山本七平学のすすめ ホームへ戻る

山本七平語録

ホーム > 語録 > 日本人論

日本人論

     
論題 引用文 コメント
日本人は、安全と水はタダと思いこんでいる
(山本七平ライブラリー『日本教徒』p20~22)
 「生命の安全が何よりも第一である」といえば、「あたりまえだ、そんなことはユダヤ人から聞かなくたって、よくわかっている」と日本人は言うであろう。だが、駐日イスラエル大使館がまだ公使館であったころ、日本人に親しまれたある書記官がつくづくと言った。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる」と。この言葉は面白い。生きるために、水より大切なものはないということは、何も「ユダヤ人から聞かなくたって、よくわかっている」。では、銀座のバーで「おひや」一杯で一万円請求されたらどうであろう。「ジョニ黒ですら一万円なのだから、何よりも尊くかつ不可欠の水が一万円なのは当然だ」とその人は言うであろうか。「冗談じゃない、それとこれとは別問題だ、水一杯で一万円とは何だ、暴利だ、暴カバーだ」と警察沙汰になるかもしれない。
 安全に対する態度もまさにこれと同じである。軍隊とか警察とかいうものは、国民の税金で維持しているガードマン、いわばナショナル・ガードマンだといった考え方は、戦前にもなかったし戦後にもない。戦前の青年将校にそんなことを言えば「無礼者!」と叩き切られるかもしれない。また戦後は、自衛隊は税金泥棒であり、「警察は敵」である。税金が防衛費に使われ、戦闘機が一機何億円とか新聞に出ると、まるで「おひや」一杯で一万円請求されたような非難が新聞の投書に出る。政府は、一生懸命、防衛の必要をPRする。しかしそれはまるで、朝、会社へ出勤しようとする夫をつかまえて、奥さんが「水より大切なものはないし、将来のことは予測できないのですから、是非、水筒をもっていって下さい」といって、夫の肩にむりやり水筒をかけようとするのに似ている。日本は、安全も自由も水も、常に絶対に豊富だった(少なくとも過去においては)。だから、それがいかに大切だからといって、そのために金を払おうという人はいない。
 だが砂漠に行けば水筒一本の水が時にはジョニ黒一万本より価値があり、位置と環境によっては、飢えをしのんで最高級のホテルに泊るのと同じようなこともしなければならない。だがこれを理解してもらうことは、まず不可能に近い。いや、こんなことを書いただけで「このベンダサンという男は再軍備論者だな」ということになりかねない。だが日本が軍備を増強しようが撤廃しようが、それは日本人にのみ関わりのあることで、私にはどちらでも別に関係ないことだ、ということは忘れないでほしい。私はただ事実をのべているのである。(中略)
 「地震・雷・火事・オヤジ」これは私たちユダヤ人にとって、実に興味深い言葉である、この中には、戦争も、伝染病も、ジェノサイドも、差別も、迫害もない。・・・いやそれどころか、日本には城壁都市というものさえなかった。「城壁のない都市などというものは、殻のないカキと同様、冬至の人びとのは考えられなかった」のだが、日本では、むき出しのカキが平然と生きていた。
 ユウラシア大陸の都市には、もう一つの殻が必要であった。水をまもる殻である。・・・・さらに、伝染病、特にベストを防ぐための構築物、すなわち下水道も絶対必要であった。だがこの二つも日本では必要でなかった。・・・こういったことはすべて、一都市を内から全滅させる恐るべき伝染病、ペストやコレラから身を守る構築物だったわけで、日本ではその必要がなかった・・・周囲には海という巨大な天然の浄化槽があり、しかも、流れの早い短い川という天然の清掃装置があった。何故に巨大な下水道網などという無用の長物を造る必要があったであろう。すべては「水に流せ」ば、それでよかったのだから。
 
 wiki「日本人論」では、イザヤ・ベンダサン(山本七平訳)『日本人とユダヤ人』は「ユダヤ人の眼から見るとこう見える、という設定で、日本人は安全と水はタダだと思っている、不思議だ、と論じた。」と紹介されています。
 私自身、『諸君!』の紹介で初めてこの本を読んだ時、このフレーズに「目からうろこ」の衝撃を受けたことを憶えています。それから40年以上が経過し、既に「水」はタダではなくなっていますが、「安全」だけは未だに、タダという考え方が多くの日本人に残っているようです。
 ベンダサンは、こうした日本人の安全観を、ユダヤ人の安全観と比較しています。ラビ・トケイヤーは「ベンダサンが使った実例は不適当なものだが、彼の指摘した点は眞実をついている」といい、「何時どんなことが待っているか・・・全く予期することが出来ない・・・ユダヤ人の安全性の欠如」について語っています。(『ユダヤ智恵の宝石箱』)
 では、どうして日本人にこうした安全観が生まれたかというと、「地震・雷・火事・おやじ」という言葉に象徴されるように、日本人にとって恐いのは自然災害で、恐い人間も「おやじ」どまりで、ユダヤ人が経験したような半永久的な宗教的・民族的迫害を経験したことがないからでしょう。
 しかし、国際化が進むにつれ、日本人も否応なしに、ユダヤ人が経験したような厳しい宗教的・民族的対立環境におかれることになります。その時、自国の安全を守り、民族としての自律性を維持するにはどうしたらいいか。この点、ユダヤ人の智恵に学ぶ必要があるというのが本書執筆の一つの狙いでした。  
日本人は秘密を守れない
(山本七平ライブラリー『日本人とユダヤ人』p27~28)
  話は横道にそれるが、これはまた「日本人は秘密を守れない」という通説に通ずるものがある。確かに日本人には「秘密=罪悪」といった意識があり、すべて「腹蔵なく」話さねば気が休まらない。と同時に、秘密を守るということがどういうことか知らない。アメリカ人はずいぶんアケッピロゲに見えるが、守るべき秘密は正確に守る。良い例が原爆製造である。日本では、造船所のまわりによしずを張ったり、軍需工場の近くに来ると汽車の窓をしめさせたりしていた――何とナイーブな!
 アメリカはB29の写真や設計図まで平然と公表していた。だが原爆の製造は完全に秘密を守り通していた。私は昭和十六年に日本を去り、二十年の一月に再び日本へ来た。上陸地点は伊豆半島で、三月・五月の大空襲を東京都民と共に経験した。もっとも、神田のニコライ堂は、アメリカのギリシア正教徒の要請と、あの丸屋根が空中写真の測量の原点の一つとなっていたため、付近一帯は絶対に爆撃されないことになっていたので、大体この付近にいて主として一般民衆の戦争への態度を調べたわけだが、日本人の口の軽さ、言う必要もないことまでたのまれなくても言う態度は、あの大戦争の最中にも少しも変らなかった。
 私より前に上陸していたベイカー氏(彼はその後もこういった職務に精励しすぎて、今では精神病院に隠退しているから、もう本名を書いても差し支えあるまい)などは半ばあきれて、これは逆謀略ではないかと本気で考えていた。「腹をわって話す」「口でポンポン言う」「腹はいい」「竹を割ったような性格」こういった一面がない日本人は、ほとんどいないと言ってよい。従って相手に気をゆるしさえすれば、何もかも話してしまう。しかし、相手を信用し切るということと、何もかも話すこととは別なのである。話したため相手に非常な迷惑をかけることはもちろんある。従って、相手を信用し切っているが故に秘密にしておくことがあっても少しも不思議でないのだが、この論理は日本人には通用しない。
 個人の安全も一国一民族の安全保障も、原則は同じであろう。しかし、日本では、カキに果して殼が必要なりや否やで始まるから、知らせないこと、知らないことも、安全には必要だなどという議論は問題にされない。さらに防衛費などというものは一種の損害保険で、「掛け捨て」になったときが一番ありかたいのだ、ということも(戦前戦後を通じて)、日本では通用しない。戦前の軍人に「あなた方は、お役に立たないことが(すなわち無用の長物であることが)最大の御奉公なのだ」などと言ったら、それこそ「無礼者め」であったろう。
 そして号堂翁の言った「平時の軍人は晴天の唐傘」という言葉も、戦後の「税金泥棒」も、実は、同じ論理の帰結の別の表現にすぎない。とすれば敗戦の悲劇も、戦後の議論の混乱も、「安全と水とは無料が当然」という生得の考え方に発している。いや、これは考え方といったような生やさしいものではない。もう、問答無用の自明の公理なのである。従って、いかに効率的に、低コストで安全を計るかなどという考えは、その考え方自体が論外になってくる。自衛隊が災害救助に出動すると、急にその評価が高まり、新聞の扱い方まで温かくなる。いわば、天災に対処するものなら意義はあるが、他の面では、全く無意義かつ有害とされるのである。
 
 この「日本人は秘密を守れない」も、日本人の安全観「安全と水はタダ」の一つの表れです。このことは国の安全保障における情報管理の問題にも関わっていて、そのため情報をいかにコントロールするか、それによって自国の安全をどう守るかというという発想が生まれにくくなる。そのため「日本は世界で最も謀略に弱い国」と言われるのです。
 これは、日本人の人間観が一種の性善説であって、人間に対する警戒心が少ないために、気心が知れた相手には、何でも腹蔵なくしゃべる、そうすることによって、お互いの信頼関係がより深まる、と考えるからだと思います。ベンダサンはこうした関係を、日本人の「二人称」の人間関係と言いました。
 また、日本人は、いろんなトラブルが起こった時、相手の責任を追及するよりも、自分の責任を重く見る傾向があります。そうすることによって、相手も同じような態度をとり、より早く円満に和解が成立するということがあるからです。ベンダサンは、これを日本人の「相互懺悔・相互告解」方式と名付けました。
 こうしたことが相まって、日本人の「腹蔵なくしゃべる」ことに信頼を置く考え方が生まれたのではないかと思います。近年は、プライバシーや人権という考え方が重視されるようになり、人びとが本気で語り合うことが少なくなっていますが、徹底して議論すべきは、徹底して議論する、そういう習慣を身につけことも大切だと思います。
  
 
日本人には独裁者は必要ない?
(山本七平ライブラリー『日本人とユダヤ人』p47~49)
 日本人は全員一致して同一行動がとれるように、千数百年にわたって訓練されている。従って、独裁者は必要でない。よく言われることだが、明治というあの大変革・大躍進の時代にも、ひとりのナポレオンもレーニンも毛沢東も必要でなかった。戦後の復興も同じである。戦後の復興はだれが立案し指導したのか。ある罷免された大使が、ドゴール、毛沢東、ネールの名はだれでも知っているが、吉田茂などという名は特別な知日家を除けばだれも知らないと言っているが、これは事実である。(中略)
 遊牧民の世界はこれと全くちがう。全員一致で一定の方向に向う必要ががんらい皆無なのであるから、そうしようと思うなら「アラブの砂は固く手で握らねばばらばらになる」のである。一定の家畜がいれば、その持主は文字通りマイ・ウェイを行く。かつては(今でも)国境などが考えられぬ無限の草地を、家畜の意に従って歩きまわっていればよかった。こういった民に、一定の方向に向って統一行動を取らせようとすればコーランと剣、すなわち宗規と強権が絶対に必要であり、打ち勝たねばならぬ強大な敵か競争相手が必要であった。
 すなわち最も温和なスローガンでも「追いつけ、追いこせ」であり、それでもばらばらになりそうになれば、どうしても「宿敵イスラエル」が必要となる。だが日本人にはこんなスローガンは必要ではなかった――いつの時にも。毛沢東のことを考えると、彼は、孫文が流砂の民と評したこの民族を、一つのキャンペーン型民族にかえようとしているかに見える。端的にいえば、中国人を日本人に改造しようとしているのであろう。この試みが成功するか失敗するか私は知らないが、ただ一つ確言できることは、それをするには毛沢東が必要だという事実であり、このこと自体、中国人は日本人たりえないことを証明していると思う。まして、他の国々においてをや、である。
 今までのべたような面では、日本人には「実におみごと」と申し上げる以外に言葉はない。だがすべての楯には両面がある。・・・日本人はまさにクローノスの鼻先を駈けている。生きるために米を食べ、米を食べるために米をつくり、その米をつくるためにクローノスに追いまくられ、そのクローノスに殺されないために米を作り、その米を作るためクローノスに追いまくられる・・・という循環をくりかえしてきた。年々歳々クローノスは長い首をのばして遠慮なく背後に迫る、立ちどまることは許されない。
 加えて九十日ごとの変転が追い打ちをかける。まさにクローノスは、牙と爪をとがらして遠慮なくつかみかかってくる。この秒きざみともいえるスケジュールに追いまくられ、無我夢中のうちに月日は過ぎて行く。クローノスの牙がもうすぐ、身にとどこうという晩年に、ふと一瞬思い返せば、すべては文字通り「夢のまた夢」のようにうち過ぎ、すべてはまことに「いと、はかなし」と感ぜられても不思議ではない――クローノスの鼻先を、食われまいとして、生涯、力いっぱい力走しつづけてきたのだから。
 とすると一体、人生とは何なのだ。ただ夢中で「過ぎに過ぎゆく物」なのか。従って珍しくもクローノスの首に跳び乗って悠々としている人を見ると、悟りを開いた人だといって感心する。だがそんなことを言えば、遊牧民はみな悟りを開いている。アラブに技術指導に行った日本人が、何年かいるうちに、つくづく、自分の生き方は何なのだろう、人生とか生きるとかいうことはどういうことなのだろうと考えさせられた、という。
 
 日本人は、独裁者がいなくても話し合いにより一致した行動がとれる、ということです。それは、日本の置かれた地政学的環境・風土的条件のもとで、日本が、稲作を中心に国づくりをしてきたことで身についた行動様式だろうと思います。
 これが、単なる行動様式に止まらず、ものの考え方や人間関係の作り方、ひいては歴史観や宗教観まで規定している・・・このことを理解しない限り、日本文化の全体像をつかむことは出来ないというのがベンダサンの主張です。
 前項に紹介したような「二人称の世界」や「相互懺悔・相互告解の世界」では、人間相互の信頼関係のもとに「腹蔵なく語る」ことが前提ですから、そこで求められるリーダー像は独裁者ではなく、話し合いで問題解決できるリーダーということになります。
 こうした見地に立って、改めて日本と中国の関係を見ると、同じ儒教文化圏にありながら、中国は、孫文の言う「流砂の民」であって、その統治のためには「コーラン(=共産主義)と剣」そして「強大な敵日本」を必要としているのかもしれません。
 そして、この「強大な敵日本」と戦うために、「南京大虐殺」という虚報の情報戦を展開しているのだと思います。問題は、この情報戦で交渉による解決を遅らせているのが、日本人の「相互懺悔・相互告解」方式なのです。
 このように、日本人の行動様式を、比較文化論的に理解することによって、はじめて、その長所や短所を構造的に理解することができ、長所を生かし短所を是正することが出来るようになるのです。 
「朝廷・幕府併存」の政治体制
(山本七平ライブラリー『日本人とユダヤ人』p60~61)
 天才乃至は天才的人間というものは確かにこの世に存在する。私か神戸の小学校に通っていたころ、ずばぬけて数学のできる日本人同級生がいた。全く癩にさわるほど出来るのである。彼に言わせると私か予習や復習をするからいけないので、全く白紙の状態で教室に来ればするりと頭に入ってしまう、というのである。私は彼の忠告どおりにした。するとますます成績が悪くなって落第しそうになった。政治のことで、うっかり日本人のまねをしたら、これと同じ結果になるのが落ちであろう。天才乃至は天才的人間の特徴は、自分のやったことを少しも高く評価しない点にある。そして、他人の目から見れば実に下らぬ児戯に類することを、かえって長々と自慢するものである。・・・私の目から見れば、日本人のみが行いえた政治上の一大発明については、だれも黙して語らないし、だれも一顧だに与えていないのである。
 私か言うのは「朝廷・幕府併存」という不思議な政治体制である。これは約七百年つづいたわけだから日本の歴史の大部分は、この制度の下にあったといえる。これは一体、だれのアイデアなのだろう。考えてみれば不思議である。しかしこの独創的な政治制度も、戦前は「わが国の国体にもとる」ものとされ、あの軍人勅諭では、「世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにはあらすとはいひなから」、まことに「浅間しき次第なりき」とされていて、出来ることなら消してしまいたい事態だとされている。かわって戦後ともなると、何もかもいっしょにして「封建的」の一言で片づけられ、この不思議な制度は、常に無視され、黙殺されているのである。
 朝廷・幕府の併存とは、一種の二権分立といえる。朝廷がもつのは祭儀・律令権とも言うべきもので、幕府がもつのは行政・司法権とも言うべきものであろう。統治には、一種の宗教的な祭儀が不可欠であることは、古今東西を問わぬ事実である。無宗教の共産圏でも、たとえば、レーニンの屍体をミイラにして一種のピラミッドに安置し、その屋上に指導者が並んで人民の行進を閲するのは、まさにファラオの時代を思わせる祭儀である。誤解されてはこまるが、私は絶対に、こういった行為を野蛮だと言っているのではない。蛮行とはもっと別のことであって、このような祭儀行為とこの祭儀を主宰する権限とは、常に最高の統治権者が把持してきた、非常に重要な権限だ、という事実をのべているのである。
 だが、祭儀権と行政権は分立させねば独裁者が出てくる。この危険を避けるため両者を別々の機関に掌握させ、この二機関を平和裏に併存させるのが良い、と考えた最初の人間は、ユダヤ人の預言者ゼカリヤであった。近代的な三権分立の前に、まず、二権の分立があらねばならない。二権の分立がない所で、形式的に三権を分立させても無意味である。それがいかに無意味かは、ソビエトの多くの裁判を振りかえってみれば明らかであろう。西欧の中世において、このことを早くから主張したのはダンテである。彼は、この二権の分立を教権と帝権すなわち法王と皇帝の併存という形に求めた。法王は一切の俗権が停止されねばならぬ。皇帝は法王に絶対に政治的圧力を加えてはならぬ。そして両者が車の両輪のごとくになって、新しい帝国が運営さるべきであると考えた。だがダンテの夢は夢で終った。彼が、日本の朝廷・幕府制度のことを知ったら、羨望の余り、溜息をついたであろう。
   
 これと同様の指摘は、モルデカイ・モーゼ著『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』にも書かれています。
 氏の経歴は、ウクライナ生まれのユダヤ人で、上海で日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。1941年米国に亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画したといい、次のように言っています。
 「かってユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。『人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分はやむを得ず民主主義を選ぶのである。』
 これはユダヤ民族の理想の表現なのである。私が(対日戦後処理に参加する中で)日本の天皇制の本質を知ったときの驚きがいかなるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の理想が実在したのである」
 氏は、戦後、日本に天皇制が残ったのは、マッカーサーがこの「天皇制の事実」を昭和天皇との会見で知ったことと、我々の努力によるが、一方我々は、第二次大戦後終結直後の日本人の精神的空白につけ込んで「諸々の誤れる思想を持ち込み」、天皇制を支えてきた日本の伝統的な「和の思想」を破壊した。それが「いかに日本人にとって有害なものであるかと言うことを実証」し、我々の犯した誤ちを謝りたいと言っています。(著者不明)
 
全員一致の議決は無効
(山本七平ライブラリー『日本教徒』p84~87)
 日本では、「全員一致、一人の反対者もない」ということが、当然のこととして決議の正当性を保証するものとされている。時には、多少の異議があっても、「全員一致」の形を無理にもとる。もっと極端な場合は、明らかに全員ではないのに、全員の如くに強弁する。たとえば「全国民が一致して反対している安保を強行し・・・」といった言い方である。これはどう考えてもおかしい。少なくとも国会で賛成の投票をした人は賛成しているはずであるから。だが、これがサンヘドリンが機能していた時代のユダヤだったら大変である。これらの主張はすべて、自らの主張は無効であると主張していることになってしまうからである。
 ミカの弁証法の最も奥底にあるものは、人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえないということであろう。これはただ神にのみあるのであって、人間はたとえ一心不乱に神を賛え、神の戒命を守り、神に従っていても、そうする行為自体の中に誤りを含む、という考え方である。従って、全員一致して正しいとすることは、全員が一致して誤っていることになるはずで、たとえわずかでも異論を称える者があるなら、その異論との対比の上で、比較的、絶対的正義に近いこと(すなわち無謬に近いこと)が証明されるわけで、従って、少数の異論もある多数者の意見は比較的正しいと信じてよい、ということなのである。全員が一致してしまえば、その正当性を検証する方法がない。絶対的無謬はないのだから全員が誤っているのだろうが、それもわからない。従って誤りでないことを証明する方法がないから、無効なのである。
 ある種の国民は、口を開けば全員が同じことをいう。毛沢東の中国も、スターリン時代のソ連も、北朝鮮も。その場合、日本人は、「すじ金入り」「鉄の団結」といった国を、ある人は賛嘆し、ある人は畏怖を感ずるらしいが(新聞記事などで見ると)、ユダヤ人は本能的に「あれは全員が誤っている」と考える。事実、どんな正しい意見でも、一つの意見には必ずその意見と矛盾するものを含むから、その面に目をとめれば、基本的には同意見の人から、かえって強い反対が出るはずなのである。すなわち反対すること自体が、実は、同じ意見であることを証明する場合すらあるのであって、だれ一人反対しないということは、だれ一人支持していないことにもなるのである。・・・
 (といっても)日本では、満場一致の決議さえ、その議決者をも完全に拘束するわけでないし、国権の最高機関と定められた国会の法律さえ、百パーセント国民に施行されるわけではないから、厳守すれば必ず餓死する法律ができても、別にだれも異論はとなえない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にものぼらない。といって全日本が無法状態なのではない。ここに日本独特の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律があるからである。従って裁判もそうであって「法」と「法外の法」との両方が勘案されて判決が下され、情状酌量、人間味あふるる名判決などとなる。(中略)
 この、どこにでも出てくるジョーカーのような「人間」という言葉の意味する内容すなわち定義が、実は、日本における最高の法であり、これに違反する決定はすべて、まるで違憲の法律のように棄却されてしまうのである。
 
 浅見定雄は、「全員一致は無効」というサンヘドリンの規定は、あくまで死刑判決についてあって、ユダヤ人はそれ以外のあらゆる生活の場面において「全員一致」をやっている、つまり「全員一致は無効」を、死刑判決以外の生活の場に一般化するのは間違いだと山本七平を批判しています。
 といっても、ベンダサンの「全員一致は無効」も、イエスの死刑判決におけるサンヘドリンの議決(もしくは判決)について言っているのであり、こうした考え方が生まれたのは、ミカ書6・6-8に「神が求めるのは、形ばかりの犠牲ではなく・・・いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと」からだと言っています。
 ベンダサンは「ミカのこうした考え方の奥底にあるものは、人間には真の義すなわち絶対的無謬はあり得ない、これはただ神にのみあるのであって、人間はたとえ一心不乱に神を賛え、神の戒名を守り、神に従っていても、そうする行為自体の中に誤りを含む」という考え方だと説明しています。
 浅見氏はこれは七平さん個人の”下司のかんぐり”だという。
 私は専門的なことはわかりませんが、「全員一致」は、往々にして異論を排除した結果でもあるわけで、それを無条件に良しとしないのは良い考え方だと思います。さらに、自己絶対化は独善や排他を生むわけで、それを戒める意味で、「人間には真の義すなわち絶対的無謬はあり得ない」という考え方は素晴らしいと思います。 
世界で最も強固な宗教=日本教
(山本七平ライブラリー『日本教徒』p94~96)
 日本人とは日本教徒なのである。ユダヤ教が存在するごとく、日本教という宗教も厳として存在しているのである。くどいようだが、これはイスラム教やユダヤ教を宗教と考えれば、の話である。もし宗教という言葉を別の意味に解し、イスラム教やユダヤ教は宗教でないというなら、日本教なるものは存在しないといえる。だがいかに(本心では)アジアには無関心な日本人でも、キリスト教のみが宗教で他は宗教でないとは言うまい。
 すでにふれたが、あらゆる宗教にはさまざまな教派があるように、ユダヤ教にもさまざまな分派があった。――サドカイ、パリサイ、エッセネ、ガリラヤ、ナザレ、サマリヤ等の諸派があり、大体主流とされるパリサイ派の中にも、洗礼パリサイ派という別派がまたあった。この洗礼パリサイ派なるものの存在を発見したのは、「アフリカの聖者」シュヴァイツァー博士である。日本教も同じでさまざまな分派がある。私の知っている範囲内でも、キリスト派、創価学会派、マルクス派、進歩的文化派、PHP派等々から、ちょうど二千年前のユダヤ教のゼロテース(右翼国粋派)から、もっと極端なシカリーまでいる。(中略)ユダヤ人が庶民一人一人に至るまで、はっきりユダヤ教徒という自覚をもつに至ったのは祖国喪失の後である。事実、旧約聖書が最終的に編纂されたのは紀元九〇年のヤムニアの会議においてであり、タルムードの編纂はそれ以降である。
 日本人はそういう不幸に会っていないから、日本教徒などという自覚は全くもっていないし、日本教などという宗教が存在するとも思っていない。その必要がないからである。しかし日本教という宗教は厳として存在する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その信徒自身すら自覚しえぬまでに完全に浸透しきっているからである。日本教徒を他宗教に改宗させることが可能だなどと考える人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とは思われぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日本教の特質なるものを逆に浮彫りにしてくれるのが「日本人キリスト者」すなわち日本教徒キリスト派であるから、まず、この両者に焦点をあててみよう。
 宣教師はよく日本人は無宗教だというし、日本人もそういう。無宗教人などという人種は純粋培養でもしなければ出来ない相談だし、本当に無宗教なら、どの宗教にもすぐ染まるはずである。だから私は宣教師にいう、日本に宣教しようと思うなら、日本人の『ヨハネ福音書』と『ロマ書』はお読みなさい、そしてそれがすんだら日本人の旧約聖書の全部は不可能にしても、せめて『創世記』と『第ニイザヤ』ぐらいは読まねばいけません、と。彼らは驚いていう。そんな本がありますか、と。
 ありますかには恐れ入る。そしてさらに日本教を研究したければ、日本教の殉教者を研究しなさい、というと目を丸くする。殉教者がいますか? あたりまえです。殉教者のいない宗教はありません。西郷隆盛という人、あの人は日本教の聖者であり殉教者ですというと、もう全くわけがわからないという自信喪失の顔付になってくる。そこで私はいう。いや何の御心配もいりませんよ。何十年か日本で一心に伝道してごらんなさい。そのうち老人になると、日本人はあなたのことをきっとこういって尊敬してくれますよ。「あの人は宣教師だが、まことに宣教師くさくない、人間味あふるる立派な人だ云々・・・」何十年かたったら思い出して下さい。この「人間味あふるる」という言葉の意味と重さを。そしてそういわれたときに、あなたが日本教キリスト派に改宗したので、あなたの周囲の日本人がキリスト教徒になったのではないという事実も。
 
 『日本人とユダヤ人』で最も重要な命題は「日本教」ですが、では、この「日本教」とはどのようなものか?『日本教について』では、「日本教」の教義を次のように説明しています。
 「日本という世界は、一種の天秤の世界であって、その支点となっているのが「人間」という概念で、天秤の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた」世界、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もう一つの世界」です。この「空体語=分銅」は無意味、無内容の言葉という意味ではなく、天秤のバランスをとるには必要なものです。」
 この「実体語」と「空体語」の関係を、西欧の「理想」と「現実」の関係と混同してはいけません。「現実」はスタートラインの現状を規定する言葉、「理想」はそのゴールを規定する言葉、この「現実」から「理想」へとつなぐ言葉が「方法論」です。
 一方、日本教における「実体語」とは、「現実論」であり「空体語」とはそれとバランスをとるために置かれた「理想論」で、共に、厳密な言葉による定義を必要としません。
 問題は、その天秤の支点となりバランスをとる「人間」ですが、その定義は次のようになります。
第一条 人間は支点であって言葉では規定できない。言葉を受けるのはどちらかの天秤皿であって人間ではない。
第二条 人間の価値はこの支点の位置によって決まる。支点が「空体語」に近づくほどその人は「純粋な人」として評価される。)
第三条 人間は、神の「被造物」ではなく「神が(人間の)被造物」であり、かつ「空名」であるが、空名としての理があり、理があれば応えありで尊重しなければならない。(つづく) 
ユダヤ・キリスト教と日本教の神観念の違い
(山本七平ライブラリー『日本教について』p120~121)
 有名なモーセの十誠の第一誠には何と書かれているか、「汝、われのほか、何ものをも神とすべからず」と。この言葉は何を意味するのか。これは養子縁組の根本条件である。すなわち今日から「お前は、おれのほか、絶対にだれをも父親としてはならない」ということと同じであって、これが破られればすべての関係は無になる。その瞬間、父親は赤の他人になるのと等しく、ヤハウェは赤の他神(?)となってしまうのである。
 それ以外の契約でも、もしそれを破れば「きょう限り父(養父母)でもなければ子(養子)でもない」ことになる。従って、人間の方で契約に違反すれば、その瞬間に、子としての権利は失われる。権利がないのに権利を主張するならそれは主張する方が正しくない。従ってこの契約はあくまでも守らねばならない。そして契約を守るとは、神の定めた律法を一点一画まで正確に守り抜くことである、というのがイスラエル三千年の歴史を貫く根本的な考え方であった。
 この考え方とそれに基づく生き方を日本人すなわち日本教徒に理解してもらうことは、まず不可能に近い。それが最も素朴な形で出てきたのが前述の日本女性の物語(ユダヤ人が全収入の十分の一を、私のお金ではなくあのお名(神)のおかねです、といって、申命典の規定どおり納めるのに対して、日本女性が「ユダヤ人の神様って水くさいのね。血が通ってないみたいだわ、と述べたこと)で、以上のような背景を知れば、これも別に不思議ではないであろう。
 イエスもパウロも、もちろんこの考え方を基本にしているのであって、これを否定しているのではない。「律法よりも人間味」といった考え方は彼らにはない。そうでなく、律法を完全に守ること自体が、律法に反することになる、という考え方(これはミカの思想にも、「全員一致の審決は無効」にも通ずる)であって、当時の一部の進歩的なユダヤ教徒に共通する思想である。
 もちろん、いかなる人間もその時代の思想圏から飛び出すことはできない。従って両者の思想がこの思想圏の中にあるのは当然である。だが、その思想圏が(空間的にも時間的にも)消え失せても、偉大なるものは残る。従ってイエスもパウロも偉大な思想家であることは間違いない。しかし、これら新約思想は絶対にキリスト教思想と同一のものではない。キリスト教は、新約思想とミトラ教の混合ともいえる面もある(日曜日はミトラ教の伝統であって、聖書には関係ない、誤解なきよう)から
 キリスト教が、これと全く同じ考え方をしているとはいえない。しかしそれでもなお、伝来の宗教を捨てて外来の宗教を信ずることは、一つの「養子化」だといえる。従ってヨーロッパがキリスト教をうけ入れたとき、その神を「契約神」と考えたのは、以上の二つの方向から当然であった。
 しかし、日本のキリスト教徒は、たとえ「契約神」という言葉は口にしても、自らが「養子化」しているわけではない。逆に、それを「血縁化」して理解しようとしている。というより、そういう関係以外の人格的関係を考えることが不可能なのである――たとえば義兄弟、「親」分と「子」分。日本人の書いた多くのキリスト教図書を読み、その中でこの点を追究していけば、日本教の真髄、さらには日本的生き方の根本が、さらに明らかになるであろう。
 
 (承前)これが「日本教」の教義についてのベンダサンの定義です。ここで「天秤の論理」というのは、政治的な問題の処理法であり、それ故に、ベンダサンは日本人を「政治天才」と言ったのです。とはいえ、政治は妥協の産物であって、どの国の政治も似たようなものだと思います。
 問題は、そうした問題の処理において、その妥協のポイントとなる基準(支点)が、日本の場合、日本独自の「人間」という概念に置かれており、上述したように、それは言葉では規定できず、「純粋度」で評価され、状況に応じて「実体語」と「空体語」間をバランスをとるために移動するというところに、日本的な特徴があるように思います。
 このように、政治的問題を最終的な妥結に導く支点としての「人間」の概念が、ユダヤ教やキリスト教においては超越絶対的な一神教神概念のもとで、人間が神の「被造物」とされるのに対して、逆に、神が人間の「被造物」とされていることです。
 本項では、このことを、旧約聖書の神と人との関係を「養子縁組」の契約関係と説明しており、日本教の場合は、あくまで「血縁関係」として理解されていると説明しています。
 こうした神概念の違いが、日本人における政治的問題の処理や、さらに信仰の在り方にも、一神教世界とは異なる特徴を与えている。日本におけるキリスト教信者の人口比率が1%を超えない根本原因もここにある、とベンダサンは言うのです。
 
処女降誕なき民
(山本七平ライブラリー『日本教徒』p140~142)
 ユダヤ人すなわちユダヤ教徒が、キリスト教徒に対して徹底的に反発したことの一つは、彼の偉大性は、その出生が常人と違う点にあるというキリスト教徒の主張である。
 これはモーセ以来の伝統的考えと絶対に相いれない。生れなからにして偉大なる人間などというものは、ユダヤ人の歴史には存在しなかった。モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデ、エリヤから偉大なる預言者たちに至るまで、すべて、生れたときはただの人である。彼らがなぜ偉大なる仕事をなしえたか、それは神に召し出され、神に命ぜられ、そしてその使命を立派に果したからに外ならない。
 モーセは捨てられた子であった。サムエルは第二夫人の子であった。ダビデは一郷紳の末子であり、エリヤなどは文字通り、どこの馬の骨かわからないし、そしてその他の多くの者は、出生すら記されていない。
 またこの神の召命とか神より与えられた使命とかいうものは、当人にとっては有難いことでも、うれしいことでもなかった。モーセは、何とかして苦しい使命から逃れようと、て心不乱に辞退している。人間はすべて神の前に平等である。
 そして、神から使命を託された人のみが指導者たりうる。これは神の一存によるのであるから、その使命によってある地位についたからといって、それを自分の所有物のように子孫に譲渡することなどはできない。これがユダヤ人の根本的な考え方であった。従って指導者はカリスマ的指導者となる。(このカリスマという言葉は、驚くなかれ、近頃は日本のジャーナリズムにまで登場している。しかしどうも孫引きらしく、「贈物・下賜品」という原意を知らずに誤用されている場合もあるから注意して欲しい)。(中略)
 一方、それではなぜ日本人に処女降誕がないのか。理由はおそらくユダヤ人とはちがうであろう。この、神話時代から連綿とつづいた万世一系の国では、一つには氏素姓が何よりも大切であったことと、もう一つには性と生殖に関する考え方が、牧畜民とは全然ちがっていたためであろう。
 われわれが何よりも興味深く感ずるのは、ただに政治・経済だけでなく、芸術・技芸・宗教に至るまで現在もなお一種の相伝であることである。家元制度というのは非常に面白いが、ユダヤ人の目から見れば、日本のすべての機構は家元制度である。
 家元は子供がつぐ場合もあれば高弟がつぐ場合もある。しかし、いずれの場合もあくまでも相続である。たとえ分裂しても、互いに自分こそ正統派だと名乗って相続の正統性を相争い、新たに一派をたてた場合にも、何々の系統ということで、旧家元とつながっていると見られる。いかに枝葉が出ようとまさに万世一系であって、系統を逆にたどればどこかに行きつく。
 これを象徴的に言えば、歴代の天皇の中に処女降誕者はありえない、あったらそれこそ大変であるということであろう。従って、ルカのように処女降誕ということで、人間が否応なしにたどらねばならぬ出生の系図を一刀両断する素地は日本にはない。いわばイスラエルでは、神の召命ということで、その人間の系図や出生と関係なく一つのことが始まるがゆえに処女降誕はありえないし、一方日本では全くこの逆で、すべては系統をたどって相伝されるがゆえに処女降誕の余地がないといえる。

 
 これは、ユダヤ教の立場からするキリスト教のイエス処女降誕伝説批判です。ベンダサンは、旧約聖書における預言者の任命は、本人の意思に関係なく神の召命によるのであって、処女が精霊により身ごもったから偉大だというような考え方は、旧約聖書にはないと言っています。
 日本の場合は、三輪山伝説などがありますが、これは一種の神婚譚であって処女降誕ではありません。では、日本の天皇家の権威は何処から生まれているかというと、第一代神武天皇から第126代徳仁天皇に到る「万世一系の皇統」にその根拠を置いています。といっても、天皇は神として祭られるのではなく、神を祭る「祭祀長」としての存在です。
 では、ここで祭られる「神」とはどんなものかというと、いわば「自然神」というべきもので、仏教導入後はいろんな仏の名が与えられますが、その本質は万物を産み育てる自然の創造神というイメージです。そしてその創造神と人間との関係は、「受恩と施恩」の権利義務関係で結ばれているとベンダサンは指摘しています。
 ここに、ユダヤ・キリスト教における神観念との違いがあります。彼らの神は、契約に基づいて彼らと養子縁組をした神であって、人間が契約を守らなければ、何時でも養子縁組を解消する「水くさい」神なのです。
 こうした神観念の違いは、近代化に伴う脱宗教化によって、次第に世俗法に基づく社会秩序が形成がなされるようになりました。しかし、個人の生活においては、それぞれの神観念と人間との関係から導出される倫理規範が必要であることは言うまでもありません。
 
忍び寄る日本人への迫害
(山本七平ライブラリー『日本人とユダヤ人』p155~156)
 「朝鮮戦争は、日米の資本家が(もうけるため)たくらんだものである」と平気でいう進歩的文化人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊っちゃんよ。「日本人自身もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュヴィッツに送らないとだれが保証してくれよう。これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。
 朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。その言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。もちろん私は、必ずしもそれだけが原因とは思わないが、朝鮮人にはそう見えるのである。「われわれが三十八度線で死闘して、日本をも守ってやったのに、日本人はそのわれわれの犠牲の上で、自分だけがぬくぬくともうけやがった」という考え方である。たとえこれが事実であっても、これは日本の責任ではないし、日本が何か不当なことをしたのでもない。
 だが全く同じことを、第一次世界大戦の後に、ドイツのユダヤ人もいわれたのだ。「われわれが西部戦線で死闘していた間、あいつらは銃後にあって、われわれに守られてぬくぬくともうけやがった」ユダヤ人は確かにそういう位置にいた。そしてその多くは商人であって戦後のインフレにも強かった。しかし戦争を起したのはカイゼルとドイツの首脳であってユダヤ人はこれには責任はない。
 しかし、戦争に際して、ユダヤ人だけが何か不当なことをしたように言われ、それが次第に拡大され、ついには、もうけるためユダヤ人が戦争を起したように非難され、それがアウシュヴィッツにつづくのである――。前述の文化人さんよ。自分の子のためにも、このことを忘れないでほしい。
 ユダヤ人にはないが、もう一つの特異な面を日本はもっている。かつての日本人は、全有色人種のプロテクターをもって自他ともに任じていた。全有色人種を労組にたとえ、白人を経営者にたとえるなら、日本は実に輝かしい闘争委員長であった。私の知っているあるパキスタン人は、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが日本海軍航空隊に撃沈されたと聞き、喜びの余り、徹夜で踊り狂ったという。この感情はあらゆる有色人種にあった。 だが、あの大闘争に敗れてから二十五年、日本はいつのまにか、白人カルテルの重役になり、OECDに列し、南アでは公然と「名誉白人」になっている。ああ「名誉白人」。かつての労組員の彼にそそぐ目は複雑だ。一方、キリスト教徒・共産主義者白人カルテルも彼に気をゆるしているわけではない (その「におい」のゆえに)。
 もちろん政治天才の日本人が政治低能のユダヤ人のようなへまはやるまい。またユダヤ人のもっていなかったもの、すなわち自らの政府と強大な武力をもっている。しかし一方、かつては民衆の暴動であったものが、今や、一国の政府の行動として起される時代にもなっている。すなわち政府が先頭に立って、ある人種の全財産を没収し、その人種の全員を国外に放逐しても、たいしてニュースにもならない時代にもなってきた。
 従って、全地球的な規模において、日本人が、今、どういう位置にあるのか、いろいろと考えさせられるのは、私だけではあるまい。こういった点でも、ユダヤ人の歴史が何らかの参考になれば幸いと思う。
 
 この項に対して浅見定雄氏は、「日本人はたしかに、アメリカのうしろだてで、アジアにアフリカに、だいぶ恨みの種をまきつづけて来た。だが今やアメリカの世界支配にもかげりが見えて来た。となれば、日本の進む道はただひとつ、悪かった点を改めるよりは軍事的に武装することだ。」とベンダサンの「本心」を推測して見せました。
 この意見に賛同する人も当時多かったように思います。だが、浅見氏の『にせユダヤ人と日本人』(1983年)から約38年経過した今日、世界情勢は、氏の予測とは逆に、習近平共産中国の脅威に晒されるようになっています。そのため、日米豪印戦略対話(Quad)や米英豪による新たなインド太平洋の安全保障機構(AUKUS)など、中国の暴走の押さえ込みに必死です。
 日本の、アジア・アフリカに対する経済的「侵略」というのも昔話で、今では中国のこれらの地域での経済的「侵略」を抑止し、これを公平公正な自由貿易体制に導くため、日本が主導して、「太平洋周辺の国々の間で人、物、金、情報、サービスの移動をほぼ完全に自由化する環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)が締結されるに到っています。
 「忍び寄る日本人への迫害」についてですが、中国が今に到るまで「百人斬り競争」や30万人「南京大虐殺」、「従軍慰安婦」などの虚報宣伝に努めている現状を見れば、日本人の「相互懺悔・相互告解」方式による和解など到底無理で、生存のためには、虚偽を排し、自国の正当性を徹底的に主張するしたたさが必要だということでしょう。
そろばんの民と数式の民
(山本七平ライブラリー『日本人とユダヤ人』p179~187)
 ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういったものであり、文章とはある意味では言葉の数式だから、これは当然のことだといえるが、このお嬢さんにとっては、驚異だったのであろう。ヨーロッパ人であれ、ユダヤ人であれ、言葉を学ぶには、ちょうど日本人が1+1=2を習うような習い方で習うし、これ以外に方法がない。しかし日本人は、こういった意味の言葉の訓練を全然うけておらず、また後述のように受けずにすむから、ひとたび演説となると、ゲバ学生の演説であれ、保守党代議士の演説であれ、みな、一種の乱数表になってしまう。ロゴスに計算という意味があることを知っている日本人はいるのだろうか。
 どうしてこんなことになったのか。逆説的な言い方をすれば、まず、日本語が(日本語として)余りに完璧だからである。実に完璧なので、数式的・意識的訓練もうけずに、別の訓練で自由自在に駆使できるからである。一体どうして日本語は、こんなに軽々と(ある意味では無責任に)駆使できるのか。ヘブル語でもギリシア語でもフランス語でもロシア語でも、到底こんなに気易く使うことはできない。言葉を使うということは、「重い戦梶を持ちあげて振りまわすほど」大変なことのはずなのに、日本人は、まるで箸を使うように、何の苦もなく自由自在に使い、かつ使いすててしまう。使いすての時代などといわれるが、日本人ほど安直に言葉を使いすててしまう民族は、おそらくは他にないであろう・・・動じに日本には、使いすての結果生ずる別の言葉が厳として存在するからであろう。問題はおそらくここだ。
 言語学者にはさまざまな意見もあろう。だが私のような凡俗が「日本語は完璧」だとつくづく言いたくなる理由は、単語が実に豊富多彩であり、かつその単語の示す意味の範囲が非常に狭いということである。簡単な一例をあげよう。I speak the truth to you. .著名な英和大辞典の例文だが、これは「われ汝にその真理を告ぐ」とも「ホントのことをお話しします」とも訳せる。とすると「真理」と「ホット」が同一の単語なのだが、これは日本語ではありえない。
 こういったように、一つの単語の意味に両端があるのがあたりまえの国から日本語を見ると、日本語の単語は「重い戦梶」でなく「軽い羽根」といえるし、また一方が、重い底と鋭い先端のある円錐とするなら、一方はボールであるともいえる。仮に、単語という円錐の上と下を、「抽象端」と「具体底」とでも名づけておこうか。この抽象端を口にすれば、どうしても具体底がくっついて来るから、内容ない抽象的な議論はできない・・・
 しかし日本語の抽象的な言葉にはこの「具体底」がない。いや、ないだけでなく、日本人は、(特に対話の際には)この具体底を切り離してしまうか、無理にでも軽くする。
 前述の三島氏は、日本では会話体の小説は風刺になってしまう(典型的なものが『吾輩は猫である』であろう。主人公は猫であっても人であってはならない)とのべて居られる。
(中略)
 私はよく冗談に、日本人の頭の中には「語呂盤」というものがあると人に説明する(いやこれは冗談とはいえない)。あらゆる単語の「具体底」は切り落され、円錐は珠に削りなおされて、頭に浮べたゴロバンにはめこまれ(ここまでは意識的にやって)、あとは、これらの抽象概念に乗って「舞い」つつ全く無意識のようにこの玉を動かして思考をまとめていき、最後に明確な具体的結論を出す(いや、結論が「出る」)のである。これに完全に習熟した人の、目にもとまらぬ早さで出したものが、いわゆる「カン」であろう。従ってこういう場合、この「カン」の出てきた過程を説明してくれと言っても、それは無理である。
 前述のソロバンの名手は、手にソロバンを持たないでも頭にソロバンを浮べただけで複雑な計算ができる。この人に向って、その際にはソロバンが「物理的」に存在していないと証明したところで、それは無意味である。ソロバンが物理的に存在しようとしまいと、彼にはソロバンが実存しており、それを駆使して得た答は、一つの正確な成果として、実際の生活に影響を及ぼし、時には、最終的な決定を下している。
 前述のユダヤ人にとって神とその律法は、このソロバンのごとくに厳然と実存しているのである。従って彼に向って、無神論者が、いかに、神が物理的には存在しないことを証明したところで、それはソロバンの場合以上に無意味である。ユダヤ人にとって、神とはそのように実存し、その律法は、ソロバンの答のごとくに、動かすことの出来ぬ現実的成果として、その生活と思考とを規定しているのである。ソロバンの名手が、私は「目に見えぬソロバンの実在を信じます」などという必要がないように、ユダヤ人も、キリスト教徒のようないわゆる「信仰告白」などは、する必要もなければ必然性もない。
 キリスト教徒のユダヤ教徒への反発は、偽物の本物に対する一種の反発であり、偽物ほど自分こそ本物だと声高に主張し、本物らしく一心不乱に振舞わねばならないのと似ている。ソロバンが全然できないのに、「私はソロバンの実在を信じます」などという人間がいたら、現物のソロバンをつきっけてみればよろしい。おそらく彼はそのソロバンを奪いとり、振りあげて、「おれの言うことを疑うのか」と居丈高に撲りかかるであろう。「同じ神」の名により、「信仰深く」ユダヤ人を迫害しつづけたということは、宗教的に見れば、まさにそういった行為なのである。
 では、日本人に実在しているのは何か。ソロバンだけか? もちろんちがう。「人間」である。人間の存在を信じていない日本人は一人もいない。従って「人間」という概念なしに生きている人間がいるなどということは信じられない。日本人に向って、日本人のもっている人間という概念は、「物理的」に存在する人間ではない(その証拠に「非人間的人間」という言葉がある)、などといっても通用しない。
 だがヨーロッパ人には、ちょうど日本人に西欧的・ユダヤ的な意味の「神」や「言葉」が存在しないように、そういった「人間」は存在しないし、またソロバン的思考などは到底想像もできないのと同じように(否それ以上に)、この「人間」の実存をもとにした一つの世界は理解できない。これは、断絶などという生やさしいものではない。 
 この件については、小林秀雄が、昭和46年11月の川上徹太郎、今日出海との鼎談で次のように評しています。
 「ベンダサンという人が『日本人とユダヤ人』という本を書いた。・・・あれの中に言葉の問題をちょっと書いてあるが、あれは面白いと、僕は思いましたね。・・・あの人は『語呂盤』という言葉を使っているんだよ。そろばんに日本人は非常に堪能だ。計算を意識しなくても、いや、むしろしない方が答えがうまく出て来る。・・・それと同じように、日本語の扱いには語呂盤と言っていいものがあるんだ。その語呂盤で,言葉の珠を何も考えずにパチパチやっていれば,ペラペラしゃべることができる。これは日本語というものの構造から来ていることで、西洋人にはとても考えられないところがあると言うのだ。・・・
 以前パリにいた時、森有正君がしきりに言っていた。テーム(作文)の問題は数学の定理まであるということを彼は言っていた。面白く思ったから覚えているのだが、それが、今度ベンダサンの本を読んで、はっきりわかった気がした。言葉は、ロゴスだが、ロゴスには計算という意味があるのだそうだ。だから、西洋人には文章とは或る意味で言葉の数式だとベンダサンは言っている。なるほどと思った。・・・もっと微妙なことを言っているが、まあ読んでみたまえ。面白い。」(『旧友交歓』P106~107)
 専門的なことはわかりませんが、西欧と日本の神観念の違いが、言葉の論理構造や思考方法の違いを生んでいるということでしょう。
 そこで「日本教」の教義、第三条「人間は、神の「被造物」ではなく「神が(人間の)被造物」)であり、かつ「空名」であるが、空名としての理があり、理があれば応えりで尊重すべきである。」について考えて見ます。
 これはどういうことかというと、「ユダヤ人にとって神とその律法は(そろばんの名手の頭に)ソロバンが厳然と存在する」ように実存する。一方、日本人の頭には「人間という概念」が厳然と実存しており、それを神の名に仮託する、と言っているのです。
 では、この両者の違いはどこにあるか。それは、ユダヤ人にとって、神が人間との間で交わした契約が「聖書」であり、それをユダヤ人は一点一画おろそかにせず遵守しようとするのに対し、日本人が「神の名」に仮託した「人間という概念」は、言葉を越えたものだということ。
 とはいえ、かっての日本仏教草創期の法然や親鸞、道元や日蓮などにとっては、「神の名や姿」は仮のものであっても、その実存は絶対的なものであったようです。もちろん戒律もありますが、より信仰が重視されたということではないでしょうか。
 その後、仏教は、徳川幕藩体制下、一種の戸籍係である檀家制度に組み込まれ、さらに葬式仏教となるに及んで、「神の名」が「空名」となり、人びとの信仰対象が「人間という概念」に内面化していった・・・しかし、人間が「人間という概念」を信ずるとは自己矛盾ではないか、との疑問も出てきます。
日本教は「天秤の論理」の世界
(『日本教について』p26~29昭和47年11月文藝春秋)
 日本という世界は、一種の天秤の世界(もしくは竿秤の世界)であると考えています。そしてその支点となっているのが「人間」という概念で、天秤(もしくは竿秤)の皿の方にあるのが「実体語で組み立てられた世界」で、分銅になっている方が「空体語で組み立てられた」もう一つの世界です。
 「実体語」とか「空体語」とかいう、奇妙な言葉をおゆるしください。これ以外に言いようがないからです。「実体語」は「空体語」に対比するための言葉ですから、これは一応、われわれがいう「言葉」と同じだとしておきましょう(もちろん一応の仮定です)。これに対立する「空体語」とは、まさに、天秤が平衡を保つために必要な分銅の役割をしている言葉とお考え下さい。
 従って、この「空体語」を無意味、無内容の言葉(これはどの国の言葉にもあります)と誤解されませんように――いうまでもなく分銅も確かに一種の実体ですが、たとえ質量があり、かつ手で触ることができても実は一種の尺度であって、尺度のすぎないという意味では実体ではありません。しかしそれでいて、天秤の平衡を保つにはどうしても必要であり、天秤皿の上の実体と同じ重さがなければ分銅になりません、問題はここです。「自衛隊は必要である」という「実体語」は口にせず「自衛隊は憲法違反であるといえる状態も必要である」という分銅の方を尺度として口にし、それによって天秤の平衡を保つことは、たとえ口にしなくても自衛隊の存在を認めてはじめて言える言葉ですから、「実体語」でいえば「自衛隊は必要だ」ということです。だがそれを「空体語」で言わないと、天秤は平衡を保てなくなってしまいます。
 今まで申し上げましたこの「実体語」と「空体語」の関係を、日本人はよく、西欧の「理想」と「現実」の関係と混同します、いや混同ではなく、同じことだと思い込んでいるようです。そして困ったことに、その日本人の思い込みが今度は西欧人にも影響して、日本研究家の中にも、これを混同している人がたくさんいます。
 言うまでもなく西欧では、原則として現実という言葉で規定されているものを自分が現在立っているスタートラインだとすれば、「理想」は、そのゴールを規定した言葉であります。従って論議は常に、「言葉によって現実をどう規定するか、また言葉によって理想をどう規定するか、まずこの二つを規定してから、この「言葉によって規定された現実」から同じく「言葉によて規定された理想」までをつなぐ道を、また言葉によって規定し、それをどう歩むかを「方法論という言葉」で規定するという形になります。
 この場合、「現実」という言葉も、「理想」という言葉も、共に同じく言葉であることは、議論する場合の当然の前提ですが、日本人の場合は、この前提がすでに違うのです。・・・もう一度申しあげます。分銅はたとえ、天秤皿の上のものと同じ材質でできていても、「もの」でなく、「尺度」であり、分銅の材質が何であるかを論じても無意味で、要はそれが天秤皿の上のものと、どうバランスをとっているかが問題だと言うことです。
 「現実問題」という「実体語」の荷が天秤皿にのると、平衡を保つためには天秤ならば分銅の数を増し、竿秤ならば分銅の位置をずらして目盛りの高い方へあげて行かねばなりません。こういう状況は、常に日本全体の問題にも、一個人の問題にもおこります。(中略)将来も同じことが起こるでしょう。軍備撤廃を主張している政党もありますが、もしこの政党が政権をとったらどうなるか。議論の余地はありません。攘夷論者が政権をとったときと同じことが起こります。もちろん一時的混乱はあります。(明治維新であれ、第二次世界大戦の終戦時であれ、それはありましたから)。が、それはすぐにおさまります。「戦力なき軍隊」がすでにあるのですから、「人民の軍隊は軍隊ではない」ぐらいの主張はなんでもありません。
 
 これは、ある問題が政治問題化した時、日本では、一方は、現実を踏まえた解決策を模索しようするが、これに反対する側は、あえて、現実を捨象した理想論を説くことでこれに対抗する傾向があるということです。
 ベンダサンは、この「現実を踏まえた議論」を「実体語」といい、「現実を捨象した理想論」を「空体語」と名付けました。そして天秤皿の一方に「実体語」を置き、他方にこれとバランスするように「空体語」を置くことを「天秤の論理」といいました。
 本来なら、「現実」論者も「理想」論者も、最初に「現実」をどのように規定するかを論じ、次に「理想」をどう規定するかを論じ、最後に、「現実」から「理想」に到達する「方法」論を論じるのが普通の「論理」です。
 しかし、「天秤の論理」は、このような手順を踏んで議論するのではなく、「現実」論に対して、あえて「現実」を捨象した「純度の高い」理想論を対置することで、議論のバランスを図ろうとするのです。
 ではなぜ、「現実」を捨象した理想論を唱えることが、議論のバランスを図るのに有効かというと、それは、日本人が思想に「純粋性」に求めるためで、ひいては、天秤の支点である人間にも「純粋」を求めることになります。
 そのため、「実体語」からは、「空体語」に対して「現実」を踏まえた対案を出すよう求められますが無視される。一方、「空体語」からは、「実体語」に対して「純粋でない」との批判が投げかけられます。
 これは、議論をバランスさせることによって、平和裏に妥協のポイントを探る一種の役割分担と見ることができます。しかし、この役割分担の前提が壊れ、どちらかが暴走すると、現実への対応が困難になり破局を迎えます。  
日本教の世界とはどのような世界か
(『日本教について』より筆者まとめ)
日本教の教義
第一条 人間は「天秤の論理」の支点であって、言葉で規定できるものではなく、その働きは「実体語」と「空体語」の「言葉の天秤」のバランスをとり、現実問題をいかに犠牲少なく処理するかにある。
第二条 人間の価値は、この支点の位置によって決まる。現実が重ければ重いほど、「空体語」を膨らませる必要があり、それが重くなればなるほど支点を「空体語」に寄せる人間が「純粋な人間」と評価される。
第三条 神は空名(つまり究極の空体語)であるが、名があるということは、その名に応じた『理』があるということであり、従って、それを否定したり無視したりせず、その『理』を尊重しなければならない。
 こうした日本教の教義から次のような現象が生まれる。
1.政治問題における「純粋な人間」の行動は、法律による規制の対象とはならず、こうした「純粋人間」により告発された者は、それだけで「純粋でない人間」として烙印を押され「被告」になる。
2.ただし、こうした告発は政治問題に限られる。政治化しない宗教上の問題、経済上の問題、個人的倫理的問題では、いかに「純粋な人間」の告発でも、世論の注目を集めることはない。
3.こうした「純粋人間」による告発行為も、その人間がもし「非純粋人」であることが明らかになれば、その告発は無効となり、その行為に法的な逸脱があれば、通常の法律によって罰せられる。
 具体的には、次のような行動となって現れる。
1.「空体語」を「踏絵」のように差し出して、人を敵か味方かに分ける。
2.「空体語」の中身の思想的一貫性が問われない。
3.実情を客観的に知らせる行為は「ひとりごと」以上には口にできない。
 こうした問題を解決するには、
1.自分に私心がなく、国民のためのみを一心に思っていることを示すと同時に、「空体語」を振り回す相手と「二人称の関係」に入り、対話によって粘り強く相手を説得するか、言わせるだけ言わせて、現実問題の深刻化を待って、一気に問題を片付けるしかない。
2.この「天秤の世界」では、「相互懺悔・相互告解」による責任の解除と和解がなされ、問題の政治的解決が図られる。そこでは、相手への迎合あるいは融和から徹底した事実解明が避けられ、真実の責任の所在が不明確になりがちである。
 一方、神との契約(律法・戒律)を守ることが信仰の証である欧米の世界では、懺悔告解も、人間関係も神との契約を基礎に置いている。といっても、人間はしょせん人間であって神ではなく、社会秩序の形成は言葉によるしかない。それ故に、人間によって「語られた事実」と「事実」を峻別することが求められ、「事実」への接近は、矛盾する「語られた事実」を総合することではじめて可能になる、と考えるのである。
 
 日本教が生み出す「天秤の論理」について、そこにおける「純粋人間」という概念についての、こうした価値判断は、政治問題化した事柄について現れる個人的倫理問題であって、それ以外の問題は、通常の法律によって裁かれるとしています。
 これについては、ベンダサンの場合は、「論理は人間という支点で中断される」といい、「天秤の論理」が日本人の生活の全ての領域に及ぶとしています。しかし、ここでは政治問題に限定していますので、このあたりは、山本七平の意見が反映しているのではないかと、私は思います。
 また、「天秤の論理」から生まれる具体的な行動として、「踏絵」の問題が出てきます。これは、「天秤の論理」における「実体語」と「空体語」の対立は、いわば当局者とその批判者という対立になる・・・そのため、「不純」な当局者の立場に立つか「純粋」な批判者の立場に立つかという価値の二項対立になり、「踏絵」が差し出されることになるのです。
 こうした「天秤の論理」の世界において、相手を説得する方法は、自分に「私心がない」ことを示し説得を続けるか、事態の深刻化をまって、一気に問題を片付ける・・・。近年の「安保法制」の成立や、野党の「モリカケサクラ」問題への固執の背後にある「論理」を、この「天秤の論理」は見事に説明していると思います。  
広津氏の「日本人の証言の信憑性」を見抜く四原則
(『日本教について』p240~242昭和47年11月文藝春秋)
 しかし、広津氏には明確な(「日本語は写生の言葉」という特長を生かした)「診断基準」すなわち選別の基準がありました。ただ困ったことに、氏は、この基準を個条書きで示してくれませんでした。無理もありません、氏は文学者ですからそういう条文化には全く興味がなかったでしょうし、また、この名医の診断基準ともいうべきものを完全な条文にしようとすれば、原則・細則・補則・例外規定等々々と広がって行き、際限がなくなってしまうでしょう。とはいえこれは「無原則」とは別のことで、膨大な氏の松川関係の文章を読んで行きますと、氏が「文士の目」といったその選別基準には、はっきりと原則が見られます。そこでこの原則だけ(補則その他を除いて)を要約しますと、次の五つであることが明らかになります。
 (1) 情景の描写または記述が明確に脳裏に再現できること。再現できないものは、供述している人の脳裏にもその情景がない証拠であり、従って、身に覚えのないことを、誘導によって「鸚鵡的に」供述させられていることになる。従ってまず信憑性が疑われる。さらに
 (2) 脳裏に情景を浮かばすことができないのに、日時・距離・時間・金額その他の数字が異常に正確なものは、さらに信憑性が少ない。これは誘導している捜査官の脳裏にも何ら具体的情景は浮かんでおらず、従ってその供述を、供述させた本人も信用しておらず、意識的か無意識的かは別として、いずれにせよ数字によって信憑性を補強しようとしている証拠である。従ってこの場合は、逆に、その数字を仔細に検討すれば「必ず数字に矛盾が出てくる。
 (3) (1)と(2)により極めて信憑性が乏しいにもかかわらず「供述が詳細にしてかつ整然たる」ものは、さらに信憑性がうすいと考え、その整然たる供述の中に自分自身を置いてみる。そして、場所・時間・距離・動作等を「整然たる供述」通りに脳裏で演じてみる。そしてどう演じてよいかわがらぬもの、動作不可能のものは、虚偽の証言とする。
 以上が主要な原則で、広津氏はこの三つだけにあてはまれば、それだけではっきりと、虚偽の証言と信じているのですが、さらに
 (4) 現地で実際に、供述通りに行動する、もしくは第三者に行動してもらう。――これは、原則というよりむしろ裏づけと見るべきでしょう。
 (5) 以上のような供述は、論理的にも結局は辻棲が合わなくなるので、供述の結末で無理をして(特に距離・時刻等で)辻棲を合わせているか、あるいは巧みにぼかしてある。
 以上のうち(4)は実地検証で、供述そのものの真偽判定の基準ではありませんからこれを除き、他の四つ(1)(2)(3)(5)を「広津氏の四原則」と考えて良いと思います。
 この場合、最も重要でありまた一番大きな問題が含まれているのが①でしょう。論理的には全然破綻がなくとも、記述された描写が脳裏に明確に再現できなければ信憑性が少ない――というより、極端にいえば「ない」のであって、他の三原則は、いわばこれの裏づけにすぎないからです。
 
 日本教の特徴を示す諸概念「二人称」の人間関係、「相互懺悔相互告解」方式、「天秤の論理」、「純粋」という価値観、「踏絵」等について説明してきました。続けて、日本人の「証言」について考えて見ます。
 これは、日本人の「相互懺悔相互告解」とも関連しています。つまり、「おれ、おまえ」の「二人称」の人間関係の中で、何か問題が起こった時、「おれの責任だ」と一方が言えば、相手も「いや、おれの責任だ」と応答し、互いの責任を追求することなく、円満に話し合いによって問題解決をはかるやり方です。
 こうしたやり方は、他の国では全て責任を認めたことになるから、絶対に「私の責任」などと言ってはいけない、などといわれます。裁判においては、「証言」や「自白」は調書が取られて決定的な証拠と見なされますから、相手の善意に期待して安易に謝るべきではないのです。
 しかし、日本人にはこうした「証言」についての厳しい考え方がないために、戦後、多くの冤罪事件を生んできました。松川事件もその一つです。この裁判で無罪を勝ち取った作家の広津和郎氏は、日本人の、迎合や誘導による「証言」の信憑性を見分ける独自の方法を発見しました。
 それは、日本語が「写生」の言語であることを利用し、その証言内容を「情景」として明確に脳裏に再現できるかどうかを、その信憑性の第一条件としたのです。  
「語られた事実」と「雲の下論」
(『日本教について』p269~272昭和47年11月文藝春秋)
 この「雲の下論」というのは、イザヤ・ベンダサンが『日本教について』の中で、いわゆる「松川事件」裁判における田中裁判長の次のような主張について名付けたものです。
 「雲表上に現れた峰にすぎないものの信憑性が「かりに」「自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても」「雲の下が立証されている限り・・・立証方法として十分である」、従って、時日・場所・人数・総時間数等細かい点の矛盾を故意にクローズアップして、それによって「事実」がなかったかのような錯覚を起こさせる方がむしろ正しくない」
 これに対して(作家の)広津氏は、「これは田中長官が「佐藤一の実行行為の事実」という言葉で、事実か否かが立証されていない「語られた事実」をまず「事実」と断定しておいて、その上に組み立てた議論であることを、鋭く指摘しています。」
 「良心的な裁判官が、結局裁判官は「真実」というものを目撃したわけでもなければ、また自分がしたしく経験できるわけでもないのであるから、事実認定といっても、それは歴史の「事実」と同じく、良心と知能とをつくして証拠を調べて「推認Lする以外にない、即ち裁判官が掴むことのできる「事実」というのは「推認の事実Lに外ならない・・・」(p264)
 これと同じ言い方を(朝日新聞の「中国の旅」の)「殺人ゲーム」と「百人斬り」にあてはめれば、百人斬りの「実行行為という事実」が否定されない限り、「殺人ゲーム」と「百人斬り」の間の場所・時刻・時間・登場人物・周囲の状況等の矛盾した選を、非常にクローズアップし、それが否定されると、犯罪事実の存在自体が架空に気するかのように主張し、そしてこれに引き込まれてさような錯覚に陥ることは正しくないし、同時に、そういう議論の進め方をする人間は正しくない人間であることになります。
 そこで共に「雑音」に耳を貸すな、となるわけですが、この場合も同じで、百人斬りという犯罪「事実」は誰も知らない、知っているのは、百人斬りという犯罪の「語られた事実」だけである。その「語られた事実」(複数)によってこれから「ギリギリの決着の『推認』に到達しようというのに、その前に「犯罪事実の存在自体」と断言してしまえば、も何も証拠はいらなくなります。
 確かに「いらない」のであり、「いらない」が故に、「同じ事しか語らない」という「沈黙に等しい」証拠を量だけ多く集めることになります。従って、この記者(本多勝一氏)も「雲の下論」者であると言うより、「雲の下」論を自明の前提としていることになりましょう。
   この記者はまた知らず知らずのうちに『諸君!』の読者も当然に無意識の「雲の下」論者であることを自明の前提としているように思われます。ということはファクタとファクタ=ディクタを峻別している者などいるはずがないし、いるとかいないとかいうことが念頭にすら浮かばなければ、これは当然に生じることです。
 また、「雲の下」論なしで(「殺人ゲーム」と「百人斬り」をそのまま事実とする論を取りそれを雑誌に公表しえたということ自体、日本には「語られた事実」と「事実」を峻別する伝統が全くないことの証明となりましょう。
 
 この「雲の下論」がなぜ出てくるか、ベンダサンは、日本に、「事実」と「語られた事実」を峻別する伝統、「語られた事実=事実」であるのは神だけだ、という考え方がないためだと言いました。
 「語られた事実」が「事実」でないとすれば、人間が「事実」に肉薄するにはどうしたらいいか。それは、なるべく多くの証拠(言うまでもなく「語られた事実」)を集めて、その相互の矛盾から「事実」に肉薄する外ない。
 ところが日本では、この「語られた事実」と「事実」が峻別されず、最初の「語られた事実」が、先に述べた迎合とか誘導によって「事実」に転化してしまう。そして、この、あくまでも「語られた事実」にすぎないものを「事実」を証明するために新たな「語られた時事」が集められ、その「事実」の証拠とされてしまうのです。
 この場合、「証拠」とは一に「量」で、「こんなにたくさん証拠がある」が証拠の正しさの最大の証明となります。しかし、これらの「語られた事実」は相互に矛盾しており、この事実を指摘すると、細かな矛盾を指摘されても「雲の下が立証されている限り」問題ない。むしろ、それによって「事実」がなかったかのようになるは正しくない、という議論になります。
 この議論を雑誌の公開討論の中で再現したのが、ベンダサンと本多勝一氏の「百人斬り競争」をめぐる論争でした。本HPの「語録」「百人斬り競争」をご覧下さい。また、これと同じ事が、「百人斬り競争裁判でも繰り返されました。恐るべき現実と言う他ありません。 
ハビヤンの生涯とその時代
(山本七平ライブラリー『日本教徒』p29~31)
 彼が生れた一五六五年(永禄八年)はザビエル来日の十六年後、・・・キリシタンはすでに一勢力であり、・・・彼が五歳のとき(一五六九年)フロイスは織田信長により京都在住を許可されている。以後一五八一年(天正九年)までは、少なくとも京都付近では、キリシタン興隆・仏教受難の歳月であったともいえる。
 少年ハビヤンが寺にやられたのが八歳と仮定するなら、彼はまさに仏教受難時代を仏僧として送ったことになる。七〇年から八〇年まで、実に十年の長きにわたって信長と本願寺光佐(顕如)の戦いがつづく。また伊勢長島の一向一揆への弾圧、延暦寺攻撃堂塔破壊、高野聖千人の斬首等が起る。一方、キリシタン側ではオルガンチノは安土に教会堂を建て、ヴァリニャーノは学校建築を許可される。だが一五八二年(天正十年)、本能寺の変とともに情勢は一変したかに見えた。
 そしてハビヤンが(キリシタンに)入信して四年目、一五八七年(天正十五年)に秀吉によってキリシタン布教禁止令が出され、八八年には長崎からキリシタンが追放され、八九年には京都の教会堂が焼き払われ、宣教師は逮捕されて長崎に送られ、九一年にポルトガル=インド総督にキリシタン禁止が通告された。そして九六年(慶長元年)、「二十六人の殉教者」が長崎で傑刑にされた。そしてこれが、前述のように彼か三十一歳のころであったと思われる。(中略)
 ハビヤンの、三十歳ごろまでの時代は、少なくとも庶民に関する限り、非常に”自由”な一面をもつ時代であった。もちろん、この自由とは、餓死する自由、掠奪される自由、乞食になる自由も含めた状態、いわばすべてが「その者の心次第たるべき事」として、打ち棄てられていた時代であり、特に京都は、一種の真空地帯として、この状態が強かったと思われる。
 打ち続く戦乱と無秩序は、逆に、浄土宗的な現世否定・絶対信仰を一つの現世の秩序と化し、それを組織化した本願寺は大きな政治勢力となり門徒を動員して一向一揆を起す「領主」たりうる状態を現出したが、それは、組織としてはおのずから崩壊すべき自己矛盾を含んでいた。
 禅宗は武士に大きな影響を与えていたとはいえ、五山は幕府に保護された一種の官学であり、民衆への感化力は失っていた。そして大寺院は、実質的には諸侯にすぎなかった。キリシタンはそこへ入ってきた。といっても当時の日本人は、絶対に、明治の日本人のように西欧を「学ぶべき先進国」乃至は「絶対の師表」とは考えなかった。
 儒学は、五山の僧によって日本に紹介されていたとはいえ、その影響力は到底まだ民衆には及ばなかった。天皇は、民衆はその存在さえ知らず、もちろん民衆への影響力はなかった。
 こうした時代に生きたハビヤンは、仏教・キリスト教・儒教から絶えず影響をうけながらも、キリシタンへの入信を契機に『妙貞問答』を書いて仏教と神道を否定した。その後、キリシタンの「殉教」や「懺悔告解」の戒律に疑問を持つようになり、一六二〇年『破堤宇子』を書いてキリシタンを棄教した。彼が脱神道、脱仏教、脱儒教脱キリシタンという形で求め続け、そして最後に到達したものは、無意識の日本の伝統的規範であり、それは言葉を換えれば「日本教」というべきものであった。(本パラグラフは私の要約) 
 ハビアンの仏教批判の底にあるものは、すでに宗教的・思想的統合を達成する力を失い「国家鎮護」の任務を放棄した仏教への、かっての仏僧としての絶望感がありました。
 「・・・人ノ心ハ私ノ欲クニ引レテ邪の路ニ至ントノミスルニ、無主無我ト云テ、何タル悪ヲ作リテモ罰ヲアタエン主モナク、善ヲ勧テモ利生ヲ行ルベキ所モナシ。只何事モ空生空滅ト云テ自由自在ニ教テハ、ナジカハヨクアラン。カヤウノ法ヲコソ邪法トハ云ベケレ」
 また、「日本の創造神話は、伊弉諾尊・伊弉冉尊の前の国常立尊にはじまるが、これは天地が生まれたあとで生まれてきたのであり、これら三神が天地を造ったのではない、つまり、神が天地を造ったのでないから、この天地の「開キ手ナクハアルベカラズ」といって批判しています。
 しかし、儒教については「一種の自然的な倫理(仁義礼楽)がある。この点は大変に良いと評価できる」といい、「但天地陰陽ヲ太極天道ト見テ、其作者ヲ云ハズ。人畜草木モ気質マデニテ替ハリ、其性(生まれつき)ハ隔テナシナド云フ様ナルヲバ、マヨイト申侍ル也」と注文をつけています。
 つまり、「この倫理を現実化する意志的対象、もしくはそれへの信仰が必要であり、同時に、この倫理を実施した場合の応報という思想が必要だ」というのです。これに対してキリシタンには、万物の創造者であるデウスがいて「倫理=アニマ―ラショナル」を与えると共に、応報としての天国・地獄があると言っているのです。(『受容と排除の軌跡』参照)
ハビヤンがキリシタンに求めたもの
(山本七平ライブラリー『日本教徒』(p48~49)
 ここに彼が描いているのは、恩を基準とした一つの合理的な貸借関係の世界である。そして彼がキリシタンに求めたもの、そしてキリシタンにあると信じていたものは、この合理性であった。『妙貞問答』の中で、「惣ジテ此宗ノ教ヘニハ、理ヲ以テ決スル事(ト)、理ヲ論ズルマデモナク、伝受ノ一通リニテ澄ム(済む)」こととがある、と彼はのべている。そして「天地ノ主デウス一体在マス事ト、アニマ―ラショナルトテ、人ニハ後世二生残ル性命アリト云事ナドハ、理ヲ以テ決セズシテ叶ハズ」であるとのべている。すなわち彼は自然界に一つの秩序(合理性)を見、その背後にその秩序を打ち建てたものを見、それをデウスとした。
 彼は星辰より草木に至る秩序をあげ「・・・キリシタンノ教ヘニハ、天地ノ間ノ矩(のり)ゾト是ヲ示サレサフラフ。矩(のりと)云フハ、独り立(たつ)物二非ズ。下二万機ノ政ノ行ナハルヽハ、上二万乗ノ君ノ在マス故也。天地ノ間ニ四時八節ノ時ヲタガヘヌハ、天地ノ作者、真ノ主一体在マスガ為ナリ。是等ノ理(ことわ)リバカリニテモ、真ノ主キリシタンノデウスヲバ知ルニカタカラズ」とし、到る所でこれを強調し、「秩序なし、とした」といって仏教を「破」した。そして、この秩序を打ち建てたデウスは、当然にその秩序の中にいる人間を、その秩序で律していると考えた。そこで「此運命ヲツカサドリ玉フ主一体マシマス事、明ニサフラフゾ」であり、「諸行無常」でなく、一つの合理性が自然と人間をともに支配しているはずなのである。
 従って「デウスハ憲法(義)ノ源ニテ在マスト云ヨリシテ、善人ニハ賞ヲ行イ玉イ、悪人ヲバ罰シ玉ハデ叶ハズ。然二今現在ノ人ノ体ヲ見レバ、スグナルガ苦ミ、邪ナルガ楽ミ栄フルモ多ケレバ、此善悪ノ御賞罰、未来世ニナクテ叶ハズト云所マデモ、理ヲ以テ徹スル事ニテサフラフ」となる。従って「後世ニ生残ル性命アリト云事」は彼にとってはあくまでも「理ヲ以テ決セズシテ叶ハズ」で、「世」のアンバランスは、ここでバランスがとられねばならないのである。
 そして彼は、こういう観点から『平家物語』を見たわけである。そしてその世界を彼の「理ヲ以テ」再構成し、秩序づけていった。その結果、彼が見出したものは「人をも人と思わぬ者」「世を世とも思わぬ者」が滅び去る証拠があげられている世界であった。そして「人をも人と思わぬ」「世を世とも思わぬ」とは、「恩=過分」という、人間の相互債務性を認めずそのバランスを崩すものが滅びるという原則であった。
「恩」という概念が、親子関係という人間の基本的な自然発生的な秩序に基づいており、これを社会全般に敷衍して一つの秩序の基本としたと考えれば、これは確かにハビヤンにとっては、デウスが打ち建てた自然の秩序に基礎をおいた秩序であったろう。従ってそれは「理ニ叶ツテ」おり、だれもこれに反論できぬ、きわめて”科学的”な考え方だったはずである。従ってその象徴である重盛にはだれも反論できない。同時に、その言葉に従っている限り滅亡はないわけである。そしてハビヤン自身、重盛に対して少しも否定的ではないのである。
 以上のことを要約すれば、次のようになるであろう。ハビヤンは、あらゆる宗教のみならず、この世のすべての矛盾を、「理」すなわち。科学的”な合理性を基準にして「破」した。単に神話や諸宗教の否定だけでなく『妙貞問答』にはキリシタンに基づく合理的政治論が長々と展開されている。だが、それと同等に彼は、人間の倫理的行動の基準を「恩=過分」という人間関係=人間相互債務論におき、これを反論を許さない絶対の基準と考えた。従って現実の行動の基準はそこにおかれ、「人をも人と思わぬ」バテレンを強く非難し、それが棄教の大きな原因の一つになっている。
 そして、この行き方、すなわち「科学的に『破』すこと」と「人間関係のみを基準に行動すること」は、基本的には、現代の日本も全く変っていないように思われる。
 
 ハビアンは、前項で紹介したような理由で、日本の神儒仏混合の宗教的伝統を否定し、神儒仏の教えにはない優れた点をキリシタンに見て、仏教僧からキリシタンに改宗したのです。
 ハビアンは幼児より寺に入り禅僧としての教育を受けました。キリシタンへの改宗は1583年18歳の時で、1605年にキリシタンの伝道文書『妙貞問答』を書きました。
 この間22年であり、充分キリシタンの教えを理解していたと思われますが、その5年後の1608年にイエズス会を脱会し、1620年、12年間の沈黙を経て排キリシタン文書『破堤宇子』を書きました。
 この間、国内情勢も変化し、1600年関ヶ原の戦い、16012年キリシタン禁止令(幕府の直轄地と直属の家臣にキリスト教信仰を禁止)、1614年大坂冬の陣、1615年夏の陣で徳川政権が確立しました。
 その後、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗諸本山諸法度が定められて、いわば「文治」の基礎が確立し、1620年には秀忠の娘和子が入内して、南北朝以来300年続いた朝廷と幕府の対立関係も終止符が打たれました。
 「いわば社会は、ハビアンが願い続けていた「現世安穏」へと、キリシタンを排除しつつ進みつつあった」のです。つまり、こうした時代の変化の中で、ハビアンは、キリシタンの考え方に疑問を持つようになったのです。
 特に、十戒の中で反発したのが、第一戒「デウスノ内証ニ背ク義ナラバ君臣ノ忠義ヲ捨テ、孝悌の因(父母・長上ニ仕える縁)ヲモ存セザレト勧ムル事、之ニ過グル悪逆イズクニ在ルベキゾ」でした。
 つまり、君臣の忠義や孝悌の因(君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友)は人に賦された天命の職分(自然に与えられた人間の性)であり、これを超えたデウスの内証などあるべきでなく、まして、そのために「身命をも軽んぜよ」とはもっての外と言うわけです。 
ハビヤン版『平家物語』における「恩」の思想
(山本七平ライブラリー『日本教徒』(p52~55)
 ハビヤンの『平家物語』における「恩」という考え方は、一種の「人間相互債務論」のようなものだ、と前章にのべた。これはパードレに理解させるためにそういう印象が濃くなったことは否定できないが、同時にこれはハビヤンが、それまで明確な定義づけをしないですました「恩」という概念を、自らの内で整理して明確にしたら、そういう結論になったともいえよう。そして誤解してならないことは、「恩」とは「人間相互債務論」であっても「人間相互債権論」ではないことである。
 すなわち、人は「恩をうけた」と債務を感じなければならないが、「恩を施した」と権利を主張することは許されない。これは重盛の「天地の恩」という考え方によく出ている。人は天地に恩を感じねばならない、しかし天地は人間に対して「恩を施した」と権利を主張しているわけではない、人はこれと同じように行動すべきである、しかるに「莫大の御恩を忘れて、みだりがわしゅう法皇を傾けさせらりょうずることは天道の御内証にもそむき参らせらりょうず」であり、「四海の逆浪をしずむることは無双の忠なれども」それをもって「恩を施した」権利と考えることは、「人をも人と思わぬ」ことで「傍若無人とも申そうず」。
 そうでなく「恩をうけた」という債務のみを感じて「君のお為にはいよいよ奉公の忠勤をつくし」、「恩を施したという」意識をもたずに「民の為にはますます撫育の哀憐をいたされば、天命にかなわせられ、天の御加護あらば」必ずすべてがうまく行くはずだ、と彼は主張するわけである。ところが清盛は常に「恩」を権利と考える、これが正しくない、というこの重盛の言葉に清盛は一言もないわけだが、ハビヤン自身もこの重盛の考え方に少しも違和感を感じてはいない。
 「人をも人と思わぬ罪」とは、「恩を施したこと」を権利と見なすことである――というハビヤンの考え方が非常にはっきり出てくるのが「巻二・第一 妓王清盛に愛せられたこと、同じく仏という白拍子に思いかえられてのち、親子三人尼になり、世を厭うたことと、またその仏も尼になったこと」という長い表題の一章であろう。これは『キリシタン版 平家物語』には全く挿話的に挿入されており、全体の構成から言って、前後に脈絡がなく、削除しても何の支障もない一章である。
 ハビヤンがこれを挿入した意図は、「人をも人と思わぬ罪」とは、身分や社会的地位、性別、経済的従属等に関係なき問題だということを示すためだと思われる。というのは、ここにおける清盛と白拍子の関係は、到底、西欧におけるそういった関係からは想像もできぬ不思議なことで、ここに示された一種の道徳律が、おそらくパードレを唖然とさせたのではないか。従ってここの序詞の「さてまことにたれにも、かれにも清盛は難儀をかけた人じゃの? またその妓王がことを聞きたい、お語りあれ」という言葉は、この内容の概略を聞いたパードレが、特に彼に抄訳させたことを示しているのではないかと想像される。というのは、こういう一種の理由づけを付した長い序詞は、他の章にはないからである。
 「恩」という言葉は言うまでもなく、中国に由来しているであろう。しかし以上のような「恩論」またこれから記すような一種の「相互債務論」が果して中国思想のそのままの輸入かといえば、おそらくそうではあるまい。これも多分、中国思想に接触した結果生じたグノーシス現象によって、中国思想に仮託して「知識化」された日本の伝統的思想であると思われる。というのは、当時の中国人は、主権者との関係にまで「恩論」を援用して、重盛のように、忠と孝とを同一水準におき、二者択一は不可能であるから「進退ここにきわまって、是非いかにもわかちがたい儀じゃ。申しうくるところ、詮(せん)は、ただ重盛が首を召されよかし」などとはいわないからである。
 こういう場合は、おそらく主君に対しては三たび諌めて聞かれざればすなわち去る」であり、父に対しては「三たび諌めて聞かれざれば、号泣してこれに従う」であって、前者は三諌で義務はすむはずである。従ってこの通りなら、重盛は法皇を三たび諌めて聞かれなければそこを去り、次に清盛を三たび諌めて聞かれなければ「号泣して」これに従えばよいはずである。ここには明らかに、父子の関係は契約関係でないからこれの解消は不可能であり、従って無条件服従を余儀なくされるが、主権者との関係はそうではない、という考え方がある。
 こういう考え方が基本にあれば、白拍子と清盛の関係、あるいは白拍子相互の関係などは、技能もしくはサービスの提供と対価の支払いという関係のはずである――確かに「過分」な支払いではあろうが。そしてこの妓王のような問題は、どこの国の権力者にもあることで、そのこと自体は、パードレにとって少しも珍しいことではあるまい。だがその事件の経過と、二人の遊女が重盛の如くに「進退ここにきわまって」出家遁世したという結末は、彼らには余りにも奇異に見えたはずである。
 彼らから見れば、遊女とは元来教会に入ることを禁じられた存在であり、まして彼らが見聞きした西欧の権力者の周辺にいる”遊女”たち――争者を毒殺して寵を独占するぐらいのことは、当然であった当時の彼女たち――を基準にすれば、想像に絶する話であったに相違ない。特にここに出てくる「世をうらむ」という考え方――「世を世とも思わぬ」に対する「世をうらむ」、いわば「恩」の対極にある「怨」が出て来たことも、強い興味をもつ一因であったと思われる。これは、もつのが当然である。というのは「恩」と「怨」が、今でも本当に日本人を動かしている倫理的基準だからである。
   
 渡部昇一は、本書の解説で次のようなことを言っている。
 「山本七平さんの天才が燦然としてきらめくのは、ハビアンの著作のうち、『平家物語』の口訳に先ず目をつけたことである。
 これは日本語も日本人も知らないパードレに、日本語と日本の歴史を教えるためにハビアンが『平家物語』を抄訳し解説したものである。いわゆる翻訳ではなく、喜一検校という架空の語り手が、『平家物語』を簡約化して右馬之允という架空の聞き手に語るという形式になっている。
 そこに用いられた日本語はパードレが日本で布教する時に用いるような語り言葉である。ところが日本人には無理なく理解できる『平家物語』に出てくる事件が、パードレにとってはしばしば理解不能である。そこでハビアンはパードレに理解できるようにと自分が考えた形にして『平家物語』に出てくる話を語ってやらなければならない。
 それはマカオに漂着した日本人漁師たちが、日本語を知らないドイツ人に、ロゴスのことを「カシコキモノ」と言ってあげたり、ゴッドのことを「極楽」と言ってあげたのと本質的に同じことである。
 ハビアンは「日本人とは何か」と論じているのではないが、パードレに『平家物語』を説明しているうちに、「日本人とは何か」ということを結果的に浮き立たせることになる。これこそ山本七平氏が「日本教徒」と呼んだものである。そしてハビアンがキリシタンに入信したのも、それを棄てるに至ったのも、同じ日本教徒としてやったので、ハビアン自身の考え方は基本的には同じであり続けたことを見事に描き出すのである。
 イザヤ・ペンダサンの筆名を使っていた頃の山本七平さんの切り込み方は、それまでの日本人論にはなかったものであって、まことに天才としか言いようのない見事さである。」
 その通りだと思うが、その中でも、ハビヤンが『平家物語』の「祇王」の物語をパードレに紹介したこと。これによって、日本における「人をも人と思わぬ罪」とは、「身分や社会的地位、性別、経済的従属等に関係なき問題だということを示した」ことについて、私は、改めて、この「恩」に基づく倫理観が、『平家物語』以前に淵源することを知り感動した。
 この倫理観は、現代の契約社会の中では無視されているが、「契約」以前の人間関係においては厳然として存在している。こうした日本の文化的伝統の上に、日本人の倫理観を再構築すべきではないだろうか。 
ハビヤンを棄教させた「殉教」と「告解」
(山本七平ライブラリー『日本教徒』(p108~120)
 「人をも人と思わず」「世を世とも思わぬ」罪のゆえに平家は滅びた。最初に記したようにこれがハビヤンの『平家物語』の主題である。従って必ずしも「盛者必滅」ではなく、「盛者」であっても、「人を人と思い」「世を世と思って」いれば滅びないはずである。ハビヤンの「滅亡」の視点がここにあることは、彼の記す「木曽の敗滅」「平家一門の全滅」「宗盛父子の斬首」「平家断絶、文覚流罪」等に表われているが、これを彼の「勝者」「敗者」への見方を基にさらに具体的に検討してみよう。
 『妙貞問答』(仏教・神道・儒教を批判しキリシタン教理の顕正を図る書)を開くと、彼の説くキリシタンの教えには、「審判」とその「審判」の基本となるべき客観的な「義」という概念が皆無なことに気づく。言うまでもなく、終末論と「審判」はキリスト教的世界の根底であり、人はこの宇宙の最終的大法廷ともいうべき場所で、永遠の滅亡の宣告を受けないために、自己を規制する――言いかえれば、それを意識して生きることを各人に要請し、その法廷で宣罪されないことに精神の平和を見出す世界である。ダンテの『神曲』が示すように、地獄の人間にも宣罪のときがあり「第二の死」があって、すべての人間は二度「法廷」を経由しなければならぬ世界といえる。ところがハビヤンには、こういった考え方は一切皆無である。
 『妙貞問答』で彼が説いているのは、人間には一種の「自然法」ないしは「自然の秩序」(ナツウラの教え)というべきものがあり、人はこれに従っているべきなのだが、実際にこれに従うことができないか、ないしは、従うことが非常にむずかしく、「欲にひかれて」それを犯すから滅亡する。そしてキリシタンは、この「自然法」を遵守する点で、神儒仏にまさる最高の方法論を提示していると説くのである。
 簡単に言えば、キリシタンの教えに従えば「人をも人と思わず」「世を世とも思わぬ」ようなことはしない、従って「現世安穏=平和、後生善所=精神の平和」であると説く。いわば、清盛がキリシタンに改宗していれば、平家は滅亡せず、『平家物語』も書かれなかったであろう、ということである。(中略)
 彼のいう「ナツウラの教へ」(自然法)とは、言うまでもなく今までのべてきた「受恩の義務」とそれに基づく「血縁および擬制の血縁への忠誠」の世界である。このことは、ハビヤン十戒の第四戒におけるモーセの十戒の拡大解釈というより”増補訂正”に表われ、さらにそれを拡大した「主人ヲバ心ロノ底ヨリ大切ニ敬イ其ニ順へ」に表われ、それが、いわば下から上への秩序としてのべられるとともに、一方では上から下への形――すなわちハビヤン十戒の第一戒「御主でうす(自然法ないしはその象徴)ヲアガメ奉ル」を敷衍した形で、「次デハ、天子将軍ヲ初メマイラセ」、主人をあがめよという形で、秩序づけられているのを見ても明らかである。
 ところが、これが『妙貞問答』を書いた翌々年1607に棄教し、その13年後の1620年に書いた『破堤宇子』では、キリシタンの十戒の第一条「御一体ノでうすヲ大切ニ敬イ奉ルベキコト」を、「でうすノ内証二背ク義ナラバ、君臣ノ忠義ヲ捨、孝悌ノ因ヲモ存セザレト勧ムル事、之ニ過ル悪逆イヅクニ在ベキ」と徹底的に批判して次のように述べる。(筆者)
 「初条(第一戒)ニでうすノ内証ニ背ク事ナラバ、君父ノ命ニモ随ハザレ、身命ヲモ軽ッゼヨトノ一条ハ、国家ヲ傾ケ奪ヒ仏法王法ヲ泯絶(絶滅)セントノ心、茲ニ籠レル者也。何ゾ早此徒ニ柄械(手かせ・足かせ)ヲ加ヘザラン。惣ジテ至善ノ教戒ハ、民生日用彝倫(いりん=不動の倫理)之外二求ル事ヲ待ズ。人倫ハ其品繁多ナリトイヘドモ五典(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)ニ過ズ。君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友之其職分ヲ尽サバ、又何ヲカ加ヘン」。
 「又之ヲ乱ス者ハ悪逆無道ニシテ犯サズト云事ナシ。・・・此五典ノ性ヲ人ニ賦スルハ天命ノ職分也。然ヲ汝提宇子ハ云、でうすノ内証二背ク義ナラバ、君臣ノ忠義ヲ捨、孝悌ノ因ヲモ存セザレト勧ムル事、之ニ過ル悪逆イヅクニ在(ある)ベキゾ。其でうすノ内証ニ背ク義卜云ハ、第一でうすヲ背テ仏神ニ帰依スル事也。故ニ提宇子ノ宗旨ヲ替へ、仏神ニ帰依セヨトノ君命、サシモニ重ケレドモ、身命ヲ惜マズ、五刑ノ罪ニ逢フト云ヘドモ、却テ之ヲ悦(よろこぶ)。看々(みよみよ)、君命ヨリモ伴天連ガ下知ヲ重ジ、父母ノ恩恵ヨリモ、伴天連が教化猶辱(なおかたじけな)シトスル事ヲ。・・・イブセイ哉(恐ろしいことよ)。マルチル(殉教者)トテ法ノ為ニハ身命ヲ塵芥ヨリモ軽クサスル事。賢君天下ヲ治メ玉フニハ、勧善懲悪ノ義アリ。善ヲ勧ルハ賞、悪ヲ懲スハ罰、罰ハ命ヲ絶ヨリ大ナルハナキニ、提宇子ノ命ヲタヽルヽヲモ恐レズ、宗旨ヲ替ヘザルハ、誠ニ甚ダ怖ルベキ者也。此猛悪イヅクヨリ起ルソト見レバ、第一ノマダメント、万事ニ越テでうすヲ大切ニ敬ヒ奉レト云ヨリ也」とある。
 このキリシタンの十戒の第一条「御一体ノでうすヲ大切ニ敬イ奉ルベキコト」は、キリシタンでは、超越絶対神と人間との契約に基づく秩序を表すものであって、「自然の秩序」(ナツウラの教え=「孝」に基づく「恩」の秩序)に基づく天子から君臣、朋友に到る五倫の秩序をさすものではないのである。かつその神は唯一絶対神であって他の仏神を邪神として厳しく排除する。この事実を、キリシタンの「殉教」と「懺悔告解」のサクラメントを通じて知り、徹底的な批判に転じたのである。(筆者)
 
 カトリックの「殉教」を扱った小説に遠藤周作の『沈黙』がある。「島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭が、布教に赴いた日本での(キリシタンに改宗した日本人に対する)苛酷な弾圧に屈して、棄教した」(「踏み絵」を踏んだ)ことについて、カトリックの教義上許されるか否かをを問うたものである。
 遠藤は「『早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ』と(踏絵の)キリストの顔が言っている気がした」と書いた。しかし、それに対して、カトリック神父から、それは「人間の弱さ、卑劣さの使徒となり、人間の中にある最も聖なるもの崇高なものの最大の裏切者」となるほかないとの批判が寄せられたという。(wiki「遠藤周作「沈黙」」)
 これに対して遠藤は、『深い河』で、「キリストの行った人類の救いとは、ヨーロッパ的な厳格な論理で規定された、クリスチャンに限定するような狭いものではなく、ガンジスのような宗教宗派に関係ない広い救済であったはずである」と「日本人クリスチャン」としての自分の信仰を語った。(wiki遠藤周作「深い河」)
 では、これと、ハビヤン以来の「殉教」否定の思想はどう関係するのか。信長も秀吉も家康も、個人の信仰には関与せず、ただ宗教勢力が政治に関与することを拒否しただけという。ハビヤンの主張は、こうした政治の枠組みの中で、社会の安寧秩序が保たれることを優先し、宗教はこの秩序を破壊するものであってはならないと、一種の政教分離的な考え方をしたようである。
 イザヤ・ベンダサンは、こうした日本の伝統的な宗教観を理解するため、これを「天秤の論理」という図式を使って説明している。『日本教について』では、この問題を、三島由紀夫の切腹「思想への殉教」と、それに対する司馬遼太郎の批判(思想=虚構)を対比する中で、日本人の人間観=宗教観が伝統的に言葉(ロゴス)によらないことを説明している。
 では、その何が問題だというのか。それは、日本人においては、「天秤の論理」の支点となるべき人間の思想が「神と人との契約の言葉」として紐付けされていないということ。自然(=天)の恵みと感謝の中で受恩と孝行の関係で感得されているということである。これを一つの思想として把握する必要がある、というのがイザヤ・ベンダサンの主張である。
   
日本教的自然法
(山本七平ライブラリー『日本教徒』(訳者後書き)p207~210)
 そのハビヤンも、キリシタン時代には神を絶対とし、それに基づく個人的な絶対的規範を強調しながらも、この二つをつなぐ組織というものを考えようとしなかった。否、それだけでなく、イエズス派の組織そのものには、一種の嫌悪感をもっていた。そしてこれは一見、儒教の徒になったように見えたときも同じである。
 この傾向、すなわち何かの対象を絶対化し、同時にそれに基づく個人的規範を絶対化しながら、この両端の関係は常に一方的な思い入れであっても組織的発想でつなごうとせず、逆にそれを「不純」として嫌悪する傾向、これは常に日本人にあると言ってよい。前述の浅見綱斎にも、その影響を受けた維新の志士にも、二・二六の将校にも、戦後の全共闘の学生にも共通している。
 これは一方では、社会秩序は「自然」(ナツウラの教えに基づく自然秩序)であればよいという発想にもなる。この考え方は明らかにハビヤンにあり、『破提宇子』におけるキリシタン排撃の論拠の一つはそれが「不自然」だということなのである。この自然秩序論は、人工的な体制を打破しさえすればごく自然に「自然的秩序」ができあがるという信仰――これもまた端的に二・二六の将校に現われているが――と裏腹の関係になっており、それは著者が別著『日本教について』で論じている通りであろう。そしてこれが、「自然」に立脚した「人間」が、「実体語」と「空体語」のバランスで生きるという生き方にも通じている。
 と同時にこれは、内心の秩序も、社会の秩序も、宇宙の秩序も、ともに「自然」であるという発想に通じ、従って日本人にとって「不自然である」と感じられることはすべて排除してよい対象になってくる。この傾向はハビヤンの少し後で出た反キリシタン思想家鈴木正三にも強く出ており、それが徳川時代に石田梅岩、手島堵庵ら石門心学へと大成され、日本人の保守的な市民思想を形成することになった。そして梅岩の孫弟子の鎌田柳泓になると、明確な脱宗教思想となり、その自然論を基として一種の進化論さえでてくる。彼についても『日本教について』の中で論及されているが、その考え方はまさに現代の日本人のままだと言ってよい。
 考えてみればハビヤンは、以上のような現代日本の思想的基盤とそれに基づく個人的規範のすべてをもっていた人であった。そして彼自身がすでに脱宗教的であった。(中略)
 そしてハビヤンが、生涯の思想的遍歴において求めたものは、戦国というこの無規範な社会を秩序づけうる絶対的規範の基本だった。それを、脱神道、脱仏教、脱儒教、脱キリシタン、という形で求めつづけた。そして彼が到達したのは日本の伝統的規範であり、それは言葉を換えれば「日本教」である。そしてわれわれは徳川時代以来、この規範に従いつつ、それを何らかの既成の宗教に関連づけることを拒否しつづけてきた。従って無宗教と自らを規定しうる。だが実は、それがそのまま無宗教とはいえないのである。・・・
 日本の近代の謎は一にこの点であり、同時に、近代化しつつもなお多くの先進国とちがって、脱宗教体制になっても伝統的な規範が保たれ、世界で最も安全な秩序立った国になっているのも、この伝統によるであろう。その点、この基本を探索しつつかつ一つの結論にたどりついた不干斎ハビヤンという人物は、不当に無視されているが、実は、現代の日本人にとって忘れられない人物なのである。 
 このように、日本人が、自然と人間との関係を、天の恵み(受恩)と感謝(孝行)という親和的な関係で捉えるようになったのは、日本が先進的な中国文明に隣接する島国であったことや、熱帯と温帯の間の気候で、季節風の影響で四季がはっきりしているなどの、地政学的・気候・風土条件によるものではないかと思います。
 こうした自然条件の中で生きる人間にとって最大の問題は、自然の生み出す生産力とその破壊力にどう対処するかということであり、そのために、人間同士の協力・共同が自然に求められたのではないでしょうか。もちろん、人間同士のせめぎ合いもあったでしょうが、その危険度は自然の脅威に対して相対的に低かったのでしょう。
 これに対して、自然の生み出す生産力に依拠しつつも、その脅威が、人間同士のせめぎ合いによる脅威よりも低かった場合、それに効果的に対処するための観念装置として、唯一絶対神と人間との契約という考え方が生まれたのではないかと思います。その契約を守ることで団結が保持され神の加護が得られることになりますから。
 この両者の秩序観の違いに日本人で初めて気付いたのが、ハビヤンだったわけですが、彼がこうしたキリシタンの教えに惹かれたのは、彼の生きた時代が戦国時代であり「人間の脅威」に直面した時代だったからでしょう。しかし、徳川時代に入り、朱子学を官学とする文治主義がとられたことで、日本に伝統的な自然信仰に戻った。
   
日本教の聖書「大和俗訓」
(山本七平ライブラリー『日本教徒』p194~201)
 脱宗教化”を行なった場合、人は、一種の「自然哲学」を作り、その体系で、自然(宇宙)と自己との関係、および人と人との関係を律し、各自がそれを自己規定としない限り、社会の統合は不可能になるはずである。従ってハビヤンの「破」の道は必然的に、積極的主張をもつ一つの哲学に通ずるものがあった。
 もっともその哲学が、学者の知的遊戯なら社会的統合の基本的体系とはなり得ない。だがこれが一つの全日本的な民衆教化の書となりうるならば、それは、各自が自己のうちに無自覚にもっている意識を再把握させることになるから、大きな力となりうるであろう。そしてその役目を果したのが貝原益軒の『大和俗訓』である。
 益軒が生れたのが・・・一六三〇年(寛永七年)、そして『大和俗訓』全八巻が書かれたのが一七〇八年、いわばその生涯の終りに近いころ、以後彼はこの続編ともいうべき『和俗童子訓』『五常訓』『家道訓』『養生訓』等を著し、一七一四年(正徳四年)八十五歳で死んだ。従ってこの書は、ある意味では、彼の生涯の思想的決算ともいえる。(中略)
 彼は、・・・二十一歳のとき藩主の怒りにふれて七ヵ年にわたる永い浪人生活に入った。・・・その後江戸に出て、多くの儒者と交わり、朱子学と同時に陽明学もおさめた。同時に日本の軍記物語の影響を受け、一方では医学もおさめている。これらがいわば、彼の思想的基盤となった。そして彼の著作の中で、いわゆる儒学者と違う点は、地理・地誌に関するもの――いわば諸国紀行――と、薬草に関するものが多く、・・・この点、単に中国の諸書の解説でなく、実に実証主義的な著作が多いことである。・・・
 従って彼の『俗訓』は単なる解説書でなく、以上を総合した一つの哲学の、民衆のための解説書といえる面がある。(伝統的なさまざまな潜在的意識を顕在化しかつ体系化して行った)。  確かに、彼が言っていることは、「施恩は権利にあらず」「受恩は義務」であり、「それを意識しうるもののみが人間」であるといったような、また、その根本に「自然」的概念を置くといったような伝統的思想を基にしている。(中略)従ってこの『大和俗訓』が、日本教の”聖書”の如くに読まれ、表現は変っても日本人がその延長線上にいることも、また不思議ではない。

日本教の聖書「大和俗訓」
 これは体系であるから、彼はまず”宇宙論”からはじめる。
 「天地は万物をうみ給う根本にして、大父母なり。人は天地の正気をうけて生るる故に、万物すぐれてその心明らかにして、五常の性をうけ、天地の心を以て心として、万物の内にてその品いととうとければ、万物の霊とはのたまえるなるべし。霊とは、心に明らかなるたましいあるをいう。天地は万物をうみ養い給う中にも、人をあつくあわれみ給うこと、鳥獣草木にことなり、ここを以て万物のうちにて、もはら人を以て天地の子とせり。されば、人は天を父とし、地を母として、かぎりなき天地の大恩を受けたり。故に天地につかえ奉るを以て人の道とす。」
 人間とは何か。それは施恩の権利を主張しない天地(自然=宇宙)に、受恩の義務を感ずる存在であらねばならぬ。これが益軒の基本的考え方である。・・・  「人となるものは天地を以て大父母とする故、父母の恩をうくるがごとく、きわまりなき天地の恩を受けたり。天地のめぐみにて生れたる恩のみならず、身を終るまで天地のやしないを受くること、たとえば人の身の父母より生れて後も、父母のやしないによりて人となるが如し」で、彼にとって、人間とは天地自然の被扶養者である。・・・そういうわけだから「この世に生れては、つねに天地につかえ奉り、いかにもして天地の恩にむくいんことを思うべし。これ天地につかうる孝なり。人たる者は、つねにこれを心にかけてわするべからず」という形にならざるを得ない。ではどうしたらいいのか。彼は次のように言う。
 「天地につかえ奉る道は別にあらず、天地の御心にしたがうを以て道とす。天地の御心にしたがうとは、われに天地より生れつきたる仁愛の徳をうしなわずして、天地の生める所の人倫をあっくあわれみうやまうをいう。これすなわち人の行うべき所にして、人の道なり・・・仁の理は人をめぐみ物をあわれむを徳とす。この仁の徳をたもち失わずして、天地のうみ給える人倫をあつく愛し、次に鳥獣草木をあわれみて、天地の人と万物を愛し給う御心にしたがい、天地の御めぐみのちからを助くるを以て、天地につかえ奉る道とす。これすなわち、人の道とする所にして仁なり」「かくのごとく、極りなき大恩をうけたれども、凡人はしらず。いわゆる百姓は日々に用いて知らざるなり。しかるに(そのために)、天地につかえ奉らずして、人欲にしたがい、天理にしたがわざるは、天地の大恩をこうぶりて天地にそむくゆえ、天地の子として大不孝なり。(中略)
 以上は、益軒の自然論・人間論の原論である。・・・いわばここからが方法論になるわけである。ハビヤンは結局この方法論を求めて、神・仏・儒・基をことごとく破したわけだが、益軒は儒教を取り入れたわけである。
 「およそ、人となる者は、人の道をしらずんばあるべからず。人の道をしらんとならば、聖人の教えをとうとびて、その道を学ぶべし。いかんとなれば、聖人は人の至極なり。天地の道にしたがいて。人の道をおしえ給える万世の師なり。後代にのこしおき給う四書五経の教えは、万世の鑑なり。その道理明らかなること、日月の天にかかれるが如く、天下ひろしといえども、てらざる所なし。よく読まん人は、天下の道理を知らんこと、白日に黒白をわかっが如くなるべし。あにこれを学ばざるべけんや。
 しかるに、人となる者、人倫の道は天性に生れっきたれども、その道に志なくして、食にあき、衣をあたたかに着、居所をやすくしたるまでにて、聖人の教えを学ばざれば、人の道なくして鳥けだものにちかし。かくの如くなれば、人と生れたるかいなし。万物の霊とすべからず。このゆえに、聖人これをうれい、賢臣を以て万民の師として、人倫の道を教えさせ給う。これ人となるものは、必ず道を学ばずんばあるべからざればなり。」
 一言でいえば「学はそれ自体が目的ではない」あくまでも「道を知りかつ行う」ための手段だということである。そしてこの「道」とは「人の道」であり、その根本は天地の秩序すなわち「自然の教へ」だということである。・・・そしてこの立場と学をつなぐのがまた”施恩(受恩?)の義務を感ずること”であり、天地自然の中にさまざまな動植物があるのにその中で選ばれて「人と生るるは、きわめてかたきことなれは、わくらわに得がたき人の身を得たることをたのしみて、わするべからず。また、人と生れて、人の道を知らで、むなしくこの世を過ぎなんことうれうべし」と。
そしてこれが彼にとっての楽と憂とのわかれめであり、人が真に人生を憂えず過ごそうと思うなら「この楽と憂との二つを、身を終わるまでわするべからす」ということになる。
 そして、この自然信仰に基づく秩序観は、自ずと中国の儒教倫理に基づく五常五倫の教えとなり、これは修身→斉家→治国→平天下であって、「治教一致」さらには「忠孝一致」国家間となった。しかし、それは「恩の貸借関係」に支えられているため、この「恩」(情)と儒教倫理(義)のバランスをとる思考法(「天秤の論理」)が生まれた。
 では、こうした秩序観と、唯一絶対神との契約という考え方をベースとする社会契約的な秩序観とは、脱宗教化が進む中で、今後、どう折り合いをつけていけばいいのでしょうか。自然と人間との関係についていえば、科学技術の発達によって、自然条件も次第にグローバル化していますし、人間社会そのものもグローバル化しています。
 一方、そうしたグローバル化が、異種文化間の軋轢を増していることも事実です。そんな中で、自らの文化に根ざした規範意識をどう高めるかということが問題になります。日本人の場合、この規範意識が唯一絶対神との契約という形で明示されているわけではなく、人間が一方的に自然の意思を忖度するだけのものとなっています。
 このため、日本人の倫理観は、ベンダサンが名付けた「天秤の論理」という政治的思考法もあって、無原則な状況倫理に陥る傾向にあります。それがアノミー状態に陥らないのは、その基礎に「恩」を媒介とした基本的倫理観(施恩の権利を主張しない、受恩の義務を拒否しない)が無意識的に存在しているからでしょう。
 しかし、これも、近代的な法的・合理的人間関係に置き換えられるようになると、個人の行動を律するものは、外面的強制を伴う法的規範だけとなり、自律的な内面的規範が失われることになります。従来この規範を支えてきたものが、伝統的な儒教倫理であったわけですが、これが封建的という理由で否定されたままになっています。
 では、今後どうすべきか。私は、世界が、基本的人権が保障される世界へと向かっている今日、日本人も世界標準の基本的倫理観をしっかり身につけていく必要があると思います。日本には儒教倫理だけでなく、日本仏教が生んだ慈悲の教えや戒律があります。「恩」を媒介とする思いやりの思想は「隣人愛」につながります。
 ベンダサンのいう「日本教」は、以上述べたような自然条件の下で日本人が育んできた人間が共同して生き抜くための智恵を構造神学的に明らかにしたものです。これによって初めて、日本人が、自らを無意識的に規制してきた規範意識を対象化することが可能になったのです。
 問題は、その長所を生かし短所を是正することがどのように可能になるかと言うことですが、明治期に言われた「和魂洋才」という考え方だけではうまくいかないと思います。というのは、その「和魂」自体の問題点をどう克服するかということが重要になるからです。具体的には、「天秤の論理」の問題点をどう克服するかですね。
 「天秤の論理」は、政治的な問題を処理する場合は良いとしても、その「実体語」と「空対語」について、その「事実認識」をいかに厳密に行うかが極めて重要です。ベンダサンは「事実と語られた事実の峻別」の重要性を指摘しましたが、これが私たち日本人の第一の関門だと思います。

前のページへ