Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe184年   

166年gya_l_bg.gif (1060 バイト)   gya_r_bg.gif (1063 バイト) 193年

ローマ帝国、領土の拡大よりも維持・防衛へ

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概略

マルクス=アウレリウスは、共治皇帝としたルキウス=ウェルスを169年に病で失い、その後、コンモドゥスを共治皇帝とし、ゲルマン諸族の侵入やシリア総督アウィディウス=カッシウスの反乱などに対処した。180年にマルクス=アウレリウスで病没し、養子皇帝制度による五賢帝時代は終わる。ブリタニアでは、アントニヌスの城壁を放棄して、ハドリアヌスの城壁まで撤退した。拡大してきたローマ帝国の領土は、維持することに大きな労力を必要とし、また防衛しつつ、場所によっては撤退することも必要になった。


ローマ帝国は領土拡大よりも維持・防衛へ
167年 天然痘、ローマに流行;イタリアの人口1/2〜1/3に減少
168年 マルクス・アウレリウスとルキウス=ウェルス、ゲルマン諸族をイタリアから撃退
169年 アウィディウス=カッシウス、オリエント戦線の総司令官となる
共治皇帝ルキウス=ウェルス病没
 170年 マルクス・アウレリウス、ドナウ地方に攻撃を開始、マルコマンニ族・クアディ族と戦う(〜175)
171年 カッティ族、ベルギー地方に侵入、マインツ・トリールを脅かす(*1)
172年 サルマタエ人、ドナウ川下流の辺境を攻撃、ギリシアへ侵入
マウレタニア人、南スペインに侵入し、略奪
マルコマンニ族、ローマに降伏
173年 カッシウス、エジプトの反乱を粉砕
174年 マルクス・アウレリウス、『瞑想自省録』を完成
175年 シリア総督アウィディウス=カッシウス、オリエントで副帝を僭称
カッシウス、部下に殺される
マルクス・アウレリウスとコンモドゥス、カッシウスの反乱に赴く(〜176)
クアディ族・ヤジゲス族、ローマに降伏、和約によりドナウ左岸の境界問題決着。辺境地帯に蛮族の定住を初めて認める;第一マルコマンニ戦争終わる(166〜)(*2)
ギリシア人の歴史家アリアノス没(ca.95〜);主著『アレクサンドロス遠征史』
176年   マルクス・アウレリウスとコンモドゥス、帰国し凱旋式を挙行
ca.フリュギアのモンタヌスのはじめたキリスト教の異端モンタヌス派広まる
アウレリウスの大円柱と凱旋門、建造される
177年 コンモドゥス、コンスルとなり、プロコンスル命令権・護民官権限を受け、共治皇帝となる(〜192)
ローマ、再びスペインに侵入したマウレタニア人を破る
ca.リヨンでキリスト教徒迫害される
教父エイレナイオス(ca.130〜ca.200)、リヨン司教となる(主著はグノーシス派に対する『異端反論』)
ゲルマン諸族、パンノニアを侵す
178年 第二マルコマンニ戦争;マルクス・アウレリウス、コンモドゥスと共にマルコマンニ族とクアディ族の反乱鎮圧に赴く(〜180)
180年 マルクス・アウレリウス、ウィーンで病没、コンモドゥス即位(〜192);養子皇帝制による五賢帝時代終焉
コンモドゥス、ゲルマン諸族と講和し、帰国;第二マルコマンニ戦争終わる
182年 コンモドゥス、娘ルキラの陰謀(挫折)で専制的となる;ルキラは処刑
親衛隊長ペレンニス(180〜)実権を握る(〜185)
184年 ブリタニアでアントニヌスの壁を放棄、ハドリアヌスの壁まで撤退

*1 カッティ族;ゲルマン民族の一派。フランク族の三大支族の一つ。 162年にローマ国境を越えて,上ゲルマニアとラエチアに侵入。その後,3世紀中頃までに,テンクテリ,ウシピ,カマウィ,ブルクテリなどの小部族と合体して,フランク族を形成した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
 *2 クァディ族; 紀元前1世紀、古代ローマの文献によると、クァディ族はもっと人数の多いマルコマンニ族のそばに移住してきた。マルコマンニ族はドナウ川沿いのローマとの国境付近に住んでいた。クァディとマルコマンニはおそらくマイン川の北側から、現在のモラヴィア、スロバキア西部、オーストリア北西部あたりに移住してきた。このあたりはそれ以前、ケルト人のラ・テーヌ文化などが栄えていた。ローマ人が彼らの存在に気づいたのは紀元前8年から紀元前6年で、タキトゥスの『ゲルマニア』に概略が記されている。紀元6年、クァディ族を含むマルコマンニ連合が後に皇帝となったティベリウスと戦っている。(Wikipedia)

資料 塩野七生 『ローマ人の物語XIV キリスト教の勝利』
石橋秀雄他 『世界史大年表』
サイモン・ジェンキンス 『ヨーロッパ全史』