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山本七平語録

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宗教

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仏教の伝来
『日本人とは何か』p137~138
日本への仏教の伝来
 仏教は渡来人によって六世紀の初頭にすでに日本に入っていたと思われ、通常仏教伝来の年は『日本書紀』の記述に基づき欽明天皇の十三年(五五二年)とされるが、これは百済の聖明王が仏像と経論を欽明天皇に献上し、天皇がその礼拝の可否を群臣に問うたときである。いわば個人の私的な信仰としてでなく、国家の宗教として認めるべきか否かの問題になった時のことであった。それが政争とからんで争いとなり、結局「天皇仏教を信じ、神道を尊ぶ」という妥協に落ち着いたのが用明天皇の二年(五八七年)、というのがごく普通の見方であろう。

儒教・道教と合一した中国仏教
 だが、宗教上の問題がそのような政治的配慮だけで簡単に片づくと見るべきではあるまい。まず、「日本は仏教を受容した」と簡単にいうが、ブッダが生まれたのは紀元前四八三年(?)、これが中国に伝わったのが紀元一年もしくは六七年、それが韓国に伝わり、さらに日本に伝わって前記の諸問題が一応落着したのが五八七年。この間に仏教が中国でどのように受容されて変容したか。その変容したものを韓国がどう受け入れ、それを日本がどう受容したのか、それをたどって行かねばならない。といってもこれは余りに大きな主題なので、簡単にその概略を記すに止めよう。
 いずれの国であれ外来宗教の導入は民族固有の信仰と対立して激しい論争を起こし、時には戦争まで起こる。仏教が中国に入ったころ、これと対立したのが民族宗教としての道教であったのは当然であろう。だが仏教が中国社会で一応の地歩を築き、道教も民間信仰を集大成して宗教としての体制を整えはじめる三世紀ごろ、両者は思想的融合に向かおうとする傾向を生じはじめた。  これまた珍しい現象ではなく、キリスト教もイスラム教も、多くのその地の民間信仰や習俗を取り入れている。ただ中国の場合は、仏教は道教を吸収しきるほど有力ではなく、さらにそのほかに儒教があり、ここで、思想としての性格を異にする儒釈道の三教を調和して折衷統一しようという方向に向かった。これが三教合一論である。そして日本が韓国経由でなく、直接に中国に使者を派遣したのが『隋書倭国伝』によると推古天皇の八年(六〇〇年)である。なぜこのような処置をとったか。これが当時の国際問題に起因しているであろうことは、すでに述べた。
 隋はやがて滅び唐の時代が来る。この聞、日本から派遣された遣唐使の数は前述の通りで、多くの留学僧・留学生を送り込んだ。日本人はおそらく、唐の都の長安の繁栄に驚いたことであろう。そしてこの唐の時代(六一八~九〇七年)が、中国仏教の最盛期であったが、同時に道教は国家保護を受けて勢力を張り、統治思想としての儒教もまた勢力を得てきた。と同時に三教合一論が支配的になってきた。ということは、唐を絶対的な権威と考えた日本人が受け入れた仏教とは、三教合一論的な仏教と見なければならない。いわば「仏教」の名のもとに輸入された宗教的思想の中には、道教も儒教も含まれていたということである。
 
仏教国家創建の功罪
『日本人とは何か』p145~146
 仏教の受容とは、実は中国の宗教文化のすべての導入であった。ただ唐の時代は中国仏教の最盛期であったから、それは仏教中心の宗教文化の輸入であったと言ってよい。従って、仏教の僧侶が儒教の講義をしても人は少しも不思議に思わなかった。そして仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な統一の共有しうる宗教へと変えたのが聖徳太子であろう。
 太子は自ら法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書、すなわち『三経義疏』を記し。一切を包容融合する統一的な原理として「一大乗」の思想を鼓吹した。そして大化の改新を経て大宝律令ができると。仏教は「僧尼令」によって国家の保護を受けると同時にその統制を受けるようになった。いわば僧尼は、鎮護国家を祈念する公務員になったわけである。現代でも国教のある国の多くでは聖職者は国家公務員であり、それから見れば仏教の国教化といえるであろう。
 以上のような行き方を推し進め、仏教国家の創建へと目指したのが聖武天皇であろう。天平十三年(七四一年)の国分寺創建の詔、さらに天平十五年(七四三年)の東大寺大仏建立の詔はこの点で注目に値する。いわば諸国に国分寺と国分尼寺を建立して、「金光明経」を講宣読誦させることによって国家にふりかかる労障を消除し、大仏によって国家万民の上に利益を与えようという一大計画である。こういった国家的計画とその実施は、日本史上、これが最初で最後であろう。
 だがこのような大事業の結果招来されたものは、国民の疲弊、国家財政の破綻、寺領の増大、僧侶の政治介入と堕落であった。天平宝字八年(七六四年)恵美押勝の叛乱が起こり、これは鎮圧されたが、次に僧道鏡が大臣禅師となって勢力を振るい、天平神護二年(七六六年)法王となって帝位をうかがうが、やがて失脚する。南都六宗といわれる首都奈良の仏教界は、さまざまな面で、どうにもならない状態になっていた。
 
呪術性と末法思想で仏教変質
『日本人とは何か』p146~148
p123~125
 延暦十三年(七九四年)桓武天皇は都を京都に移した。いわば奈良とその地の諸大寺は放棄され、同時にその統制、取締りは強化された。一方新しい首都の京都では、天台宗の最澄と真言宗の空海による新しいタイプの仏教、山林仏教が出現した。奈良の仏教は都市仏教だが、天台宗は比叡山に、真言宗は高野山にこもり、南都六宗とは違った新しい信仰の糧を供給した。といっても「鎮護国家」には変わりはなく、むしろそれはさらに強調されたといってよい。
 南都の六宗でも、天台・真言でも、仏教の教学に対する専門的な研究はもちろん行われており、その水準はきわめて高かったといわれる。だが一般の貴族や有力者が仏教に求めたことは、深遠な宗教的真理ではなく、「鎮護国家」を一族にさらに個人の水準にまで下ろし、自分や自分の一族の繁栄や安全を祈念してもらうことであった。彼らが最も恐れたのは、病気や災難であり、それらから自分を守ってくれる呪術を仏教に求めたわけである。ここに呪術仏教が要請され、それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏づけるような深遠な哲理は強く人びとをひきつけた。
 当時の人びとは、理解しがたい病気や災難を「物の怪」にとりつかれると考え、一種の強い怪異感で受けとめていた。そこでこの怪異感からの解放を加持祈祷に求めたわけである。その要請に応じたのが密教である。真言も天台もしだいに密教の比重が高まり、互いによりすぐれた呪術性を強調して競いあった。そしてその結果生じたのが、国家仏教から貴族仏教・閥族仏教への移行である。まず天皇家、ついで藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もこれにならった。氏寺の出現である。そして政権の座からしめ出された貴族は、栄達の道を仏教界に求めた。
 有名な氏寺には、藤原伊勢人の鞍馬寺、藤原忠平の法性寺(ほうしょうじ)、有名な道長の法成寺(ほうじょうじ)や頼通の平等院などがあり、そこの僧たちは準貴族化して俗人と変わらなくなった。そして貴族の求めに応じて法会や加持祈祷を行なって土地の寄進を受け、しだいに富裕な土地所有者となり、武力さえも持つようになった。
 もう一つ見逃せないのは末法思想である。キリスト教にも「紀元一〇〇〇年終末思想」があったが、日本の場合は永承七年(一〇五二年)である。なぜこのような信仰が生じたのか。教理的にはシャカの入滅後千年が正法、次の千年が像法(この計算の仕方はさまざまだが)で、それが終わると世は「闘諍」の時代となり、仏教の教えは現世では全く行われなくなるという思想である。
 そして奇妙なことにこの年に香椎宮が焼失、翌年には伊勢大宮司の邸宅が、さらに翌年には高楊院内裏つづいて京極院内裏が焼失する。翌々年には安倍頼時の乱で追討の宣旨が下され前九年の役がはじまる。そして康平元年(一〇五八年)に新築の内裏がまた焼失し、法成寺も焼失し、翌年には一条院内裏が焼失し、その翌年には興福寺が焼失する。それは「平安時代」がいよいよ終わり、「闘諍時代」の来る不吉な予兆と人びとには思えた。事実、闘諍を恐れない武家の登場する時代は近づきつつあった。
 一方、これとともに浄土教信仰が力を得てきた。これは奈良時代にすでに中国から渡来していたが、空也や源信によって、あるいは踊念仏という形で、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中にしだいに浸透していった。
 この時代は、貴族にとっては確かに「平安時代」であり、権威を誇る彼らにとってこの世は決して「厭離」すべき「穢土」でなく、浄土の荘厳さを生きている現実生活の中に見ようと願わせるような世界であった。だが平安時代は裏から見れば群盗と流亡の民を生んだ暗黒の時代である。彼らがこの「穢土」を「厭離」して「浄土」を「欣求」しても不思議ではない。やがて武士が登場し、文字通りの「闘諍」の時代が来る。そうなると今度は、衰亡して行く藤原氏一門にとって、この世は、そこから逃避したい「穢土」になっていく。
 
念仏のみ選択した法然
『日本人とは何か』p148
 この源平の争乱期に、最も大きな影響を与えたのは法然(一二一三~一二一二年)の浄土宗であろう。前に法然のことをプロテスタントの宣教師に話したところ。「それではキリスト教ではないか」とか「まるでマルティン・ルターのようだ」とかいう反応が返ってきた。司馬遼太郎氏も同趣旨のことを記されているが、プロテスタンティズムとの類似性を最初に記したのはキリシタン宣教師ヴァリニャーノやカブラルであろう。そういう見方が出て不思議でない面がある。
 ただ現代の欧米人とはまことにこまった点があり、こういうときには必ず「どこかからキリスト教思想が日本に入ったのではないか」と考える。そういった質問を受けたので、ルターの宗教改革ははるか後代の一五一七年、北条早雲が三浦義同父子を攻め滅ぼした翌年で、日本はすでに戦国時代。冗談に「ルターが法然の影響を受けたことはあり得ても、その逆はあり得ない」と答えた。僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人間は救済されるという個人主義的な宗教思想の発生は、西欧より日本の方がはるかに早い。
 法然の思想は、『選択集』に記されており、要約すればいかなる愚痴無智・罪悪深重な者でも、阿弥陀仏の名をとなえるだけで、極楽浄土に救済される身になるという。善根功徳を積む必要はないし、戒律を守り身を清浄に保つこともいらない。極言すれば、阿弥陀仏を礼拝することも、心に描くことも、浄土の「三部経」を読誦することもいらない。ただ称名念仏(しょうみょうねんぶつ)だけが「正定業」で、さまざまな宗教的修行は「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」され、念仏だけが「選択」される。
 人は現実から逃避せず、与えられた身のまま、武士は武士、農民は農民、そのままで念仏をとなえればよい。そのため特別な行儀はなく、行往坐臥の間に行い、時間の長短や回数の多少も関係ない。思うときに思うようにとなえて、それだけで十分とした。ただ彼は、ちょうどルターがカトリックの七つの秘蹟のうち二つを捨てかねたように、臨終の行は棄てかねた。
 
戒律死守した唯一の僧・明恵
『日本人とは何か』p150
 彼のような思想に対して当然に対抗宗教改革が起こった。その代表が華厳宗の栂尾(とがのお)高山寺の明恵であり、『催邪論』を記し、仏典のどこを探しても法然の主張するようなことは記されていないと批判した。明恵は典型的な高僧というタイプの人で、民衆を直接に教化するより瞑想と隠遁を愛したが、彼を慕う人は多かった。
 執権の北条泰時は彼から強い感化を受け、それが「貞永式目」の法哲学の基本になっていると思われる。また弟子の義林房喜海は生涯彼とともにあって、『明恵上人行状』を記し、これとその他の資料を基にして記された『明恵上人伝記』は徳川時代まで広く読まれた。その中の「あるべきようは」の七字を重んずること、いわばすべての人がその社会的位置で「あるべきようにあれ」という教えもまた、間接的だが強い教化力をもっていたと思われる。また彼が自らの「夢」を記しつづけた『夢記』は、心理学的に、また精神分析的に貴重な資料で、現代でも多くの人に研究されている。
 だが明恵自身の生涯の夢は、インドに行き、仏跡を歩きつつ、ありし日のブッダを慕いしのぶことであった。彼はこの夢を果たせなかったが、たとえ末世・末法の世であっても、あくまでブッダを慕い、彼が示した戒律通りに生きることが彼の生き方であった。生涯、戒律を一点一画も破らなかった僧が日本にいたか、と問われれば「明恵がいた」といえる。それは法然とは対極の存在であったといってよい。
 同じころ、栄西と道元によって中国から禅宗がもたらされた。これが広く普及したのは鎌倉時代であり、「只管打坐」の厳しい修業と厳格な戒律は、武士の生活規範とよく合致したものと思われる。禅は鈴木大拙により欧米に紹介され、日本の仏教といえば「ZEN」と思っている人も少なくないが、決してそうではない。ただ禅についてはすでに多くのことが紹介されているので、本書ではこれにとどめ、民衆的新宗教へと進もう。
 
日本仏教の独自性
『日本人とは何か』p151
 足利時代になると、武士は禅宗、農民は真宗、商人は日蓮宗のような形になる。そして最も数の多い農民の宗教、すなわち真宗は、法然の弟子の親鸞が、師の教えをさらに徹底したものと言ってよいであろう。法然のもとに多くの人が教えを求めて集まったとはいえ、彼は生涯を殆ど京都で送ったので、その範囲は限定されていると同時に、都会的であった。
 法然も親鸞も旧仏教勢力によって流罪にされたが、このとき親鸞は越後で妻帯して関東に赴いた。彼は堂々と妻帯した仏教史上最初の僧かも知れず、この点では彼の方がルター的かも知れない。だがオウガスチノ修道会の司祭であるルターが結婚したのは一五〇〇年で、これまたはるかに後年である。そして親鸞は関東の辺地で、農民や下級武士に自らの教えを説いた。
 親鸞はあらゆる意味でルター以上であろう。彼はこの世を穢土とは考えず、「現実」こそ「救済」の場であり、その場に生きることを念仏の目的とした。そして阿弥陀仏に救われるという「信」のみが救済を決定するのであり、念仏とは救済を求めて称えるものでなく、信じ得た喜びの感謝の声だとした。ひろ・さちや氏は真宗の念仏は、救済されたことへの「サンキュー・サンキューだ」といわれたが、適切な解説であろう。まさに人が救われるのは「信仰のみ」によるのであり、その前では老若男女貴賤、一切差はないと説いた。だが、彼の教えがすぐ広まったわけではない。それが農民の宗教となり一大勢力となるのは天才的伝道師蓮如が出てからである。
 この浄土教的な徹底した教えに強く反対し、法華経を絶対としたのが日蓮である。従って彼にとって天台以外の宗派はすべて否定さるべきもので「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」がスローガンであった。ただその彼もブッダを信じ「南無妙法蓮華経」の七字を称えるだけでよいとした。宗教人としての彼のタイプは、「法華経」絶対で非常に峻厳であり、この点では、旧約聖書の預言者を連想させるので、欧米人には理解しやすいらしい。この法華経および法華宗を最初に研究したヨーロッパ人はキリシタン宣教師オルガンティーノである。
 以上は日本仏教史のきわめて簡単な摘記だが、これを読まれただけで読者は二つのことを感じられるであろう。まず第一に、仏教は「鎮護国家」の宗教として正式に国家に採用されたが、やがてそれが貴族の宗教となり、さらに武士から民衆へと浸透して行ったこと。そして第二に、それは浸透とともに変質していき、日本独自の仏教となって行つたということ。ヨーロッパの仏教学者の中には、真宗は仏教ではないとする人もあるという。それが言いすぎなら、日本人によって創出された独特の仏教の一派と言ってよいであろう。
 だが仏教がもたらしたものは、以上に要約したことだけではない。それについては後に触れることにしよう。
 
秘密投票のルーツ
『日本人とは何か』p157~160
 いま、「一人一票の秘密投票」といったが、これが完全に行われている国は今でも少ないであろう。共産圏のような挙手なら、反対者への報復や排除は簡単にできる。この問題は古代に於てはさらにむずかいい問題がある。というのは、人が氏族や大家族に属している場合、家長権等を無視して「個人として」「自由な投票」を行うことなど、まず望めないからである。この場合、もっともそれが行いやすかったのは「出家」のはずである。僧は原則としてこの世の社会のあらゆる「縁」を断ち切って「出家遁世」し、「個人」となって僧院に入り、平等な立場でブッダに仕えているはずだからである。
 だがこの「はず」もなかなか原則通りに行かず、組織には組織の上下があり、その組織の長は人事権を握っているから、その人間はもちろん自由ではない。さらに平安時代の大寺院の僧は「鎮護国家」を祈る国家公務員だから、俗世の序列がそのまま作用しやすい。だがそうだとしても、全員が一つの目的をもつ宗教的組織的集団は、氏族や大家族とちがって血縁順位がなく、その意味では平等な「一味同心」であり、重要な決定に対しては全員で会議をし、多数決で議決のうえ決定するという方式があっても不思議ではない。
 一体、この方式が仏教によって日本に持ち込まれたのか、それともこれまた「掘り起こし共鳴現象」で、仏教の渡来以前から似た方式があったのか、これは明らかでないが、大体、原始仏教の議決方法「多語毘尼」(もしくは「多人語毘尼」)その他にその根拠が求められるという。これは教団内の諸問題の解決法を示した教典で、その一つとして多数決があり、公開投票、半公開投票、秘密投票の三つが記されている。だが、この通りにしたため大乗と小乗の分裂をひき起こし、以後は用いられていなかったといわれる。おそらく日本人は、仏典は輸入しても、仏教史は知らなかったのでこれが用いられたのであろう。
 いずれにせよこれに基づいて、「満寺一味同心」という形で寺院全体の意思決定をし、それに基づいて行動を起こすには「満寺集会」という衆徒全員の出席する会で「大衆詮議」という評決を行い、そこで多数決によって議決しなければならなかった。そしてこの「大衆詮議」には細かいルールがあった。
 延暦寺のルールは、『平家物語』に詳しく出ている。そしてこの寺は当時の指導的寺院だから、他の寺院も似たようなものであったと見てよいであろう。そしてこの「満寺集会」の「大衆詮議」に出るのは神聖な義務で、出席しないと罰せられたらしい。延暦寺は何しろ衆徒三千だから、集会の場は当然に野外で、一同は大講堂の庭に集まる。そのときの服装は異形であり、全員が破れた袈裟で頭を包み顔をかくす。
 たとえなんぴとといえども、また天皇の命令でも、頭をむき出し、顔をあらわにして出席することはできない。そして全員が堂杖という杖をもち、小石を一つずつひろって出席し、その石を置いてその上にすわる。さらに声を出すとき、鼻を抑え、声をかえねばならぬから、隣にすわっている人間がだれだかわからない。いわば師と弟子が隣り合わせにすわっても絶対にわからないようにしなければならないのである。
 すると、これもだれだかわからぬ一人が、声をかえた大声で「満山の大衆は集合したか」と叫び、提案の趣旨を説明し、一ヵ条ごとに賛否を問い、各人の判断に従って賛成の場合は「尤も」、反対の場合は「此の条謂(いわれ)なし」と叫ぶ。このようにして一条ずつ議決され、終われば「愈議事書」「列参事書」という文書にまとめられる。これは「多語毘尼」の半公開投票にあたるであろう。
 いま読むと、まことに巧みに秘密投票の原則が守られていると思うが、彼らの異形や異声が、果して近代的な合理主義から出たのかといえば、おそらくそうではあるまい。だがこの問題は後に触れるとして、まず、この討議に付する議案はどのようにして決定されたのかが問題である。それはよくわからないが、高野山と同じなら「合点」という方式をとったものと思われる。この「がってん」という言葉は今も使われ、芝居の台詞などにも登場し「わかった」「承諾した」の意味に使われるが、元来は小人数の表決の結果すなわち「点の合計」を意味する言葉であった。
 勝俣鎮夫氏の『一揆』に、やや後代のものだが、典型的な「合点状」として弘和四年(一三八四年)の高野山違犯衆起請文があげられている。年貢を滞納した荘官罷免に関する評定で、公正に投票することを神に誓約し、その起請文の余白に「荘官罷免」または「罷免せず年貢取り立て」の二つの投票課題を記し、それぞれの余白に、投票者が短い線を引くという方法をとっている。どんなルールで線を引いたのかは明らかではないが、「線」は元来秘密投票のためだから、一人一人立っていって、見えない場所で線を引き、もとの座にもどるという方式をとったものと思われる。この起請文では線が前者が四十一、後者が二十三だから、荘官は罷免されたわけである。これが「合点」で、ここから後代の「がってんだ」が生まれたものと思われる。これが「多語毘尼」の秘密投票であろう。
 
多数決は神意の現われ
『日本人とは何か』p160~165
 現代では「多数が賛成したから正しいとはいえない」という議論がある。新聞などにもしばしば現われる議論で、前記の「合点状」でも、四十一対二十三だから四十一の方が正しい決定とは、必ずしもいえないだろう。ではなぜそれが、反対二十三を含めて全員の決定とされるのか。実をいうと「多数が賛成したから正しいとはいえない」という前記の言葉は、多数決原理発生の原因を忘れてしまった議論なのである。
 この原理を採用した多くの民族において、それは「神慮」や「神意」を問う方式だった。面白いことにこの点では日本もヨーロッパも変わらない。古代の人びとは、将来に対してどういう決定を行なってよいかわからぬ重大な時には、その集団の全員が神に祈つて神意を問うた。そして評決をする。すると多数決に神意が現われると信じたのである。これは宗教的信仰だから合理的説明はできないが、「神意」が現われたら、それが全員を拘束するのは当然である。これがルール化され、多数決以外で神意を問うてはならない、となる。
 そしてこれはあくまでも神意を問うのだから、「親が……、親類が……、師匠が……」といったようなこの世の縁に動かされてはならない。それをすれば「親の意向……、親類の意向……、師匠の意向……」を問うことになってしまうから、神意は現われてくれない。もちろん賄賂などで動かされれば、これは赦すべからざる神聖冒涜になる。これらは日本でも厳しく禁じられている。そして、延暦寺の異形・異声とか、高野山の「合点」とかは、こういう考え方の現われである。おそらく、異形・異声になったとき、別人格となったのであろう。このような信仰に基づけば、多数決に現われたのは「神慮」「神意」だから当然に全員を拘束し、これに違反することは許されない。
 多くの国での多数決原理の発生は、以上のような宗教性に基づくものであって、「多くの人が賛成したから正しい」という「数の論理」ではない。コンクラーベという教皇の選挙は、今では多くの人に知られている。だがこれは決して枢機卿が教皇を選出するのではなく、祈りつつ行われる投票の結果に神意が現われるのだという。従って教皇は神の意志で教皇となったので、「当選御礼」などを枢機卿にする必要はない。
 時には、自分に投票してくれた人に最も厳しい人事をするが、これは行なって不思議ではない、という話をカトリックの人から聞いた。もっとも「教皇選出の神学」といった資料を読んだこともなく、そういう資料の有無も知らないから、詳しいことはわからない。しかし一般に以上のように信じられているらしい。
(中略)
 以上に共通する考え方は、多数決は神意の現われだから絶対だという考え方で、「多数が賛成したから正しい」と考えているわけではない。ただ神意・神慮を問うのだから、自己の良心のみに従って投票しなければならないという考え方と、そのためのさまざまなルールは、何ものにも拘束されない議決を生み出したことは事実であろう。そしてさまざまな「縁」を断ち切った「出家」が、神という絶対者を前にしたとき、この方式が最も採用しやすかったのも事実であろう。
 この行き方は確かに民主主義の基にはなりうるが、問題はそれが寺院内に限定されたか、その枠をやぶって一般世俗社会の規範になり得たか。という問題がある。確かに氏族制や大家族の社会では一般化しにくい。まして平安時代は「閥族時代」といわれるほど「閥」がすべての決定の基本になっている。ではそれがどう発展して行ったのか。だがそれを問う前に、別の問題に触れねばならない。
 というのは当時の大寺院がこれを行なった場合、当然に問題が起こる。というのは、延暦寺や南都の大寺は、前述のように元来は「鎮護国家」を祈願する寺で、その僧は今でいえば「国家公務員」、当然に朝廷の命令に従わねばならない。では、満寺集会の議決の「余議事書」や「列参事書」の内容が、朝廷の方針と違って、両者が真っ向から対立したらどうなるか。一方は「神意」、一方は「天皇‐律令」の規定である。
 この関係は白河法皇(院政=一〇八六~一一二九年)の余りにも有名な「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者」に現われている。院政最盛時の白河法皇がどうにもできないなら、他の者にはどうにもならなくて不思議でない。もちろん、満寺集会の議決が寺内に限定されるのなら問題はないが、当時の大寺院は多くの荘園をもつ政治勢力であり、それが満寺集会の議決を絶対的な「神慮」として政治的要求をつきつけて来てはたまらない。当時の人間には神罰・仏罰という意識があるから、何ともできないのである。
 彼らは「噭訴(強訴)」という方法をとった。有名なのは延暦寺と興福寺だが、先鞭をつけたのは熊野の大衆で、彼らは神輿を奉じて白河天皇の永保二年(一〇八二年)に入洛して強訴した。これに刺激され興福寺の衆徒が、榊の数枝に鏡をつけた春日神社の神木を先頭に押し立てて入洛強訴した。春日神社は藤原氏の氏神なので、これが来ると藤原一族は神罰を恐れて出仕しない。こうなるとすべての政務がストップするから、否応なく彼らの要求に応じざるを得ない。もしもこの際、藤原一族のだれかが興福寺に不利なことをしたら大変で、すぐ「放氏」されてしまう。
 今から考えるとおかしな話だが、興福寺の大衆が春日神社の神すなわち藤原氏の祖神にその者を告発して「氏」から追放してしまう。そこで「放氏」といわれるが、これは後代の勘当に相当するだろう。これをされると社会的身分のすべてを失うから家で謹慎閉門して、おゆるしを待つ以外に方法がなくなる。この手段があるから要求はすべて通る。
 延暦寺はこれを見て、堀河天皇(白河法皇の院政中)の嘉保二年(一〇九五年)、荘園のことで美濃守源義綱と争い、日吉の神輿を山上中堂に遷した。これが神輿動座の始まりで、ついで長治二年こI〇五年)に、祇園の神輿を奉じて朝廷に強訴し、その秋また日吉の神輿を奉じて強訴している。こうなると諸大寺の強訴競争のようになり、それを一々あげるわけには行かないので以上でとどめ、なぜこのようなことが平然と行われ得たのか、行う方は何を正当性としてこのようなことを行なったかについて記すことにしよう。
 まず第一が当時の人のもつ宗教的畏怖の逆用もしくは悪用である。これは前述の「放氏」によく現われている。興福寺大衆の満寺集会の議決は春日神社の神慮であり、藤原氏はその氏神の神慮に従わざるを得ない。では、天皇から命じられても出仕しないのであろうか。そうなると、彼らの議決は国法を超えるものとなり、彼らの要求に屈することは、今でいえば「超法規的処置」ということになる。「強訴トハ理不尽ノ訴訟也」が鎌倉時代の定義だが、重要な点は、現代の「超法規的処置」と同じように、その要求を受理せざるを得ない側も、強要して受理させる側も、共に「理不尽」だということを知っていた点である。
 
理不尽な強訴の尖兵たち
『日本人とは何か』p165~167
 「理不尽」と知りつつ強制するケースは二つしかないと考えてよい。一つはヤクザのようにはじめから「理」など無視している場合、もう一つは。通常の「理」を超える絶対的な「義」が自分の側にあると信じている場合である。いわば何らかの「大義」のためハイジャックして超法規的に犯人や容疑者を釈放させて自分のところへ送らせる、などというのはこの一例である。ただ以上の二つのケースが「タテマエーホンネ」という形になっている場合もある。  「タテマエ」からいうと。大寺院は「鎮護国家」を任とし、国家は王法・仏法で支えられているのだから、仏法もまた法であるという理屈が成り立つ。だがこの仏法という意味が、現実に存在する寺院勢力を意味するようになると、その衆徒による「満寺集会の議決」は神慮を現わすからこれまた法であり、この法を無視すれば「仏法を破滅せば、国家は滅亡せん」で、国もまた滅びるから絶対に無視してはならないという理屈も成り立つ。  だが、その「満寺集会の議決」が。寺領に対して横暴であった、というより横暴であったと彼らが主張する国司を罷免せよといった要求になると、元来は「王法」の支配下にある国司を、彼らの力で罷免させる結果になる。こうなると、現実問題として、「満寺集会の議決」なるものが「法以上の法」になってしまう。そして実態を調べてみると、彼らの行き方は、まさに「タテマエーホンネ」が一体となっている。  以上の原理を押し立てれば絶対的な権力を持ちうる。だが彼らは重要なことを忘れていた。簡単にいえば。国司の罷免要求とか、寺領の荘官の罷免といったことは、あくまでも世俗的な問題であり、厳密の意味での仏法の問題ではない。これが前述のサンヘドリンの多数決のように、あくまでも「教義」の解釈に限定されているなら、その決定が宗教法の実質的改正という形で一般人に作用しても、一般人がその多数決方式をそのまま自分たちも採用しようという動機づけにならない。しかし、満寺集会の議決が直接に世俗問題に干与すると、自分の足元から同じ現象が起こってくる可能性がある。  そして興味深いのは、神仏混淆を当然とする彼らは、それを「神道の神社に祀られる神」の神意だとした点である。神道の神の神意が仏典に基づく多数決に現われる、という面白い現象を示しているわけだが、仏典を知らない者がそれを見れば、神道の信徒ならだれでもこれが行えることになる。  日本にはどこにでも神社があり、普通の農民でもその氏子である。氏子といってもそれは血縁集団ではないが、彼らが、一村一味同心して多数決で、年貢を一切納めませんと言い出したらどうなるか。それはその神社の神の「神慮」だから、超法規的に正しいといえることになる。そしてこういう問題が実は、一一〇〇年代にすでに起こっている。だがさらに大きな問題は、この寺院勢力に対抗する新興武家階級もこの方式で組織化を進めていけるということである。→「一揆」組織の形成   
「自然(じねん)」の思想にみる他力の人間学
『宗教について』山本七平p50
「自然」を尊ぶ思想
 日本ではごく普通に「自然にものごとが進む」のがよく、「不自然な作為」を伴う行き方はよくないとされている。それがまた殆ど意識されないほど各人の身についており、社会を律する一般的で常識的な規範になっている。一体なぜこうなったのであろうか。さまざまな理由があるであろうが、親鸞の「自然法爾」という言葉も忘れることはできない。(以下傍点筆者=山本)
「自然(じねん)といふは、自(じ)はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然(ねん)といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず。如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふなり。法爾は、この御ちかひなりけるゆへに、おほよす行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆへにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とすとしるべしとなり。自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり」
 言うまでもないが、ここで親鸞が述べているのは教義であって世俗の常識ではない。しかし、ある宗教が深く民衆にまで浸透して歴史が経過すると、その教義の一部に世俗的な解釈もしくは受けとり方を生じて、それが世俗の生き方の指針になった例は決して少なくない。そしてそれは、時には民族性といえるまでに一般化する。日本人の生き方が、外国人に比べれば、意志的な「はからひ」より、ごく「自然な行き方」を尊ぶことに、親鸞が無関係であるとはいえない。
 こういう意識されない伝統が表面に現われてきて、はっきりと意識されるのが、異文化と接触したときである。どの民族でも異質なものに反撥するが、同時に、相手の中に自己の伝統と似たものがあると、それに触発されて、不知不識のうちに自己の伝統を再評価し確認する。これが矢野暢教授のいわゆる「掘起し共鳴現象」であり、本人は自覚的には外国から摂取したつもりでも、実は、無自覚のうちに自己の伝統を掘り起し、これが外来のものと共鳴している場合が少なくない。
 真宗をはじめて研究した外国人はキリシタン宣教師だが、海老沢有道氏の次の指摘は興味深い。「カブラルやヴァリニャーノなどが、浄土門における絶対信仰と超倫理性を捉え、これをプロテスタンティズムと同様と見ていることは注意さるべきである。そこに浄土教的救済観とキリスト教的救績信仰との触発面が備えられていたわけである」と。ただ、キリシタン時代は、この触発に新しい展開があったわけではない。
 イエズス会は言うまでもなくプロテスタントを最大の敵と見た戦闘的教団であり一方仏教側も殆どキリシタン研究は行なっていなかった。しかし、プロテスタントに対抗してアジアへ進出した彼らが。その東端でプロテスタントによく似た宗派、しかも最大の宗教勢力に接触したのは皮肉である。
 明治はこれと違って、日本に来た主流はプロテスタンティズムであり、その日本側の受容者で指導者である人びと、たとえば内村鑑三などに強く見られるのが、真宗的ともいえる受けとり方である。鑑三が感動し強調したのはパウロの、救済は「行いによらず、ただ信仰のみによる」という信仰義認の主張であり、またパウロが自分を「罪人の頭」と規定したことであった。そして彼はこれこそ聖書の中心思想としたが、欧米の宣教師からは理解されず、彼らと断絶するに至った。おそらくそこには、自らを「虚仮不実の身」「こころは蛇蝎(じゃかち)のごとく」と自己規定した「愚禿親鸞」の投影と、彼の宗教思想の掘起し共鳴現象があったからであろう。これが欧米の宣教師に理解できなくて不思議ではなかった。
 紙数の関係で以上の二例にとどめるが、社会の種々相を探っていくと、そこに「自覚されざる親鸞の影響」が見られることは否定できない。では一体、親鸞という不思議な宗教家は何を説いたのであろうか。
 
在家主義への傾倒
『宗教について』p53~55
 彼は、西暦でいえば一一七三年の生れ、一二六二年の没であるから実に九十歳の長寿であり、その間に彼の思想は徐々に形成されていったものと思われる。出自は下級貴族日野有範の子とされるが明らかでない。九歳で出家し、二十年間を比叡山の僧として過しているが地位は低く、横川(よがわ)の常行堂(じょうぎょうどう)で不断念仏を行なっていた一堂僧に過ぎなかった。そして叡山の俗化に、もはや出家の居るべき場所ではないと考え、叡山を捨てて法然のもとで専修念仏の人となった。彼はここで、師の法然が他見を禁じた著書「選択集」の書写。師の像の図画を許されるまでになったが、しかし法然の弟子の中で、特に傑出した俊才というわけでなく、平凡な専修念仏の僧であったらしい。  念仏宗といわれた法然とその門下を、南都北嶺の旧仏教勢力が敵視したことは不思議ではない。しかし念仏宗の方に正法逸脱と指弾される素行や他宗への軽視がなかったわけではない。その結果弾圧の手が伸び、元久元年(一二〇四)、法然以下数人が罪科に処されることになった。いわば僧の身分を奪われ、法然は土佐(実際は讃岐)に、親鸞は越後に流されたが、この地で親鸞は三善氏に仕えていた女性、後の恵信尼と結婚した。結婚は出家主義を捨てて在家主義に徹することを示すわけで、さまざまの点で注目される。しかしこれは法然の下で、すでに定まっていた方針であった。  建暦元年(一二一二親鸞はその罪を赦されたが、翌年に師法然の死にあい、伝道の地を求めて東国に下った。そして建保二年(こ一一四)常陸に住み、新たに伝道をはじめたはずだが、その後の十八年間の消息は殆どわかっていない。おそらく各地を伝道しつつ念仏修行の日々を送っていたのであろう。彼が主著『教行信証』を書きはじめたのが、元仁元年(一二二四)といわれるが。これも異論が多く推量の域を出ていないといってよいであろう。この『教行信証』は親鸞の思想を知る上できわめて重要な著作だが、仏典の引用が大部分を占めているので、一般人にはきわめて読みづらくまた理解しにくい著作である。  仏典の引用が大部分というと、現代人は独創性がないと考えがちだが、これは誤りである。宗教家の著作に、典拠とする正典の引用が多いのは当然のことで、これは西欧でも日本でも変りはない。たとえばルターやカルヴァンはきわめて独創的な思想家で、現代の西欧の基本を形成したといえるが、その著作もまた聖書の引用が多く、カルヴァンでは主著は聖書の註解である。いわば引用や註解において、その独創性が発揮されるのであって、これは一見独創的な著作と別に変りはない。否、一見独創的な方が、時代風潮以外の何ものでもない場合が少なくない。  
「信仰」は阿弥陀如来からの授かり物
『宗教について』p55~58
 話は横道にそれたが、寛喜三年(一二三一)ごろ、彼は京都にもどっている。京都では特に伝道をした形跡は見られず、おそらく著作に専念していたのであろうが、このころ彼は長子の善鸞の問題で苦しみ、彼を義絶している。しかしこういう問題ははぶき、一般人にとって最も読みやすく。また現代では広く一般的に読まれている『歎異抄』に進みたいと思う。
 『歓異抄』は親鸞の思想のエッセンスのようにいわれるが彼の著作でなく、弟子唯円の著作である。唯円は十九歳のとき、六十八歳の親鸞の弟子となったといわれるが、おそらく老親鸞の身のまわりの世話をしつつ、その思想と人格に日々接していたのであろう。唯円は「面授の弟子」で「真宗の奥義に達せり」とされるのは、以上のような関係にあったためと思われる。そこで『歎異抄』は唯円の著作といっても、親鸞の「面授の記録」と見てよいと思う。唯円はその後関東に下るが、細かいことは省略して、本文を読んでみよう。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々」

 簡単にいえば、念仏したいという心が起るとき、その人はすでに救われているということになり、その前には老少・善悪など一切無関係ということになる。必要なのは「信心」だけであるとはっきり自覚せよ。ということである。では信心とは自分の方から、いわば自らの意志をもって一心に信ずるということなのか。それなら、それは自らの意志であって自力ということになるが、親鸞はそうではないという。
 次は『歎異抄』の「結び」ともいうべき部分で、いわば重要な部分なので、少々長いが全文を引用しよう。
「右条々は、みなもて信心のことなるより、ことおこりさふらうか。故聖人(親鸞)の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞御同朋の御なかにして御相論のことさふらひけり。そのゆへは、善信(親鸞)が信心も聖人(法然)の御信心もひとつなり、とおほせのさふらひければ、勢観房・念仏房なんどまふす御同朋達、もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人の御信心に善信房の信心ひとつにはあるべきぞ、とさふらひければ、聖人の御智慧才覚ひろくおはしますに一(ひとつ)ならんとまふさばこそひがごとならめ、往生の信心においては、またくことなることなし。
 ただひとつなりと御返答ありけれども、なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人(法然)の御まへにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をまふしあげければ、法然聖人のおほせには、源空(法然)が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればたヾひとつなり、別の信心にておはしまさんひとは、源空(法然)がまひらんずる浄土へは、よもまひらせたまひさふらはじと、おほせさふらひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともさふらうらんとおぼへさふらふ」

 説明の必要はないと思うが、親鸞が、「私の信心も法然聖人の信心と一つのもので、変らないものだ」と言ったところ、高弟たちが、「とんでもない、知恵才覚の広い法然聖人の信仰がお前なんぞの信仰と同じとはなにごとだ」と言った。親鸞が、知恵才覚はもちろん別だが、信心は同じだと言っても彼らは納得せず、法然聖人の前でどちらが正しいか、聖人自身にきめていただくより方法がないということになった。法然はこれに対して自分の信心も親鸞の信心も共に阿弥陀如来から賜ったものだから同じだと答えた、というのが主意であろう。
 
プロテスタンティズムとの共通点
『宗教について』p59~63
 こうなると「信心」もまた弥陀によって与えられたもので、自分の意志で獲得したものではない。いわば主体的に自らの意志で信じようとして信じた、というわけではないことになる。では信心が「如来よりたまはらせたまひたる信心」なら、前述の「ただ信心を要とすとしるべし」も、与えられなければどうにもならないことになる。
 ここで連想されるのがカルヴァンの予定説であり、彼はその人が救済に予定されているか否かは、神の意志であって、人がこれを如何ともできないと説いた。一方親鸞は、信心を賜るのは一方的に弥陀からであるとしている。これはともに絶対信仰であり、カブラルやヴァリニャーノがプロテスタントと同様と見たのはこの点であろう。
 パウロは信仰を与えられるのは神の一方的な恩寵であるとしたが、こうなると祈りは祈願でなく感謝になる。この点でも親鸞は同じで、念仏をとなえるから浄土に行けるのでなく、秋山光和氏のいわれるように「念仏は、信心をいただいた念仏者のよろこびの声」であろう。いわば幼児が父母の名を呼ぶように、仏の名を呼ばないではいられないのが、「南無阿弥陀仏」という念仏になる。言いかえれば念仏は「自然の声」なのであり、それをとなえれば救われるから、といったような「はからひ」の声ではないわけである。では人に何かできるのであろう。それは「信心を下さい。下さった信心を取り上げないで下さい」と願うこと、これ以外にない。これが「他力本願」であろう。
 そして信心を与えるのが弥陀の一方的な行為で、人間の「はからひ」と無関係なら、そこには善を行えば与えられる、悪を行えば与えられない、といった基準を人間の側で立てることもできないはずである。もしそれができるなら、人間はひたすら善にはげむ「自力」でよいはず、信心はもとより意味がなくなる。この「信仰のみ」は当然に有名な「悪人正機説」になる。

 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこゝろをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるゝことあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき」

 『歎異抄』は一般には公開されなかったから、この一文をキリシタンが読んだとは思われない。しかし前述のように彼らがそこにプロテスタンティズム同様の「絶対信仰と超倫理性」を見たなら、「悪人正機説」こそその要約と見たであろう。
 では親鸞の言葉は「悪徳のすすめ」なのであろうか。もちろんそうではない。自力を否定した彼に「善のすすめ」も「悪のすすめ」もあるはずがない。このことについて唯円は親鸞の面白い言葉を紹介している。この部分は長いので要約を記そう。
 あるとき親鸞が唯円に、自分の言葉を信ずるかと言うので唯円か信じますと答えると、ではこれから言うことに従うかと言う。唯円か従いますと言うと、「では千人殺せ、そうすればお前は必ず往生する」と言う。唯円か「おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらう」と答えると、親鸞は次のように言った。

 「さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば……」

 唯円は、善悪は自己の判断、行えるのは自分の意志と、不知不識の間に思っている自分に気づき、「願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざること」を思い知らされる。いわば「自力作善」は人間の意志で行えるわけではない。これはパウロの「わが欲する善をなさず」で自分の欲しない悪をなすこの身をだれが救済してくれるか、という言葉を連想させる。ここに自らを「心は虚仮」で、「邪悪なること蛇蝸」と規定した親鸞と「罪人の頭」としたパウロに一種の共通性があるのであろう。そしてもし人が善を行うなら、信心を与えられた結果、ごく「自然」にそうなるのであって、善を行うという自力の「はからひ」によって救済を獲得するのではない。これがいわば超倫理性で、この言葉はもちろん無倫理性の意味ではない。
 
親鸞にみる「寛容」の精神
『宗教について』p63~65
 以上のように記すと、キリシタンが見たように、親鸞の思想とプロテスタンティズムとはよく似ているように見えるが、これはあくまでも「似てる点」を並べればの話であって、もちろん両者が同じということではない。基本的な違いをあげていけば、これまた決定的といえるほど違っているが、民族性や社会性に現われていると思われる点を一つだけ指摘して本稿を終わることにしよう。
 共に一種の「予定説」といえると前に述べた。救済が神の一方的行為で、信仰もまた与えられるものであって本人の自発性(自力)が否定されるなら、救済されるものとされないものは、予め定められているのであって、人間はこれを「自力」では如何ともしがたいことになる。ここにカルヴァンのように、救済されるものとされないものを峻別する、峻厳きわまりない思想が生まれる。いわばプロテスタンティズムの「非寛容」である。しかし親鸞はそうではない。

 「つぎに、みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけさはり二様(ふたよう)におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこゝろに往生の業をはげみてまふすところの念仏をも自行になすなり」
 いわば、「善悪のふたつにつきて」念仏すれば悪をなさずに往生できるのなら、してみよう、といった「はからひ」で「念仏をも自行になすなり」のものもいる。これらは感謝報恩の念仏ではないから、はじめから意味を持たないはずである。カルヴァン的な予定説なら、もちろん無意味である。しかし親鸞は決してそう言っていない。

 「このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢(へんちけまん)、疑城胎宮(ぎじょうたいぐう)にも往生して、果遂(かすい)の願のゆへにつゐに報土に生ずるは、名号の不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし」

「辺地解慢」とか「疑城胎宮」とかは少々わかりにくい言葉だが、怠惰な者の行く浄土の辺境、懐疑者の行く胎中のような暗い浄土のことで、そこに往生するという。ではそれは一種の地獄、すなわち救済されないものの行くところかといえばそうではない。次の言葉を読むと、親鸞は「辺地往生」を一種の煉獄(浄罪界)としているように思われる。

 「辺地往生をとぐるひと、つゐには地獄におつべしというふこと。この条、なにの証文にみへさふらうぞや。学生(がくしょう)だつるひとのなかに、いひいださるゝことにてさふらうなるこそ、あさましくさふらへ。経論正教をばいかやうにみなされてさふらうらん。信心かけたる行者は、本願をうたがふによりて、辺地に生じてうたがひのつみをつぐのひてのち、報土のさとりひらくとこそ、うけたまはりさふらへ。信心の行者すくなきゆへに、化土におほくすゝめいれられさふらうを、つゐにむなしくなるべしとさふらうなるこそ、如来に虚妄をまふしつけまひらせられさふらうなれ」

 そんなことを言ったら、釈迦の言ったことが虚妄になってしまうと親鸞はいう。この点で彼の教えは、予定説とは基本的に違う「寛容」の教えといってよいであろう。
 
日本は、明治の初めに神道と仏教をあわせて「国教」を作ろうとしたが失敗した。
『派閥』
p123~125
 明治のはじめには西欧の多くの国には「国教」があり、国王はその宗教的首長であるものも多かった。もちろん今でもイギリス女王が「国教会」の首長であり、北欧のルーテル派の王国でも王が宗教的首長である。そして共和政体になった国でも多くの国に「国教」という概念が当然のようにある。

前にギリシャへ行ったとき、この国はすでに共和政体であったが、女性のガイドに「あなたはギリシャ正教徒か」ときくと、彼女は「もちろん、ギリシャ正教はわれわれの国教だから」と答えた。またフィリピンはカソリックの国だが、アメリカの植民地時代に少数だがプロテスタントを生じた。そういう人たちに質問すると「フィリピンの国教はカソリックだが私はプロテスタントだ」といういい方になる。そして明治のはじめのころは欧米も今ほど非宗教化していなかったから、「文明開化」には「国教と憲法」が必要だと日本人が考えても不思議ではない。

日本人でこのことを指摘した人はいないのかもしれぬが、フランク・ギブニー氏のような日本学者はそれを指摘し、伊藤博文は「憲法という概念は聖書・キリスト教伝統から発生した」ことを知っていたという。そしてキリスト教を除いて「憲法」だけを取り入れ得ると考えた伊藤は「天才」だと彼はいう。伊藤が天才か否かはしばらく措くが、S・ツァイリンのような学者が旧約聖書に記されたエズラーネヘミヤの「律法」の公布を人類最初の成文憲法の公布と見る見方からすれば、ギブニー氏の指摘は少しも不思議ではない。

そしてここに「宗教法的世界」が「事実の世界」と別に構成されるという、京極教授の指摘される「『西洋』にはじまる制度」の祖型(「法的世界」のこと=筆者註)があるわけだが、当時の日本人は、否、現代の日本人も、そんなことには全く関心を持たなかったし、今も持っていない。そこでギブニー氏が不思議がるわけだが、イスラム教を除いてイスラム法を導入するようなことを行えば不思議がられて当然であろう。だが明治の人間は、西洋を見て、何となくここに問題を感じ、日本にも「国教と憲法」とが必要だと思ったとしてもそれは不思議ではない。

だが「国教」(これは「国民的宗教」といってもよいかもしれぬ)という概念は日本人にはない。もちろん聖武天皇が東大寺に大仏殿をつくり、国々に国分寺をおいたころは仏教が国教化していたといえるかもしれぬが、鎌倉幕府、特に「貞永式目」以降には、国教という概念は日本になかったといってよい。

将軍は宗教的首長ではない。将家家帰依の寺もしくは僧といえども特別扱いはしないと「式目」は明記しており。その条文には宗教法的規定は皆無で、強いてあげれば律令から継承した六斎日に魚鳥を食べるなぐらいのことである。この点で。少々皮肉ないい方をすれば「式目」はまことに「文明開化」的法律である。従って日本の伝統の中に、西欧の「国教」に対して共鳴する文化的蓄積はないといってよい。

しかし明治はこれをやろうとした。そこで平田篤胤の門人大国隆正の門から出た玉松操が岩倉具視の顧問となり、神道の国教化を行おうとした。その点、明治元年と同三年の神祇官復興や神仏判然の令の公布は興味深い現象である。これが廃仏毀釈の一因となり、仏教徒の反抗となる。

明治二年、神祇・太政の二官を置いて、神祇官を上にし、宣教使を置き、これを諸国に派遣して宣教させ、各藩知事(藩主)と参事(家老)に宣教を命じた。辻善之助博士は「ここに於て神道は純然たる国教の姿を呈した」と記されている。だがそれが否応なく神仏混淆し、神官僧侶が並んで教導職となる。だがどういう教義を公布すべきかがきまらない。

そこで教部省が「十一兼題」と「十七兼題」を教導職に下し、これの講案を提出させて批評し、統一的解釈を作成することになった。これを合わせて「二十八兼題」といい、その内容は省略するが辻善之助博士はこれを「一種の社会科とも称すべきもの」とされている。慌てて「国教の教義をつくろう」はまことに明治らしい。廃藩置県から三年目に「国体新論」が出てきたことを思えば、これだけを笑うわけにはいくまい。これはまさに「国教もどき」だが、日本に「国教」という文化的蓄積がないから共鳴現象は起らない。

結局、影響力はなく、そのため官制においても徐々に縮少して教部省となり、大教院となり、明治八年には大教院は廃止され。十年に教部省が廃止され、内務省の社寺局が事務取扱いを行うことで、消えてしまった。だがこの消える過程で、面白い現象が起る。本願寺から欧米諸国の宗教事情を視察に行った島地黙雷が今度は仏教側から神仏分離を強く主張したのが大教院廃止の一因になっている。キリスト教は宗教混淆を否定するからその影響であろうが、神仏混淆は仏教渡来以来の伝統だから、それによって日本の家庭から仏壇と神棚の併存が一気に消えたわけではない。

だがその併存はあくまでも併存で、両者を統一せよということ、いわば「仏神棚」を造れという統一宗教化の歴史的蓄積はない。いずれにせよ、日本の文化的蓄積の中にない西欧の国教という概念の宗教混淆の否定は、掘り起し共鳴現象を起こさず、政府か絶大なエネルギーを投入しても、消えてしまった。昔も今も、国教という概念はなく、神仏さらにキリスト教的諸儀式が、初詣で、七五三、結婚、葬式などに併用されているという伝統的な宗教混淆は今も日本から消えてはいないことを思えばこれが当然の帰結であろう。

明治八年の朝野新聞に次のようにある。
「今度大教院が潰れて神仏各宗が別れ別れになり、勝手自由に布教する様に仰出されしは結構な事で有ります。兼ねて分離は悪いと言張り、一本立ちの本山になろうと企てたる興正寺花園教正殿も、此度は大きに前非を悟り、本願寺の方へ降参の掛合を始められたとの評判なり、此教正はさすがに老練の人故、一時は不都合の挙動も有たれど、正理の離し難きを知れば。忽ち悔悟なされるとは実に感服す可し、それに引きかへ本願寺の末寺、驚愕寺始め不分離党の坊様は、今度の発令に驚愕したれど、矢張り神官六宗一所に大教院に神留まりまして、八百万の神たちと共に、南無法連陀仏を、メチャクチヤの別法を播かん騒ひで居るとの事、誠に面白い禿顱で御座いますと、真宗の婆さんより報知せり」と。

これも見方によると面白い。統一的国教が西欧にあると聞けばその通りにしようとし、いや西洋は宗教混淆を否定していると聞けばそのようにしようとする。いずれにせよ、共鳴すべき文化的蓄積がないから、外からの影響は人びとの現実の宗教生活には及んでいない。
 神道国教化政策の具体的な現れとしては、1869年(明治2年)に太政官制を敷き太政官の上に神祇官を復興させ教化政策を展開しましたが行き詰まりました。また、廃仏毀釈に対する仏教界の反発もあって、それまで退けてきた儒教、仏教も取り込んだ形で民衆教化を行うことにしました。そこで明治5年に神祇官を廃止して教部省を発足させ、神官、僧侶を教導職に任じて教化の担い手とし、「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨遵守」の三条教則を発布し教化体制の整備を進めました。
仏教各宗もこれに呼応する形で、その教員養成機関として大教院の設立を建議し翌明治6年に大教院が設立されました。ところが、教部省の薩摩系官僚は西郷隆盛の影響もあり平田派神道に傾斜していましたので、結局神道宗教化路線が継続することになりました。また、大教院での講義も「神仏大混淆をなし。・・・袈裟にて神前に魚鳥を供せしが如き奇態」が生じ、その一方、儀式は明らかに神主仏従となって仏教側の反発を招き、その結果真宗の大教院分離運動が起こることになりました。
結局、神仏合同で国教をつくるという試みは失敗したと言うことですが、この間、どのような教化政策が採られたかというと、先の三条教則の教化指針を具体化するため十一兼題(明治6年2月)や十七兼題(明治6年10月)という教導職用のテキストが発行されました。十一兼題の項目とその内容の概略は次のようになっています。

1.神徳皇恩ノ説 神徳は五行(儒学に言う万物を構成する五つの元素、木・火・土・金・水)の如く、皇恩父母の如し(皇国史観に基づく家族的宗族的国家観が現れている)
2.人魂不死ノ説 皇国は神国なり、心霊を祭祀し玉うは御国の皇掟にして霊魂はひとえ不死とこそ確定すべし(民俗学的な心霊観を反映している) 
3.天神造化ノ説 乾坤は則ち造化の具にして、神は則ち天地の司令なり(諸説あることを紹介しつつ古学の説を採用するとしている)
4.顕幽分界ノ説 昼夜あるが如し(所説を紹介しつつ、一世中の顕幽二界と解釈し、仏教的な輪廻説や地獄・極楽などの二世説を否定している)
5.愛国ノ説   僻地幽谷の一村民もその住所を慕うが如し(自分の故郷を思慕する如く国を愛せよ、ということ)
6.神祭ノ説   一家の祖を祭るもその情を忘れず、その恩を失わず、礼を家族に伝う、天下の至礼を民に示すなり(家族の祭礼と同じように国家の祭礼が大切であることをいう)
7.鎮魂ノ説   魂を鎮めるは己が心を清くして永く情を忘れず(鎮魂の心を持つことの大切さを教えるもの)
8.君臣ノ説   我が国天の日嗣の大王たる所以は、その帝一なり(我が国は万国の中でも最も優れた国であるということ)
9.父子ノ説   父子の情人各々知るところ、知らざる人は孝教を見るべし(五倫五常の教えなど、必ずしも儒教の教えを排斥しないということ)
10.夫婦ノ説  この情男女の性による曾て定め難し、聖賢の教えは情実の正道を言うのみ(夫婦のあり方はまず男女の性によるもので、規範化は大切だが難しいということ)
11.大祓ノ説  時々お祓いあるは世代を清め穢れを佛うなり、毎朝己が身を清めるが如し(毎朝祓いを行い身を清めることの大切さをいう)

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