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日本史豆知識
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飛鳥時代
6世紀終り頃-8世紀初頭
《 目次 》
飛鳥時代は、奈良の飛鳥地方に都が置かれ、平城京に遷都されるまでの約100年を指します。古墳時代の終わり頃と重なりますが、これはもともと飛鳥時代という区分が美術史や建築史で使われた区分だったからです。この飛鳥時代は中国や朝鮮半島に変化が起こり、日本にも新しい動きが見え始めるまさに激動の100年なのです。
585年、用明天皇(ようめいてんのう)が即位しますが、この頃には仏教を受け入れるかどうかで実力者の物部守屋(もののべの もりや)と蘇我馬子(そがの うまこ)の間で対立が起こりました。反対派の物部守屋は寺に火を放ったり仏像を投げ捨てたりと強硬手段に出ました。物部氏はなぜここまでかたくなに仏教を拒んだのでしょうか。
古来日本は、神道(しんとう)という独自の信仰を持っていました。これは森羅万象(しんらばんしょう/あらゆるもの)に神が宿ると考える信仰で、祭祀(さいし/神に祈る儀式)を重要視しました。そしてその地に宿る神を祀るために建てられたのが神社です。そして古来日本は神聖なものを安易に形にしてはいけないという考えを持っていました。ですから神社にはお寺のように仏像といった聖なる人を形にした物が無いのです。
そこへ新たな宗教(仏教)が伝えられ、しかも仏教は日本人がタブーとしていた聖なる人を形にした仏像を拝むのです。またこの頃疫病(えきびょう/伝染病)が流行り、仏教反対派の物部氏らは異国の神を信仰したから疫病が流行ったのだと言い、猛反発したのです。
用明天皇の皇子・厩戸皇子(うまやどのおうじ/聖徳太子)は、蘇我馬子とともに物部氏を滅ぼし、その後仏教を公認しました。しかし神道が無くなった訳ではありません。日本人はこれら2つの信仰を同時に持つという、世界でも珍しい民族なのです。私の実家でも阪神大震災で家が全壊するまでは、仏壇と神棚があり、両方を拝んでいました。
587年に用明天皇が亡くなると、異母弟の崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位しましたが、実権は叔父(おじ)にあたる蘇我馬子が握っていました。それを快く思っていない崇峻天皇を馬子は暗殺してしまいました。593年、馬子は崇峻天皇の異母姉で馬子の姪(めい)にあたる、推古天皇(すいこてんのう)を初の女性天皇として即位させました。そして推古天皇の甥(おい)にあたる聖徳太子を摂政(せっしょう)とし、聖徳太子は馬子と共に推古天皇の補佐を行いました。
注) 「摂政」は、通常天皇がまだ幼くて政務が執れない時に、代わりに政務を行うものですが、当時は天皇の補佐役を摂政と呼びました。
589年、隋(ずい)が中国を統一し、強大な国家となりました。聖徳太子は百済など朝鮮半島経由ではなく、直接中国から文物を取り入れようと考え出します。そこで聖徳太子は600年に遣隋使(けんずいし)を派遣しました。ところがこの派遣については『日本書紀』には記載されておらず、中国の『隋書』に使節とのやり取りが記録されています。それによると、日本の政治体制などがまだ未熟であるので改めるよう諭されて返されたようなのです。従って、あまりにも恥ずかしくて『日本書紀』には書き残せなかったのではないでしょうか。
そこで太子は政治体制の改革や、仏教を積極的に取り入れて中国に恥じない国造りに取り組みます。その為にはどうしても克服しなければならない事がありました。それは「漢字」でした。
日本に感じが伝わって2,000年程になります。吉野ヶ里遺跡で発見された小さな銅鏡(邪馬台国参照)に、「久不相見 長母相忘」という漢字が鋳込まれていた事からそれは分かります。ただこれで当時の日本人が漢字を読み書きできたかは分かりませんが、お墓にあのような文面の入った銅鏡を偶然入れたとは考えにくいと思います。少なくとも意味が分かって入れたのだと考えられます。
弥生時代には中国などと交流があった事が中国の記録から分かっています。外国と正式に交流するには文書が必要不可欠です。従ってこの時代に既に日本人が漢字を読み書きできたか、あるいは中国からの渡来人がブレーンとなって補佐をしていたと思われます。
ではなぜ古墳に被葬者の名前を残さなかったのでしょう。古墳時代の項で書きましたが、日本では天皇陵とされる古墳ですらその被葬者が誰であるか分かりません。エジプトのピラミッドのように王の名を記した物が何も埋葬されていないからです。王の名前を残したくても漢字を読み書きできなかったから残せなかったのでしょうか。実はそうではありません。古墳に被葬者の名前を残さなかったのは、日本人の言霊信仰(ことだましんこう)によるものなのです。
古墳時代の項で書いた仁徳天皇などという呼称は中国式の呼び名で、ヤマト言葉では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)と言います。「みこと」は「御言(みこと)」を発するお方(おかた)という意味です。古代の人達は言葉を重視していました。言葉には不思議な力が宿っていると信じられていました。これを言霊(ことだま)と言います。
古代日本人は言葉を発する事を尊び、それを形にする、つまり文字にする事を嫌いました。言葉を形にしてしまうと言葉に宿る不思議な力、つまり言霊が封じ込められてしまうと信じていたのです。従って、言霊を封じ込めてしまう文字(漢字)を嫌い、恐れていたのです。また神聖なものを安易に文字で指し示す事もたぶーでした。つまり古墳に葬られている天皇の名を文字で表す事は、その言霊を封じ込めてしまうのでそれを行わなかったのです。この心理は幕末の日本で、写真を撮られると「魂を抜かれる」と恐れたのに似ています。
そして文字を嫌ったのは古代日本人だけではありません。紀元前5世紀頃にインドで生まれた仏教においてはその教えはブッダから直接弟子達に伝えられました。その教えの全てが収められているとされる大蔵経(だいぞうきょう)は、ブッダが弟子達に口伝えに教えた事が弟子から弟子に伝わり、後に文字として残された物です。インドでも聖なるものを文字にする事を嫌っていたのです。また、教えだけではなくブッダの姿を書き写す事もタブーでした。聖なる人の姿を安易に形にしてはいけなかったのです。従って、仏像ができたのはブッダの死後約500年も後の事です。
この言霊信仰から脱し漢字の普及に貢献したのが聖徳太子です。朝廷に仕える者の心得を漢文で記した十七条憲法や、漢字の肩書きを使って官僚の位を表して朝廷の組織を定めた冠位十二階は、漢字を使ったからこそ成し得た事でした。聖徳太子は漢字の特別な力に気付いていたのです。それは、口伝えではなく文字にすれば正確に伝わりますので、法律などは文字にすれば全国に同じ法律を徹底できます。伝わる間に内容が変わってしまう事が防げるのです。そして太子を言霊信仰から解放したのが仏教でした。
太子は熱心な仏教徒となり、寺を建てて文字で書かれた教本を読み、仏教の普及に努めましたが、人々は太子が仏像を拝むのを見て驚きました。聖なるものを安易に形にしないという日本古来の考えと異なるからです。しかし太子が仏教普及に努めたおかげで、日本古来の言霊信仰の呪縛(じゅばく)が溶け、漢字が普及したのです。
※ NHK 「知るを楽しむ 歴史に好奇心」を参考に書きました。
こうして十七条憲法や冠位十二階など法を整え、漢字や仏教と言った中国文化を取り入れている事を示した上で、607年に聖徳太子は小野妹子(おのの いもこ)らを遣隋使として派遣しました。この時妹子が持参した国書には「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致(いた)す。恙(つつが)無きや。・・・」と書かれていました。この書き出しが読み上げられた瞬間、2代皇帝の煬帝(ようだい)は激怒し、「無礼な国書は今後取り次ぐな」と言って読むのを中止させました。
小野妹子が持参した国書が読み上げられると煬帝は怒りだし、それ以上内容を聞こうともしませんでしたが、何にそんなに腹が立ったのでしょうか。推古天皇を日の出、自分を日没と称したからでしょうか。
実は日の出や日没は単に方角を表しているだけなので、大した問題ではないのです。煬帝が問題としたのは推古天皇にも「天子」という言葉を使ったからなのです。中国は中華思想に基づいて、自分達が世界の中心であって、その皇帝は王の中の王であり、唯一無二(ゆいいつむに/この世に2つとない)の天子であるという考えを持っていたのです。従って煬帝にとっては天子は自分であって、2人もいてはならない存在なのです。
当時中国は中華思想に基づいて、周辺諸国と名目的ではありますが主従関係(もちろん中国が主、周辺諸国が従)を結び、傘下に入った国を正式に国と認め、その国のトップに国王などといった中国の称号を与えました。これを冊封(さくほう)と呼びます。そして冊封を受けた国王は毎年貢物を中国皇帝に捧げ、中国皇帝から恩賜(おんし/お返し)を受けるという形式の貿易体制をとっていました。これを朝貢(ちょうこう)と呼びます。朝鮮半島の国々や、倭国もこういった形で中国と貿易を行って来ました。しかし、聖徳太子は朝鮮半島の国々より一歩先んじる為に、中国とは対等の関係を結びたかったのです。
派遣は再び失敗に終わったと思われましたが、何と翌年妹子らを送り返す時に返礼の使者を付けてきたのです。あれほど怒っていたのになぜ国交の使者を派遣してきたかと言うと、この頃隋は朝鮮半島の高句麗に何度も遠征しましたが失敗に終わっており、さらに高句麗が北の突厥(とっけつ)という国と結んだという事を知らされます。また聖徳太子の仏教の先生が高句麗からの渡来僧である恵慈(えじ)であったため、日本が高句麗と手を結ぶのを恐れたのです。ですからここで日本とは友好関係を結んでおこうと考えたのです。
このように太子は中国の現状を調べ、絶妙のタイミングで使節を派遣したのです。まさに現在の頼りない政治家達が見習うべき外交力です。
『日本書紀』に、聖徳太子が定めたと言われる十七条憲法の内容が記されています。第1条は「和を以て尊しとなす」とあります。これは豪族間の争いをなくして平和な世の中にする事を定め、第2条には「三宝を敬え」とあり、仏(ほとけ)、法(のり)、僧(そう)の三宝を敬え(うやまえ)とし、つまり仏とその教え、僧侶を敬えとしているのです。つまり聖徳太子は仏教を政治の基盤とすることにしたのです。仏教は単なる宗教ではなく、建築技術、工芸、医学など様々な技術的、文化的な側面を持った当時の先端文化であり、それを取り入れる事が今で言う国際化だったのです。
そして国際化を果たすとともに、天皇が最高権力者であり、家臣たる者は規律を持って服従するよう定め、これまでの有力豪族連合体ではなく、天皇をトップとした中央集権体制を整えようとしたのでした。
隋の大運河の建設や、朝鮮半島の高句麗(こうくり)への遠征は民衆を疲弊させ、不満による反乱が各地で起こり、618年隋の二代皇帝煬帝は討たれ、唐が建国しました。唐の都・長安は10キロ四方の大都市で、碁盤の目のように区画整理され、シルクロード経由で世界中の人や物が集まる国際都市でした。
遣唐使船 |
聖徳太子没後の630年から、倭国は遣隋使2替えて遣唐使を派遣します。中国からも使節が来日し、冊封関係、つまりは形式的ではあっても中国皇帝の家臣になるよう求めてきましたが、朝廷はこれを拒否しました。しかし当時の先進国であった唐から先進技術や政治制度、仏教の経典などを取り入れる為に朝貢は行い、10数年から20数年間隔で遣唐使が派遣されました。
注) 冊封を受けなくても朝貢はできました。また朝貢という形を取らないと中国とは貿易できませんでした。詳しくは中華思想と冊封をご覧下さい。
622年に聖徳太子が、628年に推古天皇が亡くなると、天皇家と密接な関係を持っていた蘇我氏は天皇をしのぐほどの権力を持つようになり、次第に勝手気ままな行動をとるようになりました。蘇我馬子が亡くなると、後を継いだ蘇我蝦夷(そがの えみし)がその絶大な権力を受け継ぎ、蝦夷の子・入鹿(いるか)とともに権力を振るいました。
推古天皇没後の有力な皇位継承者は、田村皇子(たむらおうじ)、山背大兄王(やましろのおうえのおう)でした。田村皇子は蘇我氏の血を引かない敏達天皇(びだつてんのう)の皇子でしたが、蘇我氏の血を引く皇子が用明天皇として即位したため天皇とはなれず、用明天皇の次も敏達天皇(びだつてんのう)、推古天皇と蘇我氏の血を引く天皇が即位しました。しかし、推古天皇の皇太子であった聖徳太子が推古天皇よりも先に亡くなってしまい、推古天皇も後継者を決めないままに亡くなってしまいました。そこで上記の二名が次期天皇候補となったのです。
山背大兄王は聖徳太子の皇子で、蘇我氏の血を引く候補でしたが、蘇我蝦夷は蘇我氏の血を引かない田村皇子を舒明天皇(じょめいてんのう)として即位させました。そして実権は蘇我蝦夷、入鹿親子が握りました。その後、舒明天皇の皇后が皇極天皇(こうぎょくてんのう)として即位すると、蝦夷、入鹿親子の専横(せんおう/思いのままに振る舞う事)は激しさを増すばかりでした。
643年、蘇我氏は聖徳太子の子である山背大兄王の一族を殺害しました。山背大兄王一族は蘇我の血を引く家系でしたが、聖徳太子という有力者の子であったため、自らの権力を確固たるものとするため排除したのでした。このような蘇我氏の専横に対し、皇極天皇の皇子である中大兄皇子(なかの おおえのおうじ)が動いたのでした。645年、中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみの かまたり)は、権力を天皇側に取り戻すために実権を握っていた入鹿の暗殺を実行し、蝦夷を自殺に追い込んだのです。これを乙巳の変(いっしのへん)と呼びます。
皇極天皇は息子である中大兄皇子に譲位(じょうい/天皇の座を譲ること)しようとしましたが、中大兄皇子は皇極天皇の弟(中大兄皇子の叔父)を推し、孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位し、中大兄皇子は皇太子となりました。そしてこれまでの有力豪族中心の政治ではなく、天皇を中心とした新たな政治体制を目刺し、大化という日本で最初の元号を定め、奈良飛鳥の有力豪族の政治介入を避けるため、都を飛鳥から摂津国の難波(なにわ)へ移しました。
注) 豪族(ごうぞく)とは、一定の地域に代々住し、地方政治に関わりながら大きな財力を蓄えた地方の有力者のことです。
646年には改新の詔(かいしんのみことのり)が出され、豪族が有していた領地や人民を否定し、全ての田地と人民は天皇の物(公地公民/こうちこうみん)とされ、戸籍(こせき)と計帳(けいちょう/諸税を徴収する際の台帳)を作り、班田収授(はんでんしゅうじゅ)を行う事、税制の改革、豪族の勢力範囲で区分されていた行政単位としての国などを、令制国(りょうせいこく/律令に基づいて分けられた地方行政区分)に区分し直す事などが定められました。この改新の詔をもって大化の改新と呼びます。
新政権は唐を手本とした政策を立て、日本は中央集権的(天皇があらゆる権限を持つ)な律令国家へと歩み出しました。なお、律令については下の律令制をご覧下さい。
注) 「乙巳の変」とは変な名称ですが、これは645年の干支(えと)からついた名称です。干支について詳しくは、姉妹サイトのおさるの日本刀豆知識の干支と年号をご覧下さい。
注) 乙巳の変を含めて大化の改新とする場合もあります。
653年、中大兄皇子は孝徳天皇に飛鳥へ戻る事を進言しましたが受け入れられず、そこで中大兄皇子は飛鳥へ戻るのですがほとんどの臣下もこれに従ったため孝徳天皇は難波で孤立し、翌年病死してしまいました。しかし中大兄皇子は即位せず、皇極天皇が重祚(ちょうそ/退位した天皇が再度天皇となる事)し、斉明天皇(さいめいてんのう)として即位しました。しかし実権は中大兄皇子が握っていました。そして唐や朝鮮半島に使節を派遣するとともに、東北地方に住した蝦夷(えみし)追討のため、三度も軍をはけんしました。
注) 蝦夷(えみし)とは、当時東北地方を中心に住していた人達を指す蔑称(べっしょう/軽蔑して呼ぶ名)です。当時は交通も未発達で、奈良から見た東北は支配が及ばない遠隔地で、東北に住む人達は朝廷の支配を嫌って独自の生活スタイルと文化・風習を持って生活していました。それを良しとしない朝廷は、東北に住む人達を異国人扱いし、このような蔑称で呼んでいたのです。また支配下に入るよう、何度も征服軍を派遣したのです。姉妹サイトのおさるの日本刀豆知識の日本刀の歴史-上古刀の部-奈良時代の項で、蝦夷について詳しく解説しています。なお、この時代(平安時代まで)は、「蝦夷」と書いて「えみし」と読みます。「えぞ」と読む場合は時代も指す地域も異なります(詳しくは先の姉妹サイトのページをご覧下さい)。
そんな中、唐は朝鮮半島の高句麗(こうくり)を何度も攻撃し、また660年には新羅(しらぎ)と手を組み百済(くだら)を滅ぼしました。百済と関係が深かった倭国は、復興を願う百済の勢力と組んで663年に百済再興のために唐・新羅連合軍と朝鮮半島の白村江で戦いましたが、倭国・百済連合軍は敗れました。これを白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)と呼びます。
倭国は敗戦後百済の移民を受け入れました。そして唐・新羅が侵攻してくるかもしれないという考えから、防衛体制を急ピッチで整えていきました。外交及び防衛の拠点である九州の大宰府(だざいふ)を内陸部に移し、高さ10メートルの盛り土を1.4キロに渡って築き、その外側に堀をほって水を溜めた水城(みずき)とし、また九州に防人(さきもり)を送り、瀬戸内海沿岸に石垣や土塁をめぐらせた山城を築くなどして防衛対策を整えていきました。
しかし両国は侵攻してきませんでした。そして朝鮮半島では新羅が高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一すると、新羅と倭国には緊張関係が続きますが、お互いに使節の行き来が行われました。
667年、中大兄皇子は都を大津宮(おおつのみや/滋賀県)に移し、天智天皇(てんちてんのう)として即位しました。しかし、天智天皇は皇位を継承する男子に恵まれませんでした。皇位を継承するのは、皇族か畿内の有力豪族出身の后妃(こうひ/天皇の妻達)が産んだ皇子でしたが、天皇に有能な兄弟がいる場合は兄弟が優先されました。天智天皇には同母弟の大海人皇子(おおあまのみこ)がいたため、大海人皇子が皇太子(こうたいし/次期天皇)とされました。
しかし、初めは弟である大海人皇子を後継者と考えていた天智天皇でしたが、手を付けた采女(うねめ)が産んだ、大友皇子(おおとものみこ)をかわいがるようになり、成人した我が子・大友皇子への期待が大きくなっていきました。そして671年、21歳になった大友皇子を新設された太政大臣(だいじょうだいじん)に任命し、左右大臣には有力豪族の蘇我氏や中臣氏を任じて大友皇子体制を固め始めたのでした。太政大臣は実務官のトップであり、当時に太政大臣に任命されるというのは皇太子となったのと同様の意味を持ちました。
この年の10月、病に伏した天智天皇は病床に大海人皇子を呼び、皇位を譲る意思を示しました。我が子を太政大臣として皇位継承を示しながらも、今度は自分に皇位を譲ると言い出した天智天皇の真意を計りかねた大海人皇子は、身の危険を感じて出家し、わずかの従者を連れて大津宮を脱出し、吉野へと向かいました。
12月に天智天皇が没すると、翌672年5月、朝廷は天智天皇の墓を造るという名目で美濃国(みののくに/岐阜県)・尾張国(おわりのくに/愛知県西半分)の国司に命じて人を集め出しました。これは吉野にいる大海人皇子を攻める準備であるという報告が大海人皇子の元に届いたため、6月に大海人皇子はついに反乱を起こしました。大海人皇子は兵を集めるべく美濃国に使者を送り、東海道、東山道2も使者を送って兵を集めさせ、さらに東国(関東地方)への交通の要所である不破関(ふわのせき/岐阜県不破郡関ヶ原町)をおさえました。
これに対して朝廷側も動き出しました。東国、筑紫(つくし/九州)、吉備国(きびのくに/岡山県、広島県東部)などに使者を送って兵を集めようとしましたが、東国への要所である不破関は大海人皇子側に既におさえられており、筑紫や吉備からは協力を得られませんでした。
また、朝廷に不満を持っていた有力豪族である大伴氏(おおともうじ)は、大津宮を出て大和国(やまとのくに/奈良県)に戻っていました。そして大伴氏は大海人皇子側に付くこととし、東漢氏(やまとのあやうじ)らを味方にし、大和国における朝廷の拠点である飛鳥をおさえました。そして大海人皇子は、諸国から動員した兵を大和国、近江国に向かわせたのでした。
こうして各地で激しい戦闘が起こりましたが、大海人皇子の長男である高市皇子(たけちのみこ)を総指揮官とした軍勢が近江で大勝し、退路を断たれた大友皇子は自害し、ここに大海人皇子の勝利によって戦闘は終了しました。これを壬申の乱(じんしんのらん)と呼びます。そして673年に大海人皇子は天武天皇(てんむてんのう)として即位し、再び都を奈良の飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)に移しました。
注) 天皇という言葉は天武天皇の頃から使われるようになりました。
先の天智天皇の頃から、唐の律令制(りつりょうせい)を手本とした国家作りが始まりました。律令とは「律」と「令」という法の事で、律は今で言う刑法、令は律以外の法、行政法・民法を指します。律令に基づいて作られた政治体制を律令体制と呼びます。
当時は身分が高い者は一夫多妻(多くの妻を持つこと)であり、天武天皇も多くの妻を持ちました。そしてそれぞれの妻に男子が産まれたため、多くの皇子がいました。生年が分かっている皇子で言うと、長男は壬申の乱で活躍した高市皇子(たけちのみこ)、次男は草壁皇子(くさかべのみこ)、三男は大津皇子(おおつのみこ)、四何は舎人親王(とねりしんのう)となります。これらの皇子はみな母親が違う異母兄弟ということになります。
ところが、681年に皇太子(こうたいし/次期天皇第一候補)とされたのは、長男の高市皇子ではなく、次男の草壁皇子でした。その理由は、二人の母親の格の違いでした。草壁皇子の母は天智天皇の皇女でしたが、高市皇子の母は臣下の娘でした。また、草壁皇子の母は天皇の妻の中でも最も格が高い皇后(こうごう)でしたが、高市皇子の母は最も格下の嬪(ひん)だったのです。なお、この草壁皇子の母であり、天武天皇の皇后が後の持統天皇(じとうてんのう)です。
草壁皇子は皇太子となりましたが、異母弟である大津皇子も有力な次期天皇候補でした。大津皇子は体格がよく、学問を好み、優れた文章を書き、謙虚な性格なので人望が厚く、剣(つるぎ)もよくしたとされ、かなり評判の良い人物であったのです。また大津皇子の母は草壁皇子の母(後の持統天皇)の姉であり、本来なら天武天皇の皇后となっていたはずなのです。しかし、大津皇子がまだ幼い時に母は亡くなってしまい、その妹である草壁皇子の母が皇后となったのでした。
やがて大津皇子も政治に参加するようになりましたが、血統的には草壁皇子よりは上の大津皇子の存在は、草壁皇子にとってはおもしろくないものでした。686年に天武天皇が亡くなると、大津皇子は従兄弟にあたる川島皇子(かわしまのみこ/天智天皇の子)によって、謀反(むほん/国家転覆をはかること)の疑いありとして密告され、捕らえられて処刑されてしまいました。
これで草壁皇子は皇位継承者としての地位を確固たるものとしたのでしたが、大津皇子の処刑に対する朝廷内の反発もあってか、すぐには天皇として即位することができませんでした。しかし草壁皇子は天武天皇が進めていた律令の制定を引き継ぎ、早期制定に取り組みましたが、689年に急死してしまったため、同年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)として、律の伴わない令のみが頒布(はんぷ/広く配られる事)されました。そして690年、天武天皇の皇后が持統天皇(じとうてんのう)として即位し、飛鳥浄御原令に基づいて全国的な戸籍(こせき)である庚寅年籍(こういんねんじゃく)が作られました。これ以後6年ごとに戸籍が作られるようになり、この戸籍を基に班田収授(はんでんしゅうじゅ)が行われました。
※班田収授については製作中の「奈良時代」で解説します。
持統天皇は、天武天皇が取りかかっていた藤原京(ふじわらきょう/奈良県橿原市)の造営を引き継ぎ、694年に遷都しました。この藤原京は、平城京や平安京よりも大きな物で、日本史上初の本格的な都でした。この藤原京は碁盤の目のような規則正しい区画整理が成されていて、各豪族達は本拠地から切り離されてこの都に宅地を与えられました。
持統天皇の元では、壬申の乱で活躍した高市皇子(たけちのみこ)が太政大臣(だいじょうだいじん)として政務を執っていました。高市皇子は有力な次期天皇候補でしたが、696年に亡くなってしまい、持統天皇の後を継いだのが文武天皇(もんむてんのう)です。文武天皇は草壁皇子の長男であり、持統天皇の孫にあたります。
文武天皇は、先の飛鳥浄御原令が律を伴っていない事、唐の律令を手本としているため日本の事情に合っていない事から、新たな日本の情勢に合った律令の制定を急ぎました。刑部親王(おさかべしんのう)のもと藤原不比等(ふじわらの ふひと)ら19人が集まって編纂が進められ、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)として完成し、頒布されました。
大宝律令によって、天皇を中心とした中央集権的な政治体制が法的に整い、律令国家体制が整いました。大宝律令には、様々な刑罰や公家の位階(いかい)に関する規定、位階に相当する官職の規定、中央・地方役人の職名・定員、行政単位である郡や里についての規定、戸籍や良民・賤民(せんみん)などの規定、班田収授・税に関する規定、役人の給料や評価、服装などについての規定などが定められています。
※公家の位階や官職、朝廷における仕事内容、班田収授、農民に課された税などは、製作中の「奈良時代」で詳しく解説します。
飛鳥文化は、推古天皇の時代を中心とした仏教文化です。朝鮮半島経由で伝えられた中国文化の影響を受け、飛鳥寺(あすかでら/奈良)や四天王寺(してんのうじ/大阪)などの寺が国家によって建立され、仏教興隆の詔(みことのり/天皇の命令)が下されると次々と私寺が建立されました。寺や仏像を造る技術は朝鮮半島からの渡来人からもたらされました。また紙や墨を造る技術も朝鮮半島の高麗から伝わっています。
ちなみに、箸(はし)を使って食事をするという習慣も、聖徳太子によるものだと言われます。遣隋使が帰国した際、太子に「隋では箸を使って食事をしている」(日本では手づかみで食事をしていた)と報告し、太子が朝廷に進言し、以後箸が使われるようになったと言われています。
遣隋使として隋に渡った小野妹子は返礼の使者と共に帰国しましたが、妹子が返書(推古天皇の出した国書に対する中国皇帝からの返事)を紛失していた事が発覚しました。この大失態に妹子の処罰は免れないと思われましたが、処分される事は有りませんでした。普通なら重い罪が課されても仕方ないはずですので、実はこれは聖徳太子が仕組んだ芝居だという説があります。
中国は中華思想に基づいて、自分達が世界で1番偉いと思っていますので、返礼の国書には推古天皇を見下す文章が書かれていたため紛失した事にしたのだと言うのです。太子は対等外交として遣隋使を派遣しましたが、隋はこれを朝貢として受け止めています。つまり、世界で一番偉い中国皇帝に対し、近隣の未開地から獣に等しい野蛮人が貢ぎ物を持って挨拶に来れば、獣も中華の華の一つになれると考えていたのです。
推古天皇を見下した文章を公にすれば問題となります。そこで太子が介在(かいざい/間に入る事)する事によってこの中国側の考えを太子の胸の中に収め、推古天皇には伝えずに推古天皇の面目も保ち、余計な摩擦を避けたのです。この中国皇帝と日本の天皇との考えのズレ、すなわち中国皇帝は日本を格下であると考えており、日本の天皇は対等であると考えている事が太子が介在する事によってお互いには伝わらず、それによって穏便な日中関係が保てたのです。
およそ1300年も前の、いわば未熟な政府でもこのような外交の駆け引きをおこなっていたのです。現在の政府がどれほど外交下手で腰抜けかが分かるというものです。
『日本書紀』に聖徳太子についての記述として、「兼ねて未然を知ろしめす」という記述があります。つまり未来を知る事ができたと言うのです。また鎌倉時代の『平家物語』には「彼聖徳太子の未来記にも、今日の事こそゆかしけれ」との記述があり、太子の名前と『未来記』と書名が記されています。
『太平記』には楠木正成(くすのき まさしげ)が四天王寺で『未来記』を閲覧したという記述があります。そしてその四天王寺には『太子未来記伝義(たいしみらいきでんぎ)』という南北朝期のものとされる物が所蔵されています。これは楠木正成が1332年に太子の『未来記』を見せてもらった事への礼状で、「正慶二年(1333年)閏二月二十九日 楠木正成 花押」と正成の書名と花押(かおう/サイン)が書かれており、正成が四天王寺に頼み込んで『未来記』を読ませてもらった事が克明に記載されているのです。
物部氏と蘇我氏の仏教をめぐる争いの際、聖徳太子は蘇我氏側に付き戦いましたが、戦況不利になって皆の士気が下がった時に、太子が「この戦いに勝利したら、寺を建てよう」と皆を励まし、仏教の守護神である帝釈天(たいしゃくてん)が住む地の4つの門を守るとされる、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)に祈願し、士気が上がって戦いに勝利したので約束通り建てたのが四天王寺であるという逸話が残っています。このような由緒のある、聖徳太子ゆかりの四天王寺ですから、太子が著したとされる『未来記』が伝わっていて、正成がそれを閲覧したと言う記録が残っているのですから、『未来記』の内容はともかく書物は実際にあったのではないでしょうか。
京都の大谷大学に『未然本記(みぜんほんき)』という書物が保存されており、これが太子の著した『未来記』だという内容のテレビ番組がありました。この書物では、9.11テロ、本能寺の変、太平洋戦争開戦、2030年に小惑星が地球に衝突するなどが予言されているなどという内容でしたが、その記述内容の解釈の仕方によって意味が異なってくるような、抽象的な言い回しでしたので、かつて世間を騒がせた『ノストラダムスの大予言』的な感じがしました。
またこの『未然本記』は、江戸時代に幕府により偽書とされた『先代旧事本紀大成経』の一部であって、編纂者の潮音という僧が処罰されていますので、この『未然本記』の真偽も不明です。ただし、太子が書いたと言われる『未来記』は実は四天王寺に保管されており、これが世に出る時は仏教が終わる時であるという言い伝えがあり、公表できないという説もあります。
そもそも聖徳太子自体が実在しなかったと言う説があります。奈良県明日香村に橘寺(たちばなでら)があります。聖徳太子建立とされ、本尊である木像の聖徳太子座像は重要文化財に指定されています。これは35歳の時の像とされ、太子の像では最古のものと言われています。しかし、私達が一般に聖徳太子だと教えられている、昔の1万円札などに使われていた肖像画(下記写真)とは似ても似つかない像なのです。そして各地にある聖徳太子像もあの肖像画とは全く似ていないのです。
伝 聖徳太子 |
聖徳太子が活躍した100年ほど後の中国唐の宮中を描いた壁画があります。この中にあの有名な太子の肖像画にソックリな、そして服装までほぼ同じな人物が描かれているのです。これは単なる偶然とは言えず、太子の肖像画はこの壁画の人物を使って後世に捏造(ねつぞう)されたという説があるのです。そして今では私達が聖徳太子だと教えられたあの絵は「伝 聖徳太子」と言われるようになっているのです。
大阪府南河内郡太子町にある叡福寺(えいふくじ)に、聖徳太子とその妻、母の3人が葬られているとされる直径50メートルほどの円墳(北古墳)があります。ここは宮内庁により天皇家の陵墓に指定され、厳重に管理されています。明治時代に修復を兼ねた調査が成されましたが、棺(ひつぎ)はあったが遺体は風化してしまって無くなっていたとされ、また入り口をコンクリートで埋めてしまい、中へ入れなくしています。このように意図的に中に入って調査ができないようにしているのは、知られてはならない事があるのではないかと言う事から、この墓は太子信仰を根付かせる為の捏造だという意見があります。
また、太子の功績についても疑問の意見があります。十七条憲法は太子が作成した事で有名で、『日本書紀』にも記載されています。しかしこの時代の日本(倭国)について書かれた中国の『隋書』には、冠位十二階の事は記載されていますが、十七条憲法の記述がありません。また『日本書紀』には十七条憲法の条文が記載されているのですが、その中の第十二条に
十二に曰く、国司・国造、百姓に収斂することなかれ
と書かれていますが、国司(こくし/今で言う県知事)という官職は聖徳太子の時代には無く、701年の大宝律令によって定められた官職なのです。従って十七条憲法は、『日本書紀』編纂時に捏造されたという説があるのです。しかも十七条憲法は『日本書紀』に全文が記載されたのが初見で、これより古い写本などは現存しません。つまり、『日本書紀』に突然現れたのです。肖像画、お墓、実績などこれだけの疑惑があるため、聖徳太子は実在した厩戸皇子(うまやどのおうじ)に有りもしない様々な逸話や実績などを付け加え、カリスマ性を持たせて作り上げられた架空の人物だという説が有るのです。
ではいつ誰が何の為にこんな事をしたのでしょうか。聖徳太子であるとされる肖像画は、太子が活躍した時代より100年ほど後の中国壁画の中の人物にソックリであり、『日本書紀(720年)』に記載されている太子の実績とされる十七条憲法の条文中に出てくる官職名が、大宝律令(701年)によって初めて定められたものである事、聖徳太子という名前自体が太子没後100年以上経って編纂された書物に初めて出てくるという事などから、太子活躍時期からおよそ100年程後、つまり『日本書紀』編纂時に作り上げられたのではないかと言うのです。
そもそも『日本書紀』には、捏造された記述が見られます。大化の改新によって成された様々な政策が記載されていますが、実際これら全てがこの時に実施されたのではなく、『日本書紀』を編纂している時に付け加えて記述されている事があるのです。そこでこの『日本書紀』編纂に関わった人物が怪しいという事で、浮かび上がったのが藤原不比等(ふじわらの ふひと)です。
不比等は藤原鎌足の次男で、藤原氏の祖と言われます。鎌足の子で不比等の子孫だけが『藤原』姓を名乗る事を許され、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の姓である「中臣」姓を名乗る事とされています。不比等は子である藤原四兄弟と共に藤原氏繁栄の基礎を造った人物であり、大宝律令の編纂にも関わっています。
大宝律令を発布したのは文武天皇(もんむてんのう)であり、不比等は文武天皇に娘を嫁がせ、その娘が後の聖武天皇(しょうむてんのう/奈良の大仏を建立した天皇)を産み、別の妻との間に生まれた娘を聖武天皇に嫁がせています。それが光明皇后(こうみょうこうごう)です。聖武天皇と光明皇后との間に生まれた娘が孝謙天皇(こうけんてんのう/後に称徳天皇となって再び即位する)なのです。
これだけを見ても不比等とその一族がどれほど権力を持ち、政治に影響力を持っていたかが分かります。そして『日本書紀』の編集を指揮した舎人親王(とねりしんのう)は、不比等の死後にはその子である藤原四兄弟の政権樹立に協力した人物なのです。これだけの役者が揃えば、『日本書紀』を都合の良い物に仕立てるのはたやすかったのではないでしょうか。
大宝律令は、律令制定の詔(みことのり)発令から20年もかかって成し遂げられた大事業であり、日本で初めて律と令が揃った法令でした。これを守らせる為には朝廷を権威付ける必要があります。そこで実在した厩戸皇子に、カリスマ的な存在感を持たせて架空の聖徳太子に仕立て、実際にはなかった十七条憲法を付け加え、そして失敗に終わった第一回目の遣隋使を削除して朝廷の政策が進んだ物であったようにし、そのカリスマでさえ成し得なかった法の整備を行った現天皇の権威を格上げしようとしたのではないでしょうか。天皇の権威があがると、自ずと藤原家の権威も上がり、一石二鳥だったのではないでしょうか。
しかも厩戸皇子の一族は蘇我氏に滅ぼされているので、厩戸皇子を架空の人物に仕立て上げたところで、誰も知る者はいなかったのです。また、実は不比等の妻は蘇我娼子という蘇我氏の出だったのです。これだけの役者が揃えば、聖徳太子架空説もうなづけるものです。