ないふ

ないふ


男 膝がふるえている、座席から立てない・・・
テーマ音楽
単調な列車の音。車内のざわめき。
男 座席は詰まっていて、つり革持つ人も多い、それはいつものこと、だけど、違うのは俺の真向かいの座席だ。吊革の男の向こう、列車が揺れるたびに、向かいに坐る女の姿が見える。
女の口元、異様に赤い唇だけがにっと笑みを浮かべている。そして、問題なのは・・・、透けて後ろの窓が見えること、いや、そうじゃない、首、女の喉に大振りのナイフが突き立っているってことなんだ。
男 誰も気づいていない、あの女が見えないんだ。そうだ、次で降りてしまおう、もうすぐ駅だ、とにかくここから逃げ出だすんだ
列車の連続音がゆっくりとなり、停まる。ドアの開音。
ざわめき。
男 は、早く立つんだ。たくさんの人が降りていく、俺も
降りていく人たち、スリットのように女の姿が浮かぶ。
女と眼があった・・・、女の唇の両端が異様につり上がる、俺を見て笑ったんだ。女の顔が俺に迫ってくる、笑う女の顔が俺の視界一杯になる、押しつぶされてしまう
動けない逃げ出せない。
消えた・・・
どうしたんだ、いない、空いた席が俺の前にあるだけだ。消えてしまった、・・・そうだ、乗客達と一緒に降りていったんだ

女、耳元、かすれた声でささやくように
女 見えているんだろう、あたしが
男、大きく息を吸い込む。
ドアの閉まる音、列車が動き出す。
女 冷たいねぇ、女の子が喉にナイフ突き立ててるんだぜ
男 あ、あっ、あぁ、あの
女 可哀想だなぁとか、思わないかい
男 だっ、だだた・・・
女 そうだよなぁ。他人のことだもんなぁ、関係ないよねぇ
男 すいませんっ、ごめんなさい
女、小さく笑って。
女 ほぉら、やっぱり見えてたんだ
男 えっ・・・
男 俺の目の前にナイフ突きたてた女が浮かび上がる。喉元、ナイフ、指差して・・・
ナイフを抜けと指差す
命じられるままにナイフを掴む。
冷たい、手のひらが張り付きそうだ。体まで凍えてくる。息が苦しい。喉が詰まる。喉のこれは、血の味だ。俺は血を吐こうとしているのか、いや違う、これは・・・、俺は手のひらを通して女の血と一つになっているんだ
男 早く
女、普通の、囁く声で
女 早く
男 力を込めて、抜く
どうして・・・。掴んでいる筈のナイフが掌から溶けだしていく。氷が溶けるように消えてしまった
列車の音。
男 女が何処からか、スカーフを取り出して首にしっかり巻いた。
女、普通の声で、なにげなく。
女 ありがと。不便でさ、やっと普通に喋ることができるよ
男 話が見えない・・・、いや、見えなくていい。知らない、俺は何も知らない、見ていないんだ
女 おいおい、いい大人が引きこもりかい、世話になったからさ、悩み聞いてやるよ、話してみな
男 え、いや、あの、なにも・・・
急に、女、しとやかにしおらしく。
女 そう・・・、そうだよね。あたし、幽霊だもの、恐くてあたり前だよね。ごめんなさい
男 いや、あの、決して、あの、そういうわけじゃなくて、なんというか
女 女にころっとだまされるタイプだね。よく言えば正直。でも免疫がないとなぁ。これからの人生、生きていけないぜ
男、少し笑い出す。女も小さく笑う。
男 なんだか、肩の力が抜けて、ありがとう
女 ありがとうって
男 変ですね、素直にありがとうって言ってしまった
女 あたしの人徳ってやつだな
男 そうかもしれない
男 にっと笑う赤い唇。あたりまえのように俺の横に座った。どうしてだろう、なんだか、落ち着いてしまって、恐さもすっかり消えてしまった
女 あたしが恐いんじゃない、あんたの中にある虚像が恐怖を撒き散らしていた、それだけのことさ。たいしたことじゃない
男 えっ・・・
女 あんたの顔にそう書いてある
男 女はかすかに視線を落とし、口をつぐんだ。俺はどうしてだろう、何かとても哀しくなって、自分が情けなくなって、ハンカチを取り出し、女の唇を拭う。どうして、そうしたのかはわからない、ただ、そうすれば、少しだけでも、ほんの少しだけでも。
女 面白い人だな、あたしが見えるわけだ
男 少し顔を上げて、にっと笑う。陰のある、でもやわらかな笑みだ
女 ん、その定期券は
男 あ、ハンカチ出したときだ・・・
男 定期券拾って、降りたら改札で渡そうとポケットに入れてた
女 貸してみな
男 女は興味深そうに俺から定期券を取り上げる
女 なるほどねぇ。きまぐれ、それとも縁(えにし)とでも言おうか
男 どういうこと
女 つまりはいいもん、拾ったってことさ、あたしに出会えたんだからさ
男 定期券を人差し指と中指の先で挟み込む。
そして、女は自分の顔の前に定期券を
女 次は誰が受け取るんだろうね
男 ささやくように呟いて、そっと定期券に息を吹きかける。さらさらと・・・
男 さらさらと定期券が光の粉になって飛んでいった。飛んで・・・
女 まぁ、こんなとこだ
男 そう言って女が向かいの座席に笑いかけた。向かいの席、小さな子供が身を乗り出して女を見つめている
女 子供はさ、たまにあたしの姿を見る、あたしは、ちょっと嬉しくなる
男 やわらかく笑みを浮かべて、小さく手を振っている。子供も笑って手を振り返す。
女 ナイフがないってのはいいよねぇ
男 そういえば、ナイフ、どうして喉に
女 秘密さ
男 え
女、かわいく笑って。
女 女の子には誰にも話せない秘密の一つや二つ、あるものなのよ、ごめんなさい
男 楽しんでますね
女 ナイフを消してもらって、なんだかさ、心の底に澱のようにして溜まっていたはずの恨みや妬み、すっかり消えてしまったんだ
男 それじゃ、これから
女 これから・・・、さてねぇ、どうしようもないな、あたしはひとりぼっちだ。牢獄に閉じ込められているんだよ
男 牢獄ってここに・・・
女 普通の人たちはあたしの声も聞こえない、姿も見えない、つまりはあたしの存在はないわけだよ。目の前にいても、大声張り上げていてもさ。牢獄で、一人テレビ見ているようなもんだ。でもさ、あんたやあの子のように、気づいてくれる人たちもいる、ちょっとあたしは優しくなる
男 いつのまにか、向かいに座っていたはずの子供が女の前にたたずんでいた。目に一杯涙をためている。女がそっと手を伸ばし、子供の頭をなでている。
女 子供は苦手なんだけどな、本当は
男 笑みを浮かべるその表情がとてもはかなげで、つらくて仕方がない
列車がゆっくりと止まり、ドアが開く。本来なら、車内アナウンスがあるはずだが、邪魔なので割愛。
女 それじゃあね。ありがとう
男 ゆっくりと立ち上がり、女が列車を出る。俺も
ドアの閉まる音、列車の動き出す音。
女 あんたもここで降りるのか
男 遠ざかる列車の窓、女は笑顔を子供に向け、そっと手を振る
男 俺と一緒にいませんか。これからも
女 そういうのもありかもしれないな。でもね、あたし、あんたと会って少しわかったことがある。
男 わかったこと・・・
女 ほんの少し、自分が暖かくなった、そんな気がしてね
男 暖かく
女 体の冷たさ、希薄さはかわらない。でも、なんだかさ、ちょっと暖かいんだよ
女 ね、あたしに手を伸ばしてみな
男 言われるままに女に手を差し出す。気弱げに笑って女も手を差し出す。
そっと指を絡める。微かに感じる指先、冷たい、でも、なんだか、静かでおだやかだ
女 次に会うときは、次に会うときにはさ
男 ええ、次に会うときは
女 いつか、どこかでね
男 女がやわらかに笑みを浮かべる。俺もなんだか、あの子供のように泣きそうになりながら、いっぱいの笑顔を浮かべる。
ゆっくりと女の姿は薄れ、後ろの風景と重なり、そして消えていった。
いつか・・・
最後の男の台詞、途中から音楽。

終わり

 

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結婚思案

『結婚思案』

あらすじ

三十路寸前になっても彼女もいない主人公、日向聡は結婚願望を抱きつつ、寂しい日々を過ごしている。そんな彼の日課の一つとして、同じ状況の友人、佐伯と一週間に一度、喫茶店で待ち合わせては、仕事の愚痴やいかにして彼女を獲得するか、などと話しては思案にくれている。そんなある日、日向の幼馴染、清水涼子の経営する喫茶店にて、いつもの佐伯との愚痴の言い合いを始めるべく、やって来たところから話が始まる。遅れてやって来た佐伯が今、まさに告白したいが、勇気がなくて告白できないのだという女性を連れてやって来る。そこで日向と清水は、何とか佐伯に告白させようとするのだが。


登場人物

・日向聡 (主人公)
・佐伯悠 (幼馴染)
・水野涼子 (幼馴染)
・日向(父親)
・客(男)
・客(女)

 

われんばかりの拍手喝采、そして口々に「おめでとう」や「とうとうやったな」などと声がかかる。
佐伯 日向、おめでとう。流石の俺もお前にはかなわんよ
日向父、マイクを持って声高に叫ぶように。
日向父 皆様、有難うございます。愚息、日向聡がこのような分極まる立場に就くことができましたのも、すべては皆々様の御力添えのおかけでございます。高いところからではございますが、私共家族、皆様への感謝の念に耐えません。本当に皆様、有難うございましたー。では、息子、聡にマイクを渡しまして
男 おおい、静かに、静かに
少し間を持たせ、日向聡、少し声を上ずらせながらも、努めて冷静に。
日向 今回このような三十歳突入祝賀会をにぎにぎしくも盛大に開催していただき
女 聡さんー、おめでとう
日向 あ、花束を、これはこれは、ありがとうございます。えー、開催していただき有難うございました。思い起こせば、三十年前、未だ開かぬ両の眼の代わりに心の眼でこの世界をかいま見、あぁ、なんてすばらしい世界なのだろうと思いましたのが私の最初の思案でございました。そして、それが三十年前の正しく今日でございます。それからというもの、皆様のご声援をいただきつ、そう、急な階段を一段一段登るがごとくの労苦に我が身を委ねて参りました。時には先人に倣い月に向かいて、『吾に艱難辛苦を与えよ』と叫んだ夜もございます。そしてこのような苦労と、なによりまして、皆様の寛大なるご支援を受け、私、(一段と大声で)今日、本日を持ちまして三十歳、三十歳、三十路となりました。
皆様のおかけです、ありがとうございます、三十路になれたなんてこんな嬉しいことはございません。ありがとうございます。あ、おひねり受付中でございます
拍手喝采、最初にも増して盛り上がる。やがて拍手が消えていき、それに代わるようにして一九世紀の英国を想起させる室内楽が流れてくる。喫茶店にて。
水野 日向ちゃん、そのうつ向いての独り笑い、哀しいものがあるよ
日向 あー、あぁ。ごめん。ちょっと考え事してた
水野 ふふ、自分の年齢のことでしょ。気にしても無駄よ。ねぇ、三十歳までに結婚相手を見つけるっての、もう諦めたら
日向 あのー、言ってくれる・・・
ドアに取付けたカウ・ベルが鳴る。
水野 いらっしゃいませ
水野 日向ちゃん、ホットにしとくよね
言い残して水野が次の客のところへ水を持って行く。
日向独白 会社がえりの若い男。いま・・・、八時。閉店まであと一時間ある。そろそろ佐伯も来るだろうし。しっかし、まぁ・・・、俺にしても佐伯にしてもまさか二十代も終わりになって、彼女の一人もいないなんて、情けない話。俺の二十歳成人式の時の予定では、今頃にはとっくに結婚して二人くらい子供がいる筈だったのに。
毎週、佐伯とここで顔を突き合わせては、どうやって彼女を見つけるかの相談と仕事の愚痴。情けないよねぇ
水野、コーヒを持ってくる。
水野 どうぞ
少しおどけたように。
水野 お仲間、遅いね。早く週間報告し合いたいのにな。ねっ、何か成果あった
日向 あったら、涼子の好奇心を刺激していません、その娘とめくるめく一時を過ごしてるよ、ああん、日向さんーってね
水野 はは、売り上げにご協力いただき、ありがとうございます
間、水野、日向の前の席に座って。
水野 ね、思うんだけど日向ちゃんって、高望み、ううん、ないものねだりじゃないのかなぁ
日向 ないものねだり・・・
水野 そっ。言い換えれば大人になりきれてない
日向 大人になりきれてないって、俺、涼子と同じ、二九歳と半年・・・
水野 しっ、声が大きい。あたしバツ一の子持ちだけど、店では、まだ、二五歳なんだから
日向 それって、詐欺
水野 人聞き悪いなぁ、喫茶店は夢を売る商売、愛嬌ってやつだよ。それに化粧とったら二十歳でもとおるんだからね
日向 あ、なるほど、確信犯ってやつ
水野 ・・・まっ、その話は横に置いといて。あたし、子供の頃から日向ちゃんって呼んでるよね。ねっ、普通、三十路前の男になってもちゃん付けなんかする
日向 まっ、確かに
水野 でも、日向ちゃんの場合、君付けやさん付けって、似合わないんだよね
日向 ちょっとむっとするけど、確かにちゃんづけされること、多い
水野 日向ちゃんは見た目、確かにおじさんなんだけど
日向 あの・・・
水野 なんだか子供なのよ。大人になり切れていないって意味でね
日向 子供・・・、っか・・・
水野 かわいそうだし、少年って言い換えてあげてもいいけどね
水野、小さく笑う。
日向 正直に言うけど、思い当たる節・・・。うん、ある
日向、考え込むようにして
日向 女性と話して、やっぱり、そう思われたらマイナスだよね
水野 思われるかどうかやなく、自分がそうであるかどうかが問題。だけど、いま、あたしが言いたいのは『ないものねだり』のこと
日向 ないものねだり・・・
水野 うん。多分、日向ちゃん、自分では意識してないと思うけど、女性に対して期待し過ぎてる
日向独白 涼子、引き込むような笑みを尾かに浮かべると、口を閉ざしてうつ向いた。彼女とは佐伯同様、もう小学生の頃からのくされ縁、この笑みにも、いい加減、慣れてはいるけれど、それでも・・・、一瞬、心臓が高鳴る
水野 あたしが結婚する前に、日向ちゃん、自分で作った小説くれたよね。せっかく買ったワープロに埃被らせておくのも、もったいないから書いてみたって。覚えてる
日向 三年前かな。『鞄』ってのやったね
水野 若い男と幽霊の淡い恋物語。こらこら人が結婚、結婚って大騒ぎしているときにって、内心思ったけど、読んでみて、あ、いいなって思った
日向 えっと・・・。それはどうも
カウ・ベルが鳴る、ドアの開く音。若い女性が入ってくる。水野、ゆっくりと顔を上げる。澄ました声で。
水野 いらっしゃいませ
日向に向かって小声で。
水野 お客さんだ、ごめんね・・・
日向独白 まどからそとをながめる振りして覗いて見る。十代後半の女性だろう・・・、先程入ってきた男と向かい合わせに座った。待ちあわせか・・・。
(珈琲をすする音)(溜め息)『鞄』か・・・、すっかり忘れていた。一度だけ小説めいたものを書いたことがあったんだ。真面目なだけの風采のあがらない男と、美しい少女の幽霊との淡い悲恋の物語
水野 その少女の幽霊が最後に男と別れるとき、これがあたしにできるたった一つのお礼です、そう言って、一輪のリンドウを彼に差しだして消える
日向 ・・・え、涼子、いつの間にか、お客に珈琲を出して俺の前に座っている
水野、笑いをこらえるようにして。
水野 二十年以上の付き合いだもの。日向ちゃんの心の中、簡単に推理できるよ
日向 ・・・なんか、落ち込んだ
水野 はは、落ち込め、落ち込め。ふふ、それで、あたしが言いたいのはこういうこと。日向ちゃんの小説は、自分の願いや思いをひたすら綴っただけ。可愛い女性、自分に逆らわぬ女性、自分の思い通りになる清純な美しい女性、そういう女性を守りたい、守ってあげたい、いや、守らせてくださいませってね
日向 わかってるよ、俺も一年ほどしてから読み返してみて、恥ずかしくなって、夜中、駆けずり回ったんやから
水野 へぇー、なるほど、ちょっとは日向ちゃんも成長してるんだな
カウ・ベルの音。ドアが開く。佐伯が入ってくる。
水野 佐伯君、遅よう、元気してた
日向 あー。佐伯は君付け
水野、軽く笑い。佐伯、二人のテーブルにつく。
佐伯 どうした、涼子。笑って
水野 ちょっと、日向ちゃんをいじめてただけ
水野 ね、いつものレモン・ティーでいい
佐伯 いや、俺、ちょっと・・・
佐伯 日向、俺、ちょっとこれから、人、送っていくから・・・
日向 送って行くって、ひょっとして・・・
水野冷静に。
水野 うん。それって、もしかして、佐伯君。・・・そうなの
日向独白 佐伯、蛇ににらまれた蛙みたいにすくんでる
急に水野、はしゃいで
水野 きゃあ、佐伯君、おめでとうー
水野、囁くように。
水野 まだ、お客さんいたんだ・・・、ほら、日向ちゃん、小さく、拍手っ
二人で拍手
水野 で、佐伯君。彼女はいずこにおわします
佐伯 いや・・・、あの。車の中で待ってもらっていて
水野 はぁー、あの・・・、もしもし。車の中って・・・。まっいいわ、ねっ、それで彼女とはどこまでいったの。言っとくけど、映画や遊園地やなんて答えたら、お姉さん、怒るよ
佐伯 いや。あの・・・。昨日から残業を手伝ってもらってて、帰りが遅くなるから送ってあげようって
日向 良いシュチュエーション。車の中って密室、仕事疲れの尾かな疲労感がなにかしら甘い零囲気を醸し出し。な、佐伯、お前は彼女のこと、どうなの

水野 佐伯君、顔、赤いよ。・・・ということは
日向 決まりっ、だね
佐伯 おい、俺は・・・。別に彼女には・・・
水野 酒も飲んでいないのに赤い顔、もつれる言葉、消え入る口調。お姉さん、佐伯君の心の内、しっかり受け取ったよ
日向 心の内って
水野 つまりはこういうこと。佐伯君は彼女と素敵な関係になりたい、だけど、あぁ、こういう状況に馴れていない俺、どうしたらいいんだ、なっ、お前ら二人、幼馴染だろ、助けてくれよ、これが佐伯君の本心。あ、それに、おい、それくらいのこと、俺が口に出さなくても察してくれよって、ふむふむ
日向 なるほど、そうか。ごめん、佐伯、俺もお前の気持ちすぐに分かるべきだったよ
佐伯 お前ら、かってに、そんな決め付ける・・・
水野 それじゃあ、こうしよう。この瀟洒な喫茶店を舞台に、佐伯君と彼女が親睦を深めあう。あたしと日向ちゃんでお膳立てするからね。さあ、佐伯君は彼女、呼んで来て
佐伯、今にも泣き出しそうな。
佐伯 お、おい
水野 佐伯君、入ったら奥のカウンター近くのデーブル、うん、そこに座るんだよ。彼女は入り口側の、カウンターが見えるほうの椅子に座らす
佐伯 待て、お前ら勝手に決めるな
水野 行くの、早く
間、日向、ぽつりとつぶやくように。
日向独白 ・・・涼子の佐伯を見据える鋭い眼・・・、二十年以上付き合ってもまだわからない。考えてみたら、俺も佐伯も小学校の頃から、涼子に最後まで逆らいきれたことがない。結局は佐伯もしぶしぶ彼女を呼びに行った。しっかりした幼馴染だね・・・
日向 なんだか張り切ってるな、涼子
水野 あたし、面白いこと大好きだもん
日向 人の恋路の行く末、楽しんでるな
水野 友達の幸せを手助けできる、あぁ、友人冥利に尽きます
日向 ものはいいよう。なっ、俺はどうしたらいいの
水野 簡単、簡単。あたしが合図を送るから、そうしたらすっと彼女の横に座って、『よぉ、彼女、こんなつまんない奴、ほっといて俺といいことしよう』って、彼女の肩に腕を廻す
日向 あの・・・
水野 そこで佐伯君が、『君、失礼じゃないか』って、すっくと立ち上がり日向ちゃんの襟首を掴んで
日向 いててて・・・。ごめんなさい、二度とこのようなことはいたしません
水野 そっ。そしてすごすごと日向ちゃんは退場
日向 ええ加減にしなさい
二人で。
日向・水野 失礼しましたー、ちゃんちゃん
日向 つまんないことを・・・
水野 今度は真面目、真面目。日向ちゃんはうちの合図ですっくと立ち上がり、たったっと店を出て行って
日向 きゃー、無銭飲食。誰かつかまえてー
水野 そこへすっくと佐伯君、立ち上がり・・・。はは、二人で遊んでても仕方ない。三度目の正直。しっかり、真面目。日向ちゃんはあたしとカウンターで喋ってくれてたらいい、話の内容はあたしが先導する。そう、切々とあたしへの恋心でもうちあけてくれてたらいいかな。で、適当なところで、あたしが話を切り上げるから、そうしたら、とっとと帰って
日向 え・・・、帰るの。待てよ、俺も友人として最後まで見届ける義務がある
水野 ふふ、義務ときましたか。ね、日向ちゃんは裏口、知ってるでしょう、そこからぐるっと廻ってカウンターの中にひそんでいて。あたしもすぐに行くことになるから
日向 一応は佐伯と彼女が二人っきり
水野 そう
日向 なんか、気まずくならないか
水野 大丈夫、あたしがうまく話を持って行くから。だけど、詰めは
日向 佐伯自身の問題
水野 そういうこと。九割方はこっちで段取りするんだよ、最後の詰めは本人にしめてもらわないとね、なんだか、出来の悪いの彼女に押しつけるみたいで、心が残るもの
カウ・ベルの音。
日向独白 佐伯と彼女が入って来た。佐伯・・・、顔、引きつってる・・・
水野 いらっしゃいませ
少し離れた位置から。
佐伯 ね、清水さん。眠気醒ましに珈琲でも
日向独白 あいつ、意味不明なことを・・・、彼女きょとんとした顔してる。だけど、俺も研究しておこう。こんな時の台詞
佐伯 さ、さぁ、清水さん、どうぞ
椅子を引く音。
日向独白 佐伯、ご丁寧にも彼女に椅子引いて・・・。あれ。涼子が言ってた方と反対の椅子・・・
水野、押し殺した声で。
水野 あいつは、もう・・・
ささやくように。
日向 佐伯、頭ん中、極度の緊張でパニックみたいだね
水野 仕方ない・・・
一瞬の風の流れる音。
日向独白 うっ、涼子、片手にコップ載せた盆を持ってカウンター、飛び越えた。なんてやつ。音もなしで佐伯の後ろを取った。そういえば、涼子、亭主、どつき倒して離婚したんだった。確か、一ヶ月、亭主入院したとか・・・

水野、明かるくはしゃいだふうに。
水野 きゃぁ、陽子じゃない。私、覚えてる。涼子よ。ひさしぶりよね、もう何年になるんだろう
清水 え・・・、私・・・
日向独白 涼子、彼女を抱きしめてはしゃいでいる。そして、すっと彼女を予定していた椅子に座らせ、自分もその横に座った。唖然として突っ立っている佐伯、一人、寂しそうに
水野、少ししんみりとして。
水野 ほら、私の父さんって、転勤多かったでしょう、陽子の学校、半年で転校した後も、五回も学校替わって、それに、私、あの頃、荒んでたから、友達もできなくて。だから、私・・・、陽子だけが友達だった・・・。本当に会いたかった。本当に・・・
清水 ごめんなさい、私・・・。清水恵子と云います。人違いじゃ・・・
水野 え・・・。あ、あっ、あはっ・・・。清水・・・、恵子・・・、さん。ごめんなさい。私、本当にごめんなさい
日向独白 涼子、おおげさなくらい恐縮して立ち上がった。ん・・・、目元に涙・・・、そっと人差し指で拭う。あいつ、自分の演技に酔ってるな
清水、やさしい声で。
清水 会えると・・・、良いですね
日向独白 涼子、目元を潤ませたまま、独特の間を取って、そっとうなづいた。そして佐伯に振り向く
水野 えっと・・・。はは、ごめんなさい。確か・・・、さ・・・、佐伯さんでしたよね。おくればせながら・・・、いらっしゃいませ・・・、なんに・・・、なさいます・・・
佐伯 あの・・・、レモンティーで
水野 レモンティーですね。清水、さんは・・・
清水 私も同じで
日向独白 涼子、こくっとうなづいて・・・。俺、よく考えたら昔から女性不信の気があったけど、これ、涼子の所為だよ、本当に。ん、戻って来た・・・
水野、ささやくように。
水野 十点満点でいくら
日向、同じようにささやいて。
日向 九点
水野 ん・・・、あと一点は
日向 俺の良心の分
水野 なるほど、なら、事実上は満点か。よし、上々
レモンティーの準備をする音。だんだんと、その音が遠くなっていく。
佐伯と清水の会話。
佐伯 ごめんね。つき合わせたりして
清水 いいですよ。バスで帰ったら、もっと遅くなるんだから。だけど、佐伯さんって、以外
佐伯 え・・・
清水 ふふ、だって、佐伯さんって、いつもよれよれのシャツ着て、靴だって、薄汚れてるし、ほら、髪だってぼさぼさ
つっと清水、佐伯の前髪を引っ張る。
佐伯 あ・・・
清水 どっちかって言うと屋台でラーメンすすっているって零囲気なのに、ここ。私、このお店のこと情報誌で紹介されていたの見たことあるんですよ。中世、英国風の喫茶店で恋人達に一押しの店って
佐伯 そ、そうだね。俺もここが好きで。なんか、落ち着いて
清水 そうですよね
日向と水野のささやき声。
日向 この店、そんなに人気あったの
水野 当たり前やろ。あたしの店なんだから
日向 なるほど、それ、妙に説得力ある
水野 妙には余計。だけど・・・。清水さんの方、結構、乗り気と見た。どう、日向ちゃんは
日向 たしかに恋愛専門家の私に言わせますと、彼女、ガード、低いね。うまく行きそうだ
水野 うん。あたしもそう思うけど。ちょっと不安
日向 不安って
水野 ガード、低すぎないかな。正直、佐伯君って日向ちゃん同様、もてるタイプじゃないのに
日向 あの・・・。言ってくれる
水野 ふふ。うちの言い様は昔から。さて、とりあえず反応を見てみるか
場面、佐伯、清水に戻って。
水野 どうぞ、お待たせしました。あ、それから、これ、(声をひそめて)このチーズ・ケーキはサービス
清水 え・・・。でも
水野 気になさらずに。本当に私、嬉しかったから。ね
日向独白 涼子得意のアルカイック・スマイル。ギリシャの娘像にある清楚な笑み、って、涼子、よなよな、鏡向かって練習してるんじゃないやろな。ん・・・
声をひそめて。
水野 さてと、日向ちゃん。作戦、二段階目に入るよ
日向 二段階・・・
水野 そっ、じゃあ、作戦会議しよ。耳かして
日向独白 ・・・涼子、自信たっぷりに笑みを浮かべた・・・。まるで、完全犯罪を思いついた推理作家か、犯人の様。どちらかというと、犯人。やっぱ、俺の女性不信の影、こいつの所為やな

間、音楽が流れて。
佐伯 ね、清水さん・・・。あの、唐突なんだけど・・・
可愛らしく。
清水 え・・・
佐伯 いや、あの・・・。はは、本に載っているだけあって、おいしいね。本当
清水 どうしたの。鼻の頭、汗かいてる
佐伯 え・・・。そっかな。俺、ちょっと・・・。あ、うん。俺、ちょっと、風邪気味で。ごほげほ

唐突に場面変更。
日向 あの・・・、涼子さん
水野 はい
日向 お嬢さん、奈々子ちゃんって云うだっけ。もう、いくつなの
水野 明日が二歳の誕生日。ふふ、一歳の頃は親の欲目プラスでお人形みたいに可愛いいて思っていたけど、喋れるようになってからはオートリバースのテープレコーダ。もう、うるさいだけ
日向、笑いながら。
日向 だけど子供は元気が一番だよ
水野 そうだけどね。でも・・・、いたずらした時なんか、しっかりと叱ってくれる男の人がいたらいいなぁって思う、女親だけじゃあね
日向 ごめん。辛いこと思い出させてしもて
涼子 はは、お気になさらず。あたしも時々、古びた写真でも引っ張りださないと、あれっ、あいつどんな顔してたっけ、て思うくらい。
だけど、とうして死んじゃったんだろう、あいつ・・・。勝手に・・・、交通事故なんかで・・・
日向独白 涼子、そっと俯いて表情を隠した。亭主を一月入院させた人間とは思えないほど、寂しげな演技。尾妙な間をとって、涼子、顔をあげた
涼子 日向さんはまだ結婚しないの。いつだったかな、まだ独身なんだって言ってたよね
日向 う、うん
水野 結婚に興味ないのかな
日向 ないことはないけど・・・、ね、俺、思うんだけど、結婚してなんかいいことあるのかな
日向独白 涼子、一瞬、我が意を得たりとにっと笑みを浮かべた
水野 そうよね。確かに自由に使えるお金も減るし、気苦労も増えるけど・・・。でもなんていうのかな、それと引き換えにしてもいいくらい、嬉しいことや、充実感がある。あたしも上手くは言えないけど、結婚したとき、これから自分の自分自身の人生が始まるって感じた。そして、言葉だけでなく初めて理解をしたの、人は一人では生きていけないってこと、どんなつまらないことでも、二人で生きて、何かを形作ろうって嬉しさ。あたし・・・。結婚には迷ったけど、それでも本当に結婚してよかったと思う、もう、そういう喜びはあたしには戻ってこないけど、それでも・・・、良かったって思える
日向 そっか・・・。ね、それ、俺と・・・
日向、囁くように。
日向 ほ、本当に俺、言うのか
水野も囁くように。
水野 言うの、ここからがいいんだから
日向、少し声を大きく。
日向 俺と、あの・・・。あの、友人と映画を見に行こうって約束していたのが、そいつ、あの、急に行けなくなって・・・、それで、あの・・・。明日、お店休みでしょ、奈々子ちゃんと、三人で、良かったら、映画、見に行きませんか
水野 映画ですか・・・
日向 具合、悪いですか・・・
水野 ごめんなさい、まだ、無理なんです。まだ・・・。ごめんなさい・・・
日向 お亡くなりになった御主人のこと・・・
少し涙声で。
水野 ふふ、おかしいですよね。時々、顔すら忘れている人に
日向 素敵な人だったんですね
水野 そんなことないんです。風采のあがらない、薄汚れた零囲気が躯に染み付いてしまった人で。でも・・・、私がいないとだめな人だったんです。だから、だから・・・
日向 なんだか、そういう涼子さんの顔って、嬉しそうですよ
水野 そうですか。どうしてだろう、あんな奴のこと。本当に先に死ぬような勝手な奴・・・。これが喧嘩別れだったら、忘れることもできたのに・・・
日向 不謹慎だとは思うけど、俺、その人がうらやましい
水野 え・・・
日向 涼子さん
水野 はい・・・
日向 俺、また、・・・来てもいいですか
日向独白 涼子、一瞬、辛そうに俯いた。尾かに握り程めた手が震える。そして、間をとって、ゆっくりと顔をあげた。目元を涙に潤ませて・・・。少女のようなまぶしげな笑みを浮かべた
水野 待って・・・、います・・・
日向独白 やばい、十点満点で二十点渡したくなるような笑み。本当に・・・。惚れてしまう、のは辛い
日向、つぶやくように。
日向 良かった・・・。それじゃあ
水野 ・・・はい・・・

カウベルの音、日向、外に出る。

日向、ささやくように。
日向 状況はどう
同じく、水野、ささやくように。
水野 面白い零囲気になって来た。あとは佐伯ちゃんの思い切りだけ

間。清水、小声で。
清水 水野さん、子供、いるんだ・・・
佐伯 え・・・。あぁ。そう。何度か、見たことがある。小さな女の子。それが、どうかしたの
清水 ううん、子供がいるって零囲気じゃなかったから
佐伯 そうだね
清水 さっき言ってたよね、カウンターにいた人と、あの人。御主人が亡くなっても、今も自分の心の中に愛したあの人がいるんだろうな。私、うまく言えないけど、うらやましいなって思った。私にもそんな人がいてくれたらな
大きな声で。
佐伯 清水さん。俺
清水 え・・・
佐伯 俺と付き合ってください
清水 あ、あの
佐伯 俺、毎日、風呂に入ります。服にももっと気を付けるし、髪型も替える。もちろんそんなことでは意味がないて思うかもしれんけど、俺、精一杯頑張るから
佐伯 俺と付き合って欲しい
清水 御免なさい。私、無理なんです。だから・・・
日向独白 清水さん、かなり複雑な笑みを浮かべた。涼子、少し首を傾げてる、あの笑みが判断しきれないよう
清水、つぶやくように。
清水 一週間前に、五年付き合っていた人と私、別れました
佐伯 ほな、その人のことを
日向独白 清水さん、尾かに首を横に振った
清水 あいつのこと、憎んでいる、そういう意味ではまだ、あいつに縛られているかもしれないけど。でも無理なのは・・・、理由は・・・、私、あいつとの赤ん坊を降ろしてしまったから、あいつが生むな、赤ん坊なんて邪魔くさいだけだって・・・、言うから、言うから・・・、ううん、なんて言ってもあたしはあたしの大切な子供を殺した、あたしが殺したんだから
日向独白 痛ったた、涼子、俺の手を思いっきり掴んで、歯を食いしばっている
佐伯 俺。清水さん、あなたが入社して以来、ずっと好きだった。そして、いまも好きなんだ。俺には清水さんがどれほどの苦しみを抱いているのか、全てはわからない、どれほど苦しんだのか、ホント売りのところはわからない。でも、でも、俺、好きな人が、俺の知らないところで苦しむのは耐えられません、俺には、清水さんの苦しみを拭う力はないけど、せめて、せめて、自己満足て思うだろうけど、俺、清水さんと一緒に苦しませて欲しい
清水 佐伯さん・・・
日向、小声で。
日向 一件落着ってとこか・・・
水野 ううん、まさしくこれからが始まり
日向 ところで、涼子、一つお願いがあるんだけど、いいかな
水野 ん・・・
日向 手、離してくれる。かなりしびれて来た
水野 あ・・・、ごめん

水野 ありがとうこざいます。七百四十円です
佐伯 はい
レジの音。
水野 また、来てくださいね
日向独白 佐伯、少し緊張した面持ちでうなずく
水野 清水さん。また、来てね。待ってるから。そう、今度、来てくれたときには試食してもらおうかな、最近始めた自慢のタルトがあるんだ
清水 楽しみにしてます。それに私も気になるから
水野 え・・・
清水 御免なさい、さっきの男の人との話、聞いてしまって
水野 はは、そう・・・、そうよね
カウベルの音。ドアが開き、二人、出て行く。
客男 あ、あの・・・
水野 へ・・・
水野、つぶやくように。
日向独白 二人連れのお客さんのこと。すっかり、忘れてた・・・
客男 あの、僕達が言うことじゃないとは思うんだけど。考えてみたら、あの、どうでしょうか
水野 考えるって
客男 あの人との再婚を。もちろん、面識のない、僕達がこんなこと言うのは、本当に失礼だと思うんです。でも
客女 ごめんなさい、さきほどのお話、つい、聞いてしまって
客男 思うんです。本当にあの人、あなたを大切に思っているって
客女 私たちも、若すぎることや仕事のことで、お互いの両親から結婚を反対されています。でも、でも・・・、本当に私たち、お互いを必要としているんです
少し間を置いて。水野、落ち着いた口調で。
水野 本当に失礼な人たち。だけど、・・・嬉しいな。なんか、気持ちがやわらかくなるような気がする。でも、ごめんね。まだ・・・、無理。それに恐くてね。彼を好きになることが、そして・・・、今度好きな人を失ったら、私、もう、生きて行けない・・・、から
日向独白 昔、ほんのちょっと唇を噛むだけで、死を決意しているて表現した女優がいたけど、涼子・・・。一瞬、唇を噛んで俯いた。そして、ゆっくり顔をあげる
水野 でも、ありがとう・・・。なんだか・・・、どう言ったらいいのかな、勇気みたいなものが出て来た・・・。(少し涙声で)ありがとう・・・
客男 僕達もこれから、彼女の家に行きます。認めてもらうために
日向独白 涼子、笑みを浮かべたまま、そっとうなずいた
客男 それじゃ
カウベルの音、ドアが開き、閉まる。
水野、小さく溜息。
水野 ばてた・・・
日向 涼子、良心の呵責に苦しんでへん
水野 それは大丈夫。長い間、良心を箪笥に仕舞いこんで、そのままになってるから。だけど、ちょっと・・・。ね、マスター。アップル・ティー、お願い、少し甘目で
日向 いつのまに、俺、マスターになったんだ。俺の時給、高いよ
そう言いつつ、日向、アップル・ティーを作る。
とんと、涼子の座るテーブルにアップル・ティーを置く音。
日向 どうぞ
水野 ありがと
日向、向かいに座る。水野、飲む。
水野 日向ちゃんって、なんでも、それなりにこなしてしまうね。ちょっと、それって、寂しいな
日向 不器用なほうがええの
水野 ふふ、さあね
日向独白 涼子、そっと視線を落とし、小さく吐息をついた。尾かに覗く表情に、疲れた笑みが浮かぶ
水野 なぁ、一つ聞いていいかな
日向 何を
水野 日向ちゃん。本当は結婚したくないって、思ってるでしょう
日向 俺が・・・
水野 うん
日向 そう、まだ・・・、俺が高校生の頃やったかな、漠然とした結婚観を持っていた
水野 好きな人と、本当に思い合うことのできる人と、できるだけ、同じ時間、同じ場所をを共有したい
日向 そう素直に思えた
水野 いまはどうなの
日向 共有したいと思うものが理解ってものに変わった。それだけ
水野 それで
日向 そう。女性と付き合ってみたいなって思うけど、どうしても結婚したいとは思っていない、本心ってやつ
水野 やっぱりね。日向ちゃんは結婚相手が欲しいのじゃなくて、相棒が欲しいんだ
日向 相棒・・・
水野 そっ。結婚するていうのと、人生の相棒を見つけるって言うのは、傍から見たら、たいしてかわらないけど、内実はまったく違う。もちろん、運の良い人間は結婚から、相棒へとお互いを昇華させて、それこそ理解しあうなんて境地に達するのもいるかもしれないけど
日向 相棒か・・・。そうかもしれない。昔、思った。俺と君、それぞれ、別の路を歩いていても、時として、二人の路が束の間、重なるときもあるでしょう。お互い、理解し得ておったら、疑心暗鬼になることもなく、それぞれの路を歩むことができましょうって
水野 ふふ。これなら日向ちゃんとでも結婚しておったほうが楽だったな
日向 ね、涼子はどうなの。再婚とか
水野 話はあるよ、くさるほど。世の中、美人は得、離婚暦も連れ子も容姿で簡単に補える。バカな男が多いもの
日向 なら、結婚の予定はあるのん
水野 なし。ね、結婚して、なんかいいことあったら教えて。全部、あたしが否定してあげるから。事細かく論理的に例証まであげてね
日向 なんか、さっきの話と百八十度違うみたい
水野 いいじゃない。お付き合いしたい、結婚したいって思ってる人のわざわざ邪魔する必要なんかない。あたしは自分の考えを他人に押しつけるんは嫌いだし、もっとも押しつけられるのはもっと嫌やだけど
日向独白 俯いたままの涼子の表情が手に取るようにわかる。考えてみたら涼子との付き合いも二十三年になる。ほんの小さな子供の頃から、佐伯と三人、大抵、一緒に居た。不思議と気が合って。近くの小川で泳いで遊んだことから、空手の道場へ通うから、付き合えと涼子が言いだして、佐伯と二人、びくびくしながらついて行ったこと。もう子供の頃なんて、思い出せなくなったことが多いのに、不思議と涼子とのことだけは、まるで昨日のことのようによみがえる、そしてどうしようもなく、思い出してしまう。涼子の結婚式。どうして涼子は結婚したんだろう、どうして離婚したんだろう
水野、凍えた声で。
水野 知りたいのなら、訊けばいいのに
日向 涼子・・・
水野 あたしは日向ちゃんの思うことなら、なんでもわかる
日向 なら教えて。涼子の結婚のこと、離婚のこと
水野 そっか・・・、日向ちゃん、そんなこと考えておったんか
日向 へ・・・
水野、少し笑みを浮かべて。
水野 あたしでもわかんないことぐらいあるよ。ね、日向ちゃん、晩御飯まだだよね
日向 あ。う、うん
水野 残りものの材料で悪いけど、ピラフ、作ったげるよ
日向 なら、俺。手伝う
水道の音、包丁の音。二人、ピラフを作りながら。
水野 結婚した理由は簡単。親は女の幸せは結婚だぁって攻め立てるし、親戚はくだんない見合い写真を山にして持って来るし。なんだか、結婚しないことがとてつもなく親不孝みたいな零囲気になってしまったんだ。へんだよね、あたしの両親って、娘に結婚を強要させるほど、素敵な夫婦じゃないのにさ
日向 そんなに涼子、責められてたの。そういうの、なんとなくわかるような気するな
水野 あ・・・、やっぱり
日向 え・・・
水野 日向ちゃんにしても佐伯君にしても、あたしの回りの男ってなんて鈍感ばっかりなんだろう。あたしが、あんなにSOS発信してたのに、ぜんぜん、気づかなかったんだ
日向 ここで、だったら、はっきり結婚したくないって俺に言ったらよかったのにって言ったら、涼子、どうする
水野 次の瞬間、日向ちゃん、あたしの足下にうつ伏せになって倒れていると思う。うちに、腕、逆手に捕られて、うめき声も、確実、あげているな。日向ちゃん、口は災いのもとだよ
日向 そのようだね、気をつけるよ。ね、だけど、ごめん。本当に気づかなかった正直、ごめん
水野 そう、率直に謝られるとあたしも対処に困るのですが。実際、熱心に見合いや結婚を勧める親を見ていて、あたし、思ったんだ、あたしは人間じゃなかったんだ、一個の操り人形でしかなかったんだってや
日向 操り人形・・・
水野 理想の生活を託す、理想の夫婦ってやつを自分たちに見せてくれる操り人形のこと。娘はこうあるべき、こうであるはずって幻想の糸に操られていたでく人形。
それであたし、こう考えた。なんだ、あたし、人間じゃないんだ、ただの人形、なら、死ぬことなんて恐くない、だって、あたし、命のない人形なんだもの、ただ、壊れるだけ、がしゃんとお皿割って、それ、ゴミ箱にやってしまうのと同じ、簡単、簡単。って、あたし、あっさりと手首を切った。ただ、手首を横に切ったんだ、あたし、手首は縦に切らないと死にきれないって知らなかったんだ。まぁ、おかげで、今、こうやって、日向ちゃんと喋れるわけではあるんだけどね
日向 操り人形か・・・
水野 あれ、日向ちゃん、頭から糸がのびてるよ。あ、腕からも
日向 見える・・・
水野 ふふ、落ち込んだな。だけど落ち込むだけでは意味がない、自分の手で弦を引き千切らないと意味はない。まっ、さすがに、日向ちゃんも、その絃、後生大事に握ってるほどのマザコンではない。そのへん、ひょっとしたら、君付けできる可能性もある。ふふ、とりあえず、そんになわけで見合いした男と、ずるずると引きずられて結婚したわけ。ね、そこから、お皿二枚、出して
日向 え、ここ
水野 ううん、そこじゃない。もっと右
日向 ここか、ここかい
水野 ああん、もう少し上
日向 どう、ここかい。ここでいいの
水野 そ・・・。そう。ああん、いい、いいわ
日向 くだんないこと言ってないで、カウンターにお皿置くよ
水野 先に素に戻らぬよう。あたしが変みたいじゃない
日向 だけど、涼子も根は明かるいな
水野 人形じゃないもの、生きているからさ。はは

向かい合ってピラフを食べる。

水野 日向ちゃん。おいしい
日向 うん
日向独白 涼子と向かい合ってピラフを食べる。こうやって涼子と食事するの、何年ぶりだろう。そう、三人で川原でバーベキュしたのが、多分、最後
水野 こんなふうに食べるの、三年ぶりだね。あと佐伯君がいたら、昔に帰ったように思える
日向 昔か・・・
水野 うん、昔のこと・・・。楽しかったな、いつも三人で居たんだ、だから、結婚してなんだか寂しかった、あたしだけが死んでしまったような気がしていた
日向 離婚して・・・
水野 そう、すこしは息もできるようになった気がする。くだんない、別れ方で
日向 聞いたことある、涼子の亭主、一ヶ月、入院したて
水野 力、余ってね。そう、見合いした時だ、あたし、その男に言ったんだ。あたしが見合いをしたのは回りから強制されてで、あたしは結婚する気はまったくないんです。そうはっきりとね
日向 それが、その後の亭主
水野 ふふ、そう。あたしはその時点でにべもなく断わったんだけど、回りからの圧力と男に口説かれて、半分、自棄になってね
日向 考えようによっては相手も災難
水野 ふふ、仕方ないよ、わかってて結婚してくれって言うんだから。ただ、あたし、結婚を承諾する前にこう言ったんだ。あたしは名字を変えないって、あたし、夫婦別姓って考えだからさ
日向 なんか涼子らしいな、って気がする
水野 あたしの中では結婚する、一緒に暮らすってことと、姓が同じになるってことが繋がらなかったからさ。それで、もしもあたしに無断で婚因届けを出したら、即離婚する、そういう約束で結婚した
日向 先に離婚の要件を出しておいたわけか。愛の無い結婚の始まりってやつ。じゃあ、離婚した理由って
水野 やつもさ、こう言ったんだ。同感だよ、僕も思うよ、お互いが愛していれば、理解していれば、姓がどうのこうなんてたいした問題じゃないってね
日向 ちょっと、歯が浮きそうだ
水野 ふふ、それで、一年たったくらいかな、あたし宛てに税金支払いの通知が来た。やつの姓にあたしの名前。びっくりして、役所に確認したら、新婚旅行から帰って、二日目に婚因届けが提出されてた
日向 不言実行・・・ってね
水野 そう。それであいつ、開き直ってお前は俺の言うことをはいはいて、聞いていたらいいんだって喚いて、あたしの頬、一発、平手で打った。で、あたし、頭の線がぷちって切れて、右の拳であいつの顎を思いっきり打ちあげて、降ろす肘でその腹を思いっきり打ち込んでやった。あいつ、うめき声をあげて、ばたっ。で、あいつは優雅に一ヶ月の入院生活。一ヶ月も遊んで暮らせるなんて、うらやましい限り
日向 涼子、自分が空手の師範代ってこと、言ってなかったわけだ
水野 あたしはかよわい女性でございますわ。ほほほ・・・
日向 ははは、なるほどな
水野 日向ちゃん、何がおかしいの
日向 おかしいていうより、なんか、嬉しくてね
水野 何が嬉しいのよ
日向 なんかね
水野 へんなの
日向 な、涼子、まじで明日、奈々子ちゃんと遊園地にでも行こうか
水野 遊園地か・・・。もう、長く行ってないなぁ。だけど、ごめんなさい。あたし、あたし、まだ、亡くなった主人に操をたてていたいんです、あの人があたしの心の中にいてくれている限り・・・
日向 そうか・・・。じゃあ、まっ、仕方ないよね
水野 あ、こいつ。すっと引きやがって。なんて、奴。あたしのおくゆかしさが理解できてないな
日向 ね、辞書ないかな。意味の知りたい言葉があるんだけど
水野、くすぐったそうに笑う。
水野 日向ちゃん、本当にいいんだったら、遊園地に連れて行ってくれないかな。奈々子も保育園の友達が家族で遊園地に行って来たの知って、自分も行きたいってうるさいのよ
日向 では、行きましょうか。そう、お弁当は
水野 それはあたしが用意する。しっかりとお金だけ用意してくれていたら、いいから。あ、日向ちゃん、このごろ太り気味やない
日向 え、そうかな
水野 うん、日向ちゃん、ダイエットしたほうがいいよ。明日から、お昼抜いたら、そしたら痩せる
日向 言ってくれるな。明日は、俺、スポンサーだよ。ジェット・コースターが遠のいて行くよ
水野 はは、それは困る。なら、腕によりかけて、作ってあげるから、楽しみにしていて
日向 本当に涼子は・・・。なんか、思うけど、結婚云々に関しては、確かに情けない俺に問題がある、だけど涼子の所為でもあるんじゃないかな。女性不信やとか、色々と
水野 なんだ、日向ちゃん、今頃気がついたのか。本当、日向ちゃんって鈍感やな
日向 なんだかな、まっ・・・、いいけどね。じゃあ、明日
水野 うん、明日
カウ・ベルの音
水野 あれ。佐伯君、どうしたの
佐伯、空元気を出して。
佐伯 いや・・・。清水さん、送っていて、帰りにちょっと覗いてみようかなって、ははっ
日向 佐伯・・・、まじで。まぁ座れよ
佐伯 あぁ
佐伯座る。
水野 佐伯君、一体、何があったの
佐伯 清水さん、送って行って、家の前で別れた。それだけ
水野 なんかおかしいよ、隠してるな。ひょっとして、清水さん、家に送って行ったら、元彼氏が待っていて、で彼が謝って、彼女は佐伯君にご面なさい・・・、そんな運動会のリレー競争みたいなこと
佐伯、一つ、吐息を漏らして。
佐伯 涼子、冴えてるな
日向 で、素直に帰って来たと・・・
佐伯 彼女。あいつの顔見て、あんな幸せそうに笑みを浮かべられたら、俺・・・
水野、溜め息ついて。
水野 すごすごと帰って来るなんて、あきれてものも言えないけど・・・
水野 よし、佐伯君、あらため佐伯ちゃん、明日は奈々子と四人で遊園地いこう。思いっきり遊び惚けるから佐伯ちゃんも軍資金、しっかりと用意するように。ではここ朝8時集合。おやつは五百円以内
佐伯 おい、急に、そんな・・・
水野 佐伯ちゃんの明日の予定は、全部キャンセル。言うこときかないと、あたしの鉄拳が炸裂するよ
日向 佐伯
佐伯 ん・・・
日向 俺等って、つくづく不幸な星の下に生まれついたみたいだな
佐伯 あぁ、俺もそう思う。だけど、なっ
日向 そうだな
日向・佐伯 まっ・・・、いいか
水野、小さく笑う。

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海の卵

『海の卵』

 

涼子 あたしがあたしに嘘をつく。こんなことはたいして難しいことじゃない。この胸に右手を突き刺し、心臓をほんのひとかけ、摘み出せばいい。
そしてその蠢く心臓のかけらにこう呟くんだ。
・・・ここはあたしの、部屋だ・・・。あたしは、朝、目を覚まして会社に行こうと、している・・・
あぶくの音。

涼子 何気なく川を眺めたままのあたしがいる。どうしたんだろう、あたし・・・

喫茶店のような感じで、瀟洒な音楽。
涼子 あたし・・・。なんだか、最近・・・ううん、別にどうってことないんだけど
男 なんだかな。どうしたんだよ、涼子。そんな難しい顔してさ
涼子 ね、あんたはあたしの幼なじみで、そしてあたし達、今は付き合っているんだよね
男 どうかしたの。ひょっとして健忘症ってやつ
涼子 違うよ、ちょっと確認したかっただけ。なんだか、あたし、変なんだ・・・

涼子 何がどうしたんだと心配するふうもなく、この男、珈琲を啜る。多分、何も考えていないのだろう。この付き合いも、もうおしまいだな
滴が一つ落ちる音。
涼子 まただ・・・、どうしても頭の中からこの音が消えない・・・

喫茶店の音楽が消えて。
涼子 あたしは生きている。これは間違いない・・・、と思う、多分・・・。なんて言うんだろう、なんだか変なんだ。 あたし、本当に生きているのかなって思うんだ。例えば何かを掴む。何でもいい、さっき自動販売機で買った暖かい缶珈琲でもいい。そっと片手で握ってみる。そしてゆっくりと両手で握ってみる。握っているんだけど、握っているんだけど、なんだか、頼りないんだ。見た目よりも軽い、ううん、そんなんじゃない。なんだか柔らかい、違う、そうじゃない。なんだか、持っているはずの缶珈琲が、ほら、ふっと消えてしまいそうで、たまらなく不安なんだ。頼りないんだ。触れるもの全てが本当にあるって気がしないんだ、ほら、何気なくふっと掴んでみたらすっと指先が通り抜けてしまうんじゃないか、そう思えて仕方がないんだ。

仕事が終わって、ロッカー室で女性が着替えている。ロッカーの開く音、着替える音。
女1 ね、最近、彼女、おかしいと思わない
女2 彼女って
女1 ほら、涼子よ。経理課の
女2 そうかなぁ。別にいつもどおりじゃない、目立たない普通の
女1、含み笑い。
女2 なに笑っているのよ
女1 実はね、あたし、見たんだ
女2 ん、何を見たの
女1 実は・・・、ん・・・、やっぱりやめておこう
女2 え、なになに。言いなさいよ。あ、ひょっとして涼子の不倫とか
女1 ううん、そんなんじゃない、だいたい、彼女がそんなのするわけないじゃない。私、ん・・・、まっいいか。昨日、映画を観に行った帰り、喫茶店で涼子を見かけたんだけど
女2 うん
女1 ほんの一瞬だったけど、はっきりと見えたんだ。涼子が、びしょぬれで座っているのを。雨も降っていないのにさ。髪から、滴がぽたぽた、ぽたぽたって。まるで水死体のように
女2 それって幽霊噺じゃない。そんなひどい話、涼子が聞いたら気を悪くするよ。あんたはそういう話が本当に好きなんだから
女2 あれ・・・
女1 え・・・
女2 水・・・、ううん、海の匂いだ・・・。潮風の匂いがする・・・。何処からだろう・・・
滴が一つ落ちる音
涼子、呟くように。
涼子 別にどうってこと・・・、ない。絶対にない。

涼子 若い女が河原の土手に一人座っている。あまりいい格好じゃないな。隣りにあんな男でもいてくれたら、なんだかいい零囲気なんだけど。『どう、寒くないかい。ううん貴方がいてくれるもの』ってね。でも、一人きりじゃどうしようもない。ケープ羽織って小さくうずくまるだけだ

電話で。涼子、深刻な感じで。
涼子 母さん、あたし・・・
母親 どうしたの、涼子。何かあったの
涼子 ううん、別に何もない。ちょっと母さんの声、聴きたくなったんだ
母親 どうしたのよ、何があったの
涼子 ちょっと・・・、懐かしかったから、それだけ。あたし、随分、実家に帰ってないものね。ね、父さんや香織、元気にして いるかな
母親 みんな元気にしているわよ。父さんは相変わらず元気なだけが取り柄の仕事人間だし、香織は、来年、大学受験で頑張って いるし。ね、あなたこそ、一人暮らしで 大丈夫。ちゃんと暖かくしてる。送った冬布団、使ってる
涼子 ・・・うん。暖かくしてる・・・。ね、母さん。あたし、あたし・・・
母親 どうしたの、いいから、話してみなさい
涼子 あたし、帰ってもいいかな。また、一緒に暮してもいいかな。一人暮らしがしたいってあたし、家を出たけど、父さん、怒 るの振り切って家を出たけど、ごめんなさい。寂しくて・・・、辛くて・・・、 もう、一人じゃいられない
母親 ・・・涼子・・・
涼子 ねぇ、母さん、お願い。お父さんにもあたし、あたし、謝るから
母親 ・・・ごめんね、涼子。いま、香織の大学受験で家族も大変なのよ、あの子も浪人で来年が三度目の正直だし。だから、で きるだけあの子の環境を変えたくないの。だから、涼子・・・。香織の受験が終わるまで、あと、もう何ヶ月かじゃない、それまで、ね、お願い、涼子。待っててくれない。・・・あ、あら、お客様かな、じゃ、涼子、元気でね。暖かくしているのよ
電話の切れる音。ツーツーと音だけが残る。
涼子 母さん、お願い・・・
滴が一つ落ちる音。
涼子 母さん。あたしの頭の中が水で一杯になってしまうよう
風の音。缶珈琲の栓を抜く音。
涼子 少しずつあたしから人が遠のいていく。恋人、家族、友人、戸惑いながらも、あたし、何処かでそれは仕方のないことだと 知っている。泣いても喚いても仕方がないことだと受け入れている。もう限界だよとあたしの何処かが呟いているのが聞こえるんだ。
あたし、諦めているのか。そうだ、何に諦めているのかもわからないくせに、あたし、諦めている。

涼子 暖かい・・・
涼子 午後の日差し、夕方にはまだ少し早い。風の涼しさと裏腹に日差しだけが夏を思い出したように少し暖かくなった。ん、向 こうの土手、子供たちが遊んでいる。鬼ごっこかな・・・。追いかける女の子をうまく躱しながら、みんな逃げていく。要領の悪い女の子だ、後で男の子が手を振っているのに、それに気づかない
涼子 そうだ、振り返って。ほら・・・、遅いから逃げられた。なんだか、日差しの中で子供たちの遊ぶ姿、対岸が遠くて声が聞こえない。その所為か、まるで、あたしとは違う世界の出来事のようだ
あたかも、涼子の横にずっといたかのように自然に。
浮浪者 これも一つの風景だ
涼子 浮浪者・・・、橋の下に団ボールで小屋を作って生活している・・・
浮浪者 もうすぐ冬だ。冬の寒さはなかなかにこたえる
涼子 そんなに寒いの
浮浪者 あぁ、風は凌げる。団ボールの殻でな
涼子 団ボールの殻・・・
浮浪者 ああ。だが、水の冷たさだけは違う。ほんの少しの隙間からでも、そいつはひたひたと忍び込んでくる
涼子 そう・・・
浮浪者 お前は知っているか。雨が降り出す前のほんのひととき、遠く海の匂いが辺りに漂うことがある。雨雲が蓄えた海の匂いが辺りに漂いだすのだ
浮浪者 全ての生命は海から生まれた、多分その所為だろう。雨降る前の海の匂いが無性に懐かしい。消え去っていたはずの記憶がふっと脳裏をかすめるのだ
少しずつ、浮浪者の声が小さく なっていく。
浮浪者 人は遠い海の匂いを恐れる。思い出すのが恐くて仕方がないのだ。偽りが剥がれることが恐ろしいのだ
涼子 偽り・・・
涼子 ゆっくりと、滲むように男の姿が薄れていく、その身に橋の欄干を映しだし、空の色と重なり消えていく
涼子 あたしもそう思うよ。人はそんなに強くない
涼子 視線を対岸に戻せば小さな子供たちの遊ぶ姿。泣きべそかいている小さなあたしがいる、ほら、転んだ。早く、立ちなさいな。あたし達の時間はもうそんなに長くはなさそうだ
涼子 子供たちの姿がゆっくりと薄れていく。水彩絵の具を水で溶くように、色が滲み、そして消えていく。どうなんだろう、これは子供たちが消えたのか。それともあたしが子供たちの前から消えたのか。
涼子 思い切って土手に仰向けに寝そべってみる。なんて青い空だ。視界全てが青一色に染まる。午後の日差しがほのかに柔らかい。あぁ、このまま眠っていようか、いつまでも。それとも、ほんの微かでもいい、人の生きる証の音を探して歩こうか

涼子 いつのまにか、人の気配がすべて消えてしまった。視線を巡らす必要もない。あたしはこの世界に唯ひとりきりだ

涼子 ・・・海の・・・、匂いだ。何だろう、懐かしくて仕方のない、海の匂いがする。雨が降ろうとするのだろうか、それともここは・・・、海の中なのか・・・
涼子 思い出してはいけないことが蘇ってくる。あたしがあたしについた嘘が色褪せていく。
涼子 ああ、そうだ。やっと思い出したよ。
あたしは深い海の中、ゆらゆらと漂っているんだ。あたしは記憶という殻に自分を閉じ込めた卵のような存在だ。殻の内側に映る人や風景を眺めながら、あたしは海の中を漂っているのだ。その内、殻は破れ、あたしはあたしが死んで海の底に漂っているのだという事実と向かい合わなければならない。
涼子 青い空を見上げれば、あたしの頭の上だけに空が波打ちだした。ゆらゆらとざわめくさざなみを水の中から眺めている、きらきらと光が乱反射するんだ。
もうすぐあたしが、あたし自身が終わる。さほど、もう長くはこの空を見つづけることはできないだろう。
涼子 でもそれでもいいと思う。見上げた海がこんなに透き通って綺麗なのだから。
なんて・・・、静かなんだ
あぶくの浮き上がる音。

 

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かがみ

オーディオ・ドラマ用シナリオ
かがみ
物部俊之

登場人物


男1
女1
子1
子2
女の子

 


女、一人呟くように。
女 夕暮れ最中(さなか)の公園は子供達のはしゃぐ気配だけが騒がしい
・・・なんだか、にぎやかでいいね・・・


微かに風、葉擦れの音。
女 夕暮れ時、茜色に何もかもが染まりゆくひととき、あたし、高台の、遠く海の見える公園のベンチに一人座っている
懐かしい公園、小さなブランコ、空の色が何もかもを紅く染めて、あたしの手のひらまで紅く染めて、あぁ、吐く息の白さまですっかり紅くなっている
だからかな、遠く、海の向こう、消えていく小さな船の灯りの白さが妙に現実的なんだ。
あの船、何処まで行くんだろう

女、ふっと呟くように。
女 別に理由なんかないんだ、本当に
回想のように。
規則正しく、ブランコのきしむ音。
女 ブランコ・・・、あたしが揺らしているんだ・・・。乗っている子供は誰だ。・・・そうだ、この小さな背中はあたしの子供だ
男一 何が虚しいってんだ、甘えるな。それとも、俺との結婚が失敗だったとでもいいたいのか
女、優しく子供に語りかけるように。
女 ブランコは楽しいかい、身体が揺れると素敵だろう
女一 あなたには愛情というものがないのよ。自分の子供が可愛くないの、厭なの、嫌いなの。何とか言いなさいよ
女、優しく、静かに。
女 母さんが子供の頃、いつも、父さんがブランコ、揺らしてくれてたんだよ
男一 働きたいだと、俺の稼ぎが不満なのか。お前なんかに何が出来るというんだ
女、優しく、静かに。
女 ブランコに乗ってると不思議だろう、なんだか、空を歩いているような気がするんだ
女一 あなたが子供を生むということが間違いだったのよ。あなたはね、母親失格なの、人間失格なのよ
女、優しく、静かに。
女 そうか、そうだったんだ。あたしは母親失格なんだ、だからあたしは母親じゃない、じゃあ、君もいないんだよ、何処にも。君は間違えて生まれて来たんだ、だから、そっと君の首を締めて、君を帰してあげるよ
女、呻くように。
女 嫌だっ
女、荒い息。

いくつもの重なった子供達の笑い声が風に乗ってやってくるような音。
老人(男)登場、ただし、ふっとそこに現れたような、始めからもう居たのだというような感じで。
男 隣り、いい、かね・・・
女、息を整えて。
女 いつの間にだろう、おじいさんが一人、あたしの隣りに座っている。リュックに風呂敷包み、片手には大きな紙袋二つ。俺は全財産持ち歩いてるって人だ
男 あんたも会いに来たのかい、奴らにさ
女 奴らって・・・
男 そうか・・・。お前さんは迷い込んで来た口か。まあ、これも何かの縁(えにし)というやつだろうな
女 迷い込むって、あたし・・・
女 話が見えてこない。でも、おじいさん、一人納得したとでもいうように笑みを浮かべる、そしてゆっくりと背もたれに身体を預けて、目をつぶった
男、一人呟くように。
男 わしのような年寄りになると、なんだかいいもんなんだよ。子供らのはしゃぐ姿を見ているだけでな
女 独り言、それともあたしにそう言ったのか。なんだか、幸せそうな顔、・・・してる
男 わしの顔に何か、ついているのかい
女 あっ、ああ。いいえ
男 そうか。ん、もしも、おまえさん。わしに一目惚れしたのなら、悪いが諦めてくれ。わしは独りが気楽でいいんだ
女、少しくすぐったそうに笑って。
女 あたしも・・・、そう、です・・・
女 茜色に染まるおじいさんの寝顔、なんだか屈託のない子供のようにやわらかで静かだ


男、起きたような、起きていないような。
男 おぉ・・・、来たな
鈴のような音。微かに子供達のざわめき、笑い声。波のようにうねるようにやってくる。基本的に、あまり子供達は存在感のないような感じで。ざわめきや笑いの中から言葉が浮かびだしていくように。きらめく漣のように。
子1 何処まで行くんだい
子2 8年と7ヵ月先
子2 君はどうなんだ
子1 16年も先なんだ。大変だよ
子2 そっか、大変だよね。まっ、楽しんできなよ
子1 うん、そうだね
子2 あれ、あの子は・・・
子1 ううん、いいんだって

女 子供達が幾人も幾人も鏡・・・、鏡を持って公園にやってくる。なんなんだ、これは・・・
男、寝入りそうな声で。
男 朽ちた洗面台からはずしてきた大きな板鏡、母親の目をぬすんで持ちだした赤い小さな手鏡、割れた鏡のかけら。あれは・・・、少しひびの入った車の室内鏡(しつないかがみ)、おやじの車を悪さしたんだな
女 まるで、おじいさん、思い出すような口振りで言い当てていく
無数に鳴る鈴の音と子供達の微かなざわめき。
女 あの子供達は
男 ん・・・、あぁ、・・・だな
男、独り言のように。
男 身体が浮かんでいくようだ、うむ、いい気分だ
女、静かに。
女 鈴の音(ね)と子供達のざわめきがいくつもいくつも重なって、これはきらきら輝く海の漣(さざなみ)だ

女、戸惑いながら呟くように。
女 海の・・・、面(おもて)だ。茜色の空をそのまま映す海の上、ベンチに座ったままのあたしとおじいさんが浮かんでいる
男、静かに。
男 いくのさ、ああしてな
女 おじいさん・・・
女 あ、子供達が茜色の海の上、手に持った鏡を紅く燃える空に向けた
男 歳を取るとな、新しいことが覚えられなくなる。だがな、古い記憶が妙に頭の中に浮かんで来たりするものなんだ。お前さんはまだ思い出せないだろうな
女 思い出す・・・
男 鏡から茜色の光が水のようにこぼれていくだろう
女 あぁ、光が子供達を包んでいく
男、感情を抑えるように。
男 大人達の醜い言葉が子供達の体も心も縛り付けていく。無理だとか、できるはずがない、当たり前じゃないか、そんなつまらない言葉が子供達を殺して行くんだ。
女 おじいさん・・・、泣いているの
男 わしもあんたもそうだ、大人なんて愚かなもんなんだよ、悔いてもどうしようもないのだがな
女 背中をまるめて息をするのをこらえている。おじいさんの背中、これはあたしの父親の背中と同じだ、あたしの、あたしの父さんの懐かしい背中だ。
女、呟くように、自分自身に語りかけるように。
女 ・・・お父さんがブランコに乗ってよ、あたしが押してあげるからさ。・・・父さん・・・
男、呟くように。
男 だがな、そんな言葉を知らない、覚える前の子供達には不可能なんてものはないんだ、ほら、子供が一人、二人、次々と消えて行くだろう
女 あの子たち、何処へ・・・
男、平静を取り戻そうとしながら。
男 ああ、そうか、お前さん、そうだったな・・・。
奴らは光になって鏡の裏側から自分達の未来に行くのさ。ほんの些細な、だが、奴等にとっては切なる思いを込めた悪戯という奴を仕掛けるためにな
女 悪戯・・・
男 奴等は自分達の未来が気がかりで仕方がないらしい
女 自分達の未来・・・
男 どんな人生を過ごすのか、どんな思いで暮らさねばならないか。ふむ
女 そうだ・・・、思い出した、子供の頃から消えない手のひらの傷、これは、これは・・・

ブランコのきしむ音。
女 あれは・・・
女 子供だ、子供が一人、ブランコに乗っている、あの背中は・・・、あたしの、あたしの子供だ。
あぁ、あたしの手が・・・、手だけが、遠く身体から離れていく、そして、あの子の首を、首を・・・
女、静かに。
女 やめて、お願い。もうやめて・・・


女 君は・・・
女 鏡のかけらを持った女の子が一人、あたしの前で微笑んでいた。
女、呼びかけるように。
女 おじいさん・・・
女 どうして・・・。いつの間にか、おじいさんの姿が消えていた
女 女の子、にっと笑みを浮かべるとあたしの横に座る
女 あたしだ、この子。子供の頃のあたしだ。子供のあたし、安心しきってあたしの腕に身体を預けている
女 そっと頭をなでてみる、なんだろう、自分の頭をなでているみたいだ
女 あ、あたしに笑みを浮かべて、空を指さした
女 空・・・。透き通る透明な藤色の空だ
女 そうだよね、なんだか、あたし達の身体も透明になっていきそうだ
女 子供のあたし、ほんの一瞬、淋しそうな笑顔をあたしに向けた
女 ・・・ごめん、ごめんね
女 あたしを見上げたまま、悪戯げにちょっと舌を出す。そしてあたしに鏡のかけらを差しだした。これ・・・、そうか、そうだったよね。公園で父さん、危ないって、よく怒ってたよね
女、静かに
女 はは、そうだったよね

女 あたしと子供のあたし、二人、鏡の両端を持つ
鏡の割れる、澄んだ鋭い音。
女 二つに割れた鏡、子供のあたし、そっと笑みを浮かべ、鏡を向かい合わせる。手のひらの切れた二人の血の色か、それともさっきまでの茜色の光なのか、二つの鏡を紅い光が架け橋のようにして繋げていく
女の子の声。できれば女と同じ声を幼くしてくれると嬉しい。
女の子 約束だよ。・・・ね、あたし

女 月明かり照らす公園のベンチ、あたし、独りで座っている。
そして、あたしの前には笑顔を浮かべた子供が一人。あたしの・・・、子供だ
あたし、ゆっくりとベンチから立ち上がって、手をさしのべる。あたしの傷ついた手が紅く染まった鏡のかけら半分を握っていた
そしてこの子の手にはもう半分の鏡のかけらがある
女、やわらかく。
女 え・・・、うん、いいよ
あたし、半分になった鏡のかけらを渡して、思いっきり、思いっきり抱きしめる
心配かけて・・・、ごめんね

 

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霞は晴れて

「霞は晴れて」
物部俊之

現実。病院の一室、機械の作動音。
母 「はい。これが・・・」
医者 「ええ、グラフのここのところを見てください。これは三日間の彼女の脳波ですが、この大きな波が夢を見ている状態です。ほら、ずっと続いているでしょう」
母 「これって・・・、ずっと。まさか」
医者 「普通は夢を見ている時間、見ていない時間が交互に繰り返されるのですが、彼女の場合、常時、夢を見ています。良い状態ではありませんね、肉体的にも精神的にもかなり衰弱しています」
母、叫ぶように。
母 「か、霞、霞。起きなさい、霞ー」
頬を叩く音。
霞二 「あ、痛てて、叩かないでよ、母さん。心配なのはわかるけど、もっと自分の娘を信用しろっていうの。もう、あのおおぼけ霞、何処、行ったんだろ。さんざん、駆けずりまわさせやがって。あぁ、もう、私、一人だけじゃ夢から目覚められないよ。本当に・・・、私・・・、夢から覚めること・・・。とっ、とにかく。もう一人の私、見つけだして、絶対、現実に帰ってやる」
霞二 「ん・・・。立て看板。城下町入り口・・・。もう。今度は霞の奴」
門番 「こら、何者だ。手形を見せろ」
霞二 「なによ、あんた」
門番 「なんだと。・・・おおっ、これは姫様。これは失礼いたしました、しかし、いったい」
霞二 「ほぉ・・・。お忍び、お忍び。だから、私のこと、誰にも言わないように」
門番 「ははっ。御意にございまする」
霞二 「あいつ、今度はお姫様をやってるのか。まっ、前のよりかはましだな。でも、お姫様ってことは・・・。うーん、あの向こうのお城。よし」

魔術師 「もうお一人の霞様がこの城下町にお入りになられた様子にございます」
霞一 「そう。あいつの行動力なら、そろそろ、ここにもやって来そうね」
魔術師 「私の入手致しました情報によりますと、かの霞様は現実へ戻ろうとなされているご様子」
霞一 「うん、それって問題じゃないの。じゃ、あんな奴は抹殺。あ、だけど、もう一人の私、いなくなったら、私もひょっとして消えてしまったりして。うーん、そうだ、ここに引き連れて、幽閉してしまおう。私って悪役」
霞二 「てゃーっ。男の後頭、蹴とばした」
魔術師 「うおぉー」
霞二、荒い息で。
霞二 「やっと・・・。お初にお目に掛かります、霞様。ご清祥の砌、何よりにございます」
霞一 「あら、ひねくれ霞さん。ありがと、私の魔術師を足蹴にしてくれて」
霞二 「何よ、ひねくれ霞なんて。おおぼけ霞さんには言われたかないわ」
霞一 「おおぼけ・・・。情けない、もう一人の私がこんな品のない人間だなんて」
霞二 「ふん、うるさいわね。さ、霞。現実に帰るよ」
霞一 「何言ってるの、ここ、現実だよ」
霞二 「あん。何処の現実に王子様が竜にタロットで恋を占ってもらってるのよ」
霞一 「いいじゃない。私、タロット占い好きだもん」
霞二 「そうそう、好きだもんね。ついでにその王子様から、あんたへの伝言。僕を捨てないでって。私、こういう奴、身震いするほど嫌いなのに」
霞一 「はは、王子様、元気にしているようだね。白馬に乗った王子様とのラブ・シーン、結構楽しかった」
霞二 「そのあとはあんた、盗賊の首領になったでしょう、私、散々兵隊に追いかけ廻されたんだから」
霞一 「なるほど、じゃ、次は似せ魔道士だね」
霞二 「竜を呼び出すよって、お金取ってとんずらした・・・。私、ここでも散々金返せと追いかけ廻されました」
霞一 「それは、それはご苦労さま」
魔術師 「これは、これは、もう一人の霞様、いきなりでびっくり・・・」
霞一と二、魔術師の言葉を遮って。
霞一と二 「うるさい、静かにして。これは私達の問題なんだから」
魔術師、気圧されて。
魔術師 「は、はぁ・・・」
霞一 「ね、自由に世界を創ることができるんだよ、あんたも好きなように創ればいいのに」
霞二 「あんたねー。私は現実に帰りたいのよ」
霞一 「どうして。好きなように世界、創れるんだよ」
霞二 「私は嫌なの。そういうの。ね、あんた、神様にでもなったつもり」
霞一 「そうだ、霞。二人で神様になろう、世界を私たちで創ろう」
霞二 「そういうのをね、昔から誇大妄想っていうの、知ってる」
霞一 「知っているよ、それくらい。そしてもう一つ知っている。わかるかな、私が実際に世界を創りだすだけの力を持っているっていうこと。ね、霞、思い通りの世界を創ることができるんだよ。夢に描いて来たこと、すべてを実現できるのよ」
霞二 「夢という現実でね。本当の現実では、私たち、病院のベッドに寝ているんだよ」
霞一 「それこそ夢だよ、ね、荘子の蝶の話、知ってるよね。自分は実在しているのか」
霞二 「それともただの夢の住人なのか」
霞一 「私にとってはこの世界こそ、現実。病院のベッドなんて、ただの夢」
霞二 「霞。そんなの、ただの逃げでしかないよ」
霞二、静かに、諭すように。
霞二 「わかるよ、霞。私とあんたは二人で一人。あんたの思い、痛いほど。わかる。私も思うよ、現実なんてちょっとも面白くない、悲しみや苦しみばっかり」
霞一 「そうだよ、ね、霞は本当の現実って言うけど、本当に現実で生きているって言える。息しているだけじゃ生きていることにならないんだよ」
霞二 「わかっているよ、家では勉強しなさい、塾へ行きなさい。そして、学校に行けばいじめで一杯、先生達は君、そんなのいじめのうちに入らないよって、涼しい顔」
霞一 「私はもう嫌なの、そんな世界が。ね、生きるっていうのは本当は楽しくて、ずっと素敵なものじゃないの」
霞二 「元は一人の霞、私もそう思うよ。でも」
霞一 「確かにベッドで寝ている私、衰弱死でもしたら、私もあんたも、何もかもが消えてしまうでしょうね。でも、あんたの云う現実で齢取って死ぬまでの時間と、ほんの数日かもしれない、でも楽しく精一杯生きていく時間とどっちが本当に生きていると思う」
霞二 「それは・・・」
霞一 「私は現実に生きたいの、私の創った、精一杯生きていけるこの現実にね」
霞二 「私、あんたに言い返す言葉、持ってない。でも、でも、悔しいのよ。逃げるのが嫌なの。ね、霞、夢を夢の中で創らずに、現実を、嫌な現実だけど、その現実の中に夢を創っていこうよ。嫌なこと、辛いこと、一杯ある、なら現実の中でそれを一つ一つ乗り越えて行こう。今のままじゃ逃げているだけだよ」
霞一 「・・・わかってるよ、それくらいのこと。頭の出来は同じなんだから・・・」
霞一、呟くように。
霞一「聞こえてるのよ、私にも。母さんの呼ぶ声が」
霞一、叫ぶ。
霞一 「魔術師、いるか」
魔術師、呟きから始まって。
魔術師 「だから嫌なんだ、最近の娘ときたら。昔はもっと、清純で大和なでしこのような・・・。え・・・、ははっ、控えてございます」
霞一 「何、ぶつぶつ言っているのよ。私、現実に帰ります。夢はこれにて終わり」
魔術師 「それは無理にございます。この夢は貴女方の創った夢ではなく、私の創った悪夢にございますから」
霞一 「なに、どういうこと」
魔術師 「やっと悪夢らしくなってきた夢にございます。もっと育てて、賞味させていただきとうございます」
霞一 「いったい、何を言っているのよ」
霞二 「悪夢を食べる。まさか、獏」
魔術師 「はっ、その通り私は悪夢を食する獏にございます。今までは悪夢を探し、旅してまいりましたが、考えてみますに、悪夢を創り、育てていくほうが、探す手間も省けます。それで今回、このような夢を演出させていただきました、それでは」
魔術師、微かに笑うように。
魔術師 「素敵な悪夢をご堪能くださいませ、二人の姫様」
霞一と二 「消えた・・・」
霞一 「誰か、誰かいないか」
霞二 「窓から、外を眺めてみる。町を行き交う人、人形のように止まったまま。あ、鳥、宙に浮いたまま停止している」
霞一 「じゃ、私たち、夢に閉じ込められたってこと」
霞二 「そのようね。いったい、どうしたら・・・。ん、なんだか、寒くない」
霞一 「そういえば急に寒くなって来た」
二人近づいて。
霞二 「大丈夫だよ、霞、私が抱いててあげるから」
霞一 「あ・・・、霞」
霞二 「ね・・・。霞はわかっているよね、私の気持ち」
霞一 「え・・・。あ、あ、う、うん」
霞二 「じゃ、目をつぶって」
霞一 「目を・・・」
霞二 「そう。安心しなさいな。私達、二人で一人の霞じゃない」
霞一 「う、うん。じゃ、目をつぶる」
霞二 「キスしてあげる」
亀裂、響くような金属音。
霞一、微かなうめき。漏れる吐息。
霞一 「か、霞・・・。どうして・・・」
霞二 「私、自分のこと愛しているもの。だから、霞のこと、好き。ね、霞は私のこと、嫌い・・・」
霞一 「そ、そんなことない・・・。でも、急に・・・、だから」
霞二 「私、二人っきりだなと感じたとき、自分の気持ちに気づいたんだ。本当に霞のこと、大切に思っていたんだって。そして、愛している」
霞一 「私、私・・・」
霞二 「この世界、私達二人っきりなんだよ、誰の目もない、私達だけ。正直になろう」
霞一 「う、うん。私も霞、愛している」
霞二 「じゃ、お礼言わなきゃ。ね、一緒に言おう、いい」
霞一 「う、うん」
霞一と二、声をあわせて大きく。
霞一と二 「獏さん。幸せな幸せな夢をありがとう」
男のうめき声、ガラスの割れる音。
霞二 「よおし、やった。あいつ、悪夢じゃなくなってお腹こわしたんだ」
霞一 「え・・・、じゃ、霞、今の・・・。お芝居」
霞二 「霞。まさか・・・、本当に」
霞一 「まっ、まさか。ちゃんとわかってたよ。本当、本当なんだから。あれ、霞、雨降って来た」
霞二 「本当、晴れているのに」
霞一 「ね、この雨、青い色してる、空の色みたい・・・」
病院の一室、医療機械の作動音。
霞二 「何とか現実に帰れたみたいだね」
霞一 「そうだね、あ、念のために頬をつねってみよ」
霞一と二 「痛っ」
霞一と二、少し笑って。
霞一 「ね・・・」
霞二 「ん・・・、何」
霞一 「ごめん、本当にごめんなさい」
霞二 「え・・・」
霞一 「今更、何いってんのよって思うだろうけど、反省・・・、してる」
霞二 「いいよ、もう、それに私も」
霞一 「え・・・」
霞二 「ちょっとうらやましかったんだ」
霞一 「私が・・・」
霞二、少し笑って。それから急にびっくりしたように。
霞二 「・・・あ、ここ、現実だよね」
霞一 「うん」
霞二 「だったら、なんで私たち二人いるのよ」
霞一 「きゃっは、嬉し。私達、いつも一緒」
霞二 「もう、しがみつかないでよ」
霞一 「よし、こうなったら仕方ない」
霞二 「え。なんかいい方法・・・」
霞一 「一卵性美人姉妹のアイドル誕生。私達、一緒に頂点を目指すのよ」
霞二 「なに気楽なこと言ってのよ」
霞一 「はは、ごめん。でも、いったい・・・」
霞二 「まさか、まだ夢の中ってこと」
霞一 「ても、頬、痛かった」
遠くから、一人の足音が伝わって来る。
霞一 「あ、足音」
霞二 「ね、私の考えてることわかる」
霞一 「もちろん」
霞二 「本当にわかっているんでしょうね。もし、奴だったら、今度は波瀾万丈の冒険活劇が始まるんだよ。いいね」
霞一 「うん。なんか面白くなってきた」
霞二 「まっ、ね。・・・せいのぉで」
病室のドアが開く、それと同時に。霞一と二、二人で声を合わせて、元気良く。そして、少し攻撃的に。
霞一と二 「ただいま、お母さん」

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色あせた教室


『色あせた教室』
物部俊之

舞台は闇、千尋1、舞台中央、手首に剃刀を当てて。
千尋1 ぽたっ、ぽたっ・・・、手首から赤い血が零れ出して、ぽたっ、ぽたっ、手のひらの水脈を突き抜ける、ぽたっ、ぽたっ、小指を伝い、紡ぐ赤い絃のように、ぽたっ、ぽたっ、私の血、どこまでも流れて行く。あぁ、小指が温かい。・・・流れる血が温かいこと、いま、初めて知ったよ
千尋1 ぽたっ、ぽたっ、いつの間にか私の温かい血が、ぽたっ、ぽたっ、ほら、私の足元に溜まってく
千尋1 ね、私って何なんだろう、こうして立っている私と、そして足元の温かい血溜まり、そうだ、この温かい血も、私なんじゃないかな
千尋1 あぁ、私、が二人になる。温かみのなくなってしまったあたしと、温かみだけのあたし。もう、誰も、誰も信じられないと思ったけど・・・、もう一人のあたしなら、信じること、できるかも・・・、知れない
千尋1、呼びかけるように。
千尋1 ね、もう一人のあたし、君のこと、信じていいかな
千尋2か現われる。
千尋2 いいよ、信じてくれて
舞台明転。
季節は冬、新設校、教室の中。ただし、古いダルマストーブがある。ほぼ、中央の机の上には小さな竹が生えている。古びた柱時計、六時三十分を示している。
はり紙、よく見えるように。
(1996年度第一回PTA分会 いじめ撲滅週間を迎えるにあたって)
林、外から教室のドアを開けようとするが、なかなか開かない。
林 もう、立て付け悪いんだから。予算がどうだこうだで、新しい学校はこういうとこ、ケチるのよね
林、やっと教室に入る。
千尋1 げ、母さん。そういえば昨日の晩、電話で
千尋2 母さん、なにしに来たんだ
千尋1、はり紙を指差して。
千尋1 あれ・・・
千尋2 あ・・・
以降、千尋二人は母親に自分達の存在を知られるまで、できるだけ母親を無視、そして避け続けようとする。
林 一番乗りか・・・
教室の時計を見て。
林 確か昨日の電話で六時半って言ってた。今・・・、なに、古臭い柱時計、これ、動くんでしょうね。ん、六時半、少し済んだとこか。それにしても、誰も来ていないなんて、いじめの問題、どう考えているんだろ
田中(男)、慌てたように入って来る。
田中 これはこれは、遅れて申し訳ない。いやぁ、仕事の都合がつきませんで。おや、まだ、お一人だけですか
林 ええ。ご覧の通りですわ
田中 ということはまだ始まっていない
林 私、一人ですから
田中 それは良かった、いや、急にお客さんから電話がかかって来ましてな、さぁ、車に乗って出かけようとしたところで
林、あきれたように顔を反らす。
千尋2 1組の田中の父親だ、あれ
千尋1 田中京子、かつ上げしてる奴よね
千尋2 そう、成績優秀の学級委員長様
田中 いつもこういうのは家内ばかりにいかせているのですが、今日はちょっと家内の奴、電話の声が不気味だなどと云いだしまして、で、私が・・・。ほぉ、1996年度第一回PTA分会いじめ撲滅週間を迎えるにあたって。なるほど、この学校にもいじめなんてものあるんですかな
林 さぁ、どうでしょうね
吉田、教室に入って来る。
吉田 すいません、遅れまして・・・。あら、まだ、お二人
林 あら、吉田さん。どうぞ、ストーブの横にいらっしゃいな
千尋1 千尋、何処かで見たこと・・・
千尋2 えっとね・・・
千尋1と2 孝男の母親。げーっ
千尋2 二日前、孝男の奴に殴られた。先生の前ではおとなしいくせに。ほらほら、頭の上、まだこぶが出来てんだから
千尋1 見せなくていいよ、あたしにもあるんだから
千尋2 あ・・・、そうか
吉田、林の近くで。
吉田 寒くなりましたね、ほら、窓。雪が降りだしましたわ
林、窓を見て。
林 ほんと、積もらなきゃいいけど
田中 大丈夫でしょう。なんだったら、私、車ですから、帰り送ってあげますよ
中村、飛び込んで来る。爽やかな感じで。
中村 遅れて申し訳ありません。はは、思ったよりテストの採点に手間取ってしまいまして。おや、まだ、三人ですか・・・
林 あら、中村先生。まだ、三人って・・・。いったい今日は何人の父兄が集まる予定ですの
中村 ああ、これは、林さん。いや、それは・・・
吉田 ご存知ないの
中村 はは、お恥ずかしい話、私の机、書類で一杯でして
吉田 そんなことをお聞きしているんじゃありません
中村 いや・・・。あれ、確かポケットに・・・、何処行ったんだろう。メモが下敷きになってましてね、書類の下に。確か・・・、六時半にこの教室へと・・・。ん、職員室に忘れて来たかな
千尋1 あれ、中村先生だ
千尋2 うん。一番の暴力教師で、運動おたくの。ね、千尋、中村先生どうしてPTAの会に来てんだろう
千尋1 そう・・・、どうしてかな
中村 まっ、いいか。ん、1996年度第一回PTA分会いじめ撲滅週間を迎えるにあたってか・・・。確かPTAというと、会長は三島さんでしたっけ
吉田 ええ
中村 三島さんはお見えになるんですか
吉田 さぁ・・・。私、電話で呼び出されただけですから
林 あら、私もなんですよ。それも昨日の晩に。だから、もう、大変、お兄ちゃんの晩ご飯の用意もしなきゃならないし、千尋ちゃんも塾に送り出さなきゃならないし
中村 ひょっとしてそちらの方も
田中 確かに、電話で。女房が取った電話なので、時間はわかりませんが
中村 なんだか妙ですね。いったい、どうしたんだろう。あ・・・、考えてみたら、この教室を使用するってカード、黒板には貼ってなかったような気がする
田中 じゃ、このはり紙、1996年度第一回PTA分会いじめ撲滅週間を迎えるにあたってっていうの、一体誰が貼ったんでしょうな
林 私が最初にこの教室に入ったときにはもう貼ってありましたわ
千尋1 なんか、変
千尋2 何が
千尋1 母さん達のこと
千尋2 そういえば。ね、確かあたし達が来たときにはもう、はり紙貼ってあったよね
千尋1 何か、陰謀のにおい
千尋2 陰謀といえば、やっぱり事件。それも殺人事件。よし、母さん達、一人ずつ殺して行こう。母さんは最後にしてあげて
千尋1 あのね。クリスティーの『そして誰もいなくなった』じゃあるまいし
千尋2 あ、それいい
千尋1 母さん達、知り合いだよ。設定に無理がある
千尋2 なら。そうだ、千尋。こうするの
千尋2、田中の近くにより、後から首を締める。
田中 うぉぉぉっ
中村 ど、どうしました
田中 首が、首が
林 喉、なにか詰まったんですか
田中 ち、ち、違う。首が、首が締まって・・・
吉田 よ、横になってください
林 気持ちを楽にして。すぐに救急車を呼びますから
千尋2、一段と力を入れる。
田中 ううっ
千尋1 そ、こ、ま、で
千尋2、手を放す。
千尋2 ここからが面白くなるのに
千尋1 考えてる。もしも、この人死んだら、あたし達と同じになるんだよ
千尋2 あ、そうか。そしたら・・・。立場、一緒になってしまうんだ
千尋1 そう。反対に首を締められかねない
田中、せき込みながら。
田中 いや、申し訳ない。急に首が締められたように苦しくなって
林 大丈夫ですか
田中 いや、もう。・・・大丈夫です。ご心配お掛けしまして
千尋2 そうだ、いいこと思いついた。にくったらしい奴の首締めツアーに行こう
千尋1 孝男達の首、締めに行くのね
千尋2 そう、死なない程度にね
千尋1 はは、なんか面白そう。よし、行こう
千尋1と2、教室を駆け出して行く。ふっと、千尋2、立ち止まり。にっと笑みを浮かべて。
千尋2 ドアはちゃんと締めなきゃね。あたし、いい子だもん
ゆっくりと、ドアを閉める。
林、悲鳴。
吉田 どう、どうしたの
林 ドアが、ドアが
田中 ドア・・・
中村 あれっ、俺、ドア、閉めたかな
林 今、勝手にドアが閉まったんです。するするっと、するするっと
田中 まさか、自動ドアじゃあるまいし
林 でも、でも。確かにドアが、ドアが閉まったんです
吉田 そう言えば、私、女の子の笑い声が聞こえたような
田中 妙なこと、言いださないでくださいよ
中村 ふむ。閉めたといえば、閉めたような
田中 ど、どうなんです
中村 ・・・忘れました。はは、申し訳ない
中村、急に思いだしたように。
中村 そうだ
田中 は、はい。どうでした
中村 貰いものですけど、職員室においしい羊羮があるんですよ。お茶も用意しますし、ちょっと
中村、ドアの近くへ。
林 先生、私達を置いて、逃げるんですか
中村 へ・・・。どういうことです
林 あ、いえ・・・
中村 あ・・・、ドアが勝手に・・・、それに女の子の声・・・。まさか。幽霊だとか信じているんですか。はは、困ったな、子供じゃあるまいし。まぁ、安心してください、すぐに戻って来ますから
中村、ドアを開けると同時に、大声を上げる。
中村 うわぁぁっ
中村、二歩、三歩、後退りをするのに合わせて、榊(男)が、少し不気味に教室に入って来る。榊、後ろ手にドアを閉める。
榊 あのう、こちらですよね
中村 は、はい
榊 PTAの・・・、会は
中村 そ、そうですが
榊、ほっと溜め息をついて。
榊 いや、私は生まれつきの方向音痴でして、職員室で階段上ぼっての突き当たりの教室って聞いたのですが、最初開けたドアは、がらんとして誰もいないし、その隣の教室のドアを開けてみたら、これが部活が終わったかなにかで、着替えていたんでしょうな、女の子達がパン一で、いや、良い目の保養をさせていただきました。まっ、欲を言えば、あと十年くらい、成長した後の女の子なら、もっと良かったのですが
林 いったい、何をおっしゃっているんです。不謹慎ですわよ
榊 いや、これは申し訳ない。ところで・・・
吉田 ええ、まだ、始まっていません
榊 いけませんな、それは。このいじめ問題が取りざたされている昨今。我々大人も、しっかりといじめ問題に対峙しなければなりません
田中 とにかく座ってください。ちょっと、私達、疲れてましてね
榊 ほぉ、何かあったんですか
田中 いいえ、得には何もないんですけどね
林と吉田、うなずく。榊、椅子に腰掛けて、手持ち無沙汰に。
榊 しかし、まぁ、懐かしいものですな、教室というのも。私は出来が良くなかったから、よく先生に殴られましたが
中村 昔はね
榊 え、今は違うんですか
中村 僕なんか、一度も生徒を殴ったことないですよ。殴ってなんかみてご覧なさい、すぐに親が押しかけて・・・。いや、まぁ、暴力では何も解決しませんからね
林 そうですわよね、何事も話し合いで解決するべきですし、また、解決できるものなんですわ
吉田 そうそう。大切なのはお互いを思いやり理解することです
林 ええ、テレビや新聞なんかでは、よくいじめの問題を取り上げていますけど、あれって本当に特殊なことなんですよ
吉田 だからこそ、ニュースになるわけなんですわ。これは珍しい話だって
林 大切なのは思いやりの心、本当、それだけなんです。それだけあれば充分。そうは思われません
田中 ま、もちろん、そうでしょうが。私など、子供の頃、先生に殴られて廊下に立たされたことも、今では懐かしい思い出ですよ
林 あら。それがいけませんのよ、ね、先生
中村 そうですね。なんて言えばいいのかな。ん・・・、昔の良き時代、昔と今とでは時代も環境も全く違うんですよ。だから、価値観もそれに応じて変化させていきませんとね
田中 いくら違うって言っても、そんなには、かわらないでしょう。私の娘など、親の私が云うのも何ですが、真面目な娘でして、テレビなんぞでやっているいじめのドラマ、こんなの本当にあるのかなって、娘を見ていると疑いたくなりますよ
吉田 それは、わかりますわ。うちの孝男にしても、いつも元気に『行ってきまーす』って楽しそうに学校に行く子なんですよ、本当に微笑ましいというか
千尋二人、どたどたと入って来る。
千尋1 いったい、どういうこと。学校から出られない
千尋2 門から出ようとしたら、何かに引き戻されるし
千尋1 塀を乗り越えようとしたら、何かに顔ぶつけるし
千尋2 結界だ、これは
千尋1 結界って。それ、オカルトの見過ぎだよ
千尋2 でも、それしか考えられないよ
千尋1 じゃあ、こういうこと。何処かにお札が張ってあって、それが邪魔して出られない
千尋2 そうそう。よし、お札探しに行こう。見つけたら、それ、はがして
千尋1 もし、そうだとして、はがせられると思う。あたし達、幽霊だよ。去年の夏、見た深夜テレビの『牡丹燈篭』
千尋2 あ・・・。自分では、はがせられないから、男にとりついて、その男に無理矢理、お札をはがさせたんだ
千尋1 つまり、協力者がいるってこと
千尋2 うーん。そうだ、とにかく、こいつで試してみよう
千尋2、中村の腕を取り、舞台中央へ。
中村 あ、あ・・・。躯が勝手にー
千尋2と中村、舞台正面に並んで立つ。
千尋2、自分の右の頬を引っ張ってみる。そして、中村を覗く。中村、無反応。千尋2、少し首を傾げて、もう一度。今度は中村も同じように頬を引っ張る。以降、ラジオ体操など、中村、千尋2と同じ動きをする。
千尋2、大きくうなずくと同時に、中村の動きが止まる。
千尋2 大丈夫、上手くいく
千尋1 じゃ、お札はがし、始め
千尋2 行け、中村
中村 は・・・、はい
中村を先頭に千尋2、千尋1とドアに向かって駆け出す。中村、ドアを開けようとするが、開かない。
千尋1と千尋2もドアを開けようとしたが、全く開かない。
田中 ・・・先生、先生。いったい・・・、どうなさったんですか
中村 か、躯が勝手に、勝手に動くんです。誰か、誰か止めてください
千尋1 まじで開かない
千尋2 さっきは簡単に開いたのに
千尋1 変だ、これ。開かないなんてもんじゃない。まるで、壁に描いたドアの模様みたい、ぜんぜん、動こうとしない。千尋、壁抜けするよ
千尋2 うん
中村、弾き飛ばされたように後ろに下がる。
林 だ、大丈夫ですか。先生
中村 は、はぁ・・・
吉田 ちょっと休まれたほうが

千尋1 心をゆっくりにして・・・
千尋2 心をゆっくりにして
千尋1 壁に右の手のひらをつける・・・
千尋2 手のひらをつける
千尋1 あたし小さい、あたし小さい・・・
千尋2 あたし、小さい
千尋1 壁の分子のすき間を通り抜けて・・・
千尋2 すき間を通り抜けて
千尋二人、大声で。
千尋1と2 行こう、この壁の向こうに
千尋1と2、ぐっと躯を前に乗り出し、逆に弾き飛ばされる。
千尋1 まさか・・・。閉じ込められた、この教室に・・・
千尋2 まじ・・・、これ

中村 変です。とにかくこの教室から出ましょう
田中 そ、そうですな
榊と、千尋二人を除いて、全員ドアに近寄り、何とか開けようとするが開かない。
林 窓、窓はどうです
田中 窓。そうですな
田中と林、窓を開けようとするが、窓も開かない。
田中 先生。窓を壊してもよろしいですな。弁償くらい、いくらでもしますから
中村 は、はい
田中 では、この机で
田中、窓に投げ込もうと、机を持ち上げようとするが、机も全く動かない。
吉田 手伝いますわ
田中と吉田、一緒に机を持ち上げようとするが、机は地面に張り付いたように動かない。林、今度は椅子を動かそうとするが、それも動かない。
林 どうして動かないのよ。さっきまで簡単に動いていたのに
千尋1 ね、おかしいよ。机や椅子まで動かないなんて
千尋2 ああ。あの人・・・
千尋2、榊を指差す。
千尋1 しっかり、落ち着いてる、一人だけ
榊 皆さん。まぁ、落ち着きましょう、慌てても仕方がない
田中 なに気楽なこと、言っているんです。あんたはこの事態の大変さがわからんのですか
榊 そうですな・・・。何が起こっているのかぐらいはわかりますが、まぁ、たいして困った事態でもありませんし。いいんじゃないですか
林 わかっているんですか。ここから、出られないんですよ
榊 まぁ。大変といえば大変かも知れませんが、ふむ、外は寒いのに、この部屋はストーブもあって、暖かい。たまに地下街を歩くと、こう、段ボールを敷いて寝転がっている人がいるでしょう、そんなのに比べたら、もうこの教室は別天地ですよ
榊、欠伸をかみころす。
吉田 何を考えているの、この人は
榊 おや、竹がまた少し伸びたようですな。ここの養分はなかなか質が良い
千尋1 ね。ほんの少しだけど机の竹、成長していない
千尋2 そう・・・、いえば・・・
吉田 竹って・・・
吉田、竹の生えている机によって、竹をまじかからのぞき込む。
吉田 生えてる、この竹、生えてる。先生、この竹、机から生えていますわ
中村、机に近づき。
中村 ま、まさか・・・。これは
田中と林も机に近づき。
田中 確かに・・・、机の上から竹が・・・、生えている
中村、榊に向かって。
中村 いったい、何がどうなっているんです
榊 簡単なことです。この教室に竹が根づいたんですよ。ドアや窓や机に椅子、この教室、全てに竹の根がまわっておるんです。ちょっとやそっとでは、机も動きませんな
中村 竹が・・・、竹が根づいた・・・
少し、零囲気を変えて。
榊 昔、竹は小さな草だった。それが今のように大きくなったのは
千尋二人、何かにとりつかれたように。それを、榊、少し驚いたように。
千尋1 草だった竹が樹木に憧れたから
千尋2 木のように大きくなりたい、長く生きてみたい
千尋1と2 春が一度だけなのかどうか、知りたい・・・・
千尋1 願い、焦がれ
榊 少しずつ、少しずつ竹は大きくなった、少しずつ、少しずつ、竹は長く生きられるようになった、本当に幸福だった。だが、長く生きることができるようになって、竹は何処かに一抹の不安と寂しさを抱くようになってまっていた
千尋1 本当に己は生きてきたのか、いま、ふわっと現れただけではないのか
千尋2 何が己の生きて来たことをあかしてくれよう、他の誰でもない己自身に
榊 そう、樹木には年輪がある。年輪が他の誰でもない、己自身に己が生きて来たことを示してくれる
千尋1 だけど・・・
榊 竹は無理に大きくなったため、その内を空洞としてしまった。その空洞がどれほど、大きくても空洞には年輪を描く余地はない。それに気づいてからというもの、竹は・・・、竹は鉛雨の降る日には、俯くようになってしまった
千尋1 俯く、俯く・・・
千尋2 ・・・これは・・・
榊 俯いた拍子に見つけたものは落ちて朽ちかけた記憶の破片だった。通り過ぎる人間達の・・・
千尋1 ・・・思い出したいことが思い出せないのは、記憶を落としてしまったから・・・
千尋2 竹はその記憶の破片を地層の如く、拾っては節と節との間に重ね続けた
千尋1 ため続けた記憶の地層で竹は己が生きた証を己自身に示すことが出来る、そう考えたんだ
千尋1と2 そして重ねられた記憶の破片が時の流れと共に化石に変わる。竹は無精繁殖で無限の時の流れを越え続ける。記憶の化石をその身に抱きながら
千尋1 ・・・これが竹の年輪です・・・
千尋1と2 ・・・月の出る晩、風のない晩、静かな心で竹林を歩くと、鈴の鳴るような声が聞こえてきます。竹の中で歌う声。幽幻の吟遊詩人のように、ひそやかに、秘めやかに。化石となった記憶達、その思いはいかほどか・・・
榊、きっぱりと。
榊 誰が大切な思い出を落とすものか。竹は落とされた記憶を拾ってため込んでいたんじゃない。忘れてしまいたいと捨てられてしまった記憶をため続けているんだよ
中村、竹を掴む。
中村 こんな竹、引っこ抜いてやる
中村、竹を引き抜き、打ち捨てる。
中村 よし、出ましょう
榊 無駄ですよ。そんなのは、ほんの一部分でしかありません
中村 あんた、いったい何者なんだ
田中 ここの生徒の保護者じゃないだろう
榊 はい。違います。もっとも、私、保護者だと名乗った記憶はありませんがな
中村 俺が教室を逃げだ・・・、いや、私が出ようとしたとき、あんた、まるで何もないところから、ふわっと目の前に現われた・・・
榊 目がお悪いようで。ひょっとしてコンタクトでも落とされましたか。皆さん、動かないでくださいよ、今、コンタクト、探していますから
林 ふざけないでください。あなた、いったい、誰なんですか
榊 誰でしょう。ただ、申しておきますが、ドアが開かぬのも、窓が開かぬのも、私が原因ではありませんよ。あえて原因があるとすれば、それはあんたがた自身ですよ
千尋1 あのおじさん。性格は曲がっているけど、悪い人じゃない・・・、と思う
榊、気楽に。
榊 お嬢さん。どんなまっすぐな人間でも、一千年も生きていると、少しぐらい性格も曲がりますよ
千尋1 え・・・、あたしのこと
吉田 教えてください。いったい、何がどうなっているんです
榊 ドアが開かなくなっています
吉田 そうじゃなくて
林 開かなくなった理由です
榊 竹の根が教室中に根付いてしまったから、開かないわけでして。つまりはこう、柱とドアを竹の根っ子が釘で打ち付けたようにですな
田中 聞きたいのは、どうやったら、ここから出られるかってことなんだ
榊 あぁ、なるほど。そうならそうと言ってくださればいいのに
榊、立ち上がり教室をあちらこちらと見て廻る。
榊 こんなに早く繁殖してしまうとは。ここ数年、成長が激しいとは思っていたが。凄いものだな
榊、歩き回り、不意に千尋二人の前で立ち止まり、ポケットから飴を取りだした。
榊 お嬢さん達、飴をあげよう
千尋2 あ、ありがとう
千尋1 どうも
榊 さて、皆さんにはっきり申し上げましょう
吉田 はい
榊 私の手には負えません、あしからず
田中 どういうことだ
榊 予想していたよりも、かなり根がはっておりましてな、とても私のかぼそい腕では切れません
榊、座っていた椅子に腰を降ろして。
榊 ま、なるようになるでしょう。私は日頃の行ないがいいですからな
榊、一人で笑う。

田中 とにかく、私達だけでもこの教室を脱出することを考えましょう
林 そうですわね、でもいったいどうしたら
中村 まず、準備です
吉田 準備・・・
中村 ええ。まずは机の中や、ロッカーの中から、なんでもいいです、そこにあるものをこの机に積み上げましょう
林 そうですわね
田中、中村、吉田、林、机の中やロッカーを引っ掻き廻して、中にあったものを一つの机に積み上げて行く。
(ナイロン袋に入ったパン2枚、マーガリン一かけ、子供用の小さな鋏、細身のカッターナイフ、色画用紙、チョーク3本、鉛筆1本、社会科の教科書1冊)
田中 給食のパン二枚。それからマーガリン
中村 非常食には心許ないですね
林 小さな鋏、それにカッターナイフ
中村 カッターナイフか・・・
吉田 赤色の画用紙に、チョークと鉛筆
中村 それと、社会科の教科書、これはどうしようもないな。よし、これだけですね
田中 あとはまるめた鼻かみ、何枚かの紙切れだけです
林 どうします、これで
吉田 そうだ、このカッターナイフでドアを・・・
林 ドアよりは廊下の窓の方がいいですわ、とにかく、人ひとりが何とか出られるだけの大きささえ確保できたら
田中 そうですな、順番に出られます
中村 待ってください。もっと他の方法も考えるべきです
田中 確かに・・・。こんな紙を切る程度のカッターナイフで窓枠のゴムを切り取ってガラスの外すのは難しいかもしれない
林 じゃあ、どうすればいいんです
中村 落ち着いてください。学校は宿直の教師が一晩に二回廻ることになっています。一回目は七時です。ですから、その時に、私達が出られなくなっていると伝えることができたら
吉田 わかりましたわ、もしも、声が届かないことを考えて
林 紙にメッセージを
中村 そうです
田中 時間は・・・
田中、驚いて、壁の時計を指差す。
田中 時間が経っていない
林 六時三十分、ま、まさか、時間が経っていない
吉田 そ、そんな
中村 落ち着いてください、時計が動かないから時間が経っていないなんてわけがないでしょう。電池が切れて・・・
中村、慌てて時計のそばまで行く。
中村 どうしてこんな古臭い柱時計が掛かっているんだ。いたずらか・・・
林 あ、あの・・・
中村 え・・・
林 最初、この教室、何か妙だと思ったんですけど、ここ、新設校ですわよね
中村 ええ、二年目です
林 じゃ、このストーブって。何かの意味があって・・・
中村 は・・・
中村、始めて気がついたように、まじまじとダルマストーブに魅入る。
中村、うめくように。
中村 ダルマ式・・・、セントラルヒーティング、そんなわけあるか・・・
田中 とにかく、先生。今、できる最良のことをやりましょう
中村 わ、わかりました
四人、頭を突き合わせて、画用紙にメッセージを書き出す。
千尋二人、あぶなっかしいものに近づくように、榊の近くに寄る。
千尋2 おじさん、あたし達、見えているんだよね
千尋1 声、聞こえているんでしょう
榊、空々しく、あたりを見回して、それからふっと千尋二人に笑いかけ、手招きする。
榊 良く見えているし、聞こえてもいるよ。しかし双子の幽霊とは珍しい
千尋1 双子じゃありません
榊、二人をのぞき込むようにして。
榊 元は一人か・・・、長く生きてきたが、こんなのは初めてだ
千尋1 おじさんは誰
千尋2 幽霊、妖怪、それとも宇宙人
榊、くすぐったそうに笑う。
榊 どういう答えをお求めかな
千尋1 え・・・
榊 自分にも分からないんだよ。人間にしては一千年ちょっと、生きているしね、といって死んだ記憶も無し。それに空飛ぶ円盤にも乗せていただいたこともないからな
千尋2 じゃあ、妖怪だ
榊、大笑いをして、自分の笑い声ににらんだ四人に、ひゅっと首をすくめて見せる。
榊 妖怪とは手厳しい。そう・・・、竹取物語は読んだことがあるかな
千尋1 かぐや姫だよね
榊 ふむ、何を隠そう、わしは
千尋2 わかった、おじいさんだ
千尋1 え、どういうこと
千尋2 かぐや姫を切ったおじいさん
千尋1 かぐや姫を切ってどうすんだよ
千尋2 あ、そうか
榊 ま・・・。わしはそのかぐや姫の入っていた竹を切って、その子を育てたという翁『さかきの造』にてございます
千尋1 本当に・・・
榊 こちらのお嬢さんはなかなか疑り深い。正直云うと、あの話は全くの作り話なんだ。まぁ、そういう話にしておいたほうがロマンがあっていいからな
千尋1 じゃ、本当は
榊、少し間を置いて、もったいぶるように。
榊 わしは竹を刈り、集めては火を点けその竹を燃やす。そして竹の中に溜まり積もった哀しみや苦しみの化石を煙にして、空の高み、天へと送ってやるんだ。それが・・・、一千年続いたわしの仕事なのだよ
千尋2 よくわからない
榊、がくっと肩を落として。
榊 折角、気分よく言えたのにな
千尋1、千尋2を肘でつついて。
千尋1 おじさん、いじめたらだめだよ
千尋2 はは、ごめんなさい。本当は感動した
榊、嬉しそうに。
榊 そうか、ならばよろしい
千尋1 ね。じゃ、さかきの造のおじさんって呼べば良いの
榊 ほう。人から本名で呼ばれるなんて、久方ぶりだな。しかし、長ったらしいだろう、おじさんでいいよ
千尋2 じゃあ、おじいさんは
榊 じーと伸ばさんように。俺はそんな老けてなんかないからな
千尋2 でも、一千年生きてんでしょ、さっき、自分で言ってたじゃない
榊 たとえ生きていても、俺の心はまだ十代の若者だ
千尋1 ね、千尋、いいんじゃない。この人、人の十倍以上生きてんだから、その分、じーって伸ばしていたら、うっとおしくて仕方ないもの
千尋2 あ、そうか。おじいー、いー、いーっさん、肩をもんであげる。あー、あたしの方が肩、こってきた
千尋1、千尋2の肩をもみながら。
千尋2 あ、そこそこ。ああ、良い気持ち。極楽、極楽
千尋1、千尋2の頭を軽く叩いて。
榊 飽きない奴等だな

田中 よし、できた
林 じゃ、人が来たらこの紙を見せて
中村 中からドアを開けることができません。窓も開きません。工作室に電動鋸がありますから、それを使って窓を開けてください
吉田 いいですね、これで
中村、うなずき、紙を隣の机に置く。
中村 あとは待つだけです。まぁ、しばらく経てばやって来ますよ。確か今日の宿直は吉岡先生だったかな。あの先生は落ち着いた方ですからきっと冷静に対処してくださいます
田中 しかし、少し気が楽になると・・・
中村 なにか・・・
田中 あの止まった時計、気になります。それにストーブも
中村、うなずいて。
中村 それも、もうしばらくの辛抱ですよ。この教室から出さえすれば。そうだ、カッターナイフ脱出法、試してみましょう。上手く行けばそれにこしたことはない
林 そうですわね。じっとしていると落ち着かなくて
四人セットのように窓により、カッターナイフと鋏で窓枠とガラスを接着しているゴムを削りだす。榊、ふっと思いついたように、机の上にある社会科の教科書を取りだし、ページを繰る。そして中程で興味ぶかけに頁を見つめる。
千尋2 おじさん、何をみているの。あ、日本史。あたし、数字苦手なんだ
榊 歴史に数字なんか関係ないだろう
千尋1 年号のこと。ムシゴロシ、六四五年、大化の改新
榊 なるほど、そうか。そう考えて見てみると、数字だらけだな
千尋2 困ったもんだよ。ね、おじさんも大人の仲間だよね
榊 ああ、こんなひねた子供がいたら大変だ
千尋2 なら、教えて。どうしてこんなことばっかり覚えなきゃならないんだろう
榊 不思議だな、その前に教えてほしいな
千尋1 え・・・
榊 覚えたければ覚えたらいい、覚えたくなければ覚えなければいい。どうして覚えなきゃならないと考える
千尋1 だって、みんな、覚えるもの
榊 みんなって
千尋1 同じ組のみんな
榊 なんだ、みんななんて云うから世界中の子供達全員が、ムシゴロシ645年って覚えるのかと思った
千尋2 だけど、だけど。先生もお父さんもお母さんもいうよ、とにかく覚えなさい、記憶しなさい。そしていい学校に入って、いい会社に入って、いいお婿さんもらって、たまのこし
千尋1 勉強しなくちゃならない、覚えなくちゃならない。学校終わったら塾へ行きなさい。そうだ、雑誌に記憶マシーンってのあったから一度試してみる。ね、ね、クラシックを聞くと脳波がアルファ波になって、簡単に記憶できるんだよ。それにそうだ、寝ている間は睡眠学習もしよう、・・・今度のテスト、お母さん楽しみだなって
榊 なるほどなぁ、子供達はみーんな、幽霊なんだ
千尋2 幽霊・・・
榊 先のことばかりで、今のことを考えていない。未来を生きることばかり考えて、今を生きていない。生きていないんだから、幽霊。そうだろう
千尋1 ほんと・・・。そうだよね
千尋2 生まれて初めて逆らってやろうと思ったのに
千尋1 やっぱり同じなんだ。いくら手首を切っても
千尋2 幽霊から、少しかわった幽霊になっただけ
榊、少し頭を掻いて、教科書を広げたまま机に置いて。
榊 それに気がついた。気づくことで人は変わり始める
千尋1 本当に変わることできるかな
千尋2 本当に
榊、力強くうなずいて。
榊 気づくことから、全ては始まる。気づくことで、子供は親から巣立ち、本当の大人に生まれ変わる。君等にとって、今が一番、素敵な時代だ
吉田、榊に近寄り。
吉田 いったい、何を言っているんです、一人で
榊 おや、聞こえてましたか。いや、私は孤独な人間でしてな、ついつい独り言が口をついて出てしまうんですよ
千尋二人、くすぐったそうに笑う。
吉田 あ、あの。いま、女の子の笑い声、聞こえませんでした
榊、気楽なふうに。
榊 さぁ、空耳でしょう。それより、はかどっていますか、脱出用の穴は。お願いしますよ、私の生命もかかっているんですから
吉田 生命って、そんな大げさな
榊、吉田に耳打ちするように。
榊 締め切った部屋、燃えるストーブ、いつまで息ができるでしょうね
吉田 え・・・
榊 冬場良くあるでしょう。一酸化炭素中毒、ふぅぅっと気が遠くなって、そのまま。こてん
吉田、悲鳴をあげる。
林 吉田さん、どうしたんです
吉田 い、いいえ。なんでもありません。なんでも
吉田、林を手で制するようにして。すぐに、榊と吉田、頭突き合わせて相談するように。
吉田 そんなこと言ったら、パニックになってしまいます
榊 それで
吉田 それでって・・・
榊、少し皮肉っぽく。
榊 立派な大人ですよ、私達は。ちゃんと、立派な理性というものがございますよ
吉田 そんな建て前を・・・
榊 建て前と本音というやつですな。つまり、本音ではこんなこと言おうものなら、パニックになって収拾つかなくなってしまう。といってストーブを消したら、この先どうなるかわからないのに、寒さに震えていなきゃならない。とにかく、ここは問題を先送りにしてしまおうってことですな
吉田 私はそんな・・・
榊 違いますか
吉田 ・・・いいえ
吉田、沈黙。
吉田 あの、私達、どうなるんでしょう
榊 あなた、日頃の行ないは良いほうですか、それとも悪いほう
吉田 え、どういうこと
榊 先ほども申しましたが、私は日頃の行ないがいいですからな、きっと自分は 助かると思っております。で、あなたは
吉田 私は・・・、悪いかも、知れません、多分、いえ、きっと・・・
吉田、千尋二人の存在に初めて気がつく。茫然としたまま。
吉田 あなた達・・・。確か・・・
千尋1 あたしの躯、見えるの、吉田君のお母さん
千尋2 あたしの声、聞こえるの。吉田君のお母さん
榊 世界が浸食されつつあるのか。竹の節と節の間に詰まったこの思いに
吉田 まさか・・・、千尋ちゃん。孝男と幼馴染の
千尋1 友達じゃないけどね、幼馴染ではあるけど
千尋1、左手首を吉田に突きだす。
吉田 手首が、黒い血のあとが・・・
千尋2 孝男達にいじめられたの
林 まさか、孝男が千尋ちゃんを・・・
千尋1 手首を切って、あたし、死にました。幽霊になって怨みをはらすために
吉田 そんな、あの子がそんなこと・・・
千尋1 あたしがクラスの連中から、寄ってたかって殴られたとき
千尋2 あいつ、知らん顔していた。見て、見ない振りしていた
千尋1 もし、あたしを助けようとしたら、あいつ、自分もいじめられるようになるってわかっていたから
千尋2 そして、すぐにあいつも一緒になってあたしをいじめるようになった。自分自身を守るために
千尋1 あたし、とても心が痛かった
吉田 まさか、あの子が、そんなことをするわけがないわ
千尋1 そっか・・・、そうだよね。信じられないよね。自分の、かわいい、かわいい息子だものね
千尋2 いいよ、憎いのはあんたじゃないもの。憎いのはあんたの息子だもの
千尋1 死んで、怨みをはらす相手はあんたじゃない、だから安心していいよ
千尋2 苦しめたい相手は孝男なんだから
千尋1と2 死んでも、孝男達、許さない。あいつら、いつまでも呪ってやる
吉田、千尋二人に。
吉田 孝男だけには・・・、お願い。悪いのは私なの。あの子をちゃんと育ててやれなかった私が悪いの。何もかも悪いのは私なのよ。ごめんなさい、本当にごめんなさい
千尋1 親離れどころか、子離れもできていないなんて、やりきれないよ
榊、何事もないように平然と、吉田に教科書を開けたまま手渡す。
吉田 え、あ、あの・・・
榊 それ、良く見てごらん
千尋1 今、話中なの。あとにして
榊 たいした話じゃあるまい。そこの机に鉛筆があるだろう。それにメモ用紙、ほら。これに書いてわしに預けときな。あとで渡しておいてやるから
千尋二人、気楽に笑って。
千尋1 まっ、いいや。メモ、貸して。たっぷり、恨み書いておくから
千尋2 あとで、ちゃんと渡してよ
榊 わしを信用しなさい
千尋1 大人は信用できない
千尋1、榊からメモを受け取り、千尋2は机にあった鉛筆を取り、二人、他の机に着いて、メモに怨みを書きだす。
榊 さぁ、とりあえず、得意技の問題先送りをしてと・・・。見てもらえますかな
吉田 これは・・・
榊 明治の頃の写真が載っているでしょう。何処かの工場のようですな。さて、間違いが一ヵ所あります、それは何処でしょう
吉田 間違いって・・・
教科書に見入る、吉田の後から千尋二人も教科書をのぞき込む。
千尋1 あ、セントラル
千尋2 ヒーティングだ
榊 なんだ、もう書き終わったのか。どれどれ
千尋1、紙切れを榊に手渡す。読もうとするが。榊、困ったように、メモを上下左右、回転させて。
榊 なんだか、丸い文字だな。この、緊迫感ってものに欠ける。もっと、おどろおどろしいものが欲しいもんだな、ひきつったような、さも恨みますって感じのが。あぁ、ええっと、これが・・・、なんて読むんだ。つ・・・、つう、ああ、TO、孝男へ
千尋1 もういい
千尋1、取り返そうとするが、素早く、榊、メモをポケットに突っ込んで。
千尋2 返して
千尋1 そうはいかない。確かに預かってあげたよ。ただし、一つだけ忠告しておこう。TOは『〜へ』って意味だから、訳すると、孝男へ、へ、になってしまうな。笑っているみたいだ
千尋1 嫌味な大人。大嫌い、こういう大人って
榊 はは、可愛い女性に大嫌いと言われたら、ショックだが、君等なら仕方ない、まっいいやの一言だな
千尋1、むっとして。千尋2、おかしそうに笑う。
吉田 あ、あの、千尋ちゃん。あのね
千尋1、くっと吉田をにらむと、教科書を吉田から取って。
千尋1 あんたには関係ない。千尋、おいで
千尋2 うん
千尋二人、教科書を見つめて。少しため息をついて、吉田に教科書を返す。そして、教科書の写真を指差す。
吉田 あ・・・。古びた工場にきれいなセントラル・ヒーティングが
千尋1 四人、五人、作業員が寒そうに手をかざしている
榊 探せば、この教科書に時計も出て来るでしょうな
榊、時計を指差して。
榊 あれのかわりにね
吉田 教室の中が教科書の中と入れ換わり始めた
榊 いや、それは正確じゃない。正確には、現実という枠組みが崩れ、現実と教科書という虚構が混乱しだしたんだ
千尋1 これからも変わって行くの
榊 さあね。どちらにしろこんなことはたいしたことじゃない
吉田 もっと大変なことが起こるんですか
榊 いや・・・。起こっているんだ、既にね

中村 なんて堅いんだ
田中 堅いなんてものじゃない。傷一つ、つかない
林、吉田に向かって。
林 吉田さん
吉田 は、はい
林 あら、いったいどうしたの
吉田、慌てて、教科書を閉じて。
吉田 別に何も
林、吉田に近寄って。
林 全然、傷もつかないのよ。この窓枠のゴム、まるで鉄みたいに堅くって
吉田 そ、そう。じゃあ
林 ええ。待つしかないようね
吉田 先生が見回りに来られるのを
千尋1、榊に向かって。
千尋1 ね、本当に誰か見回りに来るの
榊 どう思う
千尋1 なんだか期待できない、そんな気がする
榊 異変がこの教室だけだなんて保証は何処にもない
千尋2 なんだか映画の中みたい。ちょっとどきどき
榊 しかし、お前達、面白い別れかたしたもんだな
千尋1 お前じゃない。あたし達の名前は千尋。お前なんて言わないでよね
榊 これは失礼。陰気な千尋さんと陽気な千尋さん
千尋1 なんか、それ褒められている気がしない
千尋2 なんかそれ、あたしのこと陽気なだけって言っているみたい
榊、気楽に笑って。
榊 俺も褒めたつもりはない
林、吉田の脇を肘で小さくつつき、ささやくように。
林 妙な人よね、この人。さっきから独り言ばっかり
吉田 そ、そうよ・・・、ね。で、でも、いいんじゃない・・・、かな。人それぞれだし、はは
林 どうしたの、吉田さん。汗、かいて
吉田 いいえ、別に・・・
林と吉田、椅子に腰掛けて。
林 ああ、もう、早く帰りたい。いったい、何がどうなってんだか。ね、さっきの竹の話だって本当かどうか
林、榊に向かって。
林 本当なんですか、竹が根付いたって云うのは
榊 はぁ、私に聞いていらっしゃる
林 はい、その通りです
榊 嘘をついていないという限りでは本当のことですな
林 どういうことです
榊 つまりは真か否かの基準が、ここではあいまいになっている、ということです。わかりますかな
林 いいえ
吉田 こういうことなの。ここは・・・、この部屋は普通の世界じゃ、日常の私達が普通に暮らしている世界じゃないの。だから、私達の価値観や常識が成り立たないという
林 吉田さん、あなたまで、そんなことを
千尋2 本当にあの人は・・・
千尋1 仕方・・・、ないよ
林 とにかくドアが開かないし、窓もしっかりと閉まったまま。これが今の現実。原因はともかく、それだけは認めるわ。もう、早く見回りに来ないかしら
吉田 そ・・・、そうよね
林 外から電動鋸を使えばなんとかなるわよ、それまでの辛抱ね
千尋1、榊に向かって。
千尋1 ね、おじさん
榊 うん
千尋1 あたし達、学校から出ようとしたんだけど、出られなかった
千尋2 そうなの。門が開いていたから、思いっきり飛びだしたら、何かに弾きとばされるし、塀を跳び越えようとしたら、何かに顔ぶつけるし
榊 そうか。なら、他の所もここと同じようなもんだな
千尋1 ということは
榊 そういうこと・・・、だろうな
千尋2 そういうことって
千尋1 思っていた以上に大変なことになっているっていうこと
千尋2 そっか、大変なんだ
千尋1 本当にわかっているんでしょうね
千尋2、大きくうなずいて。
千尋2 あたし達全員、二十世紀最大の事件に遭遇しているのね
榊 二十世紀とは大きく出たな
田中、諦めて鋏を放りだしす。
田中 ああ、もう、こんなことやっても意味ありませんよ
林 どうですか。やっぱり、無理・・・
田中、近づいて。
田中 線傷一本つきません。普通、こんなには堅くないんですけどね
田中、中村に向かって。
田中 先生、どうです。すこしは削れましたか
中村、溜め息ついて。
中村 おかしいんです、これ。この窓のゴム。思いっきり、カッターナイフ突き立ててやると、うっすら線ができるんですが・・・。でも、その線がすぐに消えてしまう
田中、少し嗜虐的に笑いながら。
田中 形状記憶ゴムでも使ってあるんですかね。さすが新設校だ
千尋1、榊にささやくように。
千尋1 ね、どうしてだろう
榊 竹は成長が早いからな、少々の傷なら、すぐに直ってしまう
千尋1 なるほど
中村も近寄って来る、ここで舞台上の全員が一つに集まることになる。
林 とにかく、もう待つしかないようですわね
田中 仕方ないですな
中村 しかしどうしてこんなことになったんだろう。こんなことなら、メモなんか見つけなければ良かった
林 本当にいったいどうして、こんな・・・、そういえば
林、吉田に向かって。
林 吉田さんの所にも昨晩電話があったんでしたよね
吉田 ええ、そうです
林 どなたからの電話でした
吉田 あ、いえ。名前は聞いてなかったんです
林 そう。私の電話も一方的に電話から、そう・・・、ただただ、声が流れてくるって感じだった。そういえば
林、田中に向かって。
田中 ええ、家内が電話を取ったのですが
林 先ほど、声が不気味だったとか・・・
田中 そうです。家内が嫌がって、それで、私が家内のかわりに来たのですが
林 そういえば、確かに妙な声だった。何か、くぐもったような、押し殺したような声で、男か女かもわからなかった。ね、先生はメモを見つけたって
林、中村に向かって。
中村 私の机は書類が山積みになっているのですが、ちょっとそれをどかしたら、机にメモが張ってあったんですよ
林 メモはどなたから
中村 いえ、そのメモには『必ず出席のこと』と書いてあっただけで、そういえば誰からのメモだったんだろう
千尋1 なんだかミステリーっぽくなって来た
千尋2 あたし、複雑なの苦手なのよ。頭、混乱して来た
千尋1 まさか、おじさんじゃないでしょうね、これ、仕組んだの
榊 ああ、俺じゃない。俺はこの学校に異様な竹の気配を感じて、慌てやって来た、それだけだからな
千尋1 慌てて・・・って
榊 竹の中に思いがこもり過ぎると、思いが溢れだしてしまって、難儀なことになってしまう。まぁ、結局は難儀なことになってしまったが
千尋1 そっか・・・。だとしたら誰が何の為に呼びだしたんだろう。電話をした人間、はり紙をした人間。メモを書いた・・・、人間
榊 そして呼びだされたのが四人
千尋2 ね、千尋。あたし達も呼びだされたのかな
千尋1 ん・・・、どうだろう、かもしれないし、ただの偶然かもしれない・・・

中村 きっとあいつらのいたずらだ
林 あいつらって・・・
中村 この教室にも何かというと、すぐいたずらや悪ふざけをする連中がいるんですよ。他人の鞄を隠したりだとか、ロッカーの中のものぶちまけたりとか
田中 しかし、時計は軽いから良いとして、このストーブはどう説明するんです。こんなの重いし、第一、いまどき何処にも置いていませんよ
中村 確かに・・・、セントラルヒーティングを取り外して、だるまストーブを置くなんてことは・・・
林 でも、実際にこの教室にあるんですから、誰かが運んだのには違いありませんわ
田中 しかし・・・、こんな手の込んだことを・・・
林 それにこのはり紙だってですよ、達筆じゃないですか、こんな字は子供には書けないでしょう
林、吉田に向かって。
林 ね、吉田さんはどう思う
吉田 え、私ですか・・・
林 ええ、窓は開かない、ドアも開かない、机には竹が生えていたし、時計にだるまストーブ。それにはり紙も。もう、なんだか、わからないことばっかり
吉田 私にも、全然・・・
林 そうよね・・・。こんな異常なこと。考えたって普通の人間にはわからないのよ。ね、榊さんだっけ、あなたはどう
林、榊に向かって。
榊 俺も普通の人間だからな
林 普通の人間には見えない。さっきから、一人でぶつぶつ言ったり、急に笑いだしたり
榊 ひとりやもめが長くて、独り言がすぐに口をついて出てしまうんです・・・、あぁ、ばぁさん、俺もすぐ、そっちへ行くよ。待っててくれ
林 そうやって、すぐはぐらかす
榊 人生は退屈そのもの、ならば、積極的に楽しみませんとな
田中 そういえば、あんた、いったい、何者なんだ
中村 そうだ、生徒の保護者でもないのにどうして、ここにいるんだ
榊 私ですか、そういえば・・・、まだ、自己紹介はしておりませんでしたな
田中 まずは名乗ってもらおう
榊 木へんに神と書きまして、榊と申します。まっ、植物の神さんですかな
中村 それで
榊 ふむ。一定の場所を定めず、路上、地下街に居を求めると申しましょうか。いわゆる、遊牧民。もしくはジプシーとでも申しましょう。おおっ、そう、私こそは自由の民です
中村 それを言うのなら、ホームレスというんですよ
榊 なるほど、ホームレス、家、あるいは家庭がないということですな。ふむ、しかし、どうも否定的な表現ですな。もっと、こう積極的に、路上が、いえ、この大地が俺の家なんだというのは、どうでしょう、なかなかいい表現なのではないかと
林 気楽な人・・・。もう、いいです。それより、さっき、あなた、言ってましたよね
榊 はぁ・・・
林 原因があるとすれは、それはあんた達だって。それ、いったい、どういうことなんです
千尋1 すぐに根に持つんだから
榊、千尋1に。
榊 性格、悪そうだな
千尋1 おじさん、人のこと言えないよ
千尋2 そう、そう
榊 なんだ、俺の廻りは敵だらけか
榊、林に向かって。
榊 確かに・・・、そのようなこと、言ったかも知れませんな
林 もう、お忘れになったんですか
榊 最近、物忘れがひどくて
千尋2 齢の所為だね
千尋1 生き過ぎたよ、一千年も
榊、千尋1の頭をこつんと叩き。
千尋1 痛っ
榊、気楽そうに。
榊 ああ、ああ。思い出しました。そうそう、そうですよ、無関係の私まで道連れにして、いったいどうしてくれるんですか
林 無関係のようには到底見えませんわ
榊 どうやら、お互いについての認識に少し距離があるようですな
田中 ひょっとして、何もかもお前が仕組んだんじゃないか
榊 何の為に
田中 それは・・・
榊 感情的発言は避けていただかないと困りますな
中村 とにかく、俺達は教室という密室に閉じ込められている。そして、あんたの竹の話。何かあると思っても不思議じゃない
榊 あなたの頭の程度ならね、これは失礼
中村 なんだ、やる気か
榊 いや、滅相もない。そのようなことは
千尋1 中村、得意の『なんだ、やる気か』が出た、あきもせすによく言えたもんだ
千尋2 きっと、背中に押しボタンがあるんだよ、それ押したら、『なんだ、やる気か』、『なんだやる気か』って、中村の奴言うんだ
榊、千尋の言葉に笑いをこらえる。
中村 おい、その態度。なんだ、やる気か
榊、吹き出す。中村、怒って榊に殴りかかろうとするのを、間一髪、吉田が割って入る。
吉田 とにかく、先生、落ち着いて。榊さんも、失礼ですわよ
榊 これは申し訳ない。こいつらが妙なことを
中村 こいつらって・・・
榊、呟くように。
榊 鈍感だな、まだ、見えていないのか
中村 なにー
榊 申し訳ない。謝ります、すいません。そう、お怒りになりませんと
不満を持ちつつも、中村、引き下がる。
榊、まるてズボンに付いた土ぼこりを払うように、手を動かし、すっくと立ち上がる。中村との言い合いなど、なんとも思っていなかったように。
榊 さて、それでは私の知る限りを御説明いたしましょう。最初から話したほうがよろしいですかな
林 ええ、できるだけ始めから順序たてて、お願いします
榊 では。そのように申しあげることに致しましょう
榊、講義調に。
榊 地球が生まれたのは四十六億年前だと云われております。その頃、生物と呼べるものは、全く存在せず
林 最初、過ぎます
榊 これは失礼。それではもう少し、現代に近づきまして。あれは、そう・・・。忘れもしません。あれ、どうだったかな、ああ。そうそう。それは鎮守の森での、祭りの夜のことでした。ふっと擦れ違った妙齢の御婦人の草履の鼻緒がぷつんと切れ、『あ、大丈夫ですか、そうだ、私にお任せなさい』
林 それ、竹の話と関係あるんてすか
榊 いえ、まぁ、ちょっと賑やかしに、ばぁさんとのなれそめでもと思いまして
林、大げさにため息をついて。
林 あなたの人となりはよくわかりました。好きに続けてください
榊 申し訳ない、ちゃんと申します、そう、見捨てないでくださいよ
榊、こほんと一つ、咳払いをして。
榊 竹の中には、そして地中の根には、人の忘れ去られた記憶が蓄えられております
中村 なんだ、今度はファンタジーか
榊 いいえ。日常、何処にでも転がっているリアリティーというものでございます
榊、林に向かって。
榊 あなたは楽しい思い出と嫌な思い出、どちらを忘れたいと思いますか
林 そうね・・・
榊 素直に答えてくださいよ。そうじゃないと話が続かなくなる
林 楽しいって言ったら、どんな反応があるか興味あるけど、正直に言うなら嫌な思い出を忘れたい、そう思っている
榊 人間、素直が一番です。で、そちらの方は
榊、田中に向かって。
田中 俺もそうだな。子供の頃の思い出なんか、もう、ずいぶん思いだせなくなったけど、それでも、夏の日、山に昆虫を取りに行った日のこと、いまでも、はっきり覚えている。あのときは本当に楽しかった
榊 そうです、記憶とはそんなものです
中村 俺は、特に楽しいも嫌もないな
榊、千尋二人に向かって、内緒話をするように。
榊 記憶力、そのものが弱いタイプだな、こいつは
千尋2 普通は脳って神経のかたまりだけど、あいつの場合、筋肉同志が脳の中で手旗信号しているんだ
榊 なるほど、じゃ、脳の中で、筋肉が赤や白の旗を振っているのか
千尋1 それ、一度、見てみたい
中村 で、どうなんだ
榊 つまり竹の中には、忘れたいと捨てられてしまった、嫌な記憶、悲しい記憶、辛い記憶がつまっているのです
林 とりあえずは、話の腰を折らないように致しますわ、どうぞ、続けてください
榊 思いやりのお言葉、いたみいります
榊 そういう意味では竹の栄養分、あるいは肥料とでもいいますのは、他の植物のように窒素でもなければ、カリでもありません。捨てられた記憶、それこそが竹の一番の栄養なんです
吉田 それで・・・。ここの養分は良いって、おっしゃったんですね
榊、吉田の手を握って。
榊 おお、そうです。理解していただけるとは、ありがたい、感謝いたしますよ
千尋1 大げさな奴
榊 表現は少々、大げさなくらいが、ちょうど良い
千尋1 どうして
榊 増えるからさ、嬉しさが。躯全体で表現すると嬉しさが少なくとも倍にはなる
千尋1 そんなものかな
榊 一度試してみたら良い、そうしたらわかる
林 榊さんでしたっけ。いったい、誰とお話なさっているんです
榊 それは・・・
急に、吉田、千尋1の手を取って、林の前に連れて行く。
千尋1 幽霊の手を引っ張るなんて、非常識なことしないでよ
千尋2 何処に連れて行くつもり
吉田 林さん。お願い、ちょっと目をつぶって
林 目をつぶるって
吉田 いいから、お願い
林 まぁ、いいけど・・・
林、戸惑いながらも目をつぶる。
吉田 深呼吸して
林、二、三度深呼吸をする。
吉田 気持ち、楽になった
林 ええ、なんとなく、落ち着いたような気がする
吉田 じゃ、そのまま、ゆっくりと、ゆっくりと目を開けてみて
林、ゆっくりと目を開ける。あれっと首をかしげる。そして、おそるおそる手を延ばし、そっと千尋1に手を触れる。
林 吉田さん、私、ちょっと変。何か、何か・・・、ここに何かがあるような気がして。硝子・・・、ううん、違う。空気の塊・・・
吉田 何かを感じるの、何かあるような
林 ん・・・、あ・・・、人のような、そう、誰かがいるような
吉田 そう、背の高さはどれくらい
林 私より、少し低いかなって・・・
林 ・・・女の子・・・。千尋・・・
千尋1、急に脅えたように、小さく身を引く。
榊 どうして逃げる
千尋1 だ・・・、だって・・・。母さんが
榊 お前の母親なのか
千尋1、ためらいがちにうなずく。
榊 子供はできるだけ早く、親と対決したほうがいい
千尋1 でも、そんなの
千尋2 そんなの、嫌だよ
榊 怖いんだな
千尋二人、うなずく。
榊、千尋2に向かって。
榊 引き返せないぞ。さぁ、どうする
千尋2、緊張しながら、林の後へ行く。千尋二人が、前後に林をはさむ。
林、驚いて、ぺたんと座り込んでしまう。
林 千尋ちゃんじゃないの、どうしたの
千尋2 どうもしてないよ、手首を切っただけだから
林、振り返って。
林 千尋ちゃん・・・、二人・・・
千尋1 死んで二人になったんだ
林 死んでって、まさか、千尋ちゃん
千尋1、林に手を差しだす。
林 どうして千尋ちゃん、そんなことを
千尋1 どうしてって。わからないの
林 ま、まさか、いじめに、いじめにあっていたのね
千尋1 あってたよ、ずっと
林 どうして母さんに言ってくれないの
千尋2 母さんが気づかなかっただけさ
千尋1 でも、母さん。あたしはいじめられていたけど、それだけなら、手首までは切っていなかったと思うよ
千尋二人 切ったのは・・・、自分がこの世で独りっきりって感じたからなんだ
林 どうして。母さんもいるし、父さんだっているでしょう。お兄ちゃんのトシ君だっていつもいるじゃない
千尋1 恋人達は小指を赤い絃で結ばれているという、でも、あたし、こう考えたんだ
千尋2 家族は血の繋がりという、赤い血の絃で小指を繋がれ合っているんじゃないか
千尋1 選ぶことのできない、宿命的な赤い血の絃で
千尋2 そして、あたし、いじめにあう中で、あたし自身を冷静に見つめるようになった
千尋1 そして、小指につながる血の絃を、自分で、自分の手で引き千切りたくなったんだ
林 どうして。どうして、母さんが不満なの、私が母さんじゃいけないの
千尋1 母さんは悪くないよ、父さんも兄さんもね。でも、嫌なんだ
千尋2 母さん・・・。あたしは生んでくれたこと、育ててくれたこと、本当に感謝しているよ、でも
千尋1 あたしは一人の人間なんだ。母さん達のおもちゃでもなければ、かわりに母さん達の夢を叶える天使でもないんだよ
林 わかっているわよ。ちゃんとわかっている。そりゃ、自分の子供がこんなふうになってくれたら、あんなふうに成長してくれたらって願うけど、それを押しつける気なんて全然ないわよ。ただ、千尋ちゃんやトシ君が幸せになってくれたら、母さんも父さんもそれだけで幸せなんだから
千尋2 わかってないよ、それが重くて重くて
千尋1 仕方がないんだ。それに、ね、母さん、兄貴、あたしより二つ上だよ、トシ君って呼ぶの、もうやめなよ。じゃないと兄貴もどっか行ってしまうよ
田中 林さん。いったい、何をおっしゃっているんです
吉田 それは・・・
田中 そこになにか、あるんですか
中村 どうやら、みんな、気が高ぶっているようですね。ふむ、今、何時だ。時計・・・、机に忘れてきたか
中村、田中に向かって。
中村 今、何時でしょう。もう・・・、七時でしょうか
田中 先生が見回りに来られるんでしたな、えっと・・・
田中、腕時計を見つめ、首を傾げる。
田中 いや、申し訳ない。電池が切れたのか、それとも寿命かな。これも買って、随分経つから
中村 はぁ
田中 いや、針が止まってしまっているんですよ。六時半で
林、悲鳴。
林 もう、いやよ。出てやる、私、帰る
林、立ち上がる。そして、窓を叩く。
林 トシ君、今、帰るからね。母さん、すぐに帰るからね。そうだ、本屋のバイトは九時までだよね、母さん、本屋さんの外で待っててあげる。雪、なんか降ってても母さん、寒くないんだ。だって、トシ君と一緒に帰れるんだもの。父さん、どうせ、会社の人達と晩ご飯食べて帰って来るに決まってるんだから。そうだ、そうだ。トシ君、ハンバーガ好きだよね、駅前で、一緒、食べて帰ろう。いっぱい、いっぱい、ハンバーガ食べていいよ、ポテトも頼もう、それから、アイスも食べよう、冬に暖かい部屋でアイス食べるの、最高なんだ。母さん、楽しみだな、だって、母さん、トシ君の笑顔、大好きだもの
林、うめく。中村と田中、慌てて林に近寄って、窓から引き離す。
中村 落ち着いてください
田中 そうですよ、この時計、古いんです。だから、たまに止まったりもするんですよ
中村と田中、林を椅子に座らせ落ちかせる。
田中 大丈夫ですよ。もう少ししたら、きっとなんでこんなことでおろおろしていたんだろうって、笑い話になりますよ
林、疲れたように。
林 ・・・ありがとうございます、本当にお恥ずかしいところを・・・
千尋1 あたし、もう嫌だよ、こんなの
千尋2 自分の夢を子供に託す
千尋1 聞こえはいいけど、そんなの迷惑だよ、子供には子供の人生があるんだ
千尋2 母さん、他に楽しみがないから
千尋1 楽しみってのは、人に作ってもらうもんじゃない、自分で作るものなんだ
田中、落ち着いた千尋二人に突然気がつく。
田中 なんだ、お前達は。いつの間に、教室に入ってきたんだ
榊 やっぱり、あの先生が最後だな
千尋1 最初からいたよ。あんた達が来る前から
田中 なに、じゃ、お前達が仕組んだんだな
千尋1 同じこというようだけど。子供にそんなことができるかどうか
千尋2 頭の中でちょーっと、考えてから言ってよね
榊、くすぐったそうに笑う。
中村、田中に向かって。
中村 いったい、誰と話しておられるんです
田中、驚いて中村と千尋二人を交互に見比べる。
千尋1 やっぱり、中村が一番鈍いや
千尋2 仕方ないよ、頭の中で、赤上げて、白上げないで赤上げてってやっている人だから
田中 ・・・先生、見えないんですか
中村 だから、何を
千尋1 声も聞こえないと思うよ
千尋二人、中村の前に行き、中村の目の前で手を振って見せる。
田中 せ、先生の目の前に
中村 前といわれても、別に何も。あ、ひょっとしてさきほどの幽霊話の続きじゃないでしょうね。それはちょっと不謹慎というものですよ
千尋1、そっと片手を中村の頬に触れる。
中村 あ、冷て、なんだなんた
千尋2、中村の耳に息を吹き込む。中村、飛び上がって、その場を離れる。
中村 うぉぉっ。耳に、耳に生温かい風が
田中 どういうことなんだ
榊 簡単なことですよ、まぁ、醤油の小瓶と同じようなものです
田中 はぁ
榊 料理は得意ですか
田中 勤めていたころ、単身赴任をしていたから、少しは
榊 そう、なら、おわかりになるでしょう。そうだ、今夜はチャーハンを作ろう。フライパンに油を敷いて、肉や人参のかけら、冷蔵庫の中のもの、適当に炒めて、とじた卵を入れる。よし、昨日の冷や御飯を入れて、そうだ、和風にしよう。ええっと醤油はと
榊、どこだどこだと探し回る。
榊 流しに置いといたはずなんだが、そう言えば昨日はコンビにで弁当買って、あ、てことは、この冷やご飯、一昨日のか・・・、大丈夫たろうな。ええと、醤油、醤油はと。おおっと焦げてしまう、いいや、ソースかけて焼きご飯にしてしまおう。皿に盛って、わびしいテーブルに置く、あ・・・。テーブルの上に醤油の小瓶が・・・。いくら目の前にあっても見えていないときには見えないものなんです
田中 そんなものなのかな。あ、とすると、さっき首が締まったように苦しかったのは
榊 なるほど、もう少しで、チーン、御臨終・・・、でした
中村 だ、誰かいるのか。す、姿を現わせ。卑怯だぞ
千尋1 あんたに卑怯なんて言われたくないね
千尋2 目の前であたしがいじめられていても、にやけていたくせに
千尋1 そんなの、いじめの内に入らないって・・・
千尋2 クラスの皆から無視されるの、どんなに辛いか
千尋1 それに無視されないときは、クラス中から、殴られて、蹴られて、本当に辛かったんだ、痛かったんだ。
千尋2 だけど、あんた、いつも急に用事を思い出したって、教室を出て行くんだ
千尋二人 いつもあんた、逃げるんだ
千尋1、両手でゆっくりと中村の首を締める。
中村 く、苦しい。助けてくれ
中村の声が小さくなりだしたとき。
中村 あ、お前。このクラスの、いつもいじめられている
千尋1、ふっと手を離して、くすぐったそうに笑みを浮かべる。
千尋1 死にかけなきゃ、あたし達が見えないなんて、ほんと、鈍感
千尋2 感性ってものに欠ていけるわけだ
中村 お、お前達、ふ、二人・・・
千尋1 そうだよ、一人っきりで仕返しするのは大変だもの。二人、いると便利だもの。ねー
千尋2 ねー
中村 いったい、どうなっているんだ
千尋1 自殺したの、だから、あたし達、うかばれない幽霊、ほら
千尋1、中村に手首を見せる。
千尋1 切ったの、剃刀で。でも、安心して、痛くなかったから
千尋二人 だって、嬉しかったんだ、これでやっと開放される、辛い日々から逃げられる、そして・・・。仕返し、できる。そう、思うと
千尋1 嬉しくて・・・
千尋2 最初に中村先生から苦しめてあげる。ちょっと痛いけど我慢してね
中村 た、助けてくれ
中村、榊の後に慌てふためいて逃げ込む。
千尋1 無駄だよ、何処までも追いかけてあげる
千尋2 女の子に追いかけてもらえるなんて、よ、うらやましいね
中村 お、俺は怖かったんだ
榊 誰が怖かったんだ
中村 え・・・
榊 だから、誰が怖かったんだ
中村 それは・・・
千尋1 素直に
千尋2 言ったほうがいいよ
中村 俺は、俺は・・・
千尋1 さぁ
中村 俺は自分の生徒が怖かったんだ。俺の目の前でいじめが繰り返される。やつらは俺の存在なんかかまっちゃいないんだ
千尋2 学校一の暴力教師のあんたが、怖いわけ
中村 ああ、そうだ。俺は体罰、いや、暴力を振るう。でも、それでしか、俺は暴力教師のレッテルを自分自身に貼ることでしか、自分を守ることができないんだ
林 あなた、それでも先生なの。情けない、うちの子がこんな先生のところにいるなんて
中村、少し開き直り気味に。
中村 そうか、彼女達は林さんのお子さんでしたね
林 ええ、千尋は私の子供です
中村 なら、彼女達に言っておいてください。もう少し、上手く立ち回れってね。ああ、そうか、もう、遅いや
林 なんて人なの
中村 おや、いま気がつきましたけど、吉田さんの孝男君でしたか、彼はいじめる側ですから安心してください。彼のパンチ、結構、効くんですよ
中村、田中へ。
中村 おくればせながら、そちらの方、お子さんの名前は
田中 京子、田中京子ですが
中村 なるほど、なるほど。田中京子ですか。職員室でよくあがる名前ですよ
田中 うちの娘がどうしたっていうんです
中村 表の顔は真面目な学級委員長。しかしてその実体は
千尋1 そっか。三人とも、いじめに関係あるんだ
中村 そして暴力教師の無責任男の俺。はは、これは何かの意味があって呼び出されたと考えてもよさそうだな。そろって懺悔でもするか
千尋2 中村の奴、急に元気になりだした
千尋1 でも、幾らかは的を得ていると思うよ。あたし達も立場は違っても当事者なんだし
榊 つまりいじめという共通項で俺をのぞいた六人が呼び出された
千尋1 でも、いったい誰が何の為に
中村 これだけ、妙なことが起こっているんだ。俺はもう何が起きても驚かないぞ
田中 ちょっと待ってくれ。うちの娘がどうしたっていうんだ
中村 ああ、そのことですか。なに、いまの私にとってはつまらないことですよ。田中京子が、あんたのお嬢様がこの学校のいじめのリーダだ、それだけのことですよ
田中 俺の娘が、あんないい子が
中村 言ったでしょう、俺が。今と昔とでは全く違うんですよって。昔はいじめっ子はいじめっ子の顔をしてましたけどね、今は違うんですよ、羊の皮をはぎ取って、被り込んでいる狼が、そこら中にいるんですよ
田中 俺は、俺は。うちの娘に限って、限ってそんなことは絶対ない
千尋1 限って・・・、か
千尋2 限ってだね・・・
中村 親なんてそんなものさ
田中 ・・・もしも、もしもだ。うちの娘が不良になったというのなら、それはあんた達、教師の責任だ
林 そうよ、あなたみたいな教師がいるから、私の千尋ちゃんが悪い不良達にいじめられるのよ。それでも、あなた、教師なの
千尋二人、呟くように。
千尋2 君も嫌だけど
千尋1 ちゃんもやめて欲しい
中村 その言葉、そっくりお返ししましょう。それでもあなた方は親ですか、親であるといえるのですか。自分の子供のこと、ほんの表面しか見ていないくせに
千尋1 なんだか、雲行きあやしくなってきた。大人達、思いっきりもめそう
榊 まずいな。興奮すると竹の成長が早まってしまう
吉田 竹の成長・・・
榊 ああ、竹の中に詰まった記憶の化石が、人の思いに目覚めようとしているんだ
榊 まずいな。かなりまずい
千尋2 これ以上、状況がまずくなるの
榊 ああ、奴が、奴が生まれて来る
中村 俺だって憧れて教師になったんだ。あんた達も宮澤賢治は知っているだろう
田中 宮澤賢治・・・
中村 賢治は四年間、農学校で教鞭をとった。本当に子供と一つになれる、そんな素晴らしい教師だった。生徒は賢治の授業を愛した、そして賢治を愛したんだ。俺も・・・。俺もそうなりたかった。でも、今の教師にはそんなこと無理なんだ。学校はもう、テストで良い点を取る子供を生産する工場になってしまっているんだ。そうさ、俺達は教師じゃない。工場で品質の良い生徒を作る技術者なんだ
榊、大声で。
榊 静かに。落ち着きなさい
榊に全員、注目する。
榊 ドアを開ける方法がある。どなたかマッチかライター、お持ちではないですかな
田中 ここに
田中、榊にライターを手渡す。榊、ライターがつくことを確認する。
榊 たとえ電動鋸でも、ドアを切ることは不可能です、竹は成長が早いですからな、切っても、切っても伸びてきます。ただ、竹は松の木と同じように油をかなり含んでいますからな
田中 ということは
榊 ドアを・・・、燃やします
全員がドアに注目したところで、ドアがするすると開く。
榊 な、なんだ・・・
ドアからPTA会長の三島と吉岡先生が入って来る。
中村 よ、吉岡先生・・・、どうして・・・
吉岡先生ドアを締めると同時に。
中村 ド、ドアを
吉岡 あら、中村先生、ドアがどうかしましたの
中村 やっと開いたのに・・・
三島 ごめんなさいね。ちょっと遅れたみたい。吉岡先生とつい職員室で話し込んでしまって
吉田 三島さん・・・。いったい、これって
吉岡 さぁ、皆さん座ってくださいな。そうですね、寒いですし、ほら、ストーブを囲むようにして座りましょうか
三島 本当におよび出しして申し訳ありませんわね、でも、いじめについては、一度しっかりとPTAとして考えなければならない、そう思うのよ
三島、見回して、そしてふっと気づいたように榊に目をとめる。
三島 あらあら。いつまでも昔のまま。あ、そうか。不老長寿のお酒、ひとりでお飲みになったのね。今も昔も意地汚ない人だから
榊 誰だ、お前は・・・
吉岡 いやですよ。そんな怖い顔なさって
榊、三島と吉岡を交互に見比べる。
榊 まさか・・・。お前か・・・
三島 もう一千年、経つんですわね
吉岡 でも元気そうで何より
千尋1 どうしたの。吉岡先生、知っているの
榊 いや・・・。二人はとりつかれているんだ
千尋2 とりつくって、誰が
榊 一千年前、俺の妻だった女だ
千尋1 竹取物語の媼、おばあさんか
中村 何がどうしたっていうんだ
榊 わからないのか。この騒動の仕掛人がやっとお出ましになったのさ
中村 吉岡先生と三島さんが
三島と吉岡、二人の世界を作ってしまう。
三島 やはり冬はストーブに限りますわ。なんだか、セントラルヒーティングって温かくなった気がしないんですもの
吉岡 ええ、そうですとも。やはり石炭をくべる、このストーブが一番ですわ。それに、時計も
三島 ええ、私つねづね思うのですけど、時計にはやっぱり振り子がありませんとね
吉岡 ええ、そうですわね
三島 ええ、でないと時計は何で時を刻めばいいのでしょう、やはり振り子ですわよね
吉岡 そうそう、振り子ですわよ
吉岡 ね、もういいんじゃないかしら
三島 いえ、もう少しですよ
吉岡と三島、時計を見つめて。
吉岡 ちっくたっく
三島 ちっくたっく
吉岡 随分時が刻まれてきましたわ
三島 もう、いいんじゃないかしら
吉岡 そうね。もう、いいと思うわ
榊、声を絞り出すように。
榊 わかったぞ。お前、あいつを、あいつをよみがえらそうとしているんだな。それで学校をこんなふうにし
三島 ま、なんて人。目に入れても痛くない、自分達のかわいい我が子をあいつよばわりするなんて
吉岡 本当、信じられないわ
三島 ああ、一千年ぶりに見る私のかわいい赤ちゃん
吉岡 このいとおしさは誰にもわかりませんわ。もちろん、あなたにもね
榊 お前が何度、あいつをよみがえらそうと、俺は、あいつを斬る
三島 まぁ、怖い御方
吉岡 そうしたら、私、何度でもよみがえらせますわ。なんたって愛しい我が子なんですもの
千尋2 あー、頭、混乱してきた
千尋1 ね、どういうことなのよ。何が起ころうとしているの、いったい、我が子ってどういうこと
あぶくが噴きだす音が響きだす。世界が緑色に変わりだす。
三島 始まりましたわ
林、悲鳴をあげる。
林 竹が、竹が生えてきた
吉岡と三島と榊を除いて、下から生えて来る竹を避けるようにして動き廻る。
中村 うわぁっ、なんだ、竹が
吉田 林さん、こっちです。ここの方が竹が少ないわ
田中 うおおっ。ズボンの裾に竹が入って来る
千尋1 学校の、それも、二年前にできた新設校が
千尋2 今、竹の密生する竹林に変わる。全てが緑の世界に変わる

三島 育てるのには苦労しましたけど、皆様のおかげでやっと
吉岡 あなた達がいらっしゃると竹の中の化石が刺激されるんです、本当に感謝しますわ
榊 お前にはあいつが、かわいい赤ん坊に見えるのだろう。しかし、奴は鬼だ。修羅と呼ばれる破壊の鬼だ
三島 たとえ、あの子が鬼と呼ばれようとも、私にとってはかわいい我が子ですわ
榊 そうか・・・。お前自身が、いつの間にか鬼にと変わり果てていたのか
榊、叫ぶ。
榊 あの二人を動けないように押さえつけるんだ
中村 で、でも
榊 早く。出られなくなってもいいのか
中村と田中、慌てて吉岡と三島を机から離れられないように押さえつける。
吉田 榊さん。いったい、これからどうなるんです
榊 どうなるんじゃない。どうにかするんだ。絶対にあいつをよみがえらせてはいけない
吉田 あいつって・・・
榊 かぐや姫が生まれて来る
千尋2、指差して。
千尋2 竹が光ってる
榊 まずい、かぐや姫が生まれるぞ、二人とも光る竹を押さえつけるんだ
千尋2 どうして。見てみたい
榊、怒鳴って。
榊 押さえるんだ
千尋二人、思わず、見えない光る竹を両端から押さえつける。
榊 かぐや姫は人の怒りや哀しみ、苦しみの結晶体だ
千尋1 じゃあ、可愛い赤ちゃんは
榊 考えても見ろ、人が竹なんぞから生まれて来るか。炭は地中深く圧力と高温で金剛石という結晶体に生まれ変わる、だが、捨てられた思いは竹の中で修羅に結実する。全てを破壊する修羅という鬼に生まれ変わるんだ
三島 さぁ、私のかわいい赤ちゃん
吉岡 私に笑顔を見せておくれ
榊 しっかり、押さえていろ
千尋2 でも。でも、もたないよ、弾きとばされそうだ
三島 あなたは私のもの、あぁ、かわいくて仕方がない
吉岡 その、鋭い眼、唇をえぐる牙
三島 あぁ、何から何までいとおしい
千尋1 いとおしいのは親の勝手、それを子供に押しつけるな
三島 まぁ、折角、あなたの願いどおりに二人に分けてあげたというのに
吉岡 恩を仇で返すなんてなんて子でしょう、
林 いやな子ね。親のこの大きな愛がわからないなんて
吉田 ほんと、信じられないわ
千尋2 どういうこと。竹取りのおばぁさん、四人になった
榊 奴の思いがどんどん増殖しているんだ。もっと、意志を強くもて
千尋1 手のひらから入り込もうとするよ、黒いものが、重いものが
榊 全てはひとりの女の愛という名の思いが核になって始まった。対抗するには、その思いを越える思いが必要だ
三島 さぁ、お嬢さん達。その手を放しなさいな
吉岡 じゃないと、竹から手が離れなくなってしまいますわよ
林 さあ、早く手を放しなさい
吉田 さあ、手をおどけなさいな
千尋1 嫌だ、手は放さない。何もかもがあんたの手のひらの上で起こった出来事だというなら
千尋2 その手、踏み台にして飛びだしてやる
榊 よし。俺が斬る
榊、腰に手を当て、見えないなたを抜き、振り上げる。そして斬る、しかし、弾きとばされる。
千尋2 おじさん。もう、無理だよ
榊、大声を出して笑い。
榊 では、この村正、三百有余年、徳川幕府を脅かしたという、妖刀村正にてその竹、たたっ斬ってくれるわ
榊、見えない刀を上段に構える。
千尋1 なんか、おじさん、楽しんでいない
榊 思いっきり楽しめ、笑え、竹の中の黒い思いを吹っ飛ばせ
千尋二人、早口で、そしてだんだんゆっくりと。
千尋1 一昨年の夏、みんなで海に行ったよね
千尋2 覚えている、浜茶家で焼きそば食べたんだっけ
千尋1 その後、すぐにたこ焼き食べたんだ
千尋2 うん。それからそうだ、ラムネを飲んだ
千尋1 ビー玉が入っていたよね、へー、こんなのがあるのかって思った
千尋2 それから波打ち際で
千尋1 うん。海の水を空に跳ね上げたんだ
千尋2 そう、体一杯、跳ね上げた
千尋1 水玉がきらきら光ってた。綺麗だったよね
千尋2 太陽の光一杯浴びていたよね
千尋1 楽しかったよね
千尋2 嬉しかったよね
千尋二人 幸せだったよね
千尋1 楽しかった、生まれて初めての、そして最後の楽しかった夏の日
千尋二人 でも、でも、でも。本当に楽しかった、嬉しかった、幸せだった
榊、叫ぶ。
榊 斬る。てやぁっ
竹が斬れる音、間、鈴の音、一つ、二つ、三つ、次第に鈴の音が増え、そして鈴が無数になりだす。
無数の鈴の音が波打ちながら響いている。
榊 どうやら月が顔をのぞかせたらしい
千尋2 きれいな鈴の音
千尋1 これが・・・、化石の歌・・・
榊 様々な思いが悠久ともいえる時間をかけ、化石に生まれ変わる。いつか、天へとのぼるために
三島 人の心に怒りや哀しみ、苦しみが渦巻く限り、私の子はいつでもよみがえります
吉岡 今度はあなたのいらっしゃらないところで、あの子をよみがえらせてあげますわ
三島 あの子は私の大切な、大切な命ですもの
三島と吉岡、茫然としたように。
三島 ここは、いったい・・・
吉岡 そういえば、私、今まで何をやっていたのかしら
榊 長い夢が今、終わったんです
鈴の音が止まる。
田中 どうしてだ、まだ、ドアが開かない
榊 中心を切っただけですよ。根はまたまだ残っています
吉岡 いったい、何がどうしたの。ここは何処。職員室にいたはずなのに、ここ、竹薮の中・・・
榊、ドアに近づき、ライターをつける。火のはぜる音。教室(竹林)が燃えだす。
榊 ドアを動かしてごらんなさい
中村、おそるおそるドアを開ける。
中村 開いた・・・
三島 何をしているの、火なんかつけて
田中 黙っててください。この状況がわからんのですか
榊、中村にライターを渡して。
榊 この後はお任せしますよ
中村 どういうことです。榊さん、あなたは逃げないんですか
榊 初めて・・・、名前を呼んでくださいましたな
中村 いや・・・、それは
田中 まさか残るんじゃないでしょうね
榊 もちろん、逃げますよ。ただ、まだ、少し用事が残っておりましてね
吉田 じゃ、その用事、お済みになるまで待っていますわ
榊 冗談をいうもんじゃない。早く逃げなければ、結局火に巻き込まれますよ
林 でも、それじゃ、あまり・・・
榊 私は死ぬことのない人間です。大丈夫ですよ
榊、大声で。
榊 さぁ、行きなさい。そして・・・、全ての生命を大切にしなさい、それがこんな事件を繰り返させない唯一の方法です
榊 さぁ、早く
中村 外で待ってます。必ず
田中 必ず戻って来てくださいよ
林 さぁ、千尋ちゃんも
千尋1 母さん・・・
林 早くしないと
千尋二人、笑みを浮かべ、ゆっくりと片手を上げ。
千尋二人 さよなら、母さん
林 なに言ってるのよ、千尋ちゃん
千尋1 あたし達、本当に生きるって、どういうことなのか
千尋2 それを探しに行きます
林 なに言ってるのよ。幽霊でもいい、お父さんにも母さんから説明するから
千尋1 さよなら、母さん
千尋2 父さんや兄貴によろしくね
轟音。教室が崩れていく音。
田中 さぁ、早く
林 ち、千尋ちゃんー
林、田中と中村に引きずられていく。四人、名残惜しそうに、三島と吉岡は何かよくわかっていないように、ドアをとびだし消えて行く。
炎の逆巻く音。響き渡る。
榊 千尋ちゃんだったな。君達も帰りなさい
千尋1 何処へ帰れって言うの。もう、私達、死んでいるんだよ
榊 まだ、大丈夫、君達の躯は完全に死んでいない。肉体と結ぶ銀の糸がまだつながっているんだ。西の方向、耳を澄ませてごらん、自分の心臓の鼓動が微かに聞こえて来るはずだ
千尋1 いいよ、あたし達は
全ての音が消える。
榊 どうして
千尋2 中村の奴、言ってたよね
千尋1 おじさんのこと、ホームレスって
榊 ああ
千尋1 あたし達もホームレスなんだ。父さんもいる、母さんもいる、兄貴もいる。家族はいるよ、でも・・・。ホームレス、家庭はないんだ
千尋2 親から好かれていないから。だから、一緒にいると辛い・・・
榊 自分の子供が好きじゃない親が何処にいる
千尋2 何処にでもいるよ。ううん、好きな親を探すほうが難しい、みんな、勘違いしているのさ、信じ込んでしまっているんだ
千尋1 親は子供が大切なものってね
千尋2 ね、目を見ればわかるんだよ。ああ、この人は私が死んだらきっと泣いてくれるだろう、ひょっとしたら半狂乱になってくれるかもしれない、雨降る中、裸足で走ってくれるかもしれない
千尋1 でも・・・。飼っていた小鳥が死んだとか、十年生きた飼い犬が死んだってのと同じ目をして泣くんだ
千尋2 いずれ。立ち直ってくれるよ
千尋1 もし、立ち直らなくても、それは私が死んだためじゃない、私がいなくなったからなんだ、家族という幻想の中からね
千尋2 多分・・・、そこんとこ・・・。おじさんにもわからないだろうな
榊 そうか・・・。ほんの少しだけ、わかるような気がする。だが、俺はもう疲れたんだ。死ぬことのないこの自分が。それに、一千年の間、俺のやって来たことは、全てが間違いだった
千尋1 どう言うこと
榊 俺は竹の中の化石を煙にして天に帰す。しかし、大切なことは化石にしないことなんだ。辛いこと、哀しいことから、逃げるんじゃない。立ち向かうことなんだ。俺は化石を天に帰すことで、人が苦しみと立ち向かうことを妨げて来たんだ
千尋2 おじさん・・・
榊 俺は死ぬことができない、だが、俺自身が竹の中の化石になって、この炎に煙となり、そのまま消え去ることくらいならできるかもしれない
千尋1 おじさん、そんなのだめだよ
千尋2 一緒に生きよう
千尋1 おじさん。あたし達三人で、家庭を創ろう。うまくいくかどうか、わからないけど、でも
千尋2 新しい家庭を、ホームを創ろう
千尋1 血の繋がりなんか、意味無いよ。おじさん得意の思いで、思うことで家庭を、家族を創るんだ
榊 いや・・・。これからは若い君達の時代だ。世界には君達と同じ思いの若者が、まだまだたくさんいる、そんな彼や彼女達と新しい家族を創って行くんだ。君達の築く未来が楽しみだ。さぁ、君達も行きなさい
千尋1、思いつめたように。
千尋1 おじさん、ありがとう。あたし達、おじさんのこと、絶対に忘れない
千尋2 千尋。なんで、どうして諦めるのよ
千尋1 行くよ
千尋2 おじさんー
千尋1、千尋2を引っ張るようにしてドアから出て行く。
榊、あたりを見回し、また、ドアから首をつきだして、あたりを伺う。戻って。
榊 行ったな・・・。ちょっと残念だが、俺は荒野のロンリー・ウルフ。一人が丁度いい。さてと、面倒な大人も、ひねくれたガキもいなくなったことだし、よし、もう一千年生きてやる。なに、間違えたのならやり直せばいいだけのこと。この混沌とした時代、もうすぐ、爆発するような波瀾万丈の時代がやって来る。まだまだ、年貢なんか収められるか。一千年分の住民税の催促なんて、のしつけて送り返してやる
榊、気取って。
榊 では、この燃える教室と俺の今までの一千年に
千尋1 だから、大人は信用できないんだ
千尋二人、ドアから顔をつきだして。
榊 あ、お前ら
千尋1 お前じゃない、何度言ったらわかるの、あたし達の名前は、ち、ひ、ろ。千尋、これから長いお付き合いになるんだから名前ぐらい覚えておいてよね
榊 長いって・・・
千尋2 一人だけ、良い格好はさせないよ
千尋1 言ったでしょう、手のひらから飛びだすんだって
千尋2 なんか、あたし達、孫悟空みたい
千尋1 でも、違うのは、孫悟空は釈迦の手のひらから飛びだせなかったけど、あたし達は飛びだしてみせるってこと
千尋2 おじさん、銀の糸はいま
千尋1 切って来た
榊 俺の上手がいたとはな。あぁあー、仕方ない。がき連れて家族の真似事でもするか
千尋二人 がきじゃない
榊 なるほど、千尋さん達
千尋2 よし、よくできました
千尋1、榊の小指に絃を捲きつけるようにして。くっくっと、絃を引っ張る。つられて榊の手が動く。
榊を間に、三人、並んで。
榊 では・・・。この燃え盛る教室と
千尋二人 いままでの。あたし達の全てに
三人 せぇのぉで
3人で気取った感じで。
三人 さらば
榊 そら、逃げろー
轟音、学校が崩れ落ちる音。三人退場。終
 

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幻影悠華譚 15分版

幻影悠華譚 15分版


付記
数年前に1時間半ものとして作る。当時、お世話になっていた劇団に渡すが出来が良くないとのことで、お蔵入り。その後、縁があり、昨年(2003年)、15分ものとして作り直す。

 

夕暮れ時の静かな公園。
特に舞台に大道具は必要なし。
中央に男が一人。郵便屋、郵便マークの大きく書かれた黒い鞄を肩から下げている。
郵便屋、一枚ものの大きな地図を広げている、そして道に迷ったのか、時々、うなったり首を傾げている。
もう一人の登場人物、ボーイッシュな女が脚立の上に座り、美しい茜色の空、うっとりと眺めている。女、ふと思い出したように、鞄から地図帳を取り出し棒状に丸める。そして望遠鏡のようにして、眼にあてがい、空や風景を眺め出す。時々、肩を揺らしたり、鼻歌を歌ったり、気持ちよさそうに。
それぞれ、二人、お互いに気づいていない。
郵便屋 うーん、日が暮れだして、よく見えん。えーっと、山田さん、山田さんちはっと。どうも、この地図は見にくくていかんな
 郵便屋、地図を縦にしたり、横にしたり。あたりを見回したり。
郵便屋 色分けしてあって、これはわかりやすいと思ったんだが・・・、どうしてだか、この辺りの色と合わない
 郵便屋、鞄をさぐって。
郵便屋 確か・・・、虫眼鏡を
 虫眼鏡を取りだして。
郵便屋、地図をにらみつけるが、溜め息まじりに。
郵便屋 齢かな。にらみ過ぎて、目が霞んで来たぞ
 脚立の上から、女、郵便屋の声に気づいて。
女 ね、おじさん。その鞄はひょっとして郵便屋さん
 郵便屋、女に背を向けたまま、地図を見入るようにして、独り言のように返事。
郵便屋 現役ばりばりの郵便配達さ
女 じゃ、その郵便屋さんが道に迷ったわけだ
郵便屋 ん・・・、弘法も筆の誤り、河童の川流れ、俺みたいな大ベテランでもたまには道に迷うのさ
 郵便屋、地図から顔をあげて。
郵便屋 そうだ、この辺に『茜色の山田さん』ってお宅、知らないかい
女 『茜色の山田さん』・・・、茜色って、この空の色のこと
郵便屋 いや、もっと透き通る炎の茜色だ
女 なんか話が見えてこない。ね、その何とかの山田さんの住所ってどこ、何番地
郵便屋 あぁ、ちょうど地図を持っているんだが
 女、脚立を降りて、郵便屋の地図をのぞき込み。
女 これって・・・。ね、これ世界地図だよ
郵便屋 だから、困っているんだ。日本なんか、赤色一色で俺の小指ほどもない。だから、山田さんちを、ほら、この大きな虫眼鏡で探しているんだが。どうも、赤色の点々しか見えてこなくてな
 女、くすぐったそうに笑って。
女 ね、ちょっと、頭、揺すってあげようか。からから、音がするかもしんない
女 あのね、虫眼鏡なんかで世界地図見つめたってなにも見えてこないんだよ。わかる、っかな
 郵便屋、少しむっとしたように。
郵便屋 うっうん
女 ね、よく聴いて。世界地図の中の日本ってのは、遠く、遠くから日本を眺めたものなんだ。・・・いい
郵便屋 ああ、そうだろうな。宇宙のずっと遠くからじゃないと、こんなふうには見えてこない
女 なんだ。わかってんじゃない
郵便屋 え・・・
女 さて、それでは問題です。遠いところを眺めるのには、どんな道具を使いますか
郵便屋 ・・・望遠鏡だろう
 女、郵便屋から地図をひったくって、くるくると丸めだす。
女 だから、こうやってさ、おじさんの世界地図を丸めて望遠鏡を作ればいいのさ。さぁ、できた。覗いてごらんよ
郵便屋 おいおい、そんなもので見えるわけないだろう
女 あぁあ、ものの道理がわかんないとうしろうには困ったもんだね。しょうがない、あたしが手伝ってやるよ
 女、脚立を郵便屋の後ろに運び、脚立の一段目に足を乗せ、両手は郵便屋の肩に。つまり、郵便屋の頭の上から喋ることになる。
女 おじさん、深呼吸をして。
 二人でふぅぅっと深呼吸。
女、次第にあやしく語りだす。
女 この望遠鏡の倍率は、どこぞの天文台の望遠鏡ですら裸足で逃げ出すって代物だ。見えすぎて人の心の中まで見えてしまうんだよ。
女 さぁ、おじさん、肩の力を抜いてさ、頭をやわらかくするんだ。
 女、郵便屋の肩をもみ出す。
郵便屋 うまいもんだ、60年の肩こりが消えていく
 女、郵便屋の頭を指圧する。
女 頭もなんだか軽くなったろう
郵便屋 頭の後ろ辺りがすうぅっとしてきた
女 ちょっとの間でいい、心閉じこめる言葉ってやつを忘れるのさ、あんたには無理なのよ、そんなことできるはずないだろう、ほら、やっぱり無駄だった。そんな言葉は忘れるんだ。大丈夫だよ、きっとうまくいくもの、安心して。
郵便屋 なんだ・・・、何十年ぶりだ、こんなに気分がいいのは。
女 それでいいのさ、さぁ、目をつぶって。そして望遠鏡を覗き込むようにさ。
 郵便屋、望遠鏡を目元に当てる。
女 いい感じだ。
 女、郵便屋の顔に自分の顔を寄せる。
女 さぁ、しっかり目を開けて、望遠鏡、覗き込むんだ
 郵便屋、望遠鏡を左右に振りながら。
郵便屋 おおっ、これはいい。よく見える
 女、話口調、元に戻って。
女 こんな即席望遠鏡でも、世界地図で創ってあるからね、性能は最高さ。おじさん、よく見えるだろう。ね、いま、何見てる
郵便屋 これは何処の家だろう。女の子がピアノを弾いている。気持ち良さそうに躯をゆらしながら。まるで、妙なる調べが聞こえて来るようだ
 郵便屋、鼻歌混じり、少し望遠鏡を動かして。
郵便屋 おぉっと、これは凄い
女 なになに
郵便屋 夫婦喧嘩だ。おっ、亭主が女房にストレートパンチ
郵便屋 あ、よけた
女 ね、見せて、見せて
 郵便屋、躯をくねらせながら。
郵便屋 おっ、あ、うっ
女 ねっ、ね。続きどうなったんだよ
 郵便屋、大げさによけて。天体望遠鏡を降ろす。
郵便屋 危ない!丼茶碗が飛んで来た
女 はい、はい、次はあたし、あたしの番
郵便屋 ちょ、ちょっと、待ってくれ。山田さんちを探さなきゃならないんだ
女 もう、大人って奴は。ね、あたしが教えてあげたんだよ
郵便屋 ええっと、山田さん、山田さんはっと
 そして、唐突に。
郵便屋 あぁっ、腹減ったなぁ
女 いきなりなんだよ
郵便屋 晩飯・・・、食っている。家族、若い夫婦、小さな子供が一人、テーブルについて、はは、いいなぁ。おっ、子供がお箸を落としたぞ
女 きゃはははっ
郵便屋 ど、どうした
女 箸が転げただけでも可笑しい年頃
郵便屋 ん・・・。お前さん、女だったのか
 郵便屋、望遠鏡で、まじまじと女をながめる。
女、帽子を取り。
女 ああん、ほらほら、長い髪
 望遠鏡を降ろして。
郵便屋 いまどき、男でも髪の毛伸ばしているぞ。昨日なんか、よっ、お茶しないなんて声かけたら、髭、生やしてんだ、そいつ
 郵便屋、泣き真似。
女 あー、あたし、思いっきり傷ついた。折角・・・。いいや、あたし、おじさん、嫌いだから教えてやらない
郵便屋 え、何をだ。山田さんち、知ってるのか
女 ううん、もっといいこと。レンズの話さ
郵便屋 レンズ・・・、なんだそれ
女 あれ、あたし、いま、何か言ったっけ。さて、帰ろうかな。帰って晩御飯の用意をしよっと
郵便屋 おいおい、レンズって何なんだ。教えてくれよ
女 えっ・・・、まさか、知らないの。レンズだよ、レンズ。ひょっとしておじさん、実はレンズのない星からやってきた宇宙人
 郵便屋、女に押され気味で。
郵便屋 いや、あっ、あぁ、レ、レンズね
女 そう、レンズ
郵便屋 そっそうだ。眼鏡のレンズ
女 そ、れ、か、ら
郵便屋 これこれ
 郵便屋、虫眼鏡を差しだす、女、受け取って。
女 まだまだ
郵便屋 そっ、それに・・・
女 それに
郵便屋 コンビニの監視ビデオのレンズ。そうだ、ドアの真ん中についている、ぴんぽん、ドアの内側から誰だ誰だと覗く奴
女 あぁあ、おじさん、レンズにろくな知り合いがないんだな。日ごろの行いが悪いって証拠だよ。あたしが言いたいのは、その望遠鏡の根元に取り付ける、ほら接眼レンズのことさ
郵便屋 この望遠鏡にか・・・
女 そう。ね、おじさんはその望遠鏡で山田さんち、探すんだろう
郵便屋 ああ、そうだが
女 だから、これをあげるよ。人探しには便利だからさ
 女、鞄を降ろし、中から数冊、歴史の本を取りだす。
女 古代に中世。こいつは時が経ちすぎて、つちくれしか見えてこない、まっ、近代でってとこかな
 女、本を一枚破り、郵便屋に渡す。
郵便屋 これが、どうしたんだ
女 わかんないかなぁ。歴史の本、一枚破り捨て、ほら、こう、この望遠鏡にはめ込むんだ
 女、郵便屋から望遠鏡と紙切れをひったくると、丸めて、望遠鏡の目をあてる部分に紙切れを被せる。鞄からテープを取り出し、しっかりと貼り付ける。
女 覗いてごらん。歴史レンズの力が他人の生きて来た時間をさ、まとめて見せてくれるから
 郵便屋、受け取り、望遠鏡を覗き込む。
郵便屋 うーん
 郵便屋を説得するように。
女 人は誰もが自分の過ごして来た時間を背負って歩いている。だから、この歴史レンズで、ほら、他人が背負っている時間って奴をひとまとめにしてのぞきこむのさ
女 おじさんの云う「透き通る炎のような茜色」、見えてきやしないかい
郵便屋 茜色、燃える炎の茜色・・・、俺も、俺自身もあの光の中にいた
女 それってどういうこと
郵便屋 怖くて恐ろしくて、自分がひたすら無力なものでしかない、そう思い知らされたんだ
女 いったい、それはいつの時代のものなんだ
郵便屋 俺の体が燃えていくんだ、熱い・・・、息が、息ができない
 郵便屋、望遠鏡を降ろす、体がふるえ出す。
女 どうしたんだよ。おじさんの体、燃えるように熱いよ
 郵便屋、苦しい息で。
郵便屋 これだ・・・。見つけたぞ、この色なんだ
 女、子供をあやすように、郵便屋の頭をなでる。
女、大人びた感じで、いたわるように。
女 大丈夫、大丈夫だからね
 体の震えがとまり、郵便屋、夢見るように。
女 望遠鏡はおじさんを、何処に連れていったんだい
郵便屋 茜色に風すらも染まる風景が,そうだ、ひたすらに続く夢幻の世界
女 それがおじさんの云う山田さんの色なんだね
郵便屋 視線を落とせば赤銅色の大地だ、土までもが赤く赤く燃えつきた大地だ、その大地が何処までも、何処までも続いている
女 いったい、何処の風景なの、それは
郵便屋 地上にある筈の家や橋や電信柱、人が生きていたという、それら証の全ては
女 全ては
郵便屋 空襲、嵐のように降り頻った焼夷弾に全て消されていった。生命と呼べるもの、一つだにこの大地には見当たらない
 女、元に戻って。
女 空襲・・・、戦争なのか
郵便屋 黒い陰だ・・・、よく見つめれば、人の形をした消し炭と煙りたちのぼるいくばくかの瓦礫がそこかしこと、息をひそめ取り残されている
女 人型の消し炭って・・・
郵便屋 彼らは恐れている
女 いったい、何に恐れている
郵便屋 ひたすらに、ひたすらに恐れているんだ。そして・・・、嘆いている
女 恐れ、嘆き、痛み、苦しみ。悔い・・・
郵便屋 焼け焦げた柱が、一本、二本・・・、骸を貫く卒塔婆の様に立ち尽くしている
 郵便屋、夢の中、惚けたようにして呟く。
郵便屋 ・・・もう静かにしていよう、茜色に染めつけたホルマリンを世界に注ぎ込んで。過去は思い出したくない、未来にも目をつぶろう、俯いて、時の流れをやり過ごそう・・・。もう、もう、いいんだ
 郵便屋、低くうめいて。いきなり、自分の頬を平手で叩き、目を見開いて、望遠鏡を覗き込む。
郵便屋 見つけた。瓦礫の中、焼け残った表札が表を向いて落ちている
女 表札にはなんて書いてある
郵便屋 漢字二文字・・・。山・・・、田・・・
郵便屋 一九四五年、日本は負けた。大東亜戦争。後年、太平洋戦争と呼ばれし戦だ
女 おじさんはこれからいったい、何をしようというんだ
郵便屋 そうだ、俺は一体何をしようとしていたんだ
女 おじさんは郵便屋さんだろう
郵便屋 そうだ、そうなんだ、俺は届けなきゃならない
女 紅蓮に燃える茜色の山田さんに手紙を届けるのか
郵便屋 そうだ、届けるんだ。軍事郵便、戦地から内地へ送られた兵士の言葉を、故郷に残した家族へのせつなる思いを俺は伝えなきゃならない
女 それがおじさんの仕事なのか
郵便屋 そうだ。俺は郵便屋だからな。
 郵便屋、鞄を軽く叩いて。
郵便屋 俺はあまり出来が良くないらしい、こいつの中には配らなきゃならん手紙で一杯だ。じゃあな、ありがとよ
女 あぁ、しっかりね
 郵便屋、女の手をぎゅっと握り、離して、駆け出す、2,3歩、不意に立ち止まり会釈、そして退場。
 女、静かに。そして、去っていった郵便屋に語りかけるように。
女 夕暮れ時は、逢魔の時刻、明るい光の中では生きてけない、そんな思い達が渦巻いている。ね、おじさん、鞄の中の手紙、いつ、配り終えるんだい・・・、ね、おじさん・・・
 女、ふと思い当たったように腕時計を見る。
女 変だ、この時間、もう夜のはずだよ。それなのにまだ、空は茜色だ、どうして・・・。ひょっとしてあたし、おじさんの世界に紛れ込んでしまったのか
 女、手に持っていた虫眼鏡に気づく。溜息ついて。
女 なんだよ、もぉ。せっかく、人がいいふいんきだしていたのにさ
 女、脚立に乗り、左手は目の前で筒、右手は虫眼鏡を持って、その腕を伸ばす、望遠鏡を覗き込むようにして。
女 あれだな
 女、郵便屋に呼びかけるように。
女 おおーい、おじさーん。待ってよー、あたしもつきあうからさぁー
女 ・・・なんだよ、振り返って、手振ってる。はは、それじゃ、あたしも行くか。
 女、派手に脚立を飛び降りる。
 完

 

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幻影悠華譚

『幻影悠華譚』

 

あらすじ
夜の公園を舞台に始まる根無し草の話。
砂場で家族を演じる男と女。何かの思いに引き寄せられてやってくる自称郵便屋と若い女。
彼らが出会うことで、それぞれの何かが欲しい、何かが足りない、そんな思いが発動し、彼らは現実世界から、虚構の世界、ひたすら太平洋戦争が続く虚構の世界に入り込んでいく。

 

登場人物
郵便屋(自称)男
蒼瀬 女
斎藤 女
木村 男
吉田 男
田中 女

 

 


舞台は夕暮れ時から夜にと変わりつつある公園。
砂場と滑り台とぶらんこがある。
中央に男が一人。郵便屋、郵便マークの大きく書かれた黒い鞄を肩から下げている。
郵便屋、一枚ものの大きな地図を広げている、そして道に迷ったのか、時々、首を傾げている。
もう一人の登場人物、女(蒼瀬)が滑り台の上に座っている。美しい茜色の空、うっとりと眺めている。蒼瀬、ふと思い付いたように、鞄から地図帳を取り出し棒状に丸める。そして望遠鏡のようにして、眼にあてがい空や風景を眺め出す。たまに二つ作って双眼鏡にしたり。
時々、肩を揺らしたり、リズムを取ったり、鼻歌を歌ったり、気持ちよさそうに。
それぞれ、二人、お互いに気づいていない。

郵便屋 うーん、よくわからん。えーっと、山田さんち、山田さんちはっと。どうも、この地図は見にくくていかんな
郵便屋、地図を縦にしたり、横にしたり。あたりを見回したり。
郵便屋 色分けしてあって、これはわかりやすいと思ったんだが・・・、どうもこの辺りの色と合わない
郵便屋、ポケットをさぐって虫眼鏡を取りだして。
郵便屋、溜め息まじりに。
郵便屋 齢かな。にらみ過ぎて、目が霞んで来たぞ
滑り台の上から、蒼瀬、ふっと郵便屋の声に気づいて。
蒼瀬 ね、おじさん。その鞄はひょっとして郵便屋さん
郵便屋、蒼瀬に背を向けたまま、地図に見入るようにして、独り言のように。
郵便屋 現役ばりばりの郵便配達さ
蒼瀬 じゃ、その郵便屋さんが道に迷ったわけだ
郵便屋 ん・・・、弘法も筆の誤り、河童の川流れ、俺みたいな大ベテランでもたまには道に迷うのさ
郵便屋、地図から顔をあげて。
郵便屋 そうだ、この辺に『茜色の山田さん』ってお宅、知らないかい
蒼瀬 『茜色の山田さん』・・・、茜色って、この空の色のこと
郵便屋 いや、もっと透き通る炎の茜色だ
蒼瀬 なんか話が見えてこない。ね、その何とかの山田さんの住所ってどこ、何番地
郵便屋 あぁ、ちょうど地図を持っているんだが。うーん、わからん
蒼瀬、滑り台を降りて、郵便屋の地図をのぞき込み。
蒼瀬 これって・・・。ね、これ世界地図だよ
郵便屋 だから、困っているんだ。ほら、日本なんか、赤色一色で俺の小指ほどもない。だから、山田さんちを、ほら、この大きな虫眼鏡で探しているんだが。どうも、赤色しか見えてこなくてな
蒼瀬、くすぐったそうに笑って。
蒼瀬 ね、ちょっと、頭、揺すってあげようか。からから、音がするかもしんない
蒼瀬 あのね、虫眼鏡なんかで世界地図見つめたってなにも見えてこないんだよ。わかる、っかな
郵便屋、少しむっとしたように。
蒼瀬 ね、よく聴いて。世界地図の中の日本ってのは、遠く、遠くから日本を眺めたものなんだ。・・・いい
郵便屋 ああ、そうだろうな。宇宙のずっと遠くからじゃないと、こんなふうには見えてこない
蒼瀬 なんだ。わかってんじゃない
郵便屋 え・・・
蒼瀬 さて、それでは問題です。遠い星を眺めるのには、どんな道具を使いますか
郵便屋 ・・・天体望遠鏡だろう。・・・ああ、そうか
郵便屋、地図を丸めて、望遠鏡のようにして覗く。そして、望遠鏡を左右に振りながら。
郵便屋 おおっ、これはいい。よく見える
蒼瀬 こんな即席望遠鏡でも、世界地図で創ってあるからね、性能は最高さ。おじさん、よく見えるだろう。ね、いま、何見てる
郵便屋 うーん、これは何処の家だろう。女の子がピアノを弾いている。気持ち良さそうに躯をゆらしながら。まるで、妙なる調べが聞こえて来るようだ
郵便屋、鼻歌混じり、少し望遠鏡を動かして。
郵便屋 おぉっと、これは凄い
蒼瀬 なになに
郵便屋 夫婦喧嘩だ。おっ、亭主が女房にストレートパンチ
郵便屋 あ、よけた
蒼瀬 ね、見せて、見せて
郵便屋、躯をくねらせながら。
郵便屋 おっ、あ、うっ
蒼瀬 ねっ、ね。続きどうなったんだよ
郵便屋、大げさによけて。天体望遠鏡を降ろす。
郵便屋 危ない・・・。丼茶碗が飛んで来た
蒼瀬 はい、はい、次はあたし、あたしの番
郵便屋 ちょ、ちょっと、待ってくれ。山田さんちを探さなきゃならない
蒼瀬 もう、大人って奴は。ね、あたしが教えてあげたんだよ
郵便屋 ええっと、山田さん、山田さんはっと
そして、唐突に。
郵便屋 あぁっ、腹減ったなぁ
蒼瀬 今度はどうしたの
郵便屋 晩飯・・・、食っている。家族、若い父親と母親、小さな子供が一人、テーブルについて、はは、いいなぁ。おっ、子供がお箸を落としたぞ
蒼瀬 きゃはははっ
郵便屋 ど、どうした
蒼瀬 箸が転げただけでも可笑しい年頃
郵便屋 ん・・・。お前さん、女だったのか
郵便屋、望遠鏡で、まじまじと蒼瀬をながめる。そして、望遠鏡を降ろして。
蒼瀬、帽子を取り、少し郵便屋に挨拶するように。
蒼瀬 ほらほら、長い髪
郵便屋 いまどき、男でも髪の毛ぐらい伸ばしているぞ。昨日なんか、よっ、お茶しないなんて声かけて、そいつが振り返ったら、髭、生やしてんだ、そいつ
郵便屋、泣き真似。
蒼瀬 あー、あたし、思いっきり傷ついた。折角・・・。いいや、あたし、おじさん、嫌いだから教えてやらない
郵便屋 え、何をだ。山田さんち、知ってるのか
蒼瀬 ううん、もっといいこと。レンズのことさ
郵便屋 レンズ・・・、なんだそれ
蒼瀬 あれ、あたし、いま、何か言ったっけ。さて、帰ろうかな。かえって晩御飯の用意をしよっと
郵便屋 おいおい、レンズって何なんだ。教えてくれよ
蒼瀬 えっ・・・、まさか、知らないの。レンズだよ、レンズ。ひょっとしておじさん、実はレンズのない星からやってきた宇宙人
郵便屋、蒼瀬に押され気味で。
郵便屋 いや、あっ、あぁ、レ、レンズね
蒼瀬 そう、レンズ
郵便屋 そっそうだ。眼鏡のレンズ
蒼瀬 そ、れ、か、ら
郵便屋 これこれ
郵便屋、虫眼鏡を差しだす、蒼瀬、受け取って。
蒼瀬 まだまだ
郵便屋 そっ、それに・・・
蒼瀬 それに
郵便屋 カメラのレンズ。それにコンビニの監視ビデオのレンズ。そうだ、ドアの真ん中についている、ぴんぽんって鳴って、ドアの内側から誰だ誰だと覗く奴
蒼瀬 あぁあ、おじさん、レンズにろくな知り合いがないんだな。日ごろの行いが悪い。あたしが言いたいのは、その天体望遠鏡の根元に取り付ける、ほら接眼レンズのことさ
郵便屋 この天体望遠鏡にか・・・
蒼瀬 そう。ね、おじさん、その天体望遠鏡で山田さんち、探すんだろう
郵便屋 ああ、そうだが
蒼瀬 なら、これをあげるよ。人探しには便利だから
蒼瀬、鞄を降ろし、中から数冊、歴史の本を取りだす。
蒼瀬 古代に中世。まっ、近代でいいかな
蒼瀬、適当なところを一枚破り、郵便屋に渡す。
郵便屋 これが、どうしたんだ
蒼瀬 わかんないかなぁ。歴史の本、一枚破り捨て、ほら、こう、この天体望遠鏡にはめ込むんだ
蒼瀬、郵便屋から天体望遠鏡と紙切れをひったくると、丸めて、望遠鏡の目をあてる部分に紙切れを被せる。
蒼瀬 覗いてごらん。おじさんの思いが、歴史レンズの力で他人の生きて来た時間軸を遡って行くから
郵便屋、受け取り、天体望遠鏡を覗き込む。
郵便屋 うーん
郵便屋を説得するように。
蒼瀬 人は誰もが自分の過ごして来た時間を背負って歩いている。だから、この歴史レンズで、ほら、他人が背負っている時間って奴をひとまとめにしてのぞきこむのさ
郵便屋 おおっ、これだ・・・。この色なんだ
蒼瀬、少し大人びた感じで。郵便屋、夢見る様に。
蒼瀬 どんな色を見ている
郵便屋 夕暮れ時の色だ。茜色に風すらも染まる風景が,そうだ、ひたすらに続く夢幻の世界
蒼瀬 それがおじさんの云う山田さんの色なのか
郵便屋 視線を落とせば赤銅色の大地だ、土までもが赤く赤く燃えつきた大地だ、その大地が何処までも、何処までも続いている
蒼瀬 いったい、何処の風景なんだ、それ
郵便屋 地上にある筈の家や橋や電信柱、人が生きていたという、それら証の全ては
蒼瀬 全ては
郵便屋 空襲、嵐のように降り頻った焼夷弾に全て消されていった。生命と呼べるもの、一つだにこの大地には見当たらない
蒼瀬 空襲・・・、戦争・・・、なのか
郵便屋 黒い陰だ・・・、よく見つめれば、人の形をした消し炭と煙りたちのぼるいくばくかの瓦礫がそこかしこと、息をひそめ取り残されている
蒼瀬 人型の消し炭って・・・
郵便屋 彼らは恐れている
蒼瀬 いったい、何に恐れている
郵便屋 ひたすらに、ひたすらに恐れているんだ。そして・・・、嘆いている
蒼瀬 恐れ、嘆き、痛み、苦しみ。悔い・・・
郵便屋 焼け焦げた柱が、一本、二本・・・、骸を貫く卒塔婆の様に立ち尽くしている
郵便屋、夢の中、惚けたようにして呟く。
郵便屋 ・・・もう静かにしていよう、茜色に染めつけたホルマリンを世界に注ぎ込んで。過去は思い出したくない、未来にも目をつぶろう、俯いて、時の流れをやり過ごそう・・・。もう、もう、いいんだ
郵便屋、低くうめいて、天体望遠鏡を降ろし、目を見開いて。
郵便屋 見つけた。瓦礫の中、焼け残った表札が表を向いて落ちていた
蒼瀬 表札にはなんて書いてある
郵便屋 漢字二文字・・・。山・・・、田・・・
郵便屋 一九四五年、日本は負けた。大東亜戦争。後年、太平洋戦争と呼ばれし戦だ
蒼瀬 おじさんはこれからいったい、何をしようというんだ
郵便屋 届けるのさ。軍事郵便、戦地から内地へ送られた一人の兵士の言葉を、故郷に残した家族へのせつなる思いを
郵便屋と蒼瀬退場。

今までの舞台と同じ。夜の児童公園。中央に街灯、その下に砂場がある。その他、滑り台にブランコ。とりあえずは、公園っぽい零囲気。
会社帰りの男(吉田)疲れ切ったようにして舞台に登場。滑り台の支柱に凭れて座り込む。鞄、抱き抱えて。
学生(大学生くらい:田中(女))俯きながら登場。男から遠からず、近からずに座り込む、丸く両手で両足を抱えこんで。
老人(木村)、寒そうに舞台に登場、木箱でできた林檎の箱を抱えている。そして、くたびれた背広を着ている。ぶらんこに乗る。ちょっと黒沢明監督の『生きる』をイメージして。 ゴンドラの唄 まで歌う必要はないけれど。
三人三様に俯きながら、街灯の明りを避けるように。
会社帰りの女(斎藤)、両手にコンビニの袋を持って、息堰切って駆けこんでくる。そして、砂場に入ると中の砂を掻き分け一枚の木切れを取り出す。木切れには大きく 山田 と書いてある。
斎藤はほっと一息つくと、立ち上がり街灯に掘り出した 山田 という表札を掲げる。
斎藤、腕時計を見て。
斎藤 なんとか間に合ったようね。いくらお国のためだからってさ、こんな残業までやらされるなんて。あぁ、もう、やってらんないよ
老人、ゆっくりと顔を上げる。斎藤に気づく。やわらかに笑みを浮べて。
ぶらんこを離れ、斎藤に向かって歩く。
斎藤 父さん、お帰り
木村 涼子もご苦労さんだな。仕事で疲れて帰って来たと思ったら、すぐに晩飯の用意なんだから
斎藤 いいよ。今は大変な時代なんだから
木村、砂場に入り、木箱をテーブルがわりに中央に置く。
木村 早く、戦争が終わってくれんとかなわんよ
斎藤、木村に顔を寄せ、人差し指で大声を出すなとジェスチャー。あたりを見回して。
斎藤 そういう事は俯いてつぶやきながら言うの。何処に特高警察の眼があるかわかんないよ
木村 嫌な時代が続くなぁ。もう何年になるんだ
斎藤、仕方なさそうに笑みを浮べて。
斎藤 仕方ないよ、どうしようもないんだから。当分、このままだね
ゆっくりと田中、顔を上げる。ぼおっとした顔。ゆっくりと意識を取り戻し、斎藤を見つける。立ち上がり。
田中 お姉ちゃん、ただいま
斎藤 お帰り
田中、快活に駆寄り、砂場に入る。
三人、木箱のテーブルを囲むようにして座る。
斎藤 陽子。学校の方はどう。授業は再開しそう
田中 当分無理だね。今日なんか、本当なら数学の時間なのに、校庭耕して薩摩芋の苗を植えるんだってね。まぁ、勉強苦手の私めにとりましては、授業のない方が何かと好都合ではありますが
斎藤 何言ってのよ。陽子は気楽なことばっかり言っているんだから。ね、父さん、陽子のこと、叱ってやってよ
木村 お姉ちゃんの言う通りだぞ。学生は未来の担い手なんだ、だから平時であろうと、今のような戦争している時代であろうと、最低限の学問はしなければならん
田中 へへーっ、御意にございまするぅってさ。ね、涼子姉さん、お腹減ったよ、晩御飯まだ
斎藤 明がまだでしょう
田中 そっか・・・。兄貴、遅いなぁ。何やってんだろう
木村 明はまだなのか
斎藤、うなずいて。
斎藤 最近、明、帰りが遅いのよ
田中、はっと気が付いて。
田中 恵子さんとデートだ
斎藤 それを言うなら、逢い引き。デートなんて敵国語使ったら、言われてしまうわよ、お前、スパイだろうとか、非国民だなとか
田中 あぁ、姉さんも使った、スパイって。それも言うなら諜報員、諜報員だよ
木村 嫌な時代になったもんだ
斎藤 ほんと嫌な時代、これからどうなるんだろう
木村 まだまだ、戦争は続くだろうな
斎藤 続くどころかどんどんひどくなってるよ。野菜なんか、ほら、例えばキャベツ、昨日の二倍の値段だよ。牛肉だって、ほとんどお店に並んでいないし。かしわが少しあるくらいかな
木村 まぁ、俺は肉よりも魚が好きだから、まぁ、いいが
斎藤 魚だって同じ。お店にもほとんど並んでないんだから
木村 日本は島国だろう。なら、魚や貝や
斎藤 捕りに行くはずの人が戦争で死んでんだよ
田中 なんだか難しい話。あぁあ、兄貴、早く帰ってこないかなぁ。お腹減ったよう

郵便屋と蒼瀬登場。郵便屋、地図で作った望遠鏡を目にあてながら、好奇心一杯の子供のようにあちらへこちらへと。蒼瀬、疲れ果てながらも郵便屋の鞄を引きずって、後をついて歩く。
郵便屋 なるほど、わかった
蒼瀬、もうこりごりといったふうで。
蒼瀬 やっと・・・、見つかったの。山田さんち。本当におじさん、郵便屋さんなの、方向感覚まるでなしじゃない
郵便屋 いや・・・。片目で望遠鏡を覗きながら歩いているだろう。この歩きにくさ、ピーターパンに出て来る片目の海賊の気持ちがやっとわかったと思ってな。うん、子供の頃からの謎がやっと解けた
蒼瀬 なに言ってんだよ。さんざん歩かせといて。もういやだからね、あたし。もう一歩も歩けない
蒼瀬、鞄を降ろして座り込む。
郵便屋、それに気づいて、蒼瀬の隣りに座る。郵便屋は疲れた様子は全くなし。
郵便屋 どうしたんだ
蒼瀬 自己嫌悪に浸っているんだよ。自分のお人好し加減にさ
郵便屋 世の中は持ちつ持たれつといってだな。そうだろう、人という字は人と人が支えあってだな
蒼瀬 それ以上は言わないように。あたし、怒るよ
郵便屋 なにへばってんだ。まだ、二時間しか歩いてないじゃないか
蒼瀬 二時間もだよ。本当に
郵便屋 たかだか二時間。それも歩いているだけでばてるとは。最近の若者はだらしないな
蒼瀬 だらしなくって結構。そいじゃ、あたし、帰るから
郵便屋 おいおい。この憐れな年寄りを一人置いてく気か
蒼瀬 なにが年寄りだよ。どう見ても四十そこそこ、働き盛り。これからもしっかり働きなよ。今の日本はおじさん達が支えているんだから
郵便屋 ごほげほ。お、俺は若く見えるかもしれんが、もうすぐ九十にも手が届く年寄りなんだ。あぁ、俺にも、ごほげほ、あんたのような孫娘がおったのだが、病気で死なせてしまってのう。おおい、千尋、天国でこの憐れな年寄りを見守っておくれよ
蒼瀬 え、なんで、あたしの名前知ってんだ
郵便屋 はは、お前さんの鞄に名前が書いてあったぞ。鞄にマジックで名前を書くなんて、子供みたいだな
蒼瀬 うるさいね、これは子供の時の鞄なの。あたし、物持ちがいいのよ
蒼瀬、土を払って、大きく伸びをする。
蒼瀬 変なおじさんに関わって・・・、やっぱり、人には声をかけるもんじゅないな
蒼瀬、街灯の 山田 という表札に気がつく。
蒼瀬 あ、あれ。おじさん、ちょっと
蒼瀬、郵便屋を引っ張る。
郵便屋 どうした。腹でも空いたか。ラーメンぐらいなら
蒼瀬 違うよ、あれ。見てごらんよ
蒼瀬、山田の表札を指差す。
郵便屋 おおっ、あれは
郵便屋、慌てて望遠鏡を向けて覗く。
蒼瀬 そこにあるのに、どうして天体望遠鏡で覗くんだよ
郵便屋 へ・・・。あ、あ、そうか
郵便屋、表札に駆け寄る。
郵便屋 そうだ、これだ、これ
蒼瀬、疲れていたのも忘れて、郵便屋とまじまじと表札をのぞき込む。
蒼瀬 ね、この表札・・・
郵便屋、茫然としたように。
郵便屋 あぁ
蒼瀬 付いてるの、これ、街灯にだよね
郵便屋 確かに・・・。街灯だ
蒼瀬、砂場に座っている三人、家族団欒中の姿に驚いて、声を上げそうになるのを自分の手で口を押さえる。
郵便屋、街灯の下に男が俯いてうずくまっているのを見つける。
蒼瀬、郵便屋に知らせようとして、郵便屋が擬視している男に気づく。
蒼瀬 ね、これってホームレスの人達・・・
郵便屋 だと思うか・・・
蒼瀬 よく地下街の隅や柱に寝そべっている人達、には・・・、見えない
郵便屋 俺も同感だ
蒼瀬 じゃ、意見の一致を見たところで
郵便屋 退散、といきたいところなんだが
郵便屋、 山田 という表札を見て。
蒼瀬 じゃあ、できるだけ刺激しないように・・・
郵便屋 そ、そうだな。よし、ちょっと練習しよう
蒼瀬うなずいて、二人少し場所を移動し。
郵便屋、とんとんとドアをノックするように手を動かして。
郵便屋 夜分、失礼しますが
蒼瀬 はぁい、どなた
郵便屋 郵便の配達なんですが、この辺りに山田さんというお宅はありませんでしょうか
蒼瀬 はーい、あたしんちでーす。・・・ちゃんちゃん
蒼瀬 おじさん、それって思いっきりストレートだよ
郵便屋 俺は回りくどいことは苦手なんだ
蒼瀬 交代、交代。今度はあたしがおじさんの役やるから
郵便屋 そ、そうか。すまんな
蒼瀬、すうっと深呼吸して。
蒼瀬 夜分、失礼します
まるで、蒼瀬の言葉に答えるようなタイミングで。
斎藤 お帰り
郵便屋と蒼瀬、驚いて振り返る。
吉田、起き上がり、なんかいい事でもあったのかといった感じでうきうきと砂場へ。
吉田 ただいまー
田中 兄貴、その顔。デート大成功って顔じゃない
吉田 えっ・・・。陽子、お前どうして・・・
田中、吉田の顔を指差して。
田中 ほれほれ、そこ、頬のとこ。右の。赤色でデート大成功って書いてある
吉田、慌てて頬を手で擦る。
田中 すごいリアクション。兄貴、かなり舞い上がっているな
田中、焦りにながらも少し憮然とした表情になって、座る。
斎藤 明はもう晩御飯食べたの
吉田 た、食べるよ。まだ、食べてないから
田中 あれ。じゃあ、恵子さんと何をしてたのよ
吉田の真似をして。
田中 ね、こんな時間だよ、何か食べて行こうか、恵子。ん、何が食べたい
斎藤 じゃ、あたし、フランス料理がいいな
田中 そうね、フランス料理の後は中華がいいかな。それにそれに、あたし
木村 お寿司が食べたいわ
吉田 あのな、父さんまで。はっきり言っておくけど、俺と恵子はまだそんな仲じゃないんだからな
田中 恵子だって・・・。呼び捨てだよ。これは相当進んでいるね
斎藤 そうか、明は姉さんの目を盗んで、そこまで親しくなっていたのか
木村 明、一度恵子さんを家にお連れしなさい。それにご両親にもご挨拶を
吉田 待ってくれよ。俺はそんな
斎藤、少し間を置いてから、溜め息をつき。
斎藤 わかっているわよ、明のことぐらい。早く告白しなさいよ。女だっていつまでも待って居られないんだから
田中 そうだよ。向こうから振り向いてくれるなんて考えてたら大間違いなんだからね
木村、防波堤で釣りをするような感じで。
木村 そうだぞ。タイミングを見計らってだな。ぱっと餌に食い付いて来たところをひょいっと
斎藤 父さんは、なるほど。そうやって母さんの心を射止めたのか。娘としてあたし、なんだか悩むな。ね、素敵なロマンスとか全然なかったの
田中 はは、でもそれって、釣りみたい。父さん、こうひょいっとだね
木村 そうだ
木村、釣竿を持つようにして。
木村 この微妙な振動を、竿の先から貴方が好き貴方が好きという信号を感じてだな、ここだってとこで、おい、明、腰が肝心だぞ、ひょい、ひょいとだな
吉田 お・・・、お前らなぁ
家族の笑い。

郵便屋と蒼瀬、唖然としながらも公園家族を見て。
蒼瀬 なんだか・・・。賑やかだね
郵便屋 ああ
蒼瀬 楽しそうにしているね
郵便屋 ああ
蒼瀬 でも、ここって・・・。公園だよね
郵便屋 そうだ、公園。そして砂場だ、小さな子供が遊ぶなんのへんてつもない砂場だ
蒼瀬 砂場の家族。その場の家族、その場限りの、砂上の楼閣
郵便屋、えっと蒼瀬に振り向く。
蒼瀬 ね、これが本当におじさんの捜す山田さんちなの
郵便屋 俺の一度として外れたことのない郵便屋としての勘が間違いをおこすなどありえん
蒼瀬 なに、言い切っているんだよ。おじさん、道に迷って地図見てたじゃない、こんな大きな世界地図、広げてさ
郵便屋 そ・・・、それはそうだが・・・。よしっ
蒼瀬 いいアイディア思いついたの
郵便屋 あたって砕けろ
蒼瀬 砕け散ってはもともこうもない。でも、いいアイデアもないし、仕方ないかな
蒼瀬、屈んで靴の紐を締め直す。
郵便屋 なにしてんだ
蒼瀬 準備だよ。ひょっとしたら走って逃げなきゃならなくなるかもしれない
郵便屋 なるほど
郵便屋も靴の紐を締め直し、アキレス腱を伸ばしたりと準備体操。二人で準備体操を始める。
蒼瀬 おじさんだけ先に逃げたら嫌だよ
郵便屋 任してくれ。お前さんが危ないっ、て時には我が身を投げ出して
蒼瀬 口のうまい男は信用できない
郵便屋 なるほど、お前さん、俺のようないい男に出会わなかったんだな。それでこんなにひねくれて・・・。ううっ、かわいそうに
蒼瀬 もう、いいから。泣きまねは
郵便屋 さてと、では、行こうか
蒼瀬 ほら、やっぱり。まっ、いいや。あ、おじさん
郵便屋 なんだ
蒼瀬 ラーメン奢ってくれるって云うの、あたし、ちゃんと覚えているからね
郵便屋、少し面白そうに。
郵便屋 飯大盛りも付けてやるさ、世話になったからな
蒼瀬 やった。これで一食分浮いた
郵便屋 貧乏な奴だな。貢いでくれる男の一人ぐらいいないのか
蒼瀬 あいにく。誰かさんに男と間違われてしまうほどでございますから
郵便屋 それもそうだな
蒼瀬、少し笑って。
蒼瀬 おじさんって、妙な人だな。ほんとはとてつもなくいい人なのかもしれない
郵便屋 ようやく俺の本質に気がついたか。お前さんも大人になったな。よし、よし、では
蒼瀬、くすぐったそうに笑って。
蒼瀬 では、参りますか
郵便屋と蒼瀬、二人一緒に砂場の家族に近づいて。
郵便屋 ごめんください。こちら山田さんのお宅でしょうか
斎藤、ごく自然に。
斎藤は、あくまでもここは一軒の家なのだという意識で郵便屋に応対する。
斎藤 はぁい
斎藤、家族と相談するように。
斎藤 今頃、誰だろ
木村 まさか、特高警察・・・
斎藤 拷問したりして、何も悪いことしていないのに無理矢理、自白させたりする
田中 でも、あたし達、特高警察なんかに捕まるようなことしてないよ
木村 特高警察なんてのは、何もしてなくても捕まえに来るんだ。ああ云うところはな、犯罪者を捕まえるんじゃない、犯罪者を造りだすところなんだ
田中 まさか。あ、そうだ。ひょっとして、さっきのデートだとか、スパイだとかの敵国語を使ったのがばれたのかも
斎藤 まさか。そんなはずないわよ
木村 わからんぞ。今日、仕事場で聞いたんだが、あいつら特高警察は特別な望遠鏡を持っているらしいんだ、詳しくは聞けなかったんだが、それを、こう、耳に当てると十キロ先の箸の落ちる音も聞き分けることができるらしいんだ
斎藤 まさか、そんなこと

蒼瀬 目の前で相談されるって云うの・・・、ね、なんだか逃げだしたい気分

沈黙を守っていた吉田、思いつめたように。
吉田 よし。俺が行って来る
田中 危ないよ
吉田 大丈夫、俺にまかしとけ
斎藤、すっと缶珈琲を取り出して吉田に差しだす。
斎藤 せめて、お茶でも飲んで少し落ち着いて
吉田 ありがとう、姉さん
吉田、派手に珈琲を飲み干すと、蜜柑箱に缶を置いて。
吉田、一代決心をして立ち上がる。
吉田 行って来る
斎藤も立ち上がり、見えない襖の陰から心配そうに吉田を見つめて。
吉田、見えないドアを開け、郵便屋と蒼瀬の前に。
郵便屋 夜分申しわけありません、このあたりに
吉田、蒼瀬の姿を見て。
吉田 け、恵子さん・・・、いったいどうして
蒼瀬 ほら・・・、なんか変なことになって来た
郵便屋 いや、彼女は決して君の恋人の恵子さんとやらではなくてだな
吉田、聞く耳持たず。
吉田 恵子さん、どうして・・・。あ、こちら恵子さんのお父さん・・・
郵便屋 ちょっと待ってくれ、まぁ、落ち着いて
吉田 初めまして。俺・・・、いえ、私、山田明と申します。恵子さんにはいつも親切にしていただきまして
斎藤、吉田に駆け寄り。
斎藤 どうぞ、お入りください、汚ないところですけど
郵便屋 いや、ちょっと落ち着いて
斎藤 あ、申し遅れました。私、明の姉で涼子と申します。いえ、つい先ほど、明からお話を聴きまして、なんだか素敵なお嬢さんとお付き合いさせていただいているとか
斎藤 あら、こんな玄関口で・・・。さぁ、どうぞ、お入りください。汚ないところですけど
田中、立ち上がり、廊下から玄関口を覗くように。
木村、田中に。
木村 誰が来たんだ
田中 噂をすればってやつ。恵子さんが来たんだ、お父さんと一緒に
木村 な、な、なに、そうか
斎藤、田中に振り向いて。
斎藤 陽子、そんなとこから覗いてないで、こっちに来てご挨拶なさい
田中 はぁい
田中、木村に向かって。
田中 父さんも早く早く
木村 そっ、そうだな
蒼瀬 ああもう、何がどうなってんだか。どうしよう、おじさん
郵便屋 俺が何とか
木村と田中、見えない玄関口へ。
木村 初めまして。私、明の父親で定雄と申します。ちょうど、今しがたお嬢様のお噂をさせていただいていたところでして
田中 ひょい、ひょいって奴だね
木村 これっ
木村、田中の頭をこつんと打って。
郵便屋 ちょっと落ち着いてもらえませんか
木村 まぁ、立ち話も何ですから
斎藤 どうぞ。こんなご時世ですし何もお構いできませんけど
蒼瀬 こんなご時世って・・・。さっき、戦争だとかなんとか言っていたよね
郵便屋 彼らのいう戦争が第二次世界大戦なら五十年ほど、ずれ込んでいることになるぞ
蒼瀬 五十年も前なら、あたし、影も形もないよ
郵便屋 俺はちょうど四十になったところだった
蒼瀬 えっ・・・。それって
斎藤 さぁ、どうぞ。汚ないところですけど
郵便屋、蒼瀬と顔を寄せて相談するように。郵便屋、深刻な顔をして。
郵便屋 悪いが付き合ってくれんか。俺の捜す山田さんに違いないんだが、これでは手紙が渡せない
蒼瀬、溜め息をついて。
蒼瀬 あたしの知ったことじゃない、って言いたいけど・・・。いいよ、付き合うよ。そのかわり餃子追加だよ
郵便屋 すまない、助かる
郵便屋、木村に向き直り。改まって。
郵便屋 それではちょっとだけおじゃまいたしまして。申しわけございませんな、いや、ちょっと近くまで寄ったものですから
斎藤 そんな、どうぞどうぞ
木村 さぁ、どうぞ。お気遣いなく
斎藤 汚ないところですけれど、ゆっくりなさってください
郵便屋と蒼瀬、うながされるままに。
蒼瀬、郵便屋に相談するように。
蒼瀬 靴、ね、靴脱ぐのかな
郵便屋 斎藤の足元を見て。
郵便屋 かまわない、ようだな
蒼瀬、うなずいて郵便屋の後をついて歩く。見えない廊下を歩き、蜜柑箱の居間へ。蜜柑箱を囲み家族と郵便屋と蒼瀬が座る。
木村、緊張しながらも、あらたまって。ちょっと演説する感じ。
木村 えー、改めまして、私、この家の主定雄でございます。なにか、息子の方からこちらさまのお嬢さまと親しくさせていただいていると、で、あの、あ・・・、これは一度ご挨拶にあがらなければと考えて、あの、考えていた、いえ、居りました、のですが、あぁ、わざわざおこしくださり恐縮しております
郵便屋 いえ、ちょっと近くまで用事がありまして、それで娘が言うにはこちらの明さんとお付き合いさせていただいているとか。それで一度、ご挨拶だけでもと
郵便屋、少し砕けたように。
郵便屋 しかし、いつまでも子供だ子供だと思っていたのですが。いつのまにか、こんな真面目な青年に見初められるとは、恵子も果報者です
明、緊張した面持ちでかぶりを振る。
木村 しかし、どんな時代でも色恋は変わりませんですな
郵便屋 そうですな、こんな時代でも
木村 ええ、軍が主権を取って、五十有余年。果たしていつまでこんな時代が続くのか。平和な時代が懐かしいですな
郵便屋 そうですな。我々は特に明君や恵子のように生まれたときから戦争ではありませんでしたから
木村 そうです。子供の頃は平和でしたなぁ。もう、負けてもいいから終わってくれませんかな、この戦争
明、一瞬、ぴくんと顔を強張らせて。
斎藤、少しとがめるように。
斎藤 父さん。めったなこというものじゃないわよ
木村 まぁ、いいじゃないか。ゆくゆくは親戚になる方達なんだから
郵便屋 いや、私もお父さんと同じ考えなんですよ。生活は苦しくなる、給料の替わりに、使い回しの配給切符が配られる、いったいどうなるんでしょうね
木村 まったくですよ。この娘も(陽子)高校生なんですが、授業がどんどんなくなりましてね、いまあるのは道徳の時間だとか、歴史の授業くらいで、いったいこれからどうなることだか
蒼瀬、郵便屋をつついて。
蒼瀬 ね、何がどうなっているんだよ
郵便屋 彼らはいま戦時中を生きているんだ。物資欠乏のな
蒼瀬 戦争・・・
郵便屋 ああ、どうやら太平洋戦争、第二次世界大戦がまだ続いているらしい
蒼瀬 まさか、ずっとそうやって生きているわけ
郵便屋 いや、何かのきっかけがあったんだろうが、よくわからん
蒼瀬 おじさん、本当は何か知っているんだろう。ラーメン、喰いながらそこのとこ、じっくり聴かせてもらうからね
蒼瀬、気持ちを切り替えて、木村に。
蒼瀬 始めまして、おじさま。私、明さんとお付き合いさせていただいています恵子と申します
木村 ほう、素敵なお嬢さんだ。明にはもったいないくらいですな。私がもう四十年若ければ
蒼瀬 あら、そんなこと
吉田 父さん、何言ってんだ。歳を考えろよな
田中 兄貴。恵子さんのことになると見境なくなる
斎藤 すっかり恵子さんに夢中なんだから
郵便屋 いや、娘もこんな良い青年に愛されて果報ものです。なぁ、恵子
蒼瀬 そんな・・・、父さんってば
蒼瀬、郵便屋に向かって。
蒼瀬 ・・・あまり調子にのらないように
郵便屋 そ、そうだな。あぁ、ところで、明君のことを教えてもらいたいんだが。娘からは、まだ、君のことを詳しく聞いていなくてね
吉田 はいっ
吉田、座り直して。
吉田 現在二十三歳。昼間は兵器工場にて零戦のエンジン部分の組み立てを担当しております。そして夜は夜間学校にて動力学、水力学を学んでおります。恵子さんとはその夜間学校で知り合いました
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 なんなの。動力学だとか水力学とか云うの。あたし、文系なのよ
郵便屋 機械を動かすための、ごくごく基本的な学問だ
蒼瀬 ひょっとしてあたしもその学校に通っているて云うことになるの
吉田 恵子さんは夜間学校でも一、二位を争う秀才で、本来なら私のような凡才に振り向いてくださるような方ではないんです
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 どうすんだよ
蒼瀬、郵便屋の脚を思いっきりつねる。
郵便屋 おおっ、痛てて。いや、あの、娘はそんな・・・。と、ところで明君の趣味は
吉田 趣味ですか。そうですね、読書が好きです
郵便屋 そうですか、よろしいですな。読書は人生を豊かにしますからな
斎藤 程度ものですわ。すっかり目がそれで悪くなって
田中 昨日だってさ
田中、本を目の前に付けるような振りして。
田中 これで焦点があってんだから、不思議だよね。そのうち
田中、両手をゆらゆらと揺らしながら。
田中 陽子。俺の眼鏡知らないかなあ
吉田 お、俺は、いや、私はそんなみっともないことしません
蒼瀬、くすぐったそうに笑って。
郵便屋 まっ、勉学にいそしむことはいい事だ
木村 明は、その点、私に似て根が真面目ですから
田中 父さん、真面目だったの、知らなかった
斎藤 あたしも気がつかなかったな。物心ついて以来、ずっといい加減な人だと思ってた
木村、わざとらしくため息を吐いて。
木村 理解のない家族で困ります
郵便屋 いいえ、楽しそうなご家族で羨ましい
郵便屋 ところで・・・。そうだ、明君の愛読書を教えていただけませんかな
吉田 はいっ。一番の愛読書は我が同盟国独国はアドルフ・ヒットラー元帥の 我が闘争 です
光、茜色の世界に舞台が染まる。
音、遠くから戦闘機の音。銃撃戦。ただし、淡く静かに。
吉田 僕達は戦争の中で生まれ、戦争の中で育ちました。そして今も戦争のさなかです。聞こえますか、猛り狂う敵機のプロペラ音、弾ける炎の音、響く悲鳴、怒号、阿鼻叫喚の地獄絵。いいえ。祖国を、我が愛する祖国をそんな地獄にするわけには参りません
田中 戦います、愛するものを護るため、愛する祖国を護るため、我が生命、潰えても、必ず戦います
木村 彼らは戦中に生まれ、戦中に育ち、戦中の教育を受けてきました。祖国を護るのだ、その思いだけで彼らは銃を担います。私たち、年寄りはいったい何処で間違えてしまったのでしょう。彼らの言うところの祖国とはいったい何なんでしょう。何をさして祖国というのでしょうか
蒼瀬 おじさん。なんか、目つきが違うよ

郵便屋 思いが発動しかけているんだ
田中、いきなり箒を構えて。
田中 戦います。なんとしても戦います。あたしのこの竹槍でなんとしても、あのにっくき、B21を打ち落として見せます
田中、勢いよく、箒で突く。
田中 てゃああっっ
吉田 よぉし、にっくきB21が黒煙を上げて墜落していくぞ。うおおっ、あれは
田中 敵国の戦車だ
吉田 ついに本土決戦か。いざよし。神国武士の意地、見せ付けてくれるわ
田中 はい、兄さん
吉田 陽子、我が妹ながらあっぱれな奴・・・
木村 ま、待ちなさい。どうして、どうして、そんなに死に急ぐんだ
吉田 親父、いつかこの戦争が終わったとき、俺の息子と娘は立派でございましたと 吉田、片腕でで涙をぬぐうように。
吉田 先立つ不孝をお許しください
蒼瀬 あ、あの・・・
吉田 恵子さん、君を幸せにできなくて申し訳ありません。しかし、しかし。私は男として、そして一人の戦士として
場違いなくらい気楽な感じで。
斎藤 あらあら、お話が過ぎてしまって。晩御飯がすっかり遅くなってごめんなさいね
木村、田中、吉田三人はっと気がついたようにして、元に戻る。但し、プロペラ音は消えない。
郵便屋、少し残念そうに、蒼瀬、何がなんだかわからないように。
木村 いかがです、たいした物はありませんが晩御飯を一緒に。時間はよろしいんでしょう
田中 ね、お姉ちゃん、いいでしょう
蒼瀬 お姉ちゃんって・・・
斎藤 そうですわ。せっかくおいでくださったのですし、ね、かまいませんでしょう
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 ね、どうしよう。なんだか恐いよ
郵便屋 確かに恐いな。ほら、俺なんか鳥肌たっている
蒼瀬 ね、走って逃げよう。思いっきり走って逃げよう
郵便屋 悪いな。少し遅すぎた
蒼瀬 へ・・・
郵便屋 聞こえるだろう、あの音が
蒼瀬 これって飛行機の音
郵便屋 ああ、これはB21爆撃機の音だ
蒼瀬 違うよ、きっとヘリコプターだよ、そんな、爆撃機なんて
郵便屋 耳を澄ましてみろ。聞こえてくるだろう、爆撃の音、逃げ惑う人達の叫び声・・・、大地の雄たけびが
蒼瀬、力なく。
蒼瀬 なんでだよう。戦争なんかとっくに終わっているのに。あたし、生まれてもいなかったんだよ
斎藤、蜜柑箱にコンビニで買った弁当や惣菜をならべて。
斎藤 さぁ、さぁ。ご遠慮なさらずに召し上がってくださいな
蒼瀬、ぴくんと跳び上がりながら。
蒼瀬 は、はい
郵便屋 白黒はっきり付けるまでは帰れない、そういうことだ
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 シュウマイに春巻き、追加してやる
家族と郵便屋と蒼瀬、食事を始める。
斎藤 ごめんなさいね、有り合わせのものしかなくて
蒼瀬 いえ、そんな・・・。こちらこそ急にお邪魔してしまいまして
郵便屋 お前さん、なかなか、順応性があるじゃないか
蒼瀬 そうかな。だってあたし、恵子だもの
蒼瀬、思いっきり郵便屋の脚をつねる。郵便屋、痛そうに。
蒼瀬 白黒はっきり付けるってどうしたらいいんだよ
郵便屋 白黒はっきりさせるのは俺がする。ただ
蒼瀬 ただ、なんだよ
郵便屋 あいまいなんだ。ここはお前さんのいた本来の時間の流れの世界と山田さんの思いで、多分、戦争で死んだ者達の思いで、違う時の流れになってしまった世界との交差点なんだ
木村 どうぞ、ご遠慮なさらずお食べください
蒼瀬 は、はい。ありがとうございます
蒼瀬、一口食べ。
蒼瀬 まるっきりSFじゃないの。あたし、科学系は苦手なんだよ
田中 お姉ちゃん、どうしたの。難しい顔してるよ
蒼瀬 えっ。はは、ううん、何でもないんだ
田中 そっか。ね、これ、おいしいよ
田中、蒼瀬の皿におかずを載せる。
蒼瀬 ありがとう。えっと・・・
田中 あたしは陽子。自己紹介、まだだったよね
蒼瀬 うん。あたしは恵子
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 ね、名字どうしよう
郵便屋、食べながら。
郵便屋 適当でいいんじゃないか。おっ、これはなかなかいけますな
蒼瀬 こいつは・・・
田中 ね、正直なこと教えて欲しいんだけど
蒼瀬 え、あっ、うん
田中 兄貴の何処が良かったの。あたしなら、兄貴なんか好みじゃないな
吉田、ぴくんっと、そして蒼瀬の返事に耳を傾ける。
蒼瀬 あの・・・
蒼瀬、吉田を見て、そして郵便屋を見て。
蒼瀬 どういったらいいんだろう。なんていうのかな、ん・・・。そう・・・、なんだか、恥ずかしいな。言わなきゃだめ
田中 うん。知りたい
吉田 陽子。恵子さんが困っているじゃないか
田中 だって
吉田 恵子さん、すいません。陽子の奴、失礼なことを
田中 興味あるんだから仕方ないじゃない。まっ、本人が自分が好かれることを失礼なことって言うのなら仕方ないけど
吉田 なんだと
吉田と田中、兄妹喧嘩になりそうなところを。
蒼瀬 あたし。優しくて思いやりのある人が好きなんだ。だから、あたし、明君のこと・・・
田中 ん・・・。優しいのか、単純で難しいことが考えられないだけなのか、妹としては悩むところだけど。そうだな、外見はこんなだし、それくらいしかないよね。兄貴、ほんと、良かったね、単純な頭で
斎藤 いつもこんなふうで、二人とも仲がいいのか悪いのか
郵便屋 いや、喧嘩するほど仲が良いといいましてね、羨ましい、羨ましいことです。実は恵子は一人っ子でしてね、こういう仲の良い兄妹がいないんですよ。よかったな、恵子。兄妹ができて
蒼瀬 はは、そうだよね
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 あんまり、調子に乗らないように。あたし、頭の線が切れかけてんだから
蒼瀬 それで、どうすりゃいいんだよ
郵便屋 そうだ、それなんだ
蒼瀬 まさか忘れてたんじゃなないだろうね。すっかり、お客さん気分でさ。恵子、ぐれちゃうよ
郵便屋 おおっ、大事な娘が不良になっては大変だ
蒼瀬 こいつ、遊んでる・・・
郵便屋、笑ってごまかすようにして。
郵便屋、斎藤に内緒話をするように。斎藤、笑顔で舞台の端を指差す(お手洗いは何処かと)。
郵便屋 どうも、歳を取ると近くなってしまいまして
蒼瀬 あ、あたしも。年取ってないけどっ
郵便屋と蒼瀬、舞台の端にて。
郵便屋、身振り手振りを交えながら。
郵便屋 今、俺達は現実の世界と彼らの作り出した虚構の世界の端境にいるわけだ
蒼瀬 つまり、空襲の音も聞こえるけど、公園の、ほら、ぶらんこもあるってことだよね
郵便屋 そうだ。完全に彼らの世界に入ってしまったら、ぶらんこも滑り台も消えてしまうだろう
蒼瀬 じゃあさ。こうやって滑り台抱きかかえていよう。滑り台が消えると同時にあたし達も消えて、元の世界へ
郵便屋 いや、滑り台だけが消えてしまうだろう。俺達はもうこの世界に組み込まれてしまっているんだから
蒼瀬 あのね、自分も被害者って顔して言わないでよね。追加注文したくなるから
郵便屋、少し慌てて。
郵便屋 いや、まぁ・・・。お前さんには申し訳ないことをしたと、反省の念深く
蒼瀬 いいよ
蒼瀬、ふっと笑みを浮べて。
蒼瀬 あたしさ、本当はちょっと楽しんでいるんだ。あたし・・・、もう何日も誰とも話してなかったんだ。だから・・・、なんだか楽しいんだ、本当のところ
郵便屋 お前さんも孤独な奴だったんだな
蒼瀬 おじさんのように年季は入ってないけどね。(溜め息)それで、あたしの仕事は
郵便屋 この世界はあいまいだ。だから
蒼瀬 だから
郵便屋 完全に彼らの創りだそうとしている世界にしてやるのさ。茜色の山田さんにな
蒼瀬 それって・・・。ぶらんこや滑り台のない、戦争の世界にしろってこと
郵便屋 ああ、彼らが願う世界にしてやるんだ

吉田 どうしたんだろう、二人とも
田中 簡単じゃない、やっぱ、兄貴が嫌になって逃げだしたんだよ。かわいそ、兄貴。まっ、人生山あり谷あり、いつかむくわれる時もあるよ。うんうん
吉田 こいつ
吉田が田中を殴りかかろうとするのを斎藤が何とか押しとどめて。
斎藤 明、やめなさい

蒼瀬 ね・・・
蒼瀬、家族を見やりながら。
蒼瀬 早く戻ったほうが良いみたいだよ
郵便屋 なにか・・・、そのようだな。戻るか
蒼瀬 そうだね
郵便屋、家族のところに戻る。蒼瀬、一瞬、背を向けるが、仕方なさそうに、吐息を漏らすと家族のところに戻る。
田中と吉田、喧嘩したように背を向けあって。
郵便屋、田中と吉田を見て。
郵便屋 おや、どうかされましたか
斎藤 はは、いつものことなんです
木村 難しい年頃で苦労しますよ
田中、ふっと蒼瀬に振り返り。
田中 お姉ちゃん、あたしの部屋に行こ
田中、蒼瀬をうながして立ち上がる。
吉田 陽子
田中、吉田を無視して、蒼瀬の手を引っ張り、見えない廊下を通り抜け、ぶらんこの下に陣取る。二人、座って。
田中 兄貴って怒ってばっかりなんだから
吉田 陽子は本当にわがままで困ります
木村 どんな時代でも女の子はそんなものなんだよ
蒼瀬 陽子ちゃん・・・
郵便屋 まあね、実は恵子もわがままで困っているんですよ
蒼瀬、郵便屋に振り向いて。
蒼瀬 あのね!
田中 え、どうしたの
蒼瀬 あ、ああ、ううん。何でもないんだ
蒼瀬 それよりさ、なんて言ったらいいのかわからないんだけどさ
木村 実は涼子も陽子ぐらいの年頃には
斎藤 私がどうしたっていうつもり
木村、いたずらっぽく。
木村 しっかりしたいい娘だなぁってな
斎藤 それはどうも。ね、明。陽子は明のこと大切に思っているんだよ
蒼瀬 陽子ちゃん、お兄さんのこと好きなんでしょ。もちろん、兄妹としてだけどさ
田中 ・・・嫌いだよ。大嫌い。あたしの顔を見ると怒るんだよ。いつも、いっつも
吉田 あいつはもう生意気でいい加減で仕方のない奴なんです。本当に何を考えているのか。情けない限りです
郵便屋、楽しそうに。
郵便屋 なるほど、それだけわかっていれば仲がいいのも肯ける。なぁ、明君。怒る、これが一番簡単な表現方法なんだ、自分の思いを伝えるにはね。実は明君、恥ずかしいんだろう、戸惑っているんだろう
蒼瀬 陽子ちゃん。明君、戸惑っているんだよ。陽子ちゃんの妹としての存在。そして一人の女性としての存在。この二つが目の前にあってさ。そう・・・、怖がっているのかもしれない
郵便屋 人はね、明君。おびえた場合、必ずしも逃げ出すとは限らない。大声を出して威嚇しようとすることもあるんだ
吉田 それは僕が陽子を恐れているということですか。いくら、恵子さんのお父様でもその言葉は許せません
田中 どうして兄貴があたしを怖がるっていうの
蒼瀬 陽子ちゃんのことが大切だからさ
田中 お姉ちゃんの言うことわからないよ
蒼瀬 難しいかな。難しいかもしれないね
郵便屋、ひたすら嬉しそうに。
郵便屋 許してもらおうとは思わないよ
蒼瀬、郵便屋の言葉に驚いて振り返るが、郵便屋の落ち着いたいわくありげな顔を見て、駆け寄りかけたのを止める。
蒼瀬 ね、陽子ちゃん。人はその目の前にいる人を見ているんじゃない。人は自分の中に居るその人を見ているんだ。そのうち、わかるよ
吉田 男が侮辱されたとあっては、そのままにはいたせません
木村 明、落ち着きなさい
吉田 いいえ。たとえ、恵子さんのお父様であろうと
蒼瀬、郵便屋へ向き直り。
田中 どうしたの。お姉ちゃん、恐い顔してるよ。壁に何かあるの
郵便屋 どうします。私を殴って気を紛らわせますか
木村 ま、お父さんも落ち着かれて、さぁ、明。謝りなさい
田中 どうして、俺が謝らなければならないんだ。俺は間違っていない、臆病者でもない。明日の神国日本を護り支える男、武士の一人として、そのような暴言、決して許せない
爆撃機の音が次第に大きくなる。
郵便屋 許さないのならどうなさいます。どうします。さあ
蒼瀬 ・・・おじさん
空襲の音、激しく。
吉田 男にとって唯一大切なものは男の誇り。それを蔑ろにしようという輩は決して許せない。なおれ、成敗してくれる
蒼瀬 危ない
田中 どうしたの、お姉ちゃん
斎藤、あまりにも気楽な感じで。
斎藤 さあさあ、晩御飯、冷めてしまうわよ
吉田 あ・・・。うん・・・
音が止む。
元の和やかな食卓に戻る。
蒼瀬 いったいどうなっているんだ。せっかく・・・
田中くすぐったそうに笑いながら。
田中 どうしたの。お姉ちゃん、壁とにらめっこして
蒼瀬 え・・・
田中 あれっ。あたし・・・
斎藤、田中の方向に向かずに、田中に呼びかけるようにして。
斎藤 陽子、早くなさいな。晩御飯、冷めてしまうわよ
田中 はぁい、今、行くよ
田中 行こう、お姉ちゃん
蒼瀬と田中、家族のいる砂場に戻る。
木村、田中、吉田、何事もなかったかのように。
木村、田中に向かって。
木村 恵子さんと何を話していたんだ
田中 何だったんだろう、兄貴の悪口かな
吉田 陽子。俺は悪口を言われるようなことはしたことないぞ
田中 と、本人は思っているけど。ね、恵子お姉ちゃん
蒼瀬、困ったように笑ってごまかす。
吉田、蒼瀬に向かって。
吉田 陽子の言うこと気になさらないでください。こいつは本当に
田中 本当になんだっていうのよ
木村 兄弟喧嘩はその辺にして。早く食べないと灯火管制の時間になるぞ
田中 大変。早く食べてしまおう
蒼瀬、郵便屋に。
蒼瀬 灯火管制って何なの
郵便屋 懐かしい言葉だな。例えば爆撃機が飛んでくるだろう
蒼瀬 うん
郵便屋 その時、家の灯かりが漏れていると攻撃目標になってしまうからってな、灯かりを消して、息を潜めて、やり過ごそうってことさ、爆撃機をな
蒼瀬 真っ暗にするってことか・・・
斎藤 お二人とも、どうぞ、ご遠慮なさらず食べてくださいな
蒼瀬 は、はい。ありがとうございます
郵便屋 これだけ食えばラーメンは食えないだろう
蒼瀬 お会いにくさま。あたし、ラーメン用の胃袋持ってんだ
田中 え、何・・・
蒼瀬 ううん、何でもない
遠く微かにサイレンの音。
斎藤 あ・・・
木村 どうした
木村、耳を澄ますようにして。
サイレンの音がはっきりと聞こえる。
郵便屋 まずいな、灯火管制の合図だ
木村、郵便屋と蒼瀬に。
木村 申しわけありませんが
郵便屋 ええ、仕方ないことですから
木村 では、失礼して
木村、灯りを消す。合わせて、すべてが闇になる。
闇の中で。家族と蒼瀬達、二つに別れて。ひそひそとそれぞれ内緒話をするように。
蒼瀬 何も見えないよ
郵便屋 しばらくの辛抱だ。爆撃機が帰って行ったら、また、サイレンが鳴るから
蒼瀬 おじさん、あたし、こういうの苦手なんだ。なんだか、狭いところに閉じ込められたみたいで。なんだか不安で息が苦しくなってきた
郵便屋 仕方ない。色気のない奴だが俺がしっかりと抱いててやろう
蒼瀬 それ、遠慮しとく。タイプじゃないから
郵便屋 なかなか言うじゃないか

斎藤 私、思うんだけど
木村 ん・・・、何が
斎藤 恵子さん達、どうも・・・、変なのよね
吉田 姉さん、俺の恵子さんの何処が変だっていうんだ。まさか俺の恵子さんを侮辱する気じゃ
斎藤 明は落ち付きがないんだから。どう言うんだろう、勘・・・、っていうのかな、なんか変なのよね
吉田 勘・・・
田中 女の勘ってやつ・・・
斎藤 別にそういうわけじゃないんだけど、なんとなくね
田中 でも変なのは確かだな。だって兄貴と付き合っているんだからね
吉田 なんだと
木村 とにかく、落ちつかんか

蒼瀬 ね、ちょっと、雲行きがあやしそうだ
郵便屋 うむ、俺はまともなんだが。お前さんがな
蒼瀬 変だって言うわけ。おじさんにそんなの言われたら最低だな

斎藤 明。確かに恵子さんよね、あの娘。あたし達は初対面なんだけど、間違いないわね
吉田 そんな急にあらたまって・・・
田中 兄貴、なに、自信ないこと言ってんだよ
木村 明。お前の一生の問題なんだからな、良く考えるんだぞ。あとでこんなはずじゃなかったって後悔したって始まらないんだからな。女ってのは本当に結婚すると変わるからな。あんなに可愛くて優しかったあいつが、結婚したらころっと変わってしまいやがった。いや、まだ、新婚時分は
田中 あのね、父さん。母さんの愚痴はいいから。それに、ちょっと、方向が違うと思うよ。今、話しているのはそう言うことじゃなくて
斎藤 ま・・・。明のことなんだから、あたし達がどう言ったって仕方ないんだけど
田中 兄貴。男ならはっきりしてよ。男の優柔不断が女を不幸せにするんだからね。わかってる

蒼瀬 そうだ、そうだ
郵便屋 なんだ、お前さん、えらく納得しているじゃないか
蒼瀬 あたしは・・・

吉田 俺・・・、恵子さんが好きだ。だけど・・・、恵子さんって、いったい誰なんだ
田中 へっ・・・
吉田 俺の恋人は恵子という名前。それは間違いない。でも、それ以外のことは何も浮かんで来ないんだ。いったい、恵子さんってどんな顔をしていたんだろう、何処で出会い、何処で未来を語り合ったんだろう。闇の中、だんだんと恵子さんの顔が、姿が遠くになっていくんだ。あぁ、どんな顔をしていたんだろう、どんな声をしていたんだろう。あ、陽子、お前も恵子さんのこと知ってるだろう
田中 急に振らないでよ。あたしだって・・・

蒼瀬 なんだ、なんだ。どういうことよ、これ
郵便屋 まずいな。こんな状況で不発になっては
蒼瀬 不発ってどういうこと

 

 

 

 

郵便屋 思いがこのままでは途切れてしまう。中途半端な形でこの世界が消えてしまうぞ
蒼瀬 それって、元の世界に戻れるってこと
郵便屋 この辺いったいは元の世界に戻るだろう。だが
蒼瀬 だか・・・
郵便屋 俺達が元の世界に五体満足で居るかどうかはわからない
蒼瀬 どうすればいいのよ。五体満足で元の世界に帰るのに
郵便屋 今は彼らの思いを紡がなければならない。恵子役のお前さんだけが頼りだ
蒼瀬 頼りだって言ったってどうすりゃいいのよ
郵便屋 なに、たいしたことじゃない。切れた思いを、繋げてやればいいのさ。思いという記憶でな
蒼瀬 あたし文系は文系でも経済の人だから、そういう、感性だとか、文学的なふいんきの話も苦手なのよ。どうしたらいいのかわからないよ
郵便屋 なに、二人の思い出を作ってやるのさ。甘く切ない恋人達の記憶を
蒼瀬、頭を抱えていたが。
蒼瀬 わかったよ。なんとかするよ。ああ、もう

蒼瀬、深呼吸して、立ち上がる。
蒼瀬 あれはそう半年前のことでした
蒼瀬をゆっくりと灯かりが照らしだす。
蒼瀬 春というにはまだ寒さの残る季節。私は夜間学校の廊下、プリントを両手いっぱいに抱えて教室へと急いでおりました
郵便屋 ふと、歩きながら窓に目をやりますと
蒼瀬 春にはまだ早い季節と申しますのに、校庭の向こう、一本の桜の老木が満開にその花を咲かせておりました
郵便屋 夜空には
蒼瀬 真っ白な月が虚空を漂うておりました。その遥かな輝きは玲瓏として、本来あるはずの星のすべての輝きを、その身に貯えたようでありました
ゆっくりと辺りが白くなり出す。
郵便屋 よし、そこで明君登場
蒼瀬 あんたは映画監督か
吉田 重いでしょう。僕が持つよ
蒼瀬 ううん、いいよ。男の人は昼間の労働でくたくたなの、知っているもの
吉田 心配無用さ。こう見えても俺は力持ちなんだぜ
蒼瀬 こいつ、日活の無国籍アクション志向だ
郵便屋 ちゃちゃを入れない
郵便屋 二人、見つめ会い、そっと笑みを交わす。恥じらう恵子
田中、唐突に。演歌調で。
田中 ああ、あたしのお兄ちゃんが他の女に取られてしまうよ。でも、でも・・・、それがお兄ちゃんの幸福なら、あたし、耐える、耐えてみせます。あぁ、耐える女は美しゅございます
郵便屋、田中を見て。
郵便屋 なんてノリの良い奴なんだ
吉田 さぁ、恵子。僕達の新しい世界を築こう。甘く素敵な愛の世界を創るんだ。さぁ、プリントをお渡し。君に重いものは似合わないよ
蒼瀬 プリント持ったら愛の世界が始まるってか
郵便屋、蒼瀬に向かって。
郵便屋 そこ、素に戻らない
蒼瀬 はい、はい
蒼瀬 いいよ、あたし・・・、明さんがそう言ってくれるだけで幸せだから。だから、いい
吉田 恵子さん・・・。君はなんてしおらしくて優しい心の持ち主なんだ。さぁ、気にせずにそのプリント、僕にお渡し
蒼瀬 じゃぁ、明さん、半分だけ。・・・お願い
蒼瀬と吉田、位置的には離れているが、プリントを受け渡すように。
郵便屋 なんだか、頭が痛くなって来た
二人、その場でリズムを取って歩くように。蒼瀬はいくらか素が入っているが、吉田はひたすら幸せそうに。
舞台が次第に白くなっていく。
吉田 恵子さん、今、君は幸せかい
蒼瀬 え・・・、ええ。あたし、幸せ
吉田 僕も幸せだよ。あ、あれをご覧よ。冬桜だね。あぁ、桜が月の明かりにまるで白く輝いているようだ。なんて綺麗なんだ。まるで恵子さん、君のようだよ
蒼瀬、照れて。
蒼瀬 はは、そ、そうかなぁ
田中、木の陰から二人を覗き見するような感じで。
田中 ほんとはあたし、お兄ちゃんのこと大好きなんだ。そりゃぁ、あたし達いっつも喧嘩ばかりだけと、あたし、お兄ちゃんがあたしのこと大切に思ってくれているのわかっているし、あたしだってそうだもん。だから、だから、あたし、お兄ちゃんが幸せなら、それでいいんだ。こうして木の陰からお兄ちゃんの幸せを見ているだけで、あたし、あたし・・・。あたし、泣かないもん
田中、こぶしを握り、演歌っぽく。
田中 あたし、耐えて、耐えて・・・、みせますうっっ
郵便屋 こいつらいったい・・・

遠くから風を切って一発の焼夷弾が落ちて来る。爆発。一瞬にして世界は赤く変わり家族が逃げ惑う。その後、雨のように焼夷弾が降り頻る。斎藤、呆然として突っ立っている。その周りを木村、吉田、田中、慌てふためいて駆け回る。
田中、倒れる。
木村 うおおっ。は、早く、荷物を集めて防空壕に駆け込むんだ
蒼瀬 ど、どうして
郵便屋 灯火管制の最中に灯りを点けたからな、いい目標になったんだろう
吉田 陽子、早く、早く逃げるんだ
田中 あ、脚が動かないよ
吉田 よし、つかまるんだ
吉田、田中に肩をかして立たせる。
田中 痛い
吉田 陽子、しっかり
田中 あ・・・、あたし、いいよ。ここに居るから
吉田 何言っているんだ、お前
田中 いいから、先に逃げて。そうじゃないと、お兄ちゃんまで
吉田 しっかりしろ。俺達は兄妹なんだ、家族なんだ
吉田、田中を背負う。
吉田 大丈夫か
田中 う、うん
既に蒼瀬と郵便屋の存在は忘れ去られている。
木村 涼子、陽子、明、みんな大丈夫か
吉田 大丈夫だ
木村 よし、早く逃げるんだ
爆音、一つ、特に大きく。
木村、倒れる。吉田、倒れそうになるが、何とか踏みとどまる。
木村 うわっ
吉田 大丈夫か、親父
木村 ああ、俺は大丈夫だ
木村、立ち上がる。
木村 それより、陽子は大丈夫か
陽子 う、うん
木村 さすが、俺の娘
陽子 だって、あたし達
吉田 そうさ、俺達、家族だからな
木村、ふと、呆然と立ち尽くしている斎藤に気がつく。
木村 涼子、どうしたんだ
斎藤 こんな、こんな・・・
吉田 姉さん、どうしたんだよ
田中 お姉ちゃん、早く逃げよう。このままだとみんな死んじゃうよ
斎藤 こんなことって・・・
斎藤、大声で。
斎藤 もう、いやぁっー
斎藤の声にまるであわせたようにひときわ大きく爆発音。
木村 今のは近いぞ

蒼瀬 ね、どうするつもりなんだよ
郵便屋 初めに言ったろう。手紙を届けるのさ。紅蓮に燃える茜色の山田さんにな
やおら鞄に手を突っ込み、勢いよく一通の手紙を取り出す。
郵便屋、周りの音に負けないくらい大声で。
郵便屋 山田さん、郵便です。いらっしゃいますか。戦地からの便り。長男、一郎さんからの最後の手紙ですよ
斎藤 一郎・・・、兄さん・・・
すべての音が消える。
郵便屋、少しかっこいいポーズで決めて、そのまま、手紙の主の言葉で。

郵便屋 遠い異国の地にて、私は私の大切な、大切な家族のことを思っています。涼子、君は元気ですか。責任感の強い君はいつも涙を隠して笑顔でいましたね。私の居ない間、家族のことは君に任せます。明、君は元気ですか。君は少し不器用だけど優しさのある男です。涼子を支えてやってください。しっかりと家族を守ってやってください。陽子、君は元気ですか。君は少しおっちょこちょいだけれど、家族のみんなが沈んでいるとき、君の笑顔でみんなを救ってやってください。最後に父さん・・・、いえ、いつものように言います、親父・・・、俺という息子が居たことを・・・、お願いです、忘れてください
斎藤、郵便屋の言葉を紡ぐように。
斎藤 私は日本を、神であらせられる天皇をお守りする一人の兵士として、あの鬼畜米英と戦います。君達も内地で・・・、内地で・・・
斎藤、うずくまる。
郵便屋、思いっきり、両手で葉書を裂く。
吉田 嫌だ。どうして戦わなきゃならない。天皇がなんだってんだ。日本を守る、その日本って一体なんなんだ、国がどれほどのものなんだ。俺の、俺のたった一つしかない、この、この生命をかけて守るほどのものなのか。俺の大切な、大切な家族をばらばらにしてまで戦うものなのか。鬼畜米英、何言ってるんだ、こんなのただの言葉遊びじゃないか
田中、恐くておびえたように。
田中 そうだ、みんなわかっている、誰もがわかっているんだ、でも、言えない、でも、言えない。どうして、どうして。戦争で死ぬくらいなら、出会うこともないはずだった生命を奪って・・・、殺して、死んでいくなら、どうして、俺は兵隊に入るのを嫌だと言わなかったんだ。どうして、どうして
一発の銃声、鋭く。
斎藤、ふっと、意識を取り戻したように。
斎藤 頑張ってください。私は戦地で、君達は内地でこの神国日本を守るのです
木村、振り絞るように。
木村 ・・・一郎・・・
斎藤、吉田、田中、木村、そのままの状態で硬直して。すべての音が止む。
蒼瀬、斎藤たちを見つめていたが。
蒼瀬 おじさん・・・
郵便屋、疲れたように。
郵便屋 ああ
遠くに車の走る音。遠くに電車の行く音。
蒼瀬 済んだの・・・
郵便屋 もう爆撃の音は聞こえないだろう。遠くに車の音・・・、元の世界だ
蒼瀬 あたし、なにがどうなったのか。ぜんぜん、わからない
郵便屋 彼らの思いが弾けて飛んでいったのさ
蒼瀬 それはあの人達が救われたってことなの
郵便屋 救われるってか・・・。いや、粉微塵になって消えた、それだけのことだ
田中、今までのふいんきだとか流れをまったく無視した感じで。すとんと吉田の背中から降りて。
田中 あれっ、あたし何やってんだろう
田中、辺りを見回して。首を傾げて、まだ硬直している人間をのぞき込んで。
蒼瀬 陽子ちゃん、・・・大丈夫。脚、大丈夫
田中 え、私のことですか

蒼瀬、うなずく。
田中 人違いじゃ・・・、私、田中恵子と言います
田中 一体、これって
吉田 痛て、腰が痛い。何か重い物でも持ったのかな。あれ、ここは。ん、俺、何してんだ、こんなところで
吉田も意識を取り戻す。
蒼瀬 明さんも気がついたんだ
吉田 え、俺・・・。俺は吉田・・・、忠志っていんだけど、人違いじゃありませんか
田中、いきなり大声で。
田中 あ、そうだ。私、彼氏と一緒に映画を観る約束していたんだ
田中 なんだか知らないけど、じゃあ
田中、何の抵抗もなく退場。
吉田 なんなんだ、あの女。痛て、まっいいや。俺も帰ろう
吉田、田中と反対方向へ退場。
木村、すっと背を伸ばし、少し腰を叩いて。大きく溜め息をついて。
木村 さて、私も帰りますか。家族が帰りを待っておりますのでね。涼子さん、いや、本当の名前は知らないが、楽しませていただきました、家族というものを。・・・それでは
木村、少し淋しそうに笑みを浮べると、斎藤に頭を下げ、郵便屋と蒼瀬に少し会釈をして退場。
斎藤、気が抜けたように座り込んで。
斎藤 そっか・・・。あのおじさんだけはわかっていたんだ
蒼瀬 あたしにはなにがなんだか、ぜんぜんわからないよ
斎藤、蒼瀬に。
斎藤 ね、名前は
蒼瀬 蒼瀬・・・、千尋
斎藤 はは、そっか・・・。遅れ馳せながら、私、斎藤、斎藤玲子。よろしく
郵便屋 俺は・・・
斎藤 郵便屋さんでしょう
斎藤、疲れたように立ち上がって表札を取り、郵便屋に渡す。
斎藤 正確には郵便屋兼回収屋さん
郵便屋、うなずいて、表札を鞄に仕舞い込む。
蒼瀬 あの・・・、あたしは何がなんだかわからないんだけど
斎藤、少し笑みを浮べて。
斎藤 重なったんだ。私の思いと山田って表札に篭もった思いとがさ
蒼瀬 それって
斎藤 私は心を許しあえる本当の家族ってやつが欲しかった。そして、あの山田って表札は家族って奴をどうしても護りたかったんだ。だから・・・、同じ家族という共通するものが、うまく重なったんだ
斎藤、座り込んで、両膝に顔を埋める。すすり泣くように。
郵便屋、蒼瀬に向かって。
郵便屋 お前さんには、本当に心を許しあえる人間が何人居る
蒼瀬、返事に戸惑う。
郵便屋 親や姉妹は居るのか
蒼瀬 居るけれど・・・
郵便屋、少し笑みを浮べて。
郵便屋 けれど、か・・・
蒼瀬、焦るように。
蒼瀬 だって、みんな考え方が違うしさ。無理だよ、いくら家族っていったって、本当に心を開き合うなんてこと、とてもじゃないけどできないよ
郵便屋 なら友達は居るのか
蒼瀬 そういう郵便屋はいるの、友達なんてもの
郵便屋、溜め息ついて。
郵便屋 みんな死んでしまった。戦争でな
微かに雨音。次第に強くなっていく。
郵便屋 この国には清算されなかった戦争の傷痕が逆巻いている。それは地雷みたいなものでな、うっかり踏むと
斎藤 私はそれでもよかったんだ。ちょっと幸福な気分に浸れるしさ
斎藤、ゆっくりと顔を上げ。
斎藤 大変だったんだよ。現実と虚構のバランスを取るのって
郵便屋 そうか・・・。続けようとしていたのか
蒼瀬 現実にも戻りきらず、そして虚構にも入り込みすぎないように砂場の家族を続ける
斎藤 そう、良く分かっているじゃない、あれがもっと幸福な虚構の世界なら入り込んで、現実、日常って言った方がいいのかな、そんなのとはおさらばしてさ。亭主も子供も知ったもんじゃないってさ
郵便屋、斎藤に向かって。
郵便屋 それじゃ、また、あんたは思いのくすぶっている奴を探してまわるつもりなのか
斎藤 どうだろう。でもね、いまは、まだ、余韻に浸っていたいからさ。父さんに陽子に明、仲のいい家族って奴にさ
斎藤、少し笑って。
斎藤 それに、いまだお会いしたことのない一郎兄さんのことも思っていたいからね
斎藤、蒼瀬に向かって。
斎藤 ね、千尋さん、あんたも気をつけなよ
蒼瀬 え・・・
斎藤 いや、あんたって、私と同じ目をしているからさ
蒼瀬、少し寂しそうに。
蒼瀬 そうだね、気を付けるよ。うん・・・
雨が強くなってくる。
郵便屋 雨がひどくなってきた。こんな晩は外に居るべきじゃない
斎藤 ああ、それに、街灯の下なんかで空を見上げたら大変なことになる
蒼瀬 雨降る晩の街灯の下
斎藤、うなずいて。
斎藤 街灯を下から見上げるとさ、闇の中から光の粒が無数に生まれては消えていく。この一粒が私なんだなぁ、なんて哲学しだしたら、また、同じ事の繰り返しだ
蒼瀬、斎藤をじっと見つめる。
斎藤 気づくと街灯の下、空を見上げる人間達が集まってしまうんだよ
郵便屋 さて、心がひかれてしまわぬうちに、退散するか
蒼瀬一大決心をして、斎藤に向かって。
蒼瀬 一緒に行こう

蒼瀬、斎藤を無理に立たせる。
郵便屋 なるほど三人で飯でも食うか
蒼瀬 思いっきり食って、思いっきり飲もう。開き直って、のっしのっし、歩こう
郵便屋、笑って。
郵便屋 そうだ、遮るものには体当たり食らわして、これでもどうだってな
斎藤、少し笑って。
斎藤 食って・・・、思いっきり飲むか
蒼瀬 やった。ね、おじさん、この手前の角に中華屋さんあったでしょう、そこでいい
郵便屋 ああ、何処でもいいさ。どうせ、今夜は俺のおごりだ
蒼瀬 らっきっ。じゃ、先に行って注文してるからね
郵便屋 ああ
斎藤と蒼瀬、退場。
郵便屋、溜め息を吐き、一枚物の地図を広げ、それを望遠鏡のようにして丸める、そして辺りを眺だす。
郵便屋 酒を飲んだからどうなるってわけでもない、問題はまだまだ山積みだ。それにこの鞄にはまだまだ配達しなきゃならない葉書が詰まっている。そして、俺には時間がない、くすぶった思いって奴を一つ一つ潰して行かなきゃならない
郵便屋、ふっと望遠鏡をおろして。
郵便屋 そう、救いか・・・。自分を救えるのは自分だけだ。だから、自分が自分自身を救おうと思わないのなら・・・
郵便屋、鞄から葉書を一枚取り出して、あっと気づいたように、ポケットや鞄の中をさぐっては首を傾げる。
郵便屋 そうか、俺の虫眼鏡・・・
郵便屋、葉書を鞄に仕舞い込み、ポケットから財布を取り出して中を検める。
郵便屋 足、り、る、な
郵便屋、にっと笑って。
郵便屋 では

終わり

 

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朗読劇 堰守物語

2013年2月17日、京都放送劇団様が「天の川 堰守物語」を演じてくださいました。左記リンクのページ左の公演記録より、お聴きいただけると思います。

 

囁くように。
涼子「こんにちは」
涼子「はじめまして」
静かな音楽
涼子 いつだったろう、黒い傘の、あの女の子を見かけるようになったのは。冷たい雨の降る夕暮れ時だったろうか、それとも雪の降りしきる吹雪の朝、そうだ、夜に降り続いていた雪がやんだ朝、久しぶりの青い空、でも、地上は雪に覆われた真っ白な世界、新聞を取ろうと玄関を出た時、その真っ白な世界の中に黒い傘を差したあの女の子がいたんだ。黒い傘のあの子だけが白を拒絶するかのように道の向こう側に立っていた。誰もいない二人っきりだった、急いで道の向こう側へ渡らなきゃと思ったのに、手を伸ばしてしっかり抱きしめてあげなきゃと思ったのに、私は怯えて立ちすくんでしまった。どうして私は怯えたんだ、どうして。
どうしてだかわからないのに、私、怖くなってドアを閉ざしてしまった。
それから何度も、傘をさしたあの女の子を見かけた。陽だまりの、公園のフェンスの向こう、夕日に伸びる私の影の下。
小さな黒い染みが、私の心の中で見る間に広がって、いつのまにか、黒い傘をさす小さなあの女の子が、心の中を、大きく占める存在になっていったんだ。
名前も知らない、話をしたこともない、ううん、顔すら、黒い傘が邪魔をして、見たことがないんだ。それでも、なんだか、そわそわと気掛かりでしょうがない。思い切って声をかけてみようかと思う、思ったことはあるのだ、でも、なんだか怖いんだ。円満とは程遠いけれど、夫との安定した生活。近所の人達との、天気がいいだとか、悪いだとかのつまらないお喋りをする日常。それが、黒い傘に隠れた小さな女の子に話しかけた途端、一瞬にして消え去ってしまいそうな気がして怖いんだ。
どうして、そんなふうに思ってしまうのだろう、わからないくせに、いつも、こうしてためらってしまう。怯えてしまうんだ。

(一部抜粋)

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流紋物語 オーディオドラマ用シナリオ 2013年修正版

登場人物

少女 海に漂流している幽霊
女  高校生 主人公
父  女の父親
女一 女の友人
女二 探検隊の曾孫・老人の孫娘
老人
魚屋



少女、囁くように。
少女 「こんにちは、こんにちは。あたしの声が聞こえますか。あたしは海にいます、空はすっかり青色です。空と海の境目がわからないくらい、とっても、とっても、青です」
音楽。
女。呟くように、そして、少しづつ早口になる。
女独 「どうしたんだろう、私。声が聞こえるんだ。いつからだろう、ううん、わからない、昨日からだったかもしれないし、ずっと前からだったかもしれない。小さな女の子の声が、まるで耳元にラジオでもあるみたいに聞こえてくるんだ」
女独 「母さん、いなくなって父子家庭。珍しく、晩御飯食べるの、父さんと一緒で、その時も、女の子の声が聞こえたから、父さん、何か子供の声、聞こえないって聞いたら、何も聞こえないよって、父さんの答え。あれ、テレビかなってごまかした」
女独 「学校の友達には絶対、そんなこと、聞けない、集団生活は厳しいんだ。変な奴って思われてしまうよ」
フェードアウト

夕方。自宅、台所にて。
父 「どうした。泣きそうな顔しているぞ」
女 「え・・・」
女 「あ、ううん。なんでもないよ」
女独 「いつ、学校から帰って来たんだろう。薄暗い部屋、明かりをつけるのも忘れていた」
女独 「父さん、明かりをつけてくれた。いつもの台所兼、居間だ、明るくなって、冷蔵庫やテレビ、水屋、見慣れた部屋に帰って来た気分だ。なんだか、ほっとした」
冷蔵庫を開ける音。お茶を出し、湯飲みに注ぐ音。
父 「飲みなさい、こんな夏の暑い晩に締め切っていたら熱中症になってしまうぞ」
女 「ありがと」

女独 「父さん、テーブルの向かいに座った」
父 「いや。なんていうかな。もしもだ、いじめにあっているなら、父さんに言いなさい。困ったことがあるなら相談しなさい。父さん、たいして頭も良くない からな、勉強は教えてやれないが、それでも、親だからな、俺はあいつの分もしっかりお前を、守って育てなければならんと思っている」
女 「大丈夫だよ。学校、楽しいよ」
父 「そうか」
女独 「父さん、安心したように笑ってくれた」

女 「ご飯の用意をするよ」
父 「今日の当番は父さんだろう」
女 「いいよ。なんか、父さん、夏ばての疲れ果てた顔しているからさ、大サービスだ、作ってあげるよ」
父 「父さんはいつもこんな顔だ」
女、笑う。
冷蔵庫の扉を開く音。
父、少し離れたところから。
父 「豆腐があったろう。食欲ないからな、冷奴にしてくれるか」
女、楽しそうに。
女 「ほら。そんなんじゃ、だめだよ。豚肉やキムチも入れて麻婆豆腐を作るんだからね、がつがつ食って明日もしっかり仕事をしてください。子育てにはたくさんお金が必要なのですよ。お父さんのすねが細くなったら、私が、がしがし、かじれないからさ」

女、風呂上がり自室にて、扇風機に向かって。
女 「あぁー」
女独 「御風呂上がりの扇風機、このきらめく瞬間、幸せだ」
回想。
女、やわらかく囁くように。
女 「お母さん。お母さんがいなくなるの嫌だよぉ。お願い、ずっと一緒にいて。お母さん、大好きだよ、いなくなるなんてやだ。お母さんは私のお母さんだよ、誰のでもない、私のお母さんだもの。ね、そうでしょう、そうって言ってよ、ねぇ、お母さん」

女1 「ね。どうしたの」
女 「ん、何が」
女1 「長かった髪も切ったし、言葉遣いもなんだか・・・」
女 「あぁ、これから強く生きて行かないとさ。捨て猫は野良で頑張っていくしかない。これからは物分かりのいい優しい顔はしていられないんだ」
回想、終わり。

女独 「くだんないこと、思い出した。夏になると思い出す。とにかく、私と父さんは、母さんに捨てられた猫だ。立派な野良猫として生きていかなきゃ。恵子 だって、あかねだって、父親と同じ空気を吸っていると思うだけで、吐き気がするとかいうけれど、私と父さんは捨てられたもの同士、同盟を組んで、頑張って 生きていかなきゃならないんだ」
扇風機に向かって、パイロット気分で。
女 「あー。感度良好、感度良好。雲の上は見事な星空です。遥か彼方の星の瞬きがスポットライトのように機体を照らしだします。我が白い機体は幻灯機のよ うに何万光年もの彼方、光が伝える、その星の生活を映しだすのです。あー、あー。どうやら、これは地球という星のようですな。何やら二足歩行の蠢くもの が、その地球という星を食い荒らしております」

少女、囁くように。
少女 「こんばんは、こんばんは。あたしの声が聞こえますか。大きな月が波を白く照らしだしています」
女、叫ぶ。
女 「うわぁ、お父さん。お父さん」
階段を駆け上がる音。強くドアを叩く音。
父、ドアの向こうから。
父 「どうした、開けるぞ」
ドアの開く音。
女、泣きながら。
女 「お父さん、声が、女の子の声が聞こえるんだ・・・」

階下にて。
女独 「どう、説明したものか」
女独 「一階の台所兼居間、私は椅子に座り、テーブルには麦茶。父さんは動物園の熊さん状態、所在無げにうろうろ、あ、冷蔵庫を開けた」
冷蔵庫を開ける音。
女独 「牛乳と珈琲、私のお父様はアルコールがだめな人なのだ」
父 「あ、あのな」
慌てたように、
女 「は、はいっ」
女独 「うわぁ、声がひっくり返っちゃった」
父 「大人はなにもかもがわかっているわけじゃない。齢食って、わかっている振りをするのがうまくなっただけだ」
女独 「父さんもテーブルについて、私の向かい、珈琲牛乳を一口、飲んだ」
父 「いったい、お前に何が起きているのか、教えてくれないか」
女、決意したように。
女 「女の子の声が耳元で聞こえるんだ、いつもじゃないけど。ほんとに隣りにいて喋っているように聞こえるんだ」
女独 「お父さん、少し考え込むように俯いて、そして顔を上げた」
父 「どんなことを喋っているんだ」
女 「海の様子ばかり、さっきは、月明かりが海の波を白く照らしているって言ってた」
父 「それはお前に呼びかけているのか」
女 「わからないけど、聞こえる人を探しているみたいに思う。お父さん、私、おかしくなったのかな、それとも夏の幽霊」
女独 「お父さん、少し俯いて考え込んでしまった。そりゃそうだよ、こんな変な話、誰もまともに受け入れられないよ」
父 「その声はどんな声だ。どんな感じがする、嫌な感じがするのか」
女 「いつもびっくりはするけど・・・、嫌な感じはしない」
父 「なら、返事をしてみなさい」
女、息を飲んで。
女 「え」
父 「背中丸めてやり過ごそうというより、向き合ってみる方が良い。もし、本当に幽霊で、お前が海に引きずり込まれそうになるなら、父さん、両手でぎゅっとお前の手を握って引き留めてやるよ」
女独 「お父さん。あぁ、お父様はとっても浪漫的なお人なのでした。でも、確かにそうだ・・・、その声にびっくりはしたけど、怖かったり、嫌だったりしたわけじゃないんだ。だから、だから。返事、してもいいのかもしれない」


女独 「あれから一回目、声が聞こえた時、喉が緊張して喋れなかった。いつ、声が聞こえるかわからないから、慌ててしまうんだ。二回目はお手洗いに行って て、声だけだから見えるはずないんだけど、でも、なんか、ごめん、待って、待って、って思っている内に消えてしまった。あぁ、声に出して待ってって言えば 良かったんだ。あぁ、何やってんだ、私は」
女独 「私、どうしたんだろう。返事をするって、決めたら、声が聞こえるのを、なんだか待っている」
少女の声、囁くように。
少女 「こんにちは、こんにちわ。あたしのが声が聞こえますか。向こうに黒い雲、こっちに来ないといいなぁと思っています」
女 「こんにちは。そうですね、雨が降らないといいですね」
少女 「ごめんなさい」
女独 「ふっと、何か繋がっていたのが途切れたような気がした」
女、叫ぶように。
女 「待って。謝らなくていいよ。もっと、もっと、お喋りしよう」
少女、戸惑うように、申し訳なさそうに。
少女 「あの・・・、初めまして」
女、最初、元気に。
女 「初めまして。君の声、以前から聞こえていたよ、返事しなくてごめんなさい」
少女、ほっとしたように。
少女 「ううん、ありがと。返事してくれて」
女 「君の名前は」
少女 「名前・・・、ごめんなさい。思い出せない。ずっと、誰ともお喋りしなかったから」
女 「君はずっと一人なの」
少女 「うん」
女 「よし。なら、私が君の名前をつけてあげるよ。ん・・・、海、灯台。そうだ、あかり、あかりって名前、どうかな」
少女 「あかり・・・。ありがとう、お姉ちゃん」
女独 「お姉ちゃん、お姉ちゃんだ。うひゃぁ、なんてことだ、妹ができてしまった」


楽しそうな音楽。
女 「あかりちゃん、そちらの風はいかがですか」
少女 「微風(そよかぜ)です、日差しもとっても柔らかです。こんな日は珍しいです」
女 「昨日の晩は大変だったものね」
少女 「うん、真っ暗だし、凄い波で。ごめんなさい、泣いてしまって」
女 「何言ってんだよ、あかりちゃん。お姉ちゃんこそ、頑張れってしか言えなくて、ごめんね」
少女 「ありがとう、お姉ちゃん。とっても嬉しかった」
女、嬉しそうに笑う。
少女 「ごめんなさい、昨日、あまり眠れなかったから、ちょっと眠い」
女 「うん、わかったよ。それじゃ、また、あとでね」
少女 「ありがとう、お姉ちゃん」
女 「どういたしまして」

女独 「通信が切れた、あかりちゃん、眠ったみたいだ」
女、焦るように。
女独 「現状、日曜日のお昼前。私は台所のテーブル、椅子に座ってあかりちゃんとお喋りしていた。そして、テーブルの向かい側には、仕事お休みのお父さんって、自営業だから、お客さん宅へ行く以外は大抵、家に居るのだ。なんだか、お父さん、分厚い本を読んでいる」
父、一人呟くように。
父 「大切な娘が、一人で会話している、それも、大声で楽しそうに。本来なら、大変だと親はおろおろ、慌てふためくものだ。うちの娘がおかしくなったってね」
女独 「父さん、本から視線を離さずに呟いた」
女 「あ、あの。ほんとだよ。本当にあかりちゃんはいるんだ、ここじゃない、とても遠い海にいて。どうしてか、わからないけど、お喋りができるんだ」
父 「学校から電話があったよ。一週間も学校に来られていませんけどって。男親はだめだな、夏休み、夏期講習ってあるんだ」
女独 「だ、だって。勉強中にあかりちゃんの声が聞こえたら、返事したいし。でも、授業中、大声出したら迷惑かかるし」
父 「迷惑がかかる、それは嘘だな。変に思われるのが怖いんだろう。こいつ、変になったって思われるのが嫌なんだろう」
女 「え・・・」
女独 「父さん、顔を上げて、いたずらっぽくにっと笑った」
父 「学校さぼっていること、父さんに怒られると思ったか。怒りはしないよ。あかりちゃんと喋っている時間の方が大事なんだろう。なんにでも優先順位はあるさ。でも、嘘はだめだ、どんな小さな、些細な嘘もだめだ」
女 「ごめんなさい」
父 「いいよ、わかればいい。それで、あかりちゃんとは仲良くなったようだね」
女 「とっても、いい子だよ。お喋りをしていると、私も海にいるような気がするんだ。二人、海に座って、真っ青な海を見ているような気がして、とっても楽しいんだ
父 「で、あかりちゃんも楽しそうなのか」
女、自信を持って。
女 「うん、とっても楽しくて、幸せだと思う」
父、少し間を置いて。
父 「あかりちゃんにはお前しかいないんだろう。相手してあげなさい。お前が家事の出来ない分、父さんが晩御飯とか作るからさ」
女 「お父さんは変な人だ」
父 「父さん、昔からこんな奴だぞ。あいつが嫌気さしてしまうほどにさ」
女 「普通のお父さんなら、絶対に娘を病院に連れて行くよ」
父 「なら、普通に病院へ連れて行くか、それとも、何かに憑りつかれたんだと、電話帳で悪魔払いや祈祷師さんを探すか。うちの娘、変なんです、悪霊に取り付かれたんですって涙流すかな」
女 「やだ」
父 「普通じゃない父さんでよかったな」
父、少し笑う。
父 「この本は大正時代、とある砂漠へと遺跡調査に向かった探検隊の記録だ」
女 「その本が何なの」
父 「古老の言葉が記してあった。学生時代読んだのを思い出してね」
父、ゆっくりと語り出す。
父 「探検隊の記録」
女独 「お父さん、本を閉じて机に置いた」
父 「この地は昔、海に取り囲まれていた、果てのない大海に浮かぶ小さな島々だった。交通には数人乗りの船が使われていたと云う。今の砂漠からはすぐには 信じられない話だ。しかし、発掘する中で、石に刻まれた舟や魚、漁をしているとしか思えない様子を描いた壁画の一部が大量に発掘された。地球環境の変化が いかに人知を超えたものかを偲ばれる。さて、前述の古老より、理解に苦しむ話を聴かされた。逸話のようなものかと問うたが、いや、これは、ごく日常の意志 伝達手段であったという。これを別記として書き添える。別記・・・、人々は意思の伝達に言葉を使うが、それは遠く離れた者への伝達手段としても利用されて いた。海に向かって語りかける。その声は海を伝わり、違う島の者へと、意思を伝えることができた」
女、叫ぶ。
女 「お父さん、それって」
父 「ちょっと、興味深い話だろう」
女 「お父さん、その続きはどうなっているの」
父 「そこまでだよ、書いてあるのは。著者の理解できない話だったんだろう。次のページは違う話になっている」
女 「そんなぁ・・・。それじゃあ、何にもわからないよ」
男が嬉しそうに笑う。
男 「あー、困った、困った。この頃の子供はテレビの影響だな、自分で論理を積み重ねるということができないんだなぁ」
女 「それはお父さんのステレオタイプ的発想です。子供に対する偏見だな」
男、嬉しそうに。
男 「子供に意見されるのは楽しい。身長だけでなく、ちょっとは、成長したんだなぁって思うよ、頭の中もね」
女独 「海に向かって語りかける、あかりちゃんもそうなのだろうか。青い空の下、陸地が何も見えない、水平線しか見えない海、小さな女の子が俯いて海に語りかけている。なんて、孤独なんだ。なんて、なんて・・・、一人きりなんだ。一人は嫌だっ」
男、呟くように。
男 「あかりちゃんにとって、お前は気持ちを共有してくれるたった一人の友達、いや、たった一つの存在なのかもしれないな。間違いなく、お前が思う以上に、これは重く厳しいことだ。さて、声の聞こえない一人親は、おろおろするばかりだよ」
女、呟くように、声を押し殺すように。
女独 「父さんの顔、笑顔なのに、少し泣いている気がする。お父さん、私はお父さんが思う以上に力持ちだよ。どんな重い物だって持ちつづけるよ。私は母さんじゃないからさ」
父 「うっかりしていたな。昼ご飯を作るよ。そうだ、素麺、もらったのがあったな。お昼、素麺でもいいかな」
女 「冷蔵庫に、かしわの胸肉があったよ、蒸して、細く切って、素麺と一緒に食べよう。胡瓜の細く切ったのや、海苔だけじゃ力が出ないもの」


女独 「私のあかりちゃん救出作戦が始まった。聞き出せたこと。あかりちゃんの回りは海で、全て水平線、陸地が見えないこと。そして、どうして、海にいるのかが思い出せないこと」
女独 「いま、私にできることは何だ。何ができるだろう。そうだ、もっと、あかりちゃんとの繋がりが強くなれば、あかりちゃんが思い出せないこと、私に見えてくるかもしれない。そのためには、もっと音の刺激をあかりちゃんに送ろう」
商店街の雑踏、魚屋の掛け声が響く。
女独 「近くの商店街にやってきた。あまり人の多いところって好きじゃないけど、賑やかでいろんな声が響いている方がいい」
女 「あかりちゃん、いま、お姉ちゃん、買い物しているんだ、晩御飯の用意。たくさんの人達が大声で騒いでいるの、聞こえるかな」
少女 「ごめんなさい、お姉ちゃんの声だけ、聞こえます」
女 「そっか。それじゃあ、よしっ」
女 「おじさん、その生きのいいアジ。おまけして」
女独 「生まれて始めての値引き交渉だ、足が震えた」
魚屋 「しゃぁない、別嬪さんに頼まれたらいやと言えないな。よし、端数切ってやるよ」
女 「うわぁ、ありがと。おじさま」
魚屋 「おじさまかぁ、いいなぁ。魚のあら、これも持っていけ」
女 「うわぁ、ありがとう。嬉しい」
魚の受け渡しと支払い。
魚屋 「ほいよ」
女 「ありがと」
女独 「うひゃぁ、退却。人ごみ掻き分けて走った。(荒い息の音)どきどきする。内弁慶ってお父さんにからかわれているし、自分でも自覚しているのに。あんな、大声で喋ってしまった」
女 「あかりちゃん、お姉ちゃんの声の他に何か聞こえたかな」
少女 「・・・持っていけって、聞こえた気がする」
女 「やった、魚屋さん、そう言ったよ。よし、今度は八百屋さん行くよ」
少女 「うん、お姉ちゃん、とっても楽しい」
女 「あかりちゃんが楽しいって言ってくれれば、お姉ちゃんは勇気百倍だ。行くぞっ」
女、元気に言う。
女 「こんにちは。こんにちは」
女 「こんにちは。そのトマト、いくらですか」
女 「こんにちは。夏祭ももうすぐですね」
女 「こんにちは。いっぱいの人ですね」
女 「こんにちは。一番安いお肉でいいです」
女 「こんにちは。そのお豆さんください」
女 「こんにちは。こんにちは」
女 「こんにちは。おじさん」
女 「こんにちは。お姉さん」

女、大きく息を吐く。
女独 「生まれて十七年、今日一日で三年分くらいは喋った気分だ。だけど、喋るのって案外楽しい。色んな人がいて、色んなことを考えている。あぁ、この人はこういう喋り方をするんだ、あの人は顔をちょっと右向けて喋る、きっと、左右で視力が違うんだ」
神社の鐘が近くで鳴る。
少女 「鐘の音」
女 「商店街を越えたとこにある神社の境内。あかりちゃん、鐘の音、はっきり聞こえたかな」
少女 「うん。聞こえたよ」
女 「同じ音を聞いているんだよ、いま」
女 「遠くで風鈴の鳴る音が聞こえる。人の声が混ざりあって聞こえてくる」
少女 「とっても柔らかい音です。いろんな音が重なって、とっても気持ちが良いです」

老人 「ぎょうさんの買い物やねぇ。おや、小さな神さんも一緒かいな。よぉ、似たはるなぁ」
女独 「お参り帰りのお爺さん。座ってへたばっている私に笑いかけた。小さな神様って・・・」
老人の孫 「お爺さん、探しましたよ。目を離すと、すぐに何処か行くんだから。お嬢さん、ごめんなさいね。あら、可愛いお嬢さんたちね、また、会えそうな気がするわ。それじゃあね」
女 「え、あ、あの。そ、それって」
女独 「女の人、お爺さんの手を引いて歩いて行く。お嬢さんたち、小さな神様、小さな神様って、あかりちゃんのことだ」

間、帰宅。どたばたと廊下を走る音。
女 「お父さん、お父さん。お父さん」
父、腕立て伏せをしながら。
父 「お帰り」
女 「どうしたの。腕立て伏せなんて」
父 「ちょっと待ってくれ。27、28、29、30」
女 「お父さん、大きく深呼吸をすると、床に胡座をかいた」
父 「腹筋、腕立て伏せ、三十回だ。若い頃は百回くらいできたんだけどな」
女 「いきなり、どうしたの」
父 「筋肉鍛えてる。筋肉ってのは精神力だけではどうにもならないからな」
父 「ん。すごい荷物だな。降ろしたらどうだ」
女 「え。あぁ、うん」
荷物、降ろして。
父 「で。何があったんだ」
女 「そうだ、お父さん」
女、声を寄せるように。
女 「大進歩だ、革命だよ。あかりちゃん、色んな声が聞こえるようになったよ」
父 「それは、つまり、お前の声以外も聞くことができるようになったということか」
女 「うん。これで」
父 「これで、なんだ」
女、思い切ったように。
女 「私、あかりちゃん救出計画を立てているんだ。あかりちゃんを救いだす」
父 「お前なら、そう考えるだろうなと思ったよ。聴覚が済んで、それじゃ、次は、視覚、見えるようになるってことかな。で、その買い物は」
女 「商店街へ行ってきた。お店で、大声で喋りながら買い物してきたんだ」
父 「お前がか。内弁慶で、外では無口なお嬢様やっているんだろう」
女、大きく息を吐いて。
女 「可愛い妹のためだ、頑張った。それで、あかりちゃん、色んな声や音が聞こえるようになったんだからね」
父 「えらい、えらい。誉めてやるよ」
女 「えへへ。どんどん、あかりちゃんに近づいて、手を伸ばせば届くくらいにするんだ」
父 「大仕事だ。悔いのないようにしなさい。で、買い物袋の上、それ、アイスクリームだろう。冷凍庫に入れて置いてくれ」
女 「忘れてた」
立ち上がり、走る。冷蔵庫を開ける音。


台所の流しで並んで。
水を流す音。
女独 「お父さんは、社会人としてはだめだけど、私にとってはとっても良いお父さんだ。父さんにそう言うと、どうだめなんだと悩みそうだから言わない。だ から、夫としては最低かもしれない。何かの本で読んだ、娘は父親と似た男と結婚しがちだとか。そうならないよう、注意しなければ」
父 「考えごとか。手が止まっているぞ」
女 「ごめん。結婚のこと考えていた」
とんとんと包丁で野菜を切る音。
女独 「買ってきたもの、とにかく、冷蔵庫に押し込んで、野菜炒めを作ることになった。父さんは隣りで鯵の開きを作っている、三枚に降ろして、塩をして、 明朝から干すのだ。たいていの料理はできるようになったけど、魚と蛸と烏賊を捌くのは勘弁してくれ。三十路になったら頑張る」
女 「ん、父さん、手が止まっているよ」
父 「あ、あのな」
女 「どうしたの」
父 「父さんはかなり理解のある方だ。まだ結婚は早いとか言わないようにするし、相手の男を一発殴らせろみたいなことも言わないから。どんな、奴かだけ言ってくれ」
女 「え・・・。あぁ、違う違う。具体的な話じゃないよ。私は誰とも付き合っていないし、これからもね、父さんがお爺さんになってもすねをかじるつもりでいるから、どうぞ、よろしく」
父、少し吐息を漏らして。
父 「まっ、なんだ。父さん、かっこ悪いな。かなり焦った」
女 「先を自在に読んで、準備し過ぎるお父さんより、おろおろしているお父さんの方が面白いよ」
父 「負うた子に教えられ、だな」
女独 「お父さんは、多分、ずっと青年で、大人に、何処か、なりきれていないのだ。だから、あの人は疲れてしまった。そんなとき、新しい恋ど出会ってし まったのだ、家族を捨てても悔いがないくらいの恋に出会ったのだ。私は君が今も大切だから、君が幸せになることを選びたい、それが父さんの言葉だった。父 さんは青年過ぎるんだ」


女独 「鯵の三枚に卸したのは、明日の朝まで、冷蔵庫でお休み。テーブルにはベーコン入りの野菜炒めの大皿と、お味噌汁の鍋」
女 「いただきます」
父 「いただきます」
女 「お父さん。野菜炒め、しっかりベーコンも食べてよ。ここしばらく、暑いからって、あっさりしたのばかり食べているでしょ」
父 「そういえば、そうだな。でも、この野菜炒めはオイスターソースが入っていて、コクがあって美味しい。食べ過ぎてしまいそうだよ。なんだか、お前も料理が上手くなったな」
女 「なんだよ、しんみりして。さっきの、まだ、引きずっているでしょう」
父 「いや、父さんはお前が幸せになることが、一番嬉しいことだから」
女 「ほら、さっきの、って言うだけで、結婚のことに繋げるんだからな。男親はしょうがないなぁ」
父、笑う。
父 「あんまり、良い格好ばかりしていると、何もかも無くしてしまうな」
女 「結婚しないでくれ、もしくは婿養子をとってくれ。父さんは二階でひっそり暮らすからと、泣いて頼むこと」
父 「はは。紙に書いて貼っておくよ。忘れないようにね」
女、くすぐったそうに笑う。
父 「しかし、これは、ちょっと出しづらくなったな」
女 「ん、何が」
父 「携帯電話を買ってきた」
女 「ええっ、見せて、見せて」
紙袋、がさごそとさぐる音。
女 「おぉっ。色違いが二つ、白と黒。黒もーらい」
父 「使い方は説明書を読んでくれ」
女 「こういうのは、説明書なんか読まなくても、うん、なんとかなる、もんだよ。ほら、この電話の番号が出てきた、うん、他の電話番号もある」
父 「お店の人に登録してもらった」
女 「家の番号と、これは、あの人の番号だ。父さん、理解ある父親を装うとしたね」
父 「ごめん、その通りだ」
女 「異母姉弟、じゃなくて、異父姉弟。会ったことないけど、もう、弟二人まで居て、仲良く四人で暮らしているって聞いたよ、お喋りの恭子叔母さんから。 叔母さんは聞いてもいないことまで喋り続けるんだからなぁ。お前はなんて可哀想なのって、叔母さんの可哀想空気で窒息しそうになったんだからね」
父 「とても申し訳ない」
女 「あの人の番号は削除しておきます。お父さん、あの人の幸せを邪魔してはなりません」
父 「頼りになります」
女、笑う。
女 「これで急なことがあっても、すぐにお父様に相談できるよ。ありがと」
父 「父さんが仕事に出ている時でも、かまわない。必要なら電話をしてくれ」
女 「そうする。あかりちゃん、救出の時、お父さんがいてくれる方が心強いし。早く帰ってこーいって呼ぶよ」
女独 「お父さん、ちょっと笑みを浮かべて、それから野菜炒めを食べる。そうだ、あかりちゃんは私の横、ううん、お父さんの横の方が、私からは正面になっ ていいかな。三人で、こうやってご飯を食べたらもっと楽しいだろうな。それに、この携帯でいっぱい写真を撮ろう。いろんなところへ行こう。一緒にお買い物 したり、旅行も良いな。あ、でも、海はだめだ。山、山なら、山ガールとか言ったっけ。そういうのいいなぁ。そうだ、キャンプもいいなぁ。もう、とっても大 切にするぞ。なんてったってお姉ちゃんなんだからさ」
父、呆れたように。
父 「どうしたんだ。なんだか、にやけて気持ち悪いぞ」
女、嬉しそうに。
女 「なんだよなぁ、自分の娘に気持ち悪いなんてさ」
父 「えらくご機嫌だな。偉そうなことばかり言う我娘だけれど、わりと単純なんだなと、見抜かせていただきました」
女 「単純じゃなくて、素直なんだよ」
女、笑う。
父 「まっ、飯時に難しい顔して食うよりも、にやけた顔して食うほうが幸せだ。
女 「にやけたじゃなくて、微笑んでいると表現してください」
女、少し笑う。
女 「なんだか、今年の夏は楽しいことばかりだ」
父 「いいんじゃないか。来年は受験だからな、今のうちに羽を伸ばして置いてください」
女 「大学か・・・。いまいち、大学へ行く意味が見出せないな」
男 「意味って、たくさん勉強しに行く。それだけのことだろう」
女 「お父さんはキャンパスライフって言葉に一番遠い存在だな。学生の本分は勉強って、お父さんはたすきをしているような人だ」
父 「学ぶということは楽しいことだよ、学び、理解することが、唯一、自分を変える力となる」
女 「そういう、お父さんの青いところ、理解しているよ」
父 「高校生で、頭の中、おばさんにはならないでくれよ」
女 「歳相応にってとこだね。はぁ、やれやれと・・・」
女、急に。
女 「そうだ。お父さん。小さな子供に本を読んであげるとしたら、どんな本が良いかな」
父 「急になんだ」
女 「寝る前、あかりちゃんに本を読んであげる約束をしたんだ。どんな本が良いと思う」
父 「そうだな、父さん的には灰谷健次郎。少し古くて斎藤隆介辺りか。外国文学なら、ミヒャエル・エンデやサン・テクジュペリがお薦めか。」
女 「なら、サン・テクジュペリの星の王子様にしよう。父さんの本棚にあったね」
父 「古いのを読む方が良い、現代語訳もあるけど、味がない」
女 「旧仮名遣いは読みづらいよ」
父 「ゆっくりと、言葉の響きを大切に読めば良いさ。言葉は意味を伝えるだけじゃない、気持ちを伝えるものだ。響きは気持ちや願いをしっかり伝えてくれるのさ」
女 「父さんの文学青年なところと、久しぶりに遭遇してしまった」
父、笑う。
父 「大目に見てくれ。そうだ、本で思い出したけれど、前に話した探検隊、その隊長の曾孫に当たる人に連絡をとったよ。その人が全ての資料を相続したらしい。許可は得たからさ。仕事の都合で、何日か先になるけれど、時間を見つけて話を聴いてくるよ」
女 「おおっ、久しぶりに父さんを見直したよ」
父 「久しぶりに見直してくれて、ありがとう」
父、笑う。

探検隊のひ孫宅にて。
女二 「これが曽祖父が残した日記やメモ、その他の収集品です」
父 「大きなダンボール箱が山となってますね」
女二 「大丈夫です。資料の内容、どの箱にメモがあるかなどは全て諳んじております。具体的にどういったことをお知りになりたいのかをお申しいただければ、ご案内できるかと思います」
父 「電話のように、遠く離れた人と会話をするという古老の話がありましたね。それに関することをできるだけ、詳しく知りたいのです」
女二 「それは流紋のことです」
父 「流紋・・・」
女二 「流れる紋様と書いて、流紋。曽祖父が後に、その古老の云う遠隔通信を、そのように名づけたのです。これは、資料をご覧いただきながら、ご説明いたしましょう」
ダンボール箱を移動させる、箱を開ける、中に入った資料を引き出す。
女二 「こちらをどうぞ」
父 「ありがとうございます」

女二 「古老の言う内容、我は理解しがたし。ただし、文明が進み、後世の者、これを難なく理解しえるやも知れず、ここに、それを書き記すなり」
父 「一字一句、メモの通りの言葉ですね」
女、少し柔らかい言葉で。
女二 「ありがとうございます。詳しくはお読みいただくと致しまして、簡単に解説させていただきます」
父 「お願いします」
女性二 「砂漠の民に残された海の話。その地は元々、砂漠にあらず、大海に浮かぶ島々であったとのこと。それぞれの島には、独立した部族があり、争うこと もなく、平和に暮らしていた。そして、この島の人たちには独特の通信手段があった。遠浅の海岸、足首辺りまで海に入り、足元の水面に向かって呼びかける」
女性二 「相手の名前を呼び、そして、おおい、おおいと水面に呼びかける。上手く相手に声が届く時、水面に模様が現われると云う」
父 「それで流紋ですか。どんな模様が現われるのでしょう」
女二 「具体的な形は曾祖父のメモにはありません。ただ、人それぞれに個別の模様があり、その模様で相手を確認できたのだとあります」
父 「これだけの資料を記憶されている貴方の考えを参考にしたく、お尋ねしたいのですが、よろしいでしょうか」
女性二 「どうぞ」
父 「その流紋が実際に使われていたと仮定した上で、もしも、最初に名前を言わずに呼びかけたとすれば、どうなると思われますか。誰にもその声は届かないと、お考えになるのでしょうか」
女二 「仮定の上に成り立つ議論は空虚であるとした上で、申し上げますと、私が最初にこのメモを読みました時、これはラジオに似ていると思いました」
父 「ラジオ、つまり広範に広がる信号を共振にて引きだすということですね」
女二 「この空間には無数の電磁波がそれぞれの波長で存在します。その中から、必要とする周波数を共振にて取り出し、音声信号として増幅する機械がラジオ です。海に向かって呼びかけるのも声という振動が伝搬し、たまたま、共振する人がいれば、その声が届いたと、称しても良いのではと思います」
父 「しかし、ラジオにしましても、また、テレビもそうですが、大きな出力で電波を発することで世界に届きます。人の声では到底、広範な領域に、その声を届かせることはできないでしょう」
女二 「どんなに小さな信号でも、増幅することができれば、つまり、信号を受け取る側が共振することができれば可能でしょう。それに、もう一つ。貴方は海に向かって強く語りかけたことがありますか」
父 「いいえ、考えたこともありませんでした」
女二、ほんの少し、笑みを浮かべたように。
女二 「難しい科学の本によりますと、空気中を電磁波が伝播する本当のところの仕組みは、まだ、判然としないとのこと。ならば、水に向かって語りかけるの も一興。以前、祖父は子供の私にこんな話をしてくれました。昔、蔵の横に大きな水瓶があった。親父は水瓶に水をいっぱいに張り、おおい、おおいと声をかけ ては、親しそうに水瓶に向かって話をしていたと」
父 「海ではなく、水瓶に」
女二 「曾祖父は謎を解いたのかも知れません、理解した者にとっては、海であろうと、一個の水瓶であろうと、かかわりなく、言葉を伝えることができたのかも知れませんね」
父 「興味深いお話をお聞きすることができました。お時間をいただきありがとうございます」
女二 「こちらこそ、曾祖父のお話ができて嬉しくありました。次回は是非、二人のお嬢様と一緒にお越しくださいませ」
父、驚いて。
父 「どうして娘のことを、いや、二人の娘とはいったい」
女二、笑みを浮かべ。
女二 「縁とは妙なものですね。楽しみにしていますわ」
フエードアウト。
けたたましい、電話の音。
父 「どうした、大丈夫か」
女、泣きながら。
女 「あかりちゃんが、あかりちゃんが、ごめんなさいって、ごめんなさいって」
父 「深呼吸をしなさい、電話はそのまま。いま、家に帰る途中だ。すぐに着くから」

勢いよくドアを開ける音。
女、呟くように。
女 「あかりちゃんと繋がらなくなったんだ。私には父さんが居てくれるけど、あかりちゃんは、夜になる夕暮れの中、一人で泣いているのかな」
父 「そうだろうな」
女、溜息をついて。
女 「お父さんは厳しいな」
父、女に近づく。
父 「もっと早くに言っておけばよかったな」
女 「ううん、気づかなかったなんて。私は馬鹿だ。私だって、陸の見えない海にほうり出されたら、一日も生きていられるはずがない。あかりちゃんはとっくに死んでいたんだね。どうして、気づいてあげられなかったのかなぁ」
父 「それだけ妹が出来て嬉しかったってことだろう」
女 「でも、自分が嬉しいからって、あかりちゃんを苦しめてしまったよ。救い出して上げるよ、そうしたら、一緒に暮らそう。一緒に遊ぼう、買い物もしよう、いっぱい写真も撮ろうって。あかりちゃん、辛かっただろうな。泣かせちゃった」
父 「それで、お前はこれからどうする。何もかも忘れて、元の生活に戻るか。これから、晩ご飯つくって、食べたらお風呂入って、ちょっと、テレビを見て、宿題どうしようかなって思いながら眠るか。父さんはそれでもいいと思うよ」
女 「やだ、嫌だよ。あかりちゃん、泣いているのに忘れたりなんか出来ないよ」
父 「それは、ひよっとして、自分が死ぬようなことになってもか」
女 「お父さん、何か知っているの。私は死なない、絶対死なないよ」
父、溜息をついて。
父 「死んでもいいって答えれば、叱ってやろうと思ったけれど、死なないか・・・、しっかりしたもんだ。なら、洗面台、いっぱいに水を張りなさい」
女、元気に。
女 「うん、わかった」
ドアを開け、駆け出す音。

水の流れている音、止める音。
父 「さて、洗面台の前に立ちなさい」
女 「はい」
父 「あかりちゃんは海の水面に向かって声をかけていたんだと思う。同じようにあかりちゃんを思って呼びかけてごらん。一度は繋がったんだ、存外、繋がり易いと思うよ」
女 「わかった・・・」
女、大きく深呼吸をして。そっと、囁くように。
女 「あかりちゃん、あかりちゃん。あかりちゃん」
女独 「両手の指先、そっと水に触れてみる。ひんやりとした水の感触が指先から、手のひら、ゆっくり広がって行く。あかりちゃん、もうすぐだよ」
父 「模様だ、水面にさざ波がたちだしたぞ」
父 「もっと呼びかけなさい」
女 「あかりちゃん。おねえちゃんだよ、ごめんね、あかりちゃん」
女独 「なんだか、指先が暖かい、潮の匂い、海だ、海の匂いだ」
父 「洗面台が海と繋がった。光、洗面台の水面が茜色のやわらかな光を放ちだした」
女 「お父さん。この向こうにあかりちゃん、いるのかな」
父 「これは海底から見上げた夕暮れの空だろう、さざなみを下から見上げると、まるで網の模様に見える。この光の上にあかりちゃんがいるんだろうな。しかし、空間が繋がるとは驚いた」
女 「お父さん、行ってくるよ」
父 「まさか、お前があかりちゃんのところへ行くのか」
女 「お姉ちゃんだからさ、妹を迎えに行く。行ってきます」
父 「ま、ま、待ちな・・・」
水に飛び込む音。女、洗面台に飛び込む。
女独 「苦しい、息が出来ない、体が押し潰されてしまうよ」
激しい、あぶくの音。
女独 「お腹がぎゅっと押し込まれて行く、負けるもんか、あかりちゃんは私の妹になったんだ、もう家族は減らさない、姉ちゃんが必ず迎えに行ってやる。あかりちゃん、姉ちゃんを信じて待っていてくれ」
女独 「あれは、海の中から見上げる夕空。光る網のような模様が、あれが言葉だ、あかりちゃんの言葉だ。」

勢いよく、水から飛び出す音。
女、水面に顔を出し、あえぐように息をする。
女独 「目の前に夜へと向かう夕暮れの海が広がっている。なんだか、茜色の光の中に融け込んでしまったみたいだ」
驚いて、少女が叫ぶ。
少女 「お姉ちゃん」
女独 「一瞬、あかりちゃんと目が合った。うっ、あかりちゃんの記憶が私になだれ込んでくる。自分の体が腐っていく絶望。もう元へは帰れないんだという現 実に押しつぶされたこと。波に体が削られ、魚の餌となり、自分自身であったはずのモノが自分でなくなっていくのをひたすら見つめ続けなくてはならない、怒 り、憤り、哀しみ、あきらめ。大丈夫だ、あかりちゃん、姉ちゃんがまとめて全部、受け止めてやる」
女 「あかりちゃん。なんて言えばいいのかな、えっと・・・、泣かせてごめんね」
女独 「あかりちゃんが両手で私の腕を支えてくれる、なんだか、不思議と体が安定して、とってもいい感じだ」
女独 「水面が茜色に輝いて眩しいくらいだ、あかりちゃんが金色に見える」
少女 「お姉ちゃん、ごめんなさい。騙して、生きている振りをして」
女 「騙したのでも、騙されたのでもないよ。あかりちゃんはお姉ちゃんの妹になった、私はあかりちゃんのお姉ちゃんになった。それだけのこと、ううん、というか、苦しませてしまったこと、気づいてあげられなくて、ごめんね、新米のお姉ちゃんだからさ」
少女 「あたしは船から落ちたのか、それとも津波で流されたのか、もうそれは覚えていません。いつからか、こうして一人、海の上に浮かんでいて、少しずつ体が腐っていって、魚に食べられていって、波に砕けて・・・。気づけば、ぼろぼろの半透明の白い姿になっていて」
女 「なるほど、幽霊ってやつだ。(笑って)でも、あかりちゃんは私の妹で、これから一緒に暮らします。いい」
女独 「あかりちゃん、そっと頷いてくれた。なんだか、嬉しくなって、思いっきりあかりちゃんを抱き締める」
女 「よし、帰ろう」
女、叫ぶ。
女 「お父さん、お父さん」
遠くから、微かに。
父 「引っ張るぞ」
女独 「お父さんの声が体の中から聞こえた」
父 「筋トレの成果、見せてやろう。六根清浄、でやぁ」
女独 「体が海の底に引っ張られて行く、思いっきり、あかりちゃんを強く抱き締めた」
父 「うぉおおぅ」
激しい水しぶき、倒れる音。家に戻る。

父 「無茶な娘だ。お前が急に飛び込んで、危うく足首だけ掴まえたけれど、間に合わなかったらどうする気だ」
女 「お父さん、本当にごめんなさい」
父 「寿命が十年は縮まった。洗面台に娘の足だけが突き刺さっている、そんな経験をした父親は父さんくらいだろうな。まっ、でも・・・、本当に無事に帰ってきて良かったよ」
女独 「お父さん、溜息をついて、私の腕の中を覗き込んだ」
父 「君があかりちゃんだね、初めまして」
少女 「こんばんは、初めまして」
父 「しっかりした子だ」
女独 「改めてあかりちゃんを見つめる。白い半透明の姿で、でも、体がえぐれたり、鮫かもしれない、襲われた跡がいっぱいある。長く伸び切った髪も半分以上がちぎれて、死ぬ寸前の姿をとどめているのかもしれない」
父 「こいつはおじさんの娘だから、君がこいつの妹になったのなら、おじさんは君の父さんだ。これから、よろしくな」
女 「お父さん。こいつ呼ばわりはひどいよ」
父、愉快に笑う。
女独 「あかりちゃん、ちょっと笑った。あぁ、なんだか、とっても嬉しい」
少女 「本当に嬉しい、ありがとう」
女独 「え、あかりちゃんが消えていく、腕の中で少しずつ透明になっていく」
女、叫ぶ。
女 「あかりちゃん、あかりちゃん」
父 「これは・・・」
女、泣きながら。
女 「あかりちゃんか、あかりちゃんが消えちゃったよ」
父 「お前の左手だ。手を広げてみなさい」
女独 「私、しっかりと左を手握っている。いつの間に」
女 「手が開かない」
父 「左手にあかりちゃんがいるんだろう。安心させてあげなさい」
女、囁く。
女 「大丈夫だよ、あかりちゃん」
女独 「ゆっくりと、手が開いた。白い骨、小さな骨の欠片だ。海の匂い、ひりひりする太陽の匂い、魚の匂い、孤独、比類なき無辺の孤独」
女、泣き声まじりに。
女 「あかりちゃん、頑張ったね。あかりちゃん、とっても頑張ったよ」
女、囁くように。
女 「これからは一人じゃないよ。ずっと、お姉ちゃんがいるよ」

終わり

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