ディオクレティアヌス
帝による分割統治 〜 コンスタンティヌス帝による統一 《年表詳細》 |
260年 |
皇帝ヴァレリアヌス、ペルシア王シャープール一世に捉えられる。 |
283年 |
皇帝カルス、ペルシア戦役中に落雷に遭い死去。カルスの息子ヌメリアヌスは、ペルシアから引き上げこととしたが、その帰途、ニコメディアで変死。
部下に殺されたものと考えられる。皇帝警護隊長ディオクティアヌスは、その被疑者を殺害し、軍団から皇帝に推挙される。
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284年 |
ヌメリアヌスの弟カリヌス、戦闘中に死去。
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286年 |
ディオクレティアヌス、マクシミアヌスを「カエサル」(副帝〜従来の意味は後継帝)に任命。二頭政開始。ディオクレティアヌス、ドナウ河防衛線で蛮族を撃退。その後、東方の防衛線を強化。一方、マクシミアヌスは、北アフリカ防衛線を強化。
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291年 |
ディオクレティアヌス、エジプトで蛮族を撃退。
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292年 |
ディオクレティアヌス、ドナウ河防衛線に戻り、サルマティア族を撃退する。
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293年 |
ディオクレティアヌス、「四頭政」開始。
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295年 |
ヌミディアの若者マクシミリアヌス、兵役拒否により殉教 |
296年 |
ペルシアがメソポタミアに侵入し、アルメニア王を追う。ディオクレティアヌス帝は自らの防衛責任の地域でありながら、ガリエヌスをディオクレティアヌス帝は、自らの輿の横をガリエヌスを徒歩で歩かせる、という屈辱を与えた。 |
297年 |
ガリエヌスがペルシア戦に大勝し、雪辱を果たす。 |
303年 |
ディオクレティアヌス、キリスト教徒弾圧の勅令を公布。
ディオクレティアヌスとマクシミアヌス、ローマで凱旋式を挙行。
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305年 |
ディオクレティアヌス、マクシミアヌス退位、隠居。第二次四頭政。
東方正帝;ガレリウス、副帝;マクシミアヌス・ダイア
西方正帝;コンスタンティウス・クロルス、副帝セヴェルス
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306年 |
7月コンスタンティウス・クロルス病死。その軍団、息子コンスタンティヌスを皇帝に推挙。東方正帝ガレリウス、西方正帝セヴェルス、副帝コンスタンティヌスとすることで事態の収拾を図る。
マクシミアヌスの子マクセンティウス、ローマで皇帝即位を宣言。マクセンティウスは父マクシミアヌスを共同統治の皇帝に推挙し、六人の皇帝が立つことになった。
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307年 |
西方正帝セヴェルス、マクセンティウス征討のためローマへ進軍中に捉えられ自死。東方正帝ガレリウスがマクセンティウス征討に向かうが、マクセンティウス側についた諸都市に対し、蛮族に対するように襲撃、掠奪したため、途上の諸都市の協力を得られず、撤退した。 |
308年 |
東方正帝ガレリウス、ディオクレティアヌス、マクシミアヌスと会談し、西方正帝にリキニウスを据えることで合意。第四次四頭政。
コンスタンティヌス、マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚する。
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309年 |
ディオクレティアヌスによるキリスト教弾圧の勅令取り消される。
蛮族のライン河越境、侵入に乗じ、マクシミアヌスがコンスタンティヌスを倒すクーデターを起す。
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310年 |
コンスタンティヌス、蛮族と講和し、マクシミアヌスに反撃、自殺させる。
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311年 |
東方正帝ガレリウス、信仰の自由を認める勅令公布。
ガレリウス死去。東方正帝はリキニウスが継ぎ、西方正帝は空席。
コンスタンティヌスとリキニウスが同盟。コンスタンティヌスのマクセンティウス征討を承認。
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312年 |
コンスタンティヌス、ローマ近郊でマクセンティウスに勝利。マクセンティウスは戦死。
元老院、ローマへ入城したコンスタンティヌスの正帝昇格を決定。
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313年 |
リキニウス、小アジアに進軍してきたマクシミヌス・ダイアを破る。マクシミヌス・ダイアは逃亡、のち死去。
ディオクレティアヌス死去。
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315年 |
コンスタンティヌス、リキニウスとパンノニアのキバラエ付近で対戦し、破る。講和により、リキニウスの統治領を小アジア以東に制限。 |
317年 |
コンスタンティヌス、ドナウ河防衛線を担当、子のクリスプスがライン河防衛線を担当し、防衛を強化。 |
322年 |
コンスタンティヌス、ドナウ河を渡り、北方蛮族を撃破し、講和。 |
324年 |
コンスタンティヌス、リキニウスに再度勝利し、リキニウスを引退させ、一人の正帝となる(分割統治終了)。
帝国の首都をビザンティウムに移し、新都建設。
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325年 |
リキニウス、蛮族と共謀し、反乱を企てた疑いで処刑される。
コンスタンティヌス、小アジアのニケーアでキリスト教の司教を集めた公会議を開催。三位一体説を正統とし、アリウス派を異端とする。
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326年 |
クリスプス、義母ファウスタとの不義の罪で捕らえられ、牢内で死去。ファウスタも謀殺される。 |
330年 |
新都コンスタンティノポリス完成を祝う式典開催。 |
337年 |
コンスタンティウス、ペルシアによる軍事行動に対抗するため、コンスタンティヌス東方へ向かうが、ニコメディアで病死(64歳)。 |