おさるの
日本史豆知識

トップページ

関連ページ
日本刀の歴史-上古刀の部(姉妹サイト:おさるの日本刀豆知識

弥生時代

紀元前3世紀中頃-3世紀中頃

《 目次 》

  1. − 稲作の伝来と弥生時代 −
    1. ■ 大陸・朝鮮半島との交流
  2. − 邪馬台国 −
    1. ■ 卑弥呼
      1. ▼ 卑弥呼は殺された?
    2. ■ 邪馬台国はどこにあった?
    3. = 豆知識 =
      1. ・青銅
      2. ・稲作は中国から 
      3. ・お米について
      4. ・中華思想と冊封
弥生時代と言う名前は、明治17年(1884年)に、現在の東京都文京区の弥生町の貝塚で土器が発見された事によります。それが弥生土器と名付けられ、この土器を使っていた時代を弥生時代と呼ぶようになりました。

− 稲作の伝来と弥生時代 −

弥生時代は、紀元前3世紀半ば頃に朝鮮半島から稲作が伝わった事により始まったとされてきました。しかし、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(なばたけいせき)や、福岡県福岡市の板付遺跡(いたづけいせき)の、縄文時代晩期の約2,500年ほど前と考えられる地層から、日本最古の水稲(すいとう/水田による稲作)耕作跡が発見され、稲作の開始時期、ひいては弥生時代の始まった次期についての議論が成されるようになりました。
さらに最近の米の遺伝子の研究、遺跡の調査などから、稲作は朝鮮半島からではなく、中国から直接伝わったという説、また弥生時代の開始時期も紀元前10世紀、あるいはもっとさかのぼる可能性もあるという説が出ています。これについて詳しくは豆知識の稲作は中国からをご覧下さい。
青森県の垂柳遺跡(たれやなぎいせき)で、弥生時代中期の水田跡が発見された事により、水田による稲作が東北地方まで伝わっていた事が分かります。
水稲が取り入れられると、これまで不安定であった食糧の確保が安定するようになりました。そして水田耕作を効率化させたのは、大陸から伝わった鉄器でした。それまでは、石器を使って木を削ったりして農具などを作っていましたが、鉄器を使う事によって作業が効率的になり、やがて農具などにも鉄器が使われるようになりました。
大陸からは青銅器(せいどうき)も同時に伝わりました。青銅とは、銅と錫の合金です(豆知識の青銅参照)。青銅は、鉄よりも低い温度で溶けるため加工がしやすく、型に流し込んで当初は剣(つるぎ)などの武器を作っていましたが、後には祭祀(さいし)などに用いる道具などが作られるようになりました。世界的には、石器時代から青銅器時代となり、鉄器時代となるのですが、日本には青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わったため、青銅器時代が無いというのが特徴です。
鉄器の使用などによって農地開発が進むと、集落の中にそれを指揮するリーダーが現れます。農地が広がり収穫物が増えると、それらを蓄える事ができるようになります。それが富(とみ)となり、リーダーのように人を使う者、使われる者、富を蓄える者、そうでない者といったように人々の間に格差が生まれていきました。
甕棺墓 
甕棺墓の写真 
佐賀県の詫田西分遺跡(たくたにしぶんいせき)で、直接土に埋められた人骨の他に、甕棺墓(かめかんぼ)に入れられた人骨も発見されています。甕棺墓とは、甕(かめ/つぼのようなもの)を棺(ひつぎ/死者を納める物)として使う埋葬方法で、甕の中の遺体は体育座り(ヒザを抱えて座る)のような形で葬られました。甕棺墓は1つの場合と、2つの甕を口の部分でくっつけた物とがあり、弥生中期頃に北九州でよく見られた埋葬方法です。
棺の中には、青銅器や腕輪などが副葬品として一緒に入れられる事もありました。当時これらはとても貴重な品であったため、リーダーのような実力者の棺に入れられました。このように埋葬の仕方が違った人骨が発見された事により、次第に人々の間に格差が現れていったという事が分かるのです。
また、農地の開発が進むと、近隣の集落との間に農地の境界線や灌漑施設(かんがいしせつ/農地に水を引いてくる施設)をめぐって争いが起こるようになりました。佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)には、激しい戦いの跡が残っています。集落の周りには環濠(かんごう)と呼ばれる深い堀が掘られ、その内側と外側には杭を打ち込んで敵の侵入を防ぎました。そして敵を発見できるように物見櫓(ものみやぐら)も立てられていたと考えられています。環濠を持つ集落を環濠集落と呼び、また日常生活には不便と思われる山の高台に集落を作った高地性集落もありました。これらは戦いに備えた集落であったと考えられています。
そして首のない人骨や、武器が刺さったままの人骨、穴のあいた頭蓋骨などが発見されており、集落同士の激しい争いの跡が見られるのです。こうした状況の中、力の強い集落がいくつかの集落を束ねて小国家が生まれていったのです。

■ 大陸・朝鮮半島との交流

玄界灘(げんかいなだ)に浮かぶ長崎県に属する島・壱岐(いき)で、大規模な弥生時代の環濠集落が発見されました。原の辻遺跡(はるのつじいせき)です。甲子園球場26個分に相当するこの原の辻遺跡からは、南北40メートル、東西30メートルの船着き場も発見され、大陸や朝鮮半島との交流をうかがわせる物がたくさん発掘されています。また、福岡の板付遺跡からは、大陸系の特徴を持つ人骨が多く発見され、弥生時代の中期の北部九州では、人口の8割が渡来系であったと言われます。
そして、朝鮮半島においても日本との交流をうかがわせる物が発見されています。韓国の南海岸に浮かぶ勒島(ヌクト)では、日本の弥生中期の特徴を持つ土器や、朝鮮半島には無い風習を持った人骨も発見されました。それは意図的に抜歯(ばっし)された人骨でした。日本においては、縄文時代より意図的に永久歯を抜いた人骨が数多く発見されており、何かの儀式によって抜歯したと考えられています。当然当時は現在のような明確な国境意識はなく、このように、日本と朝鮮半島は玄界灘を通して頻繁に行き来し、交流していたのです。
ところで、弥生文化が広がったのは東北地方から九州までで、北海道では縄文時代の生活様式が続きました。しかし土器には弥生式が見られたり、鉄器も使われていましたので、弥生文化を持つ人達とも交流があった事がうかがえます。
一方、沖縄などの島々も水稲を行わない独自の生活様式をとりました。周辺は海であり、魚貝類が豊富に取れ、美しい貝殻を使って装飾品などを作りました。そしてこれらの美しい貝殻の装飾品は遠く北海道にまで渡り、広い交易が行われていたのです。北海道や沖縄に弥生文化が広まらなかった理由は、北海道では水稲を行うのには気候が合わなかったからで、沖縄など南の島々は豊富な海産物が取れたため、米を作る必要がなかったからなのです。

− 邪馬台国 −

佐賀県の吉野ヶ里遺跡の甕棺墓から、直径7.4センチの小さな銅鏡(どうきょう)が発見されました。銅鏡とは青銅製で、片面を磨いて鏡のようにしたものです。その銅鏡に
「久不相見、長母相忘」
という文字が鋳込まれて(いこまれて)いました。これは「ひさしくあいみざるも、ながくあいわするることなからん」と読み、「長く会えなくても忘れないで」という意味です。この銅鏡は紀元前1世紀頃のもので、この頃に大陸と交流があった事がうかがえ、この銅鏡は現在発見されている最古の日本における漢字使用例の1つです。
そして1世紀頃になると、日本の様子が中国の歴史書などの書物に見られるようになります。後漢(ごかん/古代中国王朝)の第3代皇帝である章帝(しょうてい/在位:75年-88年)の時代に書かれた歴史書・『漢書(かんじょ)』には、「倭国(わこく/当時の日本)は、100国ほどの小国が分立していて、朝鮮半島にあった楽浪郡(らくろうぐん/朝鮮半島北部にあった中国王朝の植民地)に定期的に使者を派遣し、貢物を献上していた」と記されています。
また、『後漢書』には、57年に奴国(なこく)に冊封(さくほう/中国が周辺諸国と主従関係を結ぶ事。豆知識の中華思想と冊封参照)の印として、「漢委奴国王(かんのわのなこくおう)」と刻まれた、純金の金印(1辺2.3センチ)を与えたと記されています。そして江戸時代の天明4年(1784年)に、福岡県で耕作中の百姓によってこの金印が発見され、藩主である黒田家に渡り、現在は福岡市博物館が保管しています。
注) 奴国とは、九州の福岡市あたりにあったとされる倭国に含まれる国の1つです。倭国はいくつもの小国から成る連合国でした。
3世紀末に記された『三国志』の魏書東夷伝倭人条(ぎしょとういでん わじんのじょう/通称・魏志倭人伝)には、3世紀頃の日本の様子が書かれています。そこには、魏(ぎ/中国三国時代の国の1つ)の領土であった朝鮮半島北部から、倭国の各国への道程が記述されており、
「投馬国から南へ水行10日、陸行1月で女王の都のある邪馬壹国に至る」
と記述されています。また5世紀に書かれた『後漢書』には「邪馬臺国」と言う記述が見られます。これら「邪馬壹国」や「邪馬臺国」とは邪馬台国(やまたいこく)の事だと考えられています。しかし、これらが当時どう読まれていたのか、なぜ「邪馬壹国」や「邪馬臺国」が「邪馬台国」となったのかは詳しくは不明です。しかし、「邪馬台」はもともと「やまと」と読んでいましたが、『ヤマト王権』(後述)と区別するために「やまたい」と呼ぶようになったと言われます。
邪馬台国(やまたいこく)とは、3世紀頃の日本にあったとされる国の1つです。当時日本は倭国(わこく)と呼ばれ、約30の国から成っており、邪馬台国はその中で最大の7万人を有する国であり、倭国の首都でした。
また同じく『魏志倭人伝』には、「倭国は男子を王としていたが、乱れて長年にわたる内戦状態となったため、1人の女子を共立して王とした。名を卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わす」とも記述されています。
そして『後漢書』の「東夷列傳」には、魏志倭人伝の倭国の長きに渡る内線を「倭國大亂(わこくたいらん)」と表現し、それは146年から189年頃の間に起こったとおおざっぱな期間が記されています。

■ 卑弥呼

これら中国の歴史書によると、2世紀末頃の倭国は男子が王でしたが、倭国大乱と呼ばれる内乱が続き、卑弥呼(ひみこ)という女性を皆で女王にたてると内乱が治まり、卑弥呼は鬼道(きどう)を使って皆を支配し、30あまりの国を束ねる邪馬台国の女王としてこれらの連合国を支配しました。
この中国の歴史書が伝える「倭国大乱」とは何が原因だったのでしょうか。実は卑弥呼が女王となる直前、過去7,600年で最も厳しい寒冷期となっていた事が、発掘調査で明らかになりました。つまり180年前後には、寒冷に加え大雪が降ったり大雨が降って大洪水が起こったりと気候が大きく変化し、稲作に大きな打撃を与えたのでした。そして安定していた食物確保が不安定となり、食料の奪い合いなどが起こり倭国大乱の時代となったのです。
卑弥呼は、この倭国大乱を鬼道(きどう)を使って治めました。そして不思議な事にあれほどの寒冷だった気候が、卑弥呼が女王であった期間は温暖な気候となったのです。鬼道とは具体的にどのようなものであったのかは分かっていませんが、恐らくは呪術などに似たものであったと思われます。そして卑弥呼が鬼道に使ったのが銅鏡でした。
銅鏡は、青銅(銅と鈴の合金)で造られています。青銅と言えば皆さん博物館などで展示されている薄い青色がかった緑色の出土物をイメージすると思いますが、あれはサビているのであって、本来の青銅は鈴の混合比率によっては黄金色に輝いていたのです。新品のピカピカの10円玉のような輝きだったのです(豆知識の青銅参照)。
卑弥呼は太陽のように輝く丸い銅鏡をシンボルとして使い、太陽の巫女(みこ/神に仕えて神の言葉を伝える者)として君臨しました。つまり「ひみこ」は「日の巫女」であり、「卑弥呼」という文字は中国が付けた呼称で、中華思想による他国人への蔑称(べっしょう/さげすんで呼ぶ名)であったのです。女性である卑弥呼が王として立てられたのは、卑弥呼がシャーマン(呪術師・巫女)として優れた能力を持っていたからだと考えられます。
卑弥呼の登場は一種の宗教改革でもありました。それまで宗教的な儀式で神として扱われてきた、銅鐸(どうたく)が消えたからです。卑弥呼の登場以後、人為的にたたき壊された銅鐸が出土するのです。これらの銅鐸は、火の中に投じられ熱せられた後、木の棒などでたたくと案外簡単に壊れるのです。卑弥呼の登場は、政権交代でもあり宗教改革でもあったのです。
239年、卑弥呼は魏(中国三国時代に華北を支配した王朝)に朝貢(ちょうこう/豆知識の中華思想と冊封参照)し、「親魏倭王(しんぎわおう)」と刻まれた金印と銅鏡を授かりました。女王となった卑弥呼は独身を通し、1人の男が身の回りの世話をしたとされ、亡くなった時には直径100歩もある大きな墓が造られ、100人の奴隷を一緒に埋葬したと言われます。ちなみに100歩(ぶ)とは古代中国の長さの単位で、2歩歩いた歩幅が1歩とされ、6尺(約180センチ)とされました。従って直径100歩とは、約180メートルほどにもなります。
卑弥呼が亡くなった後、男子が王として立てられましたが諸国は従わず再び乱れ、1,000余人もの人が死んだと言われます。そんななか、卑弥呼の親族である13歳の壹與(とよ/「臺與」とも)が女王として擁立されると、再び倭国は治まったと言われます。しかし、壹与を女王とする倭国がその後どうなったかは不明です。266年に魏に朝貢したと言う中国の記録を最後に、中国の書物に倭国の記録は無くなります。当時日本にはまだ文字を使って記録を残すという事がなかったため、いわゆる空白の4世紀となるのです。

▼ 卑弥呼は殺された?

卑弥呼の死の原因については、中国の歴史書には何も記述されていません。ただ卑弥呼が死んで直径100歩もの墓が造られたという記録しかありません。この前の記述が、247年の邪馬台国から使者がやって来たとの記述のため、卑弥呼が死んだのは247年、あるいは248年と考えられています。卑弥呼の死因についての記録がないため、様々な説があります。ただ、古代には権威を失った王は後継者に魂を移すために殺害される事が多かったため、卑弥呼は殺害されたという説があるのです。
これまでにない寒冷期であったのが、卑弥呼が女王となると嘘のような温暖な気候となり、稲作も順調に進みましたが、240年を境に再び気候に変化が現れるのです。今では、天文シミュレーターという機器を使って過去にさかのぼって天体の動きを調べる事ができます。それによると、247年3月24日、日食が起こっていたのです。
夕方、太陽が欠けながら沈んでいったのです。そして沈む間際には太陽の95パーセントが欠けていました。当時の人々は、日食が太陽と地球の間に月が入る事によって起こる自然現象であるという事は当然知りません。食物を育む光や明るさを与えてくれる太陽が欠けながら沈んでいくのを見た人々は、きっと太陽が無くなってしまうと恐れ、またこれは神の怒りであると感じたでしょう。そして太陽が欠けて無くなって行くという事は、「日の巫女(みこ)」である卑弥呼の権威の失墜を意味したのでした。
そして翌248年9月5日にも日食が起こっていた事が分かったのです。卑弥呼が死んだとされる247年と248年の2年連続で日食が起こっていたのです。248年の日食は、93パーセント欠けた太陽が、満ちながら昇っていくというものでした。つまり247年には太陽が欠けながら沈んで行き、翌248年には欠けた太陽が満ちながら昇って行ったのです。つまり247年の日食により卑弥呼の「日の巫女」としての権威は失われ、新しい後継者に替えるために殺害され、翌248年の欠けた太陽が満ちながら昇って行くという日食によって、「日の巫女」の復活となり、後継者の壹與が女王となったのではないかと考えられているのです。
このような事から、卑弥呼は天照大神(アマテラスオオミカミ)であると言う説があります。この卑弥呼の死の原因と日食の関係が、『天岩戸(あまのいわと)』伝説に似ているからです。

奈良時代に記された『古事記(こじき)』に見える天岩戸の神話とは、天照大神は、弟であるスサノオの様々な乱暴な振る舞いに怒り、天岩戸に引きこもってしまい世の中は闇となってしまいました。そこで八百万の神(やおよろずのかみ)が集まってどうしたら良いかを話し合い、アメノウズメが岩戸の前で裸で踊りだしました。岩戸の影には力自慢のアメノタヂカラオが隠れていました。アメノウズメの踊りに八百万の神は一斉に大笑いしました。天照大神は、自分が引きこもって世の中が闇になったと言うのに何がそんなに楽しいのだろうと不思議に思い、少し岩戸を開けてアメノウズメに尋ねました。するとアメノウズメが「あなたよりも尊い神が現れたのでお祝いをしているのです」と答えたのでした。そして差し出された鏡に映った自分の姿がその新しい神だと思った天照大神は、もっとよく見ようと岩戸を少し開けた時、隠れていた力自慢のアメノタヂカラオが岩戸を開けて天照大神を引っ張り出したのです。これで世の中に光が戻ったのでした。
この説では天照大神が天岩戸に引きこもったのが日食を表し、鏡に映った自分を新しい神と思って少し岩戸を開けた時に引っ張り出されたのが壹与との世代交代を表していると考えられるとしています。

■ 邪馬台国はどこにあった?

邪馬台国に関する史料は中国の書物しかなく、それもあいまいであるため邪馬台国がどこにあったかについても諸説あります。『魏志倭人伝』には、朝鮮半島から邪馬台国への道程が記されていますが、これの解釈も様々で、今では九州説と畿内説が有力視されています。しかし、魏志倭人伝の道程の記述では九州説、畿内説ともにつじつまが合わないのです。
しかし、2009年11月に邪馬台国の最有力候補である奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむくいせき)で、卑弥呼が女王として在位していた頃と同時期の、南北17メートル、東西14メートルの巨大な建物跡が発見されました。これは当時としては日本最大の建物と言えます。しかも巨大であるというだけではなく、建物の四辺が東西南北の方位に合わせて作られているという特徴があります。柱などは発見されてはいませんが、当時は建物を分解してリサイクルし、移築するというのが当たり前であったため、ここにあった建物もそうであったと考えられています。そして高床式の高さおよそ10メートルと想定されるこの建物は、女王・卑弥呼の宮殿ではないかと考えられています。
また纒向遺跡内には、全長278メートル、高さ30メートルの箸墓古墳(はしはかこふん)があり、その建造年が卑弥呼が死んだ年とほぼ一致するという研究結果が出され、しかもこの巨大建造物が解体された直後、あるいは同時期に箸墓古墳が建造された事も判明し、箸墓古墳は卑弥呼の墓である可能性もあり、邪馬台国はここ纒向遺跡でほぼ間違いないという研究結果が発表されています。
そして纒向遺跡が邪馬台国の都であった可能性をより高める物が発見されています。それは絹織物で作られた巾着袋(きんちゃくぶくろ)です。これは赤く染色された絹織物で、同じ赤く染色された毛織物を、卑弥呼が中国の魏に献上したという記録があり、染色に使われた紅花(べにばな)の花粉も纒向遺跡から発見されているのです。

= 豆知識 =

・青銅

青銅は銅と錫の合金で、錫の割合によって色が変わります。錫を少なくすれば新品の10円玉のようなピカピカの赤銅色に、錫を多くすれば白銀色となります。青銅と言うと、博物館などで見る出土品のくすんだ青緑色を想像しますが、あれは空気に長くさらされて緑青(ろくしょう)という錆が出ているのであって、青銅本来の色ではありません。出来た当時の青銅品は錫の含有率によっては黄金色にもなり、古代の人達はその輝きに魅了されたことでしょう。
近代にガラス製の鏡が出来るまで、銅鏡は世界で広く使われ、日本でも江戸時代には大名の嫁入り道具として使われていました。

・稲作は中国から 

稲作は約2,500年くらい前に朝鮮半島経由で伝わったと言われてきましたが、稲の遺伝子の研究や、遺跡からの発掘品の調査などによって、中国から直接日本に伝わったという説が有力となってきています。
平成15年、国立歴史民俗博物館は九州北部の福岡市の雀居遺跡(ささいいせき)や、橋本一丁田遺跡、佐賀県唐津市の梅白遺跡など、弥生時代早期から前期にかけての土器に付着していた炭化物などを、AMS法炭素14年代測定法で計測したところ、それらの年代が紀元前約900年から800年頃という結果になったと発表しました。また考古学的に同時代であるとされる遺跡の水田の水路に打ち込まれていた木の杭もほぼ同じ結果が出たと言われます。
これらの結果が果たして正しいのかを確認する為に、同時代の東北地方や韓国・松竹里(ソンジュンニ)遺跡の出土品や、前後する時期の資料を調べた結果、矛盾する所はなく、日本において本格的に稲作が始まったのは、紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある事が分かったのです。
さらに、縄文時代前期の朝寝鼻貝塚(岡山市)の約6,000年前の地層から、岡山県灘崎町の彦崎貝塚の同じく約6,000年前の地層から、稲のプラント・オパールが発見されており、さらに稲作の起源はさかのぼるという説もあります。
注) プラント・オパールとは、植物の細胞に含まれる微量のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったものです。
炭素14年代測定法による分析で、日本での陸稲(りくとう/水田ではなく畑で作る稲作)は6,700年前まで、水稲(すいとう/水田での稲作)では3,200年前まで溯る事が分かっていますが、朝鮮半島では陸稲で3,000年程度、水稲では1,500年ほどしか遡れない事が分かっています。このように、稲作の歴史は日本の方が断然古い事が科学的に証明されましたので、朝鮮半島から伝わったという説は説得力が無くなりました。
また稲は大きく分けるとインディカジャポニカに分けられ、さらにジャポニカには水稲に向いている温帯ジャポニカと、陸稲にむいている熱帯ジャポニカがあります。日本や中国には温帯ジャポニカ・熱帯ジャポニカ両方とも存在しますが、朝鮮半島には温帯ジャポニカは存在せず、また日本、中国両国の稲に見られる『RM1-b』という遺伝子は、朝鮮半島の稲には存在しません。
これら考古学の見地から、遺伝子の見地の両面から稲作は中国から直接伝わったと考えられるようになってきました。

・お米について

稲作の話が出たので、お米の豆知識を少し・・・
収穫した稲の茎(くき)から籾(もみ)をはずす作業を脱穀(だっこく)と呼びます。昔は稲の茎を手でしごいたり、筵(むしろ/ワラなどで編んだ質素な敷物)に稲を置いて棒でたたいたりして籾をはずしていましたが、江戸時代に発明された千歯扱き(せんばこき)は作業の手間を飛躍的に向上させました。これは上部が串(くし)状になっていて、串のようになっている間に稲の穂を通すようにしてしごく事によって一気に籾を取り外すという物でした。
脱穀が終わると今度は籾摺り(もみすり)という、籾殻(もみがら)を取り除く作業に入ります。籾殻を取り除くと出てくるのが玄米(げんまい)です。昔は杵(きね)と臼(うす)を使って作業しました。杵は丸太棒の中央の握る所を細めに削った物で、両手で握って臼の中に入れてある籾を突くようにして、籾と杵または籾同士をこすり合わせて籾殻を取り除きます。このように突く事を「搗く(つく)」と呼んでいます。そして唐箕(とうみ)と呼ばれる扇風機のような風をおこす装置で籾殻や粃(しいな/中身のない籾)を吹き飛ばして取り除きます。
こうして出てきた玄米には、胚芽(はいが/芽となって成長する部分)と糠(ぬか)が付いています。糠は玄米を覆っている(おおっている)皮のようなものです。糠が付いていますので玄米は白くはなく、ちょっと茶色っぽい色になっており、食べると硬い感じがします。玄米は普段私達が食べている白米(はくまい)よりもビタミンやミネラル、食物繊維を多く含んでいますので、健康食品として任期があります。
玄米から糠を取り除く事を精米(せいまい)と呼び、出来上がった米は糠が取れて白くなるので白米(はくまい)と呼びます。なお、胚芽が残るように精米された米を胚芽米と呼びます。今は摩擦や研磨を利用した機械がありますが、昔は杵と臼を使って搗く事によって米と米をこすり合わせるようにして糠を取り除いていましたので、大変な作業でした。やがて足で杵をふんでテコの原理を利用して搗く物や、江戸時代には水車の動力を利用して搗いたりしました。
糠は杵で搗いている間に細かく砕かれて粉状になってはがれ落ちますので、今度は米と糠を分けなければなりません。そこで使ったのが千石通し(せんごくどおし)です。これは上部に斜めになったふるいが付いていて、この上はしから搗いた米を入れると、米と粉状になった糠は斜面をすべり落ちながら細かい糠はふるい落とされ下に落ちるという物です。糠は捨てるのではなく、様々な用途があります。例えばぬか漬けの漬け物や、昔は石けん代わりにも使っていました。糠を小さな袋に入れたぬか袋で体を洗ったりしていたのです。
ちなみに、籾殻付きのお米一合はおよそ110グラム、玄米一合はおよそ156グラム、白米一合はおよそ150グラムで、籾殻付きのお米一合を玄米にすると三割減となっておよそ78グラム(0.5合)となり、玄米一合を精米して白米にすると二割減のおよそ125グラムとなります。従って籾殻付きのお米を白米にすると元の重量のおよそ56%となります。
江戸時代になると、玄米ではなく白米を食べる習慣が広まり、それにつれ脚気(かっけ)が流行しました。脚気とは、ビタミンB1の不足により心不全(しんふぜん)や末端神経(まったんしんけい)に障害をおこす病気です。心不全により足がむくみ、末端神経の障害によって足がしびれる事から脚気と呼ばれます。これはひどくなると命に関わる病気となります。有名な人として徳川13代将軍家定(いえさだ)、14代将軍家茂(いえもち)、家茂の正室和宮(かずのみや)などが脚気で死亡しています。
はじめは将軍などいわゆるお金持ちに多かった病気でしたが、江戸では次第に庶民も白米を腹一杯食べるようになり、江戸後期には庶民にも大流行しました。江戸を離れると回復に向かう事もあったので江戸患い(えどわずらい)と呼ばれました。これは江戸では庶民も白米を大量に食べる習慣があり、関西などでは玄米を主に食べていたからです。
脚気は江戸時代だけの病気ではなく、明治以降も猛威(もうい)を振るいました。1894年(明治27年)に起こった日清戦争(にっしんせんそう)において、派遣された17万人の軍隊のうち4分の1が脚気に倒れ、戦闘による死者が360人であったのに対し脚気による死者は10倍以上の4,000人でした。陸軍では1日当たり1人6合の白米を食べ、副食(おかず)はほとんどなく白米ばかりを食べていました。炊いた(たいた)米1合はざっとお茶碗2杯ですから6合はお茶碗12杯となり、単純に言うと朝昼晩4杯ずつ白米を食べていた事になります。
兵士はこれを歓迎していました。軍隊に入れば銀シャリ(炊いた白米)を腹一杯食べられたのです。物資や食料の乏しいなか、軍隊は特別だったのです。海軍が米からパンに替えようとした事がありましたが、水平が「米を食わせろ」と暴動が起こった事もありました。
1904年(明治37年)の日露戦争(にちろせんそう)においても軍は白米中心の食事を続け、その結果28,000人もの脚気による死者を出したのです。ロシア兵の報告に「日本人は酒に酔っているようにフラフラしている」というものが残っています。
原因が分からずこれと言った治療が出来ずに多くの死者を出し、国民病とまで言われた脚気でしたが、1910年(明治43年)に鈴木梅太郎(すずき うめたろう)がビタミンB1を発見し、白米には糖質の分解に必要不可欠なビタミンB1がほとんど含まれないため、大量の白米を毎日食べるのに、副食をほとんど食べなかった兵士達は栄養障害になっていたという事が分かったのです。麦や玄米、豆類、緑黄色野菜などにはビタミンB1が多く含まれますが、こういった食材はお金持ちはあまり食べなかったのでしょう。そして白米といった美味しい米の味を知った庶民達も、白米を大量に食べあまり副食を食べなかった事により、長い間脚気が流行したのです。
ところで、米の量を表す単位を合(ごう)と言います。10合で1升(しょう)、10升で1斗(と)、10斗で1石(こく)となります。昔は米の量をはかるために枡(ます)を使いました。これは正方形の小さな箱のような計量器で、これにすり切りいっぱい入れた量の米を1合としました。本当はこの1合という量を統一するために、枡の大きさは全国で同じでないといけないのですが、税を米で徴収していた時に、取る側は少しでも多く取ろうとして枡を大きくしたり、支給する時には徴収した時より小さな枡を使ったりしたので、同じ1合でも使われた枡によってその量は違いました。
明治時代になると、1升=約1.8リットルと定められましたので、1合は180ミリリットルとなります。重さで言うと、炊飯(すいはん)前の米1合の重さは約150グラムで、炊くとその倍以上の約340グラムにまでふくれます。また炊いた白米100グラムのカロリーは168kcalで、炊いた白米一合(340グラム)のカロリーは571kcalとなります。

・中華思想と冊封

中国は中華思想に基づいて、古くから冊封体制(さくほうたいせい)下にある近隣諸国と、朝貢(ちょうこう)という形で貿易を行っていました。
中華思想とは、中華(中国)が世界の中心であり、中華の思想や文化こそが価値のある物であって、漢民族以外の文化などには価値はないとする思想です。中華思想に基づいて中国王朝は、自国と周辺の他民族を区別し、夷狄(いてき/東方の未開国を夷、北方のそれを狄と呼んでおり、野蛮な民族という意味)、禽獣(きんじゅう/獣に等しい者)などと蔑称していました。
冊封とは、中国王朝の皇帝とその周辺諸国の君主とが名目的な主従関係を結ぶことです。中国王朝の王は皇帝と称し、冊封を受けた君主は「○○国 国王」などといった中国の称号を与えられ、文書や印章などを以て一国の国王として認められるというものです。皇帝は王の中の王、唯一無二の王という意味で、世界のトップは中国皇帝であって、諸国の国王はその傘下にある国の国王にすぎないという考えです。また、冊封を受けると毎年の朝貢(ちょうこう)、中国の暦を使う事などが義務付けられ、中国から兵を出すように要請されれば出兵しなければなりません。ただ逆に自分達が攻撃された場合は、中国に応援要請が出来ます。また年号や暦は国書などの外交文書などでの使用義務であって、国内では自国のものが仕えました。
また朝貢とは、中国皇帝に貢物(みつぎもの)を捧げ、これに対して皇帝が恩賜(おんし)を与えるというもので、貢物の数倍も高価な恩賜を与えるというのが常識でしたが、朝貢を受けるという事は、皇帝の徳が高いからだと考えられ、またそれにより皇帝自らの正統性を内外にアピール出来る為、中国王朝は何倍も高額な出費をしてでも朝貢を歓迎しました。そしてこの朝貢という形式が、国家間の正式な貿易となったのです。
こういった冊封によって成された秩序を冊封体制と呼びますが、それぞれのメリットは何だったのでしょうか。
中国は、自分達を高い文化を持つ『華』とし、周辺諸国の者を『夷狄』と見下し(華夷思想)、それら夷狄が中国皇帝の徳を慕ってやって来れば、その徳によって獣も文明人となり、華の一員となることが出来る(王化思想)という思想を持っています。従って冊封を受けることによって周辺諸国の夷狄や禽獣達も花の一員になることができ、またその冊封を受けた国が多いということは、つまりは中国皇帝の徳が高いからだと諸外国に証明する事が出来るという訳です。また武力を用いて近隣諸国を抑えるのに必要な軍事費を考えれば、貢物の数倍もの物品を与えた方が安上がりとなり、また中国にとっても安全保障となったのです。
一方、冊封を受けた国は中国とは主従関係を築く訳ですから、プライドさえ捨てれば中国から攻撃を受ける心配がなく、また同じように冊封を受けた諸国と軍事的にバランスが保て、貢物の数倍もの価値がある物品が手に入るため莫大な利益があがるというメリットがありました。
注) 冊封を受けなくても朝貢は可能でした。冊封を受けるということは中国の臣下になるということですが、朝貢は主従関係を結ぶというものではなく、中国皇帝に貢ぎ物を捧げ、その見返りに皇帝が恩賜を与えるという、一つの貿易形態だったからです。しかし、どちらにしても中国は自分達が一番偉いという、上から目線で近隣諸国を見下していたことには違いはありません。なお、当時の中国とは朝貢という形でないと貿易はできませんでした。
中国は古くからこういった思想を持っており、これは急激な経済成長を遂げた現在でも同じような考えを持っているのです。