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山本七平語録

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日本軍隊論

  
   
論題 引用文 コメント
統帥権の逆用
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p509~512
 人が一つの言葉に余り痛めつけられると、その言葉自体が「悪」に見えてくる。私にとって「統帥権」とはそういう言葉で、長い間、平静にはそれを口にできなかった。トースイケン、統帥権、神聖なる統帥権、陛下の大権、統帥の本義にはじまり、統帥権侵害、聖権干犯等々とつづくその口調、そしてそれを口にした時の、軍人たちの狂信的な顔々々々─。

戦前の日本は、司法・立法・行政・統帥の四権分立国家とも言える状態であり、統帥権の独立は明治憲法第一一条にも規定されていた。従って政府(行政権)は軍を統制できず、それが軍の暴走を招いた―─というのが私の常識であり、また戦後に一般化した常識である。

「執拗に統帥権の独立を主張して横暴をきわめた軍」は、私にとって余りに身近な存在であったため、軍部以外に統帥権の独立を主張した人間がいようなどとは、夢想だにできなかった。従ってある機会に、明治の先覚者、民権派、人権派といわれた人びと、たとえば福沢諭吉や、植木枝盛が、表現は違うが「統帥権の独立」を主張していることを知ったとき、私は強いショックをうけ、「ブルータス汝もか」といった気分になり、尊敬は一気に軽侮に転じ、その人たちまで裏切者のように見えた。

従って、その人たちがなぜそう主張したのかさえ、調べる気にならなかった。
だが、このショックは、何かを心に残したのであろう。それから十年ほどたって、やっとその間の事情を調べてみる気になった。なぜこの民権派・人権派が「統帥権の確立」──いわば兵権と政権を分離し、政府に兵権をもたせず、これを天皇の直轄とせよ──と主張したのか。言うまでもなくそれを主張した前提は、明治の新政府が、軍事政権とはいえないまでも、軍事力で反対勢力を圧服して全国を統一した新政府、いわば軍事的政権であったという事実に基づく。

この先覚者たちにとっては、民選議院の設立、憲政へと進むにあたり、まずこの藩閥・軍事的政権の軍事力を”封じ込める”必要があった。軍隊を使って政治運動を弾圧する能力を政府から奪うこと。これは当然の前提である。彼らがそう考えたのも無理はない。尾崎咢堂の晩年の座談によると、そのころの明治の大官たちは、「われわれは馬上天下をとったのだ。それを君たち口舌の徒が言論で横取りできると思ったら間違いだ」といった意味のことを、当然のことのように言ったという。

これに対して当時の進歩的主張が、「軍は天皇の軍隊であって、政府の軍隊ではない。政府が軍隊を用いてわれわれを弾圧することは、聖権(天皇の大権)の干犯である」となったことも不思議ではない。

また、この先覚者たちの恐れの第二は、政争に軍が介入してくることであった。たとえば板垣自由党を第一師団が支持し、大隈改進党を第二師団が支持するというようなことになれば、選挙のたびに内戦になってしまう。

ここに「軍は天皇の直轄とし、天皇と軍は政争に局外中立たるべし」という発想がでてくる。南米の国々や第二次大戦後独立した多くの国々を最も苦しめ、今も苦しめているのが、政争に軍が介入してくる内戦であることを思えば、人権派・民権派のこの主張は、当時の主張としては不思議ではない。そしてこの点で、政権と兵権の分離、兵権の独立、天皇と天皇の軍隊の政争への局外中立化は、確かに、当時の進歩的な考え方であったであろう。と同時に日本が範とした当時の西欧諸国にも、同趣旨の規定があったという。

だが、規定はあくまでも規定であり、その発想の基本を忘れれば、この考え方には、いくつかの落し穴があり、逆用も可能であった。その一つはまずその人たちが、日本軍を「治安軍」と考えても「野戦軍」とは考えなかった点である。これは無理もないことで、鎮台条令が廃止され、鎮台を師団に改編したのが明治二十一年である。そして日清戦争の時でさえ、まだ、多くの日本人は帝国陸軍が外国と戦争できる野戦軍であることに対して、半信半疑であった。いわば南米諸国の軍隊に似た印象をもっていた。だがその後の日本軍の「軍事力成長率」は、戦後の経済成長率同様に恐怖すべき速度であり、いつしか軍事大国になっていた。そしてその速度は軍人のみならず多くの人に日本の軍事力成長は無限界「二十世紀は日本軍の世紀」的な錯覚を抱かせた。

従ってこの状態のある時期には、日本の国土に、二国が併存していたと考えた方が、その実体がわかりやすい。一つは日本一般人国、もう一つは日本軍人国である。そしてこの一般人国と軍人国は「統帥権の独立」と、軍人は「世論に惑わず政治に拘わらず」の軍人勅諭の原則で、相互に内政不干渉を約している二国、そしてその共同君主が天皇という形をとっていた。

帝国陸軍とは、日本国行政府の支配下になかったという意味で、天皇の軍隊であっても、日本国「政府軍」ではないという形態へといつしか進んでいった。この点、諸外国の国民軍(ナショナル・アーミー)とは非常に性格が違っており、従って国民軍とも国防軍とも言いがたい。だが皇軍という呼称は軍隊内にはなく、大日本帝国陸軍の略称は「国軍」であった。そしてその内容は「日本軍人国軍」の趣があった。

「統帥権」の独立は、「ある時代の最も進歩的な考え方行き方は次の時代の始末に負えぬ手柳足指となる」というケースの典型的なものであろう。
 問題は、この軍の主張する「統帥権」を、なぜだれも制御できなかったのか、ということです。
司馬遼太郎はこのことについて、次のように述べています。
 「 一冊の古本をみつけた。それは、『統帥綱領・統帥参考』となっていて、参謀本部の特定の将校だけに閲覧が許された”最高の機密、門外不出の書”で、敗戦時に一切焼却されたはずのものだった。
 そこには、「統帥権ノ本質ハ力ニシテ、ソノ作用ハ超法規的ナリ」「従テ統帥権ノ行使及ソノ結果ニ関シテハ、議会ニ於イテ責任ヲ負ハズ・・・」と記されていた。
 確かに、国家が戦争をする場合、作戦については軍は議会に相談する必要はないが、ここでは、平時・戦時を問わず、統帥権は三権から独立する存在と規定されている。
 さらに戦時には、参謀本部が「直接にと国民ヲ統治スルコトヲ得」となっており、実質的に、明治憲法による天皇の統治権は停止されているかのようである。
 しかし、それまでの統帥権に関する公認の憲法学説は、美濃部達吉の「機関説」で、統帥権は国務大臣の輔弼の外にあるものではない、としていた。そして天皇自身もこれを支持していた。
 そこで軍は、先に述べたような統帥権の私的解釈に基づいて美濃部学説を”不敬”だとして攻撃し、その書を発禁処分に追い込むことで「機関説」を葬ろうと画策しました。
 結局、これが成功して、せっかく明治人が苦労してつくりあげた近代国家は、昭和10年以降の統帥機関によって扼殺されることになった。(『この国のかたち1』)
 では、こうした統帥権解釈の背後にあった考え方はなにか、というと、実はこれが、明治維新期に幕府を倒す大義名分となった尊皇思想であり、それから生まれた「天皇親政」という考え方でした。
 このことを最初に指摘したのが、イザヤ・ベンダサン著『日本人と中国人』「明治維新とは『疑似中国化革命』」で、そこには次のようにありました。
 「この連載を始めてから『明治維新が中国化革命であった』という話は生まれて初めて聞いて驚いた、といった手紙があまりに多く来たので、私の方がおどろいた。私が書いていることは『常識』であって『学問』ではない。この程度の知識もなくて『日中友好』等という言葉を口にするのは非常識である。」
  つまり、徳川幕藩体制下で「体制の学」となった朱子学が生み出した尊皇思想が、幕末になって国学と結び付き「天皇親政」を掲げるようになり、それが倒幕イデオロギー(篤胤)に発展することによって明治維新がもたらされた。
  ところが、明治新政府は、明治憲法を制定し天皇を立憲君主制下の制限君主としたため、「天皇親政」と「立憲君主制」が矛盾を来すようになり、前者を軍が「天皇の統帥権」の名の下に主張し、内閣の統制を脱して独走した事をいっているのです。
帝国陸軍は日本一般人国を占領した
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p512~513
(統帥権の逆用に続く)
従ってこの状態にある時期には、日本の国土に、二国が併存していたと考えた方が、その実態がわかりやすい。一つは日本一般人国、もう一つは日本軍人国である。そしてこの一般人国と軍人国は、「統帥権の独立」と、軍人は「世論に惑わず政治に拘わらず」の軍人勅諭の原則で、相互に内政不干渉を約している二国、そしてその共同君主が天皇という形をとっていた。

帝国陸軍とは、日本国行政府の支配下になかったという意味で、天皇の軍隊であっても、日本国「政府軍」ではないという形態へといつしか進んでいった。
(中略)
「統帥権」の独立は、「ある時代のもっとも進歩的な考え方生き方は次の時代の始末に負えぬ手枷足枷となる」というケースの典型的なものであろう。そして、統帥権により日本国の三権から独立していた軍は、逆に、まず日本国をその支配下におこうとした。そして満州事変から太平洋戦争に進む道程を仔細に調べていくと、帝国陸軍が必死になって占領しようとしている国は実は日本国であったという、奇妙な事実に気づくのである。

このことは、「太平洋戦争は百年戦争である。たとえ本土決戦に敗れても、無敵の関東軍が天皇を奉じて百年でも二百年でも戦いつづける」と訓示した(といわれる)方面軍参謀の言葉によく表われている。収容所の噂では、小野田少尉はこの言葉を信じているから出てこないということであった。それが事実であるにせよ、ないにせよ、こういう言葉があったという噂をみなが少しも不思議がらずに受け入れていた事実は、これが軍隊内の普通の常識だったことを示している。これでは、日本も、満州同様、帝国陸軍の占領地域内の一国だということになってしまう。事実、満州占領は、当時の一部の軍人には、内地占領のための軍事基地の設定であった。

従って帝国陸軍とは、一般国民から見れば、何を考えているかわからない、まことに無気味な「一国」、自分の手でどうにもできぬ横暴な他国に見えた。そしてその国に強制移住させられれば、いままでの常識も倫理も生活感も全く通用せず、何をされるかわからないという不安を、その心底に持たぬ者はいなかった。そしてその不安は、戦後、収容所で、米軍に収容されるとき不安を感じたか感じなかったか、という話になったとき、ある人が、「不安を感じたなあ、だけど入営の前夜ほどではなかったな」と言ったとき、思わず皆がうなずくほどであった。

一方、軍の方も、軍隊以外を「地方」(陸軍)、または「娑婆」(海軍)と呼び、それは、軍のために活用すべき従属者以外の何ものでもなかった。従って、帝国陸軍の作戦には、国民軍として住民保護が至上の義務という見地は皆無、また戦闘員・非戦闘員の区別と非戦闘員の権利を、、自国民に対してさえ実質的には認めなかった。沖縄の人びとの消しがたい不信の背後には、「軍が住民を使い棄てにした」と受けとられるような、以上の考え方に基づく諸事実がある。だが、本土決戦が行われれば事情は全く同じであったろう。この実情は前述の参謀の言葉につくされている。

昭和二十二年に内地へ帰って、人びとから米軍の印象を聞かされたときの感じをそのままのべれば、「旧占領軍の天皇の軍隊が去って、新占領軍のマッカーサーの軍隊が来たが、この方が天皇の軍隊より話がわかる」といった感じであった。”史上まれにみる占領政策の成功”といわれるものの背後には、天皇の軍隊による長い長い”被占領期間”があり、国民が、被占領状態になれていたという事実があったであろう。
 「日本軍人国が日本一般人国を占領しようと計り、満州国はそのための基地となった」と山本七平はいっています。
  こうした憂うべき状況が生まれたのは、第一次世界大戦後、日本の経済成長と共に大正デモクラシーと呼ばれた民主化の流れの中で、政党政治が始まり、それと同時に、世界的な軍縮が唱えられ、日本も1922、23年の山梨軍縮、25年の宇垣軍縮と続き、軍に対する社会的評価が著しく低下したことと関係しています。
  この間、1923年の関東大震災に始まる日本経済の悪化の中で、財閥・政党政治・議会政治に対する批判が強くなりました。軍内には、日露戦争によって日本が得た満蒙権益に対する張学良の回収運動への警戒心が高まり、これが、第一次上海事件を契機として、幣原外相の国際協調外交への批判、田中内閣の積極外交への転換が行われました。
  ここから、第一、第二次山東出兵と軍による積極的大陸政策が始まり、それが済南事件や張作霖爆殺事件を惹起し、満州における緊張が極度に高まる中で、万宝山事件や中村大尉殺害事件が発生、これらの問題を一挙解決する方策として、満州事変が計画されるに到りました。この前後には、二月事件、十月事件という軍によるクーデター未遂事件が起こっています。
  この計画を実行した関東軍のやり口は、中央の不拡大方針は無視して既成事実を作り上げ、否応なしに中央を引きずるのが本旨で、「中堅の青年将校達は、中央が聞かなければ、日本国籍を抛って満州人となっても素志を貫徹すると揚言」(『陰謀・暗殺・軍刀』森島守人)する有様でした。
 この結果、日本外交が二分され、戦争指導において軍が内閣の統制を脱して独断専行し、国民の生命・財産だけでなく常識や倫理を無視した軍国運営が行われたのです。山本は、日本軍の最大の罪として「日本人から言葉を奪った」ことを挙げていました。
 
臨時費(戦費)
『ある異常体験者の偏見』
p513~514
 政府も国民も、本当に「天皇の軍隊」を統制できず、軍だけが勝手に暴走したのであろうか。そうは言えない。戦争を行うには戦費が、軍を維持するには軍事費が不可欠である。従って、議会が戦費いわゆる臨軍費(臨時軍事費)を否決すれば、軍は動けない。従って、国民が軍を支配するか軍が国民を支配するかは、「戦費の支配権」をどちらが握るかにあった。軍がこれを握れば、国民は文字通り、一方的収奪をうける被占領状態になる。それは「終戦処理費」という名で占領費を一方的に負担させられた戦後と変らない状態だからである。

明治人は明確な「戦費」という意識があった。それは主戦派にも非戦派にもあり、主戦派が戦費の確保に腐心すれば、非戦派は帝国議会における戦費の否決でこれに対応しようとした。

「非戦論」のゆえに内村鑑三、堺利彦とともに「万朝報」を辞した幸徳秋水は、「平民新聞」に「嗚呼増税」という一文を発表している。

「嗚呼『戦争の為め』てふ一語、有力なる麻酔剤なる哉……彼等議会政党は……(この)一語に麻酔して、其の常識を棄て、其理性を拗ち、……一個の器械となり了(おわ)れるを見る也、何の器械ぞや、曰く増税の器械是れ也……」につづく一文は、戦争→戦費→議会の戦費可決→増税→民衆の苦しみを明確に図式的に示し、民衆の増税反対によって代議士を動かし、戦費否決から非戦へもっていこうとしている。

ところが昭和になると、主戦・非戦両派とも、戦費という最も重要な問題に無関心なのである。ここに見える大きな差は、明治の日本は貧乏国であり、明治人は軍人といえども、明確に自国の貧乏を意識していたのに対して、昭和人には、「世界三大列強の一つ」といった奇妙な「大国的錯覚」があった。従って国民は戦費という問題に不思議に関心が向かなかった。ベトナム戦争は結局、議会の戦費打ち切りで終った。だが日華事変では、軍が憂慮するほど厭戦気分が国内に充満しながら、臨時軍事費を打ち切ることによって戦争を終らそうという発想はどこにもなかった。一体この戦費は、だれの責任で支出したのか。その人間こそ最大の戦争責任者の一人だが、「戦費支出の戦争責任」は未だに究明されていない。

国民は「勝った! 勝った!」で目をくらまされていたが、軍は、戦費が自分たちの死命を制することを知っていた。そして、何も知らずに豊橋予備士官学校から帰隊した一見習上官の私に、上記の関係を、逆の立場から説明してくれる結果になったのが、皮肉なことに一青年将校であった。私はその瞬間、目から鱗が落ち、軍が何を恐れ、そのために何をやったかが、はじめてはっきりと見えたのである。

満州事変から、いつ果てるとも知れず延々とつづく戦争、この出口の見えぬトンネルのような状態は、前述のように、実に強い厭戦気分を国民の中に醸成した。軍人が、何かがあれば「軍民離間は利敵行為」といって目を怒らし、陸海軍両省がすでに昭和八年に「軍部批判は軍民離間の行動」と声明したこと自体、軍と民が当時すでに離間していたことを自ら認めたにすぎない。ではもしこの批判が徐々に議会に反映し、議会が臨軍費を否決したらどうなる。軍の傀儡政府は議会を解散するであろうが、総選挙・新議会となって、その新議会がまた臨軍費を否決したらどうなる。終戦内閣か? もう一度二・二六か? これが据傲な態度で国民を睥睨していた彼らが、常にその心底に抱いていながら、絶対口にしなかった恐怖であった。

その恐怖を決定的にしたものは、二・二六で、彼らはこの体験から、そのときは天皇が自分たちの側に立ってくれないことを知っていたからである。だが、私がそれについて聞いたとき、彼らの恐怖はすでに去っていた。彼らはその事態に至らせぬため、あらゆる手段を使った。従ってその時には、骨を抜かれた議会、すなわち翼賛議会は、すでにできていたのである。
 昭和天皇の戦争責任が問われる時、その根拠は、明治憲法下においては「天皇親政」が建前だった、ということが指摘されます。
 近衛文麿はその『手記』で「特に統帥権の問題は政府には全然発言権がなく、政府と統帥部の両方を抑え得るものは、陛下ただ御一人である。」といい、陛下が、英国流の「君臨すれども統治せず」にとどまって消極的であったことが、日米開戦に至る一因だ、といっています。
 昭和天皇は、これを読んで「近衛は自分に都合のいいことをいっているね」という感想を漏らし、藤田侍従長に、明治憲法下の天皇の権限について、「天皇親政」という考えを明確に否定し、それは立憲君主制下の制限君主であり、自分はその憲法の規定に沿って行動した、と述べています。
 そしてこれが、当時公認の美濃部達吉をはじめとする憲法学者の解釈でした。ではこの「天皇親政」という考え方はどこから出ているかというと、この時代においては、それは憲法ではなくて実は『教育勅語』だったのです。
これは、いわゆる「尊皇史観」に基づき、天皇と国民の紐帯を朕と赤子の関係と捉え、その忠孝一致の精神の強さを説くもので、これがいわゆる「国体明徴運動」に発展したのです。この明治維新以来の「天皇親政」と「立憲君主」のダブルスタンダードが、国民の被統治意識の分裂という問題を引き起こしたのです。
 ところで、この山本七平の「戦費支出の戦争責任」という考え方ですが、これは大日本帝国憲法第64条の帝国議会の予算審査権及び第67条の政府予算権の規定をふまえてのもので、戦費を支出するかどうかの権限は、政府と議会にあったことを明快に指摘するものです。
 そして、この事実に最も自覚的であったのが軍で、従って、この政府の予算権や議会の予算審査権をいかに手中に収めるかが彼らの戦略だったというのです。軍が米内内閣を倒し近衛文麿内閣を作った動機もそこにありました。近衛の狙いは外にあったともいいますが・・・。

2.26事件の心理的背景
『私の中の日本軍』
p46~48
 前章で述べた「特訓班」にMさんという老兵がいた。三十を越えていたであろう。もちろん結婚もして子供もおり、頭もうすく、でっぷり太っていた。特訓班入りは高血圧のためであった。その彼が、ある日、ぽつんとひとりごとのように言った、「あれじゃーね。二・二六が起るのはあたりまえだよ。二十越えたばかりの若僧があんな扱いをうければ、狂ってしまわない方がおかしいよ」と。

私は学校から軍隊へ直行した「世間知らず」であったが、Mさんは一個の社会人、当時の普通の常識的市民であった。確か都庁か区役所の課長か係長であったと思う。
この彼のような断固たる「常識的市民」から見ると、将校、特に青年将校は、その生活そのものが全く異常の一語につきる有様だったのである。一体この異常とは何であろうか。

二・二六などのルポや小説に登場するいわゆる青年将校は、戦前戦後を通じて、一つの型にはまった虚像が確固として出来あがっている。彼らはまるで「カスミを食って悲憤懐慨し」「全く無報酬で、金銭のことなど念頭になく」「ただただ国を憂えていた」かのような印象をうける。だがそういう人間は現実には存在しない。悲憤慷慨慨し、国を憂え、世を憂えていたように見える将校も、実際は月給をもらって生活している普通のサラリーマンであり、さらに収入という点では当時の社会で最も恵まれない「ペエペエの貧乏サラリーマン」だったのである。
(中略)
   
皮肉といえば皮肉だが、軍部が勝手に起した満州事変、それにつづく「昭和十五年戦争」によって絶えず進行して行った悪性インフレは、貧乏サラリーマンにすぎない下級将校を徹底的に苦しめたのである。部隊内では、将校は半神の如き存在である。
そこでその勢威から、だれでも、彼らが相当立派な門構えの家にでも住んでいるような錯覚をいだく 。しかし現実には、中尉クラスでは間借り、大尉クラスで、連隊の裏門に近い一年中日もささない百軒長屋がその住居だった。連隊一羽振りのよくみえる「I連隊副官の家を探したが、どうしても見つからない。探し探してたどりついたら四畳半と三畳だけの裏長屋であった」というようなことは少しも珍しくない。内地での私の中隊長も同じであり、ひどい裏長屋の一番奥の日の当らない一区画に住み、大尉夫人が、うすぐらい電灯の下で、髪をふりみだして一心不乱に封筒はりの内職をしていた。これは私の母が現実に目にした情景である。そして当時、その中でも最も生活に困っていたのが「特進」といわれた将校たちであった。
(中略)
   
誇り高き青年将校にとっては、そのことも、またそれが彼らの落ち行く先の姿であることも、共に全く耐えられないことであったろう。一つの夢と自負心をもって社会に出て、いわゆる定年まぢかの先輩たちのうらぶれた姿に大きな幻滅を感ずるのは何も彼らだけではないとはいえ、彼らにとって現実と夢はあまりに違いすぎた。しかも彼らは当時の社会のエリートであり、士官学校は今の東大をはるかに越える魅力と威力をもっており、みな郷土の秀才、郷土の誉れとして入学し、一般社会から完全に隔絶した全寮制の中で、国家の柱石として徹底的なエリート教育をうけてきたのである。その彼らにとって、これが光輝ある「帝国陸軍」の現実の姿であっては、「世の中はマチガットル」と考えても不思議ではない。むしろそれが普通で、そう考えなければ不思議である。
(中略)
   
二・二六事件については、農村の貧困が彼らを決起させた一因だというのが定説のようだが、私はそう考えていない。もっともっと明白な貧困が彼ら自身にあり、また彼らの目前にあった。確かに退役佐官の保険外交員も憂鬱な存在であったろうが、しかし候補生として軍隊に来たとたん、おそらく、衝撃を受けるほど彼等を驚かせたものは「残飯司令」や「残飯出勤」、また「ボロかつぎ」「増飼将校」などの存在ではなかったろうか。
(中略)
   
二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的地位は、はたちを少し超えた最下級の貧乏サラリーマン、それと末端の管理職、課長というより係長というべき「ヤットコ大尉」である。しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根源を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。
 このニ・二六事件の青年将校の心理状態の説明については、統制派の属する青年将校と皇道派に属する青年将校の違いを無視するわけにはいきません。それは軍内の学歴差別というべき問題に起因していました。
 というのは、陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていて、陸大出身者は、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務するが、陸大を出ていない将校たちは、参謀への昇進の道を断たれ、主に実施部隊の隊付将校として勤務しました。前者がいわゆる「統制派」、後者が「皇道派」青年将校と呼ばれました。
 「統制派」は「1918年(大正7年)頃から永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機らが二葉会を作り、陸軍の長州閥を打倒、総力戦への体制を整備を目標としました。この二葉会と、満蒙問題の解決を目標とする鈴木貞一の木曜会が1929年(昭和4年)に統合され、一夕会と改称し、①人事の刷新。具体的には宇垣閥を追放、一夕会メンバーを主要ポストに就かせること。②満蒙問題の解決。具体的には機を見て武力で占領すること、などを目標としました。
  一方、「皇道派」の青年将校らは、こうした「統制派」の権力指向を「統帥権干犯」と批判し、「あなた方陸大出身のエリートには農山村漁村の本当の苦しみは判らない。それは自分たち、兵隊と日夜訓練している者だけに判るのだ」という不満を抱いていました。
  そして、農山村の貧困の原因は、日本が本来あるべき国体から外れたためであり、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであると考えました。
  そこで彼らは、明治維新をモデルとした「昭和維新」を行うことによって、「江戸幕府」ならぬ「君側の奸」を倒し、再び「天皇親政」を回復しようとしたのです。それによって、人々を搾取する特権階層が一掃され、国家の繁栄がもたらされると考えたのです。昭和維新がなった暁には自決する覚悟でした。
  この両者の違いと共通点についてですが、「統制派」が「皇道派」の「国体イデオロギー」を利用して軍主導の「国家改造」を目指そうとしていたことは事実で、その違いは「統制派」はそれを計画的・組織的に、「皇道派」は純粋に捨て身で実行しようとしていたということです。ここで「国体思想」が共有されていたことを忘れるべきではありません。
 
大に事える主義
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p270~271
 その日九時ごろ、私は家を出た。学生服の下にパンツでなく下帯をつけていた。これが当時の徴兵検査の”正装”である。検査場は杉並区下高井戸の小学校の雨天体操場、家から歩いて四十分ぐらいの距離である。その古い木造校舎は、戦後もしばらく残っていた。校門の近くの塀に白紙がはられ、筆太に矢印で検査場への道すじが示されている。殆どが学生服の三々五々が、手に書類をもってその方へ行く 雨天体操場にはゴザが敷かれ、壁ぎわがつい立てで仕切られ、その各区画を順々に通って検査をうける。周囲をつい立てで囲まれた中央のゴザの広間がいわば待合室で、その正面が講壇、終った者はその前に裸で並び、順々に呼び出されて壇の上から検査の結果が宣告されるらしい。

そんな光景を、あけ放たれた雨天体操場の入口を通して横目で見つつ、その入口の横に机を並べて書類の受付をしている兵事係らしい人びとの方へと私は向った。その前には十数人の学生服が、無言で群れていた。そのとき私は、机の向うの兵事係とは別に、こちら側の学生の中で、声高で威圧的な軍隊調で、つっけんどんに学生たちに指示を与えている、一人の男を認めた。在郷軍人らしい服装と、故意に誇張した軍隊的態度のため一瞬自分の目を疑ったが、それは、わが家を訪れる商店の御用聞きの一人、いまの言葉でいえばセールスマン兼配達人であった。

いつも愛想笑いを浮かべ、それが固着してしまって、一人で道を歩いている時もそういった顔付をしている彼。人あたりがよく、ものやわらかで、肩をすぼめるようにしてもみ手をしながら話し、どんな時にも相手をそらさず、必ず下手に出て最終的には何かを売って行く彼。それでいて評判は上々、だれからも悪くいわれなかった彼。その彼といま目の前にいる超軍隊的態度の男が同一人物とは──。

あとで思い返すと、余りの意外さに驚いた私が、自分の目を信じかねて、しばらくの間ジイーッと彼を見つめていたらしい。別に悪意はなく、私はただ、ありうべからざる奇怪な情景に、われ知らずあっけにとられて見ていただけなのだが、その視線を感じた彼は、それが私と知ると、何やら非常な屈辱を感じたらしく、「おい、そこのアーメン、ボサーッとつっ立っとらんで、手続きをせんかーッ」と怒鳴った。そして以後、検査が終るまで終始一貫この男につきまとわれ、何やかやと罵倒といやがらせの言葉を浴びせつづけられたが、これが軍隊語で「トッツク」という、一つの制裁的行為であることは、後に知った。
(後略)
 この日本人の「事大主義」については、山本七平はいろんな角度からその問題点を指摘しています。 『ある異常体験者の偏見』では、これを「商業的軍国主義」といい、「日本を破滅させた最大の原因の一つは、この『商業的軍国主義』ではなかったか」といっています。
 それは「戦勝者、もしくは戦勝者と見なされた者、あるいは権力闘争の勝利者、もしくは勝利者と見なされた者を絶対の権威とし、その言葉を絶対化して、それを各人がもつべき共通した当然の基準として、それに基づいて一方的に他を断罪し反省を強要する」というような考え方であり、こうした考え方は戦前だけでなく戦後も一貫していると指摘しています。
 こうした傾向は、朝日新聞の「百人斬り報道」における中国への迎合にも典型的に現れており、いずれこの誤りは正されることになると思います。
 また、今日のワイドショウにおける主張の変遷などを見ていると、その時の世間の空気に迎合することで身を守ろうとする姿勢、その時なした主張が間違ってたとしても、とがめられもせず平気なことなど、日本の事大主義には「天秤の論理」ならではのバランスが働いているようです。
私的制裁
『私の中の日本軍』
(p29~30)
(p38)
(p41)
(P42)
 全内務班の報告が終ると、週番士官から注意があり、週番下士官から、明日の勤務が達せられる。終ると内務班長からいわゆる「日々命令」の伝達があり、それが終ると宮城の方を向いて軍人勅諭の「五ヵ条」を奉唱して解散になる。逃亡兵でも出ない限り、点呼そのものはこれだけである。終れば週番士官は連隊本部に行き、週番司令に「異状の有無」を報告する。下士官は全部各自の個室に入る。三年兵・二年兵は寝る準備をはじめる。

そのとき、通常、二年生の先任上等兵によって、その日の「総括」がはじまるわけであった。まさに「総括」であった。赤軍派が「……車の調達でもたついたり、自動車運転のミス、男女関係の乱れなどをとがめ『革命精神の不足』と断定して」総括にかけたように、「近ごろのショネコー(初年兵)は全くブッタルンデやがる」にはじまり、あらゆる細かいミス、兵器の手入れ、食器の洗浄、衣服の汚れ、毛布のしわ、落ちている飯粒、編上靴の汚れ等々、一つ一つのミスをあげてその一日を文字通り総括し、革命精神ならぬ「『軍人精神の不足』と断定して」、そこで私的制裁すなわちリンチが始まる。

合図は「めがねをはずせ」「歯をくいしばって、足をふまえてろッ!」という声であった。あとは、殴打の音、短いうめき、押し殺し切れなかった低い悲鳴、それが消灯までつづいた。

リンチの方法には、私が知っているだけでも、次のようなものがあった。ビンタ、整列ビンタ、往復ビンタ、上靴ビンタ、帯革ビンタ、対抗ビンタ、ウグイスの谷渡り、蝉、自転車、各班まわり、編上靴ナメ、痰壺なめ、食函かぶせ等々。以上だけでも、よくこれだけ嗜虐的なリンチを案出したものだと恐れ入るが、これ以外に私の知らないリンチがまだまだ数多くあったに相違ない。
(中略)
だが私の体験では、社会の底辺にいた人は、軍隊に来てもやはり軍隊の底辺にいた。私的制裁の主役は、そういう誰からも相手にされない万年タン助ではなく、優秀な兵隊、いわゆる一選抜の上等兵、すなわち先任上等兵だったのである。第一、軍隊の底辺にいた人々は、初年兵の前に立って、一応論理的な筋道の通っている説教をし、総括を命じ、かつ制裁を加えるなどという能力はなかったのである。

特訓班が解散し、内務班に帰り、ついで幹候班に移ってから豊橋の第二陸軍予備士官学校へ行くまで、ごく短い期間ではあったが、私にとってはその間、私以外の同年兵にとってはそれ以前から、朝に晩に私的制裁を加えた定評づきの二人をあげると、一人はT兵長で日大の工学部出身、もう一人は上等兵で中卒、職業は都電の車掌であった。当時の大学卒は今の大学院卒、中卒は短大卒と考えてよいかも知れない。そしてもう一人、その後に登場したU見習士官は高等師範、すなわち今の東京教育大学(現・筑波大学)の出身であった。いずれも、社会でも軍隊でも底辺にいた人ではない。

この三人は三人とも、軍隊内の超エリートであった。前の二人は「号砲手」、U見習士官は幹候はじまって以来の成績という人で、後に野戦の経験なく豊橋の予備士官学校教官に転出したという秀才であった。
(中略)
赤軍派への多くの人の疑問は、これだけの多くの人間がなぜ唯々諾々と殺されたのか、なぜだれも反抗しなかったか、にあると思う。同じことは軍隊にもいえる。
前述のように、私的制裁は「軍紀の紊乱」「軍民離間の元凶」であり、厳しく禁止されていた。朝礼のとき中隊長は必ずといってよいほど「撲られた者はいないか、いれば正直に手をあげよ」といった。

これは絶対におざなりの質問ではなかった。私の所属した中隊からすでに逃亡兵が出ており、逮捕されて軍法会議にまわされている。その原因が私的制裁であることは取調べの過程で明らかになっており、こうなるともう内々ですますことはできなくなってくる。これは中隊長のみならず連隊長にとっても「統率力不足」を示す失態であり、昇進にさしつかえることであった。
(中略)
後に見習士官になってから、こういう事故を起すと将校集会所などで、実に、顔もあげられないほど肩身のせまい思いをさせられるのだということを知った。中隊長のこの「正直に手をあげよ」は本気であり真剣であったことは疑問の余地がない。そして手さえあがれば、本気で、処分すべき者を処分したであろうと思う。だが中隊長がいかに真剣でも、だれも手をあげなかった。その理由は説明する必要はあるまい。第一、兵隊の秩序に将校はタッチできなかった。その上、初年兵は「自分の意志で手をあげる」というような「地方気分」は、禁じられた私的制裁によって、すでに一掃されていた。ある雰囲気の中での先任兵長から来る一種の信号以外には、何の反応も示さなくなっていたのである。
*以下伊藤桂一の『兵隊達の陸軍史』より「私的制裁」の部分を紹介します。
 「叩いて教育しなければモノにならない、という考え方が、制裁する側に、一種の使命感のように継承されているのも事実である。これは、叩かれることに耐えてモノになった、という自己擁護の情に通じている。短い時間に兵隊を一人前にする、補助手段として私的制裁を考えている面もある。だが、実際には、鬱滞したエネルギーの発散に、大半の理由は帰するのかもしれない。外出日の翌日は制裁されることが少なかった。それに鬱滞エネルギーの作用らしく、一定の周期のようなものもあって。もう来そうだ、と思うと爆発的にくる。日課としてやっているのではなく、動物本能のようなものなのである。
 私的制裁が、人間性の蹂躙であることはたしかである。しかしそれは制裁されている時点においてそうなのであって。その時期を過ぎきってしまうと、意味は違うのである。いじめられて鍛え上げられた兵隊は、耐久力があって敏感で、戦場へ出たとき境遇に早く馴れる。ということは、死ぬ率が少なくなるのである。これだけははっきりしている。とすると、私的制裁は、兵隊を殺さないための、蔭の力になっていた――といういい方もできるのである。兵営でやっている基礎教練など、戦場では大して役に立たない。役に立つのは、環境への機敏な順応性、体力、がまん強さとカンの良さ、であり、戦場の苛酷に比すれば、私的制裁などは苦痛の度合がよほど少ないのである。戦場では、弱いもの、運の悪いものから順に死んでゆく。とすれば、兵隊は、強くなるために、万全をつくして自らを鍛えねばならない。私的制裁に参っているようでは、戦場では脱落する。少なくも、脱落する率は高い。もともと軍隊というのは、兵隊を自然淘汰してゆく組織であるのだから。
 ただ、ここでいい添えておきたいことは、中共軍には私的制裁などなかったが、実によく戦った。ということである。河北省で中共軍と攻防をくり返していた日本軍部隊の初年兵が、戦闘間捕虜になったが、重傷のため日本軍に送りかえされてきた。このときこの兵隊がしみじみと、中共軍がいかに親切であったかを同僚の初年兵に語った。それをきいた初年兵は、日本軍部隊から奔敵を図ったが。途中で捕まった。事情をきかれ、それが明るみに出た。部隊では駐屯地で初年兵教育をつづけていたのだが、私的制裁が激しかったのが、それ以後(一時的にだが)非常に緩和されている。私的制裁は、従って、天皇の軍隊が思想の軍隊に及ばない。というひとつの人間的弱点を示しているようである。」
日本軍の行軍
『私の中の日本軍』
p66~76

 今ではもう想像も出来ないであろうが、日本軍というのは、そのほぼ全員が二本の足で歩いていたのである。もちろん例外はある。しかし例外はあくまで例外であって、兵隊は文字通りの「歩兵」であった。 機甲師団や乗車歩兵の運用には膨大な燃料がいる。北ベトナムの戦車隊がどれだけの規模か知らないが、おそらくは大機甲師団といえるほどのものではあるまい。それでも、十七度線を越えてパイプラインを敷いているのである。日本軍では、パイプラインを敷設した例はないし、その能力もなかったし、第一、作戦の面積が広すぎて不可能であった。そこで一にも二にも、ただ歩け歩けの「歩兵」しかありえなかった。

だが、一たび地図を広げてみると、この歩きまわった面積と距離はあまりに広大すぎて、おそらく今では、だれにもこれだけの面積を歩きまわるというその実感がつかめないであろう。この広大さに比べれば、たとえば東京の師団が京都まで進撃して、そこで戦闘開始になるなどということは、いわば最短距離である。しかしものはためしで、この距離を炎天下に徒歩で強行軍をしたら、どんな状態になるか想像してほしい。しかも全員が完全軍装である。自分の衣食住は全部背に負い、その上、銃器、弾薬・鉄帽・水筒・手榴弾等をもち、有名な「六キロ行軍」をやったら、いわゆる戦後派の、体格だけで体力なき人々などは、戦場の京都につく前に全員が倒れて、戦わずして全滅であろう。

「六キロ行軍」とは、一時間の行軍速度が六キロの意味だが、これは小休止、大休止を含めての話だから、大体がかけ足になる。演習では一割から二割は倒れることを予定してやるわけだが、戦場では落伍兵はゲリラの餌食だから、「死ぬまい」「死なすまい」と思えば、文字通り蹴っとばしても張りとばしても歩かせなければならない──これは「活」であって、前に書いた私的制裁とは根本的に違う。そして実をいうと、「活」を入れられている者はもちろん、入れている者も、目の前がくらくなっていて、半ばもうろうとした状態なのである。

「人間は熟睡したまま歩ける」といっても信ずる人はいないであろうが、夢遊病者は熟睡したまま立派に歩いている。そして疲労の極の強行軍では、いわば人工的に一時的な夢遊病状態を現出することは、少しも珍しくない。
(中略)
前述のように、日本軍は原則として全兵士が歩いていた。地図で見れば非常に短く見える距離も、重装備で歩くとなればこれは大変な距離である。「マレーの快進撃」などと当時の新聞はいとも気易く書いているが、タイ国との国境の北端からシンガポールまでの距離は、東京から下関までに等しい。南方の炎暑の下で、戦闘をくりかえしつつこれだけの距離を歩いている兵士が、その行軍の過程では、一切の思考力を失って、夢遊病者のようにただ歩いていても、それが当然である。

さらに中国に目を移せば、広東省とか安徽省とか簡単に言うけれども、一省の面積が日本全体よりはるかに広いものは決して少なくない。確かに、日本軍は、人類史上最大にして最後の「歩兵集団]であったろう。「歩く」ということを基礎にした軍隊が、東アジアの全地域に展開するということ自体が、いわば狂気の沙汰である。従って歩かされている全員が、心身ともに一種の病的な状態になっているのが当然である。
(中略)
以上の状態だけでもう十分な苦痛なのだが、苦痛はこれだけですまなかった。厳密な意味での健康体の者は一人もいないといって過言ではない。全員を多かれ少なかれ苦しめたのが「靴ずれ」であり、軍隊語でいえば「靴傷」である。靴傷の苦しみはだれでも知っているから、これを防ぐためにいろいろな秘伝があり、また「軍隊内民間療法」ともいうべきものまであった。

兵士は、元来軍医も軍隊の医薬品もあまり信用しない。最も普及していた秘伝は、新品の靴下は絶対にはかず、相当に使い古した靴下にまずべっとりと洗濯石けんをすりこみ、裏を表にしてはくという方法である。次に靴傷が出来た場合、各人にもたされている「靴傷膏」は使わず、『ほまれ』(軍用たばこ)の灰をつけろ。これは非常にしみて痛いが、歯をくいしばってもがまんして、一本分か二本分の灰を全部靴ずれの上に落せ」という方法であった。
(中略)

それは「バターンの死の行進」によく表われている。炎天下の強行軍で、米比軍の降伏部隊がバタバタ倒れた。「なぜ車両を使わず、かかる想像に絶する残虐行為をしたのか」というわけで本間中将が銃殺刑になったわけだが、日本軍の基準ではこれが普通の状態で、日本兵自身が炎天下にバタバタ倒れながらの強行軍を強いられていたわけである。従って当時の日本軍の将軍たちは、当時の世界的基準でみても、全員銃殺刑にされて然るべき残虐な行為を、日本軍の兵士に対して行なっていたことになる。

前章で、「日本の軍人は、日本軍なるものの実情を、本当に見る勇気がなかった。見れば、だれにでも、その実態が近代戦を遂行する能力のない集団であることは明らかであり、従ってリップサービスしかしない社会の彼らに対する態度は、正しかった」と書いた一因はこれである。

強制収容所なみの苦痛を強いても、一日の行軍距離は四キロが限度(実際にはこれも不可能)だが、この距離は、東名高速の神風夜行便のトラックが時速百二十キロを出すというのが本当なら、わずか二十分で鼻歌まじりで到達できる距離である。従って太平洋戦争とは、新幹線と大名行列の競走のようなものだが、この競走を東アジア全域という想像に絶する広い場所で、前述のような身体的条件のものが、強いられて歩きまわらされたら、その一人一人が一体どうなってしまうか想像してほしい。

こういう状態の集団が宿営地につく。行軍の間は、確かに砲兵の方が歩兵よりも幾分かは楽だが(といっても山砲は別である。彼らは人類に軍隊なるものが出現して以来、最も大きな苦痛を強いられた人びとだと私は思っている)、宿営となると、輓馬隊の労苦は、歩兵の比ではない。
まず厩を仮設しなければならない。既設の厩を使用することは厳禁されていた。炭疽病などの伝染病を恐れたからである。そこで広い場所に繋馬杭という太い杭を何十本も打ち込み、杭と杭の間にロープをピーンと張ってこれに馬をつなぐ。この全作業だけで今の基準なら優に一日分の重労働だろうが、つづいてすぐに水飼をやらねばならない。

馬の飲む水量は人間の比ではない。しかし、普通の部落には、大体そこの住民が日常必要とする水量に応じた井戸しかないから、到底たりず、井戸はすぐ枯れてしまい、時には人間用の水がなくなってしまう。そこで近くの川や隣部落の井戸にくみに行くのだが、これが時には往復一キロ近いこともある。疲れ切った人間にとって、この水運びは本当に苦役である。

しかし馬に十分水をやらないと、疝痛という病気を起す。一言でいえば馬の便秘だが、馬は吐くことが出来ないので、これを起したら最後なのである。がんらい馬は青草を食べている動物なのだから、穀物という濃厚飼料を与えるのが無理なのだが、軍馬を青草で飼育することは不可能だから、かわりに切りわらと水を与えるわけである。疝痛を起されたら、それこそ徹夜で、馬の腹をわらでこすりつづけねばならない。そうなったら大変だから、どんなに苦しくても水は十分に運ぶ。

こういう時に、もしだれかが勤労奉仕で水を運んでくれたら、それだけでその人たちを命がけで守ろうという気になっても不思議ではない。中国のある村長さんが、日本軍というのは水さえくんでやれば絶対に害を加えないことに気づき、輓馬隊が来れば村民総出で水をくんでやり、そのかわり部隊長に一筆書かしたという話をきいたことがある。

 山本七平が招集され、幹部候補生から少尉に任官し、フィリピンのマニラに上陸したのは昭和19年6月15日で、この日はサイパンが陥落した日でした。続いて行われたマリアナ沖海戦では、日本海軍は空母三隻と搭載機のほぼ全てを失い、その結果、西太平洋の制海権と制空権は完全にアメリカの手に落ちました。
  その後のフィリピンにおける戦いは、10月19日に米軍のレイテ上陸に始まり、翌1月27日には、米軍はクラーク飛行場を奪取し、そこを基地として長距離戦闘機がルソン北部を爆撃するようになりました。山本の属する砲兵隊は米軍のアパリ上陸を想定し、その後方のジャングルに布陣していました。
  しかし、米軍はアパリには上陸せず、2月下旬、米軍第1軍団はルソン島北部山岳地帯へ進入しました。バギオに対してはアメリカ軍第33師団が国道11号などから北進し、日本軍の第23師団と独混第58旅団と激突しました。
  6月には、山本少尉は、アパリ正面陣地を撤収し、サンホセ盆地への撤退命令を受けました。そこで、野砲、自走砲、十二榴弾砲など4門を爆破。運搬できる弾薬と旧式山砲二門を引き夜行軍を開始し、サンホセ盆地からパラナン奥地のジャングルに逃れ、そこで終戦を迎えました。
  つまり、ここでの山本の「日本軍の行軍」の記述は、この間に経験した「行軍」や、砲兵としての業務(砲の運搬や砲弾輸送等)や教育訓練の経験を元に、中国戦線における日本軍の「行軍」や「輸送」の実態を述べたものです。
  その第一の問題が、その主な輸送手段が馬だったということです。これは、石油資源が皆無であることや、中国戦線における馬糧の現地調達方式に依存したこと、極寒でのシベリアでの作戦を想定していたことなどによるといわれています。
  その馬の数は、「(一師団の)砲兵隊だけで約七百頭、それに歩兵の歩兵砲、重機関銃、大行李、小行李はもとより、騎兵隊も輜重隊も全部、馬である。その総数は知らないが、何しろ、一万数千の人と何千頭かの馬が、おびただしい量の排泄物を残しつつゾロゾロと歩いで行く」というのが日本軍の「行軍」のありさまでした。
  確かに、大正末期の軍縮以降、陸軍は輸送面における自動車の整備を進めており、昭和8年の熱河作戦の時はフォードを主力とする野戦自動車隊が編成され、昭和11年には自動車製造事業法が成立して自動車の国内生産が開始されています。
  しかし、それがすぐに戦場に反映されたわけではなく、現実の戦線輸送においては、大陸戦線のほとんどが悪路であり、自動車より馬の方が有益であったこともあり、そのため、ここに述べられているような、馬の世話という重労働を兵士に課すことになったのです。(「日本陸軍と馬匹問題」杉本竜 参照)
  山本七平のいたフィリピン戦線では、丈の高い軍馬は水牛より始末が悪いだけでなく、日本馬は熱地には抵抗力がなく、バタバタと斃死するだけで、戦力にならなかったそうです。(比島には荷車を引く小さなポニーのような馬しかいない)
  そのため、砲車の臂力搬送(兵士や現地人労務者を使った人力搬送)が強いられることが多かったといいます。(フィリピンにおけるその悲惨な様子は『一下級将校の見た帝国陸軍』「死の行進について」にリアルに描出されています。)
  山本七平の部隊ではやむをえず水牛を使ったりしていますが、水牛は1日3時間水に入れてやらねばすぐに弱ること。濃厚飼料受けつけず生草しか食べないこと。蹄鉄をつけていないため硬い石だらけの道路は号短距離しか歩かせられないことなどにより、到底軍馬のような使い方はできませんでした。
  もちろん師団には自動車部隊があり、山本七平は、サンホセからカガヤン州カワヤンまで12,000発の砲弾輸送にこの部隊の協力を得ています。しかしそこから先ラロまでは民船をハイジャックするなどの”危うい”手段を使い、それを陸揚げしたあとジャングル内の砲弾集積所までは人力による搬送をせざるを得ませんでした。
  もちろん、トラックが各部隊に一台くらいはあってダイナマイトや現地調達した食料などの物資輸送に使われていましたが、しかし、その燃料であるガソリンの配給は少なく、その確保は、各部隊の”生き残り”をかけた生存競争の様相を呈していたのです。
 
バターン死の行進
『一下級将校の見た帝国陸軍』p339~343
『ある異常体験者の偏見』p151
有名な「バターンの死の行進」がある。・・・この行進は、バターンからオードネルまでの約百キロ、ハイヤーなら一時間余の距離である。日本軍は、バターンの捕虜にこの間を徒歩行軍させたわけだが、この全行程を、一日二十キロ、五日間で歩かせた。武装解除後だから、彼らは何の重荷も負っていない。一体全体、徒手で一日二十キロ、五日間歩かせることが、その最高責任者を死刑にするほどの残虐事件であろうか。後述する「辻正信・私物命令事件」を別にすれば――・・・だがこの行進だけで、全員の約一割、二千といわれる米兵が倒れたことは、誇張もあろうが、ある程度は事実でもある。三ヵ月余のジャングル戦の後の、無地における五日間の徒歩行進は、たとえ彼らが飢えていなかったにせよ、それぐらいの被害が現出する一事件にはなりうる。

だが収容所で、「バターン」「バターン」と米兵から言われたときのわれわれの心境は、複雑であった。というのは本間中将としては、別に、捕虜を差別したわけでも故意に残虐に扱ったわけでもなく、日本軍なみ、というよりむしろ日本的基準では温情をもって待遇したからである。日本軍の行軍は、こんな生やさしいものでなく、「六キロ行軍」(小休止を含めて一時間六キロの割合)ともなれば、途中で、一割や二割がぶっ倒れるのはあたりまえであった。そしてこれは単に行軍だけではなくほかの面でも同じで、前述したように豊橋でも、教官たちは平然として言った、「卒業までに、お前たちの一割や二割が倒れ
ることは、はじめから計算に入っトル」と。

こういう背景から出てくる本間中将処刑の受取り方は、次のような言葉にもなった。「あれが。死の行進”ならオレたちの行軍はなんだったのだ」「きっと”地獄の行進”だろ」「あれが”米兵への罪”で死刑になるんなら、日本軍の司令官は”日本兵への罪”で全部死刑だな」

当時のアメリカはすでに、いまの日本同様「クルマ社会」であった。自動車だけでなく、国鉄・私鉄等を含めた広い意味の「車輛の社会」、この社会で育った人は、車輛をまるで空気のように意識しない。そして車輛なき状態の人間のことは、もう空想もできないから、平気で「形影」などといえても、重荷を負った徒歩の人間の苦しみはわからない。「いや私は山歩きをしている」という人もいるが、「趣味の釣り人」と「漁民の苦しみ」は無関係の如く両者は関係ない。否むしろ、山歩きが趣味になりうること自体、クルマ時代の感覚である。

当時アメリカ人はすでにその状態にあった。従って彼らは、バターンの行進を想像外の残虐行為と感じたのであろう。しかし日本側は、もちろん私も含めて、相手がなぜ憤慨しているのかわからない。従って「不当な言いがかり、復讐裁判」という感情が先に立つ。だが同じ復讐裁判と規定しても、戦後の人の規定とは内容が逆で、前者は「これだけの距離を歩くことが残虐のはずはない」であり、後者は「確かにひどいが、われわれはもっとひどかったのだから差別ではなく、故意の虐待でもない」の意味である。一番こまるのは、同一の言葉で、その意味内容が逆転している場合である。戦無派と同じ口調で戦争を批判していた者が、不意。に「経験のないヤツに何がわかるか!・」と怒り出すのはほぽこのケース。そこには、クルマ時代到来による、その面のアメリカ化に象徴される戦後三十年の激変と、それに基づく「感覚の差」があるであろう。

この「差」は本当に説明しにくい。子供がレーピンの絵「ボルガの舟曳き人夫」を見、その悲惨な姿に「ひどいなあ、これじゃ革命が起ってあたりまえだ」と言う。私は思わず「ひどいもんか、日本軍はもっとひどい。第一、舟ならエンカンで撲り倒される心配はない」と言う。「エッ、エンカンつて何、だれが撲るの?」ときかれただけで、この一事の説明ですら不可能に近いと、一種”絶望的”になってしまう。――エンカン、轅桿、それを機だきにしたまま、精根つき果てて放心したように土に膝をついている一兵士の蒼白の顔――それを見たのは、確か昭和二十年の一月中ごろのひとであったが――。

重荷なき百キロが「死の行進」で、三十キロ背負って三百キロが「地獄の行進」なら、そのうえ、三トンの砲車と前車を「舟曳き人夫」のように曳いて三百キロ歩くことは、一体、何の行進と言ったらよいのか。それはもう、それを見た者以外には、想像できない世界である。私は後述する。死の転進”をせず、アパリ正面の陣地に残されたが、その転進がどんな情景になるかは、これから転進しようとする人たちよりも、よく知っていた。部隊はジャングル内の陣地に入ったが、私だけが後方連絡と補給のため五号道路(国道)ぞいの小家屋に残っていたため、ゴンザガ東方に上陸してバレテ噸へ向う第十師団の砲兵の「地獄の行進」を、すでに見ていたからである。(『一下級将校の見て帝国陸軍』p339~343)

捕虜の収容で一番困る問題は、それが終戦または停戦で不意に発生し、しかし何名になるか見当がつかないことである。「バターン死の行進」の最大の原因は、二万五千と推定していた捕虜が七万五千おり、これがどうにもできなかったということが主因で、これも「捕虜だから」特にどうこうしたとはいえない。戦場では、善悪いずれの方向方向へもそういう特別扱いをする余裕がないのが普通である。(『ある異常体験者の偏見』p151)
 「バターン死の行進」とはいかなるものだったか。米軍はこれを日本軍の残虐性を示すものとして世界的な宣伝を行いましたが、そこには日本軍と米軍の「戦争観」の違いがありました。また、予想外に大量に出現した衰弱した兵士を、日本軍が人道的に扱うだけの物的余裕を、当時の日本軍が持たなかったという現実的な問題もありました。
 日本軍は、当初「敵がバターン半島に逃げ込むなら封鎖(兵糧攻め)するだけ」(マッカーサーは封鎖を最も恐れていた)と考えていましたが、決戦論が台頭し、これを捕捉撃滅することになりました。
  当初は、追撃戦のつもりで軽く考え、主力第48師団をジャワに転出したり、第65旅団(奈良兵団、守備工作部隊で老兵が多く装備も貧弱だった)を攻撃に当たらせたりしましたが、戦況発展せず多大な犠牲を生むことになりました。そこで、ついに大増援軍を送ってマニラ占領から4か月後の4月3日に総攻撃を開始し、4月11日に米軍は投降しました。
  その時投稿した米兵の数は将兵合わせて7万5千人もいて日本側推定の約二倍でした。この俘虜を、日本軍はサンフェルナンドの捕虜収容所までの全長120キロ移送しなければならなくなりました。しかし、日本軍にはトラックも少なく、十分な給与をするだけの余裕もなく、また俘虜の多くは飢餓状態でマラリア患者も多く、ここにアメリカが宣伝した「バターン死の行進」が現出することになったのです。(死者約7000~10000内米軍2300)
  これは、日本軍の貧困なる物資力(食料や医薬品)から考えると仕方のない面もありました。また、激戦後の戦場心理や、捕虜に対する考え方の違い、さらには「比島軍政をもっと厳格にせよ」という軍中央の批判の影響もあったとされます。
  このバターン戦で、あまり指摘されていないもう一つの問題は、日本軍は「アジア開放」の大義名分から、比島将兵6万8千人を一挙に放免したということです。これが米軍に再編され、後のフィリピン戦でのゲリラ活動に日本軍が手を焼くこととなりました。また、今井武夫大佐は大本営参謀辻正信の俘虜虐殺「私物命令」を拒否しています。その後、コレヒドール要塞攻略戦が戦われ、5月6日に米軍は投降しました。
  さらに、もう一つの問題は、この間3月11日にマッカーサーほか18人の主要将校が豪州へと脱出したことです。日本軍はこれに全く気がつきませんでした。「比島は早晩失われる副次的戦場であって、これを死守する必要はなく、主要人物は遅くならないうちに豪州に脱出すべし」という大統領令が2月22日に到着していたのですが、日本軍ではこれは敵前逃亡であって許されることではありませんが、米軍はこうした大局的な判断をしたということです。
日本軍の敗因は「飯盒炊さん」
『私の中の日本軍』
p72~73
 「日本軍敗北の原因は飯盒炊さんにあった」と言った人があるが、私も、少なくとも大きな原因の一つだったと思う。敗戦の原因は、横井さんのように、単純に兵器不足と考えるわけにはいかない。由来「米食民族は戦争はできない」というのが定説で、日本人はその例外だそうだが、「飯を炊きながら、歩きながら戦争をする」などということは、戦国時代から西南戦争までの内乱、すなわちお互いに米を食べている同士の戦争で初めて可能なことで、明治時代にすでに奉天までが限度で、それ以上は無理だったわけである。
   
それが、日露戦争時代と変らぬ徒歩で、同じような三八式歩兵銃と背嚢をかつぎ、飯を炊きながら東アジア全域を歩きまわるのだから、妄想にでもかられなければ出来ることではない。しかし科学的になったはずの今の日本ですら「百人斬り」が事実で通るのだから、当時の日本人が、「飯を炊き、歩きながら、近代戦が行える」と信じていたとしても不思議ではない。

炊くと簡単にいうが、燃料まで持って歩いているわけではない。そして燃料とは、ありそうで案外ないものである。特に長雨がつづけば、皆無といってよい。もちろん一人二人ならなんとかなる。しかし一個師団」といえば簡単だが、これは編成で種々様々だが、私のいた最低師団でも一万四千人ぐらいがいた。それがゾロゾロ歩いて行き、行く先々で飯をたく。民家の薪を徴発するといっても、後続の部隊には、もう徴発したくとも、燃える物は何一つ残っていない。砲兵は常におくれるから、燃料集めは人一倍苦労し、時には、燃えるものなら片端から集めてもまだ足りないことがある。

飯は炊けても副食はほとんどない。いわゆる軍用の「牛かん」があれば最高のご馳走で、たいてい、乾燥野菜の水煮に粉味噌をぶっこんだ汁だけである。全員が栄養障害で脚気的症状を呈するのが当然であろう。
 中国戦線における駐屯地の給食は次のようなものでした。「連隊本部糧抹班(炊事)が、貨物廠に補給請求書を出して受領する。大隊本部は宰領者が連隊本部へ受領に行き、中隊本部以下は逆に、大隊本部から補給を受けたりした。小人数の分屯地は、むろん宰領者を出す余裕がないので、補給を待つわけである。なんらかの事情で、補給の絶えた場合は、分屯地周辺で糧食を調達する。現地自活である。
補給は、主食の外に、加給品がある。酒、ビール、タバコ、甘味品(乾菓、羊羹など)等である。味噌、醤油、食用油等は、むろん主食に付随する。
酒保は内地と同じで、酒類、甘味品、日用品等を販売する。酒保は大きな駐屯地にしかない。(『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一)
作戦命令が出て出動するときは、軍装として「三食分の飯を詰めた飯盒、携行糧株の主食甲(米)、乙(乾パン)、副食(缶詰)、調味料」を携行しました。(『藤井軍曹の体験』伊藤桂一)
宿営地での「黄害」と「害虫天国」
『私の中の日本軍』
p74~75
 (宿営地で)何よりも困るのが便所である。大体民家は一家族四、五人が住むように出来ているから、ザコ寝は出来ても便所があふれる。前にどこかの部隊が宿営した後へ行こうものなら、もう目もあてられない。従って屋外で「所きらわず」ということになりやすい。こういうことの取締り責任者は副官で、ずい分やかましく言うのだが、全員が下痢ぎみでは、この命令の遵奉は不可能に近い。

しかし、人はまだよい。馬となるとお手あげである。馬の一日の排泄量は、普通の人の想像よりはるかに多い。行軍中は道に落してくるのだが、夜間は一カ所にたまる。その量たるや、内地で厩当番をやった経験者ならだれでも知っていることだが、一個中隊で大体、大八車に三台ぐらいになる。

ところが一個師団の進軍というと、砲兵隊だけで約七百頭、それに歩兵の歩兵砲、重機関銃、大行李、小行李はもとより、騎兵隊も輜重隊も全部、馬である。その総数は知らないが、何しろ、一万数千の人と何千頭かの馬が、おびただしい量の排泄物を残しつつゾロゾロと歩いで行くのが、当時の日本軍なのだから、その公害ならぬ黄害による「環境汚染」といえば、全く言語に絶するものになってしまう。

従って、日本軍はハエの大軍に包まれて移動していたと言っても過言ではない。普通のハエ、大きな銀バエ、アブ。さらに入浴も洗濯もできない状態から当然発生するシラミ、ノミ。それに南京虫、ダニ等々々。事実、「戦場には必ずシラミあり」は日本軍だけでなく、外国軍でも同様だったようで、アメリカ軍にはDDTのほかに、収容所でわれわれが「シラミ取り粉」と呼んでいた特別な薬があった。しかし日本軍では両者とも皆無だからまさに害虫天国である。

人間が休息すると同時に、彼らは一斉に蜂起して大活躍をはじめる。昔何かで「やぶ蚊責め」という拷問があったという話を聞いた。裸にしてやぶ蚊が雲集する竹やぶの太い竹に縛りっける拷問で、一晩で気が狂うという話だったと思うが、実際、それにもまさるこの「総害虫責め」は、まさに拷問といってよい。何しろ疲れ切った人間を寝させないのは、これぞ最大の拷問なのだそうだから──従って以上のすべての累積は、本当に、人間に耐えうる限度ぎりぎりの苦しみを強いるわけである。

ところが、これらは日本軍の基準では普通の状態で、戦闘という極限状態でもなければ、敗退・全滅という最悪状態でもない、日常の行軍なのである。しかし世界的水準で考えれば、当時の世界でも、この状態そのものが、到底考えも及ばぬ残虐行為だったのである。
 「明治期から陸軍は疫病対策を重視しており、その観点からトイレについても、人員あたりの数や構造などの設置基準、防疫の観点からの使用方法などを決めていた。
  日本陸軍の兵営では、ほとんどが杭厠(地中に便槽を埋めた)で、将兵1人の1日当たりの大便と小便を合わせた排泄量を約1.4リットルと想定しており、小便器は兵員30人に対し1個、大便器は兵員10人に対し1個の設置基準だった。中国など外地に設置された兵営ではもう少し数が少なかったようだ。
  短期間用は深さ50センチ、幅30センチ、長さ100センチの穴を兵員30~40人に一つの割合で掘った。長期間用は深さ1メートル、幅1メートル、長さ40メートルの穴を1000人に一つの割合で掘った。長さ40メートルあれば一度に40人が使えるという。
  行軍に際しては、行動前に用便をすましておくのが基本だが、生理現象なのでそうばかりもいかない。道路から外れて携帯スコップで穴を掘って用を足し、終わると上から土を掛けた。
  ところがいつも穴を掘れるわけではない。・・・通称大陸打通作戦に携わった陸軍将校の回想録では、湖南省と広西チワン族自治区の境の非常に険しい山岳越えに際して、狭い山道の両側に「黄色い地雷」が行列していたとしている。1コ大隊(600人前後)の通過でそういう“壮観”な光景だったというから、より大規模な部隊が通るとどんなことになったか。(web「日本陸海軍とトイレ」)
日本はアメリカと戦うつもりはなかった
『一下級将校の見た帝国陸軍』
P292~293
 「ア号教育」という言葉と同時に、確かにすべては変った。ただ「精神力」という言葉への遠慮は、奇妙なことにある程度、強調に変った──それがさらに役立だない相手だったはずだが。そしてこの教育の転換と同時に、それまで何となく感じていた疑惑が、私の中で、しだいに、一つの確信へと固まっていった。
それは「日本の陸軍にはアメリカと戦うつもりが全くなかった」という実に奇妙な事実である。これは「事実」なのだ、そして何としても理解しがたい事実なのである──というのは対米開戦を強硬に主張したのが陸軍であって海軍ではないのだから──。あるいは「何を理由に”戦うつもりは全くなかった”などと一方的に断定するのだ、”われわれには戦うつもりはあったのだ”」という反論が出るかもしれない。私はそれに対して次のように答えたい。

問題は「つもり」という言葉である。たとえば土建屋が、建築の手付金を受けとっておきながら、図面一枚ひこうとしないでいて、「私はあくまでも家を建てるつもりでいた」と言っても、それは通らない。軍人が専門職である以上、同じことであろう。
一国の安全を保障しますと約束して軍事費という多額の手付金を受けとり、兵役という負担を課しながら、対米戦闘に関する一枚の図面ももたず、そのための教育訓練の基本的計画さえもっていないなら、アメリカと戦うつもりは全くなかったのだと断定されても抗弁の余地はあるまい。そして一枚の図面すらないことは、「ア号教育」への転換期とその内容が明らかにした。なぜこういうことになったのであろうか。

「驚きと、疑問の氷解と、腹立たしさ」と私は書いた。驚きとは、アメリカと戦うつもりの全くなかった陸軍が強引に全日本を開戦へと持ちこんだことであり、疑問の氷解とは、なぜわれわれが対ソ戦の教育訓練をうけていたのかという疑問が解決したことである。
別にわれわれは、対ソ戦の要員ではなく、結局、それ以外のことは教える能力がないから、今まで通りにそれを教えていたにすぎなかった。K区隊長は、良い意味での、まことに軍人らしいさっぱりした人であり、ジメジメしたインテリ臭がなく、少年のような明るさのある人だった。彼は率直に言った。「『ア号教育』と言っても、何をどう教えたらよいのか、実はさっぱりわからんのだ」と。

その通りだった。そしてそれは、たとえ彼がその言葉を口にしなくても自ずと明らかであった。この世界に仮想敵の存在しない軍隊はない。そして帝国陸軍の仮想敵は一貫してソビエト・ロシア軍であり、また現実にすでに十年以上戦いつづけている相手が中国軍であって、演習で想定される主要な戦場は常に北満とシベリアであった。
 問題は、この「アメリカと戦うつもりが全くなかった」陸軍がなぜアメリカとの開戦を主張したのかということです。
  対米交渉における問題の焦点は中国からの撤兵問題でしたが、陸軍大臣である東條は「中国駐兵は最後までがんばる。」と天皇の命令さえはねのける決意を示していました。多分、撤兵の混乱を避けるためには一定規模の駐兵は必要との考えだったのでしょう。
 一方海軍は、「撤兵問題のため日米戦うは愚の骨頂なり。外交により事態(中国からの撤兵問題)を解決すべし」と内部決定をていましたが、それを外部には明らかにしませんでした。(『激動昭和の領袖』p214)
  陸軍の本音は、「海軍がアメリカとの戦争はできないというなら、そう言ってくれれば陸軍は納得する」(10.14武藤軍務局長)だったともいいます。
 いずれにしろ陸海軍とも日米の国力差からアメリカとの戦争は何としても避けたいというのが本音で、従って「資源の供給」と中国からの「名誉ある撤退」が保証されればアメリカと妥協するつもりはあったということです。
 しかし、「ハルノート」は、そのいずれも拒否するもので、日本はやむなく「自存自衛」のため米英との戦争を決意しました。このハルノートをルーズベルトはアメリカ国民に隠しており、日本はこれを公表することで外交戦を展開することができたはずですが・・・。  
軍の学歴主義
『一下級将校の見た帝国陸軍』
P295
 考えてみればこの予備士官学校の教育の基本そのものが、奇妙なものだった。というのは学生をあれほど信用しなかった軍が、実は学歴偏重主義で、幹部候補生の選抜基準は一に学歴なのである。

なぜこのような方式がとられたか。その原因は戦場で最も多く消耗するのは下級将校、特に小隊長クラスだということである。連隊史などで、階級別戦死比率を調べると、中国戦線では特に、下級将校の戦死比率が異常に高い。下級指揮官を射殺して指揮の末端を混乱させるのは確かに有効な方法であり、従って狙撃の格好の標的となったためと思われる。

これへの有効な補充は、士官学校の卒業生を待っていては追いつかないし、また、将来の軍の幹部として養成したものが中・少尉で消耗しては、中堅幹部がなくなってしまう、という配慮もあったであろう。だがこの方針を採ったもう一つの理由は、日本が貧乏国だという、如何ともしがたい現実であった。

幹候中尉は恩給のつく直前に除隊になるという「使い捨て」の不文律があり、これは正確に実行されていた。酷なようだが、最高七百万までふくれ上がった帝国陸軍の中の全下級将校に恩給を支給したら、日本が破産しただろう。だがそれは、後述するように「学歴を基準とする選抜方式」を正当化はしない。私は、部下を見てしばしば、「なぜ、このような優秀な下士官を将校に抜擢せず、私などを将校にしたのか」と不思議に思った。
 幹部候補生に求められるような学歴のない軍隊生え抜きの兵隊が将校になるためには、、まず下士官候補を志願し、試験に合格したものが少尉候補生となり少尉に任官しました。しかし、この間の試験はおそろしく厳しく、このコース上がりの少尉は能力卓抜で幹部候補生とは桁が違っていたといいます。(『兵隊達の陸軍史』参照
 これに対して幹部候補生は、中学校以上の学歴があるものが志願し少尉に任官しました。幹部候補生は二種類あり、甲種幹候は見習士官で隊付になり大過なければ少尉に任官しますが、玉石混淆、威張るだけで人間的に苦労の足りないものが多く下士官兵は迷惑したといいます。幹候の乙種は軍曹で原隊に戻ります。山本七平は幹部候補生上がりの少尉で、部下の優秀な下士官を見て、軍の学歴主義に疑問を持ったのです。
補給について
『私の中の日本軍』
p92~94

 炊事番への蔑視は、大きく考えれば補給の、および後方業務への軽視、同時にそれに従事する者への蔑視である。「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョ・トンボも鳥のうち」とか「輜重輸卒が兵隊ならば、電信柱に花が咲く」といった嘲歌が平然と口にされた日露戦争時代から太平洋戦争が終るまで、一貫して、日本の軍人には補給という概念が皆無だったとしか思えない。

 この「神がかり」に対する態度は四つしかない。「長いものには巻かれろ」でそれに同調し、自分もそれらしきことをしゃべり出すか、小畑参謀長のように排除されるか、私の部隊長のように「バカ参謀め」といって最後まで抵抗するか、私の親しかった兵器廠の老准尉のように「大本営の気違いども」といって諦めるかである。 「バカ参謀」とか「大本営の気違いども」とかいっても、これは単なる悪口ではない。事実、補給の権威者から見て、インパール作戦を強行しようとする者が「神がかり」に見えるなら、補給の実務に携わっている者から見れば、大本営自体が集団発狂したとしか思えないのが当然である。彼らの気違いぶりを示す例ならありすぎるほどあるし、またあるのが当然である。何しろ、狂人でないにしろ「神がかり」が正常視されてその意見が通り、常識が狂人扱い乃至は非常識扱いされているのだから、そうでなければ不思議である。

 それがどういう結果を招来したか。悲劇はインパールだけではない。次はそのほんの一例にすぎぬが、たとえば『聖書と軍刀』の著者、大盛堂社長の船坂弘氏は「福音手帖」という雑誌の対談で次のように言っておられる。

 「私の(行った)島は……アンガウルという小さな島でした。そこに初めは日本兵が千三百人いたんですが、食糧も水もなくて、結局一ヶ月で百五十人ぐらいしか生き残れなかったんです」「どうしていたんですか」「一ヶ月も水や食糧がありませんから、水のかわりになるのは……しょうべんぐらいのものだったんですが、しまいにそれも出なくなりました。食物はカエルやヘビをつかまえて食べました」

 牟田口司令官が「神がかり」なら、この作戦を強行したものは「狂人」としかいえない。従ってこういう状態におかれた者が前線から逆に大本営の方を見れば、そこにいるのは「気違いだ」としかいいようがないのである。実情は、すべてがアンガウル島であった。ニューギニアやフィリピンの戦死者を克明に調べてみればよい。「戦死」とされているが実は「餓死」なのである。もちろん餓死者は死の少し前に必ず余病を併発するから、さまざまな病名をつけることが可能であろうが、実際は餓死なのである。アンガウル島では千三百人の九割が餓死で、残る一割が戦死、船坂氏は奇跡的な生還者だが、ルソン島の「餓死率」もこれに近いのではないかと思う。従って「大本営の気違いども」といった言葉は、戦後のいわゆる軍部批判と同じではない。彼らがこれを口にしたのは戦争中であり、時には激戦のさなかであって、そこには非常に強い実感の裏打ちがあり、同時に気違いに殺される者に似た諦めがあったのである。

 「日本軍の敗因は飯盒炊さんにあった」といわれるほど、日本軍の米飯には、米の調達から脱穀、水を運び、燃料の薪を集めてきて火を焚き炊さんするまで大変な労力を要しました。
 これに対してアメリカ軍は、太平洋戦争が始まるとすぐ軍隊用の携帯食料を開発しています。ちなみにCレーションは、缶詰タイプで、肉、豆、野菜、シチューの缶詰とパンを主にインスタント・コーヒー砂糖、チョコレートなども含まれていました。
 日本軍も米軍のように補給を重視し携帯食料の開発をすべきだった、ということだと思いますが、米陸軍軍事情報報告(1942~1946)「日本兵の食」によると「日本兵は米と乾パン入りの小さな袋を持って戦闘に参加する。可能なら常に肉の缶詰も持つ。およそ二種類の特別に包装された糧食がある。長方形の圧搾小麦・大麦数個、角砂糖四個、干し魚の茶色い固形物三個、塩辛く赤い干し梅一個以上が入っている。穀物と砂糖は良質である。固形物はそのまま食べても、水を加えて温かい朝食用シリアルにしてもよい。
  もう一種は透明の包装紙に包まれ、両端を紐で縛ってある。一つの包みに紙包み二つが入っており、中身は同じ――魚と野菜の圧縮固形物と細かく碾いた未調理の米粉の包みである。また日本兵は粉と水を混ぜて餅(dough)を作り、冷たいまま食べる。」(『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』参照)とあります。携帯食も作られていたが飯盒炊飯が中心だったと言うことでしょうか。  
星の数よりメンコ(食器)の数
『一下級将校の見た帝国陸軍』
P501~502
(以下の記述は、戦場ではなく、平時の内務班における兵隊社会の秩序のことです)

帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。
兵の階級は上から兵長・上等兵・一等兵・二等兵である。私的制裁というと「兵長が一等兵をブン撲る」ようにきこえるが、実際はそうでなく、二年兵の兵長は三年兵の一等兵に絶対に頭があがらない。従って日本軍の組織は、外面的には階級だが、内実的な自然発生的秩序はあくまでも年次であって、三年兵・二年兵・初年兵という秩序であり、これが階級とまざりあい、両者が結合した独特の秩序になっていた。

そしてこの秩序の基礎は前述の「人脈的結合」すなわち。同年兵同士の和と団結”という人脈による一枚岩的結束と、次にそれを維持する暴力である。二年兵の兵長が三年兵の一等兵にちょっとでも失礼なことをすれば、三年兵は、三年兵の兵長のもとに結束し、三年兵の兵長か二年兵の兵長を文字通りに叩きつぶしてしまう。従って二年兵の兵長は三年兵の一等兵に、はれものにさわるような態度で接する。

表面的にはともかく、内実は、兵長という階級に基づく指揮などは到底できない。それが帝国陸軍の状態であった。このことは「古兵殿」という言葉の存在が的確に示している。一等兵は通常、階級名をつけずに呼びすてにする。しかし二年兵の上等兵は、三年兵の一等兵を呼びすてにできず、そこで「○○古兵殿」という呼ぴかけの尊称が発生してしまうのである。
 兵隊の等級(階級ではなかった)は、「下から二等兵、一等兵、上等兵に分かれている。二等兵は入隊したばかりの新兵、入営から約4か月経過して行われる第1期検閲、その後一ヵ月半経過して行われる第2期検閲を終えると、成績の良い者は一等兵になり、どんなに成績が悪くても二年目には一等兵となった。上等兵には中隊あたり1割の者しかなれなかった。」(1938年から上等兵の上の兵長が設けられた)
 その兵隊社会の秩序は、「どちらが古年次兵か、誰が先任かで従うべき者が決まった」(wiki「兵(日本軍)」)
 古兵というのは二年目(以上)の兵隊が一等兵の階級である場合の呼び名です。兵営では、初年兵一名ないし二名が特定の二年兵に預けられ寝台を並べて寝て面倒を見るようになっていました。初年兵が古兵による私的制裁を受ける場合はその二年兵の諒解をとったともいわれています。(『兵隊達の陸軍史』参照)
「とっつき」と「いろけ」の世界
『私の中の日本軍』
p99~p106
司令部には、隷下の多くの部隊から、私のような「陳情係将校」が、入れかわり立ちかわりやって来た。その人たちとは「同病相憐れむ」のか、すぐ顔なじみになったが、その中では私が一番若く、階級も最も低かったためであろう、みな私に同情していろいろと細かい注意をしてくれた。行く道ですべての人がまるで挨拶のように口を揃えて言った言葉は「ドロガメにトッツカレンようにな」であり、帰る道で言った言葉は「大丈夫だったか、ドロガメにトッツカレンかったか」であった。

「(組織の)弱点、欠点を下から」すなわち砲兵隊から、「上へ」すなわち司令部に報告し、しかも報告している人間も「下から」すなわち見習士官から「上へ」すなわち少佐参謀へという形になれば、たちまち徹底的にトッツカレルのである。ドロガメにつかまる。「ナニー、ウン、砲兵隊か。砲兵隊の戦備はドーナットル! 何をグズグズシトル」「実は測角機材が皆無なため、何も手をつけられない状態でありまして・・・」ここまで言えばもう先は明らかであった。「ナニッ、機材がないから戦備がデキント。貴様ソレデモ国軍の幹部カッ……」に始まり、後は罵声、怒声、殴打、足蹴である。前に「正直なところ背筋がゾクッとした」と書いたのは、反射的にこの情景が脳裏に浮んだからである。

高木俊朗氏がビルマ戦線における花谷中将のこういった異常な状態を書いておられる。だれでもかでも殴りつけ蹴倒し、「腹を切れ」といい、連隊長でも副官でも兵器部長の大佐でも容赦しない――だがあれを読んだ人が、花谷中将という人だけが異常だったと考えればそれは誤りである。ああいうタイプの人間は、中将から上等兵に至るまで、至るところにいた。
(中略)
そして不思議に主導権を握る。同時にその被害を受けた者はそれらしき影を垣間見ただけで、一瞬、動物的ともいえる反射的な防御態勢をとるようになる。・・・この防御姿勢は・・・「一心不乱に戦闘準備をしております」というジェスチャーにもなる。このジェスチャーを軍隊では「イロケ」といった。
(中略)
この「上からトッツキ」と「下からイロケ」で構成される世界は、外部から見ているとまことに一億一心、まさに鉄の団結であり、一糸乱れぬ統制の下にあるように見える。私はいわゆる無条件の中国礼賛者には、二つの種類があると思う。その一つは、たとえば内藤誉三郎氏のような人で、いわば戦争中の一億一心滅私奉公を一方的に七億一心に投影し「中国は大した国だ。戦争中の日本のように国民は一糸乱れず生活している」というような言葉が出てくる人である。全く冗談も休み休み言ってほしい。戦争中の日本で、その象徴ともいえる「大日本帝国陸軍」の実態、あの「トッツキ」と「イロケ」の秩序の実態が、まだわかっていないのだろうか――それがわからず、これを「一糸乱れず」と見うるこういう人たちは、生涯常に「トッツキ」側にいたに相違ない。
(中略)
私と同世代に大日本帝国陸軍にいて、「フケメシ」という言葉を知らない者はおるまい。旧軍隊をいかに美化したところで、また内藤誉三郎氏がいかに一糸乱れずと感じたところで、そんな虚飾は、この「フケメシ」という言葉の存在の前に、一瞬にして消しとんでしまう。三島由紀夫氏が切腹したとき、私は反射的に、氏はこの「フケメシ」という言葉を知らなかっただろうなと思った。フケメシとは読んで字の如く、メシの中にフケをまぜて食わせることである。もちろん本当ではあるまいが「ドロガメは毎日フケメシを食わせられているそうだ」という噂もあり、みなそれを聞いて、内心快哉を叫んでいるわけであった。
(中略)
私は前に、「日本の軍人は、日本軍なるものの実情を、本当に見る勇気がなかった」と書いたが、そのとき脳裏にあったことの一つは、この「トッツキ」と「イロケ」が生み出す虚構の世界である。そして日本を滅ぼした原因の一つはこれだと思っている。そして将来日本を滅ぼすものがあれば、やはりこれだと思っている。――自らの目をつぶした大蛇が、自分で頭に描いた妄想に従って行動し、のたうちまわって自滅した。日本軍への私の印象はそれにつきる。
 ここに、「三島由紀夫氏が切腹したとき、私は反射的に、氏はこの「フケメシ」という言葉を知らなかっただろうなと思った」という言葉が出て来ます。山本が、なぜ唐突にこんな話を持ち出したかというと、それは、三島由紀夫の小説『英霊の声』にあると思います。
 三島は、この小説の中で、昭和天皇が2.26事件で叛乱を引き起こした青年将校達に同情しなかったことに対し、これを知った磯部浅一に、次のような昭和天皇への呪詛の言葉を投げかけさせています。
 「あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。」
 このように、天皇が神であることを信じ、政府や軍の要人を暗殺することによって「明治維新」の完遂と言うべき「昭和維新」を断行し、「天皇親政」の国体の顕現を目指したのが2.26事件の青年将校たちでした。三島は、こうした彼らの思想と行動の「純粋性」に共感し、これに理解を示さなかった昭和天皇を批判したのです。
 こうした三島の青年将校観に対して、山本は、彼らのように「尊皇思想」に凝り固まって自己絶対化した青年将校たちの多くは、花谷中将のように、倨傲かつ傲慢で、戦場では誰彼となくトッツキ、暴力をふるい、不思議と軍の主導権を握った。しかし、彼らは裏で兵隊達にフケメシを喰わされていた、と言ったのです。
 山本七平は、実は、この天皇を現人神化する「尊皇思想」の思想史的系譜を明らかにすることを、終生の課題とした人でした。ここには、統制派と皇道派の違いもあるでしょう。しかし、それは思想的には同床異夢で、両者とも、天皇の軍の統帥権を楯に、内閣から自立する軍の主導権確立を目指しました。その現実の姿が、戦場では「トッツキ」と「イロケ」の世界だったと言うのです。
空閑少佐自決事件
『私の中の日本軍』
p506~507
 私はこの話は、捕虜とか自決とかいう問題について、一種の雑談として部隊長から聞いたことで、細部は知らないから、幾分かは事実と食い違いがあるかも知れぬが、聞いたままにその要旨を記そう。

一体全体「捕虜になったら自殺せねばならぬ」という「規定」はだれが制定したのかという問題である。陸軍刑法にはそんな規定はない。従って天皇が裁可した規定ではない。戦後には、この問題でよく引き合いに出されるのが『戦陣訓』だが、「空閑少佐事件」のときは「戦陣訓」は存在しない。そして、部隊長の意見では、そうではなくて、実は日本の新聞がきめた「規定」だということであり、その発端が「空閑少佐事件の報道」だというのである。

これは、上海事変のとき、日本軍の一個連隊が中国軍に壊滅させられたときの話である。何しろ「マスコミ無敵皇軍」には敗北はないはずだから、知らせずにおけたらそれが一番なのだが、連隊長は戦死し、大隊長の空閑少佐は負傷して人事不省になり、捕虜になってしまった。事変は短期間で終り、停戦・捕虜交換となる。当時はまだ「捕虜は自決セエ」の時代に入ってなかったから、すべてを――連隊の壊滅を含めて――明るみに出さないわけにいかない。
(中略)
いずれにせよ空閑少佐は「大切」にされ、事変終了と共に捕虜交換で日本側に引きわたされた。そして軍法会議にかけられたが、「人事不省」で「捕虜」になったと認められて判決は「無罪」。ところが、彼は内地送還の直前、戦死した連隊長の墓標の近くで自殺したという。ここの話も少々変なのだが、細部は省略しよう。いずれにせよ当時のマスコミは例の手で「激戦の記事」「師弟愛美談」「微笑を浮べて自決」「武士道の華」を巧みにミックスして、この全滅・捕虜事件を隠し、彼を一種の偶像とした。
(中略)
だが一体全体、軍法会議で「無罪」の彼がなぜ自殺したのか、本当の意味の「自殺」だったのか、それとも何らかの圧力で「自決させられた」実質的な他殺だったのか?自殺するなら軍法会議前が、否、「捕虜」とさとった瞬間が普通である。だが彼には「捕虜→自殺」は必然的帰結という考えはなかったように思われる。当時はこれが当然だったのかも知れぬ。そして彼は、判決後「今後、もし戦争があったら一兵卒として従軍したい」という意味のことを言っているから、その時点までは絶対に自殺の意思はないはずである。
(中略)
この古い話がなぜ話題となったか。言うまでもなく、前線のわれわれはいつ空閑少佐と同じ運命に陥るかわからない。人事不省になり、捕虜になることは当然にありうるであろう。そして捕虜交換で帰されたらどうなるか。

附軍刑法という「悪法」ですら、その者を無罪だといって放免したのに、その悪法以上に恐ろしい「何か」がそのものを殺してしまった、という厳然たる事実がわれわれの前にある。
(中略)
空閑少佐の話は、私の少年時代のことなので、当時の私も部隊長の話で知ったわけである。そして部隊長がこの事件に接したのはおそらく下士官時代であって、彼は、そのときの新聞報道に、何か「ショック」を受けたのだと思う。いわば今までの軍隊にはなかったはずの何かが、ある種の影のようなものがしのび寄って来たような感じであったろう。
 この空閑少佐の自決事件については、辻正信の次のような証言がある。
 「空閑少佐は金沢歩兵第七連隊で辻が少尉のときに仕えた中隊長であり、上海事変では大隊長として出征していた。
 空閑少佐はこの時の戦闘で捕虜となり、停戦後日本軍に送還された。ある日、空閑少佐から辻にたいし、「ひと目あいたい」という連絡がきた。辻は上海紡績工場の二階に、変わり果てた少佐を訪ねた。
 「同期生たちが自殺せよとすすめてくるが、貴様だけは俺の気持をわかってくれると思う。俺は死を恐れてはいない。ただ部隊の戦闘詳報と、戦死した部下の功績調査を報告するまでは、どんなに苦しくても死ねないのだ」
 少佐は辻の手を握ってしみじみ話した。一週間後、すべての報告を終わった空閑少佐は、ひとり車を戦場に走らせると、林連隊長の墓前に花を供え、正座してピストルで自殺した。」(『辻正信と七人の僧』)
 「日露戦争でも村上正路大佐をはじめ捕虜となった者はいたものの、処罰される事はなく、金鵄勲章を授与する事さえあった。しかし彼らは民間人から白眼視される傾向にあり、軍部も空閑の一件での世論の動向に注視していたが、捕虜を否認する民衆の観念が職業将校団と同じほど強烈であることを認識し、これ以降、日本軍で捕虜をタブーとすることが次第に習慣化していったようである」(wiki「空閑昇」)
 「敵の捕虜になれば惨殺される――という考え方も、兵隊の中には浸透していた。しかし事実は、優遇されないまでも迫害されず、抗日運動の要員として使用されたことは、記録にまとめられている通りである。(『兵隊達の陸軍史』)
 捕虜に対するこうした考え方が日露戦争後一般化していったのは一体なぜなのだろうか。    
日本軍の捕虜
『私の中の日本軍』
p509
 「絶対に日本に帰さないでくれ、帰さないでくれれば、何でも言います」これが日本軍の捕虜のお定まりの台詞であることは前に記した。そこにはこの気味の悪い[何か]が、全く得体の知れぬ「何か」が、ちょうど「殺人ゲーム」後のヒステリー状態のような何かか、「獣兵は名乗り出よ」と言った如く「捕虜は名乗り出よ」と言ってギラギラ目を光らせており、その人間が「自決」したら、血に狂ったようなわっという歓声をあげ、新聞はたちまち空閑少佐流の「美談」をその死体に投げかける、といった感じが、すべての人間にあったからであろう。そして、そうなるくらいなら捕虜でいたままの方がよい、と。  「年次の浅い兵隊、または戦争経験の薄い兵隊は、敵の弾丸よりも、なにかで捕虜になることを恐れながら、戦っていた例を少なしとしない。戦争で死ぬことにはともかく諦めはつく。ただ重傷その他の事情で敵手に陥ちたとき、かりに送り返されるか逃げ帰るかしても友軍によって銃殺される、という非情な軍紀が、兵隊の心情を暗くしめつけたのである。」(上掲書より)
「気魄」という名の演技
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p391
演技力の基礎となっているものを探せば、それは”気魄”という奇妙な言葉である。この言葉は今では完全に忘れられているが、かっての陸軍の中では、その人を評価する最も大きな基準であった。そして一下級将校であれ一兵士であれ、「気魂がないツ」と言われれば、それだけで、その行為も意見もすべて否定さるべき対象であり、「あいつは気魄がないヤツだ」と評価されれば、それは無価値・無能な人間の意味であった。

では一体この「気魂」とは何なのか。広辞苑の定義は「何ものにも屈せず立ち向っていく強い精神力」である。これは、帝国陸軍が絶対視した「精神力」なるものの定義の重要な一項目でもあったであろう。だが、実際にはこの「気魄」も、一つの類型化された空疎な表現形式になっていた。どんなにやる気がなくても、その兵士が、全身に緊張感をみなぎらせ、静脈を浮き立たせて大声を出して、”機械人形”のような節度あるキビキビした動作をし、芝居がかった大仰な軍人的ジェスチュアをしていれば、それが「気魄」のある証拠とされた。従ってこれを巧みに上官の前で演じることが、兵士が言う「軍隊は要領だよ」という言葉の内容の大部分をしめていた。内心で何を考えていようと、陰で舌を出していようと、この「演技・演出」が巧みなら、それですべてが通る社会だった。戦場に送られまいとして、この演技力を百パーセント発揮して、皇居警備の衛兵要員として連隊に残った一兵士を私は知っている。その彼は陰では常に「野戦にやられるくらいなら逃亡する」と言っていた。

将校にももちろんこれがあった。そして辻政信に関する多くのエピソードは、彼が「気魄演技」とそれをもとにした演出の天才だったことを示している。そしてロハスを処刑せよとか、捕虜を全員ぶった斬れとかいった無理難題の殆どすべてが、いつか習慣化した虚構の「気魄誇示」の自己演出になっていた。そして演出は一つの表現だから、すぐマンネリになる。するとそれを打破すべく誇大表現になり、それがマンネリ化すればさらに誇大になり、その誇大化は中毒患者の麻薬のようにふえていき、まず本人が、それをやらねば精神の安定が得られぬ異常者になっていく。

確かに人生には、そして特に戦闘には「何ものにも屈せず立ち向っていく強い精神力」が要請される。だがこういう意味の精神力と”強がり演技”にすぎないヒステリカルな「気魄誇示」とは、本来、無関係なはずであった。真のそれはむしろ、静かなる強靭な勇気と一種の自省力のはずであり、この本物と偽物との差は、最後の最後まで事を投げず、絶対に絶望せず、絶えず執拗に方法論を探究し、目的に到達しうるまで試行と模索を重ねていけるねばり強い精神力と、芝居がかった大言壮語とジェスチュア、無謀かつ無意味な”私物命令”とそれへの反論を封ずる罵詈讒謗の連発との違いに表われていた。精神力とは、これらの気魄誇示屋の圧迫を平然と無視して、罵詈讒謗には目もくれず、何度でもやりなおしを演じて完璧を期し、ついに完全成功を克ち得たキスカ島撤退作戦の指揮官がもっていたような精神の力であろう。そしてこの精神が最も欠如していたのが「気魄誇示屋」なのだが、あらゆる方面で主導権を握っているのが、この「気魄誇示屋」というガンであった。
 それはどこの部隊にも、どこの司令部にも必ず一人か二人いた。みな、始末に負えない小型”辻正信”すなわち言って言って言いまくるという形の”気魂誇示”の演技屋であった。結局、この演技屋にはだれも抵抗できなくなり、その者が主導権を握る。すると、平然と始末に負えない「私物命令」が流れてくる。そしてこれが、何度くりかえしても言いたりないほど「始末に負えない」ものであった。
 というのは彼らが生きていたのは演技の世界すなわち虚構の世界だったが、前線の部隊が対処しなければならないのは、現実の世界だったからである。その上さらに始末が悪いことには、彼らはその口頭命令に絶対責任をもたなかったのである。まずくなれば「オレがそんなこと言うはずがあるか」ですむ。
 「筆記命令をくれ」という理由はそこにある。しかしその筆記命令ですら、彼らが責任を負わないことは、(ロハス処刑の私物命令を受けた)神保中佐が証明している。
 そしてこの、何万人を虐殺しようとなんの責任も負わないですむ気睨演技屋にどう対処するかが、前線部隊にとっては、実は、敵にどう対処するか以上の、やっかいきわまる問題だった。特に、部隊本部付で司令部との連絡係をやっている将校にとっては、この種の参謀との折衝は、文字通り、神経を消耗しつくし、気が変になって来そうな仕事であった。帝国陸軍の下級将校の多くは、敵よりも、これに苦しめられ、そして戦況がひどくなって現実と演技者のギャップがませばますほど、この苦しみは極限まで加重していった。(p392)
日本軍はなぜフィリピンを「石をもって追われた」か
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p334~337
 一体なぜこういうことになったのだろう。一言でいえば、日本軍には、いや日本人には、戦闘の体験はあっても、戦争の体験がなく、戦争の実体を何も知らなかった、そのくせ、何もかも知っていると思い込んでいた、ということであろう。その関係は「アジア」という言葉を絶対視しながら現実のアジアを知らず「アジアという言葉」に対応する対象はどこにもないことを知らなかったのに似ている。

 日清・日露の勝利と誇らしげに言う。だが当時の清朝は長髪賊の乱以後の清朝、日本と清朝の戦いを中国人は第三者的に眺めている。日露となればこの関係はさらにはっきりしている。従ってこれらの場合は、相手の戦闘力を破砕すればそれで万事終了であり、そのことと、「ロシア本土でロシア軍と戦う」こととは全く別である。いわばお互いに土俵を借りて戦っているのであり、この場合には、相手を倒した瞬間に観客が総立ちになって自分に向ってくることはない。だが一国の占領とは、これとは全く別のことなのだ。中国との戦争の苦い苦い体験はそれを日本人に教えたはずなのに――だが迷妄は簡単には醒めない、昔も今も。

 このことは緒戦当時の対比作戦の跡をたどれば、だれの目にも明らかである。バターンの戦闘が終り、在比米一個師団を主力とする比島軍数個師団が降伏し、その戦力が破砕されると、日本軍はすぐさま主力をジャワに転用した。残されたのは約二個師団、三万人。だが七千の島々を含む全比島に、警視庁機動隊より少人数の兵員を残して、何の意味があるのであろう。だがそのうえ日本軍はきわめて”人道的”な処置をとった。すなわち十五万五千人の比島人捕虜をすぐさま釈放し、残した一部も十八年十月の”独立”の際に全部釈放した。

 だがそのときにも、山岳州の米比軍一一四連隊はそのまま残っており、彼らの多くはそれに合流した。そしてこの連隊は米軍再上陸までがんばりつづけている。この処置の背後にあるものは、「戦闘は終ったから戦争は終った、われわれはアジアを解放に来たのだから、全員が双手をあげて歓迎し、心から協力してくれるはずだ」という、一方的な思いこみであろう。

 だが本当にそう信じているなら、二個師団を残さず、全部撤退してすべてを比島政府にまかせ、文官の”弁務官”を置いておけばよいはずである。そして、この政府に日米間の中立を表明させ、比島全域を戦闘区域から除外しておけば、これは歴史に残る「大政略」であり、おそらくわれわれは、変らざる友邦を獲得できたであろうし、また兵力の転用集中においても有用であったろう。これはいわばイギリス式行き方である。

 しかし、その決断は、「成規類聚」の権威(?)東条首相にできることではなかったし、また形を変えた似た情況の場合、いまの政治家にできるかと問われれば、できないと思うと答えざるを得ない。日本には総合的な政戦略が基本だという発想はなかったし、またそれを立案する者も、その案を基に決断を下す者もいなかった。いまもいないのであろう。

 また徹底的に比島を制圧するつもりなら、それは、スターリンが東欧で行なったような方法しかなかったであろう。「従兄弟集団」で動く混血階層社会を徹底的に分断寸断し、恐怖と懐柔を併用し、KGBと収容所群島を創設し、一切の情報を遮断して鉄の規律に基づく徹底的教育を行い、「名親を日本軍に密告するのは立派なことだ」と子供に信じ込ますまで徹底すれば、事態はまた別かもしれない。しかしそれは日本人にとって結局、「言うだけで行えない」ことなのである。

 第一、それを正しいと信ずる哲学も伝統も、またそういう戦い方をした宗教戦争という歴史も、また各自が心底から絶対化しうるイデオロギーもわれわれにはない。そして自分も信じていないことを、人に信じさせることはできないし、また相手の社会機構を完全に知りつくして、その弱点をつかない限り、この方法は不可能である。〃自転”する自軍の組織にさえ介入できない日本人に、どうしてそんなことができよう。

 日本軍のやり方は、結局、一言でいえば「どっちつかずの中途半端」であった。それはわずかな財産にしがみついてすべてを失うケチな男に似ていた。中途半端は、相手を大きく傷つけ、自らも大きく傷つき、得るところは何もない。結局中途半端の者には戦争の能力はないのだ。われわれは、前述のように、「戦争体験」も「占領統治体験」もなく、異民族併存社会・混血社会というのも知らなかったし、今も知らない。

 知らないなら「無能」なのがあたりまえであろう。そして「戦争や占領統治に無能」であることを何で恥じる必要があるであろう。そして戦争に有能な民族を、何で羨望する必要があるであろう。何でその「中途半端なまね」をする必要があるであろう、ないではないか。われわれにはわれわれの生き方がある。それを探究し、合理化し、世界の他の民族の生き方と対比し、相互理解の接点をどこに求めればよいかを、自分で探究すればそれで十分ではないか。また、矢野暢氏は「ベトナムは秘密国だ」と言っておられるが、どの民族にも民族のプライバシーとも言うべきものがある。それを十分に尊重すれば、それで良いのではないか。

 三十年前われわれは東アジア全域から撤退した。軍事的再進出の可能性を主張する声は「日本軍国主義復活」の掛け声に唱和する声が消えるとともに消えた。だが経済的進出はおそらくまだつづくであろう。もちろんいずれも、進出の時もあれば撤退の時もある。撤退は撤退でよい。問題はその撤退のあとをその地の人びとが追うか、あるいは石をもて追われるかの違いだけであろう。
 大東亜戦争における日本軍の占領統治で最もまくいかなかったのはフィリピンのようです。山本七平は文字通り「石をもって追われた」といっています。では、他のアジア各国ではどうだったかというと、伊藤桂一氏によれば次の通りです。
 「中国では、蒋介石の「以徳報怨」(徳をもって怨みに報いる)演説もあり、「長年にわたって中国各地を踏み荒らしたにしては、中国人の日本軍に対する在り方は、対極的にはやはりきわめて寛容であったといわねばならない。」
 「東南アジアでは、タイや仏印(ベトナム)に駐留した部隊も過酷な待遇は受けなかった。一方的な戦犯容疑をきせられて、中には不倒に命を落としたものもあるが、殆どの兵員は、一般民衆からどちらかといえば厚意と同情の目で見送られた。」
 「ラオスでは、民衆は、かった英仏軍よりも日本軍に味方していて、英仏軍人は単独では町中を歩けず、日本軍を護衛して歩いたが、これは一種の奇現象である。英軍は日本兵に対する扱いは厳しかったが、将校に関してはこれを優遇した。(英軍の将校は貴族出身が多いからか?)」(以上『兵隊達の陸軍史』)
 また、インドネシアについては、「戦後の対日感情は他の元占領地と比べて良好だった」とされます。その理由は「 (1) 民族独立運動は蘭印政府によって弾圧されており、民族主義者の間では日本のアジア解放のスローガンが期待されていた。(2) 組織的な反日活動をする指導層が存在せず、軍政が比較的安定していた。(3) 連合軍による攻撃が、一部の地域をのぞいてほとんどなく、国土が戦場にならなかった。(4) 独立を認めず、日本の降伏まで軍政が続いた。(5) インドネシア独立の功労者は、スカルノをはじめとして対日協力をした人々だった。」(wiki「日本占領時のインドネシア」)
 これらに対して、フィリピン人の日本軍に対する反感がひどかったのは次のようなことが考えられます。
 (1)16世紀半ばにスペインに植民地化されて以来のプランテーション経済で宗主国経済に組み込まれていた。また住民の8割はカトリックを信仰していた。(2)「従兄弟集団」の紐帯は宗教的感情を伴った絶対性で守られゲリラとのつながりを断ち切れなかった。(3)1898~1892年の米比戦争を経てアメリカの統治が安定しており、かつ1944年の独立が約束されていた。(4)大小7000の島々からなるフィリピンをわずか二個師団3万人で支配することは困難だった。(5)日本軍はフィリピン占領後「アジア解放」の名の下に15万5千人の比島人捕虜を解放、それを山岳州に残った米比軍がゲリラ部隊に再編増強し、日本の占領統治を攪乱した等。
 要するに、こうした経済・社会・宗教的特徴を有するフィリピンの実情を徹底分析できず、中途半端な軍政を敷いたことが、米軍の反転攻勢により日本海陸軍が壊滅したこともあって、こうした事態を招いたのではないかと思われます。
バシー海峡の悲劇
『日本はなぜ敗れるのか』
p37~68
(小松真一氏の掲げた敗因二十一ヶ条には「バアーシー海峡の損害と戦意喪失」が掲げられている。)私も日本の敗戦をバシー海峡におく。
(中略)
では一体、氏(小松)が記したバシー海峡とは何なのか。「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」という短い言葉の背後には何があるのか。おそらく、ジャングル戦を生き抜いたはずの少数者が、その恐ろしい戦いを語る以上の恐怖を込めて口にした「バアーシー海峡」という言葉の集積がこの一ヶ条の背後にあったはずである。
(中略)
一体、何が故に、制海権のない海に、兵員を満載したボロ船が進んでいくのか。それは心理的に見れば、恐怖に訳がわからなくなったヒステリー女が、確実に迫り来るわけのわからぬ気味悪い対象に、手あたり次第に無我夢中で何かを投げつけ、それをたった一つの「対抗手段=逃げ道」と考えているに等しかったであろう。

だが、この断末魔の大本営が、無我夢中で投げつけているものは、ものでなく人間であった。そしてそれが現出したものは、結局、アウシュビッツのガス室よりはるかに高能率の、溺殺型大量殺人機構の創出であった。このことはだれも語らない。しかし『私の中の日本軍』で記したから再説しないが、計算は、以上の言葉が誇張でなく純然たる事実であることを、明確に示している。
(中略)
だが、私が乗船したころには、米軍の魚雷が高性能になるとともに日本側は老朽船のみになっており、平均十五秒で沈没した。轟音とともに水柱が立ち、水柱が消えたときには船も消えていたわけである。救出者はゼロ、三千人満載した船で、五人が奇跡的に助かった例もあったそうである。
(中略)
そしてバシー海峡ですべての船舶を喪失し、何十万という兵員を海底に沈め終わったとき、軍の首脳はやはり言ったであろう。「やるだけのことはやった」と。(しかし)これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論をすべて試みた」という意味はない。ただある方法を一方向に、極限まで繰り返し、・・・それで力を出しきったとして自己を正当化していると言うだけだろう。

われわれが「バシー海峡」といった場合、それは単にその海峡で海没した何十万かの同胞を思うだけでなく、この「バシー海峡」を出現させた一つの生き方が、否応なく頭に浮かんでくるのである。・・・太平洋戦争自体が、バシー海峡的生き方、一方法を一方向へ拡大しつつ繰り返し、あらゆる犠牲を無視して極限まで来て自ら倒壊したその生き方そのままであった。

だがしかし、わずか三十年で、すべての人がこの名を忘れてしまった。なぜであろうか。おそらくそれは、今でも基本的には全く同じ生き方をつづけているため、この問題に触れることを、無意識に避けてきたからであろう。従ってバシー海峡の悲劇はまだ終わっておらず、したがって今それを克服しておかなければ、将来、別の形で噴出して来るであろう。(後略)
 日本海軍の潜水艦は、艦隊決戦で活躍するよう建造され整備せられた。一方、日本海軍が戦前にかつて軽侮した米国の潜水艦部隊が(海上交通路破壊戦で)いかに活躍したかは、戦争中に日本が蒙った船腹の被害の統計に一目瞭然である。日本が開戦前に保有した船腹量は六百四十三万トン余であった。それに戦時中に建造した船腹量三百三十三万トソと、戦時中に拿捕した敵性国船舶三十一万トソを加えた一千万総トンが、日本が戦争に動員した船腹量であった。このうち戦争その他によって喪失した船腹量は、実に八百万総トンの多きに達した。
 これをさらに喪失の原因の種類別に見ると、潜水艦の攻撃によるものは四百七十六万トソであり、それは全喪失量の五十六・五パーセント、すなわちその過半を占めるのである。敵の航空攻撃によるものは二百六十万トソ(三〇・八パーセント)、触雷によるもの五十六万トソ(六・七パーセント)であり、敵の砲撃によるものはわずかに二万トソにすぎない。いかに敵の潜水艦による被害が大きかったかが分かる。ある意味では日本の戦力は米国潜水艦とB29の遠距離爆撃の前に崩壊したともいえる。
 ここで注目しなければならないのは、米国の潜水艦兵力は、開戦前には日本のそれと大差ないものであったことと、その後増強されたあとでも、ドイツ潜水艦のように強大ではなかった点である。日本の潜水艦兵力がきわめて不振であったのと正反対に、米国潜水艦が猛威を振るった真因は、日本の対潜作戦が全く時代遅れであったためと考えないわけにはいかない。(『日本海軍の戦略発想』千早正隆参照)
末期米
『ある異常体験者の偏見』
p195~196
 「米を持っておらんか?」私は首を横に振ると驚いて彼を見た。もっともほんの一握りの米なら、持っている人がいても不思議でなかった。不思議なことに――否、少しも不思議ではないのだが――ほんの一握りの米を「お守り」のように雑嚢に入れたまま餓死している者は、少しも珍しくなかったのである。われわれはこれを「末期米」と呼んでいた。全くなくなるということに、心理的に耐えられないからであろう。おそらく「米がまだ一握りある、まだ一握りある」と自分に言いきかせて、歩きつづけ、力つきて倒れ、そのまま死んだのであろう。「米」を食べるには水と火がいる。しかし戦場では、それが常時手に入るわけではない。

言いにくいことだが、私は、この末期米で生きながらえた。私だけではないとは思うが、倒れた兵士を見れば、すぐ雑嚢をさぐるのが、習慣のようにすらなっていた。H大尉が言ったのは、いわば「末期米」を持っていないかということであった。ただ私は一枚の軍用毛布以外何ももっていなかった。武装解除の後で、私は狂ったように、何もかも投げ捨てていた、飯盒も水筒も図嚢(ずのう)も地図入れも帯革も一切合財。
 日本降伏後、山本はアパリからマニラに送られカンルーバン捕虜収容所の入り口でシャワー消毒を受けた。「完全裸体、ただし私は、一枚の軍用毛布ははなさなかった。多くの部下がこの毛布の上で息を引きとった。到るところにべっとりと血がこびりついている。遺品も遺骨も何一つ内地へ持って帰れないので、せめて部下の血のついたこの毛布だけはもって帰ろうと考えていた。
 ・・・この毛布は今でもある。(この時米軍の元で働く日本兵に捨てろと強要されたが米兵がokと許可した)」
回虫
『ある異常体験者の偏見』
p146~147
ピクニックやハイキングが盛んになったのは、人糞利用の率の低下と比例しているのではないかと思う。さらに「肥料会社に勤めていると世の誤解があって娘が嫁に行けないから転職した」などといっても、今では一体それがどういうことなのか理解できないであろう。

もちろん、こういう偏見や感覚的なことはどうでもよいことだが――といっても当人にとっては「どうでもよいことではない」が、それよりも何より恐ろしいのは回虫の蔓延であった。水銀中毒の恐怖がなかったかわりに回虫への恐怖があり、公害で日本人は滅亡するという話はなかったが「結核亡国」と並んで「回虫亡国」「脚気亡国」という一種の「滅亡教」的発想は当時もあって「死のう団」などという団体まであった。

また、日本軍の最大の敵は敵軍でなく、結核・回虫・脚気だといわれていた。子供がひきつけを起せば反射的に人びとはその原因を「虫」だと考え、「虫切り・虫封じ」という職業があって、大きい看板をかけており、また新聞・雑誌を開けば必ず大きなスペースで「虫下し」の広告があり、気味の悪い回虫の絵が入っていた。回虫卵は風でもとんで来るといわれ、神経質な母親は、そのために子供にマスクをかけさせたそうである。

従ってこのことへの神経質ぶりは、到底今の汚染魚への状態の比ではないであろう。回虫は胃壁を破って移動して肺や脳に入り、時には眼球のうしろに入って失明さすなどともいわれて、人びとは恐怖した。さらに体内の虫を殺す駆虫薬は、一種の「毒」らしく、軍隊のそれは、人によっては翌朝太陽が黄色く見えるといわれ、これをもじった戯歌があった。回虫卵は絶えず口からとび込んで来るから、つい駆虫薬を連用する。女性が連用すると不妊症になるなどともいわれた。

こういうことすべて、一時期の魚への恐怖ぐらい根拠のないことかも知れない。しかし人びとが恐怖したのは事実であった。生野菜にも一種の恐怖があった。陸軍は「禁ナマモノ」の世界である。今では、水銀を連想しながらトロを食べている人はあっても、回虫への恐怖を頭のかたすみにおきつつ生野菜を食べている人はいないであろう。それだけ「黄害は遠くなりにけり」である。しかし、公害を克服するということは、すっかり忘れてしまったこの黄害にもどることではないであろうし、人糞を畑にもどすという循環が、回虫卵の拡大的再循環を巻き起し、それがどれほど日本人を苦しめつづけたかも、忘れるべきでないであろう。

餓死直前となると、この回虫の有無と脚気の有無は、実に大きく作用した。「ガ島は餓島」にはじまる日本軍の飢えとの戦いは、一面、回虫との戦いであり、それはいわば「黄害」との戦いでもあったわけである。ジャングルでは「虫(回虫)がつくとシラミもつかん」といわれた。

回虫のいる人間には本当にシラミもつかなかったか、と問われれば、この実態は、私には確言できないが、虫のいる人間は、シラミも敬遠するほど衰弱がひどかったとはいえたであろう。回虫さえなければ、もっともっと多くの人が、生きてジャングルから出てきたであろう。尚武集団(十四方面軍)の大部分は餓死であると、アメリカの戦史にも記されている。大体、戦勝国の戦史は、相手が餓死しても、大激戦の結果絶滅したように書きたがるものだが、それがこうはっきり書かざるを得なかったことが、その実情を示している。しかしその餓死の現場にあった者が、もう一つの原因をあげれば、回虫すなわち黄害である。
 何しろ最低の食糧を同じように分配しても、回虫がいる者はそれが自分の養いにならず、いわば虫に横取りされてしまう。そこで同じように食べながら普通人には見られない異常な飢餓感があるから、たえずイライラし、また自分の養いにならぬからぐんぐん衰弱し、顔がたちまち土気色になり、骨と皮になって、性格まで一変していく。
 「虫が毒素を出すからだ」などともいわれた。口から虫をはき出すようになれば、もうだめだともいわれた。不思議なことに、虫がつく体質とつかない体質とがあった。同じように生活していても、全く回虫がつかない人もいるのである。私も幸い「虫がつかない」体質であった。
 戦後しばらくたって、収容所で、ある軍医さんが一心に「駆虫薬をのんで回虫が出たという経験があるかないか」を聞いてまわっていた。今ならばアンケートというわけであろう。この軍医さんの話によると、何しろ生き残って収容所までたどりついた人間は、ほとんどすべてが、「虫のいた経験のない」人間だったそうである。「虫の好かんヤツが生き残ったわけですなあ」といって彼は笑ったが、綿密な統計をとっても、おそらく同じ結果が出たであろう。
 飢えのほかに、マラリア、アメーバ赤痢、熱帯潰瘍で、四十度の高熱を出しながら、血のまじった鼻汁のようなものを肛門から流しつづけたり、体にウジがわいたりしても、回虫がなければ何とか生きのびることも可能だったわけである。
 そうなると飢えについでわれわれを苦しめたのは、実は「黄害」だったわけである。人がいかに化学肥料を非難し、中国の人糞使用を賛美しても、私は、黄害時代の再来はまっぴらである。そのことの賛美自体が、その人が「黄害」の苦しみを知らぬ「良き時代」の生れであることを示しているに過ぎない。(p148)
平和ならしめる者
『私の中の日本軍』
P150~151
(降伏命令を受け)部落のはずれに来たときすでに、「だまされたかな」という疑念が私にあった。米軍の気配が全くないからである。そして家を示されたとき、内部に人の気配がないことが、さらにこの疑念を深めた。これが瞬間的に「人質」という作戦になったわけであろう。そして内部が実際に空であったのを見たとき、、私の疑念は確信に近いものにかわっていた。    巧みに、全く防御の方法のないところに入れられた。ニッパヤシを編んだ壁などは、防弾という点では無意味である。また床に伏せても無意味である。ただ村長は意外に落ち着いていた。従って嘘ではないかも知れないという気もした。では本当に米軍が来るなら、村長を人質に待つ以外にないなと思い、椅子に腰を下ろして待った。村長も椅子に腰を下ろし、A上等兵は人口の梯子をあがったところに座り、膝撃ちの姿勢で銃をかまえていた。

今から考えれば全くの愚行である。おそらく米軍は近くにキャンプを張っていて、日本軍の連絡将校が来たら知らせてくれと住民にたのんでおいたのだろう。しかしこれがいわば「戦場の定め」「ジャングルの常識」のようなものであった。それはいつの間にか身につく。そして身につけないものは死ぬ。どこで生活していても結局は同じことかも知れぬが、丁度、東京で生活する者はクルマヘの身の処し方や、交通信号の変る時間の計り方を身につけておかねば生きて行けないのと同じように、戦場やジャングルには、おのおのそれを身につけねば生きて行けないそこの生き方がある。
(中略)
三人は無言で待っていた。この時間は異常に長く感じられたが、せいぜい二十分ぐらいで、それ以上のはずはない。遠くで何か笛の音がした。聞いたことのない音であった。私は窓からその方をながめた。青い戦闘服の米軍の一将校が、駆け足でこちらへ向ってくる。その周辺を五、六人のフィリピン人が、跳ねるような踊るような足つきで、同じように駆けて来る。一団はずんずん近づき、笑いさざめく声がきこえる。
   
その将校は手に水牛の角で作った手製らしい角笛をもち、面白そうに時々それをプーッと吹く。間の抜けたような音がし、周囲のフィリピン人はキャッキャッと笑っていた。一同は窓の下でとまった。将校は皆を制し、手に水牛の角笛をもったまま、一人の日本兵をつれて、身軽に梯子を駆けあがり、ずかずかと部屋に入ると、いきなり私の前の椅子にかけ、傍らの村長をどかせて日本兵を座らせた。この日本兵は三井アパリ造船所の社員で、現地で召集され、旅団司令部にいたIさんで、英語がうまかった。以前から知っていたのだが、人相が変り果てていたのでわからなかった。彼も私がわからなかったらしい。

すべては一切の儀礼なしに、全く事務的にテキパキと進められた。「私は軍医だ」と彼は自己紹介し、いきなり「歩けない病人と負傷者は何名いるか」と言った。私には返事ができない。地区隊が全員で何名かも知らないのに、歩行不能者の数などわかるわけがない。

「五十名ぐらいだと思う」、出まかせを言った。「米軍の戦車道の端までその五十名を担送するのに何日かかるか」「約二週間」「では九月十日正午までに担送を終るように。そこからは米軍の水陸両用兵員輸送車で運ぶ」「わかった」「歩行不能者の兵器弾薬も同時にそこに運ぶように。絶対にフィリピン人に交付したり放置したりしないように」「わかった」「東海岸へ行った者と連絡はとれないか」「とれない」「方法はないか」「ない」「よろしい、では観測機でビラをまく、何名ぐらいそこにいるか」「生存者は皆無と思う」「よろしい、では歩ける者は、担送の終り次第、九月十日二時までに、このダラヤに集結するように」「わかった」「では……」と言って彼は立ちあがった。
   
私も立ちあがって敬礼をした。彼は答礼をするとすぐ梯子を下り、また面白そうに水牛の角笛をふくと、半ば駆け足で去って行った。言葉つきは軍隊的で事務的だが、非常に落ち着いた温厚な感じの人であった。これが戦後、私が、はじめて目にしたアメリカ人であった。
 これは、昭和20年8月27日、これは、昭和20年8月27日、山本少尉は、北部ルソンのサンホセ盆地の東北パラナン峡谷のジャングルで地区隊命令を受け、ダラヤ部落に到り米軍と連絡を取った時の話です。
 ダラヤの部落のはずれに来たとき、一団の男女と子供が無言で立っていて二人を見つめていた。不意に子供が「バカヤローッ・イカホー・シゴロ・パターイ(死んじまえ、こん畜生くらいの意味)」と叫び、母親らしい女性が驚いて子供の口を押さえた。同時に村長らしい初老の男が進み出て、腰をかがめて挨拶し、一軒の家を指してインバカマリンボー・ルテナン・シゲー・シゲナー(今日は中尉さん、お早く、お早くどうぞ)
 次の瞬間、山本は反射的に村長の前に飛び出し、左手で相手の肩をつかみ、右手で拳銃を握ると、顎でその家を示し、ぐるっと相手の体をその家に向け、高床式のその家にその男と一緒に入った。梯子をはずされてしたから火をつけられればおしまいである。そこでとっさに山本は人質を取った。
 山本のこの体験は、小野田少尉の救出の時に役立っています。この時山本は、小野田少尉のいう通り直属上官の命令と指示があれば必ず出てくる。戦争終結の第一条は「停戦」であって、双方とも現位置から「動かないこと」が第一条件であること。彼は戦闘状態にあると信じているのであるから戦闘状態を一時停止して「話合い」を行おうとするなら武器を持たない「軍使」を送るべき。軍使は必ず自国旗と白旗をもって、動かず根気よく待てば良い。次に食糧と医薬品をその場で渡すこと。相手が自分たちの体や健康状態まで気を配っていると感ずることは敵対関係ではないという証拠であり、何にもまさる信頼感を抱かせる。
 自分もアメリカ軍の陣地に連絡を取りに行ったとき、先方の連絡将校が軍医であり、負傷者と病人の救出係がまず話し合いの最初に来たことが、一切の緊張感を消してくれた」
 この通り実行したのは、冒険家鈴木紀夫さんでしたが、この救出劇に果たした山本の役割を明記しているものはほとんどありません。
武装解除の恐怖
『ある異常体験者の偏見』
P154
P196
何度目にあがったときか憶えていない。私はドラム缶の少し先に、一人の米兵が、自動小銃をもって立っているのを見た。はじめは確かにいなかった。そしてそのときは、水を飲みに上がるのに別に制限はなかったように思う。しかし何か不穏な気配を感じたのであろう。

やがて十人以上はあがってはならんということになり、ついで、少し離れたところに自動小銃をもった兵隊が立つようになったわけだと思う。食糧を支給しないということが、逆に、彼らに警戒態勢をとらせたのであろう。妙なもので、この自動小銃を見た瞬間、体が少しシャンとした。私はドラム缶の縁に手をかけ、ジッと米兵を見た。眼球が自由に動かなくなっているから映像がダブって見える。

ジーッと目をこらすとその映像が徐々に重なって一つになるのだが、その瞬間に目が疲れて、また二つになる。目がかすむという状態なのであろうか。私がいつまでも水を飲まないので、米兵が何か怒嗚っている。早く飲んで早く船倉にもどれと言っているのであろう。私は、水を飲んだ、しかしなぜか、飲みながらも自動小銃から目が離せない。カップを口にもって行きながら、横目で相手を見つづけていた。

船倉にもどる。自動小銃が頭から離れない。ほかのことは全く念頭になく、考える力は全くなくなっているのに、ただこの自動小銃だけが、ぽっかりと脳裏に浮び、消えない。もちろん何かの明確な計画があるわけではない。あの自動小銃を奪って船を乗っ取ってやろうというわけでもない。だだ自動小銃が頭から離れないのである。こういう場合は、たとえそれが自動小銃でも、実際には、溺れるものがつかむ藁と同じであろう。その「実質」は関係ない。

もちろん客観事態の変化を企図しているのでもない。おそらく、自らが陥っている恐怖から心理的に脱却するための対象、いわば「ワラ」にすぎないであろう。そしてそれさえつかめば、今の状態から脱出できるような気がしてくる。いわば武器をもっていないと「平和・平静」でいられない、という状態が、自分が平和でいられるために武器を手にしたがっている、といった状態であろう。確かに、確かに武器を手にすればその瞬間は、今の心理状態からは脱出できるであろう。

しかしそのことは、いま置かれている客観的な状態から脱出できるということではない。しかし、人間は、否少なくとも私は、精神的・肉体的に異常な状態にあって、しかも異常な場所におかれると、この二つの差がわからなくなるのである。
(中略)p196へ
何日目か私も憶えていない。粥を配食するから容器をもって甲板に並べという指示があった。私は何も容器をもっていないので、ロウびきのKレーションの空箱をもち、頭がかすんで足がふるえるのと必死で戦いながら、またあの鉄パイプの梯子をのぼった。夕刻であった。

雨期にも日の沈むころに一時雨がやみ、雲が少し切れることがある。西の水平線近くの雲が細長く横に切れ、帯のような青空がわずかに見えて、雲の縁が黄金色にかがやいていた。何日かぶりの陽光であった。ブリッジの下に四角くて大きな部厚いアルミの炊事用の容器がすえられ、粥とも重湯ともつかぬものが湯気を立てていた。飢えは嗅覚を異常に敏感にする。糠くさく、腐敗米らしいにおいが湯気とともに流れてきた。

一人の米兵が自動小銃をもって立ち、一人は柄の長い大きなスプーンをもって腰かけていた。その態度は横柄で、一人一人におじぎをさせ、その上で大きなスプーンでそれぞれの持つ容器ヘ一さじずつの粥を入れた。彼らの感じはよくなかった。しかし、捕虜と米兵の間の、あの一種異様な緊張感はもうなかった。もちろん私は、もう自動小銃などには目もくれなかった。(後略)
 これは、降伏後、アパリからマニラまで日本兵を送った米軍の輸送船の中で山本が経験したことです。その原因は、捕虜の数が米軍が予想したよりはるかに多く(7万人の想定が11万人だった)、また米軍の手違いもあり、食糧が十分確保できなかったことによります。
 武装を解除され無抵抗のまま一歩一歩餓死に近づいていく、そうした状態の中で「武器をもっていないと「平和・平静」でいられない・・・自分が平和でいられるために武器を手にしたがっている」という、自分ではどうしてもとめられない本能的な恐怖について語っています。
  山本はこの体験をもとに、「南京大虐殺」における山田旅団が引き起こしたとされる中国人捕虜殺害事件について次のように述べています。
  「この中国人の捕虜の置かれていた客観的な事態は、「捕虜を北岸に輸送して釈放する」ということであった。これは事実であろう。鈴木氏がそれが入場式の夜であったと語っていることが、それを証明している。南京戦に参加した古い下士官や兵士の話を聞くと、彼らはみな南京入場で戦争は終わると信じていたのである。・・・従って「戦争は終わるんだから捕虜は釈放してしまえ。ただ南岸じゃ騒動でも起こされてはやっかいだから北岸まで運んで釈放しろ」ということであったろう。」
 ところが、山田旅団の場合、捕虜を揚子江北岸に釈放しようと、その南の対岸で船を待つ間、銃声が起こるなど不測の事態が発生し、銃撃による鎮圧となり、多数(千あまり)の中国人捕虜と、9名の日本兵及び将校が死亡するという惨事となりました。
  この事件について、山本は、この中国人捕虜の暴動は、武装を解除され、護送兵に銃器を突きつけられ、飢えに瀕した状態の中で、前途は全く不明という恐怖に発する発作的行動がその発端であったろう、と推測しています。同時に、数百の護送兵で圧倒的多数の中国人捕虜を護送する日本兵にも暴動への恐怖がありそれが現実となったのです。
A級戦犯
『私の中の日本軍』
p94~95

 戦犯容疑者収容所では、同じく戦犯ということで、内地のA級戦犯のことがよく話題になった。どこで手に入れたのか、ライフに載った東条以下の写真などが回覧されたりした。「東条のヤロー、飯を残して煙草を吸ってやがる」というのが、皆の憤慨のタネであった。というのは、われわれは目の玉が映るというので「メダマがゆ」といわれた水のような雑炊、三食で一日九百カロリー、「絶対安静の無念無想でないと消耗しますぞ」と軍医たちが冗談のように言った食事で、骨と皮の体をやっと保持しており、煙草の配給は皆無だったからである。

写真を見ながら「チクショー、太ってやがる」とか「A級は全員死刑だろうな」などと話しあっていたとき、だれかが不意に「俺が裁判長なら全員無罪にしてやる」と言った。「エッ」といって皆がその方を見ると、彼はすぐ「ただし、全員松沢病院にタタキ込んでやる、あいつらはみんな気違いだ」と言った。だがこういう言葉は、戦争中は軍のお先棒をかつぎ、戦後一転して軍を罵倒しはじめた人たちの言葉とは別である。そこにいる人間はみな、累々たる餓死死体の山から、かろうじて生きて出てきた人びとであった。彼の言葉の背後には、補給なしで放り出されて餓死した何十万という人間が、本当に存在していたのである。そしてそこには、肉親を肉親の狂人に殺された者がもつような、一種の、何ともいえぬやりきれなさがあった

 フィリピンの戦犯収容所でのこうした日本の戦争指導者に対する批判は、特に南方戦線において、補給困難のため戦争ではなく餓死に追い込まれたという事実を反映するものでしょう。
  どうしてこのような無理な戦いになったか、その原因について中国戦線で戦った伊藤桂一氏は「この、戦争が、戦わせるものと戦う者とに歴然と区分されはじめたのは、軍閥――軍国主義という強権が、政治につながり出してからだろう。・・・戦争の指導層は、民衆と断絶するとともに、兵隊そのものとさえ断絶してしまっていたかもしれない。」と述べています。
  つまり、軍が民衆や兵隊の命をその政治的思惑の道具にしたということではないでしょうか。
参謀支配
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p518~519
 帝国陸軍では、本当の意思決定者・決断者がどこにいるのか、外部からは絶対にわからない。というのは、その決定が「命令」という形で下達されるときは、それを下すのは名目的指揮官だが、その指揮官が果して本当に自ら決断を下したのか、実力者の決断の「代読者」にすぎないのかは、わからないからである。そして多くの軍司令官は「代読者」にすぎなかった。ただ内部の人間は実力者を嗅ぎわけることができたし、またこの「嗅ぎわけ」は、司令部などへ派遣される連絡将校にとっては、一つの職務でさえあった。資料が何を語っているかは私は知らない。しかしS中尉は、かっての軍務局長であった彼が、議会の実質的無力化を決断しかつ実行に移した実力者であることを、知っていたのであろう。

一体この実力とは何であろうか。これは階級には関係なかった。上官が下級者に心理的に依存して決定権を委ねれば、たとえ彼が一少佐参謀であろうと、実質的に一個師団を動かし得た。戦後、帝国陸軍とは「下剋上の世界」だったとよく言われるが、われわれ内部のものが見ていると、「下が上を剋する」というより「上が下に依存」する世界、すなわち「上依存下」の世界があったとしか思えない。

このことは日本軍の「命令」なるものの実体がよく示している。多くの命令は抽象的な数ヵ条で、それだけでは何をしてよいか部下部隊にはわからない。ただその最後に「細部ハ参謀長ヲシテ指示セシム」と書いてあるから、この指示を聞いてはじめて実際問題への指示の内容がわかるのである。だがその細部すら「上依存下」であって、参謀長は参謀に、参謀は参謀部員に指示させるという形になっている。これがまた「私物命令」が横行する原因でもあった。こういう状態だから、一中佐の軍務課長が「代読者」を通じて全陸軍を、ひいては全日本国を支配し得ても、それは不思議ではない。

 ここで山本が「議会の実質的無力化を決断しかつ実行に移した実力者」といっているのは昭和14年9月から昭和17年4月まで陸軍省軍務局長をつとめた武藤章のことです。
  陸軍省軍務局長というポストは、「行政機関である陸軍省が他の省庁との政治折衝や基本的国策の打ち合わせ、さらには陸軍の政治的立場を強埋めるために各種の駆け引きを行う役目」で局長はその最高責任者です。
  このポストにあるとき、武藤は、第二次近衛内閣のもとで、国民組織を基盤とする新党を結成(大政翼賛会)する動きの中で、親軍的な一国一党をつくらせようと企図しました。結局、大政翼賛会が「非政治的団体」となり国民政治力の結集に失敗したため,大政翼賛運動の実践部隊として大日本翼賛壮年団を結成しました。
  これによって、武藤は、臨時軍事費の支出に認否の権限を持つ議会を実質的に無力化することに成功したのです。
 
私物命令
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p387~389
(昭和十七年四月九日・バターン米軍降伏のとき)、大本営参謀の肩書を持つ、マレーに戦った作戦参謀辻政信中佐は、シンガポールから東京に赴任の途中、ここに現われて、戦線視察のたびに、兵団長以下の各級指揮官に、”捕虜を殺せ”と督励して歩いた。第十六師団長森岡中将もこの勧説をうけたが、もちろん相手にしなかった。だが、辻参謀はその第一線に出向いて、これを督励する。

当時第十六師団法務将校であった原秀男氏はその状況を「(その参謀は)現地に行って直接連隊長以下各隊長に、”全部殺せ”と指示する始末。渡辺参謀長は、師団司令部から副官をその有名な参謀に付けてやって、その参謀の言うことは師団長の命令ではないと、いちいち取消して廻る騒ぎだった」(「出陣における捕虜の取扱知識」「偕行」四五年九月)と書いている。また、この戦闘に奈良兵団の連隊長として参加した今井武夫少将も、その著『支那事変の回想』の中に、この四月十日朝からの捕虜の状況を、つぎのように描写している。

「わが連隊にもジャッグルから白布やハンカチを振りながら、両手をあげて降伏するものが、にわかに増加して集団的に現われ、たちまち一千人を越えるようになった。午前十一時頃、私は兵団司令部からの直通電話で、突然電話口に呼び出された。とくに、連隊長を指名した電話である、何か重要問題であるに違いない。私は新しい作戦命令を予期し緊張して受話機を取った。附近に居合わせた副官や主計その他本部附将校は勿論、兵隊たちも、それとなく、私の応答に聞き耳を立てて注意している気配であった。

電話の相手は兵団の高級参謀松永中佐であったが、私は話の内容の意外さと重大さに、一瞬わが耳を疑った。それは、『パターン半島の米比軍高級指揮官キング中将は、昨九日正午部下部隊をあげて降伏を申出たが、、日本軍はまだこれに全面的に承諾を与えていない。その結果、米比軍の投降者はまだ正式に捕虜として容認されていないから、各部隊に手元にいる米比軍の投降者を一律に射殺すべし、という大本営命令を伝達する。貴部隊もこれを実行せよ』というものである」と書いている。

今井は、投降捕虜を一斉に射殺せよと兵団参謀より命ぜられたのである。だが、彼はこの命令に人間として服従しかね一瞬苦慮したが、直ちに、「本命令は事重大で、普通では考えられない。したがって、口頭命令では実行しかねるから、改めて正規の筆記命令で伝達されたい」と述べて電話をきった。そして、直ちに、命令して部隊の手許にあった捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を自由に北進するよう指示し、一斉に釈放してしまった。これは、今井連隊長、とっさの知恵であった。そこに一兵の捕虜もいなければ、たとえ、のちに命令が来ても、これを実行すべきものはないからだ。だが、連隊長の要求した筆記命令はこなかった。
(中略)
事実、参謀が口にする、想像に絶する非常識・非現実的な言葉が、単なる放言なのか指示なのか口達命令なのか判断がつかないといったケースは、少しも珍しくなかった。ではその放言的「私物命令」の背後にあったものは何であろう。いったい何のためにロハス処刑の私物命令を出す必要があったのか、また何がゆえに、捕虜を全員射殺せよとの”ニセ大本営命令”が出たり、その参謀が”全部殺せ”と前線を督励して歩いたあとを副官がいちいち取り消して廻るといった騒ぎまで起るのか。陸軍刑法第三条にははっきり「擅権罪」が規定され、越権行為は処罰できることになっている。

第一、参謀には指揮権・命令権はないはず、そしてこの権限こそ軍人が神がかり的にその独立と神聖不可侵を主張した「統帥権」そのものでなかったのか。何かあれば統帥権干犯と外部に対していきり立つ軍人が、その内部においては、この権限を少しも明確に行使していなかった。このことは、「私物命令」という言葉の存在自体が証明している。
 「私物命令」とは「正規の発令者が全然知らないのに、堂々たる命令として、時には口達で、時には正規の文書で来る命令」のことです。
 ここで辻参謀が発した「私物命令」は、バターンの米比軍が降伏した直後昭和17年4月9日に、大本営命令だといって各部隊に「投降兵を全部射殺せよ」と指示したもので、第14軍司令官本間中将は何も知りませんでした。「この命令を信じ、第百二十二連隊のように虐殺を実行に移した部隊」もありました。(wiki「辻政信」)
 問題は、この恐るべき「私物命令」を出した辻が責任を問われることはなく、戦後は戦犯を逃れるため逃亡、中国の国民党にかくまわれた後、国内各所に潜伏、1950年『潜行三千里』などのベストセラー作家としてデビュー、追放解除後の1952年には衆議院議員、1959年参議院議員になったということです。
 大東亜戦争における辻政信は、ノモンハン事件における参謀本部の中止指令を無視した強硬な作戦指導で、戦死者18,000人、9人の連隊長の内3人戦死、3人自決、3人解任という惨たる結果を招きました。また、捕虜交換により戻ってきた将校たちに自決を強要するなど責任転嫁を行いました。
 対米英戦争に入りマレー作戦では、作戦参謀としての任務を放棄し、第一線で命令系統を無視した指揮をとって失敗したり、シンガポールの戦いでは、抗日適性分子と見なされた華僑約5000人の殺害事件を起こしています。ニューギニアのポートモレスビー作戦やガダルカナル攻防戦でも遮二無二の督戦の失敗により多くの犠牲を出しました。
 山本七平は、「確かに人生には、そして特に戦闘には「何者にも屈せず立ち向かっていく強い精神力」が要請される。だが、こういう意味の精神力とヒステリカルな「気魄誇示」は別で、真のそれは、むしろ、静かな強靱な勇気と一種の自省力のはずであるが、あらゆる方面で日本軍の主導権を握ったのが、この「気魄誇示屋」というガンであった」といっています。
組織の名誉と信義
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p522~
 十九年の十一月ごろ、私は司令部に呼ばれ、詰問ぜめにあった。それは国会の委員会のような、なまやさしい場ではない。ガソリンの二重受給の件、自走砲用燃料をトラックに流用して食糧集めをやっているという、どこかの部隊からの”密告”に関する件の調査である。

米軍が捨てていった自走砲は、燃料を食うバケモノのような存在なので、一キロあたり一・五リッターで申請を出し、それが通っていた。時速平均三十キ口として、四時間動くとドラム缶一本が空になる。四門が十時間動けばドラム十本である。到底それだけの燃料はないから実質的には巨大な壕に入れて、固定砲架の装こう砲のような形になっていた。しかし、大射向変換には後退・進入による車輛全体の方向変換が必要である。こういう点では、「動かざる自走砲」は、「故障のダンプ」同様、荷車より扱いにくい存在になってしまう。この移動と、そのためのエンジンの調整と、予備陣地への移動訓練のためわずかに燃料が支給された。だが実際には、この燃料は食糧集めに使われていた。爆撃がひどくなると、貨物廠や兵器廠は、焼失するより取りに来た部隊にわたしてしまうという態度になり、当然それだけでも、機動力があって人員の少ない部隊は、それのない部隊よりはるかに給与がよくなり、また豊富なダイナマイトの受領で陣地構築の労働量も軽減できた。さらに受領した多量の塩との交換で、民間からの物資や人夫の調達でもはるかに有利になり、こうなると、あらゆる面での他部隊との差は歴然として来て否応なく目につき、羨望とともに「あやしいぞ」といった非難めいた言葉が、私の耳にも入ってきた。それだけでも問題なのに、実は、司令部と燃料廠との連絡不備を逆用して、ガソリンの二重どりをやっていたのである。

私は司令部の爆薬・燃料係のT中尉に呼ばれたが、結局、「知りません」「存じません」「絶対にありません」でつっぱねた。私にそれができたのは、まず第一に、すべては部隊のため「兵士の健康と休養すなわち”兵力”維持のため」という大義名分があり、私個人は何一つ「私せず」、万分の一の役得さえ得ていない、従って良心のとがめは一切ないという気持である。第二は、一粒の米さえ送ってくれず「現地自活の指示」という紙っぺらだけを送ってくる無責任な大本営が悪いのであって、この悪い大本営から部隊を守っているのだといった一種の「義賊意識」であろう。いわば「政府が悪いから、こうするのはあたりまえだ」という意識である。だが、私自身がそれを横流しして利得を得ていたなら、こうはつっぱねられなかったであろう。 第三が部隊の名誉、特に、朝夕顔を合せる部隊長の信頼を裏切りたくないという気持である。(中略)第四に、他の部隊だってみんな何かやって入るではないか・・・といった気持ちである。
 名誉は組織のものか個人のものか、これがここでの議論のポイントです。
 かっての帝国陸軍にはそういう問題意識すらなく「組織の名誉」以外に名誉はありませんでした。従って、捕虜となりようやく生きて帰った者を、「虜囚の辱めを受けた」として自決に追い込むようなことも起こり得たのです。(空閑大尉事件)
 山本七平が収容されていた捕虜収容所では、武藤参謀長が「日本陸軍及び日本の名誉を守るために、現地人・捕虜の殺害命令を下したといってはならぬ・・・」という”命令”を下したといいます。
 武藤参謀長のこの言葉は、一言でいえば「事実を口にせず、戦犯法廷の裁判長の判断を狂わせた上で死に、それによって組織の名誉を守れ」ということでしょう。
 しかし、こうした考え方は、正確な情報の伝達を妨げ、指揮官の実態把握を妨げ、その判断を狂わせ、ついには一国を破滅させることになった、と山本七平はいっています。
 「組織の名誉」を「個人の名誉」よりも重視するこうした考え方は、現代においても根強く残っていますが、近年はコンプライアンスということが言われ、企業や組織が法令や社会的規範から逸脱しないことが求められています。
 そうした組織運営の中でコンプライアンスに応じた情報公開がなされ「個人の名誉」がしっかり守られなければならないと思います。
出家遁世した閣下たち
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p482~483
米軍支給の軍衣をつけ、二列に並んでもぐもぐと口を動かしている閣下たちは、前夜、私が想像していたような、打ちひしがれて襖悩しているような様子は全く見えず、何やらロボットのように無人格で、想像と全く違ったその姿は、異様にグロテスクに見えたからである。

といってもそれは閣下たちが、無口だったということではない。否むしろ饒舌であり、奇妙に和気藹々(あいあい)としていた。その日、マニラの戦犯法廷か”未決”(一コン)からここへ送られた新入りの閣下がいた。その人は、「ヒエーッ、こんな御馳走を食べてよいものか」と頓狂な声を出した。

その食事は、今の基準ではもちろん御馳走でなく、学校給食よりややましな缶詰食であったが、確かに、一般収容所や囚人食よりはるかによい「人間の食事」の水準の食事であった。また終戦間際のジャングル戦の段階では、閣下とてやはり、イモの葉の水煮しか食べられない人もいた。

第四航空軍のAさんは、今でも、クラークフィールドの近くの山の中で、建武集団(陸軍降下隊)のT中将にばったり会ったときのことを話す。樵悴しきったT中将は、地面にべったりとすわりこんで、飯盆の中のイモの葉をのろのろと口に運んでいた。驚いて敬礼しようとすると「答礼が大儀じゃから、そのまま行け」と言ったという。こういう状態に陥れば、閣下だろうと二等兵だろうと餓鬼にすぎない。

そういった点、ルソンの陸軍の最後は、終戦まで「帝国陸軍的秩序」を一応は保持しつづけた内地や中国とは、大きな違いがあった。従って新入り閣下が、将官幕舎の”御馳走”に大声をあげたとて、別に不思議ではない。

ただ奇妙に感じたのは、そのことが戦場への回顧につながらず、無意識のうちにも逆にそれを切断するかに見える、それに応じて反射的に起った一連の会話だった。「一句いかがですか」「アハハハハ、駄句りますか、御馳走を」とつづき、話題はたちまち俳句に転じた。将官たちの間には、病的といえるほど俳句が流行しており、食事はたちまち句会となった。そして、「○○閣下」「××閣下」とたのしげに声を掛けあいつつ語りつづける会話は、何の屈託もない御隠居の寄り合いのように見えた。

俳句以外の話題といえば、専ら思い出話だったが、それから完全に欠落しているのが、奇妙なことに太平洋戦争であり比島戦であった。話題は常に、内地時代、教官時代、陸大時代などの話や、それに関連する共通の知人たちの話など、いまここにいる将官たちにとって、絶対にあたりさわりのない話題であって、それが、たとえ偶然にでもだれかの責任追及になりそうな話題は、みなが無意識のうちに避けているように思われた。

この会話を録音して、それがどこの場所でだれが行なった会話かをつげずに人びとに聞かせたら、それらが、陸海空、在留邦人合せて四十八万余が殺され、ジャングルを腐爛死体でうめ、上官殺害から友軍同士の糧抹の奪い合い、殺し合い、果ては人肉食まで惹起した酸鼻の極ともいうべき比島戦の直後に、その指揮官たちによって行われた会話だとは、だれも絶対に信じまい。

だがこの傾向は、彼らだけではない。レイテの最後にも、内地のA級戦犯にも、これとよく似た和気藹藹(あいあい)の例がある。その状態は一言でいえば、部下を全滅させ、また日本を破滅させたことより、今、目の前にいる同僚の感情をきずつけず、いまの「和を尊ぶこと」を絶対視するといった態度、というよりむしろ、それ以外には何もかもなくなった感じであった。
(後略)
 これは「陸海空、在留邦人合せて四十八万余が殺され、ジャングルを腐爛死体でうめ、上官殺害から友軍同士の糧抹の奪い合い、殺し合い、果ては人肉食まで惹起した酸鼻の極ともいうべき比島戦の直後に、その指揮官たちによって行われた会話」だったという山本の告発です。
 「一体これは、どういうことなのか。選び抜かれて将官となり、部下への生殺与奪の権を握っていたこの人たち、この人たちに本当に指揮者の資質があるなら、今でも何かを感ずるはずだが、それは感じられない。」
 野戦軍の「将」であったのか。それならば、たとえこうなっても「檻の中の虎」に似た精悍さを感ずるはずだが、それもない。では何かの責任者だったのか。それならば最低限でも「部下の血」に対する懊悩から、こちらが顔を背けたくなるような苦悩があるはずだ」
 山本は、かって経験した多くの暴将や某参謀を思い出していた。「何かが気にさわれば、狂ったようの暴力を振い、将校を殴り倒すのが唯一の趣味」といわれた師団司令部のK少佐参謀・・・」
 「こうした暴力と暴言の背後にあるものは、一言でいえば「無敵行軍」という自画自賛的虚構を「虚構」だと指摘されまいとする、強弁であり、暴言であり、暴行であり」自分の仕事に対する自信のなさの表れではないかと・・・。
 「一体この人たちは何なのだろう。まるで解放されたかのように、この現在を享受しているかに見えるこの人たち。」
 そう憤慨する山本に対して、同じ将監収容所に勤める軍医は「出家ですよ。戦に負けたので頭を丸め、黒染めの衣を着て、出家遁世した人ですよ。だからネ、みんな悟ってますよ。面白いよ、あの悟り。腹を切らなきゃ、出家。これが昔からの日本の責任の取り方ですよ。」
 山本「出家とは何なのか、生きながら死者の籍に入ることにより、死者の特権を獲得し、生者の責任を免除されることなのか?」
収容所の暴力団支配
『一下級将校の見た帝国陸軍』
P502~504
小松さんは『虜人日記』で、この暴力支配の発生・経過・状態を、短く的確に記している。「暴力団といっても初めから勢力があったわけではない」のだが、自ら秩序をつくるという意識の全くない「PW各人も無自覚で」「勝手な事を言い、勝手な事をしている」うちに、暴力的人間は、食糧の横流しなどで金脈・人脈を構成し、いつしか全収容所を押えた。

「各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した……彼らの行うリンチは一人の男を夜連れ出し、これを十人以上の暴力団員が取り巻き、バットでなぐる蹴る、実にむごたらしい事をする、痛さに耐え兼ね悲鳴をあげるのだが、毎晩の様にこの悲鳴とも唸りとも分らん声が聞こえて、気を失えば水を頭から浴せて蘇生させてからまた撲る、このため骨折したり喀血したりして入院する者も出て来た。彼らに抵抗したり口答えをすれば、このリンチは更にむごいものとなった。ある者はこれが原因で内出血で死んだ。彼らの行動を止めに入ればその者もやられるので、同じ幕舎の者でもどうすることもできなかった。暴力団は完全にこの収容所を支配してしまった。一般人は皆恐怖にかられ、発狂する者さえでてきた」。そして米軍が介入して暴力団が一掃される。するととたんに秩序がくずれる。「何んと日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」。これが、この現実を見たときの小松さんの嘆きである。

そしてこの嘆きを裏返したような、私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。そしてその人たちの密かなる主張は、もしそれを全廃すれば、軍紀すなわち秩序の維持も教育訓練もできなくなると言うのである。それを堂々と主張する下士官もいた。

「いいか。私的制裁を受けた者は手をあげろと言われたら、手をあげてかまわないぞ。オレは堂々と営倉に入ってやる。これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない。オレはお国のためにやってんだ。やましい点は全然ないからな。いいか、あげたいやつは手をあげろ」

そしてこの暴力支配は将校にもあり、部下の将校を平気で撲り倒し、気にくわねば自決の強要を乱発し、それをしつつ私的制裁絶滅を兵に訓示していた隊長もいる。・・・そしてここまで行かなくとも、暴力一瞬前の状態に相手を置き、攻撃的暴言の連発で非合理的服従を強要するのは、誰一人不思議に思わぬ日常のことであった。
(後略)
 小松さんはネグロス島サンカルロスで投降し、レイテの収容所に移り、それからルソン島のオードネル労働キャンプに入りました。
 「ネグロス収容所時代は将校も兵も一緒に暮らし、レイテでは将校だけ。ルソンに来てからは兵隊だけと暮らした。ネグロス時代は同じ部隊が旧編成のままでPWとなったので、軍隊生活の組織はそのまま保たれ、将校は相変わらず威張っていた。・・・実行力が無く陰険で気取り屋で、品性下劣な偽善の塊だった。
 兵隊だけのキャンプに暮らしてみると、前者に比べて思った事はどんどんいうし、実行力はあるし、明朗だった。ただ一般に程度の低いことは争えない。・・・兵隊の中にも素質の悪いのが実にたくさんいるが、将校の悪いことは、両ストッケードを生活してみて率直に認めざるを得なかった」とあります。
 この暴力支配の話は、ルソン島のオードネル労働キャンプでのことで、このストッケードの幹部が暴力団的傾向の人が多く、収容所内は警察がいるわけでもないから自然に暴力団支配に陥ったのではないかと思います。
 その後MPが彼らを一掃し、PWの選挙で民主主義のストッケードができたが、「勝手なことをいい正当の指令に服さないものが出てきた。何と日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか?」と小松さんは嘆いています。
「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」の議論
『ある異常体験者の偏見』
( p173~174)

 「・・・比島、いわゆる「太平洋戦争の旅順」で生き残った者―長い間、多くの国民に、餓死直前同様の耐えうる限度ギリギリの負担をかけて、陸海それぞれ七割・七百万という軍備をととのえ、それを用いて、人間の能力を極限まで使いつくすような死闘をして、そして「無条件降伏」という判決を得た現実、しかもあまりに惨憺たる現実を否応なしに見せつけられた者には、二つの感慨があった。

 これだけやってダメなことは、おそらくもうだれがやっても、どのようにやっても、ダメであって、あらゆる面での全力はほぼ出し切っているから、「もし、あそこでああしていたら・・・」とか「ここで、こうしていたら・・・」とかいう仮定論が入りこむ余地がないということ。

 そしてあの農民のことを思い出せば、あの人たちは本当に誠心誠意であり、一心同体的に当然のことのように犠牲に耐えていたこと。そしてもう一つは、どこでどう方向を誤ってここへ来たのであろうか、ということ。

 そしてその誤りは、絶対に一時的な戦術的な誤り、いわば「もしもあの時ああしなければ……」とか「あそこで、ああすれば……」とかいったような問題ではなく、もっと根本的な問題であろうということであった。

 確かに歴史は戦勝者によって捏造される。おそらく戦勝者にはその権利があるのだろう。従ってマッカーサーも毛沢東も、それぞれ自己正当化のため歴史を捏造しているであろうし、それは彼らの権利だから、彼らがそれをしても私は一向にかまわない。

 しかし私には別に、彼らの指示する通りに考え、彼らに命じられた通りに発言する義務はない。もちろん収容所時代には、マック制樹立の基とするための「太平洋戦争史」などは全然耳に入って来ず、私の目の前にあるのは、過ぎて来た時日と、それを思い返す約一年半の時間だけであった。

 そしてこの期間は、ジュネーブ条約とやらのおかげで、われわれは労働を強制されず、またいわゆる生活問題もなく、といって娯楽は皆無に近く、ただ「時間」だけは全く持て余すほどあったという、生涯二度とありそうもない奇妙な期間であった。これは非常に珍しい戦後体験かもしれない。

 そして、私だけでなく多くの人が、事ここに至った根本的な原因は、「日本人の思考の型」にあるのではないかと考えたのである。

 面白いもので、人間、日常生活の煩雑さから解放され、同時に、あらゆる組織がなくなって、組織の一員という重圧感はもちろんのこと、集団内の自己という感覚まで喪失し、さらにあるいは処刑されるかもしれないとなると、本当に一個人になってしまい、そうなると、すべては、「思考」が基本だというごく当然のことを、改めてはっきりと思いなおさざるを得なくなるのである。

 そしてほとんどすべての人が指摘したことだが、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるということであった。金大中事件や中村大尉事件を例にとれば、相手に「非」があるかないか、という問題と、「非」があっても、その「非」を追及することが可能か不可能かという問題、すなわちここに二つの問題があり、そしてそれは別問題だということがわからなくなっている。

 また再軍備という問題なら、「是か・非か」の前に「可能か・不可能か」が現実の問題としてまず検討されねばならず、不可能ならば、不可能なことの是非など論ずるのは、時間の空費だという考え方が全くない、ということである。

 そしてそんなことを一言でも指摘すれば、常に、目くじら立ててドヤされ、いつしか「是か・非か」論にざれてしまって、何か不当なことを言ったかのようにされてしまう、ということであった。」(『山本七平ライブラリー ある異常体験者の偏見』p173~174)

 敗戦後の捕虜収容所内での「なぜ日本はこんな悲惨な戦争をしたか」ということについての議論で、ほとんどすべての人が指摘したことが、「日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるということであった」というのです。
 そうした反省のもとになっているのが、中国との戦争も終わってないのに、なぜ、さらに米英との戦争を始めたのかということです。アメリカの挑発もあったことは事実でしょうが、それが「可能か・不可能か」を考えれば、到底できる戦争ではありませんでした。
 実は、そのことは、日本政府も軍首脳も判っていて、アメリカとの戦争は何としても避けたいというのが本音でした。  従って、昭和16年4月18に「日米諒解案」が示された時には、東條英機陸相も武藤軍務局長も、海軍の岡敬純軍務局長も「大へんなハシャギ方の歓びであった」といいます。また、近衛首相も「この米国案を受諾することは支那事変処理の最捷径である」などの意見から「大体受諾すべしとの論に傾いた」のです。
 ところが、これに「日ソ中立条約」を締結して意気揚々と帰ってきた松岡洋右外相が反対しました。松岡としては、日独伊三国同盟に日ソ中立条約が加わったことで、アメリカを牽制しさらなる譲歩を引き出せると思ったのです。
 ところが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍が「独ソ不可侵条約」を破ってソ連に侵入しました。これによって松岡の構想は崩壊し、アメリカが強気に出る中で日本は北進か南進かに迷い、結果的に南進したことが、英米との戦争につながりました。
 この局面において、何が「できるはずのない米英との戦争を決意させたか」ですが、やはり「ハル・ノート」への対応を誤ったということでしょう。「できない戦争」なら、粘い強く、資源の確保という目的を達成するための「戦争によらない外交」を模索するか、あるいは「やれる範囲の戦争」に限定すべきでした。
始めに言葉なし
『一下級将校の見た帝国陸軍』
P505
(ほとんどの捕虜収容所における秩序が暴力団支配に陥った理由には)いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。

何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。黙って一回撲られた方が楽なのである。海軍二等水兵だった田中実さん戯画の「〈泣いている兵隊〉言い訳すればするほど徹底的にやられた。無実の罪がくやしくて泣く」は、この状態をよく表わしている。そして、表われ方は違っても、その基本的な実情は、下級将校も変らなかった。すなわち、「はじめに言葉あり」の逆、「はじめに言葉なし」がその秩序の出発点であり基本であった。

人から言葉を奪えば、残るものは、動物的攻撃性に基づく暴力秩序、いわば「トマリ木の秩序」しかない。そうなれば精神とは棍棒にすぎず、その実体は海軍の「精神棒」という言葉によく表われている。

日本軍は、言葉を奪った。その結果がカランバン(捕虜収容所)に集約的に表われて不思議ではない。
(後略)
 「人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。」というのが、山本七平の「軍隊三部作」の結論といってもよいと思います。
 では、日本人には「言葉による秩序」がないかというと、そんなことはなくて、鎌倉時代には「貞永式目」という「言葉による秩序」がありましたし、戦国時代にも「喧嘩両成敗」という考え方がありました。
 では、大東亜戦争において、なぜ、日本軍に「言葉を奪った」というような状況が生まれ、南方戦線において捕虜収容所内の自然発生的秩序が「暴力支配」に陥ったかというと、そこに、『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉に象徴される「人間の生命を軽視する思想」が現出したからではないでしょうか
 
生者を支配する「死の哲学」
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p530~531
軍部ファシズムの四本柱「統帥権・臨軍費・実力者・組織の名誉」の底にあったものは何か。それは「死の哲学」であり、帝国陸軍とは、生きながら「みづくかばね、くさむすかばね」となって生者を支配する世界であった。それは言論の支配でなく、死の沈黙の支配であり、従って「言葉なし」である。

生きながら自らを死者の位置においた者との対話は、塔上の自殺志願者の説得以上にむずかしい。否、それは原則的にいえば不可能である。まして、その志願者と自分とが、「日本という断ち切れぬ綱」で結びつけられていれば、その志願者は、ハイジャッカー同様、死の力で生者の上に絶対的な支配権を振いうる。そのものに「ああしろこうしろ」と命ぜられれば、だれでも、どんな苦役にでも超法規的に従うであろう。

帝国陸軍の暗い支配力の背後にあったものは、この「死の支配力」であった。それは集団自殺の組織にも似て、それに組み込まれた者が、その中心にあって、すでに死者の位置に自らを置いている者の支配から逃れられない状態に、よく似た状態といえる。それは、一億玉砕というスローガンに表われ、住民七千を強制的に道連れにしたに等しいマニラ防衛隊二万の最期に現実に表われ、沖縄にも表われ、それらの状態はすべて、本土決戦のありさまを予想させていた。

だがそれが明らかになればなるほど、この「死の支配者」に、すべての者が、心理的に依存せざるを得なくなって行く。八月十五日の高見順氏の日記は、この関係を示している。これは、そうなって少しも不思議ではない。人が、死に打ち克つことができない限りは――私は、暴君ネロと奴隷制という「死の臨在による生者への絶対的支配」の下に生きた使徒パウロが、なぜ「死に克つ」こと即ち死の支配を克服することを解放と考えたか、わかるような気がした。

「死の臨在による生者支配」には、自由は一切ない。人権も法も空文にすぎない。そして人がいずれはこの世を去るということは、死の臨在が生者を支配することと関係はない。そしてこの「死の臨在」による生者への絶対的支配という思想は、帝国陸軍の生れる以前から、日本の思想の中に根強く流れており、それは常に、日本的フャシズムの温床となりうるであろう。
 ここで、高見順の「8月15日の日記」というのは、8月10の次のような「陸軍大臣布告」を受けてのものです。
  「事ここに至る又何をか言はん、断乎神洲護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令(たとえ)草を喰み土を噛り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず。是即ち七生報国、「我れ一人生きてありせば」てふ楠公救国の精神なると共に時宗の「莫煩悩」(まくぼんのう=)「驀直進前」(まくじきしんぜん)以て醜敵を撃滅せる闘魂なり
 全軍将兵宜しく一人も余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀直進前すべし
 昭和20年8月10日 陸軍大臣」
(高見順日記)8月15日
 明日、戦争終結について発表があると言ったが、天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜わるのだろうか。・・・それとも、——或はその逆か。敵機来襲が変だった。休戦ならもう来ないだろうに……。
「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」
 と妻が言った。私もその気持だった。
復員船のリンチ
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p534~536
 「どこの駅か忘れたが、ヤミ屋らしい一団がどかどか乗りこみ、明らかに『兵隊やくざ』の感じのする男が、われわれの前に陣どった。

そのときは、将官も兵隊も、佐世保で支給された冬服と冬外套を着ていたから、その男は、自分の前にいるのが復員兵だとわかっても、その正体はわからない。

彼は得々として、復員船の中でやった将官や下士官へのリンチの話をした。その話は、昔の内務班の、加害者・被害者の位置が逆転しているだけで、内容は全く同じであった。

『かって加害者は、こういう顔をしてリンチを語ったなあ、戦争は終わっても、立場の逆転だけで、その内容は、結局何もかもおなじことか』。私はそう考え、暗い気持ちになった。宇都宮参謀副長はただ黙って聞いていた。

相手にはわれわれの反応が意外であったらしく、『アンタらの船にゃ、そういうことはなかったんですか』ときいた。私は口をきく気はなかった。その時氏は静かに言った。

『なかったな。何もなかった・・・。この人たちはみな地獄を見たのだ。本当に地獄を見たものは、そういうことはしないものだ。』

私はこの言葉に不意に『死の支配』の克服を連想した。」

宇都宮参謀副長の言葉を人は不思議に思うかも知れない。いや、人はこの逆を常識としているのかもしれぬ。殺される場にいた者は殺すことが平気、残虐な扱いを受けた者は、残虐な扱いを受けた者は残虐な扱いをするのが当然、そういう人たちが一番強い復讐心をもっているはずだと。だが静かに思い起せば、人は、終戦直後に”特攻くずれ”という言葉はありえても、”ジャングルくずれ”という言葉はなかったという奇妙なことに気づくはずである。また収容所の暴力団も、その主力は、敗戦前に投降して、あの極限の”地獄”を知らない者が多かった。そしてこの不思議な現象は、たぶん日本人だけではない。アメリカ人にもある、イギリス人にもある。
 『皇軍の崩壊』大谷敬次郎著 1975年刊には次のような例が紹介されています。
 「私の属した部隊は19年7月編成以降、実戦こそ経験しなかったが、敵潜水艦に追跡された輸送船上の恐怖より、台湾駐屯中頻々たる空爆の洗礼下、1年半余の苦難をともにし、21年3月、鹿児島にて復員を遂げたのだが、解散式を翌朝にひかえた私どもが、宿舎の小学校教室で演じた戦犯裁判の光景は、20年になんなんとするいまも、脳裡からはなれない。
 権威に驕る上官の弾圧にしいたげられてきた兵隊たちは、誰を主謀とするでもない暗黙の用意をこの日に切って落し、中隊長以下幹部の面々を戦犯誰れそれと名指して、教壇上に呼び上げ、彼らが冒した過去の罪行(苛酷の使役、不当の加罰、差別された食事の恨みなど)をあばき、叱咤面罵の限りを加えた。
 すでに、階級の権威を喪失した彼らは、抗弁の勇気すらなく、戦中牛馬のごとくみなした兵隊達の前に、はいつくばり、土下座して許しをこうたのであった。(「戦犯裁判」伊藤学『中央公論』昭和39年6月号読者論壇)
 これは台湾からの復員兵の話で「地獄を見た」人たちのことではないようです。
地獄を見たもの
『一下級将校の見た帝国陸軍』
p534~536
 アーネストーゴードンは、「戦場にかける橋」で有名なクワイ川の「死の収容所」にいた一人であった。病死・餓死・処刑死一万六千というこの収容所の三年半の体験を、彼は『死の谷を過ぎて』という本に記している。この収容所の中で人はさまざまに変化していく。だがその道程は、われわれと違って、サントートマス収容所に近い。この点は確かに違う。だが戦争は終る。立場は逆になり、彼は釈放され、帰国のためバンコクに向う。その途中、ある駅で、収容所に送られる日本の傷病兵を満載した車輛とすれちがった。ゴードンたちは、病人よりむしろ”病物”としてつまれていく人びとを見、「自国の兵隊さえあのように取り扱う日本軍が、どうして敵国兵を人間として取り扱うことがありえようか」と思う。

そして勝者である連合軍側の将校も、これを冷然と見ている。一瞬、ゴードンらは立ちあがり、夢中でかけよってこの傷病兵たちに、自分の水筒から水を飲ませ、包帯でその傷を包む。連合軍側の将校は驚き、「こいつらは、われわれの敵じゃないか。その上あなた方は……」と大声で叫んでこれをやめさせようとするが、不思議なことに彼らは、頑としてそれをやめようとしない──、不思議といえば不思議だが、彼らもまた、「地獄を見た人たち」であり、それはアーロン収容所を支配したイギリス人とは別人のように見える。

そして、常識からいえばあり得ない逆、いわば奇跡に等しいこのことを、人間のこの一面を、人は心のどこかで、無条件で信じている。そしてそれが信じられる限り、パンドラの箱を開けたに等しいどのような世界にも、一つの希望があるのであろう。
(士宇都宮直賢、鹿児島の加治木中から陸士、陸大卒。参謀本部員、支那派遣軍参謀、ブラジル大使館付武官などを経て、昭和十九年から第十四方面軍参謀副長。
 『死の谷をすぎて』の一節には次のようにあります「いったい俘虜たちは、なぜお互いにいたわり合い助け合うようになったのだろうか。・・・なぜあのような限界状況の中で自分たちにも人間としての尊厳があると、人間は偉大なのだと気づいたのか。・・・なぜ、俘虜という境遇を超越することができたのか。
 ・・・それは、無限に偉大な存在を知りその存在の呼びかけを聞きその声に応答することから、可能であったのである。私はそれを見た。けして、・・・収容所内で生きるためには、その社会の慣習に順応すべきだと気づいたからではなかった。それは信仰を通じて可能だったのだ――意志を動かす信仰を通じて。」
 一方、南方における日本人捕虜収容所の多くが「暴力団支配」に陥ったのはなぜか。山本は、日本軍が「言葉を奪ったこと」、その思想が「生の哲学」ではなく「死の哲学」であったことを指摘しています。

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