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山本七平語録

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日本史

論題 引用文 コメント
英語はうまいが日本のことは知らない日本人
『日本人とは何か』
1989.9.4発行
「序文 新しい”菊と刀”」より
「このごろは本当に英語がうまい日本人が増えましたね。しかしそういう日本人に日本について質問すると何も知らず、何も答えられないのに驚きます。まるでアメリカ人に日本のことを質問しているようですよ」。それは決して彼らに敬愛される状態ではない。そして本書(『日本人とは何か』山本七平)が、そういう状態にならないための一助となってほしいというのが私の願いである。

もちろん本書に、時には少々突飛な彼らの質問への答がすべて含まれているわけではない。しかし「そういう問題に答える知識はもっておりませんが、これこれの問題ならお答えできます」といえればよい。どこの国の人間でも、自国の文化についてすべてを知っているわけではないから。

・・・われわれは日本人だから日本文化は生れなからにして身につけているといってよい。いわば無自覚でその中にドップリつかっているのが一番心地よい。それは当然であろう。ただそれを他に語って理解してもらおうと思うなら、もう一度把握しなおさなければならない。そしてそれを行うと自らの長所・短所が明確に見えてくる。

そして狭くなった地球の中で生きていくのは、昔のように海を隔てた状態で、常に半鎖国的状態で生きていくこととは基本が全く違う。ヘブル大学の日本学者ベン・アミー・シロニー教授は、日本はその発展に比例して過去の利点が逆に弱点になっていく、といった趣旨のことを述べられているが、これは、過去の長所が逆に短所になってくることが、ありうることを示しているであろう。われわれは自らに対処しなければならぬ状態になって来たのである。

そしてそのための日本文化の再把握において本書が参考になってくれれば幸いである。
 前回まで、山本七平著『一つの教訓・ユダヤの興亡』から山本七平語録を紹介してきました。その最後のメッセージは「民族は伝統文化を失わないかぎり存続する」でした。 
そこで今回から、その日本の伝統文化とは何か、について山本七平著『日本人とは何か』を中心に、山本七平語録を紹介していきたいと思います。
この本は、日本史を伊達千広の『大勢三転考』の歴史区分、「骨(かばねの代)「職(つかさ)の代「名の代」にそって記述し、その中に「山本学」のエッセンスをちりばめたものです。
日本人が日本の伝統文化を再把握し、その長所と短所を見極め、併せて、それを他の文化圏に生きる人たちに説明しようとする時、本書は最良のテキストになると思います。
日本歴史の「弁証法的発展」を捉えた伊達千広の歴史区分)
『日本人とは何か』(p24~26)
1989.9.4発行

伊達千広(一八〇二-一八七七年)は紀州藩士、有名な陸奥宗光の父であり、藩内の政争にまきこまれて九年の蟄居を強いられ、後に赦されてから京都に出て公武合体に奔走したが失敗、帰国・閉居の身になるが、明治維新後に赦され、和歌と禅にひたる晩年を送った。政治的には失意の人と言ってよい。その彼が嘉永元年(一八四八年)に執筆したのが『大勢三転考』だが、彼はこれを出版する意志がなく、明治六年にはじめて刊行された。

 というのはこの著作は彼にとって「凡古書を研究するに、時制の転変、制度の沿革をしらずしては読書の活用をえがたし」であるから、それをはっきり把握するための、自分用に作成した「覚え書」にすぎなかったからである。この言葉はある意味で本書の成立を物語っている。すなわち彼は、何らかの史観や歴史記述の原則をどこかから借用したのでなく、徹底的に古書を読んでいるうちに、こうすれば日本史は把握しやすいという方法を発見したのであった。

 中国の歴史記述には司馬遷の『史記』のような「紀伝体」と、司馬光の『資治通鑑』のような「編年体」とがあり、いずれかを採るのが当然とされた、というより、これ以外の歴史記述の基準は全く思いつかなかったといってよい。たとえば水戸光圀の『大日本史』は「紀伝体」であり、その記述の基準は朱子学の正統論に基づく史観で、それが判断と評価の基準であり、簡単にいえば歴史を通じて「大義名分」を明らかにすることであった。 一方、『大勢三転考』にはそういった発想は全くなく、きわめて客観的、即物的で歴史の事象に対してある一定の距離をとっている。簡単にいえば皇国史観のように「武家政治は日本の歴史の誤り」といったような見方が全くない。

 彼はあるがままに日本の歴史を見、徳川時代に至るまでを「骨(かばね)の代」「職の代」「名(みょう)の代」と三つに区分した。今の言葉になおせば「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」ということになろう。このように政治形態の変化に基づいて歴史を区分し、その変化の理由を記しても、これに是非善悪の判断を加えないという歴史記述の方法をとったのは、おそらく東アジアに於て、彼だけであろう。そして彼はこの移行を「自ら時の勢につれて、しか移来(うつりきた)れるもの」「止事をえぬ理」すなわち「歴史的必然」と見た。

 ではなぜこの「必然」が起こるのか。彼は「骨の代」は「職の代」に移るべき要素を内包し、「職の代」もまた「名の代」に移るべき要素を内包していたと見る。これを内的矛盾と言ってもよい。

 そして当然のことだが、日本の歴史は日本の基準で記さざるを得ず、中国の基準をもってきても、西欧の基準をもってきても、おかしなことになってしまう。

 「骨の代」とは「制なき時代」と彼は規定しているが、これは明確な人為的な政治制度がなく自然発生的な秩序の下に「何事も大らかに有けん」時代のこと。そして大陸の影響や人口増加で政治制度が変わり、律令時代すなわち「職の代」となる。この変革を彼は天武天皇の九年(六八一年)とし、、この年に制定がはじめられた律令(浄御原令)によりこのとき骨が廃され、その体制は大宝律令(七〇一年)の公布で完成する。

 彼はこれを上からの改革「上の御心より出て、つとめて変易させ賜へる」とするが、「職の代」から「名の代」へは文治元年(一一八五年)頼朝が六十余州総追捕使になったときで、これは下からの変革「下より起こりて次第に強大にして止むことなき勢なり」の結果生じたと規定する。そしてこれを招来したのは、支配階級が専ら文治で、武門で低い階級から出た結果とする。いわば「職の代」がそういう制度をつくり、その結果「名の代」が招来されたと彼はいう。

 『大勢三転考』は前述のように彼の「覚え書」だから、彼としてはさらに書きたいことはあったであろうし、「まだ指摘さるべきことがある」という批評は当然出るであろうが、それは本書の性格から言って「ないものねだり」であろう。ただ彼の観点は当時としてはまことに独創的であり、それなるがゆえに現代的なのである。

  今日、日本の歴史研究においては、古代・中世・近世・近代とする時代区分法が用いられる。古代については古代国家の形成、中世については、荘園公領制の形成、近世は、幕藩体制の形成、近代は、明治維新以降の近代社会形成をそれぞれの時代区分の指標としている。
 だが、この「古代・中世・近世・近代」という歴史区分は、もともとヨーロッパの歴史を分析するために考え出されたもので、「この区分法の起源は、ルネサンスの人文主義者たちが、古代ギリシア・ローマ時代を理想とし、ルネサンスはその古代文明の再生であり、その間の中世を古代の文明が中断された暗黒時代と捉えたのがそもそもの始まりである」とされる。
 従って、あえてこうした時代区分法を日本の歴史に適用するなら、日本におけるルネサンス(文芸復興)に相当する文明開化は、幕末から明治維新に至る尊皇思想運動に比すことができる。この場合、理想とさるべき「古代」は、平安時代以前の「天皇親政」の時代になり、中間の武家政治の時代が「暗黒の時代」となる。
 しかし、日本における「古代・中世・近世・近代」という歴史区分は、こうした指標に基づくものではなく、「発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘」(wiki「日本の歴史」)されている。従って、あえてこの区分法を用いるなら、前述したように、尊皇思想を指標とする時代区分を採用した方がはるかに面白いと私は思う。
 また、飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(安土町・京都市伏見区)・江戸時代(東京都)という時代区分は、あくまで政治の中心地の所在地を基準に区分したものであり、日本歴史全体の弁証法的な流れをつかむことは出来ない。
日本と中国そして韓国の文化的関係
1989.9.4発行
『日本人とは何か』
p19~30抜粋
 「日本人は東アジアの最後進民族です。先進・後進を何によってきめるか、どのような尺度を採用するかは相当にむずかしい問題でしょうが、たとえば数学ですね。中国人は偉大な民族で、西暦紀元ゼロ年ごろ、すでに代数の初歩を解いていたのですが、当時の日本人ときたら、やっと水稲栽培の技術が全国的に広がったらしいという段階、まだ自らの文字も持たず、統一国家も形成しておらず、どうやら石器時代から脱却したらしい状態です。

この水稲栽培すなわち農業に不可欠なのが正確な暦ですが、ヨーロッパ人がメトン法(十九年七閏の法)を発見したのが紀元前四三二年、一方中国人は紀元前六〇〇年ごろにすでにこれを発見していました。中国人は当時の超先進民族です。そのころの日本ですか? 縄文後期でまだ石器時代、もちろん農業も知りません。

当時の中国と日本とを比較した人がいたとしたら、その文化格差は、まさに絶望的懸隔と見えたでしょう。常にそう見られて不思議でない民族なんです。それが何かの刺戟で恐ろしいばかりの速度で駆け出すというだけです。いねば、人類史を駆け抜けて来た民族なんです。・・・」(同書p29~30)

(このように)「中国が(東アジアにおける)文明の尺度であった時代は、・・・韓国人は優等生、日本人は劣等生というよりむしろ聴講生で、正規のカリキュラムをまじめに学んでいなかったのですが」(同書19以下つづく)

「すると中国から模倣しなかったものがあったんですか」

「そうですなあ。科挙、宦官(かんがん)、族外婚(ぞくがいこん)、一夫多妻、姓、冊封(さくほう)、天命という思想とそれに基づく易姓(えきせい)革命、さらにそして少し後代なら纏足(てんそく)がなく、日本だけにあるのがかな、女帝(女王)、幕府、武士、紋章ですかな。後になると漢字・蘭学と平気で並べており、どこからでも聴講しています。それから料理と葬式と墓ですか。前にある中国人から、日本料理が中国料理と全く無関係なのに驚いたといわれました。豆腐や味噌は中国伝来ですが、料理そのものの基本はまったく違うというのです。、さらに彼は昭和天皇の御大喪の簡素に驚き、歴代の御陵が中国とあまりに違うのに驚いていました。違いはその他にもありますが」(同p19~20)

「・・・でも宦官なんてない方がいいですな」

「今ではそうですが、昔のアジア大陸では宦官がいるのが文明国、ないのは野蛮国で、韓国にはいましたから文明国、ない日本は野蛮国です。紋章があるのは日本とヨーロッパだけですかな」 

「韓国も今とは違って中国式の姓名ではなかったようで、これは中国の記録や日本の記録を見るとわかります」

「韓国人には族譜(または世譜)という膨大な系図があります。これは日本のいわゆる系図からは想像できない膨大なもので・・・この同一系図の中に入っているもの同士は結婚できない。簡単にいえば血縁の範囲が非常に広くて、その血縁内では結婚できない。そこで族外婚と(いいます)・・・」

「韓国では姓は絶対変えられず、・・・結婚しても姓は変わりません」 

(日本人は)「姓のあった人間もいましたが、殆ど無かったわけで、簡単にいえば名前だけです。・・・この点では東アジアの大陸的文化より、東南アジア系といえるかもしれません。」

「韓国人はきまじめに中国文化を摂取して姓名も中国式にしたんでしょう。日本人はそんなにまじめじゃないですな。『天命思想抜きで科挙抜き律令制』なんてやっていたのですから。族外婚と科挙がないということは、結局、社会制度・政治制度の基本は受け入れなかったということです。冊封もそうです。朝鮮国王も琉球国王も中国から、『特に封じて汝を朝鮮国王と為す』といったお墨付きをもらっていたのですが、日本はそうではありません。いわば中国体制を受け入れなかったから、自らのものを創り出す以外に方法がない。・・・」

「まず『かな』と『かな文字』、これがなかったら日本文化は無かったでしょう」

「・・・さらにいえば前述の女帝、武士、それに幕府、武家法、町人文化、為替、小切手、さらに詫茶の茶の湯、和歌、俳句、浮世絵、歌舞伎。金日坤氏は『儒教文化圏の秩序と経済』の中で、山片蟠桃を特に取り上げていますが、町人の番頭が学者であるなどといった文化は、韓国のような科挙の下ではあり得ないでしょう。また海保青陵富永仲基や本多利明のようなタイプの学者もいないでしょう。・・・」

(その他に)「伊達千広の『大勢三転考』などもこの時代の東アジアにはない歴史観でしょう」

「ヤレヤレ」・・・「・・・山片蟠桃とか伊達千広だとかいわれても、一向にわかりませんな。これじゃー(日本の文化について)何を言われても(説明も)反論(も)できなくて当然でしょうな」
 この日本民族についての説明は、欧米人が日本人に対して持っている「なにやら理解しかねる不気味なエネルギーをもつ民族」といった、日本人に対する「闇」のイメージへの応答として語られたものです。
そのポイントは、中国の六朝時代(222~589)を通して日本人は漢字に習熟し、その漢字から自らの言葉を表す「かな」文字を創出した。それと同時に自らの文学も創りだした。こうして中国文化に学びつつもその呪縛を脱し、独自の文化を育てることができた、というところにあります。
その結果、左記下欄に列挙したような、中国や韓国とは異なる、日本独自の文化を形作ることができたというのです。また、このかなの発明は、日本人の識字率を向上させ、和歌や俳句などを通して日本人的感性を磨き、その文化的主体性の確立に貢献しました。
こうした日本独自の文化の歴史的発展を、伊達千広の「大勢三転考」の時代区分に沿っていうなら、「骨(かばね)」(=氏姓制度)の時代から「職(つかさ)」(=律令制度)の時代、そして「名」(=幕府制度)の時代へと発展した、ということができます。こうした文化的蓄積があって初めて、明治の近代化=西欧文化の受容に成功したのです。
この間、思想的にも独自の発展をしました。8000年にも及ぶ縄文時代から弥生時代を経て日本的感性が育まれ、それが自然との調和を大切にする神道思想に結実しました。
歴史時代の入ると中国から儒教思想が導入されました。同時に仏教思想も持ち込まれました。しかし、これらは漸次神儒仏三教合一思想として習合し、日本社会に定着していきました。
こうした鷹揚な文化の受容が可能となったのは、日本列島が約10000年前に大陸から切り離され、その後、豊かな自然環境(「森の文化」)の中で縄文文化が営まれ、ついで弥生文化を経て、集団的な和を尊ぶ日本的感性が育まれた。それが異文化受容の強靱な文化的土壌となった、といえるのではないでしょうか。
日本と中国の文化は同文同種といわれます。韓国文化も同様で、韓国は中国の儒教(朱子学)文化の模範的優等生といわれます。しかし、この三者は、それぞれの置かれた歴史的、地政学的条件の違いによって、相互に異なった文化を形成するに至りました。
まずは、この事実を知ることが、相互理解の第一歩ではないでしょうか。
戦前は、日本と韓国と中国が同文同種であるという観念が、逆に相互不信を拡大することにつながりました。そうした誤解を避けるためにも、まず、日本文化の独自性がどのように歴史的に育まれてきたか、知る必要があると思います。   
いつ頃日本人は発生したか
『日本人とは何か』(上)
1989.9.4発行
P30~34
いつごろ日本人が発生したか。・・・ ただ、今から一万年かそれ以上の年代をさかのぼれば、日本はアジア大陸の一部分で、大陸から切り離された島でなかったことは確かである。(中略)

それは旧石器時代、この時代の石器が北アジアの大森林地帯の石器と共通性があることは、多くの学者が指摘している。ところが一万年ほど前、すなわち新石器時代に入るころ、日本はアジア大陸から切り離され、ここに住む人びとは、大陸と共通性があるとはいえ、独自の文化を形成しはじめた。そのころに作られた土器が縄文式土器、それによって形成された文化を縄文文化と呼ぶ。この文化は北は千島から南は沖縄まで全日本列島に広がっており、この文化圏が大体、現在の日本である。

ではこの縄文人とはいかなる民族なのか。この問いには長い間、解答がなかったが、多くの人は中国人・韓国人と同じ祖先をもつ民族だと考えていた。・・・また日本人の中にも、昔は、自分たちの先祖は中国の江南(揚子江の河口附近)から日本に移住したのであり、天皇の先祖は「呉の泰伯」であると信じている者もいた。さらに日韓同祖説は昔も今も根強く存在する。

ところが最近、京大名誉教授日沼頼夫博士が興味深い説を提唱した。氏は生物学者で京大ウイルス研究所の前所長、歴史学者でも考古学者でもない。日沼教授はATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿海州からサハリンに分散している少数民族に発見されているにすぎず、中国・韓国にはいかに調査しても全くいないことを発見した。(中略)

さらに興味深いのは、そのキャリアの日本における分布で、全国的に平均しているわけではなく、第一に九州・沖縄に圧倒的に集中していること、第二が離島や海岸地域に大きな密度をもつ地があること、第三に約三十年ほど前のアイヌ人の調査ではその密度が沖縄以上に高かったことである。この南北両端という密度の高い地を除くと、五島・壱岐・対馬・宇和島・紀伊半島の先端部・牡鹿半島・三島・飛島などが高い。

いわば日本列島の周辺部が高いわけで、稲作が早く伝播したと思われる瀬戸内地方や名古屋などが少ない。このことから、縄文人はATLをもっており、稲作をもってきた弥生人にはATLがなく、それとの混血が早かった地方ほどATLのキャリアが少ないという仮説が成り立つ。そしてATLを今も濃厚に持つ地方はほとんどが、現在に至るまで主として漁労が行われている地方である。これは縄文文化が狩猟と漁労と採集を基礎としていたことと関連する。そしてその文化圏がいまの日本とほぼ同一である。日本が大陸から切り離されて島になった一万年前を日本の起源とするなら、日本史に於て最も長い期間は、このATLをもつ縄文人の時代である。

このように見れば、縄文文化が日本文化の基底にあると見てよいであろう。その期間は八千年前後と推定され、その文化圏の中で地方的な小文化圏を形成したが、その細部は省略する。そして共通する点は、生活は採集・狩猟・漁労によって行われ、農耕も牧畜も行われていなかったことであろう。

ただ土器・住居地・精巧な石器や骨器等から見ると、その生活水準は必ずしも低かったと思えない。その食料はドングリやトチの実などの本の実を主体にしたという人もいるが、いずれにせよ日本はそれだけ天産物に恵まれた地であったということである。

①今も残る縄文時代の料理

面白いのは、日本料理の中には今も縄文時代の食物の名残が数多くあることである。・・・栗・ぎんなん・貝・川魚・沢ガニ、エビなどがあり、・・・料理の方法は変わっても、この種の日本の天産物を料理することは昔も今も変わっていない。前述の中国人が指摘したように、料理に関する限り、日本人は縄文的であって中国的ではないらしい。

一体なぜこのような、中国とも韓国とも違う食文化が生じ、それが現代まで継続しているのであろうか。高谷好一氏(京都大学東南アジア研究センター教授)は、ユーラシア大陸の文明生態史的な構造を次のように記す。すなわち中央の砂漠帯の周囲をナラ林、照葉樹林、熱帯多雨林という三つの単位に分け、日本は照葉樹林に属するからであるとする。

面白いことに西ヨーロッパと韓国はナラ林で、ここへ有畜農業が入るとナラ林は破壊されて再生しない。一方カシやシイなどの照葉樹林は食物が豊富で、一度破壊しても二次林として再生し、食糧となるものを多く期待できる。照葉樹林は日本でも減少しているが、国土に対する森林面積の比は今でも日本が世界一であり、この点では昔も今も「森の国」であろう。

高谷教授は、縄文人はこの林を切り開き「半栽培屋敷園地」を形成して生活していたのであろうと、次のように述べている。

「半栽培屋敷園地というのは次のようなものである。例えば小川にのぞんだ丘陵の端に小集落を作る。縄文期だと、家そのものは竪穴式の草葺きである。集落のまわりだけは照葉樹林が伐り払われていて、そこにクリやドングリそれにイチゴなどが比較的多く生えている。ヤマイモなどもあるかもしれない。これらは意識的に植えたのではないかもしれないが、生活をしているうちに自然にそうなったのである。こうして、暗い照葉樹林の中で、そこだけは明るい林になり、また食糧になるものが多く集中している。これが私の想像する半栽培屋敷園地である。照葉樹林帯でのこの種の生活は一旦確立してしまうとかなり安定したものである。・・・照葉樹林のなかでの初期の日本人の生活は豊かな自然に抱かれ、それにすっぽり入り込むようなかたちで行われていた、ということになる」

その後の日本人の生活は大きく変化しているが、豊かな自然にすっぽり包み込まれるのを好み、縄文式の食文化が根強く日本人に残っているわけであろう。
 この記述がなされた1989年以降、日本人の起源に関する研究は、その後の考古学の発展や、さらには遺伝子学や免疫学を活用した研究も加わって、飛躍的な進歩を遂げました。
その結果得られた知見の一つとして、崎谷満氏は日本列島では他地域では維持できなかった高いDNAの多様性をなぜ保持できたか、ということについて、次のように説明しています。
日本人の遺伝子には、東アジア後期旧石器時代人(3万年~1.2万年前)や縄文時代にナラ林文化を東日本に伝えた東北アジア人、照葉樹林文化を西日本に伝えた中国江南人、弥生時代になって水田稲作を伝えた中国江南人、さらに騎馬民族のほか百済・伽耶など朝鮮渡来人など、多様な民族の遺伝子が混ざり合ったまま、現日本人に保持されている。

(その原因としては)
1.ユーラシア大陸東部では、民族の存亡を賭けた凄まじい戦争の歴史が、DNA地図を大幅に塗り替えたが、日本列島ではそのような事態は現出しなかった。

2.日本列島の温暖で湿潤な気候が、豊かな植物相を提供し、大量の堅果類を栄養源として列島に居住する集団に供給した。

3.列島を囲む暖流や寒流の混交が、豊かな海を提供し、安定的なタンパク源としての海産資源を供給した。

この2.や3.が、豊かな生活環境を提供し、この列島に住む人たちの系統を絶やすことがなかった。

4.大陸の混乱で難民化した人々が、日本列島に渡来したことでDNAの多様化が進む一方、渡来人も先住の人々も共に平和共存の道を選んだため、多様なDNA集団が列島に残ることになった。

そして、その結論として、「我々が住むこの日本列島は、本来食料資源が豊かで、住んでいる人々も平和を愛する、世界に誇り得る地域であることを再認識したいと思う。」つまりこのような環境の下で営まれた8000年にも及ぶ縄文文化が、日本の基層文化となった、というのです。

日本文化の外来文化に対する受容力の高さの秘密は、ここに根ざしているのかも知れませんね。

*なお、その後の研究で、縄文時代は、雑穀、根菜型の焼畑農業ばかりでなく陸稲栽培も行われたことがわかってきています。また、弥生時代の始まりを紀元前1000年頃まで溯らせるべきとする意見も出てきています。
従来、弥生時代の始まりは紀元前5世紀頃と考えられていましたが、これが5世紀以上溯る可能性も出てきているわけです。紀元前1世紀頃から始まる急激なクニの発展も、これによって説明できるのではないでしょうか。
日本語はどのようにしてできたか
『日本人とは何か』
p34~36
 では縄文人はどのような言葉を話していたのであろうか。これが日本語の基本になり、従って日本語は少なくとも一万年の歴史があるわけだが、国立民族博物館教授崎山理氏は「日本語は系統未詳言語である」と定義されている。

このように言語の歴史が長いと、いくつかの言語の混合が起こって不思議ではない。・・・純粋な縄文語はもう残っていない。単語にはアイヌ語、韓国語、中国語等が入っているが、それはもちろん、日本語の系統を明らかにしてくれるわけではない。やはり、「系統未詳言語」が現在の結論であろう。

*伊藤俊幸氏の日本語成立論は次の通りです。
1)華北文化センターからナイフ形石器文化を伴って、プリミティブな原始ツングース系言語が朝鮮半島や日本列島(津軽海峡まで)に展開した。20000~30000年前のことである。

2)  12500~13000年前ごろ、荒屋型彫器を伴う、クサビ形細石器文化が、極東方面に怒涛のように押し寄せた。彼らは原始アイヌ系言語を使っていたらしい。彼らは冷涼な気候を好み、日本列島ではあまり西日本地域と混交することはなかったのに対し、北部朝鮮では、ツングース系朝鮮語と混合したようである。安本美典の分析では、アイヌ語と日本語より、アイヌ語と朝鮮語の方が近い関係にある。    

崎山は、アイヌ語とツングース語とは系統が異なるというが、文法的、音韻的特徴に大差はない。(華北とバイカルの両文化センターは、もともと親子関係にあったから言語的にも大差はなかったと思われる。)

3)6000年前、縄文前期のころ、同じツングース系の言語であった、古日本語と古朝鮮語は方言のレベルから別の言語に分裂したと、言語年代学から推測される。

古日本語には、東アジアにおける位置的関係から、照葉樹林文化(雑穀)や古栽培民の文化(芋)、熱帯ジャポニカを含む文化などを持つ、様々な民族や集団が断続的に流入し、多くの南方系言語の語彙をもたらした。(国立民族学博物館教授の崎山理は、日本語の語彙の80%がオーストロネシア系という)

筆者は細石刃文化がもたらした東日本の言語は、後のアイヌ語に繋がる言語であった、そしてこの列島で従来から使われていた西日本の言語は、後に渡来人の言語と融合して現代日本語に繋がる言語になった、と考えている。

4) 弥生時代、水田稲作農耕技術をもたらした渡来人は、予想以上に高度な日本基語を習得し、いわばその北部九州方言「倭人語」をもって勢力を拡大し、西日本一帯に遠賀川式文化圏を確立する。これにより倭人語は「日本祖語」といえる標準的存在となった。

中部・関東地域でも農耕文化を受け入れた集団は、日本祖語を受け入れる。一方、旧東日本地区で、あくまで狩猟採集文化に拘った集団は、東北地方に後退し、独自の文化・東日本縄文文化を継承していく。

5)邪馬台連合王国からヤマト王権が成立する時代、南部九州にも新しい文化を拒否して、南西諸島にスピンアウトした集団がいた。彼らが使っていた方言がより独立色を強め、琉球語(琉球方言)となった。

一方、日本祖語は中国語から、文字という記録媒体を手に入れ、文化や思想語を大量に日本語の中に取り入れ奈良時代に「上代(上古)日本語」が成立した。

『日本人の起源』で、伊藤俊幸氏は「縄文文化が崩壊し、全く新しい、農耕技術や社会制度をもたらした弥生渡来人の故郷が、上代日本語から全く推測できないという、異常としか言いようのない現象は、日本基語がよほど完成され、語彙も当時としてはそれほど借用しなくても済むほどに十分であったから、渡来人の言語を農耕技術関連語として以外必要としなかった」のではないか、といっています。
つまり、「古日本語(日本基語)は、かなり早い時代、少なくとも、完成し尽くされた言語といわれる、サンスクリット語の成立時期、3000年前には、すなわち新年代観でいっても、水田稲作農耕技術の到来以前に、日本基語は混合言語として既に成立していた」「このころは、既に中国語から政治や文化に関する言葉を、借用する段階に入っていたと考えるのが常識であろう。」というのです。
「なぜなら、高度な石器や土器の製作技術やノウハウを、多くの人びとに広め、次世代に伝えていくためには、所謂“見様見真似”だけでは困難であり、かなりのレベルの言語的説明や、やり取り(質疑応答)をしなければならなかったと考えられるからである。すなわち、言語もそのレベルに達していたと考えるのが、自然であろう。」というわけです。
(伊藤俊幸「日本人の起源」参照)

平安時代初期815年に編纂された「新撰姓氏録」によると、当時現存した1,182氏族のうち、中国・朝鮮系からの渡来系は約3割で、そのうち4割は中国系だったと言います。これだけの渡来人を受け入れながら、どうして日本祖語の統一性が維持されたか、不思議ですね。
縄文文化から弥生文化への発展は日本をどう変えたか
『日本人とは何か』
 (縄文晩期)すなわち前300年以前に、大陸から、水稲栽培の技術と鉄器と家畜をもつ新来者が渡来しはじめたと思われる。この新文化は、繩文文化のにない手に異常な刺戟とあこがれを呼び起し、急速に広がったと見るのが通説である。彼らの造った土器が弥生式土器、その文化を弥生文化という。

この伝播はまず、北九州・瀬戸内海沿岸・近畿地方、そして東海の一部に及んだ。この第一波は遠賀川式文化と呼ばれるが、以上の範囲以外、すなわち南九州・南四国・山陰・北陸・中部・関東以北はいぜんとして縄文文化であったと思われる。ある期間は、両文化が併存し、しだいに弥生文化が浸透して行ったと見るべきであろう。

では一体、この稲作は大陸のどこから来たのであろうか。上山春平・渡部忠世編『稲作文化』の中に、日本は東アジアで最後に稲作が来たのだから、どこからでも来得た、言葉を変えれば、どこから来たとも確定できないと記されている。

日本は稲作でも東アジアの最後進民族であろう。稲は南方系作物だからごく単純にいえば南から来たといえるが、どういうルートを通ってきたかは明らかでない。しかし、稲作がはじまった順序から考えると、揚子江の河口附近から南朝鮮の西岸に東て、そこから日本に来たらしい。もちろんこれもさまざまな説がある。

というのは、稲は元来「高温多湿の地」の作物で、日本より寒冷で乾燥した南朝鮮にまず入り、ついで日本に来たのは少々奇妙に思えるからである。南方系作物、たとえば唐辛子などは日本経由で韓国に入っているが、これが通常のルートであろう。

韓国料理といえばすぐ唐辛子を連想し、一方日本人はこれを余り使わないので、何となく唐辛子は韓国からの影響で日本人も使うようになったと思っていた私は、韓国人から「日本から来たのですよ」と言われたときちょっと驚いたが、考えてみればこれがごく普通のルートである。ではなぜ稲は逆になったのか。

理由ははっきりしないが、紀元前四〇〇年ごろ、すなわち日本で稲作のはじまる少し前に気候の変化があり、寒冷化したのではないかと指摘する学者もいる。人間はその生活様式をなかなか変えないから、縄文式の生活文化が定着していると、たとえ稲が来ても稲作に移行しようとしない。ただ縄文末期には一部で赤米をつくっていたという説もある。

ところが寒冷化により縄文式生活が困難になると、まず北の韓国南部で稲作が普及し、さらに寒冷化が進むと南の日本へと移って行く、いわば寒冷化の進行とともに稲作技術をもつ民族の移動が起り、それが同じような気候条件へと移行しつつあった日本に、急速に広がったのではないかと推定する学者もいる。

「どこを経由して」という点では不明な点が多いとはいえ、大体「揚子江の河口附近」すなわち「江南」から来たのであろう。それが紀元前後に東北地方の中部まで広がったらしい。だが東北地方の北部は、品種改良をしない限り、気候的に稲作は相当無理であり、麦・粟が主体となった方が自然であったかも知れない。中国文化の中心すなわち黄河流域は元来は稲作文化でなく麦栗文化であろうが、これが日本に伝来して別の文化を形成したらしい形跡はない。これでみると、日本と中国の関係は直接か間接かは別としてまず揚子江河口附近との間にはじまり、北部との交流ははるか後のようである。

高谷好一氏は、稲作が「半栽培屋敷園地」に入ってきたころの状況を次のように記しておられる。

「日本列島に入ってきた大陸文化のうちで、最初のものは稲作技術であろう。この弥生稲作の普及してゆくさまを少し考えてみよう。森で被われた山地に入り込む谷筋に水田がずっと伸びてゆく。そして丘陵を被う森と、谷底の水田の境に集落ができる。集落のまわりには、かつての半栽培屋敷園地を思わせる里山ができる。里山には人々の植えた本々が四季おりおりの花や実をつける……」

いわば初期には縄文式生活に稲作が加わったような形であったろう。稲作の特徴は高い生産性にある。麦なら一ヘクタールあたりの収量は一トンが普通である。米だと三トンとれ地力の消耗が殆ど起こらないから定着的な集注が可能で、またこれは井堰や水路を造りかつ維持する共同作業のため必要でもあった。稲作民にとって潅漑設備は貴重な共有財産である。こういう共有財産を持つものが部族を形成して行ったものと思われる。

(中略)

樋口博士は、ここに日本文化の原点があると次のようにいわれる。「・・・結局、水田と言うものは、急に一人が思い付いて鍬や鋤一本でできるものではなく、大勢の共同労働と、その共通技術と、統一組織の中ではじめて成功するもので、日本が早く水稲栽培で国家成立に成功したのは、これが出来得たためだと強調したいのである。そのためには社会的に共同体を維持できる組織とその組織を機能させる指導力が生育していて、共通目的で共同労働が営まれなければならないわけである。」
 自然人類学の埴原和郎氏は、次のように縄文文化から弥生文化への発展を説明しています。
縄文人は1万年のもの長期間にわたって日本列島に生活し、温暖に気候に育まれて独特の文化を熟成させた。
大陸との交流は皆無ではなかったにせよ、縄文文化は一種の鎖国、閉鎖環境の中で、熟成されたと考えられる。
すなわち縄文人は1万年の間、混血など他の集団の影響を受けず、純粋な集団として小進化をした。
そして、 縄文末期になると、気候が冷涼化するにつれて北東アジア(朝鮮)の集団が南下し、渡来してきた。そして弥生時代になって急に増加し以後7世紀までのほぼ1,000年に亘って続いた。

こうした縄文時代鎖国説に対して、「日本人の起源」の伊藤氏は次のように言っています。
6,000年前頃、縄文時代のプレ農耕段階の照葉樹林文化が、中国江南地方から日本列島に伝搬し、中期(5,000~4,000年前)にかけて全国に広がった。4,000年前頃には、雑穀・根菜型の焼畑農耕段階に達し、それが九州地方を中心に西日本に広まった。
このことは、水田稲作文化を列島に持ち込んだ人たちが押し寄せてくる前に、東亜半月孤あるいは東亜稲作半月孤と呼ばれる照葉樹林文化を携えた人たちが列島に来ていたことを示している。
このため、華北型やバイカル湖型の北方アジア人で構成されてきた列島の西日本人、東日本人に、南方系の遺伝子が入ってくることになった。(遺伝子比率は8%程度)
つまり、縄文時代は完全な閉鎖的環境にあったわけではなく、縄文時代の照葉樹林文化としての発展(狩猟・採集・漁撈から焼畑農耕段階そして水田稲作段階へ)は、中国江南地方との交流抜きには考えられない。これが、日本語に南方語彙を多くもたらした原因である。
しかし、こうした縄文式生業も前3,000頃には気候の冷涼化により維持できなくなった。そのため、すでに水田耕作技術(江南より伝搬)が発達していた南部朝鮮との交流が始まり、縄文晩期には北部九州で水田稲作が行われるようになった。
その後、水田稲作が北部九州を中心に急速に普及し、遠賀川式土器を伴う弥生文化として日本各地に広がっていった。渡来人も北部九州に住み着くようになり、これがその地の縄文人と混血し倭人の祖型となった、と。

確かにその通りだと思いますが、実質的には、縄文文化は一種の鎖国、閉鎖環境の中で、熟成された、と言えるのではないでしょうか。 
日本の国作りはどのように進められたか
『日本人とは何か』
p39~92
 中国の史書に現れた日本

「紀元前2世紀~紀元前後ごろの時期には、倭人は定期的に前漢へ朝貢しており、また約100の政治集団(国)を形成していた(『漢書地理志』)。

1世紀中葉の建武中元二年(57年)、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて金印(「漢倭奴国王」印)の賜与を受けている。(天明四年1784年志賀島で発見)これは北部九州における倭人の政治集団の統合が進み、その代表として倭奴国が後漢へ遣使したと考えられている。(『後漢書東夷伝』)

2世紀初旬の後漢永初元年(107年)には、倭国王帥升が後漢へ遣使し、生口(奴隷)を160人献呈している。文献に名の残る日本史上最古の人物である帥升は、史料上、倭国王を称した最初の人物でもある。さらに「倭国」という語もこの時初めて現れている。これらのことから、この時期に倭・倭人を代表する倭国と呼ばれる政治勢力が形成されたと考えられている。帥升以降、男子が倭国王位を継承していった。(『後漢書東夷伝』)

2世紀後期になると倭国内の各政治勢力間で大規模な紛争が生じた(倭国大乱)。この大乱は、邪馬台国に居住する女子の卑弥呼が倭国王に就くことで収まったと推定されている。「この卑弥呼は独身で鬼道(シャーマニズム?道教の一派?)によって民をまどわし、政務は弟が見、婢(はしため)千人をはべらす、と記録されている。」(『三国志』(魏志倭人伝)や『後漢書』(東夷伝)ほか)」(wikipedia「倭人」より引用)

「これを見ると諸部族が相争い、シャーマンらしき巫女の下で一種の宗教連合体制をつくり、部族間の調整その他は巫女の弟が行っていたと思われる。だが奇妙なことに女王卑弥呼は約百年後の魏の景初三年(二三九年)にも登場する。これで見ると卑弥呼は『日の御子』または『日巫女』といったような称号ではなかったかと思われる。」

この時の頃を記録した『魏志倭人伝』には次のように記されている。(要約)
「倭の女王卑弥呼が大夫の難升米らを派遣した。彼らはまず帯方郡(韓国北部)にきて魏の明帝に朝貢を求めた。そこで帯方郡大守劉夏は案内をそえて難升米らを魏の都に送った。このとき女王は大夫難升米と次使都市牛利(とじこり)に男生口四人、女生口六大、班布二匹二丈を持たせて明帝に贈った。明帝は詔を下して卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を与え、絳地交竜錦五匹、五尺刀二口、銅鏡百枚を下賜し、これを国中のものに示すように言った。そして使者難升米は率善中郎将、牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与えた、と。この「親魏倭王」の合印が発見されれば面白いが、まだ未発見である。」

「その翌年とさらに三年後(二四三年)に魏と交流をもつ倭王が出てくるが、これは卑弥呼ではない。すなわち帯方郡大守弓道が詔書と印綬をもつ使者を倭王のところに派遣し、錦・刀・鏡などを下賜する。倭王は魏使に御礼の書状を託し、三年後に大夫伊声耆(いてぎ)と掖邪狗(やくく)ら八人を魏に派遣し生口や和錦などを献上し、率善中郎将の印綬を受けるといったことがつづく。」

「ところが魏の正始八年(二四七年)倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひめくこ)とが不和になり、倭の使者の載斯鳥越(そしあお)が帯方郡に来て狗奴国と交戦中と告げた。この報告を受けた魏の少帝は全権使節張政を邪馬台国に派遣し、難升米に詔書その他を与え、檄をつくって告諭した。このころ卑弥呼は死に、男王を立てたが治まらず、互いに殺しあって一千余人が死んだ。」

「そこで卑弥呼の宗女壱与(十三歳)を立てて王とすると国中が治まった。張政らは檄をもって壱与を告諭し、壱与は倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人で帰国する張政らを送らせ、魏都洛陽の政庁に来て、男女生口三十人、白珠五千孔などを献じた。だがこの魏は二六五年に滅び、西晋となるがやがて五胡十六国の混乱時代となる。この間、中国の記録は西晋の泰始二年(二六六年)倭の女王が入貢したとあるだけである。」

「中国が内乱状態になって無力化すると、周辺の少数民族はみな独立しはじめる。だがそれまでの期間を見ると、彼らは、圧倒的な超大国で超先進国であった中国の権威を認め、その政治力を背景にし、同時に女性のシャーマン的女性が祭儀権を持ち、その二つによって国内の小部族を統合していこうとするのご基本的な行き方であったと思われる。そして権威が確立すれば、中国の勢力は後退していってくれた方がいい。そして前記の西晋への入貢を最後に中国における日本の記録は途絶え、約百五十年間、何の記録もない」

「前記のように中国史で、「五胡十六国」といわれる時代、いねば北方民族の侵入と分裂で周辺諸国への影響を喪失した四世紀から五世紀はじめにかけて、「前期古墳文化」といわれる時代に入る。いねば共同作業で農地を開拓して、しだいに生産性をあげて行った共同体を統括する豪族の出現である。この豪族の墓が前期古墳で、その副葬品に武器や宝飾品があるのは不思議ではない。ただ興味深いのは鉄製の農具や工具が埋葬されていることである。鍬・鎌・なた・斧・やりがんな・のみ・きり・刀子などで、鉄の刃先をつけた鍬は耕作や開墾に大いに威力を発揮したであろうし、本の柄をつけた鎌は稲の根刈りを可能にし、直播から田植えへの道を開くとともに、藁の利用を可能にしたであろう。」

(この中国の五胡十六国時代の記録としては次の「広開土王の碑文」の記録がある。)wiki参照
391年 そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に来たので、(高句麗が)海を渡り(倭と結託した)百残を破り(396年)、新羅を救い、臣民とした。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲にでむいた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

この碑文によって、ヤマト王権(倭)が強国として4世紀の朝鮮半島に登場してきたことがわかる。ヤマト王権としても中国(東晋)の後ろ盾は当てにできないという時代、・・・高句麗の強い南下意欲に対して百済新羅を緩衝勢力として援助し、伽耶の鉄の利権を守ろうとしていたのかもしれない。(『日本人の起源』「空白の4世紀のヤマト王権」)

「そしてこれが五世紀の「中期古墳文化」になると、巨大な大墳墓になり、六世紀になると官人たちの小墳墓群になるという経過をたどる。時代によってさまざまな変化かあり、時代の変遷を物語っているが、副葬品から見ていくと、韓国南部の影響が特に中期から強くなり、多くの帰化人が渡来したものと思われる。そこにはさまざまな政治的原因も作用していたであろう。そして韓国南部の西海岸は日本と同様かそれ以上に、江南の影響を受けていたものと思われる。」

「日本が江南の地と深い関係にあったことは、漢字の発音に今なお「呉音」が残っていることに示されている。これは、日本人が相当に漢字に習熟しだのは六朝(二二二~五八九年)の間であることを示している。そして六朝が滅びて隋唐の時代となり、長安に行った留学生は、その発音が「漢音」だったので、最初は相当にまごついたと思われる。日本人が急いで漢音を習得したのは七〇〇年ごろ、というのは七一二年とされる『古事記』は呉音だが、七二〇年の『日本書紀』は漢音だからである。もっとも『古事記』の年代には問題があるので、呉音と漢音が併用されていたと見るべきかもしれない。」

「このことは、隋唐時代に多くの留学生・留学憎が派遣される前から、日本人が相当に漢字になじんでいたということである。そしてこの六朝時代の特色が、相当に深く日本人に浸透しているといえる。簡単にいえばそれは非政治的貴族文化ともいうべき、道教的・仏教的文化で、それがある水準に達した時に、ゆるやかな統一的国家が形成され、骨(かばね)の代(=氏族制の代)の形成へと進んだと見てよいであろう。」

「応神天皇三十七年(三〇六年)〈*この実年については、四世紀末から五世紀初めとすべきではないか=筆者)阿知使主と都加使主を呉に派遣して縫工女を求めさせ、無事に兄媛・弟媛・呉織・六識という四人の女性を連れて帰ったという記録である。・・・米だけでなく織物もまた揚子江の河口附近から来たこと、これは日本の蚕が今日でも江南系であることに示されている。さらに製鉄も同じで、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣は新日鉄研究所の調査結果では中国江南の鉄鉱石で、技術もまた江南で行われていた炒鋼法であるという。・・・一方、韓国からも鉄を輸入したらしい。」

(この間の倭の五王(讃、珍、済、興、武)と中国王朝(六朝)との交流は次の通り活発なものがあった)wiki参照 
413年 東晋に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 宋 永初2 讃 宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王。(『宋書』倭国伝)
425年 宋 元嘉2 讃 司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(『宋書』倭国伝)
430年 宋 元嘉7 讃? 1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(『宋書』文帝紀)
438年 宋 元嘉15 珍 これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。(『宋書』倭国伝)
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される。(『宋書』倭国伝)
443年 宋 元嘉20 済 宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)
451年 宋 元嘉28 済 宋朝から「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
7月、安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
また、上った23人は、宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)
460年 宋 大明4 済? 12月、遣使して貢物を献ずる。
462年 宋 大明6 興 3月、宋孝武帝、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)
477年 宋 昇明1 興(武) 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)
これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝) (ワカタケル大王の銘文ーー672)
478年 宋 昇明2 武 上表して、自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀、倭国伝)(「武」と明記したもので初めて)
479年 南斉 建元1 武 南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『南斉書』倭国伝)
502年 梁 天監1 武 4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(『梁書』武帝紀)[2]

「600年推古大王は倭王武が宗に遣使して以来120年ぶりに、中国王朝に使者を使わした。いわゆる遣隋使である。(この時)”対等外交”が方針であった推古天皇の使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けぬうち(夜明け前)に政治を執り、日が昇ってくると政務を弟に任せます。」といったとされる。

さらに第二回目の遣隋使(607年)では、小野妹子に託した国書「日出る処の天子、書を日を没する処の天子に致す。恙なきや」を贈った。これは煬帝の不興を買い、「蕃夷の書、無礼なるものあり、二度と取り次ぐ事なかれ」と外務大臣に命じたとされる。しかし、高句麗との対立に神経をとがらす隋は、冊封を望まない倭国との外交関係を維持した。

大和政権は時をおかず、冠位十二階や憲法十七条の制定、朝廷での礼儀作法の改定など”国としての体制整備”に全力を挙げた。」(『日本人の起源』「冊封体制からの離脱と半島情勢」)

「これは簡単にいえば『骨の代』(後述)を終わらせて『職の代』をつくる革命であった。すなわち従来の氏族制度における皇室と各豪族の個別支配と、品部(職業部)の管理機構を基とする朝廷の世襲的な職業組織を否定し、中国の律令制にならい、公地・公民制を基礎とする中央集権的・官僚制的な支配機構を打ち立てることであった。」(p89)

「大化の改新以前に朝廷の屯倉では戸籍に基づいて厳密な課税をする農民支配の方式が部分的に実施されており、素朴ながら官僚組織も整備されていた。そして地方の半独立的な国造(くにのみやっこ)をしだいに自己の地方官のようにしていた。簡単にいえば中国から部分的に新しい方策を導入しうる中央と、それができない地方との間に文化格差が生じていったわけ」である。(p91~92)

「しかし一方で、この中央を支配する有力な豪族の間では天皇家の地位は相対的に低下していた。そうなって当然であろう。中国が権威となると、より中国化しているものが権威となる。簡単にいえばそれは韓国と韓国系渡来人と、それに支持された者が権威になっていく。天皇が権威を回復するため大豪族の蘇我氏を滅ぽしたのが大化改新のクーデターと見るなら、これが天皇家が絶対的な権力を獲得しようとした事件だといいうる。

しかし、それによって新しい政府を構成したのが中央の豪族だから、日本全体として見た場合、強力な天皇を中心とした中央の豪族が律令をもって全日本を支配する体制を生み出したともいえる。というのは律令制国家で支配階級となったのは畿内の豪族出身の貴族だったからである。そしてこれが、彼らが天皇による改革を支持した理由であろう。」(p92)

*「骨の代」というのは、伊達千広(1802~1877)が1848年に執筆した『大勢三転考』(明治六年出版)で用いた歴史区分によるものです。彼は、日本の歴史を、それまでの日本の伝統的な歴史記述区分(中国の『史記』のような「紀伝体」や、『資治通鑑』のような「編年体」)によらない、日本独自の歴史区分で記述しました。それは日本の歴史を「骨の代」「職の代」「名の代」の三つに区分したもので、今の言葉で言えば、それは「氏族制の時代」「律令制の時代」「幕府制の時代」に対応します。

「骨の代」とは「制なき時代」と彼は規定しているが、これは明確な人為的な政治制度がなく自然発生的な秩序の下に「何事も大らかに有けん」時代のこと。そして大陸の影響や人口増加で政治制度が変わり、律令時代すなわち「職の代」となる。この変革を彼は天武天皇の九年(六八一年)とし、この年に制定がはじめられた律令(浄御原令)によりこのとき骨が廃され、その体制は大宝律令(七○一年)の公布で完成する。

彼はこれを上からの改革「上の御心より出て、つとめて変易させ賜へる」とするが、「職の代」から「名の代」へは文治元年(一一八五)頼朝が六十余州総追捕使になったときで、これは下からの変革「下より起こりて次第に強大にして止むことなき勢なり」の結果生じたと規定する。そしてこれを招来したのは、支配階級が専ら文治で、武門で低い階級から出た結果とする。いわば「職の代」がそういう制度をつくり、その結果「名の代」が招来されたと彼はいう。」(上掲書p25~26)
 日本の古代史を論じる際最も困惑することは、左記のような中国の史書や考古学的な研究によって確定された史実と、古事記や日本書紀によって語られた建国物語を比定することが極めて困難だという事です。
記紀は、倭国のことも邪馬台国のことも、卑弥呼のことも、さらには倭王が冊封を求めて中国王朝(六朝)に度々遣使したことことにも全く触れていません。
また、記紀に記された、出雲へのスサノオ追放からオオクニヌシの国譲りの物語、日向高千穂への天孫降臨から海幸山幸彦の物語、神武東征から大和征服までの物語などが、史実とどのように対応しているのかもよくわかりません。
さらに、継体天皇以前の天皇に関する紀年は 、実在の可能性がある最初の天皇とされる第十代崇神天皇以降の天皇についても、その実年が大きくずれています。(これについてはいろいろな紀年論による修正が試みられていますが。)
しかし、こうした記紀の物語から、日本神話の最も古い層の主題が、海と山と湿地の葦(稲作)の生命力と繁殖力に基礎をおいていること。それが狩猟・漁労そして稲作を基盤とする縄文・弥生式的生活様式を反映していることはわかります。
では、なぜ、このような記紀の編纂が、律令制を導入して中央集権国家を形成しようとする段階で取り組まれたのでしょうか。
それは、こうした新しい国作りを進めようとする皇室が、その統治の正統性を、それまで500年以上続く祭儀権の継承に求めたためではないか、と山本七平は言っています。
つまり、記紀の編纂によって、神々による国産みから大和朝廷に至る統治の継続性と皇統の連続性を明らかにするとともに、それら神々を祭る祭儀の神聖性を担保しようとした。
また、律令制という、中国の政治制度の導入による政治改革を成功させるためにも、明治の和魂洋才と同じように、伝統祭儀のオリジナリティーを、より強くアピールする必要があった、ということではないでしょうか。
さらに、過去の政権が中国と冊封関係にあったことを清算する必要にも迫られた。そのために、記紀から、倭国や邪馬台国、さらに倭の五王が中国に朝貢した事実がオミットされることになったのではないかと思われます。
といっても、記紀編纂の素材となった説話が、全て記紀記者による創作と決めつけることはできないと思います。それは、日本書紀が複数の異説を併記していることや、記紀の記述内容が相当にリアル?であることによっても伺い知ることができます。(その解釈には諸説ありますが)
では、これらのことを総合的に勘案した上で想定できる、倭国の成立から大和朝廷建国に至までのプロセスはどのようなものだったのでしょうか。このことについて津田左右吉は次のよう説明しています。
(津田は記紀の説話を記者の造作としたとして批判されることが多いようです。しかし、山本七平は、津田の真意は、それは「歴史的事件」の記述ではないが、「歴史的事実」を示すとしているのだ、として次のように津田の説を要約敷衍しています)

「シナの記録に現れているように、小さな政治勢力がいくつもあったということと、ずっと後になって地方的豪族が世襲的に領地をもって居ったということの間には、連絡があるのであります。
すなわち日本民族が民族としては一つであり、民族的には共同な生活を致しておりますが、政治的には小さな政治勢力がいくつも存在しておったということが推察されるのであります。
では大和朝廷はこういった政治的小勢力を次々に打倒して日本を統一国家にしたのであろうか。そうとは考えられず、何らかの文化的優位性をもって、他の政治的小勢力を服属させていったのであろう。
「大和と申しましても、必ずしも今日の大和の国のみに限った、そう厳格に限るわけには参りませぬが、大体、大和地方、その地方に根拠のあった国家が一番大きな勢力があったと考えられます。
それはその土地の状態からも、また考古学的にも推測することができます。この大和という所は淀川の平原を持っている非常に豊饒な上地であったと同時に、すぐに瀬戸内海に於て西の方と交通のできる非常に便利なところであります。西の方、シナから入って来たところの文物をすぐに輸入することのできる上地でありまして、文化的にも極めて都合のよい場所を占めております。
シナの文化を輸入するという点では、北九州も瀬戸内海沿岸もまた有利だったはずだが、大和ほどの広大で豊沃な後背地を持ち得なかったこと、そしてこの点は、はっきりとはわからないが、有能な指導者がいなかったことが、結局、大和のような主導権を持つ文化を形成できなかった理由であろう。」
「けれども、先刻申しましたように、大和の朝廷の文化の基礎としてシナ伝来の文化というものが少なからぬ働きをしておったと思われます。
それから見ますると、シナの文化が大和の附近に段々及んできて、そうして例えば鉄器を使うとか、そういう新しい文化がそこに勢力を占めて来たということは、大和の朝廷のこの(全国統一という)御事業に何らかの関係があったことと思われます。
それは徐々のことでありまして、一時のことではありませぬ。徐々のことであり、一時のことでないということは、先刻申し上げましたように、武力的征服をなされたならば、それは急激にその領土は拡げられることができるのであります。日本の国家統一の状態は武力的征服ではなかったと考えられるのであります。
国家の範囲に入るものが段々に多くなって来た、というように考えますと、それは長い年月を要します。東の方のことはよく分りませぬが、西の方のことは大体見当がつくのでありまして、シナの記録と照し合わせて見ますると、九州の北部が大和の国家の範囲に入ったのは四世紀のはじめごろではないか、こういうように推測せられるのであります。」(九州の邪馬台〈やまと〉国が東遷し大和朝廷になったとする説もある) 

こうした津田の見解を受けて、山本七平は次のように言っています。
「以上のようにして、ゆるやかな文化的統合体としての日本が形成され、それがそのまま統治体制となったのが『骨の代』であろう。」では「一体『骨(かばね)』とは何であろうか。それは大体氏族の首長もしくは中心的人物をいうと定義してよいであろう。・・・となると問題は『氏』である。氏とは『うみすじ』(産筋)の意味、大体『同一の一族』を示すと考えてよい。」
「そしてその氏の長の名称が姓である。そしてこの氏族が土地・人民を所有して半独立国のようになっており、時にはそれらが相争って『倭国の内乱』となるわけだが、その中の最大の氏族が天皇であり、他の氏族と違う点はおそらく祭儀権を持っていたことであろう。・・・そして、大氏族は天皇の下で何らかの職務を行うことで、氏族連合政権のようなものを構成していたらしい。」
「では氏族体制の内部はどのようになっていたのか。これは明確にはわからないが、天皇も一氏族だからほぼこれと同じような形で、ただ全体を統一する祭儀権はなかったものと考えればよいであろう。それは一族による土地・人民の支配組織と、職業集団である『部曲』(かきべ)または『品部』(ほんちべ)で構成されていたものと思われる。・・・『部曲』または『品部』は職業集団で血縁集団ではないが、職業を世襲すると血縁集団化する。・・・やがてこの職業その他が姓になっていく。」
(しかし)「以上のような氏族制は、次第に崩壊して行かざるを得なかった。それが自覚されたのは「再び国内を統一し、強力な帝国となった隋・唐が、その勢力を朝鮮に伸ばしてきて、百済から援軍を要請されたときであった。援軍の日本軍は白村江で惨敗して百済は滅びる。次は日本の番ではないかという恐怖は、北九州の防備を厳重にしたことに表れている。同時にこの危機感は国内体制の整備にも向けられた。」

こうして大和朝廷は律令制導入による中央集権国家の形成へと進んでいったのです。なにかしら、明治維新の時と事情がよく似ているような気がしますね。
日本文化の源―「かな」がなければ日本はなかった
『日本人とは何か』
p58~81
 「平安前期までの日本は、ほとんど中国文化のとり入れに明け暮れた。その中で本当に創造的な仕事といえるのは、仮名の発明ぐらいである」(東野治之著『木簡が語る日本の古代』)。・・・このことの意味は大きい。日本人は自らの言葉を記す自らの文字を創造し、それによって自らの古典を記し、それと並行して組織的な統一国家を形成した。このときに日本ができたと言っても過言ではない。

もちろん文字なき文化はあるし、言葉なき思想もありうる。だが『古事記』『万葉集』から『竹取物語』や『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』、さらに歌集・日記類から随筆『徒然草』に至る膨大な「かな古典文学」ともいえるものが創造されなかったら、現代の日本文化は無かったといってよい。日本人は「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった。この意味で日本を考える場合、「かなの創造」は、忘れることのできない画期的事件、「かなの創造」がそれ以後の日本に与えた影響は計り知れない。

自分の考えを自分の言葉と自分の文字で、何の束縛もなく自由自在に記しうること、それが広く庶民にまで普及して識字率を高めたこと、また和歌・俳句を生み出して日本的な感性を育んだこと、この重要性はいくら強調しても強調し足りないが、後述するように問題はそれだけではない。簡単にいえば「かな」がなければ日本は無く、そうすれば日本文化は当時の超先進大国中国の、漢字文化の中に包摂され埋没してしまったかも知れないということである。(p59)

では一体、日本文化を決定したといえる「かな」はだれがつくったのであろう。弘法大師や吉備真備が伝説であるにしろ、だれかが造らない限り存在するはずはない。だがそれはアルファベットをだれが造ったのかわからないのと同じようにわからない。漢字をそのまま表音文字に用いた「万葉がな」が、「かな」の基本であることは言うまでもないが『万葉集』自体が五世紀前半から天平宝字三年(七五九年)正月一日まで、約四百年間にわたる四千五百首ほどの歌の集録(二十巻)で、『万葉集』自体が「一漢字「一かな」とはなっていないから、だれの創作かは、はじめから不明である。

これが余りに複雑なため、平安時代にすでに難解となり、そこで天暦年間(九四七~九五七年)に宮中で源順(したごう)ら五人が『万葉集』にひらがなで読みを添えた。これが「古点」、これを付したのが「古点本」といわれ、現代の『万葉集』の原本になっている。

このように複雑なものを簡単に説明するのはむずかしいが、源為憲『口遊(くちずさみ)』(大禄元年=九七〇年)を見るとその原則が理解しやすいので、次に記そう。

大為尒伊天。奈徒武和礼遠曾。支美女須土。安佐利□(追?)比由久。也末之呂乃。宇知恵倍留。古良毛波保世与。衣不禰加計奴。

これを表意文字として読んでも、何の意味もなさない。中国人に読ませたら「狂人の文章」というかも知れない。というのは、多少意味が通る「古良毛波保世与」でも「古き良き毛、波保ち世与う」の意味になってしまう

そこでまず前の源為憲の記した漢字の数を数えてみる。四十七文字。これはロドリーゲスが記している「かな」の数であり、同じ字が一つもないところから見ると、万葉がなで記した一種の「いろは歌」であることがわかる。そのように読むと、

田居に出で。菜摘む我をぞ。君召すと。求食(あさ)り追ひ行く。山城の。打ち酔へる。子ら藻葉干せよ。得舟繋けぬ。

となる。これを現代のかなに整理をすれば次のようになるであろう。

安=あa、 伊=いi、 宇=うu、 衣=えe、 (追)=おo
加=かka、支=きki、久=くku、計=けke、古=こko
佐=さsa、之=しsi、須=すsu、世=せSe、曽=そSo
大=だta、知=ちti、徒=つtu、天=てte、土=とto
奈=なna、尒=にni、奴=ぬnu、禰=ねne、乃=のno
波=はha、比=ひhi、不=ふhu、倍=へhe、保=ほho
末=まma、美=みmi、武=むmu、女=めme、毛=もmo
也=やya、為~ゐyi、由=ゆyu、恵=ゑye、与=よyo
良=らra、利=りri、留=るru、礼=れre、呂=ろro
和=わwa、□=ゐ、  □=う、  □=ゑ、 遠=をwo

以上のように四十七字になる。このほかにもさまざまな「いろは歌」があったらしいが、もし万葉がなと現代のかなとの関係が上記のようにすっきりしていたなら、『古事記』の解読などはたいしてむずかしい問題ではなかったであろう。

ところが大野晋博士の調査によると、一字一音に用いられた万葉がなの数は、記紀・万葉を通じて九百七十三字に達するという。いわば一音に幾通りもの漢字があてられているわけで、同博士の「万葉仮名一覧」表を見ると、その複雑さに驚く。一例として「く」を取り上げてみよう。推古期には「久」だが、古事記・万葉では「久玖九鳩君群口苫丘来」で、これが日本書紀では「久玖区苦句勾(糸へん+勾)倶矩窶屨衢」となっている。なぜこのように複雑になったのであろうか。

まずその期間が四百年にわたること、また『万葉集』では多く地方の歌も集められたこと、記紀ではおそらく、中国にならって同一の漢字の反復を避けたためなどの理由があると思われる。このような混乱があるうえに、漢字をそのまま表意文字として用い、それが万葉がなと混在し、そのうえ音で読んだり訓で読んだりしているから、その複雑さは少々救いがたいという気がする。さらに、これに漢文の引用がまじったり、また日本的な変な漢文が入ったりしていると、まるで解読不能な暗号のようになる。・・・その複雑さは、万葉の有名な歌を二首あげれば十分であろう。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香米山
春すぎて 夏来るらし 白拷(しろたえ)の 衣乾しおり 天の香具山

だれでも知っている持続天皇の歌である。この歌は、それを知る者には万葉がなだけを見て読んでも、ある程度は読める。しかし大伴旅人の「酒を讃むる歌十三首」の、

痛醜 賢良乎為跡 酒不飲 人乎𤎼見者 猿二鴨似

になると、そういえば面白い歌があったなあ、とは思っても、なかなか
「あな醜(みにく) 賢(さか)しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る」
とはなかなか出てこない。この場合、「酒不飲」はいうまでもなく漢文である。

まことに混沌とした感じだが、これは自分の心の中にある歌を、何とかして、その当時の日本の周辺世界にあった唯一の文字で書き表わそうという苦闘の結果だった。日本語が中国語だったら、だれもこんな苦労はしない。

そこにあった苦闘は、漢字に圧倒されて日本語を殺すか、漢字を手なずけて日本語の文字にしてしまうかという苦闘だった。そしてもしそれができなければ最初に生命を失うのは詩と歌だったはずである。和歌を漢文にすれば死んでしまう、それはもう歌ではない。この点ロドリーゲスがかなの使用で「韻文や詩の書物を書く」のに用いると記しているのは、正確な記述というべきであろう。(p68~72)

・・・万葉がなが「いろは歌」のような形で「かな」」として成立すると、日本人は、百花燎乱ともいいたい古典文学の世界を生み出した。『古事記』、『万葉集』、『源氏物語』、『古今和歌集』、『平家物語』といった著名な作品だけでなく、ドナルドーキーン博士が『日本人の日記』の中で取り上げた膨大な日記文学にいたるまで、そこには、自国語を漢文の拘束から解放し、自由自在に自国の文字で語っていける喜びと豊饒さが現われている。

私は韓国に、このような自国語の古典文学がないことを知ったとき、一種の衝撃を感じた。もっとも『三代記』という『万葉集』のような歌集があったらしいが、それは失われ、はるか後代の十二、三世紀の『三国遺事』の中にその一部が漢字で集録されていることを知ったとき、一体なぜそのようになったのか、小林秀雄が『本居官長』の中で記しているように「文化の中枢が漢文で圧死させられた」のか、との何ともいえぬ不思議な感じに打たれた。

「万葉集という歌集は、とにかくわれわれが、無条件にたのしめる文化遺産である」(岩波版日本古典文学大系「解説」の冒頭)といえる遺産をもつわれわれは幸福である。万葉は今も生きつづけている。(中略)

だが、この『万葉集』が成立していく四百年間こそ、同時に日本国家の基礎が確立して行った時期であった。日本は自らの文字を創出しつつ、自らの文学と国家を創作していったわけである。この点でも日本人は、相も変わらぬ駆け足民族である。自らの文字を造ると、いきなりその文字で自らの言葉の自らの文学を創作した民族は珍しい。自らの文学を創作するにあたって、ローマ人は長い間ギリシア語を用い、ヨーロッパ人は長い間ラテン語を用いても、自国語は用いなかった。この点では、自国の文学をあくまで漢文で記そうとした韓国人の方が普通なのかもしれない。李朝の世宗がハングルを造ったのは一四四三年すなわち足利時代だが、ハングル文学の出現は十七世紀といわれる。

「かな」ができても、日本人は漢文を捨てたわけではない。漢文は中国およびその周辺民族にとって一種のエスペラントであった。(中略)
いわば日本人は「かな」による自国語の世界に生きつつ、同時に漢字という当時の東アジアの「世界文学」につながって生きていた。そしてこのように独自性と普遍性を併せ持つことで日本の文化は形成されていった。(p77~81)
 山本七平は繰り返し「かな」が日本文化を創ったといっています。しかし、いうまでもなく、その「かな」は、話し言葉としての日本語を表記するためのものであって、「かな」が創られるまでに日本語が出来上がっていたことを意味します。
このことについては、本語録の「日本語はどのようにしてできたか」で、伊藤俊彦氏の説を紹介しましたが、ここでは産業能率大学の安本美典氏の説を紹介しておきます。

◆ 2~1万年前,日本海を取り巻く広い地域に 環日本海人と呼ぶべき人たちがいた。彼等はユーラシア大陸の東北部に押しだされてきた人たちである。 彼等の言語を「古極東アジア語」と呼ぶことにする。( 当時の日本海は内海・湖であり,日本と大陸は現在のサハリンと九州の地を介して地続きであった。 日本海が現在の形になったのは約8,000年前 )

◆環日本海人は日本人の母胎である。 現代日本人は,遺伝的な諸特徴を,主に環日本海人から受け継いでいる。日本語の骨格をなす文法的・音韻的諸特徴なども環日本海語から受け継いだとみられる。

◆日本海の北回りで大陸とつながるような環日本海人の子孫が,縄文時代人の大多数であり,さらにその主なる子孫がアイヌとみられる。 縄文時代の人口分布の特徴はいちじるしく東日本に偏っていることである。

・縄文時代には日本の太平洋沿岸地帯にインドネシア系言語を使う人たちが住んでおり,その語彙が「日本基語」に取り込まれた。

◆日本海の南回りで大陸とつながるような環日本海人が,縄文時代も南朝鮮,対馬,壱岐,北九州などにいた。 この人たちが,長江下流域からの水田耕作や文化などを積極的に取り入れ「弥生文化」を成立させた。 南朝鮮にいた倭人は,その後,朝鮮半島から次第に押し出された。

・縄文時代晩期,約 3,000~3
,500年前には,すでに朝鮮半島南部から九州にかけて,ユーラシア大陸から押し出されてきた一群の人たちが住んでいた。 彼等を「原倭人」と呼び,彼等の言語を仮に「日本基語」と呼ぶことにする。

・約 2,500年前に,身体語(※)や植物関係の語彙,数詞,代名詞がビルマ系諸語からもたらされて「日本祖語」が成立した。中国の長江下流域(江南)に広く住んでいたビルマ系語族を主とする人たちが水田稲作文化を携えてやってきたため。 彼等は人口的には必ずしも多くなかったが,文化的・政治的な先進性のゆえに一時支配層を形成した可能性がある。
  ※ 身体語(一音節語が多い)=手・足・目・口・歯(上古音Fa)・鼻(Fana)・耳・毛・頭(kasira)・舌・背(se)・腹(Fara)など。

◆古極東アジア語は,日本列島が大陸から離れるにつれて( 5,000~ 6,000年くらい前に )、
◇古日本語(日本基語)→ 後に 倭人語(日本祖語)へ発展
◇古アイヌ語→ 後にアイヌ祖語へ発展
◇古朝鮮語 → 後に朝鮮語祖語へ発展した。
この三つは方言化し,異なる言語へとに分化していった。

◆ 日本祖語の成立地域のうち,北九州を中心とする地域に,のちの三世紀ごろ邪馬台国が成立した。 邪馬台国勢力は,出雲地方に、南九州に,そして近畿へと勢力を伸張させた。 やがて邪馬台国後継勢力が,畿内(大和)に大和朝廷をたてた。 大和朝廷は,さらに東へと勢力をのばしつづけ,ついには日本列島全体を日本語化した。
(いうまでもなく、邪馬台国の位置には諸説あります=筆者)

◆ 歴史時代になってからは漢語[中国語]の強い影響を受け,大量の単語を借用した。

■ 古朝鮮語を話す人々は,もともと南満州(現中国東北地区)にいたが次第に南下してきた。新羅・百済系言語(韓族)と高句麗系言語(夫余族)には早くから違いがあった。 夫余族と韓族とは約 1,500年前に分裂という説が有力である。新羅語の後裔が現代韓国・朝鮮語である。
「JI's HOME PAGE」「日本語の起源」参照

以上のように、古日本語(日本基語)は、かなり早い時代、すなわち新年代観でいっても、水田稲作農耕技術の到来以前の今から3,000年位前までには、混合言語として既に成立していた、と見ることができます。
そのために、弥生時代から古墳時代そして大和朝廷の成立に至るまでの間、中国系・朝鮮系の相当数の渡来人の日本への流入があったにもかかわらず、後に「万葉仮名」で表記されるような情緒面でも完成された「日本語」を生み出すことができたのです。
そして、その話し言葉としての「日本語」の音に相当する中国の漢字から「かな」文字を創りだし、それで和歌をつくることができるようになって、コミュニケーションの質が一気に高まることになったのです。
日本最初の勅撰の歴史書である「日本書紀」は、漢文で書かれていますが、その中に取り入れられた和歌は、万葉仮名で書かれています。つまり、かなによってはじめて日本人は自分たちの考え方や感情をストレートに「かな」文字で表現できるようになり、それが庶民にまで広がっていったのです。
律令制はなぜ崩壊したか、また、なぜ天皇制は存続したか
『日本人とは何か(上)』
p93~p108
◎ 改革の柱「班田収授の法」

大化改新から(これはもちろん問題があるが)大宝律令に至る改革の要点を記せば次の六つになるであろう。
(一)私領廃止。氏族の所有する私領・私民を公地公民とする。

(二)班田収授の法。この公地を公民に貸与する。男子は二段、女子はその三分の二。六年ごとに戸籍による死亡・出生を基に調整する。この公田を口分田という。

(三)租・庸・調等の税を課す。租は田地一段ごとに稲二束二把、一町で二十二束。調は田一町に絹一丈・絁(あしぎぬ)二丈・布四丈で、ここまでは戸別でなく田一町で徴収する。そして戸別には調が布一丈二尺と塩等の特産物、そして庸が米五斗・布一丈五尺とする。そしてこのほかに兵役と徭役があり、これが人々を苦しめた。

(四)中央官制。これは唐を模倣したが、何といっても唐は当時の世界帝国だから、その膨大な機構をそのまま採用することはできず、簡素化されている。だが、問題はそれだけではなく「神祗官と太政官」の併存関係という、唐にはない組織になっていることである。だがこれについては後述する。そして各省には長官・時間・判官・主典の四等級の官吏がおり、その権限は法で定められていた。

(五)冠位。二十六の階に分ける。

(六)地方制度。地方は国・郡・里に分け、五十戸=一里、四十里=大郡、三十四里以下四里以上=中郡、三里=小郡とする。大体、里が行政の末端でここに里長を置き、戸口調査・警察・徴税を行う。これが人民に直接に接する官吏であった。その上に郡司がおり、その大きさに基づき二階級になり、その下の実務担当の主政・主帳がいる。そしてその上の国には、中央から任命された国守がいて、これが国を治める。

制度はきわめて整然としているが、問題は人事である。もし国守に中央の豪族出身の貴族が派遣され、郡司に大化改新以前の国造を任命したら、地方の支配階級は昔と変わらず、ただそれが中央から任命され、中央の統制を受けるだけになってしまう。そして現実にはそうなった。だが、この慣習的支配機構の実質的継続は、むしろ地方の動揺を防いで安定させ、これが改革を成功させて継続させたと見る学者もいる。

いま「貴族」と記したが、名目的にいえば律令制のもとでは貴族と平民の区別はないはずである。そして人民は唐を模倣して「良」と「賤」に分かれていた。そして「良」民には口分田が貸与され、そのかわり租庸調と雑徭、さらに兵役の義務を負わせた。一応貴族といえるのは五位以上のもの、良民の負う一般的な課役を免除されていた者をいうと規定してよいであろう。だがこれはほんの少数者、また「賤」も少数者で、国民の殆どすべては口分田を貸与されている「良」すなわち公民ということになる。

(だが)「この制度を維持するには、次の三つの条件が満たされねばならない。(一)戸籍が完備していること、(二)それに基づいて必ず口分田として貸与できる農地があること、(三)口分田を耕し、諸税を納めて、なお農民が生活を維持していけること。こう見ていくと、まずだれでも感ずることが、人口が増加し貸与すべき口分田がなくなったらどうするか、である。

対策は開墾しかない。大規模な開墾は組織労働力の投入が必要だが、それはだれが負担し、開墾した上地の所有権はだれに属するのか、それも公田とされるなら、だれも開墾などしない。そうなって貸与すべき口分田がなくなれば、農民は浮浪民になってしまう。この矛盾から当然に生ずるのが、浮浪民をつかって開墾させ、そこへ入植させて、その農地の私有化を認めさせようという動きである。それが少し進むと、はじめから戸籍に登録せず、租庸調を逃れて入植地で働いた方がはるかに有利とする者が現われる。とするとその子供たちははじめから口分田なき「無戸籍人」になってしまう。

もちろん、戸籍に登録されていた方がはるかに有利なら別だが、租庸調さらに兵役・徭役と見ていくと、「公民」であることは義務だけあって権利はなく、無戸籍農民より有利とは思えない。・・・『万葉集』の山上憶良の「貧窮問答歌」を読むと、おそらく七二〇年ごろの、下級官吏や農民の貧しさがよく現われている。

◎律令制崩壊を促した農民逃亡

慶雲三年(七〇六年)、王族や大官が、口分田になっていない山沢を占拠して開墾しようと動き出す。朝廷も開墾を推進せざるを得ず、養老六年(七二二年)水田百万町歩の開墾を計画、また諸国にそばや麦などの栽培を奨励する。そして翌年に三世一身法が公布され、開墾した田は三代まで私有が許され、そして天平十五年(七四三年)墾田永代私財法が公布され、公地公民制はわずか半世紀で徐々に崩壊していく。

そしてこれと並行するように農民の逃亡が増えはじめる。彼らは、開墾地をもち、あるいはさらに開墾を進めようとする地方の豪族や有力農民のもとに身をひそめ、税を逃れてそこで働く。またこういう社会そのものから逃避しようとする者は僧になってしまう。これが私度僧で、当時、勝手に僧になることは禁じられていたから、億良がいうように「これ山沢に亡命する民なり」であろう。

*山上憶良の立場は「律令官吏」であった。しかし、その歌は、律令制の「たてまえ」としては、公地公民制は全ての民の生活を保障し、そのもとで、官吏は、三綱(君臣・父子・夫婦の道)五教(父は義、母は慈、兄は友、弟は順、子は孝の五つの教え)の教えを説くべきだが、現実には、山沢に逃亡する民を生んでいることを嘆くしかなかった。思想的には儒教的だが、彼の「子等を思う歌」や「宴を罷る歌」を見ると、それは妻子への愛情を率直に歌い、これが世の「道理(ことわり)」とするものであった。

だが前記のような矛盾から律令制は崩壊していき、天平時代(七二九~七四九)に畿内とその近辺の村落から二〇%の人口が逃亡していたという。それが中央・地方の豪族の私有地の労働力となっていく。だがその一方で、律令制は全国に広がり、東北から九州の薩摩まで公地公民制のもとに全日本が組織化されていく。

この一見、矛盾した現象の背後には、先進国唐の文化と技術を摂取した新しい官僚が国守に任命され、組織的に地方の開発にあたったという点も見逃せないであろう。というのは、公地公民制は多くの欠陥があるが、その地方の公民を循役によって組織的に動員して開拓に投入しうる利点がある。もちろんこれは農民にとって苦しい労働だが、これを国守が潅漑・水利・沼池の干拓・築堤等に用いるなら、その利益はやがて農民にかえってくる。こういう(ことを実行した)立派な国守がいたことも事実で、その一人が『続日本紀』に出てくる道首名(みちのおうとな)であろう。

だが、すべての国守が道首名だったわけではない。そしてはじめは、どんな横暴な国守が来ても、地方農民は抵抗の方法を知らず、唯一の道は、逃げ出してどこかの開拓地に入り込んでしまうことであった。だが後になると、農民が国守を告発する例も出てくる。

農民たちに告発されたという記録は貞観三年(八六一年)にすでにあるが、珍しく告発文のほぼ全文が残っているのが永延二年(九八八年)の「尾張国郡司百姓等解文」であり、その三十一箇条の告発を見ると、悪徳国守があらゆる不正を行なって民を収奪して蓄財している実態がわかる。この時代になると国守に任じられれば蓄財ができることは常識らしく、天元二年(九七九年)の文書に「一国を拝すれば、其の楽余り有り、金帛蔵に満ち、酒肉案に堆(うずたか)し、況や数国を転任するをや」という言葉がある。

こうなると買官が生じ、地方官の地位を購入しても任地に行かず、目代を派遣したり、地方の豪族を在庁官人に命じ、利得だけをむさぼろうとする者が出てくる。これは結局、地方の豪族が実質的にその地を治めるという結果になる。こうなると地方だけでなく、中央の官職もまた利権化し、まるで自己の財産のように息子に譲り、ここに官職の世襲化と、それをなしうるものの貴族化が生じてくる。そしてこの時代がすぎて一一○○年代(一〇世紀後半?)になると十歳の丹波の守とか八歳の中納言とかいった状態を生ずるが、これが律令体制が崩壊していく時代である。

◎律令制度よりかな文化

なぜこのような道をたどり、ついに律令制は崩壊してしまったのか。ではなぜ律令制か崩壊しながらも天皇制は継続し、・・・「一王朝・一二四世」という歴史を形成してきたのか。班田収授の法という体制の基本に無理があったことは否定できないが、「科挙抜き律令制」というものは、選挙抜き民主制のようなもので、急速にその内実が変質したのは当然の結果であった。科挙の実施されている国では、官職の世襲などはあり得ない。ではなぜ科挙を実施しなかったのか。

中国の作家柏揚氏は、日本人は中国の制度をすべて模倣したが、賢明にも科挙だけは除外したという意味のことを記している。しかしこれは好意的誤解であり、私は、科挙を実施するだけの段階に達していなかったからだと見ている。養老律令には、秀才、明経、進士、明法などの科を設け、諸国からの受験生を試験することとなっている。だがこれは、はじめから不可能であった。目本にはまだそれだけの、中国文化の蓄積がなかったからである。

そこで、それらの学問が特定の家で世襲され、その家に生まれた者は、幼時からその学問を教え込まれるという形になった。明経は清原・中原二氏、明法は坂上・中原二氏、算道は三善氏・小槻氏、医道は和気・丹波の二氏といった具合で、これらは「家元」のようになった。

だが理由はこれだけではなかったであろう。日本人は、単に、中国の聖人の教えを学ぶだけでなく、自らの文化を、簡単にいえば「かな文化」を形成することに、むしろ熱意をもっていたように思われる。隋・唐以降の中国人は政治を至上の仕事と考えた。すなわち人間の救済を政治に求め、皇帝が天命を受けた聖人で、その下の官僚が聖人の教えを完全に身につけた君子なら、民は救済されるはずであり、それを求める体制が律令制で、それを担う官僚にその資格があるか否かを、試験したわけである。

だが当時の日本人はそれほど政治に情熱を感じていたとは思えない。天皇以下、むしろ歌や文章をつくる生活に熱中していたように思われる。徳川時代の歴史家三宅観瀾はこのような芸術指向・政治無視のため、天皇はその政治的権力を奪われたと批判している。そして、この面でも歌道の二条・冷泉・飛鳥井、書道の持明院、音楽の綾小路・高辻、蹴鞠の飛鳥井・難波、装束の高倉・山科といった世襲の「家元」が生じた。

彼らが求めたのは「政治権力」よりむしろ「美」であったろう。一般人民は貧窮であったが、世襲の貴族たちはあらゆる面で美を競い、しばしば華美禁止令が出ているが、それらは常に行われなかった。そしてこのようにして出来た平安文化とそれを支えるさまざまな家元、そしてその中の総家元が天皇家であったといえる。そしてこういう文化の中から、『源氏物語』が出てくる。・・・そしてここで理想化されているのは、完全に、非政治的な詩と美の世界であろう。

後に武家は政権をとったが、この日本の「古典文化」に常に深い畏敬の念を持ち、同時にそれを担う公釦に劣等感を持っていた。彼等は同じ日本人であっても、ローマを攻略したヴァンダル族ではないから、これらの文化を崇敬しても破壊はしなかった。これが、律令制が消えても、日本文化の総家元のような形で天皇制が継続した理由の一つである。

(つまり)まるで西欧の教権と帝権の分離のように、天皇の役割と武家の役割(が分かれたのである。このことは、日本の律令制度が「神祇官と太政官の併存」から出発したことにも現れており、太政官制はその後摂関制から院政となり、)平家がそれを代行し、ついで平家が滅びて源氏が出、太政官の代行を幕府が行うという形で武家政治へと進んでいくのである。

だがこれはあくまでも太政官の変遷であって、これと並行する神祇官の方は関係ない。そしてそれを統率するのは天皇家であって、これには誰も関与できない。そしてこの祭儀権の周囲に伝統文化の「家元」がいるという体制になっていく。このように祭儀権を法的に重く見ることは、おそらく「魏志倭人伝」に表れた卑弥呼のときにすでに始まっており、おそらくそれ以前に溯るものと思われる。
 なぜ、大化の改新後律令制の導入が図られたか、これは明治維新の時と事情が似てないかということを、かって申したことがあります。というのは、こうした「他国の法制度に基づいて自国の法制度を作る」(「継受法」)というようなことは、よほどの外圧がなければやらないからです。つまり、それだけの外圧が当時あったということで、そうした外圧に「対抗するためには、相手と同じ水準に急速に国内を整備しなければならず、それは相手の法と体制を継受するのが最も手っ取り早い方法」だったのです。
実際、「大和朝廷は562年の任那の滅亡以来、朝鮮半島で継続的な退勢と不振に悩まされ続け、さらに隋・唐という大帝国の出現は脅威以外の何もの」でもありませんでした。そして「その結末は663年の白村江の決定的大敗でした。これらがさまざまに国内に作用していました。もちろん、こうした律令制を継受しようという意向はすでに聖徳太子にあったと思われますが、それが法典(701年大法律令)として完成するまでにはその後80年を要しました。
というのも、この律令制はあくまで唐の制度の模倣ですから、それに日本の伝統的な秩序を押し込んでいけば相当な無理が生じる事になります。従って、これを強行しようとすれば、否応なく神権的な啓蒙的絶対君主が必要になり、同時にこの体制は、決して唐の模倣ではない、あくまで我が国本来の体制である、といわなければなりません。いわば、外国を絶対化し、その法と体制を継受しているのに、逆に「王政復古」を唱えるという明治と同じようなことになります。古事記、日本書紀の編集もその一環です。
こうして天智天皇等は、蘇我氏の専横を抑えて、天皇中心の中央集権国家を作ろうとしたのですが、これに対する中央豪族の不満や、朝鮮半島での戦いのための軍事動員に対する地方豪族の不満も強く、これが壬申の乱(672)における大海人皇子側の勝利に結びついた、ともいわれます。しかし、この乱の結果、伝統的な中央豪族のほとんどが没落することになり、天武天皇はかってない権力を集中することができるようになりました。こうして、天武天皇による天皇中心の中央集権国家体制の実現が、一層強力に推し進められることになったのです。
それは、従来の国造・県主、君・臣などの居住地と職務が結合した血縁集団を基礎とする氏族制から、朝廷により官職を与えられてはじめて地位と権限が生ずる律令制へと移行していったことを意味します。まず、681年に律令(浄御原令)がつくりはじめられ、682年に礼儀・言語の制が定められ、683年に諸国の境界がきめられ、684年に諸氏の族姓を改めて八色の姓とされ、685年に親王・諸王十二階・諸臣四十八階が定められました。さらに701年に大宝律令が、718年には養老律令が法典として公布され、律令制が実行に移されていきました。
だが、この公地公民制を基本とする班田収受法は、否応なしに「名存実亡」していかざるを得ませんでした。それは、生産手段を集権的に国有化するものでしたから、その建前の平等性とは裏腹に、構造的腐敗体制とでもいうべき利権体質を持つことになったのです。というのは、「この制度が本当に実施されれば、口分田をいかに勤勉に耕しても、それによって財産をふやすことはできない。しかし、官職につけば必ず利権はついてまわり、さまざまの不正を行いうる」ようになったからです。(以上、『日本的革命の哲学』山本七平、参照)
(以下、wiki「荘園」参照)
こうした弊害を避け、田畑の開墾を奨励するため、墾田の私有が認められるようになりました。しかし、これは資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪にしかできないことで、こうして大規模な土地私有が出現することになりました。これを初期荘園といいます。しかし、墾田は私有することができましたが輸租田であり、収穫の中から田租を納入しなければなりませんでした。また、当時は直接、彼らが荘園を管理していたため、人的・経済的な負担も大きく、これらにより初期荘園は10世紀までに衰退しました。
つまり、10世紀に入ると戸籍・班田収受による租税制度がほぼ崩壊し国司に租税納入を請け負わせる国司請負へと移行し始めました。国司は中央政府から検田権を委譲されると、治田(ちでん)、田堵の開発した小規模の墾田や正式に承認されていない荘園・私領(郡司・郷司など在地領主の所領)を次々に没収して国衙領に組み入れ、税収を確保しようとしました。一方、国司免判による国免荘も急増するようになりました。これは、貴族・寺社への国家的給付(封戸物・正税物)の代替というやむを得ない場合もありましたが、そのほとんどが、任期終了間際に国司が貴族・寺社から礼物をとり、国司免判を濫発した結果でした。
11世紀ごろから、中央政府の有力者へ田地を寄進する動きが見られ始めました。特に畿内では、有力寺社へ田地を寄進する動きが活発になりました。いずれも租税免除を目的とした動きであり、不輸権だけでなく、不入権(田地調査のため中央から派遣される検田使の立ち入りを認めない権利)を得る荘園も出現しました。こうした権利の広がりによって、土地や民衆の私的支配が開始されたのです。
田堵は、免田を中心に田地を開発し、領域的な土地支配を進めました。彼らは、中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家(りょうけ)といい、さらに領家から、皇族や摂関家などのより有力な貴族へ寄進されることもあり、最上位の荘園領主を本家(ほんけ)といいました。本家と領家のうち、荘園を実効支配する領主を本所(ほんじょ)と呼びました。このように、寄進により重層的な所有関係を伴う荘園を寄進地系荘園といいました。
こうした開発領主たちは、国司の寄人として在庁官人となって、地方行政へ進出するとともに、本所から下司・公文などといった荘官に任じられ、所領に関する権利の確保に努めました。開発領主の中には、地方へ国司として下向して土着した下級貴族も多くいました。特に東国では、武士身分の下級貴族が多数、開発領主として土着化し、所領の争いを武力により解決することも少なくなく、次第に武士団を形成して結束を固めていき、鎌倉幕府樹立の土台を築いていきました。
以上、ここまでの経過をまとめていえば、公地公民制下の班田収受法の矛盾から、公田の荘園化、公民の荘民化が進み、12世紀後半以降は、国衙領も荘園と同質化したということです。といっても国衙領は全耕地の1/3から1/2を占めていました。こうした荘園から上がる冨が平安時代の貴族文化の隆盛を支えたのです。その荘園では領主(本所、領家)が、在地する荘官を通じて農民を支配し、年貢・公事を徴収しました。荘園の多くは名田に分けられ、名主が名田を経営し、課役上納の責任を負いました。12世紀武家政権が成立すると、荘園は次第に武士勢力に侵害され戦国時代にはそのほとんど消滅しました。
神仏混合の寺院が「多数決」という議決方法を生んだ
『日本人とは何か』
p158~p171
 慶雲三年(七〇六年)、王族や大官が、口分田になっていない山沢を占拠して開墾しようと動き出す。朝廷も開墾を推進せざるを得ず、養老六年(七二二年)水田百万町歩の開墾を計画、また諸国にそばや麦などの栽培を奨励する。そして翌年に三世一身法が公布され、開墾した田は三代まで私有が許され、そして天平十五年(七四三年)墾田永代私財法が公布され、公地公民制はわずか半世紀で徐々に崩壊していく。

そしてこれと並行するように農民の逃亡が増えはじめる。彼らは、開墾地をもち、あるいはさらに開墾を進めようとする地方の豪族や有力農民のもとに身をひそめ、税を逃れてそこで働く。またこういう社会そのものから逃避しようとする者は僧になってしまう。これが私度僧で、当時、勝手に僧になることは禁じられていたから、億良がいうように「これ山沢に亡命する民なり」であろう。(以上p100)

延喜十四年(九一四年)三善清行が上申した十二ヵ条の意見書によると、諸国の百姓は課税を逃れるため勝手に髪を剃って法衣を着ている。だが彼らに妻子があり、僧の戒律など一切守らず、勝手なことをしていると述べているが、それらが大寺院に集まってくれば、文字通りの「悪僧」になる。これを強訴に使えば効果的だし、また寺院内の勢力争いにも活用ができる。そして彼らの常識は僧院内にいるといっても全く現世的で、まさに「遁世」でなく「貪世」である。(p168)

6<民主主義>の奇妙な発生
◎秘密投票のルーツ

(このようなことで大寺院には地縁や血縁を逃れた人びとが流れ込むようになった。そのため、そこにおける意志決定は、俗世間における身分関係や血縁関係を離れて、原始仏教の議決方法であった「多語毘尼」の伝統を引き継ぐものとなった。それは、重要な事柄については全員で会議をし、多数決による議決で意志決定する、というものであった。)

一体、この方式が仏教によって日本に持ち込まれたのか、それとも・・・仏教の渡来以前から似た方式かあったのか、これは明らかでないが、大体、原始仏教の議決方法「多語毘尼」(もしくは「多人語毘尼」)その他にその根拠か求められるという。これは教団内の諸問題の解決法を示した教典で、その一つとして多数決があり、公開投票、半公開投票、秘密投票の三つが記されている。だが、この通りにしたため大乗と小乗の分裂をひき起こし、以後は用いられていなかったといわれる。おそらく日本人は、仏典は輸入しても、仏教史は知らなかったのでこれが用いられたのであろう。

いずれにせよこれに基づいて、「満寺一味同心」という形で寺院全体の意思決定をし、それに基づいて行動を起こすには「満寺集会」という衆徒全員の出席する会で「大衆僉議(せんぎ)」という評決を行い、そこで多数決によって議決しなければならなかった。そしてこの「大衆僉議」には細かいルールがあった。

延暦寺のルールは、『平家物語』に詳しく出ている。そしてこの寺は当時の指導的寺院だから、他の寺院も似たようなものであったと見てよいであろう。そしてこの「満寺集会」の「大衆僉議」に出るのは神聖な義務で、出席しないと罰せられたらしい。延暦寺は何しろ衆徒三千だから、集会の場は当然に野外で、一同は大講堂の庭に集まる。そのときの服装は異形であり、全員が破れた袈裟で頭を包み顔をかくす。

たとえなんぴとといえども、また天皇の命令でも、頭をむき出し、顔をあらかにして出席することはできない。そして全員が堂杖という杖をもち、小石を一つずつひろって出席し、その石を置いてその上にすわる。さらに声を出すとき、鼻を抑え、声をかえねばならぬから、隣にすわっている人間かだれだかわからない。いわば師と弟子か隣り合わせにすわっても絶対にわからないようにしなければならないのである。

すると、これもだれだかわからぬ一人か、声をかえた大声で「満山の大衆は集合したか」と叫び、提案の趣旨を説明し、一ヵ条ごとに賛否を問い、各人の判断に従って賛成の場合は「尤も」、反対の場合は「此の条謂なし」と叫ぶ。このようにして一条ずつ議決され、終われば「余議事書」「列参事書」という文書にまとめられる。これは「多語毘尼」の半公開投票にあたるであろう。

いま読むと、まことに巧みに秘密投票の原則が守られていると思うが、彼らの異形や異声が、果して近代的な合理主義から出たのかといえば、おそらくそうではあるまい。だがこの問題は後に触れるとして、まず、この討議に付する議案はどのようにして決定されたのかが問題である。それはよくわからないが、高野山と同じなら「合点」という方式をとったものと思われる。この「がってん」という言葉は今も使われ、芝居の台詞などにも登場し「わかった」「承諾した」の意味に使われるが、元来は小人数の評決の結果すなわち「点の合計」を意味する言葉であった。(中略)

そして当時の寺院は「鎮護国家」を祈る公務員だから、この世の身分がそのまま寺院内に持ち込まれた。だがそこは仏法が研鑽されているから、それを無視して俗世の身分を持ち込まれ、その者が高位の僧職に就くことを、身分の低い長年の研鑽者が容認するわけがない。身分の低い大衆が団結してこれに抗議し、朝廷もこれを無視することかできないという形で、「満寺集会の議決」という方式が徐々に確立されたものと思われる。

◎理不尽な強訴の先兵たち

だがこの大衆が果して「遁世」なのか「貪世」なのかよくわからない点がある。彼らは寺院の内部で自己の権利を主張するだけでなく、外へも主張しはじめている。そうなると、寺院の利益に関する「満寺集会の議決」は専ら寺院の利権保持のために用いられ、これが「法以上の法」となり、それを朝廷に強訴するため、神輿をかつぎ出すデモになる。(筆者注)

(筆者注:神仏混合を当然とする彼らは、それを「神道の神社に祀られる神」の神意だとし、その神意が「満寺集会の議決」の多数決に現れると考えた。このような神社の祭神の名によって契約を立てるやり方が、武家にも採用され起請(約束事を神仏に誓って書き記すこと)が行われるようになった。さらに、国人(在地小領主)や農民・商人なども一揆を形成するようになった。こうして日本の社会は血縁集団から一揆という契約集団に徐々に変わっていった。)

このデモを武器を待った僧兵が行えば、最も効果的である。そして前に述べたように、班田収授の法で過大な租庸調に耐えられず逃亡する農民はいくらでもいる。彼らは新しい開墾地に隠れるか、僧形になって寺院に逃げ込むか、または遊民化して放浪しつつ時には盗賊になるか、といった道を選ぶしかない。そして最も安全な道は僧兵になってしまうことであった。ここは一種の治外法権地区だからである。

◎超法規空間「荘園」内の秩序

ではこの僧兵たちをどうやって養うか。それは問題なかった。多くの開墾地が寄進されたからである。八世紀にすでに、最も広大な土地を私有しているのが天皇家と寺院であったのは皮肉である。天皇家の私有地は勅旨田といわれて不輸租(無税)であったが、寺院もまた寺田を給与されて不輸租であった。そうなれば当然に、自己の開墾地を名目だけ寄進して不輸租にしてもらい、多少の名義料を寺院に払って所有権を保証してもらった方が有利である。この保証が拒否されれば、寺院側も名義料を失うから当然に強訴する。そうなればこれか最も完全な保証であろう。

このようにして寺院が多額の収入を得れば、それで土地を買収することができる。朝廷は寺院が土地を買収し、また寄進を受けることを何回も禁じている。ということはこの禁令が一向に守られなかったことを意味している。そしてこのような土地が荘園となった。

もちろん、寄進の対象は天皇家と寺院だけでなく、自己の実質的な所有権を保証してくれる者なら、だれでもよかった。そこで藤原氏が勢力を得てくればこれにも寄進をする。いわば、天皇家・寺院・藤原氏といった治外法権的な権力をもっている者なら、だれでもよかったわけである。そしてこの荘園は自然発生的なものだから、はつきりと制度的に図式化はできにくいが、大体次のような形になっていた。

本所 → 領家(荘官) → 名主職 → 百姓職 →(小作職)→ 作人
*名主職と作人の間の身分はいつでも上下する

いわば本所は名義料をもらっている形式的な所有権者、そして領家は現地における管理者で、これが実質的な所有者の場合もある。その下の名主職が土地所有者で、彼らはその土地を小作に出している。同時に自作農である百姓職がおり、その下に土地をを持たない農業労働者の作人がいる。公地公民制はこのような形で分解・再編成されていくか、前記の序列は必ずしも固定した階級ではない。

その成立を簡単に図式化すれば、公地の公民である百姓が租庸調に耐えかねて逃げ込んで来れば、まず作人となる。当時は未開墾地が多かったから、作人は歓迎される。彼らが名主職の土地を請け負いで耕作するようになれば小作職になる。そしてよく働いてその土地を購入すれば百姓職になる。その上さらに働いて土地を収得するか開墾してこれを小作に出せば名主職になる。そして名主職もその土地を売るか借金の担保にして取られれば、作人に転落する。いわば荘園内での身分は、その者の土地の所有に基づいていて、いつでも上下するのである。領家はここから年貢を集めて本所に送る。すると、有力者や有力寺院である本所は、彼らの土地の所有権を保証してくれるという関係である。彼らは簡単にいえば逃亡農民であるから、荘園は血縁集団ではない。

本所である寺院はこれらを管理する事務を行い、その収入によって僧兵を養っており、治外法権的な権利の主張で、荘園内の人びとの所有権は保証されている。前に記した高野山の「合点」の場合、この荘官が年貢を滞納したので罷免するか否かの採決であり、いわば純然たる世俗的な事務である。このことは、世俗的な人事にも多数決原理が適用されたことを意味している。となると、現地の管理者である荘官の武家が、やがてこの方式を採用するようになる。これはそうなって不思議でない。

やがて武家は自らの実力を自覚し、自らの政権を樹立する。するとかつての寺院と同じような多数決原理で自らの法を決議し、起請文を記してその実施を誓う。するとこの法もまた、起請の対象である神社の神の「神慮」という形で絶対化される。時代はやがて「王法・仏法」の時代から「王法・武家法」の時代へと移っていくが、立法の方式の原理に変わらない。そしてこの起源が原始仏教の議決方法「多語毘尼」に基づくなら、日本の民主主義の原型は仏教に由来するといってもよいであろう。

 現代では「多数が賛成したからといって正しいとは言えない」などという議論があります。しかし、この多数決原理を採用した多くの民族にとっては、これは、それによって「神慮」や「神意」を問うという意味がありました。つまり、古代の人びとは、将来に対してどのような決定をすべきかわからないような重大な問題に直面した時は、その集団の全員が神に祈って神意を問う。それが多数決の結果に「神意」として示される、と考えたのです。
従って、この多数決をするときには、これはあくまで神意を問うのだから、「親が・・・、親類が・・・、師匠が・・・」というようなこの世の縁に動かされてはならない。もちろん賄賂などで動かされれば、これは赦すべからざる神聖冒涜になる。そういうわけで、延暦寺の場合は異形・異声とか、高野山の場合は「合点」とかになった。そして、その多数決の結果は「神意」だから、当然全員を拘束し、これに違反することは許されない。つまり「多数が賛成したから正しい」ということにはならなくて、そこに「神意」が示されたから正しい、と考えたのです。
ではなぜ、こうした多数決による意志決定方法が延暦寺や高野山で採用されたかというと、いうまでもなく、そこは、現世での「縁」を断ち切った人たち=「出家者」によって組織される社会だったからです。一方、世俗社会はどうだったかというと、大和朝廷が氏族社会であったように、そこは地縁・血縁によって結ばれる社会でした。しかし、律令制度の導入による矛盾(租庸調逃れ、兵役逃れ、班田支給の停滞など)から、多くの逃亡農民が発生し、その結果、地縁・血縁から離脱した人びとを大量に生み出すことになりました。これらの人びとが寺社や有力領主の荘園に流れ込んだのです。
問題は、こうした今日の民主主義制度の多数決につながるような意志決定方法が、寺院の中だけでなく、一般世俗社会の意志決定方法になり得たかどうか、ということです。もちろん、平安時代は「閥族時代」といわれるように、特に貴族社会では、一族や家族の血縁関係が最も重視されました。従って、そこでは組織の成員が平等の資格で参加する多数決という裁決方法が採られることはありませんでした。
一方、貴族社会以外の庶民の社会では、先に述べたような律令制度の矛盾から、無戸籍逃亡者が多く出現しました。これらのうち寺社や有力領主の荘園に潜り込んだものはよいとしても、それ以外のものは盗賊になるほかありませんでした。このため平安時代は、貴族の華やかな生活とは裏腹に、多くの盗賊が横行した社会だったともいわれています。
こうした盗賊の横行を取り締まるため、律令制下では、当初は徴兵制を採用しましたがうまくいかず、その後志願制とし、また健児(こんでい)制による治安維持に当たりました。しかし、十分でなく、結局、各地に自然発生的に生まれた自警団を、正規兵の下に置くようになり、ついには、これに軍事・警察権を委任するようになりました。さらには彼らを検非違使・押領使・追捕使などに任命しました。しかし、やがてこれらの職は世襲され、各地に土地・人民・軍隊を私有する武家集団へと発展しました。
こうして、彼らは広大な土地を兼併し、それを子孫に分与し、そして、彼らに仕えるものも代を重ねるようになると、これが家子郎党となり、私的な君主→臣下の関係を結ぶようになりました。こうして彼らが経済力と武力を持ち全国の警察権を握るようになると、貴族達の政争や対寺院抗争にも使われるようになりました。その過程で彼らは次第に自らの実力を自覚するようになり、平清盛に至ってついに政権を奪取しました。
ただ、彼の場合は太政大臣にはなりましたが、今までの体制を変えようとはしませんでした。しかし、財政面では、それまでの朝廷の政策が「荘園化」を防止しようとしたのに対し、これを認め、自らも荘園獲得に努力ました。それと同時に全国の荘園取締の実権を掌握して、その実益を自ら収納するようにしました。そして、一族と家人を諸国の荘園の地頭に任命して、これを自己の権力下に置き、直接土地を領有しなくても、実質的にこれを支配する体制を作り上げました。こうして、律令制下の「公地公民制」と決別したのです。しかし、こうした平氏による支配も平清盛の死と共に滅びました。
次いで、もう一方の武家の棟梁源頼朝が登場しました。彼は、1185年に六十四州総追捕使に任命されました。しかし、それはあくまで令外の官であり正規の官職ではありませんでしたので、同年、全国に守護・地頭を置く許可を朝廷に奏請し許可されました。そこで公領・荘園を問わず全ての地に地頭を置きました。それまでは、武家の勢力は院・官・権門・社寺の領地には及びませんでしたが、彼は反乱人追捕の名目で一切を地頭の管理下に置き、同時に公領・荘園の別なく、段別五升の兵糧米を賦課しました。一種の”警備保障料”のようなものです。
一方、守護は、平安時代に各地で任じられた追捕使と同じようなもので、六十四州総追捕使の彼が、それぞれの地方に部下を派遣して、各国追捕使としたようなものでした。その任務は「大犯三ヵ条」で、一、大番催促で諸国の武士に禁裏を警護させるもの、二、謀反人・殺害人・盗賊等の検断、すなわち逮捕・裁判・処刑をおこなうこと、三、軍役のとき地頭・御家人に命じ、必要な人数を動員し従軍すること、でした。
また彼は、平氏滅亡後の東海・東山の荘園を寺社や公卿に返還するための事務を行う公文所を置きました。さらに所有権争いや境界争いを裁定する問注所を作ることによって、荘園は彼の管理下に置かれることになり、こうして民事の裁判権も彼の手に移りました。刑事については、すでに総追捕使としての権限を持っていましたので、これで彼は実質的に全国の統治権を手に入れることになりました。この外に、侍所を置き全国の武士を統括しましたから、兵権も含めて全ての権力は彼に集中したのです。
では、こうして政治権力を手に入れた武家集団の秩序原理はどのようなものだったのでしょうか。それは、所領を守るとともに経営することが求められたため、必ずしも血縁によらない能力主義が重視されました。また、そうした武家社会の秩序を維持していくためには、鎌倉・六波羅を通じて全国を統一的に律する新しい法の制定が必要になり、これが、1232年の貞永式目の公布となったのです。そして、その法制定に当たって採られた議決方法が、評定衆13人それぞれの「理非の決断」による多数決だったのです。(『日本人とは何か(上)』参照)
武家はどのようにして天皇の権威を棚上げし、政治の実権を握ったか
『日本人とは何か(上)』
p194~203
◎「承久の乱」は朝廷と武家の正面衝突

(グレゴリー・クラーク氏は)クレタ島のミノア文化は、当時の超先進国兼大国のエジプトの影響を非常に強く受けたはずで、その痕跡があるのに、明らかに全く違ったものになっている。そこにはさまざまな理由があろうが、やはり、一定距離を置いた島であることが、大きな理由であろうといわれた。氏はまた「中国文化の同化力は西欧文化の比ではない」といわれた。確かに、しばしばいわれるように韓国は李朝の時に「一一〇パーセント中国化」している。しかし日本はそうならず、いわば「ミノア化現象」とでもいうべきものを起こした。

これはすでに述べた「かな文学」から「神話継承の律令制」にもいえるが、それは、武家という階級が起こってきたときに、前述の「一夫一婦」だけでなく、さらに明確にあらゆる面に現われたといえる。そしてそれを象徴するのが、中国とは関係なき日本独自の法すなわち「式目」であろう。

伊達千広は「職の代」の終わり、すなわち「名の代」のはじまりを文治元年(一一八五年)頼朝が六十四州総追捕使になった時とした。確かにここである時代が始まったが、しかし、それはもちろん、このときに「名の代」の基本的な体制ができ上がったということではない。新しい武士の権力はまだ完全に確立しておらず、一方、朝廷と公家は権力の奪還を夢見ていた。この点で幕府は常に、あらゆる面で用心深く振舞わねばならなかったが、その一端は前章で記した「重時家訓」にも現われているであろう。だがいかに用心しても朝廷と幕府の全面的衝突は避けられなかった。

というのは頼朝によって全国に守護・地頭が置かれると、院・宮・公家の所領もみなその管理下に入ってしまう。一面からいえば、幕府が管理して全国の治安を維持しているか故に、荘園の「本所」たる天皇家一族も公家も寺社もその収入が確保される。この点では頼朝は天皇家・公家・寺社にとってありがたい存在で、そのことは、天皇絶対で『神皇正統記』を記した北畠親房も認めている。だが今まで権力を振るって来た者は、たとえ統治能力を失っても、新しい権力者の保護を同時に圧迫と感じて不思議ではない。そこでこの圧迫をはねのけて全面的に権力を回復しようという運動が起こって当然である。

その発端となったのが白拍子亀菊の一件であった。すなわち後鳥羽上皇が亀菊の一件であった。すなわち後鳥羽上皇が亀菊の申請に基づき、その所領の摂津国長江・倉橋両荘の地頭職を停止すべき旨の院宣を二度にわたって下したが、執権北条義時はこれを拒否した。彼の言い分は、勲功により頼朝によって任じられた者は、勝手に解任できないということである。いわば、守護・地頭の人事権は幕府にあるのであって、天皇家にあるのではない、干渉はお断りすると彼は主張したわけである。この点では両者とも妥協はできない。というのは、守護・地頭が実質的な日本の統治機構となった以上、その人事権を握るものが支配権を握るからである。承久三年(一二二一年)両者はついに正面衝突となった。

これは日本史上はじめての、天皇家と武家との正面衝突である。それまで武家は、朝廷内の勢力争いに利用されたり加わったりしていたが、頼朝でも、必ず令旨・綸旨・院宣などをもらい、タテマエ上はあくまでも天皇家の命令で行動したわけである。だか承久の乱はそうではなく、後鳥羽上皇の北条追討の院宣に対抗し、義時・泰時父子の指揮下に、関東分国十七力国の武士が決起して京都に攻め寄せ、三上皇を島流しにし、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇を擁立したわけである。そしてこのときに武家による全国支配が確立した。

この時まで、関東分国十七力国は頼朝以来の御教書によってすべてが決裁されたが、美濃の墨股川より西は、法皇や上皇に奏請して院宣を出してもらわねばならなかった。頼朝が全国に守護・地頭を置いたとはいえ、完全で直接的な全国支配権を掌握したわけではない。そしてこの乱後、墨股側から西は鎌倉から派遣された六波羅探題が鎌倉の指示のもとに、すべてを決裁するようになった。前記の重時はこの探題だったわけである。

◎中国思想による叛乱正当化

これは武士団の朝廷への叛乱であるといえる。では彼らは、何をもって自らを正当化したのであろうか。『明恵上人伝記』には義時・泰時父子の間に次のような間答があったと記されている。泰時は次のようにいう。

「平大相国禅門(平清盛)、君を悩まし奉り、国を煩はし候ひしに依て、故大将殿(頼朝)御気色を承って討ち平げ、上を休め下を治めてより以来、関東忠ありて誤りなき処に、過(とが)なくして罪を蒙らむ事、是れ偏に公家の御誤りに非ずや。然れども一天悉く是れ王土に非ずと云ふ事なし。一朝に孕まるる物、宜しく君の御心に任せらるべし。されば戦ひ申さん事、理に背けり。しかじ頭を低(た)れ手を束ねて各ゝ降人に参りて嘆き申すべし。此の上猶頭を刎(はね)られば、命は義に依て軽し、何のいなむ所かあらん。力なき事なり。若し又御優免を蒙らば然るべき事なり。如何なる山林にも住みて残年を送り給ふべきや」
この国土はことごとく国王の所有だという考え方は古代儒教の考え方であり、従ってその内に含まれる自分たちはいかに無理無体をいわれても、絶対に天皇に叛乱を起すべきでないと彼はいう。これに対して父の義時は次のように答える。

「尤も此の義さる事にてあれども、其れは君主の御政正しく、国家治る時の事なり。今此の君の御代と成て、国々乱れ所々安からず、上下万民愁を抱かずといふ事なし。然れども関東進退の分国計(ばか)り、聊か此の王難に及ばずして、万民安穏の思ひを成せり。若し御一統あらば、禍四海に充ち、煩ひ一天に普くして安き事なく、人民大に愁ふべし。是れ私を存して随(したがい)申さざるに非ず。天下の人の歎に代りて、縦(たと)ひ身の冥加つき、命を捨つると云ふ共、痛むべきに非ず。是れ先蹤なきに非ず。周の武王・漢の高祖、已に此の義に及ぶ欺。其れは猶自ら天下を取りて王位に居せり。是は関東若し運を開くと云ふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位につけ申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき。君を誤り奉るべきに非ず、申勧る近臣どもの悪行を罰するまでこそあれ」

面白いことに、泰時に対する義時の返答もまた中国思想の援用である。義時は、周の武王は暴君であった殷の紺王を倒し、漢の高祖は暴政を行なった秦の二世の皇帝を打倒したという先例があるという。言うまでもなく、それによって自らを正当化している彼が引用しているのは、賞賛さるべき先例であっても、非難さるべき悪しき先例ではない。

前にも記したように中国では「天命」を受けた者が皇帝(天子)になるのであって、神話の神々の子孫が皇帝になるのではない。そこでもしその天子が、天命にもとる暴虐な行為をしたら、天は「命を革(あらた)めて」徳の高い別の人間を皇帝に任命する。これを明確に記しているのが、『孟子』である。(中略)

前記の義時の言葉は、この中国思想の援用による自己の行為の正当化だが、しかし、日本の天皇は中国のように「天命」によって即位したわけでなく、日本神話の神々の一人から支配権を継承した者というのが正統性の根拠である。そこで義時の結論は、「・・・関東若し運を開くといふとも、此の御位を改めて、別の君を以て御位に即(つ)け申すべし。天照大神・正八幡宮も何の御とがめ有べき」となっている。ここには道教的な考え方もあるかもしれない。そして彼はこの言葉の通りに実行した。(中略)

そして彼は「君を誤り奉るべきに非ず、申し勧(すすむ)る近臣どもの悪行を処罰するのか目的だという。この 側の奸」を除くという考え方は、後の日本に強い影響を残した。この考え方の基本は、責任は天皇になく「君を誤り奉る」者にあるということになるが、これは明治の大日本帝国憲法の「補弼の責任」という考え方になり、現代にまで及んでいる。もつともこの場合は、本当に問題は、後鳥羽上皇にあったのでなく、その近臣にあったのか否かは少々問題だが、・・・頼朝及びその直系という「源家の嫡流」がリーダーでなくなった鎌倉には、何らかの権威を持つ指導者はおらず、後鳥羽上皇の方から見れば、武士団を切り崩した上で、自分の下に再編成することが可能であると見たのであろう。


◎武家秩序確立目指し「貞永式目」公布

だがこの策動が別の正当化を鎌倉側に与えたと思われる。頼朝の未亡人、有名な尼将軍政子は関東の諸将の前で次のように言い切ったと『吾妻鏡』にある。

「皆、心を一にして承るべし。是れ最後の詞也。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰(伐)し、関東を草創してより以降、官位と云ひ、俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、瞑渤よりも深し。報謝之志浅からんや。しかるに今、逆臣之讒により、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・(三浦)胤義らを討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし」

ここで政子が言っているのは、幕府を裏切った前記の胤義らを誅罰せよということで、天皇に反抗せよということではない。さらに、武士団にとって幕府とは自分たちの所領の所有権や頼朝から与えられた諸権利を保証してくれるものだが、天皇家はそうではない。現に今回の事件は、亀菊の要請で地頭職の停止を幕府に命じたことに端を発しているが、こういった事件はこのときがはじめてではない。もし幕府か失われれば、自分たちの諸権利を守ってくれる者がなくなると彼らが感じても不思議ではない。

天皇に反抗することに強い抵抗感がある彼らも、天皇の周辺で策動する裏切者を討てといわれれば抵抗は感じない。だがこの”裏切者”が壊滅すれば、天皇は実質的に権力を失ってしまう。そして義時は、天皇が権力を失って象徴となり、幕府が「補弼の責任」を負う体制をつくればそれで十分であった。

ここにも、中国の影響があるといえばいえるが、それは非常に変質したものになっている。これもまたクラーク氏のいわれる「ミノア化現象」かも知れない。いずれにせよ天皇を虚位に置き、全日本を実質的に統治するようになった幕府は、当然に法治に進まざるを得なかった。幕府はもはや、単なる総追捕使すなわち軍事・警察権を委任された民間団体ではなくなっていた。と同時に、頼朝という「源家の嫡流」すでになく、何らかの伝統的権威で武士団を統制していくことはできない。そして、頼朝さえその権威を用いかつ尊重した朝廷を自らの手で打倒してしまっていた。

では何が残るのであろうか。さらに実際問題として、鎌倉・六波羅の間に齟齬があっては円滑な全国統治はできないから、新しい武家的秩序を維持していくには鎌倉・六波羅を通じて全国を律する新しい法の制定が必要であった。

それが「関東御成敗式目」、俗にいう「貞永式目」の公布となった。承久の乱の十一年後の貞永元年(一二三二年)のことである。言うまでもないが新しい法の公布は、何らかの権威に基づかねばならない。前述のように過去の諸権威はすでにない。そして面白いことに、ここに出てきたのが「一揆」であったと勝俣鎮夫氏は『一揆』で指摘しておられる。もっとも貞永式目の制定の過程にはどこにも「一揆」という言葉は見られない。しかし、読者がここで「6〈民主主義〉の奇妙な発生」を思い起こされつつ、以下に記す「貞永式目」制定の経過を読まれれば、そこに延暦寺の「満寺集会」の「大衆僉議」や高野山の「合点状」ときわめてよく似たものを見出されるであろう。

だが、武家社会における多数決方式の採用は、決して寺院のそれのように簡単にはいかない。というのは前章6で記したように、寺院にいるのは「出家」であり、一族一家と縁を断ち、一個人として仏に仕えている身であるから、個人の投票により神意を問うという方式は成立しやすい。だがその彼らでさえ、一切の雑念を払い、一個の別人格となって秘密投票をするには、ある種のルールに基づく儀式的行為が必要であった。

だがこれが武家となると、彼らは「出家」でなく俗人であり、当時はそれぞれの族縁的なつながりをもつ集団の一員であり、その集団が軍事的には戦闘単位であって、その結束はきわめて強い。こういう社会で公正な法を制定しようとするなら、それを制定する委員は一切の族縁を断ち切って「出家」したような状態、言いかえれば「族縁を断って私心・私欲なき状態」にならねばならず、ついであくまでもその状態で決議することを、そのメンバーが絶対とする神もしくは神的対象に誓約しなければならない。それが起請文で、一種の宗教的宣誓である。それをした者は「一味」「一同」とされるが、これらの言葉は現在用いられるよりも、はるかに強くかつ深い意味をもっていた。(中略)

多数決というものは、何らかのこのような宗教性の裏付けがない限り、圧力団体、縁故、利益誘導等の他の要素に作用され、「理非の決断」にならないであろう。彼らと現代の国会議員のどちらが、真に多数決原理なるものを理解したい得していたかとなると、私はむしろ、泰時以下の評定衆であったと思われる。

 武家の時代の主人公となった武士は、『大日本史』では「住人」と定義されていて、それは「中央から派遣され、そのまま住み着いて土着化したもの及びその子孫」を意味していました。彼らは、律令制下で発生した逃亡農民等を使って墾田開発を行い、その土地の私有権を主張するようになりました。こうして私有化された田が、律令制下の「公田」に対して「名を付した田」という意味で「名田」と呼ばれ、その所有者を「名主」、その最終的な統合者を「大名」と呼ぶようになったのです。
伊達千広が、この時代を、律令制下の「職(つかさ=官職)の代」に対して「名の代」と名付けたのはこのためです。そして、この「名の代」の特徴は、「職の代」が「上の御心より出て、つとめて変易(かえ)させ賜える」時代だったのに対して、「下より起こりて次第に強大にして止む事なき勢い」となった時代でした。といっても、武家は意図的に権力を朝廷から奪取したわけではなくて、結果的にそうなったといった方がいいと思います。
というのは、源頼朝は1185年に奥州藤原氏を滅ぼし、実質的に日本の支配者となりましたが、同年全国に守護・地頭を置くにあたっては、朝廷の勅許を得ています。また、1192年には征夷大将軍に任じられています。といっても、これは「令外の官」であり、頼朝は正規の官職(言大納言や右近衛大将)については辞退していますから、頼朝としては、律令制下の公家文化に一定の敬意を払いつつ、その一方で、政治権力の実質的掌握に努めたのだと思います。
このことは、一つには、彼らはかって中央から地方に派遣された人びとであり、その後、その地に土着した「住人」だったということによると思います。しかし、何といっても彼等は、律令時代に発展した仏教(三教合一的なもの)を尊崇していましたし、源氏物語に代表される洗練された公家文化にあこがれていました。その一方で、所領を命を賭けて守るという、いわゆる「一所懸命」の生活実態から、独自の義理や対面を重んじる器量第一主義の武家文化を育んでいきました。
では、その武家文化とは具体的にはどのようなものだったのでしょうか。山本七平は、ここで北条泰時の弟重時の家訓『極楽寺殿御消息』を紹介しています。それを見ると、律令制下の公家は「招婿婚」で一夫多妻制であったが、武家は一夫一婦制を原則としていたこと。女性や子どもを軽く見ることを嫌い、失礼なことをしないよう戒めていること。総領制ではあるが必ずしも長男ではなく能力主義であること。まじめな仏教徒ではあるが、戒律を完全に守れといっているわけではなく、例えば不殺生については「無用の殺生をしてはならない」という程度に止めていること、などが紹介されています。
また、この家訓には「気配りのすすめ」といった側面もあり、例えば、葬式の近くで笑うな、道は相手が誰であれ自分からゆずれ、出家を誹謗するな、親の教訓を守れ、酒の肴や菓子は人に多くとらせろ、服装はほどよく、大きな太刀や目立つ具足を持つな、かげぐちをするな、賤しい人でも道で会ったら挨拶せよ、自分を抑えて人の言い分をきけ、なるべく他人に用をいいつけるな、その年齢らしく振る舞え、借りたものは急いで返せ、ものを盗まれても訴えてその者の一生を台無しにするようなことはするななど、単なる外面的取り繕いとは思われない自己抑制的な態度をとるべきことが訓戒されています。
こうした態度は、朝廷に対する態度にも通じています。承久の乱は、後鳥羽上皇が幕府の地頭職の任命権に干渉し、これを幕府が拒否したことに対し、天皇が北条氏追討の院宣を発したことから始まりました。これに対して幕府は、三上皇を島流しにすることで実質的に革命を行い政権を奪取したわけですが、その基本的な態度は「悪いのは天皇ではなく、その判断を誤らせた近臣が悪い」というものでした。つまり、天皇の「補弼責任」を問うという考え方をしたのです。
その一方、武士団内部に対しては、その所領の安堵はあくまでも幕府が保証するものであり、従って、頼朝以来のそうした「ご恩」を裏切ることは許されないとしました。こうして、各地の武士団が朝廷と直接的に結ぶことを禁止すると共に、武家内の秩序を統一的に維持するため、全国を律する新しい法を制定することにしました。これが最初の武家法である「関東御成敗式目」いわゆる「貞永式目」でした。
しかし、こうした一般法を制定するにあたって、その評定にあたる各人に、その族縁に基づく利害関係を離れて、道理に基く「理非の判断」を行うことが求められました。また、こうして定まった規定に違反しないよう、神仏に対する起請が求められました。
「およそ評定の間、理非において親疎あるべからず、好悪あるべからず、ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚らず、権門を恐れず、詞を出すべきなり。御成敗事切れ(決着した結論)の条々、たとひ道理に違わずといへども一同の憲法なり。たとひ非拠に行はるるといえども一同の越度なり・・・(従って)この内もし一事といへども曲折を存じ違犯せしめば、梵天・帝釈・四大天王・惣じて日本国中六十余州の大小神祇、別して伊豆・箱根両所権現、三島大明神、八幡大菩薩・天満大自在天人の部類眷属の神罰・冥罰をおのおの罷り被るべきなり。よって起請、件の如し。」(『御成敗式目』)
では、これ以前の律令制度の下における法とは、一般人にとってどのようなものだったのでしょうか。それは「田舎にはその道をうかがい知りたるもの、千万人の中に一人だにもありがたく候」といったようなことで、大宝律令の公布からすでに五百三十二年も経っているのに、武士も民衆もそれを知らず、また知ろうともしないという状態であったそうです。また、宮廷においては、仏教が尊信され、宮廷文化が過度に女性化しセンチメンタルになったため、法制の励行は好まれず、そのため、律令の死刑制度も実質的に廃止されるような状態でした。そのため平安時代は裏から見れば盗賊横行の時代だったといいます。
このことについて渡部昇一氏は『日本史から見た日本人・古代編』で次のように説明しています。  「古代の律令というものは、元来シナの模倣から生じたものであるので、たとえば、それを日本風に改めたとはいえ、生活に密着しないで、単なる「触(ふれ)流し」というのが、すこぶる多かった。だが、頼朝には、その形式のための形式などいっさいなく、政令は常に簡単であるが、慣習の根を持っていたものであるから、実生活との違和がなく、掟に違えば、必ずビシッと罰するという具合だったので、地方のすみずみまで政治が行き届いたのであった。
たとえて言えば、平安朝の律令は、畑を荒らす烏や雀を追うのに、美しい案山子をずらりと立てたようなもので、それに慣れた烏や雀は平気になっていた。しかし頼朝のやり方は案山子抜きで、鉄砲の盟主に実弾を持たせて見廻らせるやり方である。そして烏が畑を荒らせば本当に撃たせる気なのである。
この頼朝の実質主義、慣例主義、簡略主義の線上に成文化されたのが、執権北条泰時の五十一ヵ条の御成敗式目、いわゆる貞永式目」だった。」
この結果、日本は、その後明治に至るまで、律令と武家法の二重法制下に置かれることになりました。もちろん両者が矛盾する場合には、後者が優先されたことはいうまでもありませんが・・・。
律令に代わる日本の固有法「貞永式目」はどのようにして制定されたか
『日本人とは何か(上)』
p207~218
 では一体どのような法律が制定されたのであろうか。・・・まず大きな特徴はこの法律はいわば当時の社会の「常識の結晶」であっても、中国の法律とは全く無関係であったことである。この点「名の代」はまことに伊達千広が定義したように「下より起こりて次第に強大にして止むことなき」時代の到来であった。そして泰時が弟の重時、すなわち六波羅探題で「極楽寺殿御消息」の著者であるその人に送った手紙を見ると、律令は一向に民衆に浸透していなかったことがわかる。
(中略)

だが、たとえ実質的には浸透していなくても、律令に違反する法律を勝手に公布してよいのであろうか。たとえば二十四条には「法意(律令の解釈)の如くはこれを許さずといえども」このように定めるといった言葉が堂々と出てくる。また泰時の手紙には「法令(律令)のおしへに違するところなど少々候へども」という言葉も出てくる。

では何によってそれが正当化されるのか。これを前述の延暦寺の例と対比してみると面白い。彼らは「満寺集会」「大衆僉議(せんぎ)」の議決をもって天皇の命令を撤回させ、白河法皇を嘆息させた。同じように泰時も起請をし、そのもとで「理非」を「決断」した決議をもって、律令と齟齬する法律を公布してよいとした。

では彼らが起請した対象は何であったのか。ここで明確に見られるのが、神仏混淆は彼らにとって常識だったということである。冒頭に出てくる梵天・帝釈は仏の委嘱を受けた国土の守護神、四大天王は仏法を護持する者、ついで日本国中の大小神祇が出てきて、次に「別して」(特別に)と伊豆・箱根両所権現が出てくる。これは頼朝以来、幕府の崇敬が最も厚い神社であり、つづく神社は幕府および武家に尊崇される神社であった。鎌倉武士は、前章の重時にも見られるように、まことに宗教心が厚かったから、その信仰の対象に、私心なく「理非」を「決断」することを起請すれば、当然に「日本国中六十余州の大小神祇」のもとにいる日本人には、権威をもつ法であると信じたのであろう。

だが、泰時は元来は一個の武士、北条氏という一族の統帥者であり、彼もまたその時代の人として、一族の安危や利害に責任を負う者として行動している。これはこの時代の人間として、行うべき当然の義務であり、それを行わなければ武家の道徳に違反したとされるであろう。その彼が評議の席で、たとえば北条一族に不利になるような法律を制定できるか。もし彼にそれができねば他の十三人もできなくて不思議ではない。だか、それができねば「公権力」としての幕府は成立しない。このことを彼に教えたのは、明恵上人であったであろう。

栂尾の明恵上人と泰時との劇的な出会いは、『明恵上人伝記』に詳しいが、泰時にとつて上人は、神にも等しき人であった。泰時自身が評議の場でなぜ「出家」のように評定衆をリードできたか。それは『明恵上人伝記』の次の記述に現われているであろう。

泰時のいかにすれば天下が治まるであろうかという問いに明恵上人はまず「……欲心を失ひ給はば、天下自ら令せずして治るべし」と答える。これに対して「泰時申して云はく、『此の状尤も肝要の間、我身ばかりは心の及び候はん程は、此の旨を堅く守るべしと雖も、人々皆是を守らん事難し。如何し候ふべきや』と云々。上人答えて宣はく、『其れ易かるべし、只太守一人の心に依るべし。古人云はく、其身直くして影曲らず、其政正しくして国乱るること無し』と云々。この正しきと云ふは無欲なり。又云はく、『君子其の室に居て其の事を出す、よき時は千里の外皆之に応ず』と云々。此のよきと云ふも無欲なり。只大守一人、実に無欲に成りすまし給はば、其の徳に誘せられ、其の用に恥ぢて、国家の万人、自然と欲心薄く成るべし……」。

おそらく泰時自身、一切の私心私欲を去って、「理非」を「決断」しようとしたのであろう。ただ面白いことにここで明恵上人が述べているのは`『老子』と『荘子』、すなわち道教の言葉なのである。仏教は道教を混淆して日本に伝えられ、神道もまた道教に深い影響を受けたからそれは少しも不思議ではない。それは前述した。以上の言葉は「無欲にして静ならば天下将に自ら定まらん」(『老子』)、「聖人の静なるや、師は善なりと曰(のたも)うが故の静なるに非ず。万物の以て心を笑すに足るもの無きが故に静なり」(『荘子』)等によるであろう。・・・。

◎日本人の固有法「式目」

(前略)
次になぜこのような法律の制定が必要であったか・・・。(中略)大宝律令の公布からすでに五百三十二年も経っているのに、武士も民衆もそれを知らず、また知ろうともしなかったことは、律令が実質的には日本に定着しなかったことを示している。

そのために当然に罪となることを企て「身をそこなう輩(ともがら)」が多くいることを泰時は指摘する。法を知らず、そのため罪を意識していない者を、裁判の際に法令を引用して判決を下すと「鹿穴(鹿を捕る落し穴)ほりたる山に入りて、知らずしておちいらんがごとくに候はんか」という状態になってしまう。これでは一般人は何を信用してよいのかわからなくなってしまう。

「この故にや候けん、大将殿(頼朝)の御時、法令をもとめて御成敗など候はず。代々将軍の御時も又その儀なく候へば、いまもかの御例をまねばれ候なり」と彼は記す。いわば頼朝は律令を完全に無視して裁判をし、それがそのまま継続していた。そしてこの頼朝の判例は実は、式目に取り入れられている。それで見ると、頼朝が基準にしたのは武家の慣例・習慣そして常識で、それに基づいて判決を下していたらしい。だが頼朝のような権威者がいなくなると「おのづから人にしたごう」(当事者の強弱上下に従う)という弊害が出てくる。

「詮ずるところ、従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫にしたがはゞ、入の心の曲れるをば棄て、直しきをば賞して、おのずから土民安堵の計り事にて候とてかやうに(式目に)沙汰候を、京辺には定めて物をも知らぬ夷戎どもが書きあつめたることよなと、わらはるゝ方も候はんずらんと、憚り覚え候へば、傍痛(かたはらいた)き(心苦しい)次第にて候へども、かねて定められ候はねば、人にしたがふ(前出)ことの出来ぬ候故に、かく沙汰候也」

(中略)
(そこで、この新たな法令を、最初は「目録」と名付けた。しかし)法例集を目録と呼んだ例はない。そこで起草する人は「さかしく」「式条」と名づけた。いわば「律令施行細則条文集」であろうが、内容がそうではないので余りに「ことごとしく」(大げさ)なるのはこまると泰時が「式目」と名づけたという。これから見ると「式目」は泰時の造語らしいが意味は「式条」のように明確でない。おそらく意識的にぼかしたのであろう。が、「タテマエ」としては「律令格式」の「式」という施行細則の、さらに細かい法令目録という形式をとっている。今日的にいえば「通達」にあたるのではないかという人もいる。

「さてこの式目をつくられ候事は、なにを本説(依拠すべき法理上の典拠)として被注載之由、人さだめて論難(非難)を加事候欺。ま事にさせる本文(=本説)にすがりたる事候はねども、たゞ道理のおすところを被記候者也」。いわばこれが彼のホンネで、立法上の典拠などなく、ただ評定衆十三人の多数決で理非を決断し、道理のあるところを記したにすぎない、と彼はいう。

日本は後進国であったから、典拠は常に唐律とか仏典とかに求められ、明治以降は欧米に求められた。たとえば延暦寺の「大衆僉議(せんぎ)」による議決は「多語毘尼」や小乗の律典に根拠を求めた。そして律令の典拠は言うまでもなく唐律である。これが絶対とされる社会では、日本人の「常識の結晶化」が典拠だなどといっても通らない。だか、式目にはこの種の外来的典拠は一切なく、その意味では無典拠だが、それはまさに日本人によって制定された日本人の法であった。これを認めないのは奇妙なようだが、こういった後進国的傾向が現代の一部の日本人にも、ないわけではない。しかし、駆け足民族はここで、一気に「常識の結晶」を「法」とする「世俗法」の世界に駆け込んでしまう。

◎脱中国的体制・日本式法治国家の成立

泰時は前便で述べたことをもう一度強調し、「人の高下を不論、偏頗なく裁定せられ候はんために」細かく記されたのであるという。ついで彼は「この状は法令(律令)のおしへに違するところなど少々候へども、たとへば、律令格式はまな(漢字)をしりて候物のために(として)、やがて(すなわち)漢字を見候がごとし。かなばかりしれる物のためには(としては)、まな(漢字)にむかひ候時は人の目をしいたる(見えなくする)がごとくにて候へば、この式目は只かなをしれる物の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人への計らひのためばかりに候」と彼は記す。
(中略)

この泰時の。”律令批判”を前述の魯迅の「漢字批判」と対比してみると面白い。いわば双方とも民衆にはわからないという形で、神秘的な権威をもっていた。しかし、「下より起こりて次第に強大にして止むことなき」武士階級はそれに満足せず、「かな階級」の法律をつくったわけである。このことは必ずしも「漢字階級の法」を全面的に否定することではなかった。
(中略)

(もちろん)「社会ある所に必ず法あり」という有名な言葉を引くまでもなく、律令と無縁の社会にも法はあり、彼らはそれに従っている。しかし、何かあると、急に律令という「漢字知りの漢字読み」だけの世界の成文法に基づいて判決を下され、さらにその判決がまちまちだから「人皆迷惑と云云」なのである。そこで文盲のものでもその法を基に考え、また判決も変々とならぬように式目を制定したというのが泰時の主張であろう。

さらに前に記されているように「京都の御沙汰、律令のおきて」が「漢字知りの漢字読み」の世界だけで通用する法律なら、そのことには一向に干与はしない、それを変えようとは思わないと彼はいう。いわばここで法律は「公家法」「武家法」に分れるわけである。

そして圧倒的多数の「かな」しか読めぬ武家以下庶民までの法律は式目ということになった。いわば式目こそ、日本人の手になった最初の日本人の法律だったわけである。そしてこのときに、日本人は中国からの継受法を脱して、日本の固有法へと進み、日本人による日本人のための法治国家が出来たと言っても過言ではない。そしてそれを造りあげたのは、多数決による議決であった。

このことは、延暦寺や高野山で発生した「多語毘尼」による議決方式が僧侶でない武家階級にも浸透したことを示している。仏教が日本に与えた最大の影響はこの点にあったと見てよいかもしれない。そしてこの意味では、仏教がなければ日本の政治文化は存在しなかったといえるであろう。日本の民主主義は仏教に由来するのであって、欧米からの輸入ではない。それは、現代の日本の基礎となった「五箇条の御誓文」(一八六八年)にまで影響していると考えてよい。そしてこの基礎の上に、西欧の民主的体制が導入された。伝統が基礎を形成していない限り、何ごとも根づかない。このことは「掘り起こし共鳴現象」から見ても明らかであろう。この点から見ると、昭和の戦後体制は最も伝統的であるといってよいであろう。
 「日本人とは何か」を考える上で、山本七平の功績とされる数々の知見の内の一つが、この「貞永式目」の日本の固有法としての評価です。これは別名「関東御成敗式目」ともいわれ、「幕府の裁判の規範」という意味ですが、問題は、これが武士社会だけの規範に止まらず、次第に公家法や本所法(荘園の支配関係を定めたもの。律令、幕府法に対して特別法にあたる)にも影響を与え、結果的には日本全体の刑事・民事裁判における基本法としての性格を帯びるようになった、ということです。
「面白いことに幕府は決して無理矢理権力を奪取しようとしたのではなかった。これは実に、武家発生以来、一貫して続いた傾向である。まず最初は軍事・警察権を朝廷自ら民間に委託して検非違使、押領使、追捕使を生じ、次いでそれを統制する日本国六十余州総追捕使の頼朝が出現する。源平の争いで、平家が没収した荘園を旧主に返すときその手続き事務と所有権争いの裁定のため公文所と問注所ができる。承久の乱の結果その統治が全国に及ぶと今度は、本所である公家がその裁判権を委譲してくる。結局、朝廷が統治能力を失うのに比例してその権力は大きくならざるを得ないという形で幕府は発展していった。
これはさまざまな面に現れている。承元三年(1209)すなわち「式目」交付の二十三年前に、諸国の国衙が、守護が怠慢なため群盗が発生して困ると幕府に訴え出ている。これもおかしな話で、タテマエからいえば、まず天皇に訴えて、ついで天皇から幕府に命令が下るのが筋であろう。このような形で、ごく自然に天皇は棚上げされていく。
しかし、幕府とはあくまでも朝廷の下にあって、曽於権限を委譲された合法政権である。その点では国家公法(律令=筆者)の外にあるわけではない。朝幕併存という日本独特の政権はこのようにして成立した。・・・
面白いのは、ジョン王がマグナ・カルタに署名し、イギリスが「君臨すれども統治せず」の第一歩を踏み出したのが一二一五年、頼朝が総追捕使となったの三十年後、「貞永式目」が交付される十七年前で、日本の「君臨すれども統治せず」も同じころはじまっているということである。」(『日本人とは何か』P238)
さらに面白いのは、その条文の内容です。そもそも武士が自らの政権を樹立した動機は、「本領安堵」(領地所有権の保障)をしてくれる自らの政府を持つことでした。そして、それができると次に相続問題が出てきます。この頃には実質的に土地の私有化が進んでいましたが、律令制の基本はあくまで公地公民制ですから、その所有権は法的には保障されていませんでした。また、その所有関係はさまざまな権利が錯綜して明確ではありませんでした。
そこで、「貞永式目」第8条では、一種の「二十ヵ年年紀法」の原則を打ち立て、その土地を占有し納税していて二十年を経過したら、その土地の占有者が所有の最優先権を持つ、としました。つまり、それ以前の権利関係を証明する文書があっても、それは認めないとしたのです。さらに、こうして所有した土地の相続は、所有権者による「自由相続」で、所有権者が譲ろうとするものに「譲状」を渡せば、息子でも、娘でも、妻でも、分割でも一括でも自由とされました。
その代わり、所領を相続するものには義務があって、隠居した親を子が扶養するのは当然の義務とされました。もし、「譲状」を渡した後に、この相続者がこの義務を果たさなかった場合、親はこの「譲状」を悔い還すことができる、とされました。もちろん、結婚して他家に嫁ぐ娘も相続ができたわけですが、この場合も、親の扶養義務を抛棄すれば、悔い還しされることになっていました。
では妻の場合はどうか。「式目」は自由相続制だから妻が相続する場合もありますが、妻に譲状を渡した後に離婚した場合はどうかというと、この場合は、妻に重大な過失がある場合は別ですが、単に新妻をめとりたいため旧妻を離婚する場合は、譲った所領の悔い還しはできないとなっていました。興味深い点は、妾にもその相続の権利があるとされていたことです。さらに面白いことには、女性が養子を迎えてこれに所領を譲ることができた点で、この条文などは中国・韓国では想像もできないと言います。
また、一般的に武家の相続は嫡子相続とされています。この嫡子は長男の意味を持つ場合もありますが、「嫡子相続」は決して長男相続を意味していませんでした。当時親は、この内から長幼にかかわらず自由に嫡子を選定し、これに本領を含む最も多くの所領を譲与していました。では、こうした自由相続制の下では、どのように相続順位を決めるのかというと、これが「奉公の深浅」(年功序列)と「器量の堪否(かんぷ)」(能力の有無)で、長子が自動的に相続するわけではありませんでした。
以上、武家社会の土地所有及び相続の仕方を「式目」の規定に見てみましたが、そこに共通するのは、「武士とはまことに能力主義的人間だ」ということです。「この能力主義はあらゆる面に現れ、彼らは、特に戦場における能力の発揮には多大の報酬があって当然と考えていました。こうした能力主義は個人の能力の有無を尺度とするから当然に個人主義的になる。いわば功績も責任も罪科も個人に帰するのであって一族に帰するのではない。」
ここには中国や朝鮮のような、一族が連帯責任を負うという縁座制の発想が全くありません。中国では「罪九族に及ぶ」というという
言葉があり、例えば謀叛の場合には、本人はもちろんその父と十五才以上の男子は自動的の処刑、十四才以下の男女と妻妾は逮捕して奴隷に売り、伯叔は流三千里で全財産は没収されたといいます。しかもこれは縁座ですから共同謀議は関係ありません。
この点「式目」は、父子という血のつながりによる連帯(縁座)ではなく、共同謀議の有無(連座)によって罰するわけで、結局、責任も報償も全て個人に帰すとしているのです。ただ、妻の場合は、夫が謀叛等した場合は、武器や兵糧等の準備で手伝ったはずだと見なされ、妻女の所領も没収されるとしています。つまり夫婦は一単位と見なされていたわけです。
こうした考え方が、武家内だけのルールとしてではなく、次第に武家支配下の庶民、さらには国衙・荘園・神社・仏寺領等にも及んでいったのです。(上掲書参照)
武士の所領への貨幣経済の浸透は一族という血縁集団を一揆という契約集団に変えた
『日本人とは何か(上)』
P240~257
貨幣の定着は「農業生産力の向上、商工業などの社会的分業の成立によって、社会的な生産力の全般的な拡大と、それを基盤にした交換生活の一般化、流通経済の発展があるかないかによって決まる」のであって、それがなければ政府がいかに努力しても貨幣は定着しないし、それがあれば、足利幕府のような無能政権でも定着する。

・・・和銅元年(七〇八年)日本ははじめて貨幣を鋳造した。これか和同開珎であることは教科書に載っている。・・・(しかし)和銅元年から約二百五十年間、政府がいかに努力しても貨幣は定着せず、永延元年(九八七年)一条天皇か銭貨の通用の促進を命じながら、一面ではその通用を限定し、仏事にだけ全面的に使ってよいとしたときに、長い貨幣定着の努力は失敗に終わった。そして准米・准布・准帛とよばれる生産物が納税および交換手段に用いられた。これらは一種の物品貨幣と見てよいであろう。

◎貨幣経済確立の基は輸入貨幣と金輸出

(その後)・・・経済は徐々に発展し、貨幣を導入すべき状態になっても、貨幣経済に移行しようとしない。これは、准米・准布の公定価格を定めた万物沽価(こか)法を混乱させるという理由であったらしいが、もう一つには材料の酸化銅を掘り尽くして、銅銭鋳造の原料がなくなったことにもあった。後述するが、かつて世界三銅産国の一つといわれた日本も、その鉱石は殆どすべて硫黄と結合した硫化銅であり、これの精錬技術が当時はまだ開発されていなかったからである。・・・

そのとき「中国がら貨幣を輸入して流通させればよい」というまことに独創的な発想をした人間がいた。それか平清盛である。長寛二年(一一六四年)、彼は周囲の猛反対を押し切って宋銭の輸入を断行した。日本はちょうど貨幣経済に移りうる段階に来ていたのでこれが爆発的に流通する。するとそれによって経済は発展し(た)・・・その端緒をつくったのが清盛であった。「武士とは何か」はさまざまな定義ができるが、「土地の所有権を主張し、貨幣を定着させたもの」ともいえるであろう。

これを「渡来銭」といい、寛永十四年(一六三七年)まで、約四百七十年間、日本で流通していたのは宋銭や明銭である。この、他国の貨幣を輸入して流通させるということが、現代人、特に外国人には非常に理解しにくいらしく、国際貿易センターで外国からきたビジネスマンに講演したとき、質問がこの点に集中した。今日的にいえば、日本は車や音響機器をアメリカヘ輸出して膨大なドルを手に入れたので、紙幣の印刷をやめてドルをそのまま日本で流通させるような状態であろう。

では何を輸出したのか。――それが金であった。この金の輸出と貨幣輸入はすさまじかったらしく、三上隆三氏は『渡米銭の社会史』の中で、中国の銅銭流出が余りにすさまじく、ついに貨幣不足のパニックが起こり、そこで一一五五年に銅銭輸出禁止令を出す。それでもどうにもならず本格的な紙幣発行に乗り出す。紙幣が本当に流通した最初の国は中国だが、その原因の一端が日本にあったことは面白い。(中略)

「中国はすべてが存在する小宇宙」であることは事実だが、不思議なことに金だけは余り産出しなかった。現存する立派な金製品や出土品は、その殆どが属国からの貢物であるという。一方、日本の奥州の砂金は、中国の史書にも記されているほど著名であり豊富だった。日本の金鉱か涸渇して来るのは徳川中期からであり、後述するが、日本に二十年近く住んだスペイン商人アビラ・ヒロンも日本を黄金国と記している。

だがその金も清盛の時代にはせいぜい金銅仏か金箔か装飾品をつくるのに用いられるくらいである。その金を用いて、これが割高な中国で割安の銅銭にかえて輸入して自国の通貨とすることは、まことに「経済的生き物(エコノミックアニマル)」らしい発想である。だが、それならなぜ地金を輸入して自国貨幣を銭造しなかったのか、和銅元年(七〇八年)以降二百五十年間皇朝銭を鋳造していたなら、その技術かなかったわけではあるまい、という疑問は当然に生ずる。

国際貿易センターでの講演でもこの質問が出た。だが、当時の中国貨幣は東アジアの国際通貨である。たとえば政府間貿易で韓国から何かを輸入しようとした場合、中国貨幣ならそのまま使える。たとえ民衆にまで貨幣が浸透していなくとも、政府はこの受取りを拒否しない。金により安く輸入できて、鋳造のコストがかからず、しかも国際的に流通するなら中国貨幣をそのまま輸入した方が有利である。(中略)

◎武士を直撃した貨幣の猛威

・・・「貞永式目」の公布が一二三二年だから、このころすでに貨幣が猛威を振るい出して不思議でない。そして皮肉なことに武士である清盛が切り開いた貨幣経済への道が、武家法をつくった泰時を苦しめることになった。

というのは、・・・幕府の基盤である御家人が所領を売って無足(所領がないこと)となったら、政権の根底が崩れてくる。そして皮肉なことに、鎌倉幕府が樹立した平和は、否応なく貨幣の猛威を加速した。自分の父が、あるいは祖父が、命をかけて守り、文字通り血であがなった所領が、金で人手にわたって行く。いわば、武勇も忠誠も必要なく、金があれば所領が手に入る。その一方で経済的基盤を失った「無足の御家人」が出現する。

なぜこんなことになったのであろう。武士は元来農民のリーダーで墾田の所有者、土地に密着した「一所懸命」の「名田の主」であり、それが彼らの存立の基盤であった。ところが貨幣は土地から遊離した経済を現出する。それが一所懸命で一体化した人と土地を遊離させてしまう。そしていずれの国でもそうだが、貨幣経済に突入したときに、想像に絶するような勢いで、土地に密着した平面的な、いわば二次元的な経済をなぎ倒していく。

(こうした)清盛輸入の貨幣の猛威は「式目」の公布以前にすでにはじまっている。
「一(17)私出挙(すいこ)の利一倍を過ぎ、ならびに挙銭(こせん)の利半倍を過ぐるを禁断すべき事」(この)出挙は穀物その他の財物の貸し付け、挙銭は金銭貸借のことだが、ここでいう一倍とはいまの二倍、半倍が一倍で元金と同額である。・・・これでは、御家人が金を借りたら、もうおしまいということであろう。

◎武士を土地から引き離した。”無尽”

これだけ利子が高ければ手持資金を運用しようという人間が出てきて不思議ではない。すると零細な資金を集めて貸しつけようという人間も出てくる。そこで最も原初的な銀行ともいうべき無尽が出現する。

無尽は相互銀行の前身だが、これは日本で最も古くからある金融機関であろう。というのは建長七年(一二五五年)の追加法に無尽が登場するが、それは、すでに無尽が存在していることを前提とした法律である。清盛が宋銭の輸入を強行してから一世紀足らずでもう原初的な銀行や貸金業ができていた。(中略)

無尽銭はむしろグループ金融である。まず相当に信用力のある胴元が一定の加入者から掛金を徴収し、それを入札その他の方法で加入者の一人に貸しつける。この場合、貸付を受けた者が以後掛金を払わないとこまるから担保をとる、といった方式である。これから転じて質屋などの貸付金も無尽銭というようになった。・・・

こうなると、無尽を落札して所領を買い、それを担保に入れて月々掛金を払いつづければ、いずれは自分のものになる。いわばローンで所領を買うことも不可能ではない。御家人同士の貸借と違って、この場合は所領が、武家でない一庶民のものになってしまう。さらに金貸しなら、即金で買えるであろう。幕府はそれを放置しておくわけにいかない。延応二年(一二四〇年)次のような追加法が公布される。

一(145)凡下の輩(一般庶民)買領買地すべからざる事(条文略)
「貞永式目」そのものには、高利貸や一般庶民が御家人の所領を買った場合の法律がない。そういう事態が出てくることを予想せず、御家人同士の売買だけを想定して、私領の沽却は「定法なり」と定めたらしい。そこで新しい判例を法とするという趣旨である。ただ後の別の法律を見ると、御家人が高利貸をして非御家人の所領を買いとることは一向にかまわなかったらしい。これはいわば御家人保護法だが、この他のさまざまな保護法も結局、余り効果がなかった。(中略)

◎盗難頻発にみる貨幣の浸透

・・・幕府はついに暦仁(りゃくにん)二年(一二三九年)に一定範囲で貨幣の流通を禁止した。この通貨禁止令は、実は、治承三年(一一七九年)に朝廷が一度公布している。この年の十一月清盛は院政を停止して後白河法皇を幽閉し、翌年以仁王と頼政の挙兵、ついで頼朝の挙兵となっていくわけで、朝廷はこの法律を撤回したわけではないらしい。だが貨幣の勢いは朝廷の命令でもとまらず、猛威を振るっていたが、幕府もこれにならって、白河の関から東の貨幣の流通を禁ずるのである。

◎鎌倉幕府の基盤・惣領制の崩壊

・・・そこまで貨幣が浸透してくると、人びとの価値観は当然かわってくる。この点、「所領安堵」という土地の所有権の保証の上に立つ鎌倉幕府が、さまざまな問題にさらされて不思議でなかった。その中で幕府の体制の基本を徐々に浸蝕して来たのか惣領制の崩壊である。前に「北条重時家訓」すなわち「極楽寺殿御消息」のところで述べた矛盾が貨幣で拡大される。

前述のように当時は所領相続は分割相続が普通であり、分与された小所領を基に開墾を進めていけば、一族の所領は拡大され、これを数代つづければ広大な土地を持つ巨大な一族になる。惣領がそれを統制し、戦争のとき一族に従うものすなわち郎党まで含めて動員すれば、戦闘単位となる。これが「一族郎党」である。そして幕府はこの惣領に安堵状を与え、平時には一族から年貢を集めて幕府に納入する義務を負わせてある。これが最も大きな平常の「公事」だと言ってよい。

ここで問題なのは、「式目」は上地の所有権を各個人に認めながら、その統制の義務を惣領に負わせていることである。たとえ重時が家訓で・・・自分は惣領の下にある一族の一人であると自覚して「格別」すなわち一族とは無関係の独立した武士と思ってはならない、と訓戒しているが、この訓戒か必要なこと自体、そう思う者がいたということであろう。さらにここに貨幣が入ってくる。貨幣の所持はますます人を個人主義的にして、みな「われ各別」と思い出す。(中略)

そうなると惣領の統制に服さないもの(がでてくる。)・・・こうなると惣領制はもう有名無実で、守護と地頭が、惣領・庶子に関係なく、各小領主を統制するという結果になる。
大体日本はこういう状態で一三〇〇年を迎えたものと思われる。といっても「一族郎党」という意識や言葉が完全になくなったわけではない。だがこれが一三五〇年ごろになると、「一族一揆契約」という形で、契約集団に切りかえて結束しなければならなくなる。だがこうなれば当然、一族という血縁とは全く無関係な一揆集団へと変化していく。そしてその方式が、前に述べた延暦寺の「大衆僉議」以来の一揆方式なのである。
 日本における貨幣経済の導入は、平安時代における律令制度下での土地制度(=王土思想)が、土地私有の承認によって実質的に崩壊し、それによって農業生産性が向上し、商工業などの社会的分業が行われるようになって初めて可能になりました。そして、その私有化された土地(=荘園)の警備を担当する職務から武士が生まれ、さらに荘園の管理から経営まで行うようになり、ついに政府の要職(=太政大臣)につくようになりました。その最初の人が平清盛で、彼によって、貨幣経済の導入が図られ定着を見ることになりました。
その時使用された貨幣は「渡来銭」で、宋銭や明銭といいました。なぜ他国の貨幣を輸入したのか不思議は感じがしますが、当時は中国貨幣は東アジアの国際通貨であり、中国のみならず韓国でも通用し、かつ、当時の日本で多量に産出した金により安く購入でき、しかも鋳造コストもかからない、ということだったそうです。これがなんと寛永十四年(1634年)まで流通しました。
これに対して韓国の場合は、「高麗の末期には、政治が乱れて相当分権化の傾向が強められたのであるが、李朝の創建(1392年)によって逆に最も強力な中央集権体制が作られた。そして、王土思想の強化によって、土地所有の分権化と私有化が阻まれた」。こうした王土思想の下でも、王族や国家機関の長、権門勢族が私田を実質的に拡大した事実はありましたが、それは権勢の喪失、勢力争いの成否などによって安定せず、そのため、それが生産力の向上に結びつくことはなかった、といいます。
というのも、儒教の経済観はもともと農本主義であり、「士農工商」という言葉に見られるように、農が基本で、商や工を軽視します。韓国の李朝ではこの農本主義の経済観が徹底し、農業以外の経済活動は全て規制されました。このように支配階級の政治の論理だけがあり、民衆である個人の経済的な自発的参加の論理が認められなかったために、農業自体も発達せず、従って商業、工業などが発達する基盤も作れなかったのだそうです。
一方日本の場合、「十二世紀後半の平安末期に、武士階級が貴族を圧倒して勢力を伸ばし、実質的に農民を保護する土地の私有化の動きがあった。そして、新興勢力である武士階級と農民とは、常にある程度の親密性を保ってきたといえる。農民に対する労りと保護がなければ、武士は勢力を伸ばすことが出来なかったからである。」
確かに、日本でも徳川幕府の定着以降もタテマエとしての王土思想は残っていました。しかし、実質的には、将軍家と諸侯による土地の分権的私有制でした。各大名は、自分の領地をその臣下と農民とともに、相続制によって子々孫々引き継いで治めていく。そして、藩の財政向上のためには、農業生産力を向上させる政策を取らざるを得なくなり、結局は農民を生かすようになる。
「前近代の社会では、いかなる形態にせよ、土地の分権化、私有化があった場合には、それがなかった場合より、農業生産力は大きく向上したといえる」のです。(以上『儒教文化圏の秩序と経済』金日坤 参照)
ところが、鎌倉幕府の基盤である御家人の所領への貨幣経済の浸透は、勲功に対する恩賞としての所領を、勲功に拠らない貨幣によって売買する事態を招きました。幕府はこれを幾度もこれを禁止しようとしましたが、あまり効果がありませんでした。こうして、鎌倉幕府の惣領制(一族郎党の所有する土地を惣領が統制し、戦闘への参加や平時の年貢徴収の義務を負わせたもの)は次第に崩壊していきました。このように、貨幣経済の浸透は、惣領・庶子の関係なく武士を個人主義的に小領主化し、これを守護・地頭が統制するようになったのです。
ここにおいて、守護・地頭と小領主である武士集団との関係が、新たな関係において再構築されることになりました。ここで登場したのが、一族という血縁とは全く無関係な一種の契約集団である一揆集団だったのです。
「一揆というと、よく百姓一揆と間違われますが、これは一種の集団規約のことで、最初に出てくるのは国人一揆です。これは地方小領主が自分たちの安全保障のために同盟したもので、足利末期から戦国にかけて日本国中一揆に入っていない者はないという時代になってきます。武士も百姓も町人も皆加盟」しています。実は日本の集団主義はこの一揆から生まれたもので、これが今日の派閥や談合組織の原型なのです。
日本には「契約」がないなどと言われますが、一揆は「契約状」とか「諾訳状」とか称して、みんなで申し合わせて集団規約を作り、それに基づいて行動するというのが、日本人の自主的な組織の始まりなのです。契約状の最後には連判をしますが、この連判にはいろいろな形式があり、「傘連判」というのは丸を描いて中心から外に向けてサインをしていく形式です。全員平等の建前になっています。
こうした一揆組織にもいろいろありますが、後々まで影響があったのは「安芸国国人連署契約状」で、安芸の国の小さな小領主三十三人が集まって規約を作ったものでした。何のための規約かというと、山名満氏という守護が足利義満に任命されて来たのですが、この守護をみんなで追い返すためでした。下剋上の始まる時代、戦国より七十年も前の一四〇四年(応永11年)のことで、戦争になりましたが、義満はとうとう守護更迭で妥協してしまいました。それ以降、同様の事件が次々起こるようになったのです。
これが下剋上に時代につながっていくわけですが、つまり、日本人は自分たちの組織を、このような一揆によって作り始めたのです。こうして出来た大名領国制度・分国制度を凍結しそれを制度としてまとめたものが徳川時代でした。つまり、日本での組織は民間から始まったのです。後には、一向一揆というものが出来て、坊さんたちを中心に壇信徒が団結して領主を追い出してしまう、加賀の守護、富樫政親が追い払われて一世紀近く守護なし、という異常事態も起こるようになりました。
こうなると、幕府から任命された守護は、下の「一揆」という組織との間に協調を保って、その上に乗って行かないと統治が出来なくなる。これを全部敵に回しての支配は、到底不可能ですし、幕府がだんだん非力になってきますと戦争をしても勝てない。そこで、守護は中央にいて、守護代という一揆の中の代表が一国を統治することになってくる。こうして、だんだんと戦国時代の下剋上の時代に入っていったのです。(『指導者の条件』山本七平 参照) 
日本の平等主義・集団主義は、自力主義・能力主義を前提とする「一揆」から生まれた
『日本人とは何か(上)』
p268~275
◎一揆絶対化で惣領制消滅

・・・信濃の守護に任命された小笠原長秀が国人の私領支配を否認した。領国に支配権を行使しようと思うなら、これは当然の行き方だが、これに対抗して信濃全域の国人領主が総決起してしまった。これが「国一揆」で、両者はついに戦闘をまじえ、守護は敗北して京都に逃げ帰った。こういう事例を見ていくと、足利幕府の全盛期といわれた義満の時でさえ、全国支配が貫徹できたわけではないことかわかる。やがて一揆のリーダーが実権を持つようになり、幕府の支配権は徐々に有名無実となって、戦国時代へと突入していく。

だが一揆側にも問題があった。その一つは前述の「一族郎党」と「一揆」との関係である。この点、「一族一揆」はもとより問題ないが、安芸国国人一揆の場合、有力メンバーである毛利一族は、全員か参加しているわけではない。こうなると一族が、一揆側と守護側に分裂して戦うという事態も生じうる。この状態をなるべく避けようという条文を記した一揆契状もある。次に掲げる「松浦党一揆契諾状」(嘉慶二年、一三八八年)の第四条などがそれである。

「一 この一揆中の人と一揆外の人と相論出来の時は、たとえ重縁(深い縁故関係)たりと雖も、先ず一揆外の人を閣(さしお)きて一揆の中に馳せ寄せ、両方の理非を勘弁(よく考え)せしめ、道理たらば、一揆中を見継ぐ(援助する)べし。もし一揆中たりと雖も僻事(ひがごと)あらば、一同教訓せしめ、承引せざれば、両方とも見継ぐべからず……」

結局、一揆につくか局外中立かであって、一揆を無視して縁故につくことは許されない。そしてもっと徹底したものには、いかなることがあろうと一揆絶対で、縁故は全く認めないというのもあり、大勢はその方へ移行していく。これは、血縁社会が、契約による組織社会へと転換して行く過程と見てよい。一三〇〇年代にすでにこのような状態にあった日本人に、韓国の宗親会が理解できなくて不思議ではない。

そしてこうなると否応なく惣領制は消えていく。所領を子供たちが分割相続し、各人の所有権を認めつつ惣領か統治するという方式か成り立たなくなると、細分化された小所領が無統制に散在することになる。そうなると困るので、コ子指名相続」への移行が見られる。「貞永式目」は元来、自由相続制だから、こういうことはそれぞれの家が自らの方針に基づいて「置文」(遺言・遺命・遺訓を含む)に記せばよい。一例をあげよう。

渋谷重門置文
置文ノ事
右、重門以後の所領の事、数輩の兄弟ありと雖も、その器用を守り、惣領一人に一所をも残さず譲与すべきなり。もしこの旨に背き、所領を数子の輩に分与するにおいては、重門の子孫とあるべからずと云々。此の如く定め置く上は、もし万一にも所領を分ち譲ると雖も、この状に任せ、惣領一人の計において、押して知行せしむべきものなり。冊って後証のために置文の状、件の如し。
建徳二年十月十五日
弾正少弼重門(花押)

一三七一年の文書だが、これを長子相続制と誤解してはならない。「その器用を守り、惣領一人に……」とは、何人兄弟があろうとも、能力ある者を惣領に立てて、所領を一括して譲与すべきであるという意味である。この点、徳川時代以前の武家は、能力主義・能力順位であり、これは「貞永式目」の「未処分の跡の事」の「奉公の浅深に随い、且は器量の堪否(能力の有無)を紀し……」て相続順位をきめるのと同じ考え方である。こうなると相続は「能力順位の一子指名相続」となり、他の兄弟はその郎従に等しい位置に置かれてしまう。そしてこの相読者が一揆を結成するか、一揆に加入するかすれば、もはや、惣領制と一揆との矛盾などは存在しなくなる。いわば一揆は、かろうじて残っていた惣領制の痕跡をも消してしまうのである。

◎傘連判にみる日本人の平等主義・集団主義

なぜこのような社会を生じたのであろうか。武士は元来、自力で墾田を切り拓いて来た人びとが主流である。従って「自力主義」ともいうべき特質をもっていた。もちろんこのことは、共同の場をもつことを否定しないが、それはあくまでも個人の自由意思で平等の立場で参加するのが原則であった。一揆は原則として全員平等で、全員か合議して規約の案文をつくり、それに従うことを個人の決断で議決してはじめて成立する。

これが日本人の平等主義・集団主義の基本であり、集団主義は全員が平等でないと成り立たない。そこでちょうど円卓会議のような形で合議し、その形のまま、円周から放射状に署名する形式が生じた。これが「傘連判」である。一揆にリーダーがいても、それが必要だから全員でリーダーとしたにすぎず、その意味では「プリムスーインテルーパーレス」(同輩中の第一人者)にすぎなかったと、石井進氏は記しておられる。・・・

ここで取り上げたい問題は、この「自力主義・個人主義・集団主義」がどこまで浸透したかという問題である。あらゆる縁族関係を断ち、一個人として、理非にのみ基づいて判断を下し、それによって賛成・反対を述べ、多数によって議決するという方式は、前述のように延暦寺や高野山のような大寺院に於いて、「多語毘尼」に基づいて発生した、このことはすでに述べた。それが幕府の法律制定に用いられて「貞永式目」ができ、さらにそれが、国人一揆の契約という形で地方小領主に広まる。

ここまで来れば、農民がそれを行なって不思議ではない。国人が一揆を形成して守護に対抗したように、農民が一揆を形成して国人領主に対抗する。この動きは相当に早くからあったらしく、それを証明するさまざまな事件に関する記録、すなわち傍証はあるが、鎌倉末期から足利期にかけての、農民の一揆契約文書を私はまだ見たことがない。おそらく、ほとんどが口頭でなされたのであろう。

ただ次のことは、この種の農民の一揆が、数多くあったであろうことを証明している。すなわち徳川幕府の成立したころ、各地で「徒党を結び、起請文をかき、神水をのみ一味同心つかまつり候儀は、公儀の御法度なり、かくのごとき輩は、たとえ道理あるとも罪科たるべき事」という、一揆禁止令が出ていることである。この禁止令で一揆がとまるわけがなく、徳川時代は一面では「百姓一揆」の時代であり、現代では多くの人が一揆といえばすぐ百姓一揆を連想するほどである。このことは、国人一揆が発生したころ、これと並行して百姓一揆も発生したと考えてもよいであろう。いわば、自力主義・平等主義・集団主義そして能力主義は、社会がどのように変化しようと、日本人の中に、血となり肉となった。それの発生期が足利時代と見てよいであろう。

◎一揆は現代日本の原点

中世の農民は、いずれの社会でも、またどのような名で呼ばれようとも、土地に緊縛された農奴に等しかったと見るのが普通である。だが、日本には奴隷制も農奴制もなかった、といえばもちろん異論はあるであろう。確かに人身売買はあったことは追加法を見ればわかるし、奴婢雑人法を見れば農奴に等しい状態である。そのことは否定できない。ただ、公然たる奴隷市場があって奴隷が競売に付され、奴隷階級が公然と存在し、その子孫は生まれながらにして奴隷だという状態はなかった。簡単にいえば、制度として公認され、法がそれを当然と認める「農奴制」「奴隷制」はなかったといえる。なぜであろうか。まず、常に議論となる「貞永式目」の次の条文がある。

一 (42)百姓逃散の時、逃毀(にげこぼち)と称して、損亡せしむる事
右、諸国の住民逃脱(逃散と同じ)の時、その領主ら逃毀と称して、妻子を抑留し、資材を奪い取る。所行の企てはなはだ仁政に背く。もし召し決せらる処(裁判の結果)、年貢所当の未済あらば、その償いを致すべし。然らずば、早く損物を糺(ただ)し返さるべし。ただし去留においてはよろしく民の意に任すべきなり。

この「逃毀」という言葉だが、これは山賊のような刑法の対象となるものを討伐したとき、相手が逃げたあとの山塞などを破壊して財物などを奪取することをいう。ただ農民が逃げても、それは刑法の問題ではないから、未収の年貢を残存の財物からとってもよいが、それ以上のことはしてはならない。したものは返却せよという法令である。

そして常に問題となるのは、去るも留まるも民の意に任すべきだという末尾の言葉である。これは、百姓に逃散の権利を認めていることになる。法律が逃亡権を認めれば、それはもはや奴隷とも農奴ともいえない。逃亡奴隷なら逮捕して所有主に引き渡すのが原則で、西欧では、そうでないのは旧約聖書の申命記法典だけであろう。それを考えると、この条文はまことに不思議で、なぜこういう法律ができたかは未だに定説がない。

また追加法に「一(309)勾引人ならびに人売りを禁断にすべきこと」という条文があり、その中に「人商人」という言葉が出てくるから、人身売買かあったことは事実である。そして幕府が少々こまることは、御家人の中でそれを行う者がいることだった。ただ人身売買は律令でも禁止されており、発覚すると追放になる。これは当時の日本は、特に辺地では労働力不足で、逃げた百姓を喜んで歓迎する所もあったし、金を出しても労働力を入手したい所もあったからである。

この逃散の百姓を歓迎するという傾向は徳川時代の初期まであり、加賀藩などは、逃げて来た百姓を収容する施設までつくっている。これらから推定すると、「貞永式目」の前記の条文は、大寺院や公家の荘園から武家の所領に逃げ込んでも、また、たとえそれを返せと彼らが幕府に訴え出ても、「去留においてはよろしく民の意に任すべきなり」の条文を楯に、その訴訟を受けつけない予防線ではなかったか、という気がする。

さらに、人身売買は法律で禁じられているから、実際には買った農民でも、公然とそれを口にするわけにいかない。人身売買は「諸国に至っては、守護人に仰せ科断せしむべし」であるから、これをごく普通の農民のようにしておかないといけない。それが秘かに一揆をつくり、ある日一斉に逃げ出し、「去留においてはよろしく民の意に任すべきなり」などといわれては大変な損害になる。

「貞永式目」にはローマ法のような、また一八六六年以前のアメリカのような、奴隷を所有主の財産と認め、逃亡者は逮捕して所有者に引きわたすような法律がない。これでは、百姓が不満をもてば、すぐに逃散して所領の経営が不可能になる。さらに困ったことに、たとえ奴婢雑人でも、他の領主のところへ逃げて十年たてば、「理非を論ぜず」その現状を認めると「貞永式目」の四十一条に規定されている。そこでさまざまな問題を生じ追加法で修正をしてあるのだが、結局、百姓の逃散をとめることはできなかった。

農民か、大寺院や公家の荘園から、武家の所領に逃げて来るなら、幕府は内心では歓迎であろうが、これが国人同士となるとそうはいかない。そこで、国人一揆のメンバーの間では、逃げて来た百姓は、互いに返却するという条文があるものもある。

「一 百姓逃散のこと。領主より訴訟ある物においては、是非を論ぜず、領主に弁(わきま)えて返付せらるべきなり」(松浦党一揆契諾状)。

だが、同じ松浦党の別の契諾文書に、これとやや違った条文もある。
「一 百姓逃散につき、相互に扶持すべきや否やのこと。所詮本地頭として不忠の儀なく、負物・年貢以下怠勘なくんば扶持すべし。若し負物・年貢等弁済なくんば、扶持せしむべからずと云々」

逃げて来た百姓は、「是非を論ぜず」もとの領主へ返却すべきなのか、問題が全然ない状態なら、そのまま受け入れるべきなのか。一揆は多数決による議決だから、まちまちであって不思議ではない。だがこれらの一揆契約を見ると、百姓に対して、奴隷や農奴のように、財物としての所有権を主張することは不可能だったようである。

なぜであろうか。奴隷制よりも、耕作請負制の方がはるかに生産性が高かったからであろう。ガルブレイスは『権力の解剖』で奴隷の生産性が自由民の請負制よりはるかに低いことを指摘し、アメリカ南部における奴隷制の崩壊を、南北戦争よりこの点に置いている。また同じ指摘をローマ史の専門学者も行なっているが、水田耕作の場合は特にこのことが言えたのではないかと思う。

そしておそらく、こういう状態が、農民に「百姓一揆」を形成させる力を与えたのであろう。いわば、一揆の議決によって決定するという方式は、全日本人に浸透していったのである。そしてそれが、血縁集団を解体して契約集団に変え、現代の日本の基礎を形成したといえよう。

 武士がその地縁的・血縁的結合を超えて、後に「一揆」といわれる一種の相互盟約に基づく組織を作り始めるのは、北条氏が承久の変を経て天皇を虚位に置き、全日本を実質的に統治するようになって以降のことです。この時幕府は、「もはや、単なる総追捕使すなわち軍事・警察権を委任された民間団体ではなくなっていた。と同時に、頼朝という「源家の嫡流」はすでになく、何らかの伝統的権威で武士団を統制していくこともできない。そして、頼朝さえその権威を用いかつ尊重した朝廷を(北条氏は)自らの手で打倒してしまっていた。
・・・実際問題としては、鎌倉・六波羅の間に齟齬があっては円滑な全国統治はできないから、新しい武家的秩序を維持していくためには鎌倉・六波羅を通じて全国を律する新しい法の制定が必要であった。それが「関東御成敗式目」、俗にいう「貞永式目」の公布となった。・・・言うまでもないが、新しい法の公布は、何らかの権威に基づかねばならない。前述のように過去の諸権威はすでにない。そして・・・ここに出てきたのが「一揆」であった」(『日本人とは何か(上)』p202)
この「一揆」は、「6〈民主主義〉の奇妙な発生」で説明したように、延暦寺の「満寺集会」の「大衆僉議」や高野山の「合点状」ときわめてよく似ている。というより、そうした一種の多数決による議決方法に習ったもの、ということができる。
「しかし、武家社会における多数決方式の採用は、決して寺院のそれのように簡単にはいかない。というのは・・・寺院にいるのは「出家」であり、一族一家と縁を断ち、一個人として仏に仕えている身であるから、個人の投票により神意を問うという方式は成立しやすい。しかし、その彼らでさえ、一切の雑念を払い、一個の別人格となって秘密投票をするには、ある種のルールに基づく儀式的行為が必要であった。
だが、これが武家となると、彼らは「出家」でなく俗人であり、当時はそれぞれの族縁的なつながりをもつ集団の一員であり、その集団が軍事的には戦闘単位であって、その結束はきわめて強い。こういう社会で公正な法を制定しようとするなら、それを制定する委員は一切の族縁を断ち切って「出家」したような状態、言いかえれば「族縁を断って私心・私欲なき状態」にならねばならず、ついであくまでもその状態で決議することを、そのメンバーが絶対とする神もしくは神的対象に誓約しなければならない。それが起請文で、一種の宗教的宣誓であった。」(上掲書p203)
このように、「多数決というものは、何らかのこのような宗教性の裏付けがない限り、圧力団体、縁故、利益誘導等の他の要素に作用され、「理非の決断」にならないであろう。彼らと現代の国会議員のどちらが、真に多数決原理なるものを理解し体得していたかとなると、私はむしろ、泰時以下の評定衆であったと思われる。小林秀雄のいう通り、伝統はそれを保持し継続させる意志を持たない限り、消えてしまうものであろう。」(『日本人とは何か(上)』p207)
実は、この「一揆」が、その後の日本社会の組織の基本形態を形作ることになったのです。その組織の特徴は、あくまで、個人の自由意思で平等の立場で参加することを原則としていました。ここから、日本人の組織の平等主義・集団主義が生まれたのです。今日では、この日本の組織の特徴である平等主義・集団主義は、自立主義・能力主義に反する概念であるかのような理解がなされています。しかし、これは元来、墾田を自力で切り拓いてきた武士の自力主義的・個人主義的・能力主義的な考え方の中から生まれてきたものなのです。
こうした武士の考え方から、地縁・血縁のしがらみを超えた、理非の判断に基づく、同等者間の盟約組織(=一揆)が生まれたのです。このため、武家の相続においても、惣領制ということが必ずしも長子相続を意味せず、器量(=能力)に基づくものとなりました。また、一揆内のリーダーの選出も、同様に器量によりました。というのは、その「一揆」の目的は、あくまでも、お互いの所領を安堵するための一種の相互安全保障契約であったからです。
このような「一揆」組織が、武家社会に生まれたのは、幕府の評定衆が最初だったわけですが、ついで、それが国人相互の「一揆」契約という形で次第に地方小領主にも広まっていきました。これが、幕府権力の弱体化と共に次第に力を発揮するようになり、室町時代になると、それが幕府から派遣された守護に対抗するようになりました。また、門徒が団結して守護を追い出してしまう(加賀の一向一揆の例)ようなことも起こるようになりました。さらに江戸時代になると「一揆」といえば「百姓一揆」というほど、多くの百姓一揆が起こるようになりました。
不思議なのは、武士が「国人一揆」を組織して、幕府から派遣された守護に対抗し、自分たちの利益を守ろうとするのは解りますが、百姓まで「一揆」を組織して領主に対抗するというのは一体どういうことでしょうか。これは、日本にも、確かに農奴に等しい状態の者はいたが、「ただ、公然たる奴隷市場があって奴隷が競売に付され、奴隷階級が公然と存在し、その子孫は生まれながらにして奴隷だという状態はなかった。簡単にいえば、制度として公認され、法がそれを当然と認める「農奴制」「奴隷制」はなかった」ということではないかと思います。
というのは、貞永式目には人身売買を禁じる条文があり、かつ、大寺院や公家の荘園から武家の所領に逃げ込んでも、また、たとえそれを返せと彼らが幕府に訴え出ても、「去留においてはよろしく民の意に任すべきなり」という条文が設けられていたのです。つまり、逃げた奴婢雑人を元の領主に返すという規定はなく、それどころか、他の領主のところへ逃げて十年たてば、「理非を論ぜず」その現状を認める、という条文まであったのです。これらは裏から見れば、幕府は、領主が百姓や奴婢雑人の逃げるような経営はしてはいけないと暗黙にいっているようなものです。
また、国人領主の方も、自らの所領の生産性が上がれば国力も増し、同時に自らの経営手腕を示すことにもなりますから、自ずと、百姓たちの扱いにも注意を払ったのではないかと思われます。そんなことから、百姓たちも、領主の領国経営に不満があった場合は、「百姓一揆」を形成して、年貢の減免や荘官の罷免などを求めるようになりました。このような経過を経て、支配者階級である武士から百姓に至るまで「一揆」という同等者間の盟約に基づく談合組織が、全国に浸透していくことになったのです。
実は、こうした「一揆」的組織形態は、今日の日本のあらゆる組織に見ることができます。そしてこれが、日本の平等主義・集団主義の背後にある考え方なのです。それがプラスイメージで語られる場合は、日本的経営として評価され、マイナスイメージとして語られる場合は、企業における談合組織や政界における派閥となります。というのは、これらの組織は多くの場合裏組織として機能し、表の法的・合理的な組織運営を阻害することが多々あるからです。そのため、今日では、企業に対するコンプライアンス(法令遵守)の重視や、政界における派閥の解消が強く求められるようになっています。
日本の組織は、ピラミッド型ではなく、「一揆」組織が「ぶどうの房」のように中心の茎に連なったもの
山本七平ライブラリー『指導者の条件』
p85~91
 それでは日本人が作り出した組織は何かといいますと、「一揆」です。日本の集団主義は、この一揆から生れたもので、これがのちのちまでの日本人の組織原理となっています。 一揆というと、よく百姓一揆と間違われますが、これは一種の集団規約のことで、最初に出て来るのは国人一揆です。これは地方小領主が自分たちの安全保障のために同盟したもので、足利末期から戦国にかけて日本国中一揆に入っていない者はないという時代になっております。武士も百姓も町人もみな加盟しています。

日本には「契約」という言葉がない、とよく言われますが、これは翻訳者の責任で、契約という言葉は一揆のときに出てまいります。「契約」と頭書しておいて、いろいろなことを細かく書きます。ときには「契諾」とも書きまして、その下に状をつけ、契約状とか契諾状と称していますが、要はみんなで申し合せて集団規約を作るということで、建前としては全員平等です。

たとえば「安芸国国人連署契約状」という書状があります。これは地縁を基とした小領主が集まって合議して団体を作っております。またなかには、日本は血縁がはっきりしない民族ですから、「どうも血縁がはっきりしなくなった、一族であることを確認しよう」という九州の山内一族一揆契約状といったものもあります。こうした集団規約を作って、それにもとづいて行動するのが、日本人の自主的な組織の始まりです。契約状の最後には連判をしますが、この連判にはいろいろな形式があります。「傘連判」別称「からかさ連判」というのは丸を描いて中心から外に向けてサインをしていく形式です。全員平等の建前を示すわけです。

建前として全員平等の申し合せをしても、そのなかからやがて優秀な人物がリーダーとして出て来る、これが日本における統率者・指導者の一タイプでして、たとえば戦国の分国大名の発生には二つのタイプがありますが、一つは典型的な下剋上、もう一つは一揆のリーダーとしてみんなから押し立てられた者です。

前者の代表は織田信長、後者の典型は毛利元就です。元就はなにも安芸国を武力で統一したのではなくて、安芸国国人一揆のリーダーとしてのし上がった人物です。ですから、守りは非常に強いのですが、攻めは常に弱い。集団安全保障ですから、ひたすら守る一方で、毛利は信長のように積極的に攻めることはできないんです。瀬戸内海の制海権を手に入れて今の兵庫県まで勢力を伸ばして来ているのですが、みんなで京都に攻め上り天下を取ろうといったことはしない。

一揆組織ですから、加盟した者の利害が決定的となります。信長のように組織の成員の犠牲を払ってでもといった動きはできないのです。その代り、守りには非常な強さを発揮します。また、自分たちを守るためには相当ひどいことも平気でします。最後まで去就がはっきりしないといった態度もそれで、幕末になるとかなり動きが違いますが、戦国時代は関ヶ原まで去就がはっきりしません。小早川秀秋のように裏切ったり、吉川広家のように山の上から眺めているといった態度をとります。命令一下組織が動く、という集団ではないからです。

地縁血縁の小単位一揆からリーダーが出て、やがて総一揆のリーダーになっていくこの形態は、ちょうど自民党のようなものです。派閥という一揆があって、そのなかから長が出て、そのうちの誰かが全派閥を統制するという形をとります。ですから決断などは非常に遅くてあいまいですが、その代り倒れにくい体質をもった組織です。

織田、豊臣は消えましたが、毛利家だけは残った。それくらい保身には強いのですが、それでは組織としてこれがいいかというと、必ずしもそうとは言い切れないと思います。

◎下剋上の時代
(前略)
下剋上の時代、日本人が自分たちで組織を作り始めたのがこの時代で、これを一つの制度としてまとめてしまったのが徳川時代ということになります。ですから、組織の発生の原理が西欧とはだいぶ違います。日本では、下剋上的な組織を作るというように、民間から組織作りが始まった。後代では、もっと下の方が坊さんを中心にして、みんなで団結して領主を追い払ってしまう一向一揆というものも出て来る。加賀の守護、富樫政親が追い払われて、あそこは一世紀ほど守護がいません。坊さんたちが談合して国を治めるという時代がずっと続いたのです。これが日本的な組織の始まりと考えていいと思います。
「安芸国国人連署契約状」にはこう書かれております。これは五箇条の短いものです。
一 故無くして本領を召し放たるるに至りては、一同に歎き中すべき事。
一 国役等の事、時宜に依り談合あるべき事。
一 是非において弓矢の一大事は、時剋を廻らさずに馳せ集まり、身々の大事として奔走致すべき事。
一 この衆中において、相論の子細出来せば、共に談合せしめ、理非につき合力あるべき事。
一 京都様御事は、この人数相共に、上意を仰ぎ申すべき事。
もしこの条々に違背せば、日本国中大小神祇、別しては厳島大明神御罰を、各々罷り蒙るべく候。仍(よつ)て連署の状、件の如し。

そして三十三人の署名がある。最初の「故無くして本領を召し放たるる」は、「所領を没収されたときには」、の意で、「一同に歎き申すべき事」は、「みんなにこれを訴えて出ろ、実力で取り返してやる」ということです。次の「国役」とは臨時課税のことです。これは段銭とか棟銭というもので、足利幕府は金に困って、しきりに臨時課税を命ずるのですが、それを払うか払わないかは、こっちで相談して決めるという意味です。そういうことのために戦争になったときには、みんな自分の戦争と思って、すぐに馳せ集まって戦うこと。「衆中において、相論」というのは、戦争についての議論、争いが起きたら、全員が集まって談合して、どちらが正しいか正しくないか、力を合せて決定をする。同時に、この決定に従うべきこと。最後の「京都様御事は」というのは、「と申しましても京都の足利家に反乱を起したのではございません。守護がよろしくないから代えてもらいたいだけです」という、こういう一条がついております。

こういった一揆状がいまも七百通ぐらい残っています。これが日本人が自分で作り出した組織でありまして、中央から命ぜられてきた守護を集団で追い払ってしまう。こういうことが足利時代から始まって来ます。そうなると、任命された守護は、下の「一揆」という組織との間に協調を保って、その上に乗っていかないと統治ができない。これを全部敵に回しての支配は、到底、不可能ですし、幕府がだんだん非力になってまいりますと、戦争をしても勝てない。そこで、守護は中央にいて、守護代という一揆の中の代表が一国を統治することになってくる。こういう様相を呈して、だんだん戦国時代に入っていきます。まだ戦国時代まで一世紀近くもあるころにこうした動きが始まり、しだいに日本国中に浸透していくわけです。

◎ぶどうの房型組織

小和田哲男氏は『戦国武将』(中公新書)の中で当時の実態を次のように記されています。 戦国期の大名領国とはどういうものなのかという問題は非常に大きなテーマであり、これをひと口で説明するなどということは容易でない。しかし、ものにたとえると存外すっきりするのである。少し前になるが、永原慶二氏は、大名領国をぶどうの房にたとえたことがある。いうまでもなく、ぶどうの一房にはそれこそ何十という一粒一粒の実があり、その実が全体としてぶどうの一房になっている。もちろんぶどうの実一粒一粒をぶどうとよぶことはあるが、ふつうには一粒一粒の集合体である一房をぶどうといっている。つまり、果物としてのぶどうか戦国大名の大名領国であり、ぶどうの一粒一粒が戦国大名の武将、すなわち有力家臣をたとえたものである。

いわば一揆連合のような戦国大名は、決して、上下契約によるピラミッド型の組織ではない。しかし個々のぶどうは房となってつなかっていないと存立し得ない。したがって、これを連ねる茎の役目をしつつ、これを束ねて全体を掌握支配し、一定の方向へと動かす能力を要請されます。そして、その要請に応じうるものがリーダーとなるわけです。これは自民党の総裁が派閥を束ねて一定の方向へと集団を動かす能力を要請されるのと似ております。これは、西欧のいわゆる「ツリー型組織」とは違って、それぞれの国人領主がぶどうの房のようにそれぞれの利害でつながっている。

日本民族というのは、もともと取引の好きな民族なのです。たとえば、土豪というのは姓をもっている百姓で、彼らは地主なのですが、彼らの土地の所有権を領主が保証している。保証する代りに年貢を納める。これは取引です。年貢を納めない代りに戦争になったら出かけるとか、いろいろな取引が他にもあるわけです。その下には小作人がいて、小作料を納める。小作料を納めない代りに、戦争のときには土豪について行きますとか、ここにもいろいろな取引があって、これがさまざまな形でお互いにつながっています。そして、そのいちばん根元を押えているのが国人領主です。この関係は複雑なのですが、戦国領主というのは、こうした形で、実に膨大な領地を治めていたわけです。

毛利家というのは、中国地方全体を治めていたのですが、中身を見ると、土豪の数珠つなぎみたいなものをリーダーが押える形で統治していたわけです。三十三人なら三十三人か団結し、それが円の中に固まる。守護は、その中には入れませんで、ちょうど、その上に乗っているような形になります。その代り、守護か命令を下しますと、たちまち全員に伝わる。どんな命令か来ても、必ず一揆において談合をする。これは、いまも日本人が常にやっている手法で、そういう伝統がこの時代にできてしまったわけです。

上から何か来たら下は談合をする、というのが日本の社会なのです。ですから、こうした社会風土に西欧的な組織をもってきても、どうしても無理が出て来てしまう。これは良い悪いではなく、伝統的な組織構造かまったく違うからだと言っていいと思います。

ただ、一揆が上からの指示を何でもかでもはねのけることになると、組織は機能しなくなります。かつての国鉄はさまざまな一揆の連合体でありまして、あれだけ一揆が強くなると、もう誰もどうにもできないのです。企業の場合も一揆はありますが、こちらは最後には経済合理性というチェックがありますから、まだいいわけです。それが何であれ、合理的なチェックがあれば組織は機能するのですが、それがまったく失われると、非常に危険な要素をもちだすのが日本の組織の特徴といえます。

すでに述べましたが、日本では、軍部一揆を作らせないために軍の機能を三つに分けたはずなのに、ひとたび一揆ができてしまうと、「たとえ天皇の命令なりとも一揆にはかり多勢によるべし」ということになってしまうのです。
 一揆という組織を生み出したのは「武家」でした。では、その「武家」とは何なのか。「そのもとをさぐれば、地主と小作人で構成する自警団であり、またややそれから分化した荘園の警備保障会社のようなものであろう。それが連合し、各々の『地盤』を基にした武力によって中央の政争に介入していき、ついに全国的な権力をつくりあげて法を公布したのが泰時のときである。」(『日本的革命の哲学』山本七平)
その泰時の定めた「法」が貞永式目で、その中でどのようなことが定められていたかを見れば、一揆という組織がどういうものであったかがわかります。貞永式目は、土地など財産の所有権・相続権から、その贈与・担保・売買・徴税さらには賭博から治安維持等々、当時の人びとの生活を規定していました。しかし、その基本はあくまで「武家法」であり、従って「軍法」的な性格を持っていました。
では、その「軍法」的秩序の基本は何だったのでしょうか。それは、「業績が地位に転化する」という原則です。これは身分が社会的に固定化されている社会における「軍法」にもいえることで、そうでなければ強い軍隊は作れません。そして日本の場合の特徴は、この「功績が地位に転化する」という原則が、武家だけでなくそれ以下の「社会の原則」になっていったということです(これが日本の「タテ社会」の基本構造を支えている)。例外は、「天皇とその周辺」であり、これは「氏・素性」の世界で別扱いとされました。
この功績・実績が地位に転化するという原則は、貞永式目にさまざまな形で現れており、相続においても必ずしも長子相続ではなく能力主義だし、功績が認められれば、単に所領をもらうだけでなく、守護役(大番役)就いたり、場合によっては御家人の地位につくこともできました。東アジアの儒教圏においては、官職は科挙の試験を通った士大夫、すなわち文官が行うべきものでしたが、武家の場合はそうではなく、こうした何らかの功績が地位に転化したものに過ぎませんでした。
ところで、鎌倉幕府の社会制度は、こうした武家の御家人制と、土地支配原理に基づく地頭制を二大支柱としつつも、まだ、天皇→本所→領家職→下司荘官→名主職といった秩序が厳然として残っていました。そのため、特に西国御家人の場合は、人身的には鎌倉殿に属するが、所職の面では本所領家の支配下に属する武士も少なくありませんでした。また幕府の指揮系統も必ずしも一本化していませんでした。
もちろん幕府は、すべての御家人に対して、将軍家の推挙または許諾を要する(式目第39条)としていました。しかし、成功(造寺・造営などの功績に対する報償、後にその費用を贖う売官制となった)などによって官位につきたがる者も多かったのです。それは、「地下人」からのし上がった「武家」は一種の劣等感を持っており、そのため、自分の力を「位」で明確に認めさせようとしたわけで、これが朝廷による「官打ち」を可能にしていました。
つまり、日本では、鎌倉時代以降も律令制度は一貫して存続しており、幕府制度は形式的にはその下位制度に過ぎなかったのです。しかし、その中の人間の位置は、天皇の周辺を除けば少しも固定せず、功績がその制度の中の地位に転化し、個人の力でこれを昇って行くことができました。こうした状態は武家の出現以前にはあり得ないことで、こうして、日本におけるダイナミックな実力主義の社会が出来上がっていったのです。
こうした、実力主義を基本とする武家社会の基本的ルールを定めたものが、貞永式目だったわけですが、日本には、こうした「法」に訴える前に「示談」で問題を解決しようとする傾向も根強く存在していました。それは、人間の内心の秩序を守ることが、自ずと社会の秩序を守ることになるという考え方、「従者主に忠をいたし、子親に孝あり、妻は夫に従はゞ、人の心曲がれるおば棄て、直しきおば賞して、自ずから土民安堵となる」といったような、一種の自然主義的な考え方がその根底にあったからです。
貞永式目を制定した北条泰時の哲学は、「法の前に道理があり、その道理は常に『心の実なる実法がそのまま戒法である』ような『自然的秩序』を基礎においており、その具体的な現れは、功績が終局的に地位に転化することであった」といいます。つまり、こうした「自然的秩序」の存在を信じるが故に、問題が生じた場合は、関係者が「道理に基づく話し合い」で解決することが一番だと考えていたのです。こうした「話し合い」の伝統が、北条末期以降の一揆組織における「談合」になりました。
このように、日本における社会秩序は、武家社会の「軍法」的秩序の伝統を引き継ぎ、「功績が地位に変化する」実力主義の社会として発展していきました。豊臣秀吉が太政大臣、関白に昇りつめることができたのも、こうした社会が前提にあったからです。また、江戸時代の身分制度の下においても、社会階層間の流動性は相当に高く、また、明治維新の担い手が下級武士であったということも、こうした伝統なしには考えられません。
ただし、こうした実力主義の社会は、それを個人の力に還元してしまえば、極めて不安定なものにならざるを得ません。そこで、一定の利害関係を共有する者の間で「一揆」が組織されるようになり、内部摩擦の緩和が図られるとともに、外部の干渉に対しては、「一味同心」の集団的行動が取られるようになったのです。つまり、こうした一揆的談合組織が、日本における自治組織の基礎単位となっていったのです。(この組織の倫理規範が「武士道」に純化された)
こうした「一揆」的談合組織が基礎単位となり、それが、ぶどうの房のように、中心の茎に連なる形で組織化されたものが、日本の組織の基本的形態です。そのため、それぞれの組織が運命共同体化する。従ってこれが競争的環境の中におかれる場合には、団結心を持って最も効率的に機能するが、そうでない場合は、その運命共同体を維持することが目的となり、その組織本来の機能性が失われててしまう。
従って、この組織を時代の変化に合わせて目的合理的に再編し機能強化を図っていくことは極めて困難となります。また
、この組織を欧米のピラミッド型組織のように、雇用契約に基づく「上意下達」だけで動かすことは困難です。そのため非公式な談合組織による裏工作が行われることになるのです。これをどう法的に整理し、合理的な表の組織にしていくか、これが今日の日本が直面している組織課題だと言えます。

*『日本的革命の哲学』山本七平著 参照


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