おさるの
日本史豆知識
奈良時代
和銅三年(710年)-延暦十三年(794年)
関連ページ: おさるの日本刀豆知識-日本刀の歴史・上古刀の部
ここからは、天皇の家政機関(かせいきかん/身の回りの世話や秘書的な仕事を行う部署)について解説していきますが、まずよく出てくる天皇や皇族に関する用語を簡単に解説しておきたいと思います。
次期天皇に譲位(じょうい/天皇の座を譲ること)した前天皇を、太上天皇(だいじょうてんのう)と呼び、略して上皇(じょうこう)と呼びます。朝廷のトップは天皇なのですが、平安後期になると上皇が天皇よりも力を持ち、院政(いんせい)と呼ばれる上皇主導の政治が行われるようになり、天皇は単なるお飾りとなってしまいます。武士が台頭し、有力寺社も武力を持ってその勢力を拡大していった平安後期には、法に縛られた天皇よりも自由な身で前例にとらわれない大胆な施策を行える上皇が力を持ったのです。
また、法皇(ほうおう)とは、出家した(仏門に入った)上皇をこう呼びます。
律令制下においては、天皇の子や兄弟姉妹のうち、男子を親王(しんのう)、女子を内親王(ないしんのう)と呼んでいました。しかし平安時代になると、天皇による宣旨(せんじ/天皇の意思を記した文書)によって、親王宣下(しんのうせんげ)を受けた者だけが親王・内親王と呼ばれました。つまり数多くいる天皇の子のうち、特別な者だけが親王、内親王と呼ばれたのでした。
天皇には多くの妻がいましたが(天皇の妻達参照)、その妻にも格がありました。簡単に言えば妻が皇族の出なのか、臣下の娘なのかによって、妻の格にも差が生じました。従って、格が高い妻が産んだ男子が皇位継承者候補とされ、特別に親王とされたのです。女子については皇位継承者候補ではありませんが、格が高い妻が産んだ女子を特別に内親王としたのです。
数多くいる天皇の子供のうち、親王、内親王でない者は、男子の場合は王(おう)、女子の場合は女王(じょおう)と称されました。そして親王、内親王、王、女王の区別なく、一般に天皇の子という意味で男子は皇子(おうじ)、女子は皇女(おうじょ)と呼ばれます。
同じ天皇の子でも、親王と王、内親王と女王ではその待遇に大きな差がありました。母親の格は別として、天皇の子であればそれなりの待遇をしなければなりません。それには莫大なお金がかかります。国家の財政から支出されるのですから、これらの出費がやがて朝廷の財政を圧迫していくのです。そこで天皇が特別と認めた子だけを定めて厚く待遇し、それ以外のその他大勢とは待遇に差をつけたのでした。
臣籍降下(しんせきこうか)とは、皇族が氏姓(しせい/うじかばね)を与えられて皇族ではなくなり、臣下に下ることを言います。臣籍降下で一番よく知られるのは平氏と源氏でしょう。平氏は「たいらうじ」、源氏は「みなもとうじ」であり、平氏の場合は平(たいら)が氏(うじ)、姓(かばね)は朝臣(あそん/あそみ)です。平氏も源氏も元は皇族(天皇の子)で、臣籍降下して臣下となったのです。
古く日本は一夫多妻でした。身分が高い者は複数の妻を持ったのです。特に天皇は安定的に皇位を継承していかなければなりませんでしたので、多くの妻を持ったのです。当時は医療も未発達で、貴族や皇族とはいっても食事もバランスがとれたものではありませんでした。従って、子供がまだ幼い内に亡くなってしまうことが多かったのです。従って、安定的に皇位を継承していくには、多くの男子をもうける必要があったのです。
そのために正室以外に多くの側室を持ったのですが、それぞれに男子が産まれると、大変多くの皇子を持つことになります。皇位継承者候補は数人でよいのですが、これら皇子は天皇の子としてそれなりの待遇をしなければなりません。これら皇子達の皇族としての待遇が、朝廷の財政を圧迫していたのです。また、あまり多くの皇位継承者候補がいては争いとなるため、臣籍降下はそれを防ぐ意味もありました。
王には正一位(しょう いちい)から従五位(じゅ ごい)の位階が設定されていましたが、親王には一品(いっぽん)から四品(しほん)までの四段階の品位(ほんい)が設定されていました。これらの品位に叙位した親王には、それに応じた位田(いでん)、職封(しきふ)に相当するものが与えられました。一品親王には80町歩の位田、800戸の職封、家令(かれい)とその部下7人、160人の帳内(ちょうない)が与えられました。家令とは、三位(さんみ)以上の貴族と、一品から四品の親王・内親王家に設置するよう定められた職員で、家内の様々な事務や雑務を行う職員で、一品親王の場合は従五位下(じゅ ごいの げ)の貴族が務めました。また、帳内とは臣下に与えられた資人(しじん)に相当する者で、警護などにあたりました。
このように一品親王ともなれば、正一位相当(臣下の位階最上位)、あるいはそれ以上の待遇を受けました。
古代日本は一夫多妻でした。つまり複数の妻を持ちました。それは天皇も例外ではありませんでした。なぜ複数の妻を持ったのかと言うと、昔は医療が未発達で、赤ちゃんのうちに死亡してしまうことが多く、また食生活も特に身分が高い者ほどかたよった栄養バランスであり、身分が高い家の娘は外出もほとんどできず、一日中家の中で暮らすといった不健康な生活をしていました。従って元気で丈夫な赤ちゃんが産めないことが多かったのです。しかし、天皇を始め高貴な人達は跡継ぎを作って家系を存続させねばなりません。従って、一人の妻だけでは跡継ぎが産まれない確率が高かったため、複数の妻を持ったのです。
天皇の正室(せいしつ)は皇后(こうごう)と呼ばれます。正室とは正式な妻という意味で、原則として正室は一人しか持てません。正室は嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれます。正式で無い妻とは何かと言うと、それは側室(そくしつ)という事になります。そして嫡妻が産んだ長男が嫡子(ちゃくし)であり、側室が産んだ子は庶子(しょし)と呼ばれ、嫡子が父親の跡継ぎとなります。
従って、側室に長男、正室に次男が産まれた場合、跡継ぎは側室が産んだ長男ではなく、正室が産んだ次男(正室にとっての長男)となりました。しかし、平安時代以降になるとこういった考えは薄れ、跡継ぎは夫が相応な者を選ぶという形になりました。
古墳時代のヤマト王権と地方豪族で解説しましたが、天皇と称する以前は天皇は「おおきみ」と呼ばれ、その妻は「きさき」と呼ばれ、その中でも嫡妻は「おおきさき」と称されました。『古事記』では「大后」(おおきさき)という記述が多く見られ、『日本書紀』では「皇后」(こうごう)という文字が多く見られます。
天皇の複数の妻にはランクがあり、皇后の下のランクは妃(ひ)と呼ばれます。后や妃はどちらも「きさき」と読みますが、后は正室であり、妃は側室です。妃の定員は2人で、四品以上の内親王から選ばれました。定員が定められていることからも分かるように、これは天皇の子を産むことを職掌(しょくしょう/仕事内容)とした、後宮(こうきゅう)の職員です。後宮とは、天皇の住居の後方にある、天皇の妻達が住む殿舎のことです。
妃は職員ですから、品位(ほんい)に応じた職封、また季禄に相当する号禄(ごうろく)、時服(じふく)と呼ばれる、毎年春秋、または夏冬の年2回、天皇より衣服を与えられました。
妃は天皇のみならず、皇太子など皇族の妻の呼称としても用いられ、天皇の妻としての妃が平安前期の醍醐天皇(在位:897年-930年)の妃を最後に置かれなくなると、それ以後は妃は皇族の妻の呼称として現在に至っています。
そして妃に次ぐ妻は夫人(ふじん/ぶにん)と呼ばれます。夫人も妃と同様に後宮の職員であり、定員は3名、夫人になると三位(さんみ)以上に叙され、位階に応じた位封、号禄、時服を与えられました。
聖武天皇の夫人であった藤原安宿媛(あすかべひめ/光明子)が皇后に昇格した例もありましたが、平安時代になって女御(にょうご)の地位が高まるにつれ、妃や下位の嬪とともに夫人も置かれなくなりました。
注) 女御については平安時代の項で解説します。
皇后・妃・夫人に次ぐ地位が嬪(ひん)です。同じく後宮の職員で、定員は4名です。令(りょう/法律)には、天皇の正室が皇后、内親王の妻を妃、それ以外を夫人、嬪とすると定められています。夫人は三位以上、嬪は四位・五位の者が務め、平安時代の女御・更衣(こうい)にあたるものです。
天皇の住居は平城宮内の内裏(だいり)と呼ばれる私的空間にありましたが、ここには天皇の妻達が住む後宮(こうきゅう)がありました。この後宮に天皇の家政機関(かせいきかん)として置かれたのが後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)です。家政機関とは、家政婦(かせいふ)という言葉があるように、身の回りの世話や事務などをつかさどるものです。
後宮十二司は下記の十二の司から成りました。
官司 | 読み | 職掌 |
内侍司 | ないしのつかさ | 職員はみな女性で、天皇近くに仕え、臣下の意見を天皇に伝えたり、天皇が口頭で出した命令を太政官などに伝える役目を持ち、後宮の礼式などもつかさどりました。四等官の長官に相当するのが尚侍)ないしのかみ)で、准位(じゅんい/注1)は従三位(じゅ さんみ)、定員は2名で平安時代以降は摂関家(せっかんけ/摂政・関白を独占した藤原家の家系)の娘から選ばれました。次官に相当するのが典侍(ないしのすけ)で、准位は従四位(じゅ しい)、定員は4名で、主に公卿(くぎょう)の娘から選ばれました。判官に相当するのは掌侍(ないしのじょう)で、准位は従五位(じゅ ごい)、定員は4名でした。四等官の主典(さかん)に相当するものはなく、女嬬(にょじゅ)と呼ばれる、掃除などの雑用係の下級女官100名がいました。女嬬は氏女(うじめ注2)や采女(うねめ)から選抜されました。なお、平安中期以降の尚侍や典侍は天皇の側室という色が濃くなります。 |
蔵司 | くらのつかさ | 後宮の蔵の鍵を管理し、天皇の印や宝物、三種の神器(さんしゅのじんぎ/正当な天皇である事を示す物)、三関(さんかん/注3)の割り符、天皇・皇后の衣服などを管理した、十二司の中で最も格が高い司です。長官の尚蔵(くらのかみ)の准位は正三位(しょう さんみ)で1名、次官の典蔵(くらのすけ)の准位は従四位(じゅ しい)で2名、判官の掌蔵(くらのじょう)の准位は従五位で4名、女嬬10名がいました。 |
書司 | ふみのつかさ | 書籍・文房具のことをつかさどりました。四等官の長官に当たるのは尚書(ふみのかみ)で、准位は従六位(じゅ ろくい)で1名、次官に相当するのが典書(ふみのすけ)で准位は従八位(じゅ はちい)で2名、判官(じょう)、主典(さかん)相当官は無く、女嬬6名がいました。 |
兵司 | つわもののつかさ | 後宮で兵器の管理をつかさどりました。長官の尚兵(つわもののかみ)の准位は正七位(しょう しちい)、次官の典兵(つわもののすけ)の准位は従八位(じゅ はちい)、判官・主典相当官は無く、女嬬が6名いました。 |
闡司 | みかどのつかさ | 宮中諸門の鑰(カギ)の管理および出納をつかさどりました。長官の尚闡(みかどのかみ)の准位は正七位で1名、次官の典闡(みかどのすけ)の准位は従八位で4名、女嬬10名がいました。 |
薬司 | くすりのつかさ | 後宮における医薬をつかさどりました。長官の尚薬(くすりのかみ)の准位は従六位で、次官の典薬(くすりのすけ)の准位は従八位です。判官、主典相当官は無く、女嬬4名がいました。 |
殿司 | とのもりのつかさ | 後宮の清掃、灯油・手燭・炭や薪(たきぎ)などの照明をつかさどりました。長官の尚殿(とのもりのかみ)の准位は従六位で1名、次官の典殿(とのもりのすけ)の准位は従八位で2名、女嬬6名がいました。 |
掃司 | かもりのつかさ | 後宮の掃除や、鋪設(しつらい/晴れの祝いの日に部屋を飾る事)などをつかさどりました。長官の尚掃(かもりのかみ)の准位は従七位で1名、次官の典掃(かもりのすけ)の准位は従八位で2名、判官・主典相当官はなく、女嬬10名がいました。 |
膳司 | かしわでのつかさ | 後宮における毒味、配膳、酒醴(しゅれい/酒と甘酒)、果蔬(かそ/果物と野菜)などをつかさどりました。長官の尚膳(かしわでのかみ)の准位は正四位(しょう しい)で1名、次官の典膳(かしわでのすけ)の准位は従五位で2名、判官の掌膳(かしわでのじょう)の准位は正八位で4名、主典相当官はなく、采女60名がいました。 |
水司 | もいとりのつかさ | 後宮の水の管理などをつかさどりました。長官の尚水(もいとりのかみ)の准位は従七位、次官の典水(もいとりのすけ)の准位は従八位、判官・主典相当官はありませんでした。 |
酒司 | みきのつかさ | 後宮で飲まれる酒造りをつかさどりました。長官の尚酒(みきのかみ)の准位は正六位(しょう ろくい)で1名、次官の典酒(みきのすけ)の准位は従八位で2名、判官・主典相当官はありません。 |
縫司 | ぬいのつかさ | 後宮における衣服の裁縫をつかさどりました。他の十一司の定員外の女嬬は全てこの縫司に配属されました。 |
注1) 男性の役人には、位階に相当する官職が定められており(官位相当)、それによって俸給が支払われましたが、女官には官位相当はありませんでした。そこで女官にも官職に応じて、特定の位階に相当する報酬を支払う規定が定められました。この男性役人の官位相当に当たるものを准位(じゅんい)と呼びます。 注2) 氏女(うじめ)とは、畿内(きない)の有力氏族から朝廷に差し出された女官の事です。 注3) 三関(さんかん)とは、都を守るために設けられた三つの関所の事で、奈良時代の三関は伊勢国の鈴鹿(すずか)、美濃国の不破(ふわ)、越前国の愛発(あらち)の三つを指し、平安次代の三関は、愛発の関の代わりに近江国の逢坂(おうさか)の関が追加されました。 |
後宮十二司は、平安時代になると再編が進み、平安中期頃には内侍司のみとなります。また内侍司も、新たに設けられた蔵人所(くろうどどころ)にその職掌を次第に奪われていきました。
蔵人(くろうど)は、平安時代に設置された令外官(りょうげのかん)です。天皇の秘書的な役割を持ち、蔵人所(くろうどどころ)はその役所です。これが設置された理由には薬子の変(くすこのへん)が関係しています。
大同四年(809年)、桓武天皇の子である平城天皇(へいぜいてんのう)は、弟である嵯峨天皇(さがてんのう)に譲位(じょうい/天皇の座を譲る事)し、平城上皇(へいぜいじょうこう)として奈良の平城京へ移り住みました。都が移る際、前の都の建物などは解体され、新しい都で再利用されるのですが、平城京の建物はそうではなかったようで、平安京へ都が移った後も多くの住人が平城京にとどまりました。
平城京へ移る際、平城天皇は皇太子時代から寵愛(ちょうあい/非常にかわいがる事)していた側室である藤原薬子(ふじわらの くすこ)と、その兄である藤原仲成(ふじわらの なかなり)を連れて行きました。この藤原薬子という女性は、後宮十二司のひとつである内侍司(ないしのつかさ)の長官である尚侍(ないしのかみ)だったのです。つまりは天皇の秘書長官であったのです。内侍司は天皇の命令などを太政官(だいじょうかん)などに伝える役目を持っていたため、その長官が上皇と共に平城京へ移ってしまったため、平安京では仕事に支障が生じたのでした。しかも、薬子は平城天皇の妻の母親、つまりは平城天皇の義理の母であったのです。平城天皇は妻の母とも関係を持っていたことになり、平城天皇は皇太子時代からこの事で父である桓武天皇の怒りを買っていたのです。
平安京に天皇の秘書不在という状況の中、新たな秘書として設置されたのが蔵人です。嵯峨天皇は側近である藤原冬嗣(ふじわらの ふゆつぐ)、巨勢野足(こせの のたり)を初代蔵人所長官である蔵人頭(くろうどのとう)に補任(ぶにん/官職に任命する事)しました。これにより、平城上皇側に機密事項がもれるのを防いだと考えられています。
その後、平城上皇は薬子とその兄・中成にそそのかされ、平安京から平城京へ都を戻すという詔(みことのり/命令)を出し、再び政権を握ろうとしたのです。父である桓武天皇の「都は平安京から移すな」という言葉を守ろうとする嵯峨天皇は兵を出し、薬子・中成を捕らえ、薬子らのもくろみは阻止され、平城上皇は出家しました。これを薬子の変と呼びます。
このような経緯で設置された蔵人所の職員には次のようなものがありました。
官職名 | 読み | 職掌など |
別当 | べっとう | 蔵人所の長官で、当初は中納言以上の公卿(くぎょう)から任命されていましたが、のちに左大臣が兼任しました。左大臣が関白(かんぱく)を兼ねている場合は、右大臣が兼務しました。ただ、別当は名目上の長官でありました。 |
蔵人頭 | くろうどのとう | 蔵人所の事実上の長官で、定員は2名で四位の殿上人(てんじょうびと)から選ばれました。天皇の命令や上奏(じょうそう/臣下からの意見)の伝達、事務全般を統括しました。蔵人頭はほとんどの場合、その一人を弁官(べんかん)が、もう一人を近衛中将(このえおおいのすけ/このえのちゅうじょう)が兼務しました。そして弁官から選ばれた者を頭弁(とうのべん)、近衛中将から選ばれた者を頭中将(とうのおおいのすけ/とうのちゅうじょう)と呼びます。蔵人頭はその職掌(しょくしょう/仕事内容)から、殿上の間(てんじょうのま/注1)での座る位置も他の殿上人よりも上座とされ、朝廷の最高幹部の一員である参議(さんぎ)に欠員が出た場合、蔵人頭が就任する事になっていました。 |
五位蔵人 | ごいのくろうど | 定員3名で、蔵人頭と共に勅旨(ちょくし/天皇の命令書)、上奏の伝達を受け持ち、秘書的な役割を果たしました。五位の殿上人の中で、家柄が良く有能な者が選ばれました。 |
六位蔵人 | ろくいのくろうど | 定員は4〜6名で、天皇の食事の際の給仕(きゅうじ/側で世話をする事)などを行い、六位でありながら殿上人として、また天皇の側近として下級官人にとっては名誉ある官職でした。 |
非蔵人 | ひくろうど | 定員は4〜6名で、蔵人の見習いです。良家の子で六位の者から選ばれ、昇殿(しょうでん/殿上の間へ昇る事)を許され殿上の雑用を勤めました。また六位蔵人を補充する際は、非蔵人の中から選ばれました。 |
出納 | しゅつのう | 定員は3名で、蔵人所の物品の出し入れの管理、蔵人所が発給する牒(ちょう/文書書式の1つ)、下文(くだしぶみ/上位から下位に出す命令文書)などの文書を作成し、蔵人と共に署名しました。その職掌から、学識が高い者が選ばれました。 |
雑色 | ぞうしき | 定員は8名で、蔵人の見習いですが非蔵人とは異なり、昇殿は許されていませんでした。殿上の雑務をこなしましたが、六位蔵人補充の際、非蔵人に次いで候補となりました。 |
所衆 | ところのしゅう | 六位の侍(さむらい/注2)の中から選ばれ、定員は20名でした。月末に行われる御所の煤払い(すすはらい)や、日蝕・月蝕の際には蓆(むしろ)で御所を包み隠す(注3)事もその役目でした。 |
滝口 | たきぐち | 滝口武者(たきぐちのむしゃ)とも呼ばれます。定員は10〜30名です。もともと天皇のプライベート空間である内裏(だいり)の警護は近衛府(このえふ)が担当していましたが、薬子の変を機に設置された蔵人所が担当するようになりました。天皇の日常の居所である清涼殿では、殿上の間に殿上人が交代で宿直して警護しましたが、庭を警護したのが滝口武者です。庭には溝を作って水が流れるようになっていましたが、その水が滝のように落ちる所が滝口と呼ばれており、その滝口近くの渡り廊下が詰め所となっていたためこのように呼ばれました。 |
小舎人 | こどねり | 殿上で様々な雑務にあたりました。定員は6〜12名でした。 |
注1) 殿上の間とは、天皇が日常を過ごす殿舎である清涼殿(せいりょうでん)の南廂にある部屋で、ここへ入る事を許された殿上人は、貴族の中でも特に天皇の許しを得た特別な者でした。 注2) 侍とは、「さぶらう」という語からきた言葉で、主人近くに仕えるという意味の言葉でしたが、天皇や貴族などのボディーガードとして仕えたいわゆる武士の事です。 注3) 当時、日食時の太陽の明かり、月食時の月明かりは不浄(ふじょう/けがれている)とされており、それを浴びると天皇が汚れる(けがれる)として、御所を蓆で覆い隠していました。 |
蔵人は次第に内侍司(ないしのつかさ)、少納言局(しょうなごんきょく)、侍従(じじゅう)などの職務にも関与し、その職務を奪っていくようになり、殿上の事務から警護など、あらゆることを取り仕切るものとなりました。
蔵人五位(くろうどのごい)という言葉がありますが、これは五位蔵人とは異なります。蔵人五位とは、六位蔵人(ろくいのくろうど)が五位に昇って蔵人の職を辞した者を指す言葉で、蔵人大夫(くろうどのたいふ)とも呼ばれます。つまり、五位蔵人は現職であり、蔵人五位は既に蔵人を辞した者を指します。
六位蔵人は、その勤務した年月によって極臈(ごくろう)、差次(さしつぎ)、新蔵人(しんくろうど)と位置づけされましたが、極臈を6年以上勤めた者に対し、その労をねぎらって毎年正月に行われる除目(じもく/任命式)で、上位の従五位下(じゅ ごいの げ)に叙されることが平安中期頃に慣例となりました。これを巡爵(じゅんしゃく)と呼びます。
六位蔵人が五位に叙されたのであれば五位蔵人に昇格するはずなのですが、五位蔵人は名家とされる家柄から選ばれるのが原則で、定員も3名と決められていましたので、巡爵によって五位に昇ったとしても家柄、定員などの制限によって五位蔵人にはなれず、仕方なく蔵人を辞する者が多かったのです。こうして五位に昇格して蔵人を辞した者を「蔵人五位」、または「蔵人大夫」と呼びました。
巡爵によって五位に昇格したにも関わらず、五位を辞退して改めて六位の蔵人として昇殿することを望む者も多く、この場合は新蔵人、つまり新参者として務め直さなければなりませんでした。
注) 蔵人所は令外官であり四等官制をとっていないため、実質的な長官の「頭」は「とう」と読み、「かみ」とは読みません。
春宮坊(とうぐうぼう)とは、皇太子の家政機関です。皇太子の身の回りの世話や事務全般をつかさどりました。
春宮坊の長官は春宮大夫(とうぐうのかみ/とうぐうのだいぶ)で官位相当は従四位下(じゅ しいの げ)で1名、次官は春宮亮(とうぐうのすけ)で官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)で1名、判官は春宮大進(とうぐうおおいのじょう)で官位相当は従六位上(じゅ ろくいの じょう)で1名と、春宮少進(とうぐうすないのじょう)で官位相当は従六位下(じゅ ろくいの げ)で2名、主典(さかん)は春宮大属(とうぐうおおいのさかん)で正八位下(しょう はちいの げ)で1名と、春宮少属(とうぐうすないのさかん)が官位相当従八位上(じゅ はちいの じょう)で2名、以上が四等官です。また春宮坊には下記のような機関がありました。
役所名 | 読み | 職掌など |
主膳監 | しゅぜんげん/みこのかしわでのつかさ | 春宮坊の食事一切を管理した役所です。長官は主膳正(しゅぜんのかみ/従六位上相当)1名、判官は主膳佑(しゅぜんのじょう/正八位下相当)で1名、主典(さかん)は主膳令史(しゅぜんのさかん/少初位上相当)で1名、膳部(かしわべ/調理係)60名、使部(つかいべ)6名、直丁1名、駈使丁20名といった仕丁(しちょう)などが所属しました。 |
主蔵監 | しゅぞうげん/みこのくらのつかさ | 皇太子の宝物や衣服をつかさどりました。長官は主蔵正(しゅぞうのかみ/従六位上相当)1名、判官は主蔵佑(しゅぞうのじょう/正八位下相当)1名、主典(さかん)は主蔵令史(しゅぞうのさかん/少初位上相当)1名で、他に倉庫の出納事務を行う蔵部(くらべ)20名、使部6名、直丁1名、駈使丁2名が所属しました。 |
舎人監 | とねりげん/みこのとねりのつかさ | 皇太子に奉仕する舎人(とねり)の管理一切をつかさどりました。長官は舎人正(とねりのかみ/従六位上相当)1名、判官は舎人佑(とねりのじょう/正八位下相当)1名、主典(さかん)は舎人令史(とねりのさかん/少初位上相当)1名、東宮舎人600名、使部10名、直丁1名が所属しました。 |
主馬署 | しゅめしょ/みこのうまのつかさ | 皇太子の乗馬や馬具をつかさどりました。長官は主馬首(しゅめのかみ/従六位下相当)1名、主典(さかん)は令史(しゅめのさかん/少初位下相当)1名のほか、馬部(めぶ/馬の世話係)10名、仕部10名、直丁1名などがいました。 |
主殿署 | しゅでんしょ/みこのとのもりのつかさ | 皇太子の入浴、灯り、掃除などをつかさどりました。長官は主殿首(しゅでんのかみ/従六位下相当)1名、主典(さかん)は主殿令史(しゅでんのさかん/少初位下相当)1名、掃部(かもん/掃除係)20名、使部6名、直丁1名、駈使丁10名が所属しました。 |
主書署 | しゅしょしょ/みこのふみのつかさ | 皇太子が使用する筆、墨、紙、硯などをつかさどりました。長官は主書首(しゅしょのかみ/従六位下相当)1名、主典(さかん)は主書令史(しゅしょのさかん/少初位下相当)1名、使部6名、直丁1名が所属しました。 |
主兵署 | しゅへいしょ/みこのつわもののつかさ | 皇太子の兵器や儀仗(ぎじょう/儀式用の武器)をつかさどりました。長官は主兵首(しゅへいのかみ/従六位下相当)1名、主典(さかん)は主兵令史(しゅへいのさかん/少初位下相当)1名、使部6名、直丁1名が所属しました。 |
主工署 | しゅこうしょ/みこのたくみのつかさ | 木製の造作、銅や鉄製の雑器をつかさどりました。長官は主工首(しゅこうのかみ/従六位下相当)1名、主典(さかん)は主工令史(しゅこうのさかん/少初位下相当)1名、工部(たくみべ/職人)6名、使部6名、直丁1名、駈使丁60名が所属しました。 |
主漿署 | しゅしょうしょ/みこのこみずのつかさ | 皇太子の粥(かゆ)、漿(米を水にまぜて発酵させた飲み物)などをつかさどりました。長官は主漿首(しゅしょうしょのかみ/従六位下相当)1名、主典(さかん)は主漿令史(しゅしょうしょのさかん/少初位下相当)1名、水部(もいとりべ/粥や水を用意する係)10名、使部6名、直丁1名、駈使丁6名が所属しました。 |
平城宮には政務を行う様々な庁舎がありました。中央官庁の最高官庁は朝廷の祭祀をつかさどる神祇官(じんぎかん)と、今の内閣にあたる太政官(だいじょうかん)の二官でした。太政官の監督下には、中務省(なかつかさしょう)、式部省(しきぶしょう)、治部省(じぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、宮内省(くないしょう)の8つの省があり、日常の行政を担当していました。
そして風紀を取り締まったり、役人が不正をしていないかを監視する弾正台(だんじょうだい)、都の諸門を警備する衛門府(えもんふ)、宮中の警備、行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)の護衛などにあたった左右衛士府(さゆうえじふ)、天皇の親衛隊でもあり、夜間の都を見回る役目を持った左右兵衛府(さゆうひょうえふ)がありました。これら二つの官、八つの省、弾正台、五つの衛府を総称して二官八省一台五衛府(にかんはっしょういちだいごえふ)と呼びます。
各省の元で実務を行う組織に職(しき)、寮(りょう)、司(つかさ/し)があります。職は寮や司よりも格が高く、やや独立性が高いものです。またこれらは四等官の官位相当などによって以下のように分けられます。
大職 | 大夫(長官/従四位下) 亮(次官/従五位下) 大進(判官/従六位上) 少進(判官/従六位下) 大属(主典/正八位下) 少属(主典/従八位上) |
中宮職(中務省)、春宮坊(独立)、修理職(令外官/独立)、左右京職(太政官) |
小職 | 大夫(長官/正五位上) 亮(次官/従五位下) 大進(判官/従六位下) 少進(判官/正七位上) 大属(主典/正八位下) 少属(主典/従八位上) |
大膳職(宮内省)、摂津職 |
大寮 | 頭(長官/従五位上) 助(次官/正六位下) 大允(判官/正七位下) 少允(判官従七位上) 大属(主典/従八位上) 少属(主典/従八位下) |
大舎人寮(中務省)、図書寮(中務省)、内匠寮(中務省)、縫殿寮(中務省) 内蔵寮(中務省)、大学寮(式部省)、雅楽寮(治部省)、玄蕃寮(治部省) 諸陵寮(治部省)、主計寮(民部省)、主税寮(民部省)、木工寮(宮内省) 左右馬寮(独立)、左右兵庫寮(兵部省) |
小寮 | 頭(長官/従五位下) 助(次官/従六位上) 允(判官/従七位上) 大属主典/(従八位下) 少属(主典/大初位上) |
陰陽寮(中務省)、散位寮(式部省)、大炊寮(宮内省)、主殿寮(宮内省) 典薬寮(宮内省) 掃部寮(宮内省) |
大司 | 正(長官/正六位上) 佑(判官/従七位下) 大令史(主典/大初位上) 少令史(主典/大初位下) |
画工司(中務省)、内薬司(中務省)、兵馬司(兵部省)、鼓吹司(兵部省) 造兵司(兵部省)、贓贖司(刑部省)、囚獄司(刑部省)、典鋳司(大蔵省) 正親司(宮内省)、内膳司(宮内省)、造酒司(宮内省)、鍛冶司(宮内省) 官奴司(宮内省)、園池司(宮内省)、左右市司(左右京職) |
中司 | 正(長官/正六位下) 佑(判官/正八位上) 令史(主典/大初位下) |
内礼司(中務省)、喪儀司(治部省)、主船司(兵部省)、漆部司(大蔵省) 縫部司(大蔵省)、織部司(大蔵省)、采女司(宮内省)、土工司(宮内省) 隼人司(兵部省)、内兵庫(兵部省) |
小司 | 正(従六位上) 佑(正八位下) 令史(少初位上) |
主水司(宮内省)、主油司(宮内省)、内掃部司(宮内省)、筥陶司(宮内省) 内染司(宮内省)、主膳監(春宮坊)、主蔵監(春宮坊)、舎人監(春宮坊) |
下司 | 正・首(長官/従六位下) 令史(主典/少初位下) |
主鷹司(兵部省)、主殿署(春宮坊)、主馬署(春宮坊)、主工署(春宮坊) 主兵署(春宮坊)、主書署(春宮坊)、主漿署(春宮坊) |
太政官は八つの省を統括する朝廷の最高機関です。太政官にも他の役所と同様に四等官に相当する官職があります。長官である「かみ」に相当するのが太政大臣(だいじょうだいじん)、左大臣、右大臣、内大臣(ないだいじん)です。
太政大臣の官位相当は正(しょう)・従(じゅ)一位ですが、常設ではなく一種の名誉職であり、ふさわしい人物がいなければ空席でした。
太政官の事実上のトップは左大臣で、官位相当は正・従二位です。右大臣は左大臣の補佐役で、官位相当は正・従二位です。また内大臣の官位相当も正・従二位ですが、内大臣は令外官(りょうげのかん)で、左右大臣が病欠などで出勤出来ないような時に政務を代行しました。
太政官の次官に相当するのが大納言(だいなごん)、中納言(ちゅうなごん)、参議(さんぎ)です。
大納言の官位相当は正三位(しょう さんみ)で、左右大臣と共に政務にあたり、両大臣不在の際は代行しました。下からの進言を上に上げ、上からの指示を下へ伝える重要な官職で、当初の定員は4名でしたが、ふさわしい者で定員が埋まらないため2名とされました。
大納言の不足を補う意味で置かれたのが令外官の中納言で、官位相当は従三位(じゅ さんみ)です。「水戸黄門」でおなじみの徳川光圀(とくがわ みつくに)は黄門様と呼ばれていますが、黄門は中納言の唐名で、光圀が中納言に任官していた事からこう呼ばれています。
参議は、朝廷の政(まつりごと)に参議するという意味の官職で、令外官です。参議には官位相当を定めた法はありませんが、四位以上の位階に叙された者の中から優秀な者が選ばれました。三位以上の位階を持つ者を公卿(くぎょう)と呼び、朝廷の最高幹部とされましたが、四位の位階であっても参議に任官した者も公卿とされ、最高幹部の仲間入りが出来ました。
参議は蔵人頭(くろうどのとう)、左右大弁(だいべん)、左中弁(さちゅうべん)、近衛中将(このえおおいのすけ)、式部大輔(しきぶおおいのすけ)のほか、5か国の国司長官歴任者、三位の位階をもつ者の中から選ばれました。
政府の意思決定は左右および内大臣、大納言、中納言、参議といった、合計十数人のごく少人数で決定され、これらのメンバーを議政官(ぎせいかん)と呼びます。
議政官(左右および内大臣、大納言、中納言、参議)の元で、実務を担当したのが少納言(しょうなごん)です。少納言は太政官における四等官の上から三番目の判官(じょう)に相当し、官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)です。その職掌(しょくしょう/仕事内容)は、天皇が出す命令書などに捺す天皇の印、太政官の印、駅鈴(えきれい)の管理などであり、天皇近くに仕える侍従(じじゅう)も兼任しました。
注) 駅鈴とは役人が出張する際に持って行く鈴で、駅でこの鈴を鳴らすと馬一匹と二人の駅子を従わせる事が出来ました。駅子の一人は駅鈴を鳴らしながら役人が乗った馬を引き、もう一人の駅子は護衛として付き添いました。
少納言は少納言局(事務所)を構成して実務をとりました。それに属したのが四等官の四番目の主典(さかん)に相当する外記(げき)です。外記には官位相当が正六位上(しょう ろくいの じょう)である大外記(おおいのげき)と、官位相当が正七位上(しょう しちいの じょう)である少外記(すないのげき)がありました。
外記の職掌は、中務省の内記(ないき)が下書きした詔勅(しょうちょく/天皇の意思を表した文書)を校正し、それを元に天皇へ上げる文書を作成したり、朝廷の儀式においては、必要な場合はその儀式の先例を調べて進言し、儀式がつつがなく進むようにも務めました。また、人事手続きの一端も担いました。このように外記は重要な官職であったため、当初は官位相当が大外記が正七位上、少外記が従七位上であったのが、延暦二年(783年)に大外記を正六位上と4段階、少外記を正七位上と2段階も昇格させています。
その一方で、平安時代になると蔵人(くろうど)が置かれ、天皇の秘書的役目は蔵人へ移り、少納言は印章と駅鈴の管理が主な仕事となってしまいました。
太政官のもう一つの事務局が弁官(べんかん)で、四等官の判官(じょう)に相当します。弁官は左弁官(さべんかん)と右弁官(うべんかん)から成り、左弁官は官位相当が従四位上(じゅ しいの じょう)である左大弁(さだいべん)、官位相当が正五位上(しょう ごいの じょう)である左中弁(さちゅうべん)、官位相当が正五位下(しょう ごいの げ)である左少弁(さしょうべん)で構成され、右弁官も右大弁(うだいべん)、右中弁(うちゅうべん)、右少弁(うしょうべん)で構成され、これらの官位相当は左弁官と同じでした。
弁官の職掌は、八省とその下に属する組織の監督で、不正がないか、公務に遅れはないかなどを監視し、それらを正しました。また各省から太政官への書類の受け付け、太政官から各省やその下級機関への書類発給などの事務を統轄しました。左弁官は中務省(なかつかさしょう)、式部省(しきぶしょう)、治部省(じぶしょう)、民部省(みんぶしょう)を、右弁官は兵部省(ひょうぶしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、宮内省(くないしょう)を管轄しました。
左大弁、右大弁はそれぞれ左弁官局、右弁官局を持ち、そこには四等官の主典(さかん)に相当する史(ふみひと/ふひと)が所属しました。史には官位相当が正六位上(しょう ろくいの じょう)の大史(おおいのふひと/おおいのふみひと)が2人、正七位上(しょう しちいの じょう)の少史(すないのふひと/すないのふみひと)2人が所属しました。大少史の職掌は、公文書の記録や作成で、文章や文字と言った専門知識が求められる官職でした。
古墳時代の渡来人の項で文氏(ふみうじ)の解説をしましたが、当時から文書の作成や記録をつかさどる者を史(ふみひと/ふひと)と呼び、東文氏(やまとのふみうじ)、西文氏(かわちのふみうじ)といった渡来人が史として活躍していました。
弁官曲には上記の他、雑任である史生10名、使部の監督である官掌(かじょう)2名、使部80名が所属しました。
弁官は各省を管轄下に置き監督するという職務から、少納言よりも上位とされました。また左中弁、左大弁を務めた者は参議へ昇格できる資格があり、三位まで出世する可能性があり、出世への登竜門となりました。
注) 弁官は四等官の判官(じょう)では無く、品官(ほんかん)であると言う説もあります。
京職(きょうしき)とは「みさとつかさ」とも読み、特別行政区域である都(みやこ)の行政、検察、訴訟、交易、交通、戸籍などをつかさどった官職です。平城京の項で解説しました通り、都は南北に走るメインストリートである朱雀大路(すざくおおじ)を中心として、大きく東西2つのブロックに分割されていました。そして朱雀大路の東側を左京(さきょう)、西側を右京(うきょう)と呼びます。
京職は左京、右京それぞれに置かれ、左京職(さきょうしき)、右京職(うきょうしき)と呼ばれます。長官は大夫(だいぶ)で官位相当は従四位下(じゅ しいの げ)です。左京大夫(さきょうのかみ/さきょうのだいぶ)、右京大夫(うきょうのかみ/うきょうのだいぶ)と読みます。次官は亮(すけ)で官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)、判官は大進(おおいのじょう)が従六位上、少進(すないのじょう)が従六位下、主典は大属(おおいのさかん)が正八位下(しょう はちいの げ)、少属(すないのさかん)が従八位上です。
京職は地方の国司(こくし)にあたる職掌(しょくしょう/仕事内容)を持ちましたが、国の特別行政区である都を担当するため、国司とは格が違います。それは官位相当が京職の長官が従四位下であるのに対し、国司の長官は大国でも従五位上であり、また国司が外官(げかん)であるのに対し、京職は内官(ないかん)とされていることからも分かります。
これら左・右京職の四等官の下には坊令(ぼうれい)が置かれました。坊令は各条の一坊から四坊を単位に置かれ、担当する坊の治安維持、庸・調・雑徭の納税などを担当し、正八位(しょう はちい)以下で、事務能力がある者が選ばれ、定員は左・右京ともに12名でした。
注) 平城京には、中央を南北に走るメインストリートである朱雀大路が走っていて、これを境に左京、右京と呼ばれます。そして朱雀大路と交差して、東西に走るのが条大路(じょうおおじ)で、北端の一条北大路から南端の九条大路まで、10本の大路が走っていました。この10本の条大路に挟まれた9つの横長の区画を条(じょう)と呼び、左京・右京ともにそれぞれ一条から九条まで、9つの条がありました。
そして朱雀大路と平行に、南北に走る坊大路(ぼうおおじ)が左京・右京ともにそれぞれ4本走っていました。これにより左京・右京ともに朱雀大路と4本の坊大路によって、一条から九条までの横長の区画はそれぞれ4つの正方形に分割されました。この1区画を坊(ぼう)と呼びます。従って、左京・右京ともに一条には4つの坊が、二条以下、九条までそれぞれ4つの坊があったということになります。これを左京一条一坊などと、住所のように呼びました(詳しくは平城京参照)。
市司(いちのつかさ)は、左京職、右京職に属する官司で、左京職の下に東市司(ひがしのいちのつかさ)が、右京職の下に西市司(にしのいちのつかさ)が置かれました。右京八条二坊、左京八条三坊に設置された東西の市(いち)の運営を担当しました。
長官にあたるのが正(かみ)で官位相当は正六位上(しょう ろくいの じょう)で各1名、東市正(ひがしいちのかみ)と読みます。判官にあたるのが佑(じょう)で官位相当は従七位下(じゅ しちいの げ)で各1名、主典にあたるのが令史(さかん)で官位相当は大初位上(だい しょいの じょう)で各1名です。
これら四等官の下には価長(かちょう)5名が属し、物価の管理や売買の監督にあたりました。市司は10日に一度、市(いち)の時価を調べ、商品の品質によって上・中・下の3ランクに分け、それをさらに価格の高値、安値などによって3ランクに分け、合計9ランクに分類した価格調査を記した估価帳(こかちょう)を、それぞれが所属する京職に提出しました。この仕事を実際に行ったのが価長で、公用の物資は中ランクの商品を中価格で購入するよう定められていました。
また市(いち)での犯罪者取り締まりには、各20名の物部(もののべ)があたり、雑任である使部10名、直丁1名、史生2名が所属しました。
馬寮(めりょう/まりょう)は、大宝律令によって太政官管轄下に設置された役所で、左馬寮(さめりょう/さまりょう)、右馬寮(うめりょう/うまりょう)の2寮がありました。奈良時代の半ば頃になると、宮中の馬を扱う内厩寮(ないきゅうりょう)が左右馬寮とは別に設置され、奈良時代の後半には左右馬寮は統合されて主馬寮(しゅめりょう)という役所に変わりました。さらに平安時代になると、兵部省に属していた兵馬司(ひょうまし)、内厩寮、主馬寮が統合され、新たな左右馬寮に再編されました。
馬寮は全国から朝廷に献上された馬の飼育や軍馬としての調教をおこない、有事の際には必要部署に馬を供給しました。
職員は長官は主馬頭(しゅめのかみ)で従五位上相当、次官は主馬助(しゅめのすけ)で正六位下相当、判官は主馬大允(しゅめおおいのじょう)が正七位下相当、主馬少允(しゅめすないのすけ)が従七位上相当、主典は主馬大属(しゅめおおいのさかん)が従八位上相当、主馬少属(しゅめすないのさかん)が従八位下相当で、左右各1名ずつです。
これらの四等官の下には馬医(従八位上相当)左右各2名、馬部(めぶ)左右各60名、使部20名、直丁2名が所属しました。
馬部は左右馬寮に所属し、雑戸(ざっこ)である飼戸(馬甘戸)を率いた伴部(ともべ)です。馬の飼育や調教にあたり、調・雑徭を免除されました。飼戸(馬甘戸)は左馬寮に236戸、右馬寮に230戸所属し、常勤する者は雑徭は免除されましたが、調は徴収されました。
修理職(しゅりしき)は、「おさめつくるつかさ」とも言い、内裏(だいり/天皇の居所)の造営・修理などをつかさどった令外官(りょうげのかん)です。
宮中の建物の建築・修理、大橋の修理、必要な材木の調達などをつかさどった木工寮(もくりょう)が、平安京遷都(せんと/都を移すこと)によって、その仕事が大忙しとなったため、弘仁九年(818年)に令外官として修理職を置いて内裏の造営・修理を担当させました。
職員は、長官は修理大夫(しゅりのかみ/しゅりのだいぶ/従四位下相当)1名、次官は修理亮(しゅりのすけ/従五位下相当)1名、判官は修理大進(しゅりおおいのじょう/従六位上相当)1名、修理少進(しゅりすないのじょう/従六位下相当)2名、主典は修理大属(しゅりおおいのさかん/正八位下相当)1名、修理少属(しゅりすないのさかん/従八位上相当)2名の四等官の他、雑任である史生・使部、算師、長上工(ちょうじょうこう/毎日出勤する職人)、檜皮工(ひわだこう/屋根葺き工)、瓦工(かわらこう/瓦焼き工)などが所属しました。
中務省(なかつかさしょう)は、太政官に属する八省のひとつで、詔勅(しょうちょく/天皇の意思を表した文書)の作成・公布、叙位(じょい/位階を授ける事)、位記(いき)の発行、上表(じょうひょう)の受理など、宮中の政務全般をつかさどりました。なお、位記とは叙位した者にその旨(むね)を記して渡す文書のことで、上表とは天皇への意見書です。
中務省は朝廷関係全般の職務を担っていましたので、長官である中務卿(なかつかさのかみ/なかつかさきょう)、次官である中務大輔(なかつかさおおいのすけ)・中務少輔(なかつかさすないのすけ)、判官である中務大丞(なかつかさおおいのじょう)は他の省のそれらよりも官位相当が1ランク上に設定されています。他の省では長官である卿の官位相当は正四位下(しょう しいの げ)ですが、中務卿は正四位上が相当となっています。
中務省には四等官の他に侍従(じじゅう)、内記(ないき)、監物(けんもつ)、主鈴(しゅれい)などの品官(ほんかん)が所属しました。
侍従(じじゅう)は、天皇の側近であり、大宝令(たいほうりょう)には、「天皇の側近に常侍して正し諫め(いさめ)、拾遺補闕(しゅういほけつ)を任とする」と規定されています。拾遺補闕とは、「遺れる(のこれる)を拾い(ひろい)、闕けたるを補う」という意味で、君主が見落としている点を正し、不足している点を補うという事です。官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)で、定員は8名ですがうち3名は少納言が兼任するよう定められていました。
また儀式の時に雑用を勤める次侍従(じじじゅう)や、節会(せちえ)の時に勧盃(けんぱい/乾杯)役などを務める酒番侍従(さかばんじじゅう)、天皇即位や元日節会(がんにちのせちえ)の時に天皇の側に控える擬侍従(ぎじじゅう)などがありました。次侍従は92名、酒番侍従は12名、擬侍従は左右各2名とされました。しかし、平安時代に天皇の秘書である蔵人所(くろうどどころ)が置かれると、侍従の仕事は蔵人へと移り、侍従は次第に儀式担当となり、大納言や中納言、参議などの公卿(くぎょう)が兼任するようになります。
注) 節会とは、伝統的な年中行事を行う季節の変わり目の日(これを節日-せちにち-と呼びます)、および重要な公事(くじ)がある日に、朝廷で行われた宴会のことです。『令義解(りょうのぎげ)』には、正月一日、七日、一六日、三月三日、五月五日、七月七日、十一月大嘗日(だいじょうび)を節日と定めるとあり、これらの日には天皇出席のうえ宴会が行われました。なお、『令義解』とは、平安時代初期に書かれた「令(りょう/法律)」の解説書で、菅原道真の祖父が中心となって編纂されました。
内記(ないき)は、詔勅(しょうちょく)、宣命(せんみょう)の草案作り、位記(いき)の交付や御所の記録などを職掌とし、大内記(おおいのないき)2名、中内記(なかのないき)2名、少内記(すないのないき)2名で構成されました。官位相当は大内記が正六位上(しょう ろくいの じょう)、中内記が正七位上(しょう しちいの じょう)、少内記が正八位上(しょう はちいの じょう)です。
注) 詔勅とは天皇の意思が表された文書で、宣命とは漢文体で書かれた文書に対し、漢字仮名混じりの文体を指し、位記とは、位階を与えられた者にその旨伝える文書です。
平安時代の大同元年(806年)に中内記は廃しされ、少内記の官位相当が中内記の官位相当であった正七位上とされ、史生(ししょう)4名が置かれました。なお、南北朝時代に北畠親房(きたばたけ ちかふさ)が記した『職原抄(しょくげんしょう)』によれば、大内記1名、少内記2名で、儒学者の中から文筆に長けた者が任命されたようです。
監物(けんもつ)とは、諸官庁に属する倉庫の鍵(カギ)を管理して、出納(すいとう/お金や物の出し入れ)を観察した官職です。大監物(おおいのけんもつ)1名、少監物(すないのけんもつ)4名、監物主典(けんもつのじょう)から成り、大監物の官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)、少監物の官位相当は正七位下(しょう しちいの げ)、監物主典の官位相当は従七位上(じゅ しちいの じょう)です。
律令制以前から、大蔵(おおくら)、内蔵(うちくら)、斎蔵(いみくら)という三つの蔵があり、三蔵(みつくら)と呼ばれていました。大蔵は朝廷の金銀、銭貨、税として集めた調などを納めた蔵で、内蔵は天皇家の財宝を収めた蔵、斎蔵は朝廷の祭祀用の神具を収めた蔵です。律令制となってからも大蔵は大蔵省が管轄し、内蔵は内蔵寮(くらりょう)として中務省に属する寮(りょう)として存続しました。こういった大蔵や内蔵寮の鍵を管理し、お金や物の出し入れ、つまりは出納を観察したのが監物です。
また典鑰(てんやく)は、監物と同様に中務省に属した品官(ほんかん)で、大典鑰(おおいのてんやく)2名、少典鑰(すないのてんやく)2名から成り、大典鑰の官位相当は従七位下(じゅ しちいの げ)、少典鑰の官位相当は従八位上(じゅ はちいの じょう)で、その職掌は鑰(カギ)の管理でした。
実際に蔵から物品を出し入れするのは、内蔵寮および大蔵省に属する主鑰(しゅやく)でしたので、鍵を管理するのが典鑰で、その鍵を使って蔵を開けるのは監物、そして蔵から物品を出し入れするのが主鑰で、それを観察するのが監物という事になります。従って監物は典鑰、主鑰を実質的に統括していました。
主鈴(しゅれい)とは、少納言の元で駅鈴や内印(天皇の印)、伝符(でんぷ/役人が伝馬を使う事を許可する書類)、飛駅(ひえき/緊急時の連絡に派遣される施者)の函鈴(かんれい)などを出納する官職です。官位相当が正七位下(しょう しちいの げ)である大主鈴(おおいのしゅれい)2名、官位相当が正八位上(しょう はちいの じょう)である少主鈴(すないのしゅれい)2名から成ります。詔勅(しょうちょく/天皇の意思を表した文書)を発布するには内印が、詔勅を諸国へ伝達するには駅鈴が必要ですので、これらの出納をつかさどる主鈴は要職とされました。
職(しき)、寮(りょう)、司(つかさ/し)は、省に属して実務を行った役所です。そしてその格は職・寮・司の順に高くなっています。
中宮職(ちゅうぐうしき)は、中宮に関する事務一般、および庶務をつかさどった役所です。中宮とは天皇の正室である皇后(こうごう)の住居を指す言葉でしたが、そこに住む皇后自身を指す言葉となります。そして皇太后(こうたいごう/前天皇の皇后)、太皇太后(たいこうたいごう/先々代の天皇の皇后)、その住居も含めて中宮と呼ぶようになります。従って中宮職は現在の天皇の正室(皇后)・先代天皇の正室(皇太后)・先々代天皇の皇后(太皇太后)に関わる事務、庶務などをつかさどる役所という事になります。
その職員は、四等官の長官に当たるのが中宮大夫(ちゅうぐうのかみ/ちゅうぐうのだいぶ)であり、官位相当は従四位下(じゅ しいの げ)、次官は中宮亮(ちゅうぐうのすけ)で官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)、判官に当たるのが中宮大進(ちゅうぐうのおおいのじょう)で官位相当は従六位上(じゅ ろくいの じょう)、そして2名の中宮少進(ちゅうぐうのすないのじょう)が従六位下(じゅ ろくいの げ)、主典に当たるのが中宮大属(ちゅうぐうのおおいのさかん)で官位相当は正八位下(しょう はちいの げ)、2名の少属(ちゅうぐうのすないのさかん)が従八位上(じゅ はちいの じょう)です。
また、これら四等官の下には史生(ししょう)、職掌(しきしょう)、使部(つかいべ)、直丁(じきちょう)などの雑任、女嬬(にょじゅ)と呼ばれる雑用係の下級女官が所属し、中宮舎人(ちゅうぐうとねり)400名が所属しました。
舎人(とねり)とは、律令制において皇族や貴族に仕え、護衛や雑用などを務めた下級官人です。舎人は6世紀後半に国造(くにのみやつこ)などが天皇や皇族の護衛、雑用を務める者として朝廷に差し出した事に始まります。その後志願する者をまずは大舎人(おおどねり)として天皇に仕えさせ、天皇への忠節心を持たせた上で、選抜して他の官司にも用いることとしました。舎人には大舎人の他に内舎人(うどねり/下記参照)、東宮舎人(とうぐうとねり)、中宮舎人(ちゅうぐうとねり)など文官の舎人と、兵衛府、衛士府、衛門府に属した武官の舎人があります。
大舎人は交替で宮中に宿直し、行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)のお供(おとも)や雑用を務めた舎人です。四位、五位の貴族の子や孫が務めました。大舎人寮はこの大舎人を名簿によって管理し、交代勤務のシフト組みなどをつかさどった役所で、左大舎人寮、右大舎人寮の二つがありました(平安初期に統合)。
左・右大舎人寮には、それぞれ四等官の長官にあたる頭(おおとねりのかみ/官位相当は従五位上)1名、次官の助(おおとねりのすけ/正六位下相当)1名、判官の大允(おおとねりおおいのじょう/正七位下相当)1名、少允(おおとねりすないのじょう/従七位下相当)1名、主典の大属(おおとねりおおいのさかん/従八位上相当)1名、少属(おおとねりすないのさかん/従八位下相当)1名、大舎人800人が所属しました。なお、平安初期に左右大舎人寮が統合した後は、大舎人の数は400名に削減されました。
一方、内舎人(うどねり)とは「うちとねり」の略で、大舎人に対する語です。中務省に所属し、定員は90名でした。大舎人と共に警護や雑用の任にあたりましたが、大舎人が分上官(ぶんじょうかん/交代勤務)であるのに対し、内舎人は長上官(ちょうじょうかん/毎日勤務)であり、天皇近侍の官であり、帯刀(たいとう/刀を身に付ける事)して宿直し、行幸の際には帯刀して前後左右を警護しました。しかし、内舎人は帯刀しましたが武官ではなく、文官でした。
注) 武官は軍事・警察武門に就く官人を指し、文官は武官以外を指します。
三位(さんみ)以上の公卿(くぎょう)の子は、21歳になると希望者は内舎人として仕えることができ、四位(しい)以下、五位以上の者の子は21歳になると中務省によって選抜され、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外の者が大舎人、東宮舎人(とうぐうとねり/春宮坊にて皇太子に仕える舎人-定員600名)、中宮舎人(ちゅうぐうとねり/中宮職にて中宮に仕える舎人-定員400名)となりました。なお、これら大舎人、東宮舎人、中宮舎人の定員不足は、六位以下八位以上の子孫から選抜されました。
内舎人の定員は平安初期には40名に削減されましたが、時代によって増減しました。また、平安中期にさしかかる頃には、良家の子が務める事はなくなり、代わりに諸家の侍(さむらい)を任じるようになりました。そして平氏から内舎人となった者は平内、源氏から内舎人となった者は源内などと、本姓と内舎人の「内」を組み合わせて名乗るようになります。
これら文官の舎人に対し、武官の舎人もいました。六位以下八位以上の者の子で21歳以上の者は、文官の大舎人など以外に武官である左右兵衛府(ひょうえふ)の兵衛(ひょうえ)に選抜されました。兵衛府は左右の二つがあり、兵衛は左右兵衛府に各400名ずつ所属しました。また地方の軍団に所属する一般農民から選抜された者は、左右衛士府(えじふ)、衛門府の衛士(えじ)として上京、任務にあたりましたが、これらも舎人の一種でした。このように舎人はあらゆる階級や地域の者で構成されていました。これにより、天皇への忠誠心をあらゆる階級、地域に及ぼしたのでした。
律令制下において舎人になるということは、官人になるための一つの重要なコースであり、舎人を抱える大舎人寮、春宮坊(とうぐうぼう)、中宮職(ちゅうぐうしき)、兵衛府などは、下級官人の養成機関として機能し、諸官司への官人補給源の役目も果たしました。
図書寮(ずしょりょう/ふみのつかさ)とは、朝廷が所蔵する書物や仏教の経典、仏具などを保管・管理し、書物の書き写しや製本、紙・筆・墨などの文具の製造、国史の編纂をつかさどった役所です。
四等官の長官にあたるのが頭(ずしょのかみ)で官位相当は従五位上(じゅ ごいの じょう)で1名、次官は助(ずしょのすけ)で官位相当は正六位下(しょう ろくいの げ)で1名、判官は大允(ずしょおおいのじょう)で官位相当は正七位下(しょう しちいの げ)で1名、少允(ずしょすないのじょう)は官位相当は従七位下(じゅ しちいの げ)で1名、主典は大属(ずしょおおいのさかん)で官位相当は従八位上で1名、少属(ずしょすないのさかん)は官位相当が従八位下で1名です。
これら四等官の下には、事務官である寮掌(りょうしょう)1名、史生(ししょう)5名、直丁(じきちょう)2名、仕部(つかいべ)10名などの雑任、写経を専門とする写書手(しゃしょしゅ)、紙造りを専門とする造紙手(ぞうししゅ)、筆造りを専門とする造筆手(ぞうひつしゅ)、墨造りを専門とする造墨手(ぞうぼくしゅ)などが所属しました。
また、山背国(やましろのくに/京都府)には紙戸(かみべ)50戸が置かれました。紙部とは、特別な技能を以て朝廷に仕えた集団である品部(ともべ/しなべ)で、毎年10月から翌年の3月までの間、図書寮にて紙の生産にあたりました。
内蔵寮(くらりょう)は「うちのくらのつかさ」とも読まれますが、通常「内」の字は読まず、「くらりょう」と読む慣例となっています。平安初期に編纂された『古語拾遺(こごしゅうい)』には、神武天皇(初代天皇/在位期間は紀元前7世紀頃?)の時代に、宮中に蔵を建てて神物(かんだから)、官物(おおやけもの)を納めて斎蔵(いみくら)と称したとあります。そして履中天皇(りちゅうてんのう/在位期間:400年-405年)の時代になると、新たに内蔵(うちくら)を建て、官物を分けて分納したとあり、さらに雄略天皇(ゆうりゃくてんのう/在位期間:456年-479年)の時代に新たに大蔵(おおくら)が建てられたとあり、これら三つの蔵は三蔵(みつくら)と呼ばれました。この三蔵のひとつである内蔵が内蔵寮の起源であると言われます。
内蔵寮の職掌(しょくしょう/仕事内容)は、宮廷の運営資金として大蔵省から送られてくる金銀、錦綾(にしきあや/絹織物)、天皇・中宮の御服、祭祀(さいし/神や先祖をまつる事)の際の幣物(へいもつ/お供え物)および装束(しょうぞく/衣装)など、天皇家の財産を保管・出納(すいとう/出し入れ)、殿舎の燈油(とうゆ/灯り用の油)などの調達、靴履(かり/くつ)や鞍(くら/馬の背に乗せる座具)などの革製品を製造することでした。
四等官の長官にあたるのが頭(くらのかみ)で官位相当は従五位下(じゅ ごいの げ)で1名、次官は助(くらのすけ)で官位相当は正六位下(しょう ろくいの げ)で1名、判官は大允(くらおおいのじょう)で官位相当は正七位下(しょう しちいの げ)で1名、少允(くらすないのじょう)が官位相当が従七位上(じゅ しちいの じょう)で1名、主典は大属(くらおおいのさかん)で官位相当は従八位下で1名、少属(くらすないのさかん)は官位相当が大初位上(だい しょいの じょう)で1名です。
これら四等官の下には物品の出納を担当する大主鑰(おおいのしゅやく/正七位上相当)2名、少主鑰(すないのしゅやく/正八位上相当)2名が置かれ、その下で物品の出納を行う蔵部(くらべ)40名が所属しました。また必要な物品を平城京の東西の市(いち)で購入する係として、価長(かちょう)2名、靴履や鞍などの革製品を製作する典履(てんり/正八位上相当)2名が所属しました。典履は百済手部(くだらのてひとべ)を統括し、靴履などの革製品を作らせました。百済手部は、靴履など皮革製品の生産に従事した雑戸(ざっこ)で、内蔵寮に10名、大蔵省に10名所属していました。
内蔵寮所属の百済手部は天皇の使用する革製品を生産し、5人が一組となって交代で工房に出勤して生産にあたりました。一方、大蔵省に所属する百済手部は、官人に褒美として与えられる革製品を生産し、同じく5人一組で交代勤務しました。なお、大蔵省所属の典履2名と百済手部10名は、のちに内蔵寮に吸収されました。
縫殿寮(ぬいどのりょう)は、天皇の衣服、臣下への褒美用の衣服を裁縫する後宮十二司の縫司(ぬいのつかさ)を監督し、また女王(じょおう)、命婦(みょうぶ)の名簿の作成や人事をつかさどりました。
長官は縫殿頭(ぬいどののかみ)で官位相当は従五位下、次官は縫殿助(ぬいどののすけ)で従六位上相当、判官は縫殿允(ぬいどののじょう)で従七位上(じゅ しちいの じょう)相当、主典は縫殿大属(ぬいどのおおいのさかん)で従八位下相当、縫殿少属(ぬいどのすないのさかん)が大初位上(だいしょいの じょう)相当で、各1名でした。また使部(つかいべ)20人、直丁(じきちょう)2人の雑任が所属しました。
平安時代になると、大蔵省の縫部司(ぬいべし)、宮内省の内染司(ないせんし)を併合し、糸所(いとどころ)も管轄下に置きました。
陰陽寮(おんみょうりょう)は、天文・気象の観測や、暦(こよみ)の作成、時刻の測定と通知などを職掌とした役所です。映画などで有名な、平安時代の陰陽師(おんみょうじ)・安倍晴明(あべの せいめい)が所属した役所です。なお、陰陽師について詳しくは平安時代のページで解説します。
長官は陰陽頭(おんみょうのかみ)で官位相当は従五位下、次官は陰陽助(おんみょうのすけ)で従六位上相当、判官は陰陽允(おんみょうのじょう)で従七位上相当、主典は陰陽大属(おんみょうおおいのさかん)が従八位下相当、陰陽少属(おんみょうすないのさかん)が大初位上(だいしょいの じょう)相当で、各1名です。
以上は事務官で、これら事務官以外に各分野の技術職・教官である博士、学生(がくしょう)が所属しました。
陰陽師を養成するのが正七位下(しょう しちいの げ)相当の陰陽博士(おんみょうはかせ)です。そして、暦(こよみ)を作成し、暦法を教授するのが従七位上相当の暦博士(れきはかせ)、天体を観測し、日食や月食、彗星(すいせい/ほうき星)などの異変を発見した場合、占星術によってその吉凶(きっきょう/その現象が吉なのか凶なのか)を判断し、それを天皇に密葬し、また学生に天文学を教授するのが正七位下相当の天文博士(てんもんはかせ)です。なお、暦は前年に作られ、11月1日に中務省に提出し、中務省から直接天皇に渡され、その後に内外に配られました。
これら各博士の下で学ぶのが、陰陽生(おんみょうしょう)、暦生(れきしょう)、天文生(てんもんしょう)という、それぞれ10人ずつの学生(がくしょう)です。また天平二年(730年)には、陰陽生に3人、暦生に2人、天文生に2人の得業生(とくごうしょう)が置かれました。得業生とは、選抜された成績優秀なごく少数の学生のことで、一定期間の就学の後、試験に合格すれば課程修了を認められ、各専門職として教官などの官職に就くことができました。
また、陰陽寮には勧学田(かんがくでん)と呼ばれる10町歩の田地が割り当てられ、ここで収穫されるお米は学生達の職寮とされ、また衣服も与えられました。
そして、漏刻(ろうこく)と呼ばれる水時計を用い、時を知らせたのが漏刻博士(ろうこくはかせ)で、従七位下相当で定員は2名でした。漏刻博士の下には20人の守辰丁(しゅしんちょう)が属し、守辰丁は漏刻時計の目盛りを見守り、時刻ごとに鐘(かね)や太鼓を打って時を知らせました。平城宮へ出勤してくる役人達が出入りする平城宮の各門は、早朝この太鼓を合図に開かれました(出勤と勤務時間参照)。
漏刻時計とは、いくつかの木箱を階段状に組み、一番上の箱に満たした水を管を使って順々に下の箱へと送ります。一番下の箱には目盛りが刻まれており、この目盛りを読んで時を測ったと考えられています。なお、『日本書紀』には、天智天皇十年(671年)4月25日(現在の6月10日)、漏刻を設置し、鐘や鼓(つづみ)で時を知らせたとあります。これにより、6月10日は時の記念日と定められました。
内匠寮(たくみりょう)とは、聖武天皇の治世、神亀五年(728年)に設置された令外(りょうげ)の官司です。「うちのたくみのつかさ」とも読みます。宮中の調度品や儀式用具の製作、殿舎の装飾などをつかさどった役所です。
職員は、長官が内匠頭(たくみのかみ)で従五位下(じゅ ごいの げ)相当1名、次官が内匠助(たくみのすけ)で正六位上(しょう ろくいの じょう)相当1名、判官が内匠大允(たくみおおいのじょう)で正七位下(しょう しちいの じょう)相当1名、内匠少允(たくみすないのじょう)が従七位上相当で2名、主典が内匠大属(たくみおおいのさかん)で従八位上相当1名、内匠少属(たくみすないのさかん)が従八位下相当で2名、史生(ししょう)8名が所属しました。
注) 内蔵寮と同様に、「内」という文字は通常読みません。
内匠寮には、銀や漆(うるし)の器(うつわ)、革や柳の筥(はこ)、屏風(びょうぶ/部屋の仕切り具)、几帳(きちょう/部屋の仕切り具)、鏡、輿(こし/人を乗せてかつぐ乗り物)、牛車(ぎっしゃ)、厨子(ずし/仏像などを安置する観音開きの扉が付いた入れ物)、大笠(おおがさ/貴人の後ろからさす柄の長いカサ)などを製作する、長上工(ちょうじょうこう/毎日勤務の工)、番上工(ばんじょうこう/交代勤務の工)が所属していました。
画工司(えだくみのつかさ/がこうし)は、寺院の建築装飾や仏画の制作をつかさどった役所です。
職員は、長官が画工正(えだくみのかみ)で正六位上相当で1名、次官が画工佑(えだくみのすけ)で従七位下相当で1名、主典が画工令史(えだくみのさかん)で大初位上(だいしょいの じょう)相当で1名、技術者として画師(えし)4名、画部(えかきべ)60名、使部(つかいべ)16名、直丁(じきちょう)1名が所属しました。
画部は画に優れた者が選ばれましたが、帰化系の者から選ばれることが多く、画師は画部の中でも特に技術の優れた者が任ぜられました。彼らの仕事は分業化され、下地塗り、下書き、彩色、仕上げ、検品などに分かれて作業しました。
奈良時代に官営の寺社が多く建てられるようになると、こういった画師・画工の需要は増大しましたが、平安時代になるとその需要も減り、漆部司(ぬりべのつかさ)とともに、内匠寮に合併されて縮小され、やがて画所(えどころ)がこの職務をつかさどりました。
内薬司(くすりのつかさ/うちのくすりのつかさ)は、天皇家の医療をつかさどった役所です。
職員は、長官が内薬正(くすりのかみ)で正六位上相当で1名、次官が内薬佑(くすりのすけ)で従七位下相当で1名、主典が内薬令史(くすりのさかん)で大初位上(だいしょいの じょう)相当で1名、以上が事務官です。
実務官としては、天皇を診察する正六位下相当の侍医(じい)が4名、薬の調合を行う薬生(やくしょう)が10名、助産婦、看護婦を務める女医30名、女医に産婦人科を教授する女医博士1名がおり、使部(つかいべ)10名、直丁(じきちょう)1名、史生(ししょう)2名の雑任が所属しました。
寛平八年(896年)、内薬司は廃止されて宮内省の典薬寮(てんやくりょう)に統合され、侍医、女医博士、薬生は典薬寮に移りました。
内礼司(いやのつかさ/うちのいやのつかさ)は、宮中の礼儀を正し、非違を検察する役所です。
職員は、長官が内礼正(いやのかみ)で正六位下相当1名、次官が内礼佑(いやのすけ)で正八位上相当1名、主典が内礼令史(いやのさかん)で大初位下相当1名、主礼(しゅらい)6名、雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
実際に宮中の礼儀を監視するのは主礼で、宮中の非違を発見した場合、弾正台(だんじょうだい)に移送することになっていました。なお、長官の内礼正には、諸王の起用が多かったと言われます。
内礼司は、大同三年(808年)弾正台に併合されました。
式部省(しきぶしょう)は、文官(ぶんかん/事務系の役人)の考課(こうか/業務を評価して成績をつけること)、選叙(せんじょ/位階を与え任官させること)、役人を養成する大学寮の運営など、人事関係全般・人材育成をつかさどった役所です。その職掌から、中務省に次ぐ重要な省とされました。
職員は、長官が式部卿(しきぶのかみ/しきぶきょう)で正四位下(しょう しいの げ)相当1名、次官は式部大輔(しきぶおおいのすけ)が正五位下相当で1名、式部少輔(しきぶすないのすけ)が従五位下相当で1名、判官は式部大丞(しきぶおおいのじょう)が正六位下相当で2名、式部少丞(しきぶすないのじょう)が従六位上相当で2名、主典は式部大録(しきぶおおいのさかん)が正七位上相当で1名、式部少録(しきぶすないのさかん)が正八位上相当で3名、史生(ししょう)20名、省掌(しょうしょう)2名、使部(つかいべ)80名、直丁(じきちょう)5名の雑任が所属しました。また平安初期には写経などを専門とする書生(しょしょう)30人が置かれました。
名称は一時期文部省と改称されましたが、間もなく再び式部省へと改称され、その職掌から長官である卿(かみ)は親王(しんのう)が務めるようになります。
大学寮(だいがくりょう)は、中央の官僚(かんりょう/政治に直接関わる役人)の養成機関です。
職員は大学頭(だいがくのかみ/従五位上相当)、大学助(だいがくのすけ/正六位下相当)、大学大允(だいがくおおいのじょう/正七位下相当)・大学少允(だいがくすないのじょう/従七位上相当)、大学大属(だいがくおおいのさかん/従八位上相当)・大学少属(だいがくすないのさかん/従八位下相当)各1名ずつの四等官、雑任の使部20人、直丁2人、教官9人、学生(がくしょう)430人が所属しました。
学生が学ぶ学科は本科である儒学科(後の明経道/みょうぎょうどう)と、付属的な書道科、数学科(後の算道)がありました。儒学科には正六位下(しょう ろくいの げ)相当の博士1人、正七位下(しょう しちいの げ)相当の助教(『大宝令』では助博士)2人、従七位上(じゅ しちいの じょう)相当の音博士・書博士がそれぞれ2人、計7人の教官の元で400人の学生(がくしょう)が学びました。なお、直講(ちょっこう)と呼ばれる、博士・助教の補佐役として、正七位下相当の教官が令外官として置かれました。
儒学科では教科書は9つあり、その中で『孝経』、『論語』は必修で、残りの7つは選択必修でした。これらの教科書は全て中国の物で、『孝経』は中国で尊ばれた、道徳の根本である「孝」の精神を説いたもので、家族内での「孝」を国家全体に広げて説いた書で、身分に応じた「孝」のあり方を説いた書です。また『論語』は、孔子の言動や弟子などとの対話を記した物で、人間の最高の徳を「仁」であるとし、そこに至る道を説いた書です。ちなみに「徳」とは精神修業によって得た優れた人徳(じんとく)のことで、「仁」とは情け(なさけ)、いつくしむなどといった意味です。
これらの教科書の中国音による読みを教えるのが音博士です。学生達はまず音博士から中国音による読みを学び、それから博士の講義を聞いて学びます。習字を学びたい者は書博士から学びました。
数学科では算博士の元で学生30人が学びました。なお、算道という名称が使われるようになったのは平安初期になってからのことのようです。算道の教科書は9つあり、円周率や球の体積を求める計算、方程式や三平方の定理など高度な数学もありましたが、これらや天体の観測に必要な計算を除いては、実用的なものであったようです。
学生として大学寮で学べるのは、八位以上の官人の子、東西史部(やまとかわちのふひとべ)の子孫で、13〜16歳までの者に限られていました。学生には10日に一度旬試(じゅんし/豆試験)があり、毎年7月に歳試(さいし/年終試)がありました。歳試は1年間に学んだことの理解度試験です。所定の課程を修了し、9年以内に卒業試験に合格し、式部省が行う国家試験に合格すると位階が授けられ、官職に就くことができました。しかし、その与えられる位階は蔭位(おんい)よりも低く、五位以上のいわゆる貴族は個人的に子に教育を行っていたため、貴族の子で大学寮で学ぶ者はほとんどいませんでした。
なお、歳試に3回落ちた者や、9年で課程を修了できなかった者は退学となりました。また、無断欠席が年に100日に達した者も退学処分となりました。
大宝律令が制定され律令制となったものの、律令の解釈などに関わる専門職、養成機関はありませんでした。そこで神亀五年(728年)、令外官(りょうげのかん)として律学博士(りつがくはかせ)2名が置かれ、天平二年(730年)には学生(がくしょう)10名を雑任・白丁から採ることが定められ、また得業生(とくぎょうしょう/今で言う大学院生)2人が定められ法律学科が発足しました。
また、当初は大学寮では儒教科が中心でしたが、中国の儒教を元にした制度や考え方は日本ではあまり浸透せず、経学(けいがく/儒教の最も基本的な教え)は役人にとっての一般教養と位置づけられ、むしろ教養としての漢文に重きが置かれるようになりました。そこでこれらを講義する者として、神亀五年(728年)に儒教科の博士・助教の補助教官である直講1人を文章博士(もんじょうはかせ)とし、天平二年(730年)に文章生(もんじょうしょう)20人を雑任、白丁から採ることが定められ、得業生(とくぎょうしょう)2人を置くことも定められました。
平安時代になると、大学寮の学科は何々道と呼ばれるようになりましたが、経学を中心とする儒教科から次第に中国文学・中国史を内容とする学科が分離し、これは紀伝道(きでんどう)と呼ばれるようになりました。そして紀伝道が分離した後の儒教科は明経道(みょうぎょうどう)と呼ばれるようになりました。また法律学科も明法道(みょうぼうどう)と呼ばれるようになり、平安時代には大学寮における学科は明経道(みょうぎょうどう)、紀伝道(きでんどう)、明法道(みょうぼうどう)、算道(さんどう)の四道(しどう)となりました。
後に、儒教科(明経道)から分離した紀伝道に中国史の教科が加わりますが、これを勧めたのが吉備真備(きびの まきび)であると言われます。吉備真備は遣唐使として唐へ渡り、様々な知識を習得し、兵法も納めた学者であり、学者から大臣にまで破格の昇格を果たした人物です。これ以後、紀伝道ブームが起こります。これまでは文章博士1人、学生は雑任・白丁から採るということから、他の学科に比べて重視されていなかった学科でしたが、大同三年(808年)に明経直講1人を紀伝博士(正七位下相当)とし、文章博士と紀伝博士が共存することになり、紀伝博士が歴史学を、文章博士が漢詩などの文学を講義したものと考えられます。
承和元年(834年)にはこの紀伝博士を廃して文章博士を1人増して2人とし、他の学科と並ぶようになりました。また弘仁十一年(820年)、文章生は雑任・白丁ではなく良家の子を採ると定められ、大学寮が行っていた文章生になるための試験は式部省が行うように改められ、紀伝道・文章生の地位が上がり、文章博士の官位相当も明経博士を抜いて従五位下(じゅ ごいの げ)にまで上がりました。
ところで、例えば経書を講義する博士は明経博士、学生は明経生、そしてその学科は明経道と呼ばれますが、紀伝道においては上述のように歴史学と文学の間で人気が変動し、紀伝博士と文章博士が共存していた時期もありました。最終的には紀伝博士が廃されて文章博士が増員されましたが、学科は紀伝道、博士は文章博士と呼ばれ、他の学科とは異なった名称になっています。従って、文章道(もんじょうどう)という正式な学科があった訳ではなく、通称としてこういう名称も使われたにすぎないということに注意が必要です。
散位寮(さんいりょう)は、散位を名簿によって管理し、その考課(成績評価)を行う役所です。散位とは位階のみで官職に就いていない者の事です。
在京の五位以上の散位は散位寮に毎日、六位以下の散位は交代で出勤し、雑務にあたりました。また地方の散位は国府(こくふ/県庁)に交代で出勤し、雑務にあたりました。なお、散位はそのほとんどが退職者で、武官を務めていた散位は兵部省に出勤しました。
また散位寮は、在京中の朝集使(ちょうしゅうし)の管理も行いました。朝集使とは、四度使(しどのつかい/よどのつかい)のひとつで、所属する地方の国司(こくし)・郡司の勤務評定書やその他公文書を中央に提出するための使いです。国司四等官(しとうかん)の主典(さかん)である目(さかん)以上の者が任命され、1年間都にとどまり、持参した書類の説明などを行いました。なお四度使は、諸国の国司が政治報告のために各種書類を持たせて中央に派遣した使者の総称で、持参する書類によって計帳使、税帳使、貢調使、朝集使と呼ばれました。
散位寮の職員は、長官は散位頭(さんいのかみ)で従五位下(じゅ ごいの げ)相当、次官は散位助(さんいのすけ)で従六位上相当、判官は散位允(さんいのじょう)で従七位上(じゅ しちいの げ)相当、主典は散位大属(さんいおおいのさかん)が従八位下相当、散位少属(さんいすないのさかん)が大初位上(だいしょいの じょう)で各1名、雑任である史生6人、使部20人、直丁2人が所属しました。
この散位寮は平安時代初期には式部省に統合されました。
治部省(じぶしょう)は、五位以上の官人の継嗣(けいし/跡継ぎ)・婚姻・本姓など氏族に関する事項、祥瑞(しょうずい)、喪葬、国忌(こき/天皇の命日に行う仏事)のこと、外国からの使者の接待などをつかさどった役所です。
注) 祥瑞とは、天が国王の治世を賞賛するため出現させたと考えられていた、特異な動植物・自然現象を言います。中国では、国が安定して治まるかどうかは国王の徳によると考えられていました。その国王の徳が高くて国が安定して治められていれば、天が祥瑞を出現させて賞賛し、そうでなければ災害や異変をもって戒める(いましめる)と考えられていました。中国の思想を取り入れた日本においてもこういった考えがなされ、特に平安時代の初期までは、祥瑞が現れた際にその祥瑞にちなんだ元号に改元されていることが多いです。例えば白雉(650年-654年)の場合は、穴戸国(あなとのくに)の国司が白雉(はくち/白い布)を天皇へ献上したところ、これが祥瑞と判断され、改元されました。今では白い布など珍しくも何ともないですが、当時は大変珍しかったようです。また慶雲(704年-708年)は泰平の世に現れるとされた慶雲が現れたため改元、神亀(724年-729年)は白い亀が現れたとして改元されました。
治部省の職員は、長官は治部卿(じぶのかみ/じぶきょう)で正四位下(しょう しいの げ)相当、次官は治部大輔(じぶおおいのすけ)が正五位下相当、治部少輔(じぶすないのすけ)が従五位下相当、判官は治部大丞(じぶおおいのじょう)が正六位下相当で各1人、治部少丞(じぶすないのじょう)が従六位上相当で2人、主典は治部大録(じぶおおいのさかん)が正七位上(しょう しちいの じょう)相当で1人、治部少録(じぶすないのさかん)が正八位上相当で3人、ここまでが四等官です。
四等官の下には大解部(おおいのときべ)が正八位下相当で4人、少解部(すないのときべ)が従八位下相当で6人、雑任である史生10人、省掌2人、使部60人、直丁4人が所属しました。
注) 解部(ときべ)とは、治部省において氏族間の相続などの訴訟審理を行う者です。
平安時代になると、治部省は訴訟関係は扱わなくなったため解部は廃止され、遣唐使の廃止により外国からの使者の接待も行わなくなり、治部省は主に仏事や雅楽をつかさどるようになりました。
雅楽寮(うたまいのつかさ/ががくりょう)は、宮廷における様々な公的儀式で雅楽を演奏し、またその演奏者の養成をつかさどった役所です。
雅楽とは、本来は中国において庶民の俗楽に対し、雅(みやび)で正しい楽とされた音楽でしたが、日本では雅楽寮で行った音楽や舞いを雅楽と称しました。
当初の雅楽には、和楽、三韓楽(さんかんがく)、唐楽、度羅楽(どらがく)、林邑楽(りんゆうがく)など、東アジア各国の音楽が混在しており、正倉院に伝わる当時の楽器を見てもそれが分かります。
注) 三韓楽とは、当時の朝鮮半島三国である新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)の音楽を、度羅楽は済州島ともタイ国西部とも言われる当時の国の音楽、林邑楽はインド系の舞楽を指します。
平安時代に成ると、東アジア音楽が混在した雅楽は室内用の小規模な構成に変更され、それに応じた新曲が多数作られ、楽器演奏と舞いを加えた二形式とするなど、日本風に改変され、平安中期の藤原氏全盛期には、貴族の娯楽として大いに栄えました。
職員は、長官が雅楽頭(うたまいのかみ)で従五位下相当、次官が雅楽助(うたまいのすけ)で従六位上相当、判官が雅楽允(うたまいのじょう)で正七位下(しょう しちいの げ)相当、主典は雅楽大属(うたまいおおいのさかん)で従八位下相当、雅楽少属(うたまいすないのさかん)が大初位上(だいしょいの じょう)で各1名が四等官です。
また四等官の下には歌師(うたし)が4名おり、40名の歌人(うたびと/舞楽の男性歌担当者)、100名の歌女(うため/舞楽の女性歌担当者)の教育にあたり、楽師(がくし)は楽生(がくしょう)に楽器演奏を教える者で、唐楽師、高麗(こま)楽師、百済(くだら)楽師、新羅(しらぎ)楽師などがいました。また舞いは舞師(まいし)が教え、予備学生として品部の楽戸(がくこ)66戸が所属しました。
平安時代になると、和楽を学ぶ男性は大歌所(おおうたどころ)、女性は内教坊(ないきょうぼう)と呼ばれる所で学ぶことになり、雅楽寮は外来音楽を教える所となり、平安中期には内裏(だいり)に楽所(がくしょ/がくそ)が置かれたため、雅楽寮は有名無実化してしまいましたが存続し、現在に至っています。
玄蕃寮(ほうしまらひとのつかさ/げんばりょう)は、寺院や僧侶、尼(あま)の管理、外国使節の接待をつかさどった役所です。「玄」は法師(ほうし=お坊さん)、「蕃」は外国人の客(まらひと)の意味です。
職員は長官が玄蕃頭(ほうしまらひとのかみ)で従五位下相当、次官が玄蕃助(ほうしまらひとのすけ)で従六位上相当、判官は玄蕃允(ほうしまらひとのじょう)で従七位下(じゅ しちいの げ)相当、主典は玄蕃大属(ほうしまらひとおおいのさかん)が従八位下相当、玄蕃少属(ほうしまらひとすないのさかん)が大初位上(だいしょいの じょう)相当で各1名、以上が四等官で、雑任である史生4名、仕部20名、直丁2名などが所属しました。
諸陵寮(みささぎのつかさ/しょりょうりょう)は、陵墓(りょうぼ/天皇や皇族の墓)の維持管理、陵戸(りょうこ)の戸籍をつかさどった役所です。
職員は長官が諸陵頭(みささぎのかみ)で従五位上相当、次官が諸陵助(みささぎのすけ)で正六位下相当、判官は諸陵大允(みささぎおおいのじょう)で正七位下相当、諸陵小允(みささぎすないのじょう)が従七位上相当、主典は諸陵大属(みささぎおおいのさかん)が従八位上相当、諸陵小属(みささぎすないのさかん)が従八位下相当で各1名、雑任である史生4名、仕部、直丁などが所属しました。
陵墓の守衛は陵戸(りょうこ)がつとめました。陵戸は特別な戸籍で管理された賤民(せんみん)でした。陵戸は課役(かえき/庸・調)を免除され、口分田は良民と同じ広さが与えられました。また陵戸が不足する場合は近隣の農民が徴収され、3年交代でつとめました。
喪儀司(そうぎし)は、葬儀全般とその道具の管理をつかさどった役所です。
職員は長官が喪儀正(そうぎのかみ)で正六位下相当、次官はおらず、判官は喪儀佑(そうぎのじょう)で正八位上相当、主典は喪儀令史(そうぎのさかん)で大初位下相当で各1名、雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
喪儀司の職掌(しょくしょう/職務内容)は、諸陵寮や兵部省の鼓吹司と重複したため、大同三年(808年)に鼓吹司に統合され、また鼓吹司は寛平八年(896年)に左右兵庫・造兵三司と合わせて兵庫寮となりました。
民部省(みんぶしょう)は、諸国の民政一般を統括し、集めた税を管理し、朝廷の財政の運営をつかさどった役所です。
全国の戸籍、税である租庸調、家人(けにん)、奴婢(ぬひ)、道路や橋、津(つ/港)、山や川、田地などを統括しました。
注) 家人(けにん)とは賤民(せんみん)、つまり一般の良民とは区別されて卑しい身分とされた私有民ですが、奴婢(ぬひ/奴隷)よりは身分が上で、家族と共に生活することが許されました。
職員は、長官が民部卿(みんぶのかみ/みんぶきょう)で正四位下(しょう しいの げ)相当1名、次官は民部大輔(みんぶおおいのすけ)が正五位下相当1名、民部少輔(みんぶすないのすけ)が従五位下相当1名、判官は民部大丞(みんぶおおいのじょう)が正六位下相当2名、民部少丞(みんぶすないのじょう)が従六位上相当2名、主典は民部大録(みんぶおおいのさかん)が正七位上相当1名、民部少録(みんぶすないのさかん)が正八位上相当3名、以上の四等官の下に雑任である史生10名、省掌2名、使部60名、直丁4名が所属しました。
主計寮(かぞえのつかさ/しゅけいりょう)は、税として集められた調・庸および献上物の数量を数え、台帳と照合して数量が合っているかを監査し、収支を計算して予算組をつかさどった役所です。
職員は長官は主計頭(かぞえのかみ)で従五位上相当1名、次官は主計助(かぞえのすけ)で正六位下相当1名、判官は主計大允(かぞえおおいのじょう)が正七位下相当1名、主計少允(かぞえすないのじょう)が従七位上相当1名、主典は主計大属(かぞえおおいのさかん)が従八位上相当1名、主計少属(かぞえすないのさかん)が従八位下相当1名の四等官の他、従八位下相当の算師(さんし/計算担当者)2名、雑任である史生6名、使部20名、直丁2名が所属しました。
主税寮(ちからのつかさ/しゅぜいりょう)は、主計寮が調や庸を監査して中央財政を担当したのに対し、租や出挙(すいこ)を帳簿と照合して地方財政を監査した役所です。
職員は、長官が主税頭(ちからのかみ)で従五位上相当1名、次官は主税助(ちからのすけ)で正六位下相当1名、判官は主税大允(ちからおおいのじょう)が正七位下相当、主税少允(ちからすないのじょう)が従七位上相当で各1名、主典は主税大属(ちからおおいのさかん)が従八位上相当、主税少属(ちからすないのさかん)が従八位下相当で各1名、これら四等官以外に従八位下相当の算師が2名、雑任である史生4名、使部20名、直丁2名が所属しました。
なお、主税寮の業務には数学の知識が必要なため、長官あるいは次官は大学寮の算博士が兼務することになっていました。
兵部省(ひょうぶしょう)は「つわもののつかさ」とも読まれ、武官の叙位(じょい/位階を授けること)および任官、考課(評価すること)、全国の兵士・武器の管理など、軍事関係全般をつかさどりました。
職員は、長官は兵部卿(ひょうぶのかみ/ひょうぶきょう)で、官位相当は正四位下(しょう しいの げ)とされますが、公卿が兼任することが多く、親王が務めることもありました。次官は兵部大輔(ひょうぶおおいのすけ)が正五位下相当、兵部少輔(ひょうぶすないのすけ)が従五位下相当、判官は兵部大丞(ひょうぶおおいのじょう)が正六位下相当で各1名、兵部少丞(ひょうぶすないのじょう)は従六位上相当で2名、主典は兵部大録(ひょうぶおおいのさかん)が正七位上(しょう しちいの じょう)相当で1名、兵部少録(ひょうぶすないのさかん)は正八位上相当で3名で、以上が四等官です。
この下に雑任(ぞうにん)である史生10名、省掌2名、使部60名、直丁4名が所属しました。
なお、兵部省の職員は武官ではなく文官で、有事の際の軍隊の指揮は臨時に任命される将軍がとりました。
兵庫(ひょうご)とは武器庫の意味で、朝廷の武器の管理や出納をつかさどった役所で、大宰府や諸国にも置かれました。
奈良時代の朝廷には、大寮に相当する左兵庫・右兵庫、中司に相当する内兵庫があり、左右兵庫寮は儀仗用(ぎじょうよう/儀式用の飾り重視の武器)、および兵仗(ひょうじょう/儀仗用に対して実戦用の武器)、兵士を指揮するための旗や鳴り物を用途別に棚に保管し、また定期的に虫干しし、その出納には勅(ちょく/天皇の命令書)が必要なほど厳重な管理体制が敷かれていました。また、内兵庫はその詳細は不明ですが、天皇の武器を管理したものと考えられています。
大同三年(808年)、内兵庫は左右兵庫に併合され、寛平八年(896年)には左右兵庫・造兵司・鼓吹司の4つが統合され、左右兵庫寮(つわもののくらのつかさ/ひょうごりょう)となりました。
職員は、左右それぞれ、長官は兵庫頭(つわもののくらのかみ/従五位下相当)1名、次官は兵庫助(つわもののくらのすけ/正六位下相当)1名、判官は兵庫大允(つわもののくらおおいのじょう/正七位上相当)1名、兵庫少允(つわもののくらすないのじょう/従七位上相当)1名、主典は兵庫大属(つわもののくらおおいのさかん/従八位上相当)1名、兵庫少属(つわもののくらすないのさかん/従八位下相当)1名の四等官の他、雑任である史生2名・使部20名、直丁2名が所属しました。
兵馬司(つわもののうまのつかさ/ひょうまし)は、全国の牧(まき/牛や馬を放し飼いにする場所)、軍馬、駅伝の馬、公私の牛や馬の管理をつかさどった役所です。
職員は、長官は兵馬正(つわもののうまのかみ)で正六位上相当、判官は兵馬佑(つわもののうまのじょう)で従七位下相当、主典は兵馬大令史(つわもののうまおおいのさかん)が大初位上相当、兵馬少令史(つわもののうますないのさかん)が大初位下相当で各1名、これら四等官の下、雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
太政官直下には左右馬寮、春宮坊には主馬署がありますが、これらが中央で使用する軍馬の飼育・調教を行うのに対し、兵馬司は全国の国司(こくし/県知事)を通じて全国の馬や牛を把握し、管理するのが仕事でした。しかし、平安初期には兵馬司は廃止され、その職務は左右馬寮が引き継ぎました。
鼓吹司(つづみふえのつかさ/くすいし)は、鼓鉦(こしょう)・大角(はらのふえ)・小角(くだのふえ)などの訓練を担当した役所です。鼓鉦はドラ(シンバルのようなもの)と太鼓で、大角、小角は角(つの/動物のツノ)製の笛のことで、これらはみな軍団を指揮するための道具です。
職員は長官が鼓吹正(つづみふえのかみ/正六位上相当)、判官は鼓吹佑(つづみふえのじょう/従七位下相当)、主典は鼓吹大令史(つづみふえおおいのさかん/大初位上相当)、鼓吹少令史(つづみふえすないのさかん/大初位下相当)各1名で、これら四等官の下に雑任である使部10名、直丁、雑戸である鼓吹戸(くすいこ)が所属しました。鼓吹戸は調を免除され、300戸が置かれました。
鼓鉦は軍団の指揮に用いられましたが、親王や大納言以上の葬儀には鼓鉦を用いると定められており、大同三年(808年)に治部省の喪儀司と合併し、寛平八年(896年)には左右兵庫司、造兵司の三司と合併して兵庫寮となりました。
造兵司(つわものつくりのつかさ/ぞうへいし)は兵器の製造おつかさどった役所です。
職員は長官は造兵正(つわものつくりのかみ/正六位上相当)、判官は造兵佑(つわものつくりのじょう/従七位下相当)、主典は造兵大令史(つわものつくりおおいのさかん/大初位上相当)、造兵少令史(つわものつくりすないのさかん/大初位下相当)各1名で、これら四等官の下に、雑任である使部12名、直丁1名、雑工部(ざっこうべ)20名、雑工戸(ざっこうこ)が所属しました。
雑工部は雑工戸を統轄する伴部です。雑工戸は、鍛戸217戸、甲作(よろい造り)62戸、靫作(弓の矢を収納する物)58戸、弓削32戸、矢作22戸、鞆張(ともはり)24戸、羽結(矢に羽を取り付ける)20戸、桙刊(木製手ヤリを削る)30戸、計465戸の雑戸と、爪工(はたくみ)18戸、楯縫(たてぬい/楯を造る)36戸、幄作(あげばりつくり)16戸の品部70戸のあわせて535戸から成りました。
注) 鞆(とも)は弓矢の射手が左手の内側に取り付ける道具で、引いて離した弦(つる)が、弓や手首の左手にはめた腕輪を傷付けたり、弦が切れたりするのを防ぐ物です。エアークッションのような物で、大きく引いて離した弦が左手手首の内側に付けたこのエアークッションに当たることによって、左手首の腕輪を傷つけたり、弦自体が切れたりしないようにする物です。また幄作とは、出征先で柱を立てて幕を張り、臨時の陣地を造る者達です。なお、爪工については分かりません。
寛平八年(896年)、造兵司は左右兵庫司と鼓吹司の三司と合併し、兵庫寮となりました。
主鷹司(たかのつかさ/しゅようし)は、鷹(タカ)、犬の調教をつかさどった役所です。鷹は獲物を追わせて狩る鷹狩りに使用するもので、犬は走り回る犬を弓矢で射るという、どちらも軍事訓練に必要なものでした。
職員は長官が主鷹正(たかのかみ/従六位下相当)、主典が主鷹令史(たかのさかん/少初位下相当)各1名で、これらの下に雑任である使部6名、直丁1名、品部である鷹戸が所属しました。鷹戸は大和、河内、摂津に計17戸あり、調を免除されました。
主鷹司は、仏教伝来による殺生禁止によって度々廃し、復活を繰り返しましたが、平安時代には消滅しました。
主船司(ふねのつかさ/しゅせんし)は、舟や船具を管理する役所です。主船司が保有する公の船、および全国にある公の船・私的な船の管理にあたりました。
船を保有する者は毎年その船の種別、積載量、どれくらい修理を経ているか、現在でも使用出来るかなどを兵部省に申告しなければなりませんでした。
職員は長官が主船正(ふねのかみ/正六位下相当)、判官が主船佑(ふねのじょう/正八位上相当)、主典が主船令史(ふねのさかん/大初位下相当)各1名、雑任である使部6名、直丁1名、品部である船戸が所属しました。船戸は摂津国(せっつのくに/大阪府北西・南西部、兵庫県東部)に100戸が置かれ、10班に分かれて10日交代で勤務し、船の管理・修理にあたりました。
主船司は都ではなく摂津国の難波に置かれ、平安時代になると廃止されました。また九周の大宰府にも正八位上相当の主船1名が置かれ、船の修理や出入りする船の管理、外国の侵攻に備えさせました。しかしこちらも平安時代には廃止され、周船寺(すせんじ)という地名が福岡市に残っており、その場が推定されています。
隼人司(はやひとのつかさ/はやとし)は、大宝律令では衛門府の管轄下にありましたが、その後兵部省管轄下になりました。
畿内、近江国(おうみのくに/滋賀県)、丹波国(たんばのくに/京都府北西部、兵庫県北東部)、紀伊国(きいのくに/和歌山県、三重県南部)に移住させられた隼人を統括しました。隼人とは、薩摩国(さつまのくに/鹿児島県西半分)や大隅国(おおすみのくに/鹿児島県東半分)など、現在の鹿児島県に住み、独自の文化や風習を持って生活していた人達を、遠く離れた朝廷が異人とみなし付けた蔑称です。
隼人司に属した隼人は、都の諸門を警護したり、元日の朝賀(ちょうが/天皇への正月のあいさつを行う儀式)、外国からの来朝者の出迎えの儀式、行幸(ぎょうこう/天皇のおでかけ)の際の警護をしたり、隼人舞いの教授を行ったり、竹製品の生産も行いました。
職員は長官が隼人正(はやひとのかみ/正六位下相当)、判官は隼人佑(はやひとのじょう/正八位上相当)、主典は隼人令史(はやひとのさかん/大初位下相当)各1名で、雑任である使部10名、直丁1名、大衣(おおきぬ/隼人から選ばれた隼人の長)2名と隼人が所属しました。
延暦二十四年(805年)に隼人の朝貢(ちょうこう)が廃止され、大同三年(808年)に隼人司はその管轄が衛門府から兵部省に移りました。
注) 朝貢とは、外国の使節が朝廷まで出向き、貢ぎ物を天皇に差し出すことです。中国の思想に基づくものです。詳しくは弥生時代の豆知識・中華思想と冊封をご覧下さい。
刑部省(ぎょうぶしょう)は、大宝律令以前には「刑官(けいかん)」と称され、裁判や刑罰の執行をつかさどりました。
職員は長官が刑部卿(ぎょうぶのかみ/ぎょうぶきょう/正四位下相当)1名、次官は刑部大輔(ぎょうぶおおいのすけ/正五位下相当)、刑部少輔(ぎょうぶすないのすけ)/従五位下相当)で各1名、判官は刑部大丞(ぎょうぶおおいのじょう/正六位下相当)、刑部少丞(ぎょうぶすないのじょう/従六位上相当)で各2名、主典は刑部大録(ぎょうぶおおいのさかん/正七位上相当)、刑部少録(ぎょうぶすないのさかん/正八位上相当)各2名です。
これら四等官の下には、品官(ほんかん)である、罪状を審査して刑名を断定した大判事(おおいのことわるつかさ/正五位下相当)2名、中判事(なかのことわるつかさ/正六位下相当)、少判事(すないのことわるつかさ/従六位下相当)各4名の計10名の判事と、大属・少属各2名、訴訟の事実真偽を行う大解部(おおいのときべ/正八位下相当)10名、中解部(なかのときべ)20名、少解部(すないのときべ)30名の計60名の解部が所属しました。
そしてこれら四等官・品官の下には、雑任である史生10名、省掌2名、使部80名、仕丁である直丁6名が所属しました。
注) 大属、少属は、四等官の第四等官である主典(さかん)において、その高位、下位を表すもので、「おおいのさかん」、「すないのさかん」と読みますが、ここで言う大属・少属は四等官ではなく、その読み方や職掌についてはよく分かりませんでしたので、ふりがななどもふりませんでした。
刑部省においては、徒(ず)以下の罪状について判決を下し、刑を執行しました。「徒」とは、笞(ち/ムチ打ち)、杖(じょう/棒打ち)、徒(ず/懲役)、流(る/流罪)、死(死罪)の五刑と呼ばれる罪状の一つです。在京の官人は徒以上の罪であれば刑部省に送られ、杖以下の軽い罪であれば所属の役所で判決を下させました。また地方では笞の罪は郡で判決を下し、杖の罪以上の罪であれば国司(くにし/県知事)に送り、国司の元で杖なのか徒なのかを決めさせ、流罪以上の罪の者は太政官に送ることになっていました。
以上のように、軽い罪は在任の所属の役所で判決が下され、重罪についても太政官が判断しましたので、平安時代に検非違使(けびいし)が設置されると刑部省は有名無実化しました。
囚獄司(ひとやのつかさ/しゅうごくし)は、徒の罪以上の者の監督、流・杖罪の刑の執行をつかさどりました。
職員は長官が囚獄正(ひとやのかみ/正六位上相当)1名、判官は囚獄佑(ひとやのじょう/従七位下相当)1名、主典は囚獄大令史(ひとやおおいのさかん/大初位上相当)1名、囚獄少令史(ひとやすないのさかん/大初位下相当)1名です。、
これら四等官の下で直接刑を執行したのが物部(もののべ)40名、物部丁(もののべちょう)20名です。物部(もののべ)は、物部氏(もののべうじ/軍事を担う豪族)が率いて軍事・刑罰に携わった部民です。律令制下では伴部として囚獄司や京職(きょうしき)下の市司などに所属し、刑の執行や取り締まり、囚人の監視などをつかさどりました。
贓贖司(あがもののつかさ/ぞうしょくし)は、重犯罪である反逆人および反逆縁坐者(えんざしゃ)の調査、その財産の没官(もっかん/没収)、贖銅(しょくどう)などをつかさどりました。「あがもの」とは、罪の償い(つぐない)として差し出す財産のことです。
注) 縁坐とは、重犯罪については、犯罪者の親類縁者はその犯罪に関わっていなくても責任を問われるというものです。また贖銅とは、実刑を課す代わりに銅を納めさせるというものです。
職員は長官は贓贖正(あがもののかみ/正六位上相当)1名、判官は贓贖佑(あがもののじょう/従七位下相当)1名、主典は贓贖大令史(あがものおおいのさかん/大初位上相当)1名、贓贖少令史(あがものすないのさかん/大初位下相当)1名で、これら四等官の下に雑任である使部10名、直丁1名が所属しました。
大蔵省(おおくらしょう)は、倉庫である大蔵を管理し、各役所への出納(すいとう/お金や物の出し入れ)をつかさどりました。諸国から税として集めた調(ちょう)、銭や金銀銅や鉄などの鉱物、漆などを管理・出納し、また度量衡(どりょうこう/長さ・体積・重さの単位)を管理し、物の公定価格を決定しました。
職員は長官が大蔵卿(おおくらのかみ/おおくらきょう)で正四位下相当で1名、次官は大蔵大輔(おおくらおおいのすけ)が正五位下相当で1名、大蔵少輔(おおくらすないのすけ)が従五位下相当で1名、判官は大蔵大丞(おおくらおおいのじょう)が正六位下相当で2名、大蔵少丞(おおくらすないのじょう)が従六位上相当で2名、主典は大蔵大録(おおくらおおいのさかん)が正七位上相当で2名、大蔵少録(おおくらすないのさかん)が正八位上相当で2名です。
また、品官(ほんかん)として蔵のカギと出納を管理する大主鑰(おおいのしゅやく/従六位下相当)、少主鑰(すないのしゅやく)各2名がおり、これら四等官・品官の下に雑任である史生6名、省掌2名、使部60名、直丁4名、駈使丁6名が所属しました。
品官の元で実務にたずさわったのは、出納事務を担当する品部(ともべ)である蔵部(くらべ)60名、物価の高低を調べ、官物の購入にあたる価長(かちょう)4名などでした。
また大蔵省には皮革製品を製作する者として典履(てんり)、典革(てんかく)がおり、典履(正八位上相当)2名は、雑戸である百済手部(くだらのてひとべ)10名および百済戸(くだらべ)を率い、靴(くつ)や鞍(くら)などの皮革製品を造りました。中務省に属する内蔵寮にも典履がいて、百済手部を率いて革製品を造りましたが、内蔵寮では天皇や皇族が使用する製品を、大蔵省所属の典履は臣下への褒美(ほうび)としての革製品を造りました。なお、大同元年(806年)に大蔵省の典履2名は、大蔵省から中務省の内蔵寮へと移管されました。
そして典革(正八位上相当)1名は、狛部(こまべ)6名および品部である狛戸(こまこ)を率い、皮革の染色をつかさどりました。しかし、大同元年(806年)に中務省の内蔵寮の所属となり、同三年には廃止されました。
織部司(おりべのつかさ/おりべし)は、錦(にしき/多種の色糸で織り出す織物)・綾(あや)・紬(つむぎ/質の落ちる絹糸を廃物利用した織物)・羅(うすもの/網目のように織り込んだ絹)などの高級織物を織り、染色をつかさどりました。
職員は長官が織部正(おりべのかみ/正六位下相当)、判官は織部佑(おりべのじょう/正八位上相当)、主典は織部令史(おりべのさかん/大初位下相当)で各1名です。これら四等官のしたには雑任の使部6名、直丁1名が所属しました。
そして錦・綾・羅などの文様を創案したり、技術指導を行う挑文師(あやとりし/大初位下相当)4名が所属し、それらの文様を8名の挑文生(あやとりしょう)が織り出しました。これらの元には染戸(そめこ)が所属しました。染戸は品部で、錦や綾などの絹織物を織ったり、緋(あか)や藍(あお)などの染物を生産しました。染戸には錦綾織110戸、呉服部7戸、河内国広絹織人など350戸、緋染70戸、藍染33戸などがありました。
縫部司(ぬいべのつかさ/ぬいべし)は、衛士(えじ)らの衣服の裁縫をつかさどりました。
職員は長官が縫部正(ぬいべのかみ/正六位下相当)、判官は縫部佑(ぬいべのじょう/正八位上相当)、主典は縫部令史(ぬいべのさかん/大初位下相当)各1名で、これら四等官の下に雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
実際に衣服の裁縫を行うのは縫部(ぬいべ/男性)4名、縫女(ぬいめ)でしたが、大同三年(808年)、縫部司は中務省が管轄する縫殿寮に併合されました。
漆部司(ぬりべのつかさ/ぬりべし)は、漆塗り全般をつかさどりました。
職員は長官は漆部正(ぬりべのかみ/正六位下相当)、判官は漆部佑(ぬりべのじょう/正八位上相当)、主典は漆部令史(ぬりべのさかん/大初位下相当)各1名で、これら四等官の下に雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
漆部20名が所属しましたが、大同三年(808年)に内匠寮に併合されました。
掃部司(かにもりのつかさ/そうぶし)は、い草で薦席(せんせき/むしろ)を製作したり、敷き詰めたり、清掃などをつかさどりました。
職員は長官が掃部正(かにもりのかみ/正六位上相当)、判官は掃部佑(かにもりのじょう/従七位下相当)、主典は掃部令史(かにもりのさかん/大初位上相当)で各1名で、これら四等官の下に雑任である使部6名、直丁1名、駈使丁20名が所属し、掃部10名がいました。
宮内省に似通った職掌の内掃部司が置かれていましたので、弘仁十一年(820年)に2つを合併し、掃部寮となりました。
典鋳司(いもののつかさ/てんちゅうし)は、金、銀、銅、鉄を用いた鋳物(いもの/型に流し込んで造る金属器)、塗金(ときん/メッキ)や彫金などの技法を用いた金属器の製作、ガラス器などの製作をつかさどりました。
職員は長官は典鋳正(いもののかみ/正六位上相当)、判官は典鋳佑(いもののじょう/従七位下相当)、主典は典鋳大令史(いものおおいのさかん/大初位上相当)、典鋳少令史(いものすないのさかん/大初位下相当)で各1名で、これら四等官の下に伴部である雑工部(ざっこうべ)10名、雑任である使部10名、直丁1名が所属しました。
雑工部は雑戸である雑工戸(ざっこうこ)を率い、金属製品の生産にあたりましたが、典鋳司は宝亀五年(774年)に内匠寮に併合されました。
宮内省(くないしょう)は、「みやのうちのつかさ」とも呼ばれ、天皇の食事や配膳に関する事、宮中の建物・庭園の管理や補修、衣料、掃除などをつかさどり、また全国から税として集めた調の海産物や氷室(ひむろ)などについて天皇に報告することもその役目でした。
注) 元日には、九州の太宰府が献上した腹赤(はらか/魚のマス)や、氷様(ひのためし)について天皇に報告しました。氷室とは、天然の氷を夏まで保管しておく貯蔵庫で、山の陽が当たらない地面などに穴を掘り、茅(かや)で覆ったもので、山城国、大和国、丹波国、河内国、近江国にありました。また氷様とは、氷室にある氷の大きさ形などを石に削りだして模したもので、これを天皇に見せてその大きさなどを知らせました。当時氷は大変貴重なものでしたので、皇族や上級貴族などごく一部の者しか口にできませんでしたが、こういった氷や全国から税として集められた様々な海産物の状況を天皇に報告したのでした。
また宮内省には、女丁(にょてい)を各役所に分配して派遣する役目もありました。
職員は長官は宮内卿(くないのかみ/くないきょう/正四位下相当)、次官は宮内大輔(くないおおいのすけ/正五位下相当)、宮内少輔(くないすないのすけ/従五位下相当)、判官は宮内大丞(くないおおいのじょう/正六位下相当)が各1名、宮内少丞(くないすないのじょう/従六位上相当)2名、主典は宮内大録(くないおおいのさかん/正七位上相当)1名、宮内少録(くないすないのさかん/正八位上相当)2名で、これら四等官の下に雑任である史生10名、省掌2名、使部60名などが所属しました。
宮内省には下記のような多くの職・寮・司が属しましたが、大同三年(808年)の機構改革などで整理され、大膳職、木工・大炊・主殿・典薬・掃部の5寮、正親・内膳・造酒・采女・主水の5司で1職5寮5司となり、これ以後は改変されませんでした。
大膳職(おおかしわでのつかさ/だいぜんしき)は、諸国から徴収された調(ちょう)の出納(すいとう/出し入れ)、宮中官人の食事の調理、朝廷の会食の調理をつかさどった役所です。なお、大膳職ではおかずの調理や調味料の製造などを担当し、主食のご飯は大炊寮が担当しました。
職員は、長官が大膳大夫(おおかしわでのかみ/おおかしわでのだいぶ)で従四位下(じゅ しいの げ)相当1名、次官が大膳亮(おおかしわでのすけ)で従五位下相当1名、判官は大膳大進(おおかしわでおおいのじょう)で従六位下相当1名、大膳少進(おおかしわですないのじょう)が正七位上(しょう しちいの じょう)相当で1名、主典は大膳大属(おおかしわでおおいのさかん)が正八位上相当で1名、大膳少属(おおかしわですないのさかん)が従八位上相当で1名です。
これら四等官の下には雑任である使部30名、直丁2名、駈使丁80名が所属しました。
大膳職の施設内には、醤院(しょういん)、菓餅所(かへいしょ)と呼ばれる施設が設けられていました。醤院には、品官(ほんかん)である2名の主醤(ひしおのつかさ/正七位下相当)がおり、品部である雑供戸(ざっくこ)の未醤戸(みしょうこ)が醤(ひしお)・未醤(みしょう)などの大豆発行食品を作り、菓餅所には、品官である2名の主菓餅(くだもののつかさ/正七位下相当)がおり、品部である雑供戸の造餅戸(ぞうへいこ)が菓子(くだもの)、雑餅(くさぐさのもち/雑穀のもち)を作りました。
注) 醤は大豆に塩と穀物を加えて発酵させ、絞った液体のうま味調味料で、醤に改良が加えられて室町時代末頃に醤油がうまれました。また未醤は「末醤」などとも書かれ、醤に豆の粒が残ったもの、後の味噌のことです。
また菓子は「唐菓子(からくだもの)」などと言われ、いわゆるフルーツのことではなくお菓子のことです。当時はそのまま食べられるフルーツも、人工的に作った菓子も同じ嗜好品としてとらえられ、「くだもの」と呼んだようで、この菓子とは揚げ菓子でした。
調理にあたるのは伴部である160名の膳部(かしわでべ)で、他に雑供戸(ざっくこ)が所属しました。雑供戸とは品部の一つで、鵜飼戸(うかいこ/37戸)・江人戸(えびとこ/87戸)・網引戸(あびきこ/150戸)・未醤戸(みしょうこ/20戸)・造餅戸(ぞうへいこ/?)の総称です。そして特に鵜飼戸・江人戸・網引戸の三戸は贄戸(にえこ)とも呼ばれました。「贄」とは、「生け贄(いけにえ)」の「贄(にえ)」であり、贄とは神様や朝廷に捧げる鳥や魚を意味します。つまり魚などをとって朝廷に納める役目を持っていました。
鵜飼とは、鵜という鳥を使って魚をとる漁のことです。鵜は艶(つや)のある黒い羽を持った鳥で、潜水して魚をとり、水面に出てから魚を飲み込む習性を持った鳥です。のど元に縄を付けた鵜を潜らせて魚を獲らせ、縄を引っ張って船に上げてから魚を吐き出させる漁法です。鵜は大宰府や出羽国など諸国から献上されていたようです。奈良時代は吉野川を漁場とし、平安時代には桂川、保津川、宇治川などで漁を行いました。
鎌倉時代になると、鵜飼は主に鮎(アユ)を朝廷に献上し、現在の京都市の桂に住んだ鵜飼の女性達は、桂女(かつらめ)と呼ばれていました。桂女は普段は鮎や飴(あめ)を京都の町で売り歩き、頭に白い布を巻くという独自の風俗を持っていました。そして結婚や出産などの祝いの場に招かれ、お祝いの言葉を述べるということも行っていました。また戦(いくさ)の出陣の際にも招かれ、戦勝祈祷を行う巫女(みこ/神様の言葉を伝える女性)としての一面も持っていました。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際にも戦勝祈祷を行ったといわれています。
そして江戸時代になると、毎年正月には飴を持参して京都所司代に年始の挨拶に出向き、江戸に下って将軍家に拝謁したと言われます。
鵜飼には、神社に贄(にえ)を奉るものも多かったのですが、時代が経つにつれ鵜飼は漁ではなく一種のイベントとして行われるようになります。織田信長は俸給を与えて美濃国長良川の鵜飼を保護したと言われますが、江戸時代になると大名家が鵜飼を鵜師(うしょう)として特権を与えて保護するようになりましたが、明治時代には長良川のみが皇室御猟場として残り、現在に至っています。
また江人(えびと)とは、伴部の江長(えのおさ)のもと、淀川や難波江(なにわえ/旧淀川河口付近の海)などの水産物を朝廷に献上した雑供戸です。鵜飼が鵜を、網引(あびき)が網を使って魚をとったのに対し、江人は釣り針などを使って魚を釣ったのではないかと言われます。
そして網引(あびき)とは、網引長(あびきのおさ)のもと、和泉国の大鳥郡付近の海産物を朝廷に献上した雑供戸の一つです。延暦十七年(798年)、内膳司に移管されています。
鵜飼戸・江人戸・網引戸は調・雑徭を免じられましたが常勤で、未醤戸は雑徭を免じられ、交代勤務でした。造餅戸は、天平神護元年(765年)に停止され、延暦十七年(798年)には、江人・網引はその所属が内膳司に変更されました。
贄戸は平安前期の仁和元年(八八五)に品部から解放されました。つまり隷属的な身分から解放され、贄戸が行ってきた贄の貢納は御厨(みくりや)の徭丁(ようてい)が行うようになりました。徭丁とは、税の一種である雑徭(ぞうよう/労役)に従事する者です。以後は徭丁が贄人(にえひと)として御厨から贄を貢納することになりました。
奈良時代の大膳職は第一次大極殿の北側にあったと推定されています。大きな井戸が3ヶ所あり、これらを囲む建物跡が44棟、大量の食器類が発掘されています。また諸国からの献上物である米や塩、海藻やウニなどの海産物の荷札が大量に出土していています。
木工寮(こだくみのつかさ/もくりょう)とは、宮中の建物の造営・修理、都にある大橋の修理、材木の調達、また年官の造営計画を立てそれに必要な労働力、資材の見積もり作成、木製品の作成などをつかさどった役所です。
職員は長官が木工頭(こだくみのかみ/従五位上相当)、次官が木工助(こだくみのすけ/正六位下相当)、判官が木工大允(こだくみおおいのじょう/正七位下相当)で各1名、木工少允(こだくみすないのじょう/従七位上相当)2名、主典は木工大属(こだくみおおいのさかん/従八位上相当)、木工少属(こだくみすないのさかん/従八位下相当)各1名で、以上が四等官です。これら四等官の下には雑任である史生10名、直丁、駆使丁が所属して雑務を担当しました。
技術系の下級官人としては、必要な材木の産出などの計算を担当した算師が4名、建築・修理の指揮を担当した大工(おおいのたくみ)・少工(すないのたくみ)が各1名おり、その下に長上工(ちょうじょうのたくみ/毎日勤務する工)13名、工部(たくみべ)50名、飛騨工37名が所属しました。飛騨工は飛騨国(ひだのくに/岐阜県北部)から徴収された者達で、労働税の一種である匠丁(たくみのよほろ/しょうてい)として駆り出されました。匠丁は税の一つである庸(よう)を免除される代わりに労働が課せられました。
注) 民部省の主計寮、主税寮に置かれた算師は従八位下相当、大宰府に置かれた算師は正八位上相当です。また大宰府に置かれた大工の官位相当は正七位上でした。従って木工寮のこれら下級官人も同様の官位相当であったと思われます。
平安初期には平安京造営で木工寮が大忙しとなったため、同じ宮内省所属の鍛冶司を併合し、都の造営をつかさどる修理職を令外官(りょうげのかん)として別途設けました。その後修理職はいったん木工寮に併合されましたが、後に再び修理職として独立しました。
大炊寮(おおいのつかさ/おおいりょう)は、諸国から徴収した舂米(しょうまい)や雑穀を保管し、各役所に炊飯して(またはそのまま)分給することをつかさどった役所です。儀式などで必要な食品の供給、内膳司に必要なお米などを供給することもその役目のひとつでした。
職員は、長官が大炊頭(おおいのかみ/従五位下相当)、次官が大炊助(おおいのすけ/従六位上相当)、判官は大炊允(おおいのじょう/従七位上相当)、主典は大炊大属(おおいおおいのさかん/従八位下相当)、大炊少属(おおいすないのさかん/大初位上相当)各1名、これら四等官の下に品部である大炊部(おおいべ)60名、雑任である史生4名、使部20名、直丁2名、駈使丁30名が所属しました。
主殿寮(とのもりのつかさ/とのもりょう)は、宮中の清掃、火をおこすための薪(たきぎ)や炭、灯りに関すること、行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)の際の輿(こし)、輦車(れんしゃ)、蓋笠(きぬがさ/頭にかぶるカサ)や帷帳(いちょう/空間を仕切るために垂らす布)などの管理・整備、湯沐(とうもく/湯で体を洗い清めること)の湯を準備することなどをつかさどった役所です。
輿とは乗り物のことです。長方形の床の四隅に柱を立て、屋根を付けたものを屋形(やかた)と呼びます。屋形の床底の長編側にそれぞれ長いかつぎ棒を取り付け、これを担ぎ手が肩にかついで人を運ぶ物を輦輿(れんよ)と呼びます。
これに対し、二本のかつぎ棒の先端に輪っか状の布を結び付け、これを肩にかけてかつぎ棒を腰に添えて運ぶ物を腰輿(ようよ)と呼びます。これは「瑤輿」とも書かれ、「たまのこし」とも読まれました。そして輦車とは腰輿に車輪を取り付けた物で、皇太子や皇族、特に勅許(ちょっきょ/天皇の許し)を得た者しか乗れない乗り物でした。
職員は、長官が主殿頭(とのもりのかみ/従五位下相当)、次官は主殿助(とのもりのすけ/従六位上相当)、判官は主殿允(とのもりのじょう/従七位上相当)、主典は主殿大属(とのもりおおいのさかん/従八位下相当)、主殿少属(とのもりすないのさかん/大初位相当)各1名、これら四等官の下に伴部である殿部(とのもりべ)40名、雑任である使部20名、直丁2名、駈使丁80名が所属しました。殿部は雑用をつかさどり、日置、子部、車持、笠取、鴨の五氏から選ばれました。
また主殿寮は、料国(りょうごく)から油や箒(ほうき)、大粮米(たいろうまい)、仕丁などを徴収できました。料国とは必要な資金を調達するために特別な税を一定期間課す国のことです。また箒を徴収するとは不思議に思うかもしれませんが、箒は古くは「妣木(ははき)」と呼ばれ、生命の木を意味したと言われます。箒はただ単にゴミを掃き集めて清める道具ではなく、霊魂を集めたり祓ったりする呪術の道具でもあり、神聖な道具だったのです。また大粮米は寮や司の下級官人に支払われる俸給としての米や塩、布などのことです。
典薬寮(くすりのつかさ/てんやくりょう)は、薬剤、薬園、宮中官人への治療、医師などの養成をつかさどった役所です。
職員は、長官は典薬頭(くすりのかみ/従五位下相当)、次官は典薬助(くすりのすけ/従六位上相当)、判官は典薬大允(くすりおおいのじょう/従六位下相当)、典薬少允(くすりすないのじょう/従七位上相当)、主典は典薬大属(くすりおおいのさかん/従八位下相当)、典薬少属(くすりすないのさかん/大初位上相当)各1名で、これら四等官の下で、雑任である仕部20名、直丁2名が雑用をつかさどりました。
実務官としては、医師(正八位上相当)10名、医博士(正七位下相当)1名、医生(いしょう)40名、針師(はりし/正八位上相当)5名、針博士(正七位下相当)1名、針生(しんしょう)20名、按摩師(正八位上相当)2名、按摩博士(正七位下相当)1名、按摩生(あんましょう)10名、呪禁師(じゅごんし/正八位上相当)2名、呪禁博士(正七位下相当)1名、呪禁生6名、薬園師(やくおんし/正八位上相当)2名、薬園生(やくえんしょう)6名が所属しました。
注) 医師の中から優秀な者が医博士になり、博士のもとで学生である医生が学びました。針や按摩などについても同様です。また呪禁とはまじないなどで物の怪(もののけ)を払うというものです。
平安前期の寛平八年(896年)の中務省内薬司の吸収に伴い、侍医(じい/正六位下相当)4名、女医博士(にょいはかせ/正七位下相当)1名、薬生10名が典薬寮に移管されました。侍医とは天皇を直接診察する医師で、安福殿(あんぷくでん/士医の詰め所)内の薬殿に薬生とともに詰めており、天皇出座の際に診察しました。
侍医は天皇を直接診察する者であるわりには、正六位下相当という低い位階です。六位と言えば貴族ではなく下級官人の部類です。しかし公卿と殿上人でも解説しましたが、六位という低い位階であってもその職務柄天皇近くに仕えることが許された者もいました。医師の位階が低いのは他の官職とのバランスを考えてのことと思われますが、当時の医師は僧侶が務めており、僧侶には僧位が与えられました。僧にもその徳や学識に応じて位階が与えられたのです。その最上位である法印は三位(さんみ)相当ですから、これは公卿に相当します。公卿とは朝廷の最高幹部で、天皇の御座所近くまで入る資格があったのです。なお、医師とは言え、当時は治療を行って直接病気を治すというよりも、薬や祈祷(きとう/お祈り)によって病気が治るよう願うというものでした。
律令制下において医師は官人(役人)であり、その職務柄僧の位階を与えられたため、みな頭を剃って丸めていました。そして頭を丸めて僧侶の姿さえしていれば、僧侶として修行や徳を積んでいなくとも医師として診察できたのです。
また薬園師のもと、薬園で薬草の栽培、近隣の山野から薬草を探して移植する品部の薬戸(やくこ)75戸、乳牛を飼育し、牛乳をしぼり、乳製品である蘇(そ)を作る乳戸(にゅうこ)50戸が所属しました。薬戸、乳戸は調・雑徭を免除されました。なお、蘇とは今のチーズのようなもので、絞ったばかりの牛乳を何時間もかきまぜながら煮詰めたもので、貴族らへ特別な日などに配られた贅沢なものでした。
掃部寮(かにもりのつかさ/かもんりょう)は、朝廷で行われる諸行事の設営をつかさどった役所です。もともと大蔵省に掃部司、宮内省に内掃部司があり、その職掌が似通って重なっていたため、平安前期の弘仁十一年(820年)、両司を併合して宮内省に掃部寮として置かれました。
職員は、長官は掃部頭(かにもりのかみ従五位下相当)、次官は掃部助(かにもりのすけ/従六位上相当)、判官は掃部允(かにもりのじょう/従七位上相当)、主典は掃部大属(かにもりおおいのさかん/従八位下相当)、掃部少属(かにもりすないのさかん/大初位上相当)各1名で、これら四等官の下に掃部(かにもりべ)40名、雑任である使部20名、直丁2名、駈使丁80名が所属しました。
正親司(おおきみのつかさ/おおきんだちのつかさ)は、皇族の戸籍を管理し、給料の一種である季禄や時服のことをつかさどった役所です。
職員は、長官は正親正(おおきみのかみ/正六位上相当)、判官は正親佑(おおきみのじょう/従七位下相当)、主典は正親大令史(おおきみおおいのさかん/大初位上相当)、正親少令史(おおきみすないのさかん/大初位下相当)各1名、これら四等官の下に雑任である史生2名、使部10名、直丁1名が所属しました。なお、長官である正の上に正親司の統括者である別当が置かれました。
内膳司(うちのかしわでのつかさ/ないぜんし)は、天皇の食事の調理を担当した役所です。宮中の食膳を担当する役所が、朝廷の儀式時の食膳を担当する大膳職と、天皇の食膳を担当する内膳司に分かれたものです。
職員は長官は奉膳(ぶぜん/正六位上相当)2名、判官は内膳典膳(ないぜんのじょう/従七位下相当)6名、主典は内膳令史(ないぜんのさかん/大初位上相当)1名、これら四等官の下に雑任である使部10名、直丁1名、駈使丁20名が所属しました。
調理責任者である典膳のもと、伴部である膳部(かしわでべ)40名が調理を担当し、毒味は長官の奉膳が行いました。内膳司の長官は高橋・安曇(あずみ)両氏が務め、両氏以外が長官を務める時は奉膳ではなく、通常の四等官と同じく内膳正(ないぜんのかみ)と称しました。内膳司の長官が二人もいるのは、大化の改新以前から天皇の食膳に関することをつかさどってきた膳氏の系統を引く高橋・安曇氏を重視したためとも言われます。
平安初期には、品部である雑供戸の網引と江人、御厨(みくりや)が大膳職から内膳司に移管され、寛平八年(896年)には園池司を併合しました。
御厨(みくりや)とは、天皇が食する魚貝・果物類を献上するために置かれた領地のことです。畿内の中でも特に近江国(おうみのくに/滋賀県)に多く置かれています。初めは大膳職の管轄でしたが、後に内膳司に移管されました。大膳職管轄下で贄戸として贄(し/天皇への捧げ物)を献上していた江人(えびと)・網引(あびき)らに起因するものです。
大膳職の項でも書きましたが、贄戸(にえこ)は平安前期の仁和元年(八八五)に品部から解放され、贄戸が行ってきた贄(にえ)の貢納は御厨の徭丁(ようてい)が行うようになりました。以後は徭丁が贄人(にえひと)として御厨から贄を貢納することになったのです。
御厨子所(みずしどころ)とは、令外官(りょうげのかん)です。天皇の御膳を出し、節会(せちえ/季節の変わり目に行う宴会)などの酒肴を出した役所です。
職員には別当、預、衆などがおり、別当は四位以上の殿上人、もしくは内蔵頭(くらのかみ)が兼務しました。他に膳部(かしわでべ)6名、女嬬(にょじゅ/後宮十二支の内士司参照)4名が所属しました。なお、御厨子所は進物所とともに後に蔵人所(くろうどどころ)の管轄下に移管されました。
進物所(たまいどころ/しんもつしょ)とは令外官で、内膳司で作られた天皇の食事を温め直し、簡単なものはここで調理しました。また諸国から献上された贄(にえ/献上物)は進物所と御厨子所に保管されました。
職員には別当、頭、膳部(かしわでべ)、預、執事などがあり、別当には公卿、近衛中・少将(このえおおいのすけ・このえすないのすけ/近衛府の次官)が務め、預は内膳司の長官である奉膳が務めました。なお、進物所は御厨子所とともに後に蔵人所に移管されています。
造酒司(みきのつかさ/ぞうしゅし)は、天皇が飲酒する酒、節会などに用いる酒・酢などを造った役所です。
職員は長官は造酒正(みきのかみ)、判官は造酒佑(みきのじょう)、主典は造酒令史(みきのさかん)各1名の四等官の下に、伴部である酒部(さかべ)60名、雑任である史生4名、使部12名、直丁1名が所属し、酒戸(しゅこ)が付属しました。
酒殿(さかどの)が置かれ、播磨国(はりまのくに/兵庫県南西部)の米を用いて酒を造っていました。
采女司(うねめのつかさ)は、采女(うねめ)の名簿を管理し、後宮(こうきゅう)への分配を行って成績を評定し、用度品の出納などをつかさどった役所です。
采女とは、宮中で天皇近くに仕えて炊事や配膳などをつかさどった下級女官の事で、諸国郡司の少領(しょうりょう/次官)以上の姉妹、娘の中から、特に容姿端麗(ようしたんれい/美人)な者を差し出させました。
職員は長官は采女正(うねめのかみ/正六位下相当)、判官は采女佑(うねめのじょう/正八位上相当)、主典は采女令史(うねめのさかん/大初位下相当)各1名の四等官の下に、雑任である使部12名、直丁1名が所属し、6名の伴部である采部(うねべ)が実務を統括しました。
主水司(もいとりのつかさ/しゅすいし)は、宮中の飲料水や氷の調達、粥(かゆ)を作ることをつかさどった役所です。
職員は、長官は主水正(もいとりのかみ/従六位上相当)、判官は主水佑(もいとりのじょう/正八位下相当)、主典は主水令史(もいとりのさかん/少初位上相当)各1名、これら四等官の下に伴部である水部(もいとりべ)40名(後に12名追加)、雑任である史生2名、使部10名、直丁1名、駈使丁20名、および品部である水戸(もいとりこ)144戸が所属しました。
注) 「もひとり(もいとり)」の「もひ(もい)」とは、水を入れる器のことで、転じて飲み水を指す言葉となりました。そして「主水(もひとり)」がやがて「もんど」と読まれるようになりました。藤田まこと演じる必殺仕事人の主人公は「中村主水」と言いますが、これは「なかむら もんど」と読み、これは百官名(ひゃっかんな)です。
注) 江戸時代の暴れん坊将軍・吉宗が将軍であった頃に活躍した刀匠に、薩摩国の刀匠・正清(まさきよ)がいます。吉宗が開催した、全国から選抜された刀匠が参加した作刀コンクールで、最優秀賞を獲得し、葵紋(あおいもん)を茎(なかご)に切る事を許された刀工の一人です。彼は主水正正清(もんどのしょう まさきよ)と呼ばれますが、これは彼が「主水正」という受領銘(ずりょうめい)を授けられていたからです。本来、「主水正」はここで解説した主水司の長官名ですから、「もいとりのかみ」と読むべきですが、「もいとり」が転じて「もんど」と読まれるようになり、「正」も音読みの「しょう」と読み、「もんどのしょう まさきよ」と一般的には読まれています。
主油司(あぶらのつかさ/しゅゆし)は、税のひとつである調として諸国から徴収される動物性油の猪脂、植物油である胡麻油、麻子油(ひましゆ/下剤用)、荏油(えのあぶら/防水用)などの保管・分配をつかさどった役所です。意外ですが油料理は奈良時代には行われており、乾物を煮る前に猪脂や胡麻油でいためたり、大膳職の項で解説した唐菓子(からくだもの)のように、脂で揚げた菓子がありました。また食用だけではなく、防水用としてカサなどに塗る脂などもありました。
職員は、長官は主油正(あぶらのかみ/従六位上相当)、判官は主油佑(あぶらのじょう/正八位下相当)、主典は主油令史(あぶらのさかん/少初位上相当)各1名、これら四等官の下に雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
寛平八年(896年)、主油司の職掌は主殿寮に移管され、主油司は廃されました。
官奴司(やっこのつかさ/かんぬし)は、官戸(かんこ)、公の奴婢(ぬひ/奴隷)の名簿、口分田に関することをつかさどった役所です。
職員は、長官は官奴正(やっこのかみ/正六位上相当)、判官は官奴佑(やっこのじょう/従七位下相当)、主典は官奴令史(やっこのさかん/大初位上相当)各1名、これら四等官の下に雑任である使部10名、直丁1名が所属しました。
官奴司は、大同三年(808年)に主殿寮に併合されました。
内掃部司(うちのかにもりのつかさ)は、天皇が使用する牀(とこ)、狭畳(きょうじょう/小さな畳)、薦(こも/荒く織ったむしろ)、簀(さく/寝床の上に敷く竹などで編んだ敷物)、簾(すだれ)、苫(とま/家屋を覆って雨露をしのぐためのむしろのような物)などの製作、管理設営をつかさどった役所です。
職員は、長官は内掃部正(うちのかにもりのかみ/正六位上相当)、判官は内掃部佑(うちのかにもりのじょう/従七位下相当)、主典は内掃部令史(うちのかにもりのさかん/大初位下相当)各1名、これら四等官の下に掃部30人、雑任である使部10名、直丁1名、駈使丁40名が所属しました。
内掃部司は、弘仁十一年(820年)に職掌が似通った大蔵省の掃部司と併合し、宮内省の元で掃部寮となりました。
鍛冶司(かぬちのつかさ)は、銅、鉄製の雑器の製造と鍛戸(かぬちこ)の管理をつかさどった役所です。
職員は、長官は鍛冶正(かぬちのかみ/正六位上相当)、判官は鍛冶佑(かぬちのじょう/従七位下相当)、主典は鍛冶大令史(かぬちおおいのさかん/大初位上相当)、鍛冶少令史(かぬちすないのさかん/大初位下相当)各1名、これら四等官の下に伴部である鍛部(かぬちべ)20名、雑任である使部16名、直丁1名、雑戸である鍛戸338戸が所属しました。
鍛戸は農閑期(のうかんき/農業を行わない期間)である10月から3月の期間、戸ごとに1人を出して伴部である鍛部20人の元で兵器や金属器の生産にあたりました。天平十六年(744年)に雑戸開放によっていったん廃止されましたが、天平勝宝四年(752年)に雑戸が復活したことによって再び設置されましたが、大同三年(808年)に木工寮に併合されました。
内染司(うちのそめもののつかさ/ないせんし)は、天皇が使用するものの染色をつかさどった役所です。
職員は、長官は内染正(うちのそめもののかみ/従六位上相当)、判官は内染佑(うちのそめもののじょう/正八位下相当)、主典は内染令史(うちのそめもののさかん/少初位上)各1名で、これら四等官の下に染師(そめし/少初位上相当)2名、雑任である使部6名、直丁1名が所属しました。
大同三年(808年)、縫殿寮に併合されました。
土工司(つちたくみのつかさ/どこうし)は、土壁用の土、瓦(かわら)、建築資材用の石灰の製造をつかさどった役所です。
職員は、長官は土工正(つちたくみのかみ/正六位下相当)、判官は土工佑(つちたくみのじょう/正八位上相当)、主典は土工令史(つちたくみのさかん/大初位下相当)各1名で、これら四等官の下に伴部である泥部(ぬりべ)20名、雑任である使部10名、直丁1名、泥戸(ぬりこ)が所属しました。
伴部である泥部が品部である50戸の泥戸を率い、泥戸は25人交替で土壁用の土、瓦、石灰などを作りました。泥戸は調と徭役(ようえき/歳役と雑徭)を免じられました。
土工司は時期は不明ですが後に木工寮に併合されました。
園池司(そのいけのつかさ/えんちし)は、宮内省が有する庭園と池の管理、天皇が食する野菜やくだものなどの栽培、魚や鳥を取ることをつかさどった役所です。
職員は、長官は園池正(そのいけのかみ/正六位上相当)、判官は園池佑(そのいけのじょう/従七位下相当)、主典は園池令史(そのいけのさかん/大初位上相当)各1名で、これら四等官の下に雑任である使部6名、直丁1名、園戸(えんこ)が所属しました。品部である園戸は300戸が所属し、150戸ずつ一年交替で実務に従事し、調、雑徭を免除されました。
寛平八年(896年)内膳司に併合されました。
筥陶司(はこすえのつかさ/きょとうし)は、飲食に用いる木製の器、土器をつかさどった役所です。
職員は、長官は筥陶正(はこすえのかみ/従六位上相当)、判官は筥陶佑(はこすえのじょう/正八位下相当)、主典は筥陶令史(はこすえのさかん/少初位上相当)各1名で、これら四等官の下に雑任である使部6名、直丁1名、雑戸である筥戸(はこべ)197戸が所属しました。
大同三年(808年)、大膳職に併合されました。なお、藤原京跡から発見された木簡に、「陶官」と書かれた物があり、これは筥陶司の大宝律令より以前の名前だと考えられています。
衛府(えふ)とは、宮中の諸門の警護、天皇の日常・行幸(ぎょうこう/お出かけ)の警護、夜間見回りや宿直をつかさどった中央の軍事組織で、奈良時代には衛門府(えもんふ)、左右衛士府(さゆうえじふ)、左右兵衛府(さゆうひょうえふ)から成る五衛府でした。その後新たな衛府が新設されたり合併されたりと幾度も改変され、平安初期の弘仁二年(811年)に、左右近衛府(さゆうこのえふ)、左右衛門府、左右兵衛府から成る六衛府となりました。
平城宮には、外門(がいもん/平城宮を囲む塀に設けられた諸門)、中門(ちゅうもん/平城宮内にある内裏を囲む塀に設けられた諸門)、内門(ないもん/内裏内の内郭を囲む塀に設けられた諸門)がありました。外門は宮城門(みやぎもん)、中門は宮門(きゅうもん)、内門は閤門(こうもん)とも呼ばれます。
衛門府は、平城宮のこれら諸門のうち外門と中門の守衛、出入りする者の監視、隼人、門籍(もんせき/中門および内門の出入りを許された官人の名簿)のことをつかさどりました。
職員は、長官は衛門督(えもんのかみ/従四位下相当)、次官は衛門佐(えもんのすけ/従五位上相当)各1名、判官は衛門大尉(えもんおおいのじょう/従六位下相当)、衛門少尉(えもんすないのじょう/正七位上相当)各2名、主典は衛門大志(えもんおおいのさかん/正八位下相当)、衛門少志(えもんすないのさかん/従八位上相当)各2名、以上が四等官で、、これら四等官の下に医師(正八位下相当)1名、府生(ふしょう/文官の史生に相当)4名、門部(かどべ)200名、物部(もののべ)30名、雑任である使部30名、直丁4名、衛士(えじ)が所属しました。衛士は時代により人員に増減があり、平安初期には300名-400名ほどであったようです。
門部は、平城宮を取り囲む東西南北4面の塀にそれぞれ3つずつ設けられていたと考えられる、合計12の外門(宮城門)の守衛を担当した伴部で、大伴、佐伯、的(いくは)、山部、壬生(みぶ)、建部、若犬養、伊福部、丹治比、玉手、海犬養、猪使の12氏から原則的に選出され、これらの氏は各門の名前にもなっていました。
平安初期の大同三年(808年)、衛門府は廃止されて左右衛士府がその職務を引き継ぎましたが、弘仁二年(811年)に左右衛士府は左右衛門府と改称されました。従って、奈良時代にはひとつであった衛門府は、平安時代には左衛門府、右衛門府の2つとなり、先に挙げた四等官などの職員は左右衛門府それぞれに配属されました。
平安時代になると、左右衛門府の長官である左衛門督(さえもんのかみ)、右衛門督(うえもんのかみ)は中納言または参議が兼任する場合が多くなります。またこれら左右衛門督と、左右兵衛府の長官である左兵衛督(さひょうえのかみ)、右兵衛督(うひょうえのかみ)の計4名の中から、1名が検非違使別当(けびいしべっとう/長官)を兼務しました。
また左右衛門府の次官には、正規の次官である左衛門佐、右衛門佐に加え、検非違使が権官(ごんかん)として務める権佐衛門佐(ごんのさえもんのすけ)、権右衛門佐(ごんのうえもんのすけ)がありました。
平安時代になると、都の治安維持や民政をつかさどる検非違使が令外官(りょうげのかん)として設置されます。これは衛門府内にあって衛門府の役人が検非違使を務めましたので、左右衛門府の職掌は次第に検非違使へと移っていきました。
衛士府(えじふ)は、衛士を率いて内裏(だいり/天皇の居所)を囲む塀に設けられた中門(宮門)を守衛し、都の夜間警備、天皇行幸(ぎょうこう/お出かけ)の際の警護などをつかさどり、佐衛士府、右衛士府の2つがありました。
職員は、長官は衛士督(えじのかみ/従四位下相当)左右各1名、次官は衛士佐(えじのすけ/従五位下相当)左右各1名、判官は衛士大尉(えじおおいのじょう/従六位下相当)左右各2名、衛士少尉(えじすないのじょう/正七位上相当)左右各2名、主典は衛士大志(えじおおいのさかん/正八位下相当)左右各2名、衛士少志(えじすないのさかん/従八位上相当)左右各2名、以上が四等官で、この下に医師(正八位下相当)2名、雑任である使部60名、直丁3名、衛士および衛士の炊事係である火頭(かとう)合わせて左右衛士府におよそ3000名が所属しました。
平安初期の大同三年(808年)、衛門府が廃止されて左右衛士府がその職務を受け継ぎましたが、弘仁二年(811年)に左右衛士府は左右衛門府と改称され、左右衛士府はなくなりました。
衛士(えじ)とは、宮城・都の守衛にあたった兵士で、諸国の軍団に所属する農民兵士の中から選出され、交替で上京勤務しました。延暦二十四年(805年)の時点では、その人数は衛門府400名、左右衛士府各600名、計1,600名でした。
その職掌は、中門(宮城門)および宮城内の警備、都の夜間警備、行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)時の警護などで、上京中は課役(かやく/調と庸・雑徭)を免じられるなどの優遇もありましたが、勤務日以外の外出規制があるなど監視が厳しく、父母が死亡しても帰郷は許されませんでした。
『大宝令』の衛士の勤務年数に関する規定は不明ですが、実際には法で定められた年数よりも長く務めさせられることが多かったらしく、「壮年役に赴き、白首郷に帰る(働き盛りに衛士として上京し、白髪頭になって帰郷する)」といった状況であったと言われます。そこで勤務年数が3年と定められました(『養老令』では1年と定められています)。
しかし、その過酷な勤務のため逃亡者が後を絶ちませんでした。衛士は農民なのですから、急場こしらえの訓練では兵士としてはあまり役には立たず、後には兵士としては諸国の豪族出身者を当てるように変質していきました。平安時代になると、衛士はもはや兵士ではなく、各役所で雑務を務めるようになりました。
兵衛府(ひょうえふ/つわもののとねりのつかさ)は、兵衛を統率して、内門(閤門/内裏を囲む塀に設けられた門)を守衛し、出入りする者を監視し、行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)時の天皇の護衛などをつかさどりました。五衛府の中でも最も天皇の居所である代理に近い場所の警護を担当し、左右二つの兵衛府がありました。
職員は、長官は兵衛督(ひょうえのかみ/従四位下相当)左右各1名、次官は兵衛佐(ひょうえのすけ/従五位上相当)左右各1名、判官は兵衛大尉(ひょうえおおいのじょう/正七位上相当)、兵衛少尉(ひょうえすないのじょう/従七位上相当)左右各25名、主典は兵衛大志(ひょうえおおいのさかん/従八位上相当)左右各1名、兵衛少志(ひょうえすないのさかん/従八位下相当)左右各2名の四等官のほか、医師(従八位上相当)左右各1名、府生(ふしょう/文官の史生に相当)左右各4名、番長(ばんちょう)左右各4名、兵衛左右各400名が所属しました。なお、番長とは兵衛の統率者で、兵衛の中から武芸に秀でた者が選ばれました。
注) 大宝令(たいほうりょう)においては、長官は率、次官は翼、判官は大直・少直と表記されていますが、養老令(ようろうりょう)において他の衛府と同じ官名に改められています。
兵衛(ひょうえ)とは、畿内周辺の豪族や地方の国造(くにのみやつこ)の子弟から選出され、天皇や皇子に仕えた舎人(とねり)の系譜を引くもので、律令制下においては「つわもののとねり」とも言い、左右兵衛府に各400名所属し、天皇の近くにあって警護や宿直などにあたった兵士です。
内六位以下八位以上の者の嫡子(ちゃくし/正室の子)で、21歳以上の者から選出される他、郡司の子弟で弓馬に巧みな者を国司(こくし/県知事)が選抜することになっていました。兵衛は毎月2番に分かれ、15日ずつ交代勤務し、衛門府や左右衛士府に所属する農民兵士である衛士とは異なり、宮内の宿直や天皇の親衛隊として中門、内門の守衛などをつかさどりました。
兵衛は課役(かやく/調・庸・雑徭)が免除されましたが、勤務日数が6ヶ月の間に日勤・夜勤各80日以上でないと季禄が支給されませんでした。これは1ヶ月におよそ4日の休日、つまり1週間に1日の休日ということになりますが、これでは病気やケガもできない状況です。しかし、兵士としての能力や勤務態度によっては位階が与えられ、中央の官に任官することもあり、また帰郷した際に郡の大領・少領、あるいは軍団の大毅・少毅に任官することもありました。
慶雲四年(707年)、兵仗(ひょうじょう)を帯びて宮中を警衛する役所として授刀舎人寮(たちはきのとねりりょう)が設置されました。その役目は皇嗣首皇子(聖武天皇)の身辺警護であったと考えられており、兵仗を帯びた舎人400名が所属しました。藤原房前(ふじわらの ふささき/聖武天皇の叔父)が長官である授刀頭(たちはきのかみ)を務めるなど、藤原氏とも密接な関係を持ったものでした。
また、神亀五年(728年)、天皇近くで警固にあたる令外官として、中衛府(ちゅうえふ)が設置されました。中衛舎人300名(のち400名)が所属しました。中衛舎人は帯刀して宿直にあたり、天皇の身辺警護にあたりました。そして天平勝宝八年(七五六)、授刀舎人寮は中衛府に吸収されました。これは聖武天皇の即位にあたり、これまで皇子時代の聖武天皇の身辺警護をしていた授刀舎人寮を衛府にし、その職員の位階を五衛府よりも高くし、より強い権力を与えたものとされ、中衛府も藤原氏と密接な関係を持っていました。
ところが、天平宝字三年(759年)に授刀舎人寮は授刀衛(じゅとうえい)として復活しました。そして天平宝字八年(764年)の藤原仲麻呂の乱(ふじわらの なかまろのらん)においては、授刀衛の役人や舎人の多くが孝謙上皇(こうけんじょうこう)側に付いて仲麻呂側と戦い、乱後に上皇が称徳天皇として重祚(再び天皇となること)すると、翌年の天平神護元年(765年)に授刀衛は近衛府(このえふ)と改称し、最高位の衛府として位置づけられました。
同じく天平神護元年(765年)、外衛府(がいえふ)が設けられました。中衛府・近衛府と同じく舎人を主力兵士都市、宮中の守衛にあたりました。このように、中衛府・外衛府・近衛府は五衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府)の上位に位置する最重要衛府として、天皇に近侍して警護する役目をつかさどりました。
しかし、宝亀三年(772年)に外衛府は廃止され、所属する舎人は中衛府・近衛府・左右兵衛府に振り分けられました。
そして平安初期の大同二年(807年)、近衛府は左近衛府(さこのえふ)、中衛府が右近衛府(うこのえふ)と改称され、令外官として左右近衛府が成立し、左右衛門府、左右兵衛府とともに六衛府を構成することになりました。
近衛府の職員は、長官は近衛大将(このえのかみ/このえのだいしょう/従三位相当)左右各1名、次官は近衛中将(このえおおいのすけ/このえのちゅうじょう/従四位下相当)左右各1名、近衛少将(このえすないのすけ/このえのしょうしょう/正五位下相当)左右各2名、判官は近衛将監(このえのじょう/このえのしょうげん/従六位上相当)左右各4名、主典は近衛将曹(このえのさかん/従七位下相当)左右各4名、以上が四等官で、府生(ふしょう/文官の史生に相当)左右各6名、番長(ばんちょう/近衛舎人の統率者)左右各8名が所属しました。
近衛舎人(このえのとねり)とは、左右近衛府に所属した舎人で、近衛府の武力の主体となった舎人です。定員は左右各600名で、うち長上舎人(ちょうじょうとねり/毎日出勤する)200名、番上舎人(ばんじょうとねり/交代勤務)400名であったと言われます。式部省、兵部省に所属する内六位から八位の嫡子(ちゃくし/正室が産んだ嫡男)、官人登用試験合格者で式部省で待機中の者などの中から弓馬に秀でた者を試験によって選出しました。なお、近衛舎人は調・庸・雑徭を免除され、勤務日数に従って時服が支給され、横刀緒(たちのお/横刀を身に付けるための緒)なども支給されました。
注) 近衛府の四等官の読み方ですが、近衛大将は「このえのかみ/このえのだいしょう」と読みますが、左近衛府の大将は「さこのえのかみ」ではなく、「さこんえのかみ/さこんえのだいしょう」と読みます。また、右近衛府の大将は「うこんえのかみ/うこんえのだいしょう」となります。次官以降も同様で、左近衛府の次官であれば「さこんえおおいのすけ/さこんえのちゅうじょう」となります。
注) 奈良時代の刀は一般的には上古刀(じょうことう)と呼ばれ日本刀とは区別されますが、この時代の「大刀」、「横刀」などはみな「たち」と読みます。詳しくは、姉妹サイトのおさるの日本刀豆知識、日本刀の歴史上古刀の部をご覧下さい。
近衛府の職務は、宮城内の内門(閤門とも/天皇の居所である代理に設けられた諸門)の開閉、内門内の警備、内裏での宿直、都の見回り、行幸(ぎょうこう/天皇のお出かけ)時の警護などであり、また平安初期には反乱の鎮圧などにも活躍し、天皇側近の親衛隊として重要な存在でした。従って、長官である大将(かみ)の官位相当は従三位(じゅ さんみ)と、他の衛府に比べて格段に高く設定されていて、武官の最高位として、多くは大臣・大納言が兼務しました。
なお、左近衛大将(さこんえのかみ/さこんえのだいしょう)を左大将(さだいしょう)、右近衛大将(うこんえのかみ/うこんえのだいしょう)を右大将(うだいしょう)とも呼びます。また中将で蔵人頭(くろうどのとう)に補された者を頭中将(とうのちゅうじょう)、参議を兼務する者を宰相中将(さいしょうちゅうじょう)と呼びます。
中将・少将の定員は10世紀以後次第に増え、保元元年(1156年)には左右中少将将各4名の計16名となりました。
平安時代になり、藤原氏を中心とした貴族中心の政治体制になると、近衛府の大将や中将といった官職は貴族の栄誉職となり、舎人の職務も護衛や監視といったものから馬芸などに変化し、その多くが院や摂関家の随身(ずいじん)となり、平安中期以降には近衛府の軍事や警察的な機能は失われました。
随身とは、上皇、摂政、関白、左右近衛府の長官、次官などの貴人が外出する際の身辺警護役として、天皇の命令によって付けられた近衛府の官人のことで、左右近衛府の下級官人や舎人が務めました。弓を持ち、帯刀し、番長(ばんちょう/舎人の統率者)が先駆を務めました。また、上皇の随身は、近衛将曹(近衛府の主典)、府生(ふしょう/文官の史生に相当)、番長左右各1名、近衛舎人左右各4名の計14名で、摂関家(せっかんけ)では平安中期以降は左右近衛府舎人各1名があてられました。摂関家とは、平安時代になって摂政・関白を独占した、藤原家の家系を指します。
随身として摂関家や上皇を警護した近衛府の下級官人や舎人は、次第にその主従関係を強め、本来の上司である近衛大将などの命令を聞かず、上皇や摂関家の家来と化していき、近衛府の警察・軍事的な機能は失われていったのです。
検非違使(けびいし)とは、平安時代初期に置かれた令外官(りょうげのかん)で、京中の非違(ひい/違法行為)を検察する天皇の使者ということから、このような名が付けられました。当初は左右衛門府内に検非違使庁と呼ばれる役所が置かれ、検非違使庁の職員も衛門府の官人が兼務しました。当初は左右検非違使庁にそれぞれ四等官の次官である佐(すけ)、判官である尉(じょう)、主典である志(さかん)各1名、府生(ふしょう/文官の史生に相当)1名、火長(かちょう)9名が所属し、左右検非違使庁を統括する別当(べっとう)が置かれました。しかし、平安中期には左右検非違使庁は統合され、1つになりました。
統合された検非違使庁の四等官の長官にあたるのが別当(べっとう)で、参議あるいは中納言で、衛門督(えもんのかみ/衛門府長官)を兼務するのが原則でしたが、左右兵衛督(ひょうえのかみ/兵衛府長官)が兼務する場合もありました。
次官に相当するのが佐(すけ)で、定員は2名です。佐衛門権佐(さえもんごんのすけ)、あるいは右衛門権佐(うえもんごんのすけ)が兼務しました。権佐(ごんのすけ)とは権官(ごんかん)で、正官に対して仮の任官者です。詳しくは権官を参照して下さい。
判官に相当するのが大尉(おおいのじょう)・少尉(すないのじょう)で、大尉の定員は4名、少尉の定員は定まっていませんでした。どちらも衛門尉(えもんのじょう)が兼務しましたが、平安後期になると、平氏や源氏といった武士の任官が多くなります。
主典に相当するのが大志(おおいのさかん)・少志(すないのさかん)で、定員は定まっていませんでした。これら四等官の下に府生(ふしょう/文官の史生に相当)数名、火長(かちょう)9名(うち看督長2名・案主1名)が所属しました。
火長とは衛門府の衛士から選抜された者達で、看督長(かどのおさ)、案主(あんじゅ)を総称して火長という場合もありました。看督長は牢獄の看守・罪人の追補を担当し、案主は文章を書いたり書類の保管を担当しました。
注) 火長は本来は各国軍団兵士10人一組を「火」という単位に組織し、その長を指す言葉でした。
検非違使は天皇の直接指示に従って行動するよう組織されたものでしたので、法律などには拘束されず、大きな警察力として機能しました。また、京の治安維持に当たっただけではなく遠国に出動することもありました。そしてその職務は次第に拡大し、犯人の追捕に加え、犯罪者が不当に得た物の没収、犯罪者の財産没収なども行うようになりました。しかし、弾正台や刑部省の職務を奪うことになったため、貞観十二年(870年)には、その職権の対称が強盗、窃盗、殺害、博打(ばくち)、暴行などに限定されました。
弾正台(ただすのつかさ/だんじょうだい)は、官人の風俗の粛正と非違の取締りにあたった警察機関です。
職員は、長官は尹(ただすのかみ)で従三位(じゅ さんみ)相当1名、次官は大弼(ただすおおいのすけ)が従四位下相当1名、少弼(ただすすないのすけ)が正五位下相当で1名、判官は大忠(ただすおおいのじょう)が正六位上相当で1名、少忠(ただすすないのじょう)が正六位下相当で1名、主典は大疏(ただすおおいのさかん)が正七位上相当で1名、少疏(ただすすないのさかん)が正八位上相当で1名です。これら四等官の下に現在の巡査に相当する巡察弾正(じゅんさつだんじょう/正七位下相当)10名、雑任である史生6名、使部30名、直丁2名などが所属しました。
弾正台は、二官八省からは独立した機関として官人の綱紀粛清や非違を取り締まり、太政大臣を除く全官人の非違を糺弾しました。ただし、弾正台が直接見回って非違を糺弾できるのは都に限られ、各国において非違は訴えを受け付けて取り調べました。
検非違使が設置されると検非違使が糺弾の実務を行うようになり、弾正台は形骸化していきました。
地方の行政区分は、国(くに)-郡(ぐん)-里(さと)となっていて、それぞれを国司(こくし)・郡司(ぐんじ)・里長(さとおさ)が治めました。なお、里は後に郷に変更されました。
国の役所は国衙(こくが)と呼ばれ、国衙がある地域を国府(こくふ)と呼びます。郡の役所は郡家(ぐうけ・ぐんけ)と呼ばれました。
国司(こくし)は中央(朝廷)から派遣され、地方諸国の政務にあたる地方官の総称です。その長官は現在で言う県知事のようなものです。郡司を指揮して行政・司法・軍事を統括し、担当国内で多大な力を持っていました。長官である守(かみ)、次官である介(すけ)、判官である掾(じょう)、主典(さかん)である目(さかん)の四等浣、国博士(くにのはかせ)、国医師(くにのいし)、史生が派遣されました。派遣される国の等級によってその人数が決められていました。任期ははじめは6年でしたが後に4年となりました。
なお、地方に置かれた学校を国学と呼びますが、郡司の子達が学んだ学校です。その教官が国博士で、国学で医療、医学を教えたのが国医師です。
注) 四等官の下にある史生、国博士、医師を含めて国司と呼ぶ場合もあります。
長官である守(かみ)は赴任国の政務全般を統括し全ての決裁権を持ち、次官である介(すけ)は長官を補佐し、守が不在時は代行しました。判官は国内を取り締まって非違を正し、主典が作成した書類を審査しました。この判官までが決裁権を持ち、主典は決裁権は無く書類の作成や読み上げを担当しました。
律令制下においては、各国はその経済力によって大国(たいごく)、上国(じょうごく)、中国(ちゅうごく)、下国(げこく)の4つの等級に分けられ、国が朝廷に納める税は等級ごとに決められました。また、派遣される国司の人数や格(位階)もこの等級によって決められていました。
国の等級(延喜式) | |||
等級 | 国 | 四等官(官位相当/職分田) | |
大国 | 陸奥国、越前国、武蔵国、上総国、下総国 常陸国、上野国、大和国、河内国、播磨国 伊勢国、近江国、肥後国 |
守(従五位上/二町歩六段) 介(正六位下/二町歩二段) 大掾(正七位下/一町歩六段) 少掾(従七位上/一町歩六段) 大目(従八位上/一町歩二段) 少目(従八位下/一町歩二段) |
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上国 | 出羽国、越中国、越後国、信濃国、加賀国 遠江国、相模国、駿河国、下野国、美濃国 甲斐国、尾張国、三河国、山城国、摂津国 丹波国、但馬国、紀伊国、備前国、備中国 備後国、安芸国、美作国、因幡国、伯耆国 出雲国、周防国、讃岐国、阿波国、伊予国 豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国 |
守(従五位下/二町歩二段) 介(従六位上/二町歩) 掾(従七位上/一町歩六段) 目(従八位下/一町二段) |
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中国 | 能登国、佐渡国、安房国、若狭国、丹後国 石見国、長門国、土佐国、日向国、大隅国 薩摩国 |
守(正六位下/二町歩) 掾(正八位上/一町歩二段) 目(大初位下/一町歩) |
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下国 | 和泉国、淡路国、対馬国、志摩国、伊豆国 伊賀国、飛騨国、隠岐国、壱岐国 |
守(従六位下/一町歩六段) 目(少初位上/一町歩) |
大国に分類されていた国のうち、常陸国(ひたちのくに/茨城県)、上総国(かずさのくに/千葉県中部)、上野国(こうずけのくに/群馬県)の3国は、平安前期に親王任国(しんのうにんごく)とされました。親王任国とは、親王が国司の長官である守となるよう定められた国の事です。
桓武天皇(かんむてんのう)、平城天皇(へいぜいてんのう)、嵯峨天皇(さがてんのう)には非常にたくさんの皇子がいました。それは天皇の後継者を絶えること無く安定的に確保しておく必要があったからです。そして当然これら皇子達を皇族として養っていかなければなりません。しかし、朝廷にはそれほどの財力は無く、身分に応じた官職にも限りがあります。そこで親王をいわば経済力のある国の長官に任官させ、その国司としての報酬を以て給料としたのです。当初は一時的な措置であったのが、平安時代を通して続きました。なお、親王任国の長官である守(かみ)は、例えば常陸国であれば常陸守(ひたちのかみ)ではなく、常陸太守(ひたちのたいしゅ)と呼ばれました。
通常、国司に任命された者達は現地に赴任しますが、皇族である親王が地方へ赴任するというようなことはありませんでした。従ってこれら親王任国の太守(長官)に任ぜられた親王は、実際にはその国には赴任せず、都にとどまって報酬だけを受け取ることになっていました。これを遥任(ようにん)と呼びます。この場合は、長官としての実際の仕事は実際に現地赴任している次官である介(すけ)が行いました。
官人には、その位階や官職、身分によって様々な報酬がありました(貴族の収入参照)。一国の行政・司法・軍事・警察を一手に担った国司は、中央の官人には無い報酬が加算され優遇されました。そのひとつが職分田(しきぶんでん)です。
職分田とは、特定の官職に就いた者に与えられる田地で、太政官(だいじょうかん)の太政大臣(だいじょうだいじん)、左大臣、右大臣、大納言、九州の大宰府(だざいふ)の職員、国司、郡司に与えられました。国司に与えられた職分田の内容は上の「国の等級」の表の通りですが、下国の長官である守(かみ)でも一町歩六段(いちちょうぶろくだん)の田地が与えられています。
注) 「町(ちょう)」には、区画を表す場合と面積を表す用法があります。詳しくは区画としての「町」と面積としての「町」をご覧下さい。
これら国司に与えられた職分田は、実際にどれほどの広さだったのでしょうか。下国の長官である守(かみ)には一町歩六段の職分田があたえられています。律令時代の一町歩(いちちょうぶ)は3,600坪です。一坪は約3.3uですので、3,600坪は11,880uになります。一段は一町歩の10分の1ですから、一町歩六段は19,008uとなり、およそ1.9ヘクタールということになります。これでもあまりピンとこないかもしれませんが、現在住所を表すのに「何町何丁目」と言いますが、この1丁目などの区画は地域などによって異なりますがおよそ100b四方の正方形です。つまり1ヘクタールです。したがって1.9ヘクタールはおよそ1丁目と2丁目の2町分の広さということになります。
では、この一町歩六段の田地からどれくらいのお米が収穫できたのでしょうか。この時代では、稲を一束得られる田の面積を一代(いちしろ)と呼び、一代は五歩とされていました。一町歩は3,600歩ですから、一町歩六段は1,152代となります。つまり一町歩六段の田地からは1,152束の稲が収穫できるということです。稲一束は玄米五升と換算されましたので、1,152束は玄米5,760升ということになります。5,760升は57,600合です。生の玄米1合はおよそ150グラムですので、57,600合を米俵(60キログラム)に換算すると、144個になります。
下国の長官である守(かみ)の官位相当は従六位下(じゅ ろくいの げ)です。五位以上を貴族と呼びますので、従六位下は下級官人ということになります。当時は白米(はくまい)、つまり現在私達が食べているお米はごく一部の特権階級の者しか食せず、下級官人は玄米を食べていました。なぜ下級官人などが白米ではなく玄米を食べていたのかと言うと、玄米を白米にするには非常な手間がかかるからです。玄米には糠(ぬか)が付いていて、これを取り除く作業が精米です。現在では機械によって玄米を擦り合わせ、摩擦によって糠を取り除くことが出来ますが、当時は杵(きね)などで玄米を搗いて(ついて)糠を取り除いており、大変な手間であり、下々の者にはそのような時間も手間もかけていられませんでした。
当時は一日二食で、下級官人などは一回の食事で一合の玄米を食べていたと考えられています。従って一日に二合の玄米を食べていたと思われます。すると57,600合は28,800回の食事をまかなえる量ということになります。しかし、当時の一升は現在の四合ほどであったとされていますので、57,600合は現在の感覚では23,040合ほどになりますが、これでも一日二合を食べたとしておよそ32年分の玄米ということになります。もちろん全てを食べた訳では無く、食べる分以外は他の物と交換したり換金したでしょうが、それでも換金すれば莫大な額になったのではないでしょうか。
国司は中央から派遣されましたので単身赴任となります。従って得た収入の一部は都に住む家族に送金したかもしれませんが、とにかく国司には中央の官人には無い莫大な報酬があったということが分かります。つまり、国司は大変儲かる(もうかる)官職だったのです。
注) この計算は、当時の朝廷が徴税のために定めた換算に従って計算しました。当時の税や換算については奈良時代の税金とお金をご覧下さい。また、お米やその用語に関してはお米についてをご覧下さい。
国司に与えられた中央の官人には無い報酬は、職分田だけではありません。職分田を工作する労働力である事力(じりき)も与えられました。また国内の空き地を工作してその収穫を収入とすることも国司の特権でした。さらに公廨稲(くがいとう/くげとう)の配分がありました。
天災など何らかの理由により、田植えの時期に稲がなくて田植えができない農民もいました。そんな農民の救済策として公出挙(くすいこ)がありました。これは稲を利息付で貸し出し、収穫時に利息と共に回収するというものです。もともとは農民を助けるためのものでしたが、次第にその利息が五割などと高利になり、借りたくない者にも無理やり貸し付けると言ったあくどいものになりました。
公出挙によって得た利益は、国衙(こくが/県庁)の財政赤字の補填に使われましたが、その余りを国司達で分配して収入とすることが許されていました。それが公廨稲です。
その分配率は長官六分、次官四分、判官三分、主典二分、史生一分、国博士・医師それぞれ一分というものでした。これらを全て足すと18となり、余剰分を18分割し、長官はその内の6を取るという仕組みでした。ただし、国の等級によっては四等官の人数が各一人ずつでは無い場合もあります。例えば大国では判官、主典それぞれ2名ずつで、史生は4名でしたので、前述の分配率を足すと26となります。
これに長官に権官(ごんかん)である権守(ごんのかみ)がいたとしたら、26プラス権守分の6(権官も正官と同率)で32となります。分配する人数が増えるほど、一人頭に分配される額は少なくなります。そこで国司達はあくどいことを考えたのです。赤字補填した余りを配分すべき所を、補填せずに公出挙で得た利益全てを国司達で分配したのです。
大国では40万束、上国では30万束、中国では20万束、下国では10万束(飛騨国・隠岐国・淡路国は3万束、志摩国・壱岐国は1万束)を農民に貸し付けたと言われ、もし五割の利息を取ったとすれば下国でも5万束の利息となります。これを全て国司達に配分したとすると、前述の取り分率で言うと下国は18ですので、50,000束を18で割るとおよそ2,800となり、長官は6の分配率ですから、2,800×6で16,800束となります。
下国の国司長官が与えられた職分田は一町歩六段で、この田地からは1,152束の稲が得られたことは前述の通りです。16,800束はこのおよそ15倍です。一番格下の下国の長官でもこのような莫大な報酬が得られたのです。しかもこういった合法の手段以外に、その権力を使って非合法な手段でも利益を得ていたのです。
国司の官位相当は、大国の長官である守(かみ)でも従五位上(じゅ ごいの じょう)です。五位以上が貴族と呼ばれましたので、五位はいわば下級貴族です。しかし、中央の官職では得られないほどの莫大な報酬が得られ、非合法なやり方をすればもっと荒稼ぎができる官職だったのです。従って中央の官人達も国司の職を望みました。またもっと上の位階を持つ上級貴族であっても、権官として国司長官に任命されればこういった莫大な報酬が得られたのでした。
国司は毎年朝廷にその成果を報告する義務がありました。その報告のために派遣されたのが朝集使、大帳使、貢調使、税帳使で、これらを四度使(よどのつかい)と呼びます。
【 朝集使 】 朝集使(ちょうしゅうし)とは、国司・郡司の勤務成績評定書・公文を朝廷に提出するために、毎年諸国から派遣された使いです。国司の主典(さかん)である目(さかん)以上を原則としましたが、後には史生も任命されるようになりました。
その任務は国司・郡司の成績表を太政官に提出し、その内容などについて式部省、兵部省の質問に答えること、管轄下の国・郡の行政などに関する朝廷への要望などを伝えることでした。
朝集使は畿内諸国であれば10月1日、それ以外は11月1日までに上京し、質疑応答が済み次第帰国しなければなりませんでしたが、平安時代になると帰国せずに都に滞在したり、上京すらしないということも起こりました。
【 大帳使 】 大帳使(だいちょうし)とは、計帳(けいちょう)を朝廷へ提出するために諸国から派遣された使者です。
戸主が戸内各人の続柄、氏名、性別、年齢などを記した申告書を手実(しゅじつ)と呼びますが、京職(きょうしき)や国司はこの手実をもとに定められた書式に従って書類を作成しました。そして8月末までに太政官に提出しなければなりませんでした。この書類を国帳(目録とも)と呼びます。
国帳は郡単位に戸数や戸内の人数、それらから算出した調・庸の量を集計し、一国分としてまとめたものでした。そして朝廷では、各国から提出させたこの国帳をもとに入ってくる税の予定額を算出し予算編成を行いました。また、全国の調・庸を徴収できる人数の推移も把握できたのでした。
この手実と国帳(目録)を計帳と呼びますが、朝廷に提出する計帳は国帳(目録)で、大計帳または略して大帳と称されました。そしてこの大帳を朝廷に提出するために派遣された各国の使者が大帳使です。提出された計帳には、課税できる人口の推移などを示した文書も添付されていて、過去の記録と照合し、ここ数年増収が無い場合や損益がある場合は返抄(へんしょう/受け取り書)が発行されず、増収に転ずることを太政官に申告すれば返抄が発行され、帰国できました。
【 貢調使 】 貢調使(こうちょうし)とは、税である調・庸を朝廷まで運び、納入するために各国から派遣された使者です。主典である目(さかん)以上の四等官が務めました。
調や庸といった現物を運搬するのは運脚(うんきゃく)と呼ばれる農民で、納税者自らが運搬しなければなりませんでした。運脚を率いるのは綱領(こうりょう/綱丁とも)で、綱領は史生や郡司の子弟が務めました。貢調使は綱領や運脚を率いて調庸物を大蔵省などに納入し、持参したこれら庸・調の明細を記録した書類を提出し、民部省や主計寮の照合に立ち会いました。上京の時期は国によって異なり、近国は10月末、中国は11月末、遠国は12月末という納期に合わせて上京しました。
なお、庸・調のうち糸は7月末が納期とされていたので、別途糸を運び納入する使者が派遣されました。
【 税帳使 】 税帳使(ぜいちょうし)とは、正税帳(しょうぜいちょう)など、徴税の帳簿を太政官に提出するために各国から派遣された使者で、四等官や史生が務めました。翌年の2月末までに太政官に提出し、民部省などの関係官司が照合しました。OKが出れば受け取り書が発行されて帰国できました。
平安時代になると、税収が激減して朝廷は財政難に陥りました。そこで国司にこれまでにない大きな権限を与え、とにかく中央に税を送りさえすればその徴収法は問わないとし、地方行政を国司に丸投げしました。それにより大きな権限を持った国司は、その合法・非合法な手段によって蓄えた莫大な富をもとに、中央の有力貴族と結んでより大きな力を持つようになり、地方は乱れて四度使なども派遣されなくなっていきます。
このような状況の中、朝廷は地方からの報告は信用せず、地方に様々な行政監察のための使者を派遣しました。それは次のようなものでした。
【 巡察使 】 諸国を巡回して国司・郡司の仕事ぶりを調査し、一般庶民の生活状況を視察して中央に報告しました。
【 検税使 】 諸国に出向いて税の帳簿と現物を照合し、正しいかどうかを点検しました。
【 按察使 】 按察使(あぜち)は令外官で、畿内・西海道を除く諸国を隣接する2〜4ヶ国にグループ分けして、そのうちの一国の国司長官である守(かみ)を按察使に任命し、グループ内の行政監察を行わせました。
【 観察使 】 令外官で、諸国を視察し、国司・郡司の仕事ぶり、つまり農業の推進、徴税の状況などを視察し、公務をマジメに行っているかなど、16ヶ条の査察項目に従って監察しました。
【 勘解由使 】 勘解由使(かげゆし)は令外官で、国司の任期満了時の交代を監察する者で、正しく引き継ぎされたかどうかを監察しました。
朝廷はこういった地方行政の監察使を設置・派遣したりしましたが、これらも次第に廃止されたり名目だけのものとなり、国司による地方支配はますます強まっていきました。しかし、鎌倉時代になって武士政権が成立し、守護・地頭が設置されるようになると、朝廷が派遣した国司はその職掌をこういった武士達に奪われ、もはや名目だけの存在となっていきました。
郡は国の下に置かれた地方行政区分で、大宝律令で郡と定められる以前は評(こおりまたはひょう)と呼ばれていました。郡は里(さと/1里=50戸)を単位として構成され、含まれる里の数によって大(16〜20里)、上(12里以上)、中(8里以上)、下(4里以上)、小(2里以上)の5つの等級に分けられました。
郡司は中央の式部省が任命しましたが、国司が推薦する場合もありました。しかし、国司のように中央から派遣されるのでは無く、その地に土着(どちゃく)した豪族(ずっとその地に住む有力者)が任じられました。国司のような任期は無く、世襲(せしゅう/一族がずっと引き継ぐ)されました。国司同様、大領(おおいのみやつこ/だいりょう/長官)、少領(すないのみやつこ/しょうりょう/次官)、主政(しゅせい/判官)、主帳(しゅちょう/主典)の四等浣が置かれ、大領と少領を合わせて特に郡領(ぐんりょう)と呼びました。上記の郡の規模によって人員は決められました。
郡司にも職分田が与えられましたが、大領で六町歩、少領で四町歩、主政・主帳は二町歩と国司に比べてかなり大きなものでした。また、立場上は国司の下の役人ですが、税の徴収など実務は郡司が務めており、また地元の有力者としての力もあったため、重要な役目でした。
なお、郡司には四等官に相当するものがありながらも官位相当は無く、律令体制に組み込まれてはいますが、法的には律令官人ではありませんでした。
里長(さとおさ)は、50戸で構成される里の長で、郡司のもと税の徴収や出挙(すいこ/農民への稲の貸し付け)の管理などを行い、地元の有力農民が任じられました。里長は庸と雑用を免除されました。のち里は郷(ごう)に改称されました。
五畿七道(ごきしちどう)とは、律令制における行政区分の事です。
大和国(やまとのくに/奈良県)、摂津国(せっつのくに/大阪府北西部・兵庫県南東部)、河内国(かわちのくに/大阪府南東部)、和泉国(いずみのくに/大阪府南部)、山背国(やましろのくに/京都府南部)の5ヶ国を畿内(きない)と呼びます。「畿」とは天皇の居る都(みやこ)から近いという意味で、都に近いこれら5つの国を「五畿」と呼んだのです。もともと皇帝の住む周辺地域には、皇帝の徳が特にあつく及ぶので、この地域は特別に優遇すべきであるという中国の考えに基づいています。そしてこの畿内に本籍がある者は庸が免除され、調は半分が免除されました。
この五畿以外の国々を7つに区分し七道と呼びました。七道は次のようになります。
【 東海道 】 15ヶ国:伊賀国(いがのくに/三重県北西部)、伊勢国(いせのくに/三重県東部)、志摩国(しまのくに/三重県中東部)、尾張国(おわりのくに/愛知県西半分)、三河国(みかわのくに/愛知県東半分)、遠江国(とおとうみのくに/静岡県西部)、駿河国(するがのくに/静岡県東部・中部)、伊豆国(いずのくに/静岡県伊豆半島・伊豆諸島)、甲斐国(かいのくに/山梨県)、相模国(さがみのくに/神奈川県)、安房国(あわのくに/千葉県南部)、上総国(かずさのくに/千葉県中部)、下総国(しもうさのくに/千葉県北部・茨城県南西部・埼玉県北端)、常陸国(ひたちのくに/茨城県北部・東部)、武蔵国(むさしのくに/東京都・神奈川県川崎市、横浜市・埼玉県)
【 東山道 】 8ヶ国:近江国(おうみのくに/滋賀県)、美濃国(みののくに/岐阜県南部)、飛騨国(ひだのくに/岐阜県北部)、信濃国(しなののくに/長野県)、上野国(こうずけのくに/群馬県)、下野国(しもつけのくに/栃木県)、陸奥国(むつのくに/福島県・宮城県・岩手県・秋田県北東部・青森県)、出羽国(でわのくに/山形県・秋田県北東部以外)
【 北陸道 】 7ヶ国:若狭国(わかさのくに/福井県南西部)、越前国(えちぜんのくに/福井県北部)、加賀国(かがのくに/石川県南部)、能登国(のとのくに/石川県北部)、越中国(えっちゅうのくに/富山県)、越後国(えちごのくに/新潟県)、佐渡国(さどのくに/佐渡島)
【 山陰道 】 8ヶ国:丹波国(たんばのくに/京都府中部・兵庫県北東部)、丹後国(たんごのくに/京都府北部)、但馬国(たじまのくに/兵庫県北部)、因幡国(いなばのくに/鳥取県東部)、伯耆国(ほうきのくに/鳥取県西部)、出雲国(いずものくに/島根県東部)、石見国(いわみのくに/島根県西部)、隠岐国(おきのくに/島根県隠岐島)
【 山陽道 】 8ヶ国:播磨国(はりまのくに/神戸市の一部を除く兵庫県南部)、備前国(びぜんのくに/岡山県南東部)、備中国(びっちゅうのくに/岡山県西部)、美作国(みまさかのくに/岡山県北東部)、備後国(びんごのくに/広島県東部)、安芸国(あきのくに/広島県西部)、周防国(すおうのくに/山口県東部)、長門国(ながとのくに/山口県西部)
【 南海道 】 6ヶ国:紀伊国(きいのくに/和歌山県・三重県南部)、淡路国(あわじのくに/兵庫県淡路島)、阿波国(あわのくに/徳島県)、讃岐国(さぬきのくに/香川県)、伊予国(いよのくに/愛媛県)、土佐国(とさのくに/高知県)
【 西海道 】 11ヶ国:筑前国(ちくぜんのくに/福岡県北西部)、筑後国(ちくごのくに/福岡県南部)、豊前国(ぶぜんのくに/福岡県東部・大分県北部)、豊後国(ぶんごのくに/大分県)、肥前国(ひぜんのくに/佐賀県・壱岐、対馬を除く長崎県)、肥後国(ひごのくに/熊本県)、日向国(ひゅうがのくに/宮崎県)、薩摩国(さつまのくに/鹿児島県西部)、大隅国(おおすみのくに/鹿児島県東部)、壱岐国(いきのくに/長崎県壱岐島)、対馬国(つしまのくに/長崎県対馬)
なお、「道」とは中国の行政区分の呼称で、律令制は唐を手本としたのでこの名前が使われました。
都と地方は駅路(うまやじ)という道路で結ばれていました。駅路はまっすぐな道で、道幅は広いところで12メートルもありました。また16キロごとに駅があり、休憩したり食事をしたり馬を乗り継いだりできました。
大宰府(だざいふ)は、九州の筑前国(ちくぜんのくに/福岡県北西部)に置かれたもので、もともとは地方の重要な地域に置かれ、数ヶ国という広い地域を統治する役職でした。大宝律令によって吉備(きび/岡山県)や周防(すおう/山口県)などに置かれていたものを廃止し、九州の大宰府のみが残されました。中国や朝鮮半島との外交や防衛を担当し、西海道の9ヶ国を統治し、防人(さきもり)を統括しました。
職員は、長官は大宰帥(だざいのかみ/だざいのそち/従三位相当)、次官は大宰大弐(だざいおおいのすけ/だざいのだいに/正五位上相当)、大宰少弐(だざいすないのすけ/だざいのしょうに/従五位下相当)、判官は大宰大監(だざいおおいのじょう/だざいのだいげん/正六位下相当)、大宰少監(だざいすないのじょう/だざいのしょうげん/従六位上相当)、主典は大宰大典(だざいおおいのさかん/正七位上相当)、大宰少典(だざいすないのさかん/正八位上相当)の四等官の他、裁判で罪状を決定する判事である大判事(おおいのことわるつかさ/従六位下相当)、少判事(すないのことわるつかさ/正七位上相当)、建築の指揮を行う大工(おおいのたくみ/正七位上相当)、少工(すないのたくみ/正八位上相当)、博士(はかせ/従七位下相当)、陰陽師(おんみょうじ/正八位上相当)、医師(くすし/正八位上相当)、算師(さんし/正八位上相当)、防人正(さきもりのかみ/正七位上相当)、防人佑(さきもりのすけ/正八位上相当)、雑任である史生などが所属しました。
大宰府に務める者は、長上官(ちょうじょうかん)と番上官(ばんじょうかん)を合わせると580人ほどであったと言われます。長官である大宰帥(だざいのかみ/だざいのそち)は従三位相当官ですので、太政官の大納言につぐ地位で、次官である大宰大弐(だざいのすけ/だざいのだいに)は正五位上相当官ですが実際は従四位であることが多く、地方官としては破格の待遇でした。
平安時代には、長官である大宰帥には親王が任じられるようになります。皇族である親王は現地に赴任することはなく(遙任/ようにん)、臣下を権帥(ごんのかみ/ごんのそち)として赴任させ、政務を執らせました。従って、長官である権帥と次官である大弐はその職務が同じとなったため、権帥と大弐を同時に任じないようになりました。
大宰府は西海道全域の統轄、国防、外交を職掌とし、その長官は大臣クラスの者や皇族が務めることも多く、特別行政区域として大きな権限を与えられていました。従って大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」などとも呼ばれました。
しかし、平安時代になって律令体制が崩壊し出すと大宰府の力も衰退し、長官や次官はもはや赴任しなくなり、大宰府の実権は下位の次官である少弐(すないのすけ/しょうに)が握りました。そして、鎌倉時代になって鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)が設置されると、大宰府は有名無実となっていきました。
防人(さきもり)とは、古代の兵役です。もともとは「崎守」と書いて「さきもり」と読みました。これは大陸に面する北九州の崎(みさき)に防衛のために配置されたからです。
防人が制度化された背景には、663年に起こった白村江(はくそんこう)の戦いがありました。これは当時日本と友好関係にあった朝鮮半島の百済(くだら)と連合し、唐・新羅(しらぎ/朝鮮半島にあった国)と戦い、日本・百済連合軍が大敗した戦いです。敗戦後に唐などが日本に侵攻してくるのではないかということから、日本は九州北部などの防衛強化を行い、防人もそのひとつでした。
大宝元年(701年)に大宝令が制定され、軍団兵士制が制定されました。そして防人は諸国軍団兵士から選抜されて派遣されることになりました。この諸国の軍団兵士は一般農民が徴兵されたものですので、防人も一般農民でした。諸国から徴兵された防人は、難波津(なにわづ/大阪)に集められ、そこからは船に乗って大宰府に向かい、防人司(さきもりのつかさ)の統率下に置かれました。防人は任務に従事しながら、与えられた空き地を開墾して食糧を自給しました。また、10日に1日の休暇がありました。
防人の任期は3年とされ、任期中は課役(庸・調・雑徭)を免除されました。そして任期終了後に帰郷した際は、3年間は国内の軍団への徴兵を免除されました。しかし3年の勤務で帰郷できることは少なく、帰郷できずに九州にとどまる防人も多かったようです。
防人のほとんどは東国(今の関東地方)諸国から徴兵された者で、定員については規定はありませんでしたが、天平九年(737年)に諸国からの防人徴兵が廃止され、その帰郷の様子が記録された文書からは、およそ2,300人の東国防人がいたことが知られます。防人の多くが東国から徴兵された理由のひとつには、ヤマト王権の時代から東国は舎人(とねり)を王権に差し出し、それがヤマト王権の武力の主体となっていたことが挙げられています。
いったん廃止された東国からの防人の徴兵は、すぐに再開されました。廃止された時期前後は飢饉(ききん)などによって東国も疲弊していたので、いったん廃止されたのでしたが、落ち着くと再開されたのです。しかし、防人を出した家は生活が成り立たないなどの理由から、天平宝字元年(757年)に廃止され、残留している東国からの防人はそのままに、3,000人に足りない人数を西海道(九州)の兵士から徴兵することになりました。
平安時代になると、壱岐(いき)・対馬(つしま)を除いて防人は廃止され、のちこれらも廃止されました。そして朝廷に服した蝦夷(えみし)600人ほどを大宰府に送り、防人としました。そして826年には大宰府管内の兵士が全廃され、代わって統領・選士が置かれたことにより防人制は消滅しました。
注) 蝦夷(えみし)については、姉妹サイト・おさるの日本刀豆知識の、蝦夷についての項で詳しく解説していますので、そちらをご覧下さい。
選士(せんし)とは、富裕な階層から選ばれて大宰府や西海道九国、壱岐、対馬の守備に当たった兵士です。大宰府には指揮官である8人の統領の元に選士400人、西海道九国および壱岐・対馬に統領34人、その元に選士1,320人を配置し、4つのグループに分けて30日ずつ勤務させました。
中央の軍事組織には五衛府(のち六衛府)がありましたが、地方の諸国の軍事組織は軍団でした。これは一般農民を徴兵して訓練し、兵士としたものでした。奈良時代の武器・軍団兵士の訓練・戦闘方法などについては、姉妹サイトのおさるの日本刀豆知識の軍団についてで詳しく解説していますのでそちらをご覧下さい。