ブログというのは、古い文章が奥底へと下がっていき、数年前の文章を読みたいと思うとき、なかなかに不便である。このブログ、blosxomは記事を更新すると、自動的に記事が浮上するので面白いかなと使ってみる。
つまりは、完成していない文章をちょっとずつ書き加えていく作業となる。
まっ、こういう記事の書き方もありかなとは思う。
要約 2015.04.28 更新
onobe
2015.04.22
へたばると、電信柱を下から見上げている。
2015.04.19
なにせ、気弱な私のこと。運転免許更新の通知が来ても、ぐずぐずと行かずにいたのですが、さすがに今日行かないと失効してしまうかもと、重い腰を、よいしょっと、と上げ、行って来ました。
私は右目が悪く、毎回、更新時の適性検査では、右目が随分悪いですね、ちょっと外の椅子に座って目を休めください、改めて測定しましょうと係官から言われる始末。
今日も、これは19日、日曜日のことですけれど、朝から目薬を片手に行って来ました。
更新の支払いを済ませ、適性検査待ちでは、急にお腹が痛くなり、お、これはまさしく神経性の胃痛だと思いましたが、そのまま、列に流され、視力検査。
右目悪いですね、こちらへ来ていただけますかと・・・、少し割愛しますが、やっとのことで合格印をいただき、へいこらと、写真撮影を終え、講習へ。
また、5年をいただき、ほっとした次第です。
なにやら、人の話によるとレーシックですか、極端に視力が回復するとか、ほぉ、そんな凄い手術があるのかと思いはしますが、なんせ、臆病者の私です。目を切るなどとんでもありません、コンタクトすら怖いしやだという、コンタクトレンズ絶対拒否の眼鏡派でありますのに。
今後5年間、せめて視力維持のためにも、このような、くだんない文章を書くためにパソコンに向かうことは戒め、健康的な生活を送る所存にございます。
2015.04.18
LOVE PSYCHEDELICO 〜「僕らの歌」 探した15年〜
録画していたNHK SONGSを観る。
観ると書いた以上、受信料は払わなければならないなと呟きつつ、いえ、遅滞なくお支払いしておりますけど。
SONGS LOVE PSYCHEDELICO 特集。
かなり、好きだったりします。ま、私は音楽全般についての知識がとても少ないので、あれではありますが、現在進行形で、唯一無二の音楽ではないかなと思っております。
その上で、空間の色彩を瞬時に変えてしまうことのできる音楽の一つだと思って、なんだか、とても、聴くのが好きであったりするのです。
久しぶりに体術のことを少し書いてみますが。
腰痛と申しましても、様々な腰痛もありますし、原因も様々ですから、ただ、一つの方策で、腰痛解消とはならないでしょうけど、それを承知で少しばかり書いてみます。
「腰痛を避けるには腰を使わないこと」
ま、こういう意見を書かせていただきます。自分自身、歳をとって、周りも歳をとって思いますのは、70,80になっても、元気な方は若い頃、あまり肉体を酷使していない、逆に、歳をとって、あたちらこちら、身体が痛いだとか辛いというのは、それなりに身体を酷使してきた人に多い。
これは素直にそう思います。例えば関節にしても、軟骨でしたか、使えば使うほど磨り減りますし、再生しづらいとか。
もちろん、異論もありましょうけれど、おおよそにおいて、「使えば傷む」ということには、そうそう間違いないだろうとは思っております。
ですから、腰痛を防ぐには腰を使わない、腰をひねったり力をためたりしなければ良いのではと思うわけです。
さて、問題は、それで日常生活を送ることができるのか、ということです。腰を使わなければ、歩くことも、荷物を持ち上げることすらできないではないか。
1.腰を捻る動作について 捻るという動きを分散させること、これは、腰を開くという動きと共通します。例えば、椅子に座り、テーブルの向こう側のお醤油の小瓶を取る。こういう、設定において、貴方はどのような動作をするでしょうか。
大抵の場合、お尻を少し椅子から浮かせて、んーっと手を伸ばそうとするのではないでしょうか。まさしく、この動作は腰を捻って伸ばそうとする動きで、腰を痛める原因となるのではないでしょうか。
捻りを分散させるというのは、それぞれの関節において、少しずつ捻りを入れることで腰に捻りが集中しないようにするということです。右側に小瓶があるのなら、まず、右足の爪先を右側に向け、右の膝の力を少し弛め、腰、お腹、胸、肩、腕と捻りを分散させることで、腰への負荷の集中を減らします。もう一つ、上の段階になりますと、捻りをやめ、開くという動作になります。
多分、このように書いても理解はいただけないだろうなという気分もあります。言葉で簡単に伝わるのなら、世の中から腰痛は消えているかもしれませんから。
ただ、まっ、そういうこともあるのかなと頭の中の何処かに残していただければ、いつか、貴方の人生において、良い先生が貴方の前を通りがかるかもしれないし、その時、あ、いまだと気づきがあるかもしれませんから。
つづく
更新日 2015.04.19
http://news.infoseek.co.jp/article/sankein_sk220150415078
高浜再稼働差し止め 「司法の暴走」町に痛手 町長「私の責任で判断」- 産経ニュース(2015年4月15日07時58分)
学生時代から、日本は法治国家である、ということを疑いなく受け入れて来ましたが、野瀬豊町長や西川一誠知事の言葉は、法治国家ではなく、人治国家であることを示しているように思います、つまりは、「法律は俺だ」的な思考作法とでも申しましょうか。
先日の、いい年こいた方達で、殿だとか姫などと言い合うのを思い出しますと、この平成の時代が、江戸時代の様相を現しだしたとでも、いいましょうか。
また、記事に「司法の暴走」とありますが、司法とは、行政がなにやら違うことをしようとすれば、それを止めるのは、その司法の役割としてそれほど不思議なのことでもなく、それを暴走の一言で片付けようというのは、それこそが暴走といいますか、流行り言葉で言えば「テロだ」と言っても過言ではないかもしれません。
また、個人の方たちのコメントも記事にありますが、それは本心でしょうか。
いまだにフクシマに帰ることの出来ない人たちが多くいる中で、本当にこの人たちは本心から、再稼動を願っているのでしょうか。
特に個人名を出したコメントで、「お客さんの入りは最低だけど、原発は怖いし止めでいいんじゃないかなぁ」なんて、地元で言えようはずがありません。
そんなことを考えながら、この記事を読みますと、記事そのものが原発再稼動のための印象操作、そう言うこともできるような気がします。
ま、私も、あまり正直に書いて、クレームが来たら怖いので、そんな気がするだけではありますがと、言葉をやわらかめにしておきますけれど。
戦争責任者の問題 伊丹万作 http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
彼はこの一文で戦争責任、騙された側にも責任があると書いています。
また、私の好きな岡部伊都子のエッセイにある「加害の女」、いいなずけを戦地へと送り出した自分は戦争の加害者であったという告白、つまりは、もしも、高浜で、司法の暴走ではなく、原発の暴走、メルトダウンなどなったとき、いや、私は騙されたのだから責任はないなどという言い逃れは出来ず、また、フクシマを経験した以上、騙されたといういい訳すらなりただず、騙された振りをしていただけであるということを、この時代に生きる私たちは自分自身に対して真摯であるべきかもしれないなぁ、とか、思ったり思わなかったり。
言葉に逃げを用意しつつ。
ただ、記事にあります「再稼働できない事態が長引くと、定期検査に携わる作業員(約2500人)が減少し、地元経済には大打撃となる。」という一文。
なら、どうしてくれるんだよという、札束で頬を叩きながらの恫喝のようにも読めますが。
確か、廃炉するにも数十年かかるとか、廃炉のためにも多くの作業員が必要かもしれませんし、そちらでなんとか、とか思ったりしますけれど、恫喝が私も怖いので、この辺でこの文章を収めておきます。
ついでに
高浜原発、再稼働差し止めの仮処分 樋口英明裁判長「新規制基準は緩やか過ぎ」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/14/takahama-nuclear-power_n_7060358.html?utm_hp_ref=japan&ir=Japan と
防衛省、背広組優位を転換 「文官統制」規定廃止へ
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150221000118
京都新聞 2015.02,22 朝刊 「文官統制」規定全廃へ 防衛省 背広組優位を転換 来月、改正法案提出
新聞を読んで驚いた。いわゆるシビリアンコントロールを廃止しようということだ。憲法により、自衛隊はその活動を強く制限されなければならない、というのが、私の基本的な考え方なので、私の考え方と真逆の方向へと向かうこの国の方向性に疑問を抱かずにはいられない。
続く
2015.02.22
参考
テロとの戦い、というのは。他国との戦い、つまり明確な存在を認識仕切れない以上、自己の中にある恐怖心との戦いということだ。つまりは、いくらでも恐怖心は増幅し、際限が無い、そして意味のない戦いとなる。
京都新聞 2015.02,22 朝刊 「文官統制」規定全廃へ 防衛省 背広組優位を転換 来月、改正法案提出
哲学・思想を伝える場がない、つまり、継承されてきていない、年代による分断。
学校が場となりえず、地域が場となりえず、そんななか、一色に染め上げようという道徳がうごめきだしている。
なかなかに、インターネットがその場にならない。
病院のベッドでは寝てはならない、毎週、とある病院へと見舞いに行く中で、それを強く思う。
寝たきりの人がいきいきと生活するためには?【私達を支える看護学(1)】 ハフィントンポスト
まずは、基本的なことを考えてみる。
病気や怪我のため、「寝る 身体を横たえる」理由とは、何か。まずは、初手から考えていく必要があると思う。
大きな怪我をすれば、大病をすれば、「寝る」「横たえる」ということは当たり前だと思うだろう。でも、何故、そう思うのか。
「身体を休めるため」「倒れないように横になっておく」「力が入らないから」「立つことで悪化するのを避けたいから」
おおよそ、こういったことを思い、ベットに横になるのだろうと思う。
さて、人の体には筋肉がある。この筋肉は動かさなければ衰えてしまう。入院した人に聞くと、2,3日、病院のベットで寝ていただけで、筋肉が衰え、歩くのも辛くなるとか。
そして、詳しくは知らないが、ふくらはぎは第二の心臓と呼ばれているとのこと。血液を循環させる能力があるとのこと。もちろん、ふくらはぎも筋肉だ。
つづく
2015.02.27 更新
2015.02.11