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奈良時代
和銅三年(710年)-延暦十三年(794年)

関連ページ: おさるの日本刀豆知識-日本刀の歴史・上古刀の部

− 3.貴族とその暮らし −

ここでは貴族とはどういった者達を指すのか、またいくら給料をもらっていたのか、どんな住まいに住んでいたのか、どのような物を食べていたのかなどについて解説します。また華やかな生活を送った貴族とは対照的な、下級官人についても随時比較しながら解説します。

■ 位階

役人を指す言葉に官人(かんじん)という言葉があります。これは四等官(しとうかん/各役所の幹部)、品官(ほんかん/専門職)に任官している者を指す言葉です。しかし、これら四等官や品官の元で様々な雑務を行う雑任(ぞうにん)と称される者達や、四等官制が適用されていない、地方の郡司軍団の大毅(だいき/指揮官)なども含め、つまり役人全体を官人と呼ぶ場合もあります。このサイトでは、役人全体を官人と呼びます。
貴族とは、官人の中でも五位(ごい)以上の位階(いかい)を与えられた者を言います。位階とは朝廷内の序列(じょれつ/ランク)を表すもので、飛鳥時代に定められた冠位十二階を唐に習って位階制度に改めたものです。天皇が位階を授ける事を「○位に叙す(じょす)」、位階を授かることを「○位に叙位(じょい)する」などと言います。
位階には正一位(しょう いちい)から少初位下(しょう しょいの げ)までの30段階ありました。
一位から三位(さんみ)はそれぞれ正(しょう)と従(じゅ)に別れますので、一位は正一位、従一位の2ランクとなり、一位から三位までは6段階あることになります。また四位(しい)から八位までは正が上、下に、従も上、下の2つに分けられ、正四位上(しょう しいの じょう)、正四位下(しょう しいの げ)、従四位上(じゅ しいの じょう)、従四位下(じゅ しいの げ)となり、四位には4段階あることになります。従って、四位から八位までは20段階あることになります。
また最下層の初位(しょい)は、大初位上(だいしょいの じょう)、大初位下(だいしょいの げ)、少初位上(しょうしょいの じょう)、少初位下(しょうしょいの げ)と4段階あり、合計で30段階あることになるのです。従って、同じ位階でも位階によっては2ランク、あるいは4ランクに分かれていたのです。
注) 三位は「さんみ」、四位は「しい」、七位は「しちい」と読み、正は「しょう」、従は「じゅ」と読み、上は「じょう」、下は「げ」と読みます。従って従四位下は「じゅ しいの げ」と読みます。
貴族はおよそ120人、六位以下、初位以上の位階を持つ者がおよそ600人、位階を持たない下級官人はおよそ6,000人いたと言われます。従って、貴族は官人全体のおよそ2パーセントにすぎません。いかに少なかったかが分かります。
このように官人は位階によってランク付けされ、五位以上の位階を持つ者が貴族とされ、様々な面で優遇されました。給料も五位と六位では倍の差があり、平城京内に与えられる宅地の面積も位階が高いほど平城宮近くに広大な宅地を与えられ、位階が低いほど平城宮から遠くに、またその宅地面積も小さくなりました。
なおこのサイトでは、五位以上の貴族と呼ばれた者達の中でも、特に三位以上を上級貴族、四位を中級、五位を下級貴族と呼びます。また、六位から初位までの者と、雑任(ぞうにん)と呼ばれた者達を総称して下級官人と呼びます。

▼ 内位と外位

位階制度には、内位(ないい)と外位(げい/がいい)の二系統がありました。
内位は内官(ないかん/中央官)に与えられた位階です。外位は、もともとは天武天皇(在位:673年-686年)の時代に起こった壬申の乱(じんしんのらん/672年)において、功績のあった地方豪族出身者や、蝦夷(えみし)隼人(はやと)の功績者に対する褒美(ほうび)として臨時的に与えられたものでしたが、大宝律令によって制度化され、外正五位上(げ しょう ごいの じょう)から外少初位下(げ しょう しょいの げ)までの20段階が定められました。
外位の対象者は、国博士(くにのはかせ)、国医師(くにのいし)郡司(ぐんじ)、軍毅(ぐんき/軍団の指揮官)などを中心とした外官、つまりは地方官でした。そして外官を支配したのは中央から派遣された内位を授かった国司(こくし/県知事)、つまりは内官でしたので、外位の制度は中央による地方の支配を示したものだと言えます。実際、外位には四位(しい)以上の位階は無く、外位の者は決して四位以上に昇る事は無く、直接政治に関わる公卿(くぎょう/朝廷の最高幹部)になることはなかったのです。
ところが、神亀五年(七二八)三月二十八日の格(きゃく/法令)によって、内・外の位階制に大きな改訂が加えられました。
これまで内官には適用されなかった外位が内官にも適用される事になり、また内五位と外五位との間に大きな報酬面での差が設けられ、外五位の位田(いでん)、位禄(いろく)は内五位の半分と規定されたのです。
五位以上は貴族と呼ばれ、六位とはあらゆる面で大きな待遇差がありました。例えば五位と六位では収入面では倍の差があったのです(貴族の収入参照)。従って、六位から五位に昇格することは大出世とも言えるのです。しかし、神亀五年の規定により、正六位上(しょう ろくいの じょう)から従五位下(じゅ ごいの げ)に昇格する際に、その者の家柄などによってその後の出世コースが分けられたのです。家柄が良い者は正六位上から内位の従五位下へ昇格し、いわゆる中央の貴族となりましたが、そうでない大半の者は外従五位下に叙せられ、同じ従五位でも内位のそれとは給料は半分、しかも内位とは異なりそれ以上昇進することはなく、一生下級貴族として生きる事が決定づけられたのです。

▼ 公卿と殿上人

朝廷の最高幹部は、現在の内閣に当たる太政官(だいじょうかん)に務める太政大臣(だいじょうだいじん)左大臣(さだいじん)右大臣(うだいじん)内大臣(ないだいじん)大納言(だいなごん)中納言(ちゅうなごん)であり、これらの官職は三位(さんみ)以上の位階に叙されなければ就く事は出来ず、この三位以上の位階に叙せられた最高幹部は公卿(くぎょう)と呼ばれます。
また公卿と呼ばれる最高幹部には、同じく太政官に所属する参議(さんぎ)という官職も含まれます。この参議は四位(しい)以上の位階に叙された者の中から優秀な者が選ばれたため、四位の位階であっても公卿という朝廷の最高幹部の仲間入りが出来ました。
また平安時代になると、天皇が日常を過ごす場所が清涼殿(せいりょうでん)と呼ばれる殿舎となりますが、清涼殿の南にある殿上の間(てんじょうのま)に昇る(入る)事を、天皇から特に認められる事を昇殿(しょうでん)と呼びます。三位(さんみ)いじょうの位階を持つ公卿(くぎょう)はもちろん、四位(しい)の者でも参議であれば公卿として昇殿が許されました。
また参議以外の四位の者や五位の者でも、天皇から特に許可された者は殿上の間に名札がかけられ、天皇近くに仕えたり、宿直を務めたり、必要な時は殿上の間に控える事が許されました。
そして平安時代になると、天皇の秘書を務める蔵人所(くろうどどころ)が設置されますが、その職員のうち、天皇の食事の際の世話を行う者は六位蔵人(ろくいのくろうど)と呼ばれ、六位の位階の者が務めました。従って天皇の近くで世話をする六位蔵人は、貴族ではありませんが特別に昇殿が許されました。
こうした昇殿を許された者のうち、参議でない四位の者、および五位の者、六位蔵人を殿上人(てんじょうびと)と呼び、天皇近くに仕える事から他の同じ位階の者よりも特別扱いされました。しかし、昇殿は天皇一代限りのもので、天皇が代わると改めて許可を得られなければ昇殿は出来ませんでした。従って昇殿を許された者は天皇のお気に入りであって、たとえ公卿であっても天皇が昇殿を許さない場合もありました。
このように、三位(さんみ)以上を上級貴族、五位以上を貴族と呼ぶと書きましたが、六位の位階であっても貴族のような扱いを受けた者もおり、また公卿でも天皇に気に入られなければ昇殿は許されず、必ずしも五位以上の者だけが特別扱いされた訳ではなく、例外もあったのです。

▼ 蔭位の制

蔭位(おんい)」とは、父や祖父のおかげ(蔭)で賜る位階という意味で、高い位階を持つ者の子や孫に、親や祖父の位階に応じて一定以上の位階に叙する制度です。
一位の嫡子(ちゃくし)には従五位下(じゅ ごいの げ)、庶子(しょし)には正六位上(しょう ろくいの じょう)を、以下段々と下がって五位の嫡子には従八位上(じゅ はちいの じょう)、庶子には従八位下(じゅ はちいの げ)を与えるというものです。また、三位(さんみ)以上の上級貴族には孫にも適用され、孫は子よりも一階低い位階が与えられました。
注) 昔の日本は身分の高い者は一夫多妻で複数の妻を持ちました。律令制下においては最初に結婚した女性は嫡妻(ちゃくさい)と呼ばれ、嫡妻以外の側室(そくしつ)と区別されました。また嫡妻は一人しか持てず、嫡妻が産んだ長男を嫡子と呼び、父親の跡継ぎとされました。そして庶子とは側室が産んだ子の事です。日本史において、親兄弟同士の争いが多く出てきますが、それはほとんどが嫡子と庶子、あるいは庶子同士の争いであり、片親が違う者同士の争いが多かったのです。
平安後期になると、嫡子は必ずしも嫡妻が産んだ子ではなくなり、嫡子はふさわしい者を父親が決めるようになり、妻の中で最も身分が高い者を正室(せいしつ)と呼ぶようになりました。また正室は一人とは限らず複数人の場合もありました。正室が一人でないといけないと取り決められたのは江戸時代になってからでした。
728年、五位の中でも正五位(しょう ごい)と従五位(じゅ ごい)の差別化を図るため、従五位の子への蔭位を従八位上から大初位(だいしょい)へ引き下げ、また平安時代初期には四位(しい)の孫にも蔭位が適用されるようになりました。
当初、蔭位は大学寮(だいがくりょう)で一定期間学んだ者、あるいは舎人(とねり)として勤務した後に授けられていましたが、795年に21歳になれば授けられる事になりました。
位階が無い者でも、式部省の官僚採用試験に合格すれば位階が授けられました。しかしこれには大学寮でかなり勉強しなければ合格できませんでした。しかも、授けられる最高位は正八位上(しょう はちいの じょう)でしたので、蔭位に比べるとはるかに低いです。貴族の家に産まれたというだけで破格の待遇を受けていたということです。

▼ 散位

通常、官人はその位階にふさわしい(相当する)官職に就く事になりますが、位階のみで官職に就かない者を散位(さんい)と呼びます。
叙位(じょい/位階を授ける事)されながら官職に就かないとはどういう理由によるものかと言うと、病気によって職を辞すという場合や、組織の統廃合によって就いていた官職が廃止になった場合、上の位階へ昇格したが相当の官職に空きがなく、新たな官職が与えられるまで官職に就けない場合などがありますが、前述の蔭位の制にも原因がありました。官職には限りがあり、また定員も定められています。しかし、蔭位の制によってその能力とは別に、自動的に位階が与えられる者が増えたため、皆に何らかの官職を与えることなど出来なくなっていたのです。
散位の者のうち、在京の五位以上は式部省所属の散位寮(さんいりょう)に常勤し、六位以下は交代で務め、地方の者はそれぞれの国衙(こくが/県庁)に交代勤務し、様々な雑務を務めました。

▼ 位子

位子(いし)とは、内六位以下、内八位以上の官人の嫡子(ちゃくし/正室の子)を指します。位子は21歳になって官職に就いていない者は試験を受け、その結果によって三等級に分けられました。
礼儀正しく書道、算術に優れた者は上等、体が頑丈で弓馬に優れた者は中等、虚弱で書道も算術もできない者は下等と区分され、中等は兵部省へ送られて兵衛(ひょうえ)として仕え、上等、下等はともに式部省へ送られましたが、上等に区分された者は大舎人(おおとねり)として、下等に区分された者は雑用係の仕部(つかいべ)として仕えました。また位子は課役(かやく/庸・調・雑徭)を免除されました。
このように、位階を持つ者の嫡子には特に何もしないでも官人として登用される道があったということです。また兵衛に定員不足が生じた場合は嫡子ではなく、庶子(しょし/側室の子)も試験の対象となりました。

▼ 白丁

位子に対し、外位の六位以下八位以上の嫡子・庶子、初位(内位・外位)の嫡子・庶子、無位の嫡子・庶子、および官職に就いていない庶民などを白丁(はくてい)と呼びます。白丁は位子とは異なり、父親がたとえ位階を持っていたとしても、それは外位、または最下層の位階であるため、内位とは異なり子供まで優遇を受ける身分ではありませんでした。白丁は、下級官人である帳内資人などとして仕えました。

▼ 栄爵

栄爵(えいしゃく)とは、従五位下(じゅ ごいの げ)の別称です。律令制下において、六位から従五位下に叙せられることを叙爵(じょしゃく)と呼び、栄誉ある事とされました。それは、五位と六位では身分に大きな差があったからです。従ってこのような別称が産まれました。
平安時代中期頃になると、宮殿の修理や立て直し、寺社の造営など朝廷に急な出費が生じた時などに、私財を寄付する見返りとして官位(官職位階)が与えられるという事が増えました。これは公事(くじ)を務めて功を成すという事から成功(じょうごう)と呼ばれました。つまり平たく言うと成功はお金で官位を買うという事です。そしてこの買官の対象となったのが栄爵でした。また官職としては何かと見返りが多い国司(こくし)が好まれました。
注) 成功の成を「じょう」と読むのは、これが呉音だからです。呉音について詳しくは、平城京 豆知識 平城京の読み方をご覧下さい。

▼ 巡爵

巡爵(じゅんしゃく)とは、式部丞(しきぶのじょう)民部丞(みんぶのじょう)外記(げき)史(ふひと/ふみひと)蔵人(くろうど)近衛将監(このえのじょう/このえのしょうげん)衛門尉(えもんのじょう)など、特定の六位相当の官職に就く者のうち、最も長くその職を務めた者1人に対し、毎年正月に行われる除目(じもく/任命式)において、従五位下を授けられることです。
平安中期頃、天皇の秘書的役割を果たす蔵人のうち、六位の蔵人に対してその長年の勤務をねぎらうものとして上位の位階を与え、諸国の国司(こくし/県知事)に任命するといったことがその始まりでした。なぜ国司に任命することがねぎらいになるのかと言うと、地方の国を治める国司に当時大きな権限が与えられていたからです。税の徴収に苦労した朝廷は、国司に大きな権限を与えて統治させ、中央に決められた税を送りさえすれば、後は国司に任せっきりにしたのです。従って国司の中にはあくどいやり方で私腹を肥やし、莫大な財を蓄え、中央の有力貴族とも結び付いてやりたい放題だったのです。このあたりのことについては平安時代の項で詳しく解説する予定です。

■ 官職

位階を与えられた者は、与えられた位階に相当する(ふさわしい)官職(かんしょく)が与えられました。これを官位相当制(かんいそうとうせい)と呼びます。官職とは、朝廷内における職務の事で、現在の内閣に当たる太政官(だいじょうかん)を例にすると、左大臣右大臣大納言(だいなごん)中納言(ちゅうなごん)などがあります。これら官職にはそれにふさわしい位階が定められていて、その位階に達しなければその官職には就く事が出来ませんでした。
このように、律令制下においては功績を挙げた者はより上の位階を与えられ、その位階に相当するより格が高い官職に就く事が出来たのです。従って位階と官職はセットであり、位階と官職をセットで官位(かんい)と表現します。
注) 時代劇などで、三位(さんみ)や四位(しい)といった、位階を指して「官位」と表現している事がよくありますが、これは「位階」であって「官位」ではありません。

▼ 内官と外官

内官(ないかん)とは、都にある役所、またそこにある官職を言います。京官(きょうかん)とも呼ばれます。都にある二官八省一台五衛府京職(きょうしき)などが内官にあたり、それに対し地方の役所や官職を内官に対して外官(げかん)と呼びます。地方の国司(こくし)郡司大宰府などが外官にあたります。はじめは内官には内位を、外官には外位を与え、中央官と地方官を差別化するものでしたが、内官も外位の対称とされるようになりました。
六位から貴族と呼ばれる五位に昇格する際、家柄などによっては内官であっても外位の五位とされる場合があったのです。外五位と内五位とではその待遇に大きな差がつけられ、出世コースに進む者と一生下級役人コースとに振り分けられるようになったのです(内位と外位参照)。

▼ 四等官

律令制下における役所には、それぞれ長官、次官、判官(はんがん/三等官)、主典(さかん/四等官)が配属され、これを四等官(しとうかん)と呼びます。長官や次官を表す漢字は各役所によって異なり、例えば式部省などの省においては長官は卿、次官は輔、判官は丞、主典は録といった字が当てられ、京職(きょうしき)といった、独立性の高い役所である職(しき)においては、長官は大夫、次官は亮、判官は進、主典には属といった字が当てられ、地方を統治する国司においては長官は守、次官は介、判官は掾、主典は目といった字が当てられました。
このように長官や次官を表す漢字は役所によって異なりますが、読みは全て長官は「かみ」、次官は「すけ」、判官は「じょう」、主典は「さかん」と読みます。例えば式部省では長官は式部卿(しきぶのかみ)、次官は式部輔(しきぶのすけ)、判官は式部丞(しきぶのじょう)、主典はしきぶ録(しきぶのさかん)となり、山城国の国司であれば長官は山城守(やましろのかみ)、次官は山城介(やましろのすけ)、判官は山城掾(やましろのじょう)、主典は山城目(やましろのさかん)となります。
注) 次官、判官、主典については、その役所あるいは国の規模によってそれぞれに大、少がある場合があります。例えば先に挙げた式部省の場合、次官には式部大輔(しきぶおおいのすけ)、式部少輔(しきぶすないのすけ)があり、判官にも式部大丞(しきぶおおいのじょう)、式部少丞(しきぶすないのじょう)があり、主典にも式部大録(しきぶおおいのさかん)、式部少録(しきぶすないのさかん)があります。大・少がある場合は、「大」の方が上位となり、読みは「大」は「おおい」、少は「すない」と読みます。
注) 規模が小さな役所や国においては、次官を置かなかったり、主典を置かなかったり、判官・主典ともに置かれなかったり、次官・判官が置かれなかったりする場合がありますので、全ての役所・国に四等官が置かれた訳ではありませんが、律令制においてはこの四等官制が基本でした。
これら四等官の職掌(しょくしょう/仕事内容)は、長官は「惣判」、つまり役所内の仕事を総括し、全ての事柄の決定権を持ちました。次官の職掌は長官と同じとされ、判官は「糺判」、つまりは役所内を取り締って正し、主典が作成する書類を審査しました。この三等官である判官までが決裁権を持ちました。主典には決裁権はなく、記録や書類の作成、公文書の読申(どくしん/読み上げること)などを職掌としました。
長官と次官の職掌が同じとされていたのは、最終決裁者は五位以上の者とされていたからです。長官が五位以上で時間が六位であれば、当然上位である長官が決裁権を持ちますが、長官、次官ともに五位以上であった場合、通常の事は次官が決裁して長官は関わらず、重要な事のみ長官が決裁するというのが通例でした。従って、次官が最終決裁者の場合もあったため、長官と次官の職掌を同じとしたのです。
注) 位階の項で解説しましたが、同じ五位と呼ばれる位階でも、五位(正確には四位以下-八位まで)にはそれぞれ4ランクありました。例えば五位であれば正五位上(しょう ごいの じょう)、正五位下(しょう ごいの げ)、従五位上(じゅ ごいの じょう)、従五位下(じゅ ごいの げ)となります。従って同じ五位であっても、一番下の従五位下と一番上の正五位上とでは、3ランクも差があるのです。
主な役所の四等官、それに官位相当をまとめると下のようになります。官位相当とは、その官職に就くのにふさわしい(相当する)位階のことです。カッコ内は官位相当、数字は定員です。
官司  長官(かみ)  次官(すけ)  判官(じょう)  主典(さかん) 
太政官  太政大臣(正・従一位/1)
左大臣(正・従二位/1)
右大臣(正・従二位/1)
内大臣(正・従二位/1) 
 大納言(正三位/2)
中納言(従三位/3)
参議(相当なし/不定)
 少納言(従五位下/3)
左右大弁(従四位上/各1)
左右中弁(正五位上/各1)
左右少弁(正五位下/各1)
大外記(正六位上/2)
少外記(正七位上/2)
左右大史(正六位上/各2)
左右少史(正七位上/各2) 

省 
卿(正四位下/1)  大輔(正五位下/1)
少輔(従五位下/1) 
大丞(正六位下/1)
少丞(従六位上/1) 
大録(正七位上/2)
小録(正八位上/2) 
(大職)  大夫(従四位下/1)  亮(従五位下/1)  大進(従六位上/1)
少進(従六位下/2) 
大属(正八位下/1)
少属(従八位上/2) 
職(小職)  大夫(従四位下/1)  亮(従五位下/1)  大進(従六位上/1)
少進(従六位下/1) 
大属(正八位下)/1
少属(従八位上/1) 
(大寮)  頭(従五位上/1)  助(正六位下/1)  大允(正七位下/1)
少允(従七位上/1) 
大属(従八位上/1)
少属(従八位下/1) 
寮(小寮)  頭(従五位下/1)  助(従六位上/1)  允(従七位上/1)  大属(従八位下/1)
少属(大初位上/1) 
(大司)  正(正六位上/1)  佑(従七位下/1)  大令史(大初位上/1)
少令史(大初位下/1) 
司(下司)  正(従六位上/1)  佑(正八位下/1)  令史(少初位上/1) 
衛門府
左右衛士府 
督(従四位下/各1)  佐(従五位上/各1)  大尉(従六位下/各2)
少尉(正七位上/各2) 
大志(正八位下/各2)
少志(従八位上/各2) 
左右兵衛府  督(従四位下/各1)  佐(従五位上/各1)  大尉(正七位上/各25)
少尉(従七位上/各25) 
大志(従八位上/各1)
少志(従八位下/各2) 
左右近衛府  大将(従三位/各1)  中将(従四位下/各2)
少将(正五位下/各2) 
将監(従六位上/各1-10)  将曹(従七位下/各4-20) 
大宰府  帥(従三位/1)  大弐(正五位上)
少弐(従五位下) 
大監(正六位下)
少監(従六位上) 
大典(正七位上)
少典(正八位上) 
国(大国)  守(従五位上)  介(正六位下)  大掾(正七位下)
少掾(従七位上) 
大目(従八位上)
少目(従八位下) 
国(上国)  守(従五位下)  介(従六位上)  掾(従七位上)  目(従八位下) 
国(中国)  守(正六位下)  掾(正八位上)  目(大初位上) 
国(下国)  守(従六位下)  目(少初位上) 
四等官の長官や次官に用いる漢字は、既に解説した通り役所によって異なります。例えば上の表のように国の長官は「守」、省の長官は「卿」、大宰府の長官は「帥」です。具体的に言うと、「山城守」、「式部卿」、「大宰帥」などとなります。これら使われる漢字は異なっても、読みは全て長官なら「かみ」と読むということは既に解説しました。
しかし、NHKの大河ドラマや他のホームページでは、例えば式部卿は「しきぶきょう」、大宰帥は「だざいのそち」と読んでいます。私は、やはりこれらは「かみ」と読むべきではないかと思います。先の例で言えば、式部卿は「しきぶきょう」ではなく「しきぶのかみ」、大宰帥は「だざいのそち」ではなく「だざいのかみ」と読むべきだと思います。
そもそも、四等官のそれぞれの漢字に役所によって異なった漢字を当てているにも関わらず、それらをみな「かみ、すけ、じょう、さかん」と読ませたのには意味があったはずです。律令制下では非常にたくさんの役所・官職がありました。そしてそれらの役所ごとにそれぞれ異なった四等官の漢字を当て、文字によって役所の格付けを行ったのではないでしょうか。上の表のように、同じ長官であっても省の長官は正四位下(しょう しいの げ)、大国の長官は従五位上(じゅ ごいの じょう)と、省の長官の方が5ランクも上なのです。
漢字によってその格付けを行ったとしても、数多くある役所に所属する四等官の長官を「かみ」と読んだり、「きょう」と読んだり、「そち」などと読んでいたのでは覚えきれず、間違って読んでしまうかもしれません。役所によって漢字を変えたとしても、読みは全て「かみ、すけ、じょう、さかん」としておけば、言い間違える事もありませんし、どこの役所の長官も「何々のかみ」で良いのですから簡単です。
式部卿を「しきぶきょう」などと読むようになったのは最近ではないかと思います。四等官の漢字の中には近代の軍隊の階級と同じような名称があるため、こういった近代的な読みに合わせたのではないでしょうか。これには確証がありませんし、こういったことを解説した物も見たことがありませんが、私はやはりみな「かみ、すけ、じょう、さかん」と読むべきと思います。従って、このサイトでは官職名にふりがなを振る場合、この考えに基づいたふりがなと、一般的に特別な読みをされるものがあればそれを併記します。
注) 天皇の秘書的な役割を果たした蔵人所(くろうどどころ)という役所があります。ここは四等官制とはなっていないため、事実上の長官である頭は「かみ」ではなく「とう」と読みます。

▼ 長上官と番上官

長上官(ちょうじょうかん)とは、官職のうち毎日出勤して勤務する官です。内長上(うちのちょうじょう)と外長上(げのちょうじょう)に分けられます。内長上官は年間240日以上出勤しないと考課の対象とはなりませんでした。つまり昇進・昇格の査定をしてもらえなかったということです。1年を365日とし、240日出勤したとすると、年官125日の休日があるということになります。これはおよそ月9日の休日となります。従って、週休2日ぐらいの感覚です。四等官品官(ほんかん)、内舎人(うどねり)、五位以上の散位などが内長上官にあたります。
また、地方官が外長上官にあたりますが、国司はこれにはあたらず、郡司軍団の大・少毅、国博士、国医師などが外長上官にあたります。評価基準は内長上官に比べて厳しかったようです。
一方、番上官(ばんじょうかん)とは、グループ分けされて当番制で出勤する者達です。雑任(ぞうにん)などの下級官人、六位以下の散位などがこれにあたり、規定では年官140日以上の勤務が必要とされていました。

▼ 品官

各省に属しながら、四等官の下に属するのでは無く、特殊技能を必要とする専門職として独立した局(きょく/事務所)を設け、官位相当が定められた官職があり、これを品官(ほんかん)と呼びます。中務省侍従(じじゅう)内記(ないき)監物(けんもつ)刑部省の判事、大学寮の博士や典薬寮の医師などが品官にあたります。

▼ 令外官

日本の律令制は当時の中国の制度を手本として、というか、丸ごと真似て作られました。従って、時が経つにつれ日本の実情に合わない部分が出てきました。律令制においては、政治は律(りつ)という、今で言う刑法と、令(りょう)という、今で言う政治・経済に関わる行政法に基づいて行われました。従ってあらゆる物が法によって規定されていました。しかし、仕事を進めていくうちに、令(りょう)では定められてはいない、新たな官職が必要となってきました。そこで新たに設けられたのが令外官(りょうげのかん)です。これは文字通り令(りょう)の外にある(規定されていない)官職という意味です。令外官は主に平安時代になって設けられたもので、主な令外官は下記の通りです。
官職名  読み  説明 
摂政  せっしょう  天皇の代行として政(まつりごと)をつかさどる重職です。推古天皇(すいこてんのう)の時の聖徳太子など、古くは皇族が任ぜられましたが、平安初期の清和天皇(せいわてんのう)の時に、太政大臣(だいじょうだいじん)であった藤原良房(ふじわらの よしふさ)が臣下として初めて摂政となり、平安中期の冷泉天皇(れいぜいてんのう)の治世からは、天皇がまだ幼くて政務が執れない時に摂政を、天皇が成人してからはその補佐役として関白(かんぱく)を置くという事が慣例となりました。
制度上は関白は天皇の臣下とされましたが、摂政は天皇の代行として、天皇に等しい権限を持ちました。藤原良房が臣下として初めて摂政を務めてからは、摂政は藤原氏の中でも良房が出た藤原北家(ほっけ)から任ぜられるようになり、平安中期の藤原道長(ふじわらの みちなが)以降は道長の子孫が独占し、江戸時代に至っています。 
関白  かんぱく  関白とは、「百官の上奏に関り(あずかり)、意見を白す(もうす)」という意味で、下からの意見を聞き、天皇に意見を述べる役目です。平安初期の宇多天皇(うだてんのう)が太政大臣であった藤原基経(ふじわらの もとつね)に対して出した勅書(ちょくしょ/命令書)に、初めてこの言葉が見られ、以後次第に関白という言葉がその職名となりました。制度上は関白は天皇の臣下とされますが、実際の権限は摂政とほとんど変わらないものでした。
摂政・関白は藤原北家が独占し、特に平安中期の藤原道長以後はその子孫が独占しました。鎌倉時代になると道長の家系は近衛家(このえけ)、九条家(くじょうけ)、二条家(にじょうけ)、一条家(いちじょうけ)、鷹司家(たかつかさけ)の五つに分家し、この五家が交互に摂政・関白となり、五摂家(ごせっけ)と呼ばれました。従って、安土桃山時代に豊臣秀吉・秀次が関白となったのは異例中の異例でした。
ちなみに、秀吉は太閤(たいこう)と呼ばれますが、太閤とは前関白を指します。また、時代劇などで「摂関家(せっかんけ)」などの言葉が出てきますが、これは摂政・関白を独占した藤原家、特に五摂家を指します。 
内大臣  ないだいじん  左大臣・右大臣の双方が何らかの理由で出仕出来ない場合に置かれたものです。 
参議  さんぎ  現在の内閣に当たる太政官(だいじょうかん)に置かれた官職で、納言(なごん/大納言、中納言)に次ぐ高官で、四位(しい)以上の位階を持つ者の中から特に優秀な者が選ばれました。左右大臣・大納言・中納言と共に直接政(まつりごと)にたずさわりました。官位相当や定員を定めた法はなく、およそ8名前後であったようです。朝廷の最高幹部である三位(さんみ)以上の上級貴族を公卿(くぎょう)と呼びますが、四位の中級貴族であっても参議に任官した者は公卿の仲間入りができました。 
蔵人  くろうど  平安初期に設置されたもので、天皇の家政機関(かせいきかん)である蔵人所(くろうどどころ)の職員です。家政とは、家政婦という言葉があるように私的な用事の処理をする役目で、秘書的な役目を果たしました。蔵人はそれに加え詔勅(しょうちょく/天皇の意思が記された文書)や上奏(じょうそう/臣下から天皇へ意見を申し上げる事)の伝達、御物の管理、宮中の物資の調達、警備などをつかさどりました。 
検非違使  けびいし  平安初期に置かれたもので、京都の治安維持や風俗取り締まりなど警察の役目をつかさどりましたが、訴訟や裁判も扱うようになり、平安後期には諸国にも置かれました。 
勘解由使  かげゆし  地方を統治する国司(こくし)が任期終了後に交代する際、きちんと引き継ぎを受けたという解由状(げゆじょう)が後任者から前任者へ渡されました。前任者はこの解由状を持って帰京し、勘解由使がこれを監査し、不正やトラブルなく引き継ぎが行われたかどうかを調べました。 
 個々の官職については、中央と地方の行政・軍事組織で詳しく解説します。

▼ 権官

権官(ごんかん)とは、令(りょう/法律)に定められた定員以外に、権(ごん/仮)に任官した官職の事です。本来の目的は、忙しくて定員では手が回らない官職について、増員して補うというものでした。従ってこれは員外官(いんがいのかん)と呼ばれました。
しかし、地方を統治する国司(こくし)に与えられていた、中央の役人には無い公廨稲(くがいとう)と呼ばれる特別な得分(とくぶん/取り分)を目的とした任官が増えたため、宝亀五年(774年)に員外の国司が廃止され、天応元年(781年)には全ての員外官が廃止されました。
ところが、平安時代になると員外官は権官という形で再びたくさんの者が任官するようになります。権官は定員外ではあるものの、員外官のように忙しくて人数が足りなくなったから増員したというものではなく、そうせざるを得なかったため定員以上に任官させたものです。ではなぜ権官が必要になったのかと言うと、それは位階の項で解説した蔭位の制(おんいのせい)がおおいに関係しているのです。
貴族の子や孫は、蔭位の制によって父や祖父の位階に応じて、21歳になると一定の位階が授けられました。そして当時身分が高い者は複数の妻を持ちましたので、それぞれの妻に男子が産まれると、21歳になるとその実績や実力とは無関係に一定の位階が授けられました。そしてこれらの子や孫が成長すると結婚しますので、複数の妻を持ち、それぞれに男子が産まれるとまた対象者であれば蔭位の制によって一定の位階が授けられるのです。こうして位階を持つ者がネズミ算式に増えたのでした。
位階を授けるという事はその位階に相応な官職を与えなければなりません。しかし、ほとんどの官職には空きはありませんでした。そうなると、与えるべき官職が与えられなくなってしまったのです。そこで定員オーバーとはなりますが、権官として任官させざるを得なかったのです。このように、権官は定員外の官ではありますが員外官とは異なり、その官職に就く資格があるが、定員いっぱいなので正官に対してそれに準ずる者として、仮に(一時的に)任官させたものです。
神や仏が姿を変えて人間の前に現れる事を権化(ごんげ)と呼びますが、これは神や仏が仮の姿(権)に化けたという意味で、権官の「権」はこの権化の「権」と同じ意味合いです。
また仮の任官というのは、既に正官がいるのですからその空きが出来るまでの仮任官という意味です。言ってみれば相撲の張り出し横綱のような感じです。その官職に就く資格はあるが、空きがないため定員外に任官させざるを得ず、正官に準ずるとしたものです。
しかし、権官にはこういった空きができるまでの仮の任官以外に、給料などの待遇面での任官もありました。つまり天皇に対する貢献度などの理由から、褒美として給料アップの意味から、既に任官している官職に加え別の官職に権官として任官させるというものです。官人の給料は位階に対して支払われますが、国司などの特定の官職については、中央の官人には無い特有の報酬があったのです(国司の収入参照)。つまり中央で既に何らかの官職に就いていながら、地方の国司にも任官し、地方へは赴任せず名ばかりの任官で、国司としての報酬はきっちりと受け取るというものです。
では、定員内の正官と権官とでは何か違いがあったのでしょうか。これは同じ権限を持った場合もありますし、権官が名ばかりで権限の無い場合もありました。後者の例としては菅原道真(すがわらの みちざね)の例があります。道真は学問の神様として現在でも有名で、学者といった感が強いですが、優秀な政治家でもあったのです。優秀であったがために、当時天皇と姻戚関係を結び、強い影響力を持ち始めた藤原氏の他氏排斥(たしはいせき)にあったのです。他氏排斥とは、自分の立身出世にとって邪魔な優秀な家系を、策略によって排除する事です。藤原氏は代々さまざまな手を使って他氏排斥を行い、平安中期にはその全盛期を迎えたのです。
当時、右大臣であった道真は大宰権帥(だざいごんのかみ/だざいごんのそち)、つまりは九州の大宰府の長官の権官に任じられ、九州へ旅立ちました。大宰府といえば、防衛と外交の要(かなめ)であり、西の朝廷と呼ばれた機関ですから、権官とはいえ、その長官ですから出世と思われがちですが、これは左遷(させん/より低い地位に落とされる事)だったのです。道真は庁舎への出勤も認められず、監視状態の中で食べる物にも事欠き、その人生を終えたのです。従ってこの場合の権官は何の権限も無い、名ばかりのものとなります。
なお、権官は権大納言(ごんのだいなごん)、権中納言(ごんのちゅうなごん)、地方では国司の権守(ごんのかみ)、権介(ごんのすけ)など、官職名に「権」が付きます。
注) 武士が政権を握るようになった鎌倉時代以降には、朝廷の官職は有名無実(ゆうめいむじつ/名ばかりで実態が伴わない事)となりましたが、それでも官位(位階と官職)は武士にとっては重要なものでした。それは官位が武士の序列(ランク付け)にも用いられたからです。そして武士に政権を奪われた朝廷は、その経済基盤の多くも奪われ、次第に困窮し、武士に官位を売ってお金を得る始末でした。特に戦国時代には頻繁に行われ、お金次第で本来はそのような格ではない者にも破格の官位が授けられたりしました。しかし、朝廷の威厳を示すため、正官ではなく、多くは権官が与えられました。

▼ 大夫と太夫

平城京や平安京の行政・治安維持・司法などをつかさどった京職(きょうしき)や、中務省に属する中宮職(ちゅうぐうしき)、皇太子の身の回りの世話を行う春宮坊(とうぐうぼう)など、職(しき)と呼ばれる役所の長官は「大夫」と書いて「だいぶ)と読みます。例えば京職の長官は左京大夫(さきょうのだいぶ)、右京大夫(うきょうのだいぶ)、中宮職の長官は中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)と読みます。
注) 四等官の項でも書きましたが、四等官の長官などを表す漢字は役所によって異なりますが、みな長官は「かみ」、次官は「すけ」、判官は「じょう」、主典は「さかん」と読みます。従って、職と呼ばれる役所の長官は「大夫」と書いて「だいぶ」と読むというのが一般的な解説ですが、私はやはりこれらも「かみ」と読むべきだと思います。従って左京大夫は「さきょうのかみ」であると思いますが、ここでは「大夫」という言葉を解説する便宜上、「さきょうのだいぶ」とふりがなをふりました。
このように、特定の役所の長官には「大夫」という文字が使われ、これを「だいぶ」と読みますが、「大夫」という言葉は一般的には五位の位階を持つ男性の通称として用いられる言葉で、この場合は「たいふ」と読みます。養老令(ようろうりょう)には、一位以下五位以上を呼ぶ言葉として「大夫」の称を用いる事が定められています。つまり五位以上の人を指す意味の場合は大夫と書いて「たいふ」と読み、特定の役所の長官を指す場合は大夫と書いて「だいぶ」と読みます。こうなるとややこしいので、やはり私は特定の役所の長官を表す「大夫」も、「かみ」と読むべきだと思うのです。
平安時代中期以降になると、省の判官である丞(じょう)や、中宮職・春宮坊の判官である進(じょう)、近衛府の判官である将監(じょう/しょうげん)、衛門府の判官である尉(じょう)など、六位相当の官職に就いている者が五位に昇格する例が多くなります。五位に昇ると貴族と呼ばれ、六位とでは給料などの待遇において天と地ほどの差がありました(貴族の収入参照)。従って、六位から五位に昇格することは大変な出世だったのです。そこで、本来は六位の者が務める官職を、格上の五位の者が務めるという意味で、五位以上の男性を表す「大夫(たいふ)」を官名に付けて呼ぶようになりました。
この場合、五位に昇った後もこれら六位相当官の地位にある者は、大夫+官名で呼ばれました。例えば大夫式部丞(たいふのしきぶのじょう)、大夫中宮大進(たいふのちゅうぐうおおいのじょう)、大夫近衛将監(たいふのこのえのじょう/たいふのこのえのしょうげん)、大夫左衛門尉(たいふのさえもんのじょう)などと呼ばれました。この場合は、六位相当官を上位の五位の者が務めている訳ですから、同じ官職にあっても他の六位の者よりも上位の者であるという意味を込めて、五位以上を意味する「大夫」を頭に付けて、「大夫(五位以上の)式部丞」と呼んだのです。従って同じ官職を務める六位の者よりも重んじられました。
これに対し、五位に昇格してその官職を辞した者は、官職名+大夫の形で呼ばれました。例えば式部大夫(しきぶのたいふ)、左衛門大夫(さえもんのたいふ)などです。五位に昇格して職を辞すとはどういうことかと言うと、体力的に衰えたり、病気などの理由で職を辞した者であったと思われます。いわゆる隠居の身となった者が、以前に式部省に勤めていた大夫(五位の人)という事で式部大夫などと称されました。
なお、同じ無官(官職に就いていない者)の五位でも、蔭位の制によって五位の位階を得た者の多くは官職には就けず散位(さんい)となりましたが、こういった無官の五位の者は無官大夫(むかんのたいふ)と呼ばれました。
このように、「大夫」が官職名の前に付くか、後ろに付くかで全く意味が異なるのです。つまり大夫+官職名は現職であり、官職名+大夫はもうその職を辞した人を指すのです。『今昔物語集』などにも、「大夫尉(たいふのじょう/衛門府の判官)」と、「左衛門大夫」という二つの記述があり、両者は別物として記述されています。
鎌倉時代末ごろになると、大和猿楽座の棟梁が従五位下の位階を与えられて大夫と称したことにより、芸能の世界でも大夫が棟梁を示す言葉となりました。猿楽(さるがく)とは、平安時代に成立した現在の能(のう)に通じる芸で、もとは軽業や物真似、手品など、滑稽な芸を行う大道芸でした。初めは余興として行われていたものが寺社の法会(ほうえ)などに取り入れられ、次第に寺社と結び付いて同業者組み合いである座(ざ)を組織する一団も現れました。そして公家や武士達にも受け入れられてその庇護のもと発展していきました。
五位の男性の通称として用いられていた大夫という言葉は、朝廷の支配が弱まり、武士の世となった鎌倉末期には芸能の棟梁を指す言葉ともなり、「大夫」は「太夫」と書いて「たゆう」と読むようになりました。五位という位階は貴族では最下層ですが、やはり六位以下とはその身分や待遇において雲泥の差があり、武士の世となったとはいえ、庶民や地方武士達にとっては一種の憧れ(あこがれ)であり、ステータスでもありました。従って時代が進むに従い、太夫は様々な者を指す言葉となり、人名の一部となったり、身分ある人への呼びかけにも用いられるようになりました。
江戸時代になると、諸藩の家老を太夫(たゆう)と呼ぶようになります。『忠臣蔵』のテレビドラマなどで、浅野家の家老であった大石内蔵助が遊郭へ入り浸って遊ぶという場面で、遊女が内蔵助を「太夫(たゆう)」と呼ぶシーンを見たことがあるかもしれません。これは家老を「太夫」と呼んでいたからなのです。また、同じく江戸時代には最高ランクの遊女も太夫(たゆう)と呼ばれました。
ちなみに、五位以上の位階を持つ女性、あるいは五位以上の男性の妻を命婦(みょうぶ)と呼びます。

▼ 百官名

百官名(ひゃっかんな)とは、武士などが名乗った官職名風の名前です。例えば『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助(おおいし くらのすけ)の「内蔵助」、その息子の大石主税(おおいし ちから)の「主税」、必殺仕事人の中村主水(なかむら もんど)の「主水」などが百官名です。
百官名は本来の官職名とは異なった読み方をするものがおおいです。主な百官名は以下の通りです。
百官名  読み  元になった官司 
内蔵助  くらのすけ  中務省に属する内蔵寮(くらりょう/うちのくらのつかさ) 
監物  けんもつ  中務省に属する品官である監物(けんもつ) 
大学  だいがく  式部省に属する大学寮(だいがくりょう) 
玄蕃  げんば  治部省に属する玄蕃寮(げんばりょう/ほうしまらひとのつかさ) 
主税  ちから  民部省に属する主税寮(しゅぜいりょう/ちからのつかさ) 
隼人  はやと  兵部省に属する隼人司(はやとし/はやひとのつかさ) 
織部  おりべ  大蔵省に属する織部司(おりべづかさ/おりべのつかさ) 
大膳  だいぜん  宮内省に属する大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ) 
主殿  とのも  宮内省に属する主殿寮(しゅでんりょう/とのもりのつかさ) 
内膳  ないぜん  宮内省に属する内膳司(ないぜんし/うちのかしわでのつかさ) 
典膳  てんぜん  内膳司の判官(じょう)である典膳 
造酒  みき  宮内省に属する造酒司(ぞうしゅし/みきのつかさ) 
主水  もんど  宮内省に属する主水司(しゅすいし/もいとりのつかさ) 
外記  げき  少納言局の主典(さかん)である外記 
弾正  だんじょう  弾正台(だんじょうだい) 
左衛門  さえもん  左衛門府(さえもんふ) 
右衛門  うえもん  右衛門府(うえもんふ) 
左近  さこん  左近衛府(さこのえふ) 
右近  うこん  右近衛府(うこのえふ) 
将監  しょうげん  近衛府の判官(じょう)である将監 
主膳  しゅぜん  春宮坊(とうぐうぼう)に属する主膳監(しゅぜんげん/みこのかしわでのつかさ) 
主馬  しゅめ  春宮坊に属する主馬署(しゅめしょ/うまのつかさ) 
帯刀  たてわき  春宮坊に属する帯刀舎人(たちはきのとねり) 
左馬助  さまのすけ  太政官に属した馬寮(めりょう/うまのつかさ) 
兵庫  ひょうご  兵部省に属した兵庫寮(ひょうごりょう/つわもののくらのつかさ) 
左京  さきょう  都の司法・民政・警察などをつかさどった京職(きょうしき) 
右京  うきょう  同条 
修理  しゅり  令外官修理職(しゅりしき/おさめつくるつかさ) 
蔵人  くらんど  令外官の蔵人(くろうど) 

■ 雑任

位階の項で官人(かんじん)という言葉について解説しました。各役所の四等官品官に任官している者を指す言葉ですが、このサイトでは、四等官や品官の元で様々な雑務を担当した雑任(ぞうにん)と総称された者達や、四等官制が敷かれていない地方の郡司なども含め、何らかの形で役所や貴人に仕える役人を総称して官人と呼びます。
そして官人のうち五位以上の位階を与えられた特権階級を特に貴族と呼び、六位以下の者、雑任を総称して下級官人と呼びます。雑任は交代勤務の番上官で、課役(庸・調)を免除され、6年間の成績を以て上・中・下に評価され、叙位も行われました。雑任には下記のようなものがあります。

▼ 史生

史生(ししょう)は、文書関係の事務を扱う下級官人で、公文書の清書や書き写しなどを行い、文書に四等官の署名をもらうことを職務としました。

▼ 舎人

舎人(とねり)とは、身分のある者の護衛、雑務を務めた下級官人です。大舎人(おおとねり)内舎人(うどねり)中宮舎人(ちゅうぐうとねり)東宮舎人(とうぐうとねり)などがあります。

▼ 兵衛

兵衛(ひょうえ)は兵衛府に所属する最下層の兵士で、天皇の身辺警護にあたりました。大舎人、内舎人、中宮舎人、東宮舎人は帯刀はしても文官でしたが、兵衛は武官でした。

▼ 省掌

省掌(しょうしょう)は各省に2名ずつ配属され、使部(つかいべ)を管理し、建物の管理や用度品の管理をつかさどった下級官人です。

▼ 使部

使部(つかいべ)は、各役所に置かれた雑用係で、役所の規模などによって配属される人数が異なりました。六位以下の官人の嫡子を上中下の三等級に分け、一番優れた上は大舎人に、中程度の者は兵衛に、最も劣る下が使部に配属されました。

▼ 伴部

伴部(ともべ)は、品部(ともべ/しなべ)・雑戸(ざっこ)を統率した役人で、律令制以前の伴造(とものみやつこ)にあたる者です。
品部は特殊技術を持った者達で、その技術を以て物品を生産し、またその技術の伝習にもあたりました。こういった律令制以前の品部の系譜を引き継いだ、律令制下の宮中での生産体制は品部・雑戸制と呼ばれます。品部・雑戸制においては、宮中で必要な物品の生産について、その生産に必要な特殊な技術を持った者が各役所に品部・雑戸として配属され、一定期間宮中の工房に交代勤務しました。
品部は中務省(なかつかさしょう)図書寮に属する紙戸50戸、治部省(じぶしょう)雅楽寮に属する楽戸66戸、兵部省(ひょうぶしょう)造兵司に属する雑工戸70戸、鼓吹司に属する鼓吹戸218戸、主船司に属する船戸100戸、主鷹司に属する鷹戸17戸、大蔵省に属する狛戸213戸、大蔵省の漆部司に属する漆部29戸、織部司に属する染戸570戸、宮内省(くないしょう)大膳職に属する雑供戸294戸、大炊寮に属する大炊戸25戸、典薬寮に属する薬戸75戸・乳戸50戸、造酒司に属する酒戸185戸、園池司に属する園戸300戸、土工司に属する泥戸51戸、主水司に属する氷戸144戸です。なお、何戸は何人という意味です。
品部は畿内とその周辺に住んでいますが、交代制で一定期間宮中の工房で作業に従事しました。ただし、大蔵省の狛戸・染戸の一部は、出勤せずとも毎年一定量の製品を納めればよく、品部は課役(調)、雑徭(ぞうよう)、兵役が免除されました。
品部が主に朝廷で使用される贅沢品(ぜいたくひん)の生産、それにまつわる特殊技術の伝習に従事したのに対し、雑戸(ざっこ)は主として軍事関係の物品の生産に従事しました。雑戸も畿内とその周辺に住んでおり、一定期間あるいは臨時に招集されて宮中の工房で働くか、特定の製品を納めることが義務づけられていましたが、そのかわりに課役(庸・調)の全部あるいは一部が免除されました。
このように品部と雑戸は生産する製品が異なりましたが、品部と雑戸との大きな違いはその扱いでした。両者とも公民扱いとされましたが、品部は一般的な公民の戸籍に載せられた一方で、雑戸は特別な戸籍が作られ、その身分は代々固定されて一般公民よりも卑しい身分とされました。
雑戸に属するのは、大蔵省、中務省の内蔵寮に各10戸(名)所属した百済手部(くだらのてひとべ)、大蔵省に11戸、内蔵寮に10戸所属した百済戸(くだらこ)、兵部省の造兵司、大蔵省の典鋳司に所属した雑工戸(ざっこうこ)、宮内省の鍛冶司に所属した鍛戸(かぬちこ)、宮内省の筥陶司に所属した筥戸(はここ)、太政官直下の左右馬寮に所属した飼戸(しこ/馬甘)の計1600余人で、品部と雑戸を合わせると4000余人となりました。
注) 品部や雑戸について詳しくは、所属する各役所の項で解説します。

▼ 帳内

帳内(ちょうない)とは、親王(しんのう)と内親王(ないしんのう)に仕え、護衛や雑務を務めた下級官人です。武官系の舎人(とねり)の一種と考えられています。
六位以下の官人の子などから採用され、一品親王には160人、二品以下には品位が下がるごとに20人を減じ、内親王にはこれらの半数が与えられました。

▼ 資人

資人(しじん)とは、皇族・貴族の位階官職に応じて与えられる下級官人で、警護や雑務を務めました。武官系の舎人の一種と考えられています。資人が与えられるのは、四品以上の親王・内親王と五位以上の諸王大納言以上の官職を務める者だけでした。そして親王・内親王に与えられる資人を特に帳内と呼びます。

▼ 仕丁

仕丁(しちょう)とは、農民に課された労働税のひとつです。仕丁も雑任のひとつとされます。仕丁について詳しくは奈良時代の税とお金仕丁をご覧下さい。

■ 貴族の収入

官人の報酬は位階に対して支払われ、それに特定の官職に就いた場合に支払われるもの、特定の身分の者に対して支払われるものなどが加算されました。従って、位階のみで官職に就いていない散位(さんい)の者にも、位階に対する報酬は支払われました。五位以上を貴族と呼びますが、五位と六位では報酬や与えられる宅地面積など、あらゆる点で大きな差がありました。下に位階別の主な報酬項目と年収、与えられる宅地面積をまとめた表を掲載していますが、五位と六位では年収に倍の差があります。

▼ 季禄と時服

六位以下の官人が得た報酬は基本的に季禄(きろく)と呼ばれるものだけでした。月料という勤務手当てのようなものや、時服(じふく)と呼ばれるものもあったようですが、基本的に報酬と呼べるものは季禄のみでした。季禄とは、官職に就いている者全員に年に二回、二月と八月に支給されるもので、税金である庸(よう)調(ちょう)として徴収された物の中から、悪し絹(あしぎぬ/質の悪い絹)、綿、布、糸などが位階によって現物支給されるというものです。こう言うと今のボーナスのように思えますが、六位以下の者にとっては毎月の給料といったものが無いのですから、臨時収入であるボーナスとは異なります。
また時服(じふく)は、一定の皇族に与えられた季禄の一種です。養老令の禄令では、13歳以上の無品・無位の皇族に毎年2回支給すると定められています。春(2月)には悪し絹(あしぎぬ)、糸、布、鍬を、秋(8月)には悪し絹、綿、布、鉄を支給しました。また皇族が任官または五位以上に叙せられた場合は、季禄と時服の多い方を支給したとも、どちらも支給したとも言われます。
延喜式では、無品親王・内親王には絹、細布(細い糸で織った上質の布/冬にはプラス綿)を、諸王には絹、糸、調布(税の調として納められた布)、鍬などを支給したことが見られます。また、時服を支給する王を429人に制限しています。
なお、時服は皇族だけではなく官人にも支給されました。ただしこれは出勤日数が定められた日数を満たさなければ支給されませんでした。

▼ 位田と位禄

五位以上になると、季禄以外に位田(いでん)、位禄(いろく)、資人(しじん)が与えられました。
位田とは位階に応じて与えられる田地のことで、トップの正一位(しょう いちい)の80町歩(ちょうぶ)から、貴族最下層の従五位(じゅ ごい)の8町歩まで、位階に応じて与えられました。この田地を現地の農民に貸し出して耕作させ、収穫量の20%を賃貸料として徴収しました。しかしこういった位田も輸租田(ゆそでん)、つまり田地にかかる税である租(そ)を国(その田地がある国、今で言う都道府県)に納めなければならない田地ですので、位田を支給された者の実質の取り分は、収穫物の20%から租の3%を差し引いた17%ほどとなりました。
この位階に応じて与えられた位田はどれほどの面積だったのでしょうか。一番少ない従五位でも8町歩の田地が与えられました。当時の1町歩は11,880平方メートル(3,600坪)です(区画としての「町」と面積の「町」参照)。従って8町歩は95,040平方メートル(28,800坪)という事になります。これはおよそ9.5ヘクタールとなります。ちょっとゆとりのある分譲マンションの3LDK(25坪)1,152戸分の広さです。
これでもちょっとピンときませんが、住所で○市何々区何々町1丁目などと言いますが、この1丁目はおよそ100メートル四方の正方形です。従ってその面積は10,000u=1ヘクタールです。つまり9.5ヘクタールといえば、1丁目から9丁目まで全ての面積ということです。
注) ここで説明した「町歩(ちょうぶ)」は、平城京の大路と小路で解説した、貴族に与えられた宅地の基準である「町(ちょう)」とは異なります。これら「町」と「町歩」の違いについては、区画としての「町」と面積の「町」をご覧下さい。
注) 現在の1丁目などといった区画の全てが100メートル四方という訳ではありません。広さを理解するひとつの例として書いています。
また位禄は四位、五位に与えられるもので、調といった税として集められた真綿や糸、布などが現物支給されました。そして資人は雑任(ぞうにん)と総称される下級官人で、五位以上の貴族に与えられた下級官人で、主人の警固や雑務に従事しました。
そして五位以上の貴族には馬に乗る事が許されていて、特に京在住の五位以上には、馬料(めりょう)と称する馬の飼育費まで補助がありました。

▼ 位封と職封

これらに加え、三位以上になると位封(いふ)、職封(しきふ)も支給されました。位封とは、三位以上に与えられた封戸(ふこ)です。封戸とは特定数の戸(こ)から徴収された税を、封戸を支給された者に支給するというもので、租庸調のうち租は半分、庸・調に関しては全てがその者に支給されました。
例えば、下の表では一位には位封が300戸支給されることになっています。戸(こ)とは税を徴収する最小単位で、郷戸(ごうこ)と呼ばれました。それは郷戸が50戸で行政単位の郷(ごう)が構成されたのでこう呼ばれます。郷戸は単一家族ではなく、2ないし3の房戸(ぼうこ)から成りました。房戸は現在の家族に近いもので、2ないし3の房戸で編成された郷戸には3ないし4人くらいの成人男子がいたと思われます。郷戸に平均4人の成人男子がいたとすると、位封300戸では、300×4で1,200人分が納める租の半分、それに1,200人分の庸・調の全てが支給されることになります。
職封は上級貴族の官職に対して支給された封戸で、太政大臣(だいじょうだいじん)には3,000戸、左右大臣には2,000戸、大納言には800戸、中納言は400戸、参議は40戸支給されました。

▼ 年官

上級貴族の報酬はこれらにとどまりません。年官(ねんかん)というものもありました。毎年の除目(じもく/官職の任命式)において、公卿(くぎょう)に一定数の地方国司任官希望者を募集させ、その推薦権を公卿に与え、推薦された者はその見返りに任官料を支払うというものです。つまりは官職をお金で売るといったものです。
関白太政大臣には、地方の諸国を統治する国司(こくし)の四等官の最下層である目(さかん)1名、雑任(ぞうにん)である史生(ししょう/下級書記官)3名、左右・内大臣には目1名、史生2名、大納言中納言参議には目1名、史生1名の推薦権が与えられました。

▼ 職分田

また特定の官職に任官した者には職分田(しきぶんでん)が支給されました。太政官(だいじょうかん)の太政大臣には40町歩、左・右大臣には30町歩、大納言には20町歩、大宰府(だざいふ)の長官である大宰帥(だざいのかみ/だざいのそち)には10町歩、次官である大宰大弐(だざいおおいのすけ/だざいのだいに)には6町歩、大宰少弐(だざいすないのすけ/だざいのしょうに)には4町歩、以下、判官(はんがん/三等官)に当たる大宰大監(だざいおおいのじょう)・少監(すないのじょう)、主典(さかん/四等官)に当たる大宰大典(だざいおおいのさかん)・少典(すないのさかん)、史生(ししょう)に1-2町歩が支給されました。
職分田は地方を統治する国司(こくし)郡司(ぐんじ)にも支給されました。大国(たいこく)の守(かみ/長官)には二町歩六段、介(すけ/次官)には弐町歩弐段、掾(じょう/判官)には一町歩六段、目(さかん/主典)には一町歩二段が支給され、以下、国の等級が下がるに従って減じました。
注) 当時、諸国は国の生産力などによって大国(たいこく)、上国(じょうこく)、中国(ちゅうごく)、小国(げこく)の4つに区分されており、それらに派遣される国司の等級(官位相当)も異なりました。
また、郡司の大領(だいりょう/長官に相当)には6町歩、少領(しょうりょう/次官に相当)には4町歩、主政(しゅせい/判官に相当)・主帳(しゅちょう/主典に相当)には2町歩が支給されました。
これらの職分田のうち、国司、大宰府の職員に支給されるものは税金がかからない不輸租田(ふゆそでん)であり、それ以外は税を納めなければならない輸租田(ゆそでん)でした。
これら職分田の工作作業は、太政官(だいじょうかん)大納言以上に支給されるものは位田と同様に農民へ貸し出して耕作させ、賃貸料を取るという形で行われ、国司や大宰府の職員に支給されたものは事力(じりき)の労働で行われました。事力とは、国司や大宰府などの地方官に与えられた農民です。また地方郡司に支給されたものは、近隣農民への貸し出し、もしくは自らの労働力を使って耕作したと考えられています。
位階  位封(戸)  位田(町歩)  位禄  季禄  資人(戸)  年収  宅地面積(u) 
一位  300  80  ○  100  3億7455万円  4町(47,520) 
二位  200  60  ○  80  1億2484万円  同上 
三位  130  40  ○  60  7490万円  同上 
正四位  24  ○  ○  40  4119万円  1町(11,880) 
従四位  20  ○  ○  35  3506万円  同上 
正五位  12  ○  ○  25  2801万円  同上 
従五位  ○  ○  20  1540万円  同上 
正六位  ○  704万円  1/2町(5,940) 
従六位  ○  616万円  1/4町(2,970) 
正七位  ○  493万円  1/8町(1,485) 
従七位  ○  394万円  1/16町(743) 
正八位  ○  355万円  1/32町(371) 
従八位  ○  318万円  同上 
大初位  ○  256万円   
少初位  ○  230万円   
               『よみがえる平城京-天平の生活白書』日本放送出版協会より
このように、五位と六位とでは収入や宅地面積、その他あらゆる点で大きな格差があり、六位以下の下級官人は季禄とわずかな月料だけでは生活できず、口分田(くぶんでん)からの収穫物や、アルバイトをして生活していたのです。そのアルバイトとは写経(しゃきょう)でした。東大寺で写経をし、写経一枚いくらという形でアルバイト料を得ていたのです。当時は当然コピー機などありませんから、書物を複製するには一文字ずつ書き写すしかなかったのです。従ってこういったアルバイトは結構需要があったのかもしれません。
六位以下の下級官人は収入も少なく苦労したと思われますが、六位以下でも国司に任官すると職分田が与えられ、それに国司には中央の官人には無い報酬もあったのです。これは簡単に言うと、税として集めた稲を利息付きで農民に貸し出し、利息から必要分を差し引いた残りを、国司で分ける事が許されていたのです。これを公廨稲(くがいとう)と呼びます。残った分が多ければ多いほど一人の取り分は増えたので、やり方次第では大きな収入となりました。
注) 六位以下の下級官人には口分田が支給されました。しかしこれらの田地は平城京内には無く、平城京外に与えられました。平城宮に勤める役人には6日に1日の休日がありましたが、それ以外に五月と八月に田假(でんか)と呼ばれる、それぞれ15日ずつの休暇が与えられました。旧暦の5月と8月はおよそ今の6月と9月にあたり、これは田植えと穫り入れの時期に当たります。従って田假は農繁期休暇として与えられた休日なのです。下級官人はほとんどが単身赴任であり、この田假の休日には故郷へ帰り、田植えや収穫といった農作業を行い、その収穫物で暮らしを立てていたのです。
なお、位田の例でも分かるように、貴族、官人と言えども税のは免除されませんが、八位以上は調といった税は免除されました。

■ 貴族の住まい

官人は位階が高い者ほど平城宮近くに宅地を与えられ、位階が高いほどその宅地面積も広くなりました(上図参照)。従って平城宮に近い所に住んでいる人ほど位階が高く、また同じ四条であるならより中央の朱雀大路に近い坊ほど位階が高い人が住みました。つまり南北では北へ行くほど、東西ではより中央の朱雀大路に近い宅地が位階の高い者に与えられました(平城京参照)。

平城宮にほど近い所から、瓦や土器、金属製品とともに数万点の木簡(もっかん)が発見されています。木簡とは、細長く平に削った木片の事で、当時は貴重な紙の代わりとして、また小さくした物は荷札としても使用されました。そこに書かれた内容から、その地域が長屋王(ながやのおおきみ)の屋敷跡であることが分かりました。長屋王とは、天武天皇の孫にあたり、左大臣を務めた人物で、妻は文武天皇の妹ですので夫婦そろって皇族という事になります。

▼ 屋敷の宅地面積

この長屋王の宅地面積は4町歩に及びました。ここで言う1町歩は平城京において宅地として割り当てられた区画で、1町歩は一辺が125メートルの正方形(道路を作って区画する参照)ですので、その面積は4,735坪(15,625平方メートルにも及びます。これはちょっとゆとりのある分譲マンションの3LDK(25坪)およそ190戸分に相当します。この広大な敷地には、長屋王の専属の各種職人や使用人など数百人が住んでおり、屋敷と言うよりも、1つの街でした。

長屋王は貴族の中でも上級貴族ですから桁外れですが、貴族に与えられた宅地は1町歩(一辺が125メートルの正方形)を基準としましたので、貴族としては最下級の五位でも1町歩もの広大な土地を割り当てられました。

 平城京における居住区画としての1町歩について詳しくは、区画としての「町」と面積の「町」をご覧下さい。

▼ 塀、屋根、床など

貴族の屋敷には築地塀(ついじべい)が巡らされていました。築地塀とは泥土をつき固めた塀の事です。そして上級貴族ともなれば礎石に柱を立てた造りになっていたようですが、普通は礎石を用いずに土中に直接柱を立てる掘っ立て柱でした。

屋根については、上級貴族は瓦を葺き(ふき)なさいという指示もあったようですが、檜皮葺(ひわだぶき)が主であったようです。檜皮葺とは、ヒノキの樹皮を用いたものです。床は板張りで、畳(たたみ)はまだありませんでした。座る時はいぐさなどで作った円座に座りました。また、現在のように部屋を仕切る壁などはなく、用途に応じて屏風(びょうぶ)や衝立(ついたて)などで部屋を仕切って使いました。

▼ 曲水の宴

また上級貴族ともなると、広大な敷地内に庭園が造られ、曲水の宴(きょくすいのうたげ)が催されました。曲水の宴とは、敷地内に側溝などから水の流れを引き込み、庭園の池に水の流れを作り、その流れの縁にみな座ります。酒杯を乗せた小舟を池の北側から流し、流れに乗った小舟が自分の前を通り過ぎるまでに歌や詩を詠むというもので、出来なければ罰としてその杯の酒を飲み干さなければならないという貴族の優雅な遊びです。
注) 平城京の居住区画は、東西南北に走る大路、小路によって碁盤の目のように区画されました。これら大路、小路にはみな両脇に側溝が掘られ、川から引いた水が流れていました。上級貴族達はこの側溝から水を屋敷内に取り込んでいました。

▼ トイレ

トイレは上級貴族の屋敷跡と思われる所からしか発見されておらず、これは大路・小路の側溝から屋敷内に水を引いた、水洗式のようなもので、排泄物は側溝へと流されるようになっています。しかし、下級官人や農民達は敷地内に大きな穴を掘って板を渡し、その上にまたがって用を足し、穴がいっぱいになるとくみ取って側溝へ流しました。こういった穴からは籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる木片が発見されており、これは貴重品で庶民には仕えなかった紙の代わりとして、トイレットペーパーのように使った物でした。
また皇族が住む宮殿からもトイレらしきものは発見されておらず、平安時代でも『源氏物語』に見られるように、天皇の側室でも塗りの豪華なおまるを用い、各部屋で用を足し、使用人が処理をしていた事から、平城京でも宮殿ではおまるが用いられていたのかもしれません。
▼ 風呂
お風呂については、当時は現在のように毎日入浴するという習慣はありませんでした。天皇や上級貴族などは病気治療として温泉に入っていたらしく、『続日本紀』に文武天皇が白浜温泉に行幸したという事が記されています。また、下級官人が写経のアルバイトに通った写経所には湯屋があり、写経の前に入浴して身を清めたと言われます。

■ 出勤と勤務

▼ 出勤と勤務時間

平城京の入り口である羅城門をくぐり、長さおよそ3.8キロもある朱雀大路を北へ進むと、瓦葺きで朱塗りの二階建ての朱雀門があります。この朱雀門を入ると平城宮となります。するとそこには朝堂院(ちょうどういん)があります。ここは天皇を始め位階を持つ者が集まって政務や儀式を行う場所で、朝集殿(ちょうしゅうでん)、朝堂(ちょうどう)、大極殿(だいごくでん)から成りました。
朝集殿は位階を持つ役人が儀式などに参加する前に衣服を整え待機する場所で、位階をもつ役人は出勤するとまず朝集殿に入りました。朝集殿を出ると朝堂の門があります。朝堂は実際の政務や各種儀式を行う庁舎です。朝堂の門を入ると大きな広場を挟んで正面に天皇の玉座(ぎょくざ/天皇が座る椅子)がある大極殿があり、広場を挟んで東西に朝堂の建物が建てられており、各種儀式はこの中央の広場で行われました。朝堂院の建物はすべて朱塗りの柱に瓦を葺いた様式でした。
なお、大極殿の奥(北側)には、天皇の日常の住まいである内裏(だいり)があり、それら以外の場所には中央官庁の各役所がありました。
平城宮へ出勤する役人の出勤時間はとても早い時間でした。日の出とともに太鼓を合図に平城宮の門が開きましたが、それまでに大量の役人が門が開くのを待っていたのです。平城京の住人で役人の数はおよそ7,000人と書きましたが、全員ではありませんがまさに大量の人達が一斉に出勤したのです。この早朝の出勤時間は上級貴族も同じで、みな日の出とともに門をくぐったのです。
位階を持つ役人が出勤して一番最初に入るのが朝堂院の朝集殿で、衣服をただして朝堂へ向かいます。朝堂は広場に対してオープンになった建物で、12のお堂(軒/のき)があり、役所、役職ごとに座る場所が決まっていました。そして午前中はここで位階や官職を授ける儀式など、様々な儀式や政(まつりごと)が行われました。そして各役所の長官や次官といった上のクラスの役人は、午前中のこういった仕事が終わればその日の仕事は終わりです。つまり上役は勤務は午前中だけなのです。
しかし、現在で午前中のみの勤務と言えば、せいぜい3〜4時間の勤務となりますが、平城宮の勤務は夜明けとともに始まりますので、夏などは朝の5時くらいから仕事をしている訳ですから、午前中のみと言っても7時間くらいの勤務であったのです。しかも、下級官人達は午後もそれぞれが所属する各省庁へ戻って事務仕事をしますので、下級官人の勤務は半日にもなりました。そして平城宮の門は日没を知らせる太鼓とともに閉められ、それまでに帰らなければならないのですが、各省庁で宿直(しゅくちょく)が置かれました。宿直は仕事場に泊まり込むというものです。

▼ 出勤の苦労

貴族や下級官人は位階が高いほど平城宮寄りに宅地を与えられました。つまり平城京の北寄りに住んでいる人ほど位階が高いという事です。現在のJR奈良駅西南の住宅街あたりは左京四条あたりとなりますが、このあたりは中級貴族の宅地でした。つまり左京・右京とも四条より北が中級以上の貴族が住んだ地域だと思われます。また同じ四条でも、中央を南北に走る朱雀大路により近い坊(ぼう/道路を作って区画する参照)により位階が高い者が宅地を与えられました。つまり南北ではより平城宮に近い北ほど、東西ではより朱雀大路に近い宅地ほど位階の高い者が住んだ区域という事になります。
日の出とともに開門する平城宮へ、毎日遅れないよう出勤するのは大変であったと思われますが、五条以北に宅地を与えられたのは五位以上の貴族です。五条大路から平城宮の入り口である朱雀門までは最短でおよそ1.5キロほどですが、五位以上は馬に乗ることが許されたので、馬で出勤したと思われます。それよりも大変なのは下級官人でした。
こういった人達が与えられた宅地は平城京の南端ですから、平城宮まではかなりの距離がありました。平城京の中心には朱雀大路が南北に走っていましたが、その東側が左京、西側が右京でした。これは平城京の北端に居る天皇が南を向いた状態で右京、左京と言うので、左右が逆になっているのです。朱雀大路は平城京の中央にありますので、平城京が一辺5キロの正方形とすると、東、あるいは西の端から朱雀大路までは2.5キロある事になります。つまり、左京の南端、しかも東の端に住んでいる者は、朱雀大路まで2.5キロもあるという訳です。そして3.8キロもある朱雀大路を北上してやっと朱雀門に着くのです。従って家からは2.5プラス3.8キロで6.3キロもの距離があるのです。しかもこういった地域に宅地を与えられた下級官人は当然徒歩で出勤しなくてはなりません。朝5時の開門に間に合うようにするには、朝の3時頃に家を出ないといけなかったのではないでしょうか。街灯や懐中電灯もない真っ暗闇のなか、さぞかし大変であったであろうと思われます。

■ 勤務評定と昇進

当時の役人は、現在同様にその勤務態度を考課(こうか/評価)され、その結果によって昇進などがありました。都で勤務する役人は6年ごと(後に4年ごと)に評価され、成績が優秀な者は二階級、三階級も昇進する事もありました。しかし、ここでも貴族は優遇されていました。
高い位階を持つ者の子孫には、その位階に応じて一定以上の位階を与えるという蔭位の制(おんいのせい)があったのです。つまり親の七光りによって子や孫もその恩恵を受けたのです。例えば、父親が従五位の場合、その嫡子(ちゃくし)は21歳になると自動的に従八位上、庶子(しょし)は従八位下の位階が授けられ、父親が一位である場合は嫡子には自動的に貴族の位階である従五位下の位階が与えられたのです。つまり父親が偉かった場合、その子はボンクラであってもいきなり貴族の待遇を受けたのです。
位階を持たない者でも国家試験に合格すれば位階が授けられましたが、式部省の管領私見の合格者に与えられた最高の位階は正八位上であり、必死に勉強してもこの位階であり、ここからとても貴族の位階には昇進出来ませんでした。しかし、貴族の子は何もしなくてもこれ以上の位階が与えられましたので、いかに厚遇されていたかが分かります。
注) 嫡子(ちゃくし)とは正室が産んだ嫡男、庶子(しょし)とは側室が産んだ子を指します。
当時の役人にとって、昇進するために必要な技能は上手な字を書くという事です。特に役人の仕事は字を書く事が主ですから、字が下手な者はなかなか昇進できませんでした。先に下級官人は季禄だけでは暮らしていけず、写経のアルバイトをしていた(貴族の収入)と書きましたが、これもまず試験があって、当然字が下手な者は採用されませんでした。アルバイトするにも字が上手くなければ出来なかったのです。
平城京からは大量の木簡が出土しています。木簡とは平らに削った細長い木片で、当時は貴重な紙の代わりに木簡を使用していました。字の練習はこの木簡に何度も何度も字を書いて練習していたのです。しかし、何度も書いているうちにもう書くスペースが無くなってしまいます。そんな時は木簡の表面を薄く削ってまた使用したのです。この時に用いたのが刀子(とうす)と呼ばれる当時の小刀です。こうして何度も何度も練習した木簡が多数出土しています。

■ 貴族の食事

奈良時代の人達はどういった物を食べていたのでしょうか。その食材は思ったよりも多岐にわたります。

▼ 多彩な食材と調味料

穀類では米、小麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、稷(きび)などがあり、果物類では、梨(ナシ)、棗(ナツメ)、栗(クリ)、ビワ、クルミ、桃、柿、椎(シイ)などがありました。
野菜類は非常に多くの物を食べていたようで、ナス、ワラビ、レンコン、ニラ、大豆、筍(たけのこ)、ヨモギ、大角豆(ササゲ)、蕪菜(カブラナ)、フキ、荏胡麻(エゴマ)、茎ゼリ、アザミ、コナスビ、クレグサ、アサツキ、アララギ、タデ、キュウリ、ヤマノイモ、大根、イモ、蓴菜(じゅんさい)などがありました。
魚貝類では、アジ、イワシ、マグロ、カツオ、スズキ、タイ、コノシロ、アユ、フナ、イワナ、クジラ、アワビ、牡蠣(カキ)、シジミ、シタダミ、カニ、イカ、ウニ、ウナギなども食べられていたようで、海草類では昆布やひじき、房総半島の銚子付近のワカメ、阿波鳴門のワカメなど、現在でも名産品である物が既に食べられていました。
肉類は牛、鹿、馬、ウサギ、猪(いのしし)、熊、キツネなど、鳥では鶏(ニワトリ)、雉子(キジ)、鴨(かも)、鶴(ツル)、モズ、サギ、ウズラなどが食べられていました。
ただし、上のような多彩な食べ物を皆が食べていた訳ではなく、こういった物の多くは平城京に住むほんの一握りの特権階級である貴族が食べていたのです。平城京に住む下級官人や労働力として集められた農民などは、こういった食材の多くは口に入らなかったと思われます。またそれは地方の庶民も同じ状況であったと思われます。

▼ 調理法

当時はこういった食材をどのように調理したのでしょうか。
既にこの頃にはご飯とおかずといった主食と副食という形が定着していたようで、米は甑(こしき)と呼ばれる蒸し器で蒸して作られたとも言われますが、むしろ土鍋を使ってお米を煮るといった方法がとられたのではないかと言われます。固粥(かたがゆ)と呼ばれたものがこれに当たると考えられています。蒸すよりも簡単で短時間で出来上がります。
調味料としては、どの階層の人達にも最もよく使われたものが塩です。また醤油(しょうゆ)や味噌、酢なども現在の物の原型とも言う物がありました。また甘味料としては現在では砂糖が最も一般的ですが、当時砂糖は大変な貴重品で、貴族と言えども特別な日にしか手にする事が出来ず、ハチミツなどで代用されました。またこれらの他にワサビやショウガ、サンショウなどもあったようです。しかし、食材と同様、こういった調味料や薬味はごく一部の特権階級のみが食したもので、下級官人や駆り出された農民などは塩で味付けしただけのものが一般的でした。
こういった食材や調味料を使って調理した訳ですが、最もよく作られたのがゆで物であったと考えられています。貝類、野菜、栗や豆類、芋などは主としてゆでて食べられ、野菜は醤(ひしお/醤油のような物)や酢などで和え物にしたり、塩漬け、醤漬け(ひしおづけ)、酢漬け、糟漬け(かすづけ)などの漬け物にしたり、生で食べた野菜もあったと思われます。
魚介類や肉類などは焼いて食べたりもしましたが、魚などは干物にしたり塩漬けにしたり、塩辛(しおから)にしたり、寿司もありました。寿司といっても現在の生で食べる寿司とは異なり、滋賀県の鮒寿司(ふなずし)のように、塩漬けした魚に炊いたお米を合わせて発酵させた熟れ寿司(なれずし)でした。また、膾(なます)、羹(あつもの/吸い物)などもありました。なお、膾とは、魚貝類や肉を細かく刻んだものです。

▼ 上級貴族と下級官人の食事例

こういった食材、調味料、調理方法を参考に、『よみがえる平城京-天平の生活白書(日本放送出版協会/1980年)』の中で、当時の食事を再現した例を挙げてみます。
まずは上級貴族の食事です。これは秋の献立として再現した物で、ご飯は白米を蒸したものにしています。それにアワビのウニ和え(塩辛風)、竹の小枝に刺したアユを塩焼きにしたもの、鹿肉とニラの膾(なます)、枝豆とサトイモのゆで物、ワカメの膾、デザートとして栗、シイの実、ヒシの実、小ミカンなどの木の実と果物が高杯に盛られています。貴族はこういった料理を普段は塗りの器に盛りつけ、塗りの箸(はし)を使って食べ、特別な時には銀の食器と銀の箸で食べました。
今度は下級官人の食事の再現です。お米についてはたくさん食べていたようですが、それは現在私達が食べている白米ではなく、玄米に当たるもので、白米はごく限られた者しか食べる事が出来ませんでした。おかずはごく質素な物で、おかず一品に良くて吸い物が付くといったいわゆる一汁一菜でした。
注) なぜ同じお米なのに白米はごく限られた特権階級しか食べられなかったのかというと、白米は玄米を精米したもので、これは玄米を搗いて(ついて)糠(ぬか)などを取り除いたものなので、機械が無かった当時、大変手間と時間のかかる作業だったからです。お米について詳しくは、弥生時代のお米についてをご覧下さい。
再現されたメニューは、玄米のご飯とヒジキの煮物に塩というものでした。ヒジキは水と少量の醤で煮たものです。醤とは現在の醤油とは異なったもので、平安時代の『延喜式』にその材料と分量が記されているらしく、材料は大豆、麦、もち米、酒、塩であったようです。下級官人や庶民はこういった食事を土師器(はじき)や須恵器(すえき)に盛り、木の箸で食べました。
なお、当時の箸は現在のような先が細くなった物ではなく、寸胴(ずんどう/元から先まで同じ太さ)の箸で、匙(さじ/スプーンのような物)もありました。また宮中では竹を縦に細長く割って、それを折り曲げて紐などで縛り、ピンセットのような形をした箸(?)も儀式の際に使用したようです。
これは献立の一例であって、貴族といってもいつもこんな豪華な食事をしていたとは限りませんが、上級貴族はおおよそはこういった全国から税として集められた珍しい食材を使った、豪華な食事をしていたでしょう。それに比べて下級官人の食事はあまりにも質素で、このような食事で仕事が出来たのでしょうか。

▼ 下級官人の摂取カロリー

玄米のご飯茶碗一杯とひじきの煮物では、一体カロリーはどれくらいになるのでしょうか。
炊いた白米100グラムは168kcalですから、玄米も同じくらいとし、お茶碗一杯(150グラム)は252kcalとなります。ひじきの煮物は100グラム100kcalですから、両方で352kcalとなります。当時は朝晩の二食でしたので、同じような物を食べたとして704kcalとなります。
現在の成人男性(20代-40代)の基礎代謝、つまり何もしないでも消費されるカロリーは平均1200-1300kcalと言われます。何もしないでもこれくらいのカロリーが消費されるのですから、たった702kcalの摂取ではとても労働など出来なかったのではないでしょうか。
しかし、当時はお米(玄米)はたくさん食べていたようで、一回の食事当たり一合のお米を食べていたと言われますので、一日二食でしたから二合は食べていた事になります。参考にした『よみがえる平城京-天平の生活白書』では、下級官人が食べる一日当たりの玄米の量を、その器の大きさから二合半としています。
白米一合(150グラム)を炊くと、およそ340グラムとなります。玄米も同じようなものですので二合半の玄米を炊くと、およそ850グラムとなります。炊いた白米一合当たりのカロリーは168kcalですが、玄米も同じとすると、炊いた玄米850グラムのカロリーは1428kcalとなります。もしこれくらいたくさんの玄米を食べていたとすれば、栄養は別として摂取カロリーは充分であったと言えます。
なお、平城宮では役所で働く多くの人々のために給食があったと言います。政府が出す食事ですから、お米(玄米)はたくさん食べられたのかもしれません。朝(お昼前?)は役所の給食、そして夕食を自宅で食べたのでしょうか。
また、平城宮の中には、造酒司(みきのつかさ)という役所があり、お酒を造っていました。当時のお酒は米を原料に麹(こうじ)を使って発酵させたもので、酒粕をこした浄酒(清酒)、酒粕をこしていない濁り酒、また焼酎のような蒸留酒もあったそうです。こういったお酒もやはり一部の特権階級の物でした。