2014年前半

平成25年12月31日~平成26年1月1日 

The Street Cat Called Bob(James Bowen)☀☀
 

 

 家族とも疎遠となり、薬物中毒から回復中、かろうじてホームレスにならない程度の生活を、路上ミュージシャンの生活で凌いでいるロンドンに住む青年Jamesが、偶然見つけた猫Bobとの生活で、少しずつ、自分の人生を「生きる」ことが出来るようになっていく、人生の “second chance” となっていく日々を回顧した実話。作者であるJamesの率直なまでの自分の心情や出来事の記述が、それゆえに、その日暮らしをすることの過酷さと、Bobの出現が彼に意味したことを納得させる。予期していたような、最後に涙があふれて、というようなタイプのハートウオーミングな話では、少なくとも私には、なかった。でも、むしろ、日々の出来事のアップダウン、路上で起きる人間模様を、淡々と丁寧に書き記しているがゆえに、最後まで引き込まれて読めたのだと感じる。色々な人間がいて、様々な出来事があって、良いことも悪いことも含めて毎日を生きていくしかないけれど、そんな中で、いつも寄り添える猫のBobに出会えたことは、幸せなこと。ただ、Bobが奇跡の猫だからでなくて(それにしても、とっても賢い猫だけれどね)、出会いを自分の人生の奇跡と思えることが、人生の幸せな出来事なのですよね。その一人、いえ一匹に巡り会えたことを幸運と感じて生きようとしているJamesとBobの幸せを祈りながら、本を置きました。

Jamesが記す、ロンドンの路上で起きる出来事、ソーシャルビジネスのホームレス救済のための雑誌販売、その内部事情も興味深かったので、以下に納得。
“An insight into the injustice of life on the streets that’s by turns frustrating and life-affirming.”(Tom Cox, The Times)

ネット書店で映像も見れました。続編もすでに出ているとのこと。奇跡はずっと続いている。よかった。


平成26年4月1日

When Marnie was There (Joan G. Robinson)☀☀☀

 両親も祖母も逝き、養女としてPreston家で暮らす少女Annaが、ひと夏を海辺の町で過ごすことになる。孤独な彼女が出会ったのは、Marnieという不思議な少女である。友達となり、心を開き、自分の孤独や恐怖を共有する中で、彼女が発見していくのは・・・というミステリー仕立ての児童文学。Annaの持つ養女にした家族へのわだかまり、自分をおいて逝った家族へのわだかまり、孤独と、語られなかった家族の秘密が明かされる時、もう一人の孤独な少女との接点がすべて分かる。最後の最後、終わりが暖かい希望のようで好き。ジブリの夏の新作の原作というので読んだけれど、まさに映画のシーンが浮かんでくるようなお話だった。素敵な映画になるといい。inside とoutsideという二つの語が効果的-”it was something to do with how you were feeling inside yourself.”(p.276)。
 
1月最初に手に入れていたのに、読むのは4月1日になってしまった。本を手に取り読む余裕がない2か月半。4月からはと思い、ただただ始まりに小説を読みたくて、朝読み終えてしまった。“When you grow as old as I am you can’t any longer say this was someone’s fault, and that was someone else’s. It isn’t so clear when you take a long view. Blame seems to lie everywhere. Or nowhere. Who can say where unhappiness begins?” (p.264) 涙があふれた。小説はすごいよね。過去の私が想像さえしていなかった今の私の状況を、まるですべて知っているかのように心に響いてくるのだから。

午後、戸棚から長く手にとっていなかった本を取って持っていった。ベッドに繋がれていた手が解かれた時、自分の著作であったその本をしっかり握ってみつめていた。声に出して10頁読んだら、聞いているみたいだったけれど、また目をつむる。自分の無力さに茫然とする瞬間。4年前、あの日、私の回り続けてきたメリーゴーランドはいったん止まったと思ったのに、4年間、まるでまわっているかのように生きてこれたのだから、これからも私には出来るはず。Who can say where unhappiness begins? どこで始まったのだろう、私のは。でも、Blame seems to lie everywhere. Or nowhere. 私にできるのは出来事の後を真摯に生きるだけ。そう思いたい。