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◆2市9町


◆渡島エリアの見どころ4コマ


◆渡島エリアの名所



 北海道の最南端部に位置する函館は、古くから天然の良港として、また交通の要衝として開けていた。1854年(安政元年)に締結された日米和親条約を受けて、同6年に横浜、長崎とともに日本最初の国際貿易港として歩み始めた。以来、日本や外国と北海道を結ぶ玄関口として、独特の異国的雰囲気が町全体にあふれ、名所・旧跡を数多く有する観光・文化として、さらには水産、商工業を基幹とした道南の拠点都市として、また札幌、旭川に次ぐ北海道第3の都市として力強い歩みを続けてきている。
 特に観光面では、函館山からの夜景は世界一と称されているほか、古い建物群、五稜郭をはじめとする史跡和洋の魅力が一体となった街並みなどにより、世界での有数の観光地として知られている。「青函トンネル」の開通や函館空港の拡張などにより、充実が図られる各方面との交通ネットワーク、新たな時代に向けての「テクノポリス函館構想」、ツイン・シティである青森市とともに進める新青函経済文化圏形成などを軸として、21世紀に向けたまちづくりを力強く展開している。


<函館市戸井(とい)支所>
 渡島半島の東南部、海岸線に連なる10の部落が集まって作られた町である。東は恵山町、西は函館市と接している。何よりも本州に一番近い町として有名で、大間・戸井ルート「本州北海道連絡橋」構想が生まれ、誘致を進めている。古くから漁業一筋に歩み、栽培漁業の面では、北海道の中でもパイオニア的存在。また、北海道初のデイサービスセンターを併設した町民保養センター、本格的なオートキャンプ場、トーパスヴィレッジ「ムーイ」の整備など、観光施策の推進にも力を注いでいる。
 1947年(昭和22年)に地方自治法が公布され、1968年(昭和43年) 10月1日に町制施行を行い、北海道で156番目の町となったが、自治体を取り巻く社会情勢は、地方分権や少子・高齢化社会の進展など大きく変動しており、財政的にも厳しい中で行政運営を強いられることから,2004年(平成16年)12月1日に恵山町・椴法華村・南茅部町とともに函館市と合併し、函館市戸井地域として新たにスタートをした。
◇住所:〒041-0305 函館市館町3-1。
◇電話:0138-82-2111。

<函館市恵山(えさん)支所>
 渡島半島の東南端、函館市から東へ40kmに、活火山「恵山」をシンボルとした恵山町。恵山は「火を吹き溶岩が流れ落ちる」意を持つアイヌ語の「イエサン」にちなんで名付けられたもの。その名が示すように恵み多き海と山の幸は豊富。
◇住所:〒040-8666 函館市東雲町4-13。
◇電話:0138-21-3111。

<函館市椴法華(とどほっけ)支所>
 アイヌ語のトトポケ(岬の陰)に由来する。明治9(1876)年に尾札部村より分村し、椴法華村となる。道指定の文化財となった椴法華出土の土器など椴法華も渡島東海岸同様、広く縄文遺跡が分布しており、現在発掘調査が行われた遺跡は12カ所その年代も縄文早期から晩期、続縄文と八千年以上にわたり縄文人の里であったことが判明している。鱈漁場として栄える箱館六ヶ場所の一つ、尾札部場所の特場として栄え、高田屋嘉兵衛が「椴法華の鱈、日本一なり」と松前秘説に記す。平成16年12月1日に函館市と合併し函館市となる。
◇住所:〒041-0611 函館市新浜町156-1。
◇電話:0138-86-2111。

<函館市南茅部(かやべ)支所>
 南茅部町は、2004年(平成16年)12月1日をもって、函館市と合併しました。この地域は、西暦1677年の開基以来300年有余年を超える歴史を通じ、古くから良質の天然真こんぶの生産地として、さらには北海道大謀網(現在の定置網)漁業の発祥の地となり、1965年(昭和40年)代にはわが国最初のこんぶ養殖に成功するなど、常に「豊かな海の恵みとともに」先人の開拓者精神により、道内屈指の漁業基地として発展を続けてきた。
 1677年の開基以来300年有余年を超える歴史を通じ、古くから良質の天然真こんぶの生産地として、さらには北海道大謀網(現在の定置網)漁業の発祥の地となり、昭和40年代にはわが国最初のこんぶ養殖に成功するなど、常に「豊かな海の恵みとともに」先人の開拓者精神により、道内屈指の漁業基地として発展を続けてきた。
◇住所:〒041-1611 函館市川汲町1520。
◇電話:0138-25-5111。
函館国際観光コンベンション協会

函館山

 函館山は、最高峰の御殿山をはじめ、つつじ山、入江山などの12の山々からなる。牛が寝そべっているようにみえることから臥牛山ともいわれているが、亀嶺山(きれいざん)、渓冠峰などと呼ばれた時代があるように、風と海流に削られ少しずつその形を変えている。


 現在の豊かな森は、1799年(寛政11年)に蝦夷地が幕府の直轄地となり、1801年(享和元年)に、ここを巡視した幕府の役人が、「箱館管内の山は、海岸から一里余りは大体はげ山になってしまっていることから、木を伐採する時は植林の義務を課せるなどの伐採法を定めて取締まりを厳重にしなければならない」と報告したことにはじまり、江戸後期倉山卯之助をはじめ、高田屋の手で何十万本ものスギが植えられるなど森林保護に携わった多くの人々の手によるものである。1854年(安政元年)になると、ペリー艦隊に随行したウィリアムズやモローが函館滞在期間中、函館山周辺から86種もの植物を採取したといわれている。1899年(明治32年)には、函館山で要塞工事が始まり、周辺一帯が要塞地帯となり、立ち入りはおろかスケッチなども禁じられた。終戦後、卯之助らによって植林されたスギは見事に成長し、様々な草花や野鳥、動物が生息する濃密な生態系をもった函館山が開放された。(hpから)
◇住所:函館市青柳町6-12。
◇電話:0138-22-6799(函館山ふれあいセンター)。


函館山(2011年8月、2016年4月、2021年10月撮影)

函館山ロープウエイ
 海に囲まれた函館市街を見下ろすことができる。山頂には、店、レストランなどがある。現在のゴンドラは5代目で125人乗り。海抜334mの山頂まで約3分で到着。函館湾と津軽海峡に挟まれた夜景は、世界一の見応え。
◇住所:〒040-0054 函館市元町19-7。
◇電話:0138-23-3105。

函館山ロープウエイ(2011年8月撮影)

 世界三大夜景というのがあって、日本において世界中の代表的な夜景を3カ所選んだものを指す。日本では、各地の夜景の紹介において、100万ドルの夜景、1,000万ドルの夜景、日本三大夜景、新日本三大夜景、日本夜景遺産、世界新三大夜景、等々、日本国内の各種団体による(命名者不明も含め)いろいろな表現を見ることができるが、その一つとして、函館、ナポリ、香港の夜景を、世界三大夜景と称するものがある。ただし、この3カ所を選択した人物や団体、根拠、時期などは不明である。日本以外においては、中華圏で和製漢語としてのこの言葉が使われることがある。

函館山から望む(2003年11月、2020年9月撮影)

函館市街(2006月8月撮影)

五稜郭公園
 幕府が北辺防備のため7年をかけて築城した日本初の洋式城郭「五稜郭」は、現在、市民に親しまれる公園として利用されている。春には1,600本の桜が咲き、外堀ではボート遊びを楽しむことができる。関連施設・行事に、市立函館博物館五稜郭分館、箱館五稜郭祭(5月第3土・日)、五稜郭タワーなどがある。
◇住所:〒040-0001 函館市五稜郭町44。
◇電話:0138-31-5505。
◇営業時間:郭内05:00〜19:00

五稜郭公園(2002年4月、2006年8月撮影)

五稜郭タワー
 2006年4月1日新タワー開業(1964年12月1日創業)
・敷地面積:2,938平方m。
・延べ床面積:5,783平方m。
・高さ:107m(避雷針高)、98m(全高)。
・展望台高さ:展望1階86m、展望2階90m。
・展望台面積 展望1階314平方m、展望2階464平方m。
・展望台収容人数 約500人。
・エレベーター:30人乗り2基、所要時間約30秒。
・料金:有料
・営業時間:4月21日〜10月20日8:00〜19:00、10月21日〜4月20日9:00〜18:00。
・五稜星の夢開催期間中(1月中旬〜2月末):9:00〜19:00。

五稜郭タワー(2006年8月、2022年4月撮影)


『五稜郭』の桜

 五稜郭タワーに隣接する国指定特別史跡の『五稜郭』は、北海道でも有数のお花見スポット。毎年桜の季節(4月後半〜5月前半)になるとソメイヨシノ(染井吉野)を中心に約1,500本が咲き乱れる。それは見事、絶景と言うほかない。なぜ、絶景かは、「百聞は一見に如かず」の通り、満開時に足を運べばそれは分かる。しかし、それではあまりにも素っ気ないので、少し説明を加えると、城跡なのであちこちに様々な形の土塁が築かれている。そこに桜の木が満遍なく植えられているので、桜を上からも下からも、近くも遠くも、望むことができる。つまりあらゆる角度(自分の気に入った角度)から桜を見ることができるし、写真に収めることができる。自分が桜に抱かれた、包まれた気分に浸れる。このような場所は、北海道広しといえども、ここ『五稜郭』しかないと、私は思っている。是非、ご鑑賞を。

五稜郭公園の満開の桜(2022年4月撮影)

「五稜郭」誕生のきっかけ


 嘉永6年(1853)のアメリカ艦隊の「黒船来航」という大事件にある。開国要求に屈した徳川幕府は、1854年(安政元年)日米親和条約を締結し、箱館(明治になるまで、函館は「箱館」と表記)を開港場とした。この箱館を治めるために幕府が設置した「箱館奉行」は、産業の育成や開拓を進めると同時に箱館の防備強化を図り、蘭学者の武田斐三郎に奉行所庁舎の移転に伴う新しい要塞の設計を命じた。西欧の学問や技術を研究する「箱館諸術調所」の教授を務める優れた教育者でもあった武田斐三郎は、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルとする要塞を考案し、工事に約7年の歳月を費やした「五稜郭」は、蝦夷地の政治や外交、防衛の拠点、まさに蝦夷地の要として誕生した。
 アメリカの要求に屈した徳川幕府に対する不満は、倒幕運動へと発展し、日本を二分する戌辰戦争が起きる。大政奉還、江戸城明け渡しなど、風前の灯火となった幕府勢力の中、旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、陸軍諸隊を収容した艦隊を率いて蝦夷地へ渡り、「五稜郭」を占拠した。彼らは、1868年(明治元年)12月、仮の政権を樹立し、徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を政府に求めるが、1869年(翌2年)春、政府は征討軍を派遣、旧幕府脱走軍への攻撃を開始し、箱館戦争が勃発した。圧倒的な戦力で攻撃してくる新政府軍の前に土方歳三ら歴戦の面々の抵抗も空しく、「五稜郭」は包囲され、旧幕府軍は降伏。幕末維新の動乱は終結した。


武田斐三郎(五稜郭築城設計および監督・箱館奉行支配諸術調所教授役)

 五稜郭はわが国初めての洋式築城で、1857年(安政4年)着工、7年の歳月を費やして1864年(元治元年)に竣功した。のち旧幕府脱走軍がこの城に拠り箱館戦争の本城となった。築城100年記念にあたってこの碑を建てた。
                    1946年(昭和39年)7月18日 函館市

武田斐三郎
(2022年4月撮影)

◆復元の箱館奉行所


 五稜郭内の函館奉行所庁内は、1862年(文久2年)に建設工事が開始された。マツ・スギ・ヒバなどの建築材木は能代(現在の秋田県)で加工され、船で箱館に運ばれて組み立てられた。1864年(元治元年)に奉行所庁舎が完成し、同年6月には箱館山麓から奉行所が移転して、蝦夷地における政治的中心となった。なお、五稜郭内の工事や付属建物が全て完成したのは2年後の1866年(慶応2年)である。その後、明治維新により江戸幕府から明治新政府に引き継がれたが、明治元年(1868)から2年にかけての箱館戦争時には旧幕府脱走軍の本拠地となった。箱館戦争終結後は、再び明治政府のものとなったが、役所として利用されることはなく、明治4年(1871)に開拓使本庁舎の札幌移転に伴い、奉行所庁舎をはじめ郭内のほとんどの建物が解体された。庁舎解体から140年を経て2010年(平成22年)、綿密な復元検討を重ねて、箱館奉行所は往時の姿に復元された。(現地の立て看板から)


五稜郭公園内に建つ復元の箱館奉行所(2022年4月撮影)

◆復元の箱館奉行所(その2)
 幕末の箱館開港により設置された江戸幕府の役所で、奉行所の防御施設として築造されたのが五稜郭である。1857年(安政4年)に着工して7年後の元治元年(1864年)に完成し、蝦夷地の政治的中心となった。明治維新の際には戊辰(ぼしん)戦争最後の戦いである箱館戦争の舞台となり、11871年(明治4年)に奉行所庁舎は解体された。それから140年の時を経て、2010年(平成22年)に箱館奉行所が復元された。

◆函館野外劇「五稜星(ほし)よ永久に」
 7月下旬〜8月中旬に、脚本、演出、キャストなどすべて市民のボランティアで行われる日本最大規模の野外劇。五稜郭の築堤や堀を使って壮大なスケールで開催される真夏のページェント。

◆函館港まつり・イカ踊り
 8月1日〜5日

◆はこだて湯の川温泉いさり火まつり
 8月第3土日

◆函館夜景の日
 8月13日

宗教法人 函館ハリストス正教会
 包括団体「宗教法人:日本ハリストス正教会」は全世界に2億人を越える信徒を持つ、約2000年前に創立された東方キリスト協会の中に所属している。日本には1861年(文久元年)6月14日、現在地/函館ロシア領事館に到着し、伝道を開始されたニコライ修道神父により伝えられた(1970年、彼は日本の亜使徒・大主教として聖人になる)。


 ハリストスとはギリシャ語のXPI狽sO煤iCHRIST.救世主)の日本語読みで、新約聖書がギリシャ語で書かれたことにより使用されている。日本の本部は、東京都千代田区にあり神田駿河台のニコライ堂(国指定重要文化財)、与謝野晶子の歌「ニコライのドオムの見ゆる小二階の欄干の下の朝がおの花」で有名である。函館は日本製協会の一つの枝にあたり、1868年(明治元年)のキリシタン禁制下、3名の日本人が最初に洗礼を受け、伝道活動を開始した。一人は幕末から明治に名を刻んだ土佐藩士:坂本龍馬の従弟(父親同士が兄弟)坂本数馬や、一人は宮城県栗原郡の人(大阪、諸方洪庵のオランダ医学を学び函館で開業した医師:酒井篤禮や、一人は岩手県下閉伊郡山田町出身の商人:浦野大蔵がいる。また京都で同志社大学校生みの親、新島七五三太(ニイジマシメタ)、クリスチャン名ジョウを米国に送る福士卯之吉に紹介したのも函館の修道司祭ニコライ神父と言われている。
 当時の函館には南部藩士多数が単身赴任しており、彼等も上記3名の教えにより洗礼を受け、1874年(明治7年)100名以上の藩士が盛岡に戻り、加賀野新小路の家老屋敷・西海枝勝己宅を会堂として、青森県、岩手県、宮城県などにも伝道活動を始めた。盛岡で受洗された方には時の総理大臣:原敬の親族:原祐知や一族、石川啄木の恩師:新渡戸仙岳や一族:横川省造の父母や兄弟などがいる。その他全国に80カ所の教会堂があり、国の重要文化財指定聖堂は、上記東京千代田区のニコライ復活聖堂、京都烏丸通りの生神女マリヤ福音聖堂、また当地元町函館正教会復活聖堂がある。
◇住所:〒040-0054 函館市元町3-13。
◇電話:0138-23-7387。


函館ハリストス正教会(2016年4月撮影)

ハリストス正教会


 1859年(安政6年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは「函館復活聖堂」という。1861年(文久元年)青年司祭ニコライが、ロシアから函来し切支丹(キリシタン)解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(1872年=明治5年東京転任)。1907年(明治40年)大火で類焼したが、1916年(大正5年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根は装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅板屋根は1968年(昭和43年)に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。再建当時の大鐘(重さ約2t))は、1923年(大正12年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鐘と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この鐘も戦時中供出した。現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から1983年(昭和58年)6月に献納されたものである。1983年(昭和58年)6月、国の重要文化財に指定された。(函館市)


カトリック教会元町教会
 元町教会は、1859年(安政6年)フランスの宣教師メルメ・ドゥ・カション(パリー外国宣教会司祭)が仮聖堂を建てたのに始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として横浜の山手、長崎の大浦と共に最も古い歴史をもつ教会である。


 1868年(明治元年)同宣教会司祭ムニクー、アンブルステル両氏が現地に仮聖堂を建て、その後、1877年(明治10年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。以後3回の大火で類焼したのち、1924年(大正13年)現在の大聖堂が完成した。この大聖堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁十四景の十字架道行の壁像は、イタリーのチロル地方の木彫で、時のローマ教皇ベネディクト十五世から贈られた由緒あるもである。
◇住所:〒040-0054 函館市元町15-30。
◇電話:0138-22-6877。


函館聖ヨハネ教会
 函館市にある日本聖公会北海道教区の教会。茶色の屋根と外壁の十字架が特徴で、屋根も十字型である。函館山山頂から、その印象的な十字型の屋根が見られる。函館・元町を代表する3教会(函館ハリストス正教会、カトリック元町教会とともに)の一角を占める。
◇住所:〒040-0054北海道函館市元町3-23。
◇電話:0138-23-5584。


1874年(明治6年)イギリス人宣教師のデニング司祭が函館に上陸、民家を借りて活動を開始。
1878年(明治11年) 元町55番地に最初の教会が建設された。
1879年(明治12年) 大火発生で教会を失うが、翌年8月には元の場所に教会再建。
1934年(昭和9年) 最大規模の大火が発生。教会も爆風で甚大な被害を受ける。
1936年(昭和11年)現在の場所に教会が建つ。木造でノアの箱船を想像させる形であった。
1942年(昭和17年)日本聖公会の法律上の解消に伴い、名称が「函館聖ヨハネ教会」となる。
1943年(昭和18年)この頃、牧師はスパイの嫌疑で、たびたび当局に出頭を命ぜられる。
1945年(昭和20年)日本聖公会の復活が公示される。
1979年(昭和54年) 現在の聖堂が完成する。
1980年(昭和55年)パイプオルガン(西ドイツ・ヴェール社製)が設置。
2004年(平成16年)台風18号により、聖堂の屋根、牧師館が被災。
2006年(平成18年)新築した牧師館が「函館市都市景観賞」を受賞。
(jawp)


カトリック元町教会(左)と聖ヨハネ教会(2011年8月、2022年9月撮影)

見晴公園(香雪園)
 本格的な和風庭園を中心にゴルフ場や野球グラウンドなども整備され、春の桜とともに紅葉の名所として有名。
◇住所:函館市見晴町56。
◇電話:0138-57-7210。

旧函館区公会堂
 1910年(明治43年)、日本人技師によって建てられたイギリスの古典的建築様式であるコロニアルスタイルの洋風木造建築。内部には大理石の応接室、豪華なシャンデリアなどがある。2階のベランダから見る市街地の景色は最高といわれている。
◇住所:040-0054 函館市元町11-13。
◇電話:0138-22-1001。

旧函館区公会堂(2002年4月撮影)

八幡坂
 函館山からの夜景と並んでビュースポットとして紹介されることが多い坂道。かつてこの坂を登り切ったところに函館八幡宮があったとされ、名の由来となっている。 赤レンガ倉庫が立ち並ぶウォーターフロントの先を道なりに進むと、函館山へ導いてくれるのが八幡坂。両歩道脇には、坂上まで手すり付きの階段が整備されている。突き当たりにあるのは、演歌界の大御所・北島三郎の出身校として知られる函館西高校。その真下からの眺めが絶景である。


 坂名は、河野政通の館跡地(現在の元町公園付近)から移設された函館八幡宮があったことに由来すると伝えられています。大火の被害を受けて1880年(明治13年)に現在の谷地頭町に移ったものの、その後も坂の名称は残された。かつては湾曲していたらしいが、今は海に向かって真っすぐの美しい道。正面に、記念館として港に係留展示されている青函連絡船・摩周丸を望める。
◇住所:〒040-0053 函館市末広町。
◇電話:0138-21-3323。


八幡坂(2016年4月撮影)

◆はこだてクリスマスファンタジー
 12月上旬〜25日。

◆五稜星の夢
 1月中旬から2月14日。

◆はこだて冬フェスティバル
2月1日〜14日

トラピスチヌ修道院
 フランスから派遣された8人の修道女によって創設された日本最初の女子修道院。約70人の修道女が現在も敬虔な宗教生活を送っている。一般の人は前庭まで入ることができる。
◇住所:〒042-0914 函館市上湯川町346。
◇電話:0138-57-2839。

トラピスチヌ修道院(2022年9月撮影)

外国人墓地
 江戸時代末期、貿易港として諸外国に門戸を開いたのを機に、函館には多くの外国人が渡来し、居留するようになった。なかには、母国に帰ることなく、この地で命を落とした人もいて、函館山北西側の高台には外国人墓地が設けられた。漁船や貨物船などの船舶が航行する函館港内を一望できるほど、絶景が広がるポイントでもある。
◇住所:函館市船見町23 。
◇電話:0138-23-5440。

太刀川(たちかわ)家住宅店舗
 太刀川家は、江戸末期から米穀店、漁業、回漕業を営んで財をなした。この住宅兼店舗は、1901年(明治34年)に建てられたもの。


 レンガ積みの土蔵造りで、洋風アーチを取り入れ、左右に卯建(うだつ=防火用袖壁)がついているのが特徴。明治40年の大火でも難を免れた防火造りの建物。内部の梁や柱などの木組、欅の大きな一枚戸なども見事である。明治の商家建築として、1971年(昭和46年)に国指定の重要文化財となった。函館市景観形成指定建築物。
◇住所:〒040-0051 函館市弁天町15-15 。
◇電話:0138-22-0340。


箱館高田屋嘉兵衛(かへえ)資料館
 北前船によって函館を繁栄に導いた豪商・高田屋嘉兵衛の足跡を紹介・展示する資料館。箱館発展の恩人と称される淡路島出身の豪商。


 ベイエリアの一角に建つ箱館高田屋嘉兵衛資料館は、私設の資料展示館として1986年(昭和61年)に開館され、箱館(現在の函館)〜大坂(現在の大阪)を航路としていた北前船にまつわる品々を中心に、約500点が展示されている。資料館は、1903(明治36)年に建造された1号館と、1923年(大正12年)に建造された2号館の2棟からなる。高田屋嘉兵衛の像(住所:函館市宝来町9 。電話:0138-23-5440)。
◇住所:〒040-0053 函館市末広町13-22 。
◇電話:0138-27-5226。

函館朝市
 JR函館駅西口に軒を連ねる市場。1万坪(3ha)の広さ。出店数は約250店舗。 蟹や鮭をはじめ海産物や農園からの直売品など、北海道ならではの鮮度の高い商品を販売。鮮度抜群の海鮮丼などが味わえる食堂もある。
◇住所:〒040-0063 函館市若松町9-19。
◇電話:0138-22-7981。
◇営業時間:年中無休。1〜4月6:00〜14:00過ぎ。5〜12月5:00〜14:00過ぎ。
(いずれも店舗ごとに異なる)。
◇駐車場:約350台(朝市駐車場と周辺含む)。
◇駐車料金:20分100円(連合会加盟店で2,200円以上利用で60分無料サービス)。

JR函館駅(2013年4月撮影)

函館朝市(2013年4月撮影)

はこだて自由市場
 市電新川町電停そばにある。函館駅前の繁華街と松風町、新川町と続く住宅地の中央部に位置する『はこだて自由市場』は、函館市民の買物市場。鮮魚、青果、乾物など市民の食卓を飾る生鮮品を扱うお店が軒を連ねる。毎月8日・18日・28日は特売日。
◇住所:〒040-0032 函館市新川町1-2。
◇電話:0138-27-2200。

金森美術館
 1911年(明治44年)建築の船具店の建築物を利用し、クリスタル芸術のバカラコレクションを展示している。
◇住所:函館市広末町22-17。
◇電話:0138-22-5010。
◇時間:10:00〜18:00。
◇入館料:一般・大学生400円、高校・中学生300円、小学生200円。
◇休館日:毎週火曜日。

湯の川温泉
 湯の川温泉(ゆのかわおんせん)は、函館市湯川町にある温泉。「函館の奥座敷」といわれる。約360年ほど前に発見された道内でも歴史のある温泉。泉質は、だれにも親しまれる無色透明の食塩泉。
◇住所:〒042-0932 函館市湯川町。
◇電話:0138-57-8988。

立待岬
 函館山の南東に位置する。津軽海峡につきでた断崖上にあるため展望が良く、天気の良い日には下北半島を望むことができ、また夜には津軽海峡上のイカ釣り漁船に漁火が見られ、付近には与謝野鉄幹・晶子の歌碑も設置され、函館の観光スポットとなっている。


 岬への取り付け道路は車一台分程度の幅である。車を利用しない観光客は函館市電谷地頭停留所から登り坂を20分程度上って岬に至るが、この坂の途中の墓地の一角に、石川啄木及びその一族の墓がある。啄木は、2年弱に及ぶ北海道での放浪生活の第一歩を函館の青柳町で記しており、死後、左手に啄木の好んだ大森浜を望むこの地に、友人である宮崎郁雨らの手によって建てられたものである。墓碑には、歌集「一握の砂」に収められた「東海の小島の礒の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」が刻まれている。この墓の隣には、宮崎郁雨と砂山影二の歌碑が建つ。(jawp)
◇住所:函館市住吉町。
◇電話:0138-21-3323。

啄木小公園
 歌人・石川啄木が愛した大森浜を一望する小公園。彫刻家・本郷新の啄木座像がある。
◇住所:〒040-0022 函館市日乃出町24-11。
◇電話:0138-21-3323。

(左)啄木小公園 (右)立待岬(2006年8月撮影)

金森赤レンガ倉庫
 金森赤レンガ倉庫は、函館市にある赤レンガ倉庫群の名称。金森商船株式会社が管理・運営を行う。大分県出身の実業家、渡邉熊四郎が初代となり明治時代に創設した「金森洋物店」が起源である。現在はショッピングモールやビアホール、レストランが入居する。
◇住所:函館市末広町14-12。
◇電話:0138-27-5530。

函館西波止場
 「港町」をキーワードに様々な店舗が集合したショッピングゾーン。
◇住所:函館市末広町24-6。
◇電話:0138-24-8108。

(左)金森赤レンガ倉庫群 (右)函館西波止場(2006年8月撮影)

谷地頭温泉
 谷地頭温泉(やちがしらおんせん)は、函館市谷地頭町にある温泉。ナトリウム - 塩化物泉(中性高張性高温泉) 源泉温度 65.1℃、pH 6.4(中性)、湧出量 毎分330リットル。淡黄色濁、強カン味、無臭。[1]源泉は湯船で茶褐色を呈する。函館山の東側山麓に、函館市営の日帰り入浴施設「谷地頭温泉」が存在する。広い内風呂と露天風呂を備え、全浴槽源泉掛け流しである。
◇住所:函館市谷地頭町20-7。
◇電話:0138-22-8371。

市営谷地頭温泉(2018年8月撮影)

◆函館市内の路面電車
 1913年(大正2年)6月29日、ハイカラ好きな函館の街の人々の声によって、北海道初の路面電車が函館に誕生した。それからちょうど100年。これまで、たくさんの人々の想いや笑顔を乗せて走り続けてきた。函館の路面電車には、そんな人々の歴史がたくさんつまっている。2001年10月22日、札幌市の路面電車とともに函館市の路面電車が「北海道遺産」に選定される。

函館市内の路面電車(2011年8月撮影)

旧戸井線アーチ橋(汐首陸橋)
 函館市内から国道278号線(下海岸線)を旧戸井町に向かう途中、汐首灯台下の山の中腹に、コンクリート造りの大きなアーチ橋を見ることができる。


 一度も列車が走らなかった幻の鉄道「戸井線」の跡である。1936年(昭和11年)に着工された戸井線は、五稜郭駅から戸井駅までの29.2kmを結ぶ予定であった。津軽海峡の防備のために建設された汐首岬砲台への物資輸送や、青函連絡船の輸送距離を短絡するため、戸井から津軽海峡を隔てた青森県の大間まで連絡船を運航し、大間から先は大間線(大間〜大畑間、未完成)に接続するという計画があったものの、1942年(昭和17年)に戦局悪化のためわずか2.8kmを残して工事は中断。五稜郭駅から湯の川付近までの線路が敷かれ、湯の川から先の区間も戸井までの路盤や橋梁がほぼ9割方完成した状態で廃線となった。この特徴的なアーチ橋は、戦時下ということもあり、資材節約のために鉄筋を使用していない。
◇住所:函館市汐首町。
◇電話:0138-23-5440。


旧戸井線アーチ橋(2021年10月撮影)

恵山
 恵山は標高618mの活火山。高山植物の群生地としても有名。5月下旬から6月初め、60万本ともいわれるエゾヤマツツジやサラサドウダンツツジ等の開花に山裾は真紅に染まり、秋には全山が色鮮やかに紅葉し、見る者を魅了する。
◇住所:函館市柏野町。
◇電話:0138-85-2336 。

恵山(2003年10月撮影)

道の駅・なとわ・えさん
 「なとわ」とは、道南地方の方言で「あなたとわたし」の意味。広域的観光ルートの拠点づくりとして国道278号沿いの海浜公園に建設された道の駅。 海辺の景観に配慮した施設は、木造が中心で訪れた人たちにやすらぎを与えてくれる。津軽海峡を一望できる施設の屋上へも車椅子で昇ることができる。


水無海浜(みずなしかいひん)温泉(露天風呂)
 潮の干満で入浴できる露天の温泉で、全国的に珍しい渚の秘湯。活火山恵山(618m)の裾野に広がる恵山岬の入り江から湧き出す。
◇住所:函館市恵山岬町100。
◇電話:0138-86-2111。
◇泉質:ナトリウム塩化物・硫酸塩泉(低張性中性高温泉)。
◇泉温:約50度C。
◇効能:神経痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・慢性皮膚病・動脈硬化症など。

水無海浜温泉(露天風呂)2013年4月撮影

南茅部温泉郷・川汲(かっくみ)温泉旅館
 南茅部町史によると、寛保年間(18世紀初頭)には開湯していたとされる。文化12年記録の額が、当時の鶴の湯(川汲温泉ホテルの前身)の薬師堂にあったと言うことが、菊地重賢によって明治5年に確認されている。この時期から湯治場として人に知られていたということが史料上確認されている。


 川汲山中において鶴が湯浴みをしておのが傷を癒したという開湯伝説がある。現川汲温泉ホテルのあるところに薬師堂がありその効能に対して信仰も行われ、また開湯伝説に因んで「鶴の湯」と称されていたという古い伝統を持つ。最上徳内による蝦夷草紙においても、寛政年間(18世紀末)には近隣の磯谷、鹿部、留の湯などと並び温泉として記録されている。18世紀末の弘化年間に当地を訪れた松浦武四郎の蝦夷日誌の記録に因れば、「温泉壷一つ是を引亦境となし浴さしむ。甚熱湯也、水七分湯三分位也、硫黄の気あり、温泉小屋壷一つ滝一口こしらへたり長屋、七局二切たり渓に枕して風景よろし、(云々)」とある。1829年(文政12年)、ここで湯守としていた弁吉より、函館の能登谷治兵衛が温泉地および権利を譲り受け、湯治場とした。幕末期には、旧幕府軍の土方歳三隊がここに逗留したという記録もある。
 「鶴の湯」は、1898年(明治31年)から山中旅館として営業がおこなわれ、1970年(昭和45年)には川汲温泉ホテルとして大改築をおこなった。一方、対岸の明林荘の由来は、川汲川の河底から温泉が湧出する場所(現明林荘浴場)があり、地元の山仕事人が石で囲んで入浴していたところを昭和2年に源泉を引湯し、川汲市街に「芽の湯」が開業した。その後、同館は函館の海鮮業者に渡り、戦時中はほぼ廃業状態になった。戦後、湯元を引き継いだ佐藤源三郎夫妻のほぼ手作業に近い復興の努力により、1953年(昭和28年)、現在の明林荘の場所にあたる、川底の湯元そばに観光第一旅館「明林荘」が創業された。明林荘は現在もなお創業当時の面影を残し、よく手入れされた木々により、紅葉の名所として知られる。明林荘は近年水害によって同館の浴場が壊滅的な打撃を受けたが、地域や全国のファンの援助により復興している。(jawp)
◇住所:〒041-1611 函館市川汲町2019。
◇電話:090-7652-8952。
◇泉質:明ばん泉(無色透明泉)。
◇適応症:神経痛、筋肉痛、関節痛、慢性皮膚病、疲労回復など。
◇入浴時間:08:00〜21:00。日帰り入浴は無休。


川汲温泉(2013年4月撮影)

箱館戦争・旧幕榎本軍土方歳三隊の戦いと野営地
 明治元年旧暦10月20日噴火湾鷲の木に上陸した旧幕榎本軍のうち、京都新選組の副長だった土方歳三は、額兵隊、陸軍隊など500余名の大隊長として鷲の木から鹿部、川汲を回り、五稜郭へ進撃するために、この温泉場に着いた時、峠に布陣していた箱館府兵隊と戦い、これを撃退した後、峠に警備隊を残して引き返し本隊をこの温泉場に野営宿泊させた。土方歳三はじめ額兵隊長星恂太郎、陸軍隊長春日左衛門ほかの幹部たちは、当時、鶴の湯・山中旅館といわれたこのホテルに泊まり、入浴し、野営の兵士たちも交代で入浴、雪中行軍の疲労を癒した後、翌朝、五稜郭へ向け出発した。時に1868年(明治元年)旧暦10月24日、当時の旧道は下の川向いに残っている。(現地の立て看板から)
                    1983年(昭和58年)10月10日 函館維新の会
◇住所:函館市川汲町2019。
◇電話:0138-23-5440。

箱館船倉川汲戦戦死者慰霊碑
(2013年4月撮影)

函館市縄文文化交流センター(2011年10月1日オープン)
 北海道初の国宝「中空土偶(ちゅうくうどぐう))」を常設展示し、「道の駅」縄文ろまん南かやべ機能を併せもつ博物館「縄文文化交流センター」。南茅部縄文遺跡群を中心に、函館市の縄文遺跡から出土した、さまざまな土器や石器などの遺物を数多く展示している。また、7種類の体験メニューを用意している。
◇住所:函館市臼尻町551-1。
◇電話:0138-25-2030。
◇開館時間:9:00〜17:00(4/1〜10/31)〜16:30(11/1〜3/31)。
◇利用料金:一般300円、学生・生徒・児童150円。
◇駐車場:無料駐車スペースあり(函館市縄文文化交流センター、道の駅・縄文ロマン・南かやべ共用)。
◇休館日:毎週月曜(祝翌日)、最終金曜、年末年始。

函館市縄文文化交流センター(2021年10月撮影)

国宝「中空土偶」
 ⇒函館市尾札部町の著保内野遺跡から出土した縄文時代後期の中空土偶は、北海道発の国宝指定を受けている。高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1.745gで、現存する中空土偶としては国内最大級の大きさである。縄文文化交流センターで常設展示されている。


 1975年(昭和50年)の夏、農作業をしていた地元の主婦によって偶然発見された。中が空洞に作られた「中空土偶」に属している。また、「南茅部の中空土偶」という意味から「茅空(かっくう)」の愛称でも呼ばれている。中空土偶としては国内最大で、造形的にも優れていることから1979年(昭和54年)に重要文化財に指定され、その後、2006年(平成18年)に実施した出土地点の発掘調査を経て、2007年(平成 19年)6月8日に北海道発の国宝に指定された。
 南茅部は、資源豊かな海と山に囲まれ、大地には数多くの小河川があるなど、縄文の人々が生活し、文化を発展させるうえで、絶好の自然環境に恵まれていた。そのため、この地域には縄文時代早期から晩期に至る約7,000年間、 連綿と縄文文化が栄えていた。およそ90箇所ある遺跡の中でも、垣ノ烏遺跡と大船遺跡は拠点的集落として注目され、国の史跡に指定されている。南茅部地域で発見された遺物の中には、国内最大級の「中空土偶」をはじめ、約9,000年前の漆の副葬品や足型付土版など、学術的にも極めて重要なものがあり、囲内の縄文遺跡の約25%が集中する北海道と北東北3県では、縄文遺跡鮮の世界文化遺産登録を進める計画も始まっている。
 著保内野遺跡から出土したこの土偶は、内部が空洞で、頭部から足先まで全身が薄く精巧につくられており、文様構成にも優れている。中空土偶としては最大で、遺存状態も良好である。縄文時代後期後半(約3,500年前)の墓から出土したことがわかっている。縄文時代の信仰や祭祀の実態や精神文化を明らかにする上で欠かせない資料であり、加えて土偶造形の到達点を示すものとして極めて重要であることから、2007年(平成19年)に北海道唯一の国宝に指定された。
◇展示室1 厳しい自然環境の変化に適応しながら成熟・繁栄した縄文文化は、1万年以上もの長い間継続した世界にも類をみない日本特有の文化である。ここからみなさまを縄文の世界へと誘う。
◇展示室2 土器や石器・骨角器などの多種多様な道具類、竪穴住居や貯蔵穴などには、縄文人の知恵や工夫が凝縮されている。それらから、日々たくましく生きた縄文人のくらしぶりが浮かび上がってくる。
◇展示室3 自然とともに生きていく中で形成された精神性もまた、縄文文化を象徴している。足形付土版や土偶といった遺物からは、循環と再生を信じた縄文人のこころを感じ取ることができるであろう。
◇展示室4 著保内野遺跡から出土したこの中空土偶は、内部が空洞で、頭部から脚先まで全身が薄く精巧につくられており、文様構成にも優れている。北海道初の「国宝」に指定された「土偶」を常設展示している。


国宝「中空土偶」(2021年10月撮影)

道の駅・縄文ロマン・南かやべ
 函館市南茅部地域は、資源豊かな海と山に囲まれ、縄文時代早期から晩期にかけて約7,000年もの間、連綿と縄文文化が栄えていました。発掘された遺跡からは、当時の人々の暮らしを物語る貴重な遺物が多数出土されている。国道278号バイパスに隣接する道の駅・縄文ロマン・南かやべは、国宝「中空土偶」をはじめ地域の貴重な縄文文化遺産を展示公開する「函館市縄文文化交流センター」をメイン施設とし、国内唯一の国宝のある「道の駅」として地域の魅力を発信している。


世界文化遺産・大船遺跡
 史跡・大船遺跡は、紀元前3,500〜紀元前2,000年(5,500〜4,000年前)の約1,500年前にわたって営まれた、太平洋をのぞむ段丘上に立地する縄文時代の拠点集落である。


 ほかの遺跡に比べて、床を深く掘り込んだ竪穴建物が特徴的で、中には深さ2mを超える大型のものも見つかっている。1996年以降の発掘調査の結果、沿岸地域における生業と精神文化を示す重要な遺跡であることが証明され、2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。2021年(平成23年)7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の一つとして、世界遺産に登録された。
 太平洋に面した中期の大規模な集落遺跡。これまでに100棟以上の竪穴建物跡、盛土遺構、土坑群等が確認され、深さ2mを超える大型の建物が特徴的。大量の土器等のほか、クジラ、オットセイ、クリなどの動植物遺体が出土し、当時の生活、生業を知るうえで重要である。
◇住所:〒041-1622 函館市大船町575-1(管理棟)。
◇電話:0138-25-2030(函館市縄文文化交流センター)。
◇許容時間:4月〜10月(9:00〜17:00)、11月から3月(9:00〜16:00)
◇休日:12月29日から1月3日。
◇利用料:無料。
◇駐車場:無料駐車スペースあり。


大船遺跡埋蔵文化財展示館と大船遺跡・竪穴住居跡(2023年5月撮影)

世界文化遺産・垣ノ島遺跡
 史跡・垣ノ島遺跡は、紀元前7,000〜紀元前1,000年(9,000〜3,000年前)の約6,000年間という長期にわたる定住を示す、太平洋をのぞむ段丘上に立地する縄文時代の集落跡である。


 その中でも定住開始期の段階で、すでに居住域と墓域で構成される集落がつくられていたことがわかっている。さらに国内最大級の盛り土遺構や、墓に副葬された足形付土版など、当時の高い技術や精神性を示す貴重な遺構や遺物が多く見つかっており、2011年(平成23年)に国の史跡に指定された。2021年(令和3年)7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の一つとして、世界遺産に登録された。
 縄文時代早期から後期(約9,000年前〜約3,000年前)にかけての長期間にわたり、縄文人の生活の痕跡が残された遺跡である。各期による台地利用の変遷を示す数多くの竪穴住居跡や墓に加え、国内最大級規模の盛り土遺構もみつかっている。 遺物では土器や石器といった生活道具のほか、幼児の足形が付けられた足形付土版や漆塗りの注口土器、装飾品などこれまで20万点以上の遺物が出土している。保存状態も良好で、2011年(平成23年)に国の史跡に指定された。大船遺跡同様に東日本の縄文文化を代表する重要な遺跡である。 2021年(令和3年)7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の一つとして世界遺産登録が決定した。
◇住所:〒041-1613 函館市臼尻町551-1。
◇電話:0138-25-2030。
◇許容時間:4月〜10月(9:00〜17:00)、11月から3月(9:00〜16:00)
◇休日:12月29日から1月3日。
◇利用料:無料。
◇駐車場:無料駐車スペースあり(函館市縄文文化交流センター、道の駅・縄文ロマン・南かやべ共用)。


世界文化遺産・垣ノ島遺跡(2021年10月撮影)

◇竪穴住居跡 竪穴住居は、縄文時代につくられた住居の形態である。地面を円形や方形に掘って床とし、柱を立て骨組みをつくり、その上に土やヨシなどで屋根をふいた建物で、床には炉が設けられている。大船遺跡の竪穴住居は規模が大きく、長さ8〜11m、深さ2m以上の住居が見つかっている。炉は、床そのものを火床としたものから土器を埋めたもの、石で囲んで炉へと変化がみられる。この復元住居では、発掘調査の成果をもとに、クリの木を使い、竪穴住居の骨組みを再現している。


函館上空を飛翔する渡り鳥に感嘆!

 10月初め、世界文化遺産・垣ノ島遺跡の撮影後、国道を走らせていると偶然にも鳥の甲高い声が耳に飛び込んできた。上空を見上げると渡り鳥だ。それも今まで目にしたこともないおびただしい数の渡り鳥だ。すぐに車を脇に寄せて撮影に入った。隊列を組んで飛翔する姿が、こんなにも美しいものか。望遠も入れ、なんとかカメラに収めることができた。そのうちの3枚を掲載した。それなりの写真が撮れたと思っている。

函館上空を飛翔する渡り鳥(2021年10月撮影)

ラッキーピエロベイエリア本店
 ここがラッキーピエロの1号店、「ベイエリア本店」。ここの店内には、プランコの席や木馬がある。今は函館を中心に17店舗。バーガーが主体。
◇住所:函館市大森町33-1。
◇電話: 0138-27-3313。
◇営業時間:平日:11:00〜15:00、土日祝日:11:00〜15:30。

ラッキーピエロベイエリア本店

◆らーめん高橋屋
 <味噌らーめん>味噌の味わいと、トロトロになるまで炒めた玉ねぎとねぎの食感が合わさり、野菜が美味しく食べれる味噌らーめん。<和風しょうゆらーめん>じっくり煮込んだスープと魚介スープを合わせたのWスープの和風しょうゆらーめん、奥深い風味と味を堪能できます。<塩らーめん>全国的に有名な函館塩らーめん、高橋屋では塩らーめんとトン塩らーめんの2種類が楽しめる。
◇住所:函館市大森町33-1。
◇電話:0138-27-3313 。

らーめん高橋屋





 北斗市(ほくとし)は、上磯郡上磯町と亀田郡大野町が2006年(平成18年)2月1日に合併して誕生した。渡島地方では旧亀田市以来3番目の市で、函館市に次いで人口の多い自治体である。基幹産業は農業(稲作、畑作)、漁業の第一次産業。近年は函館市に近い東部地域が工業地帯として開発される。 また函館のベッドタウンとして人口の流入も多く大規模商業施設も立地している。 工業では無尽蔵とも言われる「石灰石の宝庫」峩朗鉱山を持ち、それを原料としたセメントの製造などが100年以上前より行われている。
北斗市観光協会


<旧上磯町>
 上磯町(かみいそちょう)は、北海道渡島支庁中部にあった町。町名の由来は函館市の西部(上)の海岸(磯)に位置していたことからとされる。 渡島支庁では函館市に次いで人口の多かった自治体。上磯町・大野町による協議の結果、合併し市制を施行することに決まった。新市名は「北斗市」。2005年2月28日に合併調印式を行い2006年2月1日に合併された。なお、上磯町役場は北斗市役所の所在地となっている。

<旧大野町>
 標高100〜800mに及び、北部の山岳地帯を除いては丘陵状の台地で、耕地あるいは集落が錯綜して複雑な地形をなしている。山岳地帯に源を発する河川が概ね南に注ぎ、その流域に水田が開ける。気候は温暖で、年平均気温15〜18度Cを示す内陸型気候。古代末期には、大神氏の本流たる大野氏の活躍の舞台として、また中世には大野荘の展開する地域として、豊後の国の政治経済の面で大きな役割を果たしたところ。近年では、県下でも最も遣跡が集中するところとして、先史考古学研究のメッカとなっている。1907年(明治40年)に5カ村が合併して東大野村を発足。1928年(昭和3年)8月に町制を施行して、大野町となった。豊かな自然環境に恵まれ、多数の史跡等見るベきものも多いが、特に鳥帽子(えぼし)岳では春にぼたん桜まつりが開催され、大分百景のひとつとなっている。また、夏には師田原ダム周辺での湖面火まつりやふるさと体験村での夏まつり、秋には沈堕の滝公園での雪舟まつりなど、年間を通して多彩なイベントが開催されている。


旧上磯町からの函館山(2006年11月撮影)

◆新函館北斗駅
 2016年(平成28年)3月、北海道新幹線開業により渡島大野駅から新函館北斗駅に改称され、函館駅方面へのアクセス駅となり、特急「北斗」「スーパー北斗」が停車して新幹線と接続するほか、函館駅からの新幹線アクセス列車「はこだてライナー」も接続する。
◇住所:〒041-1242 北斗市市渡1丁目1-1。
◇電話:0138-83-5057。

新函館北斗駅(2016年4月撮影)

トラピスト修道院
 正式名は、厳律シトー会 灯台の聖母大修道院という。1896年(明治29年)フランスから数名の修道士たちが木造の修道院を建てた。日本で、最初の男子修道院である。トラピストの生活は、祈り、労働、読書(聖なる聖書)で、その一日は、祈りにより始まり祈りによって終わる。創立以来、畑の開拓、農耕、牧畜、酪農に力をいれ、ホルスタイン乳牛の輸入をし、その普及は北海道の酪農振興に多大な貢献をした。1903年(明治36年)、木造の修道院は焼失した。現在の2階建て本館は、1907年(明治40年)着手し、翌年完成した。また聖堂は、1974年(昭和49年)に建てられたもの。トラピストでつくられるバタークッキーは、今では北海道を代表する特産品として、全国に広がり、上磯町が誇る一村一品である。日々絶えることなく鳴り響くアンジェラスの鐘、黙々と祈りと労働を持って神に仕える修道士の姿、ここには異国に見る聖地の情景があり、訪れる人々の心を和らげる。見学は事前に予約が必要。
◇住所:〒049-0283 北斗市三ツ石392。
◇電話:0138-75-2139。

トラピスト修道院(2006年11月撮影)

トラピスト修道院(2006年11月撮影)

◆厳律シトー会 灯台の聖母大修道院
 明治29年(1896)、「祈祷と労働とをもって直接、神に奉仕し、自己の成聖と社会の幸福」を目的とし、日本で最初の男子修道院であるこの修道院が建てられた。


 最初の建物は白ペンキ塗りの細長い木造建築であった。修道院からは日に何度も鐘の音が流れてくることから、村民たちは修道院のことを「ガンガン寺」と呼んでいた。当初の修道院はフランス人5名、オランダ人2名、カナダ人とイタリア人1名の9名であった。創立当時は荒地であったこの地を開拓し、農耕・牧畜・酪農に力を入れた。明治35年(1902)にオランダからホルスタインの種牛を輸入し、増殖した乳牛はのちに南北海道一帯に広がっていった。南北海道の原点ともいえる。
 現在の建物は最初の修道院が明治36年(1903)に焼失したため、明治41年(1908)に建てられたものである。このときに使われたレンガは野幌で作られて運ばれていたが、輸送が間に合わなくなった。そのため現地生産とあり、現在の石別中学校が建っているところから良質の粘土がとれたため、煉瓦を作った伝えられている。(現地の立て看板から)


厳律シトー会 

 厳律(げんりつ)シトー会(ラテン語: Ordo Cisterciensis Strictioris Observantiae、略称: O.C.S.O.)は、ヌルシアのベネディクトゥスの作った会則を遵守するカトリックの観想修道会。司教の行政干渉を受けない免属修道会の特権を受けている。トラピスト会(Trappists)とも言う。(jaup)

◆岡田普理衛(D.ジュラール・プゥイエ)
 初代修院長。安政6年(1859)にフランスのノルマンディー県にて出生し、哲学・物理・科学を学んだ後、大神学校で神学を修めた。その後、自ら志願して明治30年(1897)に日本に渡来した。明治33年(1900)日本人信者であった大工の岡田初太郎の養子となり、岡田普理衛に改名した。
 性格は喜怒哀楽を表に出さないが豪快であり、質実剛健で行動力が盛んで、トラピスト修道院での労働も頑丈な体で二人分の仕事をこなしたと言われている。地元の人々は、「見慣れない外国人が重罪人ではないか」と最初は噂し、修道院の作物を荒らしたりしたが、岡田普理衛は病人の介護方法を教えたり、相談に乗ったりと徐々に地元の人々からの信頼を得て、親しまれるようになった。
 大正14年(1925)には福岡県にトラピスト分院を設立するため、現地に出向し、昭和20年(1945)、この修道院に帰ってきた。そして、昭和22年(1947)7月1日に87歳で死去した。(現地の立て看板から)

ルルドの洞窟
 聖母出現の伝説の地であり、カトリックの世界的な巡礼地として知られるフランスの聖地に、ルルドの洞窟がある。この聖母出現を記念し、修道院の裏にある丸山洞窟に聖母像が建てられている。
◇住所:北斗市三ツ石392。
◇電話:0138-75-2139。

ルルドとは


 ルルドは、南フランスのピレネー山脈の麓にある洞窟である。1858年、この近くに住んでいた14歳の少女、ベルナデッタ・スビルーの前に、18回にわたって、聖母マリアがお現われになった。聖母は、少女に祈りと犠牲を捧げるようにすすめられた。少女が聖母の言われたとおり地面を手で掘ると、そこから泉が湧き出し、その水で多くの病人が癒やされた。
 今日、ルルドは世界中から多くの人々が集まる巡礼地となっている。ここにあるルルドの洞窟もそれを模して築かれた物である。
 ベルナデッタは、後に修道女となり、1879年、35歳で帰天した。ローマ法王ピオ11世は、1933年、ベルナデッタを聖人のくらいにあげた。
      (厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院の現地の標識から)


男爵資料館
 男爵いもの生みの親・川田龍吉男の農場跡地を整備した資料館で、大正時代に建てられたキング型牛舎の中には、当時の農機具など貴重な資料が展示されている。日本にただ一つ現存する木製サイロなど、ここでしか見られない資料もある。レストラン、売店、駐車場が完備。
◇住所:〒049-0282 北斗市当別4丁目3-1。
◇電話:0138-75-2894。
◇営業時間:9:00〜17:00。
◇休館日:期間中は無休(12〜2月閉館)。

男爵資料館(1005年10年撮影)

史跡松前藩戸切地陣屋跡
 西洋の四綾の堡塁を擁した陣屋で、蝦夷地防備のために松前藩が築いた。箱舘戦争では旧幕府軍に攻められ、ここに駐屯していた松前藩兵軍は自ら火をかけ、撤退した。陣屋への道は桜の名称になっていて、春には満開の桜のトンネルとなる。
◇住所:〒049-0158 北斗市野崎66。
◇電話:0138-73-3111 。

きじひき高原パノラマ展望台
 標高560m。屋内でゆっくりと景観を楽しむことができる展望施設があり、南には函館山や函館市内、北には駒ヶ岳や大沼、天気がよければ羊蹄山を見ることもできる。さらにタイミングが合えば一面に広がる雲海に遭遇することも。
◇住所:〒041-1244 北斗市村山174。
◇期間:4月下旬から11月初旬。
◇営業時間:08:00〜20:00。
◇駐車場:あり。

きじひき高原から箱館山を望む(2021年10月撮影)

きじひき高原から駒ケ岳と大沼・小沼を望む(2005年10月撮影)





 江戸時代の情緒を残す国道5号線の「赤松街道」と北海道有数のリゾートゾーン「大沼国定公園」のある町。大沼湖、小沼湖、じゅんさい沼の3つの湖沼と、標高1,131mの秀峰「駒ケ岳}を中心とする森と湖の囲まれた自然公園。湖畔に「大沼国際セミナーハウス」があり、国際会議の開催等、コンベンション誘致が推進されている。9月にはボートをこぎながら湖上に浮かぶ島を探す「大沼ボートオリエンテーリング」などが行われる。
七飯大沼国際観光コンベンション協会

赤松街道
 江戸末期の1858年(安政5年)に当時の箱館奉行組頭、栗本瀬兵衛が佐渡から赤松の種子を取り寄せ大きくなった苗は五稜郭周辺に植樹された。その後、1872年(明治9年)に明治天皇が七重勧業課試験場に行幸されたのを記念して相当数が札幌本道(国道5号線)沿いに移植された。これが赤松並木の始まり。


 1986(昭和61年)に「日本の道百選」に選ばれ、1990年(平成2年)には道の日の愛称募集で「赤松街道」と名付けられている。1996年(平成8年)には、歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的価値を持つ道路であることを示す「歴史国道」にも併せて選定された。赤松街道は函館市桔梗町〜七飯町字峠下までの14.3kmであるが、現在のような保護が行われる前の開発により数が少なくなっており、保存されている樹木数が多く最も美しいのは七飯町の大中山から鳴川町までの約2kmの区間となっている。
 初夏から秋にかけてが一番美しく、その時期は道路が緑のトンネルとなるが、害虫駆除のため「こもまき」が行われた赤松並木も風情があり、すばらしい景観が形成される。赤松は本来、青森県が天然分布の北限とされているが、北海道の厳しい自然条件下で成育が難しいとされながらも、中には樹齢130年余に達しているものもある。その北海道開拓を物語る歴史的な松並木も年数が経過して老齢化が進み、排気ガスの影響や倒木・枯損が激しいことから、赤松並木を母樹とした後継樹の育成・補植を行って、保護育成が進められている。こもまき…冬が訪れる前に樹木にわらを巻き付け、害虫をわらに集めて越冬させ、春先(4〜5月)にわらごと焼却する、薬剤を使わない害虫駆除。
◇住所:亀田郡七飯町本町。
◇電話:0138-65-2517。


赤松街道(2013年9月撮影)

◆土木學會選奨土木遺産―札幌本道赤松並木
 この赤松並木は、1873年(明治6年)我が国最初の本格的な西洋式馬車道札幌本道(現一般国道5号)完成の際に移植されたもので、日本近代道路史と北海道農業開拓史における歴史的遺産である。土木學會は、その歴史的土木施設としての高い価値に照らし、2006年(平成18年)11月18日土木學會選奨土木遺産に認定した。(現地の立て看板から)

西大沼温泉(大沼温泉)
 大沼国定公園小沼湖畔北側に位置する。大沼温泉として大沼・小沼の湖畔に点在する温泉群を称していたこともあるが、現在は東大沼温泉に対して西大沼温泉と区別されている。1930年代(昭和初期)に「百花園」があり、1941年(昭和16年)に、その泉源を再ボーリングし「山水ホテル」として発足したのが始まりで、西大沼温泉として現在に至っている。泉質は単純泉で、外傷、湿疹、神経痛、疲労回復などに効能がある。現在では、「温泉旅館 山水」、「函館大沼プリンスホテル」、「大沼簡易保険保養センター(かんぽの宿大沼)」の3件が営業している。
◇住所:〒041-1355 亀田郡七飯町西大沼温泉。
◇電話:0138-67-2170。

東大沼温泉
 大沼国定公園内の大沼湖畔北東側に位置し、JR銚子口駅から北西へ約1.8km、大沼国定公園中心部から北へ約8.5kmにある。もともと大沼周辺には多くの温泉が点在し、亀の湯、鳳の湯、留の湯、峠下には熊の湯などの温泉が、1856年(安政3年)の駒ヶ岳大噴火の際に留の湯の湯治客が被災したという記録があるところから、最も古い歴史をもっているのはこの東大沼温泉の「留の湯温泉」だと思われる。 「留の湯」として開設したのは1876年(明治9年)、優れた温泉として多くの入湯客が訪れている。(2020年=令和2年9月末に終了)
◇住所:〒041-1351 亀田郡七飯町東大沼31。
◇電話:0138-67-2170。

城岱(しろたい)牧場
 この牧場はJR七飯駅より北東へ約10km、JR大沼公園駅より南東へ約12kmに位置し、大正9年に村有牧野・野草放牧地として始まったもので、現在は160haを草地造成し町営牧場として利用している。5月〜10月は最低気温5度、最高気温22度と真夏でも涼しく快適な環境。初雪が10月下旬、融雪が4月下旬〜5月上旬で、6月〜7月は海からの北東の風により濃霧が多発することがある。牧場の中を通過する「城岱スカイライン」は七飯町中心部と観光地である大沼地区を結ぶ道路で、初夏の新緑から秋の紅葉までを楽しむことができる。
◇住所:〒041-1104 亀田郡七飯町字上藤城。
◇電話:0138-67-2156。

城岱スカイライン
 函館新道七飯本町ICから、七飯岳方面に至る城岱スカイラインは、七飯町中心市街地より七飯町軍川・大沼地区に至る復員7.5m・総延長約14kmのアスファルト舗装がされたワインディングロード。七飯岳の麓を抜けスカイライン頂上付近に無料の駐車場があり眼下に広がる大野平野をはじめ駒ケ岳などが一望できる。また、夜には函館の裏夜景を見ることができる絶好の観光スポットでもある。道路は峠道特有の急勾配な上り・下り坂が連続する。なお、例年11月中旬より4月下旬までの冬期間は通行止めとなる。
◇住所:〒041-1104 亀田郡七飯町字上藤城。
◇電話:0138-65-2517。

「千の風になって」誕生秘話


「ここに来なければ歌は出来なかった」。
新井満さんにとって大沼は特別の場所となりました。
誕生までの経過とその後の感動的な出来事を紹介します。

「千の風になって」名曲誕生の地・大沼国定公園(2013年9月)

<命は終わらない>

 「千の風になって」が生まれるきっかけとなったのは1998(平成10)年、新井さんの幼なじみが妻を亡くし、親しかった人が中心となって作った追悼文集に紹介されていた、作者不祥の西洋の詩「a thousand winds」を目にしたことです。「命は終わらない。星や風や鳥など様々なものに再生してあなたのそばにいる。だから墓の前で嘆き悲しむな」。死者が生者をなぐさめるという内容に感銘を受けた新井さんは、この詩にメロディーをつけて幼なじみに贈ろうと思いました。ところが、何度やってもうまく行かず、途中であきらめてしまいました。

<風には姿がある>

 それから2年後の2000年夏。新井さんは恒例の夏休みを大沼ですごし、大沼湖畔を散策していました。大沼に浮かぶ西大島の岸辺に立ち、眼前に広がる雄大な駒ヶ岳と大沼の景色に見とれていると、不思議な形をした風が、森の中からミズナラの葉を揺らし、大きな空に向かって吹き抜けたそうです。「風には、音ばかりか形があることも知り、そこに生き物のような命のざわめきを感じた」と言います。新井さんはその場で「a thousand winds」が思い浮かび、訳詩作曲に取りかか りました。大沼の森に吹く風によって詩の世界観が実感として理解できたことにより、訳詩と作曲は、あっという聞に仕上がったと言います。新井さんは30枚ほどの私家版CDを作製し、その1枚を幼なじみにプレゼントしました。これが全国ヒット につながったわけですが、話はまだ続きがあります。

<九死に一生を得る>

 2004(平成16)年のこと。新井さん一家はいつものように大沼で夏休みを過ごしていました。その最中、記録的な風台風が北海道を直撃。七飯町は大きな被害を受け、新井さんのログハウスも電気やガスが止まり、町に通じる遣はおびただしい倒木によって塞がれ、脱出できなくなりました。 残っていた食糧と水でしのぐこと3日3晩。「もうだめなのではないか」と思い始めた時、七飯町のカーネーシヨ ン農家の人たちが、自分たちの畑が大被害を受けていたにもかかわらず、道をチェーンソーで切り開きながら助けに来てくれました。「涙が出るほど嬉しかった」と新井さんは当時を振り返ります。

<千本のカーネーション>

 その1カ月半後、今度は新潟県で中越地震が発生しました。たまたま佐渡にいて強い揺れを感じた新井さんは、大沼での台風の経験が生々しくよみがえり、七飯町の人々が助けてくれたように、自分も被災者のために何かしたいと思いました。家族会議の結果、被災者の気持を支える「心のパン」、花を贈ることに決めました。台風被害から立ち直った七飯町のカーネーション農家から、新井さん家族はカーネーシヨンを千本買って贈りました。「被災地の人々は花を見て涙を流して喜んでくれたそうです。私たち家族を救ってくれたカーネーシヨン農家の方にも、感謝の気持を少しだけお返しすることができました」と新井さんは語ります。「干の風」は「千のカーネーシヨン」という秘話も生みました。

The Day When the Winds Were Felt

Mr. Arai decided to translate the lyrics of A Thousand Winds and compose music for it when he found the anonymous western poem in a collection of eulogies for his fiend's deceased wife. He thought translating the lyrics into Japanese: adding a melody, recording the song onto a CD and giving it to his friend would comfort the widower. He began working on the translation, but had to give up because he could not produce a satisfactory rendering no matter how hard he tried.
Two years later, Mr. Arai was vacationing with his family at a log cabin by Lake Onuma. While sitting on a bench and looking at the forest, he realized that the wind blowing in the trees rustled leaves and branches, giving it various images and forms. This was when he realized what a thousand winds meant.
Back in Tokyo, Mr. Arai resumed work on the translation of the song's lyrics. This time, he managed to produce a satisfactory version quite quickly. He created some private CD recordings and gave one to his friend as planned. The official CD was released several years later, and went on to become a million-seller.
                               大沼ONUMA
                                                                                                                                                    


道の駅・なないろ・ななえ
 高い天井のセブンスリビングでは、定期的に催事やイベントを開催する予定。また、七飯の食材を楽しむことができるカフェや旅の疲れを癒やす休憩スペースも設備。物販コーナーでは地元の野菜や道南自慢の食材、北海道ならではの定番お土産品もそろっている。


大沼国定公園
 大沼周辺は、明治36年から北海道の道立公園として自然が守られ、公園施設が整備されてきたところで、全国でも最も古い自然公園の1つ。大正4年、4月17日には、三保の松原(静岡県)、耶馬溪(大分県)とともに、新日本三景の1つに選ばれ、昭和32年、各方面からの大沼を国定公園にという昇格運動の後押しを受け、道に要望書を提出した。翌33年7月に、道立 大沼公園は13番目の国定公園の指定を受け、大沼及び駒ケ岳は国の特別保護区域となった。
 大沼という地名は、アイヌ語の「ポロ・ト」からきている。「ポロ」は「大いなる」を意味し、「ト」は「湖沼」や「水溜まり」を意味する。そこで、「大湖」または「大沼」ということになり、「大沼」がとられました。ちなみに、小沼は「ポン・ト」から由来している。



◆駒ケ岳
 大沼国定公園に属する標高1,131mの秀峰・駒ケ岳は、茅部郡森町、茅部郡鹿部町、亀田郡七飯町にまたがり、シーズンになると多くの登山愛好家が訪れる。登山道は比較的なだらかで、噴火湾や羊蹄山などが一望できる。「駒」とは馬のことで、山体が馬の形をしている、雪形に馬の形が出るなどで名付けられている。また、遊具の独楽(こま)の形に由来するという説の山もある。なお、全国に「駒ヶ岳」と呼ばれる山は20カ所ある。

駒ケ岳(2022年4月撮影)


駒ケ岳(2022年4月撮影)

駒ケ岳(2022年4月撮影)

駒ケ岳(2016年4月撮影)

駒ケ岳(2013年9月撮影)

駒ケ岳(2013年9月撮影)

駒ケ岳(2013年9月撮影)

駒ケ岳(2013年4月撮影)

駒ケ岳(2006年8月撮影)

駒ケ岳(2005年10月撮影)

駒ケ岳(2005年10月撮影)

駒ケ岳(2005年4月撮影)

駒ケ岳(2004年11月撮影)

駒ケ岳(2004年11月撮影)

駒ケ岳(2003年10月撮影)

駒ケ岳(2002年4月撮影)

全国に「駒ケ岳」と呼ばれる山はいくつ?

 駒ヶ岳(こまがたけ、こまがだけ)は、山の名称。駒とは馬のこと。山体が馬の形をしている、雪形に馬の形が出るなどで名付けられている。また、遊具の独楽(こま)の形に由来するという説の山もある。東日本に多く、全国に「駒ヶ岳」と呼ばれる山は、20カ所もある。


◆北海道駒ヶ岳(北海道森町・鹿部町・七飯町。標高1,131m。蝦夷駒ヶ岳、渡島駒ヶ岳、渡島富士)。◆大駒ヶ岳(青森県新郷村。標高1,144m。戸来岳の一峰。おおこまがだけ)。◆焼石連峰・駒ヶ岳(岩手県北上市・金ケ崎町。標高1,130m)。◆秋田駒ヶ岳(秋田県仙北市・岩手県雫石町。標高1,637m。駒形山。こまがだけ)。◆藤里駒ヶ岳(秋田県藤里町。標高1,158m。太良駒ヶ岳)。◆山形駒ヶ岳(山形県米沢市・高畠町。標高1,067m。高畠駒ヶ岳)。◆会津駒ヶ岳(福島県檜枝岐村。標高2,133m)。◆赤城駒ヶ岳(群馬県桐生市・前橋市。標高1,685m。赤城山の外輪山の一つ)。◆越生駒ヶ岳(埼玉県越生町。標高369m)。◆箱根駒ヶ岳(神奈川県箱根町。標高1,356m。箱根山の中央火口丘の一つ。駒形山)。◆甲斐駒ヶ岳(山梨県北杜市・長野県伊那市。標高2,967m。白崩山。東駒)。◆木曽駒ヶ岳(長野県木曽町・上松町・宮田村。標高2,956m。西駒)。◆南駒ヶ岳(長野県大桑村・飯島町。標高2,841m)。◆朝日駒ヶ岳(新潟県村上市。標高776m。岩船駒ヶ岳。こまがだけ)。◆越後駒ヶ岳(新潟県南魚沼市。標高2,003m。魚沼駒ヶ岳)。◆頸城駒ヶ岳(新潟県糸魚川市。標高1,487m。海谷駒ヶ岳)。◆下駒ヶ岳(富山県朝日町・新潟県糸魚川市。標高1,241m)。◆越中駒ヶ岳(富山県黒部市・魚津市。標高2,003m)。◆北駒ヶ岳(富山県黒部市・魚津市。標高1,914m。前駒ヶ岳)。◆若狭駒ヶ岳(福井県小浜市・若狭町・滋賀県高島市。標高780m。近江駒ヶ岳)。(jawp)



 森町は、2005年(平成17年)4月1日、森町と砂原町の合併に伴い新設された。 町名の由来はアイヌ語の「オニウシ」の意訳。 北海道内の「町」で、唯一、「ちょう」ではなく「まち」と呼ぶ自治体である。



(旧砂原町)
 渡島半島の南東部に位置し、町の南に町のシンボル駒ケ岳(砂原岳・渡島富士)が雄々しくそびえ、北に噴火湾が広がっている。海岸一帯は細長い平坦地でそのほかは起伏に富んだ丘陵地となり、駒ケ岳に続いている。河川はほとんどなく、数度の噴火による火山灰や火山礫で覆われている。噴火湾に面しているため海洋性気候の影響を受け、北海道で最も温暖な地帯に属している。鬼茅や葭が繁茂していたので「サラキウシ」(鬼茅のある所の意)と呼ばれ、これがサラキ→シャラキ→シャワラと訛り、砂原の文字を当てたといわれている。大昔、砂原の低地一帯は、アイヌの家屋材料として用いられた。砂原町砂崎と室蘭市の江鞆半島地球岬を結ぶ南東部に湾口を開く噴火湾(内浦湾)の美しい景観は素晴らしい。
森観光協会

鳥崎八景
 国道5号線から鳥崎川にそって自然あふれる山間部へ向かうと、そこには美しい渓谷があり、なかでも河口から4〜12kmには原生林の中に八景(1鳥地獄、2屏風岩、3二見ケ滝、4獅子狭間、5虹懸岩、6駒ケ岳ダム、7新鳥崎大橋、8上大滝)を設定している。
◇住所:〒049-2312 茅部郡森町字霞台。
◇電話:01374-7-1286。

濁川温泉郷
 濁川温泉は古くから湯治場として利用されてきた所で、長い歴史を誇る秘湯の里。泉質の種類が多く現在は7件の温泉旅館が営業中。また、地熱を利用した全国で7番目の地熱発電所もあり、その余熱を利用した農業も盛んでトマトやキュウリなどのビニールハウス栽培が行われている。
◇住所:茅部郡森町濁川。
◇電話:01374-7-1284。

オニウシ公園
 道の駅YOU・遊・もりに隣接した駒ヶ岳を一望できる公園。春の桜も美しく、花見客でにぎわう。ちなみに「オニウシ」とはアイヌ語で、「樹木が多くあるところ」の意味で、町名の由来にもなった。
◇住所:茅部郡森町上台町326-18。
◇電話:01374-2-4886。

オニウシ公園(2023年5月撮影)

いかめし阿部商店
 いかめし阿部商店で販売。明治36年3月、創業と同時に駅構内営業の認可を得て阿部弁当店創業。昭和18年3月、旅館業廃業、構内営業専業となる。昭和62年8月、個人営業を法人組織に改組。株式会社いかめし阿部商店となる。
◇住所:茅部郡森町御幸町112。
◇電話:01374-2-2256。

森名物・のいかめし(2006年8月撮影)

道の駅・YOU・遊・もり
 国道5号沿いの道の駅・YOU・遊・もり。屋上の展望ラウンジから駒ヶ岳や羊蹄山、噴火湾を一望できる絶好のビューポイント。また、周辺にはオニウシ公園、青葉ヶ丘公園などがある。一階の特産物販売所では、森町名物の各種いかめしや韃靼そば茶などを販売。


道の駅・つど〜る・プラザ・さわら
 国道278号沿い砂原町に建つ道の駅。砂原町の地場産業の紹介や海・山の幸など豊富な食材を利用した調理法などをレクチャーしてくれるユニークな道の駅。 また、イート・カルチャーホール・ルームもあり、少人数〜100名まで収容できる施設は、町外からの来訪者にも対応してくれる。


鷲ノ木遺跡(世界文化遺産関連資産)
 森町に所在し、噴火湾沿岸から約1km内陸の標高70mの河岸段丘上に立地する。北海道内最大規模である環状列石は、外周36.9×33.8mのほぼ円形で、外側を二重にめぐる環状の配石と、中心にある楕円形の配石で構成されている。


 平均30〜40cmの偏平・棒状の石が多く用いられ、その数は602個にのぼる。二重の環状の配石のうち、外側は石の長軸方向を連ねて配置し、内側は石の長軸方向を中心に向け配置するなどの規則性が見られる。石は多くが地面に埋め込まれており、地面に対し直立か傾いている。石の供給地は、最も近い地点で約1km離れた桂川河口付近とみられている。竪穴墓域は環状列石から南約5mの場所にあり、大きさ11.6×9.2mの竪穴の中に、土坑墓や、供献品や墓標を設置する穴が作られている。遺跡全体が江戸時代に噴火した駒ヶ岳の火山灰に厚く覆われていたため、保存状態はきわめて良好であった。当時の祭祀・儀礼や精神世界を知る上で重要な遺跡である。(jomon-japan.jpから)
◇住所:〒049-2321 茅部郡森町鷲ノ木町。


鷲ノ木遺跡(2021年10月撮影)



 噴火湾や太平洋という海の幸に恵まれた漁業のマチ。そして泉源が30カ所以上もある道南有数の「温泉のまち」でもある。


 北海道の南端、渡島半島の東部に位置し、秀峰駒ヶ岳を背に太平洋に面した気候温暖な町である。1615年(元和元年)南部大澗から昆布採取のため移住したのが開町の始まりとされ、1983年(昭和58年)に北海道で156番目の町として町制を施行。町内各所に温泉が湧出し、とりわけ北海道で唯一の我が町自慢の間欠泉は、6〜7分間隔で15mの高さまで噴き上げる。ほかに三味線滝、湧水園、パークゴルフ場、鹿部公園、民間飛行場などがある。鹿部町の最大のイベントである「海と温泉のまつり」は、例年8月中旬に開催される。主産業は漁業で、スケソ・ホタテ・昆布など漁獲物は多種。
鹿部温泉観光協会


しかべ間歇泉
 しかべ問歌泉は大正13年4月、温泉試掘によって発見された。以来、自然の力だけで約100度の熱湯を断続して最大15m以上噴き上げている。太平洋と噴火湾を望むしかべ間歇泉公園(入園料大人300円・小人200円)で、問歌泉の仕組みを勉強することができる。この公園内には足湯もある。
◇住所:茅部郡鹿部町字鹿部18-1。
◇電話:01372-7-5655。

しかべ間歇泉公園(2005年4月撮影)

記念歌碑・北斗船
 "みぞれまじりのしぶきを頭から浴びて乗り出す噴火湾"と、 鹿部町とゆかりのある作詞家・星野哲郎さんの作品「北斗船」の歌碑が2001年4月に建立。歌碑は黒御影石で重さ7t、正面に一番の歌詞や譜面のほか駒ヶ岳や鹿 部漁港の様子などが彫られている。石は中国産で福建省の職人が写真を見ながら約2カ月かけて彫り、完成後、船で運ばれてきた。歌手鳥羽一郎さんが歌うこの曲は全国で大ヒット。鹿部漁港近くの歌碑の背景には、洋々たる大平洋と噴火湾が広がり、晴れた日には、遥かに地球岬や羊蹄山を望むことができる。歌碑に刻まれた歌詞と譜面は星野哲郎さん、船村徹さん直筆による。
◇住所:〒041-1402 茅部郡鹿部町字鹿部20-1。
◇電話:01372-7-5655。

鹿部温泉郷
 鹿部町は道南有数の「温泉のまち」。 町内には至る所に温泉源がある。その数なんと30カ所以上。しかもそれぞれ泉質が異なっている。鹿部町では銭湯も温泉!もちろんお湯の量もたっぷり。 いろいろなタイプの温泉が楽しめる。寛文6(1666)年に津軽(現在の青森県)から鹿部を訪れた伊藤源五郎は、温泉で傷を癒す一頭の鹿に遭遇する。鹿島明神信仰者であった源五郎はここに温泉場を設置、やがて鹿部の温泉は多くの人々に知られるようになった。泉質は硫酸塩泉・含食塩硫酸塩泉・重曹泉などバラエティーに富んでおり、 神経痛やリウマチ、慢性消化器疾患など幅広い効能がある。
◇住所:茅部郡鹿部町鹿部。
◇電話:01372-7-3500。

温泉旅館 鹿の湯
 寛文元年(1661年)、津軽(現青森県)から訪れた伊藤源五郎が、温泉で傷を癒している鹿を見つけたのが「鹿の湯」の名前の由来。当時、この地は、海岸沿いの浜辺に自然湧出していた温泉であった。その後、1920年(大正9年)に純和風温泉旅館 鹿の湯として誕生し、今に至っている。当旅館は、噴火湾沿いの漁師街、鹿部漁港の目の前にあり、前浜で揚がった四季折々の新鮮な魚料理を堪能できる。源泉が高温のため、給湯・冬期間暖房など、熱交換により温度を下げたうえ地下水を加水して、入浴に適した温度に調整している。日帰り入浴もできる(大人500円)。
◇住所:茅部郡鹿部町字鹿部58。
◇電話:01372-7-2001。

温泉旅館 鹿の湯(2023年5月撮影)

鹿部漁港
 駒ヶ岳と海がマッチして何とも言えない美しさを醸し出し、その景色はテレビドラマで使われるほど。町内で一番大きな漁港であり、衛生管理型の漁港として、食卓へ安心と安全をお届けする。釣りに来る人も多い。
◇住所:〒041-1403 茅部郡鹿部町字宮浜323(鹿部漁協)。
◇電話:01372-7-2311。

鹿部漁港(2023年5月撮影)

ひょうたん沼公園
 町民のウォーキングコース(1周l.4km)ともなっているこの公園は、駒ヶ岳のビュ一ポイン卜にうってつけ!ハマナス、ツツジ、アジサイ、スイレンなどの花が沼をより一層美しくしている。園内を散策しながら駒ヶ岳を楽しめる。
◇住所:茅部郡鹿部町本別。
◇電話:01372-7-5293。

ひょうたん沼公園(2023年5月撮影)

鹿部たらこ


 噴火湾近海で水揚げされるスケソウダラの卵を知り尽くした鹿部町の水産加工会社が仕上げた「鹿部たらこ」は、一粒一粒がきめ細やかで、絶品の最高級品!

(株)イリエ船橋商店
◇電話:01372-7-2010。
◇住所:茅部(かやべ)郡鹿部町字鹿部68。
有限会社家保商店
◇電話:01372-7-2524。
◇住所:茅部郡鹿部町字宮浜14。
株式会社丸鮮道場水産>
◇電話:01372-7-2523、0120-47-2523。
◇住所:茅部郡鹿部町字宮浜194-2。
シーフードショップドウナン(株)道南冷蔵
◇電話:01372-7-3427、0120-47-2523。
◇住所:茅部郡鹿部町字宮浜371-2。

鹿部たらこ(鹿部町役場提供)



道の駅・しかべ・間歇泉公園
 しかべ間歇泉公園の一番の魅力は、その名のとおり間歇泉。100年近く絶えることなく噴き上げ続けている間歇泉を、足湯に浸かりながら楽しめるのは全国でここだけ。また、豊富な海の資源に囲まれた、ここ鹿部町の新鮮な生鮮食材とその魅力を知り尽くした地元の人によって作られる料理やお土産が自慢。






 570年ほど前から和人が定住し、その後、明治12年(1879年)に木古内(きこない)・札苅(さつかり)・泉沢(いずみさわ) の三村をもって戸長制度が敷かれ、明治18年(1885年)には釜谷(かまや)を木古内村に編入。その後、幾多の変遷を経て昭和17年(1942年)に町制が施行された。木古内の地名は、アイヌ語の「リコナイ(高く昇る源)」または「リロナイ(潮の差し入る川)」から転訛したものと言われている。
木古内観光協会

◆JR木古内駅
 上磯郡木古内町字本町531番地2にある北海道旅客鉄道(JR北海道)・道南いさりび鉄道の駅である。北海道内最南端の駅であり、北海道新幹線(2016年3月26日開業)における北海道の玄関口である。
◇住所:上磯郡木古内町字本町206-3。
◇電話:01392-6-7112。

JR木古内駅(2016年3月撮影)

佐女川神社(寒中みそぎ)
 松前藩河野加賀守源景広のご勧請により寛永2(1625)年に佐女川の辺りに洞を建て、武運長久を祈願されたのが始まりとされ、ご勧請の神様は日本の初代天皇・神武天皇の母・玉依姫の命である。
◇住所:〒049-0431 上磯郡木古内町字木古内155。
◇電話:01392-2-2135。

みそぎ事始め


 1831年(天保2年)神社守の夢枕に「御神体を潔めよ」とのお告げがあり、目を覚ますと寒気肌さす1月15日の早朝であった。神社守は直ちに真下を流れる佐女川の氷を打ち砕き、身を切るような冷水で自身を清め、御神体を抱いて海岸に臨むと、河口に大鮫が波に打たれ、その背中の上に白衣をまとった美しい女性の姿が見えた。「ああ、聖なる神の使者」と信じ、御神体を幾度となく沐浴し、ふと見ると女性の姿は見えず、大鮫は川の上流へ上り小さな沼(佐女沼)に姿を消されたという。その年から豊漁豊作が続いて村は大変賑わったという。また、安産、交通安全の守護神としても崇められている。以来、みそぎ祭りは伝統行事として毎年1月13日の参籠報告祭に始まり、15日の朝まで『オマニシクギダ』の勇壮な太鼓の響きとともに行修者は厳寒の中で鍛練に入る。そして1月15日には、厳寒の津軽海峡に面したみそぎ浜において、穢れなき優秀な4人の青年が、別当・稲荷・山の神・弁財天の4体の御神体を潔める。アイスキャンドルやかがり火に彩られたみそぎ行列や神殿のライトアップ、地場特産品のグルメフェアなど、様々なイベントも行われる。(hpから)


◆勇壮・華麗な咸臨丸(かんりんまる)パレード(8月中旬)
 木古内のサラキ岬に眠る歴史遺産『威臨丸』をテーマにした観光文化の創造を目指して、町民一丸となって取り組んでいる。


  勇壮な太鼓の音にのって、勝海舟や福沢諭吉に扮した人々が手を振る咸臨丸山車、艶やかな色とりどりの花で飾られたオランダ花山車、そして花笠音頭や木古内音頭を華麗に舞う女衆の花がさ千人おどりのパレード。 幼児からお年寄りまでが郷土の夏の一時を踊り、歌い、さまざまなイベントを楽しんでいる。 時空を超えて蘇った咸臨丸への思いは、郷土・木古内に大きな熱気と賑わ いをみせている。
 咸臨丸は、1857(安政4)年にオランダのキンデルダイクで産声をあげ、幕府海軍の主力艦として配備された。 開国の嵐が吹きすさぶ中、1860(安政7)年、木村摂津守喜毅、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など百余名を乗せて、日米修好通商条約批准書交換目的で渡米する幕府遣米使節護衛の随伴艦として太平洋を渡る偉業をなし遂げるなど、幕末の動乱期に日本近代化の歴史的象徴として活躍した。しかし、その栄光とは裏腹に、晩年は変革の渦に巻き込まれ、軍艦から北海道への物資運搬船となり数奇な運命をたどる。戊辰戦争で破れ北海道移住を余儀なくされた仙台藩白石片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出航した咸臨丸は、箱館経由で、小樽に向かう途中、1871(明治4)年9月20日、木古内町サラキ岬沖で座礁。現地(泉沢)の人々の懸命な救助により乗船者は難を逃れたが、咸臨丸はその数日後に破船沈没した。怒濤の幕末維新を背景に栄光 と悲劇の咸臨丸は、今もサラキ岬沖に静かに眠っている。

サラキ岬
 サラキ岬は、木古内町亀川地区に位置し、沖合では、幕末に活躍した咸臨丸が眠るといわれている。岬からは、津軽海峡を一望することができるほか、函館山を眺めることもできる。


 また、有志による咸臨丸とサラキ岬に夢見る会により、チューリップ花壇や咸臨丸モニュメントなどの整備も行われ、木古内町の観光スポットのひとつとなっている。 (咸臨丸モニュメント )咸臨丸を現代に蘇らせた。サラキ岬の中央に設置されているため、国道からもその姿を見ることができる。近くには、乗組員の氏名が記された看板などもあり、その歴史の一部を知ることができる。 (咸臨丸終焉の碑)咸臨丸の偉大な功績を称えた咸臨丸終焉の碑。サラキ岬の先端に設置されており、咸臨丸が眠る岬の沖合を一望することができる。 (チューリップ花壇)咸臨丸がオランダで建造された縁で、チューリップ花壇が整備されている。さまざまな品種や色彩のチューリップを楽しむことができる。また、チューリップの開花時期には、物産展やイベントなどが行われる。チューリップまつりも開催される。
◇住所:〒049-0404 上磯郡木古内町亀川。
◇電話:01392-6-7357。


(左)咸臨丸 (右)サラキ岬(2013年4月撮影)

サラキ岬チューリップフェア(5月)
 5万球のチューリップが花開く春、咸臨丸の眠るサラキ岬ではチューリップ祭りやふるさと物産展が行われ、道南の交流観光拠点として、道ゆく人が立ち寄り大きな賑わいをみせている。

ふるさとの森
 ふるさとの森は、薬師山・萩山を中心とした一帯のことで、芝桜や三十三観音像のほか、鷹取球場やテニスコートなどの運動施設もある。


 (薬師山・萩山) 町の中心部に位置する。薬師山の標高は72.9mと気軽に登ることができ、山頂からは町や津軽海峡を一望することができる。 (三十三観音像)薬師山は、昔、霊場としての役割を果たしており、その名残から、薬師山・萩山の散策路沿いには、観音像が奉られている。なお、三十三のうちの1つは、近くにある願応寺に奉られている。 (三本杉)三人家族の夫と息子を漁で亡くし、悲しみのあまり妻も海に身を投じたために、村人が供養のため、三本の杉を植えたところ、三本の木の根が一つに結びついたと伝えられている。実際には、三本の木は杉ではなく、オンコの木であるが、今も薬師山の頂上で一つに結びついている。 (ふるさとの森公園 )ふるさとの森公園は、薬師山・萩山のふもとに位置している。周囲には、テニスコートやプール、野球場、スポ−ツセンターなどの運動施設や中央公民館など、さまざまな施設がある。
◇住所:上磯郡木古内町木古内。
◇電話:01392-2-3131。


 木古内産のジューシーなホタテ貝や道南産米「ふっくりんこ」を使用した7種の味が楽しめる一品。
◇電話:01392-2-3131。

◇◇◇提供店◇◇◇

◇そば処(有)石川屋(電話:01392-2-2146)
◇和洋亭苑 あおき(電話:01392-2-2052)
◇たべもの居酒屋 おかめ(電話:01392-2-3391)
◇食事処 のとや(電話:01392-2-4055)
◇浜焼 ヤママル(電話:01392-2-1788)


◆サバイバル2Daysエンデューロ IN 木古内(6月第3土・日曜日)
 エンデューロは、通常よりも過酷な条件下で、オートバイの性能と耐久性、ライダーの技術、体力、判断力などをいかして走破する耐久モータースポーツの一つ。木古内町の競技コースは国内でも最大級の距離(約300km)を誇り、山林や河川の過酷な下で行われるため、栄冠をめざして全国から数百名のライダーが参加する。今日では国内外のトップライダーも関心を持つ、国内最大のエンデューロとして知られている。

道の駅・みそぎの郷・きこない
 北海道新幹線で青函トンネルを抜けて直ぐの場所にある木古内駅。その駅前に位置するのが道の駅・みそぎの郷・ きこない。古くから函館・松前・江差を行き交う人々にとって交通の要衝だった木古内町が、道の駅と北海道新幹線の開業により、現代の交通拠点としての役割を新たにする。建物は、地域の特産材である道南杉を内外装に多用している。無垢の杉材が放つ芳香や手触りを感じ取ることができるなど、落ち着いた空間となっている。






 北は秀峰大千軒岳、南は紺碧の津軽海峡に面し、海岸は奇岩・怪岩の絶景が続く岩部海岸を有する自然豊かな町である。北海道初の横綱である第41代横綱千代の山と国民栄誉賞を受賞した第58代横綱千代の富士の生誕地であり、横綱千代の山・千代の富士記念館の周辺は、大相撲に関連した街並みが整備されている。また、トンネル技術を結集して完成した世界最大の海底トンネル青函トンネル」は、福島町青函トンネル記念館において世紀のドラマとして実感できる。アイヌ語で「オリカナイ」または「鹿追」「いるかない」などと呼んで一定していなかった。寛永元年(1624年)に月崎神社の神託により福島村と改称された。
福島町観光協会

◆横綱千代の山・千代の富士記念館
 第41代横綱千代の山、第58代横綱千代の富士という二大横綱は師弟関係でもあり、神聖な土俵を舞台に試練と精進を重ね、ついに心・技・体を究め、横綱に登りつめた全記録と、大相撲文化のすべてが収められている。
◇住所:松前郡福島町字福島190。
◇ 電話:0139-47-4527。

横綱千代の山・千代の富士記念館(2013年4月撮影)

福島町青函トンネル記念館
 トンネル技術を結集して完成した世界最大の海底トンネル「青函トンネル」。福島町は、青函トンネル工事の北海道側の基地を担い、工事記録や技術情報、設備重機などが遺産として受け継がれた。トンネル文化を後世に伝えるミュージアムである。
◇住所:松前郡福島町三岳32-1。
◇電話:0139-47-3020。

青函トンネル記念館(2013年4月撮影)

道の駅・横綱の里 ふくしま
 国道228号沿い、青函トンネルが海底へと向かう場所・福島町の中心部。「横綱千代の山千代の富士記念館」を従えた道の駅。生産量日本一を誇るスルメイカを販売する物産センターも併設。また、同記念館で九重部屋の夏合宿が開催され、相撲ファンには見逃せないポイントとなっている。


岩部クルーズ
 手つかずの大自然が残る道南の秘境『岩部海岸』を、小型船グラスボートで周遊する岩部クルーズ。岩部漁港からツヅラ沢まで片道約4kmの航路を75分掛けて周遊。魅力は、眼前に広がるのは圧倒的な自然の風景。透き通った美しい海と航路のモニュメントである数々の奇岩。そして、幻想的な青の洞窟への侵入などである。
◇住所:〒049-1325 福島町岩部, 岩部漁港。
◇電話:0139-46-7822。
◇クルーズ料金:大人・中学生3,000円、小人1,500円。

海峡横綱ビーチ
 2011年にオープンした南北海道最大級の砂浜人口海水浴場。湾曲した突堤に囲まれているため、荒波に流される心配がなく、最大水深も1.5mと浅め。
◇住所:松前郡福島町字月崎23-1地先。
◇電話:0139-47-3004(福島町観光協会)。



 ・知内町は、アイヌ語の「チリ・オチ」(鳥いるところ)の意。知内は鷹の産地として有名で、松前藩が徳川将軍家に鷹狩り用に献上する15羽の鷹のうち、半数以上は知内で捕獲したものと言われている。渡島半島の南西部に位置し、東側は津軽海峡に面して約21kmの海外線が形成されている。


 町の中央部を千軒岳を源とする知内川が流れ、その流域には農地が広がり、集落はこの地域や津軽海峡に注ぐ小河川の周囲に分布する総面積196.66平方kmの町である。町名の由来は、アイヌ語の「チリ・オチ」(鳥のいるところ)とされている。昭和63年(1988)にはJR津軽海峡線が開通し、世紀の大プロジェクトと言われた青函トンネルの北海道側出入口となっている。基幹産業は、農林漁業である。日本農業賞を受賞したにらは、品質、生産量とも北海道一を誇っている。漁業では津軽海峡の荒波にもまれて育つカキはほかの有名産地に負けない。また、知内町は、「北島三郎」の出身地。
 東側の津軽海峡に面して平野や段丘地が広がり、三方を山岳に囲まれた山川草木や動物に恵まれているところ。町のほぼ中央を知内川が流れ、その流域は農地とし、集落はこの流域や津軽海峡にそそぐ小河川の周囲に分布している。木古内町に接する建有(たてあり)川付近から涌元(わきもと)近くまでが砂浜である。涌元から南の小谷石(こたにいし)一帯は、蛇ノ鼻、爺岩、イカリカイ島、立岩、地獄澗など形も名前も奇妙な奇岩怪岩がつらなる変化にとんだ岩礁地帯。

 ・知内町は渡島半島の南西に位置し、木古内町、福島町、檜山管内上ノ国町と接している青函トンネル北海道側出入口の町。鎌倉時代に甲斐の国イハラ郡領主・荒木大学が来道し、知内川で砂金掘りをしたと伝えられるなど、古い歴史を持っている。 知内は鷹の産地として有名で、松前藩が徳川将軍家に鷹狩り用に献上する15羽の鷹のうち、半数以上は知内で捕獲した年もあったと言われている。明治4年、旧松前藩士田中明定が、舘県庁から第10区(知内・福島両村全域にわたる)初代戸長に任命され就任した。これが知内の自治の始まり。その後、農業や漁業が活況を見せ、これに伴い人口が増加。1906(明治39)年に小谷石を合併して知内村が誕生した。以降、鉄道が開通するなど産業や暮らしの基盤が着実に整備され、1967(昭和42)年に町制施行し、今日を迎えている。ます。2011年11月、知内町自治制施行140周年記念式典を行った。暖流が流れる津軽海峡に面した知内の気候は温和で、、夏の最高気温は30度C前後、冬の最低気温は-10度C前後を年数回記録する程度で、北海道でもっとも過ごしやすい地域のひとつとなっている。積雪は12月から3月まで観測されるものの量は少なく、十分に整備された本町の除雪体制と合わせ、雪に関する心配はない。北緯41度35分、東経140度25分、面積196.67平方km。自動車函館から約42km(約60分)。JR海峡線函館駅~木古内駅(約35分)、木古内駅から路線バス17分、路線バス函館~知内(107分)。
知内観光協会


雷公(らいこう)神社(北海道最古の神社)
 雷公神社に伝わる知内町最古の古文書「大野土佐日記」 によれば、元久2年(1205)、砂金を求めて甲斐の国(山梨県)からこの地に来た荒木大学が天下泰平と当所の安全を祈願し、賀茂の上社と下社の二社を創建した時に始まると伝えられる北海道でもっとも古い神社。古来より、恋の成就を願う人がここでお参りすると、相手に心が通じると言い伝えられている紳社でもある。
◇住所:〒049-1106北海道上磯郡知内町元町。
◇電話:01392-5-5116。

松前矢越(やごし)道立自然公園「矢越海岸」
 知内の南端に位置する矢越岬は、「松前矢越道立自然公園」に指定され、涌元・矢越間には蛇ノ鼻岩、狐越岬、ナマコ岬、猿人岩など形も名前も奇妙な奇岩怪岩が連なった海岸線が壮観である。
◇住所:上磯郡知内町字小谷石。
◇電話:01392-5-6161。

◆矢越岬
 海抜約120mの断崖岬。頂上には矢越灯台と矢越八幡宮がある。岬に向かう小谷石海岸は奇岩群の絶景。
◇住所:上磯郡知内町字小谷石。

青函(せいかん)トンネル北海道側出入口
 全長53.85km、海面下240m。青函トンネルは、1988年3月13日、営業を開始。北海道と本州を結ぶ大動脈となっている。知内町は青函トンネル北側の出入口になっている。
◇住所:上磯郡知内町字湯の里47。
◇電話:0139-26-2270(知内物産会館) 。

青函トンネル北海道側出入口(2013年4月撮影)

知内町健康保養センター こもれび温泉
 運動浴槽のほか、檜造りと露天風呂、温度の異なる2タイプのサウナなどがある。ナトリウム・カルシウム泉質。
◇住所:上磯郡知内町字元町103-2
◇電話:01392-6-2323。
◇料金:大人350円、小人100円、65歳以上150円。

知内温泉
 開湯約800年を誇る本道最古の知内温泉郷は天然湧出。深い緑に囲まれた温泉郷。知内温泉は、上磯郡知内町字湯ノ里にある温泉。北海道最古の歴史を持つ温泉地である。


 泉質は、鉄鉱泉、炭酸塩類泉、重炭酸土類食塩泉、明礬泉。 源泉温度62.5〜70度C。効能は、火傷、胃腸病に対する効能があるとされる。温泉地では、飲泉時に口頭癌・胃腸癌への効能を謳っている。日本秘湯を守る会にも属する一軒宿の「知内温泉旅館・ユートピア和楽園」があり、日帰り入浴も扱っている。特に火傷や胃腸病への効能の高さから湯治場として栄え、現在でも湯治場として多くの人達が訪れる。館内には「上の湯」「下の湯」と名付けられた男女別の内湯2ヶ所と、素朴な混浴露天風呂がある。また、別の場所には野湯的な露天風呂(通称:展望台の湯、営林署の湯)も存在する。開湯は1247年(宝治元年)である。源頼家の家臣荒木大学が金山探索を行った際に発見したとされる。ただし、以前からアイヌの人々が利用していたとも言われる。1624年(大正13年)には松前藩によって湯治場として整備され、歴代の松前藩主が湯治に訪れた。2011年(平成23年)現在の当主は16代目。(jawp)。
◇住所:上磯郡知内町字湯ノ里284。
◇電話:01392-6-2341。


知内温泉 ユートピア和楽園
 この温泉は知内川の支流、湯の川河岸にあって、杉、唐松、椴松(とどまつ)、楓(かえで)、楢(なら)、朴(ほう)、楡(にれ)、桜などの針葉樹、闊葉樹の雑木林に包まれ、春は山桜や片栗の花が咲き、小豆名、ミズ、ウド等の山菜は、極めて美味である。


 夏の清流には山魚女、鮎、その他の川魚釣りも楽しめ山魚女、鮎料理の珍味は旅する人々を心から喜ばせる。砂金の採鉱、隠れキリシタンで有名な千軒岳標高は1,071mで登山の前夜、下山の一夜、湯船に浸るのも絡別の風情がある。また、秋は、全山真っ赤に紅葉し七峰岳の眺望も美しく、知内川の鼻まがり鮭の味は格別をもって知られ、千軒岳の登山スキーもすばらしく、トリ鍋、鴨鍋等は、知内温泉の名物となっている。知内温泉には、5つの源泉が敷地内からいずれも自然噴出(自噴)している。その源泉の温度は、65度と高温で、浴室の扉を開けると同時に全身が熱気に包まれる。社同法人日本温泉協会(日本天然温泉審査機構)による平成14年10月の審査会にも参加し、完全放流式(かけ流し)・加水なし・加温なしとしては最高レベルの天然温泉と評価された。悠久の歴史と共に、絶える事なく源泉は当温泉の裏手の丘に湯華(ゆばな)が石化して巨大なドームを造り、浴槽や浴室の床に歴史の証拠ともいえる湯華(ゆばな)が石化し幾重もの段をなしている。(知内温泉 ユートピア和楽園)
◇住所:〒049-1221 上磯郡知内町湯ノ里284。
◇電話:01392-6-2341。
◇営業時間:7:00〜20:30。 ◇定休日:無休。
◇日帰り入浴:大人800円、子供500円、幼児300円。


本道最古の知内温泉(2013年4月撮影)

知内温泉の歴史


 1247年(宝治元年)甲州の城主源頼家郷の命を受けた荒木大学は、堀子数百人を引き連れて、金山見立のため渡道して、今の湯の里に居城を造った(800余年前)。当時の堀子等湯の湧出しているのを発見し、草小屋を建て、打ち身、切り疵等を治療したところ、その効能直ちに表われたと旧書にある。寛文5年九代の城主松前志摩守高広公の奥方御入湯に当たり福島村土門治兵衛の先祖に仮家造営を仰せ付け御入湯せりとある。1247年(宝永元年)8月23日に湯倉神社の小祠を福島村の中島弥平治がこれを建てて大貴命神(おおむじなのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)の二柱を祭祀した。薬祠杉は、当時奥方の御手植えの杉で樹齢500年、幹の周囲4.0mもあったが、大東亜戦争の折、献木してしまった。その切り株は今も残っている。松前公は、その後、湯守をおいて温泉の発展を図り、第一代湯守三重郎より第十代八太郎に至っている。これが知内温泉の祖先である。一説には、松前志摩奥方(姫と言う)は、キリシタン信者であったので切石(きりえーす)の沢(今の姫の湯の沢)で刺客の巨刀に倒れ、今の福島町「丸山の館」石山に御櫛塚を建て祭られたと、1806年(文化3年)に記した旧書にある。1894年(明治27年)、十一代湯守り泉作右衛門より、函館市元町森川菊松之をもらい受ける。1897年(明治30年)茂別村佐藤弥惣右ヱ門之を弐百五拾円で買い受け現在に至る。一代弥惣右ヱ門、二代昌蔵、三代昌介。(現地の立て看板から)



 北海道最古の知内温泉は歴史も古く『大野土佐日記』によれば、1205年(元久2年)年砂金を求める荒木大学の渡来に遡るといわれている。知内の歴史が極めて古いことを物語っている。当温泉は、1247年(宝治元年)7月25日薬師堂を建立したのが知内温泉の始まりとされている。最上徳内が標した「東蝦夷地道中記」に知内温泉の薬師堂の棟札を拝見したところ、「施主、荒木大学湯主徳蔵1404年(応永11年)の銘があることを発見した」とあり、応永11年には温泉薬師堂が建立されていたことは明確である。1665年(寛文5年)9代の城主松前志摩守高広公の奥方ご入湯に当たり、福島村戸門治兵衛の先祖に仮家造営を仰せ付けご入湯せり、とある。1704年(宝永元年)8月23日に湯倉神社の小祠を福島村の中島弥平治が之を建てて、薬師如来(ヤクシニョライ)大貴命神(オオムツノカミ)、少彦名神(スクナヒコノカミ)の3柱を祭嗣した。薬師杉は、その当時、奥方の御手植の杉で樹齢500年余り、幹の周囲は4mもあったが、第2次大戦の際、献木したので、その切り株は今も残っている。松前公は、その後、湯守を置いて温泉の発展を図り、第2代湯守三重郎より第11代八太郎に至っている。これまでが知内温泉の祖先である。また一説には、松前志摩川寸奥方(姫という)はキリシタン信者であったので切石(キリエース)の沢(今の姫の湯ノ沢)で刺客の凶刃にたおれ、現在の福島町「丸山の館」石山に御櫛塚を建てて、祭られたと文化3年に記したと古文書にある。道内一長い歴史の中には隠れキリシタンやアイヌの人々の悲しい記録もあるが、そのすべてを優しく包みこむように、湯は今日もこんこんと湧き続けている。
                   (知内温泉 ユートピア和楽園)


◆カキ・ニラまつり
 毎年2月に、カニ・ニラをテーマに「カキ・ニラまつり」を開催。イベントでは、この時期に旬を迎えるカキとニラを使った「カキ・ニラ弁当」「カキ・ニラかき揚げ丼」などの創作料理の販売やカキ・ニラをはじめとした知内町特産品を販売する。お問い合わせ 知内観光協会電話01392-5-7311。知内町役場産業振興課電話01392-5-6161。

重内展望台
 豊穣の大地、富裕の海原、吹き抜ける薫風。知内をぐるりとパノラマで見渡せる展望台。
◇住所:〒049-1103 上磯郡知内町重内。
◇電話:01392-5-5340。

北島三郎さんの実家
 演歌の大御所、北島三郎さんの実家が知内町元町にある。
◇電話:01392-5-6161。

道の駅・しりうち
 国道228号に面し、青函トンネルの出入口にも近い道の駅・しりうちは、およそ800年の歴史を持つ同町の観光拠点となっている。敷地内には旧石器時代の墓と見られる日本最古の土壙が発見され、国の重要文化財に指定されている。演歌歌手・北島三郎の出身地でもある。


道の駅しりうちと新幹線展望塔
 道の駅しりうちに新幹線展望塔が付設され、通過する新幹線を見ることができる。
◇住所:〒049-1221 上磯郡知内町湯ノ里48-13。
◇電話:01392-5-6161。

道の駅・しりうち(新幹線展望塔)と通過する新幹線(2020年9月撮影)





 札幌と函館を結ぶ国道5号線の中間地点に当たる長万部町。長万部といえばカニといわれるほど、美味しい毛ガニを目当てにやってくる人も多い。また、山間にある二股ラジウム温泉は湯の華でできたドームがひときわ目を引き、たくさんの湯治客で賑わう。
長万部観光協会

◆長万部温泉
 1955年(昭和30年)、天然ガス試掘中に偶然に天然ガスと一緒に温泉が噴出した長万部温泉。その後、新たに湯量豊富な泉源を掘り当て、各宿に配湯されている。高張性弱アルカリ性高温泉のお湯は肌にしっとりとなじみ、湯上りの後いつまでも身体ポカポカ。 放射性石灰華ドームの奇岩を望む二股らぢうむ温泉は、他に類を見ない秘湯。
長万部温泉利用協同組合
◇住所:〒049-3521 山越郡長万部町長万部温泉町。
◇電話:01377-2-2270。

二股らぢうむ温泉
 湯治の名所として有名。体にいいとされる微量のラジウムを含んでおり、また硫黄分を含んでいないこと、掘らずにかけ流しでも充分な湯量を保っている。ここ二股らぢうむ温泉での成分には、その名の通りラジウムを含んでいる。その他にも、炭酸カルシウム、マグネシウム、鉄分、チタンなどの何十種類ものミネラル成分を含んでいる。そのため、入浴だけでなく、飲用することによっても病気に対する効き目めは強よまるとされている。
◇住所:〒049-3501 山越郡長万部町大峯32。
◇電話:01377-2-4383。

二股らぢうむ温泉 下左石灰華(2018年8月撮影)

二股らぢうむ温泉の石灰華


 ・巨大な放射性石灰華ドームは、石灰岩が放射性の湯の華(炭酸石灰成分)を被り、何万年もかかって堆積して形成されたもので、世界でも、アメリカのイエローストーン国立公園とここだけにしかない貴重なもの。隣接する二股らじうむ温泉では、北海道の天然記念物にも指定されたこの石灰華を見ながらの露天風呂を楽しむことができる。
 ・二股温泉の石灰華は、温泉水中に過飽和に含まれた炭酸石灰成分が温泉の湧出によって温度圧力が低下し、水分も若干蒸発して沈澱したものである。この石灰華は、通称カシュリナイ川の侵蝕した河底に長さ約400m、幅200mくらいの範囲にわたって広く堆積し、厚さも最大25mくらいの数段の段丘状の丘をつくっている石灰華である。丘の部分は、草木に被われているが、周縁部の比較的新しく、沈澱部分は、黄褐色に輝く美しい石灰華が半ドーム状を呈して極めて美観である。温度は摂氏40〜50度の食塩泉であるが、沈殿物は、方解石となり、粗粒結晶のもの、土状のものが堆積、あるいは鍾乳石のごとく垂れ下がり、柱をつくり、種々の奇形を示している。その沈澱速度は、極めて速く、温泉湧出付近流路において、わずか半月で種々の型の置物が自然にでき上るほどである。また、この石灰華は、5マッヘ以上のラジウム放射能を有することも、古くから知られている。本石灰華は、その規模においても世界において米国マンモス・ホットスプリングスの石灰華と二つよりなしと称されている。また、現在においても多量に沈殿していることにおいて、学術的にも貴重なものとして、1965年(昭和40年)6月14日天然記念物として、北海道の指定するところとなった。


名物駅弁「かにめし」


「長万部」といえば、名物駅弁「かにめし」!長万部のかにめしは、日本で最も歴史が長く、誕生から変わらぬ味を守り続ける北海道を代表する旅の味。

<かにめし本舗かなや>
◇住所:山越郡長万部町字長万部40-2。
◇電話:01377-2-2007。
<駅弁かなや>
◇住所:山越郡長万部町字長万部40-2。
◇電話:01377-2-2007。
<ドライブインかなや>
◇住所:山越郡長万部町字平里12-7。
◇電話:01377-2-3255。
<和風レストランかなや>
◇住所:山越郡長万部町字長万部39。
◇電話:01377-2-2142。
<かなや・丸井今井札幌店>
◇住所:札幌市中央区南1西2・丸井今井札幌本店大通館B1階。
◇電話:011-205-2143。



名物弁当「かにめし」(2013年4月撮影)



 北海道「最南端の町」、国内では「最北の城下町」と知られる松前町。「北の小京都」と呼ばれ、古き良き古都の趣が感じられる町である。16世紀初頭、武田氏が台 頭し松前を支配し、徳川家康の時代に松前を名乗り領地を与えられた。松前は交易で栄え、幕末には北前船が活躍した。松前城や寺町の街並みが当時の面影を留め、それらの多くが松前を 風情豊かな町にしている。


 数多くの史跡と全国有数の桜の名所として知られる日本最北の城下町松前ー。北海道の最南端にある温暖な松前には、美しく豊かな自然が広がっている。道立自然公園に指定されている美しい海岸景勝や、水平線に浮かぶ大島・小島。1,072mの大千軒岳はキリシタン殉教の地として知られる登山のメッカである。四季を通じてさまざまな草花が見られ、また山々には広葉樹の森が広がり、一年中緑をたたえる杉の美林が彩りを添えてくれる。バードウォッチングやトレッキング、ネーチャーウォッチング、釣りなどに最適な環境である。
 松前の桜は、松前藩時代からの古い歴史を持っている。その昔、本州より渡ってきた多くの商人や京都から輿入れした奥方などが、ふるさとを偲ぼうと苗木を集め、また藩主や侍たちが参勤交代のとき江戸より持ち帰ったと言われ、すでに200年前ころから松前には八重桜があったと記録されている。天守を望み、一重、八重、紅、白、淡黄と色とりどりに爛漫と咲き誇る桜。月琴堀に咲く南殿、普賢象、龍雲院のエゾ霞桜、光善寺の血脈桜、法源寺の数珠掛桜、阿吽寺の糸括、一葉、雨宿その数250種8,000本におよび、4月下旬から1カ月にわたり次から次へと咲き競い、訪れる人々は、華やかな春を満喫できる。
 正式名を福山城という松前城は、兵学者市川一学の設計で1854年(安政元)に完成。わが国最後の日本式築城である。当時のまま残る本丸御門は、国の重要文化財になっている。昭和51年からは「史跡福山城保存整備事業」による発掘調査が進められている。
松前観光協会

◆国指定史跡・福山城(松前城)
◇指定年月日:1935年(昭和10年)6月7日。
◇指定面積:72,674平方m。
◇管理団体:松前町。
 福山城は、松前城とも呼ばれ、北辺警備の重要性から幕府が特旨をもって1849年(嘉永2年)松前家17世(松前藩13代藩主)崇廣に築城を命じ、高崎藩の兵学者市川一学の設計により1854年(安政元年完成した。城郭の規模は本丸、二の丸、三の丸に分かれ、三層櫓1、2層櫓3、城門16、砲台7からなっている。構造形式は平城、わが国最北に位置し、最後の遺構として史跡に指定されている。
◇住所:〒049-1511 松前郡松前町松城144。
◇電話:0139-42-2216(松前城資料館)。

松前城(福山城)2006年11月撮影


松前城(福山城)2023年5月撮影

◆白神(しらかみ)岬−北海道最南端
 松前町白神岬−青森県竜飛岬までの最短地点が19.2kmと目と鼻先の距離にある。
◇住所:〒049-1524 松前郡松前町字白神。
◇電話: 0139-42-2726(松前観光協会)。

北海道最南端-白神岬(2020年9月撮影)

松前藩

 松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。


 藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。松前氏ははじめ蠣崎氏を名乗り、室町時代に甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる武田信広が現在の渡島半島の南部に支配を確立し、主家の安東政季より上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となったという(『新羅之記録』)。蠣崎季広の時には、安東舜季の主導のもとアイヌの首長である東地のチコモタイン及び西地のハシタインと和睦し、蝦夷地支配の基礎を固め、その子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に臣従し、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、五代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、1719年(享保4年)より1万石格の柳間詰めの大名となる。当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。1604年(慶長9年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、しだいに取り締まりが厳しくなった。松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、鰊が不漁になったため、蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は1833年(天保4年)までに人口一万人を超える都市となり、繁栄した。藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、1669年(寛文9年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。
 18世紀前半から、松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようになり、場所請負制が広まった。18世紀後半には藩主の直営地も場所請負となった。請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹などの希少特産物を圧するようになった。生活物資の中心となる米は、対岸の弘前藩から独占的な供給を受ける取り決めが結ばれていたが、1782年(天明2年)から深刻化した天明の大飢饉の期間は輸送が途絶、大坂からの回送船による米の輸送が行われ、益々西日本側との結びつきを深めてゆく。漁場の拡大にともない、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃西でも東でも商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。請負商人によるアイヌ首長毒殺に対して、東蝦夷では1789年(寛政元年)にクナシリ・メナシの戦いが起こった。18世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を無視し、秘密にした。ロシアの南下を知った幕府は、1785年(天明5年)から調査の人員をしばしば派遣し、1799年(寛政11年)藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げた。すなわち1月16日に東蝦夷地の浦川から知床までを7年間上知することを決め、8月12日には箱館から浦川までを取り上げて、これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に5千石を与え、各年に若干の金を給付することとした。
 1802年(享和2年)5月24日に7年間に及ぶ上知の期間を迎えたが、蝦夷地の返還は行われなかった。1807年(文化4年)2月22日に西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が言われているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)。1821年(文政4年)12月7日に、幕府の政策転換により蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった。1849年(嘉永2年)に幕府の命令で松前福山城の築城に着手し、1854年(安政元年)10月に完成させた。日米和親条約によって箱館が開港されると、1855年(安政2年)2月22日に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地をふたたび召し上げられ、渡島半島南西部だけを領地とするようになった。代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根にあわせて3万石が与えられ、出羽国村山郡尾花沢1万4千石を込高として預かり地になった。また、手当金として年1万8千両が支給された。1864年(元治元年)に松前崇広が老中になると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻された。しかし、手当金700両が削減された。領地の上知や箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は、藩士も城下の民も苦しいものになった。
 1869年(明治2年)6月24日14代藩主松前修広は版籍奉還を願い出て許され館藩知事を仰せ付けられた。同年、北海道11国86郡が置かれている。1871年(明治4年)7月14日 に廃藩置県で館県になるまで2年間存続した。藩名の由来は朝廷から西部厚沢部村の館に新城を建築することを許されたことによる。政庁については、完成前に箱館戦争が始まったため、当初は以前と同じく福山城にあった。松前氏が戊辰戦争の中でも、東北戦争の時点では奥羽越列藩同盟に参加していたが、勤王派の正議隊(正義隊)が藩政を掌握して新政府側に寝返った。新築の館城に移って館藩として箱館戦争で旧幕府軍と戦った。戦後処理では前述の経緯により、旧幕府軍に協力した者を逮捕及び裁判の上処分した。処分された者の数は町人、武士問わず90余名、町内引廻しのうえ斬首されたものは19名。また、明治2年に口番所(松前・江差)が廃止され、代わりに函館、寿都らに海官所が設置されたため、口番所の口収益に依存していた館藩の財政は深刻な打撃を受けた。1870年(明治3年)12月には館藩の訴えにより、松前、江差の両海官所とも復したものの、インフレによって財政難は解決されず、さらにオランダ商会、藩内の商人への借金及び藩札の大量発行を行った。政治的にも藩政を掌握した正義隊と反対派が対立し、反対派は開拓使に正義隊への非難を訴えるなど不安定な状態が続き、廃藩に至るまで解消されることはなかった。
 1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県により館藩の旧領には館県が置かれた。館県の範囲は、渡島国に属する爾志郡・檜山郡・津軽郡・福島郡の4郡であったが、同年9月、館県は道外の弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県と合併、弘前県(後の青森県)の一部となり消滅した。(jawp)


道の駅・北前船・松前
 国道228号沿い、歴史と250種1万本の桜の町・松前町の中心部。かつて蝦夷地と本州の交易のため「北前船」が往来していた津軽海峡の絶景を望み、「松前本まぐろ」・「アワビ」等の新鮮な魚介類、本場松前の各名店が丁寧に作り上げた「松前漬」・「するめ」等の特産品を堪能できる。




 酪農と漁業の盛んな町。 木彫り熊発祥の地であり、バター飴の元祖でもある。


 「八雲」という地名は、素戔嗚尊が詠んだとされる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」の和歌にちなみ、当地の開拓を指導した旧尾張藩主の徳川慶勝が自ら命名したものである。慶勝は、明治維新で禄を失い、生活に困窮する旧藩士の生計を確保するために北海道開拓を志し、八雲町に入植した。2005年(平成17年)10月1日、檜山支庁管内の熊石町と支庁を越えて合併。新設合併で新町名は八雲町。同時に二海郡が新設された。旧熊石町区域が渡島支庁に編入されたことにより、檜山支庁は二つに分断されることになった。(jawp)
(旧熊石町)
 アイヌ語の「クマウシ」に由来し、「魚を乾かす竿のあるところ」という意。熊石町は、「あわびの里」;として広く知られている。あわびの養殖事業に力を入れ、種苗から成貝まで一貫した生産体制を整備している。あわびを街づくりの主眼に置き、毎年5月には;「あわびの里フェスティバル」;が盛大に開催され、多くの観光客で賑わう。また、森林や川などの豊かな自然とともに、豊富は温泉資源の町としても知られている。
八雲町の観光スポット

◆八雲の祭り
 「さらんべ公園桜まつり」(5月第2日曜日)に始まる。町を代表するこの公園には多数の桜がある。桜が終わると、ツツジが満開の季節を迎える。この時期、ツツジの名所落部公園で「つつじまつり」(5月下旬〜6月上旬)が開かれる。初夏、八雲神社の例大祭(6月20〜22日)は、八雲の若者たちが、北海道三大あんどん祭りにまで育て上げた「八雲山車行列」が市街地を練り歩く。山車は30基にもなる。さわやかな夏は、「やくも牧場まつり」(夏〜初秋ころ)が開かれる。遊落部川にサケがのぼる秋は、「秋味まつり」(10月下旬日曜日)、サケのつかみ取りや海の幸・山の幸を堪能できる。冬は、「八雲さむいべやーまつり」、町民手づくりの雪像や漬け物石カーリング、雪合戦、雪上カヌー試乗会などが行われる。

梅村庭園(梅雲亭)
 市街末広町八雲町公民館横にある「梅村庭園」は、毎年5月3日〜11月3日まで開園している。


 この庭園は、故梅村多十郎氏が明治末期〜昭和初期にかけて造成した池泉回遊式庭園で、池の周囲に自然景観を取り入れた築山、枯れ山水、自然林に模した樹木などを巧みに配置されている。入園は無料。午前9時〜午後5時(10・11月は午後4時)まで毎日開園。町指定文化財。八雲に初めて和人が住み始めたのは、宝暦14年(1764年)ころ、落部に入植した漁業経営者だといわれる。寛政12年(1800年)に野田追が村並になると、境川(山越)が蝦夷地と和人地の境界となり、享和元年(1801年)に亀田にあった関門が山越内に移され、「山越内関門」が置かれた。この関門は、日本最北に位置し、蝦夷地への武器持ち込みの取り締まりや通行人の往来切符改めが行われた。文久元年(1861年)に廃止された。平成元年(1989年)JR山越駅を関門に模して復元している。町指定文化財。
◇住所:〒049-3112 二海(ふたみ)郡八雲町末広町151。
◇電話:0137‐63‐3131(八雲町教育委員会)。
◇開館時館:4月10:00〜16:30、5〜10月9:00〜17:00、11〜12月10:00〜16:30。
◇休館日:5〜10月毎週月曜日、11〜4月毎週月曜墓と祝祭日。


梅村庭園(2005年4月撮影)

◆自然美術館エキスパート
 八雲町は「自然美術館ー八雲」をCIキャッチフレーズに、町全体を自然美術館のような町にしようとまちづくりを進めている。その一つとして、町民の中から3人の専門家を「自然美術館エキスパート」として委嘱し、自然武術館と感じ見られる場所などの発掘・活用・保全情報提供・体験学習や地域活性化などへの指導・助言活動を行っている。委嘱されているエキスパートは次の方々ー稗田一俊さん(山・川・海など自然資源の専門家・写真家・元町)、掛川岩太さん(野性鳥獣の専門家・鳥獣保護委員・末広町)、加藤孝光さん(酪農家・立岩)。

◆雄鉾(おぼこ)岳登山
 八雲町を代表する山で標高999.3m。登山は鉛川の登山口(町営温泉おぼこ荘上の旧高山事務所跡地)から頂上まで約4.05kmあり、銀雄の滝(銀山沢にある一条に落ちる滝)、海見平(日本海と太平洋が一望できる)、6月下旬〜7月上旬まで山の壁下に雪が残る、など沢筋に沿って登る要所要所に見所がある。所要時間は登りが3.5時間、下りが2.5時間。中級クラス層以上が対象の山。落石に注意。

ハーベスター八雲
 白い牧柵と伝統的欧風スタイルの「ハーベスター八雲」。この農場は、「新しい食の創造」を目的につくられ、減農薬、有機栽栽培による野菜栽培の実験、農産物オリジナル・ブランドの商品開発や料理法の研究を行っている。養鶏犬のいる養鶏実験農場やハーブ農園の見学ができる。内浦湾を一望できるカフェテリア方式のレストランがあり、ヘルシーな料理を味わうこともできる。隣接地には八雲町農業試験センターがあり見学できる。
◇住所:〒049-3124 二海郡八雲町浜松365。
◇電話:0137-64-3113。

ハーベスタ八雲(2004年11月撮影)

銀婚湯温泉
 銀婚湯温泉は、落部川中流の中洲から湧出する道南屈指の名泉として広く知られている。この温泉の発見はかなり古く、先住民族が狩猟のおりおりに汗を流し、時には療養のために常浴していたようである。


 しかし、戌辰の役に榎本武揚率いる藩軍の負傷者を湯治させて顕著なる効能があったというので、一躍有名になった温泉でもあった。当時は熊笹で覆った掘立小屋程度の湧出の少ない山中無人の山湯だったのだろう。大正14年5月、七飯峠下の川口福太郎・志あって中洲を開掘し、熱湯大量湧出に成功し、温泉宿建設に夢をはせたものであった。ときあたかも大正天皇銀婚の佳日に当たり、妻トネの発案で、そのおめでたいお祝いに自分たち夫婦の銀婚式を重ね合わせて銀婚湯と命名したのである。その後、幾多の試練があったが、妻トネの血のにじむような努力によって、今日の銀婚湯の礎が築かれた。近年、銀婚湯の夫婦円満の佳きことにちなみ、それにあやかりたいと全国から銀婚を迎える方の利用が絶えることがないほどになっている。銀婚湯の周りは、深山幽谷、自然いっぱいの環境に恵まれ、春の桜、木々を飛び交う小鳥のさえずり、絶えざるせせらぎの音、秋の紅葉、静寂の冬景色、さらに山女魚釣りなどの興味は格別であって、休憩保養に、このうえない温泉である。泉質−土類石膏食塩の温泉。湧出時の温度−85度。
◇住所:〒049-2566 二海郡八雲町上の湯199。
◇電話:0137-67-3111。
◇日帰り入浴時間:12:00〜16:00(月曜日は休み)。
◇入浴料:大人800円、小人400円。


銀婚湯(2007年8月撮影)

熊石歴史記念館
 熊石休養村に隣接しているレンガ色のモダンな建物。館内には、熊石番所の推定復元模型、ニシン漁に関する資料、熊石町にかかわりの深い円空上人、松浦武四郎などの人体レプリカのほか、門昌庵伝説をわかりやすくアニメーション化したスライド上映が楽しめる。
◇住所:二海郡八雲町熊石平町325-3。
◇電話:01398-2-2200。
◇開館時館:9:00〜17:00。
◇入館料:大人320円、子ども160円。
◇休館日:毎週月曜日。

門昌庵
 約300年前、松前藩のお家騒動の舞台。延宝年間に松前藩菩提寺の住職柏厳禅師が悪人のかん言にあい配流された庵。禅師が処刑されたとき、数々の奇妙な現象が起こったという。山門は、およそ400年前に豊臣秀吉から松前藩に下賜された桃山別殿の裏門であったが、16代松前藩昌広が当庵に寄進された歴史的建造物である。
◇住所:〒043-0404 二海郡八雲町熊石畳岩町553。
◇電話:01398-2-3232。

わんぱくの森
 スキー場を取り囲むようにして散策路が整備され、森の中にはドングリの森、カタクリの丘、果実の森など9つのテーマで構成されている。カタクリの丘には、約100万株のカタクリが自生し、隠れた名所となっている。
◇住所:ニ海郡熊石平町。
◇電話:01398-2-3111。

◆ちゃぷちゃぷ公園
 休養村を流れる平田内川の河川敷に新設されたレクリエーションゾーン。河川すべり台、ちゃぷちゃぷ池、ゆらゆら橋、森林迷路などが楽しめる。

奇岩雲石
 約450年前、この地を支配していたアイヌ人と松前藩との戦で劣勢となった松前藩の武将が岩の陰に身を隠したところ、雷鳴のとどろきとともに黒雲が巻き起こり、この奇妙な現象にアイヌは恐れをなして退散し、松前藩の武将が命拾いしたと言い伝えられているいる岩。今は熊石漁港の西方に威容を誇っている。
◇住所:〒043-0416 二海郡八雲町熊石雲石町。
◇電話:0137-62-2111。

雲石峡(雲石峠)
 八雲町から熊石町に向かう国道277号線沿いにある道南8景の一つ。秋の紅葉時には、夕日に赤く染まる岩肌(赤岳)や美しいパノラマが一望できる。
◇住所:〒043-0405 二海郡八雲町熊石大谷町・鉛川。
◇電話:0137-62-2116。



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