山本七平学のすすめ ホームへ戻る

山本七平語録

ホーム > 語録 >聖書学

聖書学

論題 引用文 コメント
キリスト教への胎動(一)――ユダヤ教の三派
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p159~168
ヘレニズム化とユダヤ人の信仰
 新約の発端をどこに求めるか。おもしろいことに「新約はアレクサンドロス大王にはじまる」という言葉がある。確かに全東方のヘレニズム化か七十人訳聖書を生み出し、これがギリシア語世界への旧約の進出となって、新約への足がかりをつくったことは否定できない。しかしその前のエズラとネヘミヤの時代から新約の前期がはじまっていたとみるべきであろう。「革命思想の原点」でのべたように、ネヘミヤの改革によって神殿中心の律法体制が確立し、エズラによる民衆の宗教意識の高揚と、シナゴーグによる教育があって、祭司侯国ともいわれる律法体制が確立した。そしてその体制が外国勢力によっておびやかされ、大きな試練を受けたのがアレクサンドロス大王の後継者の時代である。そして後述するようにこの試練を乗り越えたことが、イスラエルにおける律法体制の絶対化を生み出した。
 マケドニアのアレクサンドロスがペルシアに攻め入ったのは、紀元前三三四年。このとき二十万のペルシアの大軍に対して、わずか三万の手勢だったという。
 伝承によれば、山が海岸に迫った非常に狭いイススというところの一戦でペルシア軍は壊滅し、その結果、マケドニアの覇権は確立し、ヘレニズム体制となった。アレクサンドロス大王の大きな特徴は、それがたんなる征服でなく、ヘレニズムを世界秩序にしようとしたことである。
 しかし、その国は彼の死後、後継者同士の争いで統一を失って分裂する。パレスチナの付近は、セレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの二勢力が併立し、その中間にあってパレスチナは、ときにはエジプト側、ときにはシリア側の支配下に置かれた。  全東方のヘレニズム化がアレクサンドロス大王の課題だったが、これがセレウコス朝シリアによってパレスチナでとくに強く推し進められたのは、シリアのアンティオコス四世エピファネースという王が即位してからである。エピファネースというのは「顕現する」という意味で、アンティオコス家の顕現王ということになるが、当時の人びとはエピマネース、つまり狂人王と呼んでいた。
 若いころ、人質としてローマにあり、ローマで教育を受けて、ヘレニズムの絶対的信奉者となり、それだけに、ユダヤ人を完全にヘレニズム化しようとした。
 彼はエルサレムの神殿を占領して、ここにゼウスの像を建て、ユダヤ人がもっとも嫌った豚を捧げるようなことまでした。また律法に従う者を徹底的に弾圧し迫害した。たとえば、割礼を禁止し、これを破った場合はまずその幼児を殺し、その屍体を母の首にかけて母も殺すという残虐なことまでした。
 ユダヤ人の上層部は相当にヘレニズム化しており、この政策に迎合する者もあった。しかし、地方の人びとは強くこれに反発し、そのため、紀元前一六七年に起きたのが、マカバイの反乱である。旧約外典のマカバイ記は、この反乱と、その成功によるマカバイ朝(ハスモン朝)の成立について記している。
 マカバイ記その他の旧約外典は、このヘレニズム時代からローマ時代にかけて、ギリシア語で書かれたもので、歴史的にも思想的にも旧約と新約の間をつなぐ内容を持っている。ヘレニズムと、それに対する抵抗の中で、新約への胎動ははじまっていた。

前二~一世紀ごろのユダヤの生活
(前略)
 紀元前163年にアンティオコス四世エピファネースが死に、シリアの衰退に乗じて、次の王デメトリオス二世のとき、マカバイ家は、シリアを一方では立てながら実質的に独立をかちとり、ローマとも正式の外交関係を確立した。これが現在のイスラエル国成立以前の、、ユダヤ人最後の独立国である。しかし完全な独立はその子ヨハネ・ヒルカノス一世のとき前129年とする学者もいる。
(中略)
 紀元前63年に、ポンペイウスによってエルサレムを占領され、こんどはローマの勢力下に入る。ローマの勢力下にはってからも、ローマとの半ば従属、半ば同盟のような形でユダヤ王朝はつづき、このマカバイ家最後の王女マリアンメと結婚したのが、ヘロデである。彼はイドマヤの豪族の出で、彼の父はマカバイ朝の宮宰であった。彼が激烈な政争のすえ王権を確立したのが紀元前37年で、紀元前4年に死ぬまで王位にあった。イエスは彼の治世に生まれているから、だいたい紀元前七~六年とみてよい。(後略)

ユダヤ教の中の三派の違い
(前略)
 マカバイ王朝が独立を回復した後、ユダヤ教内の党派として成立したのが、前述のように、パリサイ、サドカイ、エッセネの三派である。教派としての成立時期についてはいろいろ説があるが、だいたい紀元前二一〇年から一〇〇年ごろとみてよいであろう。
 このなかで、ディアスポラのユダヤ人に勢力をもっていたのはパリサイ派で、これは会堂と学校を押えていたからである。彼らは外国でも会堂を宗教と日常生活の中心とし、外国人の改宗者も受け入れていた。後のこのディアスポラ・ユダヤ教が、キリスト教の母体の一つとなった。
 三派のうち、サドカイ派がいちばん保守的で、トーラーすなわちモーセの五書以外は認めようとしなかった。彼らは神殿貴族として民衆から遊離しており、民衆への影響力はあまりなかった。しかし前記の「ベン・シラの知恵」はサドカイ派の著作と思われる。
 わかりにくかったのはエッセネ派だが、一九四七年に死海の北岸クムランの洞窟でアラブ人の牧童が偶然発見した「死海写本」の中のクムラン文書と、エッセネ派の関係が指摘され、脚光を浴びるようになった。(中略)
 それらに従うと、エッセネ派の人びとはエルサレムの神殿の権威を否認し、死海の沿岸で一種の僧院体制をとっていた。最近、考古学者ヤディンが発表した「神殿写本」もこのことを裏づけている。(中略)
 最後はパリサイ派だが、会堂を支配していたのが、前述のようにこの派の人びとである。彼らは口伝の律法注解をローラーと同じ程度に重んじ、権威づけていた。この口伝を文書としてまとめたのが、前に述べたようにミシュナであり、これがタルムードの中心である。

神は身近に存在する
(前略)
 一世紀のユダヤ人は確かにヘレニズムの影響は強くうけていたが、ギリシア人のような世界観を持っていたわけでなく、世界と生活を神からとらえようとしていた点では基本的に変りはない。「生ける神」の存在は、教派にかかわりなくユダヤ教の大前提で、この神は人間の理性の探究でなく、神からの啓示で知られると考えた。この点では、歴史家のヨセフスも哲学者のフィロンもラビたちも基本的には変りはない。
 その神は全能、神聖、遍在、超越、創造の神であるとともに、自分たちの身近に臨在している神であった。臨在の原意は「住む」であり、その臨在は「神からの霊」で、これは創世記以来の考え方であり、新約聖書にも死海文書にもこの考え方はきわめて顕著に表われている。
 また天使論も神の遍在を示すものとして、パリサイ派にもエッセネ派にも受け入れられていた。ただサドカイ派はこれを否定している。この天使の存在は、黙示文学や死海文書で、人間に身近なものとして記されている。
 いわば神は一方では超越的・絶対的なものとして、同時に常に身近に臨在するものとして、また「われらの父」として個人的、さらに「われらの王」としてイスラエルに愛をもって臨在するものと受けとられていた。(中略)
 そしてこの共通性がキリスト教の母体であった。一世紀のユダヤ教、とくにパリサイ派は新約聖書から強く批判されているので、両者が絶対的に対立するものと受けとられやすいが、その母体はともに旧約聖書で共通の基盤に立っていることは見逃してはならないであろう。

キリスト教は何から生まれたか
(前略)
 結局、キリスト教の母体は三派のどれか。やはりパリサイ派を中心とみるべきであろう。キリスト教の基本的な発想は三派の中ではパリサイ派にもっとも近い。
 サドカイ派では、来世とか救世主ということがいっさい否定されている。メシア思想のないところには、キリスト教は成り立ちようがないだろう。
 エッセネ派は、いわゆる「イスラエルの残れる者」という旧約の伝統に忠実な立場をとっている。終末のとき、異邦人から離れて自分たちだけが正しい状態を保っていればいいという考え方が基本になり、世俗の中での生活は基本的に否定しているから、キリスト教のように、民衆の中に入っていくという発想にはほど遠い。さらに前述した神殿への徹底的な否定的態度などは、イエスやパウロと基本的に違う。イエスの弟ヤコブを中心にした最初のエルサレムの母教会は、神殿の中にあり、はじめはここがキリスト教会の中心であった。これらの点では基本的には異なるが、しかしエッセネ派の影響がさまざまな面にあったことも否定できない。
 しかし全体的にみると、サドカイ派はもちろんエッセネ派も、広くローマ世界に広がっていくことのできたキリスト教の「母体」としては、どうしてもふさわしいものとは考えられないのである。
キリスト教への胎動(二)――黙示文学と朱抹論と救済者
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p169~175
黙示文学の見方、考え方
 聖書の中には、黙示文学として分類される書がある。イザヤ書第二十四~二十七章や、ゼカリヤ書第九~十四章も黙示文学で、エゼキエル書も黙示的だが、黙示文学として完結しているものは旧約ではダユエル書、新約ではヨハネの黙示録である。
 日本人にとっていちばん親しみにくいのが、この黙示文学だろう。難解という反面、どうにでも解釈できるという一面を持っている。だから、ダニエル書やヨハネの黙示録の通俗的注解書は非常に多い。
 ダニエル書は、紀元前一六七年ごろに書かれたというのが定説である。その書き方は非常におもしろく、四百年近くも昔のバビロン捕囚時代に筆者の目を戻して、そこから未来を見るというかたちで書いている。これは日本人にない発想で、たいへんわかりにくい。「過去というのは人間にとって精神にすぎない」といったのはポール・ヴァレリーだが、確かに過去は人間か触れることのできないものだから、それは人間のひとつの精神にすぎないといえる。とすれば、自分がその過去に戻って、そこから歴史を未来として見たらどう見えるだろうかという発想が出てきても、少しも不思議ではない。
想である。
(中略)
 もっとも、結果としてこのような見方が出てきたのは、歴史的な理由がある。前述のように当時は「預言者は眠りについてしまった」という考え方がユダヤ教の中にあり、そのため、古代の預言者の名に仮託して記すという必要が生じたためと思われる。したがって黙示文学者は、黙示文学というかたちで預言を伝えようとしたといえるであろう。
 そしてその完結した作品であるダユエル書が書かれたのは、前述のアンティオコス四世エピファネースの時代であった。したがってこの書を「旧約の終りで、新約のはじまり」と呼ぶ人もいる。この時代の黙示文学には、ダエエル書の他に、外典のエノク書、十二族長の遺訓、第四エズラ書、バルクの黙示録などがあり、死海写本の中にもこの傾向に属する文書がある。
 黙示文学は一種の預言書だと記したが、それは預言書と完全に同じだということではない。確かに共通する要素はあるが、その関心はもっぱら終末時に集中し、空想的表象が豊かに用いられている。その材料は伝統というよりむしろ世界的で、当時の諸宗教の神話や天文学、宇宙論などが使われていることである。

メシアの出現と復活の思想
 ではなぜこのような発想が出てきたのか
 義人がなぜ苦しむのかという問題は、ヨブ記に出てくるが、迫害時代は、義人であるがゆえに弾圧を受ける時代である。これは神に従えば恵まれるという発想からみれば、実に矛盾した状態といわねばならない。黙示文学はこれを、この世が一時的に悪に支配され、それゆえに正しい者は弾圧されるが、やがてその破局は全世界に迫り、悪は滅びて神の支配が実現すると考えた。その時が終末である。
 ダユエル書はまた、その終末にこの世を救済する救済者が出現し、エルサレムを再建することを期待した。「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシアなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟れ」(九章二十五節)はそれを意味している。
 さらに「人の子のようなもの」が出現し、天上の「日の老いたる者」(神)のもとに上り、神よりその永遠の国を受けるという考え方が出てきている。この「人の子のような」ものは、後にエノク書によって個人化され、新約時代には一人の超自然的メシアの意味に解されるようになった。
 さらにダエエル書の大きな特徴は、個人の復活という思想が出てきたことである。この考え方はダユエル書にしかない。いわば「義人への迫害とその死」は決してそのままにすまされることでなく、善人も悪人も復活して共に神の審判をうけ、前者は永遠の生命を受け、後者は限りない恥辱をうけるという考え方である。
(中略)
 民族の復活は詩篇やイザヤ書にも、わずかだが出てきている。しかしダユエル書のような考え方はそれまではなかった。  さらに黙示文学の大きな特徴は、その内容からいって、法規よりも語りを重視するかたちになって当然であり、そこで、個々の律法を外面的に正確に守るより、むしろこれを統一的な集大成とみて、内面における信仰の重要性に重点がおかれるようになった。
 ビートンという学者は、このような考え方のほうが、むしろ当時のユダヤ教の主流であったとみている。復活否定は伝統的なユダヤ教の教義であったが、ダユエル書以後はむしろ肯定が主流で、保守的なサドカイ派はこれを否定したが、パリサイ派はこれを肯定する立場に立っていた。
 黙示文学は正統的なユダヤ教とは相当に違った位置にあり、そのためダユエル書以外の黙示文学は後にユダヤ教から排除されてキリスト教に受け継がれる結果となった。そのため今日まで残るユダヤ教の黙示文学は、キリスト教会によって現代に伝えられている。
キリスト教への胎動(三)――洗礼運動とガリラヤの風土
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p176~182
キリスト教と暦の関係
 ユダヤ教三派の中で、一番進歩的で柔軟性があったのは、パリサイ派だった。精霊、天使、復活、救済者という考え方を持ち、会堂を中心としながらも神殿を否定せず、民衆の中に積極的に入っていって,海外のユダヤ人にも伝道していた。
 この点では、三派の中で、キリスト教徒も最も多くの共通性性をもち、キリスト教の重要な母体となったのは、パリサイ派と考えてよい。これは使っていた暦を見てもわかる。(後略)

キリスト教における洗礼者ヨハネの位置
 上記のようにみれば、新約聖書の中でもっとも対立的であるパリサイ派の考え方が、むしろキリスト教思想の母体となっているとみるのが、いちばん妥当といえるであろう。
 ただ、パリサイ派も、何派にも分れていたようで、それを一口にパリサイ派といってしまうのは問題があるであろう。
 そのさまざまな派の中に、パリサイオーンーバプテスタイという一派があったと考えられている。洗礼パリサイ派とでも訳せばいいであろうか。
(中略)
 洗礼といえば、四つの福音書すべてに出てくる洗礼者ヨハネを思い浮べる人も多いだろう。
 この洗礼者ヨハネは、エッセネ派系統の人と思われる。しかし明らかエエッセネ派そのものではない。というのは同じ洗礼といってもクムランとヨハネとでは非常に違うからである。そのおもな違いをあげればヨハネは、(一)一般人に呼びかけ、(二)準備期間はなく、(三)一回きりで、クムランのようにくり返し行う清めの儀式でない。これが非常に特異であったため、「洗礼者」と呼ばれたのではないかという説もある。
(中略)
 いずれにしても、洗礼者ヨハネがイエスの先駆者的存在だったことは、全福音書が認めるところで、これがキリスト教の母体の一つになっていることは間違いないだろう。
 しかし、宗教史的に見て、キリスト教発生の大きな母体というべきものは、ガリラヤという独特な風上である。洗礼者ヨハネが活動したのもガリラヤであり、イエスも生涯の大部分をガリラヤで送っている。ガリラヤはキリスト教のふるさとと呼ぶことができる。

過激派を生んだ温和な辺境ガリラヤ
ガリラヤという呼び名は預言者イザヤ以来のもので、もとになるガリル(地)はガリルーハ・ゴイム「異教徒の地」であり、その略称が「ガリルの地」すなわちガリラヤである。
・・・いずれにしても、ガリルーハーゴイムといういい方は、エルサレムからみて異教の地、正式にはユダヤ教の圏内には入れにくいという意識から、「辺境」を意味してつけられたと思われる。すなわち「異教徒のガリラヤ」である。この呼び方は後のユダヤ教文書にも出てきており、「非正統的」「異端的」といったある種の偏見をもってみられていた。
(中略)
 また、ガリラヤ人は決して温和ではなく、温和な思想をもっていたともいえない。気候や風土は確かに温和だが、ユダヤ教の中の最大の過激派は、このガリラヤから出ており、「すべて革命運動でローマ人たちをゆるがした者は、みなガリラヤから出ている」と聖書学者ドブノヴは記している。理由はおそらく辺境とみられていたためで、辺境がしばしば、中央より徹底していくのは多くの歴史にみられる一つの傾向であろう。
(中略)
 イエスはそういう土地で育ち、その智に登場し、「ラビ」と呼ばれ、そこを主要な活動の場とした。ガリラヤの気候風土が温和だから、イエスは温和だったと、簡単にはいい切れない。いわば彼は、当時の人にとっては「ガリラヤのラビ」であったのだ。このことは、決して無私できない要素である。
(聖書における)民族主義と普遍主義
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p183~186
 新約聖書は以上のような流れの上に成立したもので、旧約聖書を無視しては新約聖書は理解できない。というのは新約に表われるさまざまの概念は、すでにのべてきたように、旧約に由来しているからである。
 ではその新約聖書はどのような構成になり、いつごろに成立したものなのであろうか。
 冒頭で記したように新約は二十七の文書からなり、四福音書、使徒行伝、パウロの名の手紙十三、その他の手紙または手紙形式の文書八、ヨハネの黙示録に分けることができる。
 全体としては、紀元一世紀の中ごろから二世紀の中ごろの約百年の間に書かれ、場所はだいたい地中海東部の沿岸地帯、パウロの手紙はエーゲ海周辺とみてよい。
 このように新約は、旧約と比べればその成立期間が短く、構成も単純だといえる。しかし地域的にはるかに広く、エルサレムからローマに及んでいて広い国際性を有し、当時のさまざまな思想との接触・対応があるので、この面では複雑といわなければならない。
 以上のことから新約思想の特徴をとらえれば、普遍主義もしくは世界主義ということである。ただ、民族という意識をつき抜けたかたちの世界的という発想の萌芽はすでに旧約聖書にもある。それも、かなり古い時代からあるといわねばならない。
(中略)
 新約になると、この意識はいっそう強くなる。しかし、当時の世界という概念は、今ほど広いものではない。漠然とエチオピアからペルシャまでは具体的にまたときには象徴的意味で入っているが、はつきりと世界として意識されているのは、新約時代にはむしろローマ圏であろう。といっても、世界という意識は、決してそれに限定されず地域的な視野が広がるのに従って、広がっている。
 旧約の思想を民族主義的に狭くしたのは、むしろラビーユダヤ教であろう。新約以前のマカバイ期のころ、言語はヘブライ語であれ、アラム語であれ、ギリシア語であれ、何を用いてもいいという時代もあったのだが、紀元六六年のユダヤ戦争以降、民族的な危機感から、ユダヤ人が国家主義的、民族主義的になっていった。これにはキリスト教との対立も大きく作用しており、そこから、旧約聖書を民族主義的に理解するという傾向が出てきている。
(中略)
 しかし、普遍主義的であるだけにその思想も表現も複雑であり、そこで、三のんに重要な登場人物を通じてこれを眺めてみたいと思う。というのは旧約と違って新約には、イエス、パウロ、ヨハネという主役がおり、全ての記述はこの主役を中心としているといっても過言ではないからである。そしてこの三人の中の主役はだれかといえば、それはいうまでもなくイエスである。
イエスの生年月日は紀元元年のクリスマスではない
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p188~190
 イエスの生年月日は西暦紀元元年の十二月二十五日、すなわちクリスマスと思っている人が案外に多いかもしれない。  西暦を作ったのは、スクテヤ人の修道僧ディオニシウスーエクシグスである。彼が五三三年に、キリスト紀元のはじまりを確定しようとしたとき、大きな誤りをおかした。紀元前一年と紀元一年の間にゼ口年を挟むことを忘れ、ローマ皇帝アウグストスと次のティベリウス帝との共同統治期間の四年間を見逃してしまった。
 そして、イエス誕生の年について、福音書がはっきりとこう記述していることも見逃した。すなわち「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき……」(マタイによる福音書二章一節)。
 ヘロデの統治期間は、前述のように、紀元前三七年から前四年で、この年に死んでいるのだから、イエスが生れたのは紀元前四年以前でなければならない。現在では、紀元前六年というのがほぼ定説である。
 ではエクシグスは何を基準としたのであろう。彼は、ルカによる福音書の「皇帝ティベリウス在位の第十五年……に神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネ(洗礼者)に臨んだ」。そこでイエスが洗礼をうけ、「宣教をはじめられたのは年およそ三十歳の時」という記述を基にした。
 彼は「およそ三十歳」を「ちょうど三十歳」とし、ティベリウス帝の「在位の十五年」をアウグストス帝の死後十五年とみた。こうみるとアウグストス帝の死の十五年前にイエスはゼロ歳だったことになる。
 だが当時の「在位」とはアウグストの称号を付与されたときから計算する。ティベリウス帝はアウグストス帝の死の四年前にアウグストの称号を付与されているから、これを修正すれば紀元前四年になる。そして「およそ三十歳」を三十二、三歳とすると、紀元前六、七年になるが、さまざまな点から、六年がもっとも合理的と思われる。
 さらに十二月二十五日だが、古代ローマでは農業神を祝う祭典サトルナリア祭が十二月十七日から一週間つづき、キリスト教と覇権を争ったミトラス教では太陽神を祝う祭日が十二月二十五日であった。
 この祭日をキリスト教化して「義の太陽」イエス・キリストの誕生を祝う日にしたのが、クリスマスの起源といわれている。
 ルカによる福音書には、イエス誕生の夜、「この地方で羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」(二章八節)と記されている。
 現在でもこのあたりは十二月から二月までの三ヵ月、霜が下り雪が降る寒さで、気象学者によると、この気候は過去二千年間、変化はないという。この季節に霜でおおわれたベツレヘムで家畜を野に出すようなことはしない。このことは、タルムードをみてもわかり、この地方では、家畜を三月に野に出し、十一月のはじめに連れ戻すのが普通である。現在でも、十二月には野に羊は出ていない。
 このことから、「羊飼いたちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた」というイエスの誕生の夜は、十一月以前であらねばならない。
 紀元一五〇年ごろ、アレクサンドリアのクレメンスはイエスの生誕を六月ごろと推定している。この推定はおそらく正しいであろう。
(中略)
 さらに前に記した「星」と「人口調査」だが、この人口調査がヨセフとマリアがベツレヘムに行った理由とされている。また「星」では、紀元前七年の土星と木星の相合が三回起ったことは明らかで、これは、七九四年にI回しか起らない珍しい現象だから、人びとの記憶にこの現象とイエスの生誕が結びついても不思議ではない。さらに民数記には「ヤコブから一つの星が出……」という文章があって、これがイスラエルの救済者とされているから、「イエスーメシアー星」という連想があって不思議ではない。このことは直接の証明にはならないが、紀元六、七年を否定する材料はない。
 また出生地も明確でない。多くの学者は「ベツレヘム」で生れたという記述に疑問をもっている。というのは、旧約のミカ書の「しかしベツレヘムーエフラタよ、あなたはユダの民族の中で小さい者だが、イスラエルを治める者があなたの中から、私のために出る」という言葉をイエス生誕の予一言として受け取ったためであろうといわれる。しかし、ベツレヘムでないと、積極的に否定できる資料があるわけでもない。
イエスに似た人物の同時代の記録
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p194~196
 「見よ、私はきょうもあすも、悪霊を追い出し、また、病気をいやし……」(ルカによる福音書十三章三十二節)「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。私か来だのは、義人を招くためでなく、罪人を招くためである」(マルコによる福音書二章十七節)
 これらの言葉に示されるイエスの基本的性格は福音書に共通している。このイエスの働きは]」肉体の病気をいやすこと、口悪霊につかれたものの悪霊祓いをすること、曰罪ある人に罪の赦しを与えることになる。
 そして当時の考え方ではこの三つは関連をもっていた。というのは、イエスの時代には、悪霊は罪の源だけでなく、病気の源とも信じられていたからである。これはイランの宗教がユダヤ人の宗教思想に与えた影響であるともいわれる。
 そしてイエス時代のユダヤ教には二系統のラビがいた。一つは、律法的ラビであり、その性格はいまの言葉でいえば法律学者に近い。そしてもう一つが、カリスマ的ラビで、イエスについて記されていることは、基本的にはカリスマ的ラビのことである。当時はカリスマ的ユダヤ教もまた、律法的ユダヤ教とともに併存していたが、後にこれはユダヤ教の伝続から消えてしまった。
 カリスマ的ユダヤ教は決して主流ではなく、同時にガリラヤ派もまた主流ではなかった。タルムードにはガリラヤ人への差別の言葉が多く記されており、またカリスマ的ラビは、律法的ラビより一段と低い者のように扱われている。
 これが、おそらくイエスの置かれた社会的位置であり、彼が身を置いたのは明らかにガリラヤ人のカリスマ的ラビである。このイエスと、同じような立場にある「新約聖書に登場しない」人物を探すと、それはタルムードに記されているラビーハニナーベン・ドーザなのである。
 前記のヴェルメシュは、ラビーハニナは紀元七〇年以前に活躍したと推定している。というのはその記述では、ユダヤ戦争を思わせるものがまったくないからである。こうみてくると、イエスとハニナは、同じ世紀、同じガリラヤ人で、同じカリスマ的ユダヤ教の系統で、同じような悪霊祓い、病気のいやしを行なっており、両者への記述は確かに類似したものが多い。
(中略)
 以上のことは、同時代の人にとっては、イエスが、カリスマ的ユダヤ教の系統に属する、ガリラヤ出身のカリスマ的ラビであったことを示している。もちろんこのことは、イエスとハニナが、まったく同類の人だということではない。
 確かに「イエスの倫理的規定の中には、他のいかなるヘブルの倫理規定に対しても、比較に絶した形態をもった荘重さ、明確さ、そして独創性がある。彼の讐のすばらしい技巧に対しては、これに比肩しうるものはどこにもない」(クラウスナー)といえる。この点ではイエスは確かに独自性をもっており、ラビーハニナと同じだとはいえない。
 しかし同時にイエスは、当時のユダヤ教という枠組みの中では理解できないといったような存在ではい。彼の姿は、あくまでも、紀元一世紀のガリラヤのカリスマ的ユダヤ教という宗教的背景の中でみ、はじめて正確に把握できるのである。
新約聖書の中のイエス
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p197~206
三十歳のイエス像
 前記のように多くの留保を必要とするが、それを考慮に入れつつ、ここで、四福音書に記されているイエスの生涯の跡をたどってみよう。
 三十歳すぎてから公的生涯に入る以前のイエスについては、信頼しうる正確な記録はほとんどないといってよい。前述のようにその履歴書は「生年月日 記述なし。学歴 記述なし。職歴 記述なし」なのである。
 しかし、イエスの語った讐話から、彼がどのような生活を体験してきたかは推定できる。すなわち「私のくびきは負いやすい」(マタイによる福音書十一章三十節)こと、目に入る木くずや梁のこと(七章三節)、また家の土台が大切なこと(七章二十五節)、棟梁の技術を経験を通して学ぶこと(十一章二十九節)、建築には資金の計算が必要なこと(ルカによる福音書十四章二十八節)、棟梁と弟子の関係(六章四十節)、これらはイエスが大工であったことを示しているであろう。
 また一枚の銀貨で大騒ぎして家中をひっくりかえして探すこと(ルカによる福音書十五章八節)、夜中の来客に出すパンがなく隣に借りに行くこと(十一章五節)、古い着物につぎをあてること(マルコによる福音書二章二十一節)は、おそらく自らの生活経験からでたことで、これはその家が極貧とはいえないまでも、決して富裕でなかったことを示している。
 そのイエスは三十歳を少しすぎて、洗礼者ヨハネから洗礼をうけ、神に愛される者として召命をうけ、のしもべとして仕えて行くべき者としての自覚を生み(マルコによる福音書一章十一節)、家業にもどら、宣教に乗り出すことになった。これは紀元二八年ごろと推定される。
 マルコによる福音書は、イエスが受洗後ただちにユダの荒野でサタンの誘惑をうけたことを記し、Q資料(マタイとルカの四章)は、荒野と高い山と神殿での誘惑を記している。これはイエスの生涯で三つの危機的時期における内的体験を示すもので、一時期に起ったものではあるまい。四十日の断食後の誘惑の主題は、パンの問題であり、民衆救済のためなすべきことは、食を与えることではないかという問いかけである。
 これに対するイエスの答は有名な「人はパンのみにて生きる者にあらず」で、これは中命記第八章三節の引用である。そしてそれにつづく「神の口を通じて出る一つ一つの言葉で生きる」は、イエスの活動の基本方針の確定であっただろう。
 その初期の活動は、ヨハネの洗礼運動の一翼としてなされた(ヨハネによる福音書三章二十二節以下)が、ヨハネの周囲に人びとが集まるのを危険と感じたガリラヤの領主ヘロデーアンテパスは、彼を捕えて投獄した。そこでイエスはガリラヤに戻り、独自の宣教活動に入ったものと思われる。
 その状態をマルコによる福音書を主軸として記すと、次のようになるであろう。

洗礼後のイエスの行動
(一)ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、「神の国を宣べ伝えていった、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて罪のゆるしを得よ』」。この言葉を前記のダユエル書との関連で理解すれば、地上の権力者の支配は終末に近づき、神の支配の時が近づいている。そのために各人が準備せよ、ということになる。イエスの真意は別にあったとしても当時の人びとはそう理解したであろう。
(二)「それから彼らはカペナウムに行った。そして安息日(複数)にすぐ、イエスは会堂に入って教えた。人びとは、その教えに驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えたからである。……こうしてイエスのうわさは、……いたる所にひろまった。……夕暮れになり日が沈むと、人びとは病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのところへ連れてきた。……イエスはさまざまの病をわずらっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出した」
 ここに描かれているのは、前記のハニナと非常によく似たカリスマ的ラビの姿である。イエスも彼も、外面的な律法的規定には無関心であり、罪の赦しと病気の治癒とは関連をもっている。
 しかしここにすでに問題が現われている。イエスは「権威ある者のように教えた」のであるが、当時は「権威」は旧約聖書にあり、人に許されているのはその敷術的な解釈と、それに準拠した口伝律法を教えることだけであった。
 しかしイエスは平然と「(旧約聖書には)こう記されている。しかし私はこういう」という言葉を口にしている。いわば、旧約聖書の言より自分の言が権威があるのであって、これは当時は考えられないことであった。否、当時だけでなく、現代でも、イスラム世界でこのようなこと、たとえば「コーランにはこう記されている。しかし私はこういう」と、自分の言をコーランより権威あるもののごとくにいうことは許されない。これは新しい正統性の創出になり、伝統的体制の基本をくつがえすことになるからである。
(三)「そして、ガリラヤ全地を巡り歩いて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出した」。以上のようなことをガリラヤでいえば当然に会堂から追い出されることになるであろう。そこでイエスの宣教の場は、野外にならざるを得なかった。
(四)そこで「イエスが海べに出て行くと、多くの人がみもとに集まってきたので、彼らに教えた」。ついでマルコは、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダンの東、ツロ、シドンのあたりからも人びとが来て、大群衆になったと記している。病苦に悩む者が、イェスにふれようと迫ってきたので、イエスは身動きができるように小舟を用意させた。「また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んでいった、『あなたこそ神の子です』」
 この描写はおおげさに思われやすいが、必ずしもそうはいえない。当時はすべての人がローマの圧政に苦しみ、この「時」の終末を待ち望み、救済者の出現を期待していた。他の人が起した同じような状態は、聖書にも同時代の他の資料にも出てくる。
 同時に、ローマおよび支配階級にとっては、これはつねに警戒すべき事態の前兆であった。とくにガリラヤでは、ユダの乱(紀元六年)、預言者と称したチウダの乱(紀元四四年?)などがあり、過激派の巣であったから警戒されていた。また四千人の群衆をつれて反乱を起したエジプト出のユダヤ人のことが使徒行伝に出てくる。
(五)「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せたので、彼らはみもとに来た。そこで十二人をお立てになった」。ヨハネによる福音書には、「イエスは人びとが来て自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた」とあるが、おそらくこれがその理由であろう。
 これが群衆を失望させた。ヨハネによる福音書は「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」と記している。無理もない。彼らは、いまの体制の終末が近づき「神の国(支配)は近づいた」という言葉をイエスから聞いており、それをいまの圧政からの解放と受けとっていたからである。
(六)・・・しかし多くの人が集まったことが、領主ヘロデーアンテパスを警戒させた。 イエスに好意をもっものがこれをイェスにつげ、ガリラヤを去るようにいった。これに対してイエスは次のようにいった。  「あの狐(ヘロデーアンテパス)のところへ行ってこういえ、『見よ、私は今日も明日も悪霊を追い出し、また病気をいやし、なおしばらくはガリラヤで私のわざをつづけるが、数日後にここを立ち去るであろう。私は進んで行かねばならない。預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはあり得ない』」(ルカによる福音書十三章三十三節以下)。いわばイエスはこのとき、エルサレムの宗教家だちとの対決を決意していた。
(七)こうしてイエスはガリラヤの湖岸から、北部の、人目につかない山岳地帯に入った。ここで弟子たちを訓練してガリラヤの各地に送った。彼らはおおいに働き、悪霊を追い出し、病人をいやして意気揚々と帰って来た(マルコによる福音書六章十二~十三節・三十節)。ここでイエスはさらに北上し、ツロの地へ行った。このときイエスは弟子たちに「人びとは、私を、だれといっているか」とたずねた。ある者は「洗礼者ヨハネのよみがえり」だといい、またある者は「エリヤの再来だ」といい、また「預言者の一人だ」という者もいた。そこでイエスは弟子たちにお前たちはどう思うかとたずねた。これに対してヘテロは「あなたこそメシア(=キリスト)です」と答えた。
 イエスは喜んだ。しかし「自分のことをだれにもいってはいけない」(八章三十節)といった。民衆はメシアを、ユダヤをローマから解放して繁栄をもたらしてくれる王と信じていたからである。やがてイエスは弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受ける」といった。弟子たちも驚いた。イエスは弟子を叱り、三人の弟子だけをつれて山に登った。イエスはここで祈り、その変貌に弟子たちは驚いた。
(八)そこからイエスの一行はユダヤに向けて出発した。イエスのユダヤでの活動は、ヨハネによる福音書では二回の過越の祭りにまたがる約一年間と見ることもできる。しかしこの確定はむずかしい。この間イエスは宮の中で、ベテスダの池で、時には路上で説教をした。従う人もいたが反発も起った。「多くの人びとは、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた」(ヨハネによる福音書二章二十三節)、「ユダヤ人たちは……イエスを殺そうと計るようになった」(五章十八節)、「イエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった」(七章三十節・四十四節)、「石をとってイエスに投げつけようとした」(八章五十九節)、「イエスを捕えようとしたが……のがれて、去って行かれた」(十章三十九節)、「この日からイエスを殺そうと相談した」午一章五十三節)等はその間の事情を示しているであろう。
(九)イエスの受難と死は、詳しく聖書に記されているので、その概略は、相当に正確につかめる。それは紀元三〇年四月二日にはじまる。アンニージョベール女史の整理した日程表に従うと次のようになるであろう。

四月二日 日曜日
 イエスはまずベタニヤの村に入り、そこから行列をつくってエルサレムの神殿に入った。「イエスがエルサレムに入って行かれたとき町中がこぞって騒ぎ立ち『これは、いったい、どなただろう』といった。そこで群衆は『この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである』といった。イエスは群がる人たちに語り、エルサレムの指導者たちと激しく論争して、夜はベタニヤに帰った」(ヨハネによる福音書十二章一~八節・十二節、マルコによる福音書十一章一節)

四月三日 月曜日
 イエスはまたエルサレムに行き、ベタニヤヘ帰った(マルコによる福音書十一章十一節以下)。最後の晩餐からゴルゴタへのイエスの道

四月四日 火曜日
 イエスはエルサレムへ入り、最後の晩餐を祝った。「……一同が席について食事をしているとき(イエスは)いわれた、『特にあなたがたにいっておくが、あなたがたの中のひとりで、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている』……」「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えていわれた。
『取れ、これは私のからだである』。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまたいわれた、『これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である』……」(マルコによる福音書十四章十七節以下)
 イエスはそこからオリブ山へ行き、ゲッセマネという所で祈り、ついでに弟子たちに話しかけた。「イエスがまだ話しておられるうちに十二弟子のひとりのユダが進みよって来た。また祭司長、律法学者、長老だちから送られた群衆も、剣と棒とを持って彼について来た。イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図しておいた。『わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け』」(十四章四十三節以下)
 イエスは捕縛され、まず大祭司アンナスのもとへ引き立てられ、ここで尋問された(ヨハネによる福音書十八章十九節以下)。そこへしのび込んだヘテロが、問いつめられてイエスの弟子であることを否定し(十八章十三節以下)、イエスは祭司長カヤパのもとへ送られた(十八章二十一節以下)。

四月五日 水曜日
 朝、祭司長らの最初の裁判。

四月六日 木曜日
 早朝、祭司長らの第二の裁判とイエスに対する死刑の判決、総督ピラトに引きわたされる(マルコによる福音書十五章一節以下)。ついでイエスはヘロデーアンテパスの前につれ出される(ルカによる福音書二十三章七節以下)。

 四月七日 金曜日
 ピラトの前での第二の尋問。「ピラトは、祭司長たちと役人だちと民衆とを、呼び集めていった、『おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとして、わたしのところへ連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。ヘロデ(・アンテパス)もまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう』。ところが彼らはいっせいに叫んでいった、『その人を殺せ、バラバをゆるしてくれ』。このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投じられていた者である」(ルカによる福音書二十三章十三節以下)
 ついでイェスのむち打ち、茨の戴冠、死刑の宣告(マルコによる福音書十五章十五節以下)があって、九時にイエスは十字架につけられる(十五章二十五節)。そして、アリマタヤのヨセフがイエスの遺体をうけとり、日没前にこれを埋葬した(十五章四十二節以下)。

 四月八日 土曜日(安息日)

 四月九日 日曜日  三人の女がイエスに香料を塗るため墓に出かける。ところが墓石はすでに動かされていた。
 墓の中に入ると、右手にまっ白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者はイエスは復活してガリラヤに行ったといった。「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして人には何もいわなかった。恐ろしかったからである」(マルコによる福音書十六章八節)
 マルコによる福音書の記事は、以上の「空虚の墓」の記述で、唐突に終っている。現代の聖書にはそのあとに復活についての短い記述がカッコつきであるが、これは後人の加筆である。いったいなぜ、このようなかたちで終っているのか、さまざまな説があるが明らかではない。
イエスはなぜ殺されたか
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p206~209
 前に、旧約聖書には大きく分けて律法と預言の二つの流れがあり、律法の伝統を守るのがユダヤ教的、預言の精神を継承しているのがキリスト教的とのべた。もちろん、簡単にこう要約すれば問題があるが、一応そう理解すれば、特徴がつかめる。
 預言と律法とは、相対立するものではなく、律法で固定化された人と神との関係に預言は「歴史」という発想から契約更改の契機を与え、同時に活力を取り戻させる。すなわち神と人との関係を、人を拘束する律法だけではなく、それを越えて直接的に結びつける、つまり、神の直接的なことばは律法を通じなくてもある、とする立場になければ、預言という考え方は出てこない。
 まさしく「神のことば」として現われたイエスが、当時の律法体制、律法絶対主義と対立したのは当然である。個々のイエスの教えには、パリサイ派はとくに反対する要素はないはずだが、律法遵守のみとするか否かではパリサイ派と徹底的に対立する。対立するから、この面でのイエスの批判攻撃もまた手きびしい。
 「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたたちはわざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっとも重要な公平とあわれみと忠実を見のがしている」。これが彼らに対するイエスの言葉である(マタイによる福音書二十三章二十三節)。
 前述のようにイエスは、エルサレム神殿の祭司長や律法学者、パリサイ人たちの策動によって捕えられ、最終的には総督ピラトの裁きを受けて政治犯として十字架にかけられて殺された。  だが裁判を行なった総督ピラト自身は、イェスになんらローマ帝国に危害を及ぼすような意図を発見できなかった。十字架刑の判決は、民衆の声に動かされたものであり、その民衆を煽動したのが、祭司長、律法学者、パリサイ人であったことは、福音書を読めばわかる。
 ではローマ総督ともあろうものが、なぜこのように群衆を恐れたのか。これは彼の位置が非常に不安定だったからである。当時のローマも一種の派閥政治であり、彼は皇帝側近のセヤヌスの系統の人であつたが、このセヤヌスの位置は危くなっており、紀元三一年に処刑されている。
 またローマは、現地の住民のごたごたにローマがまき込まれることを非常に嫌っており、暴動を起させるような者は、総督としての資格なしとして罷免された。これが官僚の弱い点であろう。
 彼としてみれば、一人が処刑されてそれで平穏が保てるなら、その方をとるのが当然であったし、この点ではカヤパをはじめとする支配階級とも一致していた。
 ということは、判決を下しだのがピラトであっても、実際にこの裁判を進行させてイエスの処刑へと事を進めていったのは、トーラー体制であり、固定化した律法絶対主義と現実の治安であった。トーラー体制と律法絶対主義と社会不安が、それに対して、あくまでも神と人とに直接的結びつきを求めたイエスの存在を許さなかったといえるであろう。
律法を無視したイエスの裁判
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p209~211
 前述のようにイエスの裁判の執行者が、形式的にはローマ、実質的にはユダヤ人トーラー体制派という奇妙な状態なのだが、この問題をユダヤ人側にかぎってみれば、どういうことになるであろうか。
 当時、ユダヤ人は死刑の判決を下すことを非常に嫌っていた。大祭司を議長とする七十人からなる議会、サンヘドリンがはじまって以来、紀元一三五年にユダヤ人の第二の反乱が鎮圧されて、これがなくなるまで、処刑されたのは七人を数えるだけだったという。
 これを伝えるラビーアキバが、「七人でも多すぎる。私ならゼロにしただろう」といっているくらいで、それほど死刑を嫌い、その判決を下すのには慎重をきわめた。
 多数決といっても一票差では処刑は決められず、あくまで二票差以上でなければならない。それもその場で即決というのではなく、一晩おいて、翌日もう一度投票をやり直す。こういう規定が、ミシュナの中で裁判を扱った「サンヘドリン編」に細かく記されている。
 いよいよ処刑というときにも、処刑場から最高法院へ、白い布を持った使者を立てる。そして、もし最高法院に対して再審の要求があった場合は、その白い布を持って処刑場に駆けつける、というように、最後までなるべく死刑が避けられるようになっていた。
 律法のこれらの規定から見ると、イエスの裁判はまったく不思議であり、捕えられたその夜から翌朝までのうちに、最高法院であわただしく裁判が行われ、ローマ総督ピラトのもとに送られている。異常なほど急いで行わねばならぬ理由があったものと思われるが、おそらくそれは、気の変りやすい民衆の動向であったろう。
 最高法院の裁判には、弁護人、検事はいない。告発人が検事を兼ね、証人が弁護人のような役割をする。告発人は刑の執行の責任者にもなるのだから、大変な仕事である。
 告発人は最初に、告発する内容がいっさい伝聞でないことを宣誓しなければならない。この点は実にきびしい。
 また、もし偽証によって死刑の判決を下し、それが明らかになった場合は、偽証者がその罪を負う、つまり死刑の判決は自動的にその偽証者に対するものになるという規定がある。
 イエスの裁判における証言というのは、四福音書にそれぞれ書かれているが、どれも伝聞であり、「サッヘドリン編」はこれを証拠として取り上げることを禁じている。したがって決め手がないのである。
 結局、マルコによる福音書によれば、「おまえはキリストか」という大祭司の問いに、イエスが「私かそれである。あなたたちは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るだろう」と答えると、大祭司は衣を引き裂き「どうして、これ以上、証人の必要があろう。この汚し言を聞いたか。どう思うか」と全議員の意見を求め、死刑と断定したことになっている(十四章六十一土八十四節)。いわばこれがイエスの唯一の直接証言なのである。
 ではこの言葉が本当に当時の律法で神冒涜すなわち涜神罪になるのであろうか。ミシュナによれば「神聖四文字」すなわち「JHWH」の誤用だけが涜神罪になるのであって、イエスの言葉は「現に知らされているユダヤの律法、聖書にあるもの、聖書以後のもの、そのどれに照らしても、涜神罪にふれると解釈することはできない」とヴェルメシュは述べている。
 これらの点からみれば、イエスの死刑そのものが、律法主義すなわち律法によって義が確立するという主張を自ら否定していることになろう。というのは、これを行なった人たちは、律法体制を護持する者と自負していた人だちなのだから――。
キリストとは何か――メシア、人の子、神の子、主
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p213~220
キリストには三つの意味がある
 キリストというのは日本語で、英語ではクライスト、又新約聖書の言葉則ちギリシャ語ではクリーストスである。
 ギリシャ語のクリーストスはクリオーという動詞から出た言葉で、クリオーは「塗油する」という意味。ヘブライ語のマーシア、アラム語のメシアすなわち「油を注がれた者」という意味の訳語である。元来は「メシア」と「キリスト」は同義語である。
(中略)
この受膏者(=メシア=キリスト)のイメージは、イスラエルを敵より解放し、エルサレムから異邦人を一掃してこれを清め、溥儀なる支配者を滅ぼし、罪人を一掃し、神を信じない国民を滅ぼし、正しき王として民に臨む、メシアとしての王なるものの像である。・・・これが当時の通念であり、メシアということばを聞けば当時に人は当然のこととして、その者はダビデ系の救済者で、自分の前に、武人的剛勇と正義の神聖さ等の才能を併せ持った人間が現れることを期待した。

イエスはキリストではない?
 この像は新約聖書のメシア像と違ったものである。この点では「イエスの生涯と活動が、伝統的なメシア思想に照らしてみれば、すこしもメシア的ではなかったという点については、共観福音書の伝承は何の疑いも許さない」といえる。ではイエスは、自分はメシアだと他に向って宣言したことがあるであろうか。
 すべての学者は、聖書にその例はないという。あると主張する者も、イエスが自らをメシアだといっ たとの伝統的な見解は、せいぜい付随的な証拠に基づいていることを、認めないものはない。 ところが興味深いのはイエスの敵が、彼はメシアと自称したといい、「王を僣称する者」としてローマ総督にひきわたしていることである。
(中略)
 この点、大変に興味深いのは使徒行伝である。キリスト教発生の初期において、イエスは何の疑いもなくメシアであった。「だからイスラエルの全家は、この事実をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神はm主またはキリスト(=メシア)としてお立てになったのである。(使徒行伝二章三十六節)と。
(中略)
 しかしここで注意しなければならぬことは、だれも「イエスは自らをキリスト(=メシア)と断言した。だからメシアである」とは一言もいっていないことである。さらにここでも、キリスト=メシアという言葉は、国家に反抗する者の意味があると受けとられていることである。
(中略)
 ・・・というのは、ではイエス独特のメシア像は何かは、イエスは明言していないからである。当時のユダヤ人のもっていた普遍的なメシア像は「ダビデ的王のメシア」の思想だが、福音書に描かれているイエス自身をこのメシアと関連づけることもまた不可能と思われれるからである。(後略)

なぜイエスはキリストと呼ばれたのか (前略)理由は、紀元一世紀のパレスチナ社会の精神状態にあるであろう。その時代の人びとは終末が近いと信じ、政治的・革命的動乱が常に起こり、紀元七十年のエルサレム壊滅へと進んでいく空気の中にいた。イエスの弟子もエイスの敵も、共にメシアへの、何らかの情熱を持ち続けていた。イエスが十字架にかかった後でさえ、やがてイエスは現れて「イスラエルの王国を回復する」という希望を、一部のものは持ちつづけていた。
 そこでメシア問題は「復活以後の」時期に移しかえられた。イエスは「苦難のしもべ」と同じ苦しみをうけて死に、天で神の右に座し、その意味でははじめから「ロゴス=人格化された知恵」であり、また同時にヨブ記に記された仲保者で、ダエエル書に記されているように「ひと時、ふた時、半時の間、彼(敵)の手にわたされる」が、再び審判者・王として再臨してくると考えられた。
 そこには当然、紀元一世紀のユダヤ教の「天のメシア」「先在のメシア」という考え方の影響はあったであろうが、これがさらに複雑化し、一つの総合思想としての「イェスーキリスト像」が出来あがったと見るべきであろう。そしてそれを可能にしたのは、前にもしばしばのべた旧約聖書の諸思想であり、それがイエスという人間の上に凝縮したと見るべきであろう。
 ではなぜ、「キリスト」というこのイスラエル固有のイメージが、ギリシャ・ローマ圏に広まり、それがキリスト教として定着し、キリスト教文化を作り出すことができたのか。これはすでに初代キリスト教史の問題だが、新約聖書にもこの萌芽はすでに見えている。
 そこにはもちろん、パウロという天才的人物による伝道があった。しかしその前提となった考え方は、キリスト(=メシア)こそ神がイスラエルに与えた最大の約束であったのに、ユダヤ人は強情にもメシアを拒否した。この強情こそ、彼らのもっていた旧約的な特権を異邦人に移して、かえらぬものとしてしまったとするのである。
 これについては、使徒行伝にもヨハネによる福音書にも記述があるが、もっとも貴重なのはパウロの「テサロニケ人への第一の手紙」である。この手紙の真正性は、近代の学者によって広く承認されているが、その中に次の言葉がある。
 「兄弟たちよ。あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった。すなわち、彼らがユダヤ人たちから苦しめられたと同じように、あなたがたも同国人から苦しめられた。ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、私たちが異邦人に救いの言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである」
 そしてこのようにして、旧約のメシアのさまざまな像が凝縮したキリスト像は、新しいギリシアーローマの地で新たな展開をしていくのである。

「人の子、神の子、主」の説明は省略
パウロの歴史的背景
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p229~232
 イエスが処刑されたのが紀元三〇年、皇帝ネロによる迫害が紀元六四年。これはまことに不思議な現象といわねばならない。というのはイエスの死後わずか三十四年で、キリスト教は、ローマにおいて、弾圧に値する宗教団体となっていたのである。
 「弾圧に値する」とは少々奇妙ないい方だが、これは皇帝ネロが、「ローマの大火災はネロの放火」として憤激する民衆を鎮めるため、キリスト教徒を放火犯人に仕立てて処刑した事件だからである。このことは当時ローマですでに、キリスト教は皇帝にも社会にも知られた宗教団体で、社会から何らかのかたちで白眼視されかつ違和感をもたれていたことを示すからである。そうでなければ、「罪を転嫁」する対象にはなりえない。
  (中略)
 これにはさまざまな歴史的背景があり、その一部は「キリスト教への胎動」でも記した。要約すれば、イスラエルをヘレニズム化しようとしたことが、逆にローマのキリスト教化を生んだわけで、歴史の皮肉とでもいうべきであろう。
 ローマ圏の公用語であるコイネー・ギリシア語で新約聖書が書かれ、またこれが一部のユダヤ人の日常語となっていたこと。と同時に、「すべての道はローマに通ず」の広大なローマ圏へ、自由に進出し、移民できたこと、なども作用している。いわばローマ中にキリスト教の前進拠点があったわけである。
 さらに大きく作用したのはローマの宗教政策であった。当時の世界は「宗教法の世界」であったが、ローマは点と線すなわち主要都市・港湾・道路は押えても、面であるその内部に足を踏み込もうとしなかった。これはピラトの態度にも表われているが、ピラトだけでなく全ローマ圏に通ずる共通の基本政策であった。
(中略)
 以上のように宗教は自由であり、宗教法的自治がある程度は認められていた。ただ、宗教宗派を問わず、服従を示すため皇帝の像の前で香をたく義務があった。ユダヤ人はそれを拒否し、時には問題となったが、神殿でローマ皇帝のためにいけにえを捧げることでだいたいにおいて免除されていた。こういう点でローマ人とはまことに「政治的民族」であった。
 このような前提があったとはいえ、前記の三十四年は余りに早すぎる。では理由は何か。
 宗教が伝道なしで広まることはない。そしてここに登場するのが、おそらく人類史上最大の伝道者と思われるパウロであった。
 「パウロなくしてキリスト教なし」ということは確かにいえる。その意味で彼は、以後の西欧文明の方向を定めた、というより、世界の文明の方向を定めた人といえる。
 彼は確かに「伝道者」といえる。しかし単なる伝道者ではなく、彼は彼で独自の、そしてまた非常にユニークな思想の持主であった。そしてその思想には、今までのべてきたような時代的背景があり、彼はまことにその背景にふさわしい人物であった。そのことは「タルソ生れのローマの市民でユダヤ人」という彼の生いたちが示している。
 タルソは、今ではあまり知られていないトルコの田舎町だが、当時は東地中海最大の港のひとつで、しかも哲学の中心であった。アテネ、アレクサンドリア、タルソと並び称され、ローマ皇帝アウグストスの師アテノドロスの出身地として、知的な尊敬を集めていた。ということはヘレニズムの文化と思想の一中心地であったわけである。
 パウロはここで幼年時代に教育を受けた。それゆえに、ギリシア語の口述で手紙を書き、ストア派の表現を使いこなし、ギリシャ哲学の行動でキリスト教の講義ができ、アテネで、まことに形式のかなった演説ができた。
 同時に彼は「生まれながらのローマ市民であった」・・・そして彼はユダヤ人であった。それも単なる「平凡な一ユダヤ人」ではなく、若くしてエルサレムに留学し、当時のユダヤ教の最高のラビ、最高法院の一員であるがマリエル門下に学び、法律に精通したパリサイ派の知識人であった。
パウロの特徴
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p233~235
 「タルソ生れのローマの市民でユダヤ人」とは、以上の三つの特徴を備えた人物、いまの言葉でいえば、典型的な良き意味の国際人ということである。パウロには「内なる人」と「外なる人」という言葉があるが、この考え方もこれに該当する言葉も旧約聖書にはない。いわば、この思想は新約聖書、とくに国際人パウロにおいて独特なものと考えられる。
 この言葉の用い方はさまざまで、「内なる人たち」(コリント人への第一の手紙五章十二節)のような場合は教会の内と外の意味、「内なる人としては神の律法を尊んでいるが」(ローマ人への手紙七章二十二節)、「外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく」(コリント人への第二の手紙四章十六節)などは内的人間、外的人間の意味である。だが、用法の違いは、基本的な意味の違いではなく、以上の二つの用い方はもちろん関連がある。
 これは確かに、旧約聖書にはない考え方である。旧約聖書では「内なる人」も「外なる人」も一体であり、「内なる人」が神を信じていれば、「外なる人」は神の律法を完全に守っているはずであり、「内なる人」が神を信じながら「外なる人」は律法を無視しているなどという発想はあり得ない。パウロにこの独特な思想が出てくるのは、やはり彼の生涯との関係で理解すべきであろう。いわば彼の一生は「外なる人」としてはローマ法に従い、その保護をうけ、また自らもそれを利用する人間だが、「内なる人」はあくまでも、ユダヤ人であった。
 だがこれは、ユダヤ人には認め得ないことであった。彼らにとっては、神との契約が絶対であり、その契約である律法を厳守することが信仰であり救済であるから、パウロのような考え方をうけ入れる余地はあり得ない。というのは、現代でもイスラム教徒にとって、アラーを信ずることと、宗教法を遵守ることは同じであり、宗教法の否定はそのままアラーの否定になるからである。
 このことを考えれば、パウロの思想が、当時の世界において、いかに独特のものであったかが理解できるであろう。そしてこの考え方は、「内なる規範」と「外なる規範」というかたちで、その後の西欧文明の方向を決定した。いわば「法」はあくまでも外的規範であって、その人の内心に立ち入ることは許されない、という原則が確立していなければ、「信教の自由」もまた「言論の自由」も、あり得ないからである。
(中略)
 (パウロは)生れは紀元五~六年ごろ(?)、六四年のネロの迫害で処刑されたものと思われる。彼は若き熱心なパリサイ人として、最初はキリスト教迫害の側に立ち、ダマスコ郊外で劇的な回心をしたことは、使徒行伝に三回も出てくるが、彼自身は手紙の中で、これについて何も書いていない。ただ教会の迫害者であったが回心させられたことは、自らも書いている(ピリピ人への手紙三章六節)から、何か特殊な体験で回心したことは真実であろう。
 彼は生前のイエスには会っていない。しかし何かの特殊な体験で、キリストを啓示され、復活の主に会ったという確信は、生涯、動かすことのできない確信であった。そしてこの点では、復活の主に会ったヘテロだちと自分は同一であると信じていた。これもまた後のキリスト教を大きく特徴づけた。いわば、すべての人は彼のように復活のイエスに会えるのである。
 だが、前に述べたようなユダヤ人のもつメシア(=キリスト)像を考えれば、この考え方であれ、「内なる人」「外なる人」という考え方であれ、それが伝統的なパレスチナのユダヤ人に受け入れられなくて不思議ではない。と同時に「メシアが来たのにユダヤ人は強情にこれを拒否した」という考え方が、パウロの伝統を強くもつ初代のキリスト教徒にあってもまた不思議ではない。
 キリスト教とユダヤ教の分裂は、実にパウロにはじまるといってよい。今でも、ユダヤ教はイエスまでをヘブル思想史に入れるがパウロは入れない。またイスラム教徒はイエス(イサ)をマホメットにつぐ最大の預言者とみるが、パウロはまったく評価していない。
パウロと旧約聖書
山本七平ライブラリー『聖書の常識』p233~235
 だが当時のディアスポラのユダヤ人の総人口はパレスチナのそれより多かったと思われ、この人びとは、パウロのような考え方を受け入れやすかった。そこでパウロの伝道がもっぱら「異邦人への伝道」-といっても実際は異邦人の地に住むユダヤ人への伝道が主であった1となり、彼が「異邦人への使徒」と呼ばれて不思議ではない。そしてその根拠地はまずシリアのアンテオケであった。パウロはその生涯に、三回にわたって次ページのような大伝道旅行をしている。
 パウロは、外見はあまり立派な人ではなかったようで「手紙は重味があって力強いが、会ってみると外見は弱々しく、話はつまらない」(コリント人への第二の手紙十章十節)といった批評もうけている。さらに彼の思想は、主としてそれぞれの教会にあてた手紙に示されていても、体系的に示されていないので、一見矛盾するようにみえる場合もある。したがって彼は、ユダヤ教の律法主義を否定したようにいわれるが、それと矛盾する言葉、すなわち自分を「律法の義について落ち度のないもの」と規定している言葉もある(ピリピ人への手紙三章六節)。
 では彼の思想は旧約聖書から非常に離れたものなのであろうか。決してそうではない。「義」とは、人間が律法を「行う」ことによって自らを「義」とすることでなく、神の一方的な自己主張(自己の「義」の主張)であるという考え方はヨブ記にある。そしてこの神の義の自己主張がイエスを信ずる者を義とするが、それは不義な人間を滅ぼすことでなく、「神の子」「メシア=キリスト」を十字架につけることによって人間を救うことだという思想は「苦難のしもべ」にある。
 そしてこれに対応する人間の態度といえば、ヨブのような絶対的信仰と、「苦難のしもべ」の受難を見た者の回心にしかないわけで、これが彼の、イエス・キリストヘの絶対的信仰となり、それによる神との和解が罪の赦しになるという発想になっている。これは実に旧約的であって、決してヘレニズムからは出てこない。
 また彼は、ダユエル書に示されたような、いまの「時の終末」を固く信じていた。したがって、外的な体制や外的な規範は、逆に少しも問題とせず、回心によって内なる規範を変えて、この「終末」にそなえることに、すべてが集中していた。そしてそのときには神の計画が成就して、すべてのものがキリスト(メシア)において一つに帰するに至る(エペソ人への手紙一章十節)とした。これもまた旧約聖書の思想である。
 だがそれよりもさらに大きな特徴、しかも旧約聖書の系統にある特徴は、パウロには明確に「旧約」「新約」という考え方があったことである(コリント人への第二の手紙三章六節・十四節)。もちろん、かつてモーセを通じて与えられた古い契約に対して、イエス・キリストを通じて新しい契約が与えられたという考え方はマルコによる福音書にもあり、新約全般を通じてあるといえるが、旧約を明確にし「古い契約」と定義しているのはパウロであろう。そしてこの考え方は、前にのべたエレミヤの 「未来の契約」という考え方に対応するものである。
 この絶対者との契約が更改されうるという考え方もまた大きな影響を西欧に与え、これはキリスト教文化の特質となった。同じ旧約から出たといっても、イスラム教にはこの発想はない。
 このようにパウロは、旧約の伝統を保持しつつこれを新しい未来に向けて発展させかつ伝えていった人であった。

前のページへ