【文書索引】

1910年代


執筆年月日
題名

●見出し
1916/4〜5 「辰雄日誌」1916 N0.1 中学1年乙級(東京高等師範
学校附属中学校(旧制))12
才、中学1年生の少年辰雄の
日記
1916年4月8日(土)「晴天。今日は朝6時半に起きた。
そうして家を8時半に出た。学校へ着いた時は、友達は
大勢居た。……朝礼がすむと、すぐ講堂へ行った。主事
先生や宮下先生の注意すべき御話をうかがって、それぞ
れ教室へ入った。この御話の内で僕の一番感じた点は
まじめという事と男らしいという事とであった。……僕は
今日の御話を深くこれから後、頭において進んで行こうと
思った。……」
1917/4〜1919/11 「辰雄日記」1917 N0.5 13〜15才、中学2〜4年生の
少年辰雄の日記
1917年4月16日(月)「晴天。父の命日。授業後入部
式行わる。帰宅せしは午後5時。直ちに父の命日なれば
仙台の兄と共に染井の墓地を指して出づ。途の道悪し。
墓地の中を歩む頃は日既に森に陥らんとする所なり。…
…」
1917/7/20〜12/31
1918/11/23〜1918
/12/21
「政美日記」(1917〜1918) 小池政美(辰雄の大きい兄さ
ん)の日記。『羔』誌1〜6号の
「樅の日記」から抜粋したも
の。
 「麻布の帰りにおそらく嘉代ちゃんと思われる方の後姿
を飯田橋で見た。……嘉代ちゃんの上に御恵深くくだれ
かし。桑原の家は世間並の精神的ならぬ家の如く想像さ
れる。世間並の物質的家族の中でも複雑な家と聞く。か
の家にこの吾等の知れる少女を送るは何となく惨しいよ
うな気がしないではないけれども、今となってはただ彼の
家の是に依って清められ健やかに堅められん事を希うの
みである。」(1918年12月12日)
1919/9/3〜10/31 「政美日記」第6巻
(1919/9/3〜10/31)
小池政美の日記第6巻。政
美の運命を決する結婚問題。
その訣別は辰雄のその後の運
命に大きく係わることになると
は!
 「この日記の中心は嘉代ちゃんとのこの一月を中心と
する。是を通して神様に一歩近づき古き心の危くも泥濘
に汚されんとしたるを救われし感謝を忘るる事は出来な
い。……僕が彼女に書いて送った文句の中、一番尊き
は、「艶麗はいつわりなり、美色は呼吸の如し、唯エホバ
を畏るる女は誉められん」(箴言31・30)であった。又すき
な聖句である。是を以てこの巻の名とする。」
1919/11/1〜30 「政美日記」第7巻
(1919/11/1〜30)
小池政美の日記第7巻。政
美の運命を決する結婚問題。
その訣別は辰雄のその後の運
命に大きく係わることになると
は!
「神様がお与え下さるものならば下さるはずです。……
若し下さらなくば、僕は一生家を持つ事は許されますま
い。」(1919年11月15日)  「嘉代ちゃんの高島嘉代子さん
として僕に会える最後の日が来た。……『それでは嘉代
ちゃん、しっかりいらっしゃいましね。僕もしっかり参りまし
ょう。おそらく僕は家を作る事なしに一生戦って参りましょ
う』」(1919年11月18日)    「高島のまま様……嘉代ちゃ
んの事も聖なる聖なる御心よりお目にかかる事、口をきく
事は出来なくとも、離れて祈る許されたる妹と思うをお許
し下さい。僕に祈る可くあずけられた妹と思う丈はお許し
下さいませんか。」(1919年11月21日)
1918/12、
1920/5〜12
「政美日記」1918、1920
(1918/12、1920/5〜12)
小池政美の日記。『曠野の
愛』誌1951年9月、10月号から
抜粋したもの。1918年12月「ク
リスマス前後」、1920年5月〜
12月「北京への路」等を掲
載。。
1920年11月8日(月)「……〔基督教〕書類会社で、ギ
リシア語の「新約」を購(もと)める。……九時のお祈り。ヨ
ハネ伝第21章。〔註〕この日、兄は北京日本公使館、財
務官付の辞令を受けた。」  1920年11月12日(金)
「遂々、出発の日が来た。〔午後〕5時20分、東京駅発。
此の次、皆様にお目にかかる時には。……」  1920年1
1月13日(土)「……苦情は申上ぐべきではないのであ
りましょう。My Grace is sufficient for thee.「わが恩恵
汝に足れり」 是れを我らの信仰として参りましょう。」  19
20年11月14日(日)〔西下途上、沼津の旅宿にて〕「朝
のお祈りに〔千本浜海岸へ〕出かける。……」