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業物について


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■ 業物とは

業物(わざもの)とは切れ味の良い刀のことです。寛政九年(1797年)、遠州浜松藩士、柘植平助方理が著書『懐宝剣尺』に刀を切れ味によって分類した物を載せたのが始まりです。選定にあたっては、据物斬り(すえものぎり)の斬り手である須藤五太夫睦済、首斬り朝右衛門こと山田朝右衛門吉睦(よしちか)に協力を得て編纂しました。一般的に佩刀する事の多い新刀を主に載せています(新々刀については記載はありません)。切れ味によって最上大業物(さいじょうおおわざもの)、大業物(おおわざもの)、良業物(よきわざもの)、業物(わざもの)の4ランクがあります。この約30年後に、朝右衛門吉睦が『古今鍛治備考』という著書を発行し、『懐宝剣尺』の業物ランクを、その後の試し斬りの経験から追加訂正しています。載せている刀工数では『懐宝剣尺』の約5倍に当たる数を載せていますが、全ての刀を試した訳ではなく、長年の役務上の経験から観刀によって分類をしたものも含まれると思われます。なお、『懐宝剣尺』では、最上大業物に14工、大業物に19工、良業物に54工、業物に90工を挙げています。
ランク付けに際しては、40歳くらいから50歳くらいの男か、普段力仕事をしている骨組みの硬い男で試したようです。浅右衛門家は代々将軍家や大名家の刀剣類を試し斬りしてその切れ味を判定する役柄で、本来奉行所の同心がやるべき罪人の首切りをアルバイト的に行っていました。その代わりに死体をもらい受ける権利を手に入れ、それによって大名家などからの試し斬りの依頼を受け報酬を受けていました(浅右衛門は幕府から知行など貰っていないので、いわば浪人とも言えます)。

■ 山田流試し斬り

山田浅衛門家は八代、明治まで代々続きました。四代目の死後、実子が居なかったので奥州に嫁いでいた三代目の娘の子を養子に迎え、五代目としました。この浅衛門の時に「浅右衛門」という名前を「朝右衛門」と改名し、五代吉睦は初代以来の名人と言われています。
土壇 試し斬り用の柄
土壇のイラスト 試し斬り用の柄のイラスト
雄山閣「日本刀大百科事典」福永酔剣氏著より
試し斬りには「生き試し」、「死人試し」、「堅物試し」の三つがあります。江戸初期には時代劇によく出てくる辻斬りが横行し、これがいわゆる「生き試し」で関白秀次などは「殺生関白」などと恐れられたと言います。これには罪のない一般の人が対象とされましたが、罪人の場合もあり、時代が下がると死罪の罪人が対象となりました。山田家では前述のように死罪になった罪人の死体をもらい受け、これにより試し斬りを行いました。
試し斬りを行うには、死体を両手を挙げた状態で土壇(どだん)の竹棒の間に横向けに乗せて固定し、乳割り(下記の部位参照)以上の部位を斬ります。また、山田流では試し斬りの際には刀身を上の図のような特別な柄(つか)に入れて使用しました。この柄は丸く削った二枚の板の内側を茎(なかご)が入るように削ってあり、その二枚の板を合わせて片端を鋲で止め、扇子のように開くようにしてあります。開いた状態で茎(なかご)を入れ、閉じて2個の鉄の環を通して固定します。数個空けてある目釘穴に茎(なかご)の目釘穴を合わせて鉄の目釘を入れて固定します。刀身がぐらつく時は柄とのすき間にクサビを打ち込んで固定します。
部位の名称
部位の名称の図 斬る場所の名称は時代や流派によって違い、初代浅右衛門は宝永(1700年頃)の人ですので、江戸初期には左の図の右側の名称が使われていたようです。茎(なかご)に斬り落とした箇所の名前が切られている場合がありますが、江戸初期の摺付けは肩の線で肩胛骨(けんこうこつ)などがあって堅い部分ですが、江戸末期の摺付けは鳩尾(みずおち・みぞおち)の部分で、背骨と肋骨の末端しか骨がないので斬りやすい箇所となり、同じ名称でも斬れ味は全然違うことに注意が必要です。
山田流名称で堅い部分から挙げると
@太々
A両車
B雁金
C乳割り
D脇毛
E摺付け
F車先
一の胴、二の胴、三の胴となります。
これ以外に「唐竹割り(土壇に馬乗りにさせて背骨を縦に斬る)」など色々な名称があります。

図は雄山閣「日本刀大百科事典」福永酔剣氏著より

▼ 斬り方

山田流斬り方
山田流試し斬りの構えの図
山田流試し斬りの構えは独特です。柄を握る際は両拳をくっつけて握ります。こうすると刀にスピードが出るのだそうです。足は剣道などのように左足を引いたりせず、両足を揃えて肩幅くらいに広げて立ちます。刀を振りかぶって後ろ向きにグッとくの字に反り、振り下ろします。この時、振り下ろす刀が頭の上に来たときには、上の図の右側のように肘を真っ直ぐ伸ばします。このまま肩の付け根を中心に円を描くように振り下ろします。円が大きければ大きいほど刀のスピードは上がります。目指すのは横たわっている死体ではなく、土壇です。切り終えた時には図の左側のように前かがみになっています。しかし土壇まで切り込んでしまうと刃先が壊れる場合があるので、糠袋を死体の下に敷いたりしたそうです。
重ねて斬った人数によって、以下のような名称があります。
一つ胴
前述のように一人を土壇に横向きに寝かせて斬るものです。
二つ胴
同じ形で横にもう一人互い違いに寝かせて同時に二人斬ります。
三つ胴
二つ胴の上に横向きにもう一人乗せ、動かないよう縛って三人同時に斬ります。
試し斬りの結果は、刀の茎(なかご)に斬り手の名前とともに切断した部位の名前を金象嵌(きんぞうがん)で入れたりしました。これが裁断銘(さいだんめい)です。
江戸の前期においては四つ胴などの試し斬りも行われたようですが、後期になるとほとんどありません。斬るための罪人の死体が少なくなったことや、斬り手の技術が低下したからです。江戸初期の山野加右衛門(やまの かえもん)は、最上大業物とされる関の孫六兼元(せきのまごろくかねもと)の脇差で、68歳の高齢でありながら四つ胴を斬っています。最高は良業物とされる兼房(かねふさ)の刀で中西十郎兵衛という人が七つ胴を斬り、その截断銘が入った刀が残っています。現在では、巻藁に青竹を入れてこれを一つ斬れれば人間の腹部を斬ったことに等しいとされます。

■ 堅物試し

堅物試し(かたものためし)とは、鎧や鉄板など堅いものを斬って強靱性を試すもので「荒試し」とも呼ばれます。幕末には黒船来航や国内の争乱によって武士達も平和ぼけから覚め、身を守る刀の吟味にかかりました。荒試しは水戸藩、信州松代藩などで行われたようで、ここでは水戸藩と松代藩の荒試しについて少しふれてみます。

水戸藩>

まずは「棒試し」といって正眼(せいがん/基本の構え)に構えている刀の側面を、丸太のような樫の棒で力一杯殴りつけ、折れ曲がりを試しました。反対側から叩いたり棟を叩いた後に刃を叩いて刃こぼれも確かめました。
次に「巻き藁試し」です。今でもやっているように、青竹を背骨に見立てて藁の束の中に入れ、これを斬るものです。これを川などに二日ほど沈めておき、水分を含ませます。こうすると巻き藁は十数キロにもなり、丁度人を斬ったときの手応えになるそうです。
次は「鹿角試し」です。堅いものがどれほど斬れるか試すものです。堅いものを斬る場合、蛤刃といって刀の断面が貝の蛤のようにふっくらとしている方が斬れやすく、刃こぼれもしませんが、巻き藁などを斬る場合には斬れ味が良くありません。硬軟両方斬れる刃肉、刃角となるとなかなか難しいようです。
最後は「水試し」です。刀を平にして水面に叩きつけるものです。水面でも瞬間的に圧力を加えると、コンクリートのように堅くなります。これをやると、腕の無い刀工が作った下作(げさく)などはすぐに折れたようです。
幕末刀工の中で、これらの荒試しに自身のある刀工は少なく、見た目にも美しい作というのは清麿(武蔵国、四谷正宗と言われた刀工)くらいであると言われ、その兄である「真雄(さねお・信濃国)」も信州での荒試しで不死身のしぶとさを示したようです。

信州松代藩>

試し刀の一号は大慶直胤(たいけいなおたね/新々刀期の巨匠)の作で、巻き藁は八分斬れ、続けて厚み3mmほどの鍛え鉄を斬ったところ鐔元から折れたそうです。沸出来(にえでき)の愛好家が飛びつきそうな刀であったそうですが、簡単に折れてしまったようです。二号は同じく直胤の匂出来(においでき)の刀で、巻き藁は八分斬れ、続いて砂鉄を詰めた陣笠では一太刀で反ってしまい、二太刀目で刃こぼれ、刃切れ、続いて鹿角を三太刀、鍛え鉄二太刀目で刃切れがますますひどくなり、次に兜に斬りつけると大きく反り、棟打ち、平打ちで折れてしまったそうです。三、四、五号と直胤の作を荒試ししましたが、どれも日本刀としては失格であったようです。

最後に試されたのは清麿の兄である真雄の二尺一寸五分の荒沸出来の刀でした。荒沸出来なので直胤同様かと思われましたが、不死身のしぶとさであったようです。巻き藁は誰が斬っても八、九分斬れ、暑さ3cmの古鉄は一刀両断しましたが刃切れができ、そのまま鹿角を六回斬ってもビクともせず、また巻き藁を二回、砂鉄入りの張り笠、鉄製の胴、鐔を各二回ずつ、鍛え鉄と兜を各一回ずつ斬った後で、鉄の杖で棟打ち七回を喰らわせたところでやっと棟切れができ、鉄の杖で平打ち六回、棟打ち十三回やってようやく刃切れが大きくなり、平を鉄敷に三回叩きつけたところでやっと折れたそうです。このしぶとさに勘定奉行やその他役人、百余人の見物客が舌を巻いたということです。
ところが前日、真雄が沸出来と匂出来の二口を係の者に見せ、どちらが得手かと尋ねられたので、沸出来の方は自信がないと答えたところ、自信のある方は試す必要はないと言われ、自信のない沸出来の刀を試すことになったのだそうです。見事に荒試しに合格し、松代藩より長巻百振の注文が来ました。松代藩には既に直胤が納めた数十振の長巻があったのですが、武器として失格ということが判明したからです。
直胤の作刀と言えば美術刀剣愛好家の垂涎の的ですが、美的要素ばかりにとらわれて、刀本来の役割を果たせない刀はどんなに美しくても日本刀とは言えないのです。

■ 斬れ味の異名がある日本刀

斬れ味に関する異名の付いた刀が結構ありますので幾つか紹介します。

ヘシ切り長谷部

南北朝時代の山城国長谷部国重の刀で、織田信長所蔵のものです。ある日無礼な茶坊主を信長が手討ちにしようとすると、その坊主がお膳棚の下に隠れてしまったので、振り上げて斬らずに坊主の体に刀を押しつけて斬ったということから付いた名前です。現在国宝。

・波遊ぎ兼光(なみおよぎかねみつ)

南北朝期の備前国兼光の刀で、戦国時代に川を渡ろうと馬を川に乗り入れた途端に後ろから斬りつけられ、川を泳ぎ切って対岸に着いた瞬間に体が真っ二つになったというものです。

・ニッカリ青江

南北朝期の備中国青江の作で、個人銘は極められていません。幾つかの説がありますが、ある男がお化け退治に出かけた時、石灯籠のそばに子供を抱いた女がいて、その女がニッカリ笑って「坊や、あの人に抱いてもらいなさい」と言い、歩いて来る子供を斬ると、「私も抱いて・・」と女が抱きついてきたのでこれも斬りました。翌朝その場所に行ってみると、石塔が二つ首を斬られていたというものです。

籠釣瓶(かごつるべ)

室町時代の美濃国兼定の作で、茎(なかご)に「立袈裟籠釣瓶」と斬られています。立ち袈裟というのは上の試し斬りの部位の図で言う袈裟斬りで、立ったままの者を袈裟斬りにしたが、水も溜まらぬ斬れ味ということで、籠釣瓶と切っています。つまり籠で作った釣瓶では、水が溜まらないというのに引っかけています。なお、釣瓶とは井戸から水を汲むときに使う、紐や棒の先に付けた桶のことです。

八丁念仏団子刺し

敵を斬って確かに手応えがあったのに、敵はすたすたと念仏を唱えながら歩いていきます。おかしいと思って後をつけると八丁(約870メートル)も行ってから体が二つに割れたというものです。その後をつける際、刀を杖代わりに歩いていたので、道に落ちていた石が団子を串刺しにしたようになっていたということです。この刀は維新後、水戸家に買い上げられていましたが、関東大震災で焼けてしまったそうです。

■ 寝刃

寝刃(ねたば)とは刀の斬れ味を良くするために、刃先に細かい傷を付けることです。寝刃を付けることを寝刃合わせと言います。硬いものを斬る時は必要ないものですが、試し斬りの専門家が試し斬りのため人など軟らかいものを斬る時にはよく行うことです。刃の表面に細かい凹凸を付けることにより、斬る対象に接するのは凸の部分のみとなり、摩擦が少なくなって良く斬れるようになるという訳です。
茎(なかご)の鑢目のように大筋違いや横(刃に対して垂直)というように砥石を当てます。緊急の時は草鞋(わらじ)で刃以外の平地を元から先に向かってこするということもあり、また砂山に刀身を何度も突き刺すなどとも聞いたことがあります。塚原卜伝は「武士のいつも身に添え持つべきは、刃つくる為の砥石なるべし」と言っていますが、研ぎ師や試し斬りの専門家でないと難しいものです。

■ 刀は折れる

新々刀の祖と言われる水心子正秀(すいしんし まさひで)は、初期には新刀期の巨匠・助広(すけひろ)の濤乱刃(とうらんば)という、波が押し寄せるような派手な刃文にあこがれ、このような作を模倣していました。ところが、中年を過ぎると一変して地味な作風に転向しています。理由は派手な刃文の刀は折れやすいことに気づいたからです。
注)地味な作風に転じた理由は材料にあるとする説もあります。日本刀の材料南蛮鉄をご覧下さい。
日本刀の科学で書きましたように、日本刀には硬い部分(刃の部分)とそれよりも軟らかい部分(刃以外の地の部分)があります。派手な刃文というのは鎬筋(しのぎすじ)近くまで焼刃があるものもありますが、こういった刃文の刀では堅い部分が刀身の面積の大半を占める事になり、堅い反面折れやすくなるのです。しかし、刃文の高さ、つまり焼きの頭を低く押さえておくと、刃文の境界から棟にかけて、段階的に柔らかい部分ができ、堅い部分から急激に柔らかくならないため折れ難くなるのです。
戦時中、軍刀の需要が急増し、その当時の現代刀匠によって軍刀が量産されました。しかしにわか刀匠も出現し、材料不足もあって新作刀には不安があったので、過酷な検査が行われたそうです。軍から優先的に材料を配給される受命刀匠になるには、この過酷な試験に合格しないといけませんでした。
それにはまず、下の絵のような機械で折れ曲がりを試されました。紐の先には10キロほどの重りが付いていて、紐を引っぱって下に横たえた刀の上に落とすというものでした。柱の一本には目盛りがあって、どのくらいの高さから落としてどれくらい曲がったかを検査します。この結果は刀匠によって様々で、曲がりやすいものとそうでないものとあったようです。平地に落とした後は、刃の上や棟側に落として調べます。鍛錬の悪いものは15cmほどの距離から棟側に落とすと折れてしまったそうです。これも棟側の衝撃に強いもの、弱いものそれぞれであったようです。
そこで使った刀の断面を調べた結果、芯鉄の入れ方が影響していることが分かりました。棟側に大きな衝撃を受けた場合、刃切れが出来ます。芯鉄は比較的軟らかい鉄を使っているので、刃鉄と芯鉄が密着していると、軟らかい芯鉄部分で刃切れは止まります(芯鉄の位置の左側の図)。しかし、芯鉄と刃鉄の距離が離れている(右側の図)、つまり間に硬い皮鉄があると皮鉄の部分にまで刃切れが進むことになります。こうなると刃切れに留まらず、折れる危険性が出てくるのです。
戦時中の衝撃試験機 芯鉄の位置
衝撃試験機の図 芯鉄の入り方の図
雄山閣「日本刀大百科事典」福永酔剣氏著より 黄色は刃鉄、グレーは芯鉄