古刀の部-鎌倉時代
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文治元年(1185年)〜寛喜三年(1231年)
初代将軍源頼朝-四代将軍藤原頼経、二代執権・北条泰時
全盛を極めた平氏政権でしたが、1185年の壇ノ浦の合戦で敗れ滅亡してしまいました。その平氏追討で多大な成果を上げた源義経は、勝手な振る舞いをしたため兄・頼朝の怒りを買い、追討される立場となりました。頼朝は平氏の残党の追討・義経追討を名目として、同年国衙(こくが/県庁)の在庁官人(ざいちょうかんじん)を指揮する権限、荘園・国衙領から、兵糧米(ひょうろうまい/戦い時に必要な食料としての米)を徴収する権利を朝廷から得たのです。
在庁官人とは、受領(ずりょう/県知事)が徴税などの実務を行わせるために雇った現地の有力者であり、彼らは開発領主でありいわゆる武士と呼ばれるようになる者達でした(武士の登場参照)。
その役目を遂行する者として、総追捕使(そうついぶし/後の守護)と国地頭(くにじとう)を国ごとに置く事、それらを任命する権利をも朝廷に認められたのです。つまり義経を追討する為には、義経を探して捕まえる役目が必要で、しかもどこに逃げるか分からないので、全国的にその任務を果たす者(総追捕使)が必要であり、また探索、捕縛するには兵力が必要であるため、国内の在庁官人を招集して指揮する者が必要であり、義経と戦いになった時には食料が必要なので、それを徴収する者(国地頭)も必要であるという理屈だったのです。
地頭は平安時代には既に使われていた言葉で、現地で土地と農民を管理、支配する者を指す言葉です。地頭は当初国ごとに置かれたので国地頭と呼ばれ、総追捕使が兼務しました。これによって全国の軍事・警察権を頼朝が掌握した事になったので、1185年を鎌倉幕府の成立とする考えが生まれました。
源頼朝の政権は鎌倉幕府と呼ばれますが、幕府とは天皇の命によって東夷に向かう軍隊を率いる征夷大将軍が、出先に張った陣という意味で、征夷大将軍は天皇が任命する一官職にすぎません。また、幕府という言葉は江戸時代中期頃に使われ出した言葉であり、当時は鎌倉殿(かまくらどの)と呼ばれ、関東周辺の武士を束ねる棟梁といったものでした。
従って日本の国家元首は天皇であり、特に畿内以西には今だ朝廷の支配が強く及んでいました。鎌倉幕府が開かれた後も各国には朝廷が任命し派遣した受領(ずりょう/県知事)がおり、鎌倉幕府が置いた守護は受領が持つ行政権を侵害するものではありませんでした。そして国衙領・荘園双方において、在地領主→荘園領主という税納入の流れが既に出来上がっている所へ、地頭が割り込んでくるという事に関して受領や荘園領主から反発があったため、国地頭は1186年に廃止され、地頭の設置は平氏から没収した土地に限るようになりました。
1199年に頼朝が死去すると、有力御家人同士の権力闘争が起こりました。二代将軍となったのは頼朝の嫡男・頼家(よりいえ)でしたが、頼朝の乳母(めのと)であったのが比企氏(ひきし)であったため、頼家の乳母も比企能員(ひき よしかず)夫婦が務めました。そのため頼家は比企能員を信頼し重用しました。それに不満を持ったのが頼朝の妻・政子の父である北条時政でした。時政にとって頼家は孫にあたり、時政は頼家の外戚(がいせき)として絶大な権力を有するはずだったからです。
外戚とは母方の親戚のことで、子は母方の実家で育てられたため、母方がその子にとってより大きな影響力を持ったのです。従って、天皇や将軍といった権力者に娘を嫁がせ、男子が産まれてその子が次期天皇や将軍となると、母方の親戚、つまりは祖父が絶大な権力を有する事が出来たのです。平安時代中期に絶大な権力を持った藤原道長なども、娘を天皇の妻にし、娘が男子を産み、その子が天皇になった事によって絶大な権力を得たのです。
注) 乳母は通常「うば」と読みますが、これは母親の代わりに乳を与える役目の女性を指します。皇族や貴族、格が高い武家などは自らが子を育てるのではなく、それにふさわしい者に任せました。その場合、ただ乳を与えるというだけではなく、教育係も兼ねていたため夫婦で務める場合が多く、こういった場合は「めのと」と呼びます。また乳母の実の子とその乳母の乳によって育てられた子は、乳兄弟(ちきょうだい)として、より強いつながりを持った関係となりました。
頼家は能員を重用しながら専制政治を行うようになり、ふまんを持った時政は能員を暗殺し、頼家を伊豆へ流した上で刺客を送って暗殺してしまいました。後を継いで三代将軍となった頼家の弟・実朝(さねとも)も、北条時政の子である義時の策略により暗殺され、源氏嫡流の将軍は三代で絶えました。北条氏は次々と有力御家人を排除し、公家や皇室から名目上だけの将軍を迎えて執権(しっけん)として事実上の実験を握りました。
こうした北条氏の支配を快く思わない後鳥羽上皇は、承久三年(1221年)、時の執権・北条義時追討の院宣(いんぜん/上皇の命令)を各国の武士に出しました。承久の乱(じょうきゅうのらん)の始まりです。
注) 上皇(じょうこう)とは譲位して退いた前天皇を指しますが、平安後期頃から上皇が天皇よりも力を持つようになりました。それは天皇という、何かと制約がある立場とは違って、自由な立場で柔軟な対応が出来たからです。事実上の国王を治天の君(ちてんのきみ)と呼び、時代によってそれは天皇であったり上皇であったり、また法皇(ほうおう/仏門に入った上皇)であったりします。
日本国王である天皇の権威は将軍よりも高く、武士達も朝廷の敵、つまりは朝敵とされる事を何よりも恐れていました。過去に朝敵とされて勝利した例がないからです。従って、朝敵となった義時に味方する御家人はいまいと上皇は考えていたのです。しかし、この度はこれまでとは違い、御家人達は幕府側について戦い、幕府側が勝利したのです。
これは前代未聞の出来事でした。御家人達が朝敵となった北条氏側に付いたのには、頼朝の妻である尼将軍・政子の策略があったのです。
後鳥羽上皇は北条氏さえいなくなれば、鎌倉幕府自体の存続は認めていたので、北条氏追討を命じたのですが、政子はこれを北条氏追討から幕府自体の追討へとすりかえ、朝廷は倒幕のために挙兵したと御家人達に嘘をついたのです。北条氏追討が目的と知れば、御家人達は間違いなく上皇側につくからです。そして上皇に弓引く事をためらっている御家人達に、戦う相手は上皇ではなく、上皇をだまして幕府追討を進めた一部の貴族であるとし、決して上皇に弓引くものではないとしたのです。また今こうして御家人としてあるのは、故・頼朝公の御恩のおかげであり、いまこそその御恩に報いるべきではないですかと御家人達に演説したのです。御家人達は戦う相手が上皇ではないと安心し、幕府側についたという訳です。
これにより朝廷と幕府の関係は逆転し、以後朝廷は何かに付け幕府に伺いを立てなければならなくなったのです。そして後鳥羽上皇の財源であった広大な荘園は没収され幕府管轄となり、乱に加担した公家や武士の所領約3,000ヶ所が没収され、武功があった幕府御家人に分配されたのです。そして大量の御家人達がこれらの所領があった西国へ地頭(じとう)として赴任し、これにより幕府の力は全国に及ぶ事になったのです。
源頼朝の死後、北条氏の策略によって源氏の将軍は三代で絶え、北条氏が幕府の実権を握りました。武士による政治ではなく、王政復古を目指した後鳥羽上皇は、北条氏追討のために北面・西面の武士制度を設けて武士を集め、倒幕の士気を高めるために、全国から刀鍛冶の名匠を京都へ呼び寄せ、月番を決めてそれらの名匠に太刀を打たせました。これを御番鍛冶制度(ごばんかじせいど)と呼びます。
後鳥羽上皇は日本刀の鑑識眼にも優れ、自らも鍛刀し、御番鍛冶が打った太刀や自ら焼き入れを行った太刀を公卿(くぎょう)や殿上人(てんじょうびと)などに与え、大いに士気を高めたと言われます。
御番鍛冶には月番12名のもの、月番24名のもの、隠岐番鍛冶(おきばんかじ)の三種類のものが伝わっていますが、その内容については諸説あり、『正和銘尽(しょうわめいづくし/鎌倉後期の日本刀鑑定書)』などによると、42名の刀工が挙げられます。その内訳は備前国(びぜんのくに)26名、山城国(やましろのくに)7名、備中国(びっちゅうのくに)4名、美作国(みまさかのくに)2名、伯耆国(ほうきのくに)・豊後国(ぶんごのくに)・大和国(やまとのくに)が各1名となり、飛び抜けて備前鍛冶が多くなっています。
通説の御番鍛冶は、奉授工(ほうじゅこう/上皇に鍛刀の手ほどきを行う刀工)として、山城国の粟田口久国、備前国信房の2名があたり、各月の担当鍛冶は次のようになっています。
一月:備前国則宗 |
二月:備中国貞次 |
三月:備前国延房 |
四月:山城国国安 |
五月:備中国恒次 |
六月:山城国国友 |
七月:備前国宗吉 |
八月:備中国次家 |
九月:備前国助宗 |
十月:備前国行国 |
十一月:備前国助成 |
十二月:備前国助延 |
これに閏月(うるうづき)には山城国久国が務めています。閏月とは、当時日本では月の満ち欠けを基準とした太陰暦(たいいんれき)を使用しており、これでは1年は354日となり、実際の1年の長さ(365日)とは11日も短くなります。稲作を糧(かて)としていた日本では、実際の季節の移り変わりと暦が違えば差し障りがあります。そこでこの1年で11日のズレを修正するために、3年に1度1年を13ヶ月とし、そのズレを修正したのです。この追加された1ヶ月を閏月と呼びます。
月番24名の制度に関しては疑問視する向きもありますが、次のようになっています。
一月:備前国包道、備前国師実 |
二月:大和国重弘、備前国延房 |
三月:備前国包近、備前国則次 |
四月:山城国国友、備前国長助 |
五月:備前国行国、豊後国行平 |
六月:備前国近房、備前国吉房 |
七月:備前国朝助、備前国章実 |
八月:備前国包末、備前国朝忠 |
九月:備前国則宗、備中国則真 |
十月:伯耆国宗隆、備前国助延 |
十一月:備前国信房、美作国実経 |
十二月:備前国包助、備前国是助 |
また、隠岐御番鍛冶制度(おきごばんかじせいど)とは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府との戦いである承久の乱(じょうきゅうのらん/1221年)に敗れ、隠岐島に流された際、幕府執権・北条義時が鍛刀好きの後鳥羽上皇のために隠岐に設けた制度であると言われますが、乱後の後鳥羽上皇や身内、上皇に味方した者への厳しい処罰から考えてこれは考えられないとされていますが、それは以下のようになっています。
一・二月:山城国則国 |
三・四月:山城国景国 |
五・六月:山城国国綱 |
七・八月:備前国宗吉 |
九・十月:備前国信正 |
十一・十二月:備前国助則 |
御番鍛冶制度の内容については諸説ありますが、制度自体を疑問視する人はいません。御番鍛冶に選ばれた刀工は、下級貴族なみの権守(ごんのかみ)などといった官位(かんい/官職と位階)や所領を与えられ、刀工の社会的地位は飛躍的に向上しました。それにより刀工達は切磋琢磨(せっさたくま/互いに競争しながら励む事)したため作刀技術も向上し、全国各地に名工が現れ、日本刀黄金期を向かえたのでした。
朝廷に仕える役人は、位階によって序列が定められ、その位階に相当する(ふさわしい)官職が与えられました。位階は最高位の正一位(しょう いちい)から少初位下(しょう しょいの げ)まで30段階もあり、五位以上を貴族と呼びます。
また、守(かみ)とは国司(こくし)の長官のことで、今で言えば県知事のような地位で、定員はもちろん1名です。この官職には四位(しい)、あるいは五位といった下級貴族が任命されました。権(ごん)とは「仮の」といった意味で、権守は定員以外に任命された者を指します。本来の守(かみ)は既に任命済みで空きがない場合、定員以外に任命しました。
功績があった者には褒美(ほうび)を与えなければなりません。貴族や官人にとって褒美とは官位です。しかしたいていの職には誰かが任命されています。そこで仕方なく定員外として任命し、簡単に言えば官職に相当する給料だけを与えるための名目上の官職なのです。
国司は下級貴族とはいっても、貴族と呼ばれる五位と下級官人である六位とでは給料に倍の差がありました。平安時代の内訳は分かりませんが、奈良時代には貴族と呼ばれる特権階級は位階を持つ者の約17パーセントしかいませんでした。御番鍛冶に任命された刀工がいかに厚遇されたかが分かります。ただし権守に任命されたとは言っても、実際に刀工が国司の任務にあたった訳ではありません。これはその刀工に報酬を与えるための名目の役職で、その役職名を名とともに茎に切ることが許され、これは刀工にとってはおおいに名誉なことであり、またこういった太刀は高額で取引されたのです。
後鳥羽天皇が譲位(じょうい/天皇の地位を次代に譲る事)した後、上皇(じょうこう)となって院政を行っていた間に、院や離宮であった水無瀬殿(大阪府水無瀬神宮の地)で自ら作刀し、焼き入れを行ったものを菊御作(きくごさく)と呼びます。これは作者である後鳥羽上皇の名の代わりに、天皇家の紋章である十六葉の菊紋を茎に毛彫りしたことからこう呼ばれます。
またこれとは別に、茎に菊紋と共に「一」の文字を切った、いわゆる菊一文字(きくいちもんじ)という太刀があると言われます。
御番鍛冶を務めた則宗や助宗は、古一文字(こいちもんじ)と称されます。これは、この一派の刀工が後に自らの銘の代わりに「一」の文字を茎に切るようになったため、一文字(いちもんじ)と称されるようになり、この一派の祖である則宗や助宗が古一文字と称されるようになりました。
則宗や助宗は茎(なかご)に菊紋を切る事を許され、一文字と称される所以(ゆえん)となった、「一」の文字とともに菊紋を切ったものが「菊一文字」だとか、後鳥羽上皇が作った太刀には菊紋が切られ、これのお相手をしたのが御番鍛冶であった古一文字の則宗や助宗であったため、これを菊一文字と言うなどと言われます。
これは江戸時代の古剣書の誤記で、それが間違ったまま伝承されたため菊一文字という太刀が存在するように思われていますが、これは菊御作を誤認したものであって、このような太刀は存在しません。古一文字則宗や助宗は個銘のみを切り、「一」の文字を切った物はありません。また菊紋を切ったものもありません。
ただし、兵庫県の淡路島に松帆神社があり、ここには菊紋に「一」の文字を切った、古一文字の則宗作と伝わる菊一文字と称される太刀があり、重要美術品に指定されています。これは菊紋に「一」の文字が切られている事から菊一文字と呼んでも間違いはないかもしれませんが、この太刀は身幅広くガッチリとした姿に華やかな丁子刃を焼いており、その作風から古一文字則宗の作ではなく、鎌倉中期の福岡一文字の作と考えられるのです。従ってこの太刀は鎌倉初期に後鳥羽上皇が自ら作刀して菊紋を切ったいわゆる菊御作ではなく、菊紋は天皇から許されて刀工自らが切ったものであると考えられるのです。
鎌倉中期の福岡一文字吉平の太刀に、茎に菊紋が切られたものがあり、また鎌倉末期の鵜飼派(うかいは)の雲次(うんじ)の太刀にも菊紋を切った太刀がありますが、菊紋が切られたこれらの太刀はどういったものなのでしょうか。
それは、皇室ご用により作刀したものに、許されて刀工自身が菊紋を切ったと考えられます。つまり茎に菊紋を切ったこのような太刀は上皇が直接作刀に関わった菊御作とは異なり、皇室が作刀させたものに刀工が許されて菊紋を切っただけのものなのです。後鳥羽上皇が自ら作刀し菊紋を入れたいわゆる菊御作に、たとえ御番鍛冶に選ばれた刀工であっても、後鳥羽上皇の菊紋に並べて刀工が銘を切るなどあり得ない事なのです。
しかし、松帆神社の太刀は重要美術品に指定されているではないかと言われるかもしれません。重要美術品に指定されているということは、貴重な物だからなのではないのかということになりますが、現在の文化財保護法では文化的、美術的に特に重要な物が重要文化財に指定され、その中でも特に重要な物が国宝に指定されます。重要美術品とは、1950年に現在の文化財保護法が施行される前の、重要美術品等の保存に関する法律に基づいて指定されていたもので、1950年に文化財保護法が施行されるとこの重要美術品等の保存に関する法律は廃止されました。
そして文化財保護法に基づいて、1949年以前の国法はいったん重要文化財とされ、その中で特に重要なものが改めて国法に指定されました。そして重要美術品に認定されていたものは、文化財保護法が施行された後でもしばらくはそのままとし、再度選考し直して重要文化財に格上げするか、重要美術品の認定を取り消しにする事になっていましたが、関係者の反発により進んでいないのが現状なのです。従って重要美術品というのは重要文化財に格上げされなかった物ということになるのです。
後鳥羽上皇が自ら関わって作刀したとされる菊御作は現存しており、京都国立博物館がしょぞうしており現在重要文化財に指定されています。
平安後期頃からは、武士と主従関係にある郎党(ろうとう)や、私的な使用人である所従(しょじゅう)らも主人と共に戦闘に参加するようになりました。彼らは騎馬武者の主人を守るため、胴に草摺(くさずり)が付いただけの簡素な腹巻(胴丸)を着用し、長刀(なぎなた)などを持ち、裸足で身軽に走り回って戦ったため、足軽と呼ばれました。そしてこういった歩兵である足軽達は鎌倉時代に入るといっそうその活躍の場が増えました。
鎌倉に幕府が開かれた後も、頼朝の死後には有力御家人同士の争いが多発します。鎌倉という地に住した者同士の争いのためいわゆる市街地戦となり、敵の騎兵が自分の屋敷近くへ入って来られないよう道をふさぐなどの対策をしたため、歩兵の出番となったのです。平安時代には、菖蒲造りの刀に長い柄を付けた物を長刀(なぎなた)と呼んで使用しましたが、鎌倉時代には大きく刀身を反らせた、現在一般的に薙刀(なぎなた)と呼ばれる物が現れ、足軽達は薙刀なども使用しましたが、弓も武器として使用しました。こういったいわゆる雑兵(ぞうひょう)を大量に動員し、弓や打物(うちもの/刀や薙刀など打ち合って戦う武器)を持たせた集団戦が行われるようになっていくのです。
鎌倉時代初期の太刀姿は、平安時代のいわば上品な姿からこの後の鎌倉中期の豪壮な姿への過渡期に当たります。反りは平安時代のようにはばき元でいきなり倒れるように反るものではないですが、やはり腰反り強くなり、反りの中心は前期よりも少し上に移動していきます。元幅と先幅の差は前代ほどではありませんが、それでも1対0.7ほどでやはり踏ん張りのある姿となっています。切先は少し伸びてきて強さが増してきています。この時代の太刀の寸法は二尺六寸くらい(約79センチ)が定寸です。
後鳥羽上皇の御番鍛冶制度により京都に各国の名工が集まり、京都は刀剣製作の中心地となりました。この時代に粟田口一派によって山城伝が完成します。
粟田口(あわたぐち)一派は、京都の東山区北端の粟田口で、三条一派と交代するように栄えた一派です。国家(くにいえ)を祖とするとされ、国家には国友、久国、国安、国清、有国、国綱の6人の子があり、いずれも名匠として知られます。粟田口一派の特徴は何と言ってもその地肌にあります。梨子地肌に細かな地沸が一面に付き、粟田口の地肌は五ヶ伝中で最高峰と言われます。また短刀の名品を数多く作った一派としても有名です。
粟田口久国の作風 |
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久国の太刀(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
上の写真は徳川家康の形見として紀州徳川家に渡り、その後分家の四国松平家に伝来した太刀で、国家の次男であり後鳥羽上皇の奉授工を務めた名匠・久国(ひさくに)の二尺六寸五分三厘の太刀で、現在国宝に指定されています。
茎は拵に合わせて反りを少し伏せていますので、生ぶ(うぶ/作られた時のまま)ではありません。茎を伏せるとは、太刀の時代が終わって刀の時代になると、太刀を佩く(はく/腰からぶらさげる)ことはなくなり、刀同様に腰に差すようになりますが、そのためには刀用の拵に入れなければなりません。しかし太刀は反りが強いのでそのまま刀の拵を作ると、刀を帯に差した時に柄が下を向いてしまい、使い勝手が悪いとともに見た目が悪いので、茎を熱して叩いてそりを少なくするのです。このような行為は現在では絶対にしない残念な行為ですが、刀が実用品であった当時としてはやむを得なかったのです。
この太刀は姿は平安後期よりも幾分強みを増して、地肌は小板目がよく詰んで地沸が一面に付いた梨子地肌となり、湯走りが地沸の中に川のように長く現れ(これを山城伝湯走りと呼びます)、直刃仕立ての小丁子乱れに小乱れが交じり、足が入ります。焼き幅も幾分広くなり、鋩子は小丸、大丸などで刃文に従って変化を見せ、返りは少ないです。
国安の太刀(重要文化財) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
粟田口国安(あわたぐちくにやす)は、国家の三男で粟田口久国の弟にあたり、2人の兄と共に後鳥羽上皇の御番鍛冶に選ばれている名匠です。上の写真は、刃長二尺五寸九分(78.48センチ)、反り一寸(3.03センチ)、元幅九分(2.72センチ)、先幅5分6厘(1.7センチ)、鎬造りで庵棟(いおりむね)となり、腰反り高く踏ん張りのある姿となっています。地肌は板目に杢目が交じりやや肌立ちぎみで、刃文は直刃仕立てに小乱れや小丁子が交じり、砂流しや金筋などの働きが見られます。この太刀は現在重要文化財に指定されています。
則国の太刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
粟田口則国(あわたぐちのりくに)は、粟田口6兄弟の長男・国友の子で、後鳥羽上皇の隠岐御番鍛冶を務めたとされる名匠です。上の写真は因幡国(いなばのくに/鳥取県東部)の池田家伝来の則国の太刀で、約17センチ(約五寸六分)磨上げられて二尺四寸六分五厘(74.69センチ)、反り七分三厘(2.2センチ)、元幅九分(2.73センチ)、先幅六分(1.82センチ)となっています。
腰反り高く踏ん張りがある姿で、小板目が最もよく詰んで細かな地沸(じにえ)が付いた美しい粟田口一派特有の地肌となり、刃文は細直刃仕立てで浅く湾れて小乱れ交じり、足(あし)、葉(よう)が入り、金筋しきりに働く見事な作になっています。
青江(あおえ)鍛冶は、備中国の青江に住した一派で、平安後期から南北朝期に渡って隣国の備前鍛冶と共に栄えた一派です。そして平安後期から鎌倉初期の青江鍛冶を古青江(こあおえ)と呼びます。青江という地名が現在のどこにあたるのかについては諸説ありますが、岡山市北部の子位庄、万寿庄と呼ばれた青江の地に住した鍛冶と、岡山市の西南部にあたる、妹尾(せのお)と呼ばれる地域に住した鍛冶を含めて青江鍛冶と呼ぶのが一般的です。
青江に住した守次を祖とする一派には、後鳥羽上皇の御番鍛冶を務めた貞次(さだつぐ)、恒次(つねつぐ)などがおり、妹尾に住した則高を祖とする一派には、常遠(つねとう)、正恒(まさつね)などがいます。この青江鍛冶と称される鍛冶でも、守次を祖とする一派と則高を祖とする妹尾鍛冶とではその作風に違いがあります。
古青江の作風は、腰反り深い踏ん張りある姿で、地肌はチリチリと肌立った縮緬肌(ちりめんはだ)となり、澄鉄(すみがね)と呼ばれる周囲とは異なった黒い異質の鉄が現れ、匂本位ですが沸がよく付き、直刃仕立ての小乱れに小互の目交じりの刃文を焼き、山城伝風の作風となり、逆足(さかあし/切先方向に伸びる足)が入り、銘を刀銘(太刀の佩裏)に二字銘に切り(守次のみ太刀銘)、鑢目が大筋違いとなるのが特徴です。
一方、妹尾鍛冶系は銘は佩表(はきおもて)に切り、鑢目は切となり、隣国備前の長船や福岡により近いため、古備前風の作風を見せています。
南北朝期まで栄えた青江鍛冶でしたが、室町時代になると跡形も無く消滅してしまい、青江という地がどこを指すのかさえ分からなくなってしまいました。その理由としては、青江鍛冶は南北朝の争乱期に敗北した南朝に付いた武士達の庇護下にあったためだとも言われます。
注) 澄鉄は鯰肌(なまずはだ)とも呼ばれ、鏡のように澄んだ異鉄が小さく丸く現れたものです。
澄鉄 |
逆足 |
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貞次の太刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
貞次(さだつぐ)は青江に住した守次の子で、御番鍛冶に選ばれた名工です。写真の太刀は刃長二尺五寸四分四厘(77.1センチ)、反り七分九厘(2.4センチ)、元幅九分三厘(2.8センチ)、先幅五分六厘(1.7センチ)で、先幅と元幅の対比が1対0.6となった小切先で腰反り高く踏ん張りがある姿となった太刀です。
地肌は青江の特徴である板目に杢まじり、地沸(じにえ)がよくついて地景(ちけい)を交えたいわゆる縮緬肌(ちりめんはだ)となり、刃文は細直刃仕立てで小乱れ交じり、小足(こあし)が入って小沸付き、茎(なかご)は生ぶ(うぶ)で鑢目は大筋違いとなり、銘(めい)は一般とは逆の佩裏(はきうら)に二字銘を切った古青江の典型作となっています。
恒次(つねつぐ)は貞次の弟にあたり、御番鍛冶に選ばれた名工です。天下五剣の1つである数珠丸(じゅずまる)の作者としても有名です。数珠丸は日蓮(にちれん)の愛刀としても有名で、二尺六寸七分、元身幅と先身幅は1対0.5ほどで、腰反り深く踏ん張りがある太刀姿で、地肌は小板目よく詰んで淡く乱れ映り立ち、直刃仕立てに小丁子交じって足が入り小沸(こにえ)付き、鋩子(ぼうし)は小丸に返っています。茎は生ぶで鑢目は切(きり)、佩表に恒次と二字銘を切っています。
名物 数珠丸恒次(重要文化財) |
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ここで「あれ?」と思った方があると思います。古青江は鑢目は大筋違い、銘は佩裏に切るのが特徴なのです。しかし数珠丸は鑢目は切、佩表に銘を切っているのです。実は同時代に古備前一派にも恒次がいるのです。古備前では鑢目は切、銘は佩表に切ります。従って数珠丸は古青江の恒次ではなく、古備前の恒次であるとも言われています。古備前鍛冶と古青江鍛冶の作風は同じく山城伝風の小沸出来のものであり、どちらも国名や年紀を切った物がないため、ハッキリとした特徴を示した物以外は実は両者を明確に区別するのは難しいのです。しかも青江鍛冶と称される鍛冶の中には前述の通り妹尾鍛冶がおり、妹尾鍛冶はより備前に近いため鑢目は切、佩表(はきおもて)に銘を切るため、より判別が難しいのです。従って数珠丸は古備前、古青江、妹尾鍛冶の作などの説があり、今だ決着していないのです。
なお数珠丸の名の由来は、日蓮が身延山を開く際に信者からこの太刀を寄進され、日蓮はいつもこの太刀を佩用し、柄に数珠をかけていたことから数珠丸の名が付いたとされています。
大和物の作は寺社の興亡と運命を共にしたため現存数が少なく、下の写真は古千手院の在銘物で一番古いとされている重行(しげゆき)の太刀です。銘は「大和国住人」以下は朽ちて判別できません。地肌は板目が流れて柾がかり、刃文は細直刃に小乱れ混じり、砂流し、金筋、打ちのけなど働き豊富な作となっています。
重行の太刀 |
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至文堂「日本の美術」137より |
古今伝授の行平(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
行平(ゆきひら)は平安末期から鎌倉初期の刀工で、豊前国彦山の僧鍛冶である定秀の子あるいは弟子と言われます。定秀は紀太夫(きのたいふ)と言い、祖先は紀貫之(きの つらゆき)らと同族であると言われ、豊後国の豪族として代々郡司を務めた一族でした。定秀は、鎮西八郎と称して九州で暴れていた源為朝(みなもとの ためとも)に従って上京し、保元の乱で為朝が味方した崇徳上皇側が破れると奈良の東大寺へのがれ、出家(しゅっけ/お坊さんになる事)し、千手院一派に鍛刀を習い、後に彦山に迎えられて三千坊の学頭を務めるかたわら千手院の伝法を伝えました。
注) 「紀太夫」の読み方ですが、大和伝の祖は舞草鍛冶?の項に出てきた、「奥州山の目の四郎太夫」という舞草鍛冶の場合は「しろうたゆう」とふりがなを書きました。ここではなぜ「きのたいふ」なのかというと、これは「紀」という、血筋を表す氏(うじ)に付いた「太夫」ですので、この「太夫」は五位以上の位階を持つ人を表す「大夫」だと判断しましたので、「たいふ」とふりがなを書きました。これらについて詳しくは大夫と太夫をご覧下さい。
行平は定秀の子とされますが、『豊後鍛冶系譜』では定秀の弟の子、つまり甥(おい)とし、後に定秀の養子となったとしています。源平の争乱に際し、行平は上野国(こうずけのくに/群馬県)に流罪となり16年間ここで暮らしました。そして許されて帰国の際に後鳥羽上皇に拝謁し、御番鍛冶に選ばれたと言われます。
上の行平の太刀は、刃長二尺六寸四分(79.9センチ)、反り九分六厘(2.9センチ)で、鎬造りで庵棟となり、腰反り高く踏ん張りある姿となっています。地肌は板目肌が流れて良く詰み、細かな地沸がつき潤いのある地鉄となり、九州物に共通する白けこころを見せ、刃文は直刃仕立てに小乱れ交じり、匂口(においぐち)がうるみこころに沸がつき、大きく焼き落しています。
帽子(ぼうし)は焼詰こころに掃掛となり、表裏に棒樋を掻き流し、表の腰元には梵字(ぼんじ)、その下に真の倶利伽羅(しんのくりから)を、裏にも梵字とその下にヘンテコな仏像が彫られています。こういった刀身彫刻はこの時代には大変珍しく、行平は刀身彫刻の祖とも言われます。また茎は生ぶ茎で雉子股形となり、佩裏(はきうら)の棟寄りに「豊後国行平作」と長銘に切っています。通常、この時代の太刀は佩表に銘を切るのが普通ですが、行平は裏に切り、これが行平の特徴でもあります。
この行平の太刀は細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)の愛刀でした。幽斎は細川藩の祖であり、武将でもあり歌人でもあり、鎌倉時代初期の藤原定家(ふじわらの さだいえ)の歌道伝承者でもありました。
関ヶ原の合戦の決戦前、東軍に付いた幽斎は丹後国の田辺城に籠城(ろうじょう)し、西軍がこれを攻める戦いが起こりました。この戦いによって幽斎が死亡してしまうと、古今伝授(こきんでんじゅ)、すなわち定家の歌道伝承がとだえてしまうことを恐れた後陽成天皇(ごようぜいてんのう)は、烏丸光広(からすまる みつひろ)らを勅使(ちょくし)として派遣し、講和(こうわ/仲直り)を命じたのでした。そして幽斎は烏丸光広に古今伝授を行いその証としてこの行平の太刀を贈ったと言われます。そして昭和になってこの太刀が売りに出された際、幽斎の子孫が買い上げて再び細川家に戻りました。
一文字(いちもんじ)とは、古備前鍛冶を祖とし、長船に隣接する備前福岡の地で鍛刀し、栄えた一派で、その多くが太刀銘(佩表)に「一」と切ることから一文字と呼ばれます。鎌倉初期に備前国福岡で栄えた一文字鍛冶を、福岡一文字(ふくおかいちもんじ)と呼びますが、始祖である則宗、助宗、信房ら古調な作風を特に古一文字(こいちもんじ)と呼び、鎌倉中期に栄えた福岡一文字と区別しています。
則宗とその一門が後鳥羽上皇の御番鍛冶に選ばれ、大いに栄えました。
ちなみに、九州の福岡は、この備前福岡にちなんで付けられた名前です。
古一文字の作風 |
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則宗の太刀(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
上の写真は、東京にある山王さんの名で知られる日枝神社(ひえじんじゃ)に、八代将軍吉宗が寄進した古一文字則宗(のりむね)の太刀で、現在国宝に指定されています。
二尺六寸、元幅と先幅は1対0.6ほどであり、やや細めの太刀で、平安後期の古調な姿を残しています。小板目がよく詰んだ地肌に、直刃仕立てに小丁子や小乱が混じり、よく足が入り、乱れ映りが立っています。茎は生ぶで則宗作中屈指の名刀です。
鎌倉時代になると、備前伝では下の絵のような直刃調の小丁子乱れ(こちょうじみだれ)を焼くようになります。丁子乱れとは、焼刃の頭(かしら)の部分が丁子の実に似ていることから付けられた名で、丁子の実は奈良時代から既に輸入されていて、香料としてまたその油を刀剣用の手入れ油として使用しています。なお、備前伝は匂本位(においほんい)の伝法ですが、鎌倉初期までの備前伝は小沸出来になっていることに注意が必要です。
小丁子乱れ |
丁子の実 |
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謙信助宗(重要文化財) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
古一文字助宗(こいちもんじすけむね)は、則宗の子あるいは弟と言われ、則宗と共に後鳥羽上皇の御番鍛冶に任じられた名匠です。上の写真は山形県米沢市の松岬神社の社宝である助宗の太刀です。この太刀は備前刀愛好家であった上杉謙信愛用の一振で、のちに景勝に伝えられましたが、明治時代に上杉家が藩祖・謙信を祭る松岬神社に奉納したものです。
この太刀は刃長二尺七寸七分九厘(84.15センチ)、反り一寸(3.03センチ)、元幅一寸(3.03センチ)、先幅六分五厘(1.9センチ)で、鎬造りで丸棟となり、細身で腰反り高く踏ん張りある姿となっています。
地肌は小板目がよく詰んで地沸(じにえ)つき、淡く乱れ映りが立っています。刃文は直刃仕立てで浅く湾れて小丁子交じり、足よく入って砂流しかかり、帽子(ぼうし)は小丸に返っています。表裏には樋(ひ)を掻き流し、茎(なかご)は雉子股形(きじももがた)で生ぶ茎(うぶなかご/作られた当時のままの茎)です。
この助宗の太刀は、生ぶ茎の姿を残した助宗の貴重な太刀であり、また優れた作となっています。
<山城国>粟田口国友、久国、国安、国綱(のち相模国へ下向)
<大和国>古千手院一派
<出羽国>月山
<備前国>末古備前、古一文字則宗、助宗、福岡一文字助房、吉房
<備中国>古青江貞次、恒次、正恒
<豊後国>行平
<薩摩国>古波平行安
貞永元年(1232年)〜弘安十年(1287年)
四代将軍藤原頼経、二代執権北条泰時-七代将軍惟康親王、九代執権北条貞時
鎌倉幕府を開いた源頼朝でしたが、源氏の将軍は三代で絶え、幕府は四代将軍を皇族から迎えようと朝廷に申し入れましたが拒否され、頼朝の妹の血筋にあたる、五摂家(ごせっけ)の一つである九条家の藤原頼経(ふじわらの よりつね)が四代将軍として迎えられました。しかし頼経はまだ2歳であったため、これは北条氏が実権を握るためのお飾り的な将軍でした。
1226年、頼経は将軍宣下を受けて正式に鎌倉幕府四代将軍となりましたが、実朝が暗殺されてから承久の乱を経て、頼経が将軍となるまでの7年間は将軍不在で、頼朝の妻・政子が代行し、尼将軍と呼ばれました。
注) 五摂家とは近衛(このえ)、九条(くじょう)、一条(いちじょう)、二条(にじょう)、鷹司(たかつかさ)の五家を指し、これら五家は平安時代に全盛を極めた藤原道長の嫡流で、摂政・関白、太政大臣に昇任できる公家の最高家格を持った家で、摂関家(せっかんけ)とも呼ばれます。
一方、北条氏内では権力争いが起こりつつありました。当時は一夫多妻でしたので、母親が違う兄弟が多数おり、これら兄弟の争いが多かったのです。三代執権北条泰時(ほうじょう やすとき)は、二代執権・北条義時の子で御成敗式目を制定した事で有名な人物でしたが、泰時は父・義時の側室の子でした。そして泰時が1242年に亡くなると、泰時の長男・次男は既に亡くなっていたため、長男の子・経時(つねとき)が四代執権となりました。
しかしこれを不満に思ったのが北条光時(ほうじょう みつとき)でした。三代執権泰時は側室の子でしたが長男であったため執権を継ぎましたが、正室の子でありながら次男であった朝時(ともとき)は後を継げませんでした。光時は朝時の子で、側室の子であった泰時が亡くなり、長男、次男も亡くなっているのであるから、正室の血を引く朝時系が後を継ぐのが正当ではないかと思ったのです。
また、幼かった頼経も成人となり、お飾りではなく自ら政治を行う意思を持つようになり、北条氏の執権政治に不信感を抱くようになりました。それを恐れた執権・経時は、1244年頼経を将軍の座から引きずり下ろし、頼経の子である頼嗣(よりつぐ)を将軍とし、経時は病気を理由に弟の時頼(ときより)に執権を譲った後に急死してしまいました。経時の死を契機に光時は反執権派の御家人らとともに執権・時頼打倒を計るも失敗し、反執権派は一掃されました。また、時頼は執権を退いた後も政治の実権を握り続けたため、執権ではなく北条氏の中でも嫡流である得宗(とくそう/本家)に権力が集中するようになり、幕府の最高権力者は執権ではなく得宗へと移行していったのです。
こうした幕府の内紛が絶えない鎌倉中期も終わりに近づいた頃、文永・弘安の役(1274年・1281年)が起こりました。いわゆる元寇(げんこう)です。元(モンゴル帝国)が、服属国である高麗(こうらい/当時の朝鮮半島の統一国)にそそのかされ、日本に侵攻しようとして来たのです。
当時中国は中華思想に基づいて、冊封体制(さくほうたいせい)下にある近隣諸国と、朝貢(ちょうこう)という形で貿易を行っていました。中華思想とは、中国が世界の中心であり、中国の思想や文化のみが価値あるものであり、漢民族以外の文化などには何の価値もなく、漢民族以外は未開の野蛮人であり獣にも等しいが、中国皇帝の徳を慕ってくれば、そんな獣に等しい者達も文明人になることができるという考えです。
これは何百年も前の話ですが、どうやら中国や朝鮮半島は未だにこのような思想を持っているようです。
注) 日本において、朝廷が東北地方に住む人達を蝦夷(えみし)と蔑称したのも、古くにこういった中国的な思想や制度などを取り入れていた事によります。また、中国の属国としての歴史が長い朝鮮半島も、基本的に同じような思想を持っています。
こういった思想は中国統一王朝に等しくあった思想で、元も例外ではありませんでした。そこで元は日本も冊封を受け、朝貢するよう使者を送ってきたのです。しかし、幕府は度重なる使者の派遣を無視し、その返事は元には送られませんでした。そこで元は実力行使に出たのです。
文永十一年(1274年)、元・高麗連合軍は対馬に上陸し、男は殺害し、女はみな手のひらに穴を空けて紐を通し、船のへりに打ち付けたと言われます。また高麗の大将・金方慶(キム・バンギョン)は、この時捕虜としてとらえた子供の男女200人を連れ帰り、高麗王などに献上しています。朝鮮人お得意の拉致は、この頃から既に行われていたのです。
その後、元・高麗連合軍は壱岐(いき)を襲い、博多湾へやってきたのです。鎌倉幕府は九州の御家人を中心に動員し、御家人達は博多湾に上陸した元・高麗連合軍と戦いました。この戦いにおいて、日本側は一騎討ちを望んだところ、元軍らによる集団攻撃を受け、大きな被害を出したなどと言われますが、平安時代の戦闘でも解説しました通り、平安後期には既に大量の歩兵を動員した集団戦が行われており、騎馬武者の一騎討ちなどは特殊な場合を除いては行われませんでした。大きな被害を受けたのは、「てつはう」と呼ばれる、今で言う手榴弾のような未知の爆弾によるものだったのではないかと思われます。
元軍らとの戦いは、集団による激しい弓射戦であったようですが、なぜか二日後には元軍らは撤退して姿を消していました。その理由には様々な説がありますが、左副元帥が射撃されて負傷したこともあり、思わぬ苦戦に撤退したのでしょう。しかし、安全に航海できる日を待たずにあわてて出航したため海上で暴風雨に遭い、岸壁に衝突するなどして元・高麗連合軍は13,500人もの死者を出すという多大な被害を受けたのでした。
元・高麗連合軍が急に撤退したため、かろうじて危機を切り抜けた鎌倉幕府でしたが、幕府は御家人達の国土防衛意識の薄さに怒りをおぼえました。御家人の中には、こういった非常時に自分の所領を守るために出陣せずに屋敷にこもる者もいれば、出陣しても身内の喪中だとして戦闘に参加しない者などもおり、幕府をあきれさせたのです。そこで幕府は再び元が侵攻して来た場合を考え、いざという時の兵士動員体制を整える必要に迫られました。
幕府は命令に対して戦闘に参加しない御家人を罰する法を整備するとともに、貴族や有力寺社が所有する荘園内の非御家人までも徴兵する施策などを整えていきました。また文永の役でやすやすと上陸させてしまった事への対策として、上陸を阻止する防塁(ぼうるい/防御用の土塁)を築く事とし、この工事は御家人に負担させ、御家人が所有する田地一反につき一寸、一町につき一尺を負担させました。この防塁は高い所で高さが約3メートルあり、20キロにも及ぶ防塁が確認されています。
注) 反(たん)は面積を表す単位で、一版は300坪となります。縦六尺(約1.8メートル)×横三尺(約90センチ)の畳二枚がおよそ一坪(3.3平方メートルにあたりますので、300坪は600畳となります。また十反が一町となります。
翌年、元はこりずにまた使者を派遣してきましたが、幕府はこれらの使者を斬り捨てました。それを知らずに1279年、再度大宰府へ使者がやってきました。大宰府はこの使者をやはり斬り捨てました。元はこの頃には南に位置する王朝・南宋(なんそう)を滅ぼし、その巨大な海軍を手中にしており、使者斬殺を知った元は再度日本へ侵攻する計画を立てるのです。
弘安四年(1281年)、元・高麗連合軍およそ5万、軍船900艘、南宋を主力とする兵およそ10万と軍船3500艘、合計15万の兵と4400艘の軍船が再び日本へ向け出港しました。博多湾へ侵入し上陸しようとした元・高麗連合軍でしたが、幕府が築かせた防塁と、臨戦態勢の御家人達にはばまれて上陸出来ませんでした。
そこで元・高麗連合軍は博多湾の北にある志賀島(しかのしま)へと向かったのです。この島は陸続きとなっていたからです。志賀島では日本軍は陸と海の両方から攻撃し、3日に渡って激戦が繰り広げられましたが、元・高麗軍は敗走して壱岐へ後退し、南宋軍と合流して再度侵攻することにしたのです。
しかし、事前に打ち合わせていた合流日になっても南宋軍は現れず、その間に元・高麗軍の船内で疫病が広まって3,000人以上が死亡するという状態となっていました。それから2週間経っても南宋軍は現れず、やっと到着したのは先鋒隊で、南宋軍は壱岐ではなく、船を着けやすい平戸島へ向かい、そこで合流して本土へ攻め込もうと伝達してきたのです。元・高麗連合軍はようやく南宋軍と合流し、日本軍と戦いを繰り広げますが、台風が5日に渡って海上の元軍らを襲い、大打撃を受けた元軍らは撤退したのでした。
二度にわたる侵攻を食い止めた鎌倉幕府でしたが、元軍らが再度侵攻して来るかもしれないため、防衛策は継続されました。しかし、上陸を阻止するために築かれた防塁や、戦いの際にかかる費用は全て御家人負担であり、戦闘態勢を継続するにはかなりの負担となっていました。また御家人の経済基盤である所領は、女性を含めた分割相続であり、祖父や父が所有していた頃に比べると、相続する土地はその立場によってかなり小さなものになってしまいました。そして貨幣経済が農民にまで普及するに従って、御家人達は狭い所領を切り売りしながら貨幣を得なければならなくなり、ますます貧しくなっていくのです。
このような状況の中、鎌倉幕府はこれまで刀剣の作成を全国の刀工に依頼していましたが、鎌倉幕府五代執権北条時頼は鎌倉での作刀の必要性を感じ、山城国から粟田口国綱、備前国から国宗、福岡一文字助真らを一族と共に鎌倉へ招き(これらの刀工の下向の時期については諸説あります)、鎌倉は山城国、備前国、大和国と共に鍛刀の一大中心地になりました。そして国綱、国宗、助真らによって相州伝の基礎が作られるのです。
鎌倉幕府が成立してからも続いた御家人同士の争い、元寇という海外からの侵攻を受けた鎌倉中期には、太刀の姿は平安時代の優しい王朝文化の名残を捨て、武士向きの強さをさらに強化したものへと変化します。
元身幅と先身幅の差が少なくなり、そのため身幅が広くなり重ねも厚くなります。元身幅と先身幅に差がなくなったため切先は大きくなりますが伸びず、猪首切先(いくびきっさき/下の図参照)となり、刃肉のたっぷり付いた蛤刃(はまぐりば)になってきます。蛤刃とは、刀の断面の刃の部分が蛤のようにモッコリしているものを指します。
反りは腰反りですが平安期のようなはばき元で急に倒れるようなものではなく、上の方に上がってきています。茎の比率も前期に比べて若干長くなっています。
刃文は総体的に華やかさが目立ってきます。特に備前の福岡一文字一派は図のような大房丁子(おおふさちょうじ)、重花丁子(じゅうかちょうじ)などを焼き、大いに流行しています。
また、このころから盛んに短刀が造られるようになりました。特徴は、平造りで内反り(うちぞり)で、長さは八寸前後です。内反りとは、もともとはまっすぐであったものが、度々研磨されることによって重ねの薄い先端の方が早く研ぎ減って、内側(刃側)に傾いたように見えるものです。下の写真は、短刀の名手として名高い山城国の粟田口吉光とその父と言われる国吉の短刀です。
鎌倉中期の短刀の姿 |
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国吉の短刀 |
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吉光の短刀 |
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徳間書店「日本刀全集」第五巻より |
粟田口国吉(あわたぐちくによし)は、鎌倉初期に起こった粟田口派の祖である国家の長男・国友の子である則国の子です。短刀を得意とし、長短様々な物を作っています。有名な物に「鳴狐(なりぎつね)」と呼ばれる一尺七寸八分の腰刀があります。寸法的には脇差なのですが、この時代には脇差はありませんので、鎌倉後期以降に流行する寸法が延びた腰刀の先駆けと考えられます。
平造りで刀銘に「左兵衛尉藤国吉」と銘を切っています。ちなみに「左兵衛尉」は「さひょうえのじょう」と読み、律令制下の中央の軍事組織である六衛府(ろくえふ)のひとつである、兵衛府の判官(はんがん/三等官)を指します。兵衛府には左右2つがありましたので、左兵衛府の判官ということです。ただし、国吉が中央で実際にこの官に就いていた訳ではありません。これはいわゆる受領銘(ずりょうめい)です。また「国吉」の前に付いている「藤」は、氏(うじ)である藤原氏の意です。
これは群馬県の館林藩主の秋元家伝来のもので、重要文化財に指定されています。なお、「鳴狐」の名の由来は定かではありません。
名物 鳴狐(重要文化財) |
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徳間書店「日本刀全集」第三巻より |
粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)は、通称を藤四郎(とうしろう)と言い、国吉の子あるいは弟子とも言われ、江戸時代には相模国の正宗、越中国の江義弘と共に「三作(さんさく)」と称された名工です。
吉光の現存作には太刀は一振しかなく、他は全て短刀です。江戸時代の八代将軍吉宗の時代にまとめられた古名刀集である『享保名物帳』には、正宗に次いで十六振、焼失の部に十八振、追加の部に三振が記載され、合計三十七振もが挙げられています。そして吉光の巧な銘切りは、日本刀史上の最高峰であるとも言われます。また、大名家にとっては吉光の短刀は必需品でした。古来吉光の刀が持ち主を守ってくれるという逸話があるからです。その1つである薬研藤四郎(やげんとうしろう)についての逸話を紹介します。
明応二年(1493年)、明応の政変(足利将軍廃立・政権奪還事件)に破れた畠山政長(はたけやま まさなが)は、家臣らと別れの杯を交わして切腹しようとしていました。政長は吉光の短刀で切腹しようとしましたが、手が震えて腹に突き立てることができませんでした。それを見た家臣の丹下備後守は、政長が臆した(おくした)と見て、自分の信国の短刀を抜いて自分の足に突き刺し、「刃味がよろしいのでこれで切腹なされませ」と差し出しました。怒った政長は「この鈍刀めっ」と叫んで吉光の短刀を投げ捨てました。すると置いてあった薬研に当たり、鉄製の薬研を突き通したのです。
居合わせた家臣達は、名刀吉光が主人である政長の死を惜しんで切腹させなかったのだとし、切腹が一字中断されたと畠山伝記に記されているのです。このような逸話から、吉光の刀は持ち主を守ってくれるという一種の信仰が広まり、大名であれば吉光の刀を持たねばならないといった風潮が広まったのです。
吉光の短刀の特徴は、内反り気味(刃の方に傾いて見える)で、地肌は小板目がよく詰んで地沸が一面に付いた美しい梨子地肌となり、直刃を基調とした刃文を焼き、焼き出しに小豆のような小乱れを数個焼きます。
ちなみに薬研とは、薬を調合する際に使った物で、鉄製の船底形をした器です。これに薬草などを入れてすりつぶしました。その際に、円盤の中央両側に取っ手を付けたような道具を使い、この取っ手を両手で握ってゴロゴロ転がし、船底形の器の底の薬草などをすりつぶしました。
厚藤四郎 七寸二分 国宝 |
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鯰尾藤四郎 一尺二寸七分 |
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包丁藤四郎 七寸二分 重要美術品 |
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白山吉光 剣・七寸五分六厘 国宝 |
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厚藤四郎(あつとうしろう)は、長さのわりに重ねが1.2センチと厚いことからこう呼ばれ、室町将軍家の御物でしたが秀吉へと渡り、のちに徳川四代将軍家綱、一橋家へと渡っています。
鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)は、薙刀直し(なぎなたなおし)で、豊臣秀頼愛用と伝え、その形が鯰の尾っぽに似ていることからこう呼ばれます。大坂夏の陣で大坂城落城の際に焼けてしまいましたが、家康が初代越前康継に焼き直しさせ、尾張徳川家に伝わりました。
包丁藤四郎(ほうちょうとうしろう)は、包丁のような形をしていることからこう呼ばれます。この包丁藤四郎とは別の包丁藤四郎が、『享保名物帳』の焼失の部に掲載されていますが、これにも逸話があります。
戦国時代の武将であり、室町幕府の京都侍所所司代も務めた近江国の多賀高忠(たが たかただ)は、故実にも通じた文化人でもあり、料理もよくしました。ある日、政敵から鶴の料理を頼まれました。その男は高忠に恥をかかせようと企み、鶴の腹の中に鉄箸(てつばし)を忍ばせました。高忠はそれを察して包丁藤四郎を使い、鶴を鉄箸ごと断ち切ってしまい、喝采を浴びたと言われます。この包丁藤四郎は、秀吉、上杉景勝、徳川二代将軍秀忠へと渡り、秀忠から父・大御所家康へと献上されましたが、明暦の大火で焼失してしまいました。
白山吉光(はくさんよしみつ)は、石川県の白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)所蔵です。
吉光には太刀がただ一振現存します。これは「一期一振(いちごひとふり)」と呼ばれており、吉光の傑作中の傑作です。秀吉所有でしたが、二尺八寸ほどあったものを、150センチほどしか身長がなかった秀吉には長すぎたため、五寸ほど磨上げて二尺二寸七分としてしまっています。そして五寸も磨上げてしまったために銘は無くなってしまい、銘の部分を切り取って額銘としています。天下の大名刀に手を加えるなど現在では考えられないことですが、当時は日本刀は実用品であったため仕方なかったと言えば仕方なかったのです。一期一振の太刀は、その後の大坂夏の陣で大坂城落城の際に焼けてしまい、家康が初代越前康継に再刃(再び焼き入れを行って刀を再生すること)させたものが、御物(皇室所有)として現存しています。
来一派の作風 |
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来国行の太刀 |
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来(らい)一派とは、粟田口一派が吉光を最後に衰退していったのに替わって栄えた一派です。祖は朝鮮半島からの渡来人だと言われています。上のイラストは、来一派の祖である国行(くにゆき)の作風です。時代の要求に応えた身幅広く切先は猪首となった豪壮な姿で、地肌は粟田口一派には劣りますが地沸付き、沸本位の直刃仕立ての丁子刃を焼いています。
来一派と粟田口一派や三条一派との違いは、粟田口一派らが小沸出来であるのに対し、より強い沸出来であるということです。そしてもう1つの来一派の特徴は、局部的に黒っぽく見える異鉄が顔を出していることです(イラストの黒い部分)。これを来肌(らいはだ)と呼んで特徴としています。
これは鍛錬中に除ききれなかったカスであるとする説もありますが、小笠原信夫氏は『日本刀の歴史と鑑賞』の中で、これは良質の皮鉄(かわがね)を節約したため、皮鉄が薄くなり、芯鉄(しんがね)が顔を出した物であるとしています。芯鉄を皮鉄でくるむという工夫は、硬いが折れやすい玉鋼(たまはがね)を使用しだした、新刀期以降に普及したものと考えられますが(日本刀の特徴参照)、奈良時代の蕨手刀(わらびてのかたな)の一分にも芯鉄と考えられるものがあったことから、一分の地域あるいは刀工によってはこういった工夫が既に行われていたのかもしれません。
ちなみに、国行の作に名物不動國行の小太刀があります。これは残念ながら江戸時代の明暦の大火で焼けてしまい、筑前国の信国重包(のぶくにしげかね)という刀工が再刃(さいば)したものです。再刃とは、焼けてしまった刀身に再び焼き入れを行って復元を試みるものです。
この小太刀は織田信長の愛刀でしたが、本能寺の変によって明智光秀が安土城から奪い、本拠地の坂本城へ持ち帰りましたが、豊臣秀吉が坂本城を攻めた際、落城と共にこの名刀が失われるのを惜しんだ光秀が、城からこの小太刀を投げ下ろし、秀吉に託したという逸話が残っています。
信長は酒に酔うと膝をたたいて、「不動國行、つくも髪、人には五郎左ござ候」と歌ったと言います。「つくも髪」は茶道で使用する名物の茶入れで、五郎左は丹羽五郎左衛門長秀(にわ ごろうざえもん ながひで)のことで、この3つが信長の自慢であったと言われます。
二字国俊の小太刀 |
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徳川美術館蔵品抄6より |
名物 愛染国俊(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
上の写真は、国行の子である国俊(くにとし)の作刀です。小太刀は一尺九寸九分で重要美術品に指定されています。また短刀は愛染国俊(あいぞめくにとし)と呼ばれる国宝に指定されている物で、加賀の前田家伝来品です。寸延びの身幅広い姿にわずかに反りがあり、乱れ刃を焼いています。「愛染」の名の由来は、茎に愛染明王が毛彫りされていることにより、二字国俊唯一の短刀です。
なお国俊は二字国俊(にじくにとし)と呼ばれますが、これは「国俊」と二字銘を切るからであり、来国俊と三字に切る刀工と区別するためにこう呼ばれます。二字国俊と来国俊には古来同人説や別人説があり、また国行と二字国俊同人説もあります。
弘安元年の二字国俊の太刀 |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
二字国俊には、弘安元年(1278年)の年紀入りの太刀があります。この太刀は刃長二尺五寸七分(77.87センチ)、反り七分(2.12センチ)でやや浅めで、元幅一寸五厘(3.18センチ)、先幅七分(2.12センチ)で、鎬造りで庵棟(いおりむね)となり、身幅広く猪首切先となった力強い太刀姿となっています。
地肌は小板目がよく詰み地沸付き、刃文は丁子刃に小乱れ、小互の目(こぐのめ)が交じり、足・葉・飛び焼きなどの働きが見られ、表裏に樋を掻き流して華やかな作となっています。銘は佩表(はきおもて)に「国俊」と二字銘を、裏に「弘安元年十二月日」と切っています。
本来、山城伝鍛冶の注文主は京都の優雅な貴族や公家であり、製作する太刀などは実戦用ではない儀礼的なものでありました。しかし武士が政権を握ると、権力者ではなくなった公家達からの注文は減り、旧来の伝統を守る山城伝鍛冶は衰退していきました。しかし、来一派はこういった時代の流れに合わせ、関東の武士の要求に合わせた実戦的な太刀を作成し、販路を広げ、粟田口一派などが衰退するのに替わって繁盛したのでした。
従って二字国俊の作風は身幅広い猪首切先となった豪壮な姿に、焼幅が広い直刃仕立ての刃文を焼き、物打ちあたりには特に沸がよく付き、覇気に満ちた作となっています。
綾小路一派(あやのこうじいっぱ)とは、鎌倉中期から鎌倉末期にかけて、京都の四条・綾小路に住して鍛刀した一派です。下のイラストは定利の作風、写真は国宝に指定されている二尺六寸の太刀です。
腰反り強く踏ん張りある姿で、鎌倉中期というよりも鎌倉初期に近い姿となっています。地肌は小板目がよく詰んで地沸が付き、刃文は丁子に小乱れが混じり、足が入り、砂流しや金筋など働きが豊富で、表裏に樋(ひ)を掻き流しています。銘は佩表(はきおもて)に定利と二字銘を切り、定の字が大きく利の文字が小さいのが特徴です。
綾小路定利の作風 |
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綾小路定利の太刀(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
鎌倉中期から南北朝期にかけては、中千手院一派(ちゅうせんじゅいんいっぱ)が鍛刀しており、力王(りきおう)などがいます。
福岡一文字の作風 |
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吉房の太刀(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
福岡一文字は、備前福岡の地で鍛刀した古一文字則宗を祖とする鍛冶で、この鎌倉中期に栄えた福岡一文字によって、元から先まで連続する匂本位の備前伝が完成します。
姿は時代を反映して豪壮なものが多く、板目肌に大肌を交え、匂本位の高低差がある華やかな大房丁子(おおふさちょうじ)、重花丁子(じゅうかちょうじ)を焼き、映り立ち、鋩子も刃文に応じて乱れ込む華やかな作風が出来上がります。
なお、古一文字則宗などは、いわゆる一文字(いちもんじ)と称される所以(ゆえん)となった、「一」の文字を茎(なかご)には切りませんでしたが、鎌倉中期の福岡一文字などは「一」のみを切る者、「一」と個銘を切る者、「一」は切らず個銘のみを切る者があります。そして後には福岡一文字から分派が出て、片山一文字、吉岡一文字などと称せられるようになりますが、それぞれが切る「一」の文字にその特徴が現れるようになります。
写真の太刀は、鎌倉中期の福岡一文字を代表する吉房(よしふさ)の太刀で、吉房は古一文字助宗系の助房の子です。刃長二尺六寸八分五分(81.36センチ)、反り一寸(3.03センチ)、元幅一寸(3.03センチ)、先幅六分五厘(1.97センチ)となり、身幅広く元幅と先幅は1対0.65となり、腰反り高く踏ん張りがある堂々たる姿の太刀です。
鎬造りに庵棟となり、地肌は小板目よく詰み乱れ映り立ち、刃文は大丁子乱れに大房丁子、重花丁子、小丁子交じり、物打ちから上は特に華やかとなり、焼きの頭は鎬筋(しのぎすじ)にかかるほど高く焼き込まれ、匂(におい)深く匂口冴えた見事な作となっています。また茎(なかご)は生ぶ(うぶ/作られた当時のまま)で雉子股形となり、目釘孔の下、中央に大振りの吉房の二字銘があります。この太刀は島津家伝来のものです。
吉平の太刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
福岡一文字吉平(よしひら)は、古一文字則宗の娘婿(むすめむこ)となった宗吉の子・一文字吉家の子で、福岡一文字ではおとなしい作柄の刀工です。
写真の太刀は刃長二尺四寸三分五厘(73.78センチ)、反り九分五厘(2.88センチ)、元幅九分六厘(2.91センチ)、先幅五分八厘(1.76センチ)、鎬造りで庵棟となり、腰反り高く踏ん張りのある姿となった太刀です。
地肌は小板目肌がよく詰んで乱れ映りが見事に立ち、刃文は大丁子に重花丁子、小丁子交じり、足や葉(よう)がしきりに入り、匂口冴え(さえ)、腰刃を焼いています。茎(なかご)は生ぶで吉平と小振りの二字銘を切っています。
この太刀は出来が優れ健全であるばかりでなく、はばき元に十六葉の菊花紋の毛彫がかすかに残っていて貴重なものです。鎌倉初期の御番鍛冶の項で、菊御作と菊一文字の解説をしましたが、この吉平の菊紋がある太刀はもちろん菊御作ではなく、皇室の依頼により作刀されたもので、菊紋は許されて吉平が切ったものと思われます。この太刀は島津家伝来の太刀で、金無垢の菊紋金具の糸巻太刀拵が付いており、皇室からの拝領品であったと思われます。
山鳥毛一文字(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
山鳥毛一文字(やまどりもういちもんじ)は、関東管領(かんとうかんれい)重代の家宝で、長尾景虎(上杉謙信)が上杉の姓とともに譲り受けた太刀で、生ぶ無銘(うぶむめい/作られた時から無銘)の太刀です。
注)関東管領とは、京都の室町幕府が関東地方を統治するために置いた鎌倉府の長官のことです。
山鳥毛一文字は刃長二尺六寸五厘(78.93センチ)、反り一寸五厘(3.18センチ)、元幅一寸一分五厘(3.48センチ)、先幅七分二厘(2.18センチ)で、鎬造りで庵棟となり、腰反り高く踏ん張りある姿で猪首切先となった豪壮な太刀です。
地肌は板目肌がやや肌立ち気味で地沸つき、あわく乱れ映り立ち、刃文は大丁子乱れに重花丁子交じり、焼きの頭は鎬(しのぎ)にまでかかって足・葉がしきりに入り、匂口(においくち)締って小沸つき金筋入り、帽子の表は湾れ込んで掃き掛け、裏は乱れ込んで小丸に返しています。表裏には棒樋を掻き通し、茎(なかご)は生ぶで無銘です。
福岡一文字最盛期の見事な作で、鎬(しのぎ)までかかるほど深く焼き込んだ華やかな刃文を焼いている反面、激しい働きを見せ、華やかさと強さを兼ね備えた屈指の名刀です。またこの太刀には黒漆塗り合口拵(あいくちこしらえ)が付いています。なお、山鳥毛の名の由来は、山鳥の羽毛のように美しいことによるもので、備前刀愛好家であった謙信、景勝のお気に入りの一振であったようです。
長篠一文字(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
福岡一文字など一文字と称される鍛冶は、茎(なかご)に個銘のみを切る者、「一」の文字と個銘の両方を切る者、「一」の文字のみを切る者がありますが、「一」のみを切った作の代表と言えるものが、長篠一文字(ながしのいちもんじ)です。
これは福岡一文字の刀工の手になるもので、高低差がある華やかな刃文を焼き、福岡一文字中の屈指の名刀であり、最高傑作とされています。
なお、「一」の文字が何を表すのかなどは諸説ありハッキリとは分かっていませんが、現在で言う商標、ロゴのようなものであったのかもしれません。この「一」とのみ切ったものには優れた作が多いです。
この太刀は刃長二尺三寸四分(70.9センチ)、反り一寸(3.03センチ)、元幅一寸五厘(3.18センチ)、先幅七分四厘(2.24センチ)で、鎬造りで庵棟となり、猪首切先で身幅広く腰反り高く踏ん張りある堂々たる太刀姿となっています。
地肌は小板目よく詰んで地沸付き、乱れ映りうっすらと立ち、刃文は大丁子乱れに小乱れ、飛び焼きなどが交じって足見事に働き、匂口(においぐち)明るく冴え(さえ)た地刃となり、表裏に棒樋を掻き流して茎(なかご)は生ぶ(うぶ)、鑢目は筋違い、目釘孔は2個あり、目釘孔の上に「一」の文字が切られています。
この太刀が長篠一文字と称される所以(ゆえん)は、長篠設楽ヶ原の戦い(ながしのしたらがはらのたたかい)で戦功があった、奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が織田信長からこの太刀を拝領したことによるもので、その裏には命をかけて働いた雑兵(ぞうひょう/身分が低い兵士)の存在があったのです。
奥平信昌は初名を定昌と言い、もとは徳川家の家臣でしたが武田信玄の家臣に寝返り、信玄の死後には後を継いだ勝頼とはあまり上手くいっていませんでした。一方、徳川家康は武田家の有力武士団であった奥平氏を再び味方にすべく、自分の娘を信昌の嫁にし、領地を加増することなどを条件に信昌を引き抜く事に成功しました。そして家康は信昌に武田家との最前線にある三河国の長篠城を与えて守らせました。
それに激怒した勝頼は、天正三年五月(1575年)、二万の大軍を率いて長篠城を包囲しました。これがきっかけとなって起こった戦いが長篠設楽ヶ原の戦いであり、信長が3000丁もの鉄砲を使用したと言われる戦いです。信昌側はわずか五百ほどの兵力でよく応戦しますが、武田軍の兵糧責め(ひょうりょうぜめ/食糧補給路を断つ事)により落城寸前でした。
そこで信昌は岡崎城にいる家康に使者を送り、援軍を頼むことにしました。しかし城は武田軍に包囲されており、城を抜け出して岡崎城までのおよそ60キロもの道のりを無事に進むことはとても無理だと思われました。そんな危険な役目を引き受けようとする者がない状況で、1人の雑兵であった鳥居強右衛門(とりい すねえもん)が手をあげ、その命がけの役目を引き受けたのです。
強右衛門はなんとか無事に長篠城を脱出し、夜通し走り続けて一日かけて岡崎城にたどり着きました。そこには事前に家康から援軍依頼を受けていた織田信長が、三万の軍を率いて到着しており、家康軍と合わせて三万八千もの大軍が応援に駆けつける準備を整えていたのです。
それを知った強右衛門は、間もなく援軍が来ることをすぐにでも長篠城で奮戦している仲間に伝えたいと、少し休んで行けという言葉にもこれを辞退し、すぐに走り出して再び60キロの道のりを不眠不休で走り続けたのです。しかし、間もなく長篠城という所で武田軍に捕らえられてしまったのです。織田・徳川連合軍があと数日で応援に駆けつける事を知った勝頼は、それまでに落城させなければならなくなり、強右衛門に援軍はこないから早く城をあけわたせと門前で叫べと脅したのです。そうすれば命を助けたうえ、武田家の家臣として取り立ててやると言ったのです。強右衛門はこれを承諾して門前に立ちました。
しかし、強右衛門は勝頼の命には従わず、「あと数日で織田・徳川連合軍の援軍が来る! もう少しの辛抱である!」と叫んだのでした。強右衛門は命を助けたうえ、家臣として取り立ててやるという、雑兵にとってはまたとない勝頼の申し出を無視し、仕えていた奥平家への義を貫いたのでした。激怒した勝頼は、その場で強右衛門を磔(はりつけ)にして殺害したのです。
あと数日持ちこたえれば援軍が来ることを知った長篠城の兵士達の士気(しき/やる気)はおおいに上がり、また命を懸けて任務を果たし、最後まで義を貫き通した強右衛門の壮絶な死を目の当たりにした兵士達の士気は、強右衛門の死を無駄にするなとますます上がり、援軍が来るまでの間奮戦し続け、援軍が到着すると奥平信昌は門を開けて突撃し、挟み撃ちにして最終的に勝利したのでした。
信長は奥平信昌の戦功を讃え、この一文字の太刀などの褒美を与え、信長の信の一字を与えて定昌を信昌と名乗らせたのでした。表面には出ず、名前すらも知られない鳥居強右衛門ですが、有名な戦いの裏にはこうした義を貫いた雑兵の働きがあったことを忘れてはならないのです。
片山一文字(かたやまいちもんじ)とは、鎌倉初期の古一文字則宗の門人である、福岡一文字助房の子・則房が、備前国福岡近くの片山の地に住して鍛刀したことからこう呼ばれます。刀剣書などには備中国の片山に住したと書かれていますが、もともとは備前国の片山に住し、備中国片山とも行き来しながら作刀したようです。
この一派の特徴は逆丁子(さかちょうじ/焼刃の頭が切先側に向く)の刃文にあります。そして鋩子も逆がかって乱れ込んでいます。
片山一文字の逆丁子 |
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片山一文字の作風 |
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光忠の作風 |
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光忠の太刀 |
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徳間書店「日本刀全集」第二巻より |
古備前鍛冶が長船に住し名声を得たことにより、長船は非情に栄えましたが、鎌倉初期には福岡の一文字派に取って替わられ、それ以降廃れていました。しかし、鎌倉中期になって福岡一文字の正系である助真(すけざね)らが、招かれて鎌倉へ下向し、また同じく福岡一文字派の則房が片山の地へ移住した(隣国・備中国の片山へ移住したとも)ことにより、福岡一文字が衰退すると、長船は再び息を吹き返し名称を多く輩出しました。
上のイラストは、長船鍛冶の棟梁・光忠(みつただ)の作風です。光忠は古備前正恒の系統なので、初期は古備前風の作風でしたが、鎌倉中期には時代的要求から猪首切先の豪壮な姿となっています。焼き幅に広狭のある匂本位の大丁子、蛙子丁子(かわずこちょうじ)を焼き、福岡一文字ほど高低差はないですが、それでも高いところは鎬に迫るほどですが、物打ちあたりの刃は地味になっています。金筋、稲妻が横手下から鋩子にかけて現れ、鋩子は焼詰風になっています。
蛙子丁子 |
光忠の鋩子 |
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長船長光の作風 |
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名物 大般若長光 |
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徳間書店「日本刀全集」第二巻より |
上の写真は、光忠の子である長光(ながみつ)の太刀で、大般若長光(だいはんにゃながみつ)と呼ばれる国宝指定の太刀です。二尺四寸三分、猪首切先となった力強い姿で、小板目がよく詰み地沸が付き、大丁子に小丁子、蛙子丁子(かわずこちょうじ)、互の目を交え、匂深く金筋働き、乱れ映りが立ち、鋩子(ぼうし)は乱れ込んで小丸に返り、表裏に棒樋を掻いて(かいて)丸留めとし、二字銘となったまことに見事な作です。
「大般若」の名の由来は、室町時代にこの太刀に付いた代付(だいつけ)が六百貫というとほうもない高値であったことによります。代付とは、その物の値段という訳ではなく、その物の価値を示す指標のようなものです。六百貫を小判に換算すると300両となり、戦国時代の天正頃には平安時代の天下五剣の一つである三日月宗近の作者・三条宗近などの代付が最高額であり、その代付は百貫でした。その次に高い代付であったのが、誰もが知る名称・相州の正宗で、その代付は五十貫でした。これらからすると、六百貫という代付がどれほど破格であったかが分かります。
この六百貫というとてつもない代付が、大般若経六百巻の「ろっぴゃくかん」に通じるとして、長光のこの太刀を大般若と呼んだのでした。
守家の太刀 |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
畠田守家(はたけだもりいえ)は、備前国長船に隣接する畠田に住した一派の祖で、時代を同じくする長船の光忠と並び称される名匠です。写真の太刀は紀州家伝来の太刀で、刃長二尺六寸一分四厘(79.21センチ)、反り一寸(3.03センチ)、元幅九分四厘(2.85センチ)、先幅六分二厘(1.88センチ)となり、鎬造りで庵棟となり、腰反り高く踏ん張りある姿で、地肌は板目肌流れこころに肌立ち、かすかに映り立ち、刃文は丁子乱れに互の目、蛙子丁子(かわずこちょうじ)などを交じえ、足・葉(よう)入り、砂流し、金筋働き、腰刃を焼いて帽子は乱れ込んで小丸に返り、茎は生ぶで守家の二字銘が切られています。
守家は長船の光忠と同様に蛙子丁子を得意としましたが、地肌が光忠に比べて肌立ち、鋩子も横手の上で乱れがゆるむいわゆる畠田鋩子となります。なお、この太刀には腰刃が焼かれていますが、これが守家の特徴と言う訳ではなく、特殊なものです。
畠田鋩子 |
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守家の太刀は、その守家という名から家を守るとして大名家に好まれ、この守家の太刀も紀州徳川家に伝えられたもので、紀州家の腰刃のある守家の太刀として知られた一振でした。
建長(けんちょう/1249年-1255年)頃、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼(ほうじょう ときより)により、山城国から粟田口国綱(くにつな)が、備前国の福岡一文字の分派から国宗(くにむね)が、文永(ぶんえい/1264年-1274年)頃には備前国福岡一文字から助真(すけざね)が一族と共に鎌倉へ招かれ、ここに幕府のお膝元での日本刀の製作が始まりました。しかし、国綱は山城伝を、国宗は備前伝を、助真は福岡一文字の作風を鍛えていましたので、相州伝という伝法はまだ確立していませんでした。しかし、国綱や国宗、助真らは相州伝の基礎を築いた刀工とされるため、この3人はこの相州伝の項で解説します。
名物 鬼丸国綱 |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」より |
粟田口国綱は、山城国粟田口国家の六男で、備前国国宗と共に相州鍛冶の基礎を築いたと言われます。上の写真は天下五剣の1つ、粟田口国綱作の鬼丸国綱(おにまるくにつな)です。二尺五寸八分の太刀で現在は御物です。これはいわゆる粟田口一派の作風に、鎌倉武士の気風である強みを加えた作風となっています。
鬼丸の名の由来は、時の鎌倉幕府執権・北条時頼が原因不明の病気にかかり伏せっていた時、ある夜、立てかけていたこの太刀が風によって倒れました。その時、鞘から刀身が抜けてそばにあった銅の火鉢の足に当たりました。その火鉢の足には飾りとして鬼面が施されており、この鬼面が真っ二つに切れたのでした。そのとたん、時頼の病気は治ってしまったのでした。そこでこの火鉢の鬼面が病気をもたらしていたとして、以後この太刀を鬼丸と呼んだと『太平記』に記されています。
国宗の太刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
備前三郎国宗(びぜんさぶろうくにむね)は、備前国の福岡一文字直宗の子である国真(くにざね)が、山一つ離れた和気庄(わけのしょう)に移住して鍛刀したのに始まる、和気系と称される一派の刀工で、国真の三男です。つまり和気系鍛冶は福岡一文字の分派で、備前正伝を継いでいる長船の光忠や長光などとは違なる一派です。国宗は後に鎌倉幕府五代執権・北条時頼に招かれて鎌倉へ下り、粟田口国綱と共に相州伝の基礎となる鍛法を伝えました。
写真の太刀は、鹿児島県の照國神社(てるくにじんじゃ)蔵の國宗の太刀で、現在国宝に指定されています。刃長二尺六寸八分五厘(81.35センチ)、反り八分五厘(2.58センチ)、元幅一寸七厘(3.24センチ)、先幅七分(2.12センチ)で、鎬造りに庵棟となり、身幅広く腰反り高く、踏ん張りある鎌倉中期の特徴を示す豪壮な太刀姿となっています。
地肌は小板目に杢目が交じりよく詰み、地沸付いて乱れ映りがあざやかに立ち、刃文は丁子に蛙子丁子(かわずこちょうじ/光忠参照)、互の目(ぐのめ)などを交じえ、物打ちは飛び焼きが連なって二重刃となり、匂(におい)深く匂口明るく冴え(さえ)、茎(なかご)は生ぶ(うぶ/作られた当時のまま)です。
この太刀は薩摩の島津家を祭る照國神社に島津家から奉納されたものでしたが、終戦後にアメリカに持ち去られてしまいました。しかし後に米国愛刀家が発見し、大金をはたいて購入し、このような優れた作は日本へ返すべきだとして日本国へ返還されました。
名物 日光助真 |
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助真(すけざね)は、最盛期の備前福岡一文字鍛冶として活躍した吉房とは兄弟にあたり、のち鎌倉幕府に招かれて下向し、鎌倉一文字と呼ばれます。上の写真は助真の最高傑作とも言える、日光東照宮二納められている徳川家康の愛刀・日光助真です。10センチほど磨上げられていますが、二尺三寸五分、元幅と先幅の対比が約1対0.8とあまり差が無く、猪首切先となり、身幅広く重ね厚い、腰反り深い豪壮な太刀となっています。
地肌は板目肌が流れて肌立ち、地沸付いた肌に焼幅の広い大丁子乱れを焼き、乱れ映り立ち、足や葉などの働きを見せ、福岡一文字には無い沸がよく付いています。ここらが鎌倉武士の気風に合わせた作風となっています。
<山城国>粟田口国綱(のち相模国へ)、国吉、吉光、来国行、二字国俊、綾小路定利
<大和国>千手院力王
<陸奥国>宝寿
<備前国>福岡一文字吉房、助真(のち鎌倉へ)、則房(のち備中片山へ)、備前三郎国宗(のち鎌倉へ)、長船光忠、長光、畠田守家
<備中国>古青江助次、中青江恒次、次吉、片山一文字則房
<周防国>古二王清綱
正応元年(1288年)-元弘三年・正慶二年(1333年)
七代将軍・惟康親王、九代執権・北条貞時-九代将軍・守邦親王、十六代執権・北条守時
鎌倉後期は御家人がますます貧困していく時代です。御家人の財産は、幕府から安堵(あんど/支配権を認められる事)された所領であり、土地は代替わりの際には女性、諸子(しょし/正室以外の女性との間の子)も含め、それぞれの立場に応じて分割相続されました。しかし、この分割相続には大きな問題がありました。例えば10あった土地を自分が3相続したとすると、自分の子供達に相続する時は一人当たり1とかになってしまうからです。つまり新しい土地を得ない限り、代を重ねて相続が繰り返されるほど相続する所領が小さくなってしまうのです。また相続する土地をめぐっての身内の争いも絶えませんでした。
鎌倉時代の武士は惣領制(そうりょうせい)でした。惣領とは家督(かとく)を継ぐ者、つまりは家長となる者の事で、男子の中で統率力があり惣領にふさわしい者が惣領となり、残りの兄弟は惣領の統率下に入るというものです。また惣領となる者は必ずしも長男である必要はありませんでした。庶子の長男と嫡子(ちゃくし/正室が産んだ最年長者)の次男とでは、やはり嫡子の次男の方が立場が上だったからです。土地の分割相続の場合も、惣領となった者がその主要な部分を相続し、残りを庶子や女子が相続したのです。
承久の乱で幕府側が勝利すると、武功があった御家人には、後鳥羽上皇側に味方した貴族や武士から没収した、西国の公領や荘園が新恩給与されました。関東地方に既に本貫(ほんがん/先祖代々の所領)を持つ御家人は、本貫以外に飛び地の管理・支配をしなければならなくなりました。こういった場合、惣領はこうした遠国にある所領には移住せず、諸子を向かわせました。本貫を離れると、その間に他の御家人に所領を奪われる危険があったからです。元寇の際、非常時であるにも関わらず出陣しない御家人が多かったのはこういった危惧(きぐ/心配)があったからなのです。つまり鎌倉幕府の御家人達は、いつまでたっても互いの土地を奪い合って殺し合いを繰り返していたのです。
こうして新恩給与を受けて西国の所領へ移住した諸子は、代を重ねる内に本家である関東の惣領家とは次第に疎遠となり、むしろ対立するようになっていきました。またここでも分割相続が行われるため、相続した土地をめぐって身内の争いが起こり出すのです。
承久の乱以前の地頭は本補地頭と呼ばれますが、かれらは先祖や自らが開発した土地の在地領主であり、そこで耕作する農民も代々在地領主一族に税を納めて来たというつながりがありますが、承久の乱以後の地頭である新補地頭はいわば他人が開発した土地へ割り込んで来るというものですから、そこで耕作する農民はもとより、税を納めるべき国衙や荘園領主などとは何のつながりもない者達です。しかも平安時代の戦闘で解説しました通り、関東武士は人を殺害する事を何とも思わない者達で、文字もろくに読み書き出来ない者がほとんどで、こういった野武士のような者が地頭としてやってくるのですからもめ事が起こるのは当然と言えます。
地頭は鎌倉幕府の職(しき)、つまり役職のひとつであり、その役目は徴税と治安維持でした。従って土地その物を与えられたのではなく、あくまで税徴収、治安維持がその仕事でした。
地頭は田畑一反(300坪)につき五升の米を兵糧米として幕府に納めなければなりませんでした。そして地頭は公領(開発地)であれば国衙に、荘園であれば荘園領主に税を支払わなければなりませんでした。従って農民から徴収した税からこれらを除いた分が地頭の得分となりました。つまり農民から税を多く徴収すればするほど地頭の得分は増えるのですが、それでは農民の不満が増すため、そこは上手く計らわなければなりませんでした。
新補地頭の得分は、承久の乱以後に定められた新補率法によって定められました。それは、
- 田畑十一町当たり一町を、荘園領主や国衙に年貢を納めなくても良い田畑とし、地頭の得分とする
- 田畑一反につき五升を加徴米として徴収出来る
- 山野、川、海から得られる産物は荘園領主、国衙と折半とする
- 地頭が捕まえた犯罪者の財産の三分の一は地頭の物に出来る
と言うものでしたが、前任者が得分を決めていた場合はそれに従うよう決められていました。しかし、新補地頭はそんなことはお構いなしに、自分に都合の良いように勝手な振る舞いをするようになるのです。新補地頭は武力を背景に、農民が言う事を聞かなければ脅し、国衙や荘園領主にも税を支払わなくなるのです。何度も書きましたが、地頭は土地その物を与えられたのではなくその土地の支配権を与えられたのですが、本補地頭は先祖や自らが開発した土地の地頭に補任されていますのでその土地は地頭の物でしたが、新補地頭の場合は他人が開発した土地ですから、あれこれ手を尽くしてその支配を強めていったのです。
また、次第に本補地頭の中にもこの新補率法に基づいて税を徴収したり、国衙や荘園領主に税を払わない者も現れます。つまり武力を背景に次第にその支配権を広げていき、農民や国衙、荘園領主らとのもめ事が絶えなくなるのです。ただし、全ての地頭がこのような行為をした訳ではなく、一部には農民や納税先と上手くやっていた地頭もおり、また幕府も国衙や荘園領主に税を納めない地頭は解任するとしていましたが、ほとんど形骸化(けいがいか/形ばかりのもの)してしまいました。
このように、承久の乱に幕府側が勝利してからは、武士が武力を背景にその支配を強めていきましたが、鎌倉中期末の元寇依頼、北条氏がとった外敵に対する防護策は御家人達に大きな負担となっていました。また元寇は侵攻して来た外敵を阻止した戦いであり、新たな土地を獲得した訳ではなかったため、戦功があった御家人にも充分な恩賞は与えられず、分割相続によって所領が小さくなって困窮していた御家人達は、ますます貧しくなっていったのです。
それに加え、この頃には物々交換ではなく貨幣経済が発達し、物を買うにはお金が必要となり、自給自足で暮らしていた農村にも普及していました。そして武士達も例外ではなく、貨幣を得るために小さな所領を切り売りしたり、質に入れてお金を借りなければならなくなっていたのです。
このようにして土地を失う御家人も増え、無足(むそく)と呼ばれたこれらの者達は浮浪の身となり、やがて山賊となったり、あるいは土地に居座って周辺を略奪する者なども現れました。鎌倉幕府はこうした問題を解決すべく、女性の相続を制限したり、御家人の借金を棒引きにするといった強引な政策を採りました。土地を質に入れて借金していた御家人は救われましたが、金を貸した側は大損する事になり、もう御家人にお金を貸さないという者も急増し、御家人救済どころか逆効果となってしまいました。また相続に関しても分割相続から惣領の一括相続へと移行し、惣領による領地の集約化が始まると、それによって所領を奪われた諸子が増える事となり、こういった諸子と惣領との争いが激化していったのです。
また、九州などでは元寇の際の不十分な恩賞に対しての不満が高まり、反幕府的な行動をする者達も増えました。こういった、山賊と化した無足の武士や反幕府的な者達は悪党(あくとう)と呼ばれ、鎌倉幕府はこういった悪党を取り締まる一方、捕らえた悪党らを九州の御家人の元へと送り、防衛のための兵士にあてようとしましたが、これらの悪党の多くは武装してより反幕府的行動をとるようになるのです。
このように御家人が貧窮していく一方で、北条氏はますます専制政治を進め、御家人達の北条氏への不満はつのるばかりでした。一方、承久の乱で破れた朝廷の衰退は著しく、自ら次期天皇を決めることすらできなくなっていました。従って幕府が介入せざるを得なかったのですが、朝廷内を二分して対立していた大覚寺党(だいかくじとう)と持明院党(じみょういんとう)は、両党から交互に天皇を出すという話し合いもうまくいかず、結局それに不満を持った後醍醐天皇と、幕府に不満を持つ御家人が結んで倒幕へと進んで行くのです。
古来日本の兵士は騎兵を主とし、その主要武器は弓でした。しかし、平安末期に戦闘が大規模化すると、大量の歩兵を動員した戦闘へと移行して行きました。そしてこれまで弓を主力武器としていた騎兵は、歩兵の武器であった打物(うちもの)を持って戦うようになっていきます。それは鎌倉後期に日本刀の姿が大きく変化している事からもうかがえます。
注) 打物とは、太刀や薙刀など、打ち合って戦う武器の総称です。
鎌倉後期の太刀姿は、鎌倉中期の蛤刃(はまぐりば)から肉を少なくした肉取りに変わり、切先が猪首から中切先へと伸びています。そしてこれにともなって先身幅が元身幅よりも狭くなっています。つまり身幅広く重ねが厚い、元身幅と先身幅にほとんど差がなく、猪首切先となった腰反り深い豪壮な鎌倉中期の太刀姿から大きく変化しているのです。
この変化は、実戦で使用されてこういった姿の欠点が明らかになったからに他なりません。身幅広く重ねの厚い太刀では、重くて振り回しにくく、一番損傷しやすい切先が猪首では、切先が欠けた時に修復しても鋩子が無くなってしまうからです(磨上げ参照)。また猪首切先よりも先が伸びた切先の方が敵を刺すのに適しています。こう見ると、鎌倉初期の優しい姿に良く似ていますが、切先がこの期の方が若干大きいのと、反りが腰反りから上へ上がり、鳥居反り(とりいぞり/京反りとも)と呼ばれる中間反りとなっていますので区別できます。
しかし、こうして肉取りが変わって重ねが薄くなると、強度が減じてくるので身幅を広くして補い、そうなると切先は当然大きくなっていきます。このような変化の頂点が次期の南北朝期の大段平(おおだんびら)です。
また変化は刃文にも現れています。前期に流行した大丁子や重花丁子から、直丁子(すぐちょうじ)や片落ち互の目(かたおちぐのめ)などに変化しています。これは業物についてでも書きましたが、派手な刃文は折れやすいからです。刀匠達は経験からこれを悟ったのです。実際、刀剣収集家が好みそうな派手な刃文の刀は有名工が造った物でも折れやすいのです。丁子乱れは刃の中の堅さが均一で、足を入れ映りを出せば刀身に段階的に硬軟が出来るので折れにくいと言うことになります。
また、樋のあるものはそのほとんどが横手より下がっています(下の図)。戦いで切先が折れてしまった場合、切先を下げて新たに作ることができるようにするためです。つまり鎌倉後期以前の作で、樋の下がるものは無いと言えます。
こうしたこれまでの日本刀の欠点を補う工夫をしたのが相州伝です。備前国から鎌倉へ下向した備前三郎国宗の子で、同じく山城国から鎌倉へ下向した粟田口国綱の養子となった(あるいは国綱老後の子とも)と言われる、新藤五国光(しんとうごくにみつ)は、備前伝、山城伝に独自の工夫を加えた作風を作り出し、それが行光、正宗へと受け継がれるうちに新たな工夫が加わり、正宗によって相州伝が完成されたのです。
またこの頃になると、太刀の添料として短刀の寸法が伸びた腰刀(こしがたな)が用いられるようになります。これは寸法的には長めの脇差くらいの物で、何らかの理由で太刀を失ってしまった際の代用として用いられました。腰刀は刀のように刃を上にして直接帯に差しました。拵(こしらえ)は短刀のように鐔は付けず、鞘に藤などのつるを巻き付けたりしました。
新藤五国光短刀 |
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徳間書店「日本刀全集」第2巻より |
また、鎌倉中期の末頃から短刀の製作が急激に増えますが、この期特有の形があります。それは柄曲(つかまがり)の短刀です。これは右手指(めてざし/馬手指とも)という、甲冑着用時に右腰に差す短刀です。通常刀は左腰に差すものですが、これは例外です。これは敵を落馬させて組み討ち戦になった際に使用する物です(詳しくは右手指参照)。
右手指は甲冑のすき間を狙って相手を刺す、もしくは首を掻くものなので身幅が狭くなっています。写真の短刀は、短刀の名手の一人として名高い、この期の代表的刀工である相模国の新藤五国光の短刀です。この短刀は茎に反りがあります。これは右腰に差した短刀を、逆手に握って組み伏した相手の首を素早く斬り落とすための工夫です。このように太刀の添料として腰刀が、敵を組み伏した際の武器として右手指を装備して戦いに臨みました。
来国俊の作風 |
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来国俊の太刀 |
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徳川美術館蔵品抄6より |
上の写真は、来国俊(らいくにとし)の二尺五寸五分の太刀で国宝に指定されています。鎌倉中期に二字国俊が出て来ましたが、古来二字国俊と来国俊の関係については諸説あり、作風上では2人は別人であるというのが通説です。二字国俊は鎌倉中期に入れましたが、それは二字国俊には鎌倉中期の年号である弘安元年の年紀が入った太刀があるからです。そして来国俊の作刀は、鎌倉後期の年号である正応から始まっているので、来国俊は鎌倉後期に入れました。
一般的に、二字国俊は鎌倉中期の来国行の子と言われ、時代的要求から猪首切先の豪壮な姿が多く、来国俊の作は鎌倉後期の優しい姿に直刃仕立ての小乱れを焼き、二字国俊よりもさびしいものが多くなっています。
名物 有楽来国光 |
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徳間書店「日本刀全集」第五巻より |
来国光(らいくにみつ)は、来国俊の子あるいは弟子とされ、鎌倉後期から南北朝時代にかけて作刀が見られ、同銘が二代あったと言われています。上の写真は有楽来国光(ゆうらく らいくにみつ)と呼ばれる国宝指定の短刀です。九寸一分五厘の短刀で、身幅が広く重ねが厚い大振りな短刀です。
小板目がよく詰んで地沸が付いた見事な地肌に、のたれに互の目交じりの刃文を焼き、沸がよく付きすな流しとなり、鋩子は乱れ込んで火炎風となりやや長く返ります。
「有楽来国光」の名は、織田信長の弟で、淀殿(よどどの/信長の妹・市の子)の叔父にあたる、大名であり茶人でもある織田有楽斎(おだ うらくさい)の所有であったことによります。有楽斎は秀吉の子である秀頼より拝領し、その後加賀前田家に伝わったものです。
紀州来国次 |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
来国次(らいくにつぐ)は、来国行の孫で、相模国の正宗に学んだと言われ、鎌倉来(かまくららい)と称されます。それを裏付けるかのように、その作風は来一派の中では異風の相州伝風の沸の強い乱れ刃を焼いています。
上の写真は国宝指定の一尺八分の寸延び短刀で、平造りで身幅広くわずかに反りがあります。地肌は板目で地沸付き地景入り、小さなのたれに互の目交じりの刃文を焼き、金筋、砂流しかかるなど働き豊富で、鋩子は尖りこころとなっています。
秋田了戒 |
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徳間書店「日本刀全集」第三巻より |
了戒(りょうかい)は、頼国俊の子と言われ、出家(しゅっけ/お坊さんになること)したのち鍛刀を学んだとされ、了戒とは法名(ほうみょう/お坊さんとしての名)であるとも言われます。後代は、「了戒」を名字として「了戒○○」などと銘を切っています。後に京都の戦火から逃れて九州の豊前国や豊後国へ移住した者達は、筑紫了戒(つくしりょうかい)と呼ばれています。
写真の短刀は、秋田了戒(あきたりょうかい)と呼ばれる重要美術品指定の短刀です。鵜の首造り(うのくびづくり)の九寸の短刀で、地肌は小板目肌で棟寄りは柾目肌となり、細直刃に二重刃が見られ、鋩子の返りは長いです。また表裏には薙刀樋を彫り、作風は大和伝に似たものとなっています。この短刀は加賀前田家伝来のもので、常陸国の宍戸城主であった秋田氏所蔵であったことからこのように呼ばれます。
尻懸(しっかけ)とは、「しりかけ」が訛った(なまった)とされ、この「しりかけ」は奈良の東大寺の裏側の地名でした。東大寺の祭礼の際、神輿(みこし)の一行がこの地でお尻を懸けて休憩したことからこの名が付いたと言われます。そして尻懸一派は、則弘がこの地に移住して東大寺のお抱え鍛冶となったことにより始まります。
尻懸一派の作風は、刃文は焼き幅の狭い中直刃ほつれ、小乱れ、小互の目の混じるものもあり、二重刃、打ちのけ、掃きかけかかって小模様の金筋、稲妻などの働きがあります。鎬寄りが杢目で刃寄りが柾目になる尻懸肌となり、鋩子は掃きかけて焼詰風で返りは浅くなっています。
尻懸一派の刀工は「則○」と則の字を付けていますが、有名なのは則長(のりなが)であり、鎌倉後期から南北朝時代にかけて同銘があります。
保昌一派の作風 |
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保昌一派(ほうしょういっぱ)は、大和国高市郡に住した一派で、「保昌」は姓のようです。純然たる柾目鍛えで知られる一派で、一部鍛え目が密着せず破れたようになっている場合もありますが、地沸が豊富で美しい肌です。切先では、柾目が刃文に沿って棟に逃げるのが特徴です。
桑山保昌(拡大) |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より |
上の写真は、保昌一派の作中で第一の名刀とされ、桑山保昌(くわやまほうしょう)と呼ばれる、貞吉(さだよし)作の国宝の短刀です。八寸五分でやや内反り気味となり、平造りで重ねが厚く、鍛えは整った柾目肌となり地沸が厚く付いています。刃文は少し湾れた直刃で、途中から焼幅が広くなり金筋働き、鋩子は掃き掛けて焼き詰めとなっています。茎は生ぶで、茎尻はこの派の特徴である切りになっています。なお、「桑山保昌」の名の由来は、桑山伊賀守(くわやまいがのかみ)の所有であったことによります。
手掻一派の作風 |
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包永の太刀 |
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至文堂「日本の美術」137より |
手掻(てがい)とは、東大寺の西門である輾磑門(てんがいもん)の門前に住し、東大寺のお抱え鍛冶として活躍した一派で、「輾磑(てんがい)」が訛って「てがい」となったと言われます。手掻一派の刀工はみな「包〜」と名乗ります。
この一派は、大和物の中で一番鎬高く鎬幅広い、沸の強い作風で、板目が流れて柾目となり、地沸よく付き、中直刃に小乱れ混じり、打ちのけ、砂流しが働き、中には表裏異なった刃文を焼いた作もあります。写真の太刀は、手掻一派の中でも名工と讃えられる包永(かねなが)の太刀です。
当麻一派の作風 |
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国行の太刀(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第五巻より |
当麻(たえま)とは、奈良県北葛城郡当麻町の当麻寺のお抱え鍛冶です。大和物の中では一番穏やかな作風です。横手の下で板目が柾目になり、これを当麻肌と呼びます。刃文は直刃は少なく、互の目調の刃文となっています。
写真の太刀は、当麻派の祖である当麻国行(たえまくにゆき)の二尺三寸の太刀で、国宝に指定されています。当麻国行と呼ぶのは、山城国の来国行と区別するためです。鎬高く鎬幅広いこの太刀は、小板目がよく詰んだ地肌となっており、刃寄りが柾目がかり、小丁子に小互の目混じり、鋩子は小丸に返ってわずかに掃き掛けとなり、大和伝中ではおとなしい作となっています。
龍門延吉の太刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
龍門(りゅうもん)とは千手院一派の分派だと言われます。その鍛刀地は常磐御前が今若、乙若、牛若丸の三人を連れて隠れていた里として有名な所で、桜の名所北野町の北門に当たり、龍門寺や吉野山口神社などがあった所です。古剣書には数人の刀工が掲載されていますが、龍門一派の作刀で現存するのは延吉(のぶよし)のものだけです。
写真の延吉の太刀は刃長二尺四寸二分五厘(73.48センチ)、反り九分(2.73センチ)で、鎬造りで庵棟となり、腰反り高く踏ん張りある姿で、鎬高く鎬幅やや広くなっている点が大和伝の特徴を示しています。地肌は小板目が良く詰み地沸付き、刃文は直刃調で浅く湾れて(のたれて)、丁子交じって足・葉など働きが見事で、砂流しかかってよく沸付いた地刃となっています。帽子は掃き掛け、茎は生ぶで延吉と二字銘があります。
この太刀は後水尾天皇(ごみずのおてんのう/在位1611年-1629年)佩用(はいよう)と伝え、総金具が金無垢(きんむく/純金)の魚子地(ななこじ)で、菊紋が高彫りとなった見事な拵(こしらえ)が付いています。なお、この太刀は維新の井上馨(いのうえ かおる)が所持、同家に伝来したものです。
吉岡一文字の作風 |
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吉岡一文字(よしおかいちもんじ)とは、吉井川の長船の対岸にあたる吉岡の地で鍛刀した一派で、福岡一文字助宗の孫にあたる助吉を祖とする一派で、みな「助」の字を冠しています。しかし福岡一文字のような華やかな刃文ではなく、焼き頭が揃った(高低差がない)、腰の開いた乱れとなっています。
吉岡一文字の刃文 |
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腰が開いた丁子刃 |
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吉岡一文字助光(よしおかいちもんじ すけみつ)は、福岡一文字の作風を良く受け継いだ名工で、助吉の弟(子とも)にあたります。
吉岡一文字助光の太刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
この太刀は刃長二尺七寸一分四厘(82.26センチ)と長大で、反りの中心が刀身の中程にある鳥居反り(とりいぞり)気味で、一寸二分(3.64センチ)と反り高く、鎬造りに庵棟となり、長寸で堂々たる姿となっています。
地肌は板目肌が良く詰み、地沸付いて乱れ映りがあざやかに立ち、刃文は大丁子乱れに大房丁子、蛙子丁子(かわずこちょうじ)など交じり、足・葉が働き匂深く匂口冴え(さえ)、金筋かかり、茎(なかご)は生ぶ(うぶ/作られた当時のまま)で、佩表(はきおもて)に大きく「一」の字を切り、その下に「南無八幡大菩薩」、「南無妙見大菩薩」と二行に切り、また「元亨二年三月日」と年紀を切り、佩裏に「備前國吉岡住左近将監紀助光」と長銘に切っています。
注) 左近将監(さこんのじょう/さこんのしょうげん)とは、朝廷の中央軍事組織である六衛府のひとつ、近衛府(このえふ)の官職で、四等官(しとうかん)の三番目、判官(じょう)にあたるものです。また「紀助光」とは、「きの すけみつ」と読み、「紀」は氏(うじ)であり血筋を表すもので、源氏や平氏、藤原氏といったものと同じです。吉岡一文字の刀工はみな紀氏を名乗っています。
正中一文字の作風 |
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正中一文字(しょうちゅういちもんじ)とは、鎌倉後期の正中年間(1324年-1325年)以降に、和気郡岩戸荘で鍛刀した一派で、岩戸一文字(いわといちもんじ)とも呼ばれます。一文字とは言いながらも、まったく華やかさに欠ける作風で、焼幅の狭い小丁子や小乱れを焼き、映りはほとんど見られません。
片落ち互の目 |
小竜景光 |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より |
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景光(かげみつ)は、初代長船長光の子で、長船三代目を継いだ名工で、同銘が数名続いています。景光は上の図のような片落ち互の目(かたおちぐのめ)と呼ばれる刃文を生み出しています。
三寸ほど磨上げられて二尺四寸三分となった写真の太刀は、表裏に丸留めの棒樋、佩表(はきおもて)のはばき元に真の倶利迦羅、裏には梵字が彫られています。
磨上げられたため倶利迦羅の龍がはばき下に隠れてしまい、龍の頭がはばき上にちょっと出ている状態となっているため、「小竜景光(こりゅうかげみつ)」、「のぞき龍景光」などと呼ばれます。また楠木正成(くすのき まさしげ)佩用の太刀であったため、「楠公景光(なんこうかげみつ)」とも呼ばれます。
小板目がよく詰んだ地肌に乱れ映りが見事に立っています。のたれに丁子や互の目を交え、足入り働き盛んで景光の傑作であり、現在国宝に指定されています。
新藤五国光の短刀 |
翁の髭 |
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徳川美術館蔵品抄6より |
上の写真は、新藤五国光(しんとうごくにみつ)の短刀です。新藤五国光は、通説では粟田口国綱の子とされ、山城伝、大和伝の双方を習得し、より山城伝を強化した鍛錬法を研究しました。新藤五国光の作風はいわゆる完成された相州伝とは異なりますが、山城伝よりも沸(にえ)が強調され、鍛えも強くなっています。硬軟の鋼が上手く組み合わされて鍛えられ、沸本位の直刃仕立ての焼刃で刃縁の沸がほつれ、特に物打ちのあたりがほつれて金筋、稲妻が現れます。これを翁の髭(おきなのひげ)と呼び、新藤五国光の特長・見所としています。
新藤五国光は、山城国の粟田口吉光とともに短刀の名人と評され、また相州伝の開祖と言われています。
行光の作風 |
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行光の短刀 |
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雄山閣出版「日本刀大事典」福永酔剣氏著より |
行光(ゆきみつ)は、鎌倉初期に活躍した豊後国行平の直系で、行平は大和国の千手院に学んだ定秀(さだひで)の養子となった刀工です。行光は師匠である新藤五国光が得意であった直刃を得意とし、山城伝に大和伝を加味した強い地刃の鍛錬法を研究し、初期相州伝を創始しました。
小板目がよく詰んだ地肌に、細かな地景が入った強い地肌に、沸本位の中直刃ほつれに小丁子混じり、金筋、稲妻働く沸の強い地刃となっています。
正宗の作風 |
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正宗は、行光の子と言われますが詳しいことは不明の人物です。無銘作が多く伝記も少ないため、かつては徳川家康などによって創り上げられた架空の名称だなどとも言われました。しかし、確かな在銘刀の発見や様々な資料から、その存在が立証され、日本刀中興の祖であり、多くの優秀な弟子を育てた偉大な教育者でもあったことが分かっています。
正宗は、新藤五国光-行光と受け継がれてきた新しい鍛錬法に様々な工夫を重ね、猪首切先では切先が損傷した場合、鋩子が無くなってしまう事(磨上げ参照)、身幅広く重ね厚い、蛤刃(はまぐりば/刃がもっこりとしているもの)の刀身では重くて振り回せず斬れ味が悪い事、腰反り深い姿では敵に打ち下ろした際に力が逃げてしまう事、柔らかい鋼を低い温度で焼き入れをしているため、強度が無いといったこれまでの日本刀の欠点を解消するために研究を続けました。
不動正宗 |
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徳川美術館蔵品抄6より |
城和泉正宗 |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より |
正宗の作には無銘の物がほとんどですが、少ない在銘品の1つが、上記写真の重要美術品指定の不動正宗(ふどうまさむね)と呼ばれる短刀です。これは表に滝不動、裏に護摩箸(ごまばし)の彫りがあることからこの名で呼ばれます。茎に「正宗」と二字銘が切られている大変貴重な短刀です。
また、下の写真は城和泉正宗(きづき いずみのかみまさむね)と呼ばれるもので、磨上げられて二尺三寸三分になっている国宝の太刀です。正宗と言えば、豪壮な太刀を作ったというイメージがあるようですが、正宗の太刀は写真のように鎌倉後期のおとなしい太刀姿となっています。
明らかになったこれまでの日本刀の欠点を改善する工夫を研究した正宗は、比較的柔らかく鍛えた鋼を低い温度で焼き入れしていたのを改め、強く鍛えた鋼を高温で焼き入れをして地刃を硬くしようと試みました。そして重ねを薄く、身幅を狭くして重量を軽減し、腰反り深いものではなく反りを適度とし、猪首切先を中切先とし、切先内まで伸びていた樋(ひ)を下げて、損傷した場合に鋩子がなくならないよう改めたのです。
相州伝の地刃の働き |
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ただ、硬く鍛えた鋼を高温で焼き入れしただけでは、地刃は硬くはなりますが逆に脆く(もろく)なってしまいます。そこで正宗は、硬軟の鋼を適度に混ぜ合わせて板目肌に鍛え、沸本位の焼幅が広い大乱れやのたれ刃を焼き、地刃に段階的な硬度差を生み出したのです。そして地景入り、金筋や稲妻が激しく働く相州伝を完成させたのです。こういった地景や金筋・稲妻が豊富に働いているということは、よく精錬された硬軟の鋼が上手く組み合わされ、絶妙な焼き入れが行われている証であり、現在の科学をもってしても成し得ない、正宗の名工たる所以(ゆえん)なのです。
上記の城和泉守正宗は、板目肌に地沸付き、見事な地景入る正宗が得意とした肌に、のたれ基調に小互の目を交え、しきりに金筋働く見事な作です。茎は磨上げられて、刀表に金象嵌で二行に「城和泉守所持」、「正宗磨上」、その下に「本阿 花押」とあります。花押(かおう)とは、デザイン化された署名のことで、大磨上げされて無銘となった刀に対し、鑑定家でもあった研ぎ師の本阿弥家が鑑定を行った場合、このように金象嵌で極めた刀工名を入れ、鑑定したという証に「本阿 花押」と署名をしたのです。これを極め銘(きわめめい)と呼びます。
城和泉守正宗に象嵌されている花押から、これは本阿弥家でも最も鑑識眼があったとされる光徳(こうとく/1556年-1619年)が極めたものであることが分かります。
正宗十哲(まさむねじゅってつ)とは、正宗の弟子とされる10人の刀工で、名だたる刀工が名前を連ねていますが、全員が本当に正宗に弟子入りしたかについては賛否両論であり、またそのメンバーについても諸説ありますが、一般的には、
来国次(山城国)、長谷部国重(山城国)、郷義弘(越中国)、則重(越中国)、志津三郎兼氏(美濃国)、
金重(美濃国)、兼光(備前国)、長義(備前国)、左安吉(筑前国)、直綱(岩見国)を指します。
亀甲貞宗 |
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講談社「日本刀の歴史と鑑賞」小笠原信夫氏著より |
貞宗(さだむね)は、正宗の養子となりその後を継ぎ、正宗の作風を一番良く受け継いだ名工です。鎌倉後期から南北朝時代までの作刀がありますが、太刀・短刀を問わず、正真(しょうしん/本物)と極められた在銘品(銘が切られた物)はありません。
上の写真は、磨上げられて二尺三寸四分となった貞宗作と極められた無銘の太刀で、亀甲貞宗(きっこうさだむね)と呼ばれる国宝の太刀です。佩表(はきおもて)の茎(なかご)に亀甲が彫られていることからこう呼ばれます。貞宗の刃文は正宗よりも穏やかですが、金筋や稲妻などの働き豊富な地金の見事さは正宗をもしのぐと言われています。
徳善院貞宗 |
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徳間書店「日本刀全集」第三巻より |
上の写真は、国宝指定の貞宗作の短刀で、徳善院貞宗(とくぜんいんさだむね)と呼ばれます。これは亀甲貞宗とは異なり南北朝時代の作風です。一尺一寸七分の寸延び短刀で、表に素剣、下に爪、裏に梵字と護摩箸が彫られています。基本的に貞宗の作風は正宗に比べておとなしいのですが、この徳善院は覇気に満ちた作柄で、金筋、稲妻働く貞宗の傑作となっています。なお、徳善院は長さの分類から言えば脇差となりますが、これは脇差ではなく寸延び短刀と呼びます。なぜならこの時代には脇差は無く、あくまで短刀として作られているからです。
この短刀は、織田信長の長男・信忠が所有していましたが、本能寺の変の際に二条城にいた信忠は明智軍に包囲され、やむなく自害する際に信忠の長男である三法師(さんほうし)に形見として与え、前田徳善院玄以に三法師を託し、密かに脱出させました。のち三法師から豊臣秀吉に献上され、この短刀に縁故ある前田玄以が拝領し、その後徳川家康、紀州徳川家、伊予松平家から三井家へと渡り現在国宝に指定されています。
則重の松皮肌 |
則重の作風 |
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則重(のりしげ)は、越中国の呉服郷に住したとされ、以前は正宗十哲の1人とされていましたが、現在では正宗とは新藤五国光の兄弟弟子であり、則重は正宗の兄弟子であるというのが定説です。
注) 越中国には呉服郷という郷(当時の行政区分)はなく、婦負郡御服荘のことではないかと考えられています。
黒味を帯びた松皮肌(まつかわはだ)と呼ばれる独特の地肌に鍛える名匠で、太刀の現存する作はほとんどなく短刀が主ですが、独特な強い地肌に沸本位ののたれ刃が主で、十分な働きを見せ、特に稲妻が激しく働いてそのまま地景となるのが見所です。
則重の短刀(国宝) |
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『新・日本名刀100選』佐藤寒山氏著より |
上野写真は、財団法人永青文庫所藏の則重の短刀で、「日本一」の号があります。八寸一分(24.54センチ)、元幅六分六厘(2センチ)の細身で、筍反り(たけのこぞり)となった鋭い姿になっています。則重の短刀はみなこういった小振りのもので、フクラが枯れた内反りの姿になっています。通常内反りは短い短刀を何度も研ぐうちに、薄い刃側が研ぎ減って内側(刃側)に反っているかのように見える物を言いますが、則重の短刀はフクラが枯れてそう見えるだけであって、またこの姿が筍のような形に見えることから、内反りの物でも則重の短刀を特に区別して筍反りと呼ぶのです。
江義弘の作風 |
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名物 稲葉江(国宝) |
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徳間書店「日本刀全集」第一巻より |
江義弘(ごう よしひろ)は、正宗十哲の1人で、江戸時代には正宗、粟田口吉光、義弘を天下の三作(さんさく)と称して大変珍重されました。名前の「江」は、義弘が大江氏であることからこう呼ばれ、清少納言(せい しょうなごん)が清原氏であることからこう呼ばれるのと同じです。また義弘が越中国松倉郷の住人であることから、「江」も「郷」も「ごう」と読む事が出来るということから、「江」を「郷」として「郷 義弘」と言うなどとも言われますが、郷は当時の行政区分であって、これは今で言えば区のようなもので、これを名乗りに使ったというのには疑問を感じます。
義弘は地鉄の良さと地刃の働きは正宗をしのぐと言われます。若くして亡くなったと言われ、謎が多い刀工で在銘の作は皆無です。そこで「江と化け物は見た事がない」と昔から言われています。上の写真は、大磨上げ無銘の二尺三寸一分の太刀で、国宝に指定されています。小板目が良く詰み地沸厚く地景入り、のたれに互の目交じりの刃文を焼き、鋩子は義弘の特長である一枚鋩子となり、表裏に樋が掻き流されて樋先は下がっています。
佩表の茎に金象嵌で「天正十三二月日 江 本阿弥磨上之(花押)」と極め銘があり、裏に「所持稲葉勘右衛門尉」とあることから「稲葉郷」の名があります。
義弘は鎌倉後期から南北朝時代にかけて作刀し、両時代の特徴を示した作が現存しますが、この稲葉江は南北朝期の特徴を示した作となっています。
<山城国>来国俊、了戒、平安城光長
<大和国>竜門延吉、当麻国行、尻懸則長、手掻包永、保昌貞宗
<越中国>呉服郷則重、江義弘
<近江国>中堂来光包
<相模国>新藤五国光、行光、正宗、貞宗
<丹波国>丹波来畠国俊
<因幡国>因幡小鍛冶景長
備前国>吉岡一文字助吉、古長船長光、景光、畠田真守、雲生、古元重、和気重助
<備中国>中青江直次
<備後国>古三原正家、国分寺助国
<周防国>古二王清綱、清永
<筑前国>良西、入西、西連、実阿、金剛兵衛盛高
<肥後国>古延寿国村、国泰
<薩摩国>中波平安行、家安