日本刀の歴史 |
古刀の部-室町時代
《目次》
− 室町時代前期 − | − 室町時代中期 − | − 室町時代後期 − |
明徳三年(元中九年/1392年)-文禄四年(1595年)
明徳三年(元中九年/1392年)に南北朝が合体し、戦国時代を経て、室町幕府滅亡後の安土桃山時代を含めた、およそ200年を日本刀の時代区分では室町時代としています。
日本刀の時代区分は、戦闘方法や時代の要求によってその姿が大きく変わる時点をもって時代を区分していますので、一般的な時代区分とは少し異なります。日本刀の時代区分では、室町時代は前期(北山時代)、中期(東山時代/戦国時代前期)、後期(戦国時代後期)の3つに分けられます。
応永元年(一三九四)-文正元年(一四六六)
三代将軍足利義満-八代将軍足利義政
鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて、朝鮮半島沿岸や中国沿岸を荒らし回る海賊がいました。彼らは殺戮と略奪を繰り返し、時には内陸部まで上陸して暴れ回りました。当時の中国は明(みん)と言い、朝鮮半島では高麗(こうらい)が滅び、李氏朝鮮(りしちょうせん/以後朝鮮と表記)建国初期に当たり、明と朝鮮ではこの海賊を倭寇(わこう)と呼んで恐れていました。
「倭」は昔の二本の呼称で、「寇」は元寇(げんこう)の「寇」と同じで、殺しても足りないほど憎い奴という意味です。なお、李氏朝鮮とは、李一族が代々世襲して治めた朝鮮王朝という意味で、朝鮮という国号は以前にも存在することから、区別するために李氏朝鮮と呼んでいますが、ここでは朝鮮とします。
実は、この時期朝鮮半島沿岸や、中国沿岸を荒らし回っていた海賊は、日本人だったのです。この時期の倭寇は前期倭寇と呼ばれ、これは後に出現する後期倭寇とはその目的、構成員を異にするものでした。では、なぜこの前期倭寇は朝鮮半島沿岸や中国沿岸を襲い、海賊行為を行ったのでしょうか。それは、鎌倉中期に起こった元寇(げんこう)に対する復讐だったのです。
元寇は、当時の中国統一王朝である元と、その属国である高麗(こうらい/朝鮮半島の王朝)連合軍が、日本を侵略しようと日本に侵攻してきた事件です。元・高麗連合軍の最初の侵略先は、対馬(つしま/長崎県)でした。『日蓮聖人註画讃(日蓮の伝記)』には、その時の元、高麗軍の残酷な所業が記録されています。対馬に上陸した両軍は、島民の男は殺害し、女は一カ所に集め、手のひらに穴を開けて貫通させ、その穴に紐(ひも)を通して女達を連結し、船べりに結びつけて生殺しにしたのです。また高麗軍は200人もの少年少女を拉致誘拐して高麗へ連れ去り、高麗王や后に献上したのです。朝鮮人は、既に700年以上も前に、日本人を拉致していたのです。
対馬に侵攻し、殺戮、略奪し尽くした元・高麗連合軍は、壱岐(いき/長崎県)・五島列島(長崎県)に侵攻し、殺戮と略奪を繰り返したのです。鎌倉時代末期から室町時代前期にかけて、朝鮮半島沿岸、中国沿岸を襲い、海賊行為を行っていた前期倭寇は、対馬や壱岐、五島列島といった、元とその属国である高麗軍によって侵攻された地域の人々の、両国への復讐だったのです。
朝鮮の歴史書『高麗史』や、元の歴史書『元史』には、「高麗の(後の忠烈王の)執拗な要請があったので、日本侵攻が決定された」とあり、清(しん/明の後の中国王朝)の政治家・思想家の徐継畭(ジョ ケイヨ)が著した、『瀛環志略(えいかんしりゃく)1849年』や、朝鮮の安鼎福(アン ジョンボクの『東史綱目』にも、「倭寇の原因は侵略に対する高麗への報復である」と書かれているのです。
そんな中、室町幕府三代将軍に就任したのが11歳の足利義満でした。義満は管領(かんれい/将軍に次ぐ役職)・細川頼之(ほそかわ よりゆき)の補佐のもと、南北に分裂して対立する朝廷の統一、明(みん/中国)との貿易を目指して政務に取りかかりました。
室町時代には、国内における商業が盛んになり、それに従って貨幣流通も増加していきました。鎌倉時代も中期に近い寛喜二年(1230年)には、「銭一貫文をもって米一石とする」とされました。米一石(いっこく)は150キロです。現在お米10キロが4,000円とすると、一石は60,000円になります。では一貫は今の価値では60,000円ほどかとなりますが、そう単純ではないと思います。
同じお米でも、現在と当時ではその価値が異なっていたからです。一石のお米は一人の大人が一年間食べられる量と言われます。つまり一回の食事で一合(150グラム)のお米を食べるとして、一日三食で三合です。それを365日でかけると1,095合となり、およそ一石となるのです。一合(150グラム)のお米を炊くと、倍以上の340グラムにまでふくらみます。およそお茶碗二杯分です。今ではお米以外に様々な食べ物がありますが、当時はお米は大変貴重なもので、税金として納めていたほどですから、現在のお米に対する感覚とはかなり異なっていたはずで、大人一人が一年間食べられる量となれば、現在の感覚では年収ほどの価値であったかもしれません。
室町時代には税金も物納ではなく銭で納めるようになり、土地や刀剣類の価値も貫で表されるようになりました。しかし、当時の日本では銭貨の鋳造は行われていなかったため、使われていたのは中国の銭貨でした。そこで室町幕府三代将軍足利義満は、銭の輸入を主目的とした、明(みん/中国)との貿易を望んだのでした。
そこで義満は、1374年に明に通行を求める使いを派遣しましたが、既に南朝の征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう/かねよししんのう)が、明から「日本国王良懐」として認められており、義満の要請は却下されたのでした。懐良親王は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子で、肥後国(ひごのくに/熊本県)を拠点とする、南朝方の勢力でした。
懐良親王は、明や朝鮮を悩ませていた倭寇(前期倭寇)の取り締まりを条件に、明から日本国王として冊封(さくほう)されていたのでした。当時中国は、海禁(かいきん)政策をとっていました。倭寇を警戒するために、自由な船での往来を禁止していたのです。そして中華思想に基づいて、朝貢(ちょうこう)という形でのみ他国との貿易を行っていたのです。
中華思想とは、簡単に言えば中国が世界の中心であり、漢民族以外の文化や思想などには価値が無く、周辺諸国の民族などは獣に等しく、未開の野蛮人で、中国皇帝こそ王の中の王であり、唯一無二の王であるという思想です。
また冊封(さくほう)とは、諸国の君主が中国皇帝と名目的に主従関係を結ぶことです。中国皇帝の徳を頼って皇帝と主従関係を結ぶことにより、獣のような、未開の野蛮人でも花の一員となることが出来るのだとするものです。そして冊封を受けた諸国の君主は、文書や印章を以て「○○国王」などという、中国式の称号を与えられ、一石の国王として認められたのです。
冊封を受けた諸国の国王は、朝貢(ちょうこう)が義務づけられました。朝貢とは、中国皇帝に貢ぎ物(みつぎもの)を捧げ、それに対し皇帝が恩賜(おんし)を与えるというもので、通常貢ぎ物の数倍もの値の品々を与えました。朝貢を受けるということは、皇帝の徳が高いからであると考えられ、また皇帝の正当性を世にアピール出来るため、中国王朝は何倍もの品々を返してでも、朝貢を歓迎したのでした。そして、この朝貢という形式が、唯一の中国との正式な貿易形式だったのです。従って、こういった冊封体制下に入った各国は、中国がこういった形でしか貿易をしなかったため、やむなく形式上こういった体制化に入っただけで、何も中国に従う意志などなかったのです。
現在中国は、この大昔の冊封を以て、我が国の沖縄を始め多くの地域を我が国の領域だなどと主張していますが、これはあくまで貿易を行うための形式上の事であって、中国がこれらの地域や国を実質支配していたという事実など無く、全く説得力が無い、バカの独り言なのです。しかもこういった主張をするのであれば、朝鮮半島の国こそ中国の属国であったのですから、韓国や北朝鮮こそ、中国の領土だと主張しなければならないのです。
こうして義満は使者を派遣して貿易を望みましたが、中国皇帝からすると、既に冊封を受けた皇族の懐良親王は自分の家臣であり、その皇族の家臣である幕府将軍は、自分からすると家臣の家臣、いわゆる陪臣となりますので、そんな者を国王とは認められないということで、派遣は失敗に終わりました。
翌年の永和元年(1375年)、義満は朝鮮にも使節を派遣しています。その返礼として、朝鮮からも使節が来日しています。この朝鮮からの使節は、日本と真(よしみ)を通ずる(親しく付き合う)ためのものであることから、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)と呼ばれ、以後、中断する時期はあったものの、江戸時代を通じて使節が来日しています。
義満は、1380年に再度明へ使者を派遣しましたが、やはり天皇の家臣との交渉はしないとはねつけられたのです。
そんな中、1389年、高麗はますます激しくなる倭寇を討伐するために、倭寇の本拠地と目される対馬を再び襲い、倭寇に大打撃を与えました。また、高麗への侵攻を続けていた倭寇も、次第に高麗の武将・李成桂(イ ソンゲ)らによって迎撃されていきました。しかし、明が属国である高麗に侵攻してくるようになり、高麗は倭寇撃退で名を挙げた李成桂に迎撃を命じ出兵させました。ところが、途中で李成桂は反旗を翻してクーデターを起こし、高麗王一族を追放し、1392年に自ら王となり、翌年国号を高麗から朝鮮と改め、朝鮮建国となりました。
さて、二度も明との貿易交渉に失敗した義満は、まずは南北に分裂して争う南北朝を統一することとしました。京都から遠く離れた九州でも、南朝、北朝の勢力が争っており、一時は南朝勢力が九州をその勢力下に置きました。そんな頃に懐良親王は明から冊封を受け、日本国王として認められていたのでした。しかし、懐良親王や南朝方の中心となっていた人物が相次いで死去すると、その勢力は衰え、加えて義満が行っていた有力守護大名の粛正により、南朝方はついにその勢力を失い、1392年、義満は58年に及んだ朝廷の分裂を終わらせる事に成功したのです。
義満は、1394年に将軍職を子の義持(よしもち)に譲って隠居し、太政大臣に昇進しましたが、それを辞して出家して道義と号しました。これにより、義満は天皇の臣下ではなく自由な立場となりつつも、政治の実権はなおも握り続けました。
1401年、義満は「日本国准三后源道義」として、博多の商人である肥富(こいつみ)と僧の祖阿(そあ)を使者として、明の二代皇帝建文帝のもとに派遣しました。准三后(じゅさんごう)とは、太皇太后(たいこうたいごう)、皇太后(こうたいごう)、皇后(こうごう)の三后に准じる貴族の称号で、皇族扱いとなります。これにより、義満は天皇の臣下ではなく、皇族として「日本国王」として冊封され、義満念願の明との貿易は、明に朝貢するという形での勘合貿易(かんごうぼうえき)として、1404年から始まりました。
注) 太皇太后とは、先々代の天皇の皇后、もしくは現天皇の祖母を指し、皇太后とは前天皇の皇后、皇后とは現天皇の正室を指します。
貿易に際しては、明から勘合符(かんごうふ)と呼ばれる割符が発行されました。勘合とは、倭寇の船ではなく朝貢船であることを証明するための渡航許可証で、1つの文字が2枚の紙にまたがって記されていて、一枚は船が所持し、もう一枚は明が保管していました。朝貢船が明の港に到着すると、明側が保管しているもう半分の紙と合わせ、正式な朝貢船であることを証明したのです。
義満は、明から要請されていた倭寇の鎮圧に取りかかります。また、朝鮮半島との貿易が財政の要であった対馬の守護・宗氏による倭寇取り締まりも功を奏し、前期倭寇の活動は沈静化していきました。
注) 対馬は、土地のほとんどが稲作などに適さない切り立った岩場で、米は朝鮮半島から輸入しなければなりませんでした。従って、対馬にとって朝鮮半島は重要な貿易相手だったのです。
1408年、倭寇の取り締まりを強化していた三代将軍義満が没し、また1418年には対馬を実質支配していた宗貞茂(そう さだしげ)が没し、若年の貞盛(さだもり)が跡を継ぐと、対馬では早田左衛門太郎(そうだ さえもんたろう)が実質的な実見を握りました。左衛門太郎は貿易商人であるとともに、倭寇の首領(しゅりょう/親分)でもありました。一方、義満の後を継いだ四代将軍義持は、父・義満が開いた明との国交を断絶し、うるさく取り締まる者もいなくなったため、活動を抑えられていた倭寇が再び活動し始めることとなったのです。
朝鮮では、1418年に世宗(セジュン)が四代朝鮮国王として即位しましたが、実見は先代の父・太宗(テジョン)が握って射ました。そんな中、再び倭寇の活動が活発化し、度々朝鮮半島沿岸が襲われるようになりました。そこで応永二十六年(1419年)、太宗は倭寇討伐と称し、世宗に対馬への侵攻を命じたのでした。これを応永の外寇(おうえいのがいこう)と呼びます。なお、朝鮮ではこれをその年の干支を取って、己亥東征(きがいとうせい)と呼びます。
朝鮮側の記録には、事前に対馬の宗貞盛に対馬を襲撃することを告げたとあり、227隻の軍船、17,285人の兵員を整え、左・中・右軍の三軍に編成し、65日分の食料を用意し、6月19日に巨済島(きょさいとう)を出発したとあります。翌20日に倭寇の首領・早田左衛門太郎の本拠地である尾崎浦へ現れた朝鮮軍を見た島民は、驚いて逃げ出し、抵抗する島民達を打ち破った朝鮮軍は、上陸しました。
上陸した朝鮮軍は、まず攻め入った理由を記した書面を宗貞盛に送りますが、返事が無いため129隻の船を焼き払い、20隻を奪い、1939戸の家を焼き払い、114人の島民を斬り殺したと、朝鮮側の記録にはあります。また内陸部まで進軍した朝鮮軍は、道を遮断し、長期戦に持ち込む姿勢を見せました。しかし、その後に朝鮮左軍が対馬側の反撃に遭い、4人の将校を含む百数十人が戦死し、朝鮮軍は多大な損害を受けますが、右軍の加勢によって戦況は逆転し、対馬側は後退したとあります。そして、戦闘は膠着状態となりました。
朝鮮側の記録には、29日、朝鮮軍が長く留まることを恐れた貞盛から、修好(しゅうこう/仲良くすること)を願い出る使者が送られてきたとあり、また朝鮮先代王・太宗が軍に送った書簡に、七月は暴風が多いので長く留まることがないようにとあったため、貞盛の和平案を受け入れ、7月3日には巨済島に完全撤退したとあります。
この戦いの戦況記録については、対馬側、朝鮮側に大きな違いがあります。それは、双方とも自分に都合が良いように記録しているはずですので当然です。日本側では『対州編年略』に、対馬側の死者は123人、朝鮮側の死者は2500余人とあり、朝鮮側の資料『朝鮮王朝実録』の世宗編には、6月26日の戦いで死者百数十人、7月10日付の記録には死者180人とあります。
朝鮮側の記録には、対馬へ侵攻する前に事前にその旨通達したとあり、対馬へ上陸した後にも、侵攻の理由を記した書簡を使者に持たせ、宗貞盛に届けさせたとあり、いかにも正々堂々と戦ったかのように記録されていますが、そんなことは嘘っぱちで、実は朝鮮軍が対馬に侵攻した時、対馬の主要な者達は明(みん/中国)などに出向いていて不在でした。朝鮮側はこれを知っており、防備が手薄なことを見込んでの侵攻だったのです。しかも、対馬に残っていたのは600から多くても1,000人ほどで、朝鮮軍の兵力は対馬側の17倍もあったのです。
朝鮮側の記録では、朝鮮軍側の死者が6月26日の記録に百数十人、7月10日付の記録には死者180人とあり、どちらにしても200名ほどしか死者は出なかったことになります。そうすると、17,285人中の200人ですから、1パーセントの死者しか出なかったことになります。朝鮮側の記録からは、左軍の敗北はあったものの、他は全勝といった風に取れますが、そんな有利な状況下で、完全勝利した訳でもないのに、なぜ和平を受け入れ撤退したのでしょうか。
その理由として朝鮮側の記録では、戦いが膠着状態となり、朝鮮軍が長く留まることを恐れた宗貞盛が、書簡を以て修好を願い出てきたからだとし、それに前の朝鮮国王・太宗から、七月は暴風が多いので長居しないようとの通達があったからだとあります。しかし、7月が暴風が多いなどというのは事前に分かっていたはずで、それなのに65日分もの食料を準備していたのはなぜなのでしょう。
朝鮮軍の侵攻があった当時、対馬にいて、朝鮮軍に保護された明の商人の証言が『朝鮮王朝実録』に記されています。それは、倭人の死者は20余名、朝鮮人の死者は100余名であったというものです。そして、朝鮮軍の大敗を見られたこれら明の商人達は、明へ帰らせる訳にはいかないと主張した朝鮮政府役人がいたと言うのです。
朝鮮側の記録では、朝鮮軍の死者は総数のわずか1パーセントに過ぎないこと、対馬に居た明の商人が朝鮮軍が大敗したと証言していること、また、筑前国の守護である少弐満貞(しょうに みつさだ)の報告書には、6月26日の戦いで対馬軍は朝鮮軍に大勝したため、27日には朝鮮軍は撤退を開始、7月2日には全ての敵船が退散したとあることなどから、朝鮮軍はわずか17分の1の対馬軍に大敗したことがうかがえます。
そうでなければ、17倍もの兵士を動員しておきながら、完全に制圧出来なかったにも関わらず、すごすごと撤退するはずがないのです。対馬を乗っ取るのが目的ではなく、倭寇を懲らしめるのが目的であるから、それで良かったのだという主張があるかもしれませんが、当時対馬に居た中国人が、倭人の死者が20余人と証言しているように、対馬側の死者は倭寇を懲らしめるに足る人数では決してないのですから、そんなこじつけは通用しません。きっと、人数だけ多くて、みなへなちょこ兵士だったのでしょう。そしてそんな格好の悪い事を記録出来ませんから、いかにも朝鮮軍が圧勝し、対馬側が許して下さいと頼んできたから許してやったのだ、と言わんばかりの事を書き残したのでしょう。
韓国では、このように歴史的事実をねじ曲げ、自らの面目を保とうとすることが多いですが、学校教育においてもその傾向があります。特に、日本との関わりについてそれが顕著です。姉妹サイトの「おさるの日本史豆知識」の古墳時代の項で解説している、王仁(わに)という架空の人物の例もそのひとつです。
応永二十七年(1420年)、応永の外寇の事後処理交渉のため、特別に朝鮮通信使が日本へ派遣され、室町幕府四代将軍義持に謁見し、和解が成立しました。また、1426年には、早田左衛門太郎の要請により、朝鮮は港を開き、対馬との貿易が再開されました。
応永三十年(1423年)、義持は子である十七歳の義量(よしかず)に将軍職を譲りますが、実権は義持が握って射ました。応永三十二年(1425年)、義量が急死してしまい、出家していた父・義持が政治を主導しましたが、跡継ぎを決めないまま義持も亡くなってしまったため、六代将軍は何とくじ引きで決められることになりました。その結果、義満の子で仏門に入っていた義円が、還俗(げんぞく)して次期将軍になることとなりました。しかし、義円は元服前に出家していたため、無位無官(むいむかん)、つまり位階も官職も与えられていない状態でした。
無位無官の者に一気に征夷大将軍という官職と、それにふさわしい位階を与える事は良くないと、公卿(くぎょう/朝廷の最高幹部)からも反発があり、義円の髪が伸びて元服出来るまで、段階的に昇進させることとなったのです。従って、将軍不在といった期間が暫く続き、そんな中、正長元年(1428年)、朝鮮通信使が来日しています。
この頃の朝鮮通信使は、日本の情勢を探るといった密かな役目も担っていました。それは、倭寇に悩まされていた朝鮮が、倭寇と守護大名などとの関係や、都市がどのように発展しているのか、貨幣の流通状況、仏教がどの程度浸透しているのかなどといった、日本の国力を探らせる目的もあったのです。朝鮮通信使は、役人の他、学者や絵師など様々な分野の専門家が船団を組み、対馬から博多、瀬戸内海を進んで赤間関(あかまがせき/山口県下関市)、兵庫で停泊し、京都へは陸路を進み、この道中に様々な日本の様子を記録しています。
朝鮮は中国の属国ですので、中国の次に優れた文明国は自分達の国・朝鮮だと言う、中華思想を真似た小中華思想を持っています。従って、日本など未開の国で、日本人など野獣に等しい野蛮人だと見下していました。また、中華文明をどれほど取り入れ、またそれらをどれほど自分達の物としているかという尺度で、文化の高低を判断していました。特に当時の中国との貿易は漢文でやり取りされていましたので、漢字を使いこなし、漢文を読み書きするということは大変重要なことでした。
ところが、実際に日本にやって来た朝鮮通信使達は、日本の高度な技術と文化に驚きを隠せませんでした。
応永二十七年(1420年)、四代将軍義持派遣の使いに対する回礼使(かいれいし)として、大蔵経(だいぞうきょう/仏教の聖典を総集したもの)を贈呈する名目で、日本の国情を偵察する為に来日した宋希景は、乞食(こじき)が食べ物ではなく、銭を欲しがったという事に驚愕しています。なぜなら、乞食が銭を欲しがるという事は、それだけ貨幣経済が隅々まで浸透し、発達しているという事を示しているからです。当時の朝鮮は、都市部で紙幣が流通していただけで、物々交換が主流でとても貨幣経済と呼べるものではありませんでした。
また1429年に来日した朴端生は、日本の農民が水車という物を使っていると驚き、その仕組みや作り方を詳しく調べさせ、銀メッキ、紙漉(かみすき)、軽粉(おしろい)などの製造方法と共に祖国に持ち帰っています。また日本の貨幣経済の実状、商業の発展などについても報告しています。特に日本の技術について朴端生は、事前に国王の世宗から日本の技術を学んでくるよう指示されていたのです。
水車については、朴端生が来日する100年以上も前の鎌倉時代最末期に、吉田兼好が著した随筆『徒然草(つれづれぐさ)』に、離宮に水車を使って水を汲み上げたと記述されており、それは農民の力で制作・取り付けられていた事を考えると、朝鮮と日本の技術力の差は歴然です。朝鮮はこの揚水式水車について特に関心が深かったようで、歴代通信使は何度も絵図面を作って持ち帰っていますが、水車を完成させて使ったという歴史的事実がない事から、朝鮮には実現させるだけの技術力がなかった事がうかがわれます。
また、朝鮮半島には15世紀半ばまで自国語を表す独自の文字がありませんでした。漢字を使って表記してはいたのですが、中国語とは言語体系や発音の異なる自国語を表記するには漢字では難しく、また庶民にとっては漢字は難しすぎました。従って、特に女性はほとんど読み書き出来ませんでした。そこで1443年、第4代国王世宗によって独自の文字である訓民正音(ハングル)が創成され、1446年に全国的に頒布されました。
しかし、このハングルの創製に際しては、「モンゴルや女真、チベット、日本などは文字を持つが、これは未開人のする事だ」として、朝鮮の支配階級から猛反発を受けたため、ハングルはもっぱら下層階級の手段として用いられ、支配階級の者は原則公私ともに漢文を用いました。1504年、朝鮮十代国王の燕山君(ヨンサングン)が事実上ハングルの使用を禁じたため、以後公式にはハングルは用いられなくなりましたが、やはり庶民階級や一部の支配階級にも用いられ、19世紀後半に公文書にハングルを用いることが決まりました。
それに対し日本では、日本語を文字で表現する方法として万葉仮名(まんようがな)を、既に7世紀には完成させています。万葉仮名とは、漢字の持つ本来の意味は無視し、漢字の音や訓を借りて、漢字を日本語として表記するものです。例えば、万葉集には次のような歌がありますが、歌は全て漢字で書かれており、カッコ内はその読みです。
余能奈可波(よのなかは) 牟奈之伎母乃等(むなしきものと) 志流等伎子(しるときし) 伊与余麻須万須(いよよますます) 加奈乃可利家理(かなしかりけり)
このように、漢字本来の意味は全く無視し、その音を当て字として日本語を表記しようとしたもので、この万葉仮名を基に、平安時代には主に女性用の文字として平仮名、カタカナも作り出されています。
また平安時代中期頃には、漢文を日本語として読む訓読(くんどく)が行われるようになります。当然、中国語と日本語とでは語順が違います。従って、漢文をそのままの語順で読んでも日本語として理解出来ません。そこで返り点というものが考え出されました。漢字の左側に「レ点」や「一二点」などの返り点を入れ、読む順番を指定するもので、それに不足している送り仮名をカタカナで付け足し、句読点を加え、漢文を日本語として読む工夫が成されたのです。
落語には中国にあった話を元ネタにしたものが多くありますが、「饅頭怖い」もその一つです。元ネタは「吾畏饅頭」という中国の話で、これをそのまま音読みすると、「ゴ イ マントウ」となります。このままでは日本語として理解出来ません。そこで工夫を凝らしたのです。まず「吾」を「ワレ」と訓読みし、次に中国語と日本語とでは語順が違いますので、それを示すために返り点を付け、足りない送り仮名を付け加え、「我レ畏ル一饅頭ヲ二」と表記したのです。
注) 日本語は縦書きが本来の姿ですが、ここではパソコンで作成しているため横書きになっています。従って、上の例も本来は縦書きであり、送り仮名は漢字の右下に、返り点は漢字の左側に記します。
これを読む際は、まず我レを「われ」と読み、次に「畏ル」がありますが、その下に「一饅頭ヲ二」と、一二点がありますので、こちらを先に読みます。返り点はその下にある文字を先に読むという指示で、次の漢字が一文字の場合は「レ点」、二文字以上の場合は「一二点」を用います。そして「饅頭」を日本式に「まんじゅう」とし、「われまんじゅうを」とし、そして返り点の上に戻って、「われ まんじゅうを おそる」と読むのです。
この訓読は、戦国時代までは学者の秘伝でしたが、江戸時代には広く一般に公開され、武士や文化人はもちろん、庶民までもが漢文を読んでいたのです。男の子は6〜7歳頃から漢文を学び、字が読めるというのはひらがなだけでなく、訓点をふった漢文が読めるという事を指したのです。
どれほど中華文明を我が物にしているかで、文化の高低を測っていた朝鮮でしたが、まさか未開の野蛮人と見下していた日本で、これほど仏教が浸透し、貨幣経済が発達し、見たことも無い技術を持ち、漢字を我が物として母国語表記に用いているとは思いもせず、いかに自国が劣っているかを思い知らされたため、ここから朝鮮人の日本へのねたみと嫉妬が始まり、日本への異常な対抗心を持ち始めるのです。
さて、くじ引きで次期将軍に指名された、三代将軍義満の子で、仏門に入っていたが還俗させられた義円は、正長二年(1429年)、ようやく征夷大将軍に任官し、六代将軍義教(よしのり)となりました。
義教は、四代将軍義持が国交を断絶した明との貿易を再開し、永享五年(1433年)に義教が明と交わした条約には、「十年一貢、船三隻、乗員三百人、貿易品中刀剣三千把以下」とあって、これはこれまでの貿易に規制をかけるものとみられ、以前にはもっと往来も多く、往来した船の数も多かったことが想像されます。
なお、「十年一貢」とは、十年に一度だけ幕府の使者が乗船し、それ以外は使者は乗船しない勘合貿易を行うというものです。この条約を見ると、室町時代には大量の日本刀が輸出されていたことが分かります。
こうして明との貿易を再開し、反抗勢力を排除するなど将軍の権力回復に務めた義教でしたが、あまりに強行過ぎる行動は反感を高め、守護大名・赤松満祐(あかまつ みつすけ)に暗殺されてしまいました。そして七代将軍となったのは義教の子である義勝(よしかつ)でしたが、わずか9歳でした。
そんな頃、対馬との貿易を再開していた朝鮮でしたが、その利益に目を付けた対馬からの渡航者が増大し、それに応対する朝鮮側の負担が大きくなってきたため、嘉吉三年(1443年)、対馬の宗氏と渡航者を制限する条約を結びました。これを嘉吉条約(かきつじょうやく)と呼び、朝鮮ではその干支から癸亥約条(きがいやくじょう)と呼んでいます。
その主な内容は、@対馬(宗氏)が毎年朝鮮へ派遣する、歳遣船(さいけんせん/貿易船)の数を50に制限する、A朝鮮が毎年対馬に送る歳賜米・豆は二百石とする、というものでした。
なお、対馬の守護・宗氏(そうし)が、朝鮮から「歳賜米」を毎年二百石賜っていたということから、対馬は韓国のものだと言う主張があります。対馬は、土地のほとんどが切り立った岩場であったため、米などの作物をほとんど作る事が出来ませんでした。従って、対馬にとって九州よりも近い朝鮮半島からの米の輸入は大変重要でした。しかし、鎌倉時代中期に高麗(こうらい/当時の朝鮮半島の統一王朝)が、元(げん/当時の中国統一王朝)をそそのかし、日本に侵攻しました。いわゆる元寇です。それにより対馬と高麗との関係は悪化し、対馬は米を手に入れることができなくなりました。
そこで元寇による被害の復讐として、また米を手に入れるため、対馬を中心とする住民達は朝鮮半島沿岸を襲う、海賊行為を行うようになります。これを前期倭寇(ぜんきわこう)と呼びました。あえて「前期」と付けて後期倭寇と区別するのは、これらの目的、構成メンバーなどが異なるからです。そして朝鮮半島は、この前期倭寇によって国が滅びる寸前まで追い詰められ、倭寇を恐れたのでした。
「歳賜米」などと言うと、朝鮮より賜った(たまわった)米と言う意味になり、この嘉吉条約を根拠に対馬は朝鮮に従属していたと一部の韓国人は主張しますが、この歳賜米は、倭寇を恐れた朝鮮が、宗氏に支払った保険なのです。つまり、毎年一定の米を渡すので、もう海賊行為はやめてくれといった一種のみかじめ料のようなものなのです。従って、対馬が朝鮮に従属していたなどという主張は見当外れなのです。
ところで、七代将軍となった義勝でしたが、在任わずか8ヶ月で亡くなってしまいました。そして八代将軍となったのは、義勝の弟で8歳の義政(よしまさ)でした。しかし、幼少であったことからその実権は有力守護大名へと移り、また義政自身も成人しても芸術などにうつつをぬかして政治には無関心で、正室の日野富子( ひの とみこ)や有力守護大名などがその権力をめぐって争うようになっていくのでした。
義政の治世になっても明との貿易は続けられましたが、この頃には明も不景気に陥っていました。享徳二年(1453年)の貿易船は、これまでの相場で言えば21万7,732貫ほどになる商品を積んで行きましたが、相場が下がって5万118貫文にしかならなかったと言います。何とおよそ2割強にしかならなかったのです。
この貿易品の中には、長刀(なぎなた)417振、刀9,483振が含まれていて、明の評価は一振6貫文で計算されています。この時に乗船していた日本人によると、明の不景気のために、太刀は5貫文を維持できたが、硫黄(いおう)は暴落し、最高では一斤(きん)500貫文以上だったものが、25文にしかならず、硫黄をそのまま日本に持ち帰ったと言います。
日本側は、先例に照らして価格を決めよと講義しましたが、他の物に比べて日本刀はそれほど値崩れしておらず、特別扱いであったことが分かります。しかし時代が経つにつれ、日本刀の輸出価格は下がりだし、永正七年(1510年)、室町幕府十代将軍・義稙(よしたね)の時代には、細川氏が持ち込んだ刀が一振300文にまで値下がりしたと記録が残っています。
正式な貿易による、明への日本刀の輸出量と販売価格の推移は次のようになります。
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九代将軍義尚の時代、文明一二年(1480年)に記された『大乗院寺社雑事記』には、永享・宝徳(六代義教〜八代義政)のころ、最も出来が良い刀が日本では800文から1貫文であったが、これを明に持って行けば5貫文になったと記されています。つまり出来が良い刀は明に持って行けば5倍の値が付いたと言うのです。しかし、これら明に輸出された日本刀の価格は、年が経つにつれて下がりました。それは、八代将軍義政の時代、応仁頃から戦国時代となり、明に輸出された日本刀の大半は、数打物(かずうちもの)と呼ばれる、戦国の需要に応えた粗悪品だったからなのです。
このように、室町時代前期には大量の日本刀が輸出されるようになりましたが、それには刀工が組織化され、出来上がった日本刀が研ぎ師、拵(こしらえ)関連の金工や職人を経て商人の元に集められるという、商業ルートが出来上がっていたからなのです。そして戦国時代になると、こういった動きはますます盛んになり、日本刀の仲買人まで現れて、日本刀は産業化していくのです。
室町時代前期は、長きに渡った南北朝の戦乱が終結し、義満が造営した鹿苑寺(ろくおんじ/通称金閣)に代表される、華やかな北山文化の時代であり、商業が発達し、明からもたらされた様々な文物により生産性も上がり、日本刀においては同じく明からもたらされたと考えられる、複数人で踏む式の踏鞴(ふみふいご)により、鉄の大量生産が可能となり、分業化も進んで日本刀の製作工程に大きな変化が見られるようになる時代なのです(日本刀の材料参照)。
また、こうした大量生産のための簡素化された製作工程が受け継がれた結果、平安後期から鎌倉時代にかけての古刀の作刀技術の伝承は途絶えてしまい、日本刀の製作技術は低下し、室町時代には傑出した刀工は現れません。そして相州伝が大流行した南北朝時代とは違い、この時代は備前伝が大いに繁盛しました。
南北朝の騒乱期をへた室町時代には、武士の気質にも変化が現れてきます。鎌倉時代の「御恩と奉公」という主従関係は薄れ、兵士は傭兵化していきました。また彼ら傭兵の報酬は土地ではなく米となり、鎌倉武士の一所懸命(いっしょけんめい)という、土地を守るために命を懸けて戦うといった意識も薄れさせました。
また、悪党や足軽といった者までもが武士化していった時代です。悪党とは、幕府に対して不満を持ち、反抗的な態度をとる者達の総称で、必ずしも悪党が悪者という訳ではなく、幕府にとって都合が悪い者達を、幕府側がこう呼んだのです。
これまで上級武士が着用していた大鎧はほとんどみられず、上級武士も足軽達が着用していた胴丸や腹巻を袖を付けて着用するようになり、太刀に代わって打刀(うちがたな)が発達していきます。こういった下層の者が使用していた物を上層の者までが使うようになり、やがて下層の者が上層にまでおよぶ、いわゆる下克上(げこくじょう)の時代となるのです。
こういった武士の気質の変化や、戦闘の主体が騎馬から歩兵へと移行するのに伴い、日本刀にも大きな変化が見られるようになります。まずは太刀の需要が減り、打刀の需要が増えていきました。つまり太刀の時代から打刀の時代へと移行して行く時代となりました。
太刀は、馬に乗ることが出来る武士が佩用(はいよう/身に付ける)するもので、馬に乗った状態で戦う事を前提として作られています。従って、刃長も長く、反りも腰反りとなり、刃を下にして、腰からぶら下げるようにして身に付けます。こうすると石突(いしづき)が上に向き、馬のお尻に当たったりせず、馬が落ち着くからです。
一方、打刀は徒歩で走り回って戦う下層の者が、刃を上にして腰紐に直接差すもので、素早く抜いて打ち切るのに適した、反りを浅く、刃長も短く作られています。戦闘の主体が足軽などに移行するに従い、需要は太刀から打刀へと移行していったのです。
古来日本の兵士の主要武器は弓であり、馬上での弓射戦が主流でした。そして防具である甲冑も矢の攻撃から身を守るよう工夫され、平安時代には大鎧が現れました。これは馬に乗ることを前提とした甲冑でした。しかし、鎌倉時代になると御家人同士の争いが多発し、市街戦が主流となるにつれ、バリケードなどが設けられて馬での移動は困難となり、弓は歩兵の武器となりました(鎌倉初期の太刀姿の特徴参照)。そうなると、甲冑も徒歩で動きやすい胴丸が主流となり、上級武士も胴丸を着用するようになりました。
しかし、鎌倉時代も時が経つにつれ、御家人達は次第に貧しくなっていきました。その理由のひとつは鎌倉中期の末に起こった文永・弘安の役、いわゆる元寇(げんこう)です。元・高麗連合軍の二度にわたる侵攻を食い止めた鎌倉幕府でしたが、三度目の侵攻に備えた防衛体制維持は、御家人達には大きな負担となりました。またもうひとつは、当時の相続が女子も含めた分割相続であったため、相続が繰り返されるに連れ、相続する土地がだんだん小さなものとなってしまったのです。
それに加え、貨幣経済が農村にまで普及し、武士も貨幣を得るためには小さな土地を切り売りせざるを得ず、ますます貧しくなっていったのです(鎌倉時代中期・後期の冒頭参照)。こうなると、もう武芸の鍛錬どころではありません。古来武士の主要武器とされてきた弓でしたが、馬に乗って矢を射るには、狩りなど実践的な訓練が必要ですが、食べるのにも困る御家人達にとって、そんな余裕はありませんでした。
そして南北朝時代になると、馬上の武士達は弓を射る際は馬から降りて射るようになり、馬上では太刀や金砕棒(かなさいぼう)、狼牙棒(ろうがぼう)といった、打物(うちもの)で戦うようになりました(南北朝時代の太刀姿の特徴参照)。これは、困窮して弓の鍛錬どころではなくなった御家人達が、馬上で矢を射るといった高度な弓射を忘れてしまい、もはや馬上で矢を射る技術がなくなってしまったからではないかとも思われます。
南北朝時代には、敵を威嚇するような長寸の大太刀が流行しますが、長すぎて馬上の武士自信では持てず、従者に持たせておき、必要な時に従者に持たせたまま抜き払いました。しかし、従者がやられてしまったり、逃亡したりすると全く役に立たず、薙刀や槍といった長柄の武器が登場したこともあり、大太刀の流行は一時的なものとなりました。
こうして、南北朝時代の戦闘では、騎馬の主人を守る数人の足軽などが、薙刀や槍を持って付き従うようになりました。そして騎馬の武士同士は打物で戦いました。甲冑は矢や太刀から身を守るよう作られているため、太刀などで斬りつけても致命傷は与えられないため、こういった打物で甲冑の上から思い切り打ち叩いて落馬させ、落馬した者を従者達が槍や薙刀などで攻撃したのです。
このように、時代が進むに連れ戦闘の主体は歩兵となり、歩兵の主要武器は槍や薙刀、あるいは弓となりました。そうなると甲冑は自然と動きやすい胴丸や腹巻が主体となり、槍や薙刀といった主要武器とは別に、打刀(うちがたな)を腰紐に直接差したのです。
平安時代後期には、既に下級官人などが二尺に満たないほどの打刀(うちがたな)を使用しており、絵巻などにも描かれています(平安時代後期・平造りの打刀参照)。打刀とは、槍などのように刺す刀ではなく、打ち切るということからこのような呼び名がありますが、既に鎌倉時代の文献にも「打刀」という言葉が使われています。古来、軍事・警察部門に仕える下級役人や、走り回って戦闘に参加する足軽などは、身軽に動けるようにこういった短い刀を帯に直接差していたのです。
一方、古来騎兵の主要武器は弓であったのに、時代が経つに連れ打物へと変化しました。そして弓を射る際には下馬して行うようになりましたが、馬に乗ることが出来る身分の武士は、時代が立ってもやはり太刀を佩き(はき)ました。また、太刀の添料として帯びていた腰刀は、時代が進むにつれ寸法が長くなり、南北朝時代頃には二尺を越える物まで現れました(南北朝時代の志津三郎兼氏参照)。
大鎧や胴丸など甲冑を着用する際は、腰刀や太刀は最後に身に付けます(甲冑の着用手順参照)。戦いの合間に休息する場合は胴を脱ぎますが、それにはまず腰刀や太刀を外さなければなりません。こうなると丸腰になってしまいますので、腰刀を再び帯びることになります。太刀を佩用(はいよう)するには、佩緒(はきお)という紐を腰に回して腰からつり下げなければならず、手間がかかる上に休憩するのには邪魔になります。しかし、腰刀は腰紐に差すだけなので簡単なのですが、短いのでいざと言う時に不安です。
そこで腰刀の寸法が時代を経るに従って延びていったのです。南北朝時代は騒乱の時代ですので、太刀同様に腰刀も寸法が延びたのです。馬に乗ることが出来る上級武士は、太刀の添え料としてこうした二尺ほどもある腰刀を帯びたのです。これなら、休憩時に胴を脱ぐ際、太刀を外しても、長い腰刀を帯びておけばいざという時にも戦えます。
太刀を手に取って戦う事も出来ますが、鞘の行き場がありません。太刀は佩緒で腰からつり下げるものですので、鞘には太い緒や金具が付いていて(太刀の拵参照)、これらが邪魔で鞘を直接帯には差せません。そうなると鞘を左手に持ったまま戦わなくてはなりません。鞘を手放す訳にはいかないからです。これでは十分に戦えません。長い腰刀であれば、鞘を直接帯に差せますのでこういった心配はありません。
こうして室町時代に主流となるいわゆる刀は、上級武士が太刀と共に帯びていた腰刀の寸法が伸びて発展した物、下層武士が帯びていた打刀が発展した物という、2通りがあると考えられています(日本刀の区分参照)。
長きに渡る南北朝の争乱が終わり、敵を威嚇するような大太刀の必要性はなくなり、刀工達は二尺四寸前後の、平安後期や鎌倉初期の優美な太刀姿を手本として作刀しました。しかし平安後期や鎌倉初期の太刀姿と、室町時代の太刀姿の違う点は反りにあります。平安後期や鎌倉初期の太刀はいきなりはばき上で倒れるように反り(腰反り)、鎌倉中期以降反りの中心は上へと上がっていきますが、室町時代の太刀や刀は先反りとなっているのが特徴です。つまり反りの中心が刀身の中程より上にあるのです。
室町時代前期でも初めの頃は、まだ打刀よりも太刀の需要の方が多く、室町時代前期も終わりに近い頃から打刀の需要が多くなり、太刀よりも少し短い、太刀の面影を残した打刀が作られるようになりました。そして室町時代前期も終わりに近づく頃には、太刀の作刀はほとんど見られなくなり、いよいよ打刀の時代となっていきます。
南北朝時代には、延文・貞治型(南北朝時代の太刀姿の特徴参照)と呼ばれる、反りが付いた平造りの寸延び短刀が作られましたが、室町時代になると鎬造りの先反りが付いた脇差が作られるようになります。また応永備前鍛冶(室町時代前期の備前伝鍛冶)には、南北朝時代の延文・貞治型の寸延び短刀に似た、一尺一寸くらいの平造りですがやはり先反りの付いた脇差が多く見られ、表裏に神仏の尊像、称号、剣巻竜、独鈷突剣、梵字(彫刻参照)などを彫るこの時代特有のものです。
樋(ひ)がある場合は、多くは茎(なかご)まで掻き流さずに、区(まち)の上で丸止め、あるいは角止めになっています。
良質の鋼が大量に生産出来るようになったため、地肌はよく詰んだ地肌となりますが、南北朝時代のような変化に富んだものではなくなり、単調な地肌となり、刃中にほとんど働きが見られないのもこの時代の特徴です。
それは材料や製作工程の変化によるものと考えられています。古刀期の材料や作刀法は、科学が発達した現在でもはっきりとは分かっていません(日本刀の材料、日本刀の特徴参照)。しかし、おそらくたたらによるズク押し法により銑鉄(せんてつ)を作り出し、得られた銑鉄を脱炭して刃物に適した炭素量にし、それを材料にして日本刀を作っていたのではないかと考えられています。
銑鉄には不純物が多く含まれ、脱炭した後も炭素量が不均一であったため、かえってあのような変化のある地刃が生まれたのではないかと考えられています。しかし、室町時代にはたたらの炉は大型化し、送風装置である鞴(ふいご)も、複数人で踏む式の踏鞴が明との貿易によってもたらされ、大量の鉄が得られるようになりました。
そして、大量の日本刀が輸出されるようになったことにより、生産が産業化して分業化していきました。そして製鉄の技術も向上し、1500年代初め頃には直接鋼(はがね)を産み出すことが出来るヒ押し法(けらおしほう)により、出羽鋼(いずははがね)や千種鋼(ちぐさはがね)などの、良質な鋼が生産されるようになりました。皮肉なことに製鉄の技術が向上したことにより、鉄の炭素量が均一化され、不純物も少ない良質な鋼が生産出来るようになったために、古名刀に見られる地刃の変化が見られなくなったのです。
なお、室町時代以前の太刀や短刀の目釘穴は、鏨(たがね)で表裏からコツコツと空けられていましたので、表と裏の穴の入口の口径は大きく中程は狭くなっているのが特徴ですが、室町時代以降はロクロで空けられていますのでまん丸の穴が空いている味気ないものとなっていますが、これも見所の1つです。つまり、機械で空けたようなまん丸の目釘穴は室町時代以降にしかないということです。
三条吉則(さんじょうよしのり)は、初代は鎌倉後期から南北朝期にかけて作刀したとされ、重要文化財の太刀が現存しています。しかし現存する作刀のほとんどは、応永(1394年-1427年)以降の物です。三条と名乗りながらも、その作風はもはや山城伝正伝ではなく、先反りの姿にあまり沸(にえ)が付かない直刃(すぐは)や、備前伝のような腰の開いた乱刃を焼き、よき時代の山城伝の面影はありません。
守弘の太刀 |
上の写真は、越前国の守弘(もりひろ)の太刀で、刃長二尺二寸三分四厘(67.7センチ)、反り六分九厘(2.1センチ)です。
鎬造り、身幅広く重ね厚く、鎬幅は狭く、鎬高い造り込みになっています。反りは中間反りですが先反りがつき、切先は小切先になっています。
地肌は小板目がよく詰み地沸(じにえ)付き、北陸特有の黒ずんだ地鉄になっています。刃文は互の目乱れに丁子混じり、華やかな刃文になっています。
守弘は、千代鶴(ちよづる)国安の子、一説には国安同人とも言われる刀工で、国安は越前来(えちぜんらい)と呼ばれた、山城国の来系鍛冶です。
景長の太刀 |
上の写真は、因幡国(いなばのくに)の景長(かげなが)の太刀で、刃長二尺二寸四分(68センチ)、反り七分(2.1センチ)です。
鎬造り、庵棟、板目に柾混じりの地肌に中直刃を焼き、切先は小切先、反りは中間反り高い太刀姿です。
景長は山城国の粟田口系鍛冶で、後代になって因幡国に移住しています。
末手掻(すえてがい)とは、応永以降の大和手掻一派の総称ですが、この時代の山城伝同様、柾目肌(まさめはだ)交じりの地肌に沸本位(にえほんい)の中直刃を焼くといった伝承しかありません。
応永備前の作風 |
応永備前(おうえいびぜん)とは、室町時代前期の応永年間(1394年-1427年)頃の長船鍛冶の総称で、備前長船が最後に花開いた時代です。
応永備前の直刃 | 応永備前の刃文と棒映り |
その特徴は、先反りの姿に匂本位(においほんい)の腰が開いた乱れ刃に丁子交じりの刃文を焼き、乱れ刃であっても映りは棒映りとなります。備前伝では刃文に応じて映りも変化しますが、この頃には乱れ刃を焼いても映りは棒映りとなっています。また、備前伝にはほとんど見られなかった直刃(すぐは)も焼かれるようになり、鋩子(ぼうし)は乱れ込んで先が尖りごころとなります。
そして、茎は太く短くなっています。これは、片手打ち、つまり片手(右手)だけで刀を握って扱うのに適した寸法に仕立てられています。
盛光の太刀 |
盛光の太刀(重要文化財) |
応永備前で最も有名なのは、盛光(もりみつ)と康光(やすみつ)です。盛光は南北朝時代末の師光(もろみつ)の子で、師光は相伝備前兼光の孫に当たります。
上の上段の太刀は、佩表(はきおもて)に備州長船盛光、佩裏に応永十二年八月日と切られた、盛光の初期作で、刃長二尺三寸七分一厘(71.85センチ)、反り八分五厘(2.58センチ)の太刀です。
鎬造り、庵棟は低く、重ね厚い頑丈な造り込みとなり、腰反り高く、わずかに先反りが見られます。
地肌は板目に杢目が混じり、刃文は互の目丁子乱れで、乱れ映りが立っています。
盛光は修理亮(しゅりのすけ)という、受領銘(ずりょうめい)を与えられています。修理亮とは、律令時代(りつりょうじだい)に内裏などの造営や修理を担当した修理職(しゅりしき)の次官です。
と言っても、盛光が役人として務めていた訳ではありません。受領銘は特定の刀鍛冶に与えられた、一種のステータスです。
上の下段の太刀は、佐竹家に伝来した盛光の太刀で、重要文化財に指定されています。刃長二尺五寸一分(76.05センチ)、反り一寸九厘(3.3センチ)です。
鎬造り、庵棟、身幅やや広く中切先で、反りはやや先反りとなり、鎌倉後期の太刀姿に似ていますが、先反りとなっているのが室町時代の姿の特徴です。
地肌は板目がやや流れ、棒映りが立っています。刃文は互の目に丁子や尖り刃混じり、足・葉がしきりに入って砂流しかかり、匂口(においぐち)締まった出来になっています。
帽子は乱れ込んで先は尖り、応永備前の特徴を示しています。また、表裏に彫られた棒樋も、区(まち)上で丸留めとなり、これもこの時代の特徴です。
佩表(はきおもて)に「備州長船盛光」、佩裏に「応永廿三年十二月日」と切られています。
この佐竹家伝来の太刀は盛光の傑作で、地刃ともに抜群の出来映えを示し、応永備前の代表作でもあります。
則光の刀 |
徳間書店 日本刀全集より |
上の写真は、五郎左衛門尉則光(ごろうざえもんのじょう のりみつ)の刀です。鎌倉時代の二代長光の門人(子とも)に則光がおり、これを古則光とした系図を採用する古剣書もあるようですが、通常は応永備前のこの則光を中興の祖とし、初代則光とします。
刃長二尺二寸七分(68.8センチ)、反り八分(2.4センチ)で、茎(なかご)は極端に短くなっています。これは、片手打ちの打刀の特徴です。この刀の銘は、表に「備州長船則光」、裏に「寛正五年八月日」とあり、1465年の作です。
地肌は小板目がよく詰み、棒映りが見事に立っています。刃文は匂出来(においでき)の腰の開いた互の目乱れが華やかで、焼き頭に小足(こあし)が入り、匂口(においぐち)が締まっていますが、刃中にはほとんど働きはありません。
この時代の則光には名品が多いと言われますが、この刀もそのうちの一振です。
広正の作風 |
広正の脇差 |
上の写真は、相模国の広正(ひろまさ)の脇差で、刃長一尺八寸九分(57.3センチ)、反り四分三厘(1.3センチ)、鎬造り、三つ棟で、身幅は狭めで重ねは薄く、反りは浅めの腰反りとなり、太刀の面影を残した片手打ちの打刀です。寸法は脇差ですが、もともとは片手打ちの打刀として作られた物で、後に磨上げられて茎(なかご)を長くしてあります。
地鉄はよく鍛えられ、刃文は互の目乱れに丁子混じりで棟焼きがあり、皆焼(ひたつら)のようになっています。皆焼とは、字のごとく、刃以外の平地や鎬地などにも焼きが入っている状態のものを言います。
皆焼 |
室町時代前期頃までは、かろうじて相州伝の体裁は保たれていますが、だんだんと板目肌に杢目が混じったり、板目が流れて柾がかったり、特に沸(にえ)が少なくなり、皆焼風にはなっていても、飛び焼き部分に刃ほとんど沸がなくなっていきます。
もともと、相州伝はザックリと板目に鍛えた地鉄を、高温で焼き入れするという荒沸本位(あらにえほんい)の伝法ですが、高温に熱せられた地鉄を急冷して焼き入れを行うため、刃切れが生じたり、鋩子が割れたりといったことが起こりやすく、その技術を代々伝えていくということが、五箇伝中で最も難しい伝法です。従って、室町時代以降、その技術はどんどん低下していきます。
広正は相州伝正系を継ぐ刀工で、上の脇差には「宝徳三年二月日」(1451年)の年紀が切られており、この広正が初代広正で、四代広正は後に小田原へ移住し、小田原城主・北条氏綱から「綱」の一時を賜り、綱広と改銘し、明治時代まで連綿と代々鍛刀をおこなっています。
信国の太刀(重要文化財) |
上の太刀は、刃長二尺三寸六分三厘(76センチ)、反り三分(0.93センチ)、鎬造りで庵棟低く、身幅は広く反り浅く、切先は中切先になっています。太刀としては極端に浅い反りですが、室町時代の太刀は反りの浅いのが特徴です。
地肌は板目がよく詰み地沸ついて肌立ち、刃文は匂口の締まった互の目乱れで小沸つき、矢筈刃(やはずば)が混じり、砂流しかかります。
矢筈刃とは、角張った互の目の頭が二股に割れたものです。弓の矢のお尻には、弦(つる)につがえるための切り込みがありますが、これを矢筈と言い、この二股状の形に似ていることからこう呼ばれます。そして応永信国はこの矢筈刃が混じることが見所です。
応永信国とは、了戒久信の子とも言われる、南北朝時代の初代信国の後裔で、室町時代前期初頭の応永頃に活躍した信国と銘した刀工の総称です。初代信国は山城国に住しながらも相州伝を鍛え、貞宗門人と言われた刀匠です。応永信国と呼ばれる刀匠には、三代信国(刑部丞/ぎょうぶのじょう)、左衛門尉信国(さえもんのじょう/三代の子)、式部丞信国(しきぶのじょうのぶくに/三代の子)がおり、上の太刀の作者である信国は式部丞信国です。
なお、刑部丞、左衛門尉、式部丞というのは、律令時代の刑部省、左衛門府、式部省という役所の役職名で、「丞(じょう)」、「尉(じょう)」は四等官(しとうかん)と呼ばれる上級役人の上から三番目の地位です。もちろん、刀鍛冶が役所勤めをするはずはなく、これらは受領銘(ずりょうめい)といって、これらの役人に匹敵するという地位を、朝廷が刀鍛冶の優遇策として与えたもので、一種のステータスでした。
兼綱の太刀 |
上の写真は、石見国(いわみのくに)の兼綱(かねつな)の太刀で、刃長二尺四寸二分二厘(73.4センチ)、反り七分六厘(2.3センチ)です。
鎬造り、庵棟で身幅やや広く重ね厚く、鎬高く腰反り浅く、わずかに先反りごころとなった太刀姿です。地肌は板目に杢目まじりで肌立ち、黒ずんでいます。刃文は小沸がよくついた互の目乱れで、尖り刃が混じり、足が入っています。
兼綱は、南北朝時代の石州直綱系の鍛冶です。直綱は一説には正宗十哲の一人とも言われますが、直綱の作風は相州伝正伝とは異なっており、現在では疑問視されています。
善定兼吉の作風 | 善定鋩子 |
善定兼吉(ぜんじょうかねよし)は、大和手掻系の包吉の子で、美濃国へ移住し法華宗の寺院に属し、法名を善定(もしくは善良)と言いました。大和手掻系ですので鎬幅広く鎬地は柾目となり、地にも柾目が交じります。そして地の柾目が地の中央に現れ、これを善定肌と呼んでいます。刃文は匂本位の細直刃で、所々に乱れが1つ2つ節のように現れるのが特徴です。また鋩子は大丸で返りがほとんどなく、真横に一文字のようになり、これを善定鋩子と呼んでいます。
この兼吉の系統から、やがて孫六兼元、兼常、兼房、氏房、兼道(新刀期の伊賀守金道・丹波守吉道・越中守正俊の父)など、美濃関鍛冶の代表鍛冶が輩出します。
〈山城国〉応永信国、三条吉則
〈大和国〉末手掻包吉、包行、包貞
〈摂津国〉天王寺長谷部三代国重
〈駿河国〉島田義助、助宗
〈相模国〉正広、広次
〈陸奥国〉宝寿
〈出羽国〉月山
〈美濃国〉直江志津後代、善定兼吉、兼重、兼光、三阿弥兼則、奈良兼常、得印兼久、良賢兼宗、室屋兼在、蜂屋正光
〈加賀国〉藤嶋友重、浅古当麻信長
〈紀伊国〉入鹿一派
〈越前国〉千代鶴守弘、守重、浅古当麻信長
〈越中国〉(後代)宇多国房、国宗
〈越後国〉山村正信、安信、桃川長吉
〈但馬国〉法城寺国光
〈因幡国〉因幡小鍛冶景長
〈出雲国〉雲州吉井吉則
〈石見国〉三代直綱
〈備前国〉応永備前盛光、康光、師光、吉井吉則
〈備後国〉法華一乗一派、中三原正家、辰房重光、鞆貞次
〈筑前国〉金剛兵衛一派
〈豊後国〉平高田一派
〈筑後国〉大石左
〈豊前国〉筑紫信国一派、筑紫了戒一派
〈肥後国〉末延寿一派
〈薩摩国〉中波平一派
応仁元年(1467)-享禄四年(1531)
室町幕府八代将軍義政-十二代将軍義晴
応仁元年(1467年)、応仁の乱が勃発し、これ以後およそ100年にも及ぶ戦乱の時代へと突入します。この応仁の乱の起こったきっかけは、室町幕府八代将軍・足利義政と、その妻・日野富子の夫婦ゲンカでした。
八代将軍義政は三代将軍義満の孫に当たり、わずか8歳で将軍職に就きました。こんな幼い子供に当然将軍職などつとまるはずはなく、管領(かんれい/将軍に次ぐ地位)であった畠山持国(はたけやま もちくに)らが後見人となり、政務が行われました。こうして、将軍でありながら、政務は自分の知らないところでどんどん進められるという状態が長く続きました。
そして義政20歳の時、日野富子を正室として迎えました。日野家は、平安時代中期に栄華を極めた藤原道長の血筋である、藤原北家(ほっけ)の家系であり、室町幕府三代、四代、六代将軍(義政の父)の正室も日野家から迎えており、また日野家は天皇家とも深い関係を持った家系でもありました。また義政は政治には関心を示さなかったため、政治の主導権を巡って、管領や有力守護大名の間にはいざこざが絶えず、正室である富子もその立場と家系を楯に、政治に関わるようになり、その影響力を強めていきました。
義政と富子の間には、男の子が産まれていましたが早くに亡くなってしまい、長い間跡継ぎが出来ませんでした。しかし優柔不断な義政は次期将軍を決められないまま月日が流れ、勝ち気な富子の尻に引かれることにより、義政はますます職務を怠り、酒宴を開いたり邸宅のリフォームをしたりと、政務とは全く関係の無い、個人的趣味の世界におぼれていったのです。
そんな中、長禄・寛正の飢饉(1459年-1462年)が全国を襲いました。干魃や台風、大雨による水害、害虫などに加え、武士同士の争いも加わり、京都も甚大な被害を受けました。台風の直撃を受けて賀茂川が氾濫し、多くの家屋が流され、多数の死者を出したうえ、京都周辺から流入してきた流人により食糧不足は加速し、疫病が蔓延して数万人もの試射を出したのです。賀茂川はその死者であふれ、流れをせき止めるほどであったとも言われます。
そんな状況であるにも関わらず、義政は市民の救済や対策に着手することも無く、それどころか莫大な費用を費やして、花の御所(将軍の邸宅)の改築に着手したのです。これを知った後花園天皇(ごはなぞのてんのう)は、書簡を以て義政を諌めましたが、義政はこの勧告を無視して改築を続けたのでした。政治に関心が無いだけのバカ殿ならまだましですが、ここまでくると皆の怒りを買いました。
未だ富子との間に跡継ぎが出来ない義政は、政治にも無関心ですし、早く将軍職を譲りたいと思い出します。そこで義政の弟で、出家(お坊さんになる)していた義視(よしみ)を、還俗(げんぞく/お坊さんをやめ、一般人となること)させ、養子とし、次期将軍にすると決めたのでした。足利将軍家では、嫡子(ちゃくし/跡継ぎ)以外の男子は、出家させることになっていたのです。
ところが、寛正六年(1465年)に富子との間に義尚(よしひさ)が誕生したのです。富子にとっては、義理の弟である義視よりも、実子である義尚を将軍にしたいと思うのは当然で、富子は有力守護大名で、軍事・警察部門の長官である山名宗全(やまな そうぜん)に、義尚の後見を依頼したのです。一方、義視の後見人は、管領(かんれい/将軍に次ぐ地位)である細川勝元(ほそかわ かつもと)が務めることとなったのです。
妻の富子からは実子の義尚を次期将軍にと詰め寄られ、出家していたのを呼び戻され、次期将軍にと義政に指名された弟の義視にも詰め寄られながらも、優柔不断な義政はどちらとも決められず、そこから逃げるように、ますます趣味の世界へのめり込んでいったのです。こういった将軍家の跡継ぎ争いに、管領の細川勝元、有力守護大名の山名宗全がそれぞれ対立候補と結び付いて対立し、それに加え、管領を交代で務めた細川家、斯波家(しばけ)、畠山家(はたけやまけ)のうち、斯波、畠山両家にもそれぞれ跡継ぎ争いが起こり、特に畠山家に起こった跡継ぎ争いでは、義政はまた優柔不断な態度を示し、支持する相手をころころと変えていくのでした。
将軍義政が幼い時に、後見人を務めた管領畠山持国(はたけやま もちくに)には跡継ぎがいませんでした。そこで弟の持富(よしとみ)を養子に迎え、家督を継がせようと考えていましたが、後に実子である義就(よしなり)が産まれたのでした。実子である義就に家督を継がせたくなった国持は、七年後に養子として迎えた義富を追い出し、実子の義就を跡継ぎと決め、将軍義政にも承認を得たのでした。
しかし、畠山家の家臣には義富派の者も多く、義富が早くに亡くなると、義富派はその子・弥三郎が畠山家の家督を継ぐべきだと主張したのです。ここに畠山家は義就派と弥三郎派が対立を深めることになったのです。持国は、そんな反対勢力を排除し始めたため、身の危険を感じた弥三郎とその弟・政長(まさなが)は、細川勝元、山名宗全を頼って逃れ、体勢を整え直した弥三郎らは、持国邸を襲撃し、持国は隠居することになり、義就は京から逃亡したのでした。そして将軍義政は、今度は弥三郎を畠山家の跡継ぎと認めたのでした。
義政は喧嘩両成敗として、弥三郎をかくまった細川勝元の家臣の処刑を命じました。山名宗全はこれに反対しましたが、それを受け入れた細川勝元、それを命じた義政に対して強い反発を示したため、義政は山名宗全の追討を命じたのでした。しかし、今度は細川勝元が義政を説得し、山名宗全が但馬国へ移り、隠居することで決着したのでした。
山名宗全が但馬へ移ると、京から逃亡していた畠山義就が、兵を率いて京へ舞い戻り、弥三郎邸を襲撃したのです。今度は弥三郎が逃亡し、また義就が畠山家の跡継ぎと認められたのです。そして享徳四年(1455年)に当主である畠山持国が没すると、義就が家督を継いだのです。畠山家当主となった義就は、弥三郎派の弾圧を始め、また細川勝元の所領を襲撃したため、細川勝元は弥三郎と結び、義就を排除すべく動き出すのです。
山名宗全は許されて京に戻ると、畠山義就と結び、細川勝元・弥三郎らと対立を深めるのでした。そして弥三郎が亡くなると、その弟・政長が弥三郎に替わって細川勝元を後見人とし、山名、義就らと畠山家の跡目争いを繰り広げるのですが、寛正元年(1460年)、将軍義政は政長に畠山家の家督相続を認め、義就を追放したのでした。
寛正四年に義政の母が死去した恩赦により、義就は許されましたが、文正元年(1466年)十二月、山名宗全の後ろ盾を得た義就は突然兵を率いて京へ舞い戻り、陣を張りました。そして年が明けた二月、義政は追放していた義就を花の御所に招き、対面を許したのです。管領となっていた畠山政長と細川勝元には何の断りもなく、山名宗全に言いくるめられての行動でした。二人は義政のこの行動に憤慨しましたが、さらに二人を憤慨させる事件が起こるのです。
正月には、将軍が管領の屋敷を訪れ、管領がご馳走で将軍をもてなすという、御成(おなり)が恒例となっていました。全国の特産物や珍味を取り寄せ、将軍やお連れの者達にも振る舞い、自分はこれだけの物を取り寄せ、数百人に振る舞うほどの財力と権力を持っているということを誇示する場でもありました。
この年、管領となっていた畠山政長は、準備万端整えて御成の日に備えていましたが、義政はこれをドタキャンしたうえ、3日後、政長と家督争いをしている畠山義就が山名宗全邸で開いた酒宴に出向いたうえ、その場で義就が畠山家の家督を継ぐことを認め、政長に屋敷を明け渡すよう要求させたのです。
面目をつぶされた政長は憤慨して管領を辞し、次の管領には山名宗全の息のかかった斯波義廉(しば よしかど)が就きました。これによりますます細川勝元と山名宗全の対立は深まり、細川勝元は所領などから武士を招集し、その数16万人、一方山名宗全側にも武士が集まり、その数11万人、計27万人が京都のど真ん中で戦いを始めたのでした。これが応仁の乱の始まりです。なお、細川勝元、山名宗全がそれぞれ陣を張った位置関係から、細川方を東軍、山名方を西軍と呼びました。
自分の優柔不断が原因で起こった将軍家の跡目争い、守護大名などのお家騒動に対してもその支持する相手をころころ変え、一貫した考えもなく、後先も考えずに混乱を助長するような行動をし、それらが原因で起こった町中での大戦乱であるにも関わらず、戦闘のさなか、義政は大酒飲みを競う宴会を催していたのです。しかし、戦闘を始めた細川、山名らにとって、もうそんなバカ殿のことなどどうでも良かったのです。もうこの戦いは守護大名らの覇権争いになっていたのです。
戦乱が全国に及び混乱が続く中、食糧不足が深刻化していました。そんな事情であるのにも関わらず、将軍義政の正室富子は米を買い占めて米の相場をつり上げ、そこで売り払って大儲けし、またその儲けたお金を高い利子で貸し付けるという、高利貸しまで始めるのです。しかも、戦闘中の東軍、西軍両方に高利で貸し付け、また大儲けしたのです。そのうえ京に出入りするための七つの入り口全てに関所を設け、通行税を徴収したのです。こうして戦闘中のどさくさに紛れて富子が荒稼ぎした総額は、現在の価値にして70億円にも及ぶと言われます。
戦乱が長引く中、ようやく義政は次期将軍に実子の義尚をと決め、細川勝元も後見していた義視に出家を勧めるようになりました。そこで義視は敵であった西軍へ寝返ったのでした。
戦闘は膠着状態となり、文明五年(1473年)、山名宗全、細川勝元が相次いで死去し、義政は実子の義尚に将軍職を譲りました。そして文明九年(1477年)に、ようやく和睦が成って11年も続いた応仁の乱は終わったのでした。しかし、初めは将軍家の跡目争いから始まった戦乱でしたが、やがてそんなことはそっちのけとなり、守護大名同士の跡目争い、覇権争いへと発展し、それが全国に及ぶ戦乱の時代の始まりとなるのです。
長年に及んだこの応仁の乱によって京都は焼け野原と化し、平安時代から連綿と続いた山城鍛冶は住むに家無く、地方へと脱出して山城鍛冶はほとんど全滅状態となってしまいました。しかし戦乱は全国に波及したので、刀の需要は爆発的に増加し、古刀期最後の需要期となりました。
朝鮮半島南部には、釜山浦、薺浦、塩浦という3つの港(浦)があり、これらを三浦(さんぽ)と呼びましたが、対馬の宗氏をはじめ、九州など西日本の日本人達はこの三浦を拠点とし、朝鮮と貿易を行っていました。そしてこの三浦は、日本人の居留地にもなっていました。朝鮮は対馬のほかに、室町幕府将軍からの使節である日本国王使、細川氏や大内氏など有力守護大名の使節、瀬戸内海の港を拠点とする水軍の使節をも積極的に受けいれていました。
日本との公的な貿易では、品物の運搬費や日本側の滞在費なども朝鮮側の負担であったため、日本の経済が発達するに従って交易品の量も増え、またやって来る日本の船の数も増え、朝鮮の出費は重なるばかりでした。そこで国庫を圧迫しかねないこれらの費用を減らすべく、朝鮮は日本との公益頻度を減らそうとしますが、島内で米などを生産出来ない対馬の宗氏にとっては、朝鮮との公益が唯一の資金稼ぎであったため、家臣を養って勢力を維持するには朝鮮との公益は必須であり、それを制限されることは承諾できませんでした。
日本から朝鮮への主な輸出品は銅や胡椒(こしょう)でした。朝鮮では真鍮(しんちゅう/銅と亜鉛の合金)製の食器を用いますので、銅の需要が多かったのです。そして朝鮮からの主な輸入品は綿布でした。
14世紀後半、朝鮮の前の統一王朝であった高麗(こうらい)の時代に、元(げん/中国の統一王朝)から木綿の種子が伝わり、栽培法が朝鮮半島全体に広がり、15世紀後半になると、朝鮮で木綿の生産が伸びました。暖かくて肌触りが良い木綿は、高級衣料として日本人にも好まれ、日本人は木綿を多く求めるようになりました。
日本経済の発達により、朝鮮への来航数が増え、その滞在費や荷物の運搬費など朝鮮側の負担が大きくなったため、その中心である対馬の宗氏に対し、嘉吉条約(かきつじょうやく)で来航数の制限を行いましたが、対馬の宗氏は何とか貿易回数を増やそうとし、室町幕府将軍の使節である日本国王使を偽ったり、有力守護の使節と偽ったりして都工数を増やしていたのです。
対馬の宗氏は大量の銅を積んで朝鮮に向かいますが、木綿が枯渇することを恐れた朝鮮は、綿布と銅の交換レートを上げたり、持ち込まれた銅の一部しか取引しなかったり、最終的には銅の輸入を禁止しました。こうして貿易回数を減らしたい朝鮮と、増やしたい対馬の間に軋轢(あつれき/不仲)が生じ、また三浦に居留する日本人の増加により、漁場の占拠や朝鮮人との癒着など、様々な問題が発生してくるのです。
朝鮮は、居留する日本人の締め付けを強化し、時には無実の日本人が海賊と間違えられて斬り殺され、日本人の不満は爆発寸前でした。そんな中、1510年、また日本人が海賊と誤認されて朝鮮人に斬り殺されるという事件が起こります。これに激怒した三浦に居留している日本人が反乱を起こしました。これを三浦の乱(さんぽのらん)と呼びます。
対馬からの援軍を得た反乱軍の目的は、来航数の制限の解除、三浦に居留する日本人の抑圧を停止といったものでしたが、反乱は抑えられ、居留していた日本人達は対馬に撤退しました。これにより、対馬(日本)と朝鮮の国交は断絶状態になりましたが、対馬は朝鮮との貿易で成り立っており、朝鮮も銅や胡椒などを対馬との貿易に頼っていましたので、歩み寄りが必要でした。
胡椒と言うと、現在ではどこの家庭にもある香辛料ですが、インド原産の胡椒は当時大変な貴重品でした。冷蔵庫などといった冷蔵技術が未発達であった当時、防腐、防虫効果があった胡椒は大変な貴重品だったのです。
そこで永正九年(1512年)、朝鮮から対馬の宗氏に対し、貿易再開の条件として、一方的に突きつけたのが壬申約定(じんしんやくじょう)です。壬申とは、永正九年の干支です。その主な内容は、朝鮮半島三浦の日本人居留地の廃止、開く港は薺浦のみ、嘉吉条約で決められた、対馬の宗氏が毎年派遣する歳遣船の数50隻を半減、緊急時に派遣出来た特送船の廃止、嘉吉条約で定められた、朝鮮からの歳賜米を半減というものでした。
このように、朝鮮との貿易を大幅に縮小された対馬の宗氏でしたが、当然これには納得できず、何とか貿易回数を増やすべく、日本国王使などを偽った偽使を派遣し続けることになるのです。
一方、明(みん)との勘合貿易においては、日本人同士の争いが起こります。堺を拠点に貿易を行っていた官僚家・細川氏と、博多や兵庫を拠点に貿易を行っていた大内氏が、勘合貿易に必要な勘合符を巡って争っていましたが、大永三年(1523年)、明の寧波(ねいは)で事件が起こりました。正規の勘合符を持った大内氏の遣明船と、期限切れの勘合符を持った細川氏の遣明船が同じ日に寧波に入港したため、大内側と細川側が衝突し、明の役人を巻き込んで刀を抜いたのでした。
明の役人をも巻き込んだ乱闘であったため、国際問題となって勘合貿易は中止となってしまいました。これに加え、京都で起こった応仁の乱によって戦乱が日本中に広がると、一度は沈静化していた倭寇(わこう)の活動が活発になっていくのです。これを後期倭寇と呼びます。
倭寇とは、前期倭寇と勘合貿易で解説しました通り、「倭」は当時の日本、「寇」は「殺しても足りないほど憎い奴」といった意味で、日本人の海賊を意味します。鎌倉末期頃から、朝鮮半島沿岸、中国沿岸を荒らし回った海賊です。室町時代前期までの倭寇のメンバーは日本人であり、海賊行為の目的は、鎌倉時代中期末に起こった元寇に対する復讐でした。元(中国の王朝)の属国で会った高麗(こうらい/当時の朝鮮半島王朝)が、元をそそのかし、日本に侵攻してきた事件です。対馬や壱岐、五島列島などは多大な被害を受けましたので、これらの住民、特に対馬の住人を主体とした海賊でした。
しかし、後期倭寇の主要メンバーは、密貿易を目的とした中国人、朝鮮人でした。というのも、当時明(中国)は海禁(かいきん)という、貿易を制限する政策を採っていたため、これに不満を持った中国人や朝鮮人の商人が、日本人の格好を真似て、倭寇を装って密貿易を行っていたのです。実際、中国の歴史書である『明史(みんし)』には、本当の日本人は10のうち3であると書かれています。
また前期倭寇に関しても、朝鮮の歴史書である『世宗実録』の1446年の項には、「日本人は1、2割であり、他は朝鮮人が倭人の服を着て徒党を組み、海賊行為を行っている」と書かれており、前期倭寇も実は後になるとその主要メンバーは朝鮮人であり、日本人の振りをして、海賊行為を行っていたのです。
このように、当時朝鮮半島沿岸や中国沿岸を荒らしていた海賊を、朝鮮や中国は「倭寇」と称していますが、前期倭寇も後の主要メンバーは朝鮮人であり、後期倭寇に至っては、当初からその主要メンバーは中国人・朝鮮人であって、海賊行為をみな日本人の行為だと偽り、日本人の振りをした中国人や朝鮮人の海賊行為までも、日本人によるものだと誤解させているのです。後期倭寇の主要メンバーが中国人だと言う証拠は、後の鉄砲伝来時に明らかになります。
片手打ちの刀 |
明(みん/中国)との貿易により、二本からは大量の刀剣類が輸出されるようになり、その需要に応える形で日本刀の製作は商業化され、室町時代中期の応仁の乱以後、国内の戦乱に伴う需要も急増し、日本刀の製作はますます商業化、分業化が進みました。
戦闘は歩兵による集団戦となり、その戦闘の中心を成すのは、足軽などの雑兵(ぞうひょう)でした。戦闘というと武士の戦いと思いがちですが、古来その中心を成すのは農民や今で言う破落戸(ごろつき)連中でした。武士に支配される領内の農民達が、簡単な武器を持って主人に従って戦闘に参加したのです。また、それでも兵が足りない事が多いため、しゅうへんから傭兵として破落戸などを寄せ集めたのです。応仁の乱によって、京都で起こった戦乱が全国に及び、こういった雑兵らの武器が大量に必要になったのです。彼らは走り回って戦うため、動きやすい軽装で、腰紐に差す打刀(うちがたな)がその主要武器となりました。
これら大量の刀の需要に応えるには、作刀の分業化とともに迅速化が必要で、そのためには、これまでのように一刀一刀ていねいに作っていたのではとても間に合いません。しかも明(みん/中国)に輸出するための刀剣類も必要で、そのための材料である鉄はとても充分とは言えませんでした。
そのため、これまでのように注文に応じて材料を吟味し、一刀一刀ていねいに作陶するのではなく、簡単に言えば手抜きが行われ、材料も粗悪な物を節約して使い、現代風に言えば流れ作業で作刀が行われたのです。これを数打物(かずうちもの)、あるいは束刀(たばがたな)と呼びます。これは一束(ひとたば)幾らで売られたのでこう呼ばれます。その数打物の一大生産地が備前国でした。
もちろん、この時代の作が全て数打物という訳ではなく、武将の注文などによって入念に作刀された物もあります。同じ刀工銘であっても、数打物と入念作とでは、刀の価値に雲泥の差がありますので、この時代の備前物を見たら、数打物なのか、入念作なのかを見極めなければなりません。これらの違いについては、末備前の項で解説します。
この時代に作られた打刀は、抜きやすく片手で振るのに適した、二尺一、二寸の短い片手打ちと呼ばれる刀が主流になります。元身幅と先身幅に差のないがっちりとした造りになり、強さが増しています。これが数打物になると、先身幅が落ちて細めになり、弱々しい姿になります。また茎(なかご)も片手で握るのに適した、握り拳ひとつくらいの短い茎になっているのが特徴です。
脇差は一尺五・六寸から八寸位のものが多く、刀と同じように力強い造り込みになります。
短刀では、護身用として懐中に隠し持つための懐剣が作られています。突くことを目的とした物ですから、六・七寸(18.2センチ-21.2センチ)ほどの、短くて細身で極端にフクラが枯れた姿で、平造りで重ねを厚くし、先の重ねを薄くして突き刺しやすいようにしてあり、反りは意図的に先を内反りにしてあります。また、これと同じ姿の両刃の短刀もあります。
これらは鎧通し(よろいどうし)とも呼ばれ、甲冑の隙間を狙って突き刺すのに適しています。その断面は三角形に近く、茎(なかご)は片手打ちの刀と同様に拳ひとつくらいの長さがあり、短刀にしては異常に茎が長いですが、これは懐に隠し持つ場合はかさばる拵(こしらえ)は付けられないので、茎に手拭いを巻くだけでも使えるよう、考えられた造りなのです。
鎧通し(山城国平安城長吉) |
徳川美術館蔵品抄6より |
また槍の製作も増加していきます。長い柄を利用して、中距離にいる敵をたたき伏せるという手法は、あまり訓練を積めない農民兵でも可能なもので、騎馬に対しても有効な武器であったため、鉄砲が伝来するまでの足軽の主要武器へと発展していきました。
平安城長吉の刀 |
長吉の脇差 |
平安城長吉(へいあんじょうながよし)は、鎌倉後期から南北朝時代にかけての刀工である、平安城光長の子で、祖父は奥州の舞草鍛冶(もくさかじ)・長光です。妖刀として有名な伊勢国の村正(むらまさ)の師匠とされる刀工で、古剣書によっては、後代の長吉が村正の弟子になったとも書かれています。
作風は、地肌は小板目肌に柾目が交じり、沸が少ないのたれ刃や互の目乱れ、箱がかった乱れ刃、矢筈刃(やはずば)などを焼き、乱れと乱れの間の焼刃の谷が長くなります。なお、箱がかった乱れとは、焼刃の頭が丸くなっているのではなく真っ直ぐとなり、乱れ刃が山のような形ではなく、箱のような形になったもの(下図参照)を言い、矢筈刃とは、箱のように角張った刃が、真ん中から二つに割れて左右に開いたような形をした焼刃を言い、矢のお尻にある、弦(つる)をつがえるためのへこんだ部分を矢筈と言いますが、刃の形がこの矢筈の形に似ていることからこう呼ばれます。
箱乱れ |
また鋩子は乱れ込んで返りは長くなっています。
包真の刀 |
上の写真は、大和国から和泉国へ移住した、大和手掻系(やまとてがいけい)の包真(かねざね)の刀で、刃長二尺七分二厘(62.8センチ)、反り五分七厘(1.73センチ)、鎬造りで身幅広く、重ね厚いガッチリとした造り込みの片手打ちの打刀です。
鎬幅狭く鎬高い、大和伝の特徴を示した造り込みです。地肌は板目が流れて柾がかり、刃文は小沸(こにえ)がよく付いた小丁子混じりの互の目乱れ、足、葉が入り金筋かかります。
末備前の作風 |
末備前(すえびぜん)とは、戦国時代の備前鍛冶の総称です。備前国の刀鍛冶は、平安時代末期より、日本刀作りに必要な材料に恵まれ、時代時代の要求に上手く対応しながら繁栄を続けてきました。戦国時代になると、明(みん/中国)への輸出用の日本刀に加え、歩兵が主力となった戦闘が全国各地に波及したため、膨大な刀の需要がありました。そこで備前国の刀鍛冶達は、その膨大な需要に応えるために組織化され、分業化によって迅速な刀作りを行い、大量の刀を全国に出荷したのでした。
末備前鍛冶の作刀は、このような戦国時代の膨大な需要に応えるために手抜きが行われ、材料も吟味されず、刀工間にほとんど技術差が現れない、まるで規格化されたような物となり、入念に作られた物は少ないです。こういった大量生産された刀は数打物(かずうちもの)、あるいは束刀(たばがたな)と呼ばれます。束刀とは、刀を何本も束ね、一束いくらで売られたのでこのように呼ばれました。
数打物の特徴は、元身幅に対して先身幅が狭い、万人向きの姿に、そのほとんどが匂本位(においほんい)の直刃を焼き、沸がほとんど付かず、また刃中に何の働きも見せません。また銘は「備州長船○○」とだけ切られています。
一方、注文打ちの特徴は、元幅と先幅にあまり差がないガッチリとした造りで、先反りがついた、寸詰まり気味の脇差兼用の寸法で、茎(なかご)が短く、地肌は板目肌がよく詰み、地沸(じにえ)がよく付いています。この茎が短いというのがこの時代の打刀・脇差の特徴で、片手で握って戦う、片手打ちに適したものになっています。
刃文は、匂本位(においほんい)ですが沸のよく付いた直刃や、焼き頭が焼き崩れて蟹の爪のように割れたものや、末相州物のような皆焼(ひたつら)もあります。そして沸がよく付いているのが特徴です。鋩子の返りは浅いですが、鎧通しの鋩子の返りは長く、刀身の真ん中あたりまで返っているものもあります。
なお、備前伝の特徴である映りは、もう末備前には現れません。
蟹の爪 | 皆焼状になったもの |
末備前の作刀で、数打物か注文打ちかを見分ける早道は、銘を見る事です。ただ単に「備州長船○○(○○は刀工名)」と切られていれば、ほぼ数打物と判断出来ます。末備前鍛冶は、入念作には「備前国住長船○○」と切ります。またこれに俗銘(ぞくみょう)や受領銘(ずりょうめい)、製作年月日、注文者の名前などを併せて切っています。また、刀身に緻密な彫刻を施しているものや、兄弟、師弟合作品も入念作と判断出来ます。
ちなみに、末備前鍛冶は「長船」を姓のように用いていますので、「備前国住長船○○」と切り、「備前国長船住○○」とは切りません。もし末備前鍛冶の作刀で、このように「長船住」と切られているものがあれば、それは偽物と判断出来ます。「備前国長船住○○」と切るのは、応永備前か新刀期の備前伝鍛冶です。
朝嵐勝光(重要美術品) |
末備前で最も上手で有名なのは、右京亮勝光(うきょうのすけ かつみつ)です。右京亮は受領銘(ずりょうめい)です。右京亮勝光は、応永備前の六郎左衛門祐光の子で、2歳年下の弟に左京進宗光(さきょうのじょう むねみつ)がいます。この兄弟は合作を多く残しています。
上の朝嵐勝光(あさあらし かつみつ)は、次郎左衛門尉勝光(じろうざえもんのじょう かつみつ)の刀で、次郎左衛門尉勝光は右京亮勝光の子・彦兵衛尉勝光(ひこべえのすけ かつみつ/二代勝光)の子とされますが、確かなことは分かりません。
刃長二尺(60.6センチ)、反り六分(1.82センチ)、鎬造りで庵棟、先反りが付いて中切先となり、刀身に対して茎(なかご)は12.4センチと短かくなっています。
地肌は小板目がよく詰み地沸付き、刃文は丁子に互の目混じりで飛び焼きかかり、足・葉が入って砂流しかかり、匂口(においぐち)締まって小沸よく付きます。帽子は乱れ込んでやや長く返っています。
表に真の倶利迦羅、裏に天照皇太神と彫りがあり、茎は生ぶ(うぶ/当時のまま)ですが、片手打ちの打刀ですから短く、表に備前国住長船次郎左衛門尉藤原勝光」、裏に「永正元年八月吉日」と年紀が切ってあります。なお、永正元年は1504年です。
はばき下に「朝嵐」、下に「松下昌俊所持」と所持銘も切られていますが、この所持者の詳細は不明です。また、この朝嵐(あさあらし)はいわゆる号(ごう)で、華やかな刃文を、朝の嵐に舞う桜の花びらの美しさになぞらえて、勝光自身が命名したものと思われます。
次郎左衛門尉勝光の刀 |
上の写真も次郎左衛門尉勝光の刀で、刃長二尺一分(60.9センチ)、反り六分五厘(0.97センチ)、上半分が鎬造り、下半分が平造りとなった特異な造り込みで、戦国期の打刀にはこういった造り込みの物がままあります。庵棟になり、身幅広く寸詰まりの片手打ちの打刀です。
切先は中切先で先反りが付き、地肌は小板目肌詰んで細かな地沸が付き、互の目に小丁子混じりの互の目丁子で、匂口明るく冴えます。
銘は、表に「備前國住長船次郎左衛門尉藤原勝光作 及心処不可有此上者也」、裏に「永正九年八月吉日」とあります。
「及心処不可有此上者也」とは、「心の及ぶ処此の上の者有るべからざるや」と読み、これ以上の出来の物は無いというような意味で、次郎左衛門尉勝光の傑作です。
彦兵衛忠光の刀 |
上の写真は、彦兵衛忠光(ひこべえ ただみつ)の刀で、彦兵衛忠光は修理亮(しゅりのすけ)の受領名を与えられています。
刃長は二尺五分(62センチ)と短いですが、やはりこの時代の特徴である、片手打ちの打刀として典型的な寸法です。地肌は小板目がよく詰み、匂口が明るく冴えた、忠光が得意とする広直刃を焼き、葉、足が入ります。
銘は、表に「備前国住長船忠光彦兵衛作」、裏に「作州飯岡郷打之 延徳二年八月日」と切られていて、1490年の作です。
忠光は、『古刀銘尽大全』などには、五郎左衛門尉則光の子とあり、末備前を代表する鍛冶です。
初代与三左衛門尉祐定の刀(重要文化財) |
末備前鍛冶で最も名が知れているのは、祐定(すけさだ)でしょう。「祐定」と言っても、銘鑑には末備前だけでも同銘を切る刀工は数十人掲載されており、戦国期の数打物の中でも最も多いのが祐定銘です。祐定も他の末備前鍛冶同様、工房を構えて大量の数打物を全国に出荷していて、祐定銘の七割ほどは数打物だとも言われます。
しかし、数打物が多い祐定の中でも、大変技量が優れた者もおり、室町時代中期の初代・二代彦兵衛尉祐定(ひこべえのじょう すけさだ)、初代を室町時代中期、二代を室町時代後期とする源兵衛尉祐定(げんべえのじょう すけさだ)、室町時代中期を初代とし、室町時代後期を二代とする与三左衛門尉祐定(よそうざえもんのじょう すけさだ)などが優れた作刀を残しています。
「備前国住長船彦兵衛尉 同子与三左衛門尉祐定 永正十一年壬申二月日」と銘が切られた短刀があることから、彦兵衛尉と与三左衛門尉は親子であることが分かりますが、祐定工房が彦兵衛尉工房、与三左衛門尉工房などと複数あったのか、工房はひとつで、その棟梁がある時期は彦兵衛、またある時期は与三左衛門となったのかなど、詳しい事は分かっていません。
また、「備前国住中川与三左衛門祐定 大永六年二月二十八日六十一歳」という銘が切られた短刀が現存していることから、与三左衛門尉の姓が「中川」であることも分かります。しかし、備前伝正系の勝光や宗光、忠光、則光などは、「藤原」の姓を名乗っていることから、祐定系は備前伝正系ではなく、傍系かもしれません。
上の写真は、初代与三左衛門尉祐定(よそうざえもんのじょう すけさだ)の刀で、与三は俗名(ぞくみょう)、左衛門尉は受領銘(ずりょうめい)です。与三はいわゆる名前ですから、「よぞう」と読むべきだと思いますが、一般的には「よそうざえもんのじょう」と読んでいます。
刃長二尺一寸四分(64.84センチ)、鎬造りで庵棟となり、先反り強く切先は延び、鎬高い鋭い造込みになっています。
地肌は小板目がよく詰み、細かい地沸が付いて冴えています。刃文は、上半分が腰の開いた互の目が連なり、足、葉がよく入り、飛び焼きもあって賑やかで、下半分は広直刃仕立てでわずかに互の目が混じり、足、葉が入ります。
帽子は乱れ込んで小丸に深く返ります。茎は生ぶでおよそ15センチと短く、この時代の特徴を示しています。銘は表に「備前国住長船与三左衛門尉祐定」、「為栗山与九郎作之」とあり、裏に「永正十八年二月吉日」とあります。
この刀は、与三左衛門尉祐定が同国の武士・栗山与九郎のために鍛えた注文打ちで、与三左衛門尉祐定の作刀の中でも傑作中の傑作です。
初代与三左衛門尉祐定の刀(重要美術品) |
上の写真も、初代与三左衛門尉祐定の刀で、刃長二尺二寸三分九厘(67.85センチ)、反り六分六厘(2.0センチ)で、上半分が鎬造り、下半分を平造りとした特異な造り込みで、丸棟、身幅広い片手打ちの打刀です。
地肌は小板目がよく詰んで細かな地沸付き、地景がからんだ見事な地鉄で、青白く冴えた地鉄になっています。刃文は、祐定が得意とする蟹の爪のような互の目丁子乱れで、刃中には足、葉が激しく入って華やかな刃文になっています。春日大明神の神号と倶利伽羅龍の彫りがあります。
銘は、表に「備前國住長船与三左衛門尉祐定作」、裏に「永正十八年八月吉日」とあります。
月山近則の脇差 |
上の写真は、月山近則(がっさん ちかのり)の脇差で、刃長一尺九寸一分七厘(58.1センチ)、反り五分七厘(1.73センチ)、鎬造りで庵棟になっています。現在の長さによる区分では脇差に区分されますが、その目的からは小振りの打刀と言う方が正しいと思われます。
地肌は流れて柾がかり、小互の目に小丁子混じりの刃文を焼いています。
月山(がっさん)とは、古代に東北地方の蝦夷(えみし)の専属鍛冶として鍛刀した舞草鍛冶(もくさかじ)で、蝦夷(えみし)の衰退により、鎌倉時代以降は月山の僧侶のための武器を鍛えたと言われますが、現存する物は室町時代以降の物がほとんどで、戦国時代にはその活躍が見られます。
月山鍛冶の特徴は、地肌が流れて独特な綾杉肌(あやすぎはだ)と呼ばれる地肌となり、匂本位の直刃を焼きますが、戦国時代になると、直刃だけではなく、末備前物に似た五の目丁子風の刃を焼くようになります。
この脇差には、表に「出羽國之住人近則月山」、裏に「文亀二年九月吉日」とあり、近則は末備前鍛冶に学んだと言われ、戦国時代の月山鍛冶を代表する鍛冶です。
赤松政則の刀(重要美術品) |
上の写真は、赤松政則(あかまつ まさのり)の刀で、刃長二尺八分(63.0センチ)、反り六分(1.83センチ)、鎬造りで三つ棟になり、よく沸えた大互の目乱に丁子混じりの華やかな刃文を焼いています。
政則は、六大足利将軍・義教を暗殺したことで有名な、赤松満祐(あかまつ みつすけ)の甥にあたり、備前、播磨、美作三国の守護を務めた武将です。その余暇に、備前国から末備前勝光・宗光兄弟を招き、鍛刀を行っています。
この刀の銘は、表に「為織田大和守藤原敏定 兵部少輔源朝臣政則作」、裏に「長享三年八月十六日」とあり、政則が織田信長の曾祖父にあたる織田大和守敏定のために鍛えたものです。ちなみに、兵部少輔源朝臣政則は、「ひょうぶすないのすけ みなもとあそん まさのり」と読みます。兵部少輔は受領銘(ずりょうめい)で、兵部省の判官(三等官)という意味です。源は氏(うじ)、朝臣は姓(かばね)です。氏や姓については氏姓制度を参照して下さい。
綱広の作風 |
綱広(つなひろ)は、南北朝期の相州伝正系の広光(正宗門人、あるいは貞宗門人とも)一門である、四代目広正が鎌倉から小田原に移住し、小田原城主・北条氏綱から「綱」の一字を賜り、綱広と改銘したものです。室町時代には、もはや注文主を失った鎌倉では鍛刀はかなわず、相州伝正系を継ぐ綱広も、新興勢力の北条氏のお膝元である小田原へ移住せざるを得ませんでした。
そして後に、駿河国から相州伝系の島田義助一門の中にも小田原へ移住する者も現れ、これら駿河国から相模国の小田原に移住した相州伝系鍛冶は、小田原相州と呼ばれます。そしてこの小田原相州を指して、末相州(すえそうしゅう)と呼ぶこともありますが、私は小田原に住しながらも、相州伝正系を継いだ綱広一門を末相州、それに対し駿河国から移住して来た相州伝傍系の鍛冶達を小田原相州としています。
この時代になると、もはや荒沸本位(あらにえほんい)の相州伝の特徴はなく、表面上は皆焼(ひたつら/上の綱広の作風イラスト参照)などを焼いてはいますが沸が付かず、飛び焼きがあっても沸はほとんど付いていない状態になってしまっています。
なお綱広銘は江戸時代を通じて継承され、明治まで続いています。
義助の刀 |
初代義助(よしすけ)は、相州広正の門人とされ、本姓は五条と言い、今川義忠のお抱え鍛冶となり、「義」の一字を賜わり義助と銘し、駿河国島田に住した刀匠です。戦乱の時代になると、この一派は駿河周辺の甲斐の武田、相模の北条、三河の徳川などからの注文を受け、繁盛しました。ちなみに、一般的には「ぎすけ」と呼んでいます。
この一派は美濃伝の影響を受けた相州伝といった作風で、返りを長く焼き下げたり、鵜の首造り(うのくびづくり)、おそらく造りなど、変わった造り込みも多く、槍も多く作っています。また彫刻も得意としています。
上の刀は、表に「義助作」、裏に「大永六年八月日(1526年)」と切られた義助の刀で、刃長二尺五寸五分八厘(77.5センチ)、反り五分(1.5センチ)です。
鎬造りで三つ棟となり、反りは浅く大切先で、地肌は板目が流れて肌立ち、地沸付いて地景が入っています。
刃文は箱がかった刃に尖り刃が混じり、匂口締り、小沸が付いて砂流しかかり、足・葉が入ります。帽子は乱れ込んで返りは長く焼き下げています。
表裏に樋先が下がった棒樋を角止めにし、表のはばき元に倶利迦羅の浮き彫りを、裏には三鈷剣の浮き彫りがあります。
茎(なかご)は生ぶで茎先は栗尻、鑢目は勝手下がりになっています。
この一派は相模国との交流も深く、後には小田原に移住する者もあり、駿河国の島田から、相模国の小田原に移住した刀鍛冶を小田原相州と呼んでいます。
小田原相州の作風 |
鎌倉幕府が滅亡すると、政治の中心は再び京都に戻り鎌倉は廃れていきましたが、戦乱期の南北朝時代になると、その武器としての優秀さから、相州伝は全盛期を迎えました。しかし、戦乱が終結し再び平和な室町時代前期になると、相州伝正系の広正らわずかが、鎌倉で祖父伝来の伝法を鍛えているに過ぎない状態となってしまいました。
そして室町時代中期頃になると、注文主を失った鍛冶達はもはや鎌倉での鍛刀はかなわず、冬広一門は若狭国へ、広賀一門は伯耆国へ、高田一門は豊後国へと、多くの鍛冶が他国へ移住してしまいました。こういった中、駿河国島田から、康国、康春、綱家、総宗といった鍛冶が相模国小田原へ移住し、小田原城主北条氏の庇護のもと、鍛刀しました。これら、駿河国島田から小田原へ移住して来た刀鍛冶を、小田原相州と呼びます。
島田鍛冶は相州伝の末流と考えられており、島田と小田原を往来して技術の交流が行われ、また後には小田原へ移住する者がありました。小田原城は北条氏が城主であり、関東で力を付けてきた北条氏の庇護があったので、相模国の鍛刀の中心は、鎌倉から小田原に移っていたのです。
そして駿河国から小田原に移住して来て、相州伝を鍛えた島田鍛冶を、相州伝の本国である相模国鎌倉の相州伝正伝系鍛冶に対し、小田原相州と呼んでいるのです。末相州と言う言葉は、この小田原相州を指すとも言われます。それは、室町時代、特に中期以降の相模国における鍛刀の地が、小田原が中心になっていたからです。
そして、相州伝正系を継ぐ綱広も、後に小田原へ移住しましたので、綱広も小田原相州に分類する書籍もありますが、綱広は相州伝正系の鎌倉鍛冶ですので、小田原相州とは異なると思いますので、私は綱広は相州伝正系という意味で、末相州に分類しています。
小田原相州は末相州に似ていますが、相州伝に美濃伝をミックスしたような作風です。地肌は詰んで板目肌ではなくなり、沸が弱く、皆焼などの派手な刃文を焼いてはいますが、地に飛んだ飛び焼きにはほとんど沸が付いていません。相州伝と言えば、板目肌に荒沸本位の焼刃が特徴ですが、やはりこういった高温で焼き入れするという技術が難しいため、それに伴う技術の伝授が途絶えてしまい、また製鉄技術の向上から、地刃にも変化が現れなくなっています。
総宗の脇差 |
上の写真は、小田原相州の総宗(ふさむね)の脇差です。刃長一尺八寸六分五厘(56.5センチ)、反り六分(1.8センチ)で、鎬造りで庵棟高くなり、身幅広く、反りは腰反りに先反りが付いています。
地肌は小板目がよく詰んで細かな地沸付き、刃文は匂口が締まった互の目乱れに丁子混じり、鎬にかかる深い焼き刃も見せ、小さな飛び焼きもあります。「相州住総宗作」と銘があります。
大和国の手掻包永系鍛冶であった兼氏が、相模国の五郎入道正宗に相州伝を学び、美濃国へ移住し、大和伝系鍛冶であった美濃国の鍛冶に相州伝をもたらし、新たな美濃伝という伝法の祖となりました。従って、美濃伝は五箇伝中では最も新しい伝法でした。しかし、鎌倉を中心とした関東勢と、京都を中心とした近畿勢による鎌倉幕府の討幕に始まり、朝廷が南北に分裂して起こった長きに渡る内乱は、美濃国の刀鍛冶達に大きな需要をもたらしました。つまり、美濃国が京都、関東双方に近いという立地条件と、山城鍛冶達のように直接内乱の被害を受けなかったという事などが相俟って、美濃国の鍛冶達はおおいに繁盛しました。
しかし南北朝が統一され、京都に再び平和が戻った室町時代前期以降は、美濃鍛冶は一気に衰退してしまいました。ところが、応仁の乱に始まる戦国時代になると、美濃国の刀鍛冶達は以前に増してその勢力を増大していったのです。美濃国内だけでなく、近隣の国々をはじめ周辺諸国に戦国大名が現れ、それらからの膨大な注文が殺到したのです。また山城鍛冶達は、直接戦乱の被害を受けてほぼ全滅状態となってしまったため、京都周辺の諸国からの注文もあったのです。
こうして急速に繁栄を見た美濃鍛冶達は、関市を中心に鍛刀していたため、これらの刀は関物(せきもの)と称され、銘鑑に掲載されている刀工数は500名余人に及び、全国一の数を誇ったのでした。そして美濃国の刀鍛冶達は、七頭制(しちがしらせい)といって、善定、三阿弥、奈良、得印、徳栄、良賢、室谷の7つの流派の頭(かしら)の合議制で鍛刀が行われ、刀鍛冶個人個人が勝手な行動は出来ませんでした。
美濃国は西の備前国に対し、東の軍需工場的な役割を果たし、備前鍛冶同様、大量生産のために数打物が大量に作られたのでした。なお、戦国時代の関物の大半が数打物であるとは言え、やはり入念に作られた優品もあると言うのは備前同様です。
之定の銘 | 之定の刀 |
兼定(かねさだ)は、初代は直江志津に属する三阿弥兼則の子で、初めは美濃国赤坂に住していましたが、後に関へ移住し、関鍛冶の中心的鍛冶として活躍しました。二代兼定は初代兼定の子で、之定(のさだ)の通称で知られている、関鍛冶第一の名工です。
之定の名の由来は、「兼定」の「定」のウ冠の下の部分を、「之」のように切ることによります。また、之定に対し、初代兼定を親兼定(おやかねさだ)と呼んでいます。之定は最上大業物にランクされていて、その斬れ味の良さでも知られており、和泉守(いずみのかみ)の受領銘(ずりょうめい)を許されています。
後鳥羽上皇の御番鍛冶制度により、御番鍛冶に選ばれた刀工達に様々な優遇措置がなされましたが、受領銘もその1つでした。しかし、古刀期の受領銘では、通常四等官(しとうかん)の次官、あるいはその下の判官(はんがん)に相当する官職名が許されましたが、古刀期において四等官の長官に当たる「守(かみ)」を許されたのは、この之定が最初です。
之定の作風は多種ありますが、身幅が広く、匂本位の焼幅に広狭がある箱乱れや矢筈刃などを焼き、鋩子は地蔵風で硬く止まります。また鎬高く棟の重ねが薄いのが特徴です。そして父である初代兼定が大和伝系の鍛冶で、美濃国赤坂は美濃国における大和伝の本拠地であったことから、鎬地が柾目となり、大和伝系の特徴を示しています。なお、文亀二年(1502年)作のものから、之定の銘になります。
兼元の刀(重要美術品) |
刃文拡大 |
徳間書店「日本刀全集」第三巻より |
初代兼元(かねもと)は、関の善定系の鍛冶で、関から赤坂へ移住して一門を構えた刀工です。その孫に当たる二代目兼元は、孫六兼元(まごろくかねもと)と称され、「関の孫六三本杉」と言うフレーズで知られます。これは二代兼元が考案した、尖り刃が3つずつ連なる刃文を、3本の杉の木にたとえて付けられた刃文の名前で、孫六兼元以降、後を継いだ兼元はみな「孫六兼元」と称し、三本杉の刃文を焼いています。したし、二代兼元が初代孫六兼元であり、「関の孫六」と言えば通常この初代孫六を指します。
なお、「関の孫六」と言われながらも、初代孫六兼元の作には「関」の文字派見られず、「赤坂」の地名が切られています。従って三代兼元あたりが関へ移住したと考えられています。
初代孫六兼元の作風は、元先に差のない切先の延びた姿で、鎬地広く鍛えは柾目になり、地肌には大肌が交じり、尖った互の目が三本目毎に高くなる「三本杉」と呼ばれる刃文を焼いています。この兼元の三本杉は不揃いであって、後代のように鉛筆で描いたようなわざとらしいものとは異なり、焼き頭も丸みがあります。また焼き幅が狭いので、乱れの足が刃先に駆けだしているものが多く、匂出来ですが刃縁が締まった感じはしません。鋩子は地蔵になって返りは深いです。
初代孫六兼元の三本杉 | 後代の三本杉 |
兼房(かねふさ)は、善定兼吉系の鍛冶で、後代は氏房(うじふさ)と名乗り、尾張国へ移住し新刀期に及んでいます。通常、「けんぼう」と呼ばれ、関鍛冶の一方の旗頭です。
小脇差が多く、ほとんどに樋を掻いています。身幅広い切先の延びた姿に、焼き幅の広い匂(におい)の締まった互の目乱れを焼いています。焼き頭がタコの頭のように丸く間隔を置いて乱れる、兼房乱れ(けんぼうみだれ)と呼ばれる独特の刃文を焼きます。鋩子は地蔵で返りは深いです。
兼房乱れ |
村正は伊勢国桑名に住した刀工で、三代あると言われます。初代は右衛門尉(えもんのじょう)を受領(ずりょう)し、藤原姓を名乗っています。村正一門は、別名を千子鍛治(せんごかじ)とも呼ばれています。その理由は、初代村正の母が桑名の矢田走井山の千手観音(重要文化財)を信仰し、祈願したため村正が生まれたからと言われます。また、千手観音の申し子だとして、千子の姓を名乗ったとも伝わっています。
初代村正の最も古い年紀は文亀元年(1501年)で、二代は天文(1532年-1539年/室町時代後期)、三代は天正(1573年-1591年/室町時代後期)と考えられています。
村正は相州の正宗に学んだなどと言われ、古剣書には相当高い格付けにしてあるものもありますが、初代村正は室町時代中期の鍛冶であり、正宗は鎌倉中期末から後期にかけての鍛冶ですから、その年代差は150年ほどもあります。従って、正宗の門人などではありません。
村正の詳しい出生についてはよく分かっていませんが、美濃赤坂兼村の後裔だとか、あるいは関兼春の門人とも伝えられており、これらが示す通りその作風は、美濃の関鍛冶の影響を受けていることを示しています。また一説には、山城国の平安城長吉に鍛刀を学んだとも言われています。
村正の作風は、美濃伝に相州伝を加味した作風です。鎬(しのぎ)が高く、重ね薄いふくらの枯れた姿で、地肌はザングリとした板目肌が肌立ち、刃寄りや棟寄りが柾がかり、流れるものが多く、多くは白けます。
刃文は匂口が締まった匂本位で、焼き幅に広狭があり、尖り刃がまじる箱乱れ、大のたれ、矢筈刃などを焼きます。乱れの谷が深く駆け出しぎみのものもあります。美濃の兼元の三本杉に似た焼刃も焼きますが、村正のものは三つワンセットにして焼きの谷がのたれ気味になります。また腰刃を焼くものもあり、一般的に全体を通して同じ刃文を焼かず、はばき元と物打ちあたりの刃文が異なるものが多く、また表裏の刃文がよく揃っているのが特徴です。
鋩子は突き上げて尖りぎみに返るものが多く、地蔵風、小丸、一枚鋩子もありますが、返りが深くなっています。茎(なかご)はたなご腹ですが、初代はそれほど極端なたなご腹ではなく、茎尻(なかごじり)は刃上がり栗尻、鑢目は切りになっています。
村正の作刀は一見すると美濃伝に見えるもので、兼定の作風に似ています。兼定の作に伊勢国山田で鍛刀したものがあり、兼定と村正には何か関係があったかもしれません。また沸の少ない山城伝を鍛える平安城長吉の作風にも似ており、一説では村正は長吉の門人とも言われます。また茎などに武蔵国の下原鍛冶との類似性も見られ、村正はこれらの鍛冶となんらかの関わりがあったと考えられています。
村正の刀(重要美術品) |
上の写真は初代村正晩年の刀で、長さ二尺一寸九分(66.4センチ)、反り五分(1.5センチ)、鎬造りで庵棟、重ね薄めで先反りがついています。
地肌は板目が柾がかって肌立ち、刃文は匂口沈みごころで、表裏の腰もとにふたつずつ箱乱れを焼き、刃浅く駈け出すところがあり、上は直刃に小乱れまじりと、上と下で刃文が異なっています。
帽子は直ぐで、小丸に品よく返っています。茎は生ぶで、表の目釘孔の上、棟寄りに「村正」、平地に並べて「妙法蓮華経」の題目を切り、裏に「永正十年癸酉十月十三日」と年紀が切られています。また刀身の表に草の倶利迦羅、裏にはさらに略式の倶利迦羅の彫りがあり、平安城長吉の彫りによく似ています。
村正は日蓮宗の信者であったと考えられています。それはこの刀に「妙法蓮華経」の題目が切られていること、また切られているその年紀「十月十三日」は、日蓮の命日なのです。この村正の刀は村正の作中でもおだやかな作で、妙法村正(みょうほうむらまさ)と呼ばれ、唯一重要美術品に指定されています。
ところで、村正の刀は、「妖刀(ようとう)」などと呼ばれ、所持した者は気がおかしくなったように人を斬り、その刀は血を吸わなければ治まらないなどと語られています。もちろんこれは作り話であって、江戸時代になって講談などでおもしろおかしく語られた話が、もっともらしく伝わっただけなのです。しかし、村正の刀が江戸時代に忌み嫌われていたことは事実なのです。それも、村正を忌み嫌っていたのは徳川将軍家だったのです。
家康の祖父である清康は、村正の刀で斬られ、父である広忠も村正の刀で大怪我を負い、家康も村正の槍で手疵を負ったことがありました。しかし、家康にとって一番ショックだったのは、家康の長男である信康が、信長に疑いを持たれ、切腹を命じられたのです。家康は信長との関係からこれを拒めず、信康は切腹となり、介錯をしたのは家康の家臣でした。
介錯をした家臣の報告を聞いた家康は、その介錯した刀は誰の作かと尋ねると、村正だったのです。それを聞いた家康は、村正の刀は我が家に災いをもたらすものとして、蔵刀の中に村正があれば、全て捨ててしまえと命じたのでした。こうなると、徳川家につながる譜代大名、旗本御家人はもちろん、外様大名でも、将軍家が忌み嫌って持たない村正の刀を、おもてだって所持できるはずがありません。こういったことから、武士達は村正の作を避けるようになり、それが講談などによって妖刀に化けてしまったのです。
しかし、幕府に敵意を持つ外様大名の中には、おもてだっては反抗出来なくても、こっそり反抗を示すことがありました。そのひとつが村正の刀を持つということでした。しかし、その地刃の特徴から、怪しまれて茎(なかご)の銘を見られてしまうと大変なことになるので、村正の銘の文字を一字だけ切り直し、偽造したりしてごまかしていました。
おもしろいことに、上の妙法村正の刀の茎の棟には、銀象嵌で「鍋信」とあります。この「鍋信」とは、この村正の刀の所有者である肥前国佐賀城主・鍋島信濃守勝茂のことです。鍋島藩は外様大名であり、徳川幕府に対して反感を持っていた藩のひとつでした。勝茂は、幕府への反抗心からこの村正を所持しながらも、目立たない茎の棟に、名を略して象嵌させ、ちょっとした抵抗心を見せたのでした。
〈山城国〉三条吉則、平安城長吉、平安城吉房、鞍馬吉次、吉定
〈大和国〉手掻包清、包眞、尻懸後代則長、金房正眞
〈河内国〉加賀四郎資正、資次、賀正
〈伊勢国〉千子村正、正重、雲林院(うじい)政盛、包長
〈尾張国〉志賀関兼延
〈遠江国〉高天神兼明
〈駿河国〉島田義助、助宗
〈相模国〉小田原相州定広、康春、康国、末相州正広、広次
〈美濃国〉善定兼吉、兼先、兼光、三阿弥兼則、奈良兼常、徳永兼弘、得印兼安、室屋兼在、兼定、兼元
赤坂千手院國長、坂倉関正吉、小山関長廣、蜂屋兼貞
〈出羽国〉月山近則
〈若狭国〉冬広、小浜宗長、宗次
〈加賀国〉藤島友重、行光、家次
〈越中国〉宇多国房、国宗、国次
〈伯耆国〉廣賀
〈出雲国〉道永吉則、清則
〈石見国〉直綱
〈播磨国〉赤松政則
〈備前国〉末備前勝光、宗光、忠光、祐定、清光、春光、吉井清則
〈備中国〉古水田国重
〈備後国〉鞆三原(ともみはら)家次、貝三原正賀、正眞、辰房重貞、重久
〈周防国〉仁王清綱、清房
〈土佐国〉土佐吉光
〈筑前国〉金剛兵衛盛高、盛吉
〈筑後国〉三池政定、大石左教永、教光
〈豊前国〉筑紫信国吉次、吉則、筑紫了戒能眞、守安
〈豊後国〉平高田長盛、貞盛
〈肥後国〉末延壽国時、助貞
〈日向国〉薬師堂通吉、通英
〈薩摩国〉末波平安行、貞次
天文元年(1532)-文禄五年(1596)
室町幕府十三代将軍義輝-十五代将軍義昭-織豊時代
注) 日本史の区分では、室町幕府十五代将軍・足利義昭が、織田信長によって京都を追放されて室町幕府を滅亡させた、元亀四年(1573年)から、関ヶ原の合戦が起こった慶長五年(1600年)までを安土桃山時代と呼びます。ただし、安土桃山時代の始まりと終わりの時期については諸説あります。この時代は織田信長、豊臣秀吉が支配した時代なので、織豊時代(しょくほうじだい)とも呼ばれます。なお安土桃山という名称は、信長の居城であった安土城、秀吉の居城であった伏見城に由来します。伏見城なのになぜ桃山?ということになりますが、これは江戸時代になって、伏見城が取り壊された跡地に桃の木が植えられたことによります。
しかし日本刀の区分では、文禄年間(1592年-1596年)までの作刀を古刀、次の元号である慶長以降の作刀を新刀と呼んで区別していますので、日本史で言うところの安土桃山時代は、日本刀の時代区分では室町時代後期に含まれますのでご注意下さい。
日本が戦国時代であった16世紀半ば、ヨーロッパは大航海時代でした。これは、新たな領土や航海路を得れば、誰でもが巨万の富を得られるということで、危険な旅ではありましたが成功すれば巨万の富を得られたので、新たな領土や航海路を求め、ヨーロッパ諸国は皆我先にと出航しました。日本における戦国時代後期は、こういったヨーロッパ諸国との関わり抜きには語れませんので、ここではこの大航海時代について簡単に説明します。
この頃、宗教改革によってカトリック教会は、プロテスタント(カトリック教会に異を唱える諸派)に対抗するためには、新たな信者獲得が必要だと考えていました。そしてカトリック教会は、新天地での信者獲得策としてこの航海を後押ししました。スペイン、ポルトガルはガチガチのカトリック派で、両国は船に宣教師を乗せ、新たな領土や資源、信者を獲得するために出航したのです。大航海時代と言うと聞こえは良いですが、実はこれはヨーロッパ諸国による、宗教の名を借りた侵略の旅だったのです。
スペインとポルトガルは覇権をかけて競い合っていました。両者の争いは次第に激化し、仲介をローマ教皇(カトリック教会のトップ)に依頼して、1494年にトルデシリャス条約が結ばれました。これは簡単に言えば、スペインは西へ、ポルトガルは東へ向かって出航するというもので、両国が衝突しないようにしたものです。
1498年にバスコ・ダ・ガマがインドへ到達すると、ポルトガルは勢力を東へと伸ばしていき、中国のマカオへ到達してここを対アジアの拠点としました。これにより、胡椒(コショウ)などの貴重な香辛料を手に入れたのです。胡椒は、現在では料理によく使う香辛料として普及していますが、冷蔵技術が未熟だった当時、防腐、防虫などの効果があったため、大変な貴重品でした。インド原産ですので、インドへの航路が見つかるまでは、金と同等の扱いであったなどとも言われ、この胡椒を獲得することが、出航の目的のひとつであったとも言われます。
またポルトガルはアフリカへも進出し、ガーナでは産出された金を根こそぎ奪い、人々を奴隷として売買し、アメリカ大陸へも進出し、ブラジルを植民地として略奪の限りを尽くしました。
一方スペインは、1492年にコロンブスが新大陸を発見以来、中南米への進出を始めました。そしてマヤ文明(メキシコ)、アステカ文明(メキシコ)、インカ文明(南米ペルー、ボリビア、エクアドル)を破壊し、略奪し尽くして滅亡させたのです。
このように、ヨーロッパ諸国は宗教の名を借りて、新たな植民地を開拓するために出航したのです。まずはキリスト教を布教し、現地の民をキリスト教の信者とし、マインドコントロールして侵略しようとしていたのです。そして布教を拒否した場合は武力で侵略していったのです。そしてこの侵略の旅は、やがて日本へも向かうことになるのです。
文明九年(1477年)、10年に及んだ応仁の乱が終結しましたが、東軍・西軍どちらが勝利したということもなく、京都は一面焼け野原と化し、その戦乱は全国に波及することになりました。こういった社会不安の中、幕府に対して絶望感を抱き、疲弊しきった人々は、生きるための自己防衛のために武装しはじめるのです。
農村では、土地や収益を守るために農民達が結束し、武力を持つようになります。そしてその武力を背景に、年貢の額を領主に直談判したり、村の法を自らが決め、違反した者は村が罰し、自治を始めるのです。こうした村を惣村(そうそん)と呼びます。そして惣村の村人達は、場合によっては領主にも武力で対抗したのです。
都においても一揆が起こり、人々は寺社や土倉(どそう/質屋)、銭貸しなどに押し入り、証文を焼き払い、金目の物を略奪したのです。幕府は一揆を鎮圧するために鎮圧軍を編制し派遣しますが、一揆を鎮圧するはずの武士達の一部が一揆勢に加担し、盗賊と化すという有様でした。室町時代には、武士の気質が著しく低下していたのでした。このため、土倉や金貸しなどは、ボディーガードとして傭兵を雇って自己防衛したのです。
これらの傭兵は、「京中悪党(きょうちゅうあくとう)」と呼ばれた者達で、そのほとんどが逃亡農民や主人を失って食い詰めた浪人などで、そこらにある武器になりそうな物を持ち、たむろしているような連中でした。また傭兵とは言え、雇い主が戦況的に不利になったり、より高い報酬を敵から示されたりすると、簡単に寝返るような者達でした。
兵士の中でも、粗末な装備と武器で、主人を守って先頭に立って戦う最下層の兵士を足軽、雑兵(ぞうひょう)と呼びますが、こういった足軽は平安時代から存在しました。武士が支配する領地の農民がそれであり、遠征する場合は進軍する道中で傭兵を集めながら進んだのです。こういった中にも、ならず者はいました。その例が源義仲(木曾義仲)が上洛した際に道中で集めて連れてきた連中です。この連中は、都を荒らし回って略奪の限りを尽くし、奪う物がなくなると、さっさと国へ帰ってしまいました。
ただ、足軽などと呼ばれた最下層の兵士達は、基本的に領内の農民で、領主と主従関係がありました。しかし、室町時代の足軽は、戦乱の世という社会情勢の中の寄せ集めの傭兵ですからそんなものはなく、また手柄を立てるといった意識もありません。ただの武装したならず者です。危なくなったら逃げる、簡単に寝返る、それが室町時代の足軽でした。
こうしたならず者の足軽達は、奇襲や卑怯な戦法を物ともしないうえ、戦闘中の略奪さえ許しておけば、特に報酬は必要なかったので、いつ部下に裏切られ、寝首を掻かれるかもしれない下克上の世では、武将達にとって足軽は都合の良い者だったのです。そこで武将達が目を付けたのが惣村でした。惣村のリーダー格の者達に、禄を以て家臣に取り立てるという、より高い身分を得られる条件を示し、惣村ごと配下に組み入れていったのです。
応仁の乱以後に戦乱が全国に及ぶと、足軽といった、最下層の兵士達の大量増員が必要となりました。これまでは、少人数でたむろしていた、食い詰めならず者達があちこちから集まり、無秩序な集団を編成していましたが、これでは統率のとれた戦いは出来ません。そこで、支配に加えた惣村などの村々から、若い農民を足軽の予備兵として訓練し、戦いがない時でもいくらかの報酬を与えて主従関係を保ち、常備軍として訓練を行うようになり、槍や鉄砲といった、扱う武器ごとの専門部隊も編成され、扱う武器に特化した訓練が行われるようになるのです。
鉄砲伝来の詳細を伝える『鉄砲記』によると、天文十二年(1543年)、種子島(鹿児島県)に中国船が漂着し、乗っていた五峰(ごほう)と言う中国人が、藩主種子島時尭(たねがしま ときたか)の家臣・西村織部と筆談し、同乗していたポルトガル人が持っていた火縄銃のうち、二丁を時尭とその父が購入したとあります。
鉄砲を手に入れた時尭は、早速刀鍛冶の八板金兵衛(やいた きんべえ)にその複製を命じますが、どうしても当時の技術で作り出せなかったのが、銃の銃身底をふさぐネジでした。火縄銃は銃身の発射口から火薬と玉を入れますが、その底に当たる部分には強度が必要なため、ネジでフタがしてあったのです。しかし、突起しているネジ自体は作れても、ねじ込む側が作れなかったのです。そこで金兵衛は、娘の若狭をポルトガル人に嫁がせ、ポルトガルでネジの製造法を学ばせ、のち若狭は帰国してその技術を伝え、国産初の火縄銃が完成したと言われます。
鉄砲伝来以降、ポルトガルとの交易が始まります。また、アメリカを経由して日本へやって来たため、ポルトガルに遅れを取ったスペインとも貿易を始めました。これらの人が南方から来たと言う事で、彼らを南蛮人(なんばんじん)、彼らとの貿易を南蛮貿易と呼びます。
ポルトガルやスペインは、大変珍しい物や貴重な物を積んで日本へやって来ましたが、貿易を行う条件として、キリスト教の布教を許可する必要がありました。つまり、貿易を行いたければ、キリスト教の布教を認めなければならず、貿易だけを行うことは出来ませんでした。従って、南蛮貿易はキリスト教の布教を許可した、九州の戦国大名が有する港を中心に行われました。
なぜ九州の戦国大名達は、異国の宗教であるキリスト教の布教を許してまで、南蛮貿易を行いたかったのでしょうか。それは、日本には無い、彼らにとっては喉から手が出るほど欲しい物があったからです。それは硝石(しょうせき)でした。
鉄砲が伝来したことにより、戦闘での主力武器は鉄砲へと移行し、戦い方に大きな変化をもたらしました。鉄砲は、日本人のお家芸であるその技術力によって、国内各地で製造が出来るようになりましたが、鉄砲には玉と火薬が必須です。しかし、火薬の原料である硝石は日本では採取出来なかったのです。そこで、これからの主力武器となるであろう鉄砲に必要な、火薬の原料である硝石は、勢力拡大をもくろむ戦国武将にとっては喉から手が出るほど欲しく、みな競って手に入れようとしたのです。九州の大友宗麟(おおとも そうりん)は、マカオに居る宣教師に硝石を優先的に自分に回してくれれば、相応の銀を渡すと言う内容の手紙を出しています。
南蛮貿易における主な輸入品は中国の生糸、タイやミャンマーなどの硝石などで、輸出品は銀、日本刀などでした。
イエズス会のフランシスコ・ザビエルは、ポルトガル国王の命を受け、新たな信者と植民地を得るためアジアへと出航し、マラッカ(マレーシア)に到着しました。イエズス会と言うのは、カトリック教会の中でも天文学や地理学に精通したエリート達の集団です。しかし、マラッカはイスラム教が浸透していたのでキリスト教は普及しませんでした。
マレーシアにある聖フランシスコザビエル教会の前には、二人の銅像が立っています。一人はザビエル、もう一人は「ヤジロウ」と言う、鹿児島から漂流して来たと言われる日本人です。ヤジロウはザビエルによって洗礼を受け、まらっかでの布教が失敗に終わり途方に暮れるザビエルに、日本の情報を教え、日本での布教を勧めたのです。
ヤジロウの話を聞いたザビエルは、日本での布教を決め、1549年ヤジロウと共に鹿児島にやって来ました。そして一年間鹿児島に滞在したザビエルは、本国に手紙を送っています。そこには、「日本にはたくさんの金銀があります。大変高額で売れる商品のリストを同封しますので、これを持ってくれば大量の金銀を儲けることができます」と書かれていたのです。日本には大量の銀を産出する銀山や金山があることを、ザビエルはヤジロウから聞いており、だからこそ、日本での布教を決めたのです。そして鹿児島に一年間滞在していた間に、それを確信したのです。
ザビエルはその後、平戸、博多、山口、堺、京都へと旅し布教する地を探しましたが、最終的に山口へ戻ってきて、1551年からこの地で布教を始めました。なぜザビエルはこの地を選んだのでしょうか。当時の山口は、石見銀山を有する大内義隆のお膝元であったからなのです。ザビエルは正式な使者として義隆に面会し、貢ぎ物を献上し、この地での布教を始めるのです。
16世紀にポルトガル人によって作られた世界地図には日本も描かれていて、そこには「銀山」の表記があり、石見銀山(いわみぎんざん/島根県)が記されているのです。つまり16世紀の中頃には、石見銀山の名は遠くポルトガルにまで知られていたのです。なぜ日本の銀山が、遠く離れたポルトガルでその存在を知られていたのでしょうか。
そこには鉄砲伝来と後期倭寇が関係していたと思われるのです。
ザビエルが日本へやって来るほんの数年前、鉄砲が伝来しています。私達は学校で種子島にポルトガル船が漂着し、それにより鉄砲が伝来したと習いました。それは偶然であったかのように習いました。ところが、これは単なる偶然ではなかったのです。漂着したのではなく、目的を持ってやって来たのです。しかもその船はポルトガル船ではなく、『鉄砲伝来記』にあるように中国船だったのです。
しかも、この中国船は後期倭寇の船だったのです。『鉄砲伝来記』には、鉄砲を持っていたポルトガル人と、種子島藩士・西村織部との間に立って鉄砲売買の仲介をしたのは、五峰(ごほう)という中国人だと記されています。この中国人は何者なのでしょうか。
長崎県平戸の町の一角に、二人の人物の銅像が建っています。一人はザビエル、そしてもう一人は、後期倭寇の頭目(とうもく/親分)である王直(おうちょく)と言う中国人の男です。そしてこの王直こそ、鉄砲伝来の時にポルトガル人との仲介をした、若き日の五峰だったのです。この王直と五峰が同一人物である事は、同時代の中国の書物からも明らかなことです。鉄砲伝来時の漂着は、あたかも偶然に種子島に漂着したように思われがちですが、実は偶然ではなく、倭寇の頭目・五峰、後の王直が仲介者となり、ポルトガル人を連れて種子島目指してやって来たのでした。
倭寇(わこう)とは、一般的には鎌倉末期頃から朝鮮半島沿岸、中国沿岸を荒らし回っていた海賊を指しますが、厳密には室町初期頃までの倭寇は前期倭寇と呼ばれ、元寇によって多大な被害を受けた対馬お根拠地とする日本人の海賊で、元寇に対する復讐がその主目的でした。しかし、16世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれ、中国や東南アジアの商品を日本に持ち込んで利益を上げる、密貿易を主目的とする、中国人をその主要メンバーとする者達でした。ですので、一口に倭寇と言っても、前期倭寇と後期倭寇ではその主要メンバーと目的が異なるため、前期・後期として区別しているのです。
ではなぜ、後期倭寇のような密貿易を行う者達がいたのでしょうか。
当時日本と明(みん/当時の中国統一王朝)との間では、勘合貿易という形で貿易が行われていましたが、中国との貿易権を巡って日本人同士が中国の港で乱闘を起こし、中国の役人をも巻き込んだ大騒動となってしまったため(三浦の乱)、勘合貿易は中止となってしまいました。そして明は前期倭寇を警戒し、自由に貿易をさせない海禁政策を採っていましたので、民間人は自由に貿易が行えなかったのです。
そこでどうしても貿易で利益を上げたい中国人達が、倭寇(前期倭寇/日本人)を装い、日本人の格好を真似て、あくまで日本人の振りをして、密貿易は日本人の仕業だと思わせて密貿易を行いだしたのです。中国政府は外国との貿易を禁止していましたが、マカオに居たポルトガル人にはその法律が及ばなかったため、貿易をしたい中国人達は外見上日本人の振りをして、マカオに来てポルトガル人と密貿易を行ったのです。
後期倭寇は密貿易を行う中で、石見銀山の情報を得ていたと思われます。しかも石見銀山から産出される銀は、灰吹法(はいふきほう)という製錬技術により、大変純度が高い銀だったのです。灰吹法とは、簡単に言うと、まず銀と鉛の合金を作り、これを動物の骨などを焼いた灰の上で焼くと、鉛が溶けて灰に吸収され、純銀が残るという精錬法です。
この日本の銀山の情報が、後期倭寇(中国人)から、密貿易相手であるマカオのポルトガル人に伝わり、ポルトガル人が鉄砲を売り込もうと後期倭寇と手を組み、五峰(後の王直)率いる中国船に乗船し、種子島にやって来たのです。なぜ種子島だったのか、別の所を目指していてたまたま種子島に漂着したのか、このあたりは分かりませんが、偶然に日本へやって来たのではなく、日本を目指して来たことだけは確かだと思われるのです。
実は、当時の世界で産出される銀のうち、約三分の一がこの石見銀山を含む日本の銀山が生み出していたと言われ、大量の純度が高い銀が日本にあると言う情報をマカオから受けたポルトガルは、それを確かめさせるため、イエズス会はザビエルを宣教師として乗船させ、新たな信者と植民地獲得を兼ねて東に向かわせたのだと思われます。そしてその度の途中でマラッカに到達し、そこで日本から漂流してきたとされるヤジロウに出会い、事前に石見銀山の情報を聞き出したザビエルは、ヤジロウを伴って日本へ向かったのです。
ポルトガルは、石見銀山の銀を巧みに利用して莫大な富を得ました。
まず、当時の中国は大量の銀を必要としていました。なぜなら、1531年以降中国は流通貨幣を銀に変えていたのですが、中国では銀はほとんど採掘できず、良質の銀を大量に必要としていました。一方、日本は中国産の生糸を手に入れたいと思っていました。しかし、勘合貿易は中止となり、日中間での貿易は行われていませんでした。
そこでポルトガルは、1557年に中国マカオの居留権を得ると、ここを拠点に生糸が欲しい日本と、良質な銀が欲しい中国との仲介貿易を始めることにしたのです。まず本国からザビエルからの報告にあった、日本で高く売れそうな品々を満載して長崎の平戸に向かいました。当時の平戸は、マラッカと行き来するポルトガル船の寄港地だったのです。
平戸に寄港したポルトガル船は、本国から持ってきた珍しい品々を日本人の貿易商に売ります。ザビエルが報告してきた通り、高値で売れます。定価など無いのですから言い値です。本国での売価の数倍の値でも売れます。まずはここで持って来た品物の本来の値(元手)よりも数倍の値が付いて儲かります。支払いは銀です。銀は外国に対しても貨幣代わりに通用したのです。ただし、この銀は硬貨の形にしたものではなく、銀はその重さで価値が決まりましたので、銀山から採掘され精錬された銀は、ある程度の重さに整形されました。従って、支払う時はその重量を天秤量りで計測し、細かい重量調整には、小粒の銀を足しました。
平戸で元手の数倍もの銀を得たポルトガル船でしたが、これを本国には持って帰りません。もう一儲けするのです。そこでマカオに向かいます。ここには良質の銀を得たい中国人の密貿易商人が居ます。彼らは後期倭寇です。後期倭寇は中国産の生糸を用意しています。ポルトガル人は日本が欲しがるこの生糸を、日本で設けた銀で支払って購入します。既に元手(本国から持って来た品々)よりも数倍の銀を得ていますので、ここでも元手で買えるよりも数倍の生糸が買えます。
そして中国の生糸を手に入れたポルトガル船は、再び平戸に向かうのです。平戸では、中国から仕入れた生糸を日本の貿易商に売ります。中国の生糸は貴重品ですから、高値が付きます。マカオで後期倭寇から仕入れた値段の数倍もの値が付いたと思われます。元手の数倍もの銀で仕入れた大量の生糸を、仕入れ値の数倍の値で売るのですから、元手から考えると莫大な儲けになります。
生糸の支払いも銀ですので、ポルトガルは大量の良質な銀を手にすることになり、これを本国に持ち帰って財源とし、多いに栄えたのです。そして現在でも、ポルトガルには「ハイブキ」という言葉があり、良質の銀を指す言葉として使われていると言われます。
鉄砲の伝来は、これまでの戦いの様子を大きく変えました。これまでは、名のある武将が先頭に立って戦い、その指揮下の元、足軽達が戦いました。従って、指揮官の力量が部隊の強弱を決めました。しかし、はるか遠くから玉を発射する鉄砲が足軽の武器となると、足軽が放った玉で名のある武将が倒されるという事態が起こったのです。もはや武将個人の強弱など問題ではなくなり、どれだけ足軽部隊を統率し、一連の攻撃を指示出来るかが問われたのです。
室町時代を通して、甲冑は胴丸、腹巻が主流で、大鎧(おおよろい)のように重武装化していきましたが、これまでのように小札(こざね)を脅した作りでは、戦国期に多く使われるようになった槍や鉄砲の攻撃から身を守れなくなりました。そこで小さな小札を連結するのではなく、大きな鉄板を蝶番(ちょうつがい)で留め、強度を増し、大量の需要に応じるため作業の簡略化を図った最上胴(もがみどう)が考案され、これから当世具足(とうせいぐそく)へと発展し、南蛮胴といった和洋折衷の甲冑も作られるようになります。
防具である甲冑が進化すると、武器である刀もその姿が変化します。頑丈な甲冑に対抗するため、これまでの片手打ちに適した短かった刃長が、二尺三寸から五寸ほどと長寸になり、身幅が広くなり、切先も延びます。しかし、重ねは長くなってその分重くなった重量を軽減するため、比較的薄くなっています。
また茎(なかご)も、片手打ちに適した短かったものが、両手打ち用に長くなります。
短刀は、この時代の特徴として、ふくらが極端に枯れています。従って、大変鋭い形状になっています。
政次の十文字槍 |
至文堂「日本の美術」137より |
金房政次(かなぼうまさつぐ)は、大和手掻系を自称する金房一派の棟梁格の刀工です。金房一派は「金房」を姓のように使用し、一般的には「きんぼう」と呼ばれます。手掻系を自称するわりには大和伝の作風はほとんどなく、むしろ備前伝、美濃伝の作風です。大和伝の正系ではないと考えられますが、その斬れ味で有名です。
この一派の造り込みは、菖蒲造り(しょうぶづくり)や鵜の首造り(うのくびづくり)など変わった物が多く、奈良の宝蔵院のご用を務めたため十文字槍などの槍を多く作っています。その作風は、地肌は板目に柾目が交じり、匂本位の直刃やのたれ刃を焼き、時には皆焼(ひたつら)などもあります。
一般的に、金房一派の作は戦国時代の作位の上がらない物とされますが、政次の作にはかなり出来の良い作も見られます。またこの一派は「天下三槍(てんかさんそう)」の1つ、日本号を作った一派として有名です。
御手杵(おてぎね)、日本号(にほんごう)、蜻蛉切(とんぼぎり)を、天下三槍と呼びます。この内の日本号と蜻蛉切はこの金房一派の作であると言われます。
御手杵は下総国の大名・結城晴朝(ゆうき はるとも)が、駿河国の島田義助(しまだよしすけ)に作らせたと言われる、刃長四尺六寸もある大槍で、その名は槍の鞘が杵(きね/丸太の真ん中を細く削り、そこを握って臼で米などを搗くもの)に似ていることに由来すると言われます。越前松平家の結城秀康(ゆうき ひでやす)が養父・晴朝から受け継ぎ、代々越前松平家に伝わってきましたが、残念な事に昭和20年の空襲で焼失してしまいました。ちなみに結城秀康は徳川家康の実子ですが、豊臣秀吉の養子に出され、その後に秀吉に実子ができると再び結城家に養子に出されるという、数奇な生い立ちを持った人物です。
日本号は刃長二尺六寸一分の大槍で、無銘ですが金房一派の作と鑑されています。日本号の名の由来はハッキリとは分かりませんが、元々は御物(ぎょぶつ/皇室所有)であり、槍でありながら正三位(しょう さんみ)の位階を与えられていたとされ、こんなことから日本号の名が生まれたのかも知れません。そして日本号は「酒は呑め呑め男なら・・」で有名な『黒田節』に歌われる槍です。この槍は天皇より室町幕府最後の将軍・足利義昭が授かり、和平の印として織田信長に贈られ、豊臣秀吉へと渡り、秀吉のもとで数々の武功をたてた福島正則(ふくしま まさのり)へ与えられました。
ある日、筑前国の黒田家の家臣・母里友信(もり とものぶ)が福島正則の屋敷を訪れた際、正則は酒が入って日本号の自慢を始め、友信に大杯に入った酒を差し出し、「飲み干せば何でも褒美(ほうび)をとらす」と言いました。すると酒豪であった友信は何倍もの大杯の酒を飲み干し、正則自慢の日本号をもらいうけ、何事も無かったかのように帰って行ったという逸話をもとに黒田節が生まれました。
蜻蛉切は刃長一尺四寸の大槍で、金房一派の正信(まさのぶ)の作です。この刃先に飛んできたトンボが止まったところ、トンボが真っ二つに切れてしまったという逸話からこの名があります。
平安時代以来連綿と続いてきた長船鍛冶でしたが、天正十八年(1590年)8月、この地方を長雨と暴風雨が襲いました。吉井川は大洪水となり、熊山は土石流となって長船、畠田、福岡といった地を一瞬にして破壊してしまいました。流出した家屋は1200余り、死者は7000人を越えるという大惨事となってしまいました。
そして被害を受けた人々のほとんどは刀鍛冶とその家族、あるいは関係者であり、代々伝えられてきた道具類一式も失ってしまいました。これにより、長船鍛冶は全滅状態となってしまい、また兵農分離で武士達が城下町を構成して都市に住むようになると、遠く離れた長船には注文は来なくなり、600年もの長きの間栄えた長船鍛冶も、新刀期を迎える頃には祐定一門を残すのみとなってしまいました。
孫右衛門尉清光の刀 |
上の写真は、末備前鍛冶の孫右衛門尉清光(まごえもんのじょう きよみつ)の刀で、刃長二尺二寸五分五厘(68.35センチ)、反り五分三厘(1.65センチ)で、鎬造りで三つ棟になり、身幅広く重ね厚く切先が伸びた豪刀です。
清光には直刃が多いですが、この刀のように、永禄頃の作刀には志津を思わせる相州伝風の作も見られます。
銘は表に「備前國住長船孫右衛門尉清光」、「於天神山為浦上與次郎宗景末代作之」、裏に「永禄八年二月吉日」と切られています。
三代綱広の小脇差 |
上の写真は三代目綱広の小脇差で、刃長一尺二寸九分九厘(39.36センチ)、反り三分二厘(0.97センチ)、平造りで三つ棟になり、身幅広く重ねやや厚く、先反りがついています。
地肌は板目に杢目がまじり、刃寄りは流れて柾目がかり、肌立ちごころに地景入り、地沸つきます。
刃文は小沸のよくついた互の目に丁子まじり、鋩子の返りが棟焼きにつらなり、先に行くほど焼き幅が広くなっています。いわゆる皆焼(ひたつら)です。この皆焼は、南北朝時代の相州伝代表鍛冶である、広光以来の強い焼きですが、広光らの皆焼は、先に行くほど沸が強くなるのに対し、綱広の皆焼はそうではなく、全体的に沸が弱くなっています。
表に妙法蓮華経の文字に蓮台を彫り、裏には三十番神の文字を彫っています。
広助の刀 |
島田広助は、島田義助一門の鍛冶で、一門中で一番豪壮な作風です。
上の刀は、刃長二尺四寸六分五厘(74.7センチ)、反り七分(2.1センチ)で、鎬造りで庵棟、身幅広く腰反りが付いて大切先となっています。
地肌は板目で地沸よく付き、刃文は互の目に尖った互の目、飛び焼き混じり、沸づいて砂流しかかっています。帽子は乱れ込んで先は少し尖ります。
表裏に棒樋を掻き通し、茎(なかご)は生ぶで茎尻は栗尻、鑢目は勝手下がり、目釘孔は二個で、その下に「広助」と二字銘があります。
この刀は、広助の作刀の中でも最も覇気あるもので、南北朝時代の相伝備前・長義を目指したものとも思われる優れた出来を示しています。
下原鍛冶(したはらかじ)とは、今の八王子市及びその周辺、特に下原地区を中心として鍛刀した鍛冶の総称です。
戦国時代に、甲斐国武田氏の出城があった現在の八王子市周辺に、相模国の綱広一門であった周重(ちかしげ)、周広(ちかひろ)が招かれて移住し、下原鍛冶としての基礎を作り、武田氏や北条氏、上杉氏などの武将の注文を受けてかなり繁昌しました。
この下原鍛冶の作風は、一言で言えば、古刀の下作鍛冶(げさくかじ)の代表格で、一見末相州に見えますが、姿が悪く、匂本位の中直刃、のたれ乱れ、また美濃物のような尖った五の目などを焼き、刃中には全く働きは無く、地肌は肌立ち、またナメクジが這った跡のような、渦巻き状の肌が現れ、これを下原肌(したはらはだ)と呼んでいます。
康重の小脇差 |
上の写真は、下原鍛冶の康重の小脇差で、刃長一尺三寸三分二厘(40.35センチ)、反り二分五厘(0.75センチ)、平造りで三つ棟になり、身幅尋常で重ねはやや厚くなっています。
地肌は板目に杢目まじり、細かな地沸がついて肌立ち、はばき元に下原物の特徴である下原肌が現れています。刃文は匂口の沈んだ互の目乱れで、帽子は乱れ込んで先が小丸に返っています。
また下原鍛冶独特の、猿のような顔をした不動明王が彫られていますが、彫刻は田舎くさくへたくそです。
泰吉の刀 |
海部(かいふ)一派は、古刀銘尽大全などによると、阿波国海部郡(現在の海陽町)に住した、二派の鍛冶の総称です。一つは、南北朝時代の応安頃(1370年)の海部太郎氏吉を祖とする一派で、もうひとつは薩摩国の波平一門で、「藤」を姓とする応安頃の鍛冶達です。『享保名物帳』の追記には、「岩切」と称する海部物が記されていますが、室町時代前期の応永以前の作品はほとんど現存せず、現存する作品は戦国時代のものがほとんどです。
その作風は、刀は腰反り強く、板目に柾目まじりごころで白けた地肌に、単調な直刃を焼いたもの、雑な地景をまじえた鍛えの地肌に、匂口が眠いのたれ調の刃文を焼いたものと二通りあり、こちらの作風は横手の下から焼き幅を広く焼くので、一枚鋩子が多いです。この手癖が越中の郷義弘(ごう よしひろ)に似ているため、無銘の海部物が郷に化けて名物になったものさえあるそうです。
上の写真は、海部鍛冶の中でも良工の、二代目泰吉(やすよし)の刀で、刃長二尺二寸四分七厘(68.1センチ)、反り五分(1.51センチ)、鎬造りで三つ棟になり、身幅広く切先伸びて先反りがついた打刀です。銘は表に「阿州泰吉作」、裏に「天文□年二月日」とあり、□の部分は判別出来ません。この刀は相州伝風の作刀で、上で述べた郷に似た作風を示したものですが、当然古刀上位作と紛れるほどの作ではありません。
上の刀は鎬造りですが、海部物には片切刃造りが非常に多いです。指し表を切刃造り、裏を平造りにしたものです。この造り込みには意味があります。日本刀の科学の造り込みの効果で説明した通り、斬りつけた時に刃先が曲がらず、真っ直ぐに斬り込むことが出来るので、片手打ちでも効果的に攻撃出来ます。
また、上の刀は茎に銘が切られていますが、銘を茎(なかご)ではなく、表のはばきより上の鎬地に、「阿州住○○」と切るのが特徴です。また一尺二、三寸の片切刃造りのものを「海部の山刀(やまがたな)」と呼び、竹や木を切るのに便利なため、軽率の脇差として重宝がられたようです。こういった脇差は、阿波という地理的観点から、海賊が好んで用いたのかもしれません。
末相州物と見えて、地鉄が弱く白け、刃文が眠くて棟焼きがあれば海部物と鑑定すると言われ、鑑定会において、氏吉の「アタリ同然」は泰吉など一門だけで、ある意味非常に珍しい作風です。
若狭守氏房の短刀 |
上の写真は、若狭守氏房(わかさのかみ うじふさ)の短刀で、刃長九寸五分四厘(28.9センチ)、反り一分弱(0.29センチ)、平造りで庵棟、身幅広く重ねは尋常で、ふくらは枯れ気味になり、先反りがついています。
地肌は小板目がよく詰み地景からみ、地沸ついて地色が青白く冴えています。刃文は兼房乱れで、沸・匂深く明るく冴えています。
若狭守氏房は、善定兼房の子で初銘は兼房、今川氏真に招かれて府中(現静岡市)で鍛刀し、氏真の「氏」の一字を賜り、氏房と改銘しています。永禄十三年四月に若狭守を受領しています。
氏房一派は、直江志津風(相州伝系)の作品を鍛え、今川氏滅亡後は尾張国へ移り、薩摩に移住した丸田備後守氏房は、薩摩新刀の基礎を築いて繁昌しています。
大道の小脇差 |
上の写真は、大道(おおみち/だいどう)の小脇差で、刃長一尺四寸三分五厘(43.5センチ)、反り二分一厘(0.64センチ)、平造りで、庵棟になり、身幅広めで重ねは尋常、先身幅が少し落ちて先反りがついています。
地肌は板目に杢目まじり、少し柾目がまじり、白けて肌立っています。刃文は匂口が締まったのたれに互の目まじり、小足、葉が入り、砂流しかかっています。帽子はのたれ込んで地蔵風の小丸に返り、返りは深くなっています。
銘は表に「濃州関住大道」、裏に「天正拾八年五月日」と切られており、1590年の作で、後代の大道です。
初代大道は、美濃国室屋系の大知(天文頃/1532年-1555年)の末裔で、初代大道は初銘を兼道と切り、後に上洛し、永禄十二年(1569年)に正親町天皇(おおぎまちてんのう)より「大」の字を賜わり、「大兼道(おおかねみち)」と銘し、同十三年に陸奥守(むつのかみ)を受領、「大道」と改銘しています。そしてこの陸奥森大道は、新刀期の山城国で三品(みしな)一門を築いた伊賀守金道の父、兼道なのです。金道は、朝廷から「日本鍛冶惣匠」という、刀鍛冶の棟梁としての称号と、天皇家の紋章である菊紋を茎(なかご)に切ることを許され、新刀期の刀鍛冶の受領(ずりょう)は、この金道が仲介して行うことになるのです。
〈大和国〉金房政次、正実
〈河内国〉加賀四郎正清
〈伊勢国〉千子村正、正重
〈駿河国〉島田義助、助宗、広助
〈相模国〉小田原相州二代康国、末相州綱広
〈武蔵国〉下原周重、康重、照重
〈美濃国〉兼元、兼定、寿命、岩捲氏信、善定兼房、氏房、三阿弥兼則、兼長、兼高、兼春、奈良兼常、兼法、徳永兼綱、兼宣
得印兼久、兼安、室屋兼在、兼氏、兼道、大道、良賢兼宗
〈出羽国〉月山
〈若狭国〉冬広
〈加賀国〉藤島清光、勝家、家次
〈越中国〉宇多國長、國久、友次
〈伯耆国〉広賀
〈出雲国〉雲州吉井忠貞
〈備前国〉末備前祐定、清光、春光、吉井清則
〈備中国〉古水田国重、為家
〈備後国〉貝三原正吉、正賀、正長
〈周防国〉仁王清定、清実、清重
〈筑前国〉金剛兵衛盛高、盛吉、盛弘
〈筑後国〉三池正国
〈豊前国〉筑紫信国、筑紫了戒直能
〈肥後国〉同田貫右衛門、正国、國勝
〈日向国〉古屋実昌、実忠
〈薩摩国〉清左(きよすけ)