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日本刀の区分


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ここでは日本刀の区分について解説します。

《 目  次 》

  1. ■ 時代による区分
  2. ■ 長さによる区分
  3. ■ 太刀と刀
  4. ■ 小脇差・寸延び短刀
  5. ■ 小太刀
  6. ■ 腰刀と打刀
 

■ 時代による区分

制作された時代によって以下のように区分されます。
古刀(ことう)
平安後期から文禄(ぶんろく/1596年まで)までの作刀のことです。歴史の時代で言うと、平安、鎌倉、南北朝、室町時代、戦国時代、安土桃山時代の文禄頃までです。(安土桃山時代は古刀から新刀への過渡期になります)

新刀(しんとう)
慶長(けいちょう/1596年〜)から明和(めいわ/1771年まで)の作刀です。江戸幕府初代将軍・家康の時代から10代将軍家治(いえはる/吉宗の孫)までの時代です。

新々刀(しんしんとう)
江戸時代の安永(あんえい/1772年〜)から明治時代までの激動の時代の作刀です。10代将軍家治の後期から明治天皇までの時代です。

現代刀
大正時代以降の作刀を指します。
注: 通常、平安初期以前の刀は「上古刀(じょうことう)」と呼ばれ、考古学の範疇となりますが、いわゆる日本刀と呼ばれる要因となっているものは既に上古刀時代にほぼ整っています。詳しくは日本刀の歴史上古刀の部をご覧下さい。

■ 長さによる区分

刀の刃渡りによって以下のように区分されます。(一尺は30.3p)
二尺以上

脇差
一尺以上二尺未満

短刀
一尺未満
●「銃砲刀剣類所持等取締法」では、60p以上は刀、30p以下は短刀、その中間は脇差に分類となっています。

■ 太刀と刀

刀は刃を上にして帯に差します太刀は刃を下にして腰に吊り下げます。つまり刀と太刀は身につける付け方が違います。従ってただ単に寸法が長い物を太刀と呼ぶのではありません。刀と太刀はその使用方法も違います。太刀は馬に乗ることができる身分の高い者が持つもので、馬に乗った状態で地上にいる敵を切り倒すのに都合が良いように作られています。そして太刀を身に付けたまま馬に乗るため、刃を下にして腰からぶら下げるのです(下の写真参照)。
こうすると鞘のお尻は上に反り上がったようになります。しかし、刃を上にして身に付けて馬に乗ると、今度は鞘のお尻が下に向かって反り、馬のお尻あたりに鞘尻が当たり、馬が動く度に鞘尻が馬に当たって馬が落ち着かなくなるのです。また帯びに差さずにぶら下げるのは、馬に乗ったまま太刀を抜きますので帯に差したりして固定してしまうと抜きにくいのです。太刀の方が寸法が長いのは、馬上から地上にいる敵を切る必要があるためなのです。
太刀 
太刀の写真 
 刀
 刀の写真
刀は戦闘方法が馬上から地上に移り、素早く抜いた方が勝利する一騎打ち的な戦闘になってからのものです。従って刀を身に付けた状態で徒歩で移動しますので、太刀のように腰からぶら下げていればブラブラして邪魔になります。また素早く刀を抜くには反りが浅い方が抜きやすいため、太刀のように反りは深くありません。また刃を上にして帯に差すと、地上にいる敵に対し抜くという動作と同時に相手に切りつけられますので、刃を上にして差すのです。
標準的な刀の寸法(定寸/じょうすん)は2尺3寸5分ですが、太刀は二尺六寸前後、南北朝期に至っては三尺近い物まであります。こういった太刀が連綿と受け継がれ、安土・桃山時代になると名だたる武将がこれらを手に入れ、多くが刀として腰に差すのに丁度良い寸法にまで太刀を短くしました。これを磨上げ(すりあげ)と言います。すると拵(こしらえ)もそれに合わせて作り直されました。
こうして磨上げられた太刀は刀として腰に差され、長きに渡って刀として伝えられ今日に至り、登録証の種別にも刀と記されています。展覧会などで、刀などなかったはずの時代の作刀に「刀」と説明書きがある物を見ると、「あれ?」と思うかもしれません。それはこのように腰に差すのに都合が良い長さに太刀が短くされたからなのです。
しかし、この項の冒頭でも説明しました通り、寸法が長いから太刀、短いから刀と言うのではなく、あくまでも刃を下にして腰から釣り下げ、馬上の者が使用するよう工夫されたものが太刀であり、刃を上にして腰に差し、徒歩の者が使用するよう工夫されたものが刀であるのです。こうして磨上げられた太刀は今では刀と呼ばれますが、作刀当初は太刀であり、厳密に言えば太刀として作られたものはあくまでも太刀なのです。

■ 小脇差・寸延び短刀

これらの用語はこのサイトでも出て来ますし、よく聞く言葉です。小脇差(こわきざし)とは、短い脇差のことで、寸延び短刀(すんのびたんとう)とはちょっと長い短刀のことです。なぜこんな用語があるかと言うと、「太刀と刀」の項でも書きましたように、これらはあくまで脇差、あるいは短刀だからです。つまり一尺よりも短いから短刀なのではなく、あくまで短刀として作られた物であるから短刀なのです。
室町時代より前には脇差はありません。従って一尺一寸、あるいは一尺二寸ほどのものは短刀の寸法が伸びた物であることから「寸延び短刀」と呼びます。南北朝時代のように、相手を威嚇する長寸の大太刀が流行すると、短刀も大きく長くなります。こういった物を寸延び短刀と呼ぶのですが、日本刀類に必要な登録証では銃刀法による単純な長さのみの分類により、寸延び短刀は「脇差」と分類されてしまうのです。しかし、寸法に関わらず、短刀として作られた物はあくまでも短刀なのです。

■ 小太刀

小太刀(こだち)という用語もよく聞く言葉だと思いますが、よく小太刀を「脇差」のことであると解説しているものがありますが、日本刀の世界で言う「小太刀」とは短い太刀であり、上で書いたようにあくまで太刀なのであって脇差の意味ではありません。
テレビ時代劇や小説などで、女性が「小太刀」の使い手として登場したりしますが、この「小太刀」は女性でも扱いやすい脇差を使った剣術の流儀を言い、これを日本刀で言う「小太刀」と混同してはいけません。日本刀で言う小太刀の例としては下の写真の小太刀があります。これは鎌倉時代の山城国の刀工である、二字国俊(にじ くにとし)の作で重要美術品に指定されています。寸法から言うと脇差に分類されますが、あくまでこれは太刀です。
二字国俊の小太刀 一尺九寸九分 
小太刀の写真 
徳川美術館蔵品抄6より 

このような小さな太刀は何に使われたのかという点では諸説あります。しかし写真はありませんが、日光二荒山神社にある国宝の小太刀を見ればおよそその用途を推察できます。これは山城国の来国俊(らい くにとし)という刀工の作で、一尺八寸ほどの小太刀です。踏ん張りがある腰反りの小太刀で、この姿をみただけで脇差などではなく太刀であると分かります。また茎(なかご)が雉子股形(きじももがた)になっています。雉子股形の茎は、儀式時に貴族が佩用(はいよう/太刀を身に付ける事)する儀仗太刀拵(ぎじょうのたちごしらえ)に入れる太刀の茎の形です。雉子の足のように、太股が太く、そのしたが細い足に形が似ていることからこの様に呼ばれます。儀仗太刀拵は、茎にかぶせる鮫皮(さめかわ)を茎と固定する際、俵鋲(たわらびょう)を使って何カ所かを止めますので、茎が通常の形では茎が邪魔で俵鋲が通らないので、茎の身幅を狭くしてあるのです。
このことから、この来国俊の小太刀は儀仗太刀拵など儀式用の拵に入れるための小太刀であったと想像できます。昔は今で言う小学6年生位で元服(げんぷく/大人として認められる儀式)していましたので、皇族や貴族の子供の儀式用の太刀として作られたのではないかと思われます。

■ 腰刀と打刀

腰刀(こしがたな)は、太刀のように釣り下げるものではなく、腰に差す鐔の無い合口拵(あいくちこしらえ)の短い刀の総称で、刃長は短刀から刀まで様々です。平安時代の大鎧(おおよろい)は重いので休戦時には脱ぐのですが、太刀をはずさないと脱げません。そうなると丸腰になってしまいます。そこで護身用として腰刀を腰に差しておいたのです。太刀とは違って帯に差すだけなので簡単に身に付けられました。また、矢を射尽くした後の白兵戦において、敵を落馬させて組み付した後に敵の首を掻く(かく)のにも腰刀を用いました。
腰刀 
腰刀の写真 
南北朝時代になると、馬上での打物戦(うちものせん)が盛んになります。打物とは、太刀や刀、薙刀(なぎなた)や槍など、打物と総称される武器での戦いです。そしてこの時代には太刀の刃長も伸びて三尺以上もある大段平(おおだんびら)が出現し、腰刀の刃長も伸びて二尺以上もある腰刀が現れます。こうして刃長が伸びた腰刀が後の刀へとつながったとする説もあります。
一方、打刀(うちがたな)とは、馬に乗る事が出来ない郎党(ろうとう/武士と主従関係を結んだ農民など)や僧兵が用いた武器で、既に平安後期には使用されていたことが絵巻などにより分かります。ただしこの頃の物は二尺を越えるような物ではなく今で言う脇差ほどの長さの物が使用されていました。縁頭は金属製で、柄には金属製の輪っかをはめて固定・補強し、鞘には漆(うるし)をかけて補強していました。なお、打刀という言葉は、両刃の剣などのような突く武器ではなく、打ち切る武器ということからこう呼ばれます。
寸法が伸びた腰刀と打刀とは、同じような寸法で同じように帯に直接差して用いますが、腰刀は太刀を佩用する高級武士が太刀と併用する物で、打刀は下級武士など太刀を佩用できない者が単独で帯びる物です。室町時代に太刀に替わって使われるようになった刀は、腰刀が伸びて発展した物、下級武士が使用した打刀が元になった物という2通りの流れがあったと言われています。