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山本七平語録

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経営論


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日本的実力主義
『日本的革命の哲学』第18章「日本的実力主義の論理」P321~324(昭和57年12月PHP研究書)
 「武家」とは何か
『貞永式目』という日本人の最初の固有法・成文法が後々まで日本の社会に大きな影響を及ぼしてきたことはすでにさまざまな面で述べて来た。確かにこの法律は、所有権・相続権から贈与・担保・売買・徴税・賭博から治安等々に至るまで、さまざまな面を規制している。そのように各人の生活を規定し、かつ宗教的要素がないという点では確かに「世俗法」だが、しかしやはりその基本は「武家法」であり、従って「軍法」的要素があったことは当然である。そしてこの軍法的秩序が社会秩序の基本となっていった点に、日本の特徴があるであろう。これは中根千枝氏のいわれる「タテ社会」の基本を形成する重要な要因であったかもしれない。
「武家法の特徴は?」と問えば、その答えは結局「武家」とは何か、ということになる。明治がつくりあげた虚構の「武士道」なるものは、この『貞永式目』とはまことに縁遠いものと言わねばならず、もしこれとは別に「武家道」なるものを探すとなれば、それは『貞永式目』の背後に探さねばならない。それは結局、「武家とは何か」を探るということである。(中略)
 では一体「武家」とは何なのか。彼らは当時またそれ以前の日本国の合法的政府、すなわち律令体制の天皇制国家の正規軍なのか。そうではない。奇妙なことに「平安朝帝国」なるものには「正規軍」は実質的に存在しなかった。また「文官・武官」の差も実質的には存在しなかった。これは人類史上その例を見ないまことに奇妙な国家だったわけである。では「武家」とは何なのか。そのもとをさぐれば、地主と小作人で構成する自警団であり、またややそれから分化した荘園の警備保障会社のようなものであろう。それが連合をし、各々の「地盤」を基にした武力によって中央の政争に介入して行き、ついに全国的な権力をつくりあげて法を公布したのが泰時のときである。そしてそれを階級と見るならば、以後の日本は実に明治まで、この階級が実質的な指導者階級・支配階級であった。従って日本人の生き方のあらゆる面に、この「武家法・武家道」的なものが浸透していて不思議ではない。
 もちろんこれは明治的な虚構の「武士道」とは違うものだが、やはりこれが「武装的・軍隊的集団」であった以上、『式目』に軍法的要素が強いのは当然であり、それが「軍法」として析出されず「世俗法」の中に混入して日本のすべてをさまざまな面で律して来たところに、日本社会とその社会的規律・規範の特色があるであろう。このため、日本の社会は組織のみならず、すべての面に「軍隊的秩序」が見られるのは当然である。といってもこれは、世のいわゆる「軍国主義」に直接に関係はせず、この二つを短絡的に結びつけるべきではない。だが、アメリカのように、軍隊的組織を企業の組織の基本にしたり参考にしたりする必要は日本には毛頭ないことも確かである。いわば「組織的秩序化」の原則は「武家時代」という長い歴史の蓄積の中に自ずからたくわえられており、それが各人の常識になっているからである。

「功績」が「地位」に転化する
では軍隊的秩序の基本とは何であろうか。それは、功績が地位に転化するという原則である。これは身分が制度的に固定化されている社会ですら、ある程度は無視できない原則であった。これがすなわち俗にいう「赤と黒」である。階級が明確な社会で、これを乗り越えうる者は僧侶と軍人しかなかった。「法王シスト五世は豚飼いから法王になり、ナポレオンは泥から元帥をつくった」わけである。これは農奴制的伝統が根強く残っていた帝政ロシアでも同じであり、たとえば日露戦争のときの旅順の極東艦隊の司令長官、敵味方とも賛嘆して戦死したマガロフ提督は農奴階級の出身であるといわれる。またナポレオンの好敵手のネルソンも上流階級とはいえなかった。これは最後にはミラノの領主にのし上がったルネッサンスの傭兵隊長フランチェスコースファルッツォについてもいえる。
 これらの「軍事的実力者」には下層階級の出身者が多かった。動乱とか戦争、およびそれに対処する軍隊は、文字通り「実力主義の極限」ともいえる特殊社会だから、他と違って、その功績・実績は否応なく地位に転化していく。そしてこの原則は軍隊的要素の強い武家階級においては同じであった。そして日本の場合、そこに大きな特徴があれば、この功績が地位に転化するという原則が、「武家以下の社会の原則」となったことである。そしてこの原則から除外されるのが「天皇とその周辺」であり、これは「氏・素姓」の世界として別扱いとされ、この世界は家法として「律令格式」の下で生活する一種の「日本教のバチカン内聖職者」のような形で残ったが、それはもはや支配階級でも指導階級でもなく、伝統的文化の保持者乃至は日本なるものの「永続体の象徴的保証」にすぎなかった。もっともこの面の見えざる機能は決して軽視すべきではないが、これは別に取り上げるべき問題であろう。
 
一揆的集団主義
『日本人とは何か(下)』
 農民への一揆の浸透
 下剋上の日本、伊達千広のいう「下より起こりて次第に強大にして止むことなき勢」はしだいに底辺にまで及び、ついに農民にまで達し、それまでの社会秩序を根底から覆しそうに見えた。彼らの多くは名主に隷属して名田を耕作する作人(農業労働者)で下人などと呼ばれていたが、南北朝六十年の対立と戦乱の中でしだいに力を蓄え、年貢負担能力のある一人前の農民へと成長していった。それに以前から独立している農民が加わり、連帯して一揆を構成すると、あなどり難い勢力となる。農民への一揆の浸透は一二〇〇年代にすでにはじまり、「隠し規文」などといわれる一種の「村法」をつくって自治的体制を敷いていたが、これは「宮座」といわれる村内の指導者グループだけのものであったらしい。
 彼らは村の神社の神前で一揆神水をのみ、「一味同心」として団結し、反荘園領主的な武士や有力名主層の指導下に年貢の減免や荘官の罷免などを要求して]赳が、ここに新たに下人出身の農民が加わると、彼らの連帯の前に、国人クラスの領主は何もできないという状態を現出する。国人が一揆として団結するのは、上への抵抗と同時に、下へ向かって共同して支配権を確保しようとした一面があったことは、その条文を見るとわかる。
 以上の形で形成された基本的組織が「惣」もしくは「惣村」で、現代の日本の農村の四分の三は、南北朝から室町時代にかけて形成された・ものといわれる。そして「惣村」は「惣荘一揆」を形成する。そのリーダーである有力者はしばしば国人と主従関係を結んで、惣村の利益を確保しようとする。地境。水利権、入会権等に基づく惣村対惣村の争いを調停するのが国人領主の重要な仕事であった。だがこういった半ば侍化した指導的農民もまたプリムスーインテルーパーレスで。惣内はすべて「一味」であった。
 この惣村の状態をどう解すべきなのか。比叡山の「満寺集会」による決議方式が、下へ下へと浸透してきて、ついに農民にまで及んだと見ることもできよう。ただ「登呂遺跡」への樋口教授の調査に見られるように、惣村の形成される一千年以上の昔から、稲作は、厳密な計画に基づく共同作業が要請されている。これから見ると、惣村の宗教的な一揆的団結は、一種の「掘り起こし共鳴現象」かもしれない。
 村は一村だけでは無力だが、これが連合して与(組)郷。となると相当な勢力となり、「百姓逃散」のときの相互扶助など行うと、領主に致命的打撃を与えることができる。その典型的なのが山科七郷で、領主を異にする与郷が、七つの本郷と九つの枝郷で組織されている。この本郷と枝郷の間には差別がなく、通常は春と秋に定期的に寄合を開き、非常のときには臨時「野寄合」を開く。この山科七郷はしばしば徳政一揆の中心になった。
 正長元年(一四二八年)の山科一揆は大和、伊賀、紀伊、和泉、河内へと波及した大動乱になり、翌永享元年(一四二九年)の播磨の土一揆は「侍をして国中に在らしむべからず」のスローガンを掲げ、守護の侍をことごとく追放しようとする、農民による「国一揆」ともいうべきものが発生している。土豪はもちろん農民側であった。このスローガンは後に出てくる「百姓の持ちたる国」の先駆であろう。彼らはやがて守護に鎮圧される。一国がことごとく蜂起しても、その全員を強固に団結させる精神的紐帯というべきものがなかった。
 (…)真宗王国を築いた蓮如  この新しい農民層に着目して積極的に伝道していたのが真宗系の諸寺院であり、それらを統合して一大伝道を開始し、真宗王国ともいうべきものを築きあげたのが蓮如(一四一五-一四九九)である。(中略)
 蓮如は「惣」を「講」にかえるという伝道方針をとった。「講」とは簡単にいうと同じ信仰を抱く信徒(聖職者でない俗人)の集団である。
 「三人まず法義(正しい信仰)になしたきものがある……その三人とは坊主と年老と長と、この三人さえ在所在所にして仏法に本付候わば、余のすえずえの人はみな法義になり、仏法繁昌であろうずるよ」
 これが彼の基本方針であった。そして、「四、五人の衆、寄合談合せよ。必ず五人は五人ながら、意巧(有意義)に聞くものなる間。能々談合すべき」 であった。
 いわば一揆は常に平等主義だから、高い壇上から権威者ぶって話してもだめで、必ずそのメンバーの一員のようになって、輪をつくって平座で談合するという形で伝道せよという意味である。面白いことに、日本の多くの新興宗教の伝道方式が、この蓮如の方式「平座で、輪をつくり、その一員として談合」するという方式である。
 いわば蓮如は、宗教性・世俗性の両面にわたって、当時の農民が熱望している精神的充足を与えて精神的紐帯を形成させ、同時に「ただ信仰のみ」による阿弥陀仏の救いを説いた。これによって惣村が入信すれば、次に与郷へ広がって行く。

 
「礼楽的」一体感の秩序
(「山本七平ライブラリー『論語の読み方』p107~110」)
 「法契約的社会」では、定款が憲法。それに基づいて「社規・社則」と組織が作られ、これに基づく各ポストの権限が定められて、それに応ずるマニュアルがつくられて、人びとはこのマニュアルどおりにするという契約を結んで入社し、そして契約に基づいて責任があり、賃金が支払われる。日本も形式的にはそうだが、実質は「礼楽的社会」だから、社内は「礼楽的秩序」である。
 すなわち、「楽は同を統べ、礼は異を弁つ」で、同時に「仁は楽に近く、義は礼に近し」であって、「楽」で人びとを和同させ統一し、一体感を持たせ、礼は人びとの間のけじめ、区別を明らかにする。一方が、身分・年齢・時間空間を超えて全体を和同させるなら、一方は、上役・下役・年長者・年少者・入社年次等々の間のけじめと区別を明らかにする――という諸橋轍次氏の定義どおりと言ってよい。
 したがって、社内の「礼」を無視したら大変だが、「社規・社則」などはだれも読まず、マニュアルなどは初めから存在しないところが多い。そして、そこで働いている人びとは初めから、自己の位置は会社との契約に基づくといった意識は持っていない。
 「礼楽」は制度・組織をも意味するという。確かに日本の会社は「礼の秩序」であり、そのことは「敬語的序列」に明確に表われてくる。会社によって、実質的序列は相談役が社長より上であることは珍しくないが、これがわかるのは「礼」の序列、特に「敬語的序列」であって、これが実質的な「制度」になっていることは少しも珍しくない。
 と同時に、そこには「楽は内に動くものなり、礼は外に動くものなり」で、「楽=仁」という一本の情感が、上から下まで貫かれて人びとに一体感を与えているが、これはちょうど音楽が地位・階級・時空を超えて、すべての人に訴える要素を持っているのとよく似ている。
 それはしばしば、上に立つものの人徳への敬慕という形になっており、これをみると「礼楽は徳の則なり」という『左伝』の言葉を思わせる。これは「法治」でなく一種の「徳治」だが、こうなると、「徳=人望」とは一体何か、という問題が当然に出てくるであろう。
 社員研修制度にも生きている「礼楽」の精神――もちろん、法契約的要素と礼楽的要素はいずれの社会にもあり、欧米に礼楽的要素は皆無だと断言することはできない。しかし日本のような混合状態では、「法的組織的地位」と「徳―人望礼楽的地位」は、必ずしも一致しない場合がある。そこで、この社会には必ず「名分論」が出てくる。
 「法契約的社会」のアメリカでは「名分論」など出てくる余地はない。レーガンという大統領も社長というプレジデントも、その「名」があればその「内実」があるのは当然だが、日本では、必ずしもそうはいえない。
 そして「名」と「分」とが一致していないと、「礼楽的秩序」はくずれてしまう。いわば、「礼楽興らざれば、則ち刑罰中らず」で、そうなると社員は安心して仕事ができないので「手足を措く所なし」になり、あらゆる批判、不平不満がでてくる。そうでなく「天下道あれば、則ち庶人議せず」で、「礼楽的秩序」が確立していれば、会社はどうあるべきだとか、今の会社の現状では、とか社員が議論することもないのである。
 「礼楽」は、同時に教育を意味する。「孔子学園」は一口で言えば「礼楽科」であって、「法科」ではない。日本は実質的には「礼楽的秩序」なのに、学校には「礼楽科」はないから、社員研修が必要になる。それによって「楽」、すなわち上下別なき一本の情感で社を統一し、同時に「礼」でけじめをつけるわけである。
 また同時に、この制度の運用は祭儀的だから「朝礼」も必要となる。そしてこういった祭儀を、「八佾第三41、42」で孔子が憤慨しているように、乱せば、社内の秩序は乱れる。  また会社の屋上の神社への参拝とか、創業者の命日の墓参り――おもしろいことに、日本で最も進歩的で唯物論的な出版社でも、これが行われている――には、あくまでも「在すが如く」でなければならない、たとえ「死体なんざ物質さ」と思っても。
 そして、この種の礼楽もまた教育である。世界的に有名な日本の会社に行くと、まず朝礼があり、社員はすべて驚くほど礼儀正しく、工場には絶えず静かな音楽が流れている。これはまさに、孔子が見学したら賛嘆してやまないであろうと思われる「礼楽的秩序」の世界なのである。孔子は、やはり私の言ったとおりだと、次の章を繰り返すかもしれない。「礼儀正しく、譲り合う気持ちで国を治めるならば、国を治めるぐらい何のむつかしいことがあろうか。国を治めるに礼儀謙譲がなかったら、法度文物の形の上の礼がいかに整っていても、何ともならないのだ」(吉田賢抗訳)
 「能く礼譲を以て国を為めんか、何かあらん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何せん」(里仁第四79)
 
人望=九徳的リーダー
(『論語の読み方』251~254)
 (人が人格・人望を身につけるためには)『近思録』には、「具体的中間目標は、九徳である」とは記されていないが、「九徳最も好し」とあるから、具体的には、これに到達することを目指せばよいであろう。九徳については『尚書』(五経のうちの『書経』の別名)の「皐陶謨(こうようぼ)編」にもあり、行為に表われる九つの徳目を、舜帝の臣・皐陶が舜帝の面前で語ったものとされている。次に挙げると――。
寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
直にして温(正直・率直だが、温和)
簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
剛にして塞(剛健だが、内も充実)
彊にして義(強勇だが、義しい)
「十八不徳人間」にならないために―― 大体、重要なことは言葉にすると平凡である。だが、それぞれの二つの言葉には相反する要素があるから、その一つが欠けると不徳になる。たとえば、「寛大だが、しまりがない」では不徳だから、全部がそうなれば、「九不徳」になり、両方がない場合は、「十八不徳」になってしまう。
 人間は大体、逆を考えてみると、ものごとがはっきりする。まず、上役が「十八不徳」だったら、どうであろう。おそらく、次のようにならざるをえまい。
こせこせうるさいくせに、しまりがない。
とげとげしいくせに、事が処理できない。
不まじめなくせに、尊大で、つっけんどんである。
事を治める能力がないくせに、態度だけは居丈高である。
粗暴なくせに、気が弱い。
率直にものを言わないくせに、内心は冷酷である。
何もかも干渉するくせに、全体がつかめない。
見たところ弱々しくて、内もからっぼ。
気の小さいくせに、こそこそ悪事を働く。
 これでは部下はたまらないから、「あの人は人徳がないね」で、人望を完全に喪失してしまう。
 だが「十八不徳」ともなると、人間失格のようなものだから、大体「九不徳」だろう。こんなことを冗談にある企業の人に話したところ、「いや、そうも言えませんなあ、近ごろの新卒には結構いますよ、十八不徳が」ということであったが、これはまあ、例外と考えよう。
 もっとも、「例外」は常にその時代のある一面を最もよく表わしているといえる。もし「十八不徳」で「七情」を思うままに外に発散し、「克伐怨欲」の固まりで、そのために周囲にあらゆる迷惑をかけながら、「中(なか)己れを恕(ゆる)す」で、上下周囲が悪いのだと信じている人間がいたら、どうなるであろう。(中略)
 話をもとにもどそう。「十八不徳」ということはまずないと言ってよく、普通は、大体一方が欠ける「九不徳」であり、次のようになるであろう。
寛大で結構なのだが、しまりがない。
柔和でありかたいが、何も処理できない。
まじめなんだが、とっつきにくい。
事を治める能力があるのだが、尊大で高飛車だ。
おとなしいが、しんがない。
正直・率直なのだが、冷たい。
まかせっきりは結構なんだが、何もつかんでいない。
一見強いんだが、内はからっぽ。
強勇なのは結構だが、無茶をするから困る。
 あるいは人は反問するかもしれない。「それが普通なんじゃないかな。大体、九徳の徳目は矛盾しているよ」と。確かにそうなのである。だが、ここでもう一度、スポーツを思い起してもらいたい。
 ものすごい馬術の訓練で、朝から晩まで怒鳴っていた教官の言葉は、全部矛盾しているのである。「馬は猛獣と思え」「警戒して近づくから、馬はすぐ過敏になる。温和に接すれば、馬は絶対に害を加えん」「何だ、その手綱さばきは。手先に全神経を集中しろ」「バカッ、手首の力を抜けッ」「馬術の要諦は騎坐感覚だぞ、騎坐を締めろ、だらしがない」「足の力を抜けッ、それで脚の扶助ができるかッ」
 この矛盾したことが前述のように、訓練を通じて「静虚動直」(克伐怨欲を棄て、「矜」(プライド)を去り喜怒哀懼愛悪欲の七情を制すること)になれば可能なのである。「九徳」に至るのも同じことなのだが、残念ながら、現在では九徳へと訓練してくれる教官はいない。そこで、「十八不徳人間」などというのが出てくるのであろうが、こうなれば自ら訓練する以外にない。
 
勤労絶対化の規範
(「山本七平ライブラリー『これからの日本人』「勤勉の哲学」(p287~289)
 あらゆる生物はその頭の中に、自然に適合するような行動様式が組み込まれて。それによって生きているわけである。蚕は桑の方へ歩んでも他の方へは行かない。これはその方向へ進むべき方向づけがコンピューターで割り出したように自動的に割り出せるということである。あらゆる生物にはこれが組込まれ、それによって生き、それによって秩序が形成されている。
 だが、人間は少々これと違った動き方をする。岸田秀氏はその唯幻論で「本能が壊れている」とこの状態を定義し、そのため人間は文化という秩序を形成せざるを得なくなったとする。すなわち「畜類鳥類は私心なし、返って形を践む。皆自然の理なり。聖人は是を知り玉ふ」であり、「形を践で行ふこと、不能(あたわざるは)小人なり」であって、一般の人間にはかえってこれができないわけである。
 従ってこれに対応すべく、人間は文化を形成するわけで、その基礎を定めたものが聖人なのである。そして聖人は。それをあくまでも自然に対応しうるごとく定めたと梅岩は定義するわけである。彼は程子が、人間は馬にはくつわをつけてこれを制御するが、牛にはそうしないと記したことを引用し、それは牛と馬とのつくられた状態、すなわち「形」とそれによる「心」に基づくといい、ついで次のように言う。
 「聖人馬を見て後に覇(くつわ)を作て、馬にはませて使ひ玉ふ。此(これ)母の胎内より知て、生れ玉ふには非ず。向ひ視(みる)物を則心と為玉ふ。是聖知の勝れたる所なり。向ふ物を移し曲(まげ)ざるは、明鏡止水の如し。人たる者元来心は替らざれども、七情に蔽昧(おおいくらま)されて、聖人の知を外に替りたることあるやうに思ふより、昧(くら)くなって種子に疑ひ発るなり。元来形ある者は形を直に心とも可知(しるべし)」
 いわば、人は人の形に基づく人の心があり。それが「七情に蔽昧されて」いるだけで、そのためそれに、新たなる「覇」をかけるような形にしたのが聖人の教えであるという。
 この考え方が本当に「聖人」の考え方かどうかはしばらく措く。だがこの考え方をすれば、秩序の基本は聖人の定めた「形」になる、という結論にならざるを得ない。だがここで梅岩のいう「聖人の定めた形」とは、必ずしも繁雑な礼儀作法の体系ではない。確かに「形=礼」を基にしているが、その発想は基本的には正三と同じともいえる。彼は「汝の云へる行ひと云は、礼儀三千三百を習ひ、威儀を正することに候也(『中庸』二十七章)。左様のことなれば、我ら如き農人などの行ふことに叶ざる所なり。彼学者の云ごとく、不学者の及べきことに非(あらず)と云るも断(ことわり)なり」という疑問に対して次のように答えているのである。
 左にあらず。汝の云へるは、孔子子張に謂て、師は辟なり(『論語』先進篇)との玉ふ所なり。辟との玉ふは、威儀に習て実少(じつすくな)を云。行ひのことを汝が聞易(ききやすき)所にて語(かたら)ん。行ひと云は農人ならば、朝は未明より農に出て、夕には星を見て家に入。我身を労して人を使ひ、春は耕し、夏は芸(くさぎり)、秋は蔵(おさむる)に至まで、田畠より五穀一粒なりとも、おおく作出ことを忘れず、御年貢に不足なきやうにと思ひ、其余にて父母の衣食を足し、安楽に養(やしない)、諸事油断なく勉時は身は苦労すといへども、邪なきゆへに心は安楽なり。身を肆(ほしいまま)にし、年貢不足する時は、心の苦(くるしみ)と成。我教所(われおしゆるところ)の心を知て、身を苦労し勉れば、日々に安楽に至ることを知らむ。心を知て行ときは、自ら威儀正しくなり、安を知ることなれば、何をか疑むや。
 以上のように記されている。いわば労働により己が生活を支えることは、梅岩にとっては、「人という形」に生れた者が自然の秩序に従う道であった。いわぱ「馬という形」ならば草を食うような「心」が自然にそなわっているようなものである。彼はさらに「春夏空を飛小虫などを見れば、何を食ふとも見えずして、飢ることなく、虚空に生じて虚空に死すや。出所を不知もの多し。此類を推(おし)て保食神(うけもちのかみ)の口を味ふべし。是を以て見れば、今日の万民世渡りのことは定りある者なり。衆人はこれ有ことを不知。然るを万物の上について、万物の迹を見て教を立玉ふ。其教直(じき)に天に有ゆへに古今に変らず天は物を生じ与へて、其心を聖神として民に知らしめ玉ふ。天の道を知て世に教へ施し玉ふを、聖知とはいへり」。これはまさに勤勉の哲学であろう。
 言うまでもなく、馬は馬の形をし。馬の心を持ち、それを基に馬の行動をすることによって自然に対応して一つの秩序を形成している。これを「本能がその秩序を形成している」と言いかえてもよい。そして人は、労働によって食を得る「形」に生れている生物であり、その心をもつがゆえに労働をすれば「心は安楽になる」ということはこれは一種の本能的な行為であるがゆえに、それが自然に対応する秩序であり、同時にそれが社会秩序のもとなのである。現実の思想史的検討は別だが、少なくとも梅岩はこれを聖人の教えと考えた。従って、生産が創出する秩序が社会秩序の基になるのであり、それを形に表わしたものが「礼」になり、それが具体的な秩序になるわけで、その基本を定めたのも聖人なのである。これはある意味に於ては、聖人の教えに従うのが「自然」だという発想になる。日本人にはこの考え方は今なお強く、「形」に従っていない言い方や行為を不自然とするわけである。
 
徳川時代の町人の思想
(「山本七平ライブラリー『日本教徒』「日本の商人」(p318~320)
 商人とは何ぞや――これはあらゆる面から論じうる問題だが、このあらゆる面から論じうる対象の無言の前提は「商人とは利潤を追求することを職業とする人びと」だということである。たとえ商行為もしくは非常に商行為に近い行為-たとえば慈善団体のバザー――を行なっても、その人もしくは機関の目的が「利潤の追求」でないなら、これを行うものは商人でない。もちろんこの逆もいえる。
 いかに崇高なる思想を盛った書籍を売ろうと、またその出版物の内容が利潤を否定していようと、さらに「教育勅語」並みの広告文を掲載しようと、商品を売って利潤を得ているなら、それは商人である。もちろん、情報を売ろうと、技術を売ろうと、特許権を売ろうと、それは商人である。従って、売る以上「自己もしくは自社の失態を、顧客に手落ちがあった」という形で収拾してはならないし、利潤を目的としていないようなふりをしてはならない――これは、前述の武士の馬の売買でも出てくる問題だが(当時の武士が、馬をちょっと調教しては法外の高値で売る一種の馬喰をやっていたことについて述べたもの)――商人の倫理からすれば、これらはすべて一種の詐欺である。
 商人とは、その目的が非常にはっきりした存在であるから「目的が手段を正当化する」という考え方は、成り立たない。逆であって、「利潤」という目的の追求が正当化されるのは、その追求の「手段」が正当な場合に限られる、とするのが、洋の東西・古今を問わず、商人に通ずる基本的な立場であった。すなわち、武力・暴力・詐取等による略取を、することもされることも一切拒否して、一定の合意のもとに利潤をうる場合だけ、利潤の獲得が正当化される。これが商人哲学の基本であり、これを否定しては商人は成り立たない。従って、徳川時代の町人が、今までのべた数多くの事例を非難すべきことと考えていたのは当然である。商人の手段は「駆引」すなわち「交渉」だけであり、その前提は、平和と対等であった。これは商人にとって「タテマエ」でなく「ホンネ」であった。・・・
 商人が商人の目で世界を見た場合、すべての人は何らかの手段で利潤を得てこれで生活し、そして、この利潤を得るために働いている、と見えたのは当然である。従って世界のどこでも、彼らは、さまざまの人の利潤獲得の手段を、それに果して正当性があるかどうか、という観点から見たのも、また当然であった。日本の町人がそういう目で武士を見れば彼らはかつては虎の如き盗賊であり今は米倉のネズミであった。そしてその武士が商行為を行えば、それは詐欺に等しかった。
 しかし日本の商人には、武士を、商人存立の前提である「秩序」の表象として、無理にも存立させておく、という一面が非常に強く存在しても、自らが自らの秩序を打ち立てようとはしなかった。
 この点、日本は、前述したように、商人が社会の表面に躍り出て、商人思想が実質的に社会の指導原理となるという一時期を経過しなかった。西欧を代表する都市といえばパリだが、大革命まではここに市長はおらず、「商人頭」が「市長」であった。お江戸にも大東京にも、こういう時代はなかった。今でも「都知事」を「商人頭」などと呼ぶわけにはいくまい。だが、パリのみならず、ライン河畔の多くの町々も形式的に、あるいは実質的に商人頭に支配され、市参事会とは実は商人団体であり、市庁が商工会議所や商品取引所に間借りしていた例は、少しも珍しくなかった。そしてついに一国の宰相が「商社を経営するのと全く同じ原則で」一国を経営した一時期まで招来したわけである。いわば、商人頭が一国を支配したわけであった。
 しかし徳川期の大商人は、こういう行き方はしなかった。だが一方彼らは、諸侯を自由に動かす実力はすでにもっていた。私は、後の大老、日本を開国に導いた井伊直弼が彦根藩主になった経緯を、大商人の「債権者会議」の結論に基づく擁立とみる。もちろんこれは、だれも口にしなかった「ホンネ」の世界を推定したわけだが、同じように推定すれば、これは当時いたるところで見られた現象であろう。 
(同書における渡部昇一の評)
 ここで述べられている主張の根幹は、「目的は手段を正当化する」のではなくて、「手段のみが目的を正当化する」という日本の商業道徳である。商業の目的はただ一つ、それは利益を上げることである。それはひらたく言えば「もうけること」である。「もうけること」それ自体を神聖なものにすることはできない。正にそれ故に、誠実に、手堅く、決して人をごまかさないという商いによってのみ、もうけることが許される、つまり正当化されるということである。
 これがいかに徳川時代の商人に徹底していたかは驚くべきものであって、それが実例をもって示される。うまくごまかして儲けた子供は「商才なし」として商家の相続からはずすという話も紹介されている。これは一般の通念とは逆である。「ごまかさない」ということが商才の第一とされている。
 この伝統は今の日本でも何代か続いた商家や中小企業の家には脈々として続いていることは、私の知っているいくつかの例でも思い当る。そういう人だちとつき合って、ごまかされたり、損をかけられたりすることは絶無と言ってもよいからだ。
 これが何と言われようと日本の信用になってきていたのである。戦後の日本の復興がすみやかであった一つの原因は、戦前の日本の商社などの信用が外国で記憶されていたからだと聞いたことがあるが、さもありなん、と思われる。「にっぽんの商人」は本当に堅気なのである。信用第一である。信用のない商人は、首のない人間に等しい。約束は必ず守る。借金は娘を女郎に売ってでも返した。この精神は今でも日本人の特長になっているのではないだろうか。外国への借金の返済も、条約も、日本はいじらしいほどよく守る。
 

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