四世紀のローマ帝国分割統治

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概説

 3世紀、ゴート族の大襲来、ヴァレリアヌス帝のペルシア捕囚、ガリア帝国・パルミラの自立・割拠による帝国三分など、未曾有の危機に直面していたが、アウレリアヌス帝の軍制改革などにより、3世紀後半には、再び国力を回復した。

 何人かの短期政権を経て、3世紀末に皇帝となったディオクレティアヌス帝は、広大な帝国を北方蛮族やペルシアなど外部の脅威から守るために、帝国を分割して統治しようとした。それは、帝国にしばしの平和をもたらしたが、一人の皇帝が統制する四分割統治も、世代が代わると敵対と抗争がはじまった。

 これに勝利し、再び帝国を一人の皇帝が治めるようになったのが、コンスタンティヌス帝である。彼は同時にキリスト教を公認し、中世への扉を開くことになる。

270年 ガリア帝国、パルミラの王女ゼノビアが独立割拠。
273年

アウレリアヌス帝、帝国を再復し、ダキア属州を放棄し、防衛線を強化した。

286年

ディオレクレティアヌス帝、マクシミアヌス帝を副帝とし、帝国を東西で分割統治。

293年 ディオクレティアヌス帝、東西に副帝を置き、帝国を四分統治する。第一次四頭政。
305年

ディオクレティアヌス帝、マクシミアヌス帝とともに引退を宣言。第二次四頭政。

306年

西方正帝コンスタンティウス・クロルス帝ブリタニアで死去。子のコンスタンティヌスが即位。マクシミアヌスの息子マクセンティウスがローマで皇帝を僭称し、元老院の承認を受ける。

308年

西方正帝セヴェルスが、マクセンティウスに敗死。リキニウスを西方正帝とする。

311年

東方正帝ガレリウスが死去し、リキニウスが東西の正帝を兼務。

313年

西方副帝コンスタンティヌスが、リキニウスと同盟を結び、マクセンティウスを征討。ローマを制圧し、西方正帝となる。両帝、「ミラノ勅令」によりキリスト教を公認。

315年

コンスタンティヌス帝、リキニウス帝を破り、リキニウス帝の統治領を小アジア以東に制限。

324年

コンスタンティヌス帝、再度リキニウスを破り、引退させる。帝国再統一。

翌325年、ニケーア公会議でキリスト教の三位一体説を正統とする。

335年 コンスタンティヌス大帝末期の分割統治準備 
337年 コンスタンティヌス大帝後の三分割統治
340年 コンスタンティヌス大帝後の覇権争い
351年 僭帝マグネンティウス
353年 コンスタンティウス帝による帝国再統一
361年 ユリアヌス、反旗を翻す
362年 背教者ユリアヌスのペルシア遠征
365年 ヴァレンティアヌスによる兄弟統治
378年 ヴァレンス帝と甥二人による統治
379年 テオドシウス帝、帝国再統一を図る
387年 ブリタニア総督マクシムスの反乱
394年 テオドシウス帝による帝国再統一成る

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ディオクレティアヌス 帝による分割統治 〜 コンスタンティヌス帝による統一 《年表詳細》
260年 皇帝ヴァレリアヌス、ペルシア王シャープール一世に捉えられる。
283年

皇帝カルス、ペルシア戦役中に落雷に遭い死去。カルスの息子ヌメリアヌスは、ペルシアから引き上げこととしたが、その帰途、ニコメディアで変死。 部下に殺されたものと考えられる。皇帝警護隊長ディオクティアヌスは、その被疑者を殺害し、軍団から皇帝に推挙される。

284年

ヌメリアヌスの弟カリヌス、戦闘中に死去。

286年

ディオクレティアヌス、マクシミアヌスを「カエサル」(副帝〜従来の意味は後継帝)に任命。二頭政開始。ディオクレティアヌス、ドナウ河防衛線で蛮族を撃退。その後、東方の防衛線を強化。一方、マクシミアヌスは、北アフリカ防衛線を強化。

291年

ディオクレティアヌス、エジプトで蛮族を撃退。

292年

ディオクレティアヌス、ドナウ河防衛線に戻り、サルマティア族を撃退する。

293年

ディオクレティアヌス、「四頭政」開始。

295年 ヌミディアの若者マクシミリアヌス、兵役拒否により殉教
296年 ペルシアがメソポタミアに侵入し、アルメニア王を追う。ディオクレティアヌス帝は自らの防衛責任の地域でありながら、ガリエヌスをディオクレティアヌス帝は、自らの輿の横をガリエヌスを徒歩で歩かせる、という屈辱を与えた。
297年 ガリエヌスがペルシア戦に大勝し、雪辱を果たす。
303年

ディオクレティアヌス、キリスト教徒弾圧の勅令を公布。

ディオクレティアヌスとマクシミアヌス、ローマで凱旋式を挙行。

305年

ディオクレティアヌス、マクシミアヌス退位、隠居。第二次四頭政。

東方正帝;ガレリウス、副帝;マクシミアヌス・ダイア

西方正帝;コンスタンティウス・クロルス、副帝セヴェルス

306年

7月コンスタンティウス・クロルス病死。その軍団、息子コンスタンティヌスを皇帝に推挙。東方正帝ガレリウス、西方正帝セヴェルス、副帝コンスタンティヌスとすることで事態の収拾を図る。

マクシミアヌスの子マクセンティウス、ローマで皇帝即位を宣言。マクセンティウスは父マクシミアヌスを共同統治の皇帝に推挙し、六人の皇帝が立つことになった。

307年 西方正帝セヴェルス、マクセンティウス征討のためローマへ進軍中に捉えられ自死。東方正帝ガレリウスがマクセンティウス征討に向かうが、マクセンティウス側についた諸都市に対し、蛮族に対するように襲撃、掠奪したため、途上の諸都市の協力を得られず、撤退した。
308年

東方正帝ガレリウス、ディオクレティアヌス、マクシミアヌスと会談し、西方正帝にリキニウスを据えることで合意。第四次四頭政。

コンスタンティヌス、マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚する。

309年

ディオクレティアヌスによるキリスト教弾圧の勅令取り消される。

蛮族のライン河越境、侵入に乗じ、マクシミアヌスがコンスタンティヌスを倒すクーデターを起す。

310年

コンスタンティヌス、蛮族と講和し、マクシミアヌスに反撃、自殺させる。

311年

東方正帝ガレリウス、信仰の自由を認める勅令公布。

ガレリウス死去。東方正帝はリキニウスが継ぎ、西方正帝は空席。

コンスタンティヌスとリキニウスが同盟。コンスタンティヌスのマクセンティウス征討を承認。

312年

コンスタンティヌス、ローマ近郊でマクセンティウスに勝利。マクセンティウスは戦死。

元老院、ローマへ入城したコンスタンティヌスの正帝昇格を決定。

313年

リキニウス、小アジアに進軍してきたマクシミヌス・ダイアを破る。マクシミヌス・ダイアは逃亡、のち死去。

ディオクレティアヌス死去。

315年 コンスタンティヌス、リキニウスとパンノニアのキバラエ付近で対戦し、破る。講和により、リキニウスの統治領を小アジア以東に制限。
317年 コンスタンティヌス、ドナウ河防衛線を担当、子のクリスプスがライン河防衛線を担当し、防衛を強化。
322年 コンスタンティヌス、ドナウ河を渡り、北方蛮族を撃破し、講和。
324年

コンスタンティヌス、リキニウスに再度勝利し、リキニウスを引退させ、一人の正帝となる(分割統治終了)。

帝国の首都をビザンティウムに移し、新都建設。

325年

リキニウス、蛮族と共謀し、反乱を企てた疑いで処刑される。

コンスタンティヌス、小アジアのニケーアでキリスト教の司教を集めた公会議を開催。三位一体説を正統とし、アリウス派を異端とする。

326年 クリスプス、義母ファウスタとの不義の罪で捕らえられ、牢内で死去。ファウスタも謀殺される。
330年 新都コンスタンティノポリス完成を祝う式典開催。
337年 コンスタンティウス、ペルシアによる軍事行動に対抗するため、コンスタンティヌス東方へ向かうが、ニコメディアで病死(64歳)。