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山本七平語録

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日本史

            
論題 引用文 コメント
五公五民で搾取された農民が豪商になり得たのはなぜか
(『日本人とは何か(下)』p173~183 PHP研究所1989年版
 徳川時代の農民は五公五民で苦しめられたという”常識”がある。だが問題は、その課税の対象となる田畑の検知の仕方だが、家康の時はこれを各藩で行うことになり、幕府はその基準を示した。当時は「年貢」と「課役」(夫役)があり、年貢は「検地帳」、夫役は「人別帳」に記された。この「検地帳」に記された農民が名請人で公認の本百姓であり、土地の所有が認められ,その耕作地の面積を測量で確定し、田畑に等級をつけ反当たりの生産高を確定するのが検知だった。
 ところが、「近世三百年、幕府・大名の力を持ってしても、一村に検地はほぼ二度実施で終わっている。」検地が大変な仕事で、隠し田畑を持つ農民の反対もあり、幕府も藩も検地を強行できなかったこともあるが、無理な検地をして米を収奪するより、付加価値の高いものを生産させ、これを米に換算して納入させ、これを大阪で売って藩の収入にする方がはるかに有利だったからである。
 さらに、年貢が、その年の収穫高に応じて課税する「検見」から、豊凶に関わらない「定免」に代わると、ますます付加価値の高いものをつくるのが有利となる。また、寛永年間(1624~1644)から鎖国に移行し、全てのものを自給しなければならなくなり、人口も増え(江戸時代初期約1000万人、幕末期約3000万人)生活水準も向上するとなると、その需要を満たすための商品生産も増大することになった。
 こうなると、「少し経営力のある藩主はむしろそれを奨励し、それを年貢代わりに収納した方が、検地などを強行して一揆を起こされるよりはるかに有利ということになる。」「こういう経済政策は、有能な経済官僚としての武士がいた藩では広く行われ、そういう藩は、本田畑の五公五民などに頼っていなかったから、それは「擬制」にすぎなくてかまわない。では、農民が優秀で若い藩主や武士が無能な藩、もしくは経済政策を行うにはあまりに小さな10000石そこそこの藩は、どうなったか」
 「この面白い例は、第一国立銀行頭取の渋沢栄一の生家の記録にある。彼の生まれた武州血洗島村は、安部摂津守の所領、石高は前に例にあげた通りの一万石(つまり五千石)である。そして検地による血洗島村の石盛は「三百四十六石二斗九升五合」だから「五公五民」で税金は「百七十三石一斗五升弱」、そして全村の税引可処分所得も同額だから、これで五十軒の百姓が「食っていく」ことになる。もしこれが事実なら、食っていくのが精一杯で、子供を江戸や京都に遊学させたり、京都から公家を招いて蹴鞠を習ったりする豪農が出てくるはずはない。
 大体渋沢家自体が安政七年(一八六〇年)にやっと「一町九反五畝十八歩分」の農地を持ったにすぎず、明暦のころ(一六五五~一六五八)には田畑屋敷を合わせて八反二畝十八歩にすぎなかったのである。それが全部上田だと仮定しても、前述の率で税金をとられたら、豪農になるどころか、食うや食わずの貧農のはずである。
 ではそうならなかった理由は何か。血洗島村には水田はなく。わずかに麦をつくるほかは藍をつくっていた。藍はいうまでもなく染料の原料だが、これが単に染料であるだけでなく、必需品であった。というのは藍は蓼科の植物なのでこれで染めると防虫加工になるからであり、そのため、きわめて附加価値の高い必需品だった。だが安部摂津守にもその家臣にもこれを藩営企業にしようという意志も能力もない。
 すると結局、血洗島村からは百七十三石一斗五升を徴収することになるが。この村は前述のように米をつくっていない。こういう場合は結局、金で収めることになり。定免だから一反歩いくらという形で収める、すると一種の固定資産税になってしまう。
 その税は一反歩につき年一分(一両の四分の一)、永楽銭で二百五十文を収めることになるが、しのびよるインフレで貨幣価値は十分の一に下落している。そこで「五公五民」とはいいながら実際には「〇・五公九・五民」になると栄一の従兄尾高藍香は計算し、これでは幕府が経済的に破綻するにきまっていると論じた。
 これが武家が経済的に凋落して豪農が生じた理由だが、このような状態を生ずるか、付加価値の高い生産物を藩営企業にして財政を豊かにするかは、一にその藩の経営能力の問題であって、全国一律に論ずることはできない。」

 

ヨコ組織である一揆はタテ社会の幕藩体制をどう支えていたか
(『日本人とは何か(下)』p154~171 山本七平 PHP研究所1989年版
 確かに幕藩体制とともに、一揆的な社会がタテ社会に変わり、かつて同輩中の第一人者であった者が「主君」となり、絶対的な支配権を行使しうる者に変わったように見える。・・・天皇→将軍→藩主→家臣(藩庁の改作奉行)→十村→農民といったタテの系列で整然たる体制ができあがったように見える。そして幕府は一面では、この体制を確立しようとした。秀吉・家康の時代には、幕臣なのか、大名の家臣なのか、どちらかわからないような有力で有能な家臣が大名の下におり、秀吉も家康もそれを利用していた。家臣といっても一揆のメンバーの一員だから。これは別に不思議ではない。
 しかし幕藩体制が固まると、封建制の原則「臣下の臣下は臣下ではない」をタテマエにしないとタテの秩序が貫かれなくなる。と同時に家臣団が幕府承認の下に主君の「押込」を行うという「逆方向のタテ」いわば「ルール化された下剋上」も起こるという、面白い現象を呈する。(p154)
 「将軍→大名→家臣」の序列を作りあげたのが家光の時代だが、次の家綱の時代になると、家臣団が連携して無能もしくは暴君的な主君の「押込」という「逆タテ化」がはじまる。これについて笠谷和比古氏の「主君『押込』の構造」に詳しいが、ここでの氏の最も重要な指摘は、これが決して「違法な行為」でなく、幕府が認めていた「合法的行為」であり、いわば、「押込」が、幕藩体制の中にインプットされた「構造」であったという点である。「下剋上的伝統」は消えたようで、消えていない。ただ「ルール化」されただけである。(p163~164)
 ただここで明らかなことは、「主君への諌言」とか「諌書」とかいった言葉が、単に「いさめる」という意味ではなく、その裏には「聞き入れてくれないなら『押込』にする」という少々脅迫的なニュアンスがあったということである。「忠臣の諌言」をそういう視点で読みなおすと、歴史の別の一面が見えてくる。
 従って徳川時代の「主君」には厳密な意味の「専制君主」はいなかったと言ってよい。(p170)
 一体これをどう見るべきか。結局、幕府がタテマエ的にそれを査定しようと、主君を「同輩中の第一人者」とする中世の伝統は底流としてつづいており、またそれによって藩内の秩序が保たれているのであって、幕府もそれには手がつけられなかったということである。 結局、主君が一定の権威を持ち、家臣団と協調しつつ、両者の合議で成立した「家法」による統治が、幕府にとって最も望ましい状態であったのであろう。それならその内実は、下からの一揆の決議と上からの指示とで上下関係を律した戦国時代の毛利家と実態は余り変わらないことになってしまう。
 この伝統とは実に強力なもので現代にも根強く残っており、重役や有力社員団による「社長押込」は日本では別に珍しくない現象である。では「社長絶対」でないのかといえばそうではない。そしてこの点では天皇もまた例外ではあり得ない。「天皇絶対」といいつつ軍部が秘かに「昭和天皇押込」を図っていたことは、それがどこまで具体化した計画であったかは明らかでないが、今でも資料に残されている。(p171)
 

戦国から幕藩体制への切り替えはどのようになされたか見出し
(『日本人とは何か(下)』p134~152 PHP研究所1989年版
 「命知らずで好戦的な特攻的日本人が、なぜ急に経済成長を絶対とする有能な経済人に一瞬にして変わったのか」・・・というのは日本人への戦時中の印象と戦後の印象は余りに違うからである。
 だがこのことは、戦国の武士と農民にも言える。当時は武士はもちろんのこと、農民も決しておとなしくなかった。土一揆・一向一揆は言うまでもない。それだけでなく、ひとたび敗軍となれば、たちまち、おとなしそうに見える農民の落ち武者狩りの獲物にされる。ところが幕藩体制下ではすべてが違っていた。
 海保青陵がもはや攻伐の時代ではない、各藩の経済競争の時代だといったのは徳川後期だが、初期の熊沢蕃山にもそれを思わせる発言がある。そして各藩は、他領を切り取って大きくなる時代はすでに過ぎたと感ずるとともに、たちまち、自藩の経済成長へと方向を変えた。その転換ぶりの速さは少々驚くが、もちろんここには、戦後の各国と同じように、藩によって大きな違いがあった。しかし藩を通じてほぼ共通していたことは、開墾である。分け前を取るにはまずパイをふくらませなければならない。そこで「切り取り時代」は「大開墾時代」に変わった。
 それは幕府の統一的な政策ではなく、各藩の政策だから、藩によってその行き方はまちまちである。後述する「五公五民と藩の経営」に示されているように、藩によっては米だけでなく、付加価値の高い特産物を生産して藩の財源にしようとしている。
 だがそういった政策を藩が統一的に行なって成果をあげるには、いずれの藩であれ、二つの障害があった。一つは、戦国体制のままだと藩内が細かい知行地に分かれていること。もう一つはそれらの産物を消費地に送る輸送手段がないことである。前記のようにセーリスは日本の道路を立派だといったが、それはあくまで旅行者にとってであって、物流の大動脈にはなり得ない。これはいずれの国でも同じで、「すべての道はローマに通ず」であっても、エジプトの穀物を陸路ローマに運ぶことはできない。物流は船によらねばならないが、全国的な航路の開拓は、各藩の能力を超えていた。このことは。各藩が藩内の体制を改革し、幕府が印本列島を回航する物流ルートを開拓して、はじめて経済的な成長ができるということである。
○藩の一元的経済体制への切り替え  まず藩内の改革で、細かく分かれた家臣たちの知行権を剥奪し、彼らを城下町に集め、そのかわり禄米を支給する。簡単には行い得ることではなかったが・・・。
○農民の武装解除
 天正16年(1588)秀吉の「刀狩令」を発展させ、「切高仕法」(農地の売買を認める)や「改作法」(家臣=給人と百姓を分離し百姓を藩主直属とする)で兵農分離を図る。
○海上運輸の航路開拓
 分国大名ごとの自給圏から全国的な商品流通経済を可能にする河川整備・築港・海運航路の開拓。そのため幕府は500石積以上の大型船の建造を許可した(寛永15年1636)。
○新しい農具と技術の導入
 農具:唐箕(穀物の籾殻と実を吹き分ける)、千石通し(脱穀)、農業技術:田植えや俵(戦国時代)、商品:縄、草鞋、菰(こも)の製作、綿の栽培・製糸技術の発達
○城下町に移住した武士の文官化と商品経済を担う町人の台頭
 こうした変革を経て、藩は次第に新たな開発能力を失って行き、幕末になると主役は巨富を手にした町人であって、もはや藩ではなかった。

 

「幕藩体制の統治神学」として朱子学が採用されたのはなぜか
(『日本人とは何か(下)』p126~131 PHP研究所 1989年版
 家康は、直接にまた間接に、大名・武士を統制するだけでは安心できなかった。さらに鎌倉幕府の六波羅探題にならって京都所司代を置いて天皇家・公家を統制し、寺社奉行を置いて宗教的勢力を統制下に置いても安心できなかった。鎌倉幕府と足利幕府の特徴と問題点を彼はよく研究していた。幕府が統制すべき基本は、所領と貨幣であり、通貨の鋳造権と発行権は、幕府が把握すべきものであった。そして後述するように、銅の精錬技術の向上により、渡来銭の時代は終わろうとしていた。しかし自己鋳造の銅貨「寛永通宝」ができるのは家康の死後だが、貨幣制度の基本は、彼が樹立した。(中略)
 簡単にいえば時代は流通しやすい金貨・銀貨を必要とする経済水準に達していた。その基本通貨である一両小判は、実に珍しい形とデザインだが、これは米俵を象徴しているといわれる。すなわち米一石(ほぼ一人一年分の量)が金一両で基本であり、慶長14年(1609)の規定では、金一両=銀50匁=永楽銭一貫文(一千文)=鐚銭四貫文となっている。(中略)
 だが、秩序の維持はそれだけでは不可能で、そこには新しい統治の思想が必要であった。いわば「幕藩体制の統治神学」の確立である。この点で「学問好き」といわれた家康は、まさに適任者であるといってよかった。もっとも、「学問尊重」は足利末期以来、ある程度は、社会的流行であったといえる。だが家康の学問指向は少々度はずれていたと言ってよい。彼は自ら学んだだけでなく、足利以来の「足利学校」、また「伏見学校」にさまざまな援助を与えて書籍を出版させた。(中略)
 彼の読書は実に広範で『源氏物語』『古今集』さらに『医書』にまで及んでいるが、最も精読したのが『吾妻鏡』と『貞観政要』さらに中国の経書であると思われる。そしてこの多読家家康の最もよき助手となったのが林信勝すなわち羅山である。彼は二十一歳で藤原惺窩の弟子となり、慶長十年(一六〇五年)、二十二歳のとき二条城で家康に会った。これが幕府と林家とのはじまりである。(中略)
 羅山がまことに博覧強記の多読家であったことは否定できない。彼は決して独創的な学者ではないが、生き字引的な大秀才であり、さまざまの書の紹介者として、まさに家康が望むよき助手であり得た。と同時に彼は。当時の日本の代表的な朱子学者惺窩の門人であった。そしてこの惺窩は、朝鮮征伐のときの捕虜姜沆を師友とし、親しく朱子と李退渓について学んだ人であった。ここで羅山によって、朱子学が幕府の「統治神学」とされたわけである。
 確かにこれは、下剋上的世界を上下的「タテ社会」になおすには便利な思想であったであろう。ただその「便利さ」はあくまでも便宜的に用いる場合であって、もしこれを絶対視するなら、「幕藩体制」などという奇妙な体制は否定され、日本もまた中国・韓国のようにならねばならぬはずであった。いわば正統なる中国の皇帝から冊封を受けた国王の下で、科挙により選抜された文官の士大夫が。国家を統治しなければならぬはずである。一言でいえばそれは李氏朝鮮的体制で、これは究極的には武家政治、すなわち幕府の否定になってしまう。だが羅山はこれを、天皇から宣下された将軍が絶対であり、その将軍から所領を安堵された大名もまた絶対である。そしてその臣下が領国の統治を補佐するのが正当であるという形で援用した。こうなると、将軍への反逆は天皇への反逆、諸侯への反逆は将軍への反逆という形で下剋上を封じうるわけである。

 

韓国から見た徳川幕藩体制の優れた点は何か
(『日本人とは何か(下)』(p124~126) PHP研究所1989年版
 金日坤教授は『儒教文化圏の秩序と経済』の中で。「参勤交替制という発明」という一節を設けて、次のように記しておられる。
 「まず、徳川時代の政治体制は、分権的でありながら集権体制であるという、世界でも稀に見るものであった。韓国、李朝の完全な中央主権体制と、ヨーロッパ中近世の完全なる分権体制と較べてみると、両者をほどよく結合した形になるのである。すなわち、ここにもいわば二元体制があったといえる。しかも、両者の調和があり、これは今日においても、日本の経済力が非常に適応力があることの原型になっているのである。
 諸大名による領地の分有と、その自治的な統治は、安定した土地所有関係によって、農業生活力を向上させ、経済と経営の観念を育てた。もちろん『タテマエ』としては、天皇の土地を管理することになっていたが、実質的には私有地であったといっても、少しも過言ではなかろう。
 一方、統一政権の安定した成立によっては、経済圏の全国的規模への拡大をもたらした。参勤交替制による、隔年ごとの諸大名の江戸への往来は、物資の流通、道路の整備、貨幣経済の発達など、全国的経済圏の形成を促進したのである。
 特に、徳川幕府が、政権維持の手段として参勤交替制を採用するとともに、政権安定のために適用した初期の政策は、結果的に経済発展に大きく影響を与えたのである。
 第一に、兵農分離策は、武士の完全な統制によってその新しい勢力作りを封じこむためであったが、結果的には武士は消費階級化し。また、大名と家臣の間の強力な主従関係は、それがそのまま藩の行政官僚体制あるいは経営体制になったのである。
 第二に、城下町を形成する政策は、農村経済の段階から都市経済の段階への発展的移行をもたらした。もともと、武士たちを集中的に統制するために、推進されたのであるが、武士階層の消費需要の拡大によって、都市整備が発達することになったのである。戦国時代には居城かつ城塞であった城は、軍事的に意義を失い、政庁と大名の邸宅を兼ねたものになり、人口の集中によって城下は都市となった。
 第三に、商人、手工業者である職人たちを強制的に城下町に移住させた政策は、農業から商工業を分離独立させ、社会的分業と都市経済を発達させた。そして、城下町の工産物と農村の農産物を交換し、商品経済の体制を造り上げたのである」
 中央集権的分権制という制度、その中における兵農の分離と武士および商人・工人の城下町集中は、以上のような経済的効果を生み出した。だがこれもまた家康の独創というわけでなく、秀吉の政策の継承である。秀吉であれ家康であれ、それはあくまでも在地小領主である武士と、その下にいる農民を統制する手段であっても、当初は、経済的発展を目指したものではなかったと思われる。「家康の心配症」という言葉があるが、彼は、一揆を作って下が横に団結し上を無力化する「下剋上」の伝統を何よりも恐れていた。それが大名が横に団結することを防ぐ参勤交替制となり、武士を横に団結させない城下への移住となった。城下町は西欧の都市とは基本が全く違う都市であった。が。その都市のもつ機能では似た面が多い。そしてそれと、後述する幣制の確立が、おそらく彼が予期しなかった経済的発展を招来したものと思われる。
 以上の違いが何に由来するかというと、一言で言えば、朱子学を絶対化した韓国と、その教えを功利的に取捨選択し得た日本との違いということだろう。

 
 『看羊録』(慶長の役の時藤堂高虎の水軍に捉えられて捕虜になった姜沆が、1597年から約3年間ほど日本に抑留されたときの記録)は、四〇〇年前の日本人についてのおもしろい観察である。そこで指摘された日本は韓国の違いは次の通り。
1.韓国は儒学(朱子学)に基づく政治体制が完備しており、両班(文班と武班)の家が科挙という官吏登用試験を受ける資格があり、この試験に合格して初めて官吏になれる。武班だと「武経七書」といわれる中国の平方に冠する本7冊を全部暗記するほど。ところが、日本人の武将は仮名交じり文は読めても漢文は読めない。こんな鈍才に秀才がなぜ負けるか。文禄の役で日本に連れてこられた捕虜がたくさんいた。しかし、日本に住んでみると故郷に帰りたがらないものが多い。なぜか、日本には身分制度がなく、技能を非常に尊び、技量があればすぐ抜擢される。
2.日本は武家時代になって封建制度ができ諸侯はみな自分の領地を持っている。韓国は1910年の韓国併合まで「公地公民制」で、班田を国から借りて耕作し死ねば返す。土地の私有はできず相続権もない。中央集権であって地方官は全部任命制で任期は最大2年と短い。日本人は平等で「上下がほとんどない。誰でも上に伸びていける。同時に力がなくなると、すぐに没落する」「日本の武将は決して国のためとか、大義のためとかに戦っているのではなく、自分の利益のために戦っているだけ」
3.日本人は人の気分を害することを嫌う。ただ、命を惜しむよりも名を惜しむとか、恐ろしく勇敢だといった理由は一体何によるのだろう。人間、誰でも生きている方がよくて、そんなに死ぬのが好きなはずがないが、日本人はいざとなると平気で死んでしまうところがある。とくに主将が戦いに敗れると,その家伝来の部下は平気で殉死してしまう。体格は非常に貧弱で一対一で相撲を取ったら韓国人が必ず勝つ。しかし彼らは上下が一致団結していて、われわれはこれに負けている。
4.日本人の性格は、好奇心が強く、外国に珍しいものがあると手に入れたがる。まことに日本では、買っても無駄だと思うものを恐ろしく高いお金を出して買う。「南蛮の使臣がやってきたといって国中が大騒ぎ」するので聞いてみると「白い鸚鵡が一羽」だった。 (『日本はなぜ外交で負けるのか』(p106~130)

家康の創出した「諸法度」による統治体制
『日本人とは何か(下)』(p117~124) PHP研究所1989年版
 何らかの新しい原理に基づいて全く新しい法や制度を制定したのでなく、すべての典拠を過去の先例に求めた。『吾妻鏡』を援用して自己を正当化している場合など、少々屁理屈といった感じさえする。家康の時代には「飛行機が飛ぶ」と言ったような新しい事態が起こったわけではないが、それでも鎌倉時代や足利時代の通りに、というわけにいかない。しかし彼はあくまでも「古法」に典拠を求めようとする。
 さらに彼は「学問好き」で、中国については相当に深い知識を持っており、中国の体制を模倣したわけではないが、その思想を採用している。また時間があるとアダムズを呼び、天文学、数学、幾何学、世界地理等を学び、ヨーロッパの事情も相当に詳しく聞いているが、しかし法や制度の整備にそれを活用した形跡はない。利用ができないものはしないのである。もちろん彼は、信長のような独創性を発揮したわけでもなかった。彼はまるで過去の判例を集めるように、まず、鎌倉時代・足利時代の制度や法律を蒐集させ、それを検討した。そしてこれを関ケ原の勝利直後にはじめている。
 「返す(繰り返し)新法の出来るは民の苦しむ基なり。古法は樹木の根にして、新法は枝葉なり」(『武野燭談』)という言葉は彼の考え方の基本を示している。いわば彼の行なったことはすべて先例があり、先例が十分でないと思われるところを、飛行機と流れを関連づけるような形で補修したようなものである。彼は、武家の政治体制は鎌倉幕府の伝統通りであるべきだと考えたので、はっきりと「朝」「幕」を分け、朝廷は京都、幕府は江戸に置いた。この点、朝幕が一体化したような足利幕府とも、幕府が存在しなかった織豊時代とも違う。そして武家の法律として「武家諸法度」、公家の法律として「禁中並びに公家諸法度」、寺社の法律として「寺社諸法度」を定めた。これは後述するように個別法で統一的な宗教法人法ではない。
 「武家諸法度」(慶長20年(1615)公布わずか13条で頼朝以来の「貞永式目」「建武式目秀吉の「御掟」までの諸法令を取捨選択したもの。その中で重要なのは第6条の新規築城の禁止と補修の許可制、及び第9条の諸大名参勤作法のことの2ヶ条であろう。
    「公家諸法度」(慶長18年1613)、「禁中並びに公家諸法度」(慶長20年1615)17ヶ条で「臣下が法を制定して天皇を規制するもので、少々おかしいように見えるが」鎌倉幕府以来の伝統を踏まえ「天皇・公家は律令による」としたもの。重要なのは第11条に「武家伝奏」(朝廷の意向を幕府に伝え、また幕府の要望を朝廷に奏上するもの)が明文化されていること。さらに重要なのは第7条の「武家の官位は、あくまで名誉職とする」という規定である。
 「寺社諸法度」全体的な「宗教法人法」的なものではなく、曹洞宗法度(1612年)、勅許紫衣之法度(1613年)、五山十刹諸山法度(1615年、以下同)といった個別法である。「天皇家と公家は平安朝以来、大寺院と深い関係にあり、親王門跡、摂家門跡という寺院も少なくない。・・・僧官叙任は当時賣官の対象」であり、これを禁じたのが「禁中並びにくべ諸法度」第16条と17条である。「武家伝奏」と同じ「幕府の指導・助言」規定であるが、後「後水尾紫衣事件」が起こった。
 「家康はこれらの諸法度により、宗教勢力をも幕藩体制の中に組み込み、幕府による統治の道具にしてしまったのである。」
「武家諸法度」(wiki)
1.文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。
2.群飲佚游ヲ制スヘキ事。
3.法度ヲ背ク輩、国々ニ隠シ置クヘカラサル事。
4.国々ノ大名、小名并ヒニ諸給人ハ、各々相抱ウルノ士卒、反逆ヲナシ殺害 ノ告有ラバ、速ヤカニ追出スヘキ事。
5.自今以後、国人ノ外、他国ノ者ヲ交置スヘカラサル事。
6.諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停 止セシムル事。
7.隣国ノ於テ新儀ヲ企テ徒党ヲ結フ者之バ、早速ニ言上致スヘキ事。
8.(諸大名)私ニ婚姻を締フヘカラサル事。
9.諸大名参勤作法ノ事。
10.衣装ノ品、混雑スヘカラサル事。
11.雑人、恣ニ乗輿スヘカラサル事。
12.諸国ノ諸侍、倹約ヲ用イラルヘキ事。
13.国主ハ政務ノ器用ヲ撰フヘキ事。

「禁中並びに公家諸法度」

第一条 天皇がまずやるべきことは学問
第二条 三公(太政大臣・左大臣・右大臣)は親王より上
第三条 辞任した三公は親王より格下。
第四・五条 たとえ摂関家の出身でも、才能がない者を三公にしてはならない、他の家の者は言語道断。有能な三公や摂政・関白は、高齢になったとしても辞任してはならない。辞任したとしても再任すべき。
第六条 母方の縁に繋がる養子縁組は禁止
第七条 武家の官位は公家の官位とは別。
第八条 改元については、中国の年号から良い物を選ぶこと。だが、今後担当者が熟練した場合には、日本の先例を優先すべき
第九条 天皇と公家の服装についての規制。
第十条 公家の昇進についての規制
第十一条 関白・武家伝奏・各奉行の命令に公家が従わない場合は、流罪にすべき
第十二条 罪の下限については、先例に従うべき
第十三条 摂関家の門跡については、親王門跡よりも格下
第十四・十五条 僧正・門跡・院家を叙任するときは、基本的には先例にならうべき
第十六条 紫衣を許すべき僧侶は、熟考すること
第十七条 上人号についても、熟慮の上で勅許を出すこと(web「武将ジャパン」参照)
仏教を、民衆指導から民衆支配に代えた「寺請制度」
『日本人とは何か(下)』p91~96 PHP研究所1989年版
 「寺請証文」とは、そのものがキリシタンではないことを寺が証明するもので、大体、慶長十八~十九年ごろにはじまったものと思われる。・・・タダこのころはまだ制度とは言えず、改宗者に寺請証文を出させるに止まった。ところがこれがしだいに厳しくなり、島原の乱後は一般仏教徒にもこれの提出を命じ、これに基づいて宗旨人別帳を作成させた。簡単にいえば日本人は、全員が寺に登録されているという意味では全員仏教徒になり。寺は戸籍役場になった。幕府がそれを意図したのかどうか明らかでないが、一向一揆以来、末端で民衆を指導し支配して反抗的であった寺を、キリシタンを逆用して民衆支配の末端機構にし、これを幕藩体制の中に組み込む結果となった。
 だがこのことが、「宗教としての仏教」にとって幸いであったか否かは問題である。明治になって辰巳小次郎が『耶蘇教の公許を切望』という論文を書いたが、彼は決してキリスト教徒でなく、この刺戟で仏教を覚醒させたいと願ったからである。彼はまた「・・・仏法の徳川時代に勢力ありしは、全く仏寺に於て天下の戸籍の監督を専任也しめたに由来せり。維新以来戸籍の法一変して政府の司る所と為りてより、仏法の勢力を奪はれたること莫大なり」(『日本人』明治二十二年)と記している。(中略)
 そしてこれが組織的に整備されたのが「宗旨人別記帳」である。いわばこれを帳面にして一家・一人ごとにその名の下に捺印させ、これを檀那寺の僧侶が仏教徒であることを証明したもので、これが江戸時代の戸籍であった。(中略)
 島原の乱後、幕府は相当に厳しくキリシタンを探索し弾圧し、迫害した。しかし、一時七十万人といわれたキリシタンが。別に「収容所群島」に入れられたわけでもない。一体彼らはどこに消えたのであろう。
 『吉利支丹物語』には「右洛中・・・辺土辺内、悉く詮索仕ると雖も、内心わだかまって空転びする者、これ多し」とある。いわば擬装転向が多かった。・・・その人間の内心までは幕府も知ることはできない。そこで一応「確かに転向しました」という起請文を出させる。これには二種あり、キリシタンと疑われた者が、自分はそうでなく仏教徒である証言をするのが「日本誓詞」、キリシタンが確かに転向しましたと証言するのが「南蛮誓詞」である。この場合、仏教徒が「神仏に誓ってキリシタンではありません」というのは当然だが、ではキリシタンは何に誓うのか。彼らは神仏は信じていないから「神仏に誓って」と言わせても意味がない。それを内心で破棄しても何とも思わないから効果はない。そこで何と「神に誓って神を信じません」と誓うのである。(中略)
 島原の乱以降のこのような日本の政策は、結局、前述のように日本・ポルトガルの断交となった。さらに寛永十年(一六三三年)には、海外移住の日本人の帰国を禁じ、十二年(一六三五年)日本船の海外出航をも禁じた。そして平戸のオランダ人を長崎の出島に移した。このような形で、海外との交渉はオランダと韓国を除いて断たれ、明国とは国交はないが、明船には長崎渡来は許可した。
 
 
こうして仏教は、戸籍登録という形で、いわば宗教が政治の下請をするという形で、法然、親鸞以来花開きつつあった日本仏教の「宗教本来の生命力」を失うことになった。代わって儒教が体制の学として採用され、仏教はその「治教一致」の統治体制に組み込まれることになったのである。
 太田錦城(明和二年・一七六五年生まれ)は『梧窓漫筆拾遺』の中でこの関係を次のように記している。
 「天主教は破られて、宗門、宗旨と言うことを定められてより、仏法磐石の固めをなせり。僧というもの、検死の役人と成りたり・・・能々考うれば、僧徒には大功ありて真の仏法には大害あり。是よりして、僧徒は無学にても、不徳にても、事すむことになりたれば、是れ僧徒には大利ありて、破戒不如法の僧のみ多くして、仏理を弁じ、仏心を得るもの、掃地にして絶え、今時の甚だしきに至れば、仏法は滅却したりとも言うべし。是仏法には大害なり・・・」(『受容と排除の軌跡』p149)

「島原の乱」に到る道
『日本人とは何か(下)』p84~86 PHP研究所1989年版( )内は筆者付記
  家康の死後(1616)、対外関係は、寛永9年(1633)第三代家光の時代に、長崎の出島への寄港をオランダのみに限定した。その間、「幕府は吉利支丹の探索と改宗・弾圧政策を進めていた。・・・寺請証文は慶長十八年(一六一三年)ごろにはじまったらしい。いわば家康のキリスト教禁止令の翌年で、その人がキリシタンでなく、自己の寺院の檀那であることを証明する文書で、寺院がこれを発行し、はじめは改宗者に限られていたらしい。いわば仏教への「改宗証明書」である。
 これが一般化する前に、幕府を震骸させる事件が起こった。寛永十四年(一六三七年)の「島原の乱」である。幕府が本当にキリシタンを厳禁するのはこの乱の直後の寛永十五年(一六三八年)九月、ポルトガル船の来航禁止とその通告が翌十六年、それを無視して来航したポルトガル船の襲撃と焼討ちがその翌年の十七年、そして通常この両年(一六三九~一六四〇年)で「鎖国」とする。そして翌年に幕府は平戸のオランダ人を長崎の出島に移した。いわばイギリスは自主的に去り、「島原の乱」の結果ポルトガルと断交し、オランダのみが残ったという結果になった。外交的にはそれだけのことだが、実は、それだけといえない問題があった。
 それは後述するとして島原の乱を記さねばならないが、その前に当時の普通の民衆がキリシタンをどのように見ていたかを記そう。
 慶長十九年(一六一四年)すなわち高山右近らがマニラに追放されたとき、長崎でキリシタン各派が行列を行なった。この記録はキリシタン側にもある。それを見ると、癩病人の足を洗って接吻し、麻の衣をまとい、首に縄をかけ、頭から灰をかぶり、十字架を担い(フランシスコ派)、また五句節の月曜は二千人の女子が白服をまとい、黒いヴェールをつけ、いばらの冠を戴き、手に十字架か聖像を持ち、八千人の男性がこれにつづき、列の中央を歩く者はろうそくを持ち、行列の終わりに黒布をかけた大きな十字架をかかげ(ドミニコ派)、またあるいは俵をまとい、十字架を肩にし、手枷をはめ、両肌をぬいでぼろをまとう(アウグスチノ派)といったものであった。その中には大友義統の娘ルチアもいた、と記されている。
 いわば無抵抗で殉教を辞せずという意思表示であり、別に、幕府への抵抗を示したものとは思えない。だが『長崎港草』に「鬼利支丹行列」として記されている一文を読むと、ごく普通の日本人には、これが「百鬼夜行」のような異様なものに見えたらしい。(中略)
 いわば宣教師の命令で一糸乱れず異様な団体が行動し、「まりちん(殉教)」を願って死を望んでいるようすが一般人を気味悪がらせた。またこれを「調伏」と見た者もいたらしい。家康の禁令の「掟書」の第一条は、こういう状態への為政者の反応と危惧を示している。そしてこのような印象が当局者にも一般人にもあったことが「島原の乱」の第一報が来たときに、やはり来るものが来たという気持ちで受け取った理由だと思われる。だがその受け取り方は、必ずしも正しいとはいえない。というのは「島原の乱」は、領主の圧政に耐えかねた農民の一揆なのか、それとも弾圧へのキリシタンの抵抗なのか、少々わかりかねる点があるからである。
(『日本人とは何か』

 
 島原はキリシタン大名である有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んであったが、慶長19年(1614年)に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入封した。重政は、(禄高に倍する)江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、(7カ年を費やして広大な)島原城を新築したりしたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てた。
 また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し拷問・処刑を行った。次代の松倉勝家(別称重治)も重政の政治姿勢を継承し過酷な取り立てを行った。
 天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われた。
 『細川家記』『天草島鏡』など同時代の記録は、反乱の原因を年貢の取りすぎにあるとしているが、島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張した。そして江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着した。
 しかし実際には、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっており、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争と殉教物語」というイメージが反乱の一面に過ぎぬどころか、百姓一揆のイメージとして語られる「鍬と竹槍、筵旗」でさえ正確ではないことが分かる。
 上述のように宗教弾圧以外の側面もあることからかは不明であるが、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままである。(wiki「島原の乱」)

キリシタンを黙許した家康が切支丹国禁令を出したのはなぜか
『日本人とは何か(下)』p81~83 PHP研究所1989年版
 「徳川家康は、基督教の信徒と雖(いえども)、国法に従ひ、公序良俗を乱さぬ限り、敢て之を禁制しようとはせず、また基督教の教義も亦国家を危くし、人倫を紊すやうなるものではあるまいと信じたばかりでなく、外国貿易の上から考へても、さてはまた切支丹諸大名との交渉を考へても、結局、之を保護するの勝れるを感じたらしい、否、少なくとも之に対して黙許の態度を持するのが得策であると考へたらしい」(佐波亘『植村正久と其の時代』)
  日本人キリスト教徒の評価だが、大体これが正しい評価であろう。氏はつづける。
  「ところが、誤解、讒訴、それに漸次其弊害をも経験したので、国策上、遂に、キリシタンの国禁令を公布した」
  これが前述の一六一二年である。佐波氏はここに「国策上」と記しても「宗教上」とは記していない。日本人は宗教に寛容だといわれるが、この点は家康も同じで、若いとき一向一揆のため危うく破滅しそうになったが、政治勢力としての一向宗を打破してしまえばそれで終わりで、個人の信仰にまでは立ち入ろうとしていない。彼は当時三河の領主にすぎなかったが、この態度もまた「国策上」である。彼の態度は常に「国益至上」、ではキリシタンのどの点が問題になったのであろう。家康が黒衣宰相といわれた金地院崇伝に起草させた、俗に『伴天連追放の文』といわれる一文がある。起草は慶長十七年(一六一二年)十二月二十二日、岡本大八事件があり、オランダ使節が来てあの国書を提出した年の暮れである。崇伝は徹夜して一夜で書き上げたという。
  「乾(天)を父と為し、坤(地)を母と為し、人その中間に生じ、三才(天地人)これに定まる・・・」にはじまる相当に長いものだが、前半はいわば「神儒仏合一論的世界観」であり、それに基づいて法令が公布されていると指摘している。ついで次の言葉が来る。「彼の伴天連の徒党、みな件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法(仏法)を誹誇し、義を残(そこ)ない、善を損なう。刑人あるを見れば、載(すなわ)ち欣び載ち奔り、自拝自礼す。これを以て宗の本懐となす。邪法に非ずして何ぞや。実に神敵・仏敵なり」と。これは彼だけではない。キリシタンの「殉教者賛美」への非難乃至は嫌悪感は、あらゆる「反キリシタン文書」にある。
 確かにこれは日本人の伝統的発想と相容れなかった。さらに、百年以上つづいた血なまぐさい戦国時代が終わり、一般庶民はほっとして平和を謳歌しはじめた時だから、刑人すなわち殉教者を賛美して、「載ち欣び載ち奔り、自拝自礼、これを以て宗の本懐となす」は、一向一揆だけでもうたくさんだという気持ちがある。
  崇伝は、日本は神儒仏合一論の伝統を持ち、「この故に、国豊かに民安し。経(経典)に曰く、『現世安穏、後世善処』と」記す。確かにこれは民衆の素朴な願いであったろう。さらに「孔夫子も亦日く『身体髪膚、父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始めなり』と。その身を全うするは、すなわちこれ敬神なり」と。こういう見方をすれば「殉教者賛美」は甚だしい倒錯であり、そこでキリシタンは邪教ということになる。
  日本人はキリシタンをはじめ吉利支丹と書いていたが、家康が発布したキリスト教禁止令では「切支丹」となっている。これから「身を切られて丹い血を出すことに支えられると信ずる故に「切支丹」といったという説がある。
 
 
 こうした日本の伝統的な神儒仏合一論を最初に批判したのがハビアンであった。先ず神道批判。「彼は神道を三つに分ける。第一が「本迹縁起の神道」、第二が「両部摺合の神道」で、彼はこの二つを、土俗信仰と混淆した仏教の亜流と見、論ずるにたりない」とする。
  前者は、山王神道のことで、これは日枝山(比叡山)の山岳信仰・神道・天台宗が融合したもので、山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとする。後者は、密教の大日如来を中心とする宇宙観(金剛界と胎蔵界)と伊勢内宮を結びつけ、天照大神は胎蔵界の大日如来、伊勢外宮の豊受大神は金剛界の大日如来とする。(wiki「両部神道」)これらは、宗教学の立場からは、ハビアンのいう通り、仏教に土俗信仰が混入したものと見るのが正しい。
  続いて、彼は「還本宗源の神道」だけを本物の神道と見て批判する。この神道は「吉田兼倶に始まる吉田家が唱えた神道の一流派で、本地垂迹説である両部神道や山王神道に対し、反本地垂迹説(神本仏迹説)を唱え、本地で唯一なるものを神として森羅万象を体系づけ、汎神教的世界観を構築した」もの。(wiki「吉田神道」)
  彼は、その宗源とされる日本書紀の創造神話について、まず「天地が先に自然に発生し、その中から神が生まれた」のであって、「神が混沌から意志的に秩序(コスモス)を創造したのではないとする。さらに、それは中国の「陰陽」の考え方に基づくもので日本独特の発想とは言えないという。
  では、日本はどうしてできたか。「日本に限らず、大国に続かない島国の初めは、必ずその隣国の人が渡って住みはじめ、人口が増え、年代も経ち、人々が散らばると、昔のことを忘れてしまって神話を創作する。従って、天照大御神というべきものはなく、伊勢大神宮もなく、日本の神は「人が神という位を与えただけ」で、さらに「天皇も人」だという。(『受容と排除の軌跡』p64~74)
 
なぜ一向宗は信長や家康と対立したか(まとめ)見出し
『日本人とは何か(上)』PHP研究所1989年版 参照
 ここで、なぜ「如来の本願による救済(涅槃)を信じ、自力心を捨てて信心のみちに入れ」という親鸞の教えを受け継ぎ、「王法を尊重しつつ、仏法による信心の王国」の樹立を目指した蓮如の教えが、「一向一揆」という強固な政治的・軍事的集団に発展し、戦国の覇者である信長や家康と死闘を繰り返すことになったかについて考えて見たい。
  鎌倉幕府も末期になると、幕府政権の基礎となる一族郎党の惣領制が、所領の分割相続や貨幣の浸透で徐々に崩壊に向かった。さらに二度(1274年、1281年)にわたる元寇の侵攻を経て幕府財政が破綻、多くの無足の御家人が生じ、この状態に不満な武士が悪党となって諸国にひそむようになった。
  一方、幕府権力を各地方で担うべき守護や地頭が、自己の職権を利権とする傾向が生じた。元弘3年(1333)に鎌倉幕府は倒壊、この機に乗じて後醍醐天皇が政権回復を図るが、足利尊氏の離反により吉野に移って政権回復の戦いを続行、また足利幕府自体も分裂し、諸国の武士は、自己の所領を安堵してくれる政府を失う結果となった。
  こうなると各人が、何らかの規約を作って団結する以外に方法はない。こうして、国人(在池小領主)も農民・商人・僧侶も一揆を形成するようになった。このような経過を経て日本の社会は血縁集団から一揆という契約集団に変わっていくが、こうした中で、最も強固な宗教的結束を誇ったのが「一向一揆」であった。
  この頃の寺は、日本の仏教が、先ず鎮護国家の宗教として日本に入り、次いで貴族・武士と上から下へ浸透したために、農民の中に入って伝導することはなかった。そんな宗教的空白状態にあった農村に入って伝導したのが蓮如だった。蓮如は「惣」を「講」に代え「平座で輪を作り談合する」ざっくばらんな伝道方式を採った。
  こうして、蓮如は宗教・世俗の両面にわたって、当時の農民に、彼らが熱望している精神的充足を与え、精神的紐帯を形成させ、同時に「ただ信仰のみ」による阿弥陀仏の救いの教えを説いた。これが惣村から与郷へと広がって行く。それに対して他宗の妨害があり、これに対して採られた防御体制が「一向一揆」だった。
  こうして急速に強大化した一向一揆は、否応なく、抗争する諸勢力の争いに巻き込まれることになった。この争いの中で蓮如は「御文」で「愚身さらに所領所帯において、かってその望みをなさず」と述べ、「王法と仏法を分離して仏法に生きよ」と説いたが、その王法の世界は旧秩序が崩壊し(「所領所帯」を望む)一揆の世界になっていた。
  こうして一向一揆は、富樫政親を高尾城に攻め滅ぼし加賀一国は本願寺領国となった。蓮如がねがった仏法領は、信仰の共同世界としてではなく、教団権力の政治的支配領域となり、近畿を中心に尾張から三河へと広がっていった。この一向一揆に破滅の淵に追い込まれたのが家康、石山本願寺と苦しい11年戦争を強いられたのが信長であった。
  ところで、「信長が延暦寺を徹底的に弾圧し、高野聖の千人斬りを行い、また秀吉は根来寺を滅ぼし、家康も一向一揆との死闘を繰り返し・・・宗教勢力と対決したが、だからといって、神社、時には仏閣への起請そのものを否定したわけではない。」彼らが望んだのは宗教を政治・軍事から分離することであった。

*不干斎ハビアン(永禄8年1565~ 元和7年1621))、禅僧を経てイエズス会の門をたたき、修道士(イルマン)として活動したが、後に棄教してキリスト教徒弾圧に協力した。著作『妙貞問答』1605年(仏教、神道、儒教を批判しキリシタン教理の顕正をはかった。1607年棄教、1620年『破堤宇子』(反キリシタン文書)を著した。
 「当時の仏教は、すでに宗教的生命を喪失していたと言ってよい。おもしろいことに排キリシタン書の中にキリシタン以上に仏教を罵倒しているものもある。事実、鎌倉時代には武士の指針であった禅宗は幕府の保護下に、一種、武家の顧問のような形になり、曹洞宗は加持祈祷を主として密教化した。
 さらに大寺院は僧兵を擁する封建領主として戦国の争いに参加し、高僧たちは貴族化して民衆とは無関係の存在になってしまった。 同時に、民衆の宗教であるべき浄土宗は、戦国の混乱の中では新たな秩序の確立よりもこの現世を否定し、諦念するという形になり、念仏による救済という信仰の上に強大な勢力を築いて一大封建領主となった。
  不干斎ハビヤンのみならず多くの人が、仏教のその姿に、新しい秩序の基となるべき精神的統合の原理を求め得なくなって不思議ではなかった。「こんな宗教があったからこんな混乱があって人びとが苦しむのだ」「・・・人ノ心ハ私ノ欲クニ引レテ邪ノ路二至ントノミスルニ、無主無我ト云テ、何タル悪ヲ作りテモ罰ヲアタエン主モナク、善ヲ勧テモ利生ヲ行ルベキ所モナシ。
  只何事モ空生空滅ト云テ自由自在二教テハ、ナジカハヨクアラン。カヤウノ法ヲコソ邪法トハ云ベケレ」(『受容と排除の軌跡』山本七平p59,p62)
 では、なぜ仏教はこのようなことになったか、その原因として不干斎ハビアンが指摘しているのは、仏といっても所詮それは人間であって善悪を裁定する主(=神)ではないこと。大乗仏教の根本経典とされる「般若心経」の空の思想の虚無性。当時の農民層に広く浸透した浄土真宗の煩悩肯定・戒律無視の風潮などである。こうした精神的空白状態が、この時代のキリシタン信仰の隆盛の背後にあったのである。
江戸時代初期、イギリス人使節の観察した日本
『日本人とは何か(下)』p72~74 PHP研究所1989年版
  1600年、オランダ商船リーフデ号で豊後に漂着したウイリアム・アダムスの紹介でオランダ国王の国書を携えた使節団がやってきた。団長はジョン・セーリスで1613年に平戸に着き、そこから家康のいる駿府まで行った。これはその旅行記と山本の解説。
乱世はすでにおさまり、世の中の秩序は確立し、天下は太平であった。家康にとって残る問題は大阪だけであった。
「九月六日、駿府に到着するまで、毎日十五、六里を旅行した。一里は三マイルである。道路の大部分は、驚くほど平坦で、山を通過する部分は、開削されている。これはこの国の主たる道路(東海道)で、多くは砂および小石でできている。一里ごとに道の両側に二つの小丘がある。その頂には松の木を植えている。これは人夫および馬を貸す者が、一里におよそ三ペンス以上の賃金を貪らないために設けられたものである。道路は通行人が非常に多く、時々田園および田舎家がある。また村落や大都会がある。川の渡場があり、また杜がある。その地の最も快適な場所に、仏すなわち彼らの寺院がある」
 その情況は、道路が地方小領主の関所で区切られ、所々に山賊がひそみ、野武士とも群盗ともつかない一団が横行する戦国時代とは全く違ったものになっていた。だが、これらの道路の多くは、その戦国時代に分国大名が建設したものであった。大兵団を動かし、補給を確保するにはどうしても道路が必要である。信玄は川中島まで最短距離の道路をつくった。有名な「棒道」である。また信長も岐阜から京都への道路をつくり、その開削に火薬を使ったといわれる。そしてこの道路の通行は安全が保証されねばならなかった。
 その道を歩きながら彼がみたのは、後述する幕府体制初期の状態である。、現代でも日本は世界で最も治安のよい国といわれるが、このことは徳川時代にも言えたであろう。それがセーリスにまことに気分のよい旅をつづけさせたわけだが、こういう平和の旅路の中に彼を不愉快にするものがあった。
「町に近づくときには、まず、処刑された死体の、十字架に掛かっているのを見るのが通例である。皇帝(家康)の居所駿府に近づいたとき、数個の首を載せた一つの台があった。その傍らに十字架刑に処せられた死骸に名を掲げたもの、および刀の切れ味を試すべく、処刑の後、たびたび斬られた体の断片を見て、不愉快に感じた。 駿府の町の大きさは、ロンドンと、その田園とを併せたものと同じで、工芸に従事する者は外部に居住し、上流の人々は内部に居住していた」

 セーリスを感心させた秩序と治安、彼を不愉快にさせた処刑人の獄門台は、実は関連があった。「貞永式目」では窃盗罪の刑罰は極めて軽かった。それが原因であったとは単純には言えないが、戦国時代に諸大名をも人々をも悩ませたのは群盗の横行であった。そして実に峻厳な刑罰でこれを一掃しようとしたのが信長や秀吉である。「太閤の一銭斬り」は有名だが、これを始めたのは信長で、秀吉が全国化したといってもよい。「一銭斬り」はその名のように一銭でも盗んだ者は即座に斬首刑で、その罪状の札とともに首をさらすという刑である。
そして現行犯は、これを見た者はだれであれ、即座に処刑してよかった。このことは当時日本に来たヨーロッパ人にはきわめて強烈な印象を与えたらしく、宣教師のルイス・フロイスも、商人のアビラ・ヒロンもこのことを記している。セーリスが感心した軍規の厳正さや治安の確立の背後には、「ものを盗めば殺されて当然」という当時の通念があった。この「盗み」に対する強い嫌悪感と罪悪感はその後の日本にも強く残っている。
 貞永式目の窃盗罪についての規定は次の寛喜二年(1231年)の幕府法を踏襲している。
  「一 盗賊贓物の事・去年四月廿日評定/右、すでに贓物の多少によって、罪科の軽重を定められ畢んぬ。仮令(たとえば)銭百文もしくは、弐百文以下の軽罪は、一倍(いまでいう二倍)をもって弁償せしめ、その身を安堵せしむべし。三百文以上の重科は、たとい一身の科(遠流・禁獄など)に行うといえども、さらに三族の罪に及ぶなかれ。親類・妻子ならびに所従等に於ては、元のごとく本宅に居住せしむべきなり。/次に同じ宿所(恒常的同居)の家主、罪科を懸くるや否やの事、その意を知らずば(共謀してなければ)、家主の罪科に及ばざるの由、度々その沙汰を経(へ)畢んぬ」
  つまり、「犯行の実否と量刑の大小が贓物(犯人が隠匿した盗品)の多少によってきまり、小額なら二倍にして弁済すれば罪にならない。簡単にいえば「贓物」という「証拠」によって犯行の実否と量刑が自動的にきまるわけで、そこには「自白」の有無が考慮されていない」のである。(『日本的革命の哲学』p273)
  これが「太閤の一銭斬り」のような「一銭でも盗んだ者は即座に斬首刑で、その罪状の札とともに首をさらすという刑」に過酷化したのはなぜか?
  これは、室町幕府以降14世紀から秀吉の天下統一までの16世紀にかけて,戦乱の時代が続いたことによるもので、「領主は他領の侵略に明け暮れ、貴族寺社は権威を失墜し、海には海賊、山野には山賊が跋扈する」いわゆる乱世となり、戦場では「乱取り」と呼ばれた乱暴狼藉が横行し、捕虜が捕獲され、それがポルトガル人の手による奴隷売買の原資となったとされる。
 こうした無秩序状態の中で中世荘園制が徐々に解体し、代わって「自律的・自治的性格を持つ共同体としての村落=惣村」が現れた。こうした「村々は自力救済の世界を生き抜く集団として、厳しい内部規制」を持っており、「窃盗の儀、三銭を過ぐるは・・・切りすつべきこと」とするほど過酷を極めた。全国統一政権の樹立により乱世を終わらせようとした信長、秀吉が採った刑罰がいわゆる「一銭斬り」となったのは、この延長と見ることができる。(『日本近世の起源』渡邉京三 参照)
日本のキリシタン政策
『日本人とは何か(下)』(p36~62)PHP研究所1989年版
 「日本はなぜキリシタンを禁止したのか」こういう質問が欧米人から出て不思議でないが、多少キリシタン史を知っている人は、「いつ禁止したのか。何を禁止したのか、よくわからない」というのが普通である。事実、西欧における「宗教の禁止」とは、非常に違うからである。  たとえば秀吉が天正十五年(一五八七年)に九州でキリシタン禁止令を出している。しかし同十九年(一五九一年)にはヴァリニャーノと面会し、翌年には前述の『ドチリイナ・キリシタン』の決定版が出版されている。さらに文禄二年(一五九二年)には宣教師バウティスタと面会しており、彼の側近のキリシタン大名、たとえば小西行長などは平然と活動している。と思うと慶応元年(一五九六年)には二十六聖人の殉教が起こっている。ではそれを機会に再禁止かというと、そういうわけでもない。
 そしてそれ以後もキリシタンは一六一二年まで自由であった。約二十年ほど日本に滞在したアビラ・ヒロンというスペイン商人は、『日本王国記』の中で、次のように記している。
「・・・(しばらく日本を離れ)六〇七年(一六〇七年)にこの王国に帰ったとき、キリスト教の情勢は非常に恵まれていて、(フランシスコ会の)修道士たちは大きな江戸の市中に公然と天主堂を有していた。彼らもイエズス会の修道士たちも、都、大坂、伏見、その他方々の都市に天主堂を持っていたが、いずれも夥しい異教徒の寺の内に公然と混じっていた。
 薩摩の国には既にドミニコ会の修道士たちが入っていたが、彼らの入国したのは一六〇三年で、海港である京泊に寮をかまえていた。また私がこの王国に帰った六〇七年には肥前の国にもう一つの寮があった。アウグスチノ会の博士修道士らもドミニコ会の修道士らと同じ時期に聖福音をのべ伝えるためにこの王国に入り、豊後の国の臼杵の市に居を定めた」
 これでみると、二十六聖人の殉教後もキリスト教は堂々と日本で活躍していたのだから、殉教の理由は必ずしも宗教的理由とはいえないし、これが厳重な再禁止につながったわけでもない。
(中略)
 「・・・秀吉が教会領となっていた長崎を没収し、キリシタン禁止令を出したのが天正十五年(一五八七年)であり、文禄元年(一五九二年)にはじまる以上の交流はすべてその五年後のこと、そして二十六聖人の殉教は慶長元年(一五九六年)でさらにその四年後である。ということはキリシタン禁止令後も原田一族や小西行長・如安のようなキリシタンが秀吉の側近におり、スペインの宣教師が来ることを彼は少しも拒否しようとしなかったことである。
 これは、キリシタン禁止令を宗教問題ととらえればまことに奇妙なことだが、信長・秀吉・家康に一貫している一向宗への態度と同じであると見れば別に不思議はない。一向一揆の苦杯は、信長もその部下の秀吉も家康も、いやというほど味わった。だが、政治勢力乃至は軍事力としての一向一揆は徹底的に潰しても、各個人の信仰までは干渉しようとしなかった。これは信長が比叡山を殲滅したからといって天台宗を禁止したのではない、というのと同じである。家康は一向一揆を徹底的に潰したが、彼らが政治勢力を失うとまた寺を再建してやっている。これと同じ態度をキリシタンにもとっていたと見てよい。そしてこの態度が、実は、欧米人が、「いつ禁止したのか、何を禁止したのかよくわからない」という理由の一つなのである。
 ではここで当時の日本の支配者のキリシタンへの態度を要約しよう。信長はキリシタンに好意を持ち便宜を与えたのは有名だが、この点では秀吉も天正十五年(一五八七年)まで変わりなく、イエズス会支部長ガスパール・コエリョの要請に応じて次の三ヵ条の許可を与えていた。すなわち―― (一)秀吉の分国内で伝道の自由を持つこと。
(二)イエズス会士の家族と教会は通常の仏教の寺院のように、兵士の宿舎としないこと。
(三) 大名・小名がその支配下の人民に課する諸税・諸役を免除すること。
 これはおそらく当時の世界には類例がない特権であり、同様のことを仏教の伝道師がスペインのフェリペ二世に求めても無理であったろう。そして秀吉のこの厚遇は諸侯にも影響し、多くの分国で同じような特権が与えられていた。
 秀吉が、キリシタン宣教師に突きつけた次の五箇条の詰問状(一)は次の通りである。
(一)彼および彼の仲間は、いかなる権威に基づいて秀吉の臣下をキリシタンになるように強制するのか。
 これは、言うまでもなく秀吉に忠誠を誓っている臣下に対して、なぜ、キリシタンの神への忠誠を強制するのか、という詰問である。
 ここには、鎌倉幕府以来の武士団の一揆契状に基づく盟約があり、秀吉の時代にはこれが全国統一的なリーダーへの一元的盟約となっていた。
 その盟約における祈誓の対象となった神仏は、いわばその盟約の連帯保証人のような存在で、キリシタンのGOD(神)に対する絶対的忠誠心とは忠誠の度合いが異なっていた。
 信長や秀吉はそうした彼らの命がけの献身的活動に好意を持ち一定の活動の自由を認めた。それが一般民衆の心の支えとなり社会的秩序の安定につながる事を期待したと思われる。
 ただその一方で、それが一向一揆のような「百姓の持ちたる国」に発展することを警戒していた。その警戒心に火をつけたのが、自らの臣下に対するキリシタンの布教活動だった。
 一体誰の許可を受けて、自分との「一所懸命」(所領安堵の対価としての命がけの自分への忠誠心)の盟約関係にある臣下に、キリシタンの神への忠誠を強制しようとするのか・・・。
秀吉の全国統一のための五ヵ条の詰問状
『日本人とは何か(上)』p45~51 PHP研究所1989年版
 ところが秀吉は九州征伐のとき不意にこの態度を一変させた。これが余り急であったのでキリシタン側はさまざまな臆測をしているが、資料を見るとその理由は明らかである。まず『長崎縁起略記』の「評」に次のように記されている。
 「長崎公領の始め異説繁多なり、・・・天正十五年(一五八七年)関白秀吉公九州平均(ひらならし)の時、筑前博多御逗留の節、当時の人々参上して御礼を遂げ、公領となり、鍋島飛騨守に御領といふ事あり。この時は、当地寺観の伴天連ども参上し、却て御機嫌に背き、それより逃れ去り、島原かの月山にかくれ寵りしとなり。これ則ち、伴天連ども、所の田畑を知行して己等を地頭と思ふ故なり」
 秀吉はイエズス会が長崎を勝手に「教会領」にしたことを怒り、これを没収するとともに次の五ヵ条の詰問状を支部長ガスパール・コエリョにつきつけた。これには異説があるが、要約すれば、以下が大体が「御機嫌に背き」の内容であろう。すなわち――、
(一)彼および彼の仲間は、いかなる権威に基づいて秀吉の臣下をキリシタンになるように強制するのか。
(二)なにゆえに宣教師はその門弟と教徒に神社仏閣を破壊させたのか。
(三)なにゆえに仏教の僧侶を迫害するのか。
(四)なにゆえに彼らおよびポルトガル人は、耕作に必要な牛を屠殺して食用にするのか。
(五)なにゆえにイエズス会支部長コエリョは、その国民が日本人を購入し、これを奴隷としてインドに輸出するのを容認しているのか。
 教会領問題と以上の五ヵ条を見れば、秀吉が何を問題としているかは明らかである。彼は決してキリスト教という宗教そのものがよろしくないから禁止するといっているのではなく、”宗教戦争”の回避であろう。一向一揆が「百姓の持ちたる国」として本願寺領を形成し、宗教的信念に基づくその猛烈な戦いぶりを経験している彼は、キリシタンが秀吉の保護の下に「偶像破壊」に乗り出し、それに対して仏教側か総反発を起こすことを恐れたのである。
 日本人が殆どすべて仏教徒であることを思えば、この「恐れ」は当然であり、全国を統一して戦乱に終止符を打とうとする彼が、これを黙認できなくて不思議ではない。彼の目的はまずその危険を萌芽のうちに摘みとってしまおうということであったろう。
(中略)  だが秀吉乃至はその側近に、キリシタンに対する嫌悪を感じさせた最大のものは、ポルトガル人が日本人を奴隷としてインドその他に売っていたことであろう。この事実があることをコエリョも否定しておらず、イエズス会宣教師はこの防止につとめたと言っているにすぎない。さらに彼は、少々逆襲的に、この問題は秀吉が法令を下して「売る日本人」を厳罰に処してくれれば、解決する問題だとしている。
 理屈を言えばその通りだが、これでは、宣教師側もこれを黙認していたことになってしまう。いわば「売った日本人を厳罰に処せばよい」と言っても「買ったポルトガル人は自分らの方で責任をもって厳罰に処します」とは言っていないのである。彼らが、長崎の日本人キリシタンから注意を受けてこの問題の重要性に気づき、「奴隷購買者破門令」を発したのは慶長元年(一五九六年)すなわち二十六聖人殉教の年で、問題発生の実に十年後である。いかにその対応が鈍感であったかがこれに現われている。
 日本にも人身売買がなかったわけではない。特に戦国時代はこれがひどく、引っ捕らえた敵方の家族などは遠慮なく売ってしまうことが堂々と行われていたことは否定できない。しかし秀吉は秩序を確立しようとしており、そうなれば「貞永式目」「建武式目」以来の伝統的な法秩序への復帰となる。そして「式目」では「拘引人は死罪に処す」であった。これは、奴隷制度が公認の制度として存在したヨーロッパとは基本が違うということ、日本には「公の制度としての奴隷制度」はなく、それを合法的と見る伝統はなかったことを示している。
 この点、一八六三年までアメリカに奴隷制度が存在した欧米とは違う。当時はヨーロッパの奴隷商人が、公然と新大陸にアフリカから奴隷を売り込もうとしはじめた時代であり、ポルトガル船には使役される黒人奴隷がいたのだから、イエズス会士が日本人より奴隷問題で鈍感であっても不思議ではなかった。
(中略)
 そしてこれらの国のこの問題とやや共通性をもつのが「神社・仏閣」の破壊であった。その危険性は宗教戦争誘発だけではない。
 信長が延暦寺を焼討ちし、一向宗を徹底的に弾圧し、高野聖の千人斬りを行い、また秀吉は根来寺を滅ぼし、家康も一向一揆との死闘をくりかえした。彼らは宗教勢力と対決したが、だからといって、神社、時には仏閣への起請そのものを否定したわけではない。
 後述するが、家康のいう「神国」とは、主従制や領主間の盟約が日本の「神々」(本地垂迹説を援用すれば当然に仏も含まれる)への誓約すなわち起請によってその秩序が保たれている国という意味である。この考え方は前述のように惣村でも同じだから、村落共同体の秩序もまたそれによって保たれている。
 この、「起請」を「典礼」と考えれば、日本におけるキリシタン禁止が、戦国的混乱から幕藩的な体制へと向かうにつれて徐々に強化されていった理由もまた一種の「典礼問題」で、この点では中国・朝鮮と似た点があると言えないこともない。
 しかし、違う面の方が多いと言うべきであろう。まず「長崎公領事件」は、「百姓の持ちたる国」に似た「キリシタンの持ちたる国」の出現は絶対に認めないということで、これはそれまでの歴史的経過から見て少しも不思議ではない。
 さらに、側近に小西行長や高山右近のようなキリシタンがいても、自分への忠誠をデウスに起請するのなら別にかまわない。ただ神道・仏教の起請の対象を破壊することは許されないということである。

 秀吉の五箇条の詰問状は次のように続く。
(二)なにゆえに宣教師はその門弟と教徒に神社仏閣を破壊させたのか。  一神教であるキリスト教(カトリック)にとって、自らの神=GOD(イエス・キリストはその三位一体の存在)以外の神の名を唱えることは、モーセの十戒の第一、二条に見るごとく絶対に許されない。
 これに対して、信長や秀吉が許容した宗教の有り様は、あくまで惣村の社会的秩序安定に寄与する範囲のものである。従ってその安定の祈誓→祈願の対象となる神は信心の持てるものなら何でもいいのである。
 貞永式目はその第一条において神社仏閣を大切にすることを説いている。泰時はその起請文において「梵天・帝釈・四代天王・総じて日本国中六十四州の大小神祇・・・」を上げている。
 こうした考え方の基本は、人間には生まれながらに「仏性」が備わっているという考え方で、その慈悲の本性に従うことが社会的秩序の基本とする考え方である。
 一方、キリシタンは、そうした社会秩序を維持するためには、この宇宙を創造した唯一神の絶対的意志に従うべきとする考え方で、これ以外の邪神を信じることは罪であり破壊して当然であった。
(三)なにゆえに仏教の僧侶を迫害するのか。  これは、(二)の問題とも関連するが、あえてこうした問いを起こしたのは、おそらく、キリシタンの宣教師が、仏教の僧侶に対して、教理問答を持ちかけ、彼らを窮地に追い込んだことを迫害としたのではないだろうか。
 この頃の西洋科学の発達は、大航海時代の天文学の発達に見るように、日本の朱子学的世界観より具体的に自然現象を説明できたであろうし、その宗教的情熱も、一般の僧侶の抗しうるものではなかった。
(四)なにゆえに彼らおよびポルトガル人は、耕作に必要な牛を屠殺して食用にするのか。
 日本において牛の屠殺が禁じられるようになったのは何時のことかというと、『魏志倭人伝』には日本には牛馬がいないと書かれている。(実際は馬は多くはないがいたらしい)
 古墳時代になって「大陸から牛や馬が渡来し、馬は乗馬に用いられ牛馬は肉や内臓が食用あるいは焼くようにされた」という。
 飛鳥時代以降、仏教が日本に導入され、それが動物の殺生を禁じたことから、そうした戒律に自覚的な貴族層において、狩猟採集の時代から続く獣肉食を禁忌とする考えが生まれた。
 鎌倉時代になると武士の台頭により獣肉に対する禁忌が薄まったとされるが、牛馬を食用とすることは、戦国時代になっても当然の禁忌とされた。
秀吉のキリシタン禁止令の真意
『日本人とは何か(下)』p52~62 PHP研究所1989年版
 この結果、秀吉は五ヵ条のキリシタン禁止・宣教師退去令を出したが、その中の次の二ヵ条は注意しておく必要がある。
 一 黒船の儀は商売の事に候間、格別に候こと。年月を経、諸事売買仕るべきこと。
 一 自今、仏法の妨げをなさざる輩は、商人の儀は申すに及ばず候、何にてもキリシタン国より往還苦しからず候条、その意をなすべきこと。
 いわば「仏法の妨げをなさざる輩」は、商人はいうまでもなく、なんぴとでもキリスト教国と往来してよいということである。このことは、仏教との間の宗教的な擾乱などを起こさない限り、その者がキリスト教徒であっても自由に来日してよいということ、広義に解釈すれば、伝道して問題を起こさない限り宣教師が来てもかまわないということになる。これがスペインの使節が宣教師であっても別に問題としない理由であった。
 これから見れば、秀吉の側近にキリシタンがいても不思議でない。さらにまた、密かに伝道が行われていても、それまで弾圧する気は秀吉にはなかった。彼にとって問題はあくまでも国内の政治的平穏であり、仏教や神道との間に摩擦や争いを起こさず、社会秩序の崩壊を来さないなら、個人の信仰まであえて問おうとはしなかった。いわば前記の『長崎縁起略記』の「評」によると、小笠原一庵が家康から奉行に命じられて長崎に来たとき、仏教の寺は一寺もなく、すべて「吉利支丹寺」であったというような、仏教徒追放といった状態に、終止符を打とうとしただけである。「諸宗教平和共存政策」は、律令時代に唐より「儒釈道合一論」を導入して以来の日本の伝統であった。
(中略)
 スペインの無敵艦隊が敗れたのが八年前の一五八八年、海上権は、衰えたとはいえまだスペインの手にあり、この年にイギリスとフランスは対スペイン同盟を結び、オランダ艦隊がジャワのバンタンに到着したとはいえ、スペインはまだ一五九八年にニューメキシコ、カンザス、カリフォルニヤを併合する勢力を保持していた。当時のスペイン人の意識は、サン・フェリーペ号の航海士のように、栂指大にすぎぬ日本など、地図を見せて恫喝すればすぐ自分たちの思うようになると思っていても不思議ではなかった。
 サン・フェリーペ号問題も秀吉に影響したであろうが、最も大きな理由は、ヒロンが指摘しているように、使節として来ながら公然と彼の命令を無視したことにあるであろう。このことはヒロンの記す「宣告文」に表わされている。すなわち「これらの、使節の称号を帯びて、ルソンよりわが国に渡米せし者どもは、予が去んぬる年月すでに厳に禁令を下したるキリシタンの信仰を説き、これを講じて当地に留まりたる故をもちて、先に陳ぶる科により長崎に送られ、彼処において、改宗せる日本人もろとも傑の極刑に処するものなり・・・」と。
 処刑されたのはスペイン人は遣外管区長ペドロ・バウティスタとも六名、他はことごとく日本人で、そのうちイエズス会士三名と十七名の平信徒がいた。このほかは「おかまいなし」である。ではなぜこの十七名が選ばれたのか。ヒロンによれば、キリシタンの数が余りに多いので石田三成がキリシタン探索を打ち切るよう建言し、同時に「もっとも現在すでに捕らえているパードレたちや日本人らは、もし誰か殺されなければならないとしたら、殺してもよいだろう」と言ったためと記している。
 秀吉はスペイン使節が自己の命令を公然と無視したこと、そしておそらくは航海士の恫喝がその怒りに油をそそいだことが原因で、キリシタンへの大迫害をする気など毛頭になかったらしい。
 いずれにせよその二年後に秀吉が死に、関ケ原の戦いで家康が勝って徳川幕府ができると、冒頭に記したように、まず、キリシタンの自由放任時代が再び訪れる。
 問題は常に宗教問題でなく政治問題、その背後には、一向宗化の問題、バンカーダ問題、スペインの植民地化問題、奴隷問題、そして、他のアジア諸国と一面で共通する「起請という典礼」問題等があった。そして以上のような問題を起こせば、信長でも秀吉でも家康でも、同じ態度をとったであろう。これは決して、キリスト教という宗教そのものを否定しているわけではなく、たとえば共産主義国が、「宗教はアヘンなり」として否定するのと、全く別の問題である。
 そのために「何を禁止したのか、いつ禁止したのか、よくわからない」という結果になる。皮肉なことに、日本のキリシタンが黄金時代を迎えるのは、ヒロンが記すように、秀吉の禁止と二十六聖人の殉教の後なのである。
 
 秀吉の五箇条の詰問状(五)は次の通り。
(五)なにゆえにイエズス会支部長コエリョは、その国民が日本人を購入し、これを奴隷としてインドに輸出するのを容認しているのか。
 ここで、日本における「奴隷制」について山本七平の『日本的革命の哲学』の中から、「日本に奴隷制はあったか」を見ておく。
 まず、人類史において日本だけ例外だったとは考えにくく「奴隷や農奴のようなもの」が日本に存在したことは否定できない。
 律令においては賎民の規定があり、古代日本の法制上では「陵戸、官戸、家人、公奴婢、私奴婢」があった。
 この中の陵戸は実質的に公民で、官戸と公奴婢は官有奴隷、家人と私奴婢は私有奴隷ということになる。前者には領民と同じく口分田が与えられ、後者はその三分の一が与えられた。
 ここで賎民と良民の違いは、前者が売買の対象で賎民同士でしか結婚できず、生まれた子は母に属し母の主人の所有となった。
 これが公地公民制が崩壊し武士の時代になると、「家人」という言葉が一種「特権を持つ者」の意味を持つようになった。それ以下は強いていえば「雑人」で、名主→百姓→小作→作人と分かれ、その間の階層移動は流動的で、一種の能力主義であったといえる。
 こうした一種の下克上的能力主義を法的に調整するのが「式目」で、その追加法309では「勾引人並びに人売りを禁断すべき事」と規定された。つまり、武家法である「式目」によって「人身売買業」が盗賊に準じる扱い受けるようになったのである。
 これは、日本では政府に公認され保護を受けた公開の奴隷市場は存在し得なくなったということである。ただし、飢饉の時の例外規定もあるが、その理由は「売られても食べていければその方がよい」という生存権擁護の考え方であった。
 以上を要約すると、・人身売買は禁ずる。・ただし、飢饉で餓死しそうなときは例外とする。・売買の対象となる階級は存在しない。・質入れはできる。が、質流れという形での売買は認めない。・逃亡しても処罰されない。引き受けた人間が弁済すればそれで終わり、
 という情勢、経済状態に応じた対応策が取られた。(『日本的革命の哲学』PHP研究書s57年版p286~302要約)
◎ザビエルの来日とキリシタン伝道
『日本人とは何か(下)』p25~35 PHP研究所1989年版
 蓮如が世を去ったのは前述のように明応八年一四九九年)、その十八年後にヨーロッパで宗教改革がはじまり、五十年後の天文十八年(一五四九年)にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来た。いわば日本仏教のプロテスタントの、農民戦争の最中である。彼は、いま考えると不思議なほど、知られざる東洋の一民族日本人を高く評価し、鹿児島から次のようにゴアのイエズス会士に書き送っている。「私たちが今までの接触によって知り得た限りでは、この国民が、私の接した民族の中で一番傑出している」と。
これは彼の誤解であったのであろうか。キリシタン研究の専門学者H・チースリク神父は次のように記されている。
「この初印象は単なる曖昧な感想ではなかった。シャヴィエルは彼独特の鋭い観察力をもって、住民の短所や欠点、または戦国時代の結果であった道徳や宗教の頽廃のこともよくわきまえていた。それにもかかわらず、その根本にある長所と文化的価値を強調し、その上にこそ自分の計画を立てるべきだと知った。彼が特に高く評価したのはおよそ次の三点である。
第一には、日本は政治的にまた社会的に高度の制度を持っていること。何度もその手紙の中で政治的秩序、あるいは社会の各階級の制度について述べている。
第二には、すぐれた学問のあること。とりわけ、足利学校、比叡山・高野山などの『大学』を挙げて、これをパリ大学をはじめヨーロッパの一流大学にも匹敵すると書いている。
第三には、日本人は、男女を問わずほとんどみな読み書きができること。これは、当時のヨーロッパ諸国では庶民階級のほとんどが文盲であったことを考えれば、彼にとって特に驚くべきことであった。
また、ザビエル(1452年死亡)の志を受け継ぎ、信長の保護を受け京都で伝道したオルガンティノは、日本人から「ウルガン伴天連」と親しまれ、また彼自身も高く日本を、というより京都の文化を評価していた。
「・・・都こそは日本においてヨーロッパのローマに当り、科学・見識・文明はさらに高尚である。・・・信仰のことはともかく、われらは明らかに彼らより劣っている。私は日本語を解し始めてから、かくも世界的に聡明で明敏な人びとはいないと考えるに至った
・・・」

◎蓮如方式を継承したヴァリニャーノ
ヴァリニャーノは、ザビエルの精神の継承者たるべく、東洋布教を志した人物であった。その彼は天正七年(一五七九年)に来日し、・・・翌天正八年(一五八〇年)、「日本布教規定」を作成したが、そのなかで最も重要なのは、各地にセミナリヨを設立し、日本人を教育して司祭を養成することであった。・・・
さらに彼は全日制の初等学校も充実させようとした。この種の学校の設立はザビエルの方針で、その遺志を継いだ初代布教長トーレス以来、着々と設立され、ヴァリニャーノの手紙(一五八三年十二月十七日付)によれば、西日本だけで約二百校あったという。ヴァリニャーノの方針は、キリシタンの、小学校から大学までつくりあげることであった。
これは、最も有効で着実な方法といってよい。というのは、ザビエルの布教開始以来、二十年だっても、邦人修道士を含めて、イエズス会士の聖職者は十数名しかいなかったからである。だが、それでいながら布教地は鹿児島、豊後の九州地方から、山口、堺、河内、摂津、京都、天草、大村、五島、平戸、博多、安土、美濃、尾張へと広がり、信徒数は約十万はいたといわれていたからである。
わずかの人数で、・・・なぜこのような驚異的ともいえる伝道成果をあげたのか。もちろんそこにはザビエル、トーレス、オルガンティノ、ヴァリニャーノのような、伝道を使命とした良き宗教的指導者がいたことが重要な要因であったことは否定できないが、十数名のイエズス会士に、広大な地に散在する十万の信徒が直接に接触できるわけでないことも、また事実である。
このことは、蓮如の場合とよく似た、キリシタンを受け入れる宗教的空白地帯があったということである。本章の前段で蓮如の伝道のことを記し、彼もまた最初はきわめて小人数で伝道を開始し、一代で「真宗王国」を築きあげたその歴史的背景を記したが、キリシタンを迎えたのもまた同じような背景であった。そして一向一揆が殉教を恐れず、強固な団結を保持したのときわめてよく似た現象が起こっているのである。
キリシタンの急速な伝播の背後には「惣」を「講」にするという蓮如の方式があった。一体これをだれが採用したのか、それは明らかでない。おそらく日本人修道士の発案であろうが、これは、意識的採用というより「農村への伝道とはそういうものだ」ということが、一種、常識化していたのではないかと思われる。(中略)
(また、)キリシタンの特徴は、きわめて社会保障的だったといえるであろう。彼らのいわゆる「慈悲」は、反キリシタン的傾向が強くなってきた江戸時代の初期にも、その特徴とされているからである。・・・コンフラリヤの中には江戸の勢数多講、長崎のミゼリコルデヤ講などが、さまざまの「かりだあて(慈愛)の所作」を行なったことが記されており、『長崎実録大成』には「其慈悲厚恩を感ずる者、幾千万と云ふ数を知らず」と記されている。これが殺伐な戦国期に与えた影響は大きかったであろう。

◎教育・出版活動の成功
(また彼らの布教活動は、)初等学校から大学までの教育機関を造ろうという努力になる一方、教理を日本語に訳して印刷するという方式へと進んでいった。
これをはじめたのもヴァリニャーノで、天正十八年一五九〇年)のことである。当時の日本はまだ出版活動は盛んでなかったので、キリシタンによる図書出版(『ドチリイナ』)は大きな刺激となったものと思われる。(中略)
当時のキリシタンの信仰の内容を云々する人もあるが、当時の仏教においても、『ドチリイナ』のような宗教的啓蒙書とでもいうべき本が、民衆にもわかる言葉で印刷されて配布されていたわけではない。こういう点から見ていくと、当時の民衆の中で、自己の信ずる宗教の内容を最も正確に把握していたのはキリシタンであったといえるかもしれない。
(その序文の一部)
「御主ぜず・きりしと御在世の間、御弟子達に教へをき玉ふ事の内に、とり分教へ玉ふ事は、汝等に教えるごとく、一切人間に後生を扶(たす)かる道の真の掟を広めよとの御事也。
是則ち、学者達の宣ふごとく、三の事に極まる也。

一には、信じ奉る(信仰)べき事
二には、頼もしく(希望)存じ奉るべき事
三には、身持(愛)を以て勤むべき事、是也。

信じ奉るべき事とは、ひいです(信仰)の善にあたる事也。是人間の分別に及ばぬ事也。是等の事を弁へずんば、後生の道に迷ふ事多かるべし。頼もしく思ふ事とは、ゑすべらんさ(希望)の善にあたる事也。是即きりしたんにでうす(神)より与へ玉ふべしとの御約束の事也。是等の儀を知ずんば、難儀にあふべき時、頼む所なしと思ひて、心を失ふ事もあるべし。是又あにま(霊魂)の大なる障り也。身持を以て勤むべき事とは、かりだあて(愛)の善にあたる事也。是等の事を心得ざれば、でうすの御掟をそむく事度度あるべし……」(中略)
ザビエル渡来から『ドチリイナ・キリシタン』校訂本出版まですでに半世紀近い歳月が流れているが、その間さまざまなことがあったとはいえ、字義通りの「宗教的迫害」は起こっていない。もちろん、仏教の側からする反論や伝道妨害はあったが、これはむしろ、あって当然である。そしてキリシタンは着実に広がり、根づいて行くように見えた。この背後にあるものは、日本人の伝統的な宗教的寛容であろう。と同時に、日本がかなで中国を脱し、「式目」で中国的体制を脱したときにキリシタンが来たことも、大きく作用していたであろう。ただ当時の世界は。イエズス会を純粋な宗教的世界にのみ置いてくれなかった。
 ここでは、なぜ、日本の戦国期に一神教的性格を持つ一向宗や、一神教そのものであるキリスト教が多くの信者を獲得出来たかについて考えて見ます。
そもそも、日本の伝統的な神祭りの思想とは、古事記や日本書紀に見るように、神々による新しい生命力を生み出す「むすび」の力をたたえるもので、祭りはそれを更新・増長させる呪術としての意味を持っていました。
ここでは「よき神」は自然の生命力を成長促進させる神であり、「あしき神」はそれを阻害する神でした。死は「けがれ」と見なされ恐れられました。また、「けがれ=罪」は人の生命力を妨げるものですが、それは「みそぎ」で祓うことができました。
その後、6世紀半ばに、朝鮮経由で仏教が入ってきますが、それは中国の儒教や道教と習合した「儒・釈・道」三教合一論で、それが日本では「神・儒・仏」三教混合となり、聖徳太子を経て聖武天皇の時、仏教は「鎮護国家」を目的とする国家宗教となりました
ただし、この時、一般の貴族や有力者が仏教に求めたのは、深遠な宗教的真理ではなく、「鎮護国家」を一族にさらに個人の水準にまで下ろし、自分や自分の一族の繁栄や安全を祈念してもらうことでした。
彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたのです。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけました。
このため、真言も天台もしだいに密教の比重を高め、互いに呪術性を強調して競いあうようになりました。その結果生じたのが、国家仏教から貴族仏教・閥族仏教への移行でした。まず天皇家、ついで藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もこれにならいました。
仏教の影響でもう一つ見逃せないのが末法思想です。日本で末法に入る年は、永承七年(一〇五二年)とされ、実際その頃、戦乱や疫病などの社会不安も重なりました。それは「平安時代」が終わり、「闘諍時代」の来る不吉な予兆と人びとには思えました。
こんな中で、浄土信仰が力を得るようになりました。浄土教は奈良時代にすでに中国から渡来していましたが、平安中期以降、空也や源信によって、踊念仏、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中に次第に浸透していきました。
平安末期の源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(1133~1211)の浄土宗です。この教えは、僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人間は救済されるという、個人主義的な宗教思想を説きました。
そして、人は現実から逃避せず、与えられた身のまま、武士は武士、農民は農民、そのままで念仏をとなえればよい。そのため特別な行儀はない。時間の長短や回数の多少もない。思う時に思うようにとなえて、それだけで十分としました。
この法然の教えをさらに徹底したのが親鸞で、親鸞は、この世を穢土とは考えず、「現実」こそ「救済」の場であり、その場に生きることを念仏の目的としました。そして阿弥陀仏に救われるという「信」のみが救済を約束するのであり、念仏とは救済を求めて称えるものでなく、信じ得た喜びの感謝の声だとしました。
まさに、人が救われるのは「信仰のみ」(この点がプロテスタントと考え方が似ている)によるのであり、その前では、老若男女貴賤一切差別なしとしました。だが、彼の教えがすぐ広まったわけではなく、それが農民の宗教となり、一大勢力となったのは天才的伝道師蓮如が出てからです。
このように既成宗教が権威を喪失する中で、一揆でまとまる惣村に浸透したのがこれら新仏教でした。キリスト教も丁度このころ日本に伝来しました。その教えは、真宗=一向宗と同じく死後の救済を説き、信者間の差別を排し、相互扶助の「愛の精神」を説きました。これが戦国期のむき出しの生存をかけた闘擾に苦しむ民衆に受け入れられたのです。
(以上『受容と排除の軌跡』山本七平参照)
農民への一揆の浸透が一向宗やキリシタン信仰の基盤となった
(『日本人とは何か(下)』p18~24 PHP研究書1989年版)
 下剋上の日本、伊達千広のいう「下より起こりて次第に強大にして止むことなき勢」はしだいに底辺にまで及び、ついに農民にまで達し、それまでの社会秩序を根底から覆しそうに見えた。彼らの多くは名主に隷属して名田を耕作する作人(農業労働者)で下人などと呼ばれていたが、南北朝六十年の対立と戦乱の中でしだいに力を蓄え、年貢負担能力のある一人前の農民へと成長していった。それに以前から独立している農民が加わり、連帯して一揆を構成すると、あなどり難い勢力となる。農民への一揆の浸透は一二〇〇年代にすでにはじまり、「隠し規文」などといわれる一種の「村法」をつくって自治的体制を敷いていたが、これは「宮座」といわれる村内の指導者グループだけのものであったらしい。
彼らは村の神社の神前で一揆神水をのみ、「一味同心」として団結し、反荘園領主的な武士や有力名主層の指導下に年貢の減免や荘官の罷免などを要求していたが、ここに新たに下人出身の農民が加わると、彼らの連帯の前に、国人クラスの領主は何もできないという状態を現出する。国人が一揆として団結するのは、上への抵抗と同時に、下へ向かって共同して支配権を確保しようとした一面があったことは、その条文を見るとわかる。
以上の形で形成された基本的組織が「惣」もしくは「惣村」で、現代の日本の農村の四分の三は、南北朝から室町時代にかけて形成されたものといわれる。そして「惣村」は「惣荘一揆」を形成する。そのリーダーである有力者はしばしば国人と主従関係を結んで、惣村の利益を確保しようとする。地境、水利権、入会権等に基づく惣村対惣村の争いを調停するのが国人領主の重要な仕事であった。だがこういった半ば侍化した指導的農民もまたプリムス・インテル・パーレスで、惣内はすべて「一味」であった。
(中略)
村は一村だけでは無力だが、これが連合して与(組)郷となると相当な勢力となり、「百姓逃散」のときの相互扶助など行うと、領主に致命的打撃を与えることができる。その典型的なのが山科七郷で、領主を異にする与郷が、七つの本郷と九つの枝郷で組織されている。この本郷と枝郷の間には差別がなく、通常は春と秋に定期的に寄合を開き、非常のときには臨時「野寄合」を開く。この山科七郷はしばしば徳政一揆の中心になった。
正長元年(一四二八年)の山科一揆は大和、伊賀、紀伊、和泉、河内へと波及した大動乱になり、翌永享元年一四二九年)の播磨の土一揆は「侍をして国中に在らしむべからず」のスローガンを掲げ、守護の侍をことごとく追放しようとする、農民による「国一揆」ともいうべきものが発生している。土豪はもちろん農民側であった。このスローガンは後に出てくる「百姓の持ちたる国」の先駆であろう。彼らはやがて守護に鎮圧される。一国がことごとく蜂起しても、その全員を強固に団結させる精神的紐帯というべきものがなかった。

◎真宗王国を築いた蓮如
この新しい農民層に着目して積極的に伝道していたのが真宗系の諸寺院であり、それらを統合して一大伝道を開始し、真宗王国ともいうべきものを築きあげたのが蓮如(一四一五~一四九九)である。
親鸞は偉大な宗教家であったが、大教団の組織者ではない。そこで今では日本仏教諸派の中で最大の信徒数を誇る浄土真宗も、蓮如が出現するまではまことに微々たる存在であり、蓮如の本願寺はその中でさらに小さな存在であった。
それを一代で真宗王国ともいえる一大勢力としたのだが、宗教家としての彼への評価は、常に一定していない。若いときは苦難の中にあって親鸞を徹底的に研究し、「親鸞に帰れ」を標榜して伝道を開始しながら、最終的には朝廷・幕府に接近し、一族支配の一大真宗王国の君主におさまっていた、という生涯は、見方によっては教団政治家とも見える。とはいえ彼の伝道方針を見ると、単なる教団のオルガナイザーとはいえない面があることも否定できない。・・・いわば彼はそこに、新しく勃興して来た農民という”宗教的空白地帯”のあることを的確に見、的確に伝道したわけである。
”宗教的空白地帯”といったが、農民は形式的には何らかの教派に帰属しているはずであった。だが領主の寺は、必ずしも彼らの信仰の対象ではないし、またそういう寺は、彼らに対して宗教的活動をしようともしなかった。これは、日本の仏教がまず鎮護国家の宗教として日本に入り、ついで貴族の宗教、さらに武士の宗教という形で、いわば上から下へと浸透した結果であった。
簡単な一例をあげれば、貴族である比叡山延暦寺の座主が、自らの寺領の農民の中に入ってこれに伝道をしたり、その悩みを聞いたりすることはあり得ない。その寺領の農民は延暦寺に所属していても、宗教的には空白であるという状態である。蓮如は「惣」を「講」にかえるという伝道方針をとった。「講」とは簡単にいうと同じ信仰を抱く信徒(聖職者でない俗人)の集団である。(中略)
いわば一揆(それが惣→講へと発展した=筆者)は常に平等主義だから、高い壇上から権威者ぶって話してもだめで、必ずそのメンバーの一員のようになって、輪をつくって平座で談合するという形で伝道せよという意味である。面白いことに、日本の多くの新興宗教の伝道方式が、この蓮如の方式「平座で、輪をつくり、その一員として談合」するという方式である。
蓮如は権威主義を否定し、寄合では礼儀作法は無用、リラックスして、よく法を聞けばそれでよいという方針をとった。常に権力・権威の重圧を感じている農民にとって、一日の労働に疲れて講の寄合に来て、また権威に接するなどということはそれだけで拒否反応を起す。さらにこの場は、リクリエーションの場でもあらねばならなかった。(中略)
いわば蓮如は、宗教性・世俗性の両面にわたって、当時の農民が熱望している精神的充足を与えて精神的紐帯を形成させ、同時に「ただ信仰のみ」による阿弥陀仏の救いを説いた。これによって惣村が入信すれば、次に与郷へ広がって行く。だがこうなると問題が生ずる。まず第一が他宗団の妨害であり、第二が各惣村の信仰の内容である。
第一の問題点は実は、蓮如が伝道を開始した時からあった。いわば比叡山の僧兵による襲撃である。これに対して真宗も防御しなければならない。そこで発生したのが「一向一揆」であった。実は一向宗とは別の宗派であり、この名は世間の誤解に基づく名称で、蓮如はそう呼ばれることを嫌って「祖師聖人(親鸞上人)はすでに浄土真宗とこそおおせさだめられたり」と主張しているが、これが世の通り名になってしまった。
第二の問題に対しては、蓮如自身が極力巡回伝道をするとともに、膨大な「御文」を各地に送った。現存するものだけで二百五十通を超える。(一揆内の談合によって物事が決まるために、各惣村ごとに信仰の内容(解釈)が異なってくるということ=筆者)

◎「百姓の持ちたる国」の出現
このようにして急速に強大な勢力となった一向一揆は、否応なく、抗争する諸勢力の争いにまき込まれた。蓮如はこの問題に非常に慎重であったが、情勢はそれを許さなかった。・・・(こうして、加賀においては一向一揆によって)まさに「百姓の持ちたる国」が出現し、この体制は一世紀ほどつづく。
当時の一向一揆は、大体、農業の生産性の高い近畿を中心に、尾張から三河へ、また北紀から西国へと広がっていった。その様相は宗教改革に触発された「ドイツ農民戦争」と一脈通ずるところがある。そして一向一揆に破滅の淵に追い込まれたのが家康であり、また石山本願寺と苦しい十一年戦争を強いられたのが信長であった。
「武士は元来、自力で墾田を切り拓いて来た人びとが主流である。従って「自力主義」ともいうべき特質をもっていた。もちろんこのことは、共同の場をもつことを否定しないが、それはあくまでも個人の自由意思で平等の立場で参加するのが原則であった。一揆は原則として全員平等で、全員か合議して規約の案文をつくり、それに従うことを個人の決断で議決してはじめて成立する。
これが日本人の平等主義・集団主義の基本であり、集団主義は全員が平等でないと成り立たない。そこでちょうど円卓会議のような形で合議し、その形のまま、円周から放射状に署名する形式が生じた。これが「傘連判」である。一揆にリーダーがいても、それが必要だから全員でリーダーとしたにすぎず、その意味では「プリムス・インテル・パーレス」(同輩中の第一人者)にすぎなかったと、石井進氏は記しておられる。・・・
ここにおける問題は、この「自力主義・個人主義・集団主義」がどこまで浸透したかということである。あらゆる縁族関係を断ち、一個人として、理非にのみ基づいて判断を下し、それによって賛成・反対を述べ、多数によって議決するという方式は、延暦寺や高野山のような大寺院において、「多語毘尼」に基づいて発生した。このことはすでに述べた。それが幕府の法律制定に用いられて「貞永式目」ができ、さらにそれが、国人一揆の契約という形で地方小領主に広まった。
ここまで来れば、農民がそれを行なって不思議ではない。国人が一揆を形成して守護に対抗したように、農民が一揆を形成して国人領主に対抗する。この動きは相当に早くからあったらしく・・・」
これは、「日本的平等主義・集団主義・・・」の項でも引用した箇所だが、重要な事は、これが武士団の「自力主義・個人主義・集団主義」に発し、それが農民層にまで浸透し、日本人の平等主義・集団主義の基本を形成したということである。
武士の一揆の場合は、その一揆契約上の末尾に「上は梵天・帝釈・四天王・惣じて日本国中大小神祇冥道、別しては諏訪・八幡大菩薩、当国吉備津大明神等御罰を各身に罷り蒙るべきなり。仍って一味契約の起請文の状、件の如し」(山内一族一揆契約状)と書かれていたように、大小神祇が総動員され、一揆契状の絶対性が担保されていた。
このことは、裏から見れば、既存宗教勢力の影響力が低下いていることを物語るもので、その本体はあくまで一揆契約であること。既成宗教はその絶対性を証言する証人のような位置に置かれているということである。こうした一揆組織が農民層でも構築されるようになると、そこにおける一揆契約や談合が荘園領主の支配に優先するようになる。
しかし、こうした農民層の一揆は、必然的に国人層の警戒心を生む。このような緊迫した状況の中で、この組織に、一向宗やキリシタンのような、絶対他力、救い主の慈悲や信者間の平等・相互扶助を重視する宗教が結びつくと、強固な団結を誇るようになる。これが、戦国時代の覇者の政治的意志と衝突した結果、一向宗やキリシタンの弾圧となった。
ここで問題となるのが、日本における「政教分離」だが、信長や秀吉それに家康が問題にしたのは、その信仰内容ではなかった、彼らは庶民の信仰については無関心で、ただ、これら宗教勢力が、その宗教的権威を盾に政治的勢力化することを許さなかったのである。
欧米において宗教戦争が一段落するのが1648年のウエストファリア条約である。日本ではそれよりも半世紀前に、政教分離が問題になり、宗教の脱政治化が計られた。その後は、江戸時代の仏教の檀家制度のもとで、脱宗教化が進行する。この隙間を埋めたのが、朱子学の正統思想であった。
武家社会への貨幣経済の浸透が御家人体制を解体し、一揆というを縁族を超えた契約社会を生んだ
(『日本人とは何か(上)』p278、PHP研究書1989年版
 足利幕府はまことに統治能力のない政府であった。これは幕府が無能であったというより、地方に根を張った一揆に歯が立たなかったといった方がよい。その点では、大地から切り離されて宙に浮いたような政権であり、それでありながら義満以下の将軍が、質素そのものであった泰時以下の鎌倉幕府の人びとから見れば、驚倒するような豪奢な生活をしていたのは、貨幣を握っていたからであった。・・・土地を掌握しても貨幣を管理できないで倒壊した鎌倉幕府の次に出現したのが、貨幣は握っても殆ど領国支配のできない足利幕府であった。・・・
◎中国土下座外交の元祖・足利幕府
渡来銭の時代には明銭の輸入を独占すれば貨幣は握れる。だが、輸入のための金が欲しくても、幕府は金山をもっていない。ではどうするか。明国の制度では冊封を受けて貢物を献上すれば明銭が下賜される。(中略)義満はこの手をつかった。そこで「日本国王臣源道義」として明に臣礼をとった。明は自鋳銅銭の海外流出を禁じていたから、冊封をうけた義満だけがこの下賜を受けられる。これが理屈通りにいったかどうか少々問題だが、いずれにぜよ幕府だけが明銭を入手できるとなると、貨幣を通じての全国支配ができることになる。(後略)
◎幕府の保護下で土倉発展
では一体彼らはこのカネをどのように運用したのであろう。鎌倉時代に「借上」という金貸しがいたが、足利時代には土倉が活躍する。同時に酒屋すなわち醸造業者も資金を蓄えて土倉を兼ねる。足利幕府は建武三年(一三三六年)に「建武式目」を公布したがその第六条でこの土倉の保護と振興を次のように定めている。

(一)(6)無尽銭・土倉を興行せらるべきこと
(条文略)
(これは)土倉を保護して同時にこれから上納金を取ることが目的であった。そして土倉が大きく発展したのは、合銭がはじまってからである。(また)無尽はグループ金融だが合銭は今の銀行預金、いわぱ土倉預金である。ということは、大口預金者がいたことだが。それが延暦寺であったらしい。というのは、延暦寺としては、自己の預金の保護でもあったのであろう。京都の土倉は殆どが延暦寺の保護を受け、一種、治外法権下にあったからである。この延暦寺の支配を打破し、土倉を自己の管理下において徴税したのが前述のように義満で、明徳四年(一三九三年)のことである。
土倉はもちろん、課税される以上の利潤をあげた。これにはさまざまな理由があるが、幕府の保護で信用を得た土倉が、それによって合銭という土倉預金を広くかつ多量に集め得たことと、勃興して来た町衆の旺盛な資金需用があったこと、同時に幕府の公金を預かってこれの運用ができたことであろう。
そしてこの貸付が「借銭」である。当時の利息は「二文子」「三文子」という形で表現されるが、これは「月利で百文につき三文の利子」の省略である。合銭が二文子(年二割四分)で借銭が五文子(年利六割)なら、彼らの粗利益は年三割六分ということになる。義政は明から五万貫(五千万文)せしめ、さらに十万貫(一億文)をせしめようとして失敗したが、義満がいくらせしめたかは明らかでない。この五万貫を二文子で土倉に預金すると利子だけで月に百万文になるから、所領の経営などの苦労をするよりこの方がよっぽどいい、ということになろう。
(中略)
(ただし)これは非常に危険な状態である。というのは、まず直接的には。一揆は最下層まで浸透してきたから、何らかの一揆が、中世にはどこの国にもあった「高利貸襲撃」をすると、土倉は合銭の返却ができなくなってしまう。第二は、諸国の守護や有能な国人一揆のリーダーが一国または数国をまとめて土地・貨幣・武力を保持すると、これが実質的に独立国になって幕府を倒壊させる危険が起こってくることである。(後略)
◎六角義治は日本版ジョン王
(前略)
足利幕府は金権政権であってももちろん独裁政権ではない。そして同じようにこれらの分国大名もまた独裁政権ではなかった。ある者はマグナ・カルタに署名させられたジョン王のような位置にあり、ある者は国人一揆のリーダーにすぎなかった。一揆の国日本では、真の意味の独裁者は出て来ない。これは現代の企業でも内閣でも同じである。
(国人によって起請文(一種のマグナ・カルタ)に署名させられた六角氏の例――省略)
そして重要なことは、正統性の変化である。元来六角氏は、天皇→将軍→守護という形で近江を支配する正統性が保証されていたわけだが、たとえその支配がつづいても、起請文の日付である永禄十年(一五六七年)以降は、この起請に拠ってその正統性が保証されているわけである。(後略)
◎起請文にみる毛利元就と家臣団の力関係
これと違った形が、毛利氏の場合である。毛利氏は元来、前に述べた「安芸国国人連署契約状」に署名した有力者、とはいえわずかな小領地をもつ国人領主にすぎなかったが、しだいに勢力をのばし、ついに「十州の大守」となる。そして元就が毛利家本家をつぎ、『安芸国の山間の小盆地吉田庄を支配して十年目に、家臣団が彼に提出した(三ヵ条の)起請文がある。
(中略)
この三ヵ条の面白い点は、農業用水と金銭貸借と自分が召し使う従者の所属問題だという点である。河川の流路を確定するだけの土木技術がない時代には、彼らの所領の村落の用水網がしばしば流れを変え、機能を果たさなくなってしまう。この場合、井手を「自他の分領」によらず適当な場所に設置して河川をせきとめ、またその導水溝が他領を通る場合に溝料を払うという規定。さらに従者・下人などが負債などによって他領に逃亡した場合、家臣団内部で相互に協議して決定を下すという。「人返し」の規定である。
そしてその実行を保証する者として元就に、かたく「御下知」なされるよう要請しており、日付が享禄五年(一五三二年)であることを見ると、前の「安芸国国人連署契約状」からすでに百三十年近く経っているのに、彼はその家臣団に対して「プリムス・インテル・パーレス」(同輩中の第一人者)のやや強力な者にすぎないのである。
(中略)
これを「六角氏式目」の場合と対比してみると面白い。一方は鎌倉幕府創立以来の名門の守護に対し、家臣団が起請文に署名させる形でその権力を制限し、もう一方は「プリムス・インテル・パーレス」(同輩中の第一人者)が、同輩内の対立的な一族を粛清し、同輩の上に立つ権力を承認させた文書である。だが、この権力も決して独裁的権力でなく、在地領主間の盟約という性格が強く残っており、その意味で元就は制限された権力をもつに過ぎないといえる。(後略)
◎戦国時代の終息を加速した土地・貨幣・鉄砲
戦国大名というと何やら戦争ばかりしていたような錯覚を抱くが、以上の資料に見られるように、彼らの最も大きな関心は所領の経営であった。もちろん経営するためには保持しなければならず、家臣団はその保証を戦国大名に求め、その代償として統制権・指揮権を求めていたわけである。
元就が上記の起請文を取った一五五〇年の四十年後、天正十八年(一五九〇年)の小田原落城とともに、戦国時代は終わった。その十年後の関ヶ原の戦い、関ヶ原の十四年後の大坂の陣、そして幕末までの平和がつづく。その間の秩序づけの基本的形態は実はこの時代にすでにできていた。
一体、何が戦国時代を終息させたのであろうか。まず国人領主クラスにとっての最大の関心事が自己の所領の保持と経営であったことである。これは否応なく強者の保護を求め、強い者へと集まっていく雪崩現象を起こす。ということは一面では弱体化した戦国大名は簡単に瓦解してしまうということ、典型的なのが武田家であろう。
第二は、貨幣が人を土地から切り離せば、小領主の動員とは違った形の、土地から切り離された軍隊を構成しうることである。ただそれができたのは貨幣経済の浸透した先進圏に限られる。こうなると土地と貨幣を押えた者が最も強力になる。
第三が鉄砲の伝来である。元就が前記の起請文を取った七年前の天文十二年(一五四三年)に、種子島に来たポルトガル船が鉄砲を伝えた。豊富な資金を持つ者は、多量の鉄砲を購入し、大兵団を構成できる。雑賀衆のような鉄砲を持つ傭兵隊も出現する。一五八〇年代になると、筒井順慶のように、大和国中の諸寺の梵鐘を徴収し、これを鋳つぶしで鉄砲を造る者も現われる。
このころの記録を見ると、合戦の戦死傷者のほぼ全員近くが鉄砲による者で、槍による者は鉄砲の二十分の一に過ぎず、刀による者はまたその十分の一にすぎない。簡単にいえば二百名の戦死傷者のうち、槍による者は十名。刀による者は一名の割合である。戦勝を決定するのは刀槍を振るう勇気よりも鉄砲の数と射撃の技倆になって来た。これが戦国時代の終息を加速したことは否定できない。
小領主にとっては、安堵さえしてくれたら主人はだれでもよく、それを安堵している大名は、自らの領国を安堵してくれれば、日本国の支配者はだれでもよかった。それが秀吉出現の前提であろう。血筋・家柄が価値を持っていては、彼は出現し得ない。そしてそれは、中世的な価値観の終わりを示していた。
 武家社会への貨幣経済の浸透が御家人体制を解体し、一揆というを縁族を超えた契約社会を生んだ
ここで説明されていることは、日本における貨幣経済の浸透が、室町時代に至って、一揆の下剋上的リーダーを生み、それが幕府の任命にかかる守護に「マグナ・カルタ」をのませ、あるいは自らがその一揆に支えられて領国経営を行うようになった、ということである。
そもそも、経済社会において貨幣が定着するためには、「農業生産力の向上、商工業などの社会的分業の成立によって、社会的な生産力の全般的な拡大と、それを基盤にした交換生活の一般化、流通経済の発展があるかないかによってきまる」。
日本では、八世紀の初めの和銅元年(708)に始めて貨幣を鋳造した。これが和同開珎である。以後十二種類の皇朝銭が鋳造されたが、その後政府がいかに努力しても貨幣は定着しなかった。そして准米・准布・准帛とよばれる生産物が納税および交換手段に用いられた。
その日本で貨幣が使用されるようになるのは平清盛の時代。彼は中国の宋から貨幣(銅銭)を輸入しその流通を図った。その頃日本は、ちょうど貨幣経済に移りうる段階に達していたので、これが爆発的に流通した。すると、それによって経済はさらに発展した。
この際使用された貨幣は、いわゆる「渡来銭」で、寛永十四年(1637)に寛永通宝が日本で鋳造されるまで、宋銭や明銭が輸入され流通したのである。
なぜ、このように他国の貨幣を輸入したのか、という疑問が湧くが、要するに貨幣の信用度の問題で、当時の中国貨幣は東アジアの国際通貨であったということである。ただし、中国と貿易する際の日本の決済手段としては、金(砂金)を用いられた。
当時日本は、マルコポーロが『東方見聞録』(1299)で日本を黄金の国と紹介したように砂金が豊富だった。これに比べて中国は金をあまり産出せず、金の価値が高かったので、これを使って、それより安い銅銭を輸入したらしい。その方が鋳造コストもかからず、しかも国際的に通用する、ということだったのであろう。一種の金本位制と見る事もできる。
しかし、こうして清盛が切り拓いた貨幣経済は、所領安堵と御恩・奉公の関係で成り立つ武家社会の御家人体制を揺るがすことになった。というのは、鎌倉幕府下の平和の中で貨幣経済はさらに発展し、武士が得た「一所懸命」の土地が、武勇にも忠誠にも関係なく、金で人手に渡るようになったからである。
こうしたことは、何れの国でも同じらしく、「貨幣経済に突入したときに、想像を絶するような勢いで、土地に密着した平面的な、いわば二次元的な経済をなぎ倒していく」というようなことになるらしい。
そして、日本におけるこうした貨幣経済の発展は、清盛が宋銭を輸入してからわずか一世紀足らずで、原初的な銀行や貸し金業というべき「無尽」を出現させた。そうなると、金を借りるために土地を「質」に入れ、その借金返済ができず土地を手放す「無足の御家人」を発生させることになった。
こうなると、その土地からの租税収入や、「所領安堵」という御恩・奉公関係で成り立っている幕府の統治基盤が掘り崩されることになる。そこで幕府は暦仁二年(1239)に一定範囲での貨幣の流通を禁止した。
しかし、貨幣の浸透はやまない。鎌倉幕府の所領相続は「貞永式目」により分割相続で、分与された小所領をもとに開墾が進められ、その広大な土地を惣領が統率すことで「一族郎党」が形成されていた。だが、ここに貨幣経済が入ってくることで土地の所有関係が、個人的な売買の対象になる。これが幕府の惣領制を有名無実化した。
こうして、惣領制に代わって、一族とは無関係な、国人同士の相互契約でまとまる「一揆集団」が出現することになった。そして、そこにおける議決方式は、「全員平等で、全員か合議して規約の案文をつくり、それに従うことを個人の決断で議決」するという、一揆方式になった。ここには、延暦寺の「大衆詮議」以来の一揆方式が反映したと考えられるという。
その後、こうして「一揆」でまとまった国人集団が、幕府に任命された守護に代わって領国経営をするようになる。しかし、この場合の一揆におけるリーダーの資格は、一に「能力」によることになり、ここに、地縁、血縁とは無関係な、実力主義に基づく「下剋上」の世界が現出することになったのである。
こうした日本の歴史と対照的なのが、韓国で、「李朝時代においては、王国を創建(1392)して以来、およそ二百五十年の間は」貨幣の通用が定着しなかった」という。これが、同じ儒教文化圏の中にありながら日本の歴史とは全く異なる点で、こうした観点から韓国文化を見る必要がある。

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