おさるの
日本史豆知識
関連ページ
日本刀の歴史-上古刀の部(姉妹サイト:おさるの日本刀豆知識)
古墳時代
3世紀半ば過ぎ-8世紀初頭
《 目次 》
弥生時代になると人々の間に格差が生まれ、亡くなった人の埋葬方法にも変化が現れました。甕(かめ)や石、木などで作られた棺(ひつぎ)に納められて埋葬されるようになりました。また、埋葬する時に土または石を積み重ねて丘のような形にした墳丘墓(ふんきゅうぼ)が造られるようになります。そして小規模であった墳丘墓は、弥生時代後期になると近畿地方や瀬戸内海沿岸で大規模化していきます。中でも岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は、直径約45メートル、高さが約5メートルの丸形の丘の両側に四角い張り出しが付いた、全長約80メートルもある大規模な墳丘墓です。この楯築墳丘墓は、卑弥呼の時代のこの地方の首長のものとされています。
3世紀後半になると墳丘墓は大規模化し、巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が造られるようになり、東北から九州に至るまで広まりました。前方後円墳とは、前方が方形、つまり四角形で、後方が円形をした古墳です。古墳とは3世紀後半から造られ出した大規模な墳丘墓を指し、弥生時代の墳丘墓は弥生墳丘墓と呼びます。そしてこれら大規模な前方後円墳が盛んに造られ出した、3世紀後半から7世紀末までを古墳時代と呼びます。
前方後円墳がなぜこんな形をしているのかについては諸説あります。墳丘墓の回りに掘られた壕(ほり)の一部を掘り残し、墳丘墓への通路としたものが発展したという説や、お墓である墳丘に対して前方の四角形の部分で儀式を行ったという説もあります。
『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は魏に朝貢(ちょうこう)して倭の王と認められ、様々な物と共に銅鏡100枚を賜っています。この銅鏡が3世紀から4世紀の古墳から出土した三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)ではないかと言われます。三角縁神獣鏡とは、青銅製の鏡で、鏡の裏面には神々や仙人の像や竜などの神聖な動物が描かれており、鏡の縁(ふち)の断面が三角形になっているので三角縁神獣鏡と呼ばれます。
三角縁神獣鏡 |
卑弥呼の墓ではないかと言われる奈良県の箸墓古墳(はしはかこふん)の近辺には、箸墓古墳を中心として大小多くの古墳が点在しています。箸墓古墳から2キロほど北にある黒塚古墳(くろつかこふん)から、33枚の三角縁神獣鏡が出土しました。そして京都の椿井大塚山古墳(つばいいおおつかやまこふん)からも32枚の三角縁神獣鏡が出土しています。
そして島根県の神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)から出土した三角縁神獣鏡には、「景初三年」という年号が刻まれていました。景初(けいしょ)3年とは、卑弥呼が魏に使者を派遣した年(239年)です。しかし、三角縁神獣鏡は日本で500枚以上も見つかっている事、中国から贈られたというのに中国では発見されていない事、発見された三角縁神獣鏡には段階的な変化が見られる事、存在しない中国の年号が刻まれた物がある事などから、三角縁神獣鏡が卑弥呼が中国から贈られた物であるという説には否定的な説もあり、日本で作られたという説もあります。
三角縁神獣鏡は、全国各地から発見されていますが、近畿地方の出土数が一番多く、近畿地方で発見された物がその原型であると言われ、三角縁神獣鏡の詳細はともかく、3世紀後半には近畿地方に大きな勢力が生まれていた事が分かります。
古墳時代中期(4世紀-5世紀)になると、前方後円墳の規模は巨大化し、5世紀のものとされる大阪府の大山古墳(だいせんこふん)は、全長486メートルもあり、日本最大級の前方後円墳です。この大山古墳は、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と呼ばれていました。私が学生の頃もそう教えられましたが、被葬者(お墓に葬られている人)を特定できる物は何も発見されてはおらず、しかも出土した埴輪(はにわ)などは5世紀後半の様式で、『日本書紀』が伝える仁徳天皇の治世とはおよそ100年も差があります。従って現在は地名を取って大仙古墳と呼ばれています。
大仙古墳に限らず、天皇陵とされる古墳全てが誰が葬られているかは不明なのです。それは被葬者の名前などを記した物が何もないからなのです。エジプトのピラミッドには王の名が記されたものが残っていますが、古墳には無いのです。なぜ日本の古墳には被葬者の名前が無いのかについては、「飛鳥時代 日本人と言霊信仰 」をご覧下さい。
古墳の大きさは権力の大きさを表し、南は鹿児島県から北は岩手県まで全国各地で前方後円墳が作られていますが、その形はほぼ統一された物となっています。そして奈良県を中心とした近畿地方に特に巨大な古墳が集中しているという事から、各地で巨大古墳を作った有力者達は、奈良県を中心とした王権の傘下(さんか)に入る事により、決められた規格の古墳を作る事を許され、奈良を中心とする統一国家があったと考えられています。先の三角縁神獣鏡も近畿地方の物が原型ではないかと考えられており、統一国家が傘下の国々に同盟の印として与えたのではないかと考えられるのです。この統一国家をヤマト王権と呼びます。
ヤマト王権は、大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれていました。私もそう習いましたが、「大和」は奈良時代にできた国名であり、またこの古墳時代の政権を朝廷と呼ぶのはふさわしくないという事から、ヤマト王権と呼ばれる事が多くなってきました。
ところで、古墳と言えば木々が生い茂った山のようなイメージがありますが、作られた当時はこのような姿であった訳ではありません。本来の姿は兵庫県神戸市垂水区(たるみく)にある五色塚古墳(ごしきづかこふん)を見れば分かります。海辺を走るJRからも見えるこの古墳は、4世紀末から5世紀にかけて作られたと考えられるもので、作られた当時の姿に復元されています。表面には石が積んでありますが、これは土が崩れたりしないために積まれたもので、墳丘のてっぺんには円筒埴輪(えんとうはにわ)が並べられています。
五色塚古墳 |
朝鮮半島南部は韓(かん)と呼ばれ、4世紀までは朝鮮半島南部は民族などによっていくつかの地域に別れていました。西部の馬韓(ばかん/50ほどの小国から成る)、東部の辰韓(しんかん/12の小国から成る)、馬韓の東、辰韓の南にあたる弁韓(べんかん/12の小国から成る)の三つの国は三韓(さんかん)と呼ばれました。
4世紀の初め頃に中国の支配が弱まると、馬韓は百済(くだら)として、辰韓は新羅(しらぎ)として独立しましたが、日本海に面した弁韓の諸国は倭国(日本)の介入により国家形成が遅れました。弁韓の地域は鉄の産地として知られ、倭国は鉄を手に入れるためにこの地域と交易を行っていたのです。弁韓を母体とし、朝鮮半島東南部を流れる洛東江(らくとうこう/ナクトンガン)流域の、多くの小国が散在したこの地域は伽耶(かや)、あるいは伽耶諸国と呼ばれました。また、記録された歴史書によっては「加羅」などとも表記されています。
なお、朝鮮半島北部では、紀元前37年に高句麗(こうくり)が既に建国していました。
日本がヤマト王権による支配を固めていった4世紀頃、朝鮮半島は上記のように高句麗、新羅、百済の三国が互いに争う三国時代でした。ただし、伽耶諸国のようにこれら三国とは独立した勢力を持つ地域や小国も同時にありました。そして倭国は、百済とは密接な関係にありました。『日本書紀』には、百済が倭国に朝貢(ちょうこう)し、王族を人質に出している事などが記載されています。
卑弥呼の死後、壹與が後継者として女王となりましたが、その後は中国の書物から倭国に関する記述がなくなりました。従って倭国についての資料が乏しい4世紀を空白の4世紀と呼んでいます。しかし、この空白の4世紀の倭国の対外関係を知る事ができる資料があるのです。それは中国との関係ではなく朝鮮半島との関係を示すものです。
1つは、奈良県石上神宮(いそのかみじんぐう)に伝わっている七支刀(しちしとう)と呼ばれる全長74.8センチの鉄製の剣です。石上神宮は、奈良時代に記された『古事記』や『日本書紀』にもその名が記されており、軍事を以てヤマト王権に仕えた豪族・物部氏(もののべうじ)の氏神(うじがみ/一族を守る神)であり、ヤマト王権の武器庫でもありました。
剣の両側から互い違いに3本ずつの枝が出ているので七支刀と呼ばれています。これには両面に文字が金象嵌(きんぞうがん/線彫りにした溝に金を埋め込む技法)されており、その内容から369年に百済の王が作り、倭の王に贈った事が分かります。『日本書紀』に、「神功皇后へ七子鏡一枚とともに七枝刀一振りが献上された」とありますのでこれがその刀だと考えられています。
もう1つが広開土王碑(こうかいどおうひ)です。広開土王碑とは、中国吉林省にある石碑で、朝鮮半島北部の高句麗の王である、広開土大王(こうかいどだいおう/クァンゲトデワン/日本では好太王とも/在位:391年-412年)の業績を讃え、息子が建てた碑です。6メートルを超える高さの石に1,800字以上の文字が刻まれています。
この碑は、1880年頃に清(しん/当時の中国王朝)の農民が苔(こけ)に埋もれていたのを見つけたとされ、拓本(たくほん/石碑などに刻まれた文字を紙に移し取った物)が作られました。そして明治17年、大陸調査に訪れていた陸軍参謀本部の酒匂景信(さこう かげのぶ)も拓本を作成して持ち帰ったとされています。ちなみに広開土王とはちょっと変な名前ですが、これは広く国土を広げたという意味からこう呼ばれています。
碑文によると、399年、百済(くだら)が倭国と通じているとして広開土王は百済を討つ事とします。調度その頃、倭国が朝鮮半島中南部まで進出し、新羅(しらぎ)が脅かされた(おびやかされた)ため、新羅は高句麗に救援を求めました。広開土王は新羅を救援する事とし、翌年50,000人の大軍を新羅へ派遣しました。城内に満ちあふれる倭軍は、高句麗軍が攻撃すると退却したので、これを追って任那(みまな)・加羅(伽耶諸国の事)に迫りました。ところが安羅軍(あらぐん/朝鮮半島南部にあった独立した勢力を持った小国)などが逆をついて、新羅の王都を占領しましたが、広開土王は安羅軍も打ち破り、その後新羅は高句麗に朝貢するようになりました。
奈良時代初めに成立した『日本書紀』では、倭国は朝鮮半島南部の伽耶の一部を任那(みまな)と称し、日本が統治する地域として任那日本府(みまなにほんふ)を置いたと記されています。そして先の広開土王碑には次のような一文があります。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡□(海)破百殘□□(加羅)新羅以為臣民
広開土王碑は、酒匂景信が持ち帰った拓本によって解読され、倭国が朝鮮半島南部を統治していたと言う『日本書紀』の記述を裏付けるものとして注目されましたが、上記の文章の□の部分は字が読めず、この文の解釈をめぐって論争が起こりました。通常、この文は上記のカッコ内の文字を補って下のように訳されてきました。
「百残(百済)と新羅は高句麗の属民であり、高句麗に朝貢していたのに、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民とした」
□の部分は、前後の語や全体の意味などから「海」と「加羅」という文字があてられましたが、この解釈に在日朝鮮人の学者・李進熙(り じんひ)などが反論しました。拓本は、石碑などの上に湿らせた紙を置き、ある程度乾いた時に墨を染みこませた「たんぽ」でたたいて字を移し取ります。あるいは紙を湿らさずに墨で紙上をこすって文字を移し取ります。メモ帳などに強く文字を書いた場合、そのメモをちぎった下の紙を、鉛筆でこすると上にあった紙に書かれていた文字が移し取られるのと同じような感じです。
ところが、李進熙は公開土王碑の「而倭以耒卯年・・」以降の部分は、酒匂が日本にとって都合が悪い文字を隠すために、石碑の文字を石灰で埋めたり削ったりして改竄(かいざん/不正に改める事)し、その後に拓本を取ったと主張したのでした。そして正しくは
百殘新羅舊是屬民由来朝貢而<後>以辛卯年<不貢因>破百殘<倭寇>新羅以為臣民
であり、「百殘(百済)と新羅は高句麗の属民であり朝貢していたが、辛卯年以降には朝貢しなくなったため、(高句麗の)王は百済、倭寇(わこう)、新羅を破って臣民とした」というのが正しい解釈であるとしたのでした。つまり彼らは、帝国陸軍が碑文の都合が悪い部分を改竄してから拓本を取り、日本にとって都合がよいように解釈し、5世紀に日本が朝鮮半島南部を統治していた根拠としようとしていると主張したのでした。百済や新羅を臣民としたのは倭国ではなく、高句麗であって、倭国衙朝鮮半島南部を統治した事実などないと主張したのでした。
しかし、この問題となった文の次には、「永楽6年(396年)、(公開土)王はまた軍を率いて百済を撃ち、多大な成果をあげた」とあり、これ以降は永楽6年以降の公開土王の活躍振りが記述されていくという構成になっています。先に挙げた倭国に関する記述(新羅が助けを求めてきたので公開土王は援軍を出し、倭軍を破ったという記述)は、これに続く文なのです。
李進熙が主張するように、朝貢しなくなった百済や新羅を攻めて臣民としたのが高句麗であったのならば、次に続く「また百済を攻めて多大な成果をあげた」と言う文とのつながりが不自然となります。朝貢しなくなったから攻めて臣民としたのに、なぜ再び攻めたのかノ理由が記されていません。
395年、公開土王は侵攻してきた百済軍を撃破して国境に城を築き、396年には百済に攻め込んでこれを破り、服属する事を誓わせています。もし帝国陸軍が解釈したように、これまで高句麗に従っていた百済や新羅が、391年に海を渡ってやって来た倭国の臣民となったとするならば、当然高句麗には裏切った百済や新羅を攻める理由ができます。そこで公開土王は395年百済と戦い撃破し、396年に再び百済を攻めて服属を誓わせたとすると、碑文のつながりは不自然ではなくなります。
2005年、酒匂が作った拓本以前に作られた写しが中国で発見され、その内容は酒匂の拓本と一致したと発表され、翌年には中国社会科学院が、1881年に作られた最古の拓本と酒匂の拓本をパソコンに取り込んで詳細に調べた結果、内容が完全に一致したと発表したのでした。これにより日本による改竄説は否定されました。ただ、これが倭国が『日本書紀』に記されているように、任那日本府を置いて朝鮮半島南部を支配していたという証(あかし)になるという訳ではありません。
広開土王碑では好太王の業績を誇張するために、王が打ち破ったとする倭の勢力をかなり強大に誇張して記していると言う意見があるからです。また、『日本書紀』にもそういった誇張した記述があるからです。明治以降、朝鮮半島南部の地域を任那と呼び、任那日本府を置いて統治したとされてきましたが、任那日本府の実態が曖昧(あいまい)であるため、最近の教科書では「任那」は「伽耶(任那)」と表記され、カッコ書きとなっているようです。
伽耶(現在でもこう呼ばれています)地域では、1970年以降発掘が進み、伽耶の中心勢力であった金官伽耶国(きんかんかやこく)の、王墓である大成洞古墳(テソンドンこふん)が発見されました。ここからは様々な副葬品が出土しましたが、その中に倭国との関係を示す物がありました。
それは巴型銅器(ともえがたどうき)です。これは日本では西日本を中心に発見された小さな青銅器で、弥生時代の後期から古墳時代にかけて作られた物です。魔除として身を守る盾(たて)に取り付けられたと考えられており、佐賀県の吉野ヶ里遺跡などでは鋳型が発見されています。
先の広開土王碑の倭国に関する碑文、『日本書紀』の任那日本府を置いたという記述、日本固有の前方後円墳が朝鮮半島で次々と発見されている事、その古墳の出土品に倭国との関わりを示す物が出土している事、『三国志 魏書東夷伝倭人条』に、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく/弁韓12ヶ国の1つ。現在の慶尚南道金海釜山)であると記されている事などから、倭国は伽耶の地域に軍事的あるいは経済的影響力を持っていたのは事実だと考えられています。
しかしこれは『日本書紀』が言う任那日本府のようなものではなく、ギブアンドテイクの関係であったと考えられます。伽耶は鉄の産地であり、当時の日本では鉄は権力の象徴であり、大変貴重な物でした。しかし当時の日本には製鉄の技術はなく、伽耶からの輸入に頼っていました。一方、伽耶は北の高句麗との争いに倭国の軍事支援を必要としていたのです。つまり伽耶の鉄が欲しい倭国と、軍事支援が欲しい伽耶が手を結んだという訳です。だからこそヤマト王権が同盟国に配ったと考えられている巴銅器が大成洞古墳から出土したのではないでしょうか。
5世紀になると、再び倭国に関する記述が中国の書物に見られるようになります。『宋書倭国伝(そうじょ わこくでん)』によると、倭の五王(わのごおう)が宋(そう/中国の古代王朝)に朝貢し、倭国王として冊封を受けたとあります。当時の中国は、自分達が一番偉いという考えを持っており、中国人以外は未開の野蛮人とさげすんでいました。こういった考えを中華思想と呼び、周辺諸国に臣下となるように勧め、それに応じた国家の代表に「国王」という称号を与え、朝貢という形で貿易を行いました。
倭の五王とは、讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)の五人の王であり、421年に讃が宋へ遣使を送った事により宋との交易が始まりました。讃の死後には弟の珍が王となり、珍は倭国王とともに、朝鮮半島の百済の軍事支配権の承認を宋に求めましたが、宋は倭国王のみを承認しました。また興の後に王となった武は、倭の国王だけではなく、百済、新羅、任那(みまな)、加羅(かや)など朝鮮半島南部での軍事的な権限を持つと称していたと『宋書倭国伝』には記されています。倭の五王は、朝鮮半島、特に百済との関係を強めることで、大陸の先進文化を取り入れ、地方豪族に対する支配権を強めていきました。
1968年、埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)で、鉄製の剣ややじり、鎧(よろい)などが発見され、10年後の1978年に鉄剣に文字が刻まれている事が分かりました。文字は115文字あり、この地のヲワケという人物が、ヤマト王権のワカタケル大王に仕えたという内容の文章が刻まれていたのでした。ヲワケという人物は、杖刀人(じょうとうじん/武力を以て仕える者)の首(おびと/かしら)としてワカタケル大王に仕え、この剣を作らせたと刻まれています。ワカタケルとは、倭の五王の最後の王である武の事です。また、熊本県の江田船山古墳からも、「天下を治めるワカタケル大王に仕えたムリテがこの大刀を作った」と、銀象嵌(ぎんぞうがん/線彫りにした溝に銀を埋め込む技法)された剣が発見されています。
なお、大王(おおきみ)とは、天武天皇(てんむてんのう/在位:673年-686年)が「天皇」という名称に改める以前の敬称です。
天皇という呼称が使われだす以前の6世紀頃には、天皇の正室を「大后」と呼び、これは「おおきさき」と読まれます。そしてこの「大后」に対する「大王」であるため、この大王は「おおきみ」と読むのが妥当であると言われます。しかし、それ以前の倭の五王の時代である5世紀頃の「大王」は、「だいおう」と読むのが妥当であるとされています。
また、豪族(ごうぞく)とは、地方に土着(どちゃく/ずっと住んでいる)した有力者の事で、群馬県の榛名山(はるなさん)の麓(ふもと)にある三ツ寺T遺跡(みつでらいちいせき)で、日本で初めて古墳時代の豪族の館が発掘されました。5世紀後半から6世紀初めのころの物と考えられ、周囲に濠をめぐらせた館は86メートル四方と推定されています。さらにここからは鞴(フイゴ/鉄を精錬する際に使う送風機)の一部も出土しており、ここでは鉄の加工も行われていたと考えられています。土木技術や鉄の加工といった最先端技術は朝鮮半島から伝わりましたが、関東などの地域ではヤマト王権から伝えられましたので、地方の豪族達はヤマト王権の傘下に入る事によってこれらの先端技術を入手できたのです。
4世紀末から6世紀にかけて、朝鮮半島、特に百済から技術者や、朝鮮半島での戦乱から逃れるための亡命者が渡来人(とらいじん)として多く倭国にやって来ました。ヤマト王権は友好国である百済からの亡命者を受け入れました。また「今来才伎(いまきのてひと)」と呼ばれた技術者は、『日本書紀 雄略紀(ゆうりゃくき/雄略天皇:在位456年-479年の治世の記述)』によれば、百済から献上された人々でありました。彼らは高度な知識と技術を以てヤマト王権に仕え大いに活躍しました。
渡来系氏族としてまず有名なのが秦氏(はたうじ)です。奈良時代に記された『日本書紀』には、応神天皇(おうじんてんのう/在位:270年-310年)の時代に、中国の秦(しん)の始皇帝(しこうてい/在位:前246年-前210年)の子孫と称する弓月君(ゆつきのきみ)が、朝鮮半島の百済(くだら)から120人を従えて渡来したと記されていますが、本当は朝鮮半島の新羅(しらぎ)の出で、渡来した次期も5世紀以降だと考えられています。
百済の建国は346年とされていますので、『日本書紀』が言う、応神天皇の時代(270年-310年)に弓月君が百済から来たとなれば矛盾が生じます。
注) 朝鮮半島の国定教科書では、建国神話に基づいて百済の建国は紀元前18年とされています。つまり建国を少しでも古くするために、神話を採用しているのです。
そもそも初代天皇とされる神武天皇(じんむてんのう)の在位が、紀元前660年からとされていますが、これは当時暦(こよみ)がなかった日本が、中国の当時最先端とされた暦法に基づいて逆算し、推測したものなのです。初代天皇の在位期間を逆算して推測したため、つじつまを合わせるために初期天皇の中には在位100年を超す天皇も現れ、初期天皇の在位期間は怪しいものなのです。そもそも、初期の天皇自体が神話であり実在が疑われており、6世紀以前の『日本書紀』の記述には曖昧(あいまい/はっきりしない)な点が多いのです。
『日本書紀』には応神3年(272年)の事として、
百済辰斯王失礼於貴国天皇 故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰 嘖譲其无礼状 由是百済国殺辰斯王 以謝之 紀角宿禰等便立阿花為王而帰
という記述があります。これは、「百済の辰斯王が貴国(倭国)の天皇に無礼を働いたので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰らを遣して(つかわして)、その無礼を叱責した。百済の民は辰斯王を殺して謝罪した。紀角宿禰らは、阿花(アシン)を王にたてて帰国した。」と言う意味です。
つまり応神3年に百済王・辰斯王(しんしおう/チンサワン)が死んだと言う事です。12世紀に記された、朝鮮三国時代から新羅が統一するまでの歴史を記した『三国史記(さんごくしき/朝鮮半島に現存する最古の歴史書)』によると、辰斯王が死んだのは392年とされ、前述の広開土王碑では、辰斯王が死んだ年の事として先に挙げた「百残(百済)と新羅は高句麗の属民であり、高句麗に朝貢していたのに、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民とした」という記述があるのです。両者に1年の誤差はありますが、辰斯王が死んだのは391年、もしくは392年という事になり、これから逆算すると応神元年は389年か390年という事になり、『日本書紀』が270年と伝える応神天皇の時代とは120年も誤差がある事になるのです。このような事から、秦氏らが日本へやって来たのは5世紀以降と考えられるのです。
秦氏は日本全国各地に分布し、氏族人数では古代豪族中で最大だと言われます。「はた」という名前の由来は、機織(はたおり/機と呼ばれるもので布を織る事)の技術を広めた事から「機(はた)」と呼ばれたとか、出身地の波旦(はたん)に由来するとか様々な説があります。秦氏は山背国(やましろのくに/京都府南部/平安時代に「山城」と改名)、現在は映画村で有名な太秦(うずまさ)を拠点としました。
国宝第1号である弥勒菩薩(みろくぼさつ)がある京都最古の広隆寺(こうりゅうじ)は、秦氏の氏寺(うじでら/一族繁栄を願って建てた寺)です。
また山背国紀伊郡(京都市伏見区)にも拠点を置き、全国に4、5万とも言われる末社を持つ、稲荷信仰の総本山・伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)も秦氏が氏神として祀った(まつった)と言われます。
秦氏はヤマト王権の財政を司った(つかさどった/担当した)とも言われ、土木や機織り(はたおり)、養蚕(ようさん/かいこの飼育)や灌漑(かんがい/農業に必要な水を引いてくる事)などで活躍し、後の平安遷都(せんと/都を移す事)時にはその財力を使って大いに貢献したとも言われます。秦氏の末裔(まつえい/子孫)として有名なのは、薩摩(さつま)の島津氏(しまづし)、対馬(つしま)の宗氏(そうし)、四国の長曾我部氏(ちょうそかべし)などがいます(ただし長曾我部氏については「蘇我氏」の子孫説もあります)。
秦氏と並んで、渡来系氏族として有名なのが漢氏(あやうじ)です。『日本書紀』の応神天皇20年の条に「倭漢直の祖である阿智使主、其の子である都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した」とあります。応神天皇の時代(在位は270年-310年とされますが、上述の理由から5世紀頃)に、朝鮮半島から渡来した、中国後漢王朝(25年-220年)の末裔と称する人達が次々と日本へ渡来し、これらの人々を「漢人(あやびと)」と呼びました。
阿智使主(あちのおみ)とは、中国後漢の12代皇帝・霊帝(れいてい/在位:167年-189年)の曾孫(ひまご)とされる人物で、彼らは渡来して奈良の飛鳥(あすか)を拠点としました。
また、後漢の最後の皇帝である献帝(けんてい)の子孫と称する人達も渡来し、河内国(かわちのくに/大阪府東部)を拠点としました。これら後漢の子孫と称する渡来人は漢人(あやびと)と呼ばれましたが、飛鳥を拠点とする阿智使主の流れをくむ人達は東漢氏(やまとのあやうじ)、河内国を拠点とした人達は西漢氏(かわちのあやうじ)と呼ばれ区別されました。なお、東漢氏は倭漢氏とも表記されました。
漢氏がもたらした物に、製鉄の技術、綾織(あやおり/色々な模様が浮き出るように織られた織物)、須恵器(すえき)と呼ばれる土器の生産技術などがあります。これまで土器は800度ほどの低温で焼いていたためもろく壊れやすかったのですが、すえきは轆轤(ろくろ)を使って成形し、窯(かま)に入れて焼く事により1,000度もの高温で焼く事ができるようになり、硬くて丈夫な物が作られるようになりました。大阪府南部に陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)があります。ここはヤマト王権が焼き物を作らせた窯跡とされており、窯の跡が1,000ヶ所以上もあります。
東漢氏の子孫として有名なのが、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)です。征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として東北地方の蝦夷(えみし)を制圧した人物です。そして京都の観光地として有名な清水寺は、坂上田村麻呂に関わり深い寺なのです。創建者は延鎮(えんちん)という奈良の僧とされていますが、坂上田村麻呂が妻の病気回復のために鹿を狩りに行った際、延鎮に殺生(せっしょう)をとがめられ、そこから延鎮と交流が産まれ、田村麻呂は自宅を寺として寄進したと伝わっています。なお、東漢氏はその活躍が記録にも残っていますが、西漢氏についてはよく分かっていません。
ところで、「漢氏」をどうして「あやうじ」と読むのでしょうか。彼らは朝鮮半島南部にあった伽耶(かや)諸国の1つである安羅(あら)から渡来し、「あら」が「あや」になったとする説があります。そして後漢の皇帝の子孫である事から「漢」の字をあてたとするのです。
これは私の想像ですが、秦氏は秦の始皇帝の子孫と称し、機織(はたおり)の技術を広めたので、秦国の「秦」を取って「はたおり」の「はた」と読ませ、漢氏は後漢の子孫と称し、綾織(あやおり)を広めたので、後漢の「漢」を取り「あやおり」の「あや」と読ませたのではないでしょうか。
同じく応神天皇の時代に王仁(わに)という人物が渡来したと言われます。『日本書紀』、『古事記』によると、応神天皇の求めに応じた百済王が、王仁に論語(ろんご)10巻と、千字文(せんじもん)1巻を持たせて献上したとあります。一族は河内国を拠点とし、文書の作成など文字に関わる仕事を担当したため、西文氏(かわちのふみうじ)と呼ばれました。東漢氏の中にも文書関係の仕事に就く者もおり、東文氏(やまとのふみうじ)と呼ばれましたので、河内を拠点とした史は西文氏として区別されたのです。これら東文氏、西文氏は東西史部(やまとかわちのふひとべ)と称されました。
王仁がもたらした論語とは、中国で起こった思想である儒教(じゅきょう)の教科書であり、千字文とは、漢字の教科書です。ただし、千字文は6世紀初め頃に作られた物で、5世紀頃に渡来したと考えられる王仁の時代には存在していません。そもそも王仁は、『日本書紀』、『古事記』など日本の書物のみに登場する人物です。朝鮮の歴史書などにはいっさい登場せず、それと思われる人物すら登場しないのです。従って『日本書紀』執筆時に後世の複数の人物を組み合わせ、架空の人物として創り出されたと思われ、その存在は非常に疑わしいものです。
ところが、近代になって日本から王仁の事が朝鮮半島にも知られるようになると、それまで存在すら知らなかった韓国が、王仁は日本に優れた文化を伝えてあげた韓国人であると教科書に記載し出し、毎年日本に朝鮮の優れた文化を教えたとして王仁を讃える祭を催し、なぜか墓や遺跡まで発見されたのです。架空の人物の墓がなぜ発見されるのでしょう。韓国はとかく歴史、特に日本との歴史を改竄するのが得意で、従軍慰安婦など、ありもしないことをでっち上げるのが得意なようです。
王仁の墓や遺跡の真偽はともかく、こういった渡来人が須恵器を作る技術、鉄の生産技術、馬や馬具、鋲(びょう/頭の大きなクギのような物)で物と物を止める技術、金メッキの技術、土木技術などの技術を以てヤマト政権に仕え、日本に技術や文字などを伝えたのは事実です。
5世紀頃には、ヤマト王権は大王を中心とする支配体制を強化し、豪族や人民を支配する体制を整えていきました。それが氏姓制度(しせいせいど)と部民制(べみんせい)です。
氏姓制度とは、大王(天皇)とのつながりや、ヤマト王権に対しての貢献度に応じて、氏(うじ)のトップである氏上(うじのかみ)に姓(かばね)と呼ばれる、王権における地位を表す称号を与え、それに応じた職務を与え、豪族達をヤマト王権の一員として管理支配する体制です。この姓(かばね)は氏上に与えられましたが、息子などの近親者に世襲(せしゅう/代々引き継ぐ事)が許され、氏姓の制(うじかばねのせい)とも呼ばれます。
「氏」というと、鈴木氏や田中氏のように今でも使われる言葉です。これは「し」と読み、田中氏なら「田中さん」といった敬称として使われます。つまり今では名字に付けて敬称として使っています。しかし氏姓制度で言う「氏」は「うじ」と読み、同じ先祖を持つ一族、つまり血筋を指します。
今でも「氏素性(うじすじょう)の分からぬ奴」などという言葉がありますが、これは「どこの誰だか分からない」という意味です。また「氏(うじ)より育ち」という言葉もあります。これは「どこに生まれたかよりも、どう育てられたかが大事」という意味です。これらからも氏(うじ)が血筋を表す事が分かります。
また、氏(うじ)と名字は別物です。氏(うじ)は大王(天皇)から与えられるか、許可を得て名乗るもので、名字は自分達が勝手に付けたものです。氏(うじ)は、単に血のつながりがある一族をあらわすのではなく、大王(天皇)に臣従(しんじゅう/家来として付き従う事)する事を誓い、大王に奉仕する事を義務とした一族なのです。従って氏(うじ)を与えられる(あるいは許可される)という事は、大王(天皇)の臣下となる事を意味するのです。そして大王に臣従し、奉仕する事を誓う事の見返りとして、王権内での職務と地位を与えられ、出自や地位に応じた姓(かばね/後述)を与えられたのです。
氏(うじ)で一番有名なのは源氏(みなもとうじ)と平氏(たいらうじ)ではないでしょうか。通常これは「げんじ」、「へいし」と読んでいますが、これは敬称であって血筋を言う場合は「みなもとうじ」と読むのが正しいのです。そしてこれらは天皇から与えられた氏(うじ)であり、名字ではありません。
源頼朝(みなもとの よりとも)の妻である北条政子(ほうじょう まさこ)の氏(うじ)は平氏(たいらうじ)です。平(たいら)という氏(うじ)を持つ一族でしたが、拠点とした地名をとって「北条」という名字を名乗ったのです。そして源頼朝の氏(うじ)は源氏(みなもとうじ)ですが、政子が頼朝と結婚したからといって、政子の氏(うじ)である平(たいら)が源(みなもと)に変わる事はありません。血筋は結婚したからと言って変わるものではないからです。そして公文書には名字ではなく氏(うじ)を署名する事になっていました。
では、氏(うじ)と名字はどう見分けるのかと言うと、「の」が入るかどうかで見分けられます。例えば、平清盛は「たいらの きよもり」と言いますが、平と清盛の間に「の」が入っています。従って「たいら」は氏(うじ)である事がわかります。
一方、北条政子は「ほうじょう まさこ」であり、「の」は入りませんので「北条」は名字であると分かるのです。つまり氏(うじ)の後に付く「の」は、所属を表すのです。北条政子の場合、平という一族に属する、北条という地名を名字とした政子という事になります。
では、なぜ氏(うじ)や名字といった2つもの名前があるのかというと、氏(うじ)はヤマト王権に対してなんらかの貢献をしている者にしか与えられませんので、初めは氏(うじ)を持つ者はそんなにたくさんいなかったのですが、一夫多妻(いっぷたさい/複数の妻を持つ事ができる)であった古代、母親が違う男子がたくさん生まれ、その子らも同じ氏(うじ)を名乗り、それぞれに家庭を持ちます。そしてそこにも一夫多妻によって母親が違う子供達がたくさん生まれ、同じ氏(うじ)を持つ者がどんどん増え、特に有力者などは平安時代になると朝廷(ちょうてい/天皇が政務を行う所。政府)内でたくさんの同じ氏(うじ)を持つ者がいる事になったのです。
しかし、平安時代頃になると同じ氏(うじ)を持つ一族でも格差が生じ、氏(うじ)という大きなくくりではなく、家族という小さい単位で区別する必要が出て来たのです。例えば、同じ藤原氏(ふじわらうじ)という氏(うじ)を持つ一族の中でも、出世する家系とそうでない家系があり、うちはあそことは違うという事で、本家筋などは屋敷がある地名を取り、例えば近衛家(このえけ)などのように家名(かめい)を使い出すのです。そして本家筋ではない多くの藤原さんも、回りがみな藤原だとややこしいので、官職(かんしょく/朝廷における職)の名前や地名の一部と、藤原の出であるという事を示すために「藤」の字と組み合わせ、「佐藤」などとし、名字としたのです。つまり天皇から与えられた(もしくは許可された)氏(うじ)から分家して生まれたものが、あるいは氏(うじ)を持たない者(地方の武士など)が地名などから勝手に付けたものが名字なのです。
注) 2文字あるいは3文字で、最後に「藤」という漢字が付き、これを「とう」と読む名字(佐藤、斉藤、伊藤など)の氏(うじ)はみな「藤原氏(ふじわらうじ)であり、みな藤原鎌足(ふじわらの かまたり)を祖とする同族です。
このように、氏(うじ)は血縁を表し、古代においては氏(うじ)が1つの社会の構成単位となりました。氏(うじ)の名は、蘇我氏(そがうじ)、巨勢氏(こせうじ)、吉備氏(きびうじ)などのように居住地に由来するもの、物部氏(もののべうじ/軍事担当)、中臣氏(なかとみうじ/神事・祭祀担当)、忌部氏(いんべうじ/神事・祭祀担当)、土師氏(はじうじ/古墳造りなど担当)などのように、職掌(しょくしょう/職業の内容)名に由来するものがあります。
氏(うじ)一族の長は氏上(うじのかみ)と呼ばれ、そのもとに氏人(うじびと/家族・親戚)が属しました。氏(うじ)が所有する私有地である田荘(たどころ)は皆で管理し、一族の神である氏神(うじがみ)を祀りました。また氏(うじ)を持つ豪族には、部民(べのたみ/下の 部民制 参照)がヤマト王権から与えられ、部民は氏(うじ)に従って労働し、貢ぎ物を納める義務を負っていました。
そして、氏(うじ)の構成メンバーの最下層として奴隷(どれい)である奴婢(ぬひ)がいました。奴婢は氏上や氏人の各家におり、売買や相続の対象となりました。
姓(かばね)とは、ヤマト王権が豪族達に与えた、王権におけるその氏(うじ)の政治的地位、家柄(大王との関係)を示すもので、氏(うじ)の首長である氏上(うじのかみ)に与えられ、世襲(せしゅう/代々受け継ぐ事)が許されました。姓(かばね)は氏(うじ)の後に付けて呼ばれました。そしてこの姓(かばね)はおおきく2つに分ける事ができます。
<氏(うじ)の出自に関連する姓(かばね)>
【 臣(おみ) 】
蘇我氏(そがうじ)、葛城氏(かつらぎうじ)、平群氏(へぐりうじ)、巨勢氏(こせうじ)などのように、畿内(きない/都に近い地域)周辺を支配した豪族で、もとは大王に並ぶ地位であった者達に与えられたものです。支配地の地名を氏(うじ)としています。「蘇我臣」であれば「そがのおみ」と読みます。また臣の中で最も大きな力を持つ者は大臣(おおおみ)とされました。これらの氏族は、『日本書紀』では天皇の子孫とされています。
【 連(むらじ) 】
大伴氏(おおともうじ/軍事担当)、中臣氏(なかとみうじ/神事・祭祀担当)、物部氏(もののべうじ/軍事担当)、忌部氏(いんべうじ/神殿、宮殿造営担当)、土師氏(はじうじ/古墳造り担当)らのように、その職掌を氏(うじ)とし、大王に従属する立場の豪族達に与えられたものです。「大伴連」であれば「おおとものむらじ」と読みます。連の中で最も大きな力を持つ者は大連(おおむらじ)とされました。これらの氏族は、『日本書紀』では天皇以前の神々の子孫とされています。
大臣と大連は、大王を補佐して王権の中心となった者達です。
【 君(きみ) 】
地方の有力豪族の中でも、天皇の子孫に与えられたものです。例えば上毛野(かみつけぬの/群馬県)を支配した毛野氏(けぬうじ)は、「上毛野君(かみつけぬのきみ)」と呼ばれました。
<職掌に関連する姓(かばね)>
【 伴造(とものみやつこ) 】
伴(とも)の統率者、つまりはリーダーです。「造」は統率者、リーダーと考えて下さい。伴とは、特別な技能をもってヤマト王権に仕えた者達です。伴は後に部(べ/下の「 部民制」を参照して下さい)に再編され、伴造は部の統率者とされました。伴造には、先の渡来人の項で解説した秦氏(はたうじ)、東漢氏(倭漢氏/やまとのあやうじ)、西文氏(かわちのふみうじ)などの渡来人、弓を作る専門集団を率いた弓削氏(ゆげうじ)、犬を訓練して警護にあたる集団を率いた犬養氏(いぬかいうじ)、宮中での調理を担当した膳氏(かしわでうじ)などの氏(うじ)がおり、軍事を担当した大伴氏(おおともうじ)や物部氏(もののべうじ)、神事・祭祀を担当した中臣氏(なかとみうじ)や忌部氏(いんべうじ)なども伴造にあたります。
なお、伴造は地位を表すものですので、氏(うじ)の後に付けて称されたものではありません。尊称として氏(うじ)の後に付ける姓(かばね)として与えられたものは、連(むらじ)、直(あたい)、公(きみ)などであり、倭漢直(やまとのあやのあたい)などと称されました。
【 国造(くにのみやつこ) 】
「造」はリーダーだと書きました。従って国造は国のリーダーです。ただし、ここで言う「国」とは、地方の行政単位としての国であり、日本国の事ではありません。この頃の国は豪族が支配する範囲と考えるのが適切です。ヤマト王権に服属した地方の豪族がヤマト王権から任命されてその地方を統治しました。国造も地位を表すものですので、氏(うじ)の後に付けたものではなく、上毛野国造(かみつけぬのくにのみやつこ)のように、国名に付けて使いました。
全国各地の国造には直(あたい)の姓(かばね)が与えられました。ただし、先に説明した「君」に出て来た毛野氏のように、国造であっても天皇の子孫とされる者には「君」の姓(かばね)が与えられました。
その他、職掌に関連する姓(かばね)には、村主(すぐり/古代朝鮮語で村長の意で、多く渡来系氏族に与えられました)、首(おびと/地方の小豪族に与えられました)、稲置(いなぎ/屯倉-みやけ-の長官)、画師(えし/宮殿などの彩色を担当)、薬師(くすし/医者)、史(ふひと/記録、文書を司る)などがあります。
6世紀頃になると、伴造(とものみやつこ)が率いた特定の技能を持った集団である伴(とも)は、部(べ/訓読みでは「とも」とも読みます)へと再編成されていきました。部(べ)とは、ヤマト王権が民衆を統治するための組織・集団です。この頃の一般民衆は、大王(天皇)や皇族、有力豪族のものとされ、これらの民衆はそれぞれ支配者のもとで労働し、産物などを献上しました。これら一般民衆とともに伴も部に再編成され、伴を率いていた伴造は部を率いるリーダーとなりました。そして部は以下のように分類されます。
【 品部(ともべ) 】
一定の技術をもって王権に奉仕し、製品を貢納する者達です。伴造に率いられて当番制で出仕しました。馬飼部(うまかいべ/馬の飼育・調教)、史部(ふひとべ/記録・文書)、鳥取部(ととりべ/鳥の飼育)、鍛冶部(かぬちべ/鉄製品生産)、錦織部(にしごりべ/錦織生産)などがありました。
【 名代(なしろ)・子代(こしろ) 】
伴造が率いる品部の一種ですが、皇族に奉仕・貢納する者達です。もともとは有力豪族から出仕させていた舎人(とねり/皇族の身近に仕えた者)や、膳夫(かしわで/調理を担当)、采女(うねめ/女官)などを部としたものです。穴穂部(あなほべ)など皇族名を部の名称としています。なお、名代、子代の区別はよく分かっていません。
【 部曲(かきべ) 】
中央の有力豪族私有の民です。大伴ぶ(おおともべ)、蘇我部(そがべ)など豪族の氏(うじ)を付けて称されました。
このように、ヤマト王権に服従した地方豪族が有する民衆や技術者、中央の有力豪族の有する民衆も、部に再編する事により、それらはみなヤマト王権に服属した者達である事をこの部民制によって示したのでした。