養子の事はその後でも遅くないと思う。向後その方が如何様の事をして死んだからといって、別に罪科を犯した事さえなければ、この家に迷惑を生ずる筈もあるまい。万一嫌疑で縛られても、家に対しては何事もあるまいから、今俄に勘当届を出すには及ばぬ。
 併しこの上はモウ決してその方の挙動にはかれこれと是非は言わぬから、この末の行為に能々注意して、飽くまで道理を踏違えずに一片の誠意を貫いて仁人義士といわれることが出来たなら、その死生と幸不幸とに拘わらず、乃公はこれを満足に思う、と教誠されたことは、今でも猶耳の底にあるように思われて、話しをするのも中々落涙の種子である・・・」
 面白いことに、親子で徹夜で論争しているのだが、両者とも少しも感情的になっていない。これは後に思い出を語ったのだから理想化されているのではないか、だれでも一瞬そう思いたくなるような論争である。だが、その後のさまざまの処置を見ると、両者とも、「親子それぞれ別の道を行く」ということを決定しただけで、いわゆる「喧嘩別れ」でないことはよくわかる。
 いずれにせよ「高崎城乗っとり」は未遂に終り、彼は故郷を出奔せねばならぬ。しかしその前に家の金をごまかした百五十両の武器購入資金と武器そのものの跡始末はしておかねばならない。彼は父にこのことを告白せざるを得なくなった。『雨夜譚』は次のように記す。
 「先程申した通り、既に暴発しようという考えからして、止むことを得ず藍の商いに取扱った金の内で、或は刀を買ったり、着込みを作ったり、その他種々の事に使用したから、この事を後に父に打明けて、ドウカ許容して下さいといった。その金高は凡そ百五六十両ばかりであった。併し一身の遊興に金銀を費すということはこれまで一切なかったから、父もこの事を許諾して、それは止むことを得ないから家の経費と見倣すといわれました。
 それで又京都へ立とうという時に、再び家へ帰るか帰らぬか知れぬから、若し困ることがあってはならぬ、金がいるなら幾らでも持ってゆけ、又向うへいった後も、この身代はその方の身代だから不道理の事に使わぬ以上は決して惜しみはせぬから、入用があったら必らずそういってよこせ、送って遣ると父が惜気もなく親切にいって呉れられた。
 併し自分は金はいらぬけれども、道中少しもなしでは困ります、金の入用な程にこの身体が保つか、若しくはこの家の金を当てにせずと活計が立つ様になるか、何れにしても自分の身体は短い中に始末が附かんければなりませぬから、只当座の入費に百両丈けの金を下さいといったら、宜しい持ってゆけということで百両貰ったことを覚えて居る」
 
 この対話が成立する前提には、次のような当時の常識が背後にあったと山本七平は言う。
 「御家人株を買えば武士になれる」、そんなことは、当時の常識である。もちろん一定の教養と剣術も要請されようが、それならば栄一にも相当の自信がある。そして「武士」であれば、政治運動をやるのは当時の常識である。そうでないなら、これは前記の決起反対のとき長七郎も指摘しているが「百姓一揆」と見なされてしまう。
 もっとも、武士になってそうすれば「生命の安全」が保証されるということではない。しかし「縦令政府が無理であろうとも役人が無法なことをしようとも」を改革しようと思うなら、その手順を踏んで行えばよい。それが「名を上げる下地になるか」「身を滅ぼす種子になるか」それはわからない。だが、もし手順を踏んで行うなら、それは当時の社会で、不可能なことを望んでいるとは言えない。
 だがそれは自分の望む方向ではない。自分としてはあくまでも自分が築いてきた家業を継承してほしい。・・・しかし栄一があくまでその方向に進みたいなら「仕方がないから、今日からその身を自由にすることを許して遣わす。夫れに付いては最早(武士という)種類の違う人間だから、相談相手にならぬ。この上は父子各その好む処に従って事をする方が寧ろ潔いというものだ」(p157)
 以上のことを念頭におくと、市郎右衛門が「この身代はその方の身代だから不道理の事に使わぬ以上は決して惜しみはせぬから、入用があったら必らずそういってよこせ、送って遣る」が、何を意味しているかもわかる。この時栄一は父に勘当を申し出ているが、勘当とは親権の一種すなわち懲戒権の行使であり、その子には親は責任を負わないという宣言であり、法的な手続きが必要であった。
 だが、ここで市郎右衛門が言っている勘当は、いわば「内緒勘当」であり、あくまで世間への公表であっても「法的な勘当」ではない。従って、その対象は本人だけであって妻子には及ばない。また、悔悛して親権に服すればいつでも取り消すことができる。また相続にも及ばないから「この身代はその方の身代だから・・・」という言葉が出てくるのである。
 当時の約8%の武家を除くほとんどの日本人の相続は、「貞永式目」の相続法と実質的に同じであったが、それは「家産を継承するだけでなく家業も継承しこれを維持発展させていく義務」があった。従って、家業継承の意思なきもの、または家業経営の能力なき者はたとえ長男であっても相続権はないとされた。そこで養子という考え方が生まれた。これは血統より家業の継続を優先させるという考え方である。
農民出身の栄一に目をつけた平岡円四郎という不思議な人物
 『近代の創造』山本七平(p197~203)
 彼は、故郷を出奔して京都に行こうとしたが、その間のことが『雨夜譚』に次のように記されている。「そこでこの京都行の手続は如何したかというに、その頃一橋家の用人に平岡円四郎という人があって、幕吏の中では随分気象のある人で書生談などが至って好きであったから、自分と喜作とはその前から度々訪問して余程懇意になって居ました」と彼はこう簡単に語っているが、どういうきっかけで懇意になったのかは明らかではない。しかし平岡円四郎とこの二人は大変に意気投合し、同時に彼は二人の持つ何らかの能力を見抜いていたらしい。
 そこで「或時、平岡のいうには、足下等は農民の家に生れたということであるが、段々説を聞いて談じ合ってみると至って面白い心掛で、実に国家の為めに力を尽すという精神が見えるが、残念な事には身分が農民では仕方がない、幸に一橋家には仕官の途もあろうと思うし、又拙者も心配してやろうから、直に仕官しては如何だという勧めがあったことがある」と。
 これで見ると、ある種の能力があり、それを見抜く者がいて、本人にその意志があれば、武士になれたということである。ここで二人が承諾すれば、その日から二人は農民でなく武士となり、一橋家の家臣ということになってしまう。いわば、試験でもなければ買官でもない、そして実質的には何の手続もなく、農民から武士へと身分変更ができたわけである。こういう状態を果して制度としての「階級制」といえるかどうか、少々疑問といわねばならない。
 しかし二人には例の目論見があったから、これを承諾する気はない。だが、この相手の申出を利用する気はあった。その目論見を行う「それには一橋の家来と名を借りて居ったならば、刀剣を帯して歩行くにも又は槍を持つにも着込みを用意するにも多人数を集めるにも、都(す)べて人の怪みを招くことが少ない・・・これは好機会だと思って右の平岡に別して懇親して居た」と。このあたりの彼の行き方はなかなか抜け目がなく、おそらく明確な返事をせず、何かの理由をつけて承諾を先にのばしていたのであろう。そして例の目論見がとりやめになり、京都に行くとき、早速にこれを利用することにした。
 「それらの縁故からして、京都へゆく時にも平岡の家来ということに仕ようと思ったが、この時に平岡は既に一橋公の御供で九月に京都へいって留守であったから、その留守宅を尋ねて細君にその事情を述べて、京都へゆく為に当家の御家来の積りにして先触を出すからこの事を許可して下さいといった処が、細君のいうには、兼ねて円四郎の申付には、乃公が留守に両人が来て家来にして貰いたいといったら許しても宜いということであったから、その義ならば差支ない、承知したといわれたから、両人は平岡円四郎の家来という名目で歩行きました。何分素浪人では道中で嫌疑される虞れがあったが、菊も一橋の家来といえば容易に捕縛される掛念がないというのでその予防をしたのであります」
 「腹でも切るより外に仕方がない」 こうなると道中の彼の身分は、まことに便宜主義的な半ば公認の階級詐称ということになろうし、農民が武士を演じていたということにもなろう。そのようにして彼は無事京都についた。そしてここでも平岡円四郎と昵懇な関係を保っていたが、もとより一橋家に仕官をする気はなく、大いに天下の志士と交わって、「何ぞ好い機会が見出さるるであろうという思惑」であった・だが、やがて二人は「志士」なるものの実態を知るようになる。
 というのは「志士」として活動しているといっても、何らかの藩に属してその意向に従っている者か、もしくは今でいう紐つきのような存在である。これは当然のこと、何らかの大藩の後ろ楯のない「個人」に政治活動が出来る状況ではない。第一、資金という問題があり個人で活動しようとしてもすぐ行きづまってしまう。この点は昔も今も変りはあるまい。前に述べたように彼は、ある種の解放感から江戸ですでに二十四、五両を使ってしまっている。
 「その残金を持って京都へ来てからは、頼復次郎を尋ねるとか、又は宮原の塾を尋ねるとか、或は何処に何藩の周旋方が居るから尋ねるとか、何処に名高い傭慨家が居るから訪問しようとかといって、互に相往来して居たから、自から入費も掛り勝ちで、京都へ来て一月余りはそんな事で至極面白く遊んで居た」
 「併し、眼目とする幕政を覆そうという一条に付いては、その端緒にだに出会することは出来ない。只彼方此方を歩行いて見ても只通常の評判を聞くのみで、或は叡慮は飽くまでも攘夷を御主張なさるが、幕府が擁蔽し奉るから御趣意が明白に分らぬとか、又は薩摩と長州とは到底親睦することは出来ぬとか、或は界町御門の固めを長州が止められて今では会津が守護職となって勢力を得て居るから有志家の頭はあがらぬ、抔(など)という評判ばかりで、これぞという機会を見付けることが出来ずに居ました」(p199)
 そこへ江戸から一通の手紙がとどいた。「さて江戸から到着した手紙は何事であろうと取る手も遅く思われたが、所謂一読愕然、実(げ)に思いも寄らぬ大変でありました。その仔細というは、長七郎が中村三平と福田滋助の両人を連れて江戸へ出る途中に於て、何か事の間違いから捕縛せられて遂に入牢したという一件で、その獄中から出した書状であるから、之を見た両人は互に顔を見合せた計りで、暫くは一言もなかった」。(p201)
 「実はその遭難の前に両人から長七郎へ書状を送って、京都は有志の人も多いから貴兄も京都へ来て共々に尽力するがよい、兼ねて見込んだ通り幕府は攘夷鎖港の談判の為に潰れるに違いない、我々が国家の為に力を尽すのはこの秋であるから、それには京都へ来て居る方が好かろうという趣意を申して遣ったが、長七郎はその手紙を懐中しながら縛られた、ということが来状の中に書いてある」。こうなると、逮捕がもしあの一件に関することなら、栄一、喜作の二人は無関係だなどとは到底いえない。一体、どうしたらよいか。(p202)
 「翌朝になってみると、平岡の処から手紙が来た。一寸相談したい事があるから直に来て呉れということが書いてある」。おそらく幕府から、すでに彼に連絡が来ているのである。 
 栄一や喜作が平岡円四郎に出会うことができたのは、川村恵十郎の紹介によるものだという。川村は、「安政2年(1855年)小仏(こぼとけ、別称駒木野)関所番見習出会ったのを、「円四郎が引き抜いて用いたのであり、其他関東に於ける一橋領内の農民で新規召抱えられたものは尠くなかった」というから、円四郎はすでに農民の新規召し抱えをやっていて、恵十郎はそのスカウト役であったのかも知れない。
 「この背後には前記の社会的情勢、すなわち階層内分化があったであろう。関東一円には職人化・商人化した武士がいると共に、武士化した豪農もしくはその子弟がいたわけである。そして円四郎は、その優秀なものを、手足のように使える自分の部下に、露伴の表現に従えば「手下」にしようとしていた。
 そして露伴は、栄一・喜作は、この円四郎に特に目を掛けられたという点で、内心では当初から満更でもなかったと見ており、次のように記している。「功名の心まさに盛んなる栄一等には、当時の世評甚だ宜しかった一橋家に随ひて一世に雄飛するの地を為したい意も起り、又円四郎の方では青眼を以て二人を見、之を愛撫するに吝かで無かかったことは自然の勢であった」。
(では)何がゆえに平岡円四郎が栄一・喜作の二人にこのように肩入れをしたか。もちろん二人の能力を見込んでのことであろうが、「たてまえ」から言えば少々筋違い、もし優秀な人材が必要ならばそれは御家人の中から選ぶのが当然の措置だった。御家人とは「いざ」という時のために禄をもらっていたはずである。だが現実には、この「はず」がすべて不可能だった。ここには、客観的情勢と平岡円四郎自身の思惑という、二つの要因が作用していたであろう。
 客観的な情勢とは、士農工商も親藩譜代も実質的には空洞化していたことである。「旗本八万騎」などといい、親藩譜代などというが、そのすべてが本当に動員できる「戦闘集団」であるならば、間題はなかったであろう。だが井伊直弼は水戸と尾張と福井を、紀伊出身の家茂の政敵にしてしまった。彼らはもはや真の意味の「親藩」ではない。
 さらに「旗本八万騎」は「名」だけで、実体のない存在となっていた。福沢諭吉が『旧藩情』で記しているように、いわゆる下士の内職なるものはいつしか本職になり、「指物細工に漆を塗て其品位を増す者あり、或は戸障子を作て本職の大工と巧拙を争ふ者あり」で、彼らは武士なのか職人なのかわからない存在になってしまっていたのである。
 幕末におけるこのような階層内分化は、実情を調べていくと面白い。農民にすぎない尾高藍香は剣術の達人。その弟の長七郎に至っては関八州並ぶ者なき剣客である。彼らはその経済的基盤の上に立って、学問・剣術においても武士に負けまいとする上昇志向をもっていた。(p221)
平岡園四郎は、なぜ栄一と喜作に一橋家への出仕を勧めたか
 『近代の創造』山本七平(p207~212)
 何事の相談か知れぬがまず行って来ようといって両人して平岡の処へ出掛けていった。行ってみると、平岡は平生とかわって殊更に別席に通して、少し足下等に話して見たい事があって呼んだのだが、これまで江戸で何か計画した事があるなら包まずに語れという。
 卒爾の尋ねだから、両人はイヤ何も別に計画した事は御坐らぬといったら、平岡は更らに口を開いてケレドモ何ぞ仔細があるであろう。外の事でもないが、足下等の事に付いて幕府から一橋へ懸合が来た。僕も足下等とは別段に懇意の間であり足下等の気質も十分知って居るから、必ず悪くは計らわぬ、何事も包まずに話しをして呉れといいました。
 元(もとも)とこの平岡は幕吏中の志士で、我々が頼みに思って居た人であるから、この人ならば別に包み隠すには及ばぬと思って、両人更に語を続けて、左様仰しゃれば私共少し心に当ることがあります。私共の親友中で両三人の者が何か罪科を犯して、幕府の手に捕われて獄に繋がれたという手紙を昨夜得ました。
(平)それは如何いうすじの友達であるか、(両人)その友達と申すのは我々と志を共にして、攘夷鎖港の主義を抱持して居る男で、その中の一人は撃剣の師匠を致す者で栄次郎の妻の兄に当る男であります。
(平)併し夫れ丈けではあるまい、何か外に仔細があるではないか、
(両人)イヤ別に何も御坐りませぬが、その男の処へ両人から手紙を送った事が御坐ります。その手紙を懐中にして居て縛られたと申して来ましたから、唯今仰せの幕府から一橋家へ照会ということは多分夫れ等に関係した事と考えます。
(平)その手紙にはドンナ事が書いてあったか。
(両人)その手紙には頗る幕府の嫌疑になるような事も書いた様に覚えて居ます。元来私共は幕府が政を失って居るから、只今の幕政で天下を支配する間は到底日本国が行き立つ見認めはないという処から、早くこれを顚覆せんければ御国の衰微を増長させるに違いないという持論でありますから、その持論の意味を書いて送りました。これは幕府に対しては最も禁物の手紙であろうと心得ます。
(平)それではそんな事であろう、併し傭慨家などいうものは一身上の挙動が随分荒々しいものだが、足下等はマサカに人を殺して人の財物を取ったことなどはあるまいが、若しあったならあったと謂って呉れ、有ることを無いと思って居ては困るからと、如何にも淡泊の尋ねだから、
(両人)イヤそれは決して御坐りませぬ。成程殺そうと思ったことは度々御坐りました、去れども生憎とまだ殺す機会に出会いませぬ、尤も怨みに付いて人を殺すとか又は物を取る為に人を殺そうと思ったことなどは毛頭御坐りませぬ、只義の為めに殺そうとか、或は奸物だ、捨置けぬなどという考えは致したこともありますが、夫れもまだ手を下したことはありませぬ。
(平)然らば慥(たし)かになかろうか、(両人)決して御坐りませぬ、(平)それならそれで宜しい」(p208)
 「この問答が済んでから平岡は更に言を発して、それでその事の仔細は明白に分ったが、足下等はこれから如何する積りだというから、両人は如何するといって実は思案に尽きて居ります」といった。
 正直な告白であろう。何しろ徹夜で、ああでもない、こうでもないと考えてなお結論が出ていないのだから、文字通り「思案に尽きて」いる。そこで次のような問答となった。 元来貴君を頼みに御家来分になって京都まで来は来ましたが、固より一橋家に仕官の望みがあって来たのでは有りませぬ、一書生の躯を以て天下の事を憂慮するというのも烏滸(おこ)がましいが、かく故郷を離れて心からの浪々をするのも、何か国家に尽す機会があったなら、只今にも一命を捨てることは聊か厭いませぬが、何分これぞという目的もない所へ、不幸にも志を合せて死生を共にしようと約束した者が江戸で捕縛され、今更郷里へ帰ることも出来ず、殆ど進退に窮しました。
(平)成程そうであろう、察し入る。就てはこの際足下等は志を変じ節を屈して(これは現代的に表現すれば『思い切って転向して』であろう)、一橋の家来になっては如何だ。随分この一橋という家は諸藩と違って所謂御賄料で暮しを立てて居る、謂わば御寄人同様な御身柄で、重立った役人とても皆幕府からの附人で、かくいう拙者も小身ながら幕府の人、近頃一橋家へ附けられた様な訳であるから(今の言葉でいえば『全員、幕府からの出向社員』であろう)、人を抱えるの、浪士を雇うということは随分六つかしい話だけれども、若し足下等が当家へ仕官しようと思うならば、平生の志が面白いから拙者は十分に心配して見ようと思うが如何だ、
 勿論差向き好い位置を望んでもそれは決して出来ぬ。何れ当分は下士軽輩で辛抱する考えで居なければならぬ。足下等が今日徒らに国家の為めだといって一命を抛(なげう)った所が、真に国家の為めになる訳でもあるまい。足下等も兼ねて聞いて居るであろうが、この一橋の君公というのは、所謂有為の君であるから、仮令幕府が悪いといっても一橋は又おのずから少し差別もあることだから、この前途有為の君公に仕えるのなら草履取をしても聊か志を慰むる処があろうじゃないか。
 節を屈して仕うる気があるなら拙者飽くまで尽力して周旋しよう。(両人)段々御親切の御諭し、実に感佩(かんぱい)の至りであります。御見かけ通り素寒貧の一書生ではありますが、萄も出処進退に関係のある事で、只今軽率に御返答も仕兼ますから、猶篤と相談の上で否応の御請けを致すことに願います、といってその日は分れて帰宿しました」(p212)
 
 栄一たちの持った上昇志向に比して「よくつづくものは牛のよだれと旗本の身所」などといわれた下級御家人は、細工師・建具師という方向へ、当時の社会的位置づけからすれば下降志向をつづけていた。双方の上昇と下降は一に経済的理由による。・・・彼らに動員令をかけたところで、到底、戦力にはなるまい。いわばさまざまな現実に即応した形の農兵隊の組織化は、幕府側にも長州側にもあった。これがおそらく、円四郎が栄一・喜作の二人を何とか仕官させようとした社会的背景であろう。
 こうした社会的背景の下に、円四郎には、有能な「手兵」を自らの下にもつ必要があった。簡単にいえば一橋家の「実力者」である彼は、それだけに内外のさまざまな「派閥」から狙われる位置にいた。最終的には彼もまた暗殺され、ここで栄一はまた挫折を経験するわけだが、彼は、自分の意図する計画を実行に移してくれる能力ある「手兵」がどうしても必要であった。
 簡単にいえば、直接的野心は家茂を辞職に追い込んで慶喜を将軍にすることであり、これはある時点で実現しそうになっている。だがもっと大きな理由は慶喜も円四郎も内心では開港論者だったことである。これが後に、「獅子身中の虫」として円四郎が暗殺される理由になるのだが、奇妙なことに薩長もまた本心では開港論者であった。
 薩英戦争・馬関戦争の手痛い完敗で、攘夷などは実際には実行不可能なことを、彼らはよく知っていた。従って攘夷は幕府を窮地に追い込む手段にすぎない。日本ではこういう現象は少しも珍しくない。太平洋戦争のとき、最も強硬な開戦論者が、開戦のニュースを聞いて腰を抜かしたという話を聞いたことがある。「どうせ、開戦できないにきまっている」と見て、政府を窮地に追い込むため、「大義名分」を立てて強硬論を主張するわけだが、幕末の攘夷にもこれに似た面がある。
 こういうとき、その「大義名分」を本気にして行動に移す者が犠牲者になる。そしてこの現象は戦後になっても無くなったわけではない。そしておそらく円四郎は、栄一・喜作の二人は、情報を十分に与えてやれば「転向」するだけの合理性をもっていると見ていたのであろう。この場合の「合理性」とは言うまでもなく”日本的合理性”で、本心では開港であっても、必要ならばあくまでも「攘夷鎖港」を主張しておくという合理性である。確かに二人はそうなった。この点、平岡円四郎という人物は、人を見抜く目があったと見てよい。一方、またそれだけに各方面から、一種の捌疑をもって見られていたわけである。(p222)
一理屈つけて志願しようじゃないか
 『近代の創造』山本七平(p213 ~218)
 「(喜作)是まで幕府を潰すということを目的に奔走しながら、今日になってその支流の一橋に仕官するということになれば、到頭活路が尽きて糊口の工夫を設けたと謂われるであろう。又人の知る知らぬは姑(しばら)く措いて我心に愧ずる訳ではないか、
 (栄)成程その通りに違いない。ダガモウ一歩を進めて考えて見ると、外に好い工夫もない。首を縊って死んだ所が妙でもない、我々は高山彦九郎や蒲生君平のように気節のみ高くて現在に功能のない行為で一身を終るのは感心が出来ない。成程潔いという褒辞は下るであろうけれども、世の中に対して少しも利益がない、仮令志ある人だといわれても、世の為めに効がなくば何にもならぬ。マゴマゴして居れば縛られて獄屋に繋がれる虞れもあり、第一直に生活に困る、愈々生活に困れば終に大行は細瑳を顧みずという理窟を附けて人に寄食したり又は人の物を奪う様な悪徒になるより外に仕方がない。
 実はこの際好い便宜があるなら薩摩か長州へ行くが上分別だけれども、差当り一身を託す程の親友知己もないことだからこれも仕方がない。仮令今日卑屈と謂われても糊口の為めに節を狂げたと謂われても、それから先きは自身の行為を以て赤心を表白するという意念を堅めて置いて、先ず此の焦眉の場合だ、試みに一橋家へ奉公と出掛けて見ようじゃないか、
(喜)イヤ何でも江戸へ帰る。帰って獄に下った人々を引出さんければならぬ、
(栄)仮令引出そうと思っても、我々がいってオイそれと出せる位なら、幕吏も始めから牢に入れやしない。その友人を救い出す上に付いても、今ここで我々が一橋家へ仕えたら、目下の寒酸浪人と違って、軽士賤吏ながらも表面上に於ては一橋家の士という立派な身分が出来る。そうなれば幕府の嫌疑もおのずから消滅してその辺からして或は救い出す方便が生ずるかも知れぬ。この際になって敢て一身の安楽を謀る次第ではないが、今日目前の急に処するには、一橋家へ仕官の一案は随分一挙両得の上策であろうと思われる、
(喜)如何さま左様いえばそういう道理もある。然らば節を屈して一橋に仕えることにしよう」
 この議論を見ていくと、喜作より栄一の方が実際家である。だが、実際家の彼も、やはり何とも割り切れないものがある。そこで本当はもう「食うことも出来まぞぬ」窮状で切羽つまっているのだが、「一ト理窟を附けて志願しようじやないか。ソレハよかろう」ということになった。
 その「一ト理窟」とは簡単にいえば、自分たちは「天下の志士」を任じているから、志士として「私共両人に於ても聊か愚説もありますからそれを建言致した上で御召抱えということにして頂きたい」というわけである。翌朝平岡の所へ行って、お礼をいった上でその旨を話すと、「それは至極面白い、何なりとも見込書を出すがよい」ということであった。
 そしてその見込書を出すと、さらにその上、直接慶喜に会って一言申上げたいという。これには平岡もこまった。だが、このあたりのことを考えてみると、繰り返しになるが、まことに日本は妙な国である。彼が故郷で、領主の安部摂津守の家来にこんなことを申出ることは到底できない。ところが相手は三卿の一人、将軍後見職、禁裏守衛総督なのである。
 そこで次のような問答となった。「(平)否、それは例がないから六かしい、(両人)例の有無を仰しやるなら農民を直に御召抱えになる例もありますまい、(平)否そんなに理窟をいったとて左様は往かぬ、(両人)それが往かぬと仰しゃる日には私共はこのままにて死ぬとも生きるともこの御奉公は御免を蒙る外に仕方がありませぬ、(平)ドウも困った強情をいったものだ、先ず兎も角も評議をして見よう」ということになった。(p215)
 「たてまえ」上は到底それは出来ないことなのだが、日本では昔から今に至るまで、人脈をたどって非公式に行うという方法がある。いわば慶喜が乗馬で外出したとき、「遠見なりとも彼れが何某で御座る」と偶然に「御見掛けになる」ように工夫すればできる。そこで、面白い男だからといえば、一度会ってみようかということになる。そうなれば、慶喜の方から会おうということになるから、支障はないわけである。
 この策が成功して内々に「御目見えを仰せ付られ」ということになった。
 そこで「その趣意は、君公には賢明なる水戸烈公の御子にましまして、殊に御三卿の貴い御身を以てこの京都守衛総督という要職に御就任遊ばされた上は、恐れながら如何にも深遠の御思召が在らせられての事と存じます。今日は幕府の命脈も既に滅絶したと申上げてもよい有様であります。故に今なまじいに幕府の潰れるのを御弥縫なされようと思召すときは、一橋の御家も亦諸共に潰れますから、真に御宗家を存せんと思召すならば、遠く離れて助けるより外に計策はないと考えます。
 それゆえ君公には天下の志士を徐々に幕下に御集め遊ばすことに御注意が願わしう存じます。凡そ政府の紀綱が弛んで普く号令も行われぬというような天下多事の時に方っては、天下を治めようとする人もあり、又天下を乱そうとする人もありましょうが、その天下を乱す人こそは即ち他日天下を治める人でありますから、能々天下を乱す程の力量ある人物を悉く御館に集めたならば、他に乱すものがなくなって治めるものが出ます。
 所謂英雄が天下を掌に回らすというはここであろうと考えます。これらの辺に御深慮がなくばこの要職に御任じ遊ばす甲斐もないことと存じます。併しながら以上申上げた通り、天下の有志輩が往々御館に集って、姑息の旧弊も次第に改まり諸事快活の御取扱振りが行わるるという場合になりますると、幕府の嫌疑は目前の事で、詰る処は一橋征討などいう論も出るのでありましょう。
 万々一そうなった時には、已むを得ず兵力を以て抵抗するも差支はありますまい。申さば天武大友の乱のようなもので、敢て好む事では御座りませぬが、社稜の重きには替えられぬと存じます。畢竟幕府を潰すのは徳川家を中興する基いであります。能々熟考してみればこの事は全く道理に当るということが理会し得らるる様になります」(p217 )
 彼は「腹蔵なく申上げた」と記しているが、全く、いいたいことをいったものである。では、相手の反応はどうであったのか。「一橋公は只フンフンと聞いて居らるる丈けで一言の御意もなかったけれども、自分の考えた所では梢々この建言に注意して御聴取になった様に思った」と彼は記している。そうであったのかも知れぬ。しかしおそらく慶喜が注意を払ったのはその内容ではあるまい。さまざまな思惑が入り乱れる政争が彼のまわりにうずまいていた。これに対処していた彼にとって、栄一の言葉は単なる「書生論」であったろうが、関心ももったのは一介の農民までがこのようなことを考えているという、その事実であったろう。(p218 )
 
 なぜ栄一たちに、慶喜が乗馬で外出したとき、「遠見なりとも彼れが何某で御座る」と偶然に「御見掛けになる」ように工夫することで、「面白い男だから一度会ってみよう」という形の会見ができたか、ということである。「そこには徳川時代に、さまざまな形であった「下々の声を聞く」という一種の「明君気取り」という伝統もあったであろう。
 これは家康が愛読した『貞観政要』などの影響であろうか。何しろその冒頭に出てくるのが次の問答なのである。「貞観二年、太宗、魏徴に問いて日く、何と謂いて明君・暗君となす、と」。その答えは「君の明らかなる所以の者は兼聴すればなり。その暗き所以の者は偏信すればなり」であり、多くの者の率直な意見を聞けば「明君」、一人の意見を聴いてそれを「偏信」していれば「暗君」なのである。・・・慶喜は決して「暗君」ではなかったであろう。
 一方、栄一や喜作が、なぜ慶喜に仕えようとしたかである。「というのは言うまでもなく最初の迦遁の時点では栄一・喜作とも「高崎城乗っとり」を胸に秘めていたはずであり、その彼らがすでに「開港派に寝返った」という世評のある円四郎と同志のようになり、一方円四郎の方も二人を家来にして共に上京させようとしている。・・・
 こうなると、栄一・喜作にとって、一橋家に仕え、しかも実質的には円四郎の配下となることは、尊皇から佐幕へ、攘夷派から開港派へ、といういわば二重の背信行為になるはずである。筋の通った「尊皇攘夷的志士的行動」を示すなら、一橋家側用人中根長十郎を斬った浪士のように円四郎を斬って血祭りにあげ、一挙に高崎城へと押しかけるべきであったろう。(中略)
 だがここで少々順序を追って記せば、まず第一に、「攘夷」といっても、そこには「絶対派」と「条件闘争派」があったことである。藍香の「決起趣意書」を見ると、藍香自身が決して狂信的攘夷派でなく、いずれは開港は必至であろうが、現在の情況下で、屈辱的な開港はなすべきではないという一種の「条件闘争派」である。そして、幕府の現状では、屈辱的開港しかできないから、まずこれを倒して強力な中央集権政府を樹立してから、対等の立場で開港すべきであるというのであって、彼を師と仰ぐ栄一も、もちろん同じ意見であったろう。
 こうなると問題はその条件である。「正論」という面から見れば、そして日本を独立国と規定するなら、幕末に締結された「不平等条約」は確かに「半ば植民地扱い」といえるであろう。だがこれを完全に対等になし得たのが実に明治が終るころであり、現実問題としてはこの「正論」もまたこの時点では「空論」であったといえば言える。
 だが、いかに俊敏とはいえ、武州の田舎の農民であった藍香や栄一に、世界情勢への、それだけの認識はなかったであろう。そこで栄一・喜作が、慶喜も円四郎も、自分と同じような「条件闘争派的攘夷論者」で、対等の立場なら「開港する」論者と見ていても不思議ではあるまい。もっとも、そう見て自己を正当化したい願望が二人にあったという点もあるであろう。こうなれば、「一橋は又おのずから少し差別もあることだから……」という円四郎の一言が微妙な影響を二人に与えて当然である。(p228)
 
なぜ水戸藩士は一橋慶喜の側用人平岡円四郎を殺したか
 『近代の創造』山本七平(p228、241)
 日本ではしばしば、主義主張が「派閥争い」の「旗印」になってしまうことである。これは水戸の場合には明らかに見られる。この水戸の「大義を掲げての派閥争い」・・・これは最終的に殺し合いの悲劇で終る。・・・ここでは露伴の要約を掲げておこう。
 「概略を云へば、水戸は文化・文政頃より藩内およそ二派に分れて争ってゐた。其一は藤田東湖等の改革派で、尊皇の大義を抱き、他の一は市川三左衛門等の保守派で、主家中心の念に篤く、自然と改革派は尊皇から攘夷、攘夷から長州に連なるやうになり、保守派は主家中心主義から幕府に連なり、反改革的になってゐた。
 その二派が水戸及び江戸小石川邸を中心として、互に政権を奪ひ合ひ、随分刻毒の争ひを演じてゐた。それに水戸の先公の烈公の遺志、当主中納言が横浜鎖港の勅令を蒙れること、幕府が常に保守派を援けたこと、保守派が常に幕府の力を籍りて敵派を圧せんこと、反幕府的の長州の手が陰に改革派に結ばれた気味のあること、それ等の事情の上に会釈もなく時勢の波瀾が一揚一抑と押寄せて来たので、悲しむべく亦恨むべき厭はしい現象が展開された・・・」
 ここでは、その状態に何とか終止符を打とうとする者も、いずれかの「派」に色分けされる。そうなると、たとえ「条件闘争派」でも「絶対派」と行動を共にするか、「絶対派」と目されて失脚するかという、二者択一を迫られる状態に追い込まれる。
 前にも述べたように、当時の日本には絶対的攘夷派、条件つき攘夷派、無条件開港派がいたわけだが、この条件つき攘夷派は見方を変えれば条件つき開港派ともいえる。いわば「黒・白」と割り切りたがる日本的心情からすれば彼らは「灰色派」であり、そして「割り切り派」が最も嫌うのがこの「灰色派」であった。円四郎は、その時点では大した身分でもなかったのに、井伊直弼に危険視されて甲府勝手小普請に左遷され、最終的には、水戸藩士に殺された。いわば「黒」からも「白」からも狙われたわけである。(p239)
 露伴は次のように記している。「平岡は江戸の者だが、水戸出の慶喜を助けて功を立てて居たものを、水戸の士が無残にも殺したのである」・・・だが、絶対的攘夷などということが元来は「空論」なのだから、議論をすれば敗れるにきまっている。では敗れれば意見を変えるか、となれば絶対派はそうならないのが普通で、そのときは何らかの別の手段で相手を抹殺しようとする。これは今も変らない。そして平岡はその犠牲となったといえよう。
 だが当時の指導者の中に、心底からの絶対的攘夷派が居たか否か、となると、「否」といった方が正しい。日米修好通商条約の締結に端を発する朝廷・幕府の対立は、表面的に見れば幕府が開港、朝廷が攘夷と見える。しかし、この発端となったのは、当時一侍従に過ぎなかった岩倉具視が同志の公卿ら八十八人と語らい、『神州万歳堅策』という意見書を提出したことにはじまる。
 この意見書の主文「和親然るべがらざるの事」の冒頭「墨夷(アメリカ)の一条、古今未曽有の大事に候。若し仮条約の如く許さるに於ては、神代の間は言はず、神武帝より幾千年の間、堂々たる神武の皇国独立の規則、当御代にして一時に廃毀せられ、遂に異邦の属とならん事、誠に恐儒悲歎の至りに候」につづく文章を読むと、絶対的攘夷派のようにも見える。だがこの「和親然るべがらざるの事」の結論ともいうべき部分は、次のように交渉すべきだとなっているのである。
 ・・・その節に至りては、尤も、唐・蘭・貴国を以て、次第を立つべし。是等決して妄語にあらず。能く能く熟考せらるべし。同盟の国たらんとするに、その国の形勢風習を知らずんばあるべからず。且つは、信を失ふ所也。又同盟の国たらんとするに、その国の使節を受くるのみ、居ながらにして答礼せざるは、礼を失ふ所也。又吾が国改めて合国の法(条約の締結)を立つるの上は、吾が国を許し、彼の国を許さざるいはれなし。然らば、諸藩各国(諸外国)の為、許否の論なく、且つ、交易諸品甲乙の遺恨なからしめんと大いに算計して、大いに好しみを結ばんと欲す。皆是の芳志に従ふ所也』と」さらにそれにつづく「徳川家、長久思し召さるべき事」を読むと彼は倒幕論者ともいえない。
 さらにこれと対立しているように見える幕府側の堀田正睦も、現状では孤立的攘夷などは不可能だから、まず国力を充実することが必要であり・・・広く万国に貿易交通し、彼の所長を採り、此の不足を補ひ、国力を養ひ、武備を壮にし、漸々全地球中、御威徳に服従する御国勢によりて……」と記しているように、「まず開国」は現状に対応する一つの手段であるとしている。
 これを読み比べていくと。まるで「全面講和か単独講和か」の議論のようである。この議論は実に鋭く対立するように見えるが「講和」という一点では対立していない。だが両者の間に妥協はない。この場合の議論は、それが現実の政策論である限り、いずれが日本を含めての世界の実情に正しく対応しているかが問題であり、「理想論」は「理論的整合性」はあっても必ずしもその時点の「理想的現実論」ではないということである。
 さらに問題なのは、いずれが当事者能力をもっているかということであろう。だが絶対的攘夷派はこれと違って、徹底的抗戦派のようなものであるから、彼らはやがて宙に浮いてしまう。そして彼らは、慶喜は斉昭の子だから絶対的攘夷派のはずだと勝手に思い込み、それを妨害している「君側の奸」が平岡円四郎だと見た。
(p242)  
 なぜ明治維新の原動力となった尊皇思想を育てた水戸が、明治維新期において内ゲバを繰り返し、維新後「そして誰もいなくなった」というような状態に陥ったか。同じ尊皇攘夷の旗印を掲げ明治維新を成し遂げ、維新後、多数の人材を輩出した「薩長土肥」と一体何が違っていたかについて考えて見たい。
 そもそも尊皇思想がどのようにして生まれたかということであるが、それは戦国時代・文禄・慶長の役を経て成立した徳川幕府が、下克上からの秩序回復を目指して「体制の学」として朱子学を導入したことに端を発する。これが「慕華主義」という中国を理想化する風潮を生み出し、同時に、朱子学のもつ正統論を受けて、日本における王位の正統性が論じられるようになった。
 ところが、明か滅び、多くの亡命者が日本に来るようになると、現実の中国は「畜類の国」となり、また、歴代の中国王朝は「簒臣、賊后、夷荻」の歴史であって、日本こそが万世一系の天皇をいただく、朱子学の正統性が保持された「中国」であるという発想が生まれた。
 そこで、日本の歴史を、中国の歴史書『資治通鑑』や、それを模した『本朝通鑑』に対抗して、『史記』をまねた「編年体」による歴史書を書こうとしたのが水戸光圀の「大日本史」であった。光圀は水戸に弘道館を開き、藩命をかけてその編纂を開始した。
 一方、朱子学の研究は、藤原惺窩から林家を経て山崎闇斎の崎門学へと発展し、垂加神道とよばれる天照大神信仰に基づく神儒合一の尊王論が説かれた。また、伊藤仁斎の古学、荻生徂徠の古文辞学の流れでは、朱子学以前の孔孟の原典の本義に立ち返ることが主張され、前者はその倫理的側面、後者は政治的側面が強調された。そして、その研究手法が日本の歴史研究にも用いられ、本居宣長の「古事記伝」が生まれることになった。
 こうした研究成果が「大日本史」編さんに取り組む水戸に集約され、幕末の「水戸学」と呼ばれる尊皇思想を形成していった。折りしも、外国船の漂着や来訪が多くなり、その技術力・軍事力に脅威を感じたことから尊王攘夷論が説かれるようになった。
 そんな中で、幕府がアメリカのペリーの要求を受け入れ、天皇の勅許を得ないまま日米和親条約を締結したことから、幕府批判が高まり、大老の井伊直弼が尊皇倒幕運動の志士たちを弾圧したことから、水戸浪士による井伊直弼暗殺事件である桜田門外の変(1860年)となり、幕府の権威が地に落ちることとなった。(次項に続く)
 
水戸の尊皇攘夷が内ゲバで自滅したのはなぜか
 『近代の創造』山本七平(p228、241)
 (水戸の尊皇攘夷運動に)派閥争いや長州の討幕の策謀が入ってくると、議論を越えた生ぐさい政争と情念の激発になってしまう。すでに水戸では武田伊賀守、藤田小四郎が兵を挙げ、一方京都では池田屋騒動が起っていた。
 (さらに)やっかいな問題が迫っていた。それは水戸の絶対的攘夷派筑波山党の西上である。『雨夜譚』には次のように記されている。  「全体この水戸浪士が西上する原因というのは、先程その端緒を述べた通り、藩中党争の破裂から起ったことで、その巨魁の武田耕雲斎(伊賀守)、藤田小四郎などという人々は、これまで同藩ながら他の党派とは氷炭相容れずという勢いで、常に仇敵のような有様であった、処が、この歳の春、武田派の人々に何か暴激の挙動があったのを口実として、他の一党、即ち書生連の市川派が頻りに幕府に請願してこれに賊名を負せて追討するという騒ぎになった。
 武田派の天狗組(筑波山党)は何れも鎖攘主義の壮士輩が団結したのであるから、自然幕府が近来の措置に心服することが出来ずに、終に筑波大平等の嶮要に立寵って数回幕府の討手を悩ましたけれども、詰る処は衆寡敵せず、武田、藤田はその残兵を引率して路を中山道に取って京都に上り、その党の寃(えん=うらみ)を一橋公に訴えて正邪曲直の判定を乞うという趣旨であった。故にその表面の挙動は兎も角も、その衷情を察して見れば、憐むべき所が少なからんように思われました」と。
 彼がそう思うのも無理もない。その中にはかっての高崎城乗っとりの同志もいたのだから、他人事とは思えなかったであろう。だが彼らは加賀藩に降伏し、敦賀港でほぼ全員が斬罪に処された。栄一が平岡に会わねば同じ運命に陥っていたかも知れぬ。
「胃袋は平凡であって無邪気の要求をする」
 この事件が栄一に与えた大きな影響は、「経済」ということであったであろうと露伴は次のように記している(傍点筆者)。
 「栄一が経済に心を致すに至ったのは、其家が元来半農半商で実業を事とし、父・祖父等が理財の道に善く力めたからの自然的の傾向からのみでは無い。又自分が上洛後に喜作と共に窮乏に面して困った体験が心に浸みて銭財の大切なことを痛感したからでも無い。儒教はもとより余り多く財利を語ってゐない。支那学では僅に管子が生財富国の事を言ってゐるのみである。
 然し当時の世態は、政治上の困難の多かったのみならず、経済上の困難も大きなるものが有ったことは、誰しもの眼に映じてゐたのである。ただ財利の事を言ふのは、当時の武士気質、慷慨家気質、英雄気質等とは背馳したもののやうに感ぜられてゐた世だから、誰も政治や兵務の事は論じても、生財興利の事などは考へるに及ばなかった。ただし表面の何様な好い事でも、いざ之を実際に施行する段になると、之を裏づけるところの財力物力が有って而して支持するので無ければ、ただ口頭紙上の美あるのみで、夢の如く幻の如くなるに終るのは知れ切ったことである。
 栄一の目のあたりに知れる最も近い例では筑波山一党の事の如き、初め藤田小四郎が四五十名の同志を得たのは、もとより肝胆相照らすの士の集まったには相違無いが、小四郎が何処からか得た財が有ったればこそ人を集め得、之を保ち得たのである。如何に忠肝義胆の人だとて、胃袋は平凡であって無邪気の要求をする。田丸稲之衛門等の同意を得て筑波に雄視するに及んでは、人が多くなったから、糧も多くを要せねばならなかった。何様して之を得たか、財は無かったのである。(中略)
 筑波党は人の多くなるにつけて費も嵩むので、軍用金徴発は愈々厳しくせねばならなくなった。小山・結城・下館は云ふも更なり、別手の田中原蔵一隊の如きは、栃木・北条・真鍋・土浦・那珂湊・祝町・太田・菅谷の諸地を暴掠し、散髪組と云はれて虎狼視され、博徒等之に追随して私利を図るに及び、遂に本隊は原蔵を除名せざるを得ざるに至ったほどだった。是皆資金無くして事に臨んだ無理より生じた恐るべき弊害で、筑波党は日に日に其真意より出たるにあらざる行為の故を以て社会から駆逐さるべき形勢を造った。
 筑波を出て西上するに及んでも、八百余人を以て長途を行くのに、何様して其費用を支へ得よう、信濃路などでも在々の富豪から、強談押借、手取り早く言へば掠奪しつつ自ら支へて、そして越前新保まで行ったのである。水戸領の人民でも強ひて徴発されては怨嵯するに、まして縁も無い他領の人民が槍刀で物資を取られて怨恨憤怒せぬものが有らうか。筑波党の初念は必ずしも是の如きを敢てする訳では無かっだけれど、経済の裏づけの無い所行は遂にかかることに立至って、そして其無理な所行は一般社会から自分等の存在を呪はしむるに及んだのである。
 僅々五百両の献金を累代の藩主の吏員から命ぜられてさへ、憤憑遣る方無かった記憶のある栄一の眼に、万々已むを得なかったとは云へ順当の経済の伴はない意図の実際の結果が何様なことになり、且又無理な行為の果が何様に社会からは看倣(な)し思倣さるるに至るべきものであるかは、如何に深刻な教訓を含んで映じたか推察すべきものがある。況んや藍の商業上の金の百五十両ばかりを以て武具を購ったほどの規模で、彼の時高崎の城に取掛りなんどしたら、全然経済の裏づけも無い諸生一団が、よしや城は陥れ得たにしても、何様な事になったらうか、問はずして知るべきであった、と今更省みて自ら驚かずには居られなかったらう」
 
 もともと水戸は、徳川幕府の御三家の一つであり、幕府を守るべき立場にあった。その幕府が尊皇思想とどう折り合ったかというと「天皇が絶対ならその天皇により宣下された将軍もまた絶対」と考えたのである。山崎闇斎まではこの考え方だったが、その弟子浅見絅斎になると、尊皇思想に基づいて「歴史の過ちをただす」、つまり「天皇親政に戻すべき」と考えるようになった。
 幕末には、こうした過激な尊皇イデオロギーを抱く「尊皇の志士」が日本各地に生まれるようになった。武州血洗島の農民の子である渋沢栄一も、自分は天皇に直結していると感じ、領主も将軍も無視して尊皇運動に加わった。彼らの目的は封建制を打破し郡県制の政体を採用すべきであるとする考え方だった。
 では、こうした尊皇攘夷運動における水戸とその他の藩との違いは何処にあったのだろうか。結果的に見れば、尊皇攘夷運動は尊皇開国へと方針転換せざるを得なかったわけで、水戸の場合は、御三家の一つであったことから、あくまで幕府の方針に従うべきとする諸生党と、水戸斉昭の意を体して急進的な尊皇攘夷に走る天狗党に分裂し、激しい対立抗争を続けることになった。
 この対立は、はじめは「大日本史」の編集方針を巡って争われた。そもそも『史記』をまねて紀伝体で日本史を記すことに無理があり、そこで立原翠軒派は、「本紀・列伝」だけで「書(年表)・表(制度史)」は省略せよと主張、これに対して「紀伝体」に「書(年表)・表(制度史)」は不可欠と藤田幽谷派は主張した。こうした学派の争いから政争へと発展し、やがて酸鼻を極める相互粛正となった。
 山本七平は「西欧では最も醜い争いを「神学者の争い」といい、思想と政治が妙に絡むと恐るべき状態を現出するのは、何も外国だけの現象ではない。「日本人はああいうことはしないなあ」という人は、この「水戸の体験」を忘れているにすぎない。明治維新が一種の革命であり、旧政権を武力で打倒しながら、「流血の粛正」を起こさなかったこと(もちろん例外はあるが)の背後には、「水戸の前例」が生々しく眼前にあったからだと私は推定している」と言っている。
 水戸光圀のはじめた「大日本史」の編さん方針を巡る対立が、なぜ、藩の主導権を巡る諸生党と天狗党の政争となり、すさまじい「流血と粛正」の応酬となったか。それは、「大日本史」が生んだ尊皇思想が、日本史の実像を離れた「神学の争い」だったからではないだろうか。薩長はこれに気づいたが、水戸はこの矛盾に引き裂かれた・・・。
 
一橋慶喜家臣としての渋沢栄一は、薩長の動きをどう考えていたか
 『近代の創造』山本七平(p278~281)
 この間の時代の情況の全般、それに対する栄一の態度は、大正十二年の大震災のために中断された『渋沢栄一伝稿本』に簡略に記されているから、それを記そう。
 「かく一橋家の為に東奔西走せる間に、天下の形勢は急劇に推移せり。かの蛤門の事変後、幕府は朝命を奉じて長州征伐の軍を起し、尾州の前藩主徳川慶勝総督となり、諸藩の兵を率ゐて本営を芸州広島に進むるや、長州は一兵をも交へずして降を請ひ、同藩主毛利慶親父子は寺院に蟄居して罪を俟(ま)ち、上京軍の主将たりし福原越後・益田右衛門介・国司信濃の三家老の首級を、総督の軍門に献ずるなど、恭順の意を表したれば、総督は兵を撤して京都に帰り、長州に対する処分を後日に譲れり。
 かく長藩が容易に恭順を表したるは、同藩の附属たりし吉川経幹等を中心とせる、温和派が勢力を得たる為なりしに、幾もなく高杉晋作等の激論派は幕府の態度を憤慨し、寧ろ長防二州を以て覇を天下に争はんとし、兵を以て藩府に迫り、遂に要路の重臣を更迭せり。 よりて幕府は再び長州征伐の師を起し、将軍家茂公自ら牙営を大阪に進め、紀州藩主徳川茂承を先鋒総督として、諸藩の兵を統べしめ、老中小笠原長行を豊前小倉に派して九州軍を指揮せしめたれども幕府の兵常に利あらず、石州口に於ては浜田城を奪はれ、九州にては豊前の小倉城を陥れられ、芸州口も亦危く、幕府は殆ど手を下すに由なし。
 折しも慶応二年七月二十日家茂公大阪城中に薨じ、慶喜公衆に推されて宗家を相続したれども、思ふ所ありて暫く将軍職をば受けられず、喪を秘して自ら征長の途に上らんとし、勅許をも蒙り、節刀をも賜はりたり。これ先生が中国筋より京都に召還せられし数月の後の事なり」
 以上を見ると、何しろ長州との戦争の間に最高司令官が病死してしまったのだから致し方ない。いずれの場合でも。人の運命も歴史の運命も予定通りにはいかない。慶喜には、何かもくろみがあったかもしれぬが、この危急の時には、たとえ栄一の進言したことを、内心その通りだと思っても、「その時点」では他に方法が無かったであろう。
 だがここで少々奇妙な位置に立たせられたのは栄一である。元来彼の主張は攘夷鎖港・尊皇討幕のはず。彼の夢のような構想は、長州と結び、水戸の一部とも連携し、共同蜂起して幕府を倒すことであった。その彼が慶喜に従って長州征伐に向うとなれば、きわめて奇妙な位置に立たされる。この間の資料を見るとさまざまな矛盾した言葉が出てくるが、それは、そうあって当然であろう。いわば慶喜はもう拝謁も出来ぬ「雲上の人」になってしまい、自分は自動的に下っ端の幕臣になり、もはや、何もできぬような地位になりそうである。
 それには耐えられない。『雨夜譚』には、「殆ど懐いた玉を奪われた」ような感じだと記しているが、しかし慶喜自らが長州征伐に向うとなれば、そこを去って浪人すれば「やっぱり奴は百姓の子、小才は利いたが戦となれば逃げ出した」ということになる。そして他人はどうであれ、慶喜にもそう思われることは、彼には耐えられぬことであったろう。
 前記『稿本』には「『嗚呼公は賢明の誉れありとはいへども要するに紈袴(がんこ=贅沢な暮らしをした人のたとえ)の貴公子なり、此の如き有様にては、幕府の前途亦知るべし』と、渋沢喜作と相共に浩歎の声を洩しけるが、『さるにても大事既に去りて復た為すべからず、余輩は再び浪人の昔に帰るべきか、浪人したりとて策の施し難きを如何にせん、さらばとて此ままにて安居すべきにもあらず、寧ろ死生を度外に置きて、一橋家を去るより外に手段なかるべし』など語り合へり」とある。
 これもこの通りであろう。だが一方『雨夜譚』には「・・・自分も長州征伐の御供を命ぜられて、勘定組頭から御使番格に栄転した。前にも述べた通り、自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは一図に一橋家の会計整理に力を尽して、種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬という場合になっては、腰抜け武士となって人後に落ることは好まぬ気質だから、強て従軍を願って、御馬前で一命を棄てる覚悟でありました」とある。 これもこの通りで、「腰抜け武士」などといわれてはたまらないという気持があったことも否定できまい。
 彼は「二年八月出陣の御供を命ぜられて御使役を兼ね、此時の辞令に、『御出陣御供仰付、御用人手附と可心得候』とあり」と『稿本』にはある。当時の編制表を見ると「御用人手附」はいまの「司令部付」である。御用人は大体指揮班部、御小姓・御近習番が副官部と見れば彼は「指揮班付」ということ、おそらく御用人の一人の原市之進の下で働くことになっていたのであろう。(p281)
 だが慶喜の目論見は薩長と岩倉具視のクーデターによって頓挫し、戊辰戦争となる。この間、栄一は日本にいなかった。この点確かに彼は幸運児であったが、この幸運も彼が自ら追ったものではなかった。その前にわずか二年余だが、その才を十分慶喜に認めさせるだけの仕事をしていたからに外ならない。
 だが彼が幸運というなら、日本も幸運であった。確かに日本、特に「上方」は資本主義化しうる前提をすべてもっていたといってよい。だが、それが本当に「近代国家」となる「産みの苦しみ」はどの国も経験する。南北戦争の間、ほとんど外国の干渉がなかったのがアメリカの幸運なら、少し遅れて戊辰戦争という内乱の間、ほとんど外国の干渉も軍事介入も受けないですんだのは日本の幸運である。(p288)
 
 
なぜ栄一は第十一代水戸藩主徳川昭武に随行しフランスに行ったか
 『近代の創造』山本七平(p284~287)
 (慶応二年(1866年))十一月二十九日先生は原市之進〈此時幕府に召されて目付の職たり〉の招きによりて其邸に赴けるに、市之進は詳に昭武海外派遣の事情を語り、且告げて曰く、『公子の洋行につきては、水戸藩士の間に非常の反対ありしが、とにかく異議も収まりて事決したれば、公子の御世話すべき為に、同藩士七名に随行を命じたり。
 然るに此人々は頑固の質にして、更に攘夷の志を捨てざる者なれば、将来公子の留学につきても種々の障り多がるべし。因りて公の御内意に、篤太夫は嘗て攘夷論者たりしこともあれば、中にありて調停せんに適任ならん、殊に有為の材なれば、彼が前途の為にも、海外に遊学せしむべしとの仰せなり。幸ひ庶務会計の任に当るべき者を要すれば、足下之を担当せよ』といふにぞ、先生大に喜びて、即座に命を拝したり」(渋沢家文書御用留)
 確かに慶喜には人を見る目があった。実は昭武の洋行はコチコチの攘夷派の水戸では大問題で、『昔夢会筆記』によれば、まず絶対反対だが、どうしてもというなら二十人も三十人もが警護のため同行するというのである。これを何とか七人にしぼった。この七人などは留学などはまっぴらだという攘夷派だから、逆にどんな問題を起されるかわからない。その上、会計その他の実務となればこれまた全く出来ない。はじめから邪魔な存在だが、といって拒否も出来ない。
 そこで一応、攘夷的心情も理解し同時に実務・会計の能力のある栄一を選んだわけである。さらに栄一は度胸もあり剣術にも自信があって、この少し前に国事犯嫌疑の大沢源次郎を一人で捕えているから、頑固な七人に一歩もひかず、主張すべきところは主張すると見込んだのであろう。この渡仏は彼にとっては「渡りに舟」だった。だがその心情をそこまでは深く理解していなかった原市之進には、あまり簡単に彼が引受けだのが意外で、不審だったらしい。『雨夜譚談話筆記』には次のように記されている。
 「或る日原氏が是非私に会ひ度いと言って来た。そして訪問すると、私に民部様のお伴をして仏蘭西に行く気はないかと言い且『実は此事は私一個の私案ではない。将軍の御心配になって居られる事だから、軽率に考えをきめないように、熟考の上で、イエス、ノーをはっきり返事して呉れ』と、勿体附けての話であった。
 私は前にも云うたように其頃慶喜公の宗家御継承に不満を抱いて居ったのであるが、彼れ是れ申す身分でないと諦めて居った矢先で、仏蘭西行きを命ぜられる事は、暗夜に光明を得た感じがあった。原氏の話では『民部様の御伴として七人程行く事になった。実を言うと先方で民部様は稽古をなさる事になるかも知れぬ。それで思慮ある人をと云うので、種々考えた上篤太夫がよかろうと云う話が出た。それで撰り抜きの者として御申附け下さるものと思って呉れ。
 又自分としても君の名指しをするに就て、表向きの用を弁じて貰う外、民部様に学問をおさせ申すに役立てる考えであるから、其処を酌んで引受けて呉れ』との事であった。私は之を聞いて大変喜んで早速『御引受けしますが、其出発は何時ですか』と尋ねると、来年の春との事である。『私は今日からでも差支えありません。喜んで参ります』と答えると、原氏は『何うも君の話振りが変だが、後になって厭だなどと言っては大変困る。冗談でないのだから、其積りで答えて呉れ。本当に行くのか』と言う。
 真に喜んで居る。本当に行く決心であると答えると、原氏がそれではキット行くねと念を押した。。そして『君は従来攘夷論者であったから、自分は仏蘭西行きに就いては充分君を説得しなければならぬと覚悟をして居ったところ、如何にも待ってましたと云う風に承諾したから変に思われる』と不審らしい顔付であった」
 「最早日本は欧米を排斥する時代ではない」
 この『雨夜譚談話筆記』のこの部分は『雨夜譚』とは違って昭和二年十一月から昭和五年七月の間に、ということは晩年に思い出を筆記させたのだから、細部については明治二十年の『雨夜譚』ほど正確でないかも知れぬ。だが、おおよそのところはこの通りであっただろう。
 攘夷派といっても種々様々なことは前に記したが、極端なものは「夷秋は禽獣」のはずである。原市之進がそう思っていたなら、慶喜の意向だから「何とか説得せねば」と思ってやって来たのであろう。それが大喜びで、すぐにでも行くというのだから、半ば信用しかねて念を押したのも無理はない。これに対して栄一は次のように答えている。
 「そこで私は『私は此頃全く目的が外れて、一命を捨てようか、百姓しようかとさえ迷って居った次第で、仏蘭西行の命を受けることは真に喜ばしい。のみならず最早日本は欧米を排斥する時代ではない。寧ろ砲術医術等に付ては大に学ばねばならぬと近頃漸く悟って来て居た所で、今度仏蘭西へ行って、親しく種々のことを見聞することが出来るのは幸である』と云った」と。
 ここに相当に大きな心境の変化がある。もちろん情報に敏感な彼は、さまざまな点で西欧が日本より格段に進歩していたことは知ってはいたであろう。だが、一つの契機は市川斎宮から電信機の使用法を習ったことではないかと思われる。というのは実証的な彼は、この電信機を通じて彼我の実力の差を具体的に悟らざるを得なかったはずである。
 この市川斎宮は加藤弘蔵(後の加藤弘之)とともに「蕃書取調所教授」であった。西周も市川斎宮、津田真道とともにいた。西周と栄一が直接に会ったという記録はないが、市川斎宮と同居していたのだから、何らかの接触はあったかも知れぬ。また情報に敏感な栄一のことだから、間接的にも、何かの知識を得たものと思われる。
 西周が慶喜に意見書並びに議題草案を奏上したのは慶応三年十一月だから、大政奉還の後である。だがその前に、「西洋官制略考」を呈出しており、さらにその前に、口頭ではあるがさまざまの意見を慶喜に述べていたらしい。慶喜の大政奉還はもちろん政権放棄でなく、西周の案に基づき、イギリス式に諸侯で上院をつくって大君が議長兼総理となり、各藩から藩士一人ずつを選出させて下院をつくる。
 そして大君は下院の解散権をもつ。法案は上下院で審議決定の上、禁裡に移して欽定をうけ、これを政府に下して発布するといった制度をつくるつもりであったらしい。というのはこれが大体、西周の意見で、その際彼は天皇は「君臨すれども統治せず」のイギリス式だが、これは日本の実情に最も適合していると思ったのであろう。(p287)
 
 
いわゆる「歴史とは勝者の産物に過ぎぬ」ことを忘れてはならない
 『近代の創造』山本七平(p396~398)
 (明治元年(1868年)11月3日、約1年9ヶ月の洋行を終え栄一たちは)横浜に上陸したが、それは出発時の華々しさと打って変わった”国事犯容疑者”乃至は危険人物のような取り扱いであった。(中略)
 「函館では誓約(栄一と喜作が別れるとき、徳川政府はもう長くなく亡国の臣となる事を甘んずるより外ないが、末路は不体裁にならぬよう、死ぬべき時には死恥を残さぬようしたいものだと、互いに後事を談合して決別した)を交わした喜作がまだ戦っており、やがて両三日後平九郎の死を知る。さらに藍香にも捕縛の手が伸びるかも知れぬ。「実に見るもの聞くもの皆断腸の種ならざるはなしという有様であった。」(『雨家譚』)(p397)
 だが読者は不思議に思われるかも知れない。尾高藍香は言うまでもなく「高崎城乗っとり」の首謀者、その決起趣意書を読めばその目的が尊皇攘夷討幕であったことは明らかである。もっとも「攘夷」は彼の場合、あくまでも条件付で、その真意はむしろ「不平等条約の一方的押付けに屈することは出来ない、対等なら開港に反対でない」であったであろうが、幕藩制を廃止して郡県制とし、身分制度を撤廃するのが目的だったはずである。
 そしてその決起の裏には、長州の決起に対応し、同時に水戸の決起もうながすという意図も秘められていたはずである。ではその彼がなぜ、薩長の江戸進攻を歓迎し、そのために何かをしようとせず、逆に彰義隊編成の黒幕となり、さらに外部からこれを応援する振武軍の一員として彼の実弟で栄一の「見立養子」の平九郎が割腹自殺という「戦死」までしているのか。なぜであろうか。
 この問題に入る前にまず「いわゆる歴史とは勝者の産物に過ぎぬ」ことを忘れてはなるまい。たとえば「通州事件」といっても、この言葉はもちろん、こういう事件があったこととその影響を知る人は、現在では、一定年齢以上の人であろう。もちろんこの言葉は教科書にも新聞にも出ないであろう。しかしこれが日華事変の一つの契機になったことは、当時のことを知る人には説明の必要はあるまい。だがいまこの問題を人びとに理解してもらおうと思うなら、大変な努力が必要で同時に誤解も覚悟しなければなるまい。
 同じことである。戦前の日本は「皇国史観」だったと言われるが、同時にそれは「薩長史観」であった。簡単にいえば「勤皇は薩長」で「善」、それに対抗する者は「佐幕」で「悪」という単純な割切り方である。だが「勤皇」といえばそれに徹していたのはむしろ会津藩で、そのため藩庫を空にしたが、逆賊ということになり、廃藩置県のときその藩士は秩禄公債ももらえなかった。そして西郷をはじめとするりリーダーはみな英雄となったが、「薩長史観」の影響なき時代の人びとにとっては、これはまことに割り切れないことだったに相違ない。
 というのは、頼朝以来の長い幕府制に終止符を打ったのは彼らではなく、大政奉還をした慶喜であるというのが、当然のことだが、当時の人間の常識だったわけである。その慶喜がなぜ朝敵なのか。冗談じゃない、彼こそ「王政復古」の最高の殊勲者ではないか、この殊勲者を無理矢理「逆賊」に仕立て上げて江戸を占領しようとするのは、彼らが何らかの野望を秘めているに相違ない。これが藍香らの感情であっただろう。

明治が孕んだ虚偽が昭和の破綻の芽があった
  『近代の創造』山本七平(p399~401)
 彼ら(藍香、喜作、平九郎など)がなぜ決起し、どのように行動したかは、郷土史家吉岡重三氏の『新藍香翁』と『渋沢平九郎伝』に詳しい。だがこの細部を紹介するのが本稿の目的ではないので、ここでは藍香自らが選した『渋沢平九郎昌忠伝』の一節を引用しよう。大体これで意を尽されている。(原文のカタカナをひらがなの新かなづかいに改む) 「時に慶応二年の冬、外従兄にて姉の夫かつ平生教導を受けたる渋沢栄一、さきに一橋府に仕え徳川幕府に転任し、遂に公使徳川民部卿に陪して法郎西(フランス)に赴くにあたり、昌忠(平九郎)を以て義子とし江戸に居らしむを望まる、之に応じて三年の夏より江戸本銀町四丁目に宅を定め、これに住す、
 尤も別に勤仕する事なく、只義父の官禄を受けて文武の技を講習し、兼て時勢の日々危殆に赴き、幕府の威厳衰替に至るを嘆じ、冬十月京師に於て慶喜公政権を朝廷に奉還し、大将軍職を辞するにあたっては群議風聞百出し、昌忠江戸に安んぜず、同志士と謀り郷里に来り、伯兄惇忠(藍香)に諮問し、倶に江戸に返り時務に応ずるの策を講究し尽力する処あり、
 然るに昌忠幼年より尊攘の大義を会得し、攘夷せざれば国是に背くとの感念深かりし故に、世上慶喜公の開国主義を確守するの事に於て疑団解せず、毎に伯兄惇忠に質問し、惇忠の説明を熟知し、世間攘夷鎖港を喋々する者は真正の勤王に非らずして討幕を計るの術策か、或いは宇内の大勢を知らざる者の説に過ぎず、方今の国是は尊王開国世界万国と和親交通して互市貿易を盛んにし、彼の長を採り我の短を補し、殖産興業新奇発明の技術を開進し、外内倶に富強を経営するの外他策なく、
 我が慶喜公は皇国の存亡を以て自ら任じ、徳川家の盛衰を顧ず、・・・ 信を外国に失わずして皇国の威を伸ばし、その他征長の兵を解き、今又大政を奉還し、皇室中興の大業を創立するが如き、悉くみな天下の決行し難き事を挙行し、いわゆる国家有るを知りて身有るを識らざるの偉行をなされしは、古往今来世界万国未だ聞かざるの忠義大略なり、
 かかる人幸いに出て皇国の名義を分明にし、経国の基本建てたり、吾党十余年報国の志念もかかる人に随ってその成功を補翼せば、真正の尊王攘夷なり、かつ慶喜公の人材を登用する弘く外国人に及ぶ、苟(いやしく)も明良の抜擢を受くれば外国人と雖もその知遇に感奮して報公を計るは何ぞ内国人に異らんや、公の英明なる既にここに至れり、
 然れども公の所為は公明正大にして尋常謀略家の窺い知る所にあらず、また幕府有司の考案に勝いざる処なれば、自是ますます公の一身より徳川家の保安は危殆ならん、これ固より公の期する処なり、汝已(すで)に渋沢栄一の義子として徳川氏の臣たり、兼て昔日志念する尊攘の実に叶うの君主を獲たり、誠に男子の本懐なれば一意忠義を励行すべしと伯兄の説を服膺し他念なし」
 この藍香の説は薩長といえども認めざるを得まい。というのは暗にこれを認めているに等しい言説は岩倉具視にも大隈重信にもあるからである。このことは詳説しないが、両者の説を要約すれば次のようになるであろう。
 岩倉は明治の天皇制を招来したのは、天皇自身の力によるのでなく、「天下の公論」によるとしている。だがこの「公論」には二つの虚偽があった。というのはそのスローガンは、「尊皇攘夷・王政復古」のはずである。「復古」は字義通りに解すれば武家政治以前すなわち大宝律令の昔に帰すということ、攘夷とは外国船を打ち払って鎖国をつづけるということである。
 しかしひとたび政権をとると、「尊皇開国・御一新」で欧米の制度その他をずんずん取り入れる、いわばかの「天下の公論」とやらは、政権奪取のためのスローガンにすぎず、実行したことは主張したことの逆で慶喜の政策の踏襲である。「尊皇開国」で外国の制度、技術等を積極的に取り入れようとしたのは慶喜であり、彼らはそれを「蘭僻」とか「洋夷芬々」とか言って非難したはず、非難して慶喜を「朝敵」にしながら、その結果やったことは慶喜の政策そのままである。
 第一、「倒幕」は慶喜自らが行なったので薩長が行なったのではない。大隈重信は明治になっても「維新派」と「復古派」のあったことを記している。確かに明治の初めには大教院などをつくって、「復古」らしい「擬態」は示したが、結局「維新派」が勢力をしめる。しかし元来の「維新」とは「維新して復古する」はずだったのが「維新とは欧化」に転じてしまう。  多く人はこのことを忘れてしまったが、実にこの虚偽の中に、昭和の天皇機関説糾弾、二・二六事件、つづく日華事変から太平洋戦争に至る破滅の芽があった。「維新とは欧化」なら天皇機関説は当然である。ここに明治の虚偽があり、虚偽に基礎をおく体制はいつかはその虚偽を清算せざるを得ない。このことを思うと戦後体制の出発点に果して虚偽がなかったか否か、検討すべき問題であろう。(p401)
   
 
幕府のみならず江戸人が最も嫌いかつ信用しなかったのは長州ではなく薩摩
 『近代の創造』山本七平(p401~408)
 平九郎二十二歳の壮絶な死
 話は横道にそれたが、幕府のみならず江戸人が最も嫌いかつ信用しなかったのは長州でなく薩摩であった。少なくとも長州は、堂々と幕府に敵対した。慶喜は長州征伐を中止させたのだから、彼らとて慶喜に恩義はあっても怨はないはずだが、しかし堂々と敵であったのならそれはそれでよい、彼らも犠牲を払っている。
 許し難いのはむしろ薩摩で、彼らは元来、京都守衛総督の慶喜の下に、会津とともに居だのではないか。それが「薩長密約」で秘かに慶喜を裏切り江戸で放火をして挑発する。これだけは絶対に許せんと思っていたところが、征東軍の参謀は西郷だという。この思いは慶喜にもあったが、これだけで江戸人を憤激させるに十分であった。藍香はその間のことを淡々と記している。
 「十二月廿五日、浪士江戸薩州邸に僣居し、市中を乱暴し酒井左衛門尉屯所を砲撃し、江戸城ニノ丸を放火焼亡し、遂に酒井氏大挙してその巣窟を討敗するにあたっては、昌忠(平九郎)書を義祖父渋沢晩香(市郎右衛門)に寄せてその概略を述べ、尤徳川家危殆の今日にあたり、怨を大藩に結び、兵を構うに至れり、真に大切の時なり云々と報告せり、
 これより先下毛に浪士乱を起し、相州に山中の陣屋を抜きたる事より、明治元年伏見の変を伝聞し、ついで内府公東帰東叡山大慈院に閉居謹慎恭順待罪、直書を発して官軍に抗敵する者は吾が頸に刃を加うるが如しと群下に警戒し、一意敬上の旨趣を体認し、応分の義を尽さんとせし時に際し、二月十八日渋沢成一郎(喜作)、須永於菟之助、本多敏三郎、伴門五郎、酒井宰輔等、慶喜公の冤罪を雪(すす)ぐの衷訴するの義挙を企図するに会し、伯兄惇忠も来てこれを賛成するに至り、
 昌忠これに加盟し(此初会は赤阪円応寺にて会する者六十三人、昌忠もその中にあり)彰義隊と称し、その伍長となり、浅草本願寺に往来し、市中巡羅等の事を勤め、三月上旬同隊士五人と上毛に巡り、地方の騒擾を察し、遂に水戸に赴き、慶喜公の安着を伺候し、四月中旬江戸に返りしに、渋沢成一郎その他同志人彰義隊の意見と合わざる事出で来り、分離して別に計画する処あり、
 昌忠も伯兄(藍香)と倶にこれに合し、協同し江戸を脱し、西北に走らんとす、閏四月廿八日発するに臨み昌忠筆を把てその宅の障子に大書す、日く、楽人之楽者憂人之憂喰人之食者死人之事昌忠と署し、かつ留守となる親友根岸文作に謂いて日く、吾れ死んで見せると欣然として出でその同志脱走の一軍名を振武軍と称し、堀内村に屯する三日、去って田無村に屯す・・・」(『渋沢平九郎昌忠伝』尾高藍香)
 藍香の文章は簡略だが的確、読んで行くとその情景が目に浮ぶようで全文を引用したい誘惑にがられる。しかし彰義隊と振武軍のことを記すのが主意ではないので、以下は短く記そう。
 彼らは途中で彰義隊と官軍の衝突を聞き、別助隊となったとはいえ同志であるからすぐ応援にかけつけようと軍を返したが、途中で彰義隊の敗走を聞く。その時前方に一軍が見え、敵か味方かわからない。藍香は一人、勇敢にも走って行ってたずねると神奈川隊の三百人が昨夜浅草蔵屯所を脱出して来たことがわかった。
 恐らくそれを追ってであろう、二千七百人の官軍が攻撃して来た。まずこれを夜襲し、ついで翌日決戦となったが衆寡敵せず、山を越えて退却して北西に下りたが、ここにも官軍がいて砲撃を加えて来た。ここで一同は四散し、普通の住民に姿を変えて脱走し、それぞれ会津や箱館を目指して落ちて行った。
 藍香は無事脱出したが昌忠は官軍につかまった。そのときは「月白鬢髪ノ庶人体トナリ、脇差一刀ヲ帯シ、笠ヲ冠リ、蓙(ござ)ヲ被」という変装であったが見破られ、今やこれまでと「吾党六十人山上ニアリ」と大声で叫んで一刀のもとに脇差で一人の右腕を斬り落し組みついて来る者を次々と斬ったが短銃で射たれ、脱出は一時成功したものの二発を足に受けているので「脱スベカラザルヲ悟リ、路傍ノ盤石二踞シ、自カラ腹ヲ屠リ、咽喉ヲ刺シテ死ス年二十二」であった。官軍は彼の言葉で前方に敵ありと誤認して進撃を一時停止した。藍香らはその隙に逃れたわけである。p403(中略)
 戦機はすでに過ぎていた。(幕府の)海軍を活用するなら前述のように官軍東征のときに活用すべきなのだが、慶喜が「大政奉還」して謹慎した以上、それは無理である。というのは「幕府という政府」はこのときに存在しなくなり、政権は「奉還された朝廷」にあると言わねばならない。
 だが幕府がなくなっても慶喜は内大臣であり、新しい「朝廷政府」の首班ではあり得た。もしこの構想が実現していれば、幕軍も海軍も自動的に朝廷の指揮下に入る。こうなってはすでに幕府がないのだから「倒幕」の大義名分はなくなり、薩長には出番がない。そこで天皇と慶喜を分断するためあらゆる挑発を行う。
 藍香が簡単に記している江戸の放火事件から伏見・鳥羽に至るすべての事件はこの挑発とみてよい。それは何としても内大臣慶喜を「朝敵」にしなければならぬということ、官軍の「東征」といったところで、相手は慶喜に戦うことを禁じられているのだから、ただ進軍して来ただけにすぎない。
 会津を中心とする抵抗であれ藍香たちの決起であれ、いわばこの非道さに対する憤激だが、彼らにはすでに明確な戦争目的がない。藍香の言っているように彼らの目的でさえ「慶喜公ノ冤罪ヲ雪グノ衷訴スルノ義挙」であっても、幕府再興ではない。だがそれは箱館で抵抗しても可能になることではあるまいが、この気持は栄一とて同じであったろう。
 後年彼が記した膨大な『徳川慶喜公伝』はまさに「冤罪ヲ雪グノ義挙」であったといえる。旧幕臣は涙なしでこの書を読めなかったという。(p408)
 
 
2011年5月26日 (木)
尾崎行雄の「天皇三代目演説」について
――戦後の三代目は一体どのような日本を創るのか

 これは、尾崎行雄が、昭和17年東条内閣当時の翼賛選挙における応援演説の中で使った言葉です。尾崎は、この時の翼賛選挙とそれに伴う政府の選挙干渉について、昭和時代が『売家と唐様で書く三代目』になっていないのは、明治天皇が明治憲法をお定めになり立憲政治の礎を築いてくれたからであって、翼賛政治は、この明治大帝が定めた立憲政治の大基を揺るがすものではないか、と政府を批判したのです。

 政府(東条英機)は、これが不敬罪に当たるとして、尾崎行雄を刑事起訴しました。これは、尾崎行雄が、「東条首相に与えた公開状」の中で、政府が”口を極めて自由主知を悪罵することは、自由主義の憲法とも言うべき帝国憲法、これを定めこれを遵守するよう求めた明治大帝の行為を誹謗することになりはしないか”と批判した。これに対して、尾崎を危険人物として抹殺すべく、この「三代目」演説に”言いがかり”をつける形で起訴に及んだものです。

「尾崎行雄の天皇三代目演説」

 「明治天皇が即位の始めに立てられた五箇条の御誓文、御同様に日本人と生まれた以上は何人といえども御誓文は暗記していなければならぬはずであります。これが今日、明治以後の日本が大層よくなった原因であります。明治以前の日本は大層優れた天皇陛下がおっても、よい御政治はその一代だけで、その次に劣った天皇陛下が出れば、ばったり止められる。

 ところが、明治天皇がよかったために、明治天皇がお崩れになって、大正天皇となり、今上天皇となっても、国はますますよくなるばかりである。

 普通の言葉では、これも世界に通じた真理でありますが、『売家と唐様で書く三代目』と申しております。たいそう偉い人が出て、一代で身代を作りましても二代三代となると、もう、せっかく作った身代でも家も売らなければならぬ。しかしながら手習いだけはさすがに金持ちの息子でありますから、手習いだけはしたと見えて、立派な字で『売家と唐様で書く三代目』、実に天下の真理であります。

 たとえばドイツの国があれだけに偉かったのは、ちょうどこの間、廃帝になってお崩(かく)れになった人(ウィルヘルム二世、亡命先のオランダで一九四一年没)のお爺さん(ウィルヘルム一世)の時に、ドイツ帝国というものが出来たのである。三代目にはあのとおり。

 イタリアが今は大層よろしいけれども、今のイタリアの今上陛下(ビットリオ・エマヌエル三世)がやはりこの三代目ぐらいでありまするが、いまだ、皇帝の位にはお坐になって居られますけれども、イタリアに行ってみれば誰も皇帝を知らず、我がムッソリーニを拝んでおります。イタリアにはムッソリーニ一人あるばかりである。

 皇帝の名すら知らない者が大分ある。これが三代目だ。人ばかりではない。国でも三代目というものは、よほど剣呑なもので、悪くなるのが原則であります。

 しかるに日本は、三代目に至ってますますよくなった。何故であります。明治天皇陛下が『万機公論に決すべし』という五箇条の御誓文の第一に基づいた・・・掟をこしらえた。それを今の言葉で憲法と申しております。その憲法によって政治をするのが立憲政治である。立憲政治の大基を作るのが今日やがて行なわれる所の総選挙である……」

 (ところが今日、日本にはヒトラーやムッソリーニを賛美する者がいる。しかし)「(そのやり方を)一番立派にやったのが秦の始皇帝であった。儒者等を皆殺ししてしまったり、書物を焼いてしまった。ヒットラーが大分その真似をしている。反対する者はみな殺した。そして強い兵隊を作って六合(天下)を統一して秦という天下を作りました。ちっとも珍しくない。秦の始皇帝は、よほど立派に今のヒットラーやムッソリーニのやり方をしております」

 「その(始皇帝の)真似をヨーロッパの人がしているのである。本家本元は東洋にある事を知らないで、今の知識階級などといって知ったふりをしている者は、外国の真似をしようとして騒いでいる。驚き入った事である。

 官報をお読みになると分かりまするが、私が前の前の議会に質問書を出して、官報に載っております。天皇陛下がある以上は全体主義という名儀の下に、独裁政治に似通った政治を行なう事が出来ぬものであるぞと質問した。これに対して近衛総理大臣が変な答弁をしておりますけれども、まるで答弁にも何にもなっておりませぬ。

 秦の始皇、日本の天皇陛下が秦の始皇になれば、憲法を廃してああいう政治が出来る。しかしながら、もう日本の天皇陛下は、明治天皇の子孫、朕および朕が子孫はこれ(明治憲法)に永久に服従の義務を負うと明言している(憲法発布勅語のこと)以上は、どうしても、天皇陛下自ら秦の始皇を学ぶ事は出来ぬ。そうすると誰がしなければならぬか、誰が出ても、天皇陛下があり、憲法がある以上は、ヒットラーやムッソリーニの真似は出来ませぬ。このくらいの事は分かる。憲法を読めばすぐ分かります。

 憲法を読まぬで勝手な事を言う人があるのは、実に明治天皇畢生の御事業は、ほとんど天下に御了解せられずにいるように思いまするから、私どもは最後の御奉公として、この大義を明らかにして、日本がこれまで進歩発達したこの道を、ずっと進行せられたい……」

 この演説の中の「三代目発言」が不敬罪に当たるとして、先に述べた通り、尾崎は起訴されたわけですが、まあ、”言いがかり”もいいとこですね。幸い、大審院は健全であったようですが・・・。しかし、この裁判中、尾崎は発言をやめず、痛烈に政府を批判し、『憲政以外の大問題』を公表しました。

 これはまず「(イ)輔弼大臣の責任心の稀薄(むしろ欠乏)なる事、(ロ)当局者が、戦争の収結に関し、成案を有せざるように思われる事、否、その研究だも為さざるか如く見える事」にはじまる批判」です。

 「万一独伊が敗れて、英米に屈服した時は、我国は独力を以て支那および英米五、六億の人民を打倒撃滅し得るだろうか。真に君国を愛するものは、誠心誠意以てこの際に処する方策を講究しなければならぬ。無責任な放言壮語は、真誠な忠愛者の大禁物である。

 独伊は敗北の場合をも予想し、これに善処する道を求めているようだが、我国人は独伊の優勢の報に酔い、一切そんな事は、考えないらしい。これ予が君国のため、憂慮措く能わざる所以である」

 「我国人中には、独・伊・露などの独裁政治を新秩序と称して歓迎し、世論民意を尊重する所の多数政治を旧秩序と呼んで、これを廃棄せんとするが如き言行を為すものが多いようだが、彼らはこの両体制の実行方法と、その利害得失を考慮研究したのであろうか。いやしくも虚心坦懐に考慮すれば、両者の利害得失は、いかなる愚人といえども、分明にこれを判断し得べきはずだ」

 「国家非常の事変に際会して、独・伊・露は、新奇の名義と方法を以て、古来の独裁専制主義を実行し、一時奇効(思いもよらない功績)を奏しているように見ゆるが、この体制は、昔時と違い、文化大いに進歩した今日以後においては、決して平時に永続し得べき性質のものではない。平和回復後は、露国人はともかくも独伊人は多分その非を悟って、自由と権利の復活を図るに相違ない。彼らは個人を否認すれど、国家も世界も、個人あってはじめて存立するものである。

 自由も権利も保証せられざる個人の集団せる国家は、三、四百年前までは、全世界に存在した。それがいかなるものであったかは、歴史を繙けばすぐ分かるが、全世界を通して、事実的には『斬捨御免』『御手打御随意』の世の中であった。独・伊・露は、異なった名義の下に現在これを実行している。故に現代人のいわゆる新秩序新体制なるものは、数千年間、全世界各地に実行した所の旧秩序・旧体制に過ぎないのである」

 次は、尾崎行雄が、裁判所に対する上申書の中で述べた「三代目論」についての敷衍的解説です。これがまた、極めておもしろい。

対中国土下座状態の一代目

「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられたが、世間は多くはすでに二代目になった。三条(実美)、岩倉、西郷、大久保、木戸らの時代は、すでに去って、西園寺(公望)、桂(太郎)、山本(権兵衛)らの時代となっている。これはひとり政界ばかりでなく、軍界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後の事である。

 全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、たまたま御三代目にならせ玉われた。しかし、予が該川柳(=「売家と唐様で書く三代目」)を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。

(甲)第一代目ころの世態民情
この時代は、大体において、支那崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。支那流に年号を設定し(一世二元のこと。日本はそれまでは甲子定期改元と不定期改元の併用であった。中国は、明朝以降一世一元になった)、かつ数々これを変更したるが如き、学問といえば、多くは四書五経を読習せしめたるが如き、各種の碑誌銘に難読の漢文を用いたるが如き、忠臣、義士、孝子、軍人、政治家の模範は、多くはこれを支那人中に求めたるが如き、その実例は枚挙に逞(いとま)ないほど多い。今日でも、年号令人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨、卒、逝などに書き分けている。

 この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来れる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」

 「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無と言ってもよいことを確信するに至った。故に予はこれと一戦して、彼が傲慢心を挫くと同時に、我が卑屈心を一掃するにあらずんば、彼我の関係を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。

 しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て、狂人と見倣した。しかるに明治二十七年に至って開戦してみたら、予が十年間主張したとおり、たやすく勝ち得た。しかし勝ってもなお不思議に思って予に質問する人が多かった。

 また一議に及ばず、三国干渉に屈従して、遼東半島を還付せるのみならず、露国が旅順に要塞を築き、満州に鉄道を布設しても、これを傍観していた。これらの事実を視ても、維新初代の国民が、いかに小心翼々であったかを察知することが出来よう」

(山本)明治初期の対中国土下座状態には、さまざまな記録がある。一例を挙げれば、清国の北洋艦隊が日本を”親善訪問”し、長崎に上陸した中国水兵がどのような暴行をしても、警察官は見て見ぬふりをしていたといわれる。土下座外交は何も戦後にはじまったことではないが、この卑屈が一転すると、その裏返しともいうべき、始末に負えない増長(上)慢になる。ここで尾崎行雄は第二世代に入る。

二代目―卑屈から一転して増長慢

(乙)第二代目ころの世態民情
明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引換え、驕慢心がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。また(東大の)七博士の如きは、露国を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億円の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采する状況となった。実に驚くべき大変化大増長である。

 古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争を主張した所の予も、この増長慢をば大いに憂慮し、征露論に反対して、大いに世上の非難を受けた。伊藤博文公の如きも、これに反対したらしかったが、興奮した世論は、ついに時の内閣を駆って、開戦せしめた。

 しこうして個々の戦場においては、海陸ともに立派に勝利を得たが、やがて兵員と弾丸、その他戦具の不足を生じ、総参謀・児玉源太郎君の如きも、百計尽き、ただ毎朝早起きし太陽を拝んで、天佑を乞うの外なきに至った。

 僥倖にも露国の内肛(内紛)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。

 右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来たったため、民間人士は、少しもこれを識らず、増長慢に耽って平和条約を感謝するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都には、暴動が起こり、二、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。

 近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公けにしたが、日露戦争にあの結末を得だのは、天佑と称してよいほどの僥倖であった。不知の致す所とは言いながら、あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の聯慢心の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。

  右の精神状態は、ひとり軍事外交方面のみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落とし入るべき傾向を生じた。

 前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる二十一ヵ条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」

浮誇驕慢で大国難を招く三代目

「(丙)第三代目ころの世態民情
全国民は、右の如き精神状態を以て、昭和四、五年ころより、第三代目の時期に入ったのだから、世態民情は、いよいよ浮誇驕慢におもむき、あるいは暗殺団体の結成となり、あるいは共産主義者の激増となり、あるいは軍隊の暴動となり、軽挙盲動腫を接して起こり、いずれの方面においてか、国家の運命にも関すべき大爆発、すなわち、まかりまちがえば、川柳氏の謂えるが如く『売家と唐様で書』かねばならぬ運命にも到着すべき大事件を巻き起こさなければ、止みそうもない形勢を現出した。

 予はこの形勢を見て憂慮に耐えず、何とかしてこの大爆発を未然に防止したく思って、百方苦心したが、文化の進歩や交通機関の発達によりて世界が縮小し、その結果として、列国の利害関係が周密に連結せられたる今日においては、国家の大事は、列国とともに協定しなければ、真誠の安定を得ることは不可能と信じた。よりて列国の近状を視察すると同時に、その有力者とも会見し、世界人類の安寧慶福を保証するに足るべき方案を協議したく考えて、第四回目、欧米漫遊の旅程についた。

 しかるに米国滞在中、満州事件突発の電報に接して、愕然自失した。この時、予は思えらく『こは明白なる国際連盟条約違反の行為にして、加盟者五十余力国の反対を招くべき筋道の振舞である。日本一ヵ国の力を以て、五十余力国を敵に廻すほど危険な事はない』と。果たせるかな、その後開ける国際会議において、我国に賛成したものは、一ヵ国もなく、ただタイ国が、賛否いずれにも参加せず、棄権しただけであった。

 このころまでは、我国の国際的信用は、すこぶる篤く、われに対して、悪感を抱く国は、支那以外には絶無といってもよいほどの状況であって、名義さえ立てば、わが国を援けたく思っていた国は、多かったように見えたが、何分、国際連盟規約や不戦条約の明文上、日本に賛成するわけにいかなかったらしい。

 連盟には加入していない所の米国すら、不戦条約その他の関係より、わが満州事件に反対し、英国に協議したが、英政府はリットン委員(会)設置などの方法によって、平穏にこの事件を解決しようと考えていたため、米国に賛成しなかった。また米国は、国際連盟の主要国たる英国すら、条約擁護のために起たないのに、不加入国たる米国だけが、これを主張する必要もないと考えなおしたらしい。

 予は王政維新後の二代目三代目における世態民情の推移を見て、一方には、国運の隆昌を慶賀すると同時に、他方においては、浮誇驕慢に流れ、ついに大国難を招致するに至らんことを恐れた。故に昭和三年、すなわち維新後三代目の初期において、思想的、政治的、および経済的にわたる三大国難決議案を提出し、衆議院は、満場一致の勢いを以て、これを可決した。

 上述の如く、かねてより国難の到来せんことを憂慮していた予なれば、満州事件の突発とその経過を見ては、須臾(一瞬)も安処するあたわず、煩悶懊悩の末、ついに、天皇陛下に上奏することに決し、一文を草し宮相(内大臣)に密送して、乙夜の覧(天皇の書見)に供せられんことを懇請した。満州事件を視て、大国難の種子蒔と思いなせるがためである。

 ムッソリーニや、ヒトラーの如きも、武力行使を決意する前には、列国の憤起を怖れて、躊躇していたようだが、我が満州事件に対する列国の動静を視て安心し、ついに武力行使の決意を起こせるものの如く思われる。

 しかるに、支那事件起こり、英米と開戦するに至りても、世人はなお国家の前途を憂慮せず、局部局部の勝利に酔舞して、結末の付け方をば考えずに、今日に至った。しこうして生活の困難は、日にますます増加するばかりで、前途の見透しは誰にも付かない。どこで、どうして、英米、支を降参させる見込みかと問わるれば、何人もこれに確答することは出来ないのみならず、かえって微音ながら、ところどころに『国難来』の声を聞くようになった。

 全国民の大多数は、国難の種子は、満州に蒔かれ、その後幾多の軽挙盲動によりて、発育生長せしめられ、ついに今日に至れるものなることは、全く感知せざるものの如し。衆議院が満場一致で可決した三大国難決議案の如きも、今日は記憶する人すらないように見える。維新後三代目に当たるところの現代人は『売家と唐様で書く』ことの代わりに『国難とドイツ語で書いて』いるようだ……」

 以上、尾崎行雄は、明治憲法を自由主義憲法と言い、天皇がこの憲法を発布した故に日本は独裁にはならないと言い、翼賛政治はこの憲法の大基を犯している、つまり憲法違反だと批判したのです。近衛はこの憲法を「天皇親政を建前とする」と解釈しました。この差はどこから来たか。明治人は、「立憲政治を自ら創出した」という自信を持っていた。しかし、昭和の三代目は、明治人が苦労して、江戸時代の君主主権から明治の立憲制に国家体制を創り変えた、この明治人の残した「遺産」の”有り難み”が判らず、これを破壊・蕩尽してしまった。そういうことだと思います。

 こうした過去の経験を顧みる時、自らの力で憲法を創出したという自信を持たない戦後世代の二代目あるいは三代目が、果たしてどういう日本を創って行くのか、いささか不安に思わざるを得ません。ということは、今一度、明治に帰る必要があると言うことではないでしょうか。立憲政治の価値を再認識するためにも・・・。 


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