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《1市8町1村》


◆宗谷エリアの見どころ4コマ


◆釧路エリアの名所



 稚内から利尻島、礼文島への航路 観光シーズン、フェリーの運行は、利尻・稚内間が1日4往復、時間は約1時間40分、 礼文・稚内間が利尻経由便も含めると5往復、約2時間かかる。利尻・礼文間も夏には往復ある。


 日本最北端の都市・稚内市。江戸時代の1685年(貞享2年)に松前藩が、宗谷に藩主直轄の宗谷場所を開設したのが始まり。


 以来、アイヌの人々との交易の場として、また北方警備の要所として栄えてきた。1679年(明治12年)宗谷村に戸長役場が置かれた年を市の開基としている。日露戦争後の1905年(明治38年)南樺太が日本の領土となり、1923年(大正12年) 稚内〜樺太間に定期航路が開設された。1949年(昭和24年)には北海道で14番目となる市制が施行された。戦後は、水産を中心に、酪農と観光の三本柱で飛躍を続け、北海道北部の中核都市。1987年(昭和62年)には、ジェット機による東京直行便が就航。1995年(平成7年)からは、サハリンとの定期航路が復活、さらに大阪直行便が就航している。
 稚内市は、日本海オロロンライン、オホーツクラインの観光拠点で、サハリンを望む高台にある稚内公園、夕日が美しいノシャップ岬、利尻礼文サロベツ国立公園の一角にあたる稚内西海岸などが人気。稚内港防波堤ドームは、全長427m、柱は70本あり、ギリシャ建築の柱廊をイメージさせる。宗谷岬には「日本最北端の地の碑」、宗谷岬肉牛牧場の中の無料展望休憩施設「アルメリア」のほか、「世界平和の鐘」が建つ宗谷岬平和公園がある。冬のイベントは、「氷雪の広場」「全国犬ぞり稚内大会」などが有名。
稚内観光協会

◆稚内公園
 観光の街・稚内のシンボル「氷雪の門」をはじめ、たくさんのモニュメントが立ち並ぶ稚内公園は、約45.2haの面積をもち、展望施設と郷土資料館が一緒になった「開基百年記念塔」や樺太(現・サハリン)や南極観測で知られる犬ぞりの訓練地にもなった場所から、樺太犬にまつわる記念碑も存在する。隣接の約50haもの「森林公園」には、無料のキャンプ場で毎年賑わいを見せている。稚内公園の道路は、急こう配でカーブも多いことから、冬期間は通行止めとなるが、稚内市民をはじめ、多くの観光客が訪れる観光スポットである。平成30年(2018年)には、稚内公園からの夜景が「日本夜景遺産」にも登録された。
◇住所:稚内市ヤムワッカナイ。

稚内公園から稚内市内を望む(2007年9月撮影)

氷雪の門
 稚内公園のモニュメントの中でも代表的な存在なのが氷雪の門。樺太で亡くなった人々の慰霊と、異国となってしまった樺太への望郷の念をこめて昭和38年(1963年)に建てられた。製作は北海道出身の彫刻家・本郷新氏によるもので、雪と氷の中でたくましく生き抜いた人を象徴するブロンズ像と、望郷の門、霊石で構成されている。門の向こうにはサハリンの島影を望むことができる。
◇住所:〒097-0022 稚内市ヤムワッカナイ(稚内公園)。

稚内公園と氷雪の門(2015年6月撮影)

稚内公園に立つ氷雪の門(2006年8月撮影)

これが最後です


 戦いは終わった それから5日 1945年(昭和20年)8日30日 ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした その時 突然 日本軍との戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向かった9人の乙女等は死をもって己の職場を守った 窓越しにみる砲弾のさく裂 刻々と迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と言葉を残して静かに青酸カリをのみ 夢多き花の命を絶ち職に殉した 戦争は再びくりかえすまじ 平和の祈りをこめて尊き9人の乙女の霊を慰む
            1963年(昭和38年)8月15日 稚内市長 浜森 辰雄


これが最後です(稚内市北方記念館・稚内公園)2006年8月、2007年9月撮影

南極観測樺太犬訓練記念碑
 1957年(昭和32年)、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に【犬ぞり隊】が編成された。この犬ぞり隊の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちである。南極に出発る前に、犬ぞり隊は、稚内公園で8カ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務を全うした。しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇に被りました。そして、1959年(昭和34年)1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは、今日でもよく知られている。
◇住所:稚内市ヤムワッカナイ。

南極観測樺太犬訓練記念碑(2006年8月撮影)

稚内港北防波堤ドーム
 四季を通じて強風と高波に見舞われる、風の町・稚内。そのため大正から昭和のはじめにかけての稚内港は、当時かろうじて作られていた高さ55mの北防波堤を波がいとも簡単に乗り越え、事故さえ起きていた。そのため頑丈な波よけの建設が必要とされていた。1931年(昭和6年)1月、きた防波堤の波よけ工事の施工が決まったとき、その設計を命じられたのが土谷実氏であった。土谷氏は、北海道大学を卒業して、稚内築港事務所へ赴任してきたばかりの26歳の技師であった。


 土谷氏は、当時はまだ発展途上だったコンクリート工事の知識を大学で学んでいたため、上司から「やれ」の一言でこの大事業を任された。しかも4月の着工に間に合うように設計を終えろという無理な注文で、図面書きから強度計算、工事の指揮などそれらのすべてを土谷氏一人で行わなければならなかった。それから1936年(昭和11年)までの間、5年の歳月をかけて完成したのが、北防波堤ドームである。延長424m、高さ1321m、判アーチ型の波よけに古代ローマ建築を思わせる太い円柱とアーチの回廊を持つという、世界でも珍しい建築物の誕生であった。岸壁には稚内と樺太の大泊(現コルサコフ)を結ぶ稚泊連絡船が横付けされ、ドームはその乗船客のシンボルとなっていた。1945年(昭和20年)終戦により、稚泊航路はその役目を終えた。現在は、稚内市のシンボルとして観光名所の一つとして人気を呼んでいる。この間、1978年(昭和53年)、老朽化の激しくなったドームに全面的な修復工事が施された。
◇住所:稚内市開運。
◇電話:0162-24-1216(稚内観光協会)。


稚内港北防波堤ドーム(2003年7月、2007年7月、2012年8月、2015年6月撮影)

稚内港北防波堤ドーム(2023年6月撮影)

稚内港北防波堤ドームの由来

 この防波堤は、戦前、稚内〜樺太との定期船発着所として築設されたもので、アーチ型構造物として立案され、昭和6年(1931年)に着工し、昭和11年(1936年)に完成したものであるが、激浪のため老朽が進み、昭和53年(1978年)より改良施行し、完成は昭和55(1980年)年である。この構造物の名称は、古代ローマの柱廊を思わせる独特の外観から「ドーム」と呼ばれ、世界で唯一ものである。

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稚内港北防波堤ドーム(2015年6月撮影)

稚内公園から望む稚内港北防波堤ドーム(2023年10月撮影)

稚内市北方記念館
◇住所:〒097-0000 稚内市大字稚内村字ヤムワッカナイ。
◇電話:0162-24-4019。
◇営業時間:9:00〜17:00。
◇入館料:一般400円、小・中学生200円。
◇休館日:毎週月曜日。

稚内市北方記念館(2021年7月撮影)

1F


<北の探検家と宗谷を拓いた人々コーナー>
 1706年(宝永3年)、貞享年間以来松前藩の直領であった宗谷場所、商人の請負制と共に、初代村山伝兵衛がアイヌに漁網製法やナマコ引具の使用法を教え、漁労に革命をもたらした。原始的な方法であったが、ナマコを獲り乾燥させ、野に獣を獲っては毛皮として蓄え年1回訪れる松前藩船と、米、酒、斧などとの交易が行われた。その当時の遺品及び宗谷を守備した名藩の遺品、北の海を渡って交易した北前船 「貞宝丸」の模型、間宮林蔵最上得内、松浦武四郎各探検家の事跡。また、宗谷アイヌユーカラの伝承者・柏木べンの遺品を展示・紹介している。
<福沢農場と北方農業コーナー>
 稚内農業は、1891年(明治24年)に形成が見られ、1899年(明治32年)に堀塞が増幌を牧場地として国から払い下げを受けた。1906年(明治39年)には、堀基と親交のあった福沢諭吉の娘婿・桃介が譲り受け、福沢農場としての独立採算経営に移り大牧場を築き上げた。ここには、アメリ力農場をモデルにした丸太造りの建物の一部及び用具、明治40年代に製造した紅葉バターと製造用具、御料馬車を展示している。
<鉄道コーナー (旧天北線)>
 稚内市に鉄道が敷かれたのは大正11年(1922年)官設宗谷線(旧天北線)であり、また、音威子府からも幌延経由で稚内に至る北見線(現宗谷線)も開通。その後、路線名を北見線を宗谷線、宗谷線を北見線へと変更され、旅客、貨物に大きな役割を果たしてきた。しかし、国鉄の民営化により、平成元年4月30日で天北線は廃止、 60有余年の歴史を閉じた。その当時の貴重な資料を稚内駅から寄託され、新らしいコーナーとして展示している。
<稚内先史コーナー>
 稚内に人が現れたのは約2万年前のこと。昭和48年、稚内市豊別の丘陵から発見された、旧石器時代の遺跡や縄文時代、オホーツク文化の遺跡を紹介している。
<稚内物語コーナー>
 日本海、オホーツク海に面する恵まれた立地条件にある稚内市は、自然や水産資源に恵まれ、樺太との航路、国境の町としての顔を持っていた。厳しいけれども、素晴らしい自然を堪能してほしい。
<学術的先史時代の遺物コーナー>
 稚内市には有形、無形、埋蔵の文化財が数多く、特に埋蔵文化財では、昭和36年以来、現在まで数回の発掘調査を実施。その中で最も古い年代の土器が、大岬のオニキリ別川筋の丘陵で発掘され、縄文中期の初めと推定されている。その数々の出土品を展示し、発掘状況の写真をパネルで紹介している。
<北の自然と動物コーナー>
 わが国で農初か最後の休息地である北海道の野鳥は約250種といわれている。その代表的な鳥が天然記念物に指定されているオオワシやオジロワシ。この野鳥たちと共に、北海道開拓は熊との戦いといわれる「ひ熊」やエゾ鹿などの剥製を展示している。

2F


<樺太資料コーナー>
 1945年(昭和20年)8月20日を境に、異国となった樺太(現サハリン)の島影を最も近く望み、ゆかりの深い稚内市。ここでは、樺太関係の大地図 を中心にニ又岩、ループ線、国境の碑(50度線)をジオラマで表現し、懐しい樺太各地の 写真パネル、新岡武彦氏の貴重な樺太考古学資料で紹介。さらに樺太真岡郵便局の交換台を死をもって守った「九人の乙女」の関係資料も展示している。
<日・ロ友好コーナー>
 稚内市は、昭和47年9月8日、サハリン州ネベリスク市(本斗)と友好都市を提携。その後、道北市民の船、サハリン州墓参団などの訪問が相次ぎ、友好の輪を広げてきた。これを契機に、昭和54年9月に日・ソ友好会館が建設された。また、平成3年7月2日には、稚泊航路として交易のあったコルサコフ (大泊)と友好都市を提携。平成13年9月9日にはユジノサハリンスク市(豊原) と友好都市を提携。交流の様子と寄贈された陶芸品や民芸品を展示している。
<稚内百年コーナー>
 1879年(明治12年)宗谷村に戸長役場が置かれたのが 稚内市の開基。以来、明治、大正、昭和の戦前、戦後にわたり、交通、運輸をはじめ基幹産業である水産、酪農、観光の中核都市及び北方圏諸国への玄関口として躍進 を続けている。その稚内市の姿を資料と写真パネル等で紹介している。
<大韓航空機爆撃事件コーナー>
1983年(昭和58年)9月1日未明、眼前のサハリン西海岸域で起こり世界を震撼させた大韓航空機撃墜事件の記録を展示している。

◆日本最北の駅・JR稚内駅
 1828年(昭和3年)12月26日開業。当初の稚内駅は、現在のJR南稚内駅の場所にあり、利尻島、礼文島、樺太航路への乗り換えには港まで2km近くあったが、1939年(昭和14年)に現在の稚内駅(開業当時は稚内港駅)まで延長された。日本最北端の駅(北緯45度25分03秒)として有名。駅構内には「日本最北端の駅」の標柱がある。また、「最北端の線路」の看板もある。利尻島、礼文島、樺太へのフェリーは駅から徒歩で10分ほどの中央埠頭にフェリーターミナルがある。2011年(平成23年)4月3日に新駅舎が開業した。
◇住所:稚内市中央3丁目6-1。
◇電話:0162-23-2583。


稚内駅(2012年8月、2023年6月撮影)

 前JR稚内駅(1965年=昭和40年9月〜2011年=平成23年4月)の路線は、現在の位置よりも北側に設置されていた。この車止めとレールは、日本最北端の線路として象徴的であったものを北海道旅客鉄道株式会社より寄贈を受け、その当時の記憶を継承するモニュメントとして稚内市が2012年(平成24年)3月に元の位置に復元したもの。また、かつて北防波堤ドーム横にあった稚内桟橋駅(1938年=昭和13年〜1945年=昭和20年)までの線路をこの車止めから北側に延びている線で表している。

道の駅・わっかない
 平成24年(2012年)5月3日、北海道で114番目の道の駅として誕生。24時間トイレや情報端末を整備し、交通情報や観光情報を24時間リアルタイムで提供していまる。また、物販・飲食店舗やJR稚内駅、バスターミナルを併設。これらの施設が一体となった道の駅である。 国道40号の終点の日本最北端の道の駅でもある。道の駅周辺には、北海道遺産に認定されている稚内港北防波堤ドーム、稚内と樺太大泊(現サハリン州コルサコフ)間を運航していた連絡航路記念碑の稚泊航路記念碑など多くの観光スポットがある。

◆稚内空港
 稚内市声問村にある国管理空港。ノシャップ岬(日本海側)と宗谷岬(オホーツク海側)の間の宗谷湾岸を通る宗谷国道沿にあり、稚内市街から約12 kmの距離にある。日本最北のジェット化空港として、札幌(千歳)や東京(羽田)に路線を持ち、拠点空港として重要な役割を担っている。滑走路2,200 m、幅300 m。現在、航空定期便が就航する空港としては日本最北端に位置する。稚内空港ビル株式会社は、2021年10月1日に北海道エアポート株式会社」と合併。
◇住所:〒098-6642 稚内市声問村声問6744。

稚内空港(2021年7月撮影)

ノシャップ(野寒布)岬
 野寒布岬(のしゃっぷみさき)は、稚内市ノシャップにある岬。「ノシャップ岬」とカナで表記することも多い。日本海から宗谷湾を区切る。岬には稚内灯台があり、晴れた日には利尻富士が望める。近くに稚内市立ノシャップ寒流水族館と青少年科学館があり、野寒布岬の碑が設置してある恵山泊漁港公園にはイルカのモニュメントがあるが、これはイルカが宗谷海峡を通過したという昔話に基づいている。2007年(平成19年)度は約14万人の観光客が訪れている。読み方が似ている納沙布岬(のさっぷみさき)は根室市にある北海道本島最東端の岬である。(jawp)
◇住所:〒097-0026 稚内市ノシャップ。
◇電話:0162-23-6468(稚内市役所建設産業部観光交流課)。

ノシャップ岬(2023年10月撮影)

宗谷岬
 宗谷岬(そうやみさき)は、稚内市にある岬。宗谷岬公園などを参照。
◇住所:〒098-6758 稚内市宗谷岬。
◇電話:0162-23-6161。



宗谷丘陵
 宗谷丘陵(そうやきゅうりょう)は、稚内市の宗谷岬南部に広がる日本最北の丘陵地帯。宗谷丘陵は、宗谷岬南部に広がる標高20mから400mまでのなだらかな丘陵地帯。地形は、地理学者・鈴木秀夫東大名誉教授により、2万年前の氷河期に形成されたものと確認され、北から南に向かい標高が高くなり、緩やかに起伏しているが、深い谷はほとんど存在しない。明治期の山火事によって樹木が消失した。気温が上がらず強風が吹くため、現在も樹木が回復していない。そのため、樹木にさえぎられることなく、肉眼で周氷河地形を見ることができる数少ない場所となっている。「宗谷丘陵の周氷河地形」として北海道遺産に登録されている。宗谷丘陵フットパスコースは、日本最北のフットパスコースである。(jawp)
◇住所:〒098-6758 稚内市宗谷岬。
◇電話:0162-23-6161。

宗谷丘陵(2012年8月撮影)

宗谷岬ウインドファーム
 稚内市宗谷岬の南部に広がる宗谷丘陵の約1,500haの牧草地にある風力発電所。運営はユーラスエナジーホールディングス傘下の株式会社ユーラスエナジー宗谷(本社稚内)。2005年(平成17年)に竣工。総出力は5万7,000kW、出力1,000kWの風力発電機が57基設置されている。稚内市の年間消費電力の約6割に相当する電力を発電している。従来の羽根の構造や形状を改良し、低風速でも効率的な発電を実現している。1000kWの発電機であるが、1300kW発電機に匹敵する発電能力がある。計算上、年間平均風速が毎秒6mであれば、従来機に比べ約20%発電量が向上している。風車ローターの直径が61.4m、支柱の高さは68m、地上から風車の最先端までの高さは98.7m。(jawp)
◇住所:〒098-6758 稚内市宗谷丘陵。

宗谷岬ウインドファーム(2012年8月撮影)

日本最北端の地の碑
 宗谷岬の先端、北緯45度31分14秒にあり、文字通り日本の最北端の場所である。三角錐のデザインは、北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしており、塔の中央にあるNの文字は北を、台座の円形は平和と協調を表現している。また、毎日、日没から夜明けまでライトアップされている幻想的なムードを醸し出している。
◇住所:稚内市宗谷岬。

日本最北端の地(2009年8月、2012年8月撮影)

祈りの塔(宗谷岬公園)
 1983年(昭和58年)に発生した大韓航空機撃墜事件は、稚内が調査や報道の前線基地となった。2周忌となる1985年(昭和60年)に遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願うために宗谷岬公園内に建立した。鶴を模した搭の高さ19.83 mは事故発生年を。16枚の羽は遭難者の母国を。269枚の白御影石は遭難者の数を表し。嘴は事故海域となるモネロン島(海馬島)の方向を指している。搭の周辺にはアルメリアを植栽している。
◇住所:〒098-6758 稚内市宗谷岬2。

戦闘機のミサイル攻撃で


 1983年(昭和58年)9月1日、ニューヨーク発ソウル・金浦(きんぽ)空港行き大韓航空機KE007便は、予定コースを逸れサハリン上空を侵犯。緊急発進したソ連・迎撃戦闘機のミサイル攻撃を受け、サハリン西海域のモネロン島沖に墜落。日本人29名を含む乗客・乗員269名全員が亡くなった。この塔は、全国から寄せられた浄財をもとに、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、事故海域を望むこの高台に遺族会が建立したもの。事件の真相と真の平和を鶴のように首を長くして待つという意味が込められたデザインで、塔の高さ19.83mは事故発生の年、16枚の羽は遭難者の母国数、269枚の白御影石は犠牲者の数をそれぞれ表している。


あけぼの像
 北海道の牛乳生産量100万tを突破と、飼育乳牛50万頭突破を記念して、1971年(昭和46年)7月、宗谷岬の丘陵上に建設された。この像は、牧さくをかたどった台座の上に、野良着姿の男女が南に果てしなく広がる宗谷丘陵を見つめながら力強く立っているブロンズ像で、“天北酪農の夜明け”を象徴したもの。
◇住所:〒098-6758 稚内市宗谷岬2。
◇電話:0162-23-6161。

間宮林蔵の立像
 世界地図にただ一人日本人の名を残した探検家・間宮林蔵は、安永9年、現在の茨城県つくばみらい市(旧 伊奈町)に産声をあげた。像は、林蔵の生誕200年にあたる1980年(昭和55年)7月に、彼の偉業を顕彰し、時代を担う青少年に、世界へ羽ばたく夢と勇気を培ってもらおうとの願いから建立されたもの。林蔵が樺太(現・サハリン)へ渡る決意を秘め、はるか樺太を望見している立像で、栽付袴に羽織、足袋、二本差しと、肩には測量用の“縄索(じょうさく)”をかけている。像は、実物より2割ほど大きい、高さ2mのブロンズ像。
◇住所:〒098-6758 稚内市宗谷岬3。

宗谷岬公園(宗谷岬平和公園)
 通称・宗谷岬平和公園とも言う。この宗谷岬公園は、1966年(昭和41年)12月、約3.8haの土地を利用して開設された。開設当時は、灯台、海軍望楼、石柱に刻んだ最北端の地の碑と数件の売店しかない小規模の公園でした。


 しかし、観光客の増加とともに、1968年(昭和43年)、「日本最北端の地の碑」が建て替えられるほか、高台に「あけぼの像」が、建立されるなどして“観光名所”としての整備が進み、駐車場やバスレーン、歩道の新設のほか、「間宮林蔵の立像」「宗谷岬音楽碑」、「宗谷岬展望台」などが相次いで建設され、1983年(昭和53年)大韓航空機事件後、「祈りの塔」、「宮沢賢治文学碑」が完成。1988年(昭和63年)には「日本最北端の地の碑」周辺一帯の整備が行われ大きく変貌した今の姿へとなった。また、至る所でみられようになった「アルメリア」の花は、宗谷漁業協同組合の婦人部の皆さんが植栽したのがはじまりで、今では毎年夏には美しい花々が公園を埋め尽くす。稚内フットパスコースにもなっており、宗谷岬公園から北海道遺産、「宗谷丘陵の周氷河地形」を楽しみながらホタテの貝殻を敷き詰めた「白い道」を通ってゴールする体験などもできる。
◇住所:〒273-0121 稚内市宗谷岬2。


左から間宮林蔵の立像、祈りの塔、あけぼの像
(2000年8月、2009年8月、2012年8月撮影)

◆利尻山(利尻富士)
 「稚内西海岸」と呼ばれる稚内の坂の下からサロベツ原野に至る海岸沿いの道道稚内・天塩線は、利尻富士が最も美しく、礼文島も見渡せる景勝地として知られている。


 利尻山(りしりざん)は北海道、利尻島に位置する単独峰で標高1,721m。利尻町、利尻富士町の2町にまたがる山で、利尻礼文サロベツ国立公園内の山域は特別区域に指定され、日本百名山、新日本百名山、花の百名山及び新・花の百名山に選定されている。国土地理院では利尻山(りしりざん)という名称がつけられているほか、「利尻岳」、「利尻富士」とも呼ばれる。高山植物が生息し、夏季は多くの登山客が訪れる。約20万年前から活動を行い、約4万年前頃に現在の形に近い物となった。南山麓で8,000〜2,000年前以前に起きた噴火でマールやスコリア丘を形成して以降、活動を休止している。活動を休止してからの期間が長いため、山頂部を中心に侵食が著しく進み、火口などの顕著な火山地形は失われている。甘露泉水(かんろせんすい)は、利尻登山道の一つの鷲泊コース3合目付近に湧き出る湧水である。水温は通年約555度で1985年(昭和60年)環境省により、日本最北端の名水百選に選定された。登山者の水場や簡易水道の飲料水、名水「利尻の水」として商品化されている。頂上は北峰(1,719m)と南峰(1,721m)に分かれているが、最高峰の南峰への道は崩壊が進み危険なため、一般登山者は北峰を頂上とみなしている。西壁、東壁、南稜、仙法師稜がロッククライミングの対象となっている。晴れた日には、南北の頂上から利尻島のほとんど全域と、礼文島、道央・道北の山々や、樺太、樺太の南東に位置する海馬島(モネロン島)などが見える。また、理論上、ロシア沿海州の山脈が見えるとされているが、2013年現在のところ、これを証明する写真等の撮影・公表はなされていない。


利尻山(2003年7月、2007年7月撮影)









稚内港からフェリーで香深港(礼文島)へ
(2007年7月撮影)

◆浜勇知展望休憩施設こうほねの家
 利尻礼文サロベツ国立公園内にある休憩施設。道道106号(稚内天塩線)沿いに続く海岸砂丘(原生花園)や日本海に浮かぶ利尻富士を眺望。初夏から夏にかけては「コウホネ」と呼ばれるスイレンに似た花が咲くほか、沼周辺にもハマナスやエゾカンゾウをはじめとする原生花が咲き誇る。休憩施設の横には、テレビドラマのロケのためにこの地を訪れた俳優・森繁久弥氏の歌碑も建っている。「浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の海に立つ富士」 森繁久弥
◇住所:稚内市抜海村浜勇知。
◇電話:0162-73-2125。

浜勇知展望休憩施設こうほねの家(2023年6月撮影)

◆稚内市夕来(ゆうくる)地区
 道道106号(稚内天塩線)で利尻島に最も近いポイントが夕来地区。稚内市の南端、天塩郡豊富町との境近くにある。何と言っても、道路が地平線まで一直線に伸びているのは見ごたえがある。また、1988年(昭和63年)8月17日、利尻町石崎海岸から稚内市夕来の間19.5kmを9時間56分9秒かけて遠泳達成記念したという碑も立っている。

稚内市夕来地区からの利尻富士(上)と地平線まで一直線に伸びる道路
(2023年10月撮影)





 北海道の北端・稚内市から西方約53kmの日本海に浮かんでいるように見える島、利尻島の西南端に位置し、島の中心には秀峰利尻富士(1,721m)がそびえている。利尻町は1956年(昭和31年)に利尻島内の4つの自治体の中から仙法志村と沓形町が合併して誕生した。春から夏にかけては、数多くの高山植物が咲き、リシリコマドリをはじめ多くの野鳥の宝庫。また、利尻昆布やウニなど日本海の海の幸にも恵まれた漁業と観光の町。沓形岬、仙法志御崎は、奇岩、怪石による海岸美を誇る。また、利尻冨士への沓形登山コースは、5合目の見返台園地(標高500m)まで自動車道が整備されている。
利尻島観光ポータルサイト

◆利尻山
 リイシリとはアイヌ語で「高い山のある島」という意味。標高 1,721mで、その頂から海岸線に達する山麓には、豊かな森林や草原が広がり、多くの生物を育み、わたしたち人間にもたくさんの恵みを与えてくれている。島内だけではなく、隣島の礼文、稚内から留萌といった北海道北部の日本海沿岸からも見ることができ、日本最北の国立公園「利尻礼文サロベツ国立公園」のシンボルとして大勢の人々から愛されている。

利尻山(2003年7月、2007年7月撮影)

◆利尻ふれあい温泉
 2005年(平成17年)4月にオープンした利尻ふれあい温泉は、町民相互の交流、健康保持と保養、憩いの場として利用されている。ま、たホテル利尻と隣接していることから、最北の島「利尻島」を訪れる観光客にとっては、露天風呂から望む利尻富士や日本海に沈む夕日など風光明媚な素晴らしい癒しの場として利用している。
◇泉質:炭酸水素を主成分に塩素、ナトリウム、マグネシウム、カルシウム、鉄分が多く、特に炭酸水素は国内トップクラスの含有量を誇る。 ◇効能:神経痛・筋肉痛・関節痛・疲労回復・高血圧症・動脈硬化症・慢性皮膚炎・慢性婦人病など21種に及ぶ。
◇住所:〒097-0401利尻郡利尻町沓形富士見町。
◇電話:0163-84-2001(利尻町営ホテル利尻)。


利尻島地図

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利尻富士(2007年7月撮影)




 1980年(昭和55年)に開基100年を迎える。利尻島の東側に位置していたことから、東利尻町の名前だったが、開基110年をきっかけに東利尻町から利尻島のシンボルである名峰利尻富士の名称を冠した「利尻富士町」に町名を変更した。利尻島には2つの町があり、その東側に位置するのが利尻富士町である。漁業を中心。年間約22万人(利尻島全体で44万5,000人)の観光客が訪れる。
 稚内からフェリーで1時間40分。玄関口鷲泊港は観光客の受け入れに賑わう。利尻山山ろくの姫沼、名水百選に選ばれた甘露泉水、水鳥が羽を休めるオタトマリ沼、平地にも咲く高山植物など自然がいっぱい。利尻富士温泉保養施設もある。
利尻富士町観光協会
利尻島観光ポータルサイト

夕日ケ丘展望台
 ここから見る夕日は最高。付近にはウミネコなどが多数繁殖するポンモシリ島やエゾカンゾウ群生地の富士野園地などのみどころがいっぱい。
◇住所:利尻郡利尻富士町鴛泊。
◇電話:0163-82-1114。

ペシ岬
 利尻島の玄関口鴛泊港にたたずむペシ岬、頂上からの眺めは鴛泊市街を一望することができる。徒歩30分で頂上まで行ける。
◇住所:利尻郡利尻富士町鴛泊。
◇電話:0163-82-2201(鴛泊港フェリーターミナル内観光案内所)。

(左)ペシ岬 (右)ペン岬から望む鷲泊港(2003年7月撮影)

姫沼
 人気の観光スポット。沼を一周できる散策路や姫沼・甘露泉・北麓野営場間の探勝路も整備。天気の良い日には湖面に映る「さかさ富士」が見れる。
◇住所:〒097-0101 利尻郡利尻富士町鴛泊湾内。
◇電話:0163-82-1111。

オタトマリ沼
 オタトマリ沼周辺は島内でもっとも自然環境に恵まれた地域。駐車場、売店、トイレが完備され、島内随一の観光スポット。
◇住所:〒097-0211 利尻郡利尻富士町鬼脇沼浦。
◇電話:0163-82-1111。

◆利尻富士温泉
 1996年(平成8年)、日本最北の離島から温泉が発掘された。利尻富士の麓で湧き出る温泉で、地元で愛されているとともに、年間約6万人が利用している。
◇住所:〒097-0101 利尻郡利尻富士町鴛泊栄町227-7。
◇電話:0163-82-2388。

◆利尻富士温泉プール湯泳館(ゆうえいかん)
 鴛泊フェリー埠頭から登山道方向へ徒歩20分ほどの緑豊かな地区に、利尻島の自然を快適な環績で満喫してもらうとともに、地域のウェルネスコミュニティの拠点としてつくられている公園に2005年9月、利尻 富士温泉プール「湯泳館」が完成。すべてのプールで温泉水を使用しており、温泉効能と水中での運動による相乗効果で健康づくりに役 立つ。
◇住所:〒097-0101利尻郡利尻富士町鴛泊栄町227-6。
◇電話::0163-82-2388。

カルチャーセンター&りっぷ館
 利尻富士をモチーフにした外観がひときわ印象的な、国内の離島では初めての美術館。全国組織の美術団体「目輝会」から寄贈された絵画や彫刻など42点が展示された旅の思い出をアートで彩る空間。そのほか、高山植物や野鳥の写真パネルの展示、利尻島の四季を写し出すビデオ上映など、利尻島の美しさも、ひと味違った視点かから楽しめる。
◇住所:利尻郡利尻富士町鴛泊字栄町227。
◇電話:0163-82-1721。

利尻島ファミリーキャンプ場「ゆ〜に」
 「ゆ~に」とは、アイヌ語で「お湯のあるところ」という意味合いのとおり、日本最北の天然温泉「利尻富士温泉保養施設」に隣接さ れている。また、霊山をはじめサイクリングロードやボ ン山卜レッキング、パークゴルフやテニス、カルチャーセンター&りつぶ館、高山植物展示圃など自然を満喫できるとともにアクティブなアクセス拠点として最適な立地条件である。
◇住所:利尻郡利尻富士町鴛泊栄町。
◇電話:0163-82-2166。


礼文島地図

 一島一町の礼文町は、日本の最北端の島として、北海道北端の稚内より西方59qの日本海上に位置し、その東南には、幅約8qの礼文水道をへだてて利尻島と向き合っている。


 江戸時代の前期にあたる1685年(貞享2年)に松前藩の直轄地として宗谷場所が開設、礼文は利尻とともに付属場所として開設された。以後、アイヌ民族による煎海鼠(いりこ)や鰊漁による和人との交易場所として徐々に開拓されてきた。その後、和人が移住し、1880年(明治13年)には香深村戸長役場が設置され、さらに1892年(明治25年)には船泊村が香深村から分村した。
 1956年(昭和31年)に香深村と船泊村が合併して礼文村となり、1959年(昭和34年)には礼文町が誕生。水産業の町として発展した。また、昭和49年には国立公園に指定されて多くの観光客が全国から訪れるようになり、すぐれた景観と貴重な高山植物による観光の町「花の浮島礼文」としても発展を遂げてきた。
 最高峰の礼文岳(標高490m)を中心に南北23km、東西8km、 約82平方kmのなだらかな丘陵性の地形が広がる。冬の厳しい偏西風を受ける西海岸は切り立った断崖絶壁が連なり、東海岸はなだらかに山並みが海へと続く。利尻礼文サロベツ国立公園の中でも、夏には約300種の高山植物が咲き乱れる、キャンプ場完備の久種湖など観光資源が豊富。海の幸も豊か。
礼文島観光情報

香深港(2007年7月撮影)

スコトン岬
 礼文島最北端の地で、正面には無人のトド島が浮かび、晴れた日には遠くサハリンを望むことができる。
◇住所:礼文郡礼文町船泊村。
◇電話:0163-86-1001。

(左)スコトン岬と(右)トド島(2007年7月撮影)

ゴロタ岬
 険しい岩の突き出たゴロタ岬。
◇住所:礼文郡礼文町船泊村。
◇電話:0163-86-1001(礼文町産業課)。

澄海岬(すかいみさき)
 水が透き通った入り江を一望できる人里離れた岬。夏には花が咲くハイキング コースと丘がある。
◇住所:〒097-1111礼文郡礼文町船泊村字西上泊。

元地(もとち)灯台
 元地灯台は、1954年(昭和29年)点灯した。礼文島は、高山植物が春から夏の終わりにかけて咲く、「花の浮島」と呼ばれている。この丘から望む日本海は、古くから武蔵堆(むさしたい)などの豊かな漁場があり、多くの船舶の安全を見守っている。
◇住所:礼文郡礼文町香深村。
◇電話:0163-86-1001。
◇位置:北緯45度17分02秒、東経141度01分11秒。
◇光り方:単閃発光、毎10秒に1閃光。
◇光の強さ:26.0万カンデラ。
◇光の届く距離:22.0海里(約40km)。
◇高さ:地上から灯台頂部約9.3m、水面から灯火約211m。

武蔵堆(むさしたい)とは―


(ブリタニカ国際大百科事典小項目辞典の解説)
 礼文島の南南西にある日本海中の浅所。最浅点は150m前後。1925年測量艦【武蔵】によって発見され、武蔵堆と命名された。堆はほぼ平坦で200m以浅のところは玄武岩、流紋岩、ケイ質泥岩などの岩盤で、これらと同質の礫も発見されている。この付近は、サバ、タラ、タチウオなどの好漁場となっている。
(日本大百科全書の解説)
 礼文(れぶん)島の南南西にある日本海の堆(たい)。200mより浅い所は、ほぼ北緯44度10分から45度、東経140度から140度20分に及び、もっとも浅い部分は水面下31mである。1925年(大正14年)旧日本海軍水路部の測量艦武蔵が発見した。サバ、タチウオ、タラなどの好漁場である。堆は玄武岩、石英粗面岩の岩盤で、これらの礫(れき)もある。なお、武蔵は排水量1,502t、1888年(明治21年)横須賀で建造されたスループ艦で、1922年(大正11年)年特務艦となり、1928年(昭和3年)まで測量艦として就役した。(半澤正男・高野健三)



元地灯台と桃岩歩道(2007年7月撮影)

花の浮き島・礼文島(2007年7月撮影)

桃岩展望台
◇住所:礼文郡礼文町香深村モトチ。
◇電話:0163-86-1001。
<桃岩>
 桃岩は、礼文島の地層では比較的新しい時代にできたもので、地下のマグマが地表部を押し上げ冷やされながら球状の巨大な岩体に成長したものである。表面にはタマネギの皮のような球状節理(板状節理)が取り巻き、表面のはがれ落ちた内部には、表面よりゆっくりと冷えていく速度の違いから柱のような柱状節理が見える。
<桃岩歩道>
 桃岩展望台から元地灯台までの桃岩歩道(約2.5km)は、別名「礼文フラワーロード」とも呼ばれる。草原や岩場など環境の変化について植物相も変わるため、歩道沿いからたくさんの種類の草花の群落を見ることができる。

アイヌ戦争・桃岩物語


 今から約300年前、日高東部蝦夷と日高の国沙流の酋長オニビシとの間に、漁猟場奮争に因を発し、これに当時アイヌに対する松前藩の失政と和人の抑圧が、さらに原因を誘発して、南の島原の乱に次ぐ北の大乱として、天下を騒がせたシャクシャイン事件が起こった。当時、アイヌ軍の勢力はすさまじく、各地で交易船を襲い、多数の和人を殺害し、一時は松前藩も危なくなったが、奸計(かんけい)=わるだくみ=によってシャクシャインが討たれてから叛乱は、ようやく鎮圧された。だが、すべて平定(へいてい)されていたわけではなかった。このシャクシャインに組して和人二十有余人を殺した磯谷アイヌ50〜60人が、ルイシン(利尻)に押し渡り皆殺しにするというのを利尻のアイヌが助けを求め、30両の賞金を出してやって、ことなきを得たが、磯谷アイヌは、この余勢をかって礼文にも押し入ってシャクニンコタンを制圧した。これを知った強族香深井アイヌ一族の酋長ワカインは、次の襲来を予期して一族を結集、この磯谷アイヌを先制攻撃することになった。香深井アイヌ軍は、地勢をよく知っているので、カフカイ川上流より峰をたどって背後より尺忍(しゃくにん・地名)の拠点を打たんと軍を進めた。一方、磯谷アイヌ軍も、これを察知して防戦、拠点を桃岩付近に置き、ここに立てこもった。藻岩付近で両軍必死の抗戦を続けたが、精悍勇壮な香深井アイヌ軍は、ついにこれを攻め寄せてこの天敵を討った。この時、松前藩との和睦のため、余市に行っていた宗谷アイヌ酋長セクランケと利尻アイヌ酋長ムシモンヘリンが帰って仲裁に入り、今後は理由の如何を問わず、島に渡島しないことなどの条件で、一物も得ず、残党だけは釈放され、島内に再び平和に復したと言う。(現地の立て看板から写す)


久種(くしゅ)湖
 淡水湖。 「湖」と名の付く中では現在日本の施政権が及ぶ範囲において最北端の湖である。利尻礼文サロベツ国立公園に含まれる。モスリートもしくはクシケントが語源とされ、アイヌ語で「山越えする沼」の意。湖に隣接してキャンプ場や展望台があり、湖を一周する遊歩道がある。湖西岸にはチャシ跡が見られる。また、湖畔には悲愛伝説がある。かつて湖岸に日本最北端の牧場があったが今では閉鎖している。この牧場は『熱中時代(先生編)』の舞台となった。
◇住所:礼文郡礼文町船泊村。
◇電話:0163-87-3110。

久種湖(2007年7月撮影)

◆礼文荘
 礼文島の北部にある湖、久種湖と船泊湾に面した宿である。早朝は野鳥のさえずり、黄昏はスコトン岬に映える夕日、静粛のなか、星の輝き。ここでは時空がゆったりと流れる。和室のみ18室。インターネット(無線LAN)接続可能。
◇住所:礼文郡礼文町船泊村 字ウエンナイホ。
◇電話: 0163-87-2755。

礼文荘(2007年7月撮影)



 豊富町は酪農が基幹産業の町。雄大なサロベツ原野を望み、1万3,000haの牧草地を基盤とした放牧型酪農を展開している。


 乳牛頭数1万6,000頭、年間出荷乳量は7万2,000tと全道でも上位にランクされている。また広大な粗飼料基盤を有効に活用するため、黒毛和種(肉用牛)も飼育されている。町内には、1,500ha(東京ドーム約320個分)という、日本有数の広さを誇る「豊富町大規模草地育成牧場」があり、町内外の酪農家から預託された1,300頭の乳用育成牛が広大な牧草地に放牧されている。また、町内には豊富牛乳公社があり、地元で生産された牛乳を「豊富牛乳」として加工・生産しているとともに、セイコーマート牛乳の生産工場として、道内のセイコーマートに販売されている。酪農も近代化が進み、豊富町内では搾乳ロボット、フリーストール、ミルキングパーラーの整備も進行中。町内では1,000tを超える生乳生産農家も多い。
 日本最北の温泉郷・豊富温泉は、大正末期に開かれた北海道でも歴史のある名湯の一つ。日本一の高層湿原・サロベツ湿原は、北海道のスケールそのもので約1,400haの広さ、雄大かつ自然の宝庫(利尻礼文サロベツ国立公園)。オートキャンプ場の設備が充実した兜沼(かぶとぬま)公園は、水鳥の飛来地としても知られる。基幹産業は酪農。どこまでも続く大草原・大規模草地は、約1,400haの広さで日本一。そこで草を食む牛たちの姿は、まさに北海道の牧歌的風景。
豊富町観光協会

◆兜沼(かぶとぬま)公園
 兜沼は入江の海底の透明度はすごい、美しい。水鳥の飛来地としても知られる緑に囲まれた兜沼のほとりには、キャンプを楽しむことができる。
 JR豊富駅から車で北へ約20分、緑豊かな自然に囲まれた美しい兜沼は、ほとりでキャンプやサイクりングが楽しめるアウトドアゾーンとなっている。キャンプ場は、自然林に囲まれた300 張りのテントサイトやバンガロー、やすらぎの家、露天五右衛門風呂が完備。
 オートキャンプ場は、75区画のオートサイトやコテージ、さらに炊事場やシャワー室を完備したセンターハウス、売店や休憩コーナーがあるインフォメーションセンターなどが整備され、ファミリーやライダーで賑わっている。また、兜沼を一周できるサイクリングロードは、野鳥のさえづりを聞きながらサイクリングが楽しめる。

<兜沼キャンプ場、兜沼オートキャンプ場>
 芝生のサイトが広がり、開放的で居心地の良いキャンプ場を提供。別荘スタイルのコテージも人気。テントサイト、炊事場、トイレ、シャワー室、公共浴場、コインランドリーあり。
◇住所:天塩郡豊富町字兜沼。
◇電話:0162-84-2600。
◇利用期間:5月1日〜9月30日。

兜沼公園(2023年6月撮影)

サロベツ湿原
 国立公園に指定されているサロベツ湿原。23,000haにも及ぶ広大な湿原。最北の国立公園に指定されたサロベツ湿原。 北の大地で長い年月を経て生まれた美しい花咲く貴重な湿原。


 サロベツ湿原は、豊富町、幌延町、稚内市にまたがる日本最北の利尻礼文サ口ベツ国立公園に指定された、日本でも学術上珍しい形態を持つ広大な湿原地帯。湿原には450種を超える植物が自生し、中でも、春から秋にかけて咲き誇る工ソカンゾウやワタスゲ、ヒメシャクナゲをはじめとする100 種以上もの花々は、広大な湿原を美しく彩る。また、湿原の周辺にはさまざまな野生動物も生息しており、特に野鳥は珍しいシマアオジをはじめ180種以上が確認され、鳥たちの楽園にもなっている。湿原に咲く代表的な花工ゾカンゾウは、1本の茎から黄色い数個の花を咲かせるが、一つの花の開花期間は2日間と非常に短く、日に日に変わる風景はその時だけの貴重な出逢いと言えるであろう。また、サ口べツ湿原は、標高5m以下の低地でありながら、緯度が高いため、平地でもワタスゲや工ゾイソツツジなどの貴重な高山植物が自生している国内でも珍しい湿原である。
◇住所:天塩郡豊富町上サロベツ8662。
◇電話:0162-82-3232。


サロベツ原野の花々(2015年6月18日撮影)

サロベツ原野の誕生

 ここは7,000年ほど前は海で、この解説板の高さくらいが海面だった。その後、気候が冷涼化するに従い海面も下がり、砂丘の発達により海と隔てられ湖ができた。そして、4,000年ほど前より泥炭の生成が始まり、現在のサロベツ原野ができたと考えられている。(現地の解説板より)

利尻礼文サロベツ国立公園・サロベツ原生花園(2006年8月撮影)

サロベツ湿原センター
 「サ口ベツ原生花園自然教室」の閉鎖に伴い、国立公園の新たな拠点として2011年(平成23年)4月28 日にサロベツ湿原センターが オープン。


 敷地内にはサ口ベツ湿原の自然や原野の開拓の歴史などをわかりやすく解説した展示施設や泥炭採掘の歴史を物語る泥炭産業館、圏内の排水を浄化する水質浄化湿地、さらに自然観察路(木道)ではサロベツ湿原や利尻山の雄大で美しい風景を眺めながら、泥炭採掘跡地や綺麗な湿原の花たちを間近で観察できる。また、隣接するレス卜ハウスでは特産品をはじめ美味しい昧覚が昧わえるなど、魅力がいっぱい!
◇住所:〒098-4100 天塩郡豊富町字上サロベツ8662。
◇電話:0162-82-3232。
<レストハウス>
 サロベツ湿原センターに隣接するレストハウスでは、豊富牛乳をはじめ地元豊富町の美昧しい特産品を昧わうことができる。また、土産品も多数用意されている。


サロベツ湿原センター(2012年8月撮影)

牧草地の牧草ロール


 豊富町のあちこちに点在する牧草地。そこに丸いロール状のものを目にすることがある。あれは一体なんだ。牧草ロールである。豊富町だけでなく、北海道各地に点在している風景でもある。牧草ロールは、機械の種類にもよるがだいたい1個の重さが約350kg、直径約1.5m。1年を通して牛のエサとなる。北海道の冬は一面雪に覆われ、青草がなくなる。その間に食べさせる牧草がこの牧草ロール。この栄養価の高い牧草は牛の大好物。牧草の収穫は年に約3回、初夏から秋にかけて行われる。それでは、牧草ロールはどうやって作るのか。トラクターの後部にディスクモアと呼ばれる大きな草刈り機を付けて、草を刈っていく。刈った草は、1〜2日間、そのまま牧草地において乾燥させる。途中で何度か草をかき混ぜ、空気を入れて、ムラなく乾燥させる。乾燥させた後は、レーキと呼ばれる熊手のような機械をトラクターに取り付け、草を1列に集める。次に、ロールベーラーをトラクターに取り付け、草の列にそって、ロールベーラーのタンクの中に草を集めていく。最後にロール状になった草の塊が出てくる。これが牧草ロール。ロール状になった牧草は、そのまま乾草として牛に与えるものと、厚いビニールで梱包して発酵させ、サイレージというエサにするものがある。一昔前までは、牛を飼っている農家といえば、サイロが立っていた。サイロが立っていれば牛を飼っている農家だった。このサイロは、牧草を貯蔵するもので、いわゆるサイレージが入っていた。今はこの牧草ロールに替わってしまった。風物詩ともなっていたサイロが見当たらなくなったのはこのためだ。


牧草地(牧草ロール)2012年8月撮影


◆豊富温泉
 豊富温泉は1925年(大正14年)より、石油の試掘を行ったところ、翌年5月に地下約960mの地点より高圧の天然ガスとともに43℃のお湯が噴出したことから開湯した温泉。1927年(昭和2年)ころ、草葺小屋をたてて地元の人達が温泉として利用されるようになり、まもなくして川島旅館など8つの旅館が開業し、温泉街が出来上がった。


 JR豊富駅から約6km のところにある豊富温泉は、10軒ほどの温泉施設からなる温泉街で、大正時代の末期に開かれた道内でも歴史の長い温泉である。ほのかに漂う石油臭と肌に優しいナトリウム/塩化物泉が特徴で、アトピーや慢性皮膚病、冷え性、神経痛、筋肉痛、肩こり、さらには慢性婦人病などに効能があり、全国から多くの湯治客が訪れている。また、温泉街の角には日帰り入浴用の施設もあり、豊富観光に訪れた観光客の旅の疲れを癒している。温泉周辺は豊かな美しい自然に包まれ、のんびりと自然散策も楽しめ、心と体が癒されるリラクゼーションスポットとして人気。
◇住所:〒098-4132天塩郡豊富町。
◇泉質:ナトリウム塩化物泉。

<日帰りで源泉が楽しめる温泉入浴施設・ふれあいセンター>
 町が運営する温泉入浴施設。源泉掛け流し。一般客用の浴場のほか、湯治療養するために長く入浴できるよう温度を低く設定した湯治客用の浴場を設置している。 温泉街の一角にある。源泉をそのまま引い た湯治客用の浴場と観光客用の浴場を 完備した日帰り入浴が楽しめる。
◇住所:天塩郡豊富町字温泉 。
◇電話:0162-82-1777。
◇入浴料金:大人510円、子供250円。65歳以上300円。


町営日帰り入浴施設ふれあいセンター(2023年6月撮影)

<湯治客用自炊型宿泊所・湯快宿 ( ゆかいじゅく)>
 湯快宿は、湯治客用に設けられた低料金で利用できる自炊型の宿泊所。湯治には近くの温泉入浴施設ふれあいセンターの湯治客用の浴場を利用し、さらに管理人が効果的な温泉の利用法を丁寧に指導してくれる。温泉入浴施設「ふれあいセンター」。
◇住所:天塩郡豊富町字温泉 (番地なし)。
◇電話:0162-82-3900。
◇使用料金:例えば、2泊以上10泊まで、1泊ごとに大人2,500円、小人2,000円。

稚咲内(わかさかない)海岸
 JR豊富駅から車で約15分、日本海沿いに豊富町から稚内まで続く稚咲内海岸は、視界を遮る物がなく、開放感にあふれた爽快なロケーションが広がる絶好のドライブコース。特に日本海に浮かぶ利尻山や夕陽に輝く海は心に残る感動的な美しさである。豊富町は、酪農の盛んなマチのイメージがあるが、漁業も基幹産業のひとつで、稚咲内漁港で水揚げされる美昧しい魚介類は マチの特産品になっている。
◇住所:天塩郡豊富町字稚咲内。

◆大規模草地牧場
 総面積1,400haの大規模草地牧場は、日本一の広さを誇る大牧場で、なだらかな丘陵地帯に広がる牧場には、約1,500頭の乳牛が放牧されている。広大な草原と草をはむ牛たちの牧歌的な眺めは、牛乳のマチ、酪農王国「豊富町」ならでは風景。また、牧場入口には昭和天皇・皇后両陛下が昭和43年に牧場の開発状況を視察された際につくられた行幸記念碑が建っている。

豊富牛乳公社
 搾りたての美味しい牛乳を消費者に届けたいという思いから、昭和60(1985)年に豊富牛乳公社を設立した。道内および関東方面の消費者に届けている。製品は「北海道豊富牛乳」「北海道さわやか2.5成分調整牛乳」など。
◇住所:098-4100 天塩郡豊富町上サロベツ1184。
◇電話:0162-82-2022。



 農業は、1897年(明治30年)の北海道国有未開地処分法による大農牧場によって幕が開けられ、その後戦前の入植者により開墾への鍬入れがされた。戦後の山形県からの集団入植は村の農業を語る上で、欠くことのできない今日の酪農業の礎である。


 農業形態は、1956年(昭和31年)天北集約酪農地域の指定を契機として、酪農経営への転換を図り、更に1963年(昭和38年)従来からの混同農業から安定した酪農専業の道を選択し、漁業と並んで村の2大基幹産業としての酪農業の地位が確立された。村内の広大な農地のほとんどが牧草畑で、村営牧場を中心とする酪農専業地帯が広がっている。
 漁業はかつて、資源枯渇による苦難の時代を経験した。しかし、漁場造成や孵化・放流・育成事業など、漁業者と村が一体となって資源管理型漁業への転換に力を注ぎ、豊かなオホーツクの漁場を再び取り戻した。現在、本村の天然ほたて貝の水揚量は、日本一を誇るまでに安定成長を重ね、毛ガニやサケ、マスと同様にオホーツク海の大自然の恩恵を受けた「さるふつブランド」として、本村の産業振興に大きな貢献をしている。さらに資源管理型漁業の推進のため、猿払村漁業組合では、独自の試験研究体制の整備を確立して、生産技術の向上を目指している。
 村の中心に位置する猿払公園は、道の駅、ホテル、レストラン風雪の塔、農業資料館、手作りバター等体験施設の「乳と肉の館」、パークゴルフ、村営牧場一周コース、浜頓別→猿払間21.5kmのサイクリングターミナルなどがある。オホーツクに面した丘に、1939年(昭和14年)、浜鬼志別沖で座礁転覆したソ連船インディギルカ号の遭難慰霊碑があり、ロシアとの友好のシンボルともなっている。村内には、多くの湖沼がありあり、北オホーツク道立自然公園のカムイト沼、モケウニ沼がある。冬は、高さ15m、幅20mの雪で作った巨大スクリーンに最新映画を上映するイベントも行われる。産物は天然ホタテ貝で、水揚げ量が全国一。
さるふつ村観光協会

◆インディギルカ号遭難者慰霊碑
 この慰霊碑は、1939年(昭和14年)12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた700名以上の貴い命を悼み、1971年(昭和46年)に建立された。世界の海難史上に残る大惨事の発生を知り、村民総出で約400人を救出した行為と犠牲になった人々の魂よ安かれと祈る心を顕した慰霊碑は、国境を越えた人間愛の証として、訪れる人々の心に今日も大切なものは何かを語りかけている。

インディギルカ号
遭難者慰霊碑(2012年8月撮影)

牛乳と肉の館
 「牛乳(ちち)と肉(にく)の館」では、いずれも「さるふつ」の名を冠した牛乳、バター、アイスクリームを製造しており、なかでも「さるふつ牛乳」は、脂肪分を分解しないまま高温で殺菌する全国でも珍しい工程を採用し、生乳に近いまろやかな風味が好評。これら製品の原料となっている生乳は、村内の農家から直接仕入れており、その品質や安全性は折り紙つき。また、アイスクリーム、バター、ソーセージの実習も行っており、事前の予約(2週間前まで、有料)により、体験することができる。
◇住所:宗谷郡猿払村浜鬼志別214-7。
◇電話:01635-2-3288。

道の駅 さるふつ公園
 ホテルを併設。日帰り入浴もできる。周辺には、パークゴルフ場、キャンプ場などがある。施設内のレストランや売店では、ホタテ商品や新鮮な魚介類を販売。風雪の塔、農業資料館では、開拓当時の暮らしを紹介。


◆さるふつ憩いの湯
 道の駅さるふつ公園内にある。オホーツク海を眼前に望みながら入浴できる。日帰り入浴・宿泊施設あり。営業:13:00から。泉質:ナトリウム―塩化物泉。
◇住所:〒098-6222 宗谷郡猿払村浜鬼志別214-7。
◇電話:01635-3-4314。

さるふつ憩いの湯(2021年7月撮影)





 宗谷支庁南部に位置するオホーツク海に面している。地勢はほぼ平坦で、南東および南西は山岳に囲まれ、中心部には頓別川が流れ、オホーツク海に注ぐ。4月と11月には1万数千羽の白鳥が飛来する白鳥の湖・クッチャロ湖と秀峰・珠文岳と砂金公園を有する。
浜頓別町観光協会

クッチャロ湖
 周囲27kmの広さを持つクッチャロ湖は、1968年(昭和43年)北オホーツク道立自然公園の指定を受け、1989年(平成元年)にはラムサール条約登録湿地に指定された、道北最大の白鳥の湖である。かん水湖。湖畔の一帯は環境省国民休養地に指定されている。豊かな大自然には多くの野鳥が生息しているほか、春と秋には約5,000羽の白鳥が飛来する名所。
◇住所:〒098-5734 枝幸郡浜頓別町字日の出。
◇電話:01634-2-2345。

クッチャロ湖(2012年8月撮影)

ウソタンナイ砂金採掘公園
 1956年(明治31年)に砂金が発掘されて以来、3度のゴールドラッシュに沸いたウソタン川。砂金採掘公園では昔ながらの「ゆり板」を使った砂金掘りが楽しめる。また敷地内にはキャンプサイトも整備されている。
◇住所:〒098-5744 枝幸郡浜頓別町宇曽丹。
◇電話:01634-5-6313。

ウソタンナイ砂金採掘公園(2012年月撮影)

全日本砂金掘り大会(2001年8月撮影)

ベニヤ原生花園
 北オホーツク道立自然公園の中心地ベニヤ原生花園は、100種以上の花々が咲き乱れる。花の見ごろは5月中旬から8月下旬。ハマナスをはじめ、工ゾカンゾウやヒオウギアヤメ、スズランなど数百種類以上もの草花が群生する約330haの原生花園。彩り鮮やかな大地とオホーツクブルーの海が一度に楽しめる美しい観光スポット。
◇住所:枝幸郡浜頓別町字頓別。
◇電話:01634-2-2345。

ベニヤ原生花園(2012年8月撮影)

◆北見神威岬
 枝幸町との境界にある標高439mの斜内山から海に突き出た風光明娼な岬。山道を通り突端へ出ると輝くオホーツク海の雄大な風景が広がる。
◇住所:〒098-5816 枝幸郡枝幸町目梨泊。

北見神威岬と灯台(2023年7月撮影)

道の駅 北オホーツクはまとんべつ
 2019年(令和元年)5月1日に国道275号沿いにオープン。国道275号、国道238号のほか、日本海とオホーツク海を結ぶ道道豊富浜頓別線(道道84号)が集まる交通要衝に位置し、周辺にはクッチャロ湖やベニヤ原生花園などがある。イベント広場、多目的ホール、特産品販売コーナーなども整備。






 宗谷管内の東南に位置し、東南に歌登町、北は浜頓別町に接し、西及び西南方は、天塩山脈をへだてて上川支庁管内の幌延町と接する。町の中央部は秀峰ピンネシリ岳(704m)を中心とした山岳地で、南西部は標高500m前後の北見山脈、東部はポロヌプリ山(838m)をはじめとする高山をもつ山岳地が広く分布し、いずれも起伏状急峻で、これから発した頓別川、兵知安川の二つの川が中央部を北流し、多くの支流を合わせつつやがて一つの川となってオホーツク海に注ぐ。この流域が平坦地及び段丘地を形成して農業地帯となっている。
中頓別町の観光

◆中頓別鍾乳洞
 中頓別鍾乳洞は、新生代第三紀(約1千万年前)に堆積した石灰岩の中に形成された新しい時代の鍾乳洞。中頓別鍾乳洞の他に長崎県(七ツ釜鍾乳洞)や沖縄県(玉泉洞)などで見られるごく新しい時代の鍾乳洞と比較しても、貝殻片の大量堆積により鍾乳洞が発達するほど石灰分の割合が高い地層ができたということは非常に珍しい。中頓別鍾乳洞を形成する石灰岩は、そのほとんどがフジツボ類の貝殻片であり、遠い昔、この周辺は岩石海岸の浅い海域であったと考えられる。鍾乳洞の内部には、ノッチや波状溶食跡など、石灰岩が水により溶けてできるいろいろな形をした溶食形態を見ることができる。古代の不思議を堪能できる。


<中頓別鍾乳洞自然ふれあい公園>
◇住所:〒098-5554 枝幸郡中頓別町字旭台24番地1。
◇電話:01634-6-1299。
<中頓別鍾乳洞第一洞案内>(現地の立て看板から)
 ● 鍾乳洞を形成するのは石灰岩で、サンゴ礁や貝殻などの生物遺骸が集まって堆積してできた岩石である。鍾乳洞は、石灰岩が雨水や地下水によって長い年月をかけ、少しずつ溶かされてできた洞穴のことである。石灰岩は炭酸カルシュウムを主成分とする岩石で、雨水や地下水が接触すると少しずつ溶けていき、この作用が長い年月をかけ、洞穴となったものが鍾乳洞である。
 ● 日本の代表的な鍾乳洞は、中生代から古生代(約1億年前〜2億5,000年前)の地質時代のものが多く、日本の鍾乳洞の多くは1億年〜2億年前に形成された石灰岩の中にある。また新しい時代に形成された鍾乳洞としては、新生代古第三紀、新世代第三紀、新世代新第三紀(約300万年前〜約3,000万年前)に形成された鍾乳洞も確認されている。
 ● 中頓別鍾乳洞は、新世代第三紀(約1,000万年前)に堆積した中頓別層中に形成された新しい鍾乳洞で、中頓別層石灰岩は、ごく新しい時代に貝殻片(ホタテガイやフジツボ類)の大量体積によりできた地層である。このような新しい地質時代に貝殻片が密集してできた、石灰岩の割合の高い地質であることが珍しく、その中に発達した鍾乳洞ということで、日本では非常に珍しく、学術上極めて貴重なものとなっている。
 ● 雨水や地下水に溶けた石灰岩は、方解石という結晶になり、洞穴の中で再び石に戻る。この石は場所により形が変わる。形の違いから、鍾乳石、石筍(せきじゅん)、石柱(せきちゅう)、リムストーン【畦石(あぜいし)】、フローストーン(流れ石)、花状石灰華、ヘレクタイト、ケイブパール、浮遊カルサイトなどと呼ばれ、鍾乳石や石筍は、1cm形成されるのに数百年以上かかると言われている。鍾乳洞内にはいろいろな形をした溶食形態が残り、水中、水面の上、水面付近でできるものの3つに区分され、中頓別鍾乳洞では水中でできるポケット、水面付近でできるメアンダー・トレンチ、ノッチ、波状溶食痕などさまざまな自然の造形がみられる。

 

中頓別鍾乳洞(2021年7月撮影)


◆砂金掘り
 中頓別はかつて砂金が採掘されたことで有名。ペーチャン川は特に砂金が良く採れ一攫千金を夢見た人々でにぎわった。。ペーチャン川では、熱い時代に還って砂金掘体験ができる。砂金をみつけた時の喜びはひとしお。
◇住所:中頓別字兵安。
◇開場期間:7月20日〜8月25日9:00〜16:00。

道の駅・ピンネシリ
 国道275号沿いにあり、1989年(平成元年)に廃線となった旧天北線敏音知(ぴんねしり)駅の跡地に設置した道の駅である。1996年(平成8年)4月16日に北海道で32番目に登録。オートキャンプ場が道の駅となったもので、敷地内には電源などを完備のカーサイトやコテージなどの施設がある。 ログハウス風の道の駅は、オートキャンプ場の管理棟になっており、24時間利用のコインランドリーや自動販売機がある。向かい側には、ピンネシリ温泉「ホテル望岳荘」がある。


◆ピンネシリ温泉(ホテル望岳荘)
 道の駅ピンネシリ向かい、ピンネシリ岳の登山口にある公共の宿(温泉保養施設)。源泉は冷泉で浴用加熱している。日帰り入浴OK。
◇泉質:ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉(源泉温度4.8度、pH7.0)。
◇住所:枝幸郡中頓別町敏音知143-2。
◇電話:01634-7-8111。

ピンネシリ温泉(ホテル望岳荘)2021年7月撮影



 枝幸町と歌登町が2006年(平成18年)3月20日に合併し、新しい「枝幸町」が誕生した。森と海のつながりや豊かな自然の恵みを生かした産業の振興、多面的なまちづくりを進めている。四方を山陵で囲まれた歌登地区は、温泉付きホテルやコテージ、ゴルフ場などがある健康回復村。長さ51?qに達するオホーツク海に面した枝幸地区は、漁獲量日本一の「毛ガニ」のマチ。毎年7月には「枝幸かにまつり」が開催され、道内外からの観光客で賑わう。
枝幸観光協会


(旧枝幸町)
 酪農、漁業を主産業とする枝幸町は、景勝地北オホーツク道立自然公園、北見神威岬、ウスタイベ千畳岩を有し、春夏秋冬自然の息吹を感じさせる北緯45度ラインの海の町。オホーツク沿岸随一の水揚げを誇る毛ガニを始め、ホタテ、ウニ、サケなどオホーツクの味覚を堪能できる。産物はサケ、毛ガニ、タラバガニ、牛乳、木材。

(旧歌登町)
 酪農を中心とした農業の町。市街地から7kmには広大な面積を有する健康回復村がある。町営グリーンパークホテルを中心に、ちびっこ遊園地、全天候型テニスコート、キャンプ場、冬は管内随一の斜度を誇るスキー場など四季にわたっての総合体育施設が整っている。また、全国一低料金がモットーの町営南宗谷ゴルフ場(18ホール)は大好評。産物は、乳牛・肉牛、馬鈴しょ、てん菜、やまべ、木材。

◆えさしの海
 潮の香りが漂う北緯45度ラインの港町枝幸町は、オホーツク随一の「毛ガニ」の水揚げ日本一で知られている。海岸線は春から夏にかけて色とりどりの花が咲き乱れ、北見神威岬が神秘的にたたずんでいる。南に下ると海岸一面に畳を敷きつめたような、千畳岩が奇観を呈している。市外の後方には三笠山が控えていて、山頂の「展望閣」は、紺碧のオホーツク海を見渡せる絶景ポイント。さらに南に足をのばすと、海水浴場とキャンプ場がある。秋の気配が漂ってくる頃には、鮭漁も本番を迎え、実りの秋にむけてまち全体が活気づく。やがて海は流氷に覆われ大氷原に変わる。

えさしの海(2000年8月撮影)

◆北見神威岬(斜内山道)
 枝幸郡浜頓別町と枝幸町との境、オホーツク海に突き出た岩峰の岬。1968年(昭和43年)に「北オホーツク道立自然公園」の一部に指定。国道238号は、1999年(平成11年)に北オホーツクトンネルが完成して、岬をトンネルで通り過ぎてしまうが、海沿いにある旧道に入れば、岬の先端に白黒縞模様の灯台を間近に見ることかできる。灯台下の林道状の砂利道はかつて北見枝幸−浜頓別を結んでいた国鉄興浜北線(こうひんほくせん)の跡で、1985年(昭和60年)に廃止された。


 北見山地最北端のポロヌプリ山(839m)や珠文岳(761m)から北東方向に派生する尾根の末端の岩峰が斜内山(438.9m)。神威(かむい)とは、アイヌ語のカムイ(kamuy=神)に由来する地名で、ここが先住民族の聖地であったことがわかる。同じ名の神威岬が積丹半島にあるため、旧国名の北見国(きたみのくに)を冠して北見神威岬と呼ばれている。国道開通までは、1807年(文化4年)開削、1897年(明治30年)改修の斜内山道(しゃないさんどう)という険しい山道であった。
◇住所:枝幸郡浜頓別町斜内・枝幸町目梨泊。

北見神威岬と灯台(2023年7月撮影)

ウスタイベ千畳岩
 北オホーツク道立自然公園に指定されているウスタイベ千畳岩。アイヌ語で「入り江の林の川」を意味するウスタイベ。畳を重ねたかのような岩が特徴的。枝幸町の一大イベント「枝幸かにまつり」会場にもなっている。冬は、オホーツク海を埋め尽くす「流氷」を間近に見ることができる。
◇住所:〒098-5814 枝幸郡枝幸町岬町。

ウスタイベ千畳岩(2015年6月撮影)

三笠山展望閣
 標高172mの三笠山山頂にあり、雄大なオホーツク海・深い緑の山・枝幸町の街を一望できる展望閣。1階には移住・定住をはじめとした枝幸の町の様子を伝える情報スペース、2階には360度ガラス張りの喫茶コーナーがある。
◇住所:枝幸町宇遠内1380-2。
◇電話:0163-62-2044。

三笠山展望閣(2023年7月撮影)

◆枝幸かにまつり
 毎年、7月第1土・日曜日に開催されるカニまつりは、新鮮な海の幸を存分に楽しめ、毛ガニ早食い競争や毛ガニがあたる抽選会、毛ガニの特売など、カニづくしの催しが目白押し。もちろん毛ガニ以外の特産品や味覚のテントも並ぶ。毛ガニ、ズワイ、タラバのカニ三昧に、歌謡ショーやヨサコイチーム夢想漣えさしの踊りも祭りを盛り上げ、その他数々のアトラクションも加わって、全国各地から大勢の観光客が訪れる年々盛大になる枝幸の魅力たっぷりの2日間である。開催場所:ウスタイベ千畳岩。

枝幸かにまつり(2023年7月撮影)

道の駅・マリーンアイランド岡島
 国道238号に面し、雄大なオホーツク海を航行する船をイメージしたデザインでつくられている。各種情報案内と地場産品の展示販売を行っている。道の駅に隣接して、遠浅な砂浜のオホーツク海が広がり、海水浴、磯遊び、釣り、潮干狩りなど、豊かな自然を満喫できる。






 幌延町は、フランスのボルドーや、イタリアのミラノとほぼ同緯度の北緯45度線上に位置する。面積は 574.27平方kmで、東京都23区とほぼ同じ広さ。気候は、夏は涼しく、年間の平均気温は5.8度と低く、最暖月の平均気温も19.9度。冬は、北西の季節風が強く、乾燥寒冷で根雪期間は11月下旬から4月上旬まで。積雪は1m内外。基幹産業は酪農で、人口の約4倍の1万1,000 頭程が飼育されている。
幌延町の観光

北緯45度通過点
 サロベツ原野のある道道106号線(稚内-手塩線)を北に走ると、北緯45度通過点の標識(天塩郡幌延町字浜里)とN字形をした金属製の北緯45度モニュメントが建っている。北緯45度を記念した標識は、国道238号線、国道275号線、道道121号線にもある。近くにはトンネルになったパーキングシェルターがあり、そこにはトイレもある。オトンルイ風力発電所、パンケ沼も近い。
◇住所:〒098-3227 幌延町字浜里。

(左)北緯45度通過地点 (右)北緯45度モニュメント(2015年6月撮影)

北緯45度通過点の看板(2009年8月撮影)

サロベツ原野
 幌延町の西に広がるサロベツ原野は、利尻・礼文・サロベツ国立公園に指定されている。平成17(2005)年11月にラムサール条約湿地登録され、湿原やそこに生息する動植物の保全と湿地の適正な利用が求められている。サロベツ原野は、かつては南北27km、東西8km 、面積14.600ha に及び、北海道の湿原としては、石狩泥炭 地と釧路湿原に次ぐ広さであったが、1960年代中期以降開発が進み、現在の約6.700ha にまで縮小した。しかし、釧路湿原や尾瀬国立公園の尾瀬ヶ原とともに、日本に残る代表的な湿原であり、低地における高層湿原としては日本最大の広さを持つ。


 サロベツ原野と海岸の砂丘林一帯には、エゾシカやトウキョウトガリネズミをはじめ、ツメナガセキレイ、ノビタキ、べ二マシコなど多くの鳥獣類が生息する。これまで 日本では道東だけに生息していたタンチョウも、平成16(2004)年以降サロベツで営巣している。そのほかオジロワシ、チュウヒなどの希少猛禽類、爬虫類では国内では北海道北部だけに分布しているコモチカナヘビも見られる。
 公圏内の海岸には数列の砂丘が海岸線と平行に並んでいる。自然海岸のまま残存する部分が多く、海から陸へとのつながる植生の分布がよく残っている。海岸にはハマナスやハマニンニクなどの海浜植物があり、海岸に面した砂丘には、強風のため枝がすべて陸側を向き、刈りこまれたようにそろって低いミズナラ林がある。その内側の砂丘にはトドマツを主 とし、エゾイタヤなどを交えた林があり、内陸に行くほど樹高が高くなる。砂丘間の低地には池沼や湿原があり、湿性植物が生育している。砂丘林は全体としてほとんど人の手が入っておらず、原生的な雰囲気の濃い、特異な景観が見られる。
 寒冷な気候のサロベツ原野は、農業利用には適さないと考えられていた。北海道開拓が本格的 に始まった19世紀後半から20世紀前半まで、一部で泥炭の採掘などが行われたが、農用地の開発は湿原を囲む乾燥した丘陵地におおむね限られていた。第2次大戦終了後、引揚げ者などを対象にした入植が行われ、昭和30年代後半に入ると、大規模な総合開発事業が行われて、サ口ベツ放水路なども完成した。 しかし、このころから、それまで無用の土地とされていた湿原の価値が見直されて保存の気運が高まり、昭和49(1974)年にその主要部が国立公園に編入され、平成15(2003)年に拡張された。これまでの開発事業により、排水路の開削による湿原の乾燥化とササの侵入や、湖沼への土砂の流入による環境変化などの影響が見られるため、泥炭採掘跡地の湿原再生、湿原の水位低下防止などを目的とする自然再生への取り組みが始まっている。


サロベツ原野と利尻富士(2007年9月撮影)

トナカイ観光牧場
 幌延町トナカイ牧場は、日本で最大規模のトナカイを飼育している牧場。これほどたくさんのトナカイを見られるのは日本でここだけ。ここのトナカイたちはサンタクロースの故郷ともいわれているフィンランドから来た。いまでは、幌延生まれの二世、三世が暮らしている また、6〜7月に開花時期を迎える「幻の青いケシ」。属名メコノプシス・ベトニキフォリアが牧場の花畑で咲き誇る。自生種は標高3,000〜5,000mのヒマラヤや中国西南部の秘境でしか見られず、天上の妖精と称され、栽培の難しさから幻の花と言われている。
◇住所:〒098-3224 天塩郡幌延町字北進398。
◇電話:01632-5-2050。

トナカイ観光牧場(2023年6月撮影)

金田心象書道美術館
 幌延町出身の書道家、金田心象の作品を展示した日本で始めての書道美術館として平成2(1990) 年オープンした。日本書道界における重鎮としての偉大な足跡と崇高な精神を保ちながら追い続けた「書」のこころを鑑賞するとともに、書作品約1,200点、硯・筆・ 陶器類約400 点を収蔵している。幌延駅から徒歩5分。
◇住所:〒098-3207 天塩郡幌延町宮園町。
◇電話:01632-5-2720。
◇入館料:大人300円、小人150円 (小学生未満無料)。
◇電話:01632-5-2720。
◇開館時間: 10:00〜16:00 (月曜日、祝日、 5/3-5/5は開館 、年末年始、年1回の展示替日は休館)。

オトンルイ風力発電所
 日本海に面した浜里地区は年聞を通じて安定した電気をつくることができる風に恵まれている。総出力21,000kwの風力発電設備を用い、発電量は年間約5,000万kw 時にのぼり、約1万世帯の電力を賄うことができる。自然エネルギーを利用することで、二酸化炭素の削減効果は年間約5.400tになり、石油換算では年間約12,000kl(ドラム缶換算で約6万本 ) の節減に相当し、地球温暖化防止に寄与できる。幌延の風力発電設備は、支柱の高さが約74m 、3 枚の羽根が描く円の直径は約50m 。巨大な風車が(28基) 、一直線に並んでいるのは日本でここだけ。
◇住所:天塩郡幌延町浜里。
◇電話:01632-5-1114。

北緯45度の風を利用したオトンルイ風力発電所(2007年9月撮影)

朝靄に包まれたオトンルイ風力発電所(2023年10月撮影)

ゆめ地層館 幌延深地層研究センター
 幌延町北進地区にある幌延深地層研究センターでは、高レベル放射性廃棄物の地層処分に関する研究開発として、地層処分技術の信頼性を実際の深地層での試験研究を通じて確認することを目的に地層科学研究や地層処分研究開発が行われている。隣接するPR 施設「ゆめ地創館」では、センターが行っている地下深部の研究内容や地底世界について学ぶことができるほか、地上50mの展望室からは360 度のパノラマで道北の雄大な自 然を一望することができる。
◇住所:〒098-3224 天塩郡幌延町字北進432-2。
◇電話:01632-5-2022。

ゆめ地層館 幌延深地層研究センター(2023年6月撮影)

◆知駒岳ルート
 山頂ヘ向かう道々785号線は雄大な自然が続くドライブルート。朝もやの中の草地、秋のあざやかな紅葉、冬の樹氷、若葉が芽吹く春、緑いっぱいの夏と四季それぞれの顔を持ち、山頂付近の展望台からはオホーツク海や日本海、海に浮かぶ利尻富士など360 度の パノラマが聞ける。


<宗谷地区の農業>
 宗谷の農業は、酪農が中心に行われている。酪農家は、広々とした牧草地を持つ牧場が多い。平成25年(2013年)度現在の農地は66,651ha。そのうち牧草地が93%を占めている。道内でも代表的な酪農地帯となっている。宗谷地区の乳牛飼養頭数は、平成25年(2013年)度68,651頭、生乳生産量は323,770tで全道の約9%を占めている。1戸当たり飼養頭数は101頭と経営規模は拡大している。

宗谷地区に広がる広大な牧草地(2006年8月、2015年6月撮影)


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