古刀の部-平安時代
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ここでは平安時代の日本刀の歴史を解説します。刀剣の発達はその時代の世相を反映しますので、刀剣をより深く理解するためには歴史の知識も必要です。従って「日本刀の歴史」の各時代解説の冒頭ではその時代の歴史的背景を簡単に解説しています。つまりどういう時代であったかを簡単に解説しています。
また、平安時代を前期、中期、後期の3つに分けて解説していますが、これは平安時代(794年-1185年)391年を単純に3で割った130年を基準とし、その130年前後の天皇の治世で分割しています。従って他のサイトや書籍の解説と区分が少し異なる場合があるかもしれませんが、このサイトでは姉妹サイトを含めこの区分で統一しています。
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《 目 次 》
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桓武天皇(延暦十三年/794年)-醍醐天皇(延長8年/930年)
都が奈良から京都へと移り、新しい政治体制が築かれていく時代です。
奈良時代の終わりに即位した桓武天皇は、新しい政治体制のためにさまざまな改革を行いました。延暦十一年(792年)、東北地方(陸奥国、出羽国)、佐渡国、西海道(九州)など、要所を除いて奈良時代の地方軍事組織であった諸国の軍団を廃止し、健児の制(こんでいのせい)に変更しました。これは郡司の子弟と百姓のうち、20歳から40歳までの弓馬を良くする者を選抜して各国の兵庫、国府の守備にあたらせたもので、国ごとにその人数は異なり、20人から200人ほどでした。これは軍団兵士が国司に私的利用されることが多かったために弱体化したこと、軍事組織の軽量化を図ったものでしたが、これにより一般百姓の徴兵がほぼなくなりました。
奈良時代末には、朝廷は東北地方の蝦夷(えみし)追討の軍を度々派遣しましたが大敗してしまいました。そして延暦二十年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)が征討に向かい、一応の勝利を得ましたが、完全征討には至りませんでした。そこで桓武天皇はまた蝦夷(えみし)征討軍を派遣して完全征討を果たそうとしましたが、都の造営に加え、これまでの追討軍にかり出された農民は疲弊しきっていました。そこで臣下の進言により桓武天皇は征討軍派遣を断念し、朝廷軍の侵攻は宮城、秋田の中程で止まったのでした。
諸国の軍団を廃止したことにより、平安初期には次第に治安が悪化していきました。また、蝦夷(えみし)征討によって朝廷に従うようになった俘囚(ふしゅう)は全国に強制移住させられましたが、その待遇への不満が高まって特に関東地方で俘囚の反乱が多発しました。また国衙(こくが/県庁)の過酷な税徴収に対し、都へ搬送中の税を強奪する強盗が多発し、ますます関東地方の治安は悪化していきます。
なお、この時代は東北の蕨手刀を除いて引き続き直刀の時代です。
この時代の刀剣を知る上で大変重要な物が京都の鞍馬寺(くらまでら)に伝わっています。それが坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)佩用(はいよう)と伝わる大刀(たち)です。この大刀は切刃造りの直刀で、刃長二尺五寸三分(76.6センチ)で刃文は直刃になっています。この大刀には堅固な武用の黒漆拵(こくしつこしらえ)が付いており、官給刀であったと考えられています。これにより平安時代になっても、やはり直刀を使用していたことが分かります。
伝 坂上田村麻呂大刀 |
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徳間書店「日本刀全集」より |
毛抜形蕨手刀(けぬきがたわらびてのかたな)とは、蕨手刀が進化したものです。茎(なかご)が直接柄(つか)である共柄(ともづか)には変わりはありませんが、茎の鐔(つば)寄りを広くした長円形の透かしが打ち抜かれています。この長円形の透かしが、後に形が整って毛抜き(ヒゲなどを抜く道具)を2個くっつけたような形にくり抜かれるようになり、後にこういった透かしがある刀をこのように呼ぶようになりました。
この毛抜形蕨手刀は蝦夷(えみし)が蕨手刀を改良したもので、北海道網走市のモヨロ貝塚遺跡から一振(刃長一尺八寸/54.6センチ)、岩手県陸前高田市岩井沢から一振(刃長一尺二寸二分/37センチ)、岩手県中尊寺から一振(刃長一尺七寸二分/52センチ)、岩手県から一振(刃長一尺三寸二分/40センチ)、合計四振のみが発見されています。
この長円形の透かしの、鐔寄りの少し広くなった所に人指し指をかけて握り、他の指を長円形の部分に掛けることにより、より強く握ることができます。また茎が直接柄(つか)になっている共柄では、敵に打ち付けた時にかなりの衝撃が直接手に伝わりますが、茎に透かしを入れることにより衝撃が分散し、衝撃を和らげる効果があると言われます。そしてこれは馬に乗って片手で刀を扱う蝦夷(えみし)の工夫であると言われますが、蕨手刀で解説したように、蕨手刀は馬に乗る者が使用したのでは無く、徒歩の者が使用したと考えられます。片手打ちの様式であるから馬に乗って使用するとは限りません。こういった刀はむしろ地上におけるゲリラ戦において威力を発揮すると思います。
また刃長は蕨手刀と大差ありません。従ってこのような短い刀では馬上で長寸の直刀と戦っても決して有利ではなく、また地上から攻撃してくる徒歩の者に対しても、このような短い刀では戦えません。従ってやはり徒歩の者がゲリラ戦に使用したと考えます。
毛抜形蕨手刀(北海道モヨロ貝塚出土) |
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毛抜形蕨手刀(中尊寺蔵) |
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毛抜形蕨手刀(陸前高田市) |
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毛抜形蕨手刀(岩手県内出土) |
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徳間書店「日本刀全集」より |
中尊寺蔵の毛抜形蕨手刀は、蝦夷(えみし)の総指揮官であった悪路王(あくろおう/アテルイ)佩用(はいよう)と伝え、純度の高い鉄をかなりおおまかに鍛えたもので、蕨手刀のT型に見るうずみやきが施されています。
毛抜形刀(けぬきがたのかたな)とは、毛抜形蕨手刀がさらに進化したもので、蕨の装飾はなくなり、毛抜形蕨手刀では長円形の透かしであったものが、長方形で両端を丸止めとした後の毛抜形の透かしが打ち抜かれていますが、刃長はやはり蕨手刀と大差なく二尺に満たないものです。
毛抜形刀(北海道出土) |
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毛抜形刀(秋田県出土) |
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徳間書店「日本刀全集」より |
毛抜形刀は、北海道江別市から一振、秋田県五城目から一振発見されているのみで、北海道出土の毛抜形刀は平造りで強い反りを持ち、柄(つか)先に蕨の突起を残しており、毛抜形太刀への過渡的なものと考えられます。なお、この毛抜形刀は先が欠損していますが、もし欠損していなければ刃長は二尺を越えていたと思われます。またその共柄(ともづか)には縦三寸(9.1センチ)、横五分(1.5センチ)の長方形の透かしが打ち抜かれています。
秋田県出土の毛抜形刀は刃長一尺六寸五分(50センチ)で先反りとなり、柄を鐔元で急激に反り上げてもはや蕨の突起は無く、長方形の両端を丸止めとした毛抜きの透かしが施されています。秋田県の毛抜形刀は岩野山古墳群から出土しており、同時に須恵器(すえき)などが出土しています。これらの須恵器の年代鑑定では元慶(げんけい/877年-885年)頃の物とされています。この頃には藤原保則(ふじわらの やすのり)が出羽国の長官に任じられ、反乱を起こしていた俘囚(ふしゅう)の鎮圧に向かった頃で、蝦夷(えみし)や俘囚達はこのような毛抜形刀を使って戦っていたと考えられます。
朱雀天皇(延長8年/930年)-後冷泉天皇(治暦4年/1068年)
平安初期には、菅原道真がもはや危険を冒してまで遣唐使を派遣する意味はないとして遣唐使が廃止され、日本の実情に合わなくなってきた唐風の政治体制の改革に迫られました。そして平安中期になると朝廷の財政は逼迫し、満足に給料を支払えないまでに陥りました。律令体制においては、土地と人民は天皇のものとされ、土地の私有は認められませんでした。そこで戸籍を作り、一定の年齢に達すると土地を貸し与えて耕作させ、収穫物から税を納めさせていました。つまり人に対して税が課せられたのです。しかし収穫物以外の重税に疲弊して土地を放棄して逃走する者が頻発したのです。こうなると逃走した者からは税が徴収出来なくなり、また男の子が産まれても、税が軽い女の子と偽って登録する偽籍が横行し、税収が激減したのです。そこで朝廷は有力貴族や寺社に土地の私有を認め、一定の税を納めることを条件に、その土地から得られる収入を貴族や寺社が得ることを認めたのでした。この貴族や寺社の私有地を荘園(しょうえん)と呼びます。
律令体制が崩壊したこの頃には、田堵(たと)と呼ばれる有力農民が現れます。彼らは主に土着の有力豪族であって、その財力を使って弱小農民を取り込んで大規模な農業経営を行いました。律令制が崩壊したとは言え、口分田(くぶんでん)として貸し与えられた土地は国家に返却する必要は無く、税を納めればそのまま耕作は可能でした。しかし耕作できない者もおり、こうした土地を勝手に買収して大規模化していったのです。田堵はこれら勝手に取り込んだ土地の所有権を明確にするために、これらの土地に自らの名を冠しました。これを名田(みょうでん)と呼びます。こうして大規模な名田経営を行う田堵は大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれました。
皇位継承のために天皇などはたくさんの子をもうけましたが、こういった皇族にも相当する俸給を与えなければならないのですが、これがかなりの負担になっていたのです。そこで皇族を減らす手段として臣籍降下(しんせきこうか)を行いました。これは、皇族に対して天皇が氏(うじ)・姓(かばね)を与え、皇族ではなく天皇の臣下とするもので、源氏や平氏がその例です。皇族には氏(うじ)などはなく、氏(うじ)を与えられるという事は臣下に下ったことを意味するのです。
臣籍降下した者は、本人やその子くらいまでは上級貴族としてそれ相当の扱を受けましたが、孫くらいになると四位(しい)、五位(貴族と呼ばれるのは五位以上)の下級貴族とされ、武芸に秀でた者は朝廷内において軍事・警察部門に仕えましたが、没落する者も少なくありませんでした。
軍事・警察部門に仕えた貴族達は、職務がら武芸を磨く訓練を行いました。これらの貴族を軍事貴族と呼びます。そして諸説ありますが、この軍事貴族が武士の始まりであると言われます。つまり中央においては、武芸を以て仕える武官がいわゆる武士であり、弓や刀剣を所持する事が出来たのです。そして軍事貴族の中でも特に武芸に秀でた者は、治安が悪化していた関東地方諸国の地方長官(今で言う県知事)である、受領(ずりょう)として派遣されました。
注)当時に「武士」といった言葉があった訳ではなく、「兵の家(つわもののいえ)」、「兵(つわもの)」といった表現がなされていました。
平安初期には、東北地方で独自の生活スタイルを持ち、朝廷に服属することを拒否していた蝦夷(えみし)征討に一応の成果を収めた朝廷は、俘囚(ふしゅう/服従したえみしをこう呼びます)を関東地方をはじめ全国に強制移住させていました。しかし待遇に不満を持つようになった俘囚達が、特に東国で反乱を起こすようになり、また国衙(こくが/県庁)の過酷な税徴収に不満を持った者達が盗賊化し、都へ搬送中の税を強奪する事件が多発し、東国は治安が悪化していたのです。そこで朝廷は、これらに対応するために武芸に秀でた軍事貴族を受領(ずりょう)として関東方面へ派遣したのです。そして朝廷は受領に対してこれまでにないほど強い赴任国の支配権を与え、農民個人個人を課税対象としていたのを名田単位で課税することとし、本来国家の物である土地を私有化している田堵を黙認する代わりに、その名田の経営を請け負わせ、田堵にその名田にかかる税を一括代納させることにしたのです。
受領は決められた額を朝廷に税として送付すれば残りは自分の物に出来ました。従って税を多く集めれば集めるほど私腹を肥やせたのです。受領と田堵は税をいくら納めるかといった契約を結び、受領の任期が終了して新しい受領が赴任すると、契約を結び直さねばなりませんでした。しかし新しく赴任した受領が前任者との契約を引き継ぐことは少なく、より多くの税を取ろうとしたり、ひどい者は名田を襲撃したり、朝廷に横暴を訴えに出向いている間に名田を略奪してしまう受領もいました。
受領として赴任した軍事貴族の中には、任期が過ぎても京へ戻らず、任地に土着(どちゃく/ずっと住むこと)し、地元の有力豪族の娘と結婚するなどして結びついていく者が多くなりました。これは京へ戻って下級貴族として暮らすよりも、地方で得る利権の方がはるかに多かったからです。また田堵にとっても元受領の武力を背景に、横暴な受領や境界線などで対立する他の田堵などから自らの名田を守る事が出来たのです。
これら任期終了後に帰京せず土着した元受領は、武力を持っていても既に武官ではありませんので兵(つわもの)、いわゆる武士とは認められませんが、受領の任期中に莫大な財を築いて土着した元軍事貴族や、軍事の子弟として代々財を築いてきた者達の中には大名田堵となる者もいました。大名田堵は大規模な農場を経営しながら自らも農業に関わった者達ですが、大名田堵の中にはその豊富な財力で周辺の未開地を開墾する者も現れました。
国衙領(公領)内の未開地は公領であるため、開墾には国衙(県庁)の許可が必要で、国衙は特別に減税などを定めた符(ふ/書類)を発行し、その開墾地の私有を認めるとともに、国衙領ですので開発者に税を納めさせました。これらの特別な符によって開墾が許可された地は別符(べっぷ)、または別名(べつみょう)と呼ばれ、行政単位としては郷(さと)とされました。従来の郷は郡の下の区分でしたが、新しく定められた郷は郡と同格のもので、従来の里長(さとおさ)は廃止されて郡司と同格の郷司(ごうし)が置かれるようになり、国衙領は再編されていきました。
国衙に許可を得て開墾した土地は本領(ほんりょう/私有地)として認められ、そこで耕作する農民の支配権も認められたのです。国衙にとっても新しい税収となったため、税を軽減するなどして開墾を奨励しました。こうして未開地を開墾して支配する農民に耕作させ、国衙に治める税とは別に税を徴収し、それを経済的基盤として自らは農業には関わらない者を開発領主と呼びます。後の鎌倉幕府の御家人は、こうした開発領主なのです。
しかし苦労して開墾しても、受領交代時に没収されたり、不当な税を要求されたりと受領が介入してくる事が多かったため、開発領主は中央の有力貴族や有力寺社に開墾地を寄進(きしん)するようになります。寄進とは寄付するといった意味ですが、本当に寄付するのではなく、その開墾地の名目上の所有者をその有力貴族や寺社の物としてもらうのです。すると、その持ち主が中央の有力貴族や寺社となると、下級貴族の受領などには手が出せなくなるのです。そして名義を貸してもらう代償として一定の謝礼を定期的に贈るのです。
貴族や寺社が自ら開墾して得た私有地を荘園と呼びますが、これらは遠方にある場合が多く、維持管理にかなりの費用がかかったためすぐに廃れてしまいました。しかしこのシステムでは名義を貸すだけで一定のお金が入るのですから、中央の貴族や寺社にとっても有り難い事だったのです。こうして寄進された開墾地の所有者は名目上とは言え貴族や寺社ですので、これを寄進地系荘園と呼び、その所有者である貴族や寺社は荘園領主と呼ばれます。また開発領主はその荘園の現地管理人である荘官(しょうかん)に任じられ、実際には開発領主が現地で土地と農民を支配したのです。そして遠方にいる荘園領主に対して、実際に現地にいて荘園を支配している荘官を在地領主とも呼びます。
ただし、開発領主が全て受領と対立した訳ではなく、受領と結び付いていた方が有利と考える者もいました。
受領は中央から共に下る補佐官では使いにくいため、様々な実務を行うこれらの補佐官を、地元をよく知る開発領主や大規模農場経営者である大名田堵(だいみょうたと)から雇いました。受領は彼らを郡司や郷司に補任(ぶにん/任命)し、様々な実務や徴税を行わせました。これらの補佐官を在庁官人(ざいちょうかんじん)と呼びます。受領と結び付いた方が有利と考えた開発領主はこうして在庁官人として実務や軍事を担ったのです。
永観元年(983)、永延元年(987年)など平安中期以降に、京中・畿内で「非職の輩」に対し、兵仗(ひょうじょう)を所持して横行する事を禁じた法令が度々出されています。「非職の輩」とは武官ではない者達のことで、自衛のために武装した農民などの一般人を指します。「兵仗」とは「儀仗(ぎじょう)」に対する言葉で、儀式用ではなく実戦用の武器という意味です。つまり、武官ではない「非職の輩」の弓や刀剣などの武器所持を禁じ、こういった武器を所持できるのは武芸を以て生業(なりわい)とする武官のみであり、そうでない者達の武器所持を禁じたのです。これは裏を返せば武装した非職の輩が横行していたことを示しています。そしてこうした非職の輩こそが自衛のために武装した開発領主達であり、後にこういった者達も武士と呼ばれるようになるのです。
こうした武士(開発領主)を家長とし、家長の血縁者である兄弟や、正妻ではない女性との間の子(庶子/しょし)らは家の子(いえのこ)と呼ばれ、家長や家の子にはそれぞれ郎党(ろうとう)が従いました。郎党は元は主家と血縁関係があったものの、時代を重ねるうちにその血縁が薄くなった者、代々主家に仕えて耕作してきた農民などです。
そして家長、家の子・郎党にはそれぞれ私的な使用人がおり、所従(しょじゅう)、下人(げにん)、下部(しもべ)などと呼ばれ、馬に乗った主人に徒歩で従い、主人の武器や武具を持って付いて回ったり、主人の乗る馬の口取りなどがその主な役目でした。こうした血縁者、主家との主従関係によって組織された一団を武士団と呼びます。
反乱などが起こった場合、朝廷は各国の受領(ずりょう)に対して鎮圧のための兵を出させました。中央から大きな地方行政の権限を与えられていた受領は、国内からの兵士の動員権も与えられており、中央からの命が下った場合はこういった開発領主を徴兵したのです。招集された開発領主は家の子・郎党、雑用係として所従を引き連れて軍事を担いました。戦いの最中は所従は戦闘には参加せず、ただ見守るだけでしたので、開発領主は私領で耕作する農民を雑兵(ぞうひょう/下級兵士)として半ば強制的に引き連れて行きました。こういった農民兵士は伴類(ばんるい)と呼ばれましたが、伴類と呼ばれた者達は、所従などとは違って主人に対する忠誠心は薄く、戦闘中に逃げ出したり、戦闘が長引いて農繁期に入ると勝手に帰ってしまったりし、それによって戦況が大きく変わってしまう事が多々ありました。そのため所従なども次第に戦闘に参加するようになり、こういった雑兵は裸足で身軽に駆け回ったため足軽(あしがる)と呼ばれるようになります。
平将門が関東で、藤原純友が瀬戸内海でほぼ同時に起こした反乱、すなわち承平・天慶の乱以後関東地方は平穏でしたが、約90年後の1028年、上総国(かずさのくに)、下総国(しもうさのくに)、安房国(あわのくに)を巻き込んだ大きな反乱が起こりました。平忠常の乱(たいらの ただつねのらん)です。忠常は祖父以来、上総国、下総国、常陸国(ひたちのくに)に広大な私領を有しながら税を納めず、安房国の受領(ずりょう)を殺害し、上総国の国府を占拠したりと、傍若無人(ぼうじゃくぶじん/人を無視して勝手気ままな振る舞いを行う事)な振る舞いをしていました。これに乗じた者達も各地で反乱を起こし、反乱は上総、下総、安房へと広がる大規模な反乱となりました。
朝廷は3年かかっても鎮圧できず、当時甲斐守(かいのかみ)であった源頼信(みなもとの よりのぶ)を起用することによりようやく鎮圧され、この功により頼信の家系は兵の家(つわもののいえ)として認められるようになりました。
平将門を討ち取った藤原秀郷(ふじわらの ひでさと/当時は在庁官人)や、平忠常の乱を鎮圧した源頼信(当時は国司)のように、当時武官ではなかった者でも大きな武功をあげると武官の官職を与えられ、兵の家として認められるようになり、こういった兵(つわもの)と認められた者の元に小さな武士団が集まり、主従関係を結ぶことによってより大きな武士団へと成長していったのです。
兵(つわもの)達は朝廷の軍事・警察部門に仕えたり、摂関家(せっかんけ/代々摂政・関白を輩出した藤原家)に仕える者など、京都周辺で名をあげる者、地方の受領として赴任したまま土着して名をあげる者といった大きく分けると2通りのパターンでいわゆる武士へと成長していったのです。
こうして武士の存在感が高まると、武力で解決する動きが活発になります。平安中期末から平安後期の初頭にかけて、東北地方を中心に戦乱が続きます。
陸奥国の奥六郡(おくろくぐん/岩手県の北上川流域)では、安倍頼時(あべの よりとき)が大きな勢力を持っていました。安倍氏は蝦夷(えみし)の中で朝廷に服属した俘囚(ふしゅう)の有力者でしたが、朝廷に納めるべき税を納めず、永承六年(1051年)、支配外の国衙領(こくがりょう/政府側の支配地)へと侵攻し、朝廷側との間に戦いが勃発しました。前九年合戦(ぜんくねんかっせん/1051年-1062年)です。
こうした武士や俘囚の反乱、蝦夷(えみし)との戦いにおいて、これまで直刀であった刀身に変化が現れていきます。それが反りと造り込みです。直刀にも柄に反りが付くようになり、それが次第に刀身へと移行し、造り込みも平造りや切刃造りから鎬造り(しのぎづくり)へと変化していくのです。この反りは蝦夷(えみし)が使用していた蕨手刀(わらびてのかたな)の反りを取り入れたと言われ、上古刀において意識的に反りを持たせた刀が東北地方算出の蕨手刀意外に発見されていないため、東北地方の蕨手刀が日本刀の反りのルーツであると考えられているのです。しかし、これには私は疑問を持っており、これについては後で考察します。
平安時代中期には、直刀であったこれまでの刀剣が、このように登場した武士達の戦闘方法に適した姿、すなわち反りがあり鎬造り(しのぎづくり)の姿となり、いわゆる日本刀の姿が完成する時代と言われます。また古剣書によると平安中期の永延(えいえん/987年-989年)頃に山城国に三条宗近(むねちか)、備前国には友成(ともなり)や正恒(まさつね)などが現れ、数々の名刀が産み出されたことになっています。しかし、これは古剣書の時代誤認であり、これら在銘の有名刀工が現れるのは平安後期になってからのことです。
毛抜形太刀(けぬきがたのたち)は、蝦夷(えみし)が好んで用いた蕨手刀(わらびてのかたな)を進化させた、毛抜形刀(けぬきがたのかたな)の刃長を二尺以上の長寸にして太刀姿としたものです。毛抜形太刀は平安後期初頭までを最盛期としますが、その後には実戦では使用されなくなり、中央の軍事組織である衛府(えふ)の武官が用いる太刀となり、衛府太刀(えふのたち)と呼ばれました。また、公家が外出する際にも佩用したため、野太刀(のだち)とも呼ばれましたが、次第に儀仗(ぎじょう/儀式用)の太刀となっていきました。
毛抜形太刀(長野県塩尻市) |
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徳間書店「日本刀全集」より |
毛抜形太刀の原型を示すと考えられているものが、長野県塩尻市宗賀から出土しています。この毛抜形太刀は刃長二尺二寸一分(67センチ)で、細身で重ねは厚い平造りの角棟となっており、切先は腐食して変形していますが、原姿はカマス切先であったと考えられています。茎(なかご)は15センチと短く、柄反り5センチと大きく反り上がり、刃反りは1.4センチで先は伏せられており、踏ん張り(ふんばり)が強い姿となっています。
茎には長さ三寸三分(10センチ)の毛抜形の透かしが打ち抜かれています。また鐔も蕨手刀同様の厚みのある喰出鐔(はみだしつば/長円形の小さな鐔)を切先側から入れ、区(まち)上の踏ん張りで止める式となっており、鐔自体は秋田県出土の蕨手刀や毛抜形刀の鐔と非常に似たものとなっています。
この毛抜形太刀の年代は、共に出土した食器や鏡などから平安中期の永延(えいえん/987年-989年)頃のものと考えられています。先にも書きましたように、永延と言えば古剣書によれば完成された在銘日本刀の数々の名刀が作られたとされる時代ですが、このような古式の太刀がある時代にとても宗近などの完成された日本刀が作られていたとは考えられず、これらは古剣書の時代格上げによって誤って伝えられてきたものなのです。
古来伝わる古剣書には時代の誤記が多く、また実物の比較研究などもできなかったため、刀工の時代が古い時代に格上げされたものが多いのです。やはり古い方が価値があるとされたのか、こういった誤記が後々まで伝えられてきたのです。しかし今日では、様々な刀を実際に比較研究でき、刀剣以外の様々な分野との包括的な検証からその時代が分かりますので、科学的に年代が証明されます。古剣書はひとつの資料にはなりますが、絶対的なものではないのです。
ここで問題なのが、このような毛抜形太刀を誰が考え作ったのかということです。平造りで角棟、短い茎(なかご)に毛抜の透かし、切先から挿入される喰出鐔(はみだしつば)、大きく反った柄と刀身に見られる反りなど、これらは東北型蕨手刀、毛抜形刀に通じる特徴で、短い共柄(ともづか)から片手で扱ったと思われる姿です。これらの特徴から、蝦夷(えみし)が作ったのでしょうか。
平造りで角棟、鐔を切先側から挿入するという特徴は、蕨手刀の中でも中部・関東地方に多いU型の蕨手刀の特徴にも通じます。しかも長野(信濃国)と言えば、最古の蕨手刀が発見されている所でもあり、いわば蕨手刀の発祥地であり、朝廷とも深いつながりがある所です。最古の蕨手刀、最古の毛抜形太刀の双方が信濃国から発見されたのは偶然でしょうか。
また、蝦夷(えみし)や俘囚(ふしゅう)の鍛冶は、平安後期になっても脇差寸法の短い刀ばかりを作っています。二尺を越える刀を作り出したのは、平安後期になって中央と交流を持つようになり、大和伝を取り入れるようになってからのことです(舞草鍛冶について参照)。
蝦夷(えみし)は狩猟を生業(なりわい)としたため弓馬を良くしました。そのため蝦夷(えみし)の主要武器も弓であり、地の利を生かし、機動力を発揮したゲリラ戦術で朝廷軍を苦しめたのであって、よく言われるような、馬によるすれ違いざまの蕨手刀による斬撃が、その反りにより大きな攻撃力となって朝廷軍を苦しめたのではありません(蕨手刀の威力はすごかった? 参照)。従って機動力を生かしたゲリラ戦を行うには長い刀は邪魔であって、短い刀ばかりを作っていたのだと思います。
では、この毛抜形太刀は中央の刀工が作ったのでしょうか。毛抜形刀をより発展させた姿、二尺を少し越える刃長などから、私はこの毛抜形太刀は信濃国の俘囚(ふしゅう)鍛冶が作ったのではないかと思います。中央の鍛冶が作ったとすれば刃長が短いのが気になります。平安初期で触れた坂上田村麻呂佩用(はいよう)と伝わる大刀(たち)は、直刀ですが二尺五寸を越えています。これは官給刀と思われますが、官給刀であればその規格は統一された物であったはずで、平安初期にはおそらくはこれくらいの刃長が標準だったのではないかと思われます。
またこの刃長は当時の軍馬の体高(地面から人が乗る馬の背までの高さ)が、130センチほどであった(馬について参照)ことから考えると、適当な長さであったと思います。従って中央の鍛冶が毛抜形太刀を作るとすれば、やはり二尺五寸ほどの物を作ったのではないでしょうか。そしてこの中途半端な刃長では、馬上から地上の敵を攻撃するには少し短く、徒歩の者が佩用するものとして作ったのではないでしょうか。
蝦夷(えみし)と呼ばれた人達のうち、朝廷に従うようになった人達を俘囚(ふしゅう)と呼びましたが、俘囚の中にも戦いに敗れたため従わざるを得なかった人達もいれば、朝廷側に付いた方が有益だとして自ら従うようになった人達もいました。従って、蝦夷(えみし)と呼ばれた人達がみな同じ郷土意識を持って団結していた訳ではなく、蝦夷(えみし)の中にも複数の派閥があり、豊かな東北地方の物資や資源をめぐって互いに争ったりもしていたのです。そして俘囚と呼ばれた人達は朝廷軍として蝦夷(えみし)とも戦ったのです。そこで俘囚の鍛冶が蝦夷(えみし)と戦うための武器として、毛抜形刀をより進化させ、刃長も毛抜形刀よりも長くした毛抜形太刀を作り出したのではないかと思います。そして蝦夷(えみし)ではなく俘囚が作り出したと考える根拠の第一は、毛抜形太刀が東北地方からは一振も発見されていないからです。
朝廷は飛鳥時代から度々蝦夷(えみし)征討のために軍を派遣し、中部・関東地方の国衙(こくが)にも動員令が出されました。そして信濃国や武蔵国などには朝廷の軍馬飼育のための牧が置かれ、軍馬の産地ともなり、自然と騎馬による戦いが発達しました。こういった中部・関東地方の武士の目に止まったのが、俘囚が作り出した毛抜形太刀であったのではないでしょうか。そして蝦夷(えみし)との戦いにおいて、蝦夷(えみし)が用いる毛抜形刀をより進化させ、刃長も長くした毛抜形太刀を馬上の指揮官が佩用することによって、蝦夷(えみし)を威圧しようとしたのではないでしょうか。
それでは中部・関東以外の全国の武士達も毛抜形太刀を使用したのでしょうか。私は毛抜形太刀は中部・関東周辺といったごく限られた地域の武士が使用した特殊なものであったと思います(平安後期毛抜形太刀参照)。
既に古墳時代には、中央の支配下にあった地域では茎(なかご)に柄木をはめて鉄目釘(めくぎ)で固定し、柄巻を施して漆をかけて補強した例(上古刀の部の素環頭大刀 の項参照)があり、正倉院の収蔵品を見ても、中央の鍛冶の技術は既に奈良時代にはかなりのレベルに達していたと思われます。
都が奈良から京都に移されると、朝廷の庇護のもとに大きな力を持った寺社の専属鍛冶であった奈良の刀鍛冶達は、その注文主を失い寺社の縁故を頼って全国へ移り、こういった技術が全国的に広まったのだと思います。従って既に茎(なかご)を仕立てて柄木を用いていたであろうに、毛抜形太刀のような共柄(ともづか)という、最も原始的な形へ後退するはずは無いと思います。
後述する平家重宝の小烏丸(こがらすまる)などから、平安中期の半ば頃には柄木をはめ、刀身に反りが付いた太刀があり、中部・関東の武士達が毛抜形太刀を用いていたのと同時期に、中央など他の地域の武士達はこういった柄木をはめ反りが付いた太刀を使用していたと考える方が自然ではないかと思います。
では、なぜそういった太刀が現存しないのでしょうか。それはこれらの太刀が実戦に使用されたからであると思います。実戦で使用すれば刃こぼれを生じたり、曲がったり折れたりしたかもしれません。本来、刀は武器なのですから残るはずがない消耗品なのです。この頃には今だ刀鍛冶の地位が低かったため銘など切らない無銘のものであったはずで、それ故にもし残っていたとしても無銘であったため、後世になって価値が無いであろうとして破棄されたものも多かったのではないでしょうか。しかし、現存しないからといって存在しなかったとは言い切れないのです。
では、なぜ毛抜形太刀は現存しているのでしょうか。毛抜形太刀も関東地方の武士が実戦で使用したのではなかったでしょうか。毛抜形太刀の現存数は、私が知る限りでは8振です(平安後期毛抜形太刀参照)。そしてそのうち5振は寺社の伝世品で、3振は出土品です。当然、実戦で使用された毛抜形太刀は、柄木をはめた太刀同様に消耗品として失われたでしょう。現存している毛抜形太刀は、土中にあって完全に朽ちずに偶然残ったものや、実戦に使用されなくなり、衛府太刀として儀仗化された毛抜形太刀が寺社に奉納されたものなのです。そして奉納されたからこそ現在まで伝わっているのです。
小烏丸(こがらすまる)は、刃長二尺七分(62.6センチ)、反り四分の太刀で、切先両刃造り(きっさきもろはづくり/切先寄りの棟側にも刃がある)となっています。奈良時代の正倉院所蔵の大刀(たち)にも、切先両刃造りのものがありますが、それらは切先からおよそ30%ほどの長さが両刃となっているのに対し、小烏丸はおよそ刃長の半分が両刃となり、正倉院のものは平造りであるのに対し小烏丸には鎬(しのぎ)が立っています。そして地肌は板目が柾がかり、刃文は沸のよく付いた細直刃(ほそすぐは)で、鋩子は掃掛となり、これらのことから大和物であると考えられています。
小烏丸(御物) |
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作者は古くから大和国の天国(あまくに/奈良時代)とされています。現存する小烏丸は生ぶ無銘(うぶむめい/初めから銘がない)ですが、八代将軍吉宗の時代に作られた『継平押形(つぐひらおしがた)』には、佩表(はきおもて)に「天国」、裏に「大宝□年□月」と銘と年紀が切られた太刀が小烏丸として掲載されています。なお、押形とは、刀の魚拓(ぎょたく)のようなもので、刀の茎(なかご)や刀身の形状を紙に移し取り、刃文や特徴などを書き込んだものです。写真などなかった当時、刀の形状を記録するのに利用し、また現在でも利用されています。
しかし、大宝(奈良時代)の作にしてはわずかながら反りがあり、造り込みも切先両刃造りではありますが鎬(しのぎ)が立っており、正倉院収蔵品との年代差が見られることから、とても大宝(奈良時代)の作とは思えず、特殊な造り込みや茎に反りを見せていることなどから見て、直刀から鎬造りの湾刀への過渡期の作と考えられています。
また、『継平押形』に掲載されている小烏丸と、現存する小烏丸とはその形状が一致しないため、押形の小烏丸と現存する小烏丸とは別物であるとも言われます。新井白石(あらい はくせき/江戸中期の学者)の著書である『軍器考』には、「天国が平家重代の宝刀小烏丸を造り、大同三年の年紀がある」と記されています。
小烏丸の名の由来は、桓武天皇が朝拝の際に一羽のカラスが飛んできて、伊勢神宮からの使いですと言って飛び去った後にこの太刀があったため、小烏丸としたとされ、平貞盛(たいらの さだもり/平将門のいとこ)が、平将門追討の恩賞として朱雀天皇(すざくてんのう)から与えられ、それ以来平家のお宝となったと伝えられます。江戸後期には、対馬の藩主である宗氏(そうし)へと渡り、明治時代に明治天皇に献上されました。
平安時代前期の項に、中尊寺蔵の悪路王(アテルイ)佩用(はいよう)とされる毛抜形蕨手刀が出てきましたが、同じ悪路王佩用と伝わる立鼓柄刀(りゅうごづかのかたな)が中尊寺に所蔵されています。立鼓柄とは、柄木の中央部の、刃側と棟側にあたる部分を少し細めたもので、極端に言うと砂時計の形に似ています。これは、柄(つか)を握った時の手溜まり(てだまり/握り具合)を良くするための工夫です。
この立鼓柄刀は平造りで共柄(ともづか/刀身と柄が一体)となり、柄先は方形となって手貫緒(てぬきお)を通す穴を大きく空け、柄(つか)には糸巻か樹皮巻が施されていたと思われます。
注) 手貫緒とは、片手で刀を扱う場合、手から刀が離れないよう、手首に通す緒の事です。現在の携帯ストラップのようなものです。
深くサビ込んでいたため研磨された結果、不純物を含まないかなり進んだ鍛錬がなされ、潤いある細かく詰んだ梨子地肌(なしじはだ)に綾杉肌(あやすぎはだ)を交えた肌となり、その地肌は日本刀の名刀の地肌に見る鉄味を見せ、山城国の三条や五条の鍛冶の作に見劣りするものではないと評されています。しかし、焼き入れは東北型蕨手刀同様に軽い丸焼き、いわゆるうずみやきとなり、匂出来(においでき)に小沸(こにえ)が付く作風となっています。
この立鼓柄刀は近くの遺跡からの出土品で、刃長は一尺五寸五分(47センチ)で、反りは五分六厘(1.7センチ)と深いものです。一説には安倍貞任(あべの さだとう/1062年斬首)の佩用とも伝わっています。安倍貞任は俘囚(ふしゅう/朝廷に服属した蝦夷/えみし)の有力者であった安倍頼時の子で、頼時は支配外へ侵攻したとして朝廷から征討令が出され、前九年合戦のきっかけを作ったとされる人物です。
征討令は朝廷側の恩赦(おんしゃ/罪を許すこと)によって取り消されましたが、貞任が引き上げようとして野宿をしていた陸奥守(むつのかみ)軍を襲い、人馬を殺傷したとされ、再び戦闘となり、貞任は1062年に斬首されました。
この立鼓柄刀の体配からは平安前期のものとは思えず、平安初期のアテルイの物とは考えにくく、その体配からは安倍貞任佩用との説の方がうなずけるものとなっています。
後三条天皇(治暦4年/1068年)-後鳥羽天皇(文治元年/1185年)
平安後期は貴族政権から、平氏や源氏といった武士階級政権に変わろうとする時代です。またこれまでは天皇が最高権力者でしたが、天皇の座を譲って上皇(じょうこう)となった前天皇が院政(いんせい)を行い、政治の主導権を握るようになります。そして朝廷内では政治の主導権をめぐる争いが増え、敵対するそれぞれの勢力に武士達が加担して武力による政権争奪戦が起こるのです。
また、平安後期には東北地方での戦乱が続きます。平安中期末には、俘囚(ふしゅう/朝廷に服属した蝦夷)の有力者である、安倍氏が朝廷に反逆したことにより前九年合戦が起こりました。平安初期には、度重なる蝦夷(えみし)との戦いに民(たみ)は疲弊しきっているとの進言を受け、朝廷は蝦夷(えみし)追討を岩手・秋田の中間地点でストップしていました。しかし、俘囚が反逆行為に出たため、朝廷は再び蝦夷(えみし)追討を再開し、延久二年(1070年)に陸奥守に追討令を出し、4年間続いたこの戦いにより、朝廷はその支配を津軽半島、下北半島にまで及ぼすことに成功したのです。なお、この戦いは後年になって延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん)と呼ばれるようになりました。
注) 蝦夷(えみし)との戦いなのに、なぜ「延久蝦夷合戦」を「えんきゅうえぞかっせん」と読むのかは分かりません。後になって名付けられたようなので、「えみし」と「えぞ」が混同したのかもしれません。「えみし」と「えぞ」の違いについては蝦夷についてをご覧下さい。
前九年合戦で朝廷側の援軍として安倍氏を倒し、陸奥、出羽という広大な領地の支配権を得た、出羽国俘囚の有力者である清原氏でしたが、その支配地の分配をめぐって身内で争いが起こり、その内紛に陸奥守である源義家(みなもとの よしいえ)が介入することによって後三年合戦(ごさんねんかっせん/1083年-1087年)が起こりました。源義家が味方した清原清衡(きよはらの きよひら)が勝利し、清衡は清原氏の領地全てを手に入れ、実の父の姓である藤原を継いで藤原清衡(ふじわらの きよひら)と名乗り、奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の祖となったのです。
そして平安後期は有力寺社が大きな力を持つようになる時代です。飛鳥時代に仏教が伝わると、朝廷はこれを受け入れて信仰しました。そして仏教は地方豪族にも広まり、有力な地方豪族は次々と私寺を建立しました。奈良時代には、社会不安(天災、疫病、政変など)に悩んだ聖武天皇が最後に頼ったのが仏教でした。仏教を信仰し、寺を建てて経典を読経(どきょう)すれば、仏教の守護神である四天王が災難を除き国を護ってくれるという、鎮護国家(ちんごこっか)という思想に基づいて、聖武天皇は国毎に国分寺と国分尼寺を建てる事を命じ、奈良の東大寺に大仏を建立し仏教を深く信仰しました。
奈良時代になると、東大寺、西大寺、薬師寺などの勅願寺(ちょくがんじ)が建立されます。勅願寺とは、天皇などにより国家安泰を願って建立された寺です。そしてこれら勅願寺に加え、朝廷の有力者である藤原氏の氏寺(うじでら/一門繁栄、先祖供養のために建てられた寺)である興福寺(こうふくじ)、元興寺(がんごうじ)、大安寺(だいあんじ)、法隆寺の7つの寺は南都七大寺(なんとしちだいじ)と呼ばれ、朝廷の保護を受け大きな力を持つようになりました。なお、南都とは奈良を指す言葉で、奈良の都は平安京に対して南に位置していたからこう呼ばれました。
これら大寺(だいじ)や国分寺・国分尼寺は官寺(かんじ)と呼ばれ、律令体制下の朝廷の庇護(ひご)を受けていたのですが、律令体制が崩壊した平安時代中期以降は朝廷の財政は破綻し、寺社へ回すお金はもはやありませんでした。これは朝廷の職員である貴族に対しても同じでした。そこで朝廷は貴族や有力寺社に土地の私有を許可し、そこからの収入を俸給代わりに得ることを認めたのでした。これが荘園であり、本来貴族などの国家公務員や官寺への俸給は、朝廷が負担すべきところを、それぞれが荘園などからの収入でまかなっており、経済的に朝廷から独立し、それぞれが経済的基盤を背景に大きな力を持っていったのです。こうした国家から独立した権力を権門(けんもん)と呼び、寺社権門もその1つでした。
こうして大きな力を持つようになった寺社は僧兵を配備し、武力をも持つようになり、政治にも口を出すようになります。その要求は私利私欲的なもので、要求が通らないと神木や神輿(みこし)を担ぎ出して内裏(だいり/御所)、国衙(こくが/県庁)へ押しかけ、「仏罰があたるぞ」などと言って神木などを置き去りにして帰るのです。その最たるものが興福寺と延暦寺でした。
こうした社会状況の中、上皇と天皇との内紛に藤原家の内紛がからみ、それに武士が加担して起こった保元の乱(1156年)、保元の乱に勝利して政治の実権を得た院の近臣の排除をめぐる争いに平氏と源氏が加担し、平氏と源氏が真っ二つに分かれて戦った平治の乱(1159年)、以仁王(もちひとおう)が1180年に発した平家追討令に端を発し、源頼朝が挙兵したことにより全国に及んだ紛争など、戦い続きとなった平安後期には、武士の地位も固まり刀の需要も増え、作刀技術も向上し、戦い方に応じた姿の変化を見せ、いよいよ現在知られる在銘日本刀の名工が登場するのです。
飾太刀の刀身(春日大社蔵) |
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細太刀 |
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徳間書店「日本刀全集」より |
儀仗太刀(ぎじょうのたち)は儀式に用いる太刀のことで、実戦用の武器である兵仗(ひょうじょう)に対する言葉です。朝廷の最高儀式の時に皇族や高官などが佩用(はいよう)しました。唐の様式をそっくり継承したものを飾太刀(かざたち)と呼び、これは実戦用ではなく儀式用なので、鉄や木、竹などで作った刀身を入れることもありました。鞘には梨子地(なしじ)や螺鈿(らでん)で花鳥などを描いた豪華な装飾がなされ、豪華な造りです。
この形式は大変高価な物なので、皇族や公卿(くぎょう/朝廷の最高幹部)など裕福な者しか持てず、そうでない者達はこれの略式を佩用しました。金具には宝玉などを付けず質素で、その姿が細くてきゃしゃであることからこれを細太刀(ほそだち)と呼びました。
上の写真は春日大社蔵の飾太刀の刀身です。春日大社には、平安中期末頃から平安後期の飾太刀や細太刀が収蔵されています。儀式用なので刀身よりも拵(こしらえ)の方が重要で、刀身はかなり大雑把に作られています。鎬筋(しのぎすじ)は刀身のほぼ中心にあり、刀身の反りは浅く直刀のように見えますが、柄上に反りが見られます。また細太刀にも柄に反りが見られ、武用だけではなく儀式用の太刀にも反りの流行が見て取れます。
平安中期に現れた毛抜形太刀(けぬきがたのたち)は平安後期初頭頃に最盛期を迎えましたが、次第に実戦では使用されなくなり、中央の軍事組織である衛府(えふ)の武官が佩用(はいよう)する太刀として儀仗化していきました。その理由は、毛抜形太刀が戦地での役割を終えたからであると私は思います。
平安時代中期の毛抜形太刀の項で解説しました通り、私は毛抜形太刀は信濃国(長野県)の俘囚(ふしゅう/朝廷側に付いた蝦夷)が、蝦夷(えみし)に対抗するために作り出したと考えます。そして蝦夷(えみし)の象徴とも言える毛抜きの透かしを施した太刀を、征討軍の馬上の指揮官が佩用(はいよう)することにより、蝦夷(えみし)を威圧しようとしたのではないかと思います。
つまり蝦夷(えみし)が作り出した毛抜形刀をより進化させ、より刃長を長くした太刀を佩用することにより、より優れた武器を持っているのだと誇示したのです。そして蝦夷(えみし)征討を果たした朝廷は、平安後期初頭には本州最北端にまでその支配力を広げたのです。そうなると、もはや実戦向きではない共柄の毛抜形太刀の戦地での佩用は必要なく、同時に全国的に普及していた木柄の太刀へと移行したのだと私は思います。
毛抜形太刀が全国に急速に普及したなどとも解説されている場合がありますが、毛抜形太刀は長野県(最古の毛抜形太刀)、新潟県、宮崎県から一振ずつ出土し、三重県の伊勢神宮に一振、奈良県の春日大社に二振、滋賀県の宝厳寺に一振、福岡県の大宰府天満宮に一振伝世品があり、発見数はわずか八振(後述)で、出雲大社にも収蔵されていると言われますが詳細は不明です。発見数がたった八振で、そのうち出土品が三振であること、そして東北地方からは一振も発見されていないことから、とても全国に普及したとは思えず、むしろ特定の地域で特定の人達が一時期に使用したと考えられます。その特定の地域とは中部・関東地方、特定の人とはこの地域の武士達であり、平安中期の中頃から平安後期の初頭にかけてのごく短期間に使用された特殊な太刀であったと私は思います。
平安中期の長野県宗賀の毛抜形太刀に続く時代の毛抜形太刀が、宮崎県西都市で出土し、三宅神社に収蔵されています。中国の通貨である治平元宝(1064年発行)が伴出しているため、この年以降のものと考えられます。刃長は一尺八寸八分(57センチ/先欠け)、柄は22.4センチで柄反りは一寸八分(5.5センチ)、刀身の反りは二分七厘(0.8センチ)となり、平造りの太刀となっています。
この太刀の刃区(はまち)上には小さな穴が空いています。これははばきを止めるための穴で、はばきを切先側から挿入し、鋲(びょう)または紐ではばきを固定しました。日本刀では、鐔やはばきは茎尻から挿入し、区(まち)の出っ張りで固定されるようになっていますが、毛抜形太刀のような厚みがあり反りがある茎では茎側からは挿入出来ないため、切先側から挿入したのです。まず鐔を切先側から挿入しますが、そのままでは刀を振り回すうちに鐔がスッポ抜けてしまいます。そこではばきを切先側から挿入し、この穴に鋲や紐を通してはばきを固定したのです。
いわゆる日本刀で使用されるはばきは、鞘の鯉口(こいくち)にピッタリと納まり、刀身が鞘走り(さやばしり/勝手に抜けてしまうこと)を防ぐ役目も果たしますが、この頃のはばきは鐔のガタ付きを抑えるといった程度の目的で使用されたと考えられ、日本刀のはばきとは少し違った役目のものです。とは言え、その細身の太刀姿やはばきを使用したと考えられることから、この毛抜形太刀は衛府太刀(えふのたち)として使用されたと考えられ、衛府の太刀としては最も古い資料であると考えられています。
新潟県長岡市(旧三島郡和島村)から、男女の人骨とともに毛抜形太刀と長寸のハサミが出土しています。人骨は鎌倉時代の人と判定され、太刀は刃長は一尺九寸七分(59.6センチ/10センチほど先欠け)、刀身の反りは二分七厘(0.8センチ)、柄の長さは16センチ、柄反りは一寸八分(5.5センチ)となっています。用水路工事の際に発掘されたものですが、この地点は古墳であったという訳ではなく、平坦地を1メートルほど掘り下げた時に発見されたようです。
この刀身は二つ折りにされて埋葬されていましたが、平安中期の長野県宗賀の毛抜形太刀、宮崎県西都市出土の毛抜形太刀がともに平造りであるのに対し、この太刀には鎬筋(しのぎすじ)が確認でき、鎬造りが毛抜形太刀においてなされ始めたことを示すものとなっています。また、棟は角棟ですがやや丸味を持ち、丸棟への移行が見て取られます。そして刀身はほとんど直刀ですが強い柄反りになり、踏ん張りのある姿は湾刀への移行を示すものとなっています。
この太刀にも区(まち)上にはばき止めの小穴がありますが、非常に興味深いのは、この毛抜形太刀の茎(なかご)は刀身と分離するという点です。毛抜形太刀は蕨手刀と同じく共柄(ともづか)であり、直接茎を握って使い、日本刀のように茎に柄木をかぶせるということはしませんでした。本来、刀身と一体となっている茎が、この太刀では分離出来るのです。それは刀身と茎を別々に作り、刀身の区(まち)にあたる部分を薄く作り、茎の刀身にくっつける側を二つ割りにし、そこへ刀身の薄くした部分を差し込んで鍛接し、鋲で固定したうえに鐔をかけて固定しているのです。
また、長野県宗賀の毛抜形太刀、宮崎県西都市出土の毛抜形太刀は、ともに丸鍛え(まるきたえ/芯鉄無し)ですが、この新潟県長岡市出土の毛抜形太刀は、芯鉄(しんがね)を皮鉄(かわがね)でくるんだ構造を持ち、衛府太刀として、また武用としても用いられたと考えられています。
毛抜形太刀(竹生島宝厳寺) |
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徳間書店「日本刀全集」より |
上の毛抜形太刀は、滋賀県長浜市竹生島(ちくぶしま)の宝厳寺(ほうごんじ)に伝わるもので、平将門を討ったことで名高い藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)佩用(はいよう)と伝わるものです。この毛抜形太刀は刃長二尺二寸一分(67センチ)、刀身の反りは六分三厘(1.9センチ)と高く、中央寄りに鎬がある鎬造りで丸棟となり、カマス切先で刃文は直刃となっています。また、この毛抜形太刀の区(まち)上にもはばき止めの小さな穴が空いています。残念なことに火災により焼けてしまい、現在は再刃(さいば/再び焼き入れを行うこと)となっています。
この毛抜形太刀には桃山時代の金梨子(きんなしじ)に桐紋が蒔絵(まきえ)された鞘が付属しています。
鎬造りに丸棟、反りが高く踏ん張りがあり、毛抜きの透かしも三寸三分(10センチ)に巧みに打ち抜かれ、その作刀技術は格段に進歩しています。
毛抜形太刀の柄(伝菅原道真佩用/福岡大宰府神社) |
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徳間書店「日本刀全集」より |
上の柄は、福岡の大宰府神社所蔵の毛抜形太刀の柄で、菅原道真(すがわらの みちざね)佩用と伝わるものです。刃長は二尺一寸九分(66.4センチ)、反りは九分二厘(2.8センチ)、柄は17センチで柄反りは二寸一分(6.4センチ)となり、長寸ではありませんが身幅広く反りが高い、鎬造りでカマス切先の豪壮な太刀となっています。
この太刀も、新潟県長岡市出土の毛抜形太刀と同様に刀身と茎(なかご)が分離するようになっています。このような刀身と茎が別々に作られ、鍛接するといったことはなぜ行われたのかについては分かりませんが、柄に大きな反りを持たせるために別作りとしたのでしょうか。ちなみに、毛抜形太刀が全てこういった刀身と茎(なかご)が分離するようになっているとする説明もありますが、こういった作りはあくまで特例です。
奈良県の春日大社に毛抜形太刀があり、社伝によると、大治6年(だいじ/1131年)に藤原頼長(ふじわらの よりなが)が奉納したものです。頼長が奉納した平胡(ひらやなぐい/矢を入れて携帯する入れ物)の矢配板(やくばりいた/矢を固定する板)に、「大治六年正月二日」の墨書きがあることから、確かに頼長が奉納したものであることが分かります。これは拵(こしらえ)に入った状態で発見され、錆び付いて刀身は鞘から抜けませんでしたが、X線検査の結果鎬造り(しのぎづくり)の刀身が入っていることが分かっています。
総長96.3センチ、柄は18.2センチで、鞘の長さは78センチなので、二尺四寸ほどの刀身と想像され、柄の反りは二寸三分(7センチ)ほどと非常に高く、その柄(つか)には鉄板をかぶせて冑金(かぶとがね)と覆輪(ふくりん)をかけ、鞘は金沃懸地(きんいかくじ)に螺鈿(らでん)で竹林で雀を追うネコを表した、豪華なものです。
金沃懸地とは、金の粉を密に蒔いて(まいて)漆をかけ、研ぎ出したもので、螺鈿は貝殻の虹色に光る内面を薄くはぎ取り、象嵌(ぞうがん)のようにはめ込む技法です。そして足金物(あしかなもの)、責金(せめがね)、鐺(こじり)などの拵金具が装着されています。このような形式の毛抜形太刀が、平重盛(たいらの しげもり/清盛の嫡男)や、源頼朝の束帯(そくたい)姿の絵画(京都府神護寺蔵)に描かれていることから、このような様式の太刀は、当時の相当高位の衛府の官人が持つことを許された衛府太刀であることが分かります。
ちなみに、春日大社では2000年に毛抜形太刀が発見され、平安後期に関白などを務めた藤原忠実(ふじわらの ただざね)が奉納したとされるものです。鞘の中央に幅広に銀を張り、岩間を飛ぶ千鳥を透かし彫りにし、螺鈿が施された豪華な太刀で、国宝に指定されています。
三重県伊勢市にある、神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)に、藤原秀郷の太刀と伝わる毛抜形太刀があります。銀唐草文錦包毛抜形太刀(ぎんからくさもん にしきつつみ けぬきがたのたち)と呼ばれるこの太刀は、刃長は二尺三寸三分(70.5センチ)、反りは一寸四分(4.1センチ)、柄は17.5センチで柄反りは二寸六分(7.8センチ)となり、反りが高く鎬は棟寄りとなり、切先はカマス切先となり、棟は三つ棟となっています。
柄には皮製の手貫緒(てぬきお)も残り、柄部分にはリンドウの唐草文が掘られ、メッキが施されています。この太刀にもはばき止めの小穴があり、皮紐で固定されています。
鞘は麻の布を着せた上から赤地の錦で包まれ、冑金(かぶとがね)、覆輪(ふくりん)、四つ葉透かしの鐔に大切羽(おおせっぱ)、縁(ふち)などの拵金具が付けられており、足金物や帯取りの皮も残っていますが、七つ金(ななつがね)の一部と鐺(こじり)金具は失われています。
この太刀の地鉄(じがね)は多少の不純物は見られるものの、かなり精錬度を増しており、地肌は無地風に板目が混じり地沸(じにえ)付き、区(まち)上3センチほどから始まる細直刃調の焼刃を見せ、かなり長めの金筋や二重刃などの働きも見せています。従ってこの太刀は、いわゆる完成した在銘日本刀にかなり近い年代の作であると考えられています。
これまで現存する毛抜形太刀を簡単に見てきました。ここで日本史好きな方であれば「あれ?」と思ったかもしれません。藤原秀郷、菅原道真佩用(はいよう)と伝わるものが、平安後期で解説されているからです。藤原秀郷は生没年不詳ですが平安中期(950年頃)の武将で、平将門を討った事で有名な武将です。また菅原道真は学問の神様として知られますが、平安初期(903年没)の人で、学者でもありますが右大臣にまでなった政治家です。こういった人が佩用したとされる物がなぜ平安後期に分類されているのかと言うと、「伝藤原秀郷佩用」などと、「伝」とあるようにそう伝わっているというものであって、いわゆる伝承なのです。寺社に伝わるものはとかく時代を古く伝えた物が多く、実際の年代とはかなりの差があるものが多いのです。従ってここで見てきた秀郷や道真佩用と伝わる太刀は、その作りからみて当人が佩用したという時代にまではとても遡る(さかのぼる)ものではないのです。
平安後期に現れる、鎬造り(しのぎづくり)で反りがある、完成された在銘日本刀の太刀(宗近など)に至る前の、鎬造りで反りがある無銘の太刀が数振現存しています。そのうちの一振が個人蔵の二尺二寸(66.8センチ)、反り三分(0.9センチ)の無銘の太刀です。鎬造りでカマス切先となり、踏ん張り強く、茎(なかご)は細くて薄く仕立てられて強く反り、鑢目はなく鎚目(つちめ/鎚で打った跡)を残し、茎尻(なかごじり)は切りになり、中程に小さな目釘穴を1個空けています。
地鉄(じがね)は不純物を含んだまま鍛えており板目になる部分、無地風となる部分などがあり、刀身全体に軽い焼き入れを施したうずみやきとなり、刃文というものは見えません。こういった作風から、この太刀は奥州(おうしゅう/陸奥国)の舞草鍛冶(もくさかじ)の作であると考えられ(舞草鍛冶について 参照)、その年代は平安後期の11世紀末(1000年代末)頃のものと考えられています。
舞草鍛冶は平安後期になるとその作風を転じ、大和伝風の作風に変わっていきます(舞草鍛冶について参照)。蕨手刀に始まり毛抜形太刀に至るまで、蝦夷(えみし)の刀鍛冶達は共柄の刀を作り続けていますが、平安後期に至ってこの太刀のように、鎚目を残してはいますが茎(なかご)を仕立てた太刀を作っているのは、共柄や毛抜きの透かしといった時代遅れの形式から、一般に普及している柄木を用いる形式に移行しようとしていることを示し、またこういった姿の無銘の太刀が、平安中期半ば頃から毛抜形太刀と同時期に一般的に用いられていた太刀であったのではないかと思います。
もう1つの例が愛媛県の大山祇神社(おおやまづつみじんじゃ)所蔵の無銘太刀です。刃長二尺五寸八分(78.2センチ)、反り六分六厘(2センチ)、茎(なかご)の反りが一寸四分(4.3センチ)となっています。腰反り深くカマス切先、丸棟となったこの太刀の茎(なかご)には、大筋違いの鑢目が施され、茎尻(なかごじり)は切りになり、2個の目釘穴が空けてあります。これは後の在銘太刀とほぼ同じ口径の穴で、地肌には柾目、小板目があり、ごく細い匂出来(においでき)の直刃が焼かれていますが、刃縁がうるんではっきりとしない焼刃となっています。しかし上記無銘の太刀に比較して、茎(なかご)の仕立てや目釘穴など完成された太刀姿を示し、その年代は12世紀半ば(1100年代半ば)頃と考えられています。
直刀や蕨手刀、毛抜形蕨手刀、毛抜形刀や毛抜形太刀など、これらはみな足金物(あしかなもの)と佩緒(はきお)で刃を下にして腰からぶら下げて身に付けます。これは太刀を身に付ける際の形態ですが、蕨手刀のような短い物でもこのようにして身に付けていました。しかし、平安後期には刃を上にして帯に差す、後世の刀のようにして身に付ける刀が出現しています。その例が中尊寺の藤原清衡(ふじわらの きよひら/1128年没)の棺上刀と伝わる刀です。清衡は奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の祖となった人物です。
この刀は平造りで丸棟となり、刃長は一尺五寸九分(48センチ)、反りは五分(1.5センチ)で、表裏に樋(ひ)と添え樋があり、茎(なかご)は9.5センチと刀身に比べて非常に短く、鑢目(やすりめ)は無く鎚目(つちめ)を残し、目釘穴が中程に1個空けてあります。
この刀を研磨した藤代松雄(ふじしろ まつお/故人・人間国宝)氏によると、地肌は清純に澄み通る梨子地肌(なしじはだ)に綾杉肌(あやすぎはだ)の所もあり、地沸付き、映り(うつり)立ち、潤いのある地肌となり、弱い地景が現れています。刃文は判然としませんが直刃であったようで、刃先にその一分を残し、刃縁は冴えた(さえた)匂出来(においでき)になっています。藤代氏はこれはかなりの上工の手になるものであろうと述べ、日本美術刀剣保存協会初代会長であり、日本刀研究家である故・本間順治(ほんま じゅんじ/号・薫山/くんざん)氏は、この刀は奥州鍛冶の手になるもので、舞草鍛冶(もくさかじ)の優品であると述べています。
藤原清衡の棺上刀(中尊寺蔵) |
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徳間書店「日本刀全集」より |
江戸時代の寛永年間(1624年-1645年)に、伊達藩によって清衡の遺体調査が行われました。その記録によると、清衡の棺(ひつぎ)には雄剣一口、鎮守府将軍の印などが納められていたと記されています。しかし、元禄一二年(1669年)に行われた調査に関した記述がある『光堂物語』には、「右三代の棺首桶ともに布を掛、堅地にぬりたり、三代何れも白装束、錦の直垂袴也、印は三代各別なり云々」とあります。寛永年間の調査時に記録されていた鎮守府将軍の印は元禄の調査でもあったようですが、雄剣が記録されていません。そしてその後には錦の直垂袴や印もなくなったと言われます。
これに関しては、1736年刊の荻生徂徠(おぎゅう そらい)著の随筆・『南留別志(なるべし)』に記述があり、それによると寛文元年(1661年)五月に荒木某(なにがし)なる者が、清衡棺から出したという枕一つと太刀一口をみたと書かれています。どういう事情で取り出したのかは分かりませんが、後に戻されて棺上刀となったのがこの刀です。
伴大納言絵詞 |
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『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』には、腰に脇差のような刀を差して素足で走る郎党(ろうとう)や、下級官人(かんじん)、検非違使(けびいし/都の警察官)の随兵などが描かれています。それらの刀は明らかに反りがあり、身幅の広いものもあり、その刃長はおよそ50センチほどのものです。まさにこの清衡の棺上の刀に類似したものです。
こうした刀は僧侶や軍事・警察部門に仕える郎党、一般庶民なども使用し、その拵は縁頭(ふちがしら)に金具を使い、柄は中程に筒金をはめて補強し、鞘には黒漆をかけた質素で実戦向きのもので、鐔は付いてるものや付いていないものもあったようです。『伴大納言絵詞』は平安初期の事件を題材としたものですが、描かれたのは平安後期であり、風俗などは描かれた時代のもので、平安後期にはこのような脇差サイズの刀が流行していたことが分かります。
注) 『伴大納言絵詞』は、866年に起こった宮中の応天門火災事件の顛末を描いた絵巻で、大納言(だいなごん)であった伴善男(ともの よしお)の陰謀により起こった事件で、その陰謀があばかれて失脚するまでを描いており、作者は宮中絵師の常盤光長(ときわ みつなが)とされており、12世紀後半(1100年代後半)の作と考えられています。光長の作品で有名なものに『年中行事絵巻』があります。
注) 平安時代後期に流行したこの脇差サイズの刀は、現在の刀剣分類で言えば脇差となりますが、ここで解説した刀は、寸法が短くてもあくまで刀です。脇差とは長短二振の刀を帯びるようになった室町時代以降のものを指し、脇差など無かったこの時代のものは、短くても刀であるのです(日本刀の区分参照)。
『光徳刀絵図(こうとくかたなえず)』の巻頭に、「鷹巣」と称する「三条」と銘のある平造りの刀が掲載されています。島津家に伝えられた「鷹巣三条」です。刃長は少し磨上げ(すりあげ)られて一尺四寸(42.2センチ)となり、再刃(さいば/再び焼き入れを行うこと)のため、元々の刃文は分かりませんが、『光徳刀絵図』には幅の広い直刃で鋩子(ぼうし)は突きあげ風で浅く返り、打ちのけがあるとされています。
鷹巣三条は名物三日月宗近(みかづきむねちか)の作者として知られる、三条宗近の作とされ、清衡棺上刀と姿や造りが似ていますが、鷹巣三条の方がやや遅れた年代のものと考えられています。従って現物で見る限り、こういった短い刀は蝦夷(えみし)あるいは俘囚(ふしゅう)達が使い始め、中央との交流によって都へも伝わり、身軽に動かねばならない郎党などの武器として普及したと考えられます。
注) 『光徳刀絵図』は、安土桃山時代から江戸時代初期の研ぎ師であり、日本刀鑑定家でもある本阿弥光徳(ほんあみ こうとく)が、秀吉の命によって作成した名刀図鑑です。
東北地方では、古くから蝦夷(えみし)のお抱え鍛冶として舞草(もくさ)、月山(がっさん)、玉造(たまつくり)、宝寿(ほうじゅ)と呼ばれる鍛冶集団が繁栄を続けていたようです。そして古剣書にも、平安時代の承平頃(九三一)を筆頭に雄安、世安、有正など多くの刀匠銘を記載しています。舞草鍛冶は岩手県の一関市を拠点とした鍛冶集団で、奥州鍛冶の中心を成した鍛冶です。
出羽国月山の山麓に住していた月山鍛冶は、この地方の蝦夷(えみし)や修験僧の求めに応じて鍛刀した鍛冶集団で、室町時代以降にかなり繁栄し、さらに戦国時代には多くの作品を残しています。月山鍛冶はもともとは舞草一派の刀工で、江戸時代の『古刀銘尽大全(ことうめいづくしたいぜん)』などによると、月山初代は舞草鍛冶の鬼王丸の子で後に出羽国に移住し、元暦(1184年-1185年)から建久(1190年-1198年)頃の人とされ、代々続いたとあります。
月山鍛冶は霊峰月山の頂上で鍛刀したと伝えられていますが、年中積雪がある所なので、鍛刀したのは山形市に近い寒河江や、谷地の辺りであったと考えられています。また、月山の作風の特色は地肌が綾杉肌(あやすぎはだ)となることで、綾杉肌は月山肌(がっさんはだ)とも呼ばれます。
玉造鍛冶は宮城県玉造郡を拠点とした鍛冶集団です。玉造鍛冶ももともとは一関市を拠点としていた蝦夷(えみし)鍛冶(舞草鍛冶)でしたが、その一部が俘囚(ふしゅう)となって南の宮城県玉造郡に移住させられたと考えられています。
これら奥州の鍛冶はみな元は朝鮮半島からの渡来人で、その鍛刀技術は平安時代までは非常に優秀であったとされています。遠い昔に朝鮮半島から優秀な技術を持った人達が直接日本海を渡って東北地方にやって来たのでしょう。
その奥州鍛冶の製鉄技術は西日本とは異なったものであったと想像され、その材料は岩手県で豊富に取れた餅鉄(もちてつ/べいてつ)と呼ばれる鉄鉱石であったとも言われ、餅鉄は河原で採取出来る石ころのような形の磁鉄鋼で、その60%が酸化鉄と言われるほどの高純度の鉄鉱石で、作刀の妨げとなる不純物の含有率も低いといわれています。
しかし、中央やその影響下にある諸国と東北地方では、刀剣の成分分析において大きな違いが見られます。それは中央などの鍛冶の作刀には見られないチタン化合物や銅、コバルト、ニッケルなどの不純物が含まれているという結果が出ています。また製鉄に使用された鞴(ふいご/炉への送風装置)も、他の地域で使用された踏鞴(ふみふいご/足踏み式の鞴)などは使用せず、大型の吹差吹子(ふきさしふいご)を使用していたと考えられています。吹差吹子は各地で使用されていましたが、鞴の発展により鍛冶の際に刀鍛冶が使用するようになったものですが、奥州ではこの吹差吹子が製鉄に使われ続けたようです。
奥州鍛冶に関することは多くの古剣書に記されています。現存する最古の刀剣書である『観智院本(かんちいんほん)』には、「神代から当代まで上手の事」として、鎌倉時代末期までの歴代名人42名が記載されており、奥州鍛冶は8人が挙げられています。その内訳は舞草系が鬼丸、世安、森房、幡房、瓦安、玉造系が諷誦(上一)、寶次、月山系が月山となっています。しかし奥州鍛冶の最盛期は平安時代後期の奥州藤原氏の時代で、奥州藤原氏が滅亡すると鎌倉時代初期には舞草鍛冶はそのほとんどが滅亡し、その後は平泉を中心に宝寿が、出羽国では月山が修験僧のために細々と鍛刀を続けているに過ぎません。
注) 『観智院本』は、現存する最古の刀剣書で重要文化財に指定されています。文中に鎌倉末期の元号である「正和五年/1316年」という記述があり、奥書には室町時代の元号である「應永卅年十二月廿一日/応永30年12月21日/1423年」の記述があり、鎌倉末期に記された原本の室町時代の写本であることが分かります。神代から当代(鎌倉末期)までの刀工の系図、当代の刀工の作風などが書かれています。「銘尽」と記されていることから『銘尽(めいづくし)』と呼ばれますが、原本を『正和銘尽(しょうわめいづくし)』、現存する写本は観智院が旧蔵していたことから『観智院本銘尽』、『観智院本』と呼ばれます。
東北地方の蕨手刀が日本刀の反りの始原ではないかと言われていること、古剣書や説話集などに奥州鍛冶の刀に関する記述があること、また奥州の鍛冶が全国へ移住した、もしくはさせられたことなどから、奥州鍛冶の技術が全国に伝えられ、古刀五箇伝のうちの大和、山城、備前、相州の各伝法は奥州鍛冶が基礎を築いたなどという説を聞きますが、それは本当なのでしょうか。私は大いに疑問を持っていますので、これらの元となった記述を考えてみましょう。
『観智院本』には、以下のような記述があります。
- 「神代より当代までの上手の事」として42工を挙げ、そのうち8名が舞草系鍛冶である。
- 光長という奥州鍛冶が立鼓柄(りゅうごづか)の刀を朝廷のために三千本作ったので、これが世の中に流布した。
- 山の目(奥州平泉)に四郎太夫という三寸忌樋の太刀を直刃に焼く刀工がおり、三浦大介の居館のある三浦郡の沼間に移り、「咲栗」という太刀をつくって献じた。それが三浦家重代の太刀になったが、その作風には細焼きの大和太刀の風情がある。
- 「上一ひけきりを作」とあり、源氏重宝の「髭切」は奥州の上一の作であるとある。
『高野御幸記』の天治元年(1124年)十月条には次のような記述があります。
『平治物語(13世紀始め頃?』の「源氏勢揃の事」の条には以下のような記述があります。
- 八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。源氏重代の太刀は奥州住人文寿という鍛冶の作なり
『今昔物語集(12世紀始め頃)』の巻二十九には以下のような記述があります。
- 我が此の帯たる大刀は、陸奥国より伝え得たる高名な鍛冶の大刀也、此見給え
『義経記(南北朝時代から室町時代初頭頃)』六巻の「忠信自害」の条には以下のような記述があります。
- あはれ刀や、舞房に誂へて、よくよく作ると云ひたりし効あり。腹を切るに少しも物のさわる様にもなきものかな。此刀を捨てたらば、屍に添えて東国まで取られんず。若き者どもに良き方、悪しき刀など言はれん事も由なし。
『日本刀銘鑑(雄山閣 本間薫山 校閲/石井昌國 編著)』には下記の記述があります。
- 有正/舞草。安房弟。陸奥。
- 有正/有正子。古備前正恒の父。
注)ここでは一関を中心とした鍛冶集団を舞草鍛冶、そこから分かれた月山、玉造、宝寿を総称して舞草系鍛冶、陸奥国(むつのくに)全体の刀工を奥州鍛冶と表記します。
舞草系鍛冶が優秀であったという根拠としては、『観智院本』に「神代より当代(鎌倉後期)までの上手の事」として、42名の刀工が掲載され、そのうち8人が舞草系鍛冶であるという点が挙げられるようです。名工として挙げられている舞草系鍛冶は平安時代の舞草鍛冶を指しているようですが、これらの刀工の作刀は現存しません。「神代から当代までの上手の事」と評されたほどの名工の作刀がなぜ現存しないのでしょうか。他の名刀のように代々大切に受け継がれるべきものなのではないのでしょうか。
名工として挙げられた舞草系鍛冶の作刀が現存しない理由のキーワードは、「神代から」という言葉にあるのではないかと私は思います。つまり名工として挙げた舞草系鍛冶は、一昔前の名工として挙げられているのではないでしょうか。つまり同じ名工と言っても、現在の名工と一昔前の名工とでは、その作風や求められる品質などに差異があるはずなのです。従ってもし『観智院本』が挙げた名工とされる舞草系鍛冶が一昔前の名工として挙げられているのであれば、これらの舞草系鍛冶と宗近や友成、安綱など、初期日本刀の名工達と同等に考えるのは間違いであると思います。ここからはこれらについて私見を述べます。
そもそも古剣書が記された時代には、地位のある人が有する刀剣類を簡単に観ることはできず、ましてや批評などはとてもできるような社会情勢ではありませんでした。従って現在のように刀剣を比較研究など出来ず、刀剣の時代的姿や銘字の研究などは誠に稚拙なものでした。そして鎌倉時代の太刀と同じ姿の太刀が平安時代にも存在していたと考えられており、このために鎌倉時代のものが多く平安時代の作として誤認されていたのです。
完成された在銘日本刀は、平安中期の永延(987年-989年)頃が始まりであるとされてきました。それは、在銘日本刀で最も古調な山城国の三条宗近が、『観智院本』の一条天皇(在位986年-1011年)の御代の人物として掲載されているからです。そこには「宗近三条小鍛冶、小乱、又直刃有、剣あまた作也」とあります。しかし、別の項には信西(しんぜい)のために小狐を作ったとか、後鳥羽院の御剣を作ったとも記されています。
信西は鳥羽上皇の院の近臣として重用され、保元の乱では源義朝(頼朝の父)が提案した、当時は卑怯とされていた夜襲の作戦を取り入れて後白河天皇側に勝利をもたらした人物で、平治の乱(1160年)で破れて自害しています。また、後鳥羽天皇は建久九年(1198年)に退位してから、承久三年(1221年)に渡るまで院政を行った人です。
日本刀の研究が進んだ現在、古剣書が宗近を平安中期の永延頃とする記述は誤記であると考えられています。三条宗近など現存する在銘日本刀の作者達は平安中期の永延(987年)頃までは遡らず(さかのぼらず)、平安後期の平治(1159年)頃を少し遡る頃の人物であるというのが現在の考えです。つまり『観智院本』に見られる宗近に関する記述から、一条天皇の御代としているのは二条天皇(在位1158年-1165年)の誤記であると考えられており、古備前友成や正恒といった刀工も宗近と同時代の刀工です。つまり古剣書が伝えてきた在銘日本刀の登場は、およそ170年も古く考えられていたのです。
また、鬼を切ったとして有名な童子切安綱(どうじぎりやすつな)の作者である伯耆国安綱は、古剣書では大同(806年-810年)頃を初代とし、童子切安綱は平安初期の初代安綱の作とされ、安綱は日本刀に銘を切った最古の刀工であるとされてきましたが、安綱も宗近、友成らと同年代の刀工であり、安綱に至っては350年もの時代差があるのです。
日本刀の偽物は非常に早い時期から横行しており、比較研究が充分ではなかった当時、これら偽物が堂々と古剣書に本物として掲載されているのです。例えば、室町時代の刀剣書に『往昔抄(おうじゃくしょう)』がありますが、そこには「宗近 永観二年二月日」と切られた太刀の押形が掲載されています。永観二年は983年であり、この時代には今だこのような整った太刀は無いというのが現在の見解ですが、古剣書に宗近は永延頃の刀工と記されてきたため、偽物師がこのような偽物を作り、それが本物として掲載されているのです。これはほんの一例であり、このような偽物が横行していたのです。
こういった事情から、古剣書には特に時代を誤認した、あるいは故意に格上げした記述が多く、後の古剣書もこれらを手本としたためずっと誤りが受け継がれたのです。従って、古剣書に書かれているから全て真実だなどというのは大きな間違いなのです。古剣書は一つの資料とはなりますが、絶対ではないのです。
先にも書きましたが、『観智院本』が言う、神代から当代までの上手の事として挙げた舞草系鍛冶の作は平安時代の刀工を指しているようですが、これらの刀工の平安時代の作刀は現存しません。この疑問に対しては、日本刀初期の有名刀工の多くが実は舞草鍛冶であるので、舞草鍛冶の作としては現存せず、例えば伯耆国安綱、古備前正恒、豊後国行平、三条宗近などとして伝えられているのだとする説があります。しかし、平安後期の舞草系鍛冶と、宗近らとはその作風がかなり異なっていたと考えられるのです。
『観智院本』では、舞草鍛冶の中でも名工と伝えられている安房の作風について、「安房、埋□、円峯、茎土目、しのきいやし」と記しています。文中の「埋□」の部分は、「□」の漢字がパソコンで変換出来なかったのでこうしましたが、「□」の漢字は金偏に「卒」と書きます。この「埋□」の文字は同所の奥州鍛冶に関する記述の中に度々登場しますが、全国で発見された蕨手刀をつぶさに調査した石井昌国氏は、その著書『蕨手刀 日本刀の始原に関する一考察』の中で、これは古剣書で言う「うずみやき」であるとしています。「うずみやき」とは、焼刃土を塗らずに刀身全体に低温で焼き入れを行うことで、蕨手刀から続く奥州鍛冶の焼き入れ法です。これは日本刀で言う刃文が無いということです。
従って『観智院本』が言う安房の作風は、「刃文はみえず丸棟で、茎の鑢目は無く鎚目(つちめ)を残し、鎬(しのぎ)がいやしい」ということになります。この「鎬いやし」の意味を、石井氏は「鎬筋(しのぎすじ)が正確に立たない高肉程度のものを指すのではないか」としています。
また光長の条には、「埋□で立鼓柄を鎚目仕立てにしたものや、共鉄柄になる三寸忌樋の刀がある」とあります。これは安房と同じく「うずみやき」で、立鼓柄(りゅうごづか)の刀の茎(なかご)を鎚目にしたもの、すなわち茎の刃側と棟側の中程を少し絞って細くした茎仕立て(なかごしたて)にした刀を作っているということです。これは先に解説した立鼓柄刀(りゅうごづかのかたな)のことです。また「三寸忌樋」とは、石井氏は毛抜形の透かしであるとしています。それは毛抜形刀(けぬきがたのかたな)や毛抜形太刀(けぬきがたのたち)に見られる透かしが、みな縦三寸の長さに打ち抜かれているからです。従って「共鉄柄になる三寸忌樋の刀」とは毛抜形刀のことです。
現在、刀工を調べる際に最もよく参照されるのは故・藤代義雄・松雄氏著の『日本刀工辞典』ではないでしょうか。これは戦前に発刊された書籍ですが、最も信頼される刀工辞典で、古剣書を参考に独自に整理しまとめたものです。
光長は安房の子とされ、立鼓柄の刀(りゅうごづかのかたな)を三千本朝廷に納め、それらが広く世に流布したと『観智院本』に記されています。『日本刀工辞典』によると、安房、光長という刀工は同銘が数人ありますが、光長は平安中期の応和(961年)が最も古く、「安房の子、永延とも」とあり、刀三千本を帝王に納めたとあります。しかしその父とされる安房はこの光長以前には見当たらず、平安中期末の康平(1058年)が一番古く、「舞草鍛冶の祖という」とあります。
この安房が舞草鍛冶の祖であるなら、子である光長はそれ以降に出てこなくてはなりません。そうなると、『日本刀工辞典』によると平安後期の大治(1126年)に光長がいますが、これでは康平の安房と70年近くの差ができてしまいます。しかし同じ大治頃に安房の名もあり、「舞草鍛冶の盛期はこのころのようである」とあります。従って古剣書が言う安房や光長はこの頃の刀工ではないかと思います。
先に解説しました通り、立鼓柄刀は平安中期最末期に起こった前九年合戦で破れ、1062年に斬首された安倍貞任(あべの さだとう)の刀とされるものが現存していますので、やはり『観智院本』が言う三千本の立鼓柄刀を納めた光長やその父である安房は平安後期の刀工と考えられます。ただし、前述の通り平安後期には平造りの打刀が下層の武士や僧侶、一般庶民にも広く普及し、それらは『伴大納言絵詞』にも描かれています。そして都の三条宗近などもこういった平造りの打刀を作っていることから、光長が納めたと言う刀三千本は平造りの打刀であったのかもしれません。
このように『観智院本』によれば舞草鍛冶は平安後期に至っても「うずみやき」であり、脇差サイズの短い刀ばかりを作っていたことが分かり、これは現存する作刀とも一致します。また、『観智院本』が言う、刀三千本を納めた光長やその父・安房は、宗近や友成、行平、安綱など初期日本刀の刀工達とほぼ同年代の刀工であることが分かり、『観智院本』などの古剣書はこの平安後期の光長や宗近らを平安中期の永延頃の刀工だと誤認していることが分かります。そうなると、宗近らが完成された日本刀を作刀していた頃、舞草系の刀工は名工とされる刀工でも今だ刃文が無いうずみやきを行っていたことになります。従って同じ平安後期(古剣書は平安中期と誤認している)の刀工でも、舞草系の刀工達と宗近らとはその作風が全く異なっていたことが分かります。
作風とは具体的には刃文であったと思います。宗近ら初期日本刀の刀工の作刀には刃文と呼ぶべきものがありますが、舞草系の刀工は刃文が無いうずみやきです。日本刀は武器ですから、その主たる用途の斬れ味に重点が置かれたはずですが、やがて当時の人達は武器である日本刀の中にも機能美を発見したのだと思われます。それが刃文だったのではないでしょうか。刃文は装飾のために生まれたものではなく、武器として制作する上で偶然生まれた機能美で、それを当時の人達は見逃さなかったのです。
ではなぜ刃文が無い舞草系刀工が名工と評されたのでしょうか。それはあくまで武器として優秀であったからではないでしょうか。蕨手刀(わらびてのかたな)、そこから発展した毛抜形蕨手刀(けぬきがたのわらびてがたな)、毛抜形刀(けぬきがたのかたな)、立鼓柄刀(りゅうごづかのかたな)と、奥州の刀工は柔らかい鉄に異鉄を混ぜて上手に鍛え、平造りの刀身に反りを持たせ、硬度が低い等身の硬度を増すために刀身全体に弱く焼きを入れる、いわゆるうずみやきをほどこしています。こういった形状の刀であったため、斬れ味には優れていたと思われます。古剣書にも「髭切」、「鎧切」などその斬れ味の異名を持つ刀が記されています。その斬れ味の良さから武士達にもてはやされたことは想像できます。
しかし、刃文といった美的要素が武器である日本刀にも求められるようになると、斬れ味は優れていても脇差サイズの短い刀、刃文が無いうずみやきは時代遅れとなったのではないでしょうか。そこで舞草鍛冶は平安末期に中央から大和伝を取り入れ、その作風を変化させていったのです。
『観智院本』は舞草鍛冶の全体的な特徴として、刃文が見えない「うずみやき」で、茎は薄く短く作られており、鑢目は無く鎚目になり、茎尻は細められてその先はぶっきりとなるとも記しています。そして忘れてはならないのは蕨手刀とそこから変化した毛抜形蕨手刀や毛抜形刀の作風です。これらも舞草鍛冶の手になるもので、東北型の蕨手刀の地肌は板目が良く詰んだ梨子地肌で、焼きの弱い「うずみやき」で匂出来(においでき)に小沸(こにえ)が付くというものです。
それが一般的な舞草鍛冶の作風とされる、流れこころの柾目に地班映りが現れ、小沸出来で刃縁がうるみがちであるといった作風へ転じるのは、平安末期に中央と交流を持つようになって大和伝を学んでからのことです。つまり焼き入れの温度が低い匂本位の作刀から、焼き入れ時の温度が高い沸本位に転じており、これはただ単に焼き入れ時の温度が違うというものではなく、その鍛え方などが根本から違ってくるのです。舞草鍛冶は、平安末期以降に大和伝風の作風に転じ、それ以前とはその作風を変えているのです。
舞草系の刀工は鎌倉時代の宝寿(ほうじゅ)を除いて在銘のものは少なく、また現存するもので平安時代の作と鑑せられるものは、平安末期の閉寂(ふさちか)の太刀のみで、閉寂の太刀は現存する在銘の舞草刀で最古のものです。鎌倉時代の在銘作としては世安(としやす)の重要美術品指定の太刀、舞草(もくさ)、舞房重長(しげなが)、国平(くにひら)、友安(ともやす)などがあります。
世安の鎌倉期の作と思われる太刀は、鎬造り(しのぎづくり)で板目流れて肌立ち、地斑映り(ちはんうつり)や地景(ちけい)が現れています。刃文は小乱れに丁子交じり、砂流しかかり、匂深く小沸がついています。鋩子(ぼうし)は焼き詰めごころにわずかに返っており、茎(なかご)の鑢目(やすりめ)はせん鋤(せんすき)で、この時代に他の地域には無い古い技法となっています。この太刀は重要美術品に指定されています。こういった鎌倉時代の作風が、舞草鍛冶の作風と思われがちですが、既に説明しましたようにこういった作風は平安末期以降の作風で、それまでとはその作風を異にしているのです。そしてこういった舞草鍛冶の作刀中でも優秀な作風を古来からの舞草鍛冶の作風と誤認し、『観智院本』に見られる「神代より・・」の記述と相まって、舞草鍛冶伝説が作られたのではないでしょうか。
舞草鍛冶が大和伝を取り入れたと考えられる記述がやはり『観智院本』にあります。それは先に挙げた「山の目に四郎太夫という三寸忌樋の太刀を直刃に焼く刀工がおり、三浦大介の居館のある三浦郡の沼間に移り、咲栗という太刀をつくって献じた。それが三浦家重代の太刀になったが、その作風には細焼きの大和太刀の風情がある」という記述です。
三浦大介(みうらだいすけ)とは三浦義明(みうら よしあき/1180年没)のことで、義明は相模国(さがみのくに/神奈川県)の国司次官である介(すけ)を務め、相模国の三浦半島一帯に勢力を持った人物で、氏(うじ)は平(たいら)で、いわゆる平氏です。関東に勢力を持った平氏を坂東平氏(ばんどうへいし)と呼びますが、義明はその坂東平氏の一族です。
平安中期、平将門の子孫である平忠常(たいらの ただつね)が関東で起こした大規模な反乱を源頼信が治めて以来、坂東平氏は源氏に従うようになり、義明も源義朝(みなもとの よしとも/頼朝、義経の父)が関東へ進出する際に力を貸しました。この義明の拠点である三浦半島に、奥州舞草鍛冶の四郎太夫が移住し、「咲栗」という太刀を作って献じたというのです。「三寸忌樋の太刀」とは毛抜形太刀のことで、これによっても毛抜形太刀が俘囚(ふしゅう)が関東武士のために作ったものと分かります。
そしてその献じた太刀に「大和太刀の風情がある」とあります。これを根拠としているのか、大和伝の始原は舞草鍛冶であるといった説も見ます。しかし、奥州鍛冶の作風は、平安後期に至るまで基本的に匂出来に小沸が付くというもので、焼きが非常に弱いものです。これは蝦夷(えみし)が作った蕨手刀の地刃の特徴を見れば分かります。そして地肌は板目が良く詰んだ無地風の梨子地肌やおおまかな板目となり、焼刃土を用いないため刃文が無い「うずみやき」となります。一方、大和伝は沸本位(にえほんい)であり、地肌は柾目で既に奈良時代には三尺近い刀身に直刃を焼く技術を持っており、大和伝はほぼ奈良時代にはその基本が出来上がっており、これらの鍛法は全く別物です。
『観智院本』に見える「その作風には細焼きの大和太刀の風情がある」という部分は、舞草鍛冶が大和伝の始原であるということを言っているのではなく、平安後期もその末に至って中央の鍛冶と交流を持ち、ようやく「うずみやき」の脇差サイズの刀ではなく、焼刃土を使って直刃を焼く大和風の太刀を作るようになったということを示しているのです。その作刀の例が無銘の太刀の項で挙げた愛媛県の大山祇神社(おおやまづつみじんじゃ)所蔵の無銘太刀です。古剣書に「舞草は根本大和物」などと書かれているのは、平安末期以降に舞草鍛冶が大和風の作風に転じてからの、大山祇神社蔵の無銘太刀のような作風を言っているのです。つまりは舞草鍛冶が大和伝の始原なのではなく、舞草鍛冶が逆に大和伝を学んだのです。
注)「四郎太夫」の読み方についてですが、どの書物などにもふりがながなく、通常このように書けば「しろうたゆう」と読む事になります。「太夫」は「大夫」から転じた言葉で、「大夫」は律令制下における特定の官職の長官を表す場合と、五位以上の位階を持つ人を指す場合があり、官職を表す場合は中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)などのように「だいぶ」と、位階を表す場合は「たいふ」と読みます。五位の者が神職や芸能ごとを担当したことから、後には神職や芸能ごとの師匠などを大夫から転じて「たゆう」と呼ぶようになり、「太夫」の文字をあてました(詳しくは大夫と太夫をご覧下さい)。従って「四郎太夫」は当然官職を表すものではなく、位階を表すものでもないと私は思います。なぜなら「四郎」は通称の名前であって、このような通称に位階を表す意味の言葉を付けるということが考えにくいからです。そこで「四郎太夫」はやはり「しろうたゆう」と読み、刀工の頭といった意味の敬称としての「太夫」であると思いますが、確証がないのでふりがなはふりませんでした。
『観智院本』には舞草鍛冶の四郎太夫が相模へ移住して鍛刀したという記述があり、また「山内四郎太夫流の国綱」という記述もあり、このようなことからか、この四郎太夫が相州伝の祖であるとする説があるようです。相州伝は鎌倉幕府五代執権北条時頼が、山城国から粟田口国綱を、備前国から三郎国宗を招いたことから始まり、国綱の子とされる新藤五国光(しんとうごくにみつ)がより武士の気風に合った作刀を研究し、その弟子である行光(ゆきみつ)が師の作風をより強化した作刀法を研究し、その子とされる正宗によって相州伝が完成したのですが、この元となった粟田口国綱を、『観智院本』に見える山内四郎太夫流の国綱に結び付け、相州伝の祖は舞草鍛冶である四郎太夫であるとしているような気がします。
小笠原信夫氏の『日本刀の歴史と鑑賞』によると、「国綱」と銘があるどの系統の鍛冶かは不明の太刀が重要文化財として存在し、この国綱がひょっとするとこの山内四郎太夫流の国綱であるのかもしれないとあります。しかしその作風は粟田口国綱とは全くの別人であるとも述べています。
山形県の月山の麓に近い野田遺跡から発見された、蕨手刀子(わらびてのとうす/蕨手刀の地刃の特徴参照)は、鎌倉後期の越中則重(のりしげ)が得意とする、松皮肌(まつかわはだ)を彷彿とさせる地肌となっています。則重は正宗十哲(まさむねじゅってつ)に数えられる鎌倉末期の名称です。そしてこの蕨手刀子は綾杉肌(あやすぎはだ)も見せています。これは月山肌とも呼ばれる月山鍛冶の特徴的な鍛法です。このような、後の相州伝を彷彿とさせる地肌を持つ蕨手刀子が月山の麓近くから発見されたことも、舞草系鍛冶が相州伝の始原であるとする説の根拠となっているのかもしれません。
しかし、群馬県の巌鼓神社に伝わるU型(中部・関東型)の蕨手刀にも渦巻き状の大肌があり、地景(ちけい)が現れて沸映り(にえうつり)立ち、非常に沸(にえ)が強い作風で、猛烈な働きが現れた刀です(蕨手刀の地刃の特徴参照)。
山形県の野田遺跡から発見された蕨手刀子は、あくまでも匂出来(においでき)であって、この群馬県の巌鼓神社の蕨手刀こそ荒沸本位(あらにえほんい)の相州伝の源流と言えるのではないでしょうか。そして信濃国や上野国は中央の大和国とも密接な関係を持つ国でした。
『観智院本』には、「大和に当麻といふ鍛冶あり、禅林寺の法皇当麻へ御参りありけるに御剣を奉まつりて兵衛尉になされけり、実名は知らず、但鎌倉の新藤五が孫の鍛冶なり」とあります。禅林寺の法皇は亀山上皇のことで、天皇は文永十一年(1274年)に譲位して上皇となっています。そして上皇は奈良の当麻寺(たいまでら)に参詣し、その時に新藤五の孫が当麻鍛冶の中にいたというのです。当麻一派(たえまいっぱ)は、大和伝を鍛える大和五派の1つです。そして新藤五は先に述べた通り鎌倉へ下向した山城国の粟田口国綱の子と言われ、相州伝の祖とされる人物です。その孫が奈良の当麻一派の刀鍛冶であったと言うのです。そして小笠原信夫氏は、『日本刀の歴史と鑑賞』の中で、「相州行光と大和当麻の作風が近いことはよく指摘されるところであるが、単に作風の近似というだけでなく、実際に密接な交流があったと考えられる。」と述べています。
注)「当麻」の読み方についてですが、当麻寺には「たいまでら」と「たいま」とふりがなを付け、刀工の流派である当麻一派には「たえま」とふりがなを付けました。なぜ違った読みになるのかという事ですが、通常刀工の流派を表す当麻は「たえま」と読みます。しかし、現在もある当麻寺は「たいまでら」と読むようですのであえてそれぞれのふりがなを付けました。
行光は新藤五の弟子で、師である新藤五の鍛法をより沸(にえ)の強い鍛法へと強化し、それを子とされる正宗に伝えて相州伝が完成したのです。行光は、鎌倉初期の後鳥羽上皇の御番鍛冶に選ばれた名匠・豊後行平の直系です。行平の父は大和国で大和伝を学び、子である行平に伝えました。従って行平直系の行光も大和伝系の刀工なのです。そして同じく大和国と深いつながりがある、鎌倉の新藤五の弟子となり、新藤五が父・粟田口国綱から学んだ山城伝に大和伝を加味してより沸(にえ)の強い鍛法を研究し、その子・正宗へと伝えたのです。こうして完成した相州伝は、群馬県の巌鼓神社に残る蕨手刀のようなおおまかに鍛えた地鉄に強い焼き入れを行うといった作刀法が、既に関東地方の鍛冶に下地としてあったからこそ完成したのではないでしょうか。私は相州伝の完成には大和伝が大きく関わっていると思います。
『観智院本』など古剣書のうわべだけを鵜呑みにし、あらゆる日本刀に関わるものが舞草鍛冶を祖とするといった舞草伝説にはおおいに疑問があります。
名工として名高い古備前正恒(まさつね)は舞草鍛冶の有正の子、または同人であると言う説があります。有正は安房の弟であるとも言われ、『日本刀工辞典』によると、平安後期の保延(1135年)頃に有正がおり、この有正が正恒の父とされる有正であると思われます。しかし、私はその作風において何か釈然としないのです。正恒の父とされる有正は、安房の弟で、『観智院本』の言う安房の作風は前述の通りです。またその他の舞草鍛冶の作風も同様です。正恒は友成とともに古備前の双璧と称される名工で、むしろ友成よりも優れているとも言われる刀工です。平安後期の舞草鍛冶の作風と、古備前の正恒の作風がどうしても結び付かないのです。
『古刀銘尽大全(ことうめいづくしたいぜん)』をはじめ、古剣書には「七種の正恒がある」と記しています。七種の正恒とは、「正恒」と二字銘に切る刀工が7人いるということで、古備前に五人、備中国の青江に一人、筑紫国に一人の計七人であると言われます。
古備前の刀工は鑢目は切(きり)となり、銘は佩表(はきおもて)に切りますが、古青江の刀工は鑢目は大筋違い(おおすじちがい)で銘は佩裏に切ります。従って古備前鍛冶と古青江鍛冶はこれらの違いによって区別できるのですが、古青江の正恒は青江鍛冶と称される刀工の中でも、妹尾(せのう)系と称される系統の鍛冶で、妹尾という地は備前国長船と川を隔てて隣接する地域ですので、古備前風の作風となっているのです。つまり古青江であっても鑢目は切、銘を佩表に切るのです。従って古備前正恒と古青江正恒はよく似た作風であるため昔から混同されて来たのです。
また、筑紫国の正恒の作と鑑せられる確実な在銘品はなく、無銘のものに筑紫正恒と極めが付いたものがあるようで、古備前の正恒や青江の正恒に比べて姿が弱く、焼きが弱く刃縁が締らずぼやけた刃縁であり、地肌が肌立ち気味の古備前風の作品が筑紫正恒と極められると言われます。しかし、これらは「正恒」とみな二字銘に切り、昔は大名家などが収蔵する日本刀を比較研究することなどできなかったため、これらの「正恒」と切られたものが混同されたり、また作位が低い刀を故意に作位が高い刀工のものと極めたものが多々あるのです。
筑紫国(つくしのくに)は筑前、筑後の二国に分かれる前の名称で、古くは九州全体を指しました。筑紫正恒と呼ばれる刀工は、平安最末期から鎌倉前期に活躍し、後鳥羽上皇の御番鍛冶にも選ばれた名工・豊後国行平(ゆきひら)の弟子あるいは孫と言われる刀工です。筑紫正恒と極められる作風は、地肌はよく鍛えられてはいますが大肌が交り、焼きが弱くうるみがちであるとされます。この作風は平安時代の舞草鍛冶の作風に通じます。従って、私は舞草鍛冶とされる正恒は、この筑紫正恒ではないのかと思います。時代が経つにつれ本来は筑紫の正恒であったものが、舞草伝説によって位列が高い古備前正恒に格上げされて伝承されたのではないのでしょうか。
筑紫正恒の師とされる豊後国の行平の父は、定秀(さだひで)という豊前国の彦山(ひこさん)の僧鍛冶で、『古刀銘尽大全』には紀大夫(きのたゆう)という彦山三千坊の学頭であるとあります。つまり歌人として有名な紀貫之(きの つらゆき)らと同族です。奈良の千手院(せんじゅいん)一派に大和伝を学び、後に彦山へ迎えられています。行平は定秀の子とされますが、「豊後鍛冶系譜」には定秀の甥(おい)と記されており、後養子となったと言われます。
行平の妻は舞草鍛冶の娘であるという伝承があることから、行平も舞草鍛冶であり、その作風が舞草鍛冶の作風に似ているという説があるようです。行平は罪あって上野国(こうずけのくに/群馬県)に流罪となったことがあり、10年以上をここで暮らしています。関東地方には朝廷に従う俘囚(ふしゅう)となった蝦夷(えみし)達が多く強制移住させられており、この時に舞草鍛冶の娘と知り合ったとも考えられますが、行平の妻が舞草鍛冶の娘だからと言って、それを以て行平が舞草鍛冶であるとするのは無理があると思います。行平の父、あるいは叔父とされる定秀は、前述の通り紀氏ですから行平は舞草鍛冶ではありません。
九州は古くから防衛の最前線として強化され、大和国から刀鍛冶も多く派遣されています。例えば平安時代の貞観十五年(873年)十二月、朝鮮の侵攻に対して、朝廷は関東の武士や大和国の鍛冶集団を派遣して防衛の強化を図っています。これにより、九州には大和伝系の鍛冶が多いのです。また、行平の父・定秀は直接大和国の千手院一派(せんじゅいんいっぱ)から大和伝を習って帰国しており、定秀の弟子である行平が大和伝であるのは当然であり、平安末期に大和伝風の作風に転じた舞草鍛冶と作風が似るのは当然のことです。
師と共に行平は区(まち)上の数センチを焼き落とすという手癖があります。焼き落としとは、区(まち)の数センチ上から焼刃を渡すというもので、区の上の数センチには焼刃がないのです。これは、奈良の正倉院に収蔵されている蕨手刀や、中央の影響を強く受けた同じV型の蕨手刀に共通する手法です。定秀や行平が焼き落としという、奈良時代の大和物に見られる手癖を見せるということは、正規の大和伝を学んでいる証拠であり、舞草系鍛冶にはこのような手法はありません。
行平の妻が舞草鍛冶の娘であったとすれば、その縁で舞草鍛冶が行平の弟子となることは十分考えられ、それが筑紫正恒であったのではないでしょうか。また、もし伝承通りに筑紫正恒が行平の孫であったとすれば、行平と舞草鍛冶の娘である妻との間に産まれた子は舞草鍛冶の血を引くことになり、またその子、つまりは行平にとって孫も舞草鍛冶の血を引くことになり、筑紫正恒は舞草鍛冶の血を引く者ということになります。
舞草鍛冶の血を引く筑紫正恒が、同じ正恒の名を持つ古備前正恒にいつしか格上げされ、こういった舞草伝説が生まれたのではないのでしょうか。
源氏重代の家宝とされる「髭切(ひげきり)」に関しては、先に舞草鍛冶に関することは様々な書物に記されているとして挙げた、『平治物語』の「源氏勢揃の事」の条に、「八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。源氏重代の太刀は奥州住人文寿という鍛冶の作なり」とあることから、髭切は文寿という舞草鍛冶の作とされます。
しかし、『平家物語』に記されている髭切の作者は別人であり、『太平記』に記されている源氏重代の家宝である太刀は、『平家物語』に出てくるものとは別物となっています。
『観智院本』にも髭切に関する記述が見られますが、「大同元年にひけきりを作」、「上一ひけきりを作」など様々な記述が見られます。『日本刀工辞典』には、文寿は大宝(701年)、天慶(938年)、長和(1012年)の三人が見られ、大宝の文寿は「源氏重代鬚切作者」、天慶の文寿は「多田満仲の太刀作者」、長和の文寿に関しては特に記載はありません。しかし、大宝と言えば時代区分で言うと飛鳥時代であり、蕨手刀(わらびてのかたな)がようやく東北地方に伝わった頃で、源氏の祖である嵯峨天皇(さがてんのう)の治世の100年も前です。源氏がまだいない時代に源氏の重宝を作るはずがありません。
また、天慶の文寿の項に見られる多田満仲(ただ みつなか)とは、源満仲(997年没)のことで、満仲が現在の兵庫県川西市多田に拠点を置き、源氏として初めて武士団を形成し多ことから「多田」と号し、摂津源氏と呼ばれます。満仲の子である河内源氏の祖・頼信(よりのぶ)が関東の武士を束ねて武士団を形成し、後の頼朝が鎌倉幕府を築く基礎を造り上げたため、満仲はいわば武家源氏の祖とも言えます。
この天慶の文寿が満仲のために刀を打つということには時代的には無理はありませんが、この頃の太刀となると現在私達が言う日本刀とはその姿は異なっています。山城国の宗近や古備前友成など、在銘日本刀の刀工が現れるのはこれよりも100年以上も後のことだからです。この頃の現存する作刀はごく希ですが、その姿は長野県塩尻市宗賀で発見された最古の毛抜形太刀(けぬきがたのたち)などに見ることが出来ます。この毛抜形太刀の年代は平安時代中期の永延(987年-989年)頃と考えられており、平造りで二尺二寸一分と短い太刀です。毛抜形太刀は関東の武士達の太刀として一時期使用されていたもので、天慶の頃の文寿が作ったのであれば、このような短い平造りの毛抜形太刀か、もしくは毛抜形刀(けぬきがたのかたな)ではなかったかと思います。
また、『観智院本』には「上一ひけきりを作」とあり、『日本刀工辞典』によると、平安後期初頭の承保(1074年-1076年)頃の上一の所に「ひけきりを作」とあります。この上一は、『観智院本』が挙げた42名工の一人である諷誦と同人で、文寿は42名工には含まれていないことから、髭切はやはりこの承保頃の上一の作であったのかもしれません。
『観智院本』に髭切について「めぬきにあなあり」とあります。目貫とは、柄木(つかぎ)が茎(なかご)からスッポ抜けないよう、茎と柄木に空けた穴に目釘(めくぎ)を通して固定するようになった際、目釘の見える部分に装飾を施したもので、後には目釘から独立して装飾兼手溜まり(てだまり/握り具合)を良くする金具となりました。従って目貫に穴ありとは目釘穴のことではないかと思います。そうなると、承保頃の刀で目釘穴がある刀、すなわち共柄ではなく茎(なかご)が仕立てられた刀となれば、前述した無銘の太刀があります。これは鎬造りですが、髭もろとも切れたとするならば平造りの太刀であったかもしれません。
『観智院本』からでは髭切がいつ誰によって作られたかは判断出来ませんので、ここからは『平家物語』、『太平記』に出てくる源氏重代の刀に関する記述を見てみましょう。
『平家物語』剣の巻によると、源氏重代の家宝は髭切と膝丸(ひざまる)であるとし、平安中期の源満仲(みなもとの みつなか/997年没)が打たせた刀で、作者は筑前国三笠郡に住む唐国の鉄細工であるとされています。この刀工については詳細は不明です。髭切という名は、罪人で試し斬りしたところ、髭もろとも切れたことからこの名が付いたとあります。
満仲の長男である源頼光(みなもとの よりみつ/1021年没)の時代に、都に鬼が出ると大騒ぎになりました。それはとある女に恨みを持つ女が、復讐のために鬼と化すために全身を赤く塗り、頭に三本の松明(たいまつ)を取り付け、口にも先に火を付けた松明を二本くわえ、夜中に大通りを宇治川に向かって走っていく姿だったのです。37日の間、宇治川に姿を変えて浸れば鬼になれるとのお告げを受けたからでした。全身真っ赤に塗り、松明をくわえて鬼の形相で通りを走る女の姿を見た大勢の人がショック死してしまうほどの騒ぎとなったのです。
そんな中、頼光の四天王の一人である渡辺綱(わたなべ つな)が頼光の命で使いに行くことになり、夜は鬼が出るとのことなので髭切を持って行くよう渡されました。馬に乗っての帰り道、一条戻り橋で女が一人で歩いているのを見つけ、夜の一人歩きは危険だから送っていきましょうと女に声をかけました。すると女は鬼と化して渡辺綱の髪をつかんで愛宕山(あたごやま)へ向かって飛んでいこうとしたのです。綱はあわてずに髭切を抜いて髪をつかんでいる鬼の腕を切り落としました。すると鬼は愛宕山へと飛んでいったのです。綱が針のような毛がびっしりと生えた鬼の腕を頼光に見せると、頼光は大いに驚きそれ以後この鬼の手を切った髭切を「鬼切(おにきり)」と改名したのです。
そして源氏重代の家宝とされる、源満仲が髭切(鬼切)と共に打たせたもう一振の太刀が膝丸(ひざまる)です。作者は髭切と同じく筑前国三笠郡に住む唐国の鉄細工です。罪人を試し切りしたところ、膝もろとも切れたので膝丸と名付けられたとあります。
ある日、病(やまい)に伏していた源頼光に怪しげな僧が近寄り、縄をかけて捕らえようとしました。それに気付いた頼光は枕元の膝丸を取って僧に切りつけました。すると僧は血を流しながら逃げていきました。頼光の元へ駆けつけた四天王は頼光から膝丸を託され、僧が流した血の跡を追いました。すると大きな塚を発見し、掘り返すと四尺ほどもある土蜘蛛(つちくも)が現れ、この蜘蛛が頼光の病の原因と分かったため膝丸で切って退治しました。このことからこの膝丸は蜘蛛切(くもきり)と改名されたと言います。
その後これら二振の太刀は頼国(頼光の長男)、頼綱(頼国の子)、頼義(満仲の三男・頼信の子)、義家(頼義の子)へと代々受け継がれ、義家の子である為義(ためよし/1156年没)の代には、鬼切(髭切)は夜になると獅子の鳴くような声で吠えた(ほえた)ので、獅子ノ子と改名され、蜘蛛切(膝丸)は、夜になると蛇の鳴くような声で吠えたので、吠丸(ほえまる)と改名されました。
その後、吠丸は為義の娘婿である熊野別当・教真に譲られ、やがて牛若(後の義経)の所有となりました。源氏重代の太刀を手にした牛若はおおいに喜び、吠丸という名を熊野の自然にちなんで薄緑(うすみどり)と改名したとされます。
一方、為義は獅子の子と共に所有していた吠丸(膝丸)を熊野別当に与えたため、その代わりとなる太刀を獅子の子(髭切)を元に打たせます。その太刀は目貫(めぬき)が烏(カラス)の形をしていたので、小烏(こがらす)と名付けられたと言います。小烏は獅子の子(髭切)よりも2分(約6ミリ)ほど長かったと言います。
ある夜、これら獅子の子と小烏を抜き身で障子に立て掛けていたところ、誰も触れないのに二振が倒れ、小烏の目貫が折れて2分ほど短くなっていたというのです。為義は獅子の子(髭切)が自分よりも長い小烏を切ったのだと思い、獅子の子を友切(ともぎり)と改名したというのです。
その後これら友切と小烏の二振は源義朝に伝えられますが、源氏重代の宝刀・友切を持っているのに敗戦続きであったため、「世の末になって剣の力も失せたのか」と八幡大菩薩に嘆きました。すると「それは友切という名のせいである。名を元の髭切に戻せば剣の力も戻る」と大菩薩のお告げがあったといいます。義朝はすぐに名を髭切に戻し、そして頼朝に伝えられて源氏を勝利に導いたと言われます。
牛若は成長して義経となると、兄の頼朝が兄弟刀である髭切を持っていることを知り、自分が兄弟刀の一方を持っていては源氏を二分するとし、薄緑を箱根神社へ奉納したと言われます。そして曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち/1193年)に際し、この薄緑は箱根別当・行実僧正から兄弟に与えられ、大きな威力を発揮したといいます。その後にこの薄緑は頼朝に召し上げられ、髭切、膝丸の兄弟刀は頼朝の元に揃ったと言われます。
そして鎌倉幕府が滅亡すると新田義貞(にった よしさだ)の手に渡り、義貞が破れた後は最上氏(もがみし)に伝わったとされています。最上氏は足利氏(あしかがし)の一族で、足利氏は新田氏と共に清和源氏を祖とする河内源氏の棟梁である源義家の子・義国を祖とする一族です。
『平家物語』は鎌倉時代に成立したと考えられていますが、その詳細な時期や作者は不明です。活字を印刷するといった技術が無かった時代には、書籍はみな手書きであり、その貴重な書籍を複製するには一文字ずつ手書きで書き写すしかありませんでした。そのため古典文学には多くの写本があり、写し間違いや意図的に書き換えたりしたものが多くあります。『平家物語』も例外ではなく多くの異本がありますが、大きく分けると語り本系と読み本系とに大別されます。
語り本系は琵琶法師が琵琶を弾きながら語り聞かせたように、語り手の台本として書かれたものであり、読み本系は文字通り語り聞かせるのではなく、読ませることを目的として書かれたものです。これらには書き写した時代などによってそれぞれいくつかの異本があり、読み本系の異本のひとつが『源平盛衰記』です。『源平盛衰記』には本筋とは関係の無い逸話が多く書き加えられており、また『平家物語』とは異なった記述が多くなっています。
『平家物語』の剣の巻では、源氏重代の家宝である太刀は髭切と膝丸の二振でした。そしてその作者は「筑前国三笠郡に住む唐国の鉄細工」であるとされています。しかし、『太平記』の巻三十二の「直冬上洛の事付けたり鬼丸、鬼切の事」では、源氏重代の家宝である太刀は鬼切と鬼丸(おにまる)の二振となっているのです。つまり『平家物語』の剣の巻とは違う太刀となっているのです。
『太平記』の「直冬上洛の事付けたり鬼丸、鬼切の事」によると、鬼丸という太刀の作者は奥州宮城郡に住んでいた三の真国という、平安後期の刀鍛冶です。源頼朝の妻・政子の父であり、鎌倉幕府初代執権(しっけん)となった北条時政(ほうじょう ときまさ)が、毎夜夢に出てくる鬼に悩まされていたところ、そばにあった太刀が老翁に姿を変え、「自分は時政を守る太刀の霊である。時政を悩ます妖怪を退治しようとするが、汚れた(けがれた)者が触れたために身からサビが出て刀身を抜くことができない。従って身を清めた者にサビをぬぐわせて欲しい」と時政に言いました。
そこで時政は早速その通りにサビをぬぐわせ、抜き身のままたてかけていると、その抜き身の太刀が勝手に倒れ、そばにあった火鉢に当たりました。すると、火鉢の台の装飾であった小鬼の首が切り落とされていたのです。この鬼の装飾が時政を悩ませていた妖怪であり、以後夢に鬼が現れることはなく、時政はこの太刀を鬼丸と名付け、代々北条家の家宝として伝えられました。そしてこの鬼丸は、その後に鎌倉幕府を倒すべく鎌倉に攻め込んだ新田義貞が北条氏を倒し手に入れました。
そしてもうひとつの源氏重代の家宝である鬼切の太刀は、作者は伯耆国(ほうきのくに)会見郡に住む大原五郎太夫安綱(おおはらごろうたゆう やすつな)で、この太刀を征夷大将軍・坂上田村麻呂に奉ったとしています。田村麻呂が伊勢神宮を参拝した折、伊勢の神が夢に出て、「この太刀が欲しい」と告げたので奉納したとあります。そして源頼光が伊勢神宮を参拝した折、夢に伊勢の神が出てきて「この太刀をお前に与えるので、代々伝えて天下を守れ」とお告げがあり、この太刀は頼光の所有となったとしています。
この太刀が鬼切と呼ばれるようになった所以(ゆえん)について同書では、大和国宇陀郡の広大な森林に、夜な夜な鬼が出て人々を食い、牛や馬、犬などを裂き殺していました。そこで源頼光は部下の渡辺綱にこの鬼を退治してこいと命じ、この太刀を渡しました。そして綱は大和国へと向かい、鬼が現れるのを待ちました。ある日の夜中、女に化けた鬼が綱に近づき、急に鬼と化して綱の髪をつかんで空へ飛ぼうとしました。綱は頼光から預かった太刀で鬼の腕を切り落とすと、鬼は逃げ去りました。綱はその毛むくじゃらの三本指の鬼の腕を持ち帰り、頼光に見せると頼光は大いに驚き、頼光はこの鬼の腕を箱に納めて保管しました。
すると、それ以来頼光は夜な夜な悪夢を見るようになってしまいます。そこで陰陽師(おんみょうじ/吉凶を占う専門職)に診てもらうと、厳重な物忌(ものいみ)が必要だとされました。物忌とは、門戸を閉ざして一切の来客者を断ち、魔除を行うことです。
物忌の最終日、頼光の母が突然屋敷を訪れ面会を求めました。物忌中は親であろうと会うことは出来ませんが、執拗(しつよう/しつこい)な母の願いに、頼光は母を屋敷へ入れ面会しました。酒を交わしながらの談笑中、鬼の腕を切り落とした話題になり、母はその鬼の腕とやらをぜひ見せて欲しいと頼光にたのみます。初めは断っていた頼光でしたが、見せることにしたのです。
鬼の腕を診た母は大いに驚きましたが、鬼の腕をつかむと右腕の袖(そで)をまくり上げました。頼光は母の右手を診て驚きました。腕が無いのです。すると母に化けた鬼は「これは俺の腕だ!」と叫び、傍ら(かたわら)にいた渡辺綱の髪をつかみ、「よくも俺の腕を切りやがったな」と叫んだのです。そこで頼光はあの太刀を取って鬼の首を落としたのです。この太刀は信濃国でも鬼を切ったことから鬼切と呼ばれるようになったとしています。そしてこの鬼切も鎌倉幕府が滅びると、鬼丸とともに新田義貞のものとなります。
新田義貞が敗れると、この鬼丸、鬼切の二振は斯波高経(しば たかつね)のものとなります。斯波氏は足利氏の一族で、足利氏と新田氏は源義家の子である義国を祖とする同族なのです。義国の子が下野国(しもつけのくに/栃木県)足利、上野国(こうずけのくに/群馬県)新田の両地をそれぞれ拠点としたことにより足利、新田両家が始まりました。つまり斯波氏、新田氏、足利氏は親戚同士なのです。
斯波氏の初代は足利家の嫡男であったため本来は足利家を継ぐべき地位にいたのですが、母の身分の差から異母弟が足利家を継いだのです。そしてこの初代が陸奥国斯波郡(岩手県)に領地を持ったことから、後に斯波と名乗るようになります。この本来足利家を継ぐはずであった家系から出たのが斯波高経で、母親の身分の差から足利家を継いだ家系から出たのが足利尊氏です。斯波家は足利家の中で最も家格が高く、尊氏も斯波高経を重用していました。
一方、新田氏ももとは足利氏や斯波氏と同族ですが、新田氏の家格は低く、新田義貞も新田家の当主となっても長く無位無官(むいむかん)でした。無位無官とは、朝廷から位階(いかい)とそれに相当する官職(かんしょく)を与えられていないということです。位階は朝廷内における序列を、官職は職務・役職を示します。これら位階と官職はセットであり、位階にふさわしい官職が与えられます。そして位階と官職をまとめて官位(かんい)と呼びます。
この時代は武家政権(鎌倉幕府)なのだから、朝廷から官位を与えられなくても良いではないかと思われるかもしれませんが、武家政権となっても位階は武士の序列を示すものとして重視されていたのです。
鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏は、西国で起こった倒幕の反乱を鎮圧するために西国へ向かいましたが、反旗を翻して倒幕に出たのです。また同じく幕府の御家人であった新田義貞も倒幕のために挙兵し、鎌倉占拠に成功します。しかし、倒幕に対する朝廷の恩賞が、尊氏とは大きな差があることに不満を持った義貞は次第に尊氏と対立するようになり、尊氏側について越前国で新田義貞を倒したのが斯波高経なのです。
こうして斯波高経は義貞が所持していた鬼切、鬼丸の太刀を手に入れたのです。しかし、それを知った足利尊氏が、これらは源氏重代の家宝であるので、自分(尊氏)が所有して代々伝えるのが正当であるとし、鬼丸、鬼切を差し出せと使いを送ってきたのです。高経は尊氏にこれらの太刀を渡したくありませんでした。自分が義貞を破って手に入れたものであり、斯波家は足利家嫡流ではありませんが、本来なら高経の家系が足利嫡流を継ぐはずだったのであり、尊氏ごときにといったプライドがあったのでしょう。
しかし再三使いがやって来るため、同じような寸法の太刀を二振用意させ、火の中に投じました。そしてまたやって来た尊氏の使者にその二振を差し出し、「それが鬼丸と鬼切だ」と言ったのです。越前国で義貞を討ち取った後、この二振の太刀を預けていた寺が焼失してしまい、太刀も焼けてしまったのだと嘘をついたのでした。こうして鬼丸、鬼切は斯波高経の手元に残り、やがて斯波氏の分家である最上氏(もがみし)へと受け継がれたと言われます。
話が長くなってしまったので、ここで少し整理しておきましょう。『平家物語』では、源氏重代の宝刀は髭切(鬼切-獅子の子-友切-髭切と改名)、膝丸(蜘蛛切-吠丸-薄緑と改名)の二振であり、作者は共に九州の筑前国三笠郡に住む唐国の鉄細工であるとしています。
一方『太平記』では、源氏重代の宝刀は鬼切と鬼丸の二振であるとし、鬼切の作者は伯耆国(ほうきのくに)の安綱、鬼丸の作者は陸奥国宮城郡に住んでいた三の真国という奥州鍛冶であるとしています。
そこでこれら『平家物語』や『太平記』がいう、源氏重代の宝である太刀は現存するのかということになりますが、実は『太平記』が言う、源氏重代の家宝のひとつである鬼切の太刀が現存し、京都の北野天満宮所蔵で重要文化財に指定されています。この太刀は最上家が北野天満宮に奉納したもので、「国綱」と銘があります。では『太平記』がいう「安綱」という刀工と違うではないかとなるのですが、この太刀は本来「安綱」と銘が切られていたものを、「安」を「国」と改竄(かいざん)しているのです。
そして『太平記』がいう、源氏重代のもうひとつの家宝である鬼丸も現存しています。それは鬼丸国綱として有名な太刀で、現在御物(ぎょぶつ/皇室所蔵)となっています。作者は『太平記』では「奥州宮城郡の三の真国」とありましたが、実際は山城国の粟田口国綱(あわたぐちくにつな)で、国綱は鎌倉幕府五代執権・北条時頼(在職1246年-1256年)に招かれて相模国へ移った名工です。
注)『太平記』では、鬼丸は初代執権北条時政の太刀としていますが、実際は五代執権北条時頼が国綱を鎌倉へ呼び寄せて打たせたものです。
『太平記』では、鬼切、鬼丸ともに焼けてしまったと嘘をつき、尊氏に取り上げられることを逃れた二振は斯波高経の元に残り、後に二振とも分家の最上家に渡ったようになっていますが、実際には斯波高経が失脚すると鬼切だけが最上家に渡り、鬼丸は足利将軍家へと渡って足利家の重宝として代々伝わりました。
その後鬼丸は、室町幕府最後の将軍である足利義昭から織田信長、信長から豊臣秀吉(義明から直接秀吉へとの説もあり)へと伝えられましたが、秀吉は鬼丸を本阿弥家(ほんあみけ/日本刀の研ぎ師・鑑定家)預けとし、秀吉の死後は徳川家のものとなりましたが、なぜか徳川家も本阿弥家預けとしました。そして後水尾天皇(ごみずのおてんのう/在位1611年-1629年)に皇太子誕生のお祝いとして献上されました。しかし、その皇太子が急死してしまったため、不吉な太刀として本阿弥家へ返され、以後は本阿弥家が保管しました。
そして鬼丸は、明治維新後に明治天皇へ献上され、現在御物となっています。
ここで疑問に思うのは、なぜ最上家は代々伝わる重宝の銘を、「安綱」から「国綱」へ改竄したのかということです。これには同じ安綱の作で、国宝に指定されている童子切安綱(どうじぎりやすつな)の存在が関係しているのではないかと思います。
童子切安綱は、源頼光(満仲の子/1021年没)が、丹波国の大江山に住む酒呑童子(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼を切ったと伝わる太刀で、室町将軍家の家宝として名高く、三日月宗近(国宝)、鬼丸国綱(御物)、大典太光代(おおてんたみつよ/国宝)、数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ/重要文化財)らとともに天下五剣のひとつとして有名な太刀です。
童子切安綱は足利家から秀吉の手に移り、更に家康、秀忠と伝わり、秀忠から越前松平家に贈られ、越前松平家取りつぶしの折りに美作(みまさか)の津山松平家に移り、そのまま終戦時まで同家に伝来した由緒ある太刀です。
ここからは私の想像ですが、斯波高経は鬼丸だけを尊氏に差し出して、鬼切は焼けてしまったと嘘をついて手元に残したのかもしれません。なぜ斯波高経が鬼切を手元に残したのかというと、『平家物語』や『太平記』などの真偽はともかく、鬼切は源満仲以来代々源氏に伝わってきたものとされていますが、鬼丸は鎌倉幕府執権・北条時頼が打たせたもので、北条家の家宝であって源氏の家宝ではないからではないでしょうか。
北条氏の氏(うじ/血筋を表すもの)は源(みなもと)ではなく、平(たいら)であり、北条氏は平氏なのです。従って北条氏は頼朝の子孫を暗殺し、源氏嫡流を滅亡させ、名目上の将軍を置いて事実上政権を握っていたのです。つまり鎌倉幕府は平氏が政権を握っていたのです。斯波高経の家系は、本来なら源氏嫡流の足利家を継ぐ家系でした。従って源氏の宝刀とされる鬼切は自分が所持するのが正当だと思ったのではないでしょうか。そして秀吉や徳川家が鬼丸を本阿弥家預けとしたのも、源氏の重宝ではなかったからなのではないでしょうか。平氏滅亡後派源氏が武士の棟梁とされたため、武士の棟梁としては源氏の重宝こそが重要であり、兵士の重宝は不吉だったのではないでしょうか。
豊臣秀吉が天下を治めると、成り上がり者である秀吉は、権力者しか持てなかった貴重なものをその権力を行使して収集します。刀剣もそのひとつであったと思われます。そして名高い名刀を物色している時、足利家から鬼丸の太刀を手に入れます。源氏重代の太刀として『平家物語』や『太平記』に記されている、髭切(鬼切)と膝丸(鬼丸)は有名であり、秀吉もおそらく知っていたことでしょう。しかし、手に入れた鬼丸は実は北条氏(平氏)の重宝であり、源氏重代の太刀である鬼切はありません。氏(うじ)を持たない身分が低い家の出であった秀吉にとって、武家の棟梁である源氏重代の家宝とされる鬼切はどうしても手に入れたかったのではないでしょうか。
秀吉の性格からして、もし最上家に鬼切があると知れば差し出させるはずです。しかし現存している鬼切は秀吉には渡っていないため、秀吉は最上家の鬼切の存在に気付かなかったと考えられます。つまり焼失してしまっていると信じていたのでしょう。そんな時、秀吉は鬼切と同じ作者である安綱の屈指の名刀を手に入れます。ひょっとすると足利家から手に入れたのかもしれません。
鬼退治の物語は昔からありましたが、室町時代のお伽草紙(おとぎぞうし)によって世に広く知られるようになりました。そこで秀吉は世間でもよく知られる大江山の酒呑童子と呼ばれる鬼を切ったという話と、この安綱の太刀を結び付け、この太刀を「童子切」と名付け、あたかも『平家物語』や『太平記』に記されている、源氏重代の鬼切であると思わせるように仕組んだのかもしれません。
そしてこの「童子切」は世間に広く知られるようになります。それには、刀剣の研ぎ師であり、鑑定家として折紙(おりがみ/鑑定証)を発行していた、本阿弥家(ほんあみけ)が関わっていたのかもしれません。
徳川幕府八代将軍吉宗の時代になると、堕落した武士の引き締めと、飾りと化してしまった刀を再興するため、古来伝わる名刀の由来などをまとめた『享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)』を作らせます。各大名などが所有する名刀を本阿弥光忠に調査させたのです。そこに秀吉が新たな鬼切として作り出した童子切が、名物童子切(めいぶつどうじぎり)として掲載されたのです。最上家はそれを知って「えっ?」と思ったでしょう。「鬼切はこれですよ」と言いたいが、焼失したと長年嘘をついて隠してきたため、いまさら「鬼切はこれですよ」などとは言い出せなくなってしまったのではないでしょうか。
詳しい時期は良く分かりませんが、最上家は手元に残したこの鬼切を、江戸時代になってから「鬼切丸(おにきりまる)」と呼ぶようになっています。これはどうも鬼丸国綱と結び付けようとした呼称に思えてなりません。秀吉が死に、江戸時代となって世の中も落ち着き、もう鬼切を取り上げられることもないであろうから、そろそろ実は鬼切は焼失していなかったのですと世に出そうとしていたところ、鬼を切った伝説の太刀として童子切安綱が現れてしまったのではないでしょうか。
そうなると、「これが鬼切の安綱です」と言ってももうインパクトはありません。安綱の作刀中の屈指の名刀が鬼切として世に知られてしまったからです。そうなるともはや安綱としては世に出せません。そこで「安綱」銘を「国綱」銘に改竄し、既に世に知られる鬼丸とセットであるかのように鬼切を鬼切丸と呼び、あたかも『平家物語』や『太平記』の源氏重代の宝刀は、実は鬼切と鬼丸ではなく鬼切丸と鬼丸だったのですとしようとしたのではないでしょうか。
『太平記』に記されている源氏重代の宝刀である鬼切、鬼丸は、記されている作者は一分違っていますが現存することがわかりました。では『平家物語』に記されている髭切と膝丸はどうなのでしょうか。
私は『平家物語』に記されている髭切と膝丸は、鬼切と鬼丸をもとにした創作であると思います。つまり『平家物語』の髭切は『太平記』の鬼切であり、『平家物語』の膝丸は『太平記』の鬼丸であると考えます。それは髭切と膝丸、鬼切と鬼丸のようにどちらも「切と丸」がセットになっており、『平家物語』はより物語的におもしろくするためにこれらの太刀の名の由来などに装飾を施したのだと思います。
このように、源氏重代の家宝とされる太刀は舞草鍛冶の作ではなく、しかも鬼丸は源氏重代の家宝ではなく、北条氏(平氏)重代の家宝でした。しかし、髭切や膝丸などと呼ばれた刀は別にあったのかもしれません。ですがそれはいわゆる日本刀の太刀ではなく、平安初期の毛抜形刀(けぬきがたのかたな)や、平安中期の立鼓柄刀(りゅうごづかのかたな)などであったのではないでしょうか。これらは脇差サイズの短い刀ですが、平造りに刀身全体に弱い焼き入れを施した、いわゆるうずみやきであり、これらの形状から非常に斬れ味が良かったと思われます。これらの斬れ味が評判を呼び、関東の武士達にも好まれ、髭切などの異名が付いたのではないでしょうか。そしてこれらが鬼切や鬼丸などとごちゃ混ぜとなって『平家物語』などが記されたのではないでしょうか。
舞草鍛冶の最盛期は奥州藤原三代の頃で、奥州藤原氏が源頼朝によって滅ぼされると、それと運命を共にするかのように舞草鍛冶も衰退し、それ以降は宝寿や月山が細々と鍛刀したに過ぎません。また宝寿は系図では連綿と代々続いたようになっていますが、滅びかけたのを名を惜しんだ近隣の鍛冶がその名を受け継いだというのが現状です。
『観智院本』では「神代より当代までの上手の事」として、42名中8名もその名が挙げられ、様々な書物に見られるように、舞草鍛冶の刀は都や武士達の間でもてはやされたのに、なぜ舞草鍛冶は衰退したのでしょうか。『義経記』に記されている次の記述がその理由を示しています。それは舞草鍛冶のことが様々な書物に記されているとして先に挙げた以下の文です。
- 「あはれ刀や、舞房に誂へて、よくよく作ると云ひたりし効あり。腹を切るに少しも物のさわる様にもなきものかな。此刀を捨てたらば、屍に添えて東国まで取られんず。若き者どもに良き方、悪しき刀など言はれん事も由なし。黄泉まで持つべき・・」
これは源義経の家臣である佐藤忠信(さとう ただのぶ)の言葉で、頼朝が弟である義経を討つべく京の義経の屋敷へ兵を差し向け、頼朝軍に破れた忠信が自害する際の言葉です。忠信は舞草鍛冶に打たせた刀を持っており、これは斬れ味鋭いため腹を切るのに何の差し障りもないとしながらも、これを自分の屍(しかばね/死体)と共に東国へ送られると、旧式の刀だと笑われるかもしれないので、この刀は黄泉の国(よみのくに/あの世)まで持って行こうと言うことです。つまりこの頃には、あれほどもてはやされた舞草刀は時代遅れとなっていたことが分かります。それはこの頃に新しい刀が現れて流行していたことを物語っています。それは木柄に鮫皮(さめかわ)をかぶせ、柄巻を施し、刃文が現れたいわゆる日本刀の太刀であったのでしょう。
舞草刀は平安中期頃から平安後期始め頃まで、かなり流行しもてはやされていた事は確かでしょう。毛抜形太刀は衛府太刀(えふのたち)として、中央の軍事組織である六衛府の武官の太刀として採用され、それは先に挙げた『高野御幸記』に、「左衛門督藤原朝臣・・帯俘囚野剣」と記されていることからも分かります。「俘囚野剣(ふしゅうのだち)」と言うのは毛抜形太刀のことです。
- 「我が此の帯たる大刀は、陸奥国より伝え得たる高名な鍛冶の大刀也、此見給え」
これは前述の様々な書物に奥州の刀に関する記述があるとして挙げた、『今昔物語集』に記されている奥州の刀についてのものです。妻と共に丹波国へ行こうとした男が、山中で盗賊に出会ってしまった時に、盗賊が自分の刀を陸奥国の物だと自慢して見せびらかしている時の描写です。
『今昔物語集』は12世紀(1100年代)の初め頃に成立したと考えられています。古剣書には「大刀」、「横刀」などの文字があり、これらは「たち」と読みますが、現在一般的に言う太刀ではなく直刀を指し、必ずしも長短によって大刀や横刀と区別されていた訳ではなかったようです(素環頭大刀参照)。しかし、平安中期始め頃に施行された『延喜式(えんぎしき/法律を施行する際のマニュアル)』にも、「大刀」、「横刀」と記載があり、ここでは長短によって区別しているようです。
『今昔物語集』には、大刀、太刀、刀の記述があり、比較的古い逸話の場合には「大刀」の文字が使用され、比較的新しい逸話の場合に「太刀」や「刀」の文字が使用されているようです。従って、『今昔物語集』が誕生した平安後期の始め頃には、「太刀」や「刀」が存在していたことが分かります。また、『今昔物語集』では、太刀は武士が用いるものとして「帯く(はく)」とし、刀は武士に限らず、僧や猟師といった庶民までが用いるもので、「差す」と記しています。
ここで挙げた盗賊が奥州刀を見せびらかす場面には「大刀」の文字が使用されており、「今はむかし・・」で始まる『今昔物語集』ですが、この逸話は昔はこういったものが流行っていたという話であることが分かります。
このように、一時期もてはやされた舞草鍛冶の刀は、時代遅れとなってしまったために衰退してしまったと考えます。奥州鍛冶は、蕨手刀(わらびてのかたな)が伝わって以来、平造りで脇差サイズの短い刀を好んで作っていました。そしてその鉄質に応じた「うずみやき」と呼ばれる焼き入れ法、つまり焼刃土を塗らずに刀身全体に軽く焼き入れを行う手法を用いました。平造りという形状、粘りがある鉄にうずみやきを施して強度を増したその造りから、奥州鍛冶の刀は斬れ味に優れていたと思います。そこから髭切などといった斬れ味の良さを示す異名が古剣書にも記されているのでしょう。
そして手溜まり(てだまり/握りやすさ)の良さを増すために考案されたという、茎(なかご)の毛抜形の透かしは、その奇抜なデザインが都でももてはやされ、衛府太刀として採用されたのでしょう。もちろん、毛抜形太刀が衛府太刀として採用された理由はデザインのみではないでしょうが、これについては平安後期の毛抜形太刀の項で解説した通りです。
その斬れ味の良さ、毛抜形の透かしなどからもてはやされた舞草刀でしたが、平安後期に至って刃文や働き、鎬筋(しのぎすじ)がきれいに立った刀身、整った茎仕立て(なかごしたて)など、斬れ味とは別にその美観を持った太刀が都を中心に作られるようになると、もはや斬れ味のみで美観が伴わない舞草刀は時代遅れとなってしまったのでしょう。
この例えが正しいかどうか分かりませんが、それは今のお笑いによく似ています。去年には大流行し、になが真似したギャグが、今では誰も笑わず、真似しようものなら「ふる〜」と馬鹿にされてしまいます。去年には確かにうけたギャグが、今になっては全く通用しない。それは時代とともに要求されるものが変化するからなのです。去年のギャグは去年は最先端であっても、それがいつまでも続くとは限りません。時代の流行について行けない物は衰退していくものです。
従って、『観智院本』の「神代より当代までの上手の事」に、舞草系鍛冶が8名も挙げられているのは、確かに一時期は優秀と見なされた刀工達として挙げられているのであって、同じ平安時代の刀工だからといって、それらと宗近や友成、安綱などの刀工と同等に考えるのは間違っているのではないかと私は思います。
『観智院本』の原本である、『銘尽(正和銘尽)』が記された時代(鎌倉後期)と、現在の刀工に対する評価には違いがあります。『日本刀工辞典』では、古来の伝来などにとらわれず、新たな観点から刀工の位列を見直し、現代の刀工位列を作成しています。位列とは、簡単に言えば刀工の技量のランク付けです。最上作、上々作、上作、中上作、中作の5つのランクがあり、古刀期を3つの時期に区分し、鎌倉後期までを古刀、南北朝時代から室町時代までを中古刀(ちゅうことう)、戦国時代の作を末古刀(すえことう)とし、それぞれの時代の刀工に位列を付けています。当然、全ての刀工がこの位列にある訳ではなく、中作に含まれない刀工はいわゆる下作鍛冶(げさくかじ)ということになります。
それによると、古刀では最上作には粟田口吉光、三条宗近、伯耆国安綱、一文字則宗、古備前友成・正恒、相模国行光など、初期日本刀を代表する鍛冶が46人、上々策には古備前や一文字の諸鍛冶など65人、上策には41人が挙げられており、この上作にようやく奥州鍛冶として宝寿、有正の2名が挙げられています。最上作から上作まで152人が挙げられていますが、奥州鍛冶はわずか2名だけです。
そして中古刀の最上作は正宗、貞宗、江義弘、越中則重など13人、上々策は35人、上策は71人となっており、これらには奥州鍛冶は見られず、室町時代までの最上作、上々作、上作は合計271人となり、その中に奥州鍛冶はわずか2名しか挙げられていないのです。このように、日本刀の研究が進んだ現在と、鎌倉後期とでは刀工の評価は変わっていることが分かります。
『観智院本』では名工として最上位に列していた舞草系鍛冶が、現代ではそれほどの評価が成されていないのは、日本刀の評価基準が異なっているからであると思います。『観智院本』の原本である『正和銘尽』が、「神代より当代までの上手の事」として舞草系鍛冶8名を挙げたのは、武器である日本刀にも美観が求められるようになる以前の上手として挙げられたのではないでしょうか。「神代より当代まで」と記してあるのは、その時代時代の上手ということで、時代が変わればその上手とする評価基準も変わることを示し、「上手」とはその時代時代に求められる技術を指し、時代が変われば求められる技術水準も変わることを示していると私は思います。
つまり同じ上手として評されたとしても、実用本位で良かった時代と、美観をも求められるようになった時代の上手では、その作風に違いがあるということです。したがって、8名に挙げられた舞草系刀工と、宗近らとはその作風は違うということであり、同じレベルの上手と考えるのは誤りであると思います。
ネットで「舞草鍛冶」などといったキーワードで検索すると、今まで取り上げてきた伝承や古剣書の記述に関するページが数多く見つかります。それらの大多数はこういった伝承などをそのまま記しています。それによりこういった伝承などが既成事実として広まっているようです。私はこういったあらゆる日本刀の始原を舞草鍛冶に結び付ける記述に、疑問を持つ人はいないのかと不思議に思いました。もちろん、私は学者でも研究者でもありませんので、ここで記述した事は私見であり、すべてが正しいとは思っていませんが、疑問を持たないという事が怖いのです。ネット上の情報が全て正しいと思ってはいけないのです。正しい情報と誤った情報を取捨選択しなければいけません。その意味で私はあえて一日本刀愛好者として疑問に思った事を、自分なりに考えて書きました。従って舞草鍛冶を否定する者ではありません。
日本刀の反りの始原は東北地方の蕨手刀(わらびてのかたな)であると言われます。それは、直刀に反りが付く過程を示す現物がこれらの蕨手刀以外に発見されていないからです。そして舞草を日本刀発祥の地と言う人もいるようです。これらは本当に正しいのでしょうか。
こういった考えは、蕨手刀-毛抜形蕨手刀-毛抜形刀-毛抜形太刀-反りのある日本刀と変遷したという考えに基づくものです。そうなると、日本には蕨手刀やそれから進化した刀剣類しか無かったということになります。刀剣類は何も蕨手刀などに限らず、日本全国でそれぞれ刀剣類が作られており、むしろ蕨手刀の方がごく一部の地域でごく短期間に使用された特殊なものなのです。奈良時代には、直刀ではありますが中央の鍛冶達は既にかなり高度な技術を持っていました。
蕨手刀から毛抜形刀という変遷は確かに蝦夷(えみし)によって成されました。そして毛抜形太刀は俘囚(ふしゅう/朝廷に服した蝦夷)が作ったにせよ、中央の刀工が作ったにせよ、明らかに毛抜形刀を基に作られたものです。しかし、この毛抜形太刀が木柄を用いたいわゆる日本刀の太刀へと進化したとする説は、何か釈然としないのです。
平安中期の毛抜形太刀の項で解説しました通り、中央やその勢力下の地域では、古墳時代には既に共柄の剣ではなく、茎(なかご)を仕立てて柄木(つかぎ)をかぶせ、目釘で固定し、柄巻を施して漆で固めたりした直刀を使用していました。薄っぺらな茎では握りにくいため、握力が増すように柄木をかぶせて握りやすくもしたのです。そして埼玉県の将軍山古墳などからは、鎬造りの大刀も出土しています。毛抜形太刀が日本刀の元になったのであれば、共柄の剣から柄木を用いた大刀(たち)へと進化していたのに、なぜ再び共柄という刀身と柄が一体となった最も原始的な刀へと後退し、なぜ再び柄木を用いる形へと戻るという不自然な流れとなったのでしょうか。
平安中期の毛抜形太刀、平安後期の毛抜形太刀の項で既に解説しました通り、毛抜形太刀は決して全国的に普及したものではありません。平安中期の中頃から平安後期初頭というごく限られた期間に、蝦夷(えみし)征討に加わった中部・関東といったごく一部の地域の武士達が使用したものに過ぎません。では、中央やその他の地域の武士達はどういった太刀を使用していたのでしょうか。それは前述の無銘の太刀のようなものであったと思われます。これらは二尺二寸と短いですが鎬造りとなり、鎚目を残していますが茎(なかご)も仕立てられています。この太刀はその作風から舞草鍛冶の作と思われますが、私はこの太刀のような姿の太刀が、平安中期半ば以降に毛抜形太刀と同時期に中央などで一般的に用いられていた太刀であると思います。
当初は平造りであったかもしれませんし、鎬造りとなってからもその鎬筋は中央寄りとなった未完成の姿であったかもしれませんが、毛抜形太刀が限定的な使用であった以上、現物が無いとは言え、こういった太刀があったと考えるのが自然ではないでしょうか。そうでなければ、奈良時代にあれほど高度な鍛刀技術を持っていた大和鍛冶達や全国の鍛冶は消滅したことになり、平安中期から後期にかけて、毛抜形太刀しかなかったという不自然なことになってしまいます。そしてこういった太刀がほとんど現存しない理由は、平安中期の毛抜形太刀の項で解説した通り、これらが実戦で使用された消耗品だったからです。
このように、毛抜形太刀が柄木を用いたいわゆる日本刀の太刀へと進化したというのはあまりにも不自然な説なのです。また、朝廷が蝦夷(えみし)との戦いにおいて苦戦したのは、蕨手刀が馬上でのすれ違いざまの斬撃に優れていたとする説は間違いであることは、上古刀の部の「蕨手刀の威力はすごかった?」で既に解説しました。
田村麻呂が蝦夷(えみし)征討に向かった9世紀初頭、蝦夷(えみし)は既に反りがある蕨手刀を使用していました。その蕨手刀の反りによる威力が朝廷軍苦戦の理由であったのなら、なぜ朝廷はすぐにその反りを取り入れなかったのでしょうか。刀身に反りが見られるようになった平安中期の中頃まで、なぜおよそ200年近くも反りを付けた太刀を中央の武士達は用いなかったのでしょうか。私は蕨手刀に反りが付いた理由と、直刀に反りが付いた理由は別なのではないかと思います。
蝦夷(えみし)は狩猟を生業(なりわい)とし、動きが素早い獲物を追い、弓矢で仕留めたりしたため弓馬を良くしました。そして地上で獲物を追う者は機敏に動いて狩りを行う必要があるため、脇差サイズの短い蕨手刀を好んで使用したのです。初めは仕留めた獲物を解体したりするのに蕨手刀を用いていたと思われますが、朝廷軍が侵攻してくるにつれ蕨手刀は武器として進化していったと思われます。彼らは地上のゲリラ戦で蕨手刀を使用するようになり、少ない力でより効果的に切ることが出来る反りというものを発見し、それは柄反りに始まりより切れることを目的としてやがて刀身へと移行し、段階的に進化させていったのです。このように蕨手刀の反りは明らかに切る事を目的としたものです。
そして蝦夷(えみし)においても、馬に乗る者は徒歩の者よりも上位の者であったと思われ、馬に乗る事が出来る上位の者は蕨手刀のような短い刀ではなく、直刀の大刀(たち)を佩用(はいよう)していたと私は思います。それは、蕨手刀が馬具と共に出土した例がほとんどない事からも分かります。つまり蕨手刀は徒歩の者が佩用(はいよう)した物なのです(蕨手刀参照)。
一方、日本刀の太刀は馬に乗る事が出来る身分の者が、大鎧(おおよろい)を着て馬上で佩用(はいよう)することを目的として作られた武器です。従って切るという目的ではなく、馬に乗るのに都合が良い姿を求めた結果、反りを持った姿になったと私は思います。それは、直刀を馬上で佩用すると、鞘尻が馬の後ろ脚やお尻に当たって馬が落ち着かなかったと思われるからです。
一方、直刀は鞘尻を下に向け、柄を上向きにして佩用しなければ刀身が鞘走り(さやばしり)してしまいます。つまり刀身がスッポ抜けてしまいます。しかし鞘尻を下に向けて馬に乗ると、やはり鞘尻が馬の後ろ脚に当たってしまいます。そこで鞘尻を上向きにしてやれば当たらずに済みますが、それでは柄が下に向いてより抜けやすくなってしまいます。そこで鞘尻を上に向けても柄が下向きにならないよう、柄に反りを持たせたのです。
日本刀においても、反りは柄反りから始まっています。より効果的に切ることを目的で付けた反りならば、蝦夷(えみし)が使用した蕨手刀を見て既にその効果を知っていたであろうに、なぜ初めから刀身に反りを付けなかったのでしょうか。なぜ柄反りから始めたのでしょうか。それは切ることを目的としていなかったからではないでしょうか。平安後期に完成した日本刀の太刀を見ると、はばき元から急激に反っている事が分かります。しかも物打ちあたりは無反りとなっています。茎(なかご)をまっすぐに立てて刀身を見ると、まさに倒れるようにはばき元から反っているのが分かります。
これはやはり馬上で太刀を使用するのに都合が良い姿なのです。すなわちはばき元から茎(なかご)にかけて大きく反らせる事により、鞘尻を上に向けても鞘走りしないようにし、馬上から徒歩の、あるいは馬上の敵を刺すのには物打ちあたりから無反りの方が都合が良いのです。
そもそも、中央の兵士達は反りによる切れ味など求めていなかったのではないでしょうか。両刃(もろは)の剣ではなく、片刃の大刀(たち)を使用しだした5世紀頃から、その造りから大刀の使用目的は、突くのではなく打ち切ることであった事が分かります。つまり直刀だから突くという使用法ではなかったという事です。棒のような物で相手を打っても打撲程度のダメージしか与えられません。しかし、殴打する部分に刃が付いていれば打ち切ることが出来ます。すなわちたたき切るといった感じです。
このたたき切るという攻撃は、やはり馬上での攻撃に適した方法であると思います。なぜなら馬上では片手で太刀を振るわなければならず、その場合意識して引くといった行為はしずらいため、そのまま打ち下ろして文字通りたたき切るといった攻撃が最も自然な攻撃法であると思われます。
平安時代当時、武士の主要武器は弓であり、太刀は矢を射尽くした後の最終武器なのです。そして馬に乗る事が出来る武士は大鎧(おおよろい)を着ており、そんな敵相手に太刀で切りつけても致命傷は与えられないのです。従って矢を射尽くした騎兵同士が太刀で戦うとすれば、太刀で切りつけるのではなく、太刀で打ちのめすのです。つまり思いっきり太刀で敵を殴るのです。そして敵を落馬させて組み討ちに持ち込むのです。従って馬上で佩用するために生まれた日本刀の反りは、より効果的に切るためのものではなかったのではないかと思われるのです。そうでないと、蝦夷(えみし)が用いた反りが付いた蕨手刀を知ってから、なぜ中央において反りが見られるようになるまでにこれほど時間がかかったのかという疑問が晴れません。
もし反りというものが蕨手刀を模したものだとしても、それは日本刀の一要素であって、舞草で日本刀が始まった訳ではありません。発祥とは物事が起こり始まるという意味であり、舞草が日本刀の発祥地であるなどとは言えないのです。反り=切るという観念にとらわれて、反りが付く過程を示す物が蕨手刀以外に無いという理由だけで、日本刀の反りの始原は蕨手刀であると結論づけ、それを理由としてか、舞草が日本刀の発祥地であるなどという説まで出ている事に私はおおいに疑問を感じます。そしてこういった説に対する反論はインターネット上にはほとんど見当たらず、みな疑問にも思わずコピペして紹介している始末です。そうすることによって、またこれらを見た人達がこれらの舞草伝説を鵜呑みにし、どんどん広がっていく怖さがあります。そこで私は単純に疑問に思った点を熟慮した上で自分なりに出した結論をここで書きました。しかし、私は日本刀を生業とする者でも学者でもなく、一素人ですから、ここで書いた説が正しいとは限りません。従って私が納得がいく説明がみつかれば内容を書き換えることにやぶさかではないのです。
各時代の太刀姿 |
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・姿が大きく変わるポイントをまとめています。
・反り具合が分かるように茎(なかご)を垂直にして並べてみました。
・縮尺は同じではないので、太刀の長さは無視してください。 |
注) これから解説する各時代の日本刀の姿は、時代が変わったからと言って急激に変化するものではありません。時間の経過と共にゆっくりと変化していきます。特に新しい時代の初め頃は、前時代の特徴を残していますし、地方によっては流行が伝わるまでに時間がかかる場合もあり、全国一斉に姿が変化するのではないと言う事を理解しておいて下さい。従ってここから解説する各時代の日本刀の姿は、最もその時代の特徴を現した姿であって、その時代の全ての日本刀がそういった姿であるという訳ではありません。しかし、日本刀は武器ですから、時代の変化や防具の発達、戦闘方法の変化に従って変化します。従ってその時代の特徴ある日本刀の姿のポイントを押さえておくことは、その日本刀がいつ頃のものかを知るために非常に重要となります。
奈良時代の弓は木製弓でしたが(弓と鉾参照)、平安時代中期頃には伏竹弓(ふせたけゆみ)が誕生します。これは芯となる木製弓に竹を貼り合わせた弓です。
弓の弦(つる)側の面を腹、腹の反対側を背と呼びますが、背側に竹を貼り合わせた弓を外竹弓(とだけゆみ)と呼び、腹側にも竹を貼り合わせたものを三枚打弓(さんまいうちゆみ)と呼び、木製弓を芯にして竹で挟み込んだ形になったものです。
竹と芯になる木は膠(にかわ)を使って張り合わせ、糸で巻き締めて漆(うるし)をかけ、その上から籐巻き(とうまき)にしました。そしてこういった伏竹弓は七尺五寸(約2メートル28センチ)が標準的な大きさであり、やはり長大でした。
木製弓は弦をはずすと真っ直ぐな棒となりますが、伏竹弓は弦をはずしても湾曲するように作られています。しかしこの湾曲は弦を張る方とは逆に反らせてあり、弦を張る場合は逆側に反らせて弦を張ります。従って弦を張るにはかなり強い力で反らせなければならず、2人がかり、あるいは3人がかりで行いました。逆に反らせて弦を張っている、竹の反発力を利用する事によって強力な弾力が得られたのです。そしてこういった強力な弓の攻撃から身を守るために大鎧(おおよろい)が発達しました。つまり平安時代もその主たる武器は弓だったのです。
戦(いくさ)になると、武士団の家長は血縁者である家の子、主従関係を持つ郎党、そしてそれぞれが抱える使用人である所従を、また伴類と呼ばれる領内の農民をも半ば強制的に引き連れて参戦します。家長や家の子は当然馬に乗りますが、大きな武士団では郎党であっても馬に乗る者もいました。馬に乗る彼らは弓矢による攻撃から身を守る大鎧(おおよろい)を着用し、太刀を佩き(はき)、主要武器である弓を持ちました。
そして騎馬武者には数人の郎党や所従が付きます。当時の兜(かぶと)は大変重かったため戦闘時以外はかぶらず、主の兜を持って従う者、簡素な胴丸(どうまる)を着用し、長刀(なぎなた)などの打物(うちもの)を持って主人である騎馬武者を守る者、矢から主人を守るための楯(たて)を持ち、敵が射た矢を拾い集める者達などです。つまり騎馬武者の回りには大勢のこういった従者や歩兵がいたのです。
胴丸とは軽武装用に作られた物で、胴に草摺(くさずり)が付いただけの簡素な物です。草摺とは胴の下に付いているスカートのようになった部分で、腰回りと太股を守るものです。
騎馬武者を守る歩兵はこういった胴丸を着用し、裸足に脛巾(はばき/膝下から足首までを覆う布)のみを付け、長刀(なぎなた)などの打物を持って軽快に走り回って戦いました。従ってこういった裸足で駆け回る歩兵は足軽(あしがる)と呼ばれるようになります。
なお、当時は「長刀」と書いて「なぎなた」と読み、これは短い刀に長い柄(つか)を取り付けた物です(平安時代の長柄の武器参照)。奈良時代には鉾(ほこ)が長柄の武器として使用されましたが、これは強力な武器として個人所有は認められず、農民兵士達は官給品を使用しました(弓と鉾参照)。鉾が一般所有が禁じられていたため、一般に所有できた刀に長い柄を取り付けて長柄の武器としたと思われます。鉾は刀身の下はボールペンのキャップのように筒状になっており、ここに柄を差し込んで固定しますが、長刀は菖蒲造り(しょうぶづくり)のように刺突に適した造り込みの刀の茎(なかご)に、長い柄を差し込んで固定した物です。
こういった武器は日頃戦闘の訓練を受けていない者でも扱い安い武器でした。また、打物(うちもの)とは打ち合って戦う武器、すなわち刀や長刀、長刀が進化した薙刀(なぎなた)などの総称です。
注) 軍記物語などに腹巻(はらまき)という名匠が度々現れますが、これはここで解説した胴丸のことです。胴丸は引き合わせ、つまり洋服でいう合わせ目が右脇腹の位置になりますが、腹巻は背中になるという違いがあります。当時「腹巻」と呼ばれていた防具を、後年になって胴丸と呼ぶようになったため、胴丸と腹巻が逆になってしまうというややこしい事になってしまったのです。従って他の書物などでは足軽などの歩兵が着用している防具を、腹巻としている場合がありますが、これは現在で言う胴丸のことです。
足軽と呼ばれる雑兵(ぞうひょう/身分の低い歩兵)は、その多くは武士の私的な従者ですが、中には破落戸(ごろつき/ならずもの)も多く混じっていました。『平家物語』には、辻冠者(つじかんしゃ)、印地(いんち)、乞食法師(こじきほうし)などの言葉が見られます。辻冠者とは、烏帽子(えぼし)のみをかぶって街にたむろする不良のことで、印地とは石を投げる上手の者のことで、印地打ちとも言われます。
石を投げると言っても、これは当時の弓に次ぐ重要な飛び道具であり、殺傷力の強い武器でした。近距離の敵に手で投げる場合の石は丸餅(まるもち)ほどの大きさの石で、多角形に削って鋭利にした物です。私の大好きな『子連れ狼』にも印地打ちが登場します。遠距離に飛ばす場合は、日本手ぬぐいの両端にそれぞれ紐を結び付け、片方の紐を手首に縛り付けます。手ぬぐいの中間くらいに石を置いてもう片方の紐を握ります。これをブルンブルンと大きく回し、握っている紐を放せば石は勢いよく飛んでいきます。片方の紐は手首に縛り付けてあるため、手ぬぐいは手元に残るため次の石をすぐに投げる事が出来るのです。印地は弓矢よりも飛距離が出る事もあり、長く武器として使用されました。
また乞食法師とは、頭は坊主頭ですがどこの寺社にも属さない浮浪人のことで、こういった連中は今で言う、働きもせずひったくりをしたり、コンビニ強盗をしたり、牛丼店に押し入って売上金を奪うといった、人の物を盗んで生きているクズどもと同じです。またこういう連中は威勢はよいですが、実際に戦いが始まるとびびって一番に逃げ出すというのは今も昔も変わりません。こういった連中は武士と主従関係がある訳ではなく、戦(いくさ)に参加すればとりあえずメシは食えるといった程度のもので、どさくさにまぎれて略奪する事を目的としたような連中であり、とにかく頭数を揃えようとかき集められた連中だったのです。
平安末期の治承・寿永の内乱、いわゆる源平の争乱において、源義仲、いわゆる木曾義仲が平家追討のために上洛(じょうらく/地方から京へ入る事)した際、義仲が引き連れてやって来た連中がまさにこういった者どもでした。この頃、西日本では干魃が続き食糧不足となっていました。そんな時に義仲が大量の破落戸を引き連れてやって来たためますます食糧不足となりました。その上、これらの破落戸は京中を荒らし回り、略奪の限りを尽くしました。神社などにも押し入り、通行人の衣服まではぎ取る始末でした。
義仲が平家を追って西へ向かい大敗すると、京にいた破落戸どもは奪うだけ奪ってさっさと越前、越中、加賀など故郷へ帰っていったのです。このように、雑兵達は後々まで戦地で略奪を繰り返すのです。
戦闘に参加したのはこういった者達でしたが、当時の戦いの様子は、まず陣取った両軍から使者が出て、牒という開戦を告げる書面を取り交わします。その後使者はゆっくりと自軍の方へ戻るのですが、後ろから攻撃されかねないので勇者が選ばれ、使者は敵に背を向けながらも堂々と戻りました。
次に言葉戦いが始まります。これは、互いに自軍の正当性を主張し、敵を罵る(ののしる)ものです。
言葉戦いが終わると、楯突戦(たてつきいくさ)となります。両軍が50-70メートルほどの距離を隔てて楯の後ろから弓射し合うのです。この楯は人の背丈ほどもある大きな楯です。こうして敵との距離を縮めながらジリジリと間合いを詰めていきます。楯突戦では弓の飛距離や射手の腕前によって体勢が変わり、敵が逃走し出すと騎馬武者が追いながら弓射して追撃します。この時、射手は鞍(くら)からお尻を浮かし、前屈みとなった状態で弓射します。
騎馬武者同士の戦いにおいて、すれ違いざまに弓射し合う場面をよくテレビなどで見ますが、これは流鏑馬(やぶさめ)など、馬を走らせながら左手方向に置いてある的を射るシーンからそう思い込んでいるだけであって、実戦ではすれ違いざまの弓射などはしません。流鏑馬は馬で駆けながら止まって動かない的を射るという競技であって、実戦においてはすれ違いざまに射る場合、敵はこちらに向かって突進しているのですから、その進路の先を狙って矢を射なければなりません。敵そのものを狙って射ても敵は動いているのですからそうそう当たるものではありません。従ってすれ違いざまに矢を射るというような競技的なことはしませんでした。
それは銃を持って戦う事を想像すれば分かると思います。銃で戦う場合、敵の射程距離外から攻撃できれば安全ですが、そうでない場合は身を隠しながら接近し、スキを見て撃つと思います。敵に突進してすれ違いざまに撃ち合うなどといったことはしないでしょう。弓も飛び道具なのですから同じ事が言えます。
騎馬武者同士の弓射戦においては、向かい合って対峙した2人が突進しながら敵が自分の射程距離内に入った瞬間に射るのです。つまり向かい合って弓射するのです。従って強力な弓を持ち豪腕な者が有利となります。ですから、いったん射程距離内に入ってしまうと逃れられません。
弓は左手に持ち右手で弦を引きます。従って自分の左手が敵に向く事になり、その状態で敵が自分に対して左側に移動したとしても、弦を引いたまま腰を左にひねれば照準を合わせられます。しかし、敵が自分に対して右側に移動すると、右に腰をひねっただけでは弦を引いたまま照準を合わせられません。右へひねればひねるほど弦を十分に引けなくなるからです。従って体ごと向きを変えなければなりません。これは地上では簡単に行えますが、馬上ではそうはいきません。馬上では馬に指示を与えて馬に向きを変えさせなければならないからです。従って、照準を合わせられずに敵を射るには、敵の右手側に回り込めば良いという事になります。
しかし、敵と対峙した状態で敵の右手側に位置しようとすれば、自分の右手側に敵がいる事になり、自分も矢を射る事が出来なくなります。攻撃、あるいは威嚇しながら敵の右手側に回り込もうとすれば、敵の左手側をすり抜けて敵の背後から回り込むしかありません。しかし、これでは敵も自分に照準を合わせられるため、応戦しながら素早く回り込まねばなりません。こうしているうちに、騎兵の主人を守る長刀などを持った足軽達が加勢に来ると不利になるため、こういった一騎討ちはなかなか起こらなかったと考えられるのです。
こうした弓射戦で決着がつかない場合や、互いに矢を射尽くした場合に太刀での戦いとなります。しかし、互いに大鎧を着ているため、斬り合うといった戦いではありません。鎧相手に切りつけても致命傷は与えられないからです。従って打ち合う事になります。つまり太刀で思い切り敵を殴るのです。この場合、兜(かぶと)の上から太刀で思い切り殴って軽い脳震盪(のうしんとう)を起こさせたりします。今のヘルメットは衝撃を緩和する緩衝材が内側に張ってありますが、当時の兜は鉄そのままであり、大変重くて必要時以外はかぶらなかったほどでした。また緩衝材となり得る物は兜の下にかぶっている烏帽子(えぼし)だけであり、そのてっぺんを鉄の太刀でなぐられれば、脳震盪とまではいかなくとも、かなりの衝撃を受けたはずです。
当時の兜の緒はごく簡単なもので、兜のてっぺんを殴られるとほどけたりし、兜がズレて落ちてしまう事もあり、そうなると頭は無防備となり絶好の標的となったのです。こうした太刀打ちの目的は敵を落馬させる事であり、熊手を使って敵にひっかけて引きずり落としたり、とにかく体勢を崩させて落馬させればよかったのです。
注) 烏帽子とは当時の帽子で、古くは布を漆で塗り固めたもので柔らかかったため、髷(まげ)を結ったまま烏帽子をかぶり、兜をかぶりました。その際、兜のてっぺんにある天辺の穴(てへんのあな)から烏帽子を出し、兜の緒を締めました。詳しくは甲冑の着用手順をご覧下さい。
敵を落馬させた後は、敵を組み伏せて馬乗りとなり、腰刀で鎧(よろい)のすき間を狙って刺したり、首を掻き落としました。このように、テレビなどで見る騎馬武者のすれ違いざまの弓射戦による一騎討ちや、馬上で太刀を使って斬り合う一騎討ちなどほとんどなかったのです。一騎討ちが行われたのは、個人同士の争いから戦(いくさ)となった場合で、この時は争いを起こした当人同士が一騎討ちを行う場合もありましたが、普通は一騎討ちという状況はそう起こらなかったのです。
ところで、お互い名乗り合って、正々堂々と一騎討ちで戦うのではなかったとすれば、戦(いくさ)はルール無用の殺し合いだったのでしょうか。平安末期の源平の争乱において、源義経が見せた様々な戦法は卑怯だったとする説の反論として、戦は殺し合いなのだから、武士らしくとか、正々堂々となどきれいごとを言っていれば殺されてしまうので、ルールなど無用であるとし、引き合いに出されるのが「我れ弓箭の道に足れり。今の世には討勝を以て君とす。何を憚らむや」という、平将門の言葉です。つまり強い者が打ち勝って君主となるのであって、どんな勝ち方をしようが何をはばかることがあるかというのです。
これは一見もっともな言い分に思えますが、これは野武士(のぶし/農民などが武装して盗賊化した者)や、卑怯な戦法で戦わなければ勝てない盗賊など、山ザルにも等しい者の言い分です。現在でも世界各地で戦いは起こっています。しかし、戦争にもルールがあるのです。現在でも非戦闘員である一般市民は殺害してはならず、残酷な兵器の使用も禁止されています。そうでなければただの殺し合いになるからです。従って戦争とは言えルールはあるのです。
太平洋戦争において、アメリカ軍は日本の主要都市を空爆し、一般市民を無差別に殺害し、広島と長崎に悪魔の爆弾原爆を投下し、何十万人という一般市民を無差別に殺害しました。こんなアメリカ軍のやり方を許せるでしょうか。勝てば良いというこのような戦法が許せると言うのでしょうか。
平安時代の兵士には伴類(ばんるい)と呼ばれる多数の農民がおり、彼らは開発領主(武士)が有する私領の耕作を行う農民でした。彼らはいざという時には強制的に兵士として連れて行かれたのです。敵を殲滅するにはこういった兵士にもなり、開発領主の経済基盤を支える農業従事者でもある農民を一掃する必要があるという考えから、関東武士の戦法は、村に火を放って全てを焼き払い、農民を離散させて耕作できなくするというものだったのです。しかし、こういった伴類と呼ばれる農民兵士は武士ではなく、正式な兵士の数にも数えられない、討ち取ったとしても何の手柄にもならない者達であり、少なくとも武士と言われる戦闘のプロが進んで標的にする者ではありません。
また村には女子供もいます。そんなこともお構いなしに火付けや夜討ちを行うような武士は盗賊となんら変わりはありません。これは限りある土地を奪い合って殺し合う、教養も何もない野武士の戦法と言われても仕方ありません。
関東武士のこういった荒っぽい気質は鎌倉幕府が成立してからも何の変化もありませんでした。関東の武士達は、農民から徴収する税だけでは飽き足らず、農民からの略奪を繰り返していたのです。そしてそうした武士達の略奪に耐えかねて、多数の農民が耕作を放棄して逃亡してしまったのです。これは鎌倉中期に至っても変わらず、幕府の税収は激減したのです。そこで御成敗式目(ごせいばいしきもく)という法律を作ってこういった略奪を禁止しましたが、武士達の略奪はなくなりませんでした。
そこで執権・北条時頼は当時日本へ伝わったばかりの禅宗の修業を通し、武士に慈悲や忍耐を学ばせ、それにより撫民(ぶみん)政策をとろうとしたのです。撫民とは農民をなでるように大切にするといった意味です。当時の関東武士は、「腹が立っても人を殺してはならない」と、家訓を残さなければならないほど人を殺害すると言ったことに何の抵抗もなかったのです。また土地の奪い合いや略奪などに明け暮れたため教養もなく、読み書きはほとんど出来なかったのです(NHK「さかのぼり日本史」より)。
兵士は武士のクセに貴族になろうとし、驕り(おごり)たかぶったために滅ぼされたと言われます。これはとんでもない偽りです。兵士は武士のクセに貴族になろうとしたのではなく、立派な貴族であり、その官職として軍事・警察武門に仕えたのであって、平清盛の子や兄弟には和歌、舞い、琵琶、笛などの当代きっての名手がおり、貴族としての教養や、当然少年でも読み書きも身に付けていたのです。関東武士が農民からの略奪を繰り返し、あくまでも限りある土地にこだわってその土地を奪い合っている時、清盛はその経済基盤を限りある土地ではなく、海外との貿易に求めようとしていたのです。平氏が悪者として流布されたのは勝者である源氏がそう歴史をねじまげて伝えたからなのです。歴史は常に勝者によって書き変えられます。常に勝者にとって都合が良いように書かれるのです。従って勝者が常に賢者であり、正しいとは限らないのです。
夜討ち、奇襲攻撃などは戦法であり卑怯であるとは私は思いません。しかし義経が行ったことはだまし討ちや非戦闘員を殺害したという点が卑怯なのであって、また一騎討ちを求められたにも関わらず、敵に背を向けて船の上を飛び回って逃げ出した事が卑怯であり腰抜けなのです。ここで具体的に書くと長くなりますので、これについては姉妹サイトの「おさるの日本史豆知識 平安時代」で詳述する予定です。
平安後期の太刀の特徴は、元身幅(もとみはば/はばき元の幅)に対して先身幅(さきみはば/横手の幅)が狭い、いわゆる踏ん張りがある姿となることです。踏ん張りとは、人間が足を少し広げて踏ん張って立っている姿、つまり足下が幅広く、頭の方へ行くに従って幅が狭くなる形になぞらえた表現です。
元身幅に比べて先身幅が狭くなっているため、切先は小切先となります。元身幅に対して約半分程度の先身幅が標準です。そしてはばき元でいきなり倒れるように大きく反ります。これを腰反り深い(腰反り高いとも)と表現します。しかし、物打ち(ものうち)から上は無反りとなった(これを先伏せと呼びます)姿となります。
長さ(刃渡り)は二尺五寸から七寸前後(約75-81センチ)が定寸(じょうすん/標準的な長さ)で、この寸法も当時の日本の馬の大きさ(地面から人が乗る背まで130センチほどの小さな馬でした。馬について参照)から考えると、馬上から地上に居る敵を切り倒すのに適した寸法となっています。また、物打ちより上が無反りなのも、同様に地上に居る敵を刺すのに適した形状なのです。茎(なかご)が刀身の比率からして短いのも特徴です。そして銘(めい)はこの頃には太刀銘(太刀の表に切る)に切る者、刀銘に切る者どちらもおり、どちらに切るとははっきり決まっていなかったようです。
三条宗近の作風 |
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名物 三日月宗近(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第五巻より |
三条一派は平安時代に京都の三条に住した宗近を祖とする一派です。宗近は公家でしたが作刀技術に優れたため、多くの刀を鍛えたと言われます。上のイラストが宗近の作風です。その下の写真は、徳川将軍家伝来の国宝・三日月宗近(みかづきむねちか/二尺六寸四分)です。
地肌は小板目に大肌がゆったりと混じり、地沸が付いた肌となっています。焼刃は沸本位の焼き幅が狭い直刃仕立てで、小乱れや小丁子が混じり、刃縁に沿って二重刃、打ちのけ、食い違い刃など働きが豊富です。また銘は佩裏(はきうら/太刀でいう裏)に「三条」とのみ切っています。
「三日月宗近」の名の由来は三日月形の打ちのけが随所に現れていることによります。なお、宗近は「宗近」と切る場合は表に、「三条」と切る場合は裏に、決して「三条宗近」とは切りません。
この三日月宗近、童子切安綱(どうじぎりやすつな)、鬼丸国綱(おにまるくにつな)、大典太光世(おおてんたみつよ)、数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ)を天下五剣と言います。
宗近に学んだとされる、五条に住する兼永(かねなが)が起こした一派です。その子の国永(くになが)には、現在御物の鶴丸国永(つるまるくになが)があります。長さは二尺五寸七分四厘です。これは鎌倉幕府の九代執権・北条貞時の愛刀であり、足利将軍家の重宝となり、織田信長、仙台伊達家へと渡り、のち明治天皇に献上されています。
名物 鶴丸国永 |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より |
千手院一派(せんじゅいんいっぱ)は、大和伝の中でも最も古い流派と考えられています。千手院は、東大寺の三月堂(法華堂)の北面にある寺で、平安末期に行信(ゆきのぶ)が千手院のお抱え鍛冶となり、行信を祖とする平安末期から鎌倉時代初期までの千手院一派を特に古千手院と呼びます。
古千手院の作刀は、寺院へ武器として納められたことから、実践などで使用されたり戦火で焼失したりして現存品は少なく、また現存する作でもその作風は一様でなく、特徴をとらえるのには少々難しい一派です。他の大和伝の一派よりも古調な作が古千手院とされるようです。造りや地鉄には大和物の特徴が認められますが、刃文などに関しては一定しておらず、焼き幅の狭い沸本位の直刃仕立てに小乱れが交じり、食い違い、二重刃などの働きが現れ、鋩子は焼詰か火焔風となっています。
なお、古千手院は「千手院」と銘を切りますが、そのほとんどは大和国から美濃国の赤坂へ移住した室町時代の赤坂千手院の作ですので注意が必要です。
猿投の行安 |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
上の写真は、愛知県の猿投神社(さなげじんじゃ)にある、薩摩国の波平行安(なみのひら ゆきやす)の太刀です。重要文化財指定のこの太刀は、刃長二尺三寸三分、元幅に比べて先幅が約半分となった、いわゆる腰反り高い踏ん張りのある姿で、板目が流れた地肌となり、地鉄が白けぎみな所に九州物の特徴が現れています。刃文は細直刃、鋩子は焼詰となり、茎(なかご)は雉子股形で生ぶ茎です。
波平一派は、平安時代後期に大和国から薩摩国の波平へ移住したことから始まり、その系統は平安後期から幕末まで連綿と引き継がれました。そして南北朝期までの波平一派の作刀を古波平(こなみのひら)と呼びます。本家は代々行安と名乗り、「波平行安」は「波が平(たいら)で行くが安し」とされて、海上関係の人達に喜ばれました。大和からの移住者なので作刀にも大和伝の特徴が現れ、肌が流れて綾杉肌となり、九州物共通の白けた地鉄が見所です。
名物 童子切安綱(国宝) |
徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
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伯耆国の安綱(やすつな)は天下五剣の1つである童子切安綱(どうじぎりやすつな)の作者として有名です。昔の刀剣書には、安綱は平安初期の大同頃(806年-810年)と記載されていたため、安綱は在銘日本刀の最古の作者とされてきましたが、その作風から見て平安後期の人物であるというのが現在の見解です。
二尺六寸四分のこの太刀は、腰反り深く踏ん張りある姿で、地肌は小板目が肌立ち気味で地沸が厚くつき、地景が現れています。刃文は小乱れに足が入り、砂流しや金筋が豊富に働き、鋩子は小丸に返り掃きかけ気味となっています。山城伝の小沸本位の作風ではなく、より焼きが強い作風となっています。
童子切(どうじぎり)の名の由来は、源頼光(みなもとの よりみつ/平安中期の武将)が、丹波国の酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼を斬ったとされることによります。この童子切安綱は足利将軍家の宝物でしたが豊臣秀吉の手に渡り、徳川家康からその子・秀忠に渡り、秀忠から越前国の松平家へ与えられました。その後、越前松平家が取りつぶしとなったため、美作国の松平家へと贈られ、現在は国の所有となっています。
名物 大典太光世 |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
上の写真は、筑後国の三池典太光世(みいけてんたみつよ)の太刀で、刃長は二尺一寸八分(約66センチ)のこの太刀は天下五剣の1つです。足利将軍家の重宝で、豊臣秀吉から加賀前田家へ渡り、加賀前田家代々の重宝でした。姿は写真を見ればお分かりのように平安時代の姿とは思えない、鎌倉中期のような豪壮な姿です。平安時代の元身幅と先身幅の対比が約1対0.5であるのに対し、この典太の太刀は約1対0.7もあります。またこの時代にしては寸法も短くなっています。
典太は樋の名人で、太く浅い樋を見事に掻いています。他の伝法の影響を受けていないのが特徴でもあります。地肌は板目が流れて大肌が混じり、九州物特有の地鉄が白けています。刃文は直刃が少しのたれた感じとなり、全体にほつれて二十刃となっており、銘は生ぶ茎に「光世作」と切られています。
この太刀は、後述の古備前包平の大包平の太刀と同様に平安時代の姿とは異なります。基本的にこのような豪壮な姿の太刀は平安時代にはありません。日本刀の比較研究などが出来なかった昔、このような鎌倉時代の姿の太刀が平安時代にも存在していたと考えられており、そう伝わってきました。しかし研究が進んだ現在ではこれは間違いであるとされていますが、このような名刀は歴史に名を残した人物の手を経て現在まで伝えられているため、その来歴を重んじてあえて平安時代の物として紹介されるのです。ただ、このような鎌倉中期を思わせる姿の太刀が絶対に平安時代にはなかったかと言えばそうも言い切れません。これら大典太や大包平などの平安時代としては異質の太刀は、直刀の時代の影響を受けているとも考えられるからです。つまり直刀は元身幅と先身幅にはほとんど差はなく、それに少し反りを付ければこの大典太のような姿になります。九州や備前といった、当時の中心地であった京都から離れた地方では、京都の流行が遅れて伝わったであろうとも考えられ、また中心地の影響をあまり受けなかったとも考えられるからです。しかし、基本的にこういった豪壮な姿の太刀は平安時代の作ではないと理解しておいて下さい。
古備前の作風 |
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古備前(こびぜん)とは、平安後期から鎌倉初期にかけて、備前国長船(おさふね)に住した刀工達の総称です。
姿はこの時代の特徴を示す、小切先で踏ん張りがある腰反り深い姿で、小板目がやや肌立ち気味で、大肌が混じる場合もあります。地沸が付き地景混じり、まだ完全な映りではなく地斑映り(じはんうつり)となっています。刃文は焼き幅の狭い小沸出来の直刃仕立てに小丁子、小乱れ混じり、足がしきりに入ります。金筋、稲妻働き、鋩子は小丸、鑢目は切(きり)になっています。
平安時代の古備前の作風は、完成された備前伝の匂本位ではなく、同時代の山城伝同様の沸出来(にえでき)となっているのが特徴です。
厳島の友成 |
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徳間書店「日本刀全集」第二巻より |
上の写真は、広島県の厳島神社(いつくしまじんじゃ)の宝刀である、古備前友成(ともなり)作の太刀です。刃長は二尺六寸四分で、腰反り深く元身幅と先身幅に差がある、踏ん張りがあるいかにも古調な姿です。地肌は小板目がよく詰み、表裏に樋が掻き流されています。刃文は中直刃がわずかにのたれ、小乱れが混じり足が入ります。銘は「友成作」と切られています。
この太刀は、能登守(のとのかみ)・平教経(たいらの のりつね)が寄進したものとされています。教経は平清盛の甥(おい)にあたり、平家第一の猛者(もさ)と言われた武将です。その平家一の猛者にふさわしい、古備前中屈指の名刀です。
名物 大包平(国宝) |
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上の写真は、古備前友成派の古備前三平(こびぜんさんぴら)と呼ばれたうちの一人、包平(かねひら)の太刀です。国宝に指定されているこの太刀は、刃長二尺九寸四分(約89センチ)もある堂々たる姿です。しかしなぜか切先は鎌倉中期に流行する猪首(いくび)となっており、豪壮で長寸の太刀ですが重ねは薄く、幅広の樋を掻き流して軽くしています。地肌は小板目がよく詰んで地沸付き、地景が現れてうっすらと映りが現れています。この大包平(おおかねひら)は、童子切安綱とともに日本刀の両横綱とされています。
大包平の名の由来は、作柄が平和な平安時代の優雅な姿ではなく、鎌倉中期を思わせる豪壮な姿であるとともに、銘も大振りで、しかも「備前国包平」と長銘に切っていることによります。この大包平は平安時代の古備前包平作と伝わってはいますが、姿から見て鎌倉中期の備前国包平の作であろうとも言われています。
正恒の太刀(国宝) |
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徳川美術館蔵品6より |
上の写真は、徳川美術館所蔵の国宝・古備前の正恒(まさつね)の太刀です。正恒は、上記の友成とともに古備前の2大一派を築いた一人です。友成もそうですが正恒にも同名が数人おり、平安後期から鎌倉中期頃と思われるものもあります。正恒の特徴は、地肌は小板目よく詰んで美しく地沸つき、あわく乱れ映りが立ち、刃文は直刃仕立てに小乱れを多く交えて足よく入り、帽子は丸く返り、樋や彫刻を彫りません。
<山城国>三条一派、五条一派
<大和国>古千手院一派
<備前国>古備前
<備中国>古青江守次
<伯耆国>安綱
<筑後国>光世
<薩摩国>古波平