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山本七平語録

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「派閥の歴史」派閥はかって表組織だった
 「『派閥』なぜそうなるのか」(p97~100)山本七平(1985年4月25日)
 一審有罪の刑事被告人田中角栄氏がなぜ権力を保持できるのか。理由は簡単で彼が木曜会(田中派)という派閥を掌握しているからである。ではなぜ派閥さえ掌握していれば、自民党員でない一陣笠が「キングーメーカー」といわれ、外人記者に「私は馬主で中曽根はジョッキー」だなどと放言できるのか。
 日本の行政組織は欧米型で、外形は縦割りの「樹木型」だが、これを統合する原理がない。縦割りか商工族・郵政族・農水族などといわれる議員も抱え込んで政治と行政が一体化した閉鎖的共同体になっており、これを横に束ねて全体を統合すべき内閣が、内閣官僚ともいうべき手足を持たないからである。
 これでは全体を統合して政治を運営することができなくなるので、「根回し」に基づく、「根茎型」の横の組織が網の目のようにこの縦割りの中を走っている。この「根茎型組織」を束ねているのが「派閥」であり、この「派閥」は商工族も郵政族も農水族も抱え込み、同時に各官庁にも「根回し」の「核」を持つ形で行政を統合しているがゆえに権力を持ち得る。
 そして派閥の統合力は、代議士を当選させるか落選させるか、また大臣にし得るか、次官にし得るかという力を持つものが持つ。そのため、閣僚は法的には総理の統合下にいるのであろうが、実際は派閥を握る者から派遣された代理人のような形になり得る。そこで、この点でも内閣の統合力は弱い。一体なぜこういう形になったのであろうか。
 田中角栄という人は確かに「異能の人」だが「異質の人」ではない。また彼は「日本人離れ」をしているといわれるが、インテリからそういわれる人が逆に、典型的な土俗的日本人である場合も少なくない。そういった観点で彼の行き方を見ていくと。同じ行き方が歴史の中にいくらでもあることを発見する。たとえば天谷氏の次の言葉もその一例である。 「明治の初めのうちは、藩閥という横のシステムが機能していて、伊藤博文の子分は大蔵省にもいれば商工省にもいる、陸軍省にも外務省にもいるということになっていましたから、伊藤博文が「ちょっと来い」といえばいろんな省から人間が集ってきた。したがって、縦の原理と横の原理のバランスがあったと思うんですね」と。
 これと似たことを今も角栄氏はやっているのであろう。さまざまな抜擢や施恩による地下茎を通じて、「ちょっと来い」といわれれば彼のもとに集る人間は決して少なくあるまい。何しろ彼を糾弾してやまぬ新聞社の社長まで来るのだから――。いわば明治も現代も共に根茎型組織なのだが。実はこれが日本の伝統的土俗的組織なのであり、昔はこれが「表組織=表権力」として堂々と存在し、だれもそれを不思議に思わなかったのである。

 戦国大名の「ぶどうの房型組織」
 その歴史は古いが、あまり昔まで遡っても無意味だから、日本的生地の出ている戦国時代を例に取ろう。小和田哲男氏の「戦国武将」を読むと、彼らの領国支配の形態というのは、今の「派閥支配」の形態と同じように複雑怪奇だが、氏はこれを巧みに要約して次のように述べておられる。
 「よく、本当は複雑なんだけれども、何かものにたとえると意外にすっきり理解されるということがある。戦国大名の大名領国についても同じようなことがいえる。戦国期の大名領国とはどういうものなのかという問題は非常に大きなテーマであり、これを一口で説明するなどということは容易ではない。しかし、ものにたとえると存外にすっきりするのである。
 永原慶二氏は、大名領国をぶどうの房にたとえたことがある。いうまでもなく、ぶどうの一房にはそれこそ何十という一粒一粒の実があり、その実が全体としてぶどうの一房になっている。もちろんぶどうの実一粒一粒をぶどうとよぶことはあるが、ふつうは一粒一粒の集合体である一房をぶどうといっているのである。つまり、果物としてのぶどうか戦国の大名領国であり、ぶどうの一粒一粒が戦国大名の部将、すなわち有力家臣をたとえたものである。現在のところ、このたとえ方が一番わかりやすいのではないかと考えられる」と。
 「ぶどうの房型組織」とは、ある意味では公然たる「根茎型組織」ともいえる。いわば房の一番根本は派閥の長が握っている。それは一粒のぶどうである代議士につらなり、そこへ栄養素や水分を補給し同時に全体をまとめている。代議士はいわば一粒のぶどうの核であり、それは選挙地盤という皮の中で、後援会という実につつまれており、房の根本からくる金で、慶弔や挨拶や世話という養分を補給する形で条件づけ権力を行使してその実を養い、同時にそれによって自らも維持されているという関係であろう。
 もちろん戦国時代であれ。現代であれ、この関係は複雑で比喩のようにすっきりしているわけではないとはいえ、日本が西欧と接触するまではこれが公然たる自前の組織であった。そして代議士は代議士として平等であるように、戦国時代の領主と武将の関係は、厳密な意味の「臣下」ではなかったことも似ている。
 田中派の代議士も別に田中角栄氏の臣下ではない。そして徳川時代は、基本からいえばこの戦国を凍結しただけで新しい制度をつくったわけではない。いわば徳川家といえども一大名にすぎず、その意味ではほかの大名は同格で、厳密な意味で「臣下」ではない。そしてこれへの統御もまた、さまざまな「茎」を通じての「ぶどうの房型の統御」である。
 そして、こういう組織が徐々にできていく歴史は実に長く、また興味深いものがある・・・このように自然に形成されてきた「ぶどうの房型」が一応、外形的には西欧型の制度と法にかわり。地下にもぐって「根茎型」になるのは明治からである。
       
 この『「派閥」なぜそうなるか』が書かれたのは、昭和60年、今から36年前のことである。そのころの日本の政治の大問題は、総理総裁が派閥の資金力によって決まるということで、田中角栄が首相就任以降この問題が先鋭化した。特に、「ロッキード事件で田中首相が逮捕され自民党を離党した後も、党内最大派閥の支配者として君臨し、その後の自民党総裁・首相を「担ぐ」力を持ちつづけたことが問題となった。
 田中は、日本の政党政治が生み出した金権腐敗の利益誘導政治を、戦後の池田内閣の所得倍増政策に始まる経済復興の中で露骨に展開した。自民党の最大派閥「田中派」を形成し、そこで集めた資金力を使って首相にもなった。このように、派閥が国政を左右するという、日本の政党政治の異常な状況が、どのようにして生まれたのかを分析したのが、この山本七平の『派閥』だった。

 以下、山本がこの『派閥』で論じたことが今日どのような改善に結びついたか、またその課題について私見を述べる。

  山本は、日本の派閥は足利時代の国人一揆に由来するという。それを「ブドウ房型」にまとめたのが戦国大名、それを全国的統制下においたのが徳川幕藩体制である。ここでは各藩が「藩閥」を形成した。一方、幕府が「体制の学」として導入した朱子学が、大日本史編さんを経て国学と結びつき、幕末には、藩の枠組みを超えた尊皇攘夷運動→尊皇討幕運動へと発展し、ついに徳川幕藩体制は倒れた。
 明治時代は、維新の立役者となった薩長が、いわゆる「薩長閥」を形成し、有司専制による文明開化・富国強兵・殖産工業政策を推進した。これに対して対抗藩閥運動を展開したのが、いわゆる自由民権運動で、彼らは西欧の議会制度導入を主張し、政府に国会開設を約束させるとともに、政党を組織してそれに備えた。しかし、政党が藩閥取って代わり政権の座に就くには金がいる。
 この政党の金の調達方法として、公共事業を選挙地盤強化のために使ったのが星亨である。また高文試験制度の導入もあり、藩閥政治から政党政治への転換がなされた。こうして日本の政党政治が始まったが、政治資金をめぐって数々の疑獄事件を生み出し、世論が激高する中で、星亨、原敬、浜口雄幸、犬養毅と政党政治家が暗殺され、代わって軍閥が政治の主導権を握ることになった。
この軍閥が、日本を滅ぼすことになったわけだが、その原因の一つが「軍閥」内部も「統制派」や「皇道派」をはじめとする多くの派閥に分裂し統制を欠いたためだとされる。
(次項に続く)  
「派」(主義主張に共鳴する者)十「閥」(出自を共にする者)=「派閥」
 「『派閥』なぜそうなるのか」(p101~102)山本七平(1985年4月25日)
 「閥」という言葉を広く定義すれば「出身を共にする者が団結して結成する排他的な集り」(広辞苑)ということになるであろう。確かに藩閥、閏閥、学閥、財閥等は、出身母胎は違うが「出身を共にする者が団結して結成する排他的な集り」である点は共通している。だがこう見ていくと「派閥」は純然たる「閥」ではない。
 では「派」とは何であろう。これは教派、宗派、学派、党派等の場合は、宗教・思想・学問・政治思想や政策の世界において、それぞれの主義主張を共にして結成される集りで、原則的にいえば強固な団結も固定的な排他性も必要ないはずである。というのはそれぞれの主義主張に共鳴する者は加入し、共鳴しなくなった者は去ればよいからである。
 この点、「閥」よりも流動性を持ち成員の交代があり得るが、しかし「派」そのものはある種の団結と排他性を持っている。さらに「閥」は単独で独立して存在するが「派」は違う。たとえば仏教諸宗派とかプロテスタント諸派、ヘーゲル左派、ベルンシュタイン派とカウツキー派というように、諸派はあくまで、何らかのさらに大きな「枠」の中の「派」である。その意味では「派」は「閥」ではない。
 この「派」と「閥」という、元来は意味の違う二つの言葉を結びつけて「派閥」という。ここに「派閥」の特徴かあるであろう。というのは「派閥」は両方の要素を持ちながら、同時に両方の要素の一部を欠いた存在だからである。簡単にいえば自民党内の派閥は、あくまでも自民党という枠内の存在だから「派」であり、加入・脱退は自由で内部的流動性を持つはずだが、何らかの思想・信条に基づくわけではない。いわば自民党左派と自民党右派が政策を争っているというわけでもない。宏池会(鈴木派)と木曜会(田中派)が思想的にどう違うのかといった質問は、意味をなさない。
 一方、田中角栄氏のような自民党員でない者、いわば「枠外」の者が、これを統率するという現象もあるから、こうなると完全な意味の「自民党内の諸派」ともいえないわけである。では「閥」かといえば「出身を共にする者が団結した」集団ではない。しかし、それに等しい「排他的な団結力」を持ち、まるで独立した「閥」のように自己の利益を追求して他派閥と競合したり連携したりする。ときには派閥が党の枠を超えてほかの政党と連携する。こうなると、その性格は「派」より「閥」に近いといえるであろう。
 これは日本の政治で無視できない存在だが、長い間、「認知されざる集団」であり、今も正式には認知されていないかもしれぬ。新聞は長い間「派閥」を「諸悪の根元」とし、また「派閥解消」はしばしば政党人も口にし、それを公約したかの如き総理も出現した。だが「派閥」は消えなかったし、今後も消えないであろう。ただその性格が「派」の要素が強くなるか「閥」の要素が強くなるかで相当に性格の変わったものにはなり得るであろう。(後略)p102
     
 明治時代の藩閥政治は有司専制であり、また内閣制度ができた後の各省を横断的に統合したのは、「藩閥」によって張り巡らされた人脈であったという。しかし、官僚や軍人が試験制度で選ばれるようになると「学閥」や「省庁閥」が「藩閥」に代わる。これらの閥は、歴史的には「一揆」に由来しているので団結力が強い。そこで、これらの「閥」を統合する人脈を築くために政党は金を必要としたのである。
 こうした日本の政党政治の問題点をどう解決するかが問われてきたわけである、まず第一に問題となるのが、政党運営における政治資金の調達方法の問題である。これは、今日「政党助成金」として国民が税金で負担することになった。また、政治資金規制法によって、「政治団体の収入、支出及び資産等を記載した収支報告書の公開によって政治資金の収支の状況を国民の前に明らかにすることが求められた。
 第二に、政党政治における政府の政治主導体制をどう構築するかという問題である。これについては、先の「政党助成金」や「政治資金規正法」によって「派閥」が資金力でもって内閣を支配するようなことはできなくなった。同時に、従来の、官僚が政策の原案を作り政治がそれを実現するという形での官僚主導体制を、政治主導体制に切り替えるための政府委員制度の廃止などが行われた。
  (次項に続く)
派閥の原形となった「寄り親・寄り子」
 「『派閥』なぜそうなるのか」(p103~106)山本七平(1985年4月25日)
 社会が複雑になると「出身を共にする者が団結して」排他的な集団、すなわち「閥」をつくって団結する。多くの場合それは一定の血縁原則で行われるが、この場合「閥」は、当然、出生と同時にその所属する「閥」は決定され、死亡までそれを動かすことはできない。  この種の社会には常に強固な結婚原則がある。(中略)中国・韓国では外婚制であり、「本貫を同じくする者は結婚できない」のが法である。いわば「族譜」すなわち膨大な系図内にあるもの同士は結婚できない。そのため殆どの場合、夫婦は姓が違うし、結婚しても姓が変ることはない。姓を変えることが可能であればこの原則は成立しない。そしてこの同一族譜の同姓集団は強固に団結して「閥」になり得る。(中略)面白いことに日本の社会には、同じ東アジアの国でありながら中国・韓国のような原則がなかった。
 それは強固な血縁集団を構成しないということである。それがいつごろからかは明白でないがたとえば源氏の場合、義朝は父殺し、頼朝は叔父・兄弟・従弟殺しで、血縁集団の強固な団結はすでに見られない。これが戦国ともなればさらに徹底して「家筋より器量へ」という形になる。
 一方、家族は小家族制で、「寄り親・寄り子制」といった組織になっていく。戦国時代は兵農未分離で、兵農の差は、軍役をつとめるか年貢をおさめるかの差である。寄り親とはいわば支城主で寄り子はその下の土豪だが、いざというときは寄り親の城に詰めたり、その指揮下に入って参戦する。
 これを兄弟で分業のように行う場合があり、兄は武士、弟は在地地主という形にもなる。藤木久志氏はこれを「兄の道、弟の道」と表現されたが、寄り親・寄り子はもちろん血縁集団ではない。この支城を集めて、ぶどうの房のように統轄するのが戦国大名である。従って、大きな血縁集団を統御する者はおらず、上はすぐぶどうの房型の組織という形になっている。いわば寄り親は派閥の親分のような存在である。
 それは簡単にいえば親権はあっても家長権はなく、そのかわりが血縁ではない寄り親だという形である。徳川時代になるとこれは明確になり、中田薫博士の『徳川時代の文学に見えたる私法』の中に、次のような面白い指摘がある。
 「徳川時代家督相続の名は存するも、その実は跡式相続と異ならざること前述の如し。けだし徳川時代には家長権なるもの存在せざればなり。・・・家の当主は家族に対して、いわゆる家長権なるものを行使する事なし。もとより彼は父として親権を行い、夫として夫権を行う。しかれどもその余の家に伯叔兄弟姉妹等、いわゆる厄介者に対しては、何らの権力を行うものなきものとす・・・」。
 もちろん法的な権力がないということは、その人たちを保護し扶養する「道徳的職分」がないということではない。この道徳的職分の拘束力は法より強い場合があるから「厄介者」を、「やっかいだ、やっかいだ」と思いつつ保護し扶養する道徳的義務はあるが、「厄介払い」をしたとて法律上の問題にはならない。
 従って最も望ましい状態は、伯叔兄弟姉妹がみな経済的に独立して別居してくれることであった。金持はこれをなし得るから分家をする。分家とは核家族化だがこの場合、分家が本家を重んじ、本家が分家の世話をするのはもちろん道徳的職分であって、本家に全分家を統制し命令し得る家長権があるわけではない。従って経済的水準が高くなれば核家族化するのは、日本では徳川時代にすでにあった現象であり、戦後の「総中流意識」はそれを当然としているにすぎない。
 ただ戦後と違う点は、親権が強大で「勘当」という懲戒権があった。「勘当は父母が子に、師匠が弟子に対して申し渡す、親子または師弟の関係断絶にして、もと懲戒的放逐(追出、追失)の意味を有する行為なり」で、師弟間に親子関係に似た関係があった。現在は親権は脆弱になったが、この師権ともいうべきものは今も存在する。
 こうなると多くの弟子を持つ学派は「閥」のようになり得る。「医学部閥」などは、その長はかつての親権に等しい権力を持ち、勘当され、放逐されればどうにもならないといった現象があるという話も聞く。だが面白いことに、それをなし得る人も、一族への家長権は持っていない。「勘当」は懲戒権だから、「詫び」を入れればこれを赦す「宥免権」をもちろん持つ。だがその弟子が有力だと逆に、陰湿な争いになる。これは昔からあった。
 たとえば、水戸学という「学閥」のある一派が一族のように団結して行動すれば、それは文字通りの「派閥」となる。また長州閥という言葉があり、これは藩閥の典型のようにいわれるがその中核となるものは吉田松陰の松下村塾に学んだ者で、その意味では松陰派、それが閥をつくれば「藩閥の中の中心的派閥」とも「塾派閥」ともいえる。
     
 そこで、2014年、第二次安倍内閣によって内閣人事局が設置されることになり、審議官級以上の人事権を首相官邸が掌握することとなった。『派閥』では、日本の政党政治における「官僚閥」主導を克服するためには「責任内閣制」の確立が必要なことが説かれているが、政党助成金制度や政治資金規正法の制定に加えて、この内閣人事局の設置によって、この問題の一定の解決が図られたことになる。
 とはいえ、政党助成金の弊害も指摘されている。というのは、こうした政治主導は、民主党政権下においても強力に進められたが、その政策の先見性を今日検証して見ると、沖縄の普天間基地移設問題、「コンクリートから人へ」のダム政策、原子力政策、自然エネルギー政策どれをとっても、当時の世論に受けはしたが、長期的にはその修復のために多大な政治資源を費やしていることは否めない。
 とはいえ、民主制度下の政党政治において「責任内閣制 の確立が必要であることは論をまたない。それを日本の伝統的政治文化の延長上に、うまく機能する政治システムにしていくためにはどうしたらいいか。それは、行政の専門家集団である官僚の専門的知識を十分活用すると共に、人材登用を幅広く行うことによって内閣府の総合的な政策立案能力の向上を図り、首相のリーダーシップを強化する必要がある。
 日本人の組織は、機能集団である組織が共同体化することによって目標達成に向けたメンバーの一致協力が得られるという特徴を持つ。メンバーのやりがいや生きがいもそこから生まれる。だが、その組織が共同体化し内部の和だけを求めるようになると、機能集団としての目的が見失われ組織が植物化する。日本の組織はこうした問題点を抱えるが故に、「常に倒産が必要な社会」ともいわれる。
 こう考えると、今日の政党助成金制度は、政党政治の金権腐敗を防いでいることは確かだが、今の野党の政策集団としての活動の停滞を見る限り、何もしなくても5人以上の党員を集めれば政党として存続できるわけで、野党の植物化をもたらしているのではないか。政治資金を団体献金から個人献金に転換することも重要な政策課題になってくると思う。(おわり)
   
 徳川時代の「学閥」に見る子弟関係
 「『派閥』なぜそうなるのか」(p106~109)山本七平(1985年4月25日)
   この「学閥」が二学派に分かれれば字義通りの「派閥」、その派閥と権力とがくみ合って抗争すれば典型的な「政治的派閥」になる。これもすでに徳川時代に存在した。さまざまな例があるが、その中で、この派閥争いが凄惨な殺し合いになった水戸藩の一例をあげよう。
 この問題は光圀が彰考館をつくって「大日本史」の編纂をはじめたときにすでに胚胎していたといってよい。彼自身が語ったように彼の唯一の師は明か滅亡したとき亡命してきた朱舜水、その影響もあって彼は司馬遷の『史記』に匹敵する『大日本史』をつくろうと決心した。
 歴史記述の基準を中国思想に求め、その記述方法を中国史に求めること自体、相当な無理がある。「史記」は本紀(帝紀)、列伝(臣下)、志(制度)、表と分類する記述方法を取っており、このこと自体、「朝幕並存・幕藩体制」の日本の歴史を記す基準にならない。中国には「幕府」などは存在しない、さらに「列伝」を名臣・叛臣・逆臣に分けるとなると、幕府の忠臣であるがゆえに朝廷には逆臣になるという者を、どう評価するかという問題を生ずる。
 そこで修史義例(編集基準)を何度も変更するがうまくいかない。一方この彰考館の館員は天下の学者を集めるのだから必ずしも水戸の出身でない。「保建大記」を記した栗山潜鋒も『中興鑑言』を記した三宅観瀾もスカウト入社である。だが細かいことは『現人神の創作者たち』に譲り、時とともに「彰考館閥」のようなものができて、ここの出身者が藩の要職につくと政治がからんでくる。
 いうまでもなく、彰考館を構成するのは当時の錚々たる朱子学者である。そこへ立原翠軒が入ってきた。彼は水戸出身だが国学者である。その彼がなぜ入ってきたのかその理由は明らかでないが、当然にはじめは彰考館総裁名越克敏らに異端視されていた。ところが治保(文公、はるもり)が藩主となると翠軒が抜擢されて総裁になった。
 その背後には、財政的理由から『大日本史』を早々完結したい、というよりもっと露骨にいえばどこかで打ち切りたいという考え方が閣老の一部にあったからではないかと思われる。そして翠軒は早期完結論者であった。
 寛政元年彼は治保に上書していった。「以前の史臣日を空うして稿を脱する能わず。故に義公を敬する志、表われず、公の志はもと紀伝にあり、宜しく速かに増訂して世に出さざるべからず。志表の如きは余事のみ」。これは光圀の最初の動機を考えれば理由のない言葉ではないが、その動機は早期打ち切りであろう。
 ところが翠軒の門下であるはずの藤田幽谷が上書して「大日本史の編纂には必ず志表なかるべからず。尚も編年体の歴史たらば志表の必要は認めざるも、紀伝体の歴史には必ず之あるを要するなり。大日本史は即ち紀伝体なり。故に志表必ず伴わざるべからず・・・」と主張した。
 これは確かに正論で彼はさらに「翠軒先生之を知らざるなし。蓋し志表を促がされしならん」とつけ加えた。読み方によっては、師を立てたとも読めるが、悪くとれば、知りながら打ち切ろうとしているのだ、とも読める。治保は正論に弱い。結局彼の意見が通った。 この幽谷は水戸の商家の生れで武士でなく、立原翠軒の門人として学んだのだから、翠軒が独立した塾を持つ師なら幽谷は勘当であろうが、彼は彰考館総裁として藩主の下にあり、藩主の裁定だからどうにもできない。怒って出仕しない。その門下いずれも閑職に追われ、翠軒の弟子には幽谷と絶交する者も出た。
 ところが治保が死んで治紀(はるとし)が立つと幽谷は彰考館総裁となり、翠軒派はどうもできなくなった。そこで「垂統大記」を編纂して『大日本史』に対抗しようとした。この辺までは学閥内の「派閥」争いだが、幽谷の意見が藩を支配しその弟子たちが要職につくようになるとこれが政治的な「派閥」争いとなった。
         
 
学閥から政治的派閥になり自滅した水戸藩
 「『派閥』なぜそうなるのか」(p109~111)山本七平(1985年4月25日)
 治紀のあとに齊脩(なりのぶ)が立つころは、幽谷と絶交した小宮山桐軒とが対立したが、齊脩が子なくして死ぬと後継者問題が起った。当時の将軍家斉には数十人の子女があり、諸侯と政略結婚を進めていた時期なので、水戸でも「将軍家より養子を」という意見があったが、幽谷の子、東湖は齊脩の弟を擁立した。これが斉昭すなわち烈公である。ここで東湖の政治的優位は確立した。
 斉昭は藤田東湖一派のいう通り改革を行なったが、これを家老その他の譜代の大身たちは喜ばない。これと翠軒派とが手を結び、藤田派は立原派を「旧弊因循派」と罵り、立原派は藤田派を「功利派」と罵る。そして立原派は老臣結城寅寿を領袖として要路を占める藤田派に対抗する。こうなるともう学問上の争いでなく、藩政の主導権を争う純然たる「派閥争い」となる。
 ところが斉昭が幕府の忌譚に触れて謹慎を命ぜられ、慶篤が後をつぐ。当然に東湖も幽閉される。そこで翠軒派は勢いを盛り返すが、東湖派もなお力を持つ。この凄惨な派閥争いは武田耕雲斎と藤田小四郎の挙兵、筑波山での抵抗、慶喜に上奏しようと中山道を進み、敦賀でほぼ全員が処刑されることで終る。
 幸田露伴は「渋沢栄一伝」の中でこの筑波山党――天狗党ともいわれるがこれは世人が彼らを「天狗さま」と恐れてつけた仇名という――について簡略に記しているが、その中に面白い言葉がある。「胃袋は単純にして無邪気な要求をする」と。簡単にいえば彼らは高邁な主義主張を口にするが、筑波山党を維持していく資金がない、そこで豪農・商人等から収奪をする。何しろ千両の上納を命じられた豪農もいると彼は記しているから、その出現をみなが「天狗様」と恐れ、かつ嫌っても不思議ではない。彼らのやった「行為そのもの」は結局は匪賊と大差ない。そうなれば、最後には討伐の対象になってしまう。
 以上の要約を日本の「政党」というものと対比して比べてみると面白い。その基本的面は学問の世界にも政治の世界にも「寄り親・寄り子」的な伝統的組織があり、そこにイデオロギーが加味されている。幽谷が主張したのは「正論」であったろう。翠軒の真意が財政問題に発しているなら、そしてこれが世俗的動機に基づくといえるから彼の主張は「俗論」といえる。
 ただしこの俗論は「正論」の衣裳をつけている。しかし派閥的内容は確かに旧弊因循派であろう。だが彼らから見れば、改革を唱えて政権を手中にした者が、功利派に見える。商家の子で自分の弟子であった者が自分を押しのけて藩の中枢におり、その子が実権を握る、これは改革を称えて巧みに利を得た功利派に見えて不思議ではない。
 だがいずれに対しても「胃袋は単純にして無邪気な要求をする」から、それが確保できなければ、最終的には藤田小四郎のような運命に陥る。歴史にはイフはないし、犠牲者には同情するが、しかし水戸の勢力がその内部的相剋で崩壊したことは、明治の日本にとって幸運なことだったかもしれない。しかし彼らの提示した問題はその後もつづくのである。 
       
 
明治時代の「正論」――朱子学的神道から西欧思想への転換
「『派閥』なぜそうなるのか」(p111~114)
 明治における「自由党」という言葉は、今の自由民主党とは違って、「有司専政」に対抗する「自由民権の闘士」であった。もちろんその中にも「派閥」があったが、その出発点から彼らを苦しめたのは、「胃袋は単純で無邪気な要求をする」ことであった。と同時に彼らが主張したことはその時代の「正論」であった。そして徳川時代の正論が輸入の朱子学ないしは神儒妙合の朱子学的神道だったのが一転し、西欧思想となった。
 その転換の早さは、昭和二十年の敗戦時の転換の早さより早くかつ極端だったといえる。慶応二年といえば討幕のため薩長同盟が密かに進行していた年、同時に前述の武田・藤田が処刑された翌年だが、この慶応二年版の福沢諭吉の「西洋事情」初編巻之一「政治」の章には次のように記されている。・・・

 「欧羅巴政学家の説に、文明の政治と称するものに六ヶ条の要訣あると云へり即ち左の如し、
 第一条 自主任意、国法寛にして人を束縛せず人々其所好を為し士を好む者は士となり、農を好む者は農となり、士農工商の間に少しも区別を立てず、固より門閥を論ずること、朝廷の位を以て人を軽蔑せず、上下貴賤各々其所を得て毫も他人の自由を妨げずして天票の才力を伸べしむる趣旨とす。・・・
 第二条 信教、人々の帰依する宗旨を奉じて、政府より其妨をなさざるを云ふ。
 第三条 技術文学を励まして新発明の路を開くこと。第四条 学校を建て人材を教育すること。
 第五条 放任安穏、政治一定して変革せず、号令必ず信にして欺偽なく、人々国法を頼み安じて産業を営むを云ふ。・・・第六条 人民飢寒の患なからしむること。即ち病院貧院を設けて貧民を救ふを云ふ」

 福沢はあくまでも「欧羅巴政学家の説に、文明の政治と称するもの・・・」と記しており、これが欧米の実情だといっているのではない。何しろこれは南北戦争終了の翌年の著作、さらに西欧の階級意識は当時も今も日本より強いことは事実であり、これはあくまでもヨーロッパの「政学家」の示した「あるべき姿」ないしは「努力目標」の紹介である。 だが福沢のこれが、朱子学的正論にかわって新しい「正論」となって多くの人に感銘を与えたことは否定できない。「脱亜人欧」はさまざまに解され、誤解も曲解もできるが、朱子学的正論から脱して欧羅巴政学家の正論に入る、ということなら今日でも反対者はあるまい。
 さらに明治三年の加藤弘之の『真政大意』が天賦人権思想から説き起して人間の平等、権利義務を説き、「コンミュニズム」や「ソシャリズム」まで紹介しているのは少々驚きであり、これを明治七年の『国体新論』と共に読み、後の彼の堂々たる転向を思うと、これまた別の意味で驚きである。
 さらに「言論の自由」については鈴木唯一の訳書『英政如何』ですでに主張され、「全く自在にして、新聞紙を出版し又新聞につき如何様の説を出版するとも、免許を待つに及ばず、其善悪に随ひ、上官の行状を誉め又は謗るべし」とある。だがこの問題で最も大きな影響を与えたのは有名な『学問のすゝめ』であり、その「学者職分論」であろう。その中に次の言葉がある。
 「我輩先づ私立の地位を占め、或は学術を講じ或は商売に従事し或は法律を議し或は書を著し或は新聞紙を出版する等、凡そ国民の国民たるの分限を越へざる事は忌譚を憚らずしてこれを行ひ、固く法を守て正しく事を処し、或は政令信ならずして曲を被ることあらば、恰も政府の頂門の一針を加へ旧弊を除て民権を恢復せんこと方今至急の要務なる可し」と。
 これは政府批判の権利の主張と同時に新しい権威の「洋学者」なるものが「皆官あるを知て私あるを知らず。政府の上に立つの術を知て政府の下に居るの道を知らさる」ことへの批判である。
 彼の恐れたのは、後進国が急激に欧米化・先進国化をはかるときに生ずる「啓蒙主義的独裁君主制」の発生と、自由主義者が、少なくとも結果に於てはその推進役になるという点であろう。遠くはロシア、プロシア、近くはイランにその例がある。(中略)
 福沢の脳裏にあったのは、山崎闇斎や浅見綱斎、佐藤直方、伊藤仁斎といった民間学者が林家の官学の儒学に対し「外刺」であったこと、それが洋学にはないことの指摘であろう。
 だが私立の洋学は福沢のような巨人ではじめて可能なこと、しかし政府内の洋学者にもそうありたいという気持はあったであろう。西周は「唯余ノ如キハ聊カ翻訳ノ小技ヲ以テ政府ニ給仕スル者、固ヨリ万一ニ補ナキヲ知ル、故ニ久シク先生ノ高風ヲ欽慕ス。今未ダ遽カニ決然冠ヲ掛ル能ハズト雖早晩将ニ騏尾に附カントス」といっている。これはまことに率直な発言で、できればそうありたいが現実問題としてはそうはいかない、ということであろう。

       
 

藩閥批判は自由民権運動から始まった
「『派閥』なぜそうなるのか」(p115~117)
 薩長同盟進行のときすでに「欧羅巴政学家の説」の「文明の政治」が、「正論」になりはじめたわけで、これが武田・藤田が加賀藩に降伏し処刑された翌年だが、これが大きく自由民権運動の形で展開されるのは明治六年の征韓論以降である。そのとき下野した者の一部は反乱に、一部は民選議院論に転じた。
 このころから明治十年までの英米の政治学の翻訳・紹介は実に多い。一例をあげれば「共和政治」「政治論略」(明治六年)、「民政摘要」(明治七年)、『英国政治概説』「代議政体」「英国政体論」「英国議院章程」等でイギリスの紹介が多い。いわばヴィクトリア女王の時代、イギリスの最盛時だからこれを模範にしようというわけであろう。
 これは、その時の最先進・最強国家を目標とする辺境国家日本が常に取ってきた態度だから、昨日までの尊皇攘夷・倒幕論者・征韓論者が一転してイギリス式の民選議院設立を主張しても不思議でない。同じころ小室信夫と古沢滋がイギリスから帰朝し、下野していた板垣・後藤を説き、板垣がこれに同意して一方で愛国公党を組織し、一方で民選議院建白書を提出した(明治7年7月17」)。
 「臣等伏シテ方今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而シテ独有司ニ帰ス、其レ有司、上帝室ヲ尊ブト曰ハザルニアラズ、而シテ帝室漸ク其ノ尊栄ヲ失フ、下人民ヲ保ツト云ハザルニハアラズ、而シテ政令百端朝出暮改、政刑情実ニ成り、賞罰愛憎ニ出ヅ・・・」という形で「有司専政」(=藩閥)を非難し「乃チ之ヲ振救スルノ道ヲ講求スルニ、唯天下ノ公議ヲ張ルニ在リ、天下の公議ヲ張ルハ民選議院ヲ建ツルニ在ルノミ」とつづく。
 これに対する完全な反対論はなく、あるのは時期尚早論であり、当然にその主張者は政府系の学者であった。この中で少々、不思議なのはその年に「国体新論」を出した加藤弘之が一転して尚早論者となったことである。『国体新論』については前にも少し触れたが、当時としては相当に。”過激”な議論である。次に一部を引用しよう。
 「凡ソ文明開化未全ノ国々ニテハ、未ダ嘗テ国家国民ノ心理ヲ悟ラザルガ故ニ、天下ノ国土ハ悉皆一君主ノ私有物ニシテ、其ノ内ニ住スル億兆ノ人民ハ、悉皆一君主ノ臣僕タルモノトオモヒ、君主ハ素ヨリ此ノ臣僕ヲ牧養スルノ任アレドモ、亦之ヲ己ノ意ニ随ツテ圧制スルヲ得ベク、臣僕ハ只管君命是レ聴イテ、一心之ニ奉事スルヲ、其ノ当然ノ務ナリト思ヒ、且ツ此等ノ姿ヲ以テ、其ノ国体ノ正シキ所以トナス、豈野鄙陋劣ノ風俗トイハザルベケンヤ、試ニ思フべシ、君主モ人也、人民モ人也、決シテ異族ノ者ニアラズ、然ルニ、独り其権利ニ至りテ、斯ク、天地霄壌(相違のはなはだしいこと)の懸隔ヲ立テシハ、抑何事ゾ、カヽル野鄙晒劣ナル国体ニ生レタル人民コソ、実ニ不幸ノ最上トイフペシ」
 何やらこれを読むと終戦直後の日本人の議論と天皇の人間宣言を合体させた議論のように見えるが、明治七年の日本人が、自らの内に理想化したヨーロッパを見てこう考えたとしても不思議ではない。
 しかしその後間もなく彼はこの論を撤回した。理由は進化論を学んでこの説の誤りであることを悟ったという。彼はスペンサーの「社会進化論」の信奉者となったが、それだけが、彼が時期尚早論を唱えた理由ではあるまい。彼は、まだ日本は開化未然だから、その未然の民を挙げ、その公議で憲法を制定しようとすることは木によって魚を求めるに等しいという。西周も同じような考え方であった。
 これは日本で、正論派と時期尚早派は、水戸の正論派と旧弊因循派以来さまざまな問題について、その後もしばしば出てくる議論である。加藤弘之の論は、おそらくその時点での彼の「正論」である。しかし「日本の実情を見れば・・・」という「実情論」が出てくる。それは出てきて当然であろう。
 明治二十五年二月二十日の国民新聞に「一票金五円也/それでも売惜み奈良県の投票相場/十円の夢を見る」という見出しで次のような記事がある。「奈良県に於ては昨今投票買廻りの競争一層烈しくなり、遂には一票五円の相場を現はすに至りしが、撰挙間際には十円にも至るべしとて未だ売離さず持堪へ居るものありと」と。これでは「正論」は正論として、この「実情では・・・」という議論も理由がないとはいえまい。
 すると次に、それが実情なら現実問題としては、これに対応して一応権力を得た上で理想を行う以外にない。という議論が出てくる。これが、正論の衣裳をつけた「俗論」であろう。この問題はその後も延々とつづく。もちろん今でも素樸に五千円札を「お布施」としてまいた革新派の知事さんがいるから、これも全くなくなったわけではない。
 ということはこの種の「俗論」は革新政党をも蚕食しているが、多くの場合はもっとスマートに行われているであろう。地元に合法的に利益を誘導して人びとの収入が上昇すれば、その「御利益」は四年に一度の「五千円」のお布施の比ではあるまい。
       
 
地方政治結社の誕生
「『派閥』なぜそうなるのか」(p117~119)
 だが明治七年以前はまだ「胃袋の単純な要求」なき議論だけの段階である。しかしそれが政治運動となると廃藩置県からまだ三年、地方意識が甚だ強く、標準語的な全国的統一すらまだない時代だから、当然にそれが地方別の結社になる。
 まず板垣の土佐の立志社、阿波の自助会、松江の尚志社、熊本の相愛社、名古屋の覇立社、伊予の公共社、久留米の共勉社、福岡の共愛会、三河の交親社、常陸の潮来社等々と、あげていけば際限がないほどの地方政治団体が族生してくる。板垣はこれを連合させて新しい全国的政党にしようとした。これは後に彼が創立する自由党がはじめから一種の地方閥連合であったことを意味する。
 そこで明治八年、各結社の委員を大阪に集めた。井上馨は当時大阪で商社を設立していたが、西郷・木戸・板垣の三氏が郷里にあって政府と対立するのを何とかしようと考え、八年一月に大阪会議を開いた。大久保・伊藤が東京から来て木戸と板垣は来たが、西郷は来なかった。板垣は直ちに国会を開くよう主張し、木戸も基本的には賛成だが、順序としてまず地方官会議を開き、漸次国会を開くという漸進論を説いた。
 これが一種の妥協案として成立したが、まず三権分立の形態を整え、それから国会を開こうという彼の案は、妥当な案といえるであろう。そこで四月にいわゆる「立憲政体の詔」が出た。その一節に「朕今誓文ノ意ヲ拡充シ、茲ニ元老院を設ケ、以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ、以テ審判ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト共ニ其ノ慶ニ頼ランド欲ス・・・」そして六月に地方官会議が開かれた。
 この状態を見ると、私はこの「追いつけ、追いつけ」のすさまじいまでの速度に驚く。いわば、西欧の民主主義的な議論、否、少なくとも彼らがそう信じた論を「正論」として遮二無二その方へ突っぱしる。そこに何か重要なことを忘れていたのではないであろうか。 前記の引用の中で京極教授が暗黙の前提とされた教理は「「東洋」、「西洋」、それぞれに、千年単位の伝統を背景にもつ古くからの教理であり、また、「西洋」の法治国家と政治制度の前提をなす教理である」と記されている。この「法治国家と政治制度の前提をなす」西洋の「千年単位」の教理を、廃藩置県の三年後に理解し得るなどということは、はじめから不可能であろう。
 明治の華やかな「翻訳的自由民権論」の中の、どこを探しても、前に引用した京極教授の次の言葉はあるまい。「「事実の(de facto)世界」と区別して、別個に「法と権利の(de jure)世界」を構成する技術は、「西洋」に始まる制度である・・・」といった考え方は見当らない。
 さらに探せばあるいはどこかに存在するかもしれないが、こういう考え方があることと、それが自らの発想となり、何か問題が起ったときにこの考え方を前提として対象を見ることは、次の二つの点で不可能であったろう。というのは現在でもこの考え方が浸透していないことは「ロッキード事件」を見ても明らかだからである。
 二つの点とは、まず第一に、その基本たるべき「千年単位の伝統」が日本にないことである。次に西洋において「事実の世界」と「法と権利の世界」を別個に構成したとて、それは同一の社会的基盤を基としているのであって、根底ではつながっており、それを「別個に構成する技術」を彼らが創始したということにすぎない。その「法と権利の世界」を翻訳によって日本に輸入することはできるが、それは必ずしも日本の「事実の世界」と社会的基盤が同じでないということである。

       
 
文明開化で掘り起こされた中国の政治思想
「『派閥』なぜそうなるのか」(p120~122)
 外来の強烈な普遍主義的思想を受け入れると、それは一見そのまま受け入れたように見えながら、実は、その国もしくは民族の文化的蓄積の中から、その普遍主義的思想と似たものを掘り起して共鳴する、そしてその共鳴を外来思想として受け取る、矢野暢教授の「掘り起し共鳴現象説」は非常に簡単に要約すれば以上のような意味になるであろう。矢野教授はこれらの現れを一種の「もどき」現象とされる。簡単にいえば民主主義は「民主主義もどき」になり、法治主義は「法治主義もどき」になる。
 こういう観点からEnlightened civilizationを「文明開化」と訳した明治における欧化現象や欧米紹介の著作を見ていくと面白い。確かに多くの西欧思想の紹介書や、「文明開化」を目指した啓蒙書があるが、仔細に見ていくとそれは「Enlightened civilizationもどき」であり、日本の文化的蓄積との間の共鳴現象が見られることもまた否定できない。  その中には中国の許行などの人民絶対平等の「神農思想」や、孟子の「湯武放伐論」「万章章句」「離婁章句」等に見られる「天意=人心論」的な主権在民論、さらに孔子の「有教無類」に見られるような、人間には生れながらの上下の類別はなく、教育の有無があるだけだという平等論、下剋上的な「不覇自立ヲ欲スルノ情」を当然とする自由論に加うるに、衣食住の不自由を除くことを「自由」とした鈴木正三の自由論、人間を「人のみは其の秀でたるを得て最も霊なり」の意味で万物の霊長とする朱子の「近思録」的な人間論などが見られる。
 こういう観点で明治の「文明開化」を見ていくと、そこにはさまざまな面白い問題が提起されているが、本書はその探究が主題ではないので、福沢諭吉の「学問のすゝめ」ですら、そのような観点から読むこともできることだけを指摘しておこう。  次にだれでも知っている初編の冒頭を引用しておこう。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり(許行)。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながらの貴賤上下の差別なく(有教無類)、万物の霊たる身と心との働を以て天地の間にあるよろづの万物を資り(近思録)、以て衣食住の用を達し、自由自在(鈴木正三)、互に人の妨をなさずして、各安楽にこの世を渡らしめ給ふの趣意なり」。
 従って日本人が欧米に「立憲政治・政党政治」があることを知ったとき、そこに「掘り起し共鳴現象」が起り得て不思議でない。政治思想と学閥がからみ合ったような党派争いは前に水戸の例をあげたが、これは幕末にはあらゆる藩に多少ともあった現象で、明治の「民党・吏党」という分け方に対応し得るような対立は多くの藩にあった。そこでこれがすぐ、さまざまな形で共鳴して不思議ではない。ただ興味深いことは、自己に文化的蓄積がないものは、当然のことだが掘り起し共鳴現象は起きない。これは政府がその権力を行使してどれだけ努力しても無駄であり、いとも簡単に消えてしまうのである。

       
 
日本は明治の初め「国教」を作ろうとした
「『派閥』なぜそうなるのか」(p122~126)
「国教」問題
 これも主題ではないから一例だけをあげておこう。明治のはじめには西欧の多くの国には「国教」(ナショナルレリジョン)があり、国王はその宗教的首長であるものも多かった。もちろん今でもイギリス女王が「国教会」の首長であり、北欧のルーテル派の王国でも王が宗教的首長である。
 そして共和政体になった国でも多くの国に「国教」という概念が当然のようにある。前にギリシャへ行ったとき、この国はすでに共和政体であったが、女性のガイドに「あなたはギリシャ正教徒か」ときくと、彼女は「もちろん、ギリシャ正教はわれわれの国教だから」と答えた。
 またフィリピンはカソリックの国だが、アメリカの植民地時代に少数だがプロテスタントを生じた。そういう人たちに質問すると「フィリピンの国教はカソリックだが私はプロテスタントだ」といういい方になる。そして明治のはじめのころは欧米も今ほど非宗教化していなかったから、「文明開化」には「国教と憲法」が必要だと日本人が考えても不思議ではない。
 日本人でこのことを指摘した人はいないのかもしれぬが、フランク・ギブニー氏のような日本学者はそれを指摘し、伊藤博文は「憲法という概念は聖書・キリスト教伝統から発生した」ことを知っていたという。そしてキリスト教を除いて「憲法」だけを取り入れ得ると考えた伊藤は「天才」だと彼はいう。
 伊藤が天才か否かはしばらく措くが、S・ツァイリンのような学者が旧約聖書に記されたエズラ・ネヘミヤの「律法」の公布を人類最初の成文憲法の公布と見る見方からすれば、ギブニー氏の指摘は少しも不思議ではない。そしてここに「宗教法的世界」が「事実の世界」と別に構成されるという、京極教授の指摘される「『西洋』にはじまる制度」の祖型があるわけだが、当時の日本人は、否、現代の日本人も、そんなことには全く関心を持たなかったし、今も持っていない。
 そこでギブニー氏が不思議がるわけだが、イスラム教を除いてイスラム法を導入するようなことを行えば不思議がられて当然であろう。だが明治の人間は、西洋を見て、何となくここに問題を感じ、日本にも「国教と憲法」とが必要だと思ったとしてもそれは不思議ではない。
 だが「国教」(これは「国民的宗教」といってもよいかもしれぬ)という概念は日本人にはない。もちろん聖武天皇が東大寺に大仏殿をつくり、国々に国分寺をおいたころは仏教が国教化していたといえるかもしれぬが、鎌倉幕府、特に「貞永式目」以降には、国教という概念は日本になかったといってよい。
 将軍は宗教的首長ではない。将軍家帰依の寺もしくは僧といえども特別扱いはしないと「式目」は明記しており、その条文には宗教法的規定は皆無で、強いてあげれば律令から継承した六斎日に魚鳥を食べるなぐらいのことである。この点て、少々皮肉ないい方をすれば「式目」はまことに「文明開化」的法律である。
 従って日本の伝統の中に、西欧の「国教」に対して共鳴する文化的蓄積はないといってよい。しかし明治はこれをやろうとした。そこで平田篤胤の門人大国隆正の門から出た玉松操が岩倉具視の顧問となり、神道の国教化を行おうとした。その点、明治元年と同三年の神祇官復興や神仏判然の令の公布は興味深い現象である。
 これが廃仏毀釈の一因となり、仏教徒の反抗となる。明治二年、神祇・太政の二官を置いて、神祇官を上にし、宣教使を置き、これを諸国に派遣して宣教させ、各藩知事(藩主)と参事(家老)に宣教を命じた。辻善之助博士は「ここに於て神道は純然たる国教の姿を呈した」と記されている。
 だがそれが否応なく神仏混淆し、神官僧侶が並んで教導職となる。だがどういう教義を公布すべきかがきまらない。そこで教部省が「十一兼題」と「十七兼題」を教導職に下し、これの講案を提出させて批評し、統一的解釈を作成することになった。これを合わせて「二十八兼題」といい、その内容は省略するが辻善之助博士はこれを「一種の社会科とも称すべきもの」とされている。
 慌てて「国教の教義をつくろう」はまことに明治らしい。廃藩置県から三年目に「国体新論」が出てきたことを思えば、これだけを笑うわけにはいくまい。これはまさに「国教もどき」だが、日本に「国教」という文化的蓄積がないから共鳴現象は起らない。結局、影響力はなく、そのため官制においても徐々に縮小して教部省となり、大教院となり、明治八年には大教院は廃止され、十年に教部省が廃止され、内務省の社寺局が事務取扱いを行うことで、消えてしまった。
 だがこの消える過程で、面白い現象が起る。本願寺から欧米諸国の宗教事情を視察に行った島地黙雷が今度は仏教側から神仏分離を強く主張したのが大教院廃止の一因になっている。キリスト教は宗教混淆を否定するからその影響であろうが、神仏混淆は仏教渡来以来の伝統だから、それによって日本の家庭から仏壇と神棚の併存が一気に消えたわけではない。
 だがその併存はあくまでも併存で。両者を統一せよということ、いわば「仏神棚」を造れという統一宗教化の歴史的蓄積はない。いずれにせよ、日本の文化的蓄積の中にない西欧の国教という概念や宗教混淆の否定は、掘り起し共鳴現象を起こさず、政府が絶大なエネルギーを投入しても、消えてしまった。
 昔も今も、国教という概念はなく、神仏さらにキリスト教的諸儀式が、初詣で、七五三、結婚、葬式などに併用されているという伝統的な宗教混淆は今も日本から消えてはいないことを思えばこれが当然の帰結であろう。
 明治八年の朝野新聞に次のようにある。
「今度大教院が潰れて神仏各宗が別れ別れになり、勝手自由に布教する様に仰出されしは結構な事で有ります。兼ねて分離は悪いと言張り、一本立ちの本山になろうと企てたる興正寺花園教正殿も、此度は大きに前非を悟り、本願寺の方へ降参の掛合を始められたとの評判なり、此教正はさすがに老練の人故、一時は不都合の挙動も有たれど、正理の離し難きを知れば、忽ち悔悟なされるとは実に感服す可し、それに引きかへ本願寺の末寺、驚愕寺始め不分離党の坊様は、今度の発令に驚愕したれど、矢張り神官六宗一所に大教院に神留まりまして、八百万の神たちと共に、南無法連陀仏を、メチャクチャの別法を播かん騒ひで居るとの事。誠に面白い禿顧で御座いますと、真宗の婆さんより報知せり」と。
 これも見方によると面白い。統一的国教が西欧にあると聞けばその通りにしようとし、いや西欧は宗教混淆を否定していると聞けばそのようにしようとする。いずれにせよ、共鳴すべき文化的蓄積がないから、外からの影響は人びとの現実の宗教生活には及んでいない。
     
 
欧米の政治制度導入における「掘り起こし共鳴現象」
「『派閥』なぜそうなるのか」(p126~128)
合議の伝統
 だが「議会制度」とはいえないが、合議制で事を決するという「議会制度もどき」を起し得る伝統は日本の文化的蓄積の中には実に豊富にあり、これが欧米の議会制度を知った場合、非常に敏感に共鳴現象を起して少しも不思議ではない。
 古代のことはしばらく措き、『貞永式目』の決定と公布は評定衆十三人の合議によっている。ニクソンはアメリカの建国をマグナ・カルタ(一二一〇年)まで遡及させているが、同じような発想をすれば現代の日本の基礎は『貞永式目』一二三二年)まで遡及し得るし韓国の基礎は李朝の創立(一二九〇年)に遡及し得るであろう。武家における「評定」という合議制は非常に根強い伝統でここに前述の「根回し治・納得治国家」の祖型があると見てよい。
 これについては後述するが、幕末において重要問題、特に外交問題は「評議に基づく公議輿論によって決定」すべきだと最初に主張したのは水戸の斉昭であろう。これは弘化四年(一八四七年)のことだから西欧思想の影響とは思えない。だが「公議輿論によるべし」はこのころすでに「正論」になりつつあった。
 阿部正弘は「蘭僻」といわれたから西欧の影響もあるであろうが、その七年後にこれを主張し、さらにその八年後の文久二年(一八六二年)に横井小楠がこれを主張し、慶応二年(一八六六年)の建白書には議事院を建て、上下両院を設け、上院は公卿武家よりこれを選び、下院は広く天下の人材を挙用すべきことを述べている。
大統領選挙と尭舜の治
 小楠については掘り起し共鳴現象を示す面白いエピソードがある。勝海舟が帰国してアメリカの大統領選挙制の話をすると小楠は反射的に「ああ、それは尭舜の治だ」といったという。
 私かある席でこの話をしたところがやや嘲笑的な笑いが一斉に起った。だがこの嘲笑は日本思想史への無知に基づく。いうまでもなく、尭舜は中国の神話的な天子で理想の治を行ったとされているのだから、アメリカの大統領選挙制をこれと同一視するのは反射的に笑いを誘発するかもしれない。しかしここで小楠が連想したのはおそらく『孟子』の中の尭舜なのである。
 これを記しているのが「万章章句」だが、次に短かく要約する。
 万章が尭は舜に天下を与えたというがそれは本当のことかと質問をする。いわゆる「禅譲」である。ところが孟子は天下は天子の私物ではないから天子が他人に与えるなどということはできない。「天これを与う」だという。すると万章は天が諄々然と(口ずがらこと細かに)天下を舜に与えるというのかと質す。すると孟子は「天言わず、行いと事とをもって示すのみ」という。
 もちろん天子は後継者を天に推薦することはできる。だがこれは人は天子に諸侯を推薦はできるが、任命はできないのと同じで、天子が後継者を任命はできないという。ではその推薦者を天が次の天子に任命したとなぜわかるのか。それは「天これを受け、民に暴(あら)わして民がこれを受く」なら天が任命したことになる。
 これが「書経」の「大誓篇」に「天の視るは我が民に視るに自(したが)い、天の聴くは我が民に聴くに従う」の意味だと孟子はいう。さらに「離婁章句」にはこの逆の表れを示している。すなわち、暴君の桀王・紂王が天下を失ったのは人民を失ったからであり、人民を失ったとは民心を失ったからである。天下を得る方法は一つしかない。それは人民を手に入れること。人民を手に入れるとは民心を手に入れることだ、という意味のことが記してある。
 さらにこうした暴君に放伐(放逐・討伐)してもそれは反乱ではないと彼はいう。なぜなら「仁を賊(そこな)う者これを賊と謂い、義を賊(そこな)う者これを残と謂う」で、暴君とは「残賊の一夫」に過ぎない。従って「湯が桀を放ち、武王、紂を伐てる」のもこの残賊「一夫紂」を「誅殺」しただけで反逆ではないという。
 ニクソンは民心を失って「放逐」されたのだから、小楠がこれを聞けば、すぐ「尭舜の治だ」というかもしれぬ。これは典型的な掘り起し共鳴現象といえる。だがそれを嘲笑することはだれにもできまい。確かに、「巡礼始祖」(ピルグリム・ファーザーズ)から「メイフラワー契約書」と進む「アメリカ建国神話」は中国神話の「尭舜の治」とは基本的には全く異質の、ツァイトリンのいう旧約聖書的な契約に基づく法思想である。
 だがいずれにせよ法思想の発生は「千年単位の伝統を背景に持つ」ことなら、それがそのまま日本に導入されることは、あり得なくて当然である。
     
議会制度の導入「虎を描いて猫になる」
「『派閥』なぜそうなるのか」(p129~131)
議会のスタイル
 小楠以降、大鳥圭介も大久保一翁も建言している。一翁の説は、松平春嶽に上奏したもので、この時代のものとしてはある程度の形をなしている。
 彼は議会を二つに分け、大公議会は全国に関することを議し、小公議会は地方に関することを議するとした。大公議会は京都または大阪に置き五人を選んで常議員とする。ほかは大名自ら出席しても、自領内から代理人を選んで出してもよい。小公議会は大公議会に準ずるというから、大体国会と県会に相当するであろう。
 だがここには「選挙」という考え方はない。これがはじめて出てくるのは赤松小三郎が同じく春嶽に提出した意見書であろう。もっとも「選挙」という言葉は使われていないが、これは元来、中国の科挙の試験のことを意味し、「真観政要」にも「選挙を行う」という言葉が科挙の試験の意味で出てくるから、当時これを使えば誤解されるだけであっただろう。
 赤松小三郎は「入札」という言葉を使っているが、これは徳川時代にも一定範囲内で行われた選挙の意味であるから、当然である。彼はまず天子のもとに宰相をおくが、これは将軍・公卿・諸侯・旗本の有能なものを選んで大閣老として、次に五人が銭貨出納・外国交際・海陸軍事・刑法・租税を分担して天子を補佐する。
 これとは別に議政局をつくり、上下二局とし、諸国から道理の明らかなものを入札で選出して百三十名とし、そのうち三分の一は常任委員のような形で常に在府させる、年限を定めて勤めさせる。上局は公卿・大名・旗本を選挙させ、交替で在府させる。国事はすべてこの両局で決議し、これを天子に上奏し裁下を経て国中に命ずるというものであった。 彼は佐久間象山の弟子で、蘭学から英学へと進んだから、以上の発想には当然、イギリスの上院・下院、内閣が念頭にあったであろう。
 島津斎彬は礼を厚くして彼を迎え、藩邸で諸生を彼に教えさせた。弟子の中には村田新八・篠原国幹・中村半次郎・野津道貫・東郷平八郎・上村彦之丞などがいる。
 これがさらに、洋行を命じられた西周や津田真道などが慶応二年に帰朝すると、イギリスの議院制度を模した政体にすべきであるという案が相当に具体的に出てきている。翌三年に慶喜は大政奉還をするが、これは決して無条件でなく、広く天下の公議を集めて会議を開き、同心協力、国家を保護しようという条件つきであり、慶喜は当然、自ら議長兼総理になるつもりでいたと思われる。
 だが、これが薩長のクーデターでひっくり返る。それは結局は主導権争いであって、幕末以来、順次に進展を見てきた以上のような方向は、思想的には加速されることはあっても、逆転することはなかった。だが現実にできた明治政府の前には処理すべき大問題が山積しており、この迅速な処理には相当専断的な「有司専政」が要請されても不思議はなかった。
 しかし一方、形式的には明治二年に公議所ができ、議事規則などが定められ、同年四月から七月まで地方官会議すなわち藩主会合が行われ、歳入歳出の予算が提出されたのは一応、注目に価する。そして五月に官吏公選の詔勅が出され三条実美が輔相、岩倉具視、特大寺実則、鍋島直正が議定、東久世道禧、木戸孝允、大久保利通、副島種臣らが参与となり、神祇官知事、会計官知事、軍務官知事、刑法官知事なども公選されたが、明治四年の廃藩置県と共に公議機関はほとんど全滅し、残ったものも名存実亡となった。
 公議輿論も実際は諸藩連合で、その中で薩長が他を圧したわけである。だがそこには、そうならざるを得ない理由があった。形式的に西欧特にイギリスの政体を模倣しても、それが実効ある政治制度となることは非常にむずかしいであろうということは、慶応二年にすでに西周が論じている。
 彼の意見は長いが、要約すればそれは二つに分れる。一つは果して議会制度が運営できるかという危惧であり、その問題が克服できたら次のような制度にすべきだという提案である。
 彼はまず簡単に「洋制斟酌」というけれども西欧の国々の制度は数百世経て多くの試行錯誤を重ね、さらにそれを克服すべく多数の賢哲が思慮を重ねて今日に至ったもので、それを学問的に研究しつくしても、実際上の要領を体得するのはむずかしい。その外形をまねすることは、「虎を描いて猫に類する」ような結果になるであろうという。
 そこでまず会議の仕方を講究し、それによって新規の制度の大略を予め立てておくことである。彼は前に提出した『英制略考』において記したこと、頭取(議長の権限)、世話役(議員運営委員)、議題提出の方法と順序、議事進行の進め方などを論じている。無理もない、戦後になっても議場の混乱や乱闘、警官導入などが行われたのだから、どのような珍事が発生するか、彼にも見当がっかなかったのであろう。
 第二部は大体イギリスの制度の紹介とそれに上院・下院の構成法、三権分立のこと、朝廷との関係等々について述べており、大君が時宜によって下院を解散する権限を持つこと、議定した法律は政府より禁裏に提出するが、禁裏は「異議あるまじき事」で、天皇の位置はイギリス式の「君臨すれども統治せず」とし、その欽定がすんだ後に政府に下して政府がこれを発布するとしていることである。
 だが結局はたとえこれがそのまま実行されても「虎を描いて猫になる」が実態であったろう。
       
     
足利時代の一揆に根ざす派閥の歴史と政党政治の現在
「『派閥』なぜそうなるのか」(p228~231)
 では一体「派閥」とは何なのであろうか。それは「藩閥」といわれようと「地方閥」といわれようと「金権閥」といわれようと、すべて「派閥」の一形態といい得る。そして政党の前に派閥があり、藩閥の前に藩があったのだが、この藩なるものが一種の派閥連合であった。いわば藩の前の分国大名の時、それは一揆連合という形で成立したわけである。
 それは藩であれ党であれ、その藩主・党首は派閥連合に推戴された顔にすぎず、これは現在でも変りはない。現代の日本の総理は強力な「職務権限」を持っているといわれる。しかしそれは「法と権利」の世界という、厳密にいえば日本には実在していない世界の話であって、その職務権限をアメリカの大統領のように行使することができるわけではない。
 それが日本の「事実の世界」、すなわち「現実政治」の実情であり、それがゆえに「田中曽根内閣」などという言葉が出てくる。だが田中角栄氏は自民党員ですらないのである。そして「派閥解消」などといえば「派閥解消派閥」ができるだけである。なぜそうなるか、欧米であれ日本であれ、それぞれに伝統がある。伝統は決して軽く見てはいけない。
 星亨の時代とは日本の伝統的政治文化と欧米のそれとを接合しようとした時代であった。「文明開化」「自由民権」「憲政実施」すべて輸入品である。その輸入品で武装して藩閥と対決しているうちに、対抗藩閥という形の地方閥から金権閥へと転化していった。これもまた一種の掘り起し共鳴現象であろう。
 そこで日本の自民党政治が一応うまくいっており、世界で最も安定した能率的政権であると評価されても不思議ではない。明治政府は決定的な失敗を一度もおかさなかったといわれるが、戦後自民党政府も決定的な失敗はおかしていない。なぜか。掘り起し共鳴現象とは、外国の衣裳をまとって一見、欧米的に見えてはいるが、実は、その衣裳をまといつつ、掘り起された古い伝統通りにやっているということであり、それが日本の政治文化にマッチしているからであろう。
 そこで、終りにあたって、その始源と現代とを対比し、その中間に、明治という一時期を置いてみよう。ここで長富氏との対談「根回しの思想」をもう一度、引用しよう。
 「なぜそれで(日・米それぞれで、共に)うまくいくのか。その背後にはお互いに長い伝統があるわけですね。日本の場合おもしろいのは、足利時代に地方の小領主が一揆というものをつくるわけですね。集団規約です。なぜ一揆をつくるかというと、当時の武家にとって所領を安堵してくれるのが政府で、安堵してくれるから忠誠の対象なのですが、足利時代はまず南北朝に分裂し、北朝内で尊氏と直義が分裂するという形で、所領安堵すなわち所有権の保証をしてくれるもがない。そこで集団安全保証をしようとなる。これが国人一揆です。一揆契約というのへ原則として各人平等で、しばしばその最後に円を描いて、円の外に放射線状にサインをするという、傘連判というのをやりますね・・・」
 簡単にいえばこれが「派閥」なのである。今でいえば「選挙区の地盤」の「安堵」を確保するということであり、これはその成員は原則的には平等だがもちろんリーダーがいる。そしてその構成は地縁であったり血縁であったりするが、原則は所領安堵という「共同利益保持縁」であり、従ってリーダーの選定はあくまでも能力主義、すなわち集団の安堵能力であるから、血縁に基づく相続はできない。
 これは藩閥でも現代の派閥でも同じであって、山県有朋でも田中角栄氏でも、自己の「閥脈」を息子に相続さすということはできない。さらに、能力を失えば統制力を失う。そこでリーダーとしての能力ある者が上に立つという形で下剋上が当然に出てくる。しかし当時といえども名目的には公方(将軍)がいる。一体この公方と一揆はどういう関係にあるのか。
 「・・・おもしろいのは上と下の関係なんです。将軍から何かいってきたからどうするか。「公方の御大事においては、分限の大小を云わず会合せしめ、中途に談合を加え、多分の儀に随い、急速に馳せ参ずべし。(松浦党一揆契諾状)」というんですが、読んでもさっぱりわからないんです。
 というのは、公方が一大事というときは、何しろ所領が大きいとか小さいとか、権限とか何とか、そんなことは全部関係なく、一揆全員が会合して、中途で談合を加え、多数意見に従うというんです。で、急速に馳せ参ずべしといっても、もしも多数意見が馳せ参ずるのをやめようといったときは、どうなるのか」
 この対談には多くのほかの例があげられているが、それは省略する。ただこの一揆集団をまとめたのが戦国大名であり、毛利家文書でも伊達家文書でも、元就も正宗もそれぞれ一揆の一員で傘連判にサインしているのであって征服者として君臨しているわけではない。
 そして多くの一揆を「ぶどうの房型組織」にして人脈的に組合せたのが戦国の分国大名の組織であり、それの抗争を凍結させたのが徳川幕府であった。凍結は新制度の創設ではない。そして明治はこの古い伝統的な「ぶどうの房型組織」に「外来の樹木型組織の外衣」を着せただけである。従って「脈」を持っていない「隈板内閣」には何もできなくて不思議ではない。
 そしてこれは明治の藩閥であれ、現在の自民党の派閥であれ、原則的には少しも変っていない。一揆文書の公方と一揆との関係はそのまま、総理・総裁と派閥の関係である。日本の総理がたとえどれだけ大きな法的職務権限を持っていようと現実には、「派閥一揆」の上に乗った公方であり、この公方もまた「公方閥」という「派閥」の長であるにすぎない。
 従って「総理の御大事においては、派閥の大小を云わず会合せしめ、中途に談合を加え、多分の儀に随い」ですべてが決定されるわけである。ただこれは「事実の世界」のことだから、「派閥法」という法もなければ、自由民主党の「党則」のどこを見ても「派閥」に関する規定は皆無であり、皆無であって不思議ではない。
       
     
派閥に代わる統合の原理を創出する将来への課題
「『派閥』なぜそうなるのか」(p232~235)
 「板垣死すとも自由は死せず」と彼はいった。しかし皮肉なことに現実は前述のように「板垣去るとも派閥は死せず」であった。星亨が暗殺され、政党出身の総理が次々に殺されても派閥は消えなかった。そしてそれに代わって登場した「純粋」な青年将校で構成されているはずの軍部もまた「派閥争い」の世界であった。
 これは「軍閥史」という別の主題になるが「長州閥」「反長州閥」の争いは、少々ものすごい。ある一時期、長州出身だというだけで陸大に入学させなかったほどである。さらに皇道派と統制派の争いは、まるで時計の針を逆もどりさせ、水戸の功利派と因循派の争いを思わせるようになる。
 前述の万朝報の主張が実現し、「拝金宗の国民ならずして武士道の国民なり、外交的国民ならずして、戦闘的国民なり、ハイカラ的国民ならずして、蛮骨的国民ならざる可からず、後進青年一に之を以て心とせずんば、他日第二の星亨の紐を結ぶの恥あらん」を文字通り「心とする蛮骨的人間や集団」が現れても、実態はさらに悪化し、ついに日本を破滅に追い込んだだけであった。
 後に残ったのは戦後の廃墟、その最初の、倒閣から元総総理への裁判へと進んだ大疑獄事件が、復興金融金庫をめぐる、いわゆる「昭電疑獄」であったことは象徴的である。その金権派閥的構造は今もつづいており、少々皮肉ないい方をすれば「角栄死すとも金閥は死せず」であろう。

 「いや全く驚いたなあ。国会開設より、明治維新より、いや徳川幕府より派閥の方が歴史が古いなんて、結局、派閥政治は永遠に消えないのかな。そうかもしれない。政界だけじゃないもんな。学界にも、学校にも、会社にも、いたるところに派閥があるもんな」。本書の校正刷りを読んだ友人の感想である。そして彼は最後にいった。
 「では、将来の日本はどうなるんだろう。新左翼的行き方は、青年将校的行き方と同じように、たとえ成功したとて何の解決にもならないだろうな。水戸以来のこの伝統はもう消えてくれた方がいい。だが派閥の方は・・・」。彼はしばらく考えてからいった。「山本さんはどうなると思う。いや、どうすれば何か合理的な解決が見つかると思う」と。

 私は答えた。「答はすでにこの本の中に出ていると思うが、ではここでそれを復習すると同時に、将来の方向づけと思われる点を少し補なう」と。答の一つは老子の言葉「其の鋭を挫き、その紛を解く」である。一刀両断が何の成果ももたらさないことは、すでに実験ずみである。
 諸橋轍次氏は老子のこの言葉を「世の中の文化や文明は、条理の整った一つの複雑さ」をもつと考え、ぞこで一刀両断ですっぱりと解決するぞっな鋭さを挫き、糸のもっれのような紛雑したものを根気よく解きほぐしていくよりほかに解明の道も、問題解決の道もない、としたと記されている。
 派閥解消をスローガンにしたとて、新聞が派閥を糾弾し断罪したとて、それは問題解決にはならない。軍部が登場し、政党を解消して大政翼賛会をつくったところで、何の解決も招来しなかったのだから。そこでまず老子の前提を確認することだが、老子は解決不能といっているわけではない。問題はまず「紛を解き」それがどのような「条理」のもとに機能しているかを把握することである。解決の模索はそこからはじまる。
 答のもう一つは京極純一教授の次の言葉である。「「事実の(de facto)世界」と区別して「法(de jure)世界』を構成する技術は、「西洋」に始まる制度である。そこでは、事実の世界でおきる人間の接触交際の要点に、法と権利の世界の効果が対応する。そして、事実上の『政治』には、国家機関ないし政府、諸官庁などの法令上の政治制度、また、政党などこれに準ずる政治制度が対応する・・・」と。
 これは「「西洋」に始まる制度」であり、日本はこれを輸入したが「虎を描いて猫となる」結果となった。理由は西洋では「事実の世界」も「法と権利の世界」も共通の社会的・文化的基盤から出ている。だが日本はそうでなく、足利時代、否おそらくそれ以前から連綿とつづく「事実の世界」があり、それはそれなりの「条理の整った一つの複雑さ」をもって運営されてきた。
 そして「事実の世界」はいずれの国でも完全な合理性をもっものではない。それを一応認めつつ、この「事実の世界」を基にして、それとは別に一定の合理性をもつ「法と権利の世界」を構成すること、そしてこの「法と権利」の世界が、人間の接触交際の要点に対応しつつ、法が歯止めになり、それによって一定の合理性を持って事実の世界を検証し制御していくこと、同時にそれが統合の原理となること。
 要請されるのはこの点だが、残念ながら明治以降、日本の政治はこの点においては成功していない。これは二二二ページの有泉氏の明治憲法下の非制度的統合への批評と、天谷氏の現状との対比における藩閥への批評が、偶然に一致している点に現れているであろう。
     
     
責任内閣制の確立と国民の「代議士なる者」への意識の変革
「『派閥』なぜそうなるのか」(p235~238)
 明治から現在に到るまでの問題点は、法により創出される制度の上で、明確な統合の中心を欠いているという点にある。有吉氏の言葉の一部をもう一度引用すれば、明治は「統一的な国家意思は、制度上、各機関を満している藩閥という非制度的人脈集団を媒介としてはじめて形成される仕組になっていた」。
 これが藩閥が派閥に変っても変らず、派閥を中心にした根茎的人脈集団を媒介として統合がなされているのが現状である。このことは、長富・天谷両氏、いわば「現場の人間」の証言から明らかであろう。そしてこれが、「統合は、法的には無権限な派閥のボスの刑事被告人が行う」という異常な状態を現出するに至って極限に達した。
 ではその問題の基本はどこにあるのか。明治には統合は不答責の天皇が行うという名目で実質的には人脈集団を握る藩閥のボスが握り、戦後は首相が行うとされながら、その手足るべき内閣官僚は存在せず、補佐官は閉鎖共同体である各省からの、大臣は派閥からの、益荒男派出夫であって、統合機関としての実体をもたなかった。
 ここに、最大派閥の長が「自分は馬主で首相はジョッキーだ」と豪語し得る原因があった。派閥に問題があるよりむしろ、派閥の長が統合の権限をもっという明治以来の制度の欠陥に問題があるであろう。克服さるぺきものは、まずこの欠陥である。

 前に「一九九〇年の日本」で、二十一世紀を迎えるまでにわれわれがなすべき最も大きな問題は「制度の見直しと改革」であると述べた。戦後に大きな改革があったように見えながら、その制度の実態は、前述のように明治以降、変っていない一面がある。というより本質は変っていないといえる。
 われわれは伝統的に「制度」に手をつけることを嫌う。これは儒教的な伝統だと私は理解しているが、少なくとも民主制とは、法を創出して制度をつくり得る体制のはずである。だがこの民主制の伝統は日本になかなか根づかず、制度問題は棚上げされ、現行の制度の中で何とか改良するか糊塗しようとし、国民もそれを不思議としない。
 ロッキード事件が起れば、制度よりも政治倫理となり、教育が問題になれば抜本的な制度の見なおしより、文部省が家庭教育にまで口を出すという結果になる。制度をそのままにして倫理やお説教で問題を解決しようというのもまた儒教的伝統であろうが、その本家である中国が、制度の改変によってどのように大きな変化を招来しているかは、今さら云々する必要はあるまい。妙ないい方だが、この点では日本が遅れをとっている。
 もっとも時代は少しずつ変化し、制度を変えねば改革はあり得ないこと、同時に制度とは、変える意思があれば変えうるという発想は、徐々にだが国民の浸透している。電電や専売の民営化、国鉄の分割案、さらに健保への私企業の参入計画等、過去には考えられなかったことが八〇年代に入って徐々に出て来たのは、制度の改革ないしは見直しが基本であることが理解されて来たからであろう。
 国鉄をそのままにしておいていかに「親方日の丸でなく私企業的なマインドをもて」とお説教をしてもそれは無理な話であり、義務教育を国家独占に等しい戦時中の国民学校の制度のままにして「教育の荒廃」を文部省のお説教で何とかしようとしても、それははじめから無理である。
 このことは、政治についてもいえる。否、政治にこそそれが最も強く主張されねばならない。民主制とは「法と権利の世界」が「事実の世界」に正確に対応せねばならぬ政治制度のはずである。ところが、それがそうなっていないことを明らかにしたのが「ロッキード裁判」で、首相でも何でもない一刑事被告人が統合の中枢にあるということ、この裁判から引き出すべき最も重要な問題点はここにあると私は考えている。
 その改革の根本であるべき政治制度の見直し、倉田弁護士のわれる「それは政治の問題」の解決は、まだはじまっていない。だが派閥の領袖たちでなく、内閣という統合の中枢機関が、真にその機能をもってはじめて「責任内閣制」という制度が「法と権利の世界」に正しく対応するはずで、それを現実化し得る制度が確立すれば、明治以来の最大の改革となるであろう。これを主張し、制度の内容を提示することが、新しく要請される「正論の政治」であろう。
 だがそこにはもちろん、国民の「代議士なる者」への意識の変革という重要な要素が、さまざまな面で要請される。もっともその変化はこれまた徐々に起っている。いわば「星亨→田中角栄方式」というべきもの、簡単に要約すれば、明治のいわゆる国庫下渡金を選挙区につぎ込みうる能力を政治力と考え、この能力をもつ者に投票し、一方はこの能力を自己ないし自己派閥の政治 資産とするという行き方、この行き方が徐々に終りに向いつつあることである。
 このことは、「はじめに」でも述べたが、彼らがこのためにあらゆる努力をし、地方の要求が満たされれば、その時それは政治力でなくなる。いわば中央と地方との格差の利用がその政治資産の基盤となっているごとは、彼らが努力すればするだけ、その資産は無くなっていくという矛盾を抱えている。
 と同時に地方がある程度力をつけ、大分県の一村一品運動のように、地方自らの力で、その地方の特性を生かした新しい国づくりという方向に進み出せば、前記の能力は、支持さるべき政治力でなくなってくる。
 ここに、たとえ派閥が残ってもその内実は変化せざるを得ないという前提があるであろう。長い間「外交は票にならない」といわれて来た。これは「星亨→田中角栄方式」が絶対の場合は、そういわれて当然である。だがここにはすでに政治意識の新しい変化の芽が出ていると思われる。
 以上の制度の改革や意識の変化が実現しても派閥は残るであろうが、その性格は著しく変ったものとなるであろう。この問題もまた決して解決できない問題ではない。ではそれをそのように行うべきか。基本はいうまでもなく「其の鋭を挫き、その紛を解く」であらねばならない。その具体的方法の提示は「派閥」を主題にした本書とは別に、本書で提示した問題を踏まえて、新しく取組むべき問題であろう。
     
     

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