1 |
アウグストゥス |
在位BC27(35才)〜AD14(76才) |
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即位まで |
カエサルの姉ユリアの孫であったオクタヴィアヌスは、BC44年に暗殺されたカエサルの遺書によってその後継者とされた。カエサルを暗殺したブルータスらを征討した後、アントニウス、レピドゥスとともに第二次三頭政治を行なう。その後エジプトのクレオパトラと結んだアントニウスを滅ぼし、元老院から“第一人者(プリンチプス)”の称号を受ける。
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主な業績 |
・共和制への復帰宣言など、表面上は元老院と協調しながら帝政の基礎を固めた。
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・ゲルマニア征服を行い、その後の帝国領土を確立した。しかし、AD9年トイトブルクの森の戦いで大敗し、エルベ河への拡張は失敗。以降、ゲルマニアの北部はローマ帝国の領外となる。
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・軍制改革を行い帝国防衛の整備を行なう。(無闇な拡張はしなかった)
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・BC20年パルティアと講和条約締結。シリアの領有権を確立。
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・ユリウス姦通罪法を成立させたが、娘ユリアをこの法により裁くことになる。
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最期 |
ナポリにて静養中に死去
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2 |
ティベリウス |
在位14(55才)〜AD37(77才) |
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即位まで |
アウグストゥスの再婚相手であるリヴィアの連れ子。即位前はゲルマニア戦線最高司令官として軍事的な実績がある。アウグストゥスの後継であるルキウス、ガイウスらが相次いで早世したためにアウグストゥスの後継として残った。アウグストゥスとは血縁関係がなく、血の継承にこだわるアウグストゥスからその姉オクタヴィアの孫にあたるゲルマニクスを養子とすることを条件とされた。タキトゥス等歴史家からの評価は高くないが、ローマ帝国運営の基礎固めを行なったことなど実務家としての評価がみなおされている。
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主な業績 |
・エルベ河から撤退し、ライン−ドナウ防衛ラインを確立。
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・ゲルマニクスの妻アグリッピーナと対立し、この一派を粛清。
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・属州で高利をむさぼる元老院議員の告発から金融不安が発生、公的資金投入により解決。
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・カプリ島に隠遁し、元老院を軽視した政治を行なう。
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・近衛軍団長として重用したセイアヌスを粛清。
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最期 |
ミセーノ岬のヴィラで死去。元老院を軽視し、庶民の娯楽である剣闘士試合の開催に消極的であったためにその死は首都ローマの市民や元老院にはむしろ歓迎された。
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3 |
カリグラ |
在位37(24才)〜41(28才) |
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即位まで |
人気の高いゲルマニクスの息子ガイウス。ゲルマニクスの死後ティベリウスによって養子とされた。父に従って軍団で生活を送っていたときに「小さな軍靴(カリグラ)」と呼ばれたことから本名ガイウスではなく、その名で呼ばれる。母アグリッピーナは夫ゲルマニクスの死がティベリウスの陰謀であることを疑い、ティベリウスに対して陰謀を企てたが失敗して流刑にされている。
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主な業績 |
・税金の一部廃止(民衆に対して迎合的な政策をとり、結果として財政を破綻させた)。
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・剣闘士試合、競技会の復活、海上に5キロの船の橋を作らせ馬で渡る、などイベント好き。
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・国家反逆罪法を使って元老院を押さえ込もうとした。
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・2つの大規模な水道工事に着手する。
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最期 |
41年1月24日神君アウグストゥスに捧げるパラティーノ祭に出席していたカリグラは、昼食をとりに皇宮までの地下道を通って戻ろうとした時に、近衛軍団の大隊長カシウス・ケレアとコルネリウス・サビヌスによって暗殺された。近衛軍団は共和制復活の動きを見せる元老院に対してクラウディウスを皇帝として担げだし、帝政を守った。近衛軍団は後に報奨金を与えられたが、皇帝殺害の主犯であったケレアのみは死罪となり、またはサビヌスは罪を免れたが自死を選んだ。
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4 |
クラウディウス |
在位41(50才)〜54(63才) |
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即位まで |
ティベリウスの養子となったゲルマニクス(カリグラの父)の弟。カリグラには叔父にあたる。ユリウス家でなくクラウディウス家であったために皇位継承がカリグラよりも後になったと考えられる。カリグラを殺害した近衛軍団長に皇帝へ推挙された。歴史研究者であったのが突然皇帝となったが、カリグラの内外での失政を回復させた。
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主な業績 |
・ローマ外港オスティアの整備
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・ユダヤ人問題、アフリカの政情安定化、ブリタニア征服着手などの外交
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最期 |
皇后(小)アグリッピーナに毒きのこにより暗殺されたとされている。
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5 |
ネロ |
在位54(16才)〜68(30才) |
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即位まで |
母(小)アグリッピーナはカリグラの妹にあたり、クラウディウスの姪になる。息子ネロを皇帝として実権を握るのが目的だったと思われる。
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主な業績 |
・パルティアとの和約(コルブロによるパルティア攻勢とその和約)
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・ローマ大火後の復旧・再建
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・ローマ大火の疑いをかけられキリスト教徒に責任転嫁し迫害
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最期 |
皇帝暗殺計画から人を疑いはじめたネロはコルブロなどの各地の軍団司令官までも謀殺する。これに対して属州のヴィンデックスが反ネロで決起し、スペインの属州総督ガルバへ共に起つことを呼びかけた。ガルバのローマへの進軍を報により、市民、元老院や近衛軍団までもガルバ側につき、元老院からは「国家の敵」と宣告され、ついには自死する。
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9 |
ヴェスパシアヌス |
在位69(才)〜79年(才) |
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即位まで |
ローマ帝国の将軍だったヴェスパシアヌスは、67年ネロ帝によりユダヤに派遣され、そこでユダヤを征服する。68年イェルサレム攻囲中にローマで政変(ネロ自殺)が起き、攻囲を解く。69年東部の諸軍団に推され、アレクサンドリアで皇帝を宣す。 |
主な業績 |
69年クレモナの戦い;ウェスパシアヌス、元老院に皇帝として承認されていたウィテリウスの軍を破る。 |
ウェスパシアヌスの部将アントニウス=プリムス、ローマに入城。ウィテリウス、殺害される。 |
ウェスパシアヌス、元老院の承認を得て単独支配者となる(〜79);70年ローマに入城し正式に即位。フラウィス朝創始 |
71年、息子のティトスと共にプロコンスル命令権・護民官権限を受ける |
71年、哲学者をローマから追放 |
72年、アンティオコス4世を廃位し、コンマゲネを属州シリアに編入 |
73年、ウェスパシアヌスとティトス、ケンソルに就任;元老院改革及びスペインの全都市にラテン市民権を賦与 |
74年死海西岸の最後の拠点マサダの堅塁を占領;ユダヤ反乱軍の残党自害 |
ユダヤ支配を確実にし、ブリタニア、シリア、ゲルマニアでもローマの支配を強化した。 |
最期 |
79年、息子ティトスを共同皇帝として、後の憂いを残さず没する。 |
10 |
ティトス |
在位(才)〜(才) |
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即位まで |
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主な業績 |
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工 事 中 |
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最期 |
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11 |
ドミティアヌス |
在位(才)〜96年(44才) |
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即位まで |
ヴェスパシアヌスの次男。皇帝の息子として軍務経験がなかったことが後にダキアとの戦争の進め方において災いすることとなる。
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主な業績 |
・ライン河とドナウ河を結ぶ防衛線“リメス・ゲルマニクス”を建設した。
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・隆盛になりつつあったダキアを攻めたが、戦線の拡大を恐れ、またゲルマニア軍司令官サトゥルニヌスの反乱やゲルマン民族の活発な動きもあり、講和を結ぶ。このときローマ人捕虜返還に対して賠償金を支払ったことがローマの名誉の点から、ローマ市民の不評を買うことになる。
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・スペイン駐在の軍団長だった後の皇帝トライアヌスを見出し、執政官に推薦。その後高地ゲルマニアの軍団長に指名した。
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・元老院を無視し、また“国家反逆罪”を活用して元老院勢力を牽制したため、元老院からの評判はすこぶる悪い。
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最期 |
・皇后付きの解放奴隷に就眠中、暗殺される。直後にネルヴァが皇帝としてかつがれ、元老院もすんなり承認したことから、元老院派がからんだ暗殺とも考えられる。
・死後、記録抹殺刑となる。
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12 |
ネルヴァ |
在位96年(70才)〜98年(72才) |
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即位まで |
44歳のときヴェスパシアヌス帝の同僚として執政官を経験。90年にもドミティアヌス帝とともに執政官となっている。属州総督の経験も、軍団を率いた経験もなかった。世襲皇統がつづき、その欠陥を見せられてきた人々が、ネルヴァに子がないこと、70歳では子をもちようもないことを好条件とみて皇帝に推した。
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主な業績 |
・元老院議員を皇帝の司法権の外にあることを宣言し、ドミティアヌス時代の皇帝と元老院との関係を改めた。
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・しかし、反ドミティアヌス派を厚遇したわけでもなく、ドミティアヌスの政策は継承している。
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・ドミティアヌス暗殺の真相究明がはかどらないことに業を煮やした近衛軍団がネルヴァを監禁した。近衛軍団の不満が辺境に波及し、内乱の再発を恐れたネルヴァは、後継者にトラヤヌスを指名した。
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・トラヤヌスを指名したところが五賢帝に列せられるゆえん。
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最期 |
トライアヌスを指名した翌98年死去。
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13 |
トライアヌス Marcus Ulpius
Traianus |
在位98年(44才)〜117年(63才) |
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即位まで |
ネルヴァに後継指名された初めての属州出身(スペイン)の皇帝。シリア属州総督の父に従い軍務経験を積む。ドミティアヌス帝の信頼を得て38歳の時に皇帝推薦により執政官に当選。高地ゲルマニア軍団の司令官となり、ドミティアヌス暗殺後、皇帝となったネルヴァに後継指名される。
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主な業績 |
・先帝ネルヴァの死後も任地ゲルマニアに留まり、ドミティアヌスの時に不名誉な協定を結んでいたダキア族を討伐するための準備を進める。
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・二度に渡るダキア戦役で勝利し、106年ダキアを属州化した。(アウグストゥスがこれ以上覇権拡大を遺言で禁じてから90年後の拡大といえる)
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・建築家アポロドロスを起用し、ダキア遠征時にドナウ河にかけた全長1135mの石造の「トライアヌス橋」、ローマ最大のトラヤヌスのフォールム、アッピア街道を途中で南下しブリンディッシに到達するアッピウス・トライアーナ街道など公共建築・土木工事も多数手がける。
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・ローマ市民、元老院から「最良の皇帝」の称号をうける。
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・パルティア王国遠征、首都クテシフォン陥落させる。(帝政移行後はじめての大規模な海外遠征)
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最期 |
パルティア遠征の2年目、パルティア豪族が各地で反ローマに起つ中、病にかかり、ローマへの帰途に没する。
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14 |
ハドリアヌス |
在位117年(41才)〜138年(62才) |
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即位まで |
スペイン出身。亡父に代わってトラヤヌスが代父であった。遠パンノニアなどドナウ河前線の軍務、総督経験を経て
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主な業績 |
・ローマの不名誉となるパルティアからの撤退を密かに進めることから皇帝の職務が始まる。
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・前皇帝トライアヌスは元老院議員を国家反逆罪で告訴しないことを誓い、元老院から好かれていたが、近衛軍団長官アティアヌス(ハドリアヌスの後見人でもあった)の勇み足ながら就任早々、トライアヌス時代の将校を殺害してしまう。(『ハドリアヌス回想』)
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・以後は裁判にかけずに元老院を裁くことはしないことを表明。市民や軍団兵に対しての下賜金や娯楽の提供(剣闘会)、税の滞納分帳消し、など大盤振る舞い。(但し、公正な税制改革にも着手)
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・防衛前線視察のため帝政はじまって以来の大旅行を行ない、それは21年の治世のうち13年に及んだ。
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・前線を視察しながら軍制改革を行なう。属州民からの軍人採用が急造し、属州民の軍隊になったとの後代の批判も。
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・イングランドとスコットランドの間に「ハドリアンズ・ウォール」(防壁)を構築し、ローマ化を拒絶している北方の蛮族に対する防御とする。
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・パルティアの不穏な動きに対しては、視察先から自ら乗り込んでパルティア王とのトップ交渉で解決。
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・パンテオン建設、アテネ再建。
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・ビティニア生まれの美少年アンティノーを溺愛。(エジプト視察中に事故死)
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・131年、ローマ法を集大成し、刊行。
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・131年のユダヤ反乱を鎮圧し、以後ユダヤ人がイェルサレムに居住することを禁じた。このユダヤ人の「離散」(ディアスポラ)は、20C半ばのイスラエル建国までつづくことになる。(トラヤヌス帝末期のパルティア戦でパルティアと通じたユダヤ商人らによって背後を突かれたことを背景とし、ハドリアヌスによる挑発によりユダヤ反乱につながった?)
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・このときのユダヤ反乱で、ユダヤ教徒によるキリスト教徒弾圧が先鋭化し、以後ユダヤ教徒とキリスト教徒との敵対意識が強まる。(ローマ皇帝から割礼を禁止され、洗礼に変えていたのがユダヤ人の多くがキリスト教徒であった)
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最期 |
遠征からの帰国後はティボリの別邸で晩年を過ごす。指名した後継者に死なれ、体が自由に動かなくなる一方で、元老院議員を告訴するなど、元老院からは疎まれるよ
うになった。マルクス・アウレリウスを養子とすることを条件にアントニヌス・ピウスを後継指名し、死去。
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15 |
アントニヌス・ピウス
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在位138年(52才)〜161年(74才) |
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即位まで |
南仏ニームの出身の家系。やるべきことはすべてやったトライアヌスとハドリアヌスの後の皇帝となり、「秩序の支配する平穏」と評される時代を治めた。
ハドリアヌスが後継にしようとしていたアエリウス・カエサルが経験を積むための前線で病死したため、急遽後継者となった。
平穏であっただけにハドリアヌス帝のように視察をするわけではなく、ローマからはほとんど出ない皇帝であった。
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主な業績 |
・欲望の少ない人と評され、国家財政の節約にも勤めた皇帝。
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・スコットランドのエディンバラとグラスゴーの間に全長60Kmの「アントニヌスの防壁」を建設。
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最期 |
161年の春、ロリオの別邸で40歳になっていたマルクス・アウレリウスと29歳のルキウス・ヴェルスの、皇位継承者二人に見取られて死去。
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マルクス・アウレリウス
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在位161年(40才)〜180年(58才) |
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即位まで |
五賢帝の最後、哲人皇帝と言われる。『自省録』を著したことにより、後世の人がその名をつけることになる。17歳の時、すでにハドリアヌス帝に後継候補とみなされたが、若かったため次期皇帝アントニヌス・ピウスの養子とな
り、政務の経験を積んだ。しかし、アントニヌス帝の平穏な時期であっただけにマルクス・アウレリウスもイタリアから出たことがなかったが、即位後は、その治世のほとんどを戦場で過ごすことになる。
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主な業績 |
・同じくアントニヌス・ピウスの養子となっていたルキウスとはじめての共同皇帝となる。
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・
即位の年にパルティアがアルメニアに侵入。派遣したルキウスが途中で病気になるなどしたが、パルティア軍を撃退する。
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・167年頃からゲルマン部族の侵入がはじまり、マルクス・アウレリウスがドナウ河前線へ。(ルキウスは冬営地に赴く途中で病死)
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・175年マルクス死去の誤報を聞き、シリア総督が皇帝即位を宣言。マルクスはサルマティア族と講和し、息子コモドゥスを皇太子とする。(マルクスがシリアに向かう前にシリア総督は部下に殺される)
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・ゲルマン部族侵入に対して、ドナウ防衛線を強化。また、ドナウ河の対岸ボヘミア地方の属州化を図った。
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最期 |
第二次ゲルマニア戦役2年目を開始する直前の三月、冬営地ウィーンで死去。将軍たちに息子コモドゥスの支援とゲルマニア戦役続行を託して、死去。哲人皇帝と言われながら前線で没した最初の皇帝となる。皇位継承時の内乱を恐れたマルクスはコモドゥスをすでに共同皇帝としていた。
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17 |
コモドゥス |
在位180年(19才)〜192年(31才) |
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即位まで |
五賢帝とされた父マルクス・アウレリウスの時代から共同皇帝となったが、同時代の歴史化カシウス・ディオはコモドゥスの治世を「ローマ帝国の災難であった」と断罪している。
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主な業績 |
・父マルクス・アウレリウスがドナウ河防衛線の強化のために開始し、優位に進めていた第二次ゲルマニア戦役を終わらせる。
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・姉ルチッラ(父マルクスと共同皇帝であったルキウスの未亡人)の暗殺計画が発覚。(このあたりが映画『グラディエータ』の題材)
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・以後、猜疑心が強くなったコモドゥスは周囲の粛清を繰り返す。
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・自ら闘技場や競技会に参加するなどして自ら「ローマのヘラクレス」と称していた。
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・その治世は父マルクス・アウレリウス帝のおかげもあってきわめて平穏であり、そのためか賛否はあるものの第二次ゲルマニア戦役から撤退した以外は、統治者としてすべきことは何一つしなかったのである。
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最期 |
愛妾、召使、レスリングの教師に自宅で暗殺される。動機は不明であり、背後関係も不明。後継は首都長官レトーによって、その年コモドゥスと共同執政官となっていたペルティナクスが就任することとなった。
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18 |
ペルティナクス |
在位193年(66才)〜193(66才) 87日間 |
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即位まで |
解放奴隷の子として生まれ、軍隊からのたたきあげ。コモドゥスの死後、自らが皇帝に名乗りをあげたわけではなく、五年前から首都ローマの警察長官を務めており、この年はコモドゥスとともに共同で執政官を勤めていた。コモドゥス殺害を知った近衛長官レトー
に説得され皇帝となる。
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主な業績 |
・皇位継承の正統性は必ずしも十分ではなかったが、軍団たたきあげのため、軍団からの皇帝就任を承認された。
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・マルクス・アウレリウスを見習うとし、元老院との協調路線を打ち出した。
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・国家財政の健全化を図ろうとした。
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最期 |
ペルティナクスを皇帝にした功労者である近衛長官レトーが利権を目当てにエジプト総督への転任を希望したが、その実現を後回しにしたために、レトーから元老院よりであると攻撃された上に、皇宮に攻め込んだ近衛軍団兵に殺された。
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19 |
ディディウス・ユリアヌス |
在位193(60才)〜193年(60才) 64日間 |
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即位まで |
元老院階級の出身であり、属州総督などを歴任しており、前皇帝ペルティナクスを殺害した近衛長官レトーによって、皇帝候補となる。同時に首都ローマで皇帝に名乗りをあげたスルピチアヌスと近衛兵へのボーナスの競り合いによって皇帝となった。
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主な業績 |
・ユリアヌスの即位は元老院から承認されたものの、属州各地で皇帝を名乗るものがでた。近衛兵に対する軍団兵の反撥、ユリアヌスに対する同世代からの反撥が原因と考えられる。
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・競争者1;ニゲル;ユーフラテス河防衛線を担当。カッパドキア、シリア、パレスティーナ、ヨルダンなど8個軍団(約4万8千人)。
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・競争者2;アルビヌス;ブリタニア常駐3個軍団、同調したライン河防衛の4個軍団、計7個軍団。
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・競争者3;セヴェルス;ドナウ河防衛の計12個軍団(約7万2千)。
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最期 |
セヴェルスを国家の敵とすることを元老院に認めさせ、近衛長官をレトーを殺して民衆の支持を得ようとするが、ガリアから南下するセヴェルスに動揺した近衛兵により暗殺された。
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20 |
セプティミウス・セヴェルス |
在位193(47才)〜211年(64才) |
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即位まで |
パンノニアの軍団長であったが、ユリアヌス即位後、同じくブリタニアから皇帝に名乗りをあげたアルビヌスに共同皇帝となることを提案し、背後の安定化を図ったセヴェルスは2個軍団のみで急ぎローマに進軍し、暗殺されたユリアヌスに代わり、皇帝として元老院の承認を得る。
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主な業績 |
・最大の軍団を背景に元老院に対しても高圧的に接する。
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・194年皇帝を名乗っていたシリア属州総督ニゲルを小アジアのイッソスで破り、殺す。
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・197年共同皇帝アルビヌスを攻め、敗死させる。単独皇帝へ。セヴェルス派の元老院議員26人を粛清。
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・パルティア遠征し、メソポタミア地方を属州化する。(弱体化していたパルティアは抗戦する力がなかった。セヴェルスの死後15年後にパルティアは滅亡し、よりいっそうローマの強敵となるササン朝ペルシアに代わられる。)
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・ローマ軍の強化を図って軍での待遇改善などを行うが、軍人が退役しなくなり、ローマの軍事政権化のはじまりになる。退役して社会復帰しないことは、つまり軍事関係者の社会からの隔離となり、孤立化は当然の帰結として、自分たちの属する組織の強化を求める想いにつながる。
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最期 |
ブリタニア戦役遂行中、ヨークで病死。マルクス・アウレリウスに続いて前線で死去した二人目の皇帝となる。
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21 |
カラカラ |
在位211(23才)〜217年(29才) |
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即位まで |
先帝セヴェルス
の子。セヴェルスの死後、共同皇帝となっていた弟ゲタとともに23才で帝位を継承した。
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主な業績 |
・父の死から1年後、自分の暗殺を謀ったとして、母親の前で弟ゲタを殺害。
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・アントニヌス勅令;ローマ帝国内の自由な人々全員を“ローマ市民”とした。税収増のために属州民をすべてローマ市民としたが、10%の属州税が減って逆効果。さらに軍団退役後はローマ市民権が得られるというモチベーションなども低下、ローマ市民側でも誇りを失うなど精神面でのマイナス効果が大きかった。
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・213年 ゲルマニアに遠征し、ゲルマニア防壁の再整備を行う。
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・214年 軍事費増大に対処するために通貨改革を行う。
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・214年 ドナウ河防衛線を視察し、堅固化。
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・215年 パルティア遠征。遠征の際、33個の軍団の他に「機動部隊」を新設した。しかし、これが軍団基地の高齢化につながり、後にゲルマン民族の侵入をたやすくする遠因ともなる。
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・パルティア王ヴォロゲゼス5世は、パルティア宮廷内の反ローマ勢力をローマに引き渡すというローマの和平案を受け入れたため戦闘に至らず。
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・パルティア和平後、エジプト訪問。アレクサンドリアで若者たちに非難され、これに怒ったカラカラは、これら数千人の若者を体育場に集めて兵士たちに包囲させ、皆殺しにした。この事件で、元老院もカラカラに対して冷ややかになる。
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・216年パルティアでアルタバヌスが兄王ヴォロゲゼス5世を廃し、王位に就く。カラカラはパルティア攻撃に向かう。
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・パルティアとの戦闘は一進一退となり、カラカラはパルティア王の娘を妻とする講和条約を提案するが拒否される。これは元老院から軽挙として批判される。
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最期 |
217年、越冬後、パルティア攻撃を再開するため南下していたが、途中立ち寄った神殿で警護の兵に殺害された。29才。
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22 |
マクリヌス |
在位217(53才)〜218年(54才) |
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即位まで |
ムーア人。カラカラの近衛軍団長官であった。カラカラの死の3日後兵士からの推挙を受けて即位。元老院議員ではなかった。元老院がカラカラを嫌っていたため、即位はすぐに承認された。
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主な業績 |
・カラカラの定めた相続税と奴隷解放税10%を5%にもどすことを法制化。元老院にとりいった。
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・パルティア攻撃をしかけるローマもカラカラ暗殺事件とマクリヌス即位があり、逆にパルティアからの攻撃を迎え撃つ形になる。
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・マクリヌスは講和を求めたが、パルティアの条件はメソポタミア全土からの撤退であった。
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・パルティアの条件を飲むわけにはいかないマクリヌスは217年夏から秋にかけて2度の戦闘を行うが、勝敗つかず。秋以降の休戦期に前線基地からアンティオキアへもどってしまった。
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・218年 戦闘は再開されず、マクリヌスは講和を進め、メソポタミアからの撤退を受け入れた。マクリヌスは早くローマにもどって皇帝の地位を確実なものにしたかった。
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最期 |
218年、カラカラの叔母ユリア・メサが孫のヘラガバルスをカラカラの子として皇帝に擁立。パルティアに対して弱腰だったマクリヌスは軍団に見捨てられ、変装してローマへ逃げようとしたが、途中見つかって兵士に殺された。ついに皇帝として一度もローマに足を踏み入れることはなかった。。29才。
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23 |
ヘラガバルス |
在位218(14才)〜222年(19才) |
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即位まで |
カラカラの叔母ユリア・メサに14才で擁立された。はじめてのオリエント出身の皇帝。太陽神信仰の神官でもあった。
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主な業績 |
・ローマで神聖視されていた女祭司を愛人にして、すぐ捨てたり、公然と同性愛志向を見せたりして不評だった。
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・ローマ皇帝となった後も太陽神の神官をやめることはしなかった。
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・ヘラガバルスを見放したユリア・メサがもう一人の孫アレクサンデルをヘラガバルスの後継者とすることとし、ヘラガバルスもこれを承認した。
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最期 |
222年、アレクサンデルを後継者にしたことを後悔したヘラガバルスは近衛軍団長官にアレクサンデル殺害を指示するが、逆に自分が殺されることとなる。
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24 |
アレクサンデル・セヴェルス |
在位222(13才)〜235年(27才) |
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即位まで |
ユリア・メサの後ろ盾で、従兄弟のヘラガバルス暗殺後、13才で即位する。同じくシリア出身。ヘラガバルス暗殺後、国境警備の軍団兵が自分たちの総督や軍団長を皇帝に推挙することを恐れた元老院によって即座に承認された。
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主な業績 |
・ヘラガバルスと同様神官の家に生まれたが、ローマ式の教育を受けた。
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・法学者ウルピアヌスの補佐を得て、元老院を尊重した統治方式をとる。
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・司法上の最終決定権を属州総督に委譲する法律を制定。これは皇帝への控訴権や再審裁判をなくすことになり、皇帝の仕事を減らしたが、総督によるキリスト教弾圧につながることとなる。
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・216年 ユリア・メサ死去後、母ユリア・マメアが実権を握り、ウルピアヌスは暗殺される。
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・224年 アルダシル、パルティア王を破り、ササン朝ペルシアを興す。アルダシルはペルシア帝国の再興を旗印とした。227年に首都クテシフォンで戴冠式を行う。
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・232年 アレクサンデルはササン朝の進攻に対し、自ら出陣する。6〜7万vsペルシア10万以上のペルシア戦役。しかし、明確な勝敗はつかず。15年前マクリヌスがパルティア王との講和で失った北部メソポタミアは回復した。しかし、ササン朝の主要都市へ攻め入って勝利を決定付けることはしなかった。
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最期 |
235年、ライン河防衛線に遠征。
ゲルマン人に対し、攻め入ろうとせず、講和を進めようとした弱腰姿勢にいら立った兵士に殺された(27才)。兵士たちは、マインツで新兵訓練をしていたマクシミヌスを皇帝に推挙した(ここから50年間“軍人皇帝時代”となる。
アレクサンデル・セヴェルスの統治の評価が高いのも彼が軍人皇帝でなかったから。)
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25 |
マクシミヌス・トラクス |
在位235(62才)〜238年(65才) |
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即位まで |
羊飼いの子。トラキア人であることからトラクスと呼ばれる。
16歳で軍団に入隊し、その年にセヴェルスに見とめられて、皇帝警護となる。セヴェルス一家への忠誠心が強く、カラカラが暗殺された後、マクリヌスは忠誠を拒否してトラキアに帰った。軍団長でもなく、属州総督の経験もなく、ケルンで新兵訓練中に推挙される。
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主な業績 |
・
実績も正統性もなく帝位に就いたため、首都を訪問し、元老院対策を行うよりもゲルマン民族相手に戦績を積むことを優先させ、3年間勝ち続けた。
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・しかし、元老院はトラクスの戦勝報告に冷ややかだった。家柄もあるが、戦勝報告文の品位の低さに我慢がならなかった。 |
・属州アフリカのカルタゴで徴税財務官に対する抗議から、そこの総督ゴルディアヌスが皇帝に推挙された。報告を受けた元老院は、家柄もよいゴルディアヌス1世を皇帝として承認。同時にマクリヌスとそれに味方する者を国家の敵とした。 |
・ローマのために蛮族と戦ったが、元老院を敬遠し、なんらの対策もしてこなかったために、足をすくわれることになる。 |
最期 |
食糧を充分にもっていず、元老院の布告のために、住民から協力が得られなかったため、困窮し、ついには部下に暗殺されることになる。彼から始まる軍人皇帝の輩出がローマ皇帝衰退の一因とも言われている。 |
26 |
ゴルディアヌスI世 |
在位238(80才) |
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即位まで |
属州アフリカの総督であったが、資産家でもあり、家柄の良さからも皇帝に推挙された。 |
最期 |
軍団に襲われて戦死した息子ゴルディアヌス2世の死を聞いて、自殺。即位して1ヶ月。
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27 |
ゴルディアヌスII世 |
在位238(才) |
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即位まで |
父ゴルディアヌス1世とともに帝位につく。 |
最期 |
カルタゴにいたが、軍団が擁立したマクシムヌス・トラクスに対して、元老院がゴルディアヌスを擁立したことに怒った軍団が、隣のランベーズ基地から攻めてきて、これと戦って戦死。
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28 |
パピエヌス |
在位238(70才) |
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即位まで |
元老院が反マクシムヌス・トラクスの皇帝として擁立したゴルディアヌス親子が軍団に殺されたため、対トラクスのための皇帝として擁立された。平民出身で軍団経験を積み上げて、皇帝就任の年には首都の長官を務めていた。 |
主な業績 |
・軍団経験があったことから、マクシムヌス・トラクスを迎え撃つため、軍を率いて北上。 |
最期 |
予期していたよりも早くマクシミヌス・トラクスが部下に殺され、パピエヌスとバルビヌスの二人を立てた元老院が、一人だけにするということで仲間割れとなる。この二人も事態を収拾することができず、失望した元マクシミヌス・トラクスの部下に二人とも殺された。
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29 |
バルビヌス |
在位238(60才) |
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即位まで |
元老院が反マクシムヌス・トラクスの皇帝として擁立したゴルディアヌス親子が軍団に殺されたため、対トラクスのための皇帝として擁立された。貴族の生まれで、属州統治などを数多く経験した。 |
主な業績 |
・軍団経験がなかったために、共治皇帝のパピエヌスが対トラクス戦のために出発した後、首都に残って内政を担当。 |
最期 |
予期していたよりも早くマクシミヌス・トラクスが部下に殺され、パピエヌスとバルビヌスの二人を立てた元老院が、一人だけにするということで仲間割れとなる。この二人も事態を収拾することができず、失望した元マクシミヌス・トラクスの部下に二人とも殺された。
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30 |
ゴルディアヌスIII世 |
在位238(13才)〜244年(19才) |
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即位まで |
ゴルディアヌス1世の孫。ゴルディアヌス1世と2世が死去した後、元老院は自分たちの考え
が誤りでなかったことを示すために、パピエヌスとバルビヌスを皇帝とした際、ゴルディアヌス3世をカエサル、つまり次期皇帝とした。 |
主な業績 |
・パピエヌスとバルビヌスを皇帝に擁立した「二十人委員会」がそのままこの少年皇帝を補佐する「政府」となった。 |
・マクシミヌス・トラクスの積極戦法のおかげで蛮族がすぐに「リメス(防壁)」を越えて、攻めて来られなかった。 |
・「二十人委員会」のティメジテウスにより前半は平和な治世となった。 |
・243年ササン朝ペルシアのシャプール1世の侵略に対し、近衛軍団長官となっていたティメジテウスが迎え撃ち、撃退するが、ティメジテウスが急死し、ローマ軍が瓦解してしまう。 |
・ティメジテウスの後に近衛軍団長官となったフィリップスが対ペルシア戦を受け持つが、戦況が好転せず、ゴルディアヌス3世の嘆きに兵士たちも失望する。 |
最期 |
近衛軍団長官フィリップスの差し向けた兵士によって暗殺される。フィリップスは兵士たちを説き、自分を皇帝に推挙させた。
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31 |
フィリップス・アラブス |
在位244(才)〜249年(才) |
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即位まで |
シリア出身で両親ともシリア人のはじめての真のアラブ人皇帝。 |
主な業績 |
・皇帝即位後、ペルシア王シャープールに講和を申し入れる。フィリップスとしては、属州メソポタミアの放棄とアルメニア王国への支配権黙認という条件を呑んでも、首都ローマ入りを早期に実現したかった。 |
・紀元前753年ロムルスによって建国されたローマは、248年、建国1千年祭を向かえ、フィリップスは皇帝としてこれを催した。 |
・千年祭の年にゴート族がドナウ河を越えて侵入してきたが、フィリップスは首都長官デキウスを派遣しただけで、自らは動かなかず、これが将兵の失望となった。 |
最期 |
ゴート族撃退に差し向けたデキウスは、防衛線を立て直したが、部下からの期待が高まり、皇帝へ推挙される。デキウスはフィリップスにやむなく、一時的にこれを受けるが、ローマにもどって帝位を返上すると伝えた。しかし、これを信じなかったフィリップスは自らデキウス討伐軍を起したが、会戦がはじまる前に部下に見捨てられたフィリップスは死を選んだ。死後、元老院により、記録抹殺刑となった。
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32 |
デキウス |
在位249(4X才)〜251年(才) |
▲Page Top
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即位まで |
遠パンノニア属州シルミウム出身。軍事面だけでなく、統治面の手腕に対する評価も高い。 |
主な業績 |
・全兵力の三分の一、十個軍団、約6万が駐屯するドナウ河防衛線の軍用道路網の整備を行う。 |
・軍規の再建に着手した。 |
・キリスト教徒でないことの証明書発行する暫定措置法を制定した。これにより
一千人程度の殉教者と大量の棄教者をだした。司教だけでなく、一般のキリスト教徒を弾圧した最初の皇帝。 |
・ドナウ川を渡って、遠モエシア属州(現ブルガリア)に大挙押し寄せたゴート族を迎撃した。これに際して、息子二人を共治皇帝とした。 |
最期 |
騎馬により行動の早いゴート族に1年間振り回されたうえ、息子エトゥルスクスが討死し、その復讐戦に駆けつけたが、デキウス自身も混戦の中で討死した。
蛮族との戦闘で戦死した最初の皇帝となる。
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33 |
トレボニアヌス・ガルス |
在位251(才)〜253年(才) |
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即位まで |
デキウスの次男オスティリアヌスが病弱のため首都に残ったが、蛮族との戦争中にデキウスが戦死し、前線司令官を不在にするわけにいかず、トレボニアヌスが将兵の推挙により(共同)皇帝となる。
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主な業績 |
・皇帝即位後、ただちにゴート族と講和を締結した。ドナウ河を渡って北へ帰ること以外、ゴート族の要求はすべて受け入れた。掠奪品を持って帰ること、捕虜を連行すること、毎年年貢金を払うことなど。 |
・トレボニアヌス帝の弱腰を見たアレマンニ族が、ローマへの年貢金の値上げを要求した。総督であったヴァレリアヌス(後皇帝)がこれを拒絶すると、防壁を破ってバルカン半島などへ侵入してきた。 |
・また、ゴート族は、北方の黒海、マルマラ海を通ってエーゲ海に進出し、各地で海賊、掠奪行為を働き、莫大な戦利品をもって北方へ引き上げた。 |
・モエシア総督のエミリアヌスは、トレボニアヌス帝の蛮族との講和を無視し、ゴート族側に攻め込み、復讐し、掠奪された家族を連れ戻した。 |
最期 |
蛮族に対して弱腰だったトレボニアヌス帝に反撥したモエシア属州の兵士がエミリアヌスを皇帝に擁立した。トレボニアヌス帝はこれと対峙したが、兵士がエミリアヌス側につき、敗れた。
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34 |
ヴァレリアヌス |
在位253(63才)〜260年(70才) |
▲Page Top
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即位まで |
ヴァレリアヌスはカエサルと三頭政治を行ったクラッススと同じリキニウス一門の出。253年の内戦でトレボニアヌスとエミリアヌスとの内戦では、兵士がついたエミリアヌスが勝ち、ヴァレリアヌスとエミリアヌスに向かい合ったときには、ヴァレリアヌス側に兵士がついて勝利した。
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主な業績 |
皇帝に即位すると息子のガリエヌスを共同皇帝とした。三世紀のローマは、軍の最高司令官である皇帝が駆けつけなければならない前線が一人では処理しきれないほど多くなっていたことにもよる。
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ライン河、ドナウ河の前線から軍団の指揮官クラスを多数登用した。 |
デキウス帝が行ったキリスト教弾圧を継承した。特にキリスト教徒の資産没収を制定し、教会に入る金の流れを断とうとした。(この後、外敵などの活発な活動により、ディオレクレティアヌス帝まで45年間は弾圧は行われない) |
最期 |
ペルシア王シャープールが大軍でローマ領へ侵攻したのを迎え撃った。戦闘ははじめ優勢であったが、ペルシア軍の捕虜となった。(シャープールの謀略説もあるが、ローマ皇帝が生きて敵に捕囚されたのは史上初。)捕囚のまま死亡。
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35 |
ガリエヌス |
在位253(37才)〜268年(52才) |
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即位まで |
共和政時代から続く名門の出身。父ヴァレリアヌスとともに共同皇帝となり、主に西の防衛ラインを守っていたが、東方を担当していた父がペルシア王シャープール1世に捕捉され、
単独の皇帝となった。辺境部族やペルシアの侵食を許しただけでなく、ローマ帝国領内において、群雄割拠の状態を放置した。
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主な業績 |
・西方のラインの防衛ラインを担当し、ゲルマン民族を北方へ撃退した。 |
・部将同士の戦いの中で、息子を失う。これを知った一方の将ポストゥムスはローマ帝国を離れることを決意し、「ガリア帝国」を建国する。ガリエヌスはポストゥムスのガリア帝国を武力で攻めたが、勝敗はつかなかった。ガリエヌスはゲルマン民族に対する防御をガリア帝国に任せることとして、放置した。 |
・ゲルマニア防壁の内側にアレマンノ族を引き入れ、防御を担当させた。一時的に侵入は防げたが、評判は悪かった。 |
・パルミラのオデナトゥスに東方の防御を任せ、ササン朝の侵入を防いだ。 |
・パルミラのオデナトゥスが甥に暗殺されると、その妻ゼノビアはカッパドキアだけでなく、ローマ皇帝領であり、ローマの穀倉でもあるエジプトを占領した。 |
・騎兵を軍の主力とし、騎兵中心のゲルマン民族の襲撃に対応しようとした。 |
・元老院と軍隊を完全の分離することを法制化。元老院という政治のエリートが軍務をも経験する機会を奪うことになった。 |
最期 |
・ガリア帝国、パルミラと旧ローマ帝国が三分され、ローマ帝国の権威は失墜していた。騎兵隊長アウレオルスが反旗を翻し、それを追ってミラノに遠征した時、他の騎兵隊長によって殺された。50才。
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36 |
クラウディウス・ゴティクス |
在位268(才)〜270年(才) |
▲Page Top
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即位まで |
「ゴティクス」は“ゴート族を征した者”の意味。イリリア地方(ドナウ河とアドリア海の間)出身。騎兵として活躍。クラウディウスの活躍により、ガリエヌスは騎兵を軍の主力にしたとも言われる。 |
主な業績 |
・2度に渡って侵入してきたゴート族を大破する。 |
・勝ったゴート族に対し、ローマ軍への入隊や家族ともども属州モエシアでの農耕、定住策を進め、成功する。 |
最期 |
・疫病にかかって病死。わずか1年半の治世だったが、元老院はガリエヌスの神格化を拒否したが、クラウディウス・ゴティクスは神格化した。ただし、死後、元老院はいったんは、その弟クィンティレスを皇帝としたが、将兵がアウレリアヌスを推挙し、元老院はクィンティレスの皇帝承認を撤回。クィンティレスは恥に耐えられず自殺した。
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37 |
アウレリアヌス |
在位270(56才)〜275年(61才) |
▲Page Top
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即位まで |
イリリア地方出身。
軍人出身であり、自ら軍を率いて蛮族を撃ち、独立割拠していたローマ帝国の領土を再び一つに統合した。 |
主な業績 |
270年クラウディウス・ゴティクス帝の病死後、ゴート族は好機と見て、ドナウ河を越えてきた。アウレリアヌス帝はこれを迎え撃ったが、勝敗決せず、和議が成立。アウレリアヌス帝は、この決定を全軍の票決にかけた。この和議で、ゴート族の人質をとる一方、ダキア属州は事実上ゴート族に割譲された。
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ローマ帝国領内に侵攻して来たアレマンニ族に対して、これを包囲。蛮族の和約条件を一蹴したアウレリアヌス帝だったが、アレマンニ族攻略を部下にまかせて、アウレリアヌス帝は、パンノニアに向かったが、アレマンニ族がローマ軍の包囲を破って、イタリア本土へ迫ることとなった。アウレリアヌス帝は、全近衛兵を率いてイタリアへ向かい、アレマンニ族を撃破した。
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270年、ガリア、ヒスパニア、ブリタニアを支配し、ガリア帝国として独立していた僭帝テトリクスは、軍の傀儡と化していたが、そのテトリクス自身からアウレリアヌス帝へ内通してきた。アウレリアヌス帝はこの機会に帝国西方を回復した。
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272年、シリア、エジプトを支配し、独立していたパルミラの女王ゼノビアを攻め、帝国東方を回復した。アウレリアヌス帝は、一度は寛容さを示してパルミラを許したが、再度叛乱を起したために、徹底的に弾圧、殺戮された。
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最期 |
ガリア帝国、パルミラのゼノビアなどが独立割拠していた分裂状態から再び帝国を統一するなど輝かしい戦果を挙げ、凱旋式を挙行したアウレリアヌス帝であったが、軍人あがりであり、厳しい面もあったため、不正を働いた秘書官が、厳しく処罰されることを恐れ、帝の筆跡をまねて、側近たちが死刑の対象となっているとの文書を偽造し、これら側近を扇動して、アウレリウス帝を殺害した。帝の死後、この秘書官の姦計は発覚し処刑され、アウレリアヌス帝は元老院により神格化された。
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38 |
タキトゥス |
在位275(75才)〜275年(才) |
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即位まで |
、 工 事 中 |
主な業績 |
。
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。
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2。
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。
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最期 |
。
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39 |
プロブス |
在位(才)〜年(才) |
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即位まで |
ローマ、 工 事 中 |
主な業績 |
。
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。
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2。
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。
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最期 |
。
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40 |
カルス |
在位(才)〜年(才) |
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即位まで |
ローマ、 工 事 中 |
主な業績 |
。
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。
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2。
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。
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最期 |
283年、ペルシア戦役中に落雷で死去。
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41 |
ヌメリアヌス |
在位(才)〜年(才) |
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即位まで |
カルス帝の息子。 工 事 中 |
主な業績 |
。
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。
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2。
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。
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最期 |
父カルス帝が死去したメソポタミアから引き上げてくる途中、小アジアのニコメディアで馬車の中で変死体で見つかる。
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42 |
カリヌス |
在位(才)〜年(才) |
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即位まで |
カルス帝の息子、ヌメリアヌスの弟。 工 事 中 |
主な業績 |
。
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。
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2。
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。
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最期 |
284年ヌメリアヌス帝死去後、兵士に推挙されたディオクレティアヌスに対抗しようとするも、戦闘中に死亡。
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43 |
ディオクレティアヌス |
在位283(48才)〜305年(60才) 313年没 |
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即位まで |
283年カルス帝がペルシア戦役中に落雷で死去。その子、カルスとヌメリアヌスが共同皇帝として後を継いだが、284年ヌメリアヌスは帰国途上殺害された。ヌメリアヌス帝(東方統治)変死の後に、皇帝警護隊長であったディオクレスはディオクレティアヌスと改名し、兵士からの推挙を受け、皇帝に即位した。ディオクレティアヌスは、バルカン半島シルミウム生まれで、軍団からのたたき上げ。285年マルグスの戦いで、カルスに破れるが、その後カルスが部下の兵に殺された。 |
主な業績 |
・マクシミアヌスを副帝(カエサル)に指名して西方を統治させ、自らは東方を統治する二頭政を敷いた。後に四頭政をはじめ、属州改革、税制改革を行い、絶対君主政への体制構築を行い、帝国の防衛を固めた。
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・288年エジプトの反乱鎮圧、289年サルマタエ人、アレマンニ族、シリアに侵入したアラブ人を撃退するなど、帝国防衛に尽力した。 |
・属州改革(属州を12管区に分割)・税制改革(土地台帳により農民を土地に縛りつける)・軍制改革を行う。中央政府に対して、地方政府に似た「管轄区」をつくり、皇帝代理を置き、さらに管轄区を「県」に分割し、官僚の任命権を皇帝一人が握る「絶対君主政」へ移行させた。
|
・税務はすべて中央政府の管轄下に置き、人頭税と地租税を課した。これにより、アウグストゥス以来の広く浅い税制から、絶対君主政を背景とした課税となった。アウグストゥスは広く浅い税制と軍縮によって、帝国の経営を均衡させたが、ディオクレティアヌスの税制により、蛮族侵入の心配はなくなったが、特に農民は、重い税金から逃れようと都市に流れ込むようになった。
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・40年前にガリエヌスは元老院から軍司令官への転向を禁じたが、ディオクレティアヌスは、ミリタリー・キャリアの末端にいたるまでその分離を徹底した。
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・293年帝国四分統治「四頭政」開始。;ディオクレティアヌス帝が東方正帝、マクシミアヌスが西方正帝、がレリウスが東方副帝、コンスタンティウス1世(クロルス)が西方副帝となる。 |
・294年メソポタミアに侵入したペルシアに、副帝ガレリウスを当たらせ、撃退した。
|
・296年、ガレリウス、ペルシアと戦い、カラエで敗北。ディオクレティアヌス帝は自らの防衛責任の地域でありながら、自らの輿の横をガリエヌスを徒歩で歩かせる、という屈辱を与えた。翌297年ガレリウスがペルシアに大勝、雪辱を果たし、ニシビスで和約を締結。アルメニアを属王国とする。 |
・297年マニ教禁止令 |
・303年キリスト教弾圧の勅令を公布。ニコメディアで最初のキリスト教徒大弾圧。教会破壊・礼拝集会禁止・信徒の公職追放 |
・303年、副帝マクシミアヌスとともにローマで凱旋式を挙行 |
・305年ローマに三千人が収容できるディオクレティアヌス浴場を建設。 |
・305年、副帝マクシミアヌとともに退位し隠居。東方正帝;ガレリウス、副帝;マクシミアヌス・ダイア/ 西方正帝;コンスタンティウス1世(クロルス)、副帝セヴェルス
|
・出身地のダルマチアにディオクレティアヌスの宮殿を建て隠居。 |
最期 |
・マクシミアヌスとともに隠居して後を四分割して統治を任せたが、マクシミアヌスの息子マクセンティウスが領土を与えられず不満を持ち、ローマや元老院と連携して皇帝を僭称し、内乱となる。312年マクセンティウスがコンスタンティヌスにより征討された後、ディオクレティアヌスは没する。
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44 |
マクシミアヌス |
在位293(43才)〜305年(55才)、306(56才)〜308年(58才)、310年没 |
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即位まで |
293年、ディオクレティアヌスに指名されて副帝となり、ローマ西方の統治を任される。 |
主な業績 |
・北アフリカの防衛を強化し、289年フランク族を撃退した。
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・290年、ブリタニアのカラウシウスに敗れ、ブリタニアの支配を認めざるを得なくなった。
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・ディオクレティアヌス帝、帝国四分統治「四頭政」開始。;ディオクレティアヌス帝が東方正帝、マクシミアヌスが西方正帝、ガレリウスが東方副帝、コンスタンティウス1世(クロルス)が西方副帝となる。。
|
・303年にはペルシア戦役の勝利により、ディオクレティアヌスとともにローマで凱旋式を行う。
|
・305年にディオクレティアヌスとともに退位し、隠居し、第二次四分割統治に引き継ぐが、領地を得られなかったマクシミアヌスの息子のマクセンティウスが、元老院を巻き込んで、306年ローマで皇帝即位を宣言し、マクシミヌスは共同皇帝となる。 |
・マクセンティウスは、西方正帝セヴェレス、東方正定ガレリウスから征討を撃退した。セヴェレスは自死に追い込み、ガレリウスはガリアへ逃亡。 |
・307年、カルヌウントゥム会議;東方正帝ガレリウス、ディオクレティアヌス、マクシミアヌスと会談し、西方正帝にリキニウスを据えることで合意。第四次四頭政。マクシミウスは再度退位した。ここでまたしてもマクセンティウスは無視されたが、イタリアでは勢力基盤を確保していた。 |
・コンスタンティヌス(西方副帝)が、マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚し、マクシミアヌスはコンスタンティヌスと同盟を締結することとなる。 |
最期 |
・ 309年、マクシミアヌスは、蛮族がライン河越境、侵入したことに乗じ、コンスタンティヌスを倒すクーデターを起す。コンスタンティヌスは急遽蛮族と講和し、310年マクシミアヌスに対し反撃。マクシミアヌスは自死した。
・父マクシミアヌスが自死した翌年311年も息子マクセンティウスは、僭帝ドミティウス=アレクサンデルを破り、アフリカに勢力を拡大するなど勢いがあったが、西方のコンスタンティヌス帝に攻められ、312年敗死した。
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45 |
ガレリウス |
在位305(45才)〜311年(51才) |
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即位まで |
・ディオクレティアヌス帝が、帝国を四分統治を開始したときに、東方の副帝となる。;ディオクレティアヌス帝が東方正帝、マクシミアヌスが西方正帝、ガレリウスが東方副帝、コンスタンティウス1世(クロルス)が西方副帝となる。 |
主な業績 |
・295年にドナウ川下流でゴート族を破る。
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・296年にカラエでペルシアに敗れ、アルメニアを失うこととなる。ディオクレティアヌス帝は自らの防衛責任の地域でありながら、自らの輿の横をガリエヌスを徒歩で歩かせる、という屈辱を与えた。
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・ガレリウスは翌297年、ペルシア(ナルセス)に大勝し、雪辱を果たした。ニシビスで和約を締結し、アルメニアを奪回して属王国とし、国境をティグリス川まで広げ、属州メソポタミアを拡大した。
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・305年東西の正帝であったディオクレティアヌスとマクシミアヌスが引退すると、ガレリウスは東方の正帝となった。
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・マクシミアヌスの息子マクセンティウスが四頭政の体制に不満を持ち、皇帝を僭称すると、西方正帝セヴェレスがマクセンティウスを攻めるが、逆に敗死。つづいて、東方正帝ガレリウスがマクセンティウス征討に向かうが、マクセンティウス側についた諸都市に対し、蛮族に対するように襲撃、掠奪したため、途上の諸都市の協力を得られず、撤退した。307年 ガレリウスはガリアのコンスタンティヌスのもとに逃亡。 |
・内乱を収拾するために、カルヌウントゥム会議が開かれ、ガレリウス(東方正帝)は、隠居していたディオクレティアヌス、息子マクセンティウスが皇帝を僭称しているマクシミアヌスと会談し、セヴェレスが敗死した後の西方正帝にリキニウスを据えることで合意し、しっかり正帝を堅持している。第四次四頭政。マクシミアヌスは再び退位。コンスタンティヌス(西)、マクシミヌス=ダイア(東)が副帝となる。 |
・310年、東方正帝ガレリウスにより信仰の自由を認める勅令公布されたが、これは前年309年ディオクレティアヌスにより、キリスト教弾圧の勅令取り消されことを受けたものでろう。 |
最期 |
・310年ガレリウスは死去し、東方正帝の領地(ドナウ河沿岸〜パンノニア、モエシア、トラキアなど)は、西方正帝であったリキニウスに引き継がれることとなり、四分割統治体制は変更されることとなる。
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46 |
コンスタンティウス |
在位305(才)〜306年(才) |
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即位まで |
、 工 事 中 |
主な業績 |
。
|
。
|
2。
|
。
|
最期 |
。
|
47 |
セヴェルス |
在位308(才)〜324年(才) |
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即位まで |
、 工 事 中 |
主な業績 |
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2。
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最期 |
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48 |
リキニウス |
在位308(才)〜324年(才) |
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即位まで |
、 工 事 中 |
主な業績 |
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2。
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最期 |
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49 |
コンスタンティヌス |
在位312(37才)〜337年(62才) |
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即位まで |
ディオクレティアヌス、マクシミアヌスの隠居後、東方正帝ガレリウス、西方正帝コンスタンティウス(・クロルス)となった。しかし、306年、まもなくコンスタンティウスが病死すると、その軍はコンスタンティヌスを皇帝に推戴した。ガレリウス帝は、西方正帝にセヴェルス、ついでリキニウスを据えた。コンスタンティヌスはマクシミヌスを封じ、その子マクセンティウスを破って、元老院から西方正帝に選出された。
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主な業績 |
315年。リキニウスを破り、リキニウスを小アジア以東に封じ込める。
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帝権を一手に握る以前から、北方蛮族を数度破り、帝国の北方を安定化を図った。
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324年、リキニウスを再度破り、引退させ、唯一の正帝となる。リキニウスは引退後、反乱の嫌疑で処刑される。
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324年、帝国の首都をビザンティウムに移し、新都建設(後のコンスタンティノポリス)。
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325年、小アジアのニケーア公会議を開催。三位一体説を正統とし、アリウス派を異端とした。
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最期 |
337年、ペルシアの軍事行動に対抗するため、東方へ向かうが、ニコメディアで病没。
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