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山本七平語録

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日本思想

                      
論題 引用文 コメント
『現人神の創作者たち』
あとがき
 戦後24余年、私は沈黙していた。もちろん一生沈黙していても、私は一向にかまわぬ。ただ、その間、何をしていたかと問われれば「現人神の創作者」を探索していたといってもよい。私は別にその「創作者」を”戦犯”とは思わないが、もし本当に”戦犯”なるものがあり得るとすれば、その人のはずである。その捜索は難航を極めた。様々な試行錯誤があったが、その間に、多くのことを発見することができた。だが、いわば世の人が「そこに居るらしい」と思っているところを探してもそこにはいなかった。みんなアリバイがあった。・・・また、「なぜそのように現人神の捜索者にこだわり、二十余年もそれを探し、『命が持たないよ』までそれを続けようとするのか」と問われれば、私が三代目のキリスト教徒として、戦前・戦中と、もの心がついて以来、内心においても、また外面的にも、常に『現人神』を意識し、これと対決せざるを得なかったという単純な事実に基づく。従って、私は「創作者」を発見して、自分で「現人神とは何か」を解明して納得できればそれでよかったまでで、著作として世に問う気があったわけではない。  この言葉は、山本七平の主著とされる『現人神の創作者たち』のあとがきに記されたものです。これで「山本日本学」の根本動機が何であったかがわかります。氏がもう少し長生きをされていれば、続いて、現人神の「育成者」そして「完成者」が書かれるはずでした。その痕跡は氏の『派閥』などに散見されますが・・・。
『現人神の創作者たち』
「序章」
 読者はあるいは奇異に感じられるかも知れない、一体何で今ごろ尊皇思想の発端から成立、さらにその系譜などが問題になるのかと。そんなものはすでに過ぎ去った悪夢であり、現代には何の作用もしておらず、その主題は騒々しい宣伝カーで街頭をかけまわる戦後職業右翼の空疎なスローガンにすぎないではないか、と。
問題はそこにあるであろう。戦時中のさまざまな手記、また戦没学生の手紙などを読むと、その背後にあるものは、自分ではどうにもできないある種の「呪縛」である。その呪縛に、それを呪縛と感じないほどに拘束され切っている者はむしろ少なく、それに抵抗を感じ、何やら強い矛盾を感じつつもそれをどうすることもできず、肯定もしきれず否定もしきれず、抵抗しつつそれを脱し得ないという姿である。もしこのとき、その人びとが、これは朱舜水という一中国人がもたらし、また徳川幕府が官学とした儒学的正統主義と日本の伝統とが習合して出来た一思想、日本思想史の数多い思想の中の一思想で朱子学の亜種ともいえる思想にすぎないと把握できたら、その瞬間にこの呪縛は消え、一思想としてこれを検討し得たはずである。そして検討した上で、あくまでも自分はこの思想を選択すると言うのなら、それはそれでよいし、それを脱却してこれに反対する思想的根拠を自らの内に形成し保持し得るなら、それもそれでよい。それならば討論が可能である。しかし、そのいずれかが明確にできたという証拠は、上記の記録の中に見出すことはできず、そのためそこに生ずるのは諦念と詠嘆である。
(中略)
戦前、人は何に呪縛されているかを知らなかった。そして出発点に於てそれを明確にせず、それをあやふやに消すという「まやかし」によって転換をとげたことは、その呪縛を裏返しの呪縛にかえ、その上に別の呪縛を加えるという結果になった。そのため、少なくとも良心のある者は、自己の態度にまことに矛盾を感じながら、それを如何ともなし得ないという、戦前にきわめてよく似た状態に落ち込んでおり、何か突発的な事件があればそれが露呈してくる。
そこにあるのは一体何であろうか。それは自己の伝統とそれに基づく自己の思想形成への無知である。そして戦後の”進歩的人士”は、これに無知であることがそれから脱して、自らを「戦前の日本人でなくし」新しい「民主日本」なるものへと転換する道であると信じていた。だが不思議なことに、明治の”進歩的人士”も同じように考え、自らの歴史を抹殺し、それを恥ずべきものと見ることが、進歩への道と考えていた。ベルツはその『日記』に次のように記している。「しかし乍ら──これはきわめて奇妙なことだが──今日の日本人は、自己の歴史をもはや相手にしようとしないのである。いや、教養ある連中は自国の歴史を恥じてさえいる。”とんでもない。一切が野蛮きわまりないのです”とあるものは私に言った。またあるものは、私が日本史について質問すると、きっぱりと言った。”我々には歴史はありません。我々の歴史はいまやっと始ったばかりです”」。この抹殺は無知を生ずる。そして無知は呪縛を決定的にするだけで、これから脱却する道ではない。明治は徳川時代を消した。と同時に明治を招来した徳川時代の尊皇思想の形成の歴史も消した。そのため、尊皇思想は思想として清算されず、正体不明の呪縛として残った。そして戦後は、戦前の日本人が「尊皇思想史」を正確に把握していれば、その呪縛から脱して自らを自由な位置に置き得たのに、それができなかったことが悲劇であったという把握はなく、さらにこれをも「恥ずべき歴史」として消し、一握りの軍国主義者が云々」といった「まやかし」を押し通したことは逆に、裏返しの呪縛を決定的にしてしまった。しかし問題はそれだけではない。
というのは尊皇思想は日本史に於てはむしろ特異なイデオロギーであり、それだけがわれわれの文化的・伝統的な拘束すなわち呪縛ではない。その背後には十三世紀以来の、一つの伝統がある。
(中略)
この状態(伝統=筆者)は、できてしまった状態をそのまま固定して秩序化しても、基本的な名目的な体制の変革は行わない、しかし実質的には情況に即応して変化しつつ対応して行くという行き方である。そしてこの基本は貞永元年(一二三二年)から明治まで、そしてある意味では現代まで変っていない。徳川幕府もまた出来てしまったのであり、その出来たという事実に基づいて戦国時代を凍結し固定化しただけであって、新しい原則に基づく新しい体制をつくったわけではない。従ってその政策は「戦国凍結」であり、諸大名はまるで敵国に準ずるかのように、人質をとって統御している。それでいながら、中央政府の機能も果している。
その体制は、正統主義者から見ればまことに奇妙であった。だがその奇妙さは長い伝統をもってそれなりに機能している。もちろんその機能の仕方は中国とは全く違ったものであったろう。もし日本が当時の中国に対してごく自然な対等感をもっていれば、比較文化論的に両国を対比し、自己の伝統の中に中国とは違う正統性を確立することが可能であったかも知れない。それが念頭にあったと思われる新井白石のような人もいたが、一般的に言って幕府自身にその発想はなく、便宜主義的に朱子学を援用していればよいというのが基本的態度であった。だが便宜的援用は逆に権威化を要請する。その権威化は相手を絶対化すること、いわば中国を絶対化することによって、それを絶対化している自己を絶対化するという形にならざるを得ない。
こうなると、自由なる討論などというものはあり得ず、権威化した自己に反対する者はすべて、何らかのレッテルをはって沈黙させねばならない。それが「アカ」と表現されようと「保守反動・右翼」と表現されようと実質的に差はないように、権威化された官学の代表林羅山にとってはすべて「耶蘇」であった。彼の手にかかると、後述するように熊沢蕃山も山崎闇斎も「耶蘇」になってしまうのである。
だがまことに奇妙なことに、否むしろ当然のことかも知れぬが、こうなると、この異端視されたものもこれと対抗して自己を権威化せざるを得ない。そしてそれが、さまざまな曲折を経つつ、次の時代へと社会を移行させる思想を形成していく。そして最終的に勝利を得、明治なるものを招来させた原動力となったのがこの思想であった。だが前記のベルツの『日記』にあるように、明治は自らの手で、明治型天皇制の”生みの親”を抹殺する。それは簡単にいえば、「現人神」という概念の創作者がだれかを、またこの概念を育てた者、完成させた者がだれかを、消してしまった。消してしまったがゆえに呪縛化し、戦後はまたそれを消したがゆえに二重の呪縛となった。
それを解いて自由を回復するには、まず「現人神の創作者たち」からはじめねばなるまい。
 この「序章」の言葉で山本七平の「現人神」についての着眼点がいかなるものであったかがわかります。
この「尊皇思想」について、司馬遼太郎は次のように言っています。
宋学(=朱子によって大成されたもの)の亡霊のようななものが、古爆弾でも爆発するように封建制の壁を打ちこわす明治維新の思想となり、それによって開かれたものが滑稽なことに近代であった。しかし、そこでは近代思想(ルソーなど)は危険思想扱いされ、教育面では、この宋学(水戸)イデオロギーが生き続け、左翼の間でさえ、水戸イデオロギー的な名文論のやかましい歴史がつづいた。
そして、昭和七、八年頃から、本卦がえりという以上に、十二世紀の中国の朱子の尊王論が国民教育の上で濃縮され、「楠木正成」(尊皇思想の殉教者=筆者)という固有名詞は思想語に近くなった、と。
こうした思想的熱狂を背景に「統帥権」を盾に取った昭和の軍部の専横が始まるのですが、司馬遼太郎はこの昭和前期の国家が何であったか、40年考えてもよくわからないといい、「─あんな時代は日本ではない。と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある」それは、日本史のいかなる時代とも違う”異胎の時代”だといっています。そして氏はついに、「昭和」を書くことはありませんでした。
これに対して山本七平は、「昭和」を、司馬遼太郎がいうような日本史における”異胎の時代”とは見ず、それを日本史の思想的連続性の内に捉えようとしたのです。
そして昭和の悲劇は、明治が徳川時代を消したたために、自らを生んだ尊皇思想(=「現人神」思想)の思想的系譜がわからなくなり、そのため、それが西南戦争以降、一種の情念と化して地下に潜り、昭和の恐慌に端を発する政治の行き詰まりを発火点として地上に噴出したもの、と見ているのです
このように、山本七平は、日本人を無意識裡に支配しているものの考え方(=日本教)の思想系譜を明らかにすることによって、その問題点を克服しようとしたのです。それは、三代目クリスチャンとしての自分を苦しめ続けた「現人神」思想との対決でもありました。
司馬遼太郎の歴史観との違いはここにあります。 
徳川幕府の朱子学の導入が掘り起こした復古思想
山本七平ライブラリー『現人神の創作者たち』(p200~208)
 戦国時代・朝鮮戦争の戦後政府としての徳川政権のもとで、新しい思想導入の前駆ともいうべき「慕夏主義」が起って、まず中国が絶対視される。ところが明か滅びて多くの亡命者が来、同時に明回復の援助が要請されるようになると、現実の中国は「畜類の国」となり、「中国」は抽象化された理念となり、この理念通りの国である日本こそ中国であるという発想を生じた。『中朝事実』的な考え方だが、この考え方は後々まで残り、戦時中にも真の中国の伝統を継承しているのは日本であるとの主張があった。
 同時に体制の学として朱子学の導入は「正統論」の導人となり、山崎闇斎は朱子を援用して「正統三原則」(簒臣(さんしん)、賊后(ぞくこう)、夷荻(いてき)に正当性なし)を明らかにした。それをうけて浅見綱斎は、この原則通りの王朝は中国には存在せず、あるとすれば日本の天皇家だけであり、従ってその正統を絶対とするなら、それを絶対とする者はかくあらねばならぬという個人の絶対的規範を示した。その題材は中国だが、亡命者朱舜水は楠木正成・正行の中に文天祥を見、日本の歴史にもこれと同じ規範に生きた人間があるとした。ここに起るのが「楠公礼賛」である。
 少なくとも山崎闇斎までは、その思想は幕府にとって少しも危険なものでなく、むしろ有益な「体制」であると思われた。天皇が絶対ならその天皇により宣下された将軍もまた絶対だと言いうるからである。ところが綱斎では、闇斎との間に、ほんのわずかだが差が生ずる。そのわずかの差は「毫釐之失差以千里」となり、やがて『靖献遺言』は維新の志士の「聖書」になるのである。
 だがこれだけでは変革は起らない。その前に日本の歴史を朱子学に基づいて記し、それによって「歴史の過ち」を指摘することによって、この「過ちをただす」という形にならねば、綱斎の示した「個人 の絶対的規範」は、「歴史の過ちの結果生じた幕府」を倒して、正統なる「天皇の親政」を樹立するという「朱子学的革命」への明確な方向づけはできないからである。
 ここで、日本の歴史を、中国の歴史的尺度で検証するという作業が要請されるわけである。少なくとも結果において、この要請に応じた形になったのが水戸の彰考館であった。だが彰考館に至る前に一種の「歴史ブーム」があった。(p200)
 徳川時代の歴史書といえば人はしばしば光圀の『大日本史』や山陽の『日本外史』を連想するが、先鞭をつけたのはもちろん彼らではなく、面白いことに幕府それ自体、すなわち林道春なのである。前にのべた慕夏思想に基づく「天皇中国人説」もある意味では歴史主義であり、これは日本国の発生が日本神話の通りでなく、呉の泰伯が日本に渡来して天皇となったという意味に於て、まことに革新的な説だと言わねばならない。
 この状態もまたちょっと戦後に似ている。ちょうど「戦後体制」がまず出来てしまって、それから慌てて借りものの正統性と、借りものの史観とを樹立しようとしたのと同じであり、そのため戦後はマルクス主義史観を借り、徳川時代は『資治通鑑』または『通鑑綱目』を基にして、いわば通鑑史観を借りて日本史を再構成しようとしたわけである。(p204)
 *『通鑑綱目』は『資治通鑑』を簡略化したもので史料的価値は低いが、朱子学の確立とともに、正統論として重んじられた。
 この『資治通鑑』を模して林道春父子の『本朝通鑑』ができるわけだが、この方法は皇国史観の否定された戦後に、すぐさまマルクス史観で日本史を再構成したのと似ている。幕府はまず林道春に命じて『皇朝編年録』を編集させたが、後に保科正之の建言で史館を開設し、林道春にいわば編集長を命じた。・・・『本朝通鑑』の書名は司馬光の熱烈な愛読者であった保科正之の発案であろうと言われる。(p205)
 『通鑑』と『通鑑綱目』の刺戟は当然に日本史の史料へと目を向けさせた。いわば史料の「掘り起し」であり、同時に「共鳴」である。これは『日本書紀』の再発見・再評価となり、後陽成帝がその神代の巻を勅淀で刊行し、さらに慶長十五年(一六一〇年)にはその全部が刊行された。また尾張義直は、日本書紀、続紀、後紀、実録等に旧事記、古事記、野史、雑録等を加えてこれを取捨編集し、『類聚日本紀』を編集した。だがこの史料の「掘り起し」は、神道と根本枝葉花実説の「掘り起し」となり、同時に持続史観は、万世一系・天壌無窮と「共鳴」していくのである。このことは清原国賢の、前記『日本書紀』の次の蹟文からも明らかであろう。
 「日本書紀は、歴代の古史なり。元正天皇養老年中、一品舎人親王、太朝臣安麻呂、勅を奉じてこれを撰す。吾朝の撰書奏覧におよぶ。是を以て権与(けんよ)となすものか。君臣共に以てこの書をきわめざるはなし」は別に問題ないであろうが、同時にこの書は神道の”聖書”なのである。そこで彼は次のように言う。「けだし神道は万法の根抵たり、儒教は枝葉たり、仏教は花実たり。彼の二教は、みなこれ神道の末葉たり。まさに枝葉を以てその本原をあらわす。しからばすなわち異曲同工なるものか。このごろ儒仏を学ぶ者おびただし、而も神書を知るは鮮し。物に本末あり、事に終始あり、何ぞ木を棄て末を取らん。神国に於ていかでか神書をうとんぜんや」と。歴史ブームは根本枝葉花実説と共鳴し、それを人びとに再認識させた。p208
  
徳川光圀が『大日本史』編さんから水戸学の成立まで
山本七平ライブラリー『現人神の創作者たち』(p209、341)「序章」
 光圀が『大日本史』の編纂を思いたった背景には、以上のような歴史ブームがあった。もちろんこのブームは、上記の著作だけでなくさまざまの歴史書を生み出した。同時に『太平記』を流行させ、さまざまの『太平記評判』『太平記抄』を生み出し、また講談の前身ともいうべき「太平記読み」をも生み出した。ある意味で光圀は、このような時代的風潮に最も敏感な野心家であったと言える。p209
 光圀の野心は、おそらく、自分のもっているイデオロギーを歴史的に証明したいという点にあったであろう。彼にとっては、正統性をもつ忠誠の対象はあくまでも朱子学的原則に基づいて、天皇であっても、決して幕府ではなかった。幕府は彼にとって宗家にすぎず、もし天皇の命令があれば、宗家である幕府を滅ぼしてもかまわなかった。もちろん朝幕が一体化しているときにはその必要はなく、また天下の副将軍としてそれを口外する必要もない。しかし、それが自分の基本的な思想であることを何らかの形で明確にしておきたかったのが、その動機であったと私は思う。p210
                                          (こうして光圀は)『資治通鑑』や『通鑑綱目』の影響を受けて日本も歴史を記そうとする。だが本紀・列伝(諸臣伝)という形の紀伝体で記そうと思えば「将軍」なるものの位置づけはできない。中国にはそんなものは存在しないからである。さらに叛臣伝・逆臣伝ともなると、幕府に忠誠で天皇に反抗した者(たとえば伊賀光季)の取扱いなどが当然に問題になってくる。
 さらに正閏を論じ、北朝を偽朝として足利氏を叛臣に入れれば現に存在する天皇家の正統性を否定し、幕府の統治権の根拠も否定されてしまう。この矛盾が明確に出ているのが、安積漕泊の『大日本史』論賛であろう。これを論理的につめていけば、「幕府の存在は非合法であり、日本の歴史はまちかっていた」という結論にならざるを得ず、これは「歴史の誤りを正す」という政治運動の温床となりうる。
 だがそのような政治運動は、「天皇の正統性を絶対化するなら、個人の規範はかくあらねばならず、その規範を守ったものは、たとえ非合法政権=幕府の法によって処刑されても正しい」という「個人の絶対的規範」が提供されねばならない。それを提供したのが浅見綱斎の『靖献遺言』であった。本書については相当に詳しく紹介したが、この書はまさに明治維新への突破口であったといえる。
 言うまでもないが「朱子学の正統が正統である」という考え方は、この「正統」に違反した天皇を批判し、それなるがゆえに天皇家は政権を喪失したと論証したところで、それは天皇制の否定にはならないことである。これはスターリンをマルクスーレーニン主義の正統に違反したと否定しても、それは決して共産主義の否淀にならないのと同じである。
 「真の社会主義」「真の共産主義」はかくあるべきだということを否定的な面から論じていくのと同じで、「真の天皇制はかくあるべきだ」という論証をしているようなもので、その後白河批判、後醍醐批判がいかに強烈でも、幕府の合法性を論証することにはならない。これはスターリン批判が資本主義擁護でないのと同じである。従って潜鋒、観瀾の批判がいかに峻烈でも、それは「真の天皇制はかくあるべきでそれを樹立すべきだ」という方向にしか進まない。
 だがその方向に進み出すと、それは二つの方向へと進む。その一つが、あるべき姿に基づいて過去を再構成して美化するという方向であり、もう一つは、天皇がたとえどうであれ、臣下としての規範を絶対に守った者は立派だという考え方である。いわば「君、君たらずとも、臣は臣たり」で、これが楠木正成賛美となる。この二つは矛盾している。
 というのは天皇がみな立派であれば、「たとえ天皇はどうであれ・・・」という状態は起り得ないからである。ところが戦前の教科書でもこの矛盾は平然と並んでいた。だがこれは少しも奇妙ではない。たとえポーランドやソビエトの現実がどうであれ、マルクス・レーニン主義は立派で、その成果が立派だと美化することは現実に可能である。これが「絶対」ということであろう。
 いずれにせよこのような思想は徐々に全日本に浸透していき、幕末となると至る所に「尊皇の志士」なるものが出てくる。・・・武州血洗島の農民の子である渋沢栄一も、自分は天皇に直結していると感じ、領主も将軍も無視して尊皇運動に加わるのである。これは封建制の否定であり、中央集権的絶対主義を指向する。これは日本の近代化の決定的な要因であり、その意味では闇斎・綱斎以下が日本に与えた影響は忘れるべきではない。(p341)
     
  
日本人と慕夏思想
「日本の正統と理想主義」
「山本七平ライブラリー12『現人神の創作者たち』所収」 p389
(「文化会議」昭和61年1月号に掲載されたもの)
 日本人と慕夏思想
理想主義は、多くの国において、昔は復古主義の形をとりました。たとえば、中国においては堯・舜の治を再現することが理想であるとされたわけです。西欧のことはよく存じませんが、たしかペリクレスの時代が理想化された時代です。これは聖書でも同じで、エデンの園は別としても、ダビデ・ソロモン時代、また別の意味では申命記の時代(ヨシヤ王の時代)がある程度理想化されています。

ですから理想主義というのは、過去においては復古主義と一体化しているわけです。現代はおそらくそうではないと思いますが・・・。

では、日本においてはどういうふうにして理想主義が出て来たかと申しますと、必ずしも中国や西欧と同じタイプではありません。神代の理想化が皆無ではありませんが、むしろ中国を理想化するという形があったと思います。こういう中国文化を慕う思想を「慕夏思想」と申します。

なぜ、慕夏思想などという妙な言葉が出て来たかと申しますと、韓国人の金忠善という人が『慕夏道文集』という本を書いたと言われているのですが、本の内容も著者もよくわかりません。伝説によれば、加藤清正の部下で、韓国に憧れて向うに定住してしまった人間だということになっております。こういった人が相当にいたらしく、その子孫と言われる村が今でも韓国にあるそうですから、あるいは事実かもしれません。                                    ^
単純な慕夏思想ですと、中国を理想化し絶対化し、中国のようになればよろしいということですから、これが理想主義と言えるかどうかわからないのですが、ある意味では変形的な理想主義と言えるのではないかと思います。

これが極めて単純に、そのままの形で出てまいりますと、「天皇は中国人である」という説になってまいります。南北朝時代にこういう説を唱えた円月という坊さんがあるそうですが、一番はっきり書いておりますのは、林羅山の『本朝通鑑』の初稿です。彼はなかなかの政治的人間ですから、後からまずいと思う部分を消してしまうのですが、徳川時代の初めには、これは少しも不思議な考え方ではなかったのです。――「天皇がなぜ尊くて絶対なのか。それは中国人であるからであって、われわれは夷狄であるから、この中国が絶対である以上、当然に中国人の天皇は絶対である」という形で慕夏思想と天皇の正統性が結びつきます。『本朝通鑑』は一度焼けてしまったのですが、草稿が残っておりましたので、子の林春斎が公刊し、それが大正時代に活字になりました。国会図書館にあると思います。

これが天皇中国人論ですが、大変面白い考え方であると同時に、日本の正統論の嚆矢になるわけです。今では、これに対して『古事記』『日本書紀』を持ち出しての反論があるのですが、これらの本が正統論と関係づけられるのは林羅山よりはるかに後です。

この天皇中国人論によると、天皇は呉の太伯の子孫であるとされています。呉の太伯と申しますと、これは『史記』に出てくる伝説ですが、周の時に帝位の譲り合いをして、彼は自分が弟を押しのけて帝位に就くのはよろしくないと言って、呉に逃れて文身断髪をしたと言われております。入墨をして髪を切ってしまうと、もはや中国人ではないということになって、帝位の継承権を失います。

当時、呉はまだ中国の中に入っておりません。その太伯の子孫が、海を越えて日本へ来たのが天皇家の先祖であるというわけで、これは極めて素朴な説でありますが、これは一説とされ、「晋書に載す、日本はけだし夏后少康の裔なり」とも言っています。

その次に出てくるのが中朝論です。中朝というのは元来は中国と同じという意味なのですが、中朝論の主張はそうではなくて、日本が中国なんだという話で、山鹿素行が『中朝事実』という本の中で主張しております。

明が滅亡して清になる時に、亡命者がたくさん日本にまいります。この人たちは、「清は中国の正統な政府ではない。あれは畜類の国である」と言います。この「畜類の国」という言葉は、林春斎が訳した鄭成功の援助要請の手紙にも「大明の国々畜類の国となる」とあり、中国は「もう中国ではない」ということになるわけです。

こういう考え方が出てまいりますと、それでは本当の中国は何なのかということになります。これに対して、それは日本であると主張したのが山鹿素行の『中朝事実』です。日本が中国なのであって、日本が正統なのだという考え方で、『中朝事実』の中の「中華」「中国」はすべて(=日本)と読まないと意味が通じません。

  
 日本人の慕夏思想については、「山本七平ライブラリー『現人神の創作者たち』」の解説で松本健一氏が次のようなことを書いている。
       
「わたしがながいあいだ疑問をいだいていた、天理教をひらいた中山みき(1798)~1887)の天皇=中国人説の由来についてである。中山みきが明治7年(1874)、数え77歳のときにあらわした『おふでさき』に次のようにある。
       
高山の真の柱は唐人や これが大(第)一神の立腹        
この『おふでさき』は、――日本の権力の中心に座っている天皇は、じつは「唐人」、つまり中国人である。これが、天理の親神がいきどおる、第一のことだ――という意味だろう」・・・これは天理教の中山みきに対して「天理王という神はなし」といって神道系列に入ることを強要した明治国家に向かって、かの女が頑強に抵抗した、その延長上に位置する行為だった・・・そして、この「唐人」の天皇が、いまや「高山も真の柱」つまり日本の権力の中心に座っている。この事態を日本の天理の神様はいきどおっている、と中山みきはいっていたのである。」  では、天皇=中国人説がいつごろ、どのようにして出来上がったか。これがわたしのなかに澱のように沈んだ疑問だったが、「やまもとしちへいの『現人神の創作者たち』を読んで、はらりと解けた」という。
       
  天皇=中国人説は、日本に伝統的に存在した。「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説も14世紀頃からあった。その後、徳川幕府が朱子学を官学化したため、朱子学と幕府と天皇の関係を理論付けなければならなくなり、ここから慕夏(中国)主義が生まれ、中国人→聖人→天皇説が、「徳川時代後期に天理教をひらいた中山みきの生育した関西の風土の庶民レベルにも伝わっていたのだろう。」
  「かの女は、神がかりすることによって、つまり日本の民間における神道系エトスを掘り起こした。そのことによって、官学イデオロギーを否定しようとした。そうして。この武家の徳川家にかわって、天皇という「唐人」が支配権力の中枢に座った明治維新さえ、「神の立腹」としたのだった。」
   
正統論と理想主義
「日本の正統と理想主義」
「山本七平ライブラリー12『現人神の創作者たち』所収p391」
(「文化会議」昭和61年1月号に掲載されたもの)
正統論と理想主義

その次に登場するのが山崎闇斎です。彼は羅山その他を俗儒と言って退け、朱子の正統論に適合するものが正統であって、その正統の下に秩序をつくるのが理想であると言います。つまり、正統論と理想主義が一体化しているわけです。

朱子の正統論というのは『通鑑綱目』にあるのですが、これは言わば『資治通鑑』を書いた司馬光への論評のような形で出てくるわけです。

司馬光は、「自分は正統論などを論じようとは思わない。現実に権力を持って中国を治めた人間、それを正統とすればよい」という考え方に立っています。これは極めて現実主義的な考え方です。

ところが、これに対して朱子は徹頭徹尾反対をしまして、これは浅見絅斎の表現ですが、「九州(中国のこと)を丸めても正統に非ざれば正統に非ず」という発想をいたします。

つまり、南宋末期というのは北からの圧迫に大変苦しむ時代で、北の一部はもう夷状に占領されているのですが、元来は北が中国の中心地です。ですから、朱子のこの発想は、そこにある政権が何であれ、これは認めない、というところから出たものであろうと思います。

正統三原則というのを現実に作用するイデオロギーにするのは、山崎闇斎よりも弟子の浅見絅斎で、彼によりますと「朱子は簒臣、賊后、夷狄を正統とせず」と言っている。だから夷狄が中国を占領しても、それは正統な政府ではない。また、賊后というのは則天武后のことで、女性の皇帝は認めない、これも正統でない。簒臣というのは、臣下が皇帝を殺して帝位を簒奪することで、これも正統な王朝ではないということです。絅斎はこれにつぎのようにつけ加えます。

「(以上の)正学の云い足らぬ処がある。是なれば此の三の外は、天下を丸めて、穏かに治めさえすれば、正統とする合点か。漢唐宋の類是なり。是等とて根を推せば、大義皆欠けて居る」。言わば、その王朝を開いた者は簒臣だというわけです。

簒臣政権は何百年続こうと正統ではない。このことは『靖献遺言』という本の中の「劉因」の所に出てくるのですが、「劉因は保定に住んでいる。三百年間夷狄に支配されているけれども、その政権を正統と認めない。それと同じことであって、幕府が始まって三百年間九州(日本全土)を丸めていても、正統でないものは正統でない」と。

闇斎はその点ちょっとはっきりいたしませんで、彼は幕府の閣老の保科正之の師ですから、幕府を非合法政権だというようなことは言っておりません。しかし絅斎になると、はっきり幕府は非合法政権であって、それがたとえ権力を持って三百年だとうと四百年だとうと、正統の原則に外れている以上、正統ではないと言います。

こうなると、正統論というのは朱子の言った原則に当てはまるか当てはまらないか、ということだけになってまいりますが、日本が中国ならこれは当然に日本に適用されます。

ところが、この点で、絅斎はある意味で朱子の批判をしておりまして、「そんなことを言えば中国には正統な王朝は一つもない」「綱目は何の事はない、あれなりに就て極めたものぞ」という言い方をします。王朝の開祖というのはみんな簒臣だから、綱目の正統論からいうと正統な王朝は皆無に等しいと言うわけですが、これはちょっと言い過ぎです。たとえば明などは夷狄を追い払ったのだから、これは簒臣とは言えない。その前の宋でも、最初の太祖は軍隊から擁立されて帝位に就くのですが、そういう状態を(彼は)好まないために、彼は形式的ではありますが、前帝から禅譲されたという形式をとります。

このようなことはしばしば行われているわけで、中国においても簒臣は認めがたいわけです。ここに政治の矛盾があり、中国でも簒臣を正統だと言い出すと、いつでも天子を殺して位を奪ってもよろしいということになって非常に困るという考え方がある。同時に、それは絶対に正統ではないと言うと、これまた問題がありまして、いかなる暴君であっても従わねばならんということになります。

ここに、朱子の言っていることの矛盾かあるわけで、それを明確に指摘したのが絅斎です。彼は、この矛盾が一番強く現われた周の文王と武王を例にとります。

文王は、どんな虐待を受けても殷の紂王に絶対に抵抗しません。天命を受けている者には、その臣下は抵抗してはならないという姿勢を最後まで貫くわけです。ところが息子の武王になりますと、禅譲のほかに放伐があるとして、殷の紂王を殺して帝位に就きます。

一体どちらが正しいのか。禅譲と放伐のいずれが正しいのかということが、徳川時代に絶えず問題になります。しかし、絅斎の議論はそこからもう一歩進みまして、「朱子というのは中国にはなかった理想を述べただけであって、現実の中国には朱子の正統論の定義にかなうものはない。それがあるのは日本だけである」という言い方をしています。

よく調べてみると、日本に放伐がないわけではないのですが、一応ないということです。

万世一系というのはしばしば誤解される言葉ですが、中国人がこれを言う場合には、一系統であり、二系統は認めないということです。「一系は一姓に非ず」です。ですから、絅斎の同僚の佐藤直方などは、絅斎の説に非常に強く反対するわけで、その際、決して日本の天皇を「万世一系」とは呼んでおらず、「百王一姓」という言い方をいたします。つまり、代々一ファミリーであった。「百王一姓、何の誇ることあらんや(そんなことは何の自慢にもならない)」というわけです。

朱子学から言いますと、佐藤直方のほうが私は正しいと思うのです。というのは、百王一姓であっても、三原則に違反していれば、正統ではありません。佐藤直方は、弟が兄を殺して帝位に就く(たとえば安康天皇)なんていうのは、同じ家族内の出来事であって、他人である臣下が簒奪するよりももっとよろしくないことだ、と言って厳しく批判をしております。

不思議なことに、佐藤直方はその時代には大変大きな影響を与えるのですが、後になるときれいに消えてしまいます。これは何か、日本人の心情に合わない面があったのでしょう。むしろ絅斎のほうが絶対的になってまいります。

ここで、山本七平の評「朱子学から言いますと、佐藤直方のほうが私は正しい」と思われるのですが、「日本人の心情に合わない面があったのでしょう。むしろ絅斎のほうが絶対的になってまいります」という見方について考えて見たい。
佐藤直方は、朱子学者山崎闇斎の弟子で、浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎と並び「崎門三傑」といわれた。彼の、師を含めた他の三人との違いは、「日本的朱子学」なるものを明確に拒否し、神儒契合的な要素を絶対に排除」した点にあり、朱子学正統派=教条派的であるとみなされ、それゆえに傍流となっていった。 その朱子学の正統論の解釈の独自性は、直方の次の言葉に表れている。

「日ノ神ノ託宣ニ、我子孫ヲ八五百万歳守ランド被レ仰タナレバ、ヨクナイコトソ。子孫二不行義ヲスルモノアラバ、ケコロ(蹴殺)サウト被レ仰タナレバ、ヨイコトソ」と。

つまり、「天照大神が不行義な天皇を蹴殺す」と言っているのなら天祖神勅は立派だが、そう言っていないから「ヨクナイ」と。・・・一体この言葉がなぜ「尊皇思想の祖」山崎闇斎の最高弟の口から出てきたのか。言うまでもないが中国で絶対なのは「天」であって「天子」ではない。天子が天子たるものの規範に反すれば「天」はこれを蹴殺すかも知れぬ。これから見れば、後に記すように栗山潜鋒が鋭く批判した後白河法皇などは早速に蹴殺されねばならない。
いうまでもなく、中国の易姓革命は、「前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てた(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠としている。儒家孟子は易姓革命において禅譲と武力による王位簒奪の放伐も認めた」(wiki「易姓革命」)のであり、これに照らせば、『記紀』に物語られた天皇の事跡は「弑逆簒奪挙げて数うべからず」で「万世一系」といいながら「万国に優れて君臣の義正しいとは言いがたし」というのである。
この直方の朱子学正統論の考え方と他の3人との朱子学解釈の違いは何処のあったかというと、直方は、他の三人に見るような朱子学と神道の日本的習合を徹底的に排したということ。
師である闇斎は朱子学と神道の「妙契」である「垂加神道」へと進み、三宅観瀾は楠木正成を忠臣として水戸彰考館で『大日本史』の編さんにあたった。浅見絅斎は、中国の「湯武放伐論」を唐の韓愈の作品「拘幽操」(君父への至徳を説いたもの)を絶対化することで否定し、『靖献遺言』を著し、正統とされる主君に対する誠心からの忠誠(「君、君タラズトモ臣ハ臣タリ」)を説き、「万世一系」の日本の天皇に対する絶対的忠誠への道を開いた。
「逆臣」の位置づけ
「日本の正統と理想主義」
       「山本七平ライブラリー12『現人神の創作者たち』所収」p394
(「文化会議」昭和61年1月号に掲載されたもの)
 「逆臣」の位置づけ
このような正統論が出てまいりますと、正統に服するのが理想である、という一つの理想主義が現われてまいります。そして、それがあらゆる面で問題になってきます。なかでも否応なしに問題とせざるをえなかったのが、水戸の彰考館の『大日本史』の編纂です。この編纂基準を「修史義例」と申しますが、実はこの編纂基準の議論で徳川時代が終ってしまったような感じになるのです。

そこでの一番の問題点は北朝五帝の取り扱いです。というのは、この『大日本史』は司馬遷の『史記』にならって紀伝体という形式をとり、「本紀」(帝紀)に天皇だけをずっと記していきます(中国なら皇帝だけを記していきます)。臣下のほうは列伝に入れ、名臣、叛臣、逆臣という形できちんと分けます。そういうふうに、大変はっきりした基準を立てております。

ところが、中国の場合は非常にはっきり分けられますが、日本の場合は何度やってもうまくいきません。人見伝という人が初代彰考館館長ですが、彼は極めて朱子学的に北朝五帝を列伝に入れ、尊氏を逆臣にします。つまり、南朝正統論に立つと、彼らは臣下(列伝)に入れざるを得ないというわけです。

しかし、こうなると政治的に大変困った問題になります。では、今の天皇は臣下の子孫かということになり、北朝偽帝という言い方になりますが、こうしないと足利尊氏は逆臣に入らないわけです。

ところが、これではいけないというので、「重修修史義例」というのがまた出るのですが、これは光圀の意見だったようです。そして、南北朝の争いの前で一度打ち切ろうとするのですが、それもうまくない、と。北朝を入れると、「本紀」(帝紀)のほかにもう一つ本紀をつくらなければいけない。中国の場合は王朝交代という形で非常にすっきりするのですが、当時の日本ではそれは言えませんので、そこのところが非常に難しくなります。これが第一の問題です。

第二の問題は、幕府に忠誠であった人間をどう評価するかということで、これは非常に困った問題になります。というのは、『史記』と『資流通鑑』の両方を参考にしましたので、それぞれの後に「論賛」という論評を書くことになります。この論評を担当したのが安積澹泊で、彼が一番困ったのが、天皇に抵抗して幕府に忠誠であった人間をどういう位置に置くかということです。

中国には幕府はありませんから、片一方を偽帝としてしまえばそれで済むのですが、現に日本には幕府があるのに、それを偽ものとするわけにはいかない。ですから、「論賛」というのは読んでいくと矛盾だらけになり、しまいには叛臣、逆臣はいなくなって、蘇我馬子ただ一人になるわけです。結局、藤田幽谷の意見で「論賛」があってはかえって格好が悪いというので、これは削除されてしまいます。しかし、削除される前にこれが民間に流れていまして、幸いに残っております。たとえば三宅観瀾と安積澹泊との間の手紙があるのですが、「どう書いていいかわからん」と言っております。

正統論からいくとこれは非常に面白い問題で、外国の理想主義ないしは外国の正統論を日本に当てはめ、それで日本の歴史を再構成しようと思うと七転八倒する、その最初の例だと私は考えております。

 そもそもどのようにして、徳川幕藩体制下の日本に「正統論」が議論されるようになったかと言うことであるが、これは、「戦国時代・朝鮮戦争の戦後政府としての徳川政権」が「体制の学」として朱子学を導入したことにはじまる。それが中国への憧れ=「慕夏主義」を生み、次いで中国が絶対視されるようになった。
  そんなおり、明が滅びて多くの亡命者が日本に来、同時に明回復の援助が要請されるようになると、現実の中国は(北夷に)占領された「畜類の国」となり、「中国」は抽象化された理念となり、この理念通りの日本こそ(「万世一系」の天皇制をもつゆえに)中国であるという発想を生じた。
  同時に体制の学として朱子学の導入は「正統論」の導入となり、山崎闇斎は朱子を援用して「正統三原則」(「簒臣(さんしん)、賊后(ぞくこう)、夷荻(いてき)に正当性なし」)を明らかにした。それをうけて浅見綱斎は、この原則通りの王朝は中国には存在せず、あるとすれば日本の天皇家だけであり、従ってその正統を絶対とするなら、それを絶対とする者はかくあらねばならぬという個人の絶対的規範を示した。
その題材は中国だが、亡命者朱舜水は楠木正成・正行の中に文天祥を見、日本の歴史にもこれと同じ規範に生きた人間があるとした。ここに起るのが「楠公礼賛」である。
だがこれだけでは変革は起らない。その前に日本の歴史を朱子学に基づいて記し、それによって「歴史の過ち」を指摘することによって、この「過ちをただす」という形にならねば、綱斎の示した「個人の絶対的規範」は、「歴史の過ちの結果生じた幕府」を倒して、正統なる「天皇の親政」を樹立するという「朱子学的革命」への明確な方向づけはできないからである。
  ここで、日本の歴史を、中国の歴史的尺度で検証するという作業が要請されるわけである。少なくとも結果において、この要請に応じた形になったのが水戸の彰考館(の「大日本史」編さん)であった。
  (p199~200)  
   
王政復古と天下の公論
「日本の正統と理想主義」
「山本七平ライブラリー12『現人神の創作者たち』所収」p396
(「文化会議」昭和61年1月号に掲載されたもの)
王政復古と天下の公論
そういう形で一つの正統論が確立し、その正統論に基づく理想的な(と彼らが信じた)社会をつくろうとしますと、当然、その前に、中国朱子学と国学とが習合をいたします。この習合というのは山鹿素行の中朝論ですでに起っているのですが、国学が盛んになると、これと朱子学とがくっつくという形になります。

もっとも、本居宣長自身にはそういう意識はなかったと思いますが、平田篤胤になるとそれがあったと見ていいと思う点が出てまいります。

たとえば、日本という国が開国以来、朱子の正統論どおりに正統を維持してきた国だという前提に立つと、幕府というのは非合法政権であるから、これを倒さねばならない、となります。そこに尊皇攘夷という問題が出てまいりますが、これも日本人がつくった言葉ではなく『春秋』にある言葉で、中国が滅亡にひんした宋末とか明末に出て来ます。つまり、中国の皇帝を絶対化して、外部から侵入してくる夷狄を追い払え、というスローガンなのです。

当時の日本人のスローガンは「尊皇攘夷・王政復古」であり、そのための維新という発想になっていたはずです。ですから、明治になってから、国民をだましたという意見が出てくるわけです。これを比較的正直に書いているのが岩倉具視です。

彼の「議事院に対する意見書」というのを読みますと、まず「そもそも大政維新の鴻業は何によりて成就したるかといへば、即ち天下の公論に出でて成就すと言はざるを得ず」とあります。この「天下の公論」が一種の理想だったわけです。続けて、「多年、有志の人が大義を明らかにし、名分を正すことを論じ、然して幕府の失政を責めて遂に今日の世運を致したに非ずや。臣下の分としてこれを言ふに憚ると雖も、主上天皇、聡明英智に当らせられるとも、尚御若年に在らせられ、御自ら中興を計らせ給ひしと言ふに非ず、天下の公論を聞こし召されて、その帰着する所を宸断を以てこれを定め給ふものにして、実に公明正大の御聖業なり」と言っております。――天皇をほめているようですが、彼の言わんとするところは「なにも維新の鴻業は天皇の意思で自らやったのではない」ということです。「天下の公論がやったことだ」とはっきり言っているわけです。

この「天下の公論」というのは、申すまでもなく慕夏思想以来、浅見絅斎や三宅観瀾といった人たちに至るまでの間につくられたもので、それが外国からの刺戟で攘夷という形になりました。そして、それに対する幕府の態度はよろしくないという形で爆発するわけです。

では、明治というのは「天下の公論」のとおりにやったのかというと、決してそのとおりにはやらなかった。このことも岩倉具視は相当はっきり、「これ朝廷の罪なり」という形で記しております。そこをちょっと読んでみましょう。

「外国に対するの事は皇国の安危にかかるところにして、最も深謀遠慮せざるに非ず。それ発意以降、和戦の議紛々として起こり、天下まさに麻の如く乱れんとするの形勢を現す。その開に生ずるところの事件につき大なるものを挙げてこれを数ふれば、天皇尊位の章を下すや、水戸の司直や親王の蟄居、諸侯の落飾や朝野志士の酷刑、大老の横死や伏見寺田屋の乱・・・」

言うまでもなく、これらのことは尊皇攘夷を実行する過程で起ったのである。そして、いまそれが成就した。それならば攘夷を行うかというとそうではない。

「然して大勢の朝廷に服するに、天下の人秘かに思へらく、必ず断然攘夷の令下るべし、と。あにはからんや、外国と交際を開くの令を発し、次いで英、仏、蘭、米等諸国公使参朝す。ここにおいて天下の人大いに疑惑を抱きていはく、旧幕府の時にありては、洋服を着する者は禁門に入るを禁ず。かくのごとき朝旨なりしも、大勢の朝廷に服するに及んでは、かへって旧幕府よりも甚だし。されば朝廷先に攘夷を主張し給ひしは、畢竟幕府を倒さんがための謀略なり。むしろ幕府の時に於いて勝れりとす。議論轟然として起こり、天下の人また方向に迷う。ああこれ朝廷の罪なり」と。

ですから、一体王政復古とは何なのか、何を理想としたのか、と問うわけです。この場合の答は、形式的には過去における理想主義とはなはだ似た形をとりまして、いわゆる幕府が現われる前の律令時代に帰ることになります。復古と言う以上それが当然であり、そうでなければ復古とは言えません。

同時に、「班田収授法」が一種理想化されます。理想化されると、一方においてそういう形の平等主義をつくるのが当然だという考え方が出て来ても不思議ではありません。
       
言うまでもなく、当時の東アジアにおいては中国思想は普遍主義的思想であった。従ってその周辺の国々の文明は中国化を尺度として評価された。・・・だがその本家が「畜類の国」と評価が変わると、当然にその普遍主義が遊離して、そのまま周辺諸国、すなわち日本にも移行する・・・だが中国の普遍主義にはその背後に歴史主義があり・・・朱子学は「正統論」と、それと関連する歴史主義を持っていた。それが日本史における「共鳴」「掘り起し」現象を生じて不思議ではない。
徳川幕府は、戦国時代・朝鮮戦争後の「戦後体制」であり、その体制を、借り物の正統性と借り物の史観を樹立することで正当化しようとした。そこで借用したのが、中国の『資治通鑑』(中国北宋の司馬光が1065年~1084年にかけて完成した編年体の歴史書全294巻)または『通鑑項目』であった。「幕府はまず林道春に命じて『皇朝編年録』を編集させたが、後に保科正之の建言で史館を開設し、林春斎にいわば編集長を命じた。」
  これが『本朝通鑑』となったが、これが日本史の史料へと目を向けさせることとなり、『日本書紀』の再発見・再評価となり、「後陽成天皇がその神代の巻を勅諚で刊行し、さらに慶長15年(1610)にはその全部が刊行された。尾張義直は、日本書紀、続記、後記、実録等に旧事記、古事記、野史、雑録等を加えてこれを取捨編集し『類従日本紀』を編集した。だが、この史料の「掘り起し」は、神道と根本枝葉果実説(神道、儒教、仏教の三教を樹木にたとえて、神道が根本で 儒教、仏教はその枝葉、果実であるとする説。逆本地垂迹説)の「掘り起し」となり、同時に持続史観は、万世一系・天壌無窮と「共鳴」していくのである」(p208)
朱子学的理想主義の敗退
「日本の正統と理想主義」
「山本七平ライブラリー12『現人神の創作者たち』所収p398」
 (「文化会議」昭和61年1月号に掲載されたもの)
朱子学的理想主義の敗退

面白いのは西郷隆盛で、ある程度それを実行しようとします。彼は、明治維新後に東京にいた期間は非常に短く、すぐ故郷に帰ってしまいます。

最初が明治二年二月で、彼は薩摩の参政となって改革を行いますが、この改革が非常に面白い。かつて島津というのは非常に複雑な機構になっていたのですが、その全部に統一的に地頭を置き、この地頭が軍事、警察、司法、行政の一切を行う。また、村の役場は軍務方といい、すべてを戦時状態に置きます。一切が軍隊のようになるわけですが、その下に共同体的な一種の体制を樹立しようと試みたのではないか、と思われる点が彼にはあります。

論理的に、つまり徳川時代からの延長で考えますと、天皇親政で、その下に一種の班田制のようなものをつくるというのは、一番正直なやり方です。西郷がそのように考えた理由の一つは、彼は西欧へ行ったことがなかったので、その影響を受けなかったということではないでしょうか。彼にとって維新というのは、あくまでも全国で行うことだったはずですが、それは実行されなかった。『西郷南洲遺訓』を読みますと、自分はそれを非常に後悔しているという言葉が出てまいりまして、彼は、「そのために死んだ人に対して面目がない。こんな欧化主義の政府をつくるというようなことは、自分は全然考えてなかった」と言っております。

「維新の功業は遂げられ間敷也。今と成りでは、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、瀕りに涙を催されける」(『南洲遺訓』より)

彼にしてみると、明治維新によって徳川時代から続いてきた理想主義が実行に移されたはずなのに、移されたと思った瞬間、今度は欧化主義に転じてしまった。これは岩倉具視が言うように「朝廷の罪なり」であり、大衆を欺くものであるわけです。維新を機に実質的に一つの体制をつくろうとした隆盛のような人にとっては、これはまたとんでもない方向違いであり、「死んだ人には誠に相済まぬ」という形になるのです。

このような考え方は徳川時代からずっと形成されてきた理想主義、すなわち日本独特の一種の理想主義と正統論とが重なったものですが、明治になると同時にこれが消えてしまいました(消える時にはまことに早く消えてしまうのですが)。そして今度は慕夏思想ではなく、ヨーロッパを慕う慕欧思想に転換いたします。

この転換が比較的簡単であったのは、昨日まで中国を絶対としてその方向を向いていたのが、今度は方向を変えてヨーロッパのほうを見ればよいだけだったからではないか、という気がいたします。

しかし、明治の初めに過去を清算しておかなかったことが、実は昭和に大きな問題を提起しているわけであります。つまり、天皇機関説というのが、なぜあれほど非難されたのかということですが、朱子学から見れば、これはもってのほかなんです。ただ、非難している人間がはたしてこれを「朱子学から見れば・・・」というふうに意識していたかどうか、それはわかりません。ヨーロッパの発想からすれば、天皇機関説は当然であるわけです。

実は明治の初めにおいて岩倉具視が、「これ朝廷の罪なり」と言った問題、あるいは西郷隆盛が、「維新の戦死者というのはむだ死にをした」という意味に等しいことを言った問題が、戦前までずっと糸を引いていたのです。ある意味で、それは朱子学的理想主義の敗退と言えるのではないかと思います。

このように、昭和になると理想主義と正統論とがいろんなふうに形を変えて出てまいります。北一輝などの言っていることも、日本の思想史という点から見ると関連があります。

さて、それが戦後にどういうふうな影響を与えているのか。これが一番難しい問題ではないかと思います。

山本七平の昭和史論の独創性は「復古主義としての尊皇思想を明治維新以降精算しなかったことが、その「やり直し」としての昭和維新を生んだ」というものです。西郷隆盛の西南戦争に到る行動の背後には、この尊皇主義がもつ「復古思想」があったというのですが、この思想の精算は、それが借り物の思想であっただけに、困難だったのではないかと思います。
ところで、この「日本の正統と理想主義」という論考は、昭和61年1月号の「文化会議」に掲載されたもので、『現人神の創作者たち』の内容をわかりやすく簡潔に要約したものになっています。

従って、これを読んでから『現人神・・・』に挑戦されると、より分かりやすいのではないかと思い、あえて「日本人と慕夏思想」に始まる全文を掲載させていただきました。

ところで、山本七平は、これに続いて、「現人神の育成者たち」及び「現人神の完成者たち」を書くつもりだったようですが、残念ながらそれはなされませんでした。
このことについて松岡正剛氏は次のように「千夜千冊」796号で指摘しています。
「徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっている。
このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。
山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。
が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。」

山本七平と丸山真男の関係については、残念ながら対談等の記録は私は見ていません。しかし、山本自身は丸山真男を高く評価していました。当然のことながら、丸山が戦前に書いた論文(『日本政治思想史研究』に収められている論文等)から多くを学んだものと思われます。
ピアニストの中村紘子氏は、丸山真男と山本七平が対談した時の様子を感動的に話していました。残念ながら二人の対談の記録は目にしていません。
       
神道はなぜ儒教や仏教と「三教合一」したか?
『日本人とは何か』
p137~p145
 (弥生時代中期以降、「ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となった」のが『骨の代』=氏族制度の時代である。)

「骨の代」の日本は、「氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って『倭国の内乱』となるわけだが、その中の最大の氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。・・・そして、大氏族は天皇の下で何らかの職務を行うことで、氏族連合政権のようなものを構成していたらしい。」(p54)

「では氏族体制の内部はどのようになっていたのか。これは明確にはわからないが、天皇も一氏族だからほぼこれと同じような形で、ただ全体を統一する祭儀権はなかったものと考えればよいであろう。それは一族による土地・人民の支配組織と、職業集団である『部曲』(かきべ)または『品部』(ほんちべ)で構成されていたものと思われる。・・・『部曲』または『品部』は職業集団で血縁集団ではないが、職業を世襲すると血縁集団化する。・・・やがてこの職業その他が姓(かばね)になっていく。」(p54)

(しかし)「以上のような氏族制は、次第に崩壊して行かざるを得なかった。それが自覚されたのは「再び国内を統一し、強力な帝国となった隋・唐が、その勢力を朝鮮に伸ばしてきて、百済から援軍を要請されたときであった。援軍の日本軍は白村江で惨敗(663)して百済は滅びる。次は日本の番ではないかという恐怖は、北九州の防備を厳重にしたことに表れている。同時にこの危機感は国内体制の整備にも向けられた。」(p57)

◎日本が導入した仏教は、儒釈道「三教合一論」だった(=筆者)

(この国内体制整備の一環として、仏教そして儒教(=律令制)の導入による中央集権的な国家体制の確立が図られるようになった。)

「仏教は渡来人によって六世紀の初頭にすでに日本に入っていたと思われ、通常仏教伝来の年は『日本書紀』の記述に基づき欽明天皇の十三年(五五二年)とされるが、これは百済の聖明王が仏像と経論を欽明天皇に献上し、天皇がその礼拝の可否を群臣に問うたときである。いわば個人の私的な信仰としてでなく、国家の宗教として認めるべきか否かの問題になった時のことであった。それが政争とからんで争いとなり、結局「天皇仏教を信じ、神道を尊ぶ」という妥協に落ち着いたのが用明天皇の二年(五八七年)、というのがごく普通の見方であろう。」

「だが、宗教上の問題がそのような政治的配慮だけで簡単に片づくと見るべきではあるまい。まず、「日本は仏教を受容した」と簡単にいうが、ブッダが生まれたのは紀元前四八三年(?)、これが中国に伝わったのが紀元一年もしくは六七年、それが韓国に伝わり、さらに日本に伝わって前記の諸問題が一応落着したのが五八七年、この間に仏教が中国でどのように受容されて変容したか、その変容したものを韓国がどう受け入れ、それを日本がどう受容したのか、それをたどって行かねばならない。といってもこれは余りに大きな主題なので、簡単にその概略を記すに止めよう。

いずれの国であれ外来宗教の導入は民族固有の信仰と対立して激しい論争を起こし、時には戦争まで起こる。仏教が中国に入ったころ、これと対立したのが民族宗教としての道教であったのは当然であろう。だが仏教が中国社会で一応の地歩を築き、道教も民間信仰を集大成して宗教としての体制を整えはじめる三世紀ごろ、両者は思想的融合に向かおうとする傾向を生じはじめた。

これまた珍しい現象ではなく、キリスト教もイスラム教も、多くのその地の民間信仰や習俗を取り入れている。ただ中国の場合は、仏教は道教を吸収しきるほど有力ではなく、さらにそのほかに儒教があり、ここで、思想としての性格を異にする儒釈道の三教を調和して折衷統一しようという方向に向かった。これが三教合一論である。そして日本が韓国経由でなく、直接に中国に使者を派遣したのが『隋書倭国伝』によると推古天皇の八年(六〇〇年)である。・・・

隋はやがて滅び唐の時代が来る。この間、日本から派遣された遣唐使の数は前述の通り(使節団総員の数ははじめは二百五十人ぐらい、奈良時代は五百人以上、平安時代には六百数十人、630年から894年まで十九回派遣)で、多くの留学僧・留学生を送り込んだ。日本人はおそらく、唐の都の長安の繁栄に驚いたとであう。そしてこの唐の時代(六一八~九〇七年)が中国仏教の最盛期であったが、同時に道教は国家保護を受けて勢力を張り、統治思想としての儒教もまた勢力を得てきた。と同時に三教合一論が支配的になってきた。ということは、唐を絶対的な権威と考えた日本人が受け入れた仏教とは、三教合一論的な仏教と見なければならない。いわば「仏教」の名のもとに輸入された宗教的思想の中には、道教も儒教も含まれていたということである。

◎道教は神道と同じか

「そして中国の儒釈道合一論は、教義乃至は思想としてだけでなく、日本人に愛好された中国の詩人や文人を通じても人つてきた。唐代の白楽天や柳宗元、宋代の蘇東坡などはその思想がごく自然に三教にわたっており、それを師とした日本人にとって、三教合一論乃至は”合一論的な考え方”はごく当然のことであった。そしてこれが日本に於て、「神儒仏合一論」になっていって不思議でなかった。

といえば、読者は当然に疑問に感ずるであろう――儒仏の合一は中国が自ら行ったのを日本がそのまま輸入すればよく、それなら僧形の儒者林羅山が出て不思議でないが、「神道」という日本独自の宗教と儒仏をどう結びつけたのか、と。

非常に簡単な説明として「本地垂述説」が取り上げられる。いわば「仏の本地はインドで、それが伊勢に垂迹して天照大神となった」とすれば、神仏は簡単に一体化してしまうし、天皇の祖先は仏ということになり、『太平記』では天皇を「仏体」としている。

こうなれば比叡山に日吉大社があり、奈良の興福寺に春日神社があって、両者が一体化して不思議でないし、社僧がいることも、当然となる。だがそう簡単に、「本地垂迹説」が成り立つものであろうか。ここで当然に考えられるのが道教と神道との関係である。

天皇、紫宸殿、神宮、神社といった言葉だけでなく、神道という言葉自体が道教の用語である。また、『日本書紀』と『古事記』の記述が、中国の道教や民間思想と関係があることは江戸時代にすでに指摘されていた。これについては前述したが、『日本書紀』の「天地創造」が紀元前二世紀の『淮南子』、紀元後三世紀の『三五暦記』などをふまえて書かれていることは、江戸中期の尾張藩の学者、河村秀根父子が『日本書紀集解』ですでに指摘している。・・・」

◎天人と仙人は道教の言葉

「・・・日本の宗教史を見ると、少々不思議だなと思う点がある。というのは仏教が来て約千年たってキリスト教が来た、そして死後の霊魂の存在と、天国・地獄について説いた。民衆は別に不思議そうな顔もしなかった。ということは「天・人・アシュラ・餓鬼・畜生・地獄」という六界を輪廻転生するということを(仏教思想を)民衆は信じていなかったらしいということである。転生すれば「霊魂だけの存在」はあり得ないはずだが、民衆は「ある」と頑強に信じつづけていた。それを示す民話もまた決して少なくないし、幽霊は日本では常に活動しつづけ、現在でさえ活動している。死後に人が何かに転生してしまっては『四谷怪談』は生まれない。

そして日本人は、天には美しい天人が住み、天女は羽衣をまとって空を舞うと思っていた。こういった「羽衣」伝説もまた少なくないし、「仙人」という、不思議な術で永久に死なない人もいるらしかった。一体こういう民話や伝説や物語はどこから出ているのであろうか。

「天人」とか「仙人」とかいうのは、実は道教の言葉である。道教では宇宙の最高神は天皇=天皇大帝で、天上の神仙世界にある紫宮(紫微宮=紫宸殿)に住み地上の皇帝と同じように官僚がいてその中の高級官僚が「真人」、下級官僚が「仙人」なのである。そしてこの天上の天皇大帝は、官僚たちに命じて常に地上を監視させ、その人の善を賞し、悪を罰している。

日本では、この天上の政府を地上に反映させた形で諡に天皇の称号を持つ支配者がおり、紫宸殿があるという形になっている。「神の支配の形態を地上に反映させたのが地上の政府」という考え方はヨーロッパにもあり、エウセビオスは、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝の政府を、天上の秩序の反映としている。これと似た考え方かもしれない。」

「・・・以上の道教の考え方は、儒教の天命思想に一脈相通ずる点はあるが、日本の天皇は、天地創造とともに発生した神々の直系の子孫として正統性を主張しているのだから、同じ考え方ではあるまい。ただ、『日本書紀』の冒頭を道教の天地創造ではじめたこと、そして律令体制が完成して間もなくこれが編纂されたことは、唐の王朝の宗教である道教の、前記の世界観が念頭にあったと見てよいであろう。

そうなると天上にいる天皇大帝は、天照大神以降の天皇の諸霊ということになる。天皇が生前にも「天皇」と呼ばれるのは近世のことで、それ以前はすべて「院」と呼ばれ、死後に諡に天皇を付すのが普通で例外は後醍醐天皇だけである。このことは「天皇」とは死後の天上での称号であることを示し、、死んだ後は天から「天皇大帝」として子孫の統治を見守るという考え方があったのであろう。・・・

そうなると、その究極にいるのは天照大神ということになるが同時に鎮護国家の祈願の対象は仏である。ここで統治神学として、儒釈道合一論が神儒仏合一論となり、神社と寺院が一体化し、それを合理的に把握するのに本地垂迹説が援用されても不思議ではない。いわば道教的発想はこのような形で神道と習合したと考えれば、当然の帰結だということになろう。そして広い意味の道教は、中村元教授のいわれるユーラシア大陸的な宗教的要素をもっていたから、神道との習合はごく自然な形で行われたであろう。

人間のみならず、あらゆる動物は死ぬと霊が天に帰る、という考え方がアイヌの宗教にあることは多くの学者が指摘しており、これは、 中国の思想が日本に来るはるかに以前、いわば縄文時代からあったと思われる。この信仰と道教とはきわめて習合しやすいから、日本の原始的信仰がそのような形で神道となったという見方もできる。いずれにせよこの土俗的信仰は実に根づよく残り、キリシタンが来たとき、それを確認する宗教が来たかのように日本人が受け取って歓迎した。これも不思議ではない。

◎仏教国家創建と儒教思想の導入(=筆者)

仏教の受容は中国の宗教文化のすべての導入であった。ただ唐の時代は中国仏教の最盛期であったから、それは仏教中心の宗教文化の輸入であったと言ってよい。従って、仏教の僧侶が儒教の講義をしても人は少しも不思議に思わなかった。そして仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な統一の共有しうる宗教へと変えたのが聖徳太子であろう

「厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。」(wiki「聖徳太子」参照)

「太子は自ら法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書、すなわち『三経義疏』を記し、一切を包容融合する統一的な原理として「一大乗」の思想を鼓吹した。そして大化の改新を経て大宝律令ができると、仏教は「僧尼令」によって国家の保護を受けると同時にその統制を受けるようになった。いわば僧尼は、鎮護国家を祈念する公務員になったわけである。現代でも国教のある国の多くでは聖職者は国家公務員であり、それから見れば仏教の国教化といえるであろう。」

その聖徳太子の事績としては、冠位十二階(603)の制定や憲法十七条(604)の制定が上げられる。前者は儒教のと六つの徳目(徳・仁・礼・信・義・智)を大小に分けた12の組み合わせからなる。冠の色については紫・青・赤・黄・白・黒の順で、大小はその濃淡で表現したという。後者は、当時の中国の儒釈道三教合一思想の影響を受けたもので、仏教、儒教、法家の思想を援用して統一国家形成に向けた臣下の基本的モラルを示したものである。(第1条=和の強調、第2条=仏教の尊崇、第3条=臣の君に対する道、礼の強調、第5条=訴訟裁定の不公平への戒め、第6条=勧善懲悪、第11条=信賞必罰、第12条=国史国造らの私的収税の禁止、第15条=公私の区別、第16条=民の使用時期の制限など)これらは、近代的中央集権国家形成のための官僚機構の整備に向けた推古朝の政策を代表している。ただし、その施行範囲は畿内に限られ、また皇族や当時の実権の掌握者である蘇我氏の大臣は官位の授与対象から除外されたという。(『日本歴史大事典』「聖徳太子」より)(聖徳太子についてはその実在からその事績の当否まで諸説がある)


◎中央集権国家への脱皮(p89)

西暦六四五年、皇極女帝の皇太子中大兄皇子は、謀臣中臣鎌足と謀り、宮廷内クーデターを断行した。朝廷の実権を握る大豪族蘇我入鹿を宮中で暗殺し、ついで中央豪族の大部分の支持を得て入鹿の父蝦夷を滅ぼし、叔父(皇極女帝の弟)孝徳天皇を擁立して自らは皇太子となって実権を握り、新政府を組織して年号を大化と定めた。そして政局が安定した翌年に「改新の詔」として四ヵ条の基本政策を公布したのである。すなわち(一)氏族制を廃止し、皇族・諸豪族の私有地・私有民は公地・公民とする、(二)京師・ 国・郡・里などの地方行政組織を置く、(三)全国民の戸籍を編成し班田収授の法を実施する、(四)新たに租・庸・調その他の統一的な税制を実施する、と。これを大化改新という。(この四ヵ条の交付は「大宝律令(701)によるとする見解が有力)

これは簡単にいえば「骨の代」を終わらせて「職の代」をつくる革命であった。すなわち従来の氏族制度における皇室と各豪族の個別的支配と、品部(職業部)の管理機構を基とする朝廷の世襲的な職業組織を否定し、中国の律令制にならい、公地・公民制を基礎とする中央集権的・官僚制的な支配機構を打ち立てることであった。

 「骨の代」(氏族制)における最大氏族が天皇であり、他の氏族と違う点は祭儀権を持っていたこと、しかし、その祭儀権は氏族全体を統一するものではなかった、とは一体どういうことでしょうか。これは天皇家がある伝統的な、他の氏族もその権威を認める祭儀権(あくまで天皇家の氏神を祀るもの)を継承していて、それ故に、自ずとその時代における氏族連合政権の中心をなしていた、ということだと思います。
では、この天皇家が継承していた、他の氏族もその権威を認める伝統的な祭儀権とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、山本七平は「卑弥呼が日巫女なら・・・すでに500年以上続く祭儀権の継承があった」としています。心理学者で日本史研究者の安本美典氏は、記紀神話の天照大神は、邪馬台国の卑弥呼ではないか、といっています。
また、こうした、伝統的祭儀権を継承する大和朝廷と豪族との関係は、天皇家の管理する職業的組織を個別的に担う程度の緩やかなものだったようです。しかし、この間大和朝廷は、徐々に中国の先進文化を導入し、地方に対する政治的・経済的優位性を確立していきました。一方、中央の豪族との関係においては、中国の文化的権威が支配的になるにつれ、天皇家の地位は相対的に低下していきました。
大和朝廷の有力な氏族には主に臣や連の姓が与えられていましたが、それらの内、国政の中枢に参画したものは大臣、大連と呼ばれました。雄略天皇(五世紀後期)の時には平群氏が大臣、物部氏と大伴氏が大連に任命され、軍事・警察の職務を担当しました。特に、大連を歴任した物部氏は継体天皇の時に起こった国造磐井の乱(527)を討伐しました。このように、大連は、大和政権の領域・境界線の拡張に伴う諸地域の豪族の処分等にあたりました。
また、物部氏は、朝鮮半島を含む大和政権の外交政策にも関与し、欽明朝期には物部尾輿が大伴金村の任那問題の失政(562年、任那が新羅に併呑)をついて失脚させ、以後大連を独占しました。また、552年に百済の聖明王が仏像と経論を献じたときには、朝廷における仏像礼拝の是非をめぐって排仏を主張し、蘇我稲目と対立しました。稲目の子守屋も排仏を主張しましたが、587年用明天皇の死後、物部氏は仏教礼拝や皇位継承問題もからんで大臣蘇我馬子に滅ぼされてしまいました。
その後蘇我馬子は、崇峻天皇を擁立しましたが、後これと対立して592年に謀殺し、推古天皇を即位させました。以後、推古朝の政治を指導し、602年頃から推古天皇の摂政となった聖徳太子と共同して、大陸文化導入による国内政治改革に着手しました。620年には聖徳太子と共に『天皇記』『国記』等の史書を編纂しました。馬子が造営した飛鳥寺は、飛鳥時代の仏教交流の中心寺院として栄えました。
馬子に続いて、蘇我蝦夷が大臣となり、推古天皇の死後は、舒明天皇を擁立しました。642年に皇極天皇が即位した後は、蝦夷の子の入鹿が権勢を振るいました。しかし、643年入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王とその一族を滅ぼすと、その独裁に対する批判が強まるようになりました。こうした蘇我氏独裁を一気に覆し、天皇家に政治権力を回復するために行われたクーデターが、中大兄皇子や中臣鎌足らによる蘇我入鹿・蝦夷の殺害であり、それに始まる大化の改新だったのです。
この事件を経て天皇家は、律令制の導入による中央集権国家の形成を目指しました。そのために左記の通り「改新の詔」四ヵ条がその翌年に公布されました。しかし、これが実際に公布され実施に移されたかどうかは疑わしく、668年に即位して天智天皇となった中大兄皇子は宮廷の官制の整備を進めた程度だったといいます。その後、この事業は次の天武天皇に引き継がれ、次の持統天皇晩年の701年には大宝律令が公布され、さらに718年にはその改訂版である養老律令が公布されて、氏族制度から律令的な中央集権国家への移行が、明確になりました。
しかし、大宝律令などに規定された日本の律令制度は、中国の律令制とは大きく異なっていました。その一つが、中国では、統治者階級である官吏は、科挙という国家試験によって選出されましたが、日本では畿内の豪族出身の貴族が世襲的にそれを継承していった、ということです。また、官僚組織については、中国の場合は皇帝の下に中書省(立法)、尚書省(行政)、門下省(陳情審査)の三省が置かれ、皇帝が全てを決済しました。しかし、日本では、天皇の下に神祇官と太政官が併置され、天皇の任務は前者の祭祀が中心となり、後者は、太政官が実質的な政務の執行機関となりました。
これは、天皇による国家統治の正統性を、伝統的な祭儀権の継承に求めたために生じたことでした。つまり、大陸文化(仏教や律令制度)の導入による中央集権化の取り組みを、天皇家の伝統的権威を背景に復古主義的に推進しようとしたのでした。そして、この天皇家の国家統治の正統性を根拠づけるものとして、神々による国産みから大和朝廷の建国を経て推古天皇、持統天皇に至る天皇家一族の記録を中心とする記紀の編纂がなされたのです。
しかし、この記紀の記述と、中国の史書等によって知られる歴史的事実との対応関係は必ずしも明確ではありません。特に、神武天皇の即位(紀元前660年)から第27代継体天皇に至るまでの編年には引き延ばし等の作為が加えられています。そのため、神話時代の物語を全て造作としたり、初代神武天皇から第10代崇神天皇までを架空とする見解が生まれたのです。
しかし、先に紹介した安本美典氏の説によると、『宋書』によって在位年数がわかる第21代雄略天皇から第30代敏達天皇までの平均在位年数は10年程度であることから、これを初代神武天皇から第20代安康天皇の在位年数に当てはめると、神武天皇は三世紀末頃活躍していたことになり、また、記紀によれば、神武天皇の五代前が天照大神なので、これは卑弥呼が活躍していた230年代に重なる、といっています。
さらに、安本氏は、記紀の神話が九州を中心としていることから、卑弥呼が治めた邪馬台国は北九州にあり、それが三世紀末に東遷して畿内先住の豪族を服属させ、大和(邪馬台=ヤマト)朝廷を開いた。このことは、弥生文化が北九州から東に広まっていった事実や、考古学上の事実(三世紀末から畿内に古墳が現れ、その副葬品は北九州の古墳に特徴的な鏡、玉、剣などであること。畿内の銅鐸文化が突然姿を消していること)等から見ても明らかだとしています。
といっても、今日では邪馬台国畿内説が有力ですが、いずれにしても、この広大で豊沃な後背地を持つ畿内において、大和王権が成立したことには違いありません。そして、この大和王権の中心にあったものが、天照大神(卑弥呼?)につながる伝統的祭祀を継承する天皇家だったのです。こうして、天皇家を中心として畿内の豪族がまとまることで氏族連合国家としての大和朝廷が形成されたのです。その後大和朝廷は、さらに、その勢力を全国に拡大していきました。しかし、その過程で、中国や韓国の文化を積極的に取り入れることを主張した蘇我氏が、先に述べたように、その政治的発言力を増していきました。その一方、伝統的祭儀に権威の基礎を置く天皇家の地位は相対的に低下しました。
それが、蘇我馬子による崇峻天皇の弑逆(592年)や、蘇我氏血統の女帝推古天皇の擁立、厩戸皇子(聖徳太子)を摂政としたことにも現れています。従って、聖徳太子が冠位十二階を始めとする大陸の文物・制度の影響を強く受けた政策を押し進めていったというのは、太子の独自の見識から出たものというより、太子の協力を受けた蘇我氏の政治の一環と見るべきとする意見もあります。(『平凡社世界大百科事典』「聖徳太子」参照)
この太子の時代から大化の改新を経て記紀編纂に至までの歴史叙述については、それを記した『日本書紀』編纂者(藤原氏)の政治的意図を反映しているとされ、梅原猛氏を始めとする幾多の興味深い解釈がなされています。 
仏教は日本人の思想形成にどのような影響を及ぼしたか
『日本人とは何か(上)』
p145~153
◎仏教国家創建の功罪

仏教の受容とは、実は中国の宗教文化(儒教や道教を含む=筆者)のすべての導入であった。ただ唐の時代は中国仏教の最盛期であったから、それは仏教中心の宗教文化の輸入であったと言ってよい。従って、仏教の僧侶が儒教の講義をしても人は少しも不思議に思わなかった。そして仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な統一の共有しうる宗教へと変えたのが聖徳太子であろう。

太子は自ら法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書、すなわち『三経義疏』を記し、一切を包容融合する統一的な原理として「一大乗」の思想を鼓吹した。そして大化の改新を経て大宝律令ができると、仏教は「僧尼令」によって国家の保護を受けると同時にその統制を受けるようになった。いわば僧尼は、鎮護国家を祈念する公務員になったわけである。現代でも国教のある国の多くでは聖職者は国家公務員であり、それから見れば仏教の国教化といえるであろう。

以上のような行き方を推し進め、仏教国家の創建へと目指したのが聖武天皇であろう。天平十三年(七四一年)の国分寺創建の詔、さらに天平十五年(七四三年)の東大寺大仏建立の詔はこの点で注目に値する。いわば諸国に国分寺と国分尼寺を建立して、「金光明経」を講宣読誦させることによって国家にふりかかる労障を消除し、大仏によって国家万民の上に利益を与えようという一大計画である。こういった国家的計画とその実施は、日本史上、これが最初で最後であろう。

だがこのような大事業の結果招来されたものは、国民の疲弊、国家財政の破綻、寺領の増大、僧侶の政治介入と堕落であった。天平宝宇八年(七六四年)恵美押勝の叛乱が起こり、これは鎮圧されたが、次に僧道鏡が大臣禅師となって勢力を振るい、天平神護二年(七六六年)法王となって帝位をうかがうが、やがて失脚する。南都六宗といわれる首都奈良の仏教界は、さまざまな面で、どうにもならない状態になっていた。

◎呪術性と末法思想で仏教変質

延暦十三年(七九四年)桓武天皇は都を京都に移した。いわば奈良とその地の諸大寺は放棄され、同時にその統制、取締りは強化された。一方新しい首都の京都では、天台宗の最澄と真言宗の空海による新しいタイプの仏教、山林仏教が出現レだ。奈良の仏教は都市仏教だが、天台宗は比叡山に、真言宗は高野山にこもり、南都六宗とは違った新しい信仰の糧を供給した。といっても「鎮護国家」には変わりはなく、むしろそれはさらに強調されたといってよい。

南都の六宗でも、天台・真言でも、仏教の教学に対する専門的な研究はもちろん行われており、その水準はきわめて高かったといわれる。だが一般の貴族や有力者が仏教に求めたことは、深遠な宗教的真理ではなく、「鎮護国家」を一族にさらに個人の水準にまで下ろし、自分や自分の一族の繁栄や安全を祈念してもらうことであった。彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたわけである。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけた。

当時の人びとは、理解しがたい病気や災難を「物の怪」にとりつかれると考え、一種の強い怪異感で受けとめていた。そこでこの怪異感からの解放を加持祈祷に求めたわけである。その要請に応じたのが密教である。真言も天台もしだいに密教の比重が高まり、互いによりすぐれた呪術性を強調して競いあった。そしてその結果生じたのが、国家仏教から貴族仏教・閥族仏教への移行である。まず天皇家、ついで藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もこれにならった。氏寺の出現である。そして政権の座からしめ出された貴族は、栄達の道を仏教界に求めた。

有名な氏寺には、藤原伊勢人の鞍馬寺、藤原忠平の法性寺、有名な道長の法成寺や頼通の平等院などがあり、そこの僧たちは準貴族化して俗人と変わらなくなった。そして貴族の求めに応じて法会や加持祈祷を行なって土地の寄進を受け、しだいに富裕な土地所有者となり、武力さえも持つようになった。

もう一つ見逃せないのは末法思想である。キリスト教にも「紀元一〇〇〇年終末思想」があったが、日本の場合は永承七年(一〇五二年)である。なぜこのような信仰が生じたのか。教理的にはシャカの人滅後千年が正法、次の千年が像法(この計算の仕方はさまざまだが)で、それが終わると世は「闘諍」の時代となり、仏教の教えは現世では全く行われなくなるという思想である。

そして奇妙なことにこの年に香椎宮が焼失、翌年には伊勢大宮司の邸宅が、さらに翌年には高楊院内裏つづいて京極院内裏が焼失する。翌々年には安倍頼時の乱で追討の宣旨が下され前九年の役がはじまる。そして康平元年(一〇五八年)に新築の内裏がまた焼失し、法成寺も焼失し、翌年には一条院内裏が焼失し、その翌年には興福寺が焼失する。それは「平安時代」がいよいよ終わり、「闘諍時代」の来る不吉な予兆と人ぴとには思えた。事実、闘諍を恐れない武家の登場する時代は近づきつつあった。

一方、これとともに浄土教信仰が力を得てきた。これは奈良時代にすでに中国から渡来していたが、空也や源信によって、あるいは踊念仏という形で、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中にしだいに浸透していった。

この時代は、貴族にとっては確かに「平安時代」であり、権威を誇る彼らにとってこの世は決して「厭離」すべき「穢土」でなく、浄土の荘厳さを生きている現実生活の中に見ようと願わせるような世界であった。だが平安時代は裏から見れば群盗と流亡の民を生んだ暗黒の時代である。彼らがこの「穢土」を「厭離」して「浄土」を「欣求」しても不思議ではない。やがて武士が登場し、文字通りの「闘諍」の時代が来る。そうなると今度は、衰亡して行く藤原氏一門にとって、この世は、そこから逃避したい「穢土」になっていく。

◎念仏のみ選択した法然

この源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(1133~1211)の浄土宗であろう。前に法然のことをプロテスタントの宣教師に話したところ、「それではキリスト教ではないか」とか「まるでマルティン・ルターのようだ」とかいう反応が返ってきた。司馬遼太郎氏も同趣旨のことを記されているが、プロテスタンティズムとの類似性を最初に記したのはキリシタン宣教師ヴァリニャーノやカブラルであろう。そういう見方が出て不思議でない面がある。

ただ現代の欧米人とはまことにこまった点があり、こういうときには必ず「どこかからキリスト教思想が日本に入ったのではないか」と考える。そういった質問を受けたので、ルターの宗教改革ははるか後代の一五一七年、北条早雲が三浦義同父子を攻め滅ぼした翌年で、日本はすでに戦国時代。冗談に「ルターが法然の影響を受けたことはあり得ても、その逆はあり得ない」と答えた。僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人間は救済されるという個人主義的な宗教思想の発生は、西欧より日本の方がはるかに早い。

法然の思想は、『選択集』に記されており、要約すればいかなる愚痴無智・罪悪深重な者でも、阿弥陀仏の名をとなえるだけで極楽浄土に救済される身になるという。善根功徳を積む必要はないし、戒律を守り身を清浄に保つこともいらない。極言すれば、阿弥陀仏を礼拝することも、心に描くことも、浄土の「三部経」を読誦することもいらない。ただ称名念仏だけが「正定業」で、さまざまな宗教的修行は「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」され、念仏だけが「選択」される。

人は現実から逃避せず、与えられた身のまま、武士は武士、農民は農民、そのままで念仏をとなえればよい。そのため特別な行儀はなく、行往坐臥の間に行い、時間の長短や回数の多少もない。思う時に思うようにとなえて、それだけで十分とした。ただ彼は、ちょうどルターがカトリックの七つの秘蹟のうち二つを捨てかねたように、臨終の行は捨てかねた。

◎戒律死守した唯一の僧・明恵

彼のような思想に対して当然に対抗宗教改革が起こった。その代表が華厳宗の栂尾高山寺の明恵であり、『摧邪輪』を記し、仏典のどこを探しても法然の主張するようなことは記されていないと批判した。明恵は典型的な高僧というタイプの人で、民衆を直接に教化するより瞑想と隠遁を愛したが、彼を慕う人は多かった。

執権の北条泰時は彼から強い感化を受け、それが「貞永式目」の法哲学の基本になっていると思われる。また弟子の義林房喜海は生涯彼とともにあって、『明恵上人行状』を記し、これとその他の資料を基にして記された『明恵上人伝記』は徳川時代まで広く読まれた。その中の「あるべきようは」の七字を重んずること、いわばすべての人がその社会的位置で「あるべきようにあれ」という教えもまた、間接的だが強い教化力をもっていたと思われる。また彼が自らの「夢」を記しつづけた『夢記』は、心理学的に、また精神分析的に貿重な資料で、現代でも多くの人に研究されている。

だが明恵自身の生涯の夢は、インドに行き、仏跡を歩きつつ、ありし日のブッダを慕いしのぶことであった。彼はこの夢を果たせなかったが、たとえ末世・末法の世であっても、あくまでブッダを慕い、彼が示した戒律通りに生きることが彼の生き方であった。生涯、戒律を一点一画も破らなかった僧が日本にいたか、と問われれば「明恵がいた」といえる。それは法然とは対極の存在であったといってよい。

同じころ、栄西と道元によって中国から禅宗がもたらされた。これが広く普及したのは鎌倉時代であり、「只管打坐(しかんたざ)」の厳しい修業と厳格な戒律は、武士の生活規範とよく合致したものと思われる。禅は鈴木大拙により欧米に紹介され、日本の仏教といえば「ZEN」と思っている人も少なくないが、決してそうではない。ただ禅についてはすでに多くのことが紹介されているので、本書ではこれにとどめ、民衆的新宗教へと進もう。

◎日本仏教の独自性

足利時代になると、武士は禅宗、農民は真宗、商人は日蓮宗のような形になる。そして最も数の多い農民の宗教、すなわち真宗は、法然の弟子の親鸞が、師の教えをさらに徹底したものと言ってよいであろう。法然のもとに多くの人が教えを求めて集まったとはいえ、彼は生涯を殆ど京都で送ったので、その範囲は限定されていると同時に、都会的であった。

法然も親鸞も旧仏教勢力によって流罪にされたが、このとき親鸞は越後で妻帯して関東に赴いた。彼は堂々と妻帯した仏教史上最初の僧かも知れず、この点では彼の方がルター的かも知れない。だがオウガスチノ修道会の司祭であるルターが結婚したのは一五〇〇年で、これまたはるかに後年である。そして親鸞は関東の辺地で、農民や下級武士に自らの教えを説いた。

親鸞はあらゆる意味でルター以上であろう。彼はこの世を穢土とは考えず、「現実」こそ「救済」の場であり、その場に生きることを念仏の目的とした。そして阿弥陀仏に救われるという「信」のみが救済を決定するのであり、念仏とは救済を求めて称えるものでなく、信じ得た喜びの感謝の声だとした。ひろ・さちや氏は真宗の念仏は、救済されたことへの「サンキュー・サンキューだ」といわれたが、適切な解説であろう。まさに人が救われるのは「信仰のみ」によるのであり、その前では老若男女貴賤、一切差はないと説いた。だが、彼の教えがすぐ広まったわけではない。それが農民の宗教となり一大勢力となるのは天才的伝道師蓮如が出てからである。

この浄上教的な徹底した教えに強く反対し、法華経を絶対としたのが日蓮である。従って彼にとって天台以外の宗派はすべて否定さるべきもので「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」がスローガンであった。ただその彼もブッダを信じ「南無妙法蓮華経」の七字を称えるだけでよいとした。宗教人としての彼のタイプは、「法華経」絶対で非常に峻厳であり、この点では、旧約聖書の預言者を連想させるので、欧米人には理解しやすいらしい。この法華経および法華宗を最初に研究したヨーロッパ人はキリシタン宣教師オルガンティーノである。

以上は日本仏教史のきわめて簡単な摘記だが、これを読まれただけで読者は二つのことを感じられるであろう。まず第一に、仏教は「鎮護国家」の宗教として正式に国家に採用されたが、やがてそれが貴族の宗教となり、さらに武士から民衆へと浸透して行ったこと。そして第二に、それは浸透とともに変質していき、日本独自の仏教となって行ったということ。ヨーロッパの仏教学者の中には、真宗は仏教ではないとする人もあるという。それが言いすぎなら、日本人によって創出された独特の仏教の一派と言ってよいであろう。

しかし、この「民衆の宗教であるべき浄土宗(=真宗)は戦国の混乱の中では新たな秩序の確立よりもこの現世を否定し、諦念するという形になり、念仏による救済という信仰の上に強大な勢力を築いて一大封建領主となったのが本願寺であった。・・・このため一向一揆はむしろ、新秩序創出のガンとさえ見なされていた。ハビアンのみならず多くの人が、仏教のその姿に、新しい秩序の基となるべき精神的統合の原理を求め得なくなって不思議ではなかった。」(『受容と排除の軌跡』山本七平p63)

「・・・人ノ心ハ私ノ欲ニ惹カレテ邪ノ道ニ至ラントノミスルニ、無我無欲トイイテ、何タル悪ヲ作リテモ罰ヲ与ヘン主モナク、善ヲ勧メテモ利生ヲ行ルベキ所モナシ。タダ何事モ空生空滅ト云テ自由自在ニ教ヘテハ、ナジカハヨクアラン。カヤウノ法ヲコソ邪法トハ云ベケレ(このハビアンの言葉は、当時の人びとが、「仏教思想に対して何となくもっているある種の疑惑や潜在的不信感を鋭く顕在化」させるものであった。「上掲書」)

(江戸時代になると、仏教は、徳川幕府による寺請制度のもとで国教化するが、僧侶の生活の安定とは裏腹に、僧はあたかも「検死の役人となりたり」「僧は無学にても、不徳にても、事済むことになりたり」との批判も受けるようになった。『梧窓漫筆拾遺』太田錦城) 

 この時、日本に伝わった仏教の教えとは、一体どのようなものだったのでしょうか。これは、厩戸皇子(以下、聖徳太子と表記)の十七条の憲法や、太子の著したとされる『三経義疏』に見ることができます。
まず、憲法十七条ですが、これには当時中国で盛んだった儒教、仏教、法家の思想が反映しているとされます。具体的には、儒教思想の反映としては、
まず、君臣の秩序を示すものとして、3条(君言えば臣承り、上行なえば下靡く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め)。
官吏相互の心得として、4条(群卿百寮、礼をもって本とせよ)、6条(勧善懲悪、諂(へつら)い欺きや誹謗中傷の禁止)、9条(信はこれ義の本なり)。
官人の服務規律や議事の決め方として、8条(群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)、13条(職掌を知れ。(知らないといって)公務を防ぐることなかれ)、17条(事は独り断むべからず)。
官吏の人民に対する道として、5条(明らかに訴訟を弁えよ)、12条(国司国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ)、16条(民を使うに時をもってせよ)などが規定されています。
つまり、「官吏としての臣が君に従順であり、相互に儒教的な徳を守り、民に対して仁慈であれば、国家はおのずから治まる」という考え方です。
次に、仏教思想の反映としては、2条(篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん)、10条(忿を絶ち瞋を棄て、人の違うを怒らざれ。共にこれ凡夫のみ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え)などが規定されています。
つまり、先に述べた「儒教的な道徳の実践のためには、私心を去ることが必要で、そのためには仏教に帰依して己をむなしくせよ」というのです。
法家の思想の反映としては、11条(功過を明らかに察して、賞罰必ず当てよ)がありますが、必ずしも、これは必ずしも、性悪説に立ち、国家の秩序維持のため法の厳正適用を主張する法家の主張とは同じではないような気がします。
この外、第14条(群臣百寮、嫉妬あることなかれ。(嫉妬して)賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん)や、第15条(私に背きて公に向うは、これ臣の道なり)がありますが、これは、第一条(和を以て貴しとなし、忤(さか)うこと無きを宗とせよ。上和ぎ下睦びて、事を論うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん)という、「日本的」な「和」を尊ぶ思想に収斂しているように思われます。
とりわけ、ここに見られる仏教思想の理解の仕方は、その後の奈良、平安仏教に見られるような鎮護国家的、呪術的な仏教への帰依とはかなり異なっています。ここには、聖徳太子による『三経義疏』(法華経・勝鬘経・維摩経3経の注釈書)に見られる、哲学的な仏教理解があります。これらの著作については、聖徳太子の自撰を疑う意見もありますが、飛鳥時代に編纂されたものであることは間違いなく、これは、その後の日本仏教発展の原点的意義を持つものといえます
すなわち、『法華義疏』には、人は皆、内心に真実の仏性を具有する故に、上下貴賤、世間出世間等一切差別にかかわらず、共に同一仏道に融合するという大乗仏教の教えが説かれています。
また、『勝鬘経義疏』には、そうした大乗仏教の教えを成就するためには、まず、自らを正すことによって、はじめて他の救済ができるという「自行化他」の教えが説かれています。
さらに『維摩経義疏』には、宇宙人生の一切は因縁の所生であって、その真相は「空」であり、その「空」が一切事象の「有」になるのであるから、そこから生まれる我欲・我執の迷妄から離れなければならない。といっても、現実人生を捨離するのではなく、この「空有相即」の純浄の信念を以て、世間活動の教化を尽くし、理想と現実の一致融合を実現べき、と説いています。(『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』黒木正一郎著参照)
しかし、こうした仏教教理の哲学的解釈がなされるのは太子晩年(615年)のことで、当時、一般に伝えられた仏教の教えとは、次のようなものでした。
仏神は、日本の神のように一氏族だけで祀られる閉ざされた神ではなく、万人に開かれた神である。つまり、仏教は、氏族内の血族的団結の枠を超えた、個々の人間の輪廻転生を説くものでした。「人間は今生においては、一人一人が他人と違った善悪の業を積み、その報を必ず次生に受けて、天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄の六道を輪廻する。もし仏の教えに従って悟りを開けば、この苦しみから解脱することができる。」
つまり、従来の氏族的割拠を支えていた閉じられた神信仰を打破して、中央集権的な統一国家を形成すためのイデオロギーとしての性格を持っていたのです。
こうして、594年には仏教興隆の詔が出され、諸氏族共同の寺院が建てられ、仏像が作られ、斎会が催され、輪廻転生の教えに基づく超氏族の精神が鼓吹されました。といっても、従来の姓(かばね=職)による氏族社会の機構と、新しい個人の器量による律令政治の機構とは、その後も併行して存在し続けました。しかし、天武天皇の時代になって、後者の下部機構に前者が収まるという形で、ようやく国家体制の安定を見るようになりました。こうして、氏上は氏の社を祭ると共に、律令官僚として国家鎮護を祈る官寺を崇拝するようになりました。
しかし、この日本に伝統的な神祀りの思想と輸入された仏教思想とは、便宜的な役割分担はできても、新たなより高次の思想に発展することは容易ではありませんでした。というのも、前者は「ロゴスとしての思想」を持たず、その思想的表現は仏教や儒教など外来思想の衣装をまとう形でしか表現できなかったからです。これが日本独自の宗教としての姿を見せ始めるのは、室町時代末に始まる戦国乱世の時代に、仏教の社会思想としての無力が顕在化して以降のことです。
では、この「ロゴスとしての思想」を持たない日本の伝統的な神祭りの思想とはどのようなものだったのでしょうか。
いうまでもなくそれは、『風土記』や『古事記』『日本書紀』などの神話・伝承の中に見ることができます。それは、神々による新しい生命力を生み出す「むすび」の力をたたえるもので、祭りはそれを更新・増長させる呪術としての意味を持っていました。ここでは「よき神」は自然の生命力を成長促進させる神であり、「あしき神」はそれを阻害する神でした。死は「けがれ」と見なされ恐れられました。また、「けがれ=罪」は人の生命力を妨げるものですが、それは「みそぎ」で祓うことができました。(三世紀頃、死後の世界の存在を語る思想(=道教)が伝わり、これが古墳文化を形作ったものと思われる。)
つまり、これらの神祭りは、もとは生活共同体における生産力の維持・向上を祈り、共同体の団結を更新・強化するためのものだったのです。また、神道で強調される「誠」や「正直」などの徳は、「けがれ」なき清明心をいい、共同体に和順する素直な心をもつことを求めるものでした。こうした地域的共同体の祭りを、大八島を包む日本全体の建国神話におし広げたものが『古事記』『日本書紀』でした。(以上『日本の思想「神道思想集」』解説、石田一良参照)
これが仏教や儒教との習合を経て後、朱子学の導入を契機として、これら仏教、儒教渡来以前の日本固有の精神文化を明らかにしようとする国学思想を生み、記紀はその聖典とされるようになりました。さらに、こうして国粋化された神道思想は、萬世一系の天皇の統治する国体の優越性を主張する尊皇思想へと発展していきました。一方、仏教は、徳川幕府がキリシタン禁圧の手段として寺請制度が取ったことから「国教化」し、体制教化の末端を支えるものとなりました。しかし、このことは仏教が「戸籍登録」という形で幕府政治の下請けをすることを意味したため、以後、救済思想としての宗教固有の影響力を喪失してしまいました。
明治の廃仏毀釈は、それまでに、仏教に対する庶民の信仰がほとんど失われていたことを証すものといえます。
神道は、どのように自らの思想を形成したか。
『現人神の創作者たち』
p94~109
 「神道」――この言葉ぐらい定義しにくい言葉はなく、その内容ぐらい模糊として捉えがたいものはなく、時代によりまた人によりその定義・内容は常に一定しない。古くは「宗教もしくは宗教的と言われるもの」を総称した言葉であったらしいが、仏教の伝来とともに、まずこれとの対立的な意味で伝統的な日本の宗教を総称する言葉になっている。

ところが奈良朝末期にはすでに神仏習合説が出、平安朝末期に本地垂迹説が出てくる。もっともこれらの説をさらに古く歴史的過去へさかのぽらせることも可能であろうが、機能しはじめるのは大体以上のころと見てよいであろう。そしてこの説は神道の側から起らず、常に仏教の側から起っており、いずれも仏を主とし神を従としている。そしてこれは旧仏教が新仏教を排撃する手段ともなっていた。

その理論づけが本地垂迹説である。言うまでもなくこの説は、神と仏は本来同一で、本地はインドの仏だが衆生済度のために述を日本に垂れたのが神だという説で、仏主神従であり、仏教が神道を取りこもうとした説である。従ってこれをも神道と言うのは少々奇妙でむしろ仏教の一派だが、両部神道とか山王神道とか言われるものがこれで、前者は密教(真言における金剛界・胎蔵界の両部の教理を神道にあてはめ、内宮を胎蔵界の大日如来、外宮を金剛界の大日如来とし、大日本国とは大日の本国だとする考え方)、後者は天台の教義に基づく神道である。従って神道の一派を仏教の僧侶が立てても別に不思議ではない。

以上の歴史を見てくると、神仏習合とははじめは仏教側の発想で、神道の方から習合を求めたのではないことが明らかであり、それはそうなって当然であろう。というのは神道は文字通り「はじめからあるもの」であって、自分の方から習合を求める必要はなかったからである。そしてこれが仏教側の要請であるが故に、仏主神従という形の「神道とりこみ形」の習合になって当然である。だがこのことは、これの逆転乃至は裏返しも可能だということである。

いわば「神と仏は本来同一で、本地はインドの仏だが、衆生済度のため迹を日本に垂れたのが日本の神々である」という説は、あくまで教義(ドグマ)であって歴史的証明は不可能である。となると、これを裏返して「神と仏とは本来同一で、本地は日本の神だが、衆生済度のため迹をインドに垂れたのが仏で、それが日本に環流してきたのが仏教だ」と言うことも不可能ではない。というのは歴史的証明のない教義はそのまま逆転させても、論理的な矛盾は生じないからである。これは、出てきて少しも不思議でない当然の帰結である。

この「裏返し本地垂迹説」ともいうべきものが伊勢神道(筆者注)にあったが、これをさらに推進して発展させたのがト部兼倶(1435~1511)であった.彼が生きた永享七年から永正八年まではいわば足利の乱世であり、彼自身は相当に山師的な、日本史には珍しい面白い人物である。彼は仏主神従を裏返しにし、それに基づいて両部神道を排斥し、それとは別に唯一宗源神道を主唱した。ある意味では神道の独立宣言とも言えるであろう。

(筆者注:度会神道・神宮神道ともいう。伊勢神宮の内宮・外宮を密教の胎蔵界・金剛界に見立てた両部神道の影響下に、鎌倉前期に形を整え、中期以降に発展し、南北朝期に集大成された。これは、国家護持を自認する仏教界による伊勢神宮の思想的な取り込みであり、渡会氏はその影響下に、神宮独自の古伝承によりながらも、仏教の論理・用語を借用した教説を立てた。伊勢神宮外宮の神官渡会氏の内宮への対抗意識がこれを助長したとされる。『日本歴史大事典』「度会神道」)

いわぱ仏教は神道を仏主神従の形で取りこもうとして、ここで逆に神主仏従の形で取りこめられたわけである。

彼は確かに相当に山師的な人物であり、世の動乱に乗じて神道を独立させて独占し、それに基づいて日本国中の神祇をことごとく自分の支配下に置こうとした。そしてこの意味では国家神道という発想は彼にはじまると言ってよく、日本的宗教の独立宣言のような一面ももっていた。そしてこれが、外来の他宗教への従属感から日本人を脱却させる効果があり、ある意味ではそのプライドを満足させる一面があった。

(その主張は)まず第一に、「わが神道は国常立尊以降、天照大神まで相うけ、大神より天児屋根命に授け給い、爾来今日に至るまで、一気の元水をくみて、三教(儒釈道)の一滴をも嘗めず。故に唯一法あるのみ」であり、第二に「天児屋根命は神事の宗源を主とすると日本書紀にあり。ト部は宗源卜事の大業を受け、神代附属の正脈をつぎ、神皇の師範に侍し、一代不絶の名跡たり。故に卜部の正統は、唯一流の家業を受くるものなり」としている。そして第三に「国はこれ神国、道は神道、国主は神皇なり。天照大神一神の威光、百億の世界に遍く、一神の附属、永く万乗の王道を伝え、天に二日なく、国に二王なし。故に日神在天の時、月光星光をならべず。唯一天上の証明これなり」として、これを唯一三義の説明にしている。

しかしこう言って神道を儒仏の上にもって来たところで、その体系的内容は儒仏からの借物にすぎない。だがこの問題も、「裏返し本地垂迹説」を援用すれば解決できる。これがいわゆる根本枝葉花実説で、これによれば前述の天児屋根命の神宣に基づく日本の固有の思想が基本で、これが日本に根ざし、まず中国に枝葉をのばし、インドに花開き、その実が落ちてまた日本に帰ったのだとする。こうすれば、神道が儒仏を援用したとて、少しも矛盾がないことになる。後代の超国家思想はほぼこのころにはじまったと見てよいであろう。

言うまでもなく朱子学(旧来の儒教教典に大胆な新解釈を加え、理気一元論のもとに陰陽五行、五常五倫を説いたもの=筆者)は、この土壌の上に、幕府の統治のための官学として、まず入ってきた。従って、当時すでに日本の神祗をほぼ抑えていた唯一宗源神道との間に、ある種の習合が”便宜主義的に”生じたとて少しも不思議ではない。と同時に、林家にとっては、仏教は幕府から排除すべき敵であった。家康の側近で力を振った天海も崇伝ももちろん僧であり、いずれも神仏習合説の信奉者である。従ってその考え方は「神国=仏国」だが、道春にとっては「神国=儒国」であらねば自己の権威確立にはならなかった。

こういうわけで、林氏はまず僧服をやめ、ついで僧形をやめ、一般士人と同様になって大学頭と言われるようになった。しかしこれは道春、春斎のときでなく、春斎の子の春常の時であり、彼が、番頭大学頭信篤と称したのは元禄四年のこと、・・・このことは当時の仏教的伝統がどれだけ強固であったかを示している。従って林家にとっては、儒学独立が同時に神儒習合であって少しも不思議ではなかった。

もっともこの点を、ただ便宜主義的な動機とのみ見るのは、少々問題であり、道春があくまでも歴史的に見て神仏混淆はおかしいと思ったとて、それは不思議ではない。というのは仏教には元来、儒教的な歴史という概念はない。ないが故に本地垂迹説は歴史的証明を必要としない。しかし儒教はそうではなく、特に司馬光の『資治通鑑』(中国、宋代の歴史書。戦国時代から五代末までの1362年間の君臣の事績を編年体で記したもの=筆者)が日本に与えた影響は、当時、決定的だったからである。それは、戦後の一時期のような「歴史ブーム」をまき起した。

だが歴史ブームとなれば、当時の人間が用い得た史書が中心は日本書紀であり、同時にこれは神道の”聖書”なのである。これは否応なく崇伝・天海の「神国=仏国」論への再検討となる。と同時に『資治通鑑』に基づく日本史解釈は神儒習合的になるから、徹底した中国崇拝家の林道春が神社考を著わしたとて、それは別に不思議ではない。だがたとえ彼がその序に「それ本朝は神国なり」と記したとて、これはすでに「仏国」の意味でなく、むしろこれを基本として仏教を排撃しているわけである。

(林道春はその神社考の結論として)「こい願うは、世人わが神を崇んでこの仏を排せんことを。しからばすなわち、国家上古の淳直に復し、民族内外の清浄を致す。また可かならずや」と記している。(こうした見方は道春の論敵であった山崎闇斎も、熊沢蕃山も同じであった。蕃山は)「もとより四海の師国たる天理の自然をば恥じて、西戎の仏法を用い、わが国の神を拝せずして、異国の仏を拝す。わが主人を捨てて、人の主人を君とすることをば恥とせず、その過ちを知るべし」と記している。

(こうした全般的な風潮の中で)神道の側からも当然これに対応する動きがあった。すなわち吉田流の唯一神道の中から、仏教的要素を排除する吉川惟足が出た。これが理学神道である。(これは、秘事や口伝を排し、吉田神道に朱子学の理気説や陰陽五行説を交えたもの。これらの仏教を排し儒教と習合した神道を儒家神道という。)

(こうした朱子学的な歴史理解が、熱狂的な中国崇拝を生むことになるが、これに対する反発から、山鹿素行の『中朝事実』にあるような「日本こそ中国(=中つ国)である」といった主張がなされるようになった。これが、神道の根本枝葉果実説を呼び起こすこととなり、さらに、古事記・日本書紀を神道の聖典とし、萬世一系の天皇による統治の優越性を説く、国学思想を生み出すこととなった。その結果、従来神道思想を支えてきた仏教や儒教思想は排撃され、神道は、儒仏受容以前の日本固有の道(古道)に還ることが求められるようになった。これが平田篤胤を経て国家神道へと発展していくのである。)

 日本への仏教(儒・釈・道の三教が混淆した思想)受容が公的な問題になったのは、排仏派の物部氏が蘇我氏に滅ぼされた587年のことです。この時、仏教と対立する日本の伝統宗教をさす語として、神道という言葉があてられたといいます。では、この日本の伝統宗教である神道とはどのような思想を持っていたのでしょうか。前項では、これを「自然の生命力を讃えるもの」と説明しましたが、記紀ではこれを次のような農耕文化の伝搬として説明しています。
まず、高天原において稲作や雑穀栽培、養蚕が始まったこと。次いで、スサノオが追放された出雲で雑穀栽培が行われたこと。この両者は後者が前者に国譲りをすることで和解したこと。次いで、ニニギが侍神と共に稲を持って筑紫の日向高千穂に天下り、海の民、さらに山の民と和解したこと。その後東征して大和に至り、ここを都として「五百秋水穂国」を開き、初代神武天皇が即位したこと。
この物語は、稲作を中心とする農耕文化が、北九州から南九州それから畿内へと伝搬していったことに対応しています。それと同時に、この稲作文化の中心に天照大神がいて、その周りを神々が役割分担しつつ、合議制で高天原を治めていたこと。そこから中つ国に使者を派遣する形で、その統治を拡大していき、それが天皇を中心とする政治に発展したことを物語っています。
さらに、このアマテラスを中心とする日本神話には、他の地域の神話には見られない際だった特徴を持っています。それは、アマテラスは「天上の神界の王者の最高神であるのに、女神」であるということです。他の神話ではおしなべて男性神で、彼らは想像を絶するほど残忍で無慈悲な性質を持っています。しかしアマテラスは、これらの他の神話の神々とは異なり、実に寛容で、ビックリするほど慈悲深く描かれています。
それは、ほとんど母親が我が子を甘やかすのに似ていて、流血や殺害を極度に嫌う態度で一貫しています。また、彼女が高天原の女王の地位についた経緯も、その天稟の資質を見込まれて、当然の如く平和的にその地位についています。これも、他の神話の最高神が、血みどろの戦いの末にその地位についているのに比べて、著しい対照をなしています。(『日本の神話伝説』吉田敦彦・古川のり子参照)
では、こうした日本神話に現れた平和思想は、一体どのように育まれたのでしょうか。これは、日本の稲作を中心とする農耕文化(弥生文化)の広がりとともに語られています。それは紀元前五世紀頃始まったとされます(近年、弥生時代の始まりを紀元前1000年頃まで溯らせるべきとする意見も出てきています)。とすると、六世紀末の仏教受容までには、すでに一千年近い稲作生活がなされていたわけで、ここから、日本の伝統思想が形成されたと見ることができます。そして、その基本は、日本的自然的秩序に従うことを最上とする一種の自然神話的発想であったろうと思われます。
いうまでもなく、日本の稲作には季節的変動があり、この自然の秩序に順応して、季節を肌で感じながら、稲作が行なわれます。ここから、「自然に従っていればよい」という発想が生まれたのではないでしょうか。そして、こうしたものの考え方が、人びとの意識構造を決定した。つまり、これが歴史時代には入る以前の日本人の無意識の思想だったのではないでしょうか。
ここに、まず、三世紀頃道教によって死後の世界の観念が持ち込まれ(これが古墳文化を生んだ)、次いで、仏教(=儒・釈・道三教合一思想)が入ってきました。その結果、日本人はそれまで無自覚だった自らの伝統思想を意識するようになりました。そして、この儒・釈・道三教合一思想を、日本の伝統的な自然秩序への順応を基礎におく神・儒・仏三教混淆思想として再把握するようになったのです。
このことは、聖徳太子の憲法十七条にもそのまま反映しています(このことについては前項で説明しました)。次いで、この神・儒・仏混合思想は、奈良時代から鎌倉時代あたりまでは仏教中心に解釈されました。次いで室町時代末の乱世になると、仏教の無力が明らかとなり、主客が入れ替わって神道中心の神仏混合思想が唱えられるようになりました。次いで、江戸時代になり社会秩序が回復すると、神道は秩序の学である朱子学(新しい儒教の一派)と混淆するようになりました。
その後、神道は、この新儒教をも「唐ごころ」として排除し、仏教や儒教導入以前の、日本固有の純粋な神道思想に回帰しようとする国学思想に発展しました。この思想は、日本的な自然秩序への順応をベースに、自然(天地、鳥獣草木を含む)と人間との関係、人間相互の関係(君臣、夫子、夫婦、兄弟、朋友)を、恩論や仁愛の情(あわれみ愛する心)をもって説明しました。それは多分に、儒教の五倫五常を反映するものでしたが、それをも、「人が天性生まれつきに持つ本性」と見なすところに、日本的な「人間性」信仰が表白されているといえます。(『受容と排除の軌跡』山本七平参照)  
日本の「固有法」である「貞永式目」を創った北条泰時の思想はどのようなものだったか
『日本的革命の哲学』
p138~152
 人間が、何か新しい発想で新らしいことをはじめようと思っても、過去を全く無視することはできない。マルクスがいかに新しい発想をしようと、その発想を体系化しかつ具体化するための「思想的素材」は過去と同時代に求めざるを得ない。しかしこのことは、他国の法と体制をそのまま継受することとは全く別である。継受は決して新しい発想を自己の中に創出したのでなく、自己と無関係のあるものを見て、それに自己を適応させようとしただけである。この点、明恵-泰時政治思想は前者であり、まず「自然的秩序絶対」という思想を自ら創出し、それを具体化するための素材を同時代と過去に求めたにすぎない。

まず「今ある秩序」を「あるがままに認める」なら、朝も幕も公家も武家も律令も、そしてやがて自らが作り出す『式目』の基になる体制も、あるがままにあって一向に差しつかえないわけである。朝幕併存は「おかしい」と日本人が思い出すのは徳川期になって朱子の正統論が浸透しはじめてからであり、それまでは、それが日本の自然的秩序ならそれでよいとしたわけである。これが大体、明恵―泰時政治思想の基本であろう。

だがその基本を具体化し、現実をそれで秩序づけるとなれば、この基本を具体化する素材が必要である。そしてその基本的素材は中国の思想に求められた。だが、中国思想に求めたのはあくまでも素材である点が、律令とは決定的に違う。同時に、それが本質であって素材でない中国とも違っでくる。これはもしも今、泰時のような状態に置かれたら、その基本的発想は自ら創出しても、それを具体化する素材は西欧の政治思想に求めるであろうというのと同じである。このことは今の段階では、政治家よりむしろ経営者の行き方にあるが――

宗教法的体制は生まず

前章で記したように、明恵上人は泰時に、この自然的秩序に即応する体制を樹立するには「先づ此の欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」であるといい、その背後には、「政治は利権である」が当然とされていた律令制の苦い歴史的体験があるであろうとのべた。この体験も一つの素材であるが、つづく明恵上人の言葉には明らかに、孔子・老子・荘子・孟子等の考え方が入っている。これは当時の僧侶は単に宗教家というよりもむしろ総合的知識人であったことを考えれば少しも不思議ではない。

たとえば『孟子』は「心を養うには寡欲が最良の方法である。その人となりが寡欲であれば、たとえ仁義の心を失っても、失った所は少なくてすむ。その人となりが多欲であれば、仁義の心があるとしてもきわめてわずかである」と説き、また老子は「無欲にして静ならば、天下将に自ら定まらん」といい。荘子も「聖人の静なるや、静は善なりと曰うが故の静なるに非ず。万物の以て心を僥(みだ)すに足るもの無きが故に静なり。……それ虚静恬淡、寂莫無為、天下の平(和)なるにして道徳の至なり」としている。

この考え方の背後にあるものは、「自然法則は道徳法則である」という発想だから、それは先験的なものであり、「無欲」な自然状態になれば、この先験的道徳法則が発見できるという考え方であろう。後にこれを体系的な哲学にするのは朱子であろうが、明恵上人の考え方はもちろん朱子学的ではなく、むしろ、それへ至る思想の日本的・仏教的解釈と見るべきであろう。

また明恵上人は春日大明神をも信仰しており、この点では最も正統的な三教合一論者であったといえる。そして喜海の記すところでは、大乗・小乗はもとより外道の説も孔老の教えもすべて如来の定恵から発したものだと固く信じていたらしい。この思想がどのように形成されてきたかは『受容と排除の軌跡』で詳説したので再説しないが、この考え方が政治的に機能するときは、何らかの宗教を絶対化した「宗教法的体制」にはならないという点では、まさに泰時の政治思想さらに幕府の政治思想の基本となっている。
(後略)

明恵の「あるべきようは」

では人は「無欲で無為」であればよいのか。さらに全員が無欲になって隠遁してしまえばよいのか。面白いことに明恵上人は決して無為を説かなかった。「或時上人語りて曰はく、『我に一つの明言あり、我は後生資(たすか)らんとは申さず、只現世に有るべき様にて有らんと申すなり。聖教の中にも行すべき様に行じ、振舞ふべき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。現世にはとてもかくてもあれ、後生計り資かれと説かれたる聖教は無きなり。

仏も戒を破って我を見て、何の益かあると説き給へり。仍って阿留辺幾夜宇和(あるべきようは)と云ふ七字を持つべし。是を持つを善とす。人のわろきは態(わざ)とわろきなり。過ちはわろきに非ず。悪事をなす者も善をなすとは思はざれども、あるべき様にそむきてまげて是をなす。此の七字を心にかけて持(たも)たば、敢えて悪しき事有るべからず』。と云々」と。また『遺訓抄出』には「又云、我は後世たすからむと云者にあらず。たゞ現世先づあるべきやうにてあらんと云者也。云々」とあり、この言葉は座右の銘のように絶えず口にしたらしい。この考え方は浄土教の信者とは方向が全く違う。
(中略)

泰時はもちろんこの言葉を聞いたものと思われる。彼は明恵上人のこの言葉をどう受けとり、それが彼の施政、特に『貞永式目』の中にどのように反映」ているであろうか。まずこの「あるべきようは」を具体化すれば、細かいことまで「こうあるべきだ」と定めた一種の律法主義になる。・・・だがそれはいわゆる律法主義であってはならず、・・・「心の実法に実ある」振舞いが、ごく自然的な秩序となって、この戒法に一致するように心掛けよ、である。従ってこれは見方を変えれば「あるべきよう」にしていれば、自然にこうなるということ、それも決して固定的でなく、「時に臨みて、あるべきように」あればよいのである。そして面白いことに泰時にとっては「法」も、こういったものなのである。
(後略)

世界史上の奇妙な事件

だがこの「戒法」というものは「心の実法に実あるふるまい」をしていれば、自然にそれが、「戒法」になるような「法」であらねばならない。それは、結局、自然的秩序をそのままに「戒法」としたということになる。いわば、内心の規範(道徳律)と社会の秩序と自然の秩序が一体化するような形であらねばならぬということ。それが「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、人の心の曲れるをば棄て、直しきをば賞して。おのづから土民安堵」となる、いわば「あるべきようは」が達成されるということであろう。

泰時にとっては「立法の趣旨」とはつまりそれだけであった。だがこれは世界史に類例がない奇妙な事件なのである。というのは、泰時に向って「お前はいかなる根拠によって立法権をもつと主張できるのか」と問えば、彼は何も答えられないからである。
(後略)

法の形をとらぬ実法

・・・(そこで)彼は『式目』を「目録」と名づけようとした。では当時の「目録」という言葉に「法令集」という意味があったのであろうか。実は、ない。「所領目録」「文書目録」等、「目録」の意味と用法は現在とは変らない。従って泰時にとっては『式目』とは「法規目録」とでも言うべきものであった。ではこの「法規目録」はいかなる法理上の典拠に基づいて制定されたのか。そう問われ、またそれが明らかでないと非難されても、そのような法理上の典拠はないと彼はいう。

このように明言した立法者はおそらく、人類史上、彼だけであろう。そして言う「たゞし道理のおすところを被記候者也」と。一体この「道理」とは何であろうか。泰時はそれについて何も記していないが、簡単にいえば「あるべきようは」であろう。。前の手紙と対比しつつ、今まで記した明恵―泰時的政治思想を探って行けば、それ以外には考えられまい。いわばこれが立法上の典拠なのである。

彼は律令格式がきわめて体系的で立派なことは認めている。しかしそれは「漢字」で書かれているようなもので「かな」しかわからない一般人にはわからないという。そこでこの『式目』は、「かな」しか知らない多くの人を「心えやすからせんため」に制定したものであるという。もちろんこれは比喩であって『式目』もまた実際には『漢文』で書かれている。しかし律令格式を知る者は、「千人万人が中にひとりだにもありがたく」また「百千が中に一両もありがたく」という状態は、この法律を知る者が皆無に等しかったことを示している。これは事実であろう。

問題はこの語の前の「武家のならひ、民間の法」という言葉である。これは確かに、律令格式とは別の「武家法と民間の慣習法」があるという意味ではなく、「武家・庶民を問わずそれを知らないのが一般的である」という意味であろう。ではその武家・庶民が完全に「無法」かというと決してそうではなく、一種の「法の形式をとらぬ実法」があり、社会は律令格式によらずそれによって秩序を保って来たことは否定できない。その意味では「武家法と民間の慣習法」の存在を言外に主張していると見てよいであろう。

簡単にいえばそれが自然的秩序であり、そのため逆に律令が浸透しなかったともいえる。そして人びとは、不十分ながらその秩序の中に生きており、それを当然としているのに何かあって法廷に出れば「俄に法意をもて理非を勘(かんがえる)」となり、「人皆迷惑と云云」という状態になる。そして泰時が、この状態に終止符をうとうということである。

だが泰時は決して、「式目絶対、今日から『関東御成敗式目』が日本国における唯一絶対の法である」と宣言したわけではない。彼はあくまでもその時点において「あるものはある」とする態度を持している。いわば出来あがった自然的秩序をそのまま肯定しているわけで、朝幕がそのまま併存してよいように、「律令・式目」もまた併存していて一向にかまわなかった。彼は『式目』への謗難を礼儀正しく拒否したが、といって『律令』に謗難を加えようとはしなかった。だが律令は結局、「天皇家とその周辺」の「家法」のようになっていき、「武家国内の教会法のヴァチカン」のように、やがて、そこだけが特別法の一区画になって行くのである。

北条泰時は、中国からの継受法(他国の政治制度をまねた法律)である「律令」に代えて、固有法である「貞永式目」を制定して、日本の政治に実質的に機能する法秩序を打ち立てたのです。それは革命ともいうべき政治的大転換であったわけですが、彼は、その革命を一体どのような政治思想に基づいて行ったのでしょうか。
このことを考えるためには、まず、律令政治というものがどのようなものであったかを見ておく必要があります。
律令制度の基本は「公地公民制」です。これは全ての土地人民は公の所有になったということ、つまり天皇家の所有になったということを意味します。そして、こうして公有された土地は、改めて「班田収受の法」に従って、戸籍に登録された正丁(21歳以上60歳以下男子)に口分田として支給され、また収容(死亡時に返還)されました。そして、人民は、支給された口分田について「租」(稲二束二把)を地方政府に、また、成年男子にかかる人頭税である「庸・調」(布・米・塩・綿など地方の特産物)を中央政府に納めました。
ところが、この公地公民制は、表面上は「井田法」に見るように大変公平な制度のように見えますが、裏返せば、全てが利権に附属する「利権制国家」に変質していきました。というのは、「口分田をいかに勤勉に耕したとて、それによって得た富で隣地を買って財産をふやすことはできない。しかし官職につけば必ず利権はついてまわり、さまざまな不正を行いうる。これは、生産手段の集権的国有制に発生する構造的腐敗の体系というべき状態で、これは昔も今も変わりはない」からです。
「こうなると地方官になったり官職についたりするのは一に利権のためとなるから、能力はどうでもいいということになる。・・・しかし、中央官僚は門閥に支配されているからはじめから無理となると、多くの者は地方官を志望する。そしてひとたび任官すれば「一国を拝すれば、その楽余り有り、金帛(きんぱく)蔵に満ち、酒肉案(=膳)に堆し、況んや数国を転任するをや」(平兼盛)」で、それは天下り官僚が公団等を渡り歩いて次々と何千万という退職金を手にする比ではない。」(上掲書p134)ということになりました。
このように、律令制は一面では利権制であり、農地耕作者の勤労意欲も高まらなかったことから、次第に公地公民制は崩壊していくことになりました。というのは、この制度の基礎は口分田の支給であり、それを基にした租庸調という税制によって成り立っていました。また、その班田収受は戸籍を基にしています。しかし、戸籍に登録すれば土地は支給されるが税金もかかるし徭役も兵役もある。そのため、その対象となる男子は戸籍登録をしないくなり、戸籍はほとんど女子だけになりました。
では、男子はどこで働いたかというと、第一が功田と腸田などの私有地です。また、開墾地の労働力として働きました。これらの土地の開墾は、人口の増加に伴う墾田の不足によって否応なく要請され、かつ、723年の「三世一身の法」から743年の「墾田永年私有法」を経て、開墾地の私有が認められるようになりましたので、彼等は、その私有地(=荘園)を有する領主のもとで作人として働くようになりました。
こうして、律令制度は「名存実亡」となり、同時にその間隙を縫って利権が発生し、如何ともしがたい様相を呈するようになったのです。そして、それへの対処療法は、明恵上人が言うには「打ち向かうままに賞罰を行い給はば、弥々(いよいよ)人心の姧(かたま)しくわわくにのみ成りて、恥をも知らず、前を治れば後ろより乱れ、内を宥めれば外より恨む。されば世の治まると云う事なし」というような無秩序な状態になりました。
では、なぜそのようなことになるのかというと、病の根源を知らないからで、そのためにますます病気が重なって癒え難くなっているのだ。その病気の根源は「欲」であり、これが遍く万般の禍となっているから、これを療せんとするなら、まずこの欲心を棄て去ることが大事だ。そうすれば天下は自ずから令せずして収まるだろう。明恵上人は北条泰時にこのように言いました。この言葉は、以上述べたような、当時の律令制下の利権政治を念頭においたものだったのです。
これに対して泰時は、「それはもっともですが、私自身は全力を尽くしてこの教えを守ろうと思っていますが、しかし他人にこの教えを守れというのは難しい。どのようにしたらいいでしょう」というと、明恵上人は「それは容易です。ただ為政者としての貴方お一人が無欲になり切られたなら、その徳に感化されて、天下は容易に治まるでしょう。」と答えました。泰時は上人のこの言葉を肝に銘じ、心に誓ってこの教えを守ったといいます。
泰時は、こうした明恵上人の政治哲学を胸にその後の政治を行っていったわけです、必要に応じて改廃すべきものでした。そして、それを行う為政者は、まず第一に無欲であるべきで、自らの内心の「道理」にもとづく「理非の決断」ができなければいけない、としたのです。これが「貞永式目」という、当時の日本人の常識に根ざした固有法を生む事になり、これは、武家社会だけでなくその後の日本の社会一般に広く浸透していくことになりました。


言葉なき思想の自己増殖
『日本的発想と政治文化』p86~90
 伝統的規範は、日本人がこの島で生きて行くための「知恵の集積」であり、その思考の体系は、一種、生物の生態系のようになっている。人間が社会をつくるとは、その社会と自己との関係、いわば「個と全体」とをいかに系統立てて把握するかが基本になるから、社会的動物とは思想的動物であり、それによって生きている。

したがって、その思考の体系が生物の生態系のようになるのは当然であって、どこの国、どの時代の思想であれ、これと似た一面をもつことは否定できない。そしてこの生物の生態系の一部を、外来思想で否定するという形で”刈り取る”と、全体のづフンスが崩れて、それとバランスをとっていた他の面が、外来思想の名で異常な自己増殖を起こすのである。

この現象は、ソビエト、中国、アフリカ等々に見られる。いわば”収容所群島”もカンボジアの現状も直接にはマルクス主義とも社会主義とも関係はあるまい。関係あるなどと言われたらマルクス自身と他の社会主義者たちが驚くであろう。だがしかし、この現象が起こりかつこれからも起こるであろうことは否定できない。と同時に、これはただに外国の問題でなく、アメリカ型民主主義を受け入れたわれわれももつ問題である。

このことを考えるきっかけになったのは、ある新聞記者の私への質問である。その新聞は昨春から「戦後民主主義を問う」といった連載を企画し、その取材に来られたのであった。そのとき記者が、「一体これをどう思われますか」と言いつつ話した一つの例話がある。

ある小学校のあるクラスで、その一人を懲罰としてすっ裸にしてさらし者にした。そして教師は、クラスの多数決によってきまったのだから、完全に民主的・自治的な制裁であると言ったという――聞いているうちに私は少々暗潅たる気持となった。民主主義について哲学的思索を次々に積み重ね、三権分立、議会民主制という一つの結論に到達するまでのさまざまな思想家を思い、その人たちがこの話を聞いたら、マルクスや社会主義者以上に、それは私とは関係ないと言っただろうと思ったからである。

これはかっての「村八分」的な「さらし者」や、切支丹弾圧時の俵につめて首だけ出して河原にさらすという行き方、またかつての軍隊における私的制裁や収容者の集団リンチと基本的には変わりはない行き方である。すなわち「言葉なき思想」のある面の異状な「自己増殖」であり、これとバランスをとる歯止めが外来思想で”刈り取られた”悲しむべき状態であり、その状態を輸入の思想の名で正当化しているにすぎないからである。

もちろんこれは「民主主義」そのものの責任ではない。私はその記者にそれは「民主主義」とは無関係の行為であると言った。民主主義――その発生の原点を探れば、それをヘレニズムに遡ろうとヘブライズムに遡ろうと、その基本にあるものは前者は「法」、後者は「律法」の絶対化の意識である。この二つは発想が違うが、いずれも「公示された法」を個人の上におき、個人または集団による恣意的処罰は絶対に許さないのがその原則である。

彼らは人間の恣意的な発想や決議に絶対性を置かず、それを二重、三重にチェックし、その上でなお基本的な原則――それが憲法と呼ばれようと神の律法と呼ばれようと――に照らして違法がない場合にのみ、新たなる「法」として告示した。そしてその告示前の行為は、たとえその「法」に違反していても罰されないのが原則である。

以上の観点から、「生徒を丸裸にしてさらし者にした」という行為を見てみれば、たとえ生徒の多数決を尊重するにせよ、まず事前に、「これこれの行為をした者は裸にした上でさらし者にする」という規定が多数決で決定され、同時にそれが校則に違反なく、さらに教育基本法にも違反していないことが論証されねばならない。もしそれを論証し得たならば、それが公示され徹底されればならず、それ以前の行為はたとえその罰則に該当しても、これには適用してはならない。

同時にその「法」はある個人に恣意的に適用されるのでなく、少なくともそれを決議した全員に等しく適用されねばならない――これは言うまでもないことだが、少なくともこの教師の言う「民主主義」とは、このような考え方を基本としている思想ではなかったことは事実である。したがってこれは民主主義でなく、前述の「自己増殖」を民主主義という外来の思想で呼んでいるにすぎないわけである。

思想には思想を

ではこの教師が「民主主義」と呼んだ発想の背後にあるものは、何であろうか? 言うまでもなくあらゆる思想のもつ命題の一つは、前述のように、個と全体との合理性をどのような関係におくかにある。そして「主義」とはその関係の置き方が主題のはずで、この場合に教師のとった処置は、「全体の恣意的な意志に対する個の滅却」であり、個人の尊厳の無視であり、法に基づく個人の抗議・抵抗の権利の否定である。いわば個を認めず無条件で全体を絶対としている立派な全体主義であり、それを一集団に限定している点では集団主義以外の何ものでもない。

そして彼はこの全体主義を民主主義と呼んでいるにすぎないのである。記者はモのような例を次々にあげて私の意見を求めた。そしてそれに答えているうちに、一種、やりきれない気持になってきたことは否定できない。

しかし「やりきれない」と感ずること自体が、一つの誤りであろう。
これは前述のように、伝統的な生物の生態系に似た「言葉なき思想」が体系的な外来思想で”刈り込み”を受けたとき必ず生じた現象であり、その現象を生じたのはそれなりの理由があったのだから、その現象の思想的な克服はけっして不可能ではなく、その方法は探せば見つかるはずであり、過去の多くの民族はそれを克服して新しい未来を切り開いたはずである。

もちろん、戦後民主主義が多くの成果をもたらしたことは否定できない。と同時に多くの代償を支払い続けてきたことも事実である。何ごとにも代償があるとはいえ、この二つの関係は戦後日本の企業にも似て、一方が成長し成果をあげるに比例して、代償の”自己増殖”も、その負債のように雪だるま的に増殖して行ったことも否定できない。

前述の例が、民主主義という資産を口にするとき、それがそのまま全体主義・集団主義・個人の尊厳の無視という負債を示しているのと同じである。そしてこれがそのまま進めば一種の精神的破産を招来するであろうという予感は、すべての人がどこかで感じており、それが「戦後民主主義を問う」といった連載を新聞社が企画するゆえんであろう。

では、どうすべきなのか。

原則は簡単である。思想が招来したものは、思想で克服する以外に方法がない。では「思想」で克服するには具体的にはどうすることなのか。それは個々の日本人がもつ「内なる合理性」と、国際社会の中の日本社会という「外なる合理性」を、いかに関係づけるかと言うことであろう。

もちろん、ゲバ棒を振おうとテロを行おうと、その者の内なる「虚構の合理性」に社会を合致さすことはできない。もしそれを夢想するなら、日本の現状では、文字通り世界同時革命を起こしてみずからが全能者になると夢想する以外には、虚構の方法論さえ樹立できまい。

とはいえ、多数決という名の外なる「虚構の合理性」に無条件で屈服し、丸裸のさらし者にされても、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍ぶ」という形で、みずからの内なる合理性を圧殺し、これを自己の心理的問題として内心で処理すれば、それは社会的には何の解決ももたらさず、両者とも、みずからの社会を耐えがたい対象とするだけであろう。

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