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《目次》





アイヌ1(写真と文 ウィキペディアから)




 アイヌ(アイヌ語ラテン文字表記: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны)は、もともと、北海道のみならず、北は概ね北緯50度線付近より南の樺太、東はカムチャッカ半島南部・千島列島全域、(また北海道、および)南は本州にまたがる地域に居住していた民族。日本列島の先住民。(遺伝子的には、後の学者たちが遺跡の発掘によって「縄文人」と呼ぶようになった人々とほぼ合致する)。
 アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する。母語はアイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる(かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。
 アイヌは生業から得られる毛皮や海産物などをもって、和人からは米などの食料、漆器、木綿、鉄器などを入手。黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の地域と交易を行い、永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。そこはアイヌの人々の世界であったのである。
 だが、19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が(列強の政府によって、各国に「編入」され、19世紀中頃にはアイヌも同様の運命をたどった。1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた。日本でも明治時代(1868年〜)に、明治政府により、「蝦夷地」の「開拓」が強く推進されるようになり「開拓民」が送り込まれ、アイヌの人々の土地はまたも侵略されるようになった。(和人の)明治政府は、アイヌの土地を(暴力的に)奪い、取り上げ、(アイヌは狩猟採集が生活基盤だったのに)サケやシカの猟を禁止してしまい(それによって生活困窮状態に追い込み)、さらにアイヌ語やアイヌの生活習慣まで禁止した。
 現在、アイヌは日本とロシアに居住し、(現在では)いわゆる「少数民族」である。現在の日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。1989年の東京都の側の調査(あくまで「和人」の側の行政府側の調査)では「都内には2700人が暮らしている」とされたが、これはあくまで「自己申告」の調査にすぎず、アイヌではルーツを隠して暮らしている人や、自分がアイヌであることを親から知らされていない人も多く、首都圏では少なくとも5000人〜1万人のアイヌが暮らしていると、首都圏で活動しているアイヌの団体は推定している。



アイヌの人たちとともに
−その歴史と文化―
財団法人アイヌ文化振興・研究振興機構


まえがき

 アイヌの人たちは北海道に先住し、独自の言語であるアイヌ語をもち、ユカラをはじめとする口承文芸やイオマンテなどの伝統的儀礼、あるいは特有のアイヌ文様などに代表される豊かな文化を発展させてきました。
 しかし、近世、近代の歴史の中で、同化政策の影響もあり、その社会や文化の破壊が進み、多くの人びとが差別や貧困を余儀なくされ、アイヌの伝統や文化は危機的な状況に追い込まれました。しかし、そのすべてが失われるほど、アイヌの文化はひ弱いものではありません。
 現在、伝統的な生活様式をそのまま続けている人はいませんが、アイヌの伝統文化の中核の部分は、今日まで、しっかりと伝承されています。現代のアイヌの人たちは、その文化の伝統を基礎として、新たな民族文化を育みつつあります。
 アイヌ民族とは、どのような歴史や文化、言語や生活様式をもつ人たちなのか、それらのことを正しく理解していただくために、この小冊子を編集しました。同じ日本の国土に住むアイヌの人たちの生活と文化をよく知り、アイヌ民族の誇りが尊重される社会の実現に向けて、このささやかな冊子が、何らかの手がかりになれば幸いです。
 平成21年7月
        財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構

アイヌ文化まで

 本州が弥生時代を迎え、その後、古墳時代、奈良・平安時代、鎌倉時代と続くころ、北海道は土器を使い、採集・漁狩猟を生業とした時代が続きました。続縄文文化の時代、 擦丈文化の時代と呼ばれる時代です。地域や研究者によって異なりますが、この擦文文化の時代は7世紀ころに始まって、12〜13世紀ころに終わりを遂げるとともに、アイヌ文化が登場しました。

◆アイヌ文化につながる擦文文化
 両文化に共通するところとして、一例をあげますと、集落がサケやマスが遡上する河川の流域、あるいは河口につくられるということです。擦文文化を担った人たちもアイヌの人たちと同様に、季節になると大量に遡上してくるサケやマスを主たる食糧としていたのでしょう。

◆オホーツク文化もまたアイヌ文化と関連する
 擦文文化にほぼ並行して、北海道のオホーツク沿岸域を中心にオホーツク文化が形成されます。このオホーツク文化を担った人たちは、住居内にクマの頭骨を集積していました。クマに対するなんらかの信仰を持っていたものと思われます。アイヌの人たちもまた、クマの霊送り儀礼を行った後、頭骨を住居の外の祭壇に安置しました。  このように、精神文化においては、オホー ツク文化が大いに影響していると考えられます。

◆アイヌ文化の形成
 こうした歴史の流れ、あるいは、現在に伝わるアイヌ文化を見ますと、擦文文化を担った人たちがオホーツク文化の影響を受けながら、アイヌ文化を形成したと考えられますが、その年代などについては、まだ、はっきりとはしておりません。
 近年、北海道南部の上ノ国町の遺跡から、16世紀末から17世紀初めごろに使われていたと考えられる、イクパスイと呼ばれるアイヌの人たちの祭具が出土しており、こうした考古学の発掘等により、古い時代のアイヌ文化の様相が次第に明らかになってくると思われます。


  歴史

 アイヌ文化の成立は12〜13世紀ころといわれていますが、私たちがアイヌの人たちを史料のうえで、確認できるのはおおよそ15世紀ころからです。そのころ、アイヌの人たちは漁狩猟や植物採取を主な生業にしてくらし、また他地域の人たちと交易を行っていました。和人注)がこの島に住み始めた時期は定かではありませんが、15世紀ころにはその居住地は東はむかわ、西は余市まで広がり、現在の函館付近には若狭(福井県南西部)から商船が来航し、問屋や鍛治屋も設けられていました。蝦夷地(北海道)からは蝦夷三品と呼ばれていた昆布、干サケ、ニシンや北蝦夷地(樺太、現サハリン)を経由した中国産品などが移出され、本州からは鉄製品、漆器、酒などがもたらされました。アイヌの人たちは本州へ移出される品物の直接、間接の生産者であり、交易者でした。
 注) 和人 : 明治以前においては、本州から渡来してきた人たちをいい、現在は、日本のなかで一番人数の多い人たちを、アイヌの人たちと並べて呼ぶときの呼び名です。

◆アイヌの人たちとの妥協
 康正2(1456)年、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって志苔(現在の函館)の鍛冶屋と口論となり、鍛冶屋がその小刀で若者を刺し殺したことをきっかけに、翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。和人の増加に伴い、そのうちの有力者は領主化し、その拠点は舘(たて)と呼ばれています。渡島半島南端部には12の舘が点在していました。
 コシャマイン親子はこれらの舘を次々に破り、2つの舘を残すだけになりました。残った舘の一つ花沢舘(舘主 蠣崎季繁=かきざきすえしげ)の客将で、あった武田信広はだまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅の危機を脱しました。この功績で武田信広は蠣崎家を継ぎ、後の松前家の祖になります。しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的に行われました。これらの戦いのいくつかは蠣崎氏がその統率者をだまし討つことによって終わらせたものもあります。長期に及ぶ戦いの起因はアイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和にあったと考えられています。蠣崎氏は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船からの徴税権を確保していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。天文19(1550)年、「夷狄(いてき)の商舶往還の法度」を定め、アイヌの人たちの懐柔と妥協をはかりました。これによって、アイヌの人たちの長(おさ)2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内に住まわせ、両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の一部をそれぞれの長に分配しました。また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして一礼し、往来するようになりました。

◆生産者から漁場労働者へ
 文禄2 (1593) 年、蠣崎慶広=よしひろ(武田信広から5代目)は名護屋で豊臣秀吉、慶長4(1599)年に大坂で徳川家康に会いました。この時姓を蠣崎から松前に改めます。その後、慶長(1604)年には家康から黒印状が与えられ、蝦夷地における交易の独占を認められました。幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの交易権を地域を限って分与しました。これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びました。知行主(商場を給された藩士)は、年に1度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益でくらしをたてました。その後、知行主はアイヌの人たちとの交易に要する経費、さらに生活費までを商人から借用し、交易によって得た品物を商人に渡して借金の返済にあてました。しかし、商品への借金が増えると、知行主は一定の金額をとって、商場を商人に請負わせるようになりました。これを場所請負制といいます。場所を請負った商人は知行主と商場でアイヌの人たちと交易を行っていました。しかし、元文5(1740)年ころから始まったといわれる長崎俵物 ( 煎海鼠=いりなまこ、白干鮑、昆布など)、本州における藍などの換金作物の肥料となる〆粕などの漁獲物の需要が高まると、商人自らが漁業を行うようになります。漁業に進出した商人は漁具の改良、新技術の導入によって、漁獲の増大をはかるとともに、アイヌの人たちを漁場の労働力として使役するようになりました。ここにおいて、これまで生産者・交易者であったアイヌの人たちは漁場に隷属させられた労働者としてくらすことになります。

◆シャクシャインの戦いと国後島における挙兵
 シャクシャインの戦いは日高地方に生活圏をもっアイヌの人たち2グループの漁猟権をめぐる争いから始まりました。しかし、寛文9 (1669) 年には一方の統率者シャクシャインの呼びかけに呼応した蝦夷地のアイヌの人たちと松前藩の全面戦争に発展しました。戦いはほぼ互角に推移し、和睦を結ぶことになりました。和睦の酒宴の席で、シャクシャインはだまし討ちによって殺害され、アイヌの人たちの戦いは終息しました。これによって、アイヌの人たちは松前藩に従うことを認めなければなりませんでした。
 これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易は単なる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁重に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだまし討ちにされました。
 シャクシャインの戦い以後、和人の優位がゆるぎないものになります。多くのアイヌの人たちは漁場労働を強いられ、場所請負人そしてその配下の者たちの酷使や交易の不正に耐えなければなりませんでした。松前藩による場所の開設とアイヌの人たちの使役は松前の遠隔地へと広がっていきました。このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた国後(くなしり)島のアイヌの人たちは、国後場所請負人飛騨屋久兵衛の運上屋による酷使や不正に立ちあがり、さらに対岸の日梨(めなし)地方(現在の標津地方)に戦いは広がりましたが、国後と厚岸の首長の説得によって、戦いは収まりました。しかし、松前藩が派遣した討伐隊は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰しました。この戦いよって、松前藩は国後島や道東部のアイヌの人たちを制圧し、 その支配に組み込んでしまいました。この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。

◆政治のはざまで
 徳川幕府は、国後・目梨の戦いの10年後、アイヌの人たちの苛酷な漁場労働と不正による場所経営と、ロシアの南下に対する警戒から、寛政11(1799)年に蝦夷地の南半分東蝦夷地、そして文化4(1807)年からは松前藩を梁川(現在の福島県)に移し、蝦夷地の北半分一西蝦夷地と北蝦夷地を直接治めました。アイヌの人たちがロシアの懐柔策にのせられないように、幕府はアイヌの人たちと公正な交易を行うとともに、本州他藩に蝦夷地防備の兵を派遣させました。交易による収益は蝦夷地経営に使いましたが、道路開削、防備体制の拡大などは交易の収益を上回るものになりました。ロシアに対する警戒心も薄れ、松前藩の復領運動もあって、文政4(1821)年には蝦夷地は松前藩に戻されます。
 安政2(1855)年、箱舘へ外国船の寄港が認められると、その周辺を幕府が直接治めるようになり、翌年には幕府の統治は蝦夷地とその周辺の島々に及びます。ただし、渡島半島南西部は松前藩領のまま残されました。その目的はロシアに対する防備の強化のほか、蝦夷地開拓や殖産興業にありました。
 徳川幕府は、アイヌの人たちが日本に帰属すること、そしてその居住地が日本領であることをロシアに主張するために、交易や保護をとおしてアイヌの人たちを懐柔し、さらに松前藩が禁じていた笠、蓑、草履の着用を解禁し、さらに髪形、着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れずみ、クマの霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとしました。とりわけ、2度目の統治の際には、その政策はさらに強化されましたが、アイヌの人たちの反感をかってしまいました。アイヌの人たちが培ってきた風俗や習慣はそのくらしに深く根をおろしており、力をもってしても簡単に変えることができないことをものがたっています。

◆日本国家への編入と北海道開拓
 明治2(1869)年、明治新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め、一方的に日本の一部としました。そして、アイヌの人たちを「平民」として戸籍を作成し国家に編入しましたが、そうする一方で、「旧土人」と呼び表して差別し続けました。
 同じ年、北海道を治めるために置かれた開拓使は、アイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じ、和風化を強制する政策をとりました。また、アイヌの人たちが利用してきた士地や資源を取り上げて国の財産だとしたうえで民間に売り払うことにし、鮭漁や鹿猟を禁止したりもしました。脱亜入欧・富国強兵をめざす国家体制の改編とともに、生業と生活の転換を強いる社会的圧力が急速に大きくなっていったのです。
 こうした和人本位の開拓優先政策の結果、アイヌの人たちは食べるものにも困るようになりました。農業を勧奨する事業が行われたりもしましたが、急に暮らしのしかたを変えるのは多くの場合難しいことでした。そして、アイヌの人たちは財産の管理能力がないと決めつけられ、土地私有や各種資産にたいする権利が制限されました。  政府は、明治8(1875)年にロシアとのあいだで樺太・千島交換条約を結ぶと、サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを無理やり北海道や色丹島に移住させました。しかし、移り住んだ、人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなってしまいました。このようなアイヌの人たちの強制的な移住は、その後も各地で行われました。


◆「北海道旧土人保護法」の制定
  明治19(1886)年には北海道庁が置かれました。道庁は土地と資源の民間への引き渡しと開拓をさらに進め、アイヌの人たちの住む場所を狭めていきました。
 こうした政策の中でアイヌの人たちの困窮がいっそう甚だしくなると、明治32(1899)年に「北海道旧土人保護法」が作られました。この法律は、農業のための土地を「下付」し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。
 土地を与えられたアイヌの人たちの中には農業経営に成功した人もいましたが、農地にすることに失敗して土地を取り上げられたり、はじめから農業に向かない土地を与えられた人が多かったのです。また、アイヌ民族への下付地は、和人、とりわけ大きな資本を持つ者などに与えられた土地に比べはるかに狭いものでした。「北海道旧土人保護法」によるアイヌ民族への下付地は一戸あたり1万5千坪が上限でしたが、明治5(1872)年の「北海道土地売貸規則」では和人一人あたりに10万坪、明治30(1897)年の「北海道固有未開地処分法」では150万坪を限度に開墾した土地を無償で払い下げるとしたことと比較するならば明らかな民族差別でした。
 学校の設置にあたっては、子どもに教育を受けさせようと、土地や資金を寄付するアイヌの人たちもいました。しかし学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化は否定され、日本語や和人風の生活のしかたを覚えなければなりませんでした。また「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことでした。

◆大正期から15年戦争の時代
 1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」ということばに表されるように社会に自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も活発に行われるようになりました。差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという偏見と無理解への批判、自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどが、アイヌ自身によって行われ、民族的な組織を結成する動きもありました。町や村の議会議員選挙で当選する人もいました。
 昭和9(1934)年に「旭川市旧土人保護地処分法」が制定されましたが、これは今の旭川市近文でアイヌの人たちが住んでいた土地を追い出されそうになった問題に対応してとられた措置でした。アイヌの人たちは、代表が東京で陳情運動をするなどして、土地が取り上げられるのを防ぎましたが、 本来下付されるべき士地を共有財産として北海道庁長官の管理下におくなど、後に問題を残す形で収束が図られました。

◆第2次大戦後のアイヌ民族の活動
 第2次世界大戦における日本国の敗戦後、アイヌの人たちが社会的地位を高めて誇りある民族となることなどを目ざして、社団法人北海道アイヌ協会(1961年に社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立されました。そのころ地主から土地を取り上げて小作農に安く売り渡す農地改革が進められましたが、「北海道旧土人保護法」でアイヌの人たちに下付された土地もこの政策により少なからず失なわれてしまいました。北海道アイヌ協会はこれに反対しましたが、アイヌ民族の土地が 不当に収奪されてきた歴史的事情を考慮した措置はなされませんでした。明治期からの一連の施策と経済的事由に起因する不法な権利移転などの結果、アイヌのものとして残っている下付地は、今では当初の15%未満にすぎません。
 1960年代になると、生活上の格差や困窮の解消のために、アイヌの人たちが多く暮らす 地域で集会施設(生活館)や共同作業所などを設置する環境整備事業が開始されました。また、昭和49(1974)年からは、住居・就労・修学などの面での個人対策も盛り込んだ「北海道ウタリ福祉対策」が開始されました。これは7ヶ年の計両でしたが、その後も施策の重点や名称を変えながら現在まで継続されています。また、1970 年代には独自の丈化を保存、継承するための活動も広がり始めます。
 昭和59(1984)年に北海道ウタリ協会は、アイヌ民族の基本的人権を回復し差別をなくすこと、政治にアイヌ民族代表の意見を直接反映できるようにする特別議席、教育・文化面における総合的な施策実施、経済的自立のための農業、漁業、林業、商工業等の諸条件整備などを求めた「アイヌ民族に関する法律」案を作り、提案しました。そして、この新しい法律の制定を北海道や政府、国会などに働きかけていきました。とくに昭和61(1986)年、当時の中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言した問題などを契機としてアイヌ民族をめぐる議論や運動が活発になっていきました。また、先住民族の権利をめぐる世界の動向に関心が払われるようになり、海外との交流も積極的に行われるようになりました。さらに、こうした動きを背景にアイヌ民族として初めての国会議員が生まれました。

◆「アイヌ文化振興法」の制定 ―民族としての誇りが尊重される社会の実現をめざして―
 新しい法律を求めるアイヌの人たちを中心とした幅広い運動に応じて、平成9(1997)年、国会は「北海道旧土人保護法」を廃止し、新しく「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」を制定しました。これは、北海道ウタリ協会が要求していた項目の内で主に文化に関わる面だけを反映したものです。しかし、目的を「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」(第1条)としているように、国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化を是としてきた従来の姿勢から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進することを国及び地方公共団体の責務と位置づけたものとなっています。

◆国内外の社会の動き
 先住民族は、その土地に古くから原住していながら、今日の国家、社会の中で支配・圧迫を受け不利な立場におかれているという境遇において共通性を有しています。
 近代・現代における世界の激しい動きを振り返るならば、どんな地域のどんな民族も旧来の主要な生業や生活、それらを基盤とした「伝統的」文化になんの変容もないということはありえないと言えるでしょう。しかし、ある民族が自ら志向し選択したのではない変わり方を他から一方的に強いられ、その状態が長い間是正されなかったために、大きな喪失感や不信感、否定的影響などが幾世代にもわたって継続するという現象は、残念ながら世界各地で、見受けられることです。アイヌの人たちの場合も、民族としての集団的な権利が保証されず自主的で多様な発展の可能性が制限された状態が長く続いてきました。
 国連では、世界の先住民族が失った権利をどのようにして回復するかについて、長年、検討が進められてきました。そして、平成19(2007)年9月、国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されました。この宣言には民族の自決権や土地・資源の権利、知的財産権など、各国が達成すべき基準が明記されています。
 また、同内では、この国連宣言を踏まえて、平成20(2008)年6月、国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、この決議を受け、内閣官房長官は、アイヌの人々が「先住民族であるとの認識の下に」アイヌ政策に取り組む旨の政府見解を表明しました。そして、同年7月、政府は「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置しました。
 こうした社会の動きとともに、アイヌの人たちやアイヌ文化に対する一般社会の関心がより一層高まっています。しかし、アイヌの人たちにとって、差別の解消や生活の安定など、解決されていない課題がまだ残されており、このような状態を改めるためにも、これまでのアイヌ政策が更に推進されるとともに、新たな総合的な施策の確立が望まれるところです。

言葉

◆身近なアイヌ語
 アイヌ語はアイヌの人たちの独自の言葉です。このアイヌ語に触れる身近なものとして地名があります。アイヌ語の地名は北海道をはじめ、サハリン(樺太)や千島列島、それに東北地方にもあります。たとえば、登別(のぼりべつ)や稚内(わっかない)にも使われている「ベッ」や「ナイ」という言葉は、アイヌ語で「川」を意味しています。このことから、こうした地方には昔からアイヌ語を話す人たちが暮らしていたことがわかります。
 このほかに身近なアイヌ語として、魚の「シシャモ」や海に住む動物の「ラッコ」、それにサンタクロースのソリをひく「トナカイ」などがあります。

◆物語
 アイヌの人たちはたくさんの物語を親から子へと伝えてきました。内容は少年や少女が主人公の冒険物語や、クマやキツネなどの神様が主人公の物語、昔のできごとや昔の人が体験した話など、いろいろな種類の物語があります。特に、冒険物語や神様の物語は、語る人が独特のメロディーに乗せて語ります。
 このような物語のなかには、自然のなかで生きていく知恵や自然を上手に使う方法などが盛り込まれていることも多く、話を聞くなかでさまざまなことを学べるようになっています。

◆アイヌ語のいま
 明治になってアイヌの人たちは、言葉や習慣を本州の人たちと同じようにさせられ、学校でも日本語を教えたので、だんだんアイヌ語を話す機会が失われていきました。そして、アイヌ語を話せる人も少なくなってしまいました。しかし、現在は祖先から伝えられた言葉を多くの人たちが話せるようになるよう、各地でアイヌ語教室が開かれたり、ラジオでもアイヌ語講座が放送されるなど、いろいろな活動が行われています。

信仰

◆神々との共生
 アイヌの人たちは、自分たちがくらすアイヌモシリの動植物、道具類、津波や地震、流行病などはラマッと呼ばれる“霊 ”をもっており、これらの事象はそのラマッが住む世界からそれぞれの役割をもってアイヌモシリにやってきており、その役割を終えるとふたたびもとの世界にもどると考えていました。
 一方、アイヌの人たちにとっての神々は、そのくらしに欠くことができないもの、あるいはアイヌの人たちの力が及ばないものなどです。生活のかてとなる動植物はおおむね良い神ですが、流行病や天災はくらしをおびやかす悪い神とされています。
 アイヌの人たちは事あるたびに、神への祈りを行いますが、どの神に祈るときにもまずアベフチカムイと呼ばれる火の神に祈り、そしてその祈願が正しく神に届くようにお願いします。アベフチカムイはチセのなかに設けられた炉におり、アイヌの人たちのくらしをあたたかく見まもる、もっとも身近な神です。

◆神々の霊を送る
 アイヌの人たちが行う「クマ祭り」は多くの人びとに知られています。しかし、その本意とするところは、毛皮や肉などをアイヌの人たちに届ける役割を果たすために、アイヌモシリを訪れたクマの“霊”をそれが住む世界へ送り帰すための儀礼です。したがって、正しくは「クマの霊送り」です。霊を送るにあたっては丁重な儀礼が行われ、そして盛大な饗宴とおみやげが伴います。アイヌの人たちにとって、アイヌモシリに生起する事象がもつ“霊”をその世界へ送り帰すことは、とても大切な儀礼となっています。それがアイヌの人たちのくらしに密接であればあるほど、盛大かつ厳粛に行われます。

住まう

◆コタンの生活
 アイヌの人たちは、食べ物や飲み水が得やすく、災害にあわないような川や海沿いの場所を選んで家を建てて村をつくりました。
 この村はコタンと呼ばれ、数軒から十数軒の家が建ち並んでいました。人びとは村おさを中心にコタンのまわりにある山や川、海の決まった場所で狩りや漁、植物採取をしながら生活していました。

◆チセのようす
 このコタンに建っていたアイヌの人たちの家をアイヌ語で「チセ」といいます。骨組みの木や屋根・壁など家をつくる材料は、すべて自然のものを利用しました。たとえば、骨組みの木はハシドイやヤチダモ、壁や屋根の材料にはアシやササなどの草やキハダや樺といった木の皮などが使われていました。チセを建てるときは、材料を採ってきて家を建てるまでコタンの人たちが協力しあいました。チセは、屋根の傾きが4方向にあり、多くは入り口のところに玄関や物置として使われた小さな部屋がついていました。
 大きさは 20uから100u程度まで、さまざまだったようです。

◆チセのなか
 このチセの内側は四角形の一間で、真ん中よりやや入り口寄りに炉があり、窓は入り口から入って正面に1ケ所と右側(または左側)に1・2ヵ所ありました。このなかでも特に正面の窓は神様が出入りする窓といわれ、とても大切にされました。また、左奥には宝物置き場があって漆塗りの容器や刀などが飾られ、その上には家の神様が祀られていました。
 チセのなかでは、家族が座る場所やお客の席、寝る場所なども決まっていました。このような伝統的なチセは、時代の流れのなかで次第に姿を消してしまいましたが、現在は博物館や伝承活動をしているところで復元したものを見ることができます。

◆チセのまわり
 チセのまわりには物干し、食糧庫、便所などの生活に必要な建物や神様に祈りを捧げる祭壇、クマなど飼育する檻などが建っていました。こうしたチセとまわりの建物は、同じ地方であれば、どこも同じような配置をしていました。


生業

◆生活を支えた漁狩猟・植物採取
 北の厳しい自然のなかでくらすアイヌの人たちの生活は、四季をとおし山野、海、川での狩猟、漁労、植物採取などの労働によって営まれました。労働は、食糧を得るためや身の回りの生活用具をつくるために行われ、狩猟、漁労などの重労働は男性の仕事として、また、山菜採りや機織りなどの軽作業は女性や子どもの仕事となっていました。生活を支える主な仕事は、早春には山野でエゾシカ、ヒグマ猟、山菜採り、夏には川でマス漁、秋には川や沖合いでサケ漁、山菜採り、冬はウサギ、クロテンなどの小動物猟というように一年をとおして行われました。
 エゾシカ、ヒグマ、アザラシ、トド、オットセイなどの動物、マス、サケなどの魚類やオオウバユリなどの山菜は、貴重な食糧として捕獲、採取され、エゾシカ、ヒグマ、アザラシ、サケの皮は、衣服、靴、物入れなどの材料に用いられました。
 また、オヒョウニレ、シナノキ、イラクサなどの植物は、主に衣服や物入れをつくるために採取され、千島地方ではエトピリカなどの鳥類もまた衣服の材料として捕獲されました。それぞれの労働には、目的に応じた弓矢、仕掛けわな、マレク(突き鈎)、キテ(鈷)、捕獲網、掘り具、穂づみ具、織り機、マキリ(小刀)など数多くの用具が使用されました。
 和人から栽培技術が入ってくると、伝統的な狩猟、漁労、植物採取の労働に加え、簡単な農耕も行われるようになりました。

◆海を越えた交易
 このような労働によって得られた収穫物は、アイヌの人たちの食糧や生活用具の材料の獲得のほかに、エゾシカ、クロテンなどの動物の毛皮やタカの羽などのようにガラス玉、絹織物、金属製品などと引き替えに和人をはじめサハリン(樺太)、沿海地方、カムチャツカ地方などに住んでいる周辺の民族へ交易品として渡っていったものもあります。
 また、アイヌの人たちの生活を支えた仕事の内容やそこで使われたマレク漁、キテ漁、仕掛けわな猟の狩猟、漁労用具などは、沿海地方やカムチャツカ地方などに住む周辺の民族の場合とよく似ています。このことは、アイヌの人たちが周辺の民族とふれあい、交流を重ねながら自らのくらしを築いてきたこのを物語っています。

食べる

 私たちのいう「自然」に食糧を求めていたアイヌの人たちは、一年の多くを食糧採取に費やしました。特に、野生植物は、一度で取り尽くしてしまうようなことはせず、必ず「根」を残し、次の年の分を確保しながらの採取でした。四季折々にとれる野生植物や動物、魚介類は家族の食卓にのぼるとともに、長い冬の間の食糧として、また、飢饉などに備えるために蓄えられました。
 調理には、「煮る」「焼く」「炊く」という方法が用いられました。主食として、山菜をベ ースに、動物の肉や魚を入れて煮たオハウ、ルルがありました。オハウは、用いる材料によって、チエプオハウ(サケを入れた汁)、プクサオハウ(ギョウジャニンニクを入れた汁)、カムオハウ(動物の肉を入れた汁)などと呼ばれました。
 副食には、アワやヒエなどの穀物を煮たサヨ、山菜を汁気がなくなるまで煮込んだラタシケプがあり、生の動物の肉や魚は、串にさして焼いて食べました。また、季節によっては、「生で食べる」こともありました。

◆儀礼の際の食事
 クマやシマフクロウの霊送りや祖先供養、婚礼や葬礼などのときには、普段の食事に加えて、雑穀類を炊いたもの、団子など特別な料理がつくられました。一年に数回しか味わうことのできないこの特別な料理は、人間だけでなく、祖先や神々もともに食べ、ともに楽しむものでした。

◆いまに伝える
 江戸時代の終わりころになると、アイヌの人たちも野菜をつくるようになり、多くの料理に用いられました。また、明治以降、本州からの移住者の増加とともに、アイヌの人たちを取り巻く環境も大いに変化し、食生活もまた大きく変化しました。その一例として、調味料の使用などがあります。現在、北海道内各地で、つくられる料理もこのころにつくられたものを基本としています。チェプオハウやラタシケプなどといった料理の多くは、日常の料理として、あるいは儀礼の際の料理として盛んにつくられており、その伝統はいまに伝わっています。

着る

◆ふだん着と晴れ着と
 日々の生活においてアイヌの人たちが身にまとう衣服には、ふだん着と特別な儀式のときの晴れ着とがあります。アイヌの人たちの最も古くて伝統的な衣服は、江戸時代後期に和人が記した『蝦夷嶋奇観』などに見ることができます。そのなかにはアイヌの人たちが伝統的につくり上げてきた衣服や他の民族との交流、交易によって手に入れた衣服があることがわかります。
 アイヌの人たちがつくり上げた伝統的な衣服には、オヒョウニレやシナノキなどの樹木の内皮で、織った衣服やイラクサの植物繊維で織った衣服、サケ、マスなどの魚皮を継ぎ合わせてつくった衣服、アザラシ、ヒグマなどの動物の毛皮でつくった衣服、エトピリカの鳥羽を縫い合わせてつくった衣服があります。
 また晴れ着には、和人など他の民族との交流、交易で手に入れた木綿や絹製の布でつくられた衣服や山丹服、陣羽織のように他の民族が使用した衣服を手に入れて儀式用に着られた衣服などがあります。
 多くの種類の衣服のなかでも、母から娘に伝える伝統的な技術でつくられたアイヌの人たちの衣服は、男性用、女性用の区別がなく、北海道内各地域やサハリン(樺太)など、その地方の特徴をあらわす文様が施されたものが多くみられます。
 また、衣服のほかに身につけられるものには、儀式や労働のときの鉢巻き、手甲、脚杵、前掛けや冬山などで狩りをするときに寒さを防ぐ木綿や毛皮でできた帽子、サケ皮、シカ皮でつくられた靴などがあります。

◆独自の文様を施す
 このような衣服をはじめ身につけられるものには、刺しゅうや継ぎ布などによって渦巻き文や括弧丈と呼ばれるアイヌ文様が施されています。
 衣服のそで口やすそ周りなどの文様はそこから悪い霊が入り込まないように施されていると言い伝えられ、これらの文様を見ると沿海地方やサハリン(樺太)地方に住む他の民族の衣服の文様とよく似ており、お互いの交流をとおして影響しあったことがわかります。
 また、衣服とともに着飾るものには、クマの霊送りなどの特別な儀式のときに身につけられる削りかけの冠、飾り太刀などの男性用装身具や首飾り、耳飾りなどのように、他の民族から手に入れたものが数多くあります。

芸能

◆舞踊
 アイヌの人たちは儀式のとき、親しい人たちが集まったとき、あるいは仕事をしているときなどには必ずといっていいほど歌い、踊りました。踊りには、リムセ、ウポボ、ホリッパと呼ばれる大きな輸になって踊るもの、神々への祈りを表したもの、遊びの要素を含んだもの、悪い神を追い払う儀礼から生まれたもの、豊漁猟を祈願するもの、労働の様子を表したもの、動物の動きを表したものなど、さまざまな種類がありますが、そのほとんどは女性を主として踊られるもので、男性だけの踊りはごくわずかです。楽器を伴わず、すべて踊り手やその場にいる人たちの歌と手拍子で踊られます。
 アイヌの人たちにとって踊りとは、自分たちが踊って楽しむものであり、また、神々もまた一緒になって楽しむものでした。

◆想いを表す歌
 こうした踊りとともに、「ヤイサマ」「ヤイサマネナ」などと呼ばれる歌があります。主に女性が歌うもので、哀しみや異性に対する恋心など自分の心の内を歌で表したもので、個々人がそれぞれの歌詞やメロディーを持っています。  現在では、かつて個人が歌っていたものがその地域の多くの人たちによって伝承され、共有の歌として歌い継がれています。

◆ムックリ
 アイヌの人たちの楽器の一つで、口琴、口琵琶とも呼ばれています。ネマガリダケなどを材料とした、長さ10〜15cm、幅lcmの薄い板状のもので、中央は舌状にくり抜かれ、左右に糸がつけられています。糸を手に片方を口の端に当て、もう片方で糸を引くことによって、舌状の部分が振動し、音が出ます。呼吸に合わせた口の開閉、糸を引く力の強弱により、いろいろな音を出すことができます。口琴は、アイヌの人たちをはじめとして、台湾の原住民、北方圏の少数民族など、世界各地にあります。


◆トンコリ
 主にサハリンアイヌが使用した琴状の楽器です。一本の木をくり抜いて胴体とし、天板を張り合わせています。長さ70〜150cm、幅15cm 前後の大きさで、五弦の他、三弦や六弦のものなどもあります。材料として、胴体にはエゾマツ、イチイ、ホオノキなどの木が、弦にはエゾイラクサの繊維を固く撚(よ)ったものや、クジラやシカ、トナカイの腱などが使われました。抱きかかえるようにして持ち、弦をおさえず、両手ではじくように弾きます。

アイヌ文化の現在

 明治以降、アイヌの人たちは固有の文化を否定され、いわれのない差別を受けるなど、苦難の道を歩んできました。「滅び行く民族・文化」としてアイヌの人たち・文化はとらえられ、そうした観点から、金田一京助をはじめとする和人の研究者がアイヌ文化の調査・研究を行いました。
 しかし、アイヌの人たちは、社会の偏見に屈することなく、自分たちの文化の伝承・保存に尽力してきました。そうした人たちのひとりとして、金成(かんなり)マツ、知里幸恵(ちりゆきえ)、知里真志保(ちりましほ)などがいました。知里幸恵は、大正12(1923)年に『アイヌ神話集』を著し、アイヌのユカラ(神謡)を世に紹介しました。また、金成マツは、ユカラなどの口承文芸をローマ字で書きつづり、大学ノート数十冊に及ぶ記録を遺しています。さらに、違星北斗(いぼしほくと)、森竹竹一(もりたけたけいち)、パチエラー八重子など、アイヌとしての主張や想いを短歌や詩で表現するなど、文芸活動を通して民族のアイデンティティを求めるといった活動も行われました。

◆精神文化−儀礼の復興
 明治以降の社会の変容のなかで、アイヌの人たちにとって大きな打撃となったものに、信仰の自由を奪われたことがあげられます。特に、アイヌの人たちの儀礼のなかで最も重要かつ盛大に行われるクマの霊送りをはじめとして、新しいサケを迎える儀礼もサケの捕獲の禁止とともに、実施が困難となってしまいました。
 昭和50年代になると、儀礼の復興が叫ばれ、平取や白老、旭川などでクマの霊送りが行われ、昭和58(1983)年には、屈斜路湖畔で、シマフクロウの霊送りが行われています。また、札幌市の豊平川では、昭和57(1982)年から新しいサケを迎える儀礼が行われており、この儀礼は近年、他の多くの地域でも行われるようになりました。さらに、祖先供養も各地で盛んに行われています。

◆伝統舞踊
 伝統舞踊は、地域的な特色をもって伝承・保存されてきました。これまで、北海道内各地で20の保存会が組織され、そのうち17保存会が伝承・保存する伝統舞踊が、国の重要無形民俗文化財に指定されています。毎年開催されるアイヌ民族文化祭やアイヌ文化フェスティバルにはこれらの保存会が参加して、地域に伝わる舞踊を披露しており、近年は海外での公演も活発に行い、アメリカやイギリス、フィンランドといった国々において、アイヌ文化の紹介を行っています。さらに、各地で、実施される各種儀礼においても舞踊が披露され、保存会の人たちをはじめとして、儀礼に参加した人たちもともに踊り、 楽しんでいます。
 アイヌ文化伝承者の高齢化が叫ばれる今日において、若い人たちの舞う姿が多く見られるようになり、伝承の輪が大きく広がっています。

◆さらなる広がり
 平成9(1997)年の「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」の制定後、アイヌの人たちの文化伝承・保存活動はより活発になりました。先に記した精神文化の復興のほか、「家をたてる」「舟をつくる」「着物をぬう」といった生活文化の復興が北海道各地、さらには関東周辺を中心とした本州に居住するアイヌの人たちによって行われており、これまでの「点」としての文化伝承・保存活動が「面」としてさらなる広がりを見せるようになりました。
 こうした背景に、苦難のなかにもしっかりと伝統文化を受け継いできたエカシ(おじいさん)やフチ(おばあさん)たちの尽力があることを忘れではなりません。■



AINU ART−風のかたりべ−




 「AINU ART−風のかたりべ−」は、北海道立近代美術館(〒060-0001 札幌市中央区北1条西17丁目 電話011-644-6882)で、2013年2月2日(土)−3月24日(日)まで開催。

工芸超えた芸術の世界
 アイヌ民族の工芸品は、民族学の観点から博物館などで展示されることが多かった。近代に収集された工芸品から現代の作品まで約280点を、道立近代美術館に一堂に集めた「 A INU ART(アイヌアート)−風のかたりベ」展は、美術館では初めての本格的な展示だ。企画委員を務めたアイヌ民族博物館(白老町)の野本正博館長は「ここにあるのはクラフト(工芸)を超えたアート(芸術)の世界。アイヌアートは古いものではなく、今の世界に息づく存在だということを伝えたい」という。一方で、伝承されてきた文様などを現代風にアレンジすることに抵抗感を抱く人もいる。アイヌ民族が差別の対象となり、文化の継承が危ぶまれる時期が長かったことが背景にある。だが、今回展示されている現代の作家はすべて、伝統を基盤に独自の作風を築いた人々だ。五十嵐聡美主任学芸員によると、例えば会場に並ぶ古い衣服や木製祭具「イクパスイ」を見ると、過去の作り手の多様な個性がわかる。「自分の家の基本文様を好きなようにアレンジするなど、もともとアイヌの人々は自由に作っていたと思う。現代の作家の幅広い表現の中で、アイヌアートが持つ強い力を感じてほしい」と話した。連載「風の歌 森の声」では、現代作家9人と、その作品を紹介する。朝日新聞道内版2013.2.19付

アイヌ・二風谷伝承の木製盆・樹皮反物


二風谷イタ(右)と二風谷アットゥシ=平取町文化情報センター

 平取町に伝わるアイヌ民族の工芸品「二風谷(にぶたに)イタ」と「二風谷アットゥシ」が、経済産業省から「伝統的工芸品」に指定されることになった。道内からは初めて。二風谷イタは沙流川流域に伝わるアイヌ文様が施された木製の盆。素材はクリミやカツラなどだ。二風谷アットゥシはニレ科のオヒョウなどの樹皮の内皮から作った糸で機織りされた反物。着物や帯、財布などとして販売されている。伝統的工芸品は?@主として日常生活で使う?A製造は手作業が中心?B100年以上の歴史があり、伝統的技法で製造?C地域産業として成立している−などの条件がある。石川県の輪島塗や沖縄県の宮古上布など全国で212品目が指定されているが、北海道は都道府県で唯一なかった。二風谷地区のイタは、江戸時代にアイヌ民族からの献上品として扱われていたことが資料に残され、アットゥシも明治初期に英国人旅行家イザベラ・バードの旅行記に記され、いずれも制作が続けられてきた。アイヌ工芸職人らでつくる二風谷民芸組合(貝沢守代表)は、町とともに準備を進め、昨年末に申請。2月初めに聞かれた経産省の産業構造審議会伝統的工芸品産業分科会指定小委員会で指定が了承された。3月にも官報に告示される。商品に指定を示すマークを付けられ、後継者育成などに国から補助金を受けられる。貝澤代表は「指定を新たな出発点とし、後継者の育成や販路開拓に取り組みたい」と話した。(深沢博) 朝日新聞道内版2013.2.19付



◆アイヌアートの作家たち











父に導かれた極めの技 藤戸 竹喜(ふじと たけき)さん(78)


藤戸竹喜さんの作品「リラックス」(道立近代美術館提供)(左) 趣味の大型オートバイにまたがる藤戸さん=釧路市阿寒町阿寒湖温泉2丁目、堀英治撮影

 サケを捕り、シカを襲い、親子で戯れる。歩きながらふっと斜めに顔を上げる−。そんな自由で生き生きとしたクマの姿を、ぶっつけ本番で彫り上げる。毛の一筋一筋ののみ跡も鋭く、他の追随を許さない。「昔は観光地でみんなクマを飼っていた。自分でも飼って大好きだったな」旭川市で生まれ、木彫り職人の父、竹夫さんのもと、12歳でクマを彫り始めた。せっかく彫っても、父は気に入らないと割って火にくべた。どうやったら割られないか、必死になった。職人の多い土地を渡り歩き、「武者修行」もした。1963年、29歳の時。「お前のサケに負けた」と突然、父が言った。翌年、父が亡くなったとき、「『竹喜にクマも負けた』と言ってたよ」と身内から聞いた。父の教えは「クマが完成するまで他のことをやるな」。40歳ごろまでクマ彫り一筋できた。転機は69年、観音像を半年以上かけて彫り上げたことだ。移り住んでいた阿寒湖畔(現・釧路市)の人から依頼されたが、やり方がわからない。本州まで仏像を見に行き、山中にこもって制作した。やり遂げたとき、「基本のクマが彫れれば何でも彫れる」と、自信がついた。それから人間の等身大の立像や胸像を作り始めた。どれも、本人が目の前にいるかのようだ。現在、道立近代美術館で展示中の「ふくろう祭り」は、1月に完成したばかり。村々に踊りを見せて歩いたとされる曽祖父がモデルで、頭と両腕にフクロウの飾りをつけ、軽く右足を踏み出している。足首に着けたクルミと小石の鈴の音が聞こえてきそうだ。自ら、「私の最高の作品」と言う。趣味は、大型のオートバイ。米国のハーレータビッドソン製などを7台持っていたこともある。今もガラスの壁の車庫に2台。時折、ドイツ製の3輪オートバイにまたがり風を切る。(林美子) 朝日新聞道内版2013.2.19付



伝統ふまえ自己表現 川村 則子さん(66)


川村則子さんの作品「Spirit of the Ainu」(道立近代美術館提供)(左) 海を望む仕事場には、手縫いしたアイヌ伝統衣装や各地で集めた布などの材料が並ぶ=小樽市、杉本康弘撮影

 渦巻く赤とオレンジ、重なり合う彩り、アイヌ文様のモチーフが独特の印象を添える。布を、まるで絵筆で描くように、自在に縫い付けたタペストリー(壁掛け)は力を放ち、様々なイメージを呼び起こす。「『これはこうですよ』とは言いたくない。見た人が自由にというのが理想」旭川市生まれ。父は上川アイヌの中心的存在でアイヌ民族の文化伝承に尽力した故・川村カ子ト(かねと)氏。東京で10年暮らした後、30歳で子ども2人と北海道ヘ。生活のために和裁を習い、札幌の呉服店に勤めた。祖父母の手仕事を見て育ったものの、「家で針仕事を教わったことはない」。誘われて30代前半にアイヌ衣装の手縫いを学んだのが、創作を志すきっかけだった。1982年、旧ソ連のタシケント美術館で開かれた北海道の伝統工芸展にアイヌの着物を出品。「人に見られるものを作りたい」というプロ作家の意識に目覚めた。やがて伝統的な着物づくりから、「自己表現をしたい」という思いを抱き始める。88年に札幌市で聞かれた「世界・食の祭典」で、舞台を飾ったアイヌ文様の壁掛けが「布アーティスト」への転機となる。99年、米国スミソニアン博物館のアイヌ展に、代表作の一つ「Spirit of the Ainu」を出品。各地で個展を開いてきた。抽象的な作品が多いが、「伝統がわからないと、創作はできない」。アイヌ伝統の着物が基本だ。構想からデッサン、東京や京都などにも足を運ぶ材料集め、仮繕いをして壁に掛けては縫い直しを繰り返し、3年越しで完成した作品もある。小樽市の自宅2階の仕事場からは、青い海を見渡せる。制作は気持ちが集中できる夜。大きな作業机を前に椅子に座り、片ひざを立て、そのひざ頭の上が「裁縫台」だ。アイヌの女性たちが、何代にもわたって家族のために縫い物をしてきた伝統のスタイルで、創作の針を進める。(泉賢司) 朝日新聞道内版2013.2.20付



民族の世界観テーマ 床(とこ) ヌブリさん(75)


床ヌブリさんの作品「ユーカラクル/語り部」(道立近代美術館提供)(左) 赤塚不二夫さんの形見分けのコートとセーターを身につけ、語る床さん=釧路市阿寒町阿寒湖温泉4丁目、堀英治撮影

 ブロンズ像のような質感の手、抽象画から飛び出たかのように躍動する造形、太古の地母神を連想させる女神像。作風は多彩に展開してきたが、阿寒の自然の中で、アイヌ民族の世界観をテーマに木を刻み続けてきた。釧路市の中学校を出て阿寒湖畔でクマを彫っていた10代後半、6歳年上の彫刻家、故・砂澤ビッキさんに出会う。神奈川県の砂澤さん宅やその仲間の小説家、絵描きらが集う東京の喫茶店に出入りするうち、「こういう世界に入れたら」と、砂澤さんの背中を追うように彫刻の道に進んだ。1962年、東京・銀座のデパートで個展を開催、66年にはモダンアート展に入選を果たす。道内外での個展やスペイン、ギリシャでの日本展にも出品。89〜90年にはカナダ・ブリティッシュコロンビア州のバーナビーマウンテンパークで、群立するトーテムポールのような野外彫刻「カムイ・ミンタラ−神々の遊びの庭」を制作した。何を彫るかは自分が考えるのではなく、「木の中に感じる」のだと言う。95年出版の「床ヌブリ作品集」(求龍堂)に自ら書いた。「その木に出会った瞬間、啓示が走って命じられるままに彫らされる」長年の親友だった漫画家、故・赤塚不二夫さんは同じ本の中で評した。阿寒の雄大な自然と人、動物の息づかいを床さんはすべてのみ込み、「こうして吸いとられた精霊は、再び木にむかつて、猛烈なエネルギーとなって放射されるのだ。枯れた木は踊り出し、叫び、歌う」。自然の中でいったん命を終えた流木や埋もれ木も、ノミが入り、再び生気に満ちあふれる。わずかなノミで埋もれ木に姿を現した女神像や語り部の像は江戸期の仏師、円空の像をほうふつとさせる。とはいえ、いつもイメージどおりに彫れるとは限らない。「それも修業」。そう言ってにこりと笑った。(泉賢司) 朝日新聞道内版2013.2.21付



木彫りに引かれ移住 瀧口 政満さん(72)


瀧口政満さんの作品「マリモ」(道立近代美術館提供)(左) 風の流れや木の中の音を表現する瀧口さん=釧路市阿寒町阿寒湖温泉4丁目、堀英治撮影

 釧路市・阿寒湖畔のリゾートホテル「鶴雅ウィングス」。ロビーやギャラリーでは、清楚な女性像や祈りの像が遠来の客を迎える。ここにある作品の多くを手がけた。ふわりと春の風を受けて舞い上がる長い髪。その一本一本が感じられる繊細な刃跡は、実はナタで微細に刻みあげたものだ。重厚な材と道具を使いながら、彫られた像は今にも空へと吸い上げられそうな軽やかさや、静寂をまとう。風は創作の重要なモチーフの一つ。作品からは、森を抜け、湖を渡る、風の音が聞こえてくるようだ。太平洋戦争が始まる10カ月前、旧満州で生まれた。3歳のとき、肺炎による高熱で聴力を失う。戦後、千葉県にあったろう学校で木工やデッサンを学んだ。東京のインテリア製作所に就職。22歳で北海道を一人旅し、阿寒湖畔で目にした、木彫りに打ち込む青年たちの活気あふれる姿に引かれた。アイヌ民族の出身ではないが、2年後、北海道に移り住み、釧路工芸企業組合に入って、本格的に木彫りを始る。1967年、阿寒湖畔に転居。「ほかと違うものを作りたい」と、最初の阿寒旅行で出会った妻ユリ子さんをモデルに女性の胸像を制作。よく売れたという。「まっすぐな木は面白くない」。二股になっていたり、曲がっていたり、阿寒の風雪を生きてきた木の形や、中が朽ちた空洞も生かし、人や動物たちの春の喜び、凛としたたたずまいを彫り出す。「木のそのままの形が彫刻のイメージを与えてくれる」。作品一つ一つの木が元はどんな木だったかを覚えていて「木の中に魂があるように感じる」と言う。制作に疲れると、ヤマメやワカサギ釣りに出かけ気分転換。そして、フクロウの目や少女の頬に木目がちょうど丸く表れ、あたかも風が吹いているように彫れたとき、木を彫る喜びがわき上がる。(泉賢司) 朝日新聞道内版2013.2.22付



メッセージ込め創作 貝澤 徹さん(54)


「UKOUKU/輪唱」(道立近代美術館提供)(左) 貝澤徹さんの工房には、壁にかけられる盆(イタ)など独創的な作品が並ぶ=平取町二風谷、堀英治撮影 

 白老高校を卒業し、平取町二風谷に戻って木彫り職人の父親を手伝い始めた20代は、土産用の動物やコロボックル像を彫っていた。曽祖父は貝津ウトレントクといい、明治時代の著名な職人だ。30歳をすぎたころ、自宅にあった曽祖父の盆 ( イタ ) を木彫りの先輩たちに見せた。その刃筋に先輩たちの顔色が変わった。「(同じものを)彫ってみるかな」。そのうち、「深みにはまった」。とはいえ複製を作るだけでなく、自分らしさを出したい。アイヌ文様には魔よけの意味がある。見えるところに飾りたいと、木の角盆なのに布のように端が折れ、縄を通して壁にかけられる作品を作った。お客が「斬新ですね!」とすぐ買ってくれた。独創的な作品がどんどんでき始めた。ふと気づいたことが題材になる。丸太を割ってくり盆 ( ニマ ) を作ったら、残った半分がハンチングに見えてきた。自然のくぼみを生かしたハンチングを彫った。裏返すとニマになる。「リバーシブルです」最新作「 UKOUKU(ウコウク)/ 輪唱」は、昔のアイヌ民族の女性が入れ墨をした手の写真から発想が浮かんだ。歌いながら器をたたく5本の手。年寄りの手には入れ墨があり、子どもの手はふっくらしている。「世代交代しながら文化が受け継がれる。そんなメッセージがこもったものを作ることができた」と、満足そうだ。曽祖父のほかに強く影響を受けたのが、釧路市の阿寒湖畔に住む藤戸竹喜さん(78)。19歳のとき、藤戸さんが米国製オートバイに乗って二風谷を訪れ、クマの木彫りをくれた。写実的な姿に衝撃を受けた。藤戸さんに認められたい一心で作品を作るが、なかなかほめられない。唯一、クマの両手で挟む形のブックエンドをほめてくれた。肉球や爪までリアルに再現してある。「これはすごい」と言われたと、少し恥ずかしそうに笑った。(林美子) 朝日新聞道内版2013.2.23付



釣りが創作の源 貝澤 幸司さん(50)


貝澤幸司さん作品「幻想」の一部(道立近代美術館提供)(左) 数多くの彫刻刀や工具が整然と並ぶ貝澤さんの工房。彫刻刀の位置は見なくてもわかるという=平取町二風谷、堀英治撮影 

 とにかく釣りと、魚が大好きである。20代前半のころ、30cmのヤマメを釣りたくて、なかなか釣れなかった。だったら作ってみよう。思いついてすぐ彫った。楽しかった。以来ずっと、魚を彫り続けている。連載の5回目で紹介した貝澤徹さん(54)の弟。木彫り職人の父は何も教えず、「好きなものを彫れ」と言った。18歳で木彫りを始めたころ、平取町二風谷には何十軒も土産物店が並んでいた。先輩たちから技を盗み、アイヌ民族の女性の壁掛けを土産用に何百枚と彫り、余った時間に彫りたいものを彫った。思い浮かんだものを作品にするのは兄と同じだが、その多くが魚だ。道立近代美術館で展示中の作品は、魚の骨の中を小魚が泳いでいる。魚を食べた時に思いついた。魚がノートパソコンを開いているユーモラスな作品もある。発想したのは、家でくつろいでいた時。「魚がパソコンでルアーの形を調べて、釣られないように勉強しているんです」と笑う。注文も舞い込む。幌加内町の郷土資料室に頼まれて、町内に生息する8種類の魚を全部彫った。最大のイトウは1.2mある。釣り大会のために魚の形のトロフィーを彫ったことは数知れず。釣りざおメーカーに頼まれた、魚を刻み込んだリール部品も人気だ。ふとした発想は伝統的な作品にも及ぶ。釣り用のロープの結び方を考えているうちに、祭具のイクパスイを結んだロープの形にしたら面白い、とひらめいた。結び目の細かな隙間にどうやって彫刻刀を入れるか。あれこれ考えていると夢中になる。隙間に入る彫刻刀がほしいなどといって、作ってもらった彫刻刀は100本以上になる。今も、朝夕は近くの川に、年1、2回は道内各地に釣りに出かける。「釣りをしていないと作品になっていかない」という。手の中の魚の感触が、どう彫ったらいいかを教えてくれる。一番の望みは「生きている…そんな魚を作ること」だ。(林美子) 朝日新聞道内版2013.2.26付



「おしゃれ感」めざす 貝澤 珠美さん(38)


貝澤珠美さん作品「月夜」(道立近代美術館提供)(左) 制作中の作品に使う、写真を転写した布を見せる貝澤さん=札幌市白石区、堀英治撮影  

 壁にかける作品からショールやアクセサリー、食器まで、「生活の揚にあるものすべて」をデザインする。札幌のデザインの専門学校でインテリアデザインを学んだのが出発点だ。「デザイナーとして、自分が生きていくために活動している」と話す。平取町二風谷では「おじいちゃん子だった」。祖父で、二風谷ダム訴訟を起こした故貝澤正さんの家に毎日遊びに行き、共同原告だった故萱野茂さんのアイヌ語教室にも通った。だが、アイヌ民族の血が濃い顔立ちの子はいじめに遭い、中学や高校でも和人に近い子がもてた。アイヌであることにプラスのイメージが持てず、遠ざかっていた。ところが、専門学校に入るため札幌に行き、「初めて『かわいい』と言われて、びっくりしたんです」。友達に「アイヌって何?」と言われたことにも驚いた。デザイン学校には個性的な人たちが集まっていた。自分の個性って何だろう。そう考えたとき、アイヌであることが大事な個性だと気がついた。二風谷に戻り、職業訓練校でアイヌ刺繍を初めて習った。手を動かしながら、先輩の女性たちからアイヌにまつわる多くのことを学んだ。裁縫は苦手だったのに、刺繍は「意外と楽しく、上手にできた」。はんてんの刺繍の注文を受けたのが初仕事。実績もなかったが、22歳で名刺を作り独立した。翌年、札幌でアイヌアートのデザイン教室を開いた。15年後の今も続いている。自分で使いたいもの、自分の部屋に飾りたいものしか作らない。土臭さのあるものより、「おしゃれ感のある、さっばりしたものを作りたい」。写真を撮るのも好きで、「月夜」は二風谷で撮影した写真を布に写し、刺繍を重ねた。「やっと人に見せられる作品ができた」という。「アイヌというだけでなく、もっと力をつけて、クリエーターとして注目されたい」と、小気味良い。(林美子) 朝日新聞道内版2013.2.27付



作品に楽しい仕掛け 藤戸 康平さん(34)


藤戸康平さんの作品「iphone Case」(道立近代美術館提供)(左) 藤戸康平さんの土産物店「熊の家」の地下には、父竹喜さんが集めたアイヌ工芸品がぎっしり=釧路市阿寒町阿寒湖温泉4丁目、堀英治撮影 

 早く都会に出たいと願う少年だった。阿寒湖畔(現釧路市)から札幌の高校に進学、東京の専門学校に入り、都内の焼き肉店で5年ほど働いた。最後は店長になり、行列ができるほど繁盛した。「肉を切りながら立ったまま眠りそうになったこともあります」阿寒湖畔に戻ったのは2004年。子どもができたのがきっかけで、東京の生活もいやになっていた。「(生まれた川に戻る)シャケみたいな感じかも」父は木彫り作家の藤戸竹喜さん(78)。だが木彫りに関心はなく、父に教わったこともなかった。実家の土産物店に戻ってまもなく、亡くなった兄の腕時計を妻(34)にあげたら、「カバーをつけてほしい」と頼まれた。子どものころから工作が好きで、手先は器用だ。ベルト部品を木彫りで作り、ゴムを通して腕につけられるようにし、表面にアイヌ文様を彫り込んだ。それから様々な依頼が舞い込むようになった。お香の入れ物には磁石が隠れていて、ふたが吸い付くように閉まる。スマートフォンの「 iPhone(アイフォーン)」を入れるケースは、ひもを引くとiPhoneがパカッとケースから外れる。そんな、気持ち良い佐掛けをあれこれ考えるのが楽しい。「毎日、日常のなかで使えて、わくわくするものを作りたい」。古い文様も好きで、資料を見ながら自分の文様に取り込んでいく。同じ町内に住む父とは日頃あまり会話もなく、道立近代美術館で作品が一緒に展示されることには、「まいったなー」と困惑顔だ。「(父が)どういう存在か…自分でも整理がついてないんでしょうね」いま完成間近の作品は、宮城県の保育園に「子どもが見て楽しいものを」と頼まれた。1本のワイヤの上を人間や動物が渡り、命のつながりや時間の流れを感じさせる。初めての大きな仕掛けでアイヌ文様もないが、「長年、頭の中でむずむずしていたものが形になり、スカッとした」と、うれしそうに語った。(林美子) 朝日新聞道内版2013.2.28付



刺繍に新境地開く 故・チカップ恵美子さん


チカップ美恵子さんの作品「フレベンナ/虹の歌」(左) アイウシ(括弧文)を元に花を表現した「アパッポ/花」シリーズの一つ(中) (いずれも道立近代美術館提供) 自作のアイヌ文様刺繍を写真に収めたカレンダーを手にする生前のチカップさん=2004年11月18日、札幌中央区の朝日新聞北海道支社 

 アイヌ文様の刺繍には魔よけの願いとともに、女性たちの親しい人への思いがこもる。モレウ(渦巻き文)をつないで反復し虹を表した「フレベンナ/虹の歌」、同心円状に配したアイウシ(括弧文)が花を開く「アパッポ/花」。2010年2月、61歳で亡くなったアイヌ文様刺繍家は「現代にアイヌ刺繍の新しい世界を展開した」と評される。1948年、釧路市生まれ。伯父は「アイヌ民族復権運動の父」と言われた故・山本多助さん、母は多くの詩やアイヌ語を書き残した故・伊賀ふでさん。民族の誇りと伝統の手仕事を二人から受け継いだ。結婚して東京で暮らしていた25歳のころ、母のノートを読み返し本格的に刺繍を始めた。10年後、「アイヌが自由に羽ばたいて生きていけるように」と、「チカップ(鳥)」を名乗るようになる。自分の写真か無断利用され、提訴した85年の「肖像権訴訟」(実質勝訴で和解)は、民族迫害の歴史を問う裁判でもあった。88年に札幌ヘ転居。各地で個展を開く一方、アフリカや米国、沖縄などで先住民や女性、少数者問題の会議に出席した。著書を編集・出版し、遺言で作品などを託された北海道新聞の写真記者植村佳弘さん(53) は「一本気な半面、感受性も豊かだった」と振り返る。著書には自作の詩も多く載る。05年暮れ、白血病で入院。以後、入退院を繰り返す。病室でも刺繍に針を通した。植村さんとともに母ふでさんの詩集を出版した奥尻出身の詩人麻生直子さん(71)は「病床から『アイヌの人々のことばについて、もっと書けば良かった。いま一生懸命勉強しています』と手紙をいただいた」と話し、「アイヌ民族の豊かなことばの世界を、多くの人に伝えたかったのではないか」と惜しむ。刺繍作品は「生きた証し」として残された。輝きと力を帯びるアイヌ文様。その一針一針に、懸命に生きた誇りが縫い込まれている。(泉賢司)= おわり 朝日新聞道内版2013.3.1付



◆アイヌ2

アイヌ2 (ウィキペディアから)

 アイヌは、日本とロシアにまたがる北方先住民族である。ウタリはアイヌ語で同胞、仲間を意味し名称などで使用されるが、民族呼称ではない。アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inukの複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中国から倭人と呼ばれたが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族やアニ・ユン・ウィヤ族、カザフ族などにも、民族名に「人」の意が含まれる。
 アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、和人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ/えみし)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。なお、アイヌ語の母音「u」の発音は日本語のウとイコールではなくオにも聞こえる音であるため、主として近代以前の文献では「アイノ」と表記されることも多い。

 中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からはクギなどと呼ばれてきた。朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土に住んでいた原日本人の一つとする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた。しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。

 アイヌ民族の祖先はおおまかには続縄文文化、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程については不明な点が多く、かろうじて地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。従来アイヌは、南方系の縄文人、北方系の弥生人という埴原和郎の「二重構造説」の図式のもとに、在来系の縄文人の末裔であるとみなされてきたが、この考えには近年いくつかの留保が必要とされるが、遺伝子的にアイヌに近いのが琉球人であることが明らかになり、基本的には、アイヌは、弥生人の渡来により南北に追いやられた縄文人の末えいであることが明らかになりつつある。次に、弥生時代の大陸・半島渡来の遺伝プールの評価とは別に、縄文時代の列島住民の遺伝的均質性にも近年では疑問が提出され、のちにアイヌ民族を形成する北海道および東北の縄文時代住民と、同時代の関東地方の縄文時代住民との間にすでに大きな遺伝的差異が見られることが明らかとなった。とりわけ、北海道の縄文人に関してはアムール川流域などの北アジアとの関連が強く示唆され、東北以南との形質的差異は「弥生系」の混血の有無には還元できないと考えられている。
 擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ツングース系ともニヴフとも推定されている。)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。オホーツク人DNAがアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。アイヌ民族は、縄文人や現代の和人にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。どのようにこの遺伝子がもたらされたのかが疑問だったが、アイヌ民族とオホーツク人との遺伝的共通性が判明したことで、増田准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測している。また、Y染色体ハプログループの構成比については、日本人(特に沖縄県)に多く東南アジアから北上したと思われるD2のうちD2*が13/16=81.25%、D2a1が1/6=6.25%に対し、北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC3が2/16=12.5%と報告されている。江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。

 明治以降は和人との通婚が増え、アイヌの血を100%引いている人は減少している。和人との通婚が増えている理由として、西浦宏巳が1980年代前半に二風谷のアイヌの青年に行った聞き取り調査では、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫の「アイヌの血を薄め」ようと考えるアイヌが非常に多いことが指摘されている。しかしながらアイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人は、和人の両親から生まれた人物であるが、幼少時に父親と死別し、その後14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという珍しい存在である。

 北海道、樺太、千島列島、カムチャッカ、北東北に住んでいた。1756年に津軽藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。1875年の樺太千島交換条約後、千島のアイヌはそのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ強制移住させられた。1897年のロシアの国勢調査ではアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していたことがわかっている。1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された。

 北海道においては、アイヌ居留地などは存在しないが、平取町二風谷に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてコタンが存在する。2006年の調査によると、北海道内に23,782人となっており、支庁別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。しかしながら、調査に応じた人口のみのため、実際には調査結果よりもはるかに多くのアイヌ人口が見積られる。1971年当時で道内に77,000人という調査結果もある。北海道外に在住するアイヌも多いが、ほとんど実態調査は行われておらず、1988年の調査において東京在住のアイヌ推計人口が2,700人と見積もられているものが唯一かつ最も新しい公式の調査である。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、現在首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある。また、日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいるとされる。一方、アイヌ研究の第一人者であったポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキがアイヌ女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔はみな日本にいる。長い間、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年はAINU REBELSのような若者を中心として積極的にアイヌ語とアイヌ文化の保持を主張し、自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。各地でアイヌ民族フェスティバルなどが開かれ、北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めるよう政府に促す国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。



◆蘇る北方の光





ロシアの博物館収蔵品140点展覧会

世界的にも有数のアイヌ資料で知られるロシア科学アカデミー・ピョートル大帝記念人類学民族学博物館(通称・クンストカメラ、サンクトペテルブルク ) の日本初の収蔵品展が、2013年10月11日から小樽市総合博物館本館で始まる。樺太アイヌの資料をはじめ圏内には現存しない貴重な資料も多く、アイヌ文化の豊かな多様性を物語る展覧会となる。 アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌市)と小樽市総合博物館の主催。生活用具や子どもの玩具、絵画、信仰にかかわる用具など約140点が展示される。 クンストカメラは主に18世紀から20世紀中頃にかけてサハリン(樺太) 、千島、道内で収集した千数百点のアイヌ資料を収蔵。海外にあるアイヌ資料調査の中心メンバーを務めた荻原眞子・千葉大名誉教授(ユーラシア民族学)は「集めた地域と年代が分かり、まとまった資料としては世界一級の資料」と話す。 今回の収蔵品展では、サハリンで収集されたものを中心に、貴重な資料が多い。ひもを引くと鳥の頭と尾が跳ね上がる子どもの玩具、アイヌの風俗を細密に描いた函館の絵師平沢屏山(びょうざん)の「干しアワビ造り図」など3点も初公開される。 イヨマンテの儀式でクマに着けたとみられる装飾品などを収集したのは、ポーランド人のアイヌ研究者ピ一ウスツキら。ピウスツキは皇帝暗殺計画に連座したとして流刑された先のサハリンでアイヌの音声資料をろう管で残したことでも知られる。 同展は11月25日まで。初日は午前10時からの開会式後に公開。入場料は一般400円など。中学生以下は無料。問い合わせは小樽市総合博物館 (0134-33-2523)。 ( 泉賢司 ) 朝日新聞道内版2013.10.9付


平沢屏山の「干しアワビ造り図」


子どもの玩具。下のひもを引くと鳥の頭(左側)と尾が跳ね上がる=いずれもアイヌ文佑振興・研究推進機構提供



蘇る北方の光 アイヌ収蔵品展から(上)

  約20cm四方の板に、正方形に区切られた4つのマス。四隅と縦横の線の交点に計9つの穴がある。自陣である手前の穴に3本、向かい側の相手の陣地にも3本の棒が立つ。
 アイヌ語で「ウコニロッキ」「ウコニアシ」などと呼ばれる陣取りゲーム。小樽市総合博物館本館で始まった「ロシアが見たアイヌ文化」展に展示されている。110年前のサハリンで、樺太アイヌの子どもたちが遊んでいた実物だ。
 先手と後手を決め、自陣の棒を一手につき1本、縦、横、後ろへと1コマずつ動かす。自分の棒を先に3本とも相手の陣地に立てた方が勝ちだ。
 帯広百年記念館のアイヌ文化コーナーでは、訪れた子どもたちにこのゲームを体験してもらっている。副館長の内田祐一さん(53)は「3本とも隅に追い詰められて、動かせなくなることがある。こんな時はどうしたのか、細かいルールは分かっていない」という。
 内田さんが初めて実物を見たのは1995年8月。ロシアのアイヌ資料の調査団員としてサンクトペテルブルクを訪れた時だ。存在は知っていたが、「本物が残っているのはすごい」と思った。同じ遊びは道内のアイヌでも行われ、いろりの灰にマス目を描き、その上に細い棒を立てて遊んだという。
 70年刊行の「アイヌ民族誌」では、更科源蔵氏がウコニアシなどアイヌの遊びを紹介している。かくれんぼや縄跳びのほか、貝殻などの的を射る弓遊び、転がしたり空中に投げたりした輪を細い棒で突く「輪突き」、女児だけがするオタテント(砂画)など38種。
 内田さんは「遊びは単なる娯楽ではない」と話す。男児は弓遊びや輪突きで狩りを、女児はオタテントで衣装に縫うアイヌ文様を身につけた。「ウコニアシも状祝判断の力や駆け引きを学んだのではないか」
 展覧会では、祈りを込めた木偶(もくぐう)も展示されている。樺太アイヌのニポポは、病気がちの子どもなどの健康を願って作られた。北海道大学アイヌ・先住民研究センターの北原次郎太准教授(37)は「木の中にも神がいて、その神が守ってくれるというお守りです」と話す。お供えとしてニポポの口元にごはんを付ける風習もあったという。
 ひもを引くと頭と尾が跳ね上がる鳥形玩具や、大きなソロバン玉を重ねたようなガラガラ、そしてシトー(スキー)やサケ漁のもりなど模擬狩猟具。子の健やかな成長と恵みを願う変わらぬ親の思いが伝わる。
 ◇     ◇
 展覧会は(2013年))11月25日まで。18世紀から20世紀半ばにサハリン、千島、北海道で収集され、ロシア・ピョートル大帝記念人類学民族学博物館に収蔵された資料を、国内で初めて公開している。生活用具や絵などから、北方に100年以上前に生きたアイヌ民族の暮らしと文化が蘇る。
(泉賢司) 朝日新聞道内版2013.10.24付


(左)アイヌの陣取りゲームを再現してみせる帯広百年記念館の内田祐一副館長=帯広市、恵原弘太郎撮影 (右)展覧会で展示されている陣取りゲーム「ウコニ口ッキ」=アイヌ文化振興・研究推進機構提供


110 年前にサハリンで収集された樺太アイヌのニポポ像=アイヌ文化振興・研究推進機構提供



蘇る北方の光 アイヌ収蔵品展から(中)

 アワビを刃物で殻から外し、釜でゆでて天日に干す。浜で働くアイヌ女性らを描いた平沢屏山(びょうざん)の「干しアワビ造り図」だ。開催中の「ロシアが見たアイヌ文化」展(小樽市総合博物館本館) で、圏内初公開されている屏山作品3点の一つ。縦24cm、横40cmほどの和紙に描かれた「アイヌ絵」には、左の入り江にアワビ漁であろうか2そうの小舟が浮かび、沖には北前船のものらしき大きな帆が3張、風をはらむ。
 「黒目」が光るようにニカワを使ったり、光線の具合で器の細かい模様が浮かび上がったり、技巧を凝らしています」。約15年にわたって絵師屏山を調べ、同展の図録に解説文を書いた道立近代美術館の主任学芸員、五十嵐聡美さん(49) は話す。
 屏山は1822(文政5)年、奥州稗貫郡大迫村(岩手県花巻市)の生まれ。弟を伴って函館に移住し、初めは船乗りに売る絵馬を描いていた。豪商杉浦嘉七と知り合い、その請負場所だった十勝を訪れてアイヌの人々に接する。この時の見聞などをもとに函館でアイヌの風俗画を描き始めると、細密な描写が評判を呼び、土産物として外国人に人気を博した。
 だが、無類の酒好き。河野常吉編著「北海道史人名字彙」には「屏山磊落不羈(らいらくふき)にして酒を嗜(たし)み、容易に画かず。而(しか)して一度筆を揮(ふる)えば咄々(とつとつ)真に逼(せま)るものあり」と記されている。大金で注文したのに描かない屏山に腹を立てた貿易商で博物学者の英人ブラキストンに殴られたり、ロシア領事に運上所に訴えられてようやく筆を執ったりと、逸話には事欠かない。
 絵には、注文主が与えたとも見られる外国製の紙や顔斜も使われ、とりわけアイヌ衣装の鮮やかな青(ウルトラマリンブルー) は「屏山の青」とも称される。五十嵐さんらの調査で、今回の展示品は1868(明治元)年冬に描かれた連作の一部と見られることもわかった。
 土産物なので小さな絵が多いが、欧米に伝わる屏山の絵の中には、画面の奥に描かれた小さな屏風の中に、さらに細密な屏風絵が描かれたものなどがあり、絵師としての技量の高さを裏付けている。
 屏山が題材にしたのは、酒宴の様子や女性たちによる調理、男たちの漁労の揚面などアイヌの人々の暮らしだ。一見、何事もない日常だが、五十嵐さんは絵の背後に、当時のアイヌの人々が直面した現実が映し出されているという。 干しアワビ造り図の女性たちは、和人の請負場所などに労働力として集められ、有力な輸出品「長崎俵物」の生産に従事させられた姿であった。北前船は買い付けに来たのだろうか。男たちも漁に駆り出され、働き手のいなくなったコタン(集落)は疲弊していく。
 五十嵐さんは「絵には買う人が見たいものが描かれた。だが、いま絵を見れば、その背景に思いを致さざるを得ない」という。和人の絵師が描いたアイヌの暮らしの背後に、民族の厳しい歴史が扉を開けている。
( 泉賢司 )  朝日新聞道内版2013.10.25付


平沢屏山の「干しアワビ造り図」


(左)屏山の「雪中酒宴図」の中央には、英国製の洋紙の透かし模様(ウオーターマーク)がある=いずれもアイヌ文化振興・研究推進機構提供 (右)屏山の絵について語る五十嵐聡美・主任学芸員=札幌市中央区の道立近代美術館



蘇る北方の光 アイヌ収蔵品展から(下)

 141点のアイヌ資料が展示されている「ロシアが見たアイヌ文化」展(小樽市総合博物館本館)。このうち103点は約100年前にポーランド人のアイヌ研究者、ピウスツキがサハリン(樺太)や北海道で集めたものだ。樺太アイヌや北海道アイヌが「アイヌ民族らしく生きていた時代の姿か見えてくる」。道立アイヌ民族文化研究センターの元研究主幹、吉原敏弘さん(61)は話す。
 ブロニスワフ・ピウスツキ(1866〜1918)は帝政ロシア支配下のリトアニア生まれ。皇帝暗殺未遂事件に関わったとしてサハリンに流刑され、先住民族のアイヌやニヴフの人々と接する。10年の刑を終え、科学アカデミーの指示などでアイヌ資料を収集した。 ピョートル大帝記念人類学民族学博物館が収蔵するアイヌ資料約1,400点のうち、ピウスツキの収集資料は約850点に及ぶ。1995年から2001年にかけて、同館をはじめロシアの博物館にあるアイヌ資料の調査に参加した古原さんは「ピウスツキの資料は世界的にも有数のアイヌ資料」と話す。
 ピウスツキは樺太アイヌの音声をろう管に録音したことでも知られるが、その生涯は波乱に満ちていた。
 1903(明治36)年に白老と平取を訪れ、道内アイヌの着物などを収集。樺太アイヌの有力者のめいと結婚し、アイヌ子弟の学校開設や辞典作成にも取り組んだが、日露戦争で両国の関係が悪化する中、05(明治38)年に妻子を置いてサハリンを離れる。その後に滞在した東京では、二葉亭四迷らとも交友を結び、ポーランド独立運動に身を投じて、第1次大戦の終結前、パリで自死する。
 樺太アイヌの人々の運命も、歴史の渦にほんろうされた。
 ピウスツキがサハリンを訪れる前の1875(明治8)年に日ロが結んだ樺太千島交換条約を受け、開拓使により北海道・対雁(ついしかり)に強制移住させられた樺太アイヌは生活苦に追い込まれ、流行病で多くが命を失った。
 そして、第2次大戦末期、南下するソ連軍から逃れ、北海道に移住した樺太アイヌの人々も再び苦難に直面する。
 「本当は私たちの手で、この展覧会を聞きたかった」。11日の開幕日、樺太アイヌ出身者らでつくる樺太アイヌ協会会長の田澤守さん(58) は話した。「自分たちはこういう生活をしていたんだということを見てもらいたかった」
 1998年、札幌で聞かれたサハリン所蔵のアイヌ文化展で、田澤さんはぞくぞくする感覚を覚えた。展示品の器に張られたシールに祖母方の親「西川タミ」の名前を見つけたからだ。田澤さんの一家は漁船で宗谷にたどり着いたが、他の多くの樺太アイヌの人々と同様、着の身着のままで逃れてきたという。それだけに先祖につながる器が貴重だった。
 ピウスツキが集めた100年以上前の先祖の生活用具は、大陸との交流や極寒の地で生きる樺太アイヌの暮らしの知恵を物語る。「樺太アイヌと北海道のアイヌは文化も歴史も違う。北の地で先祖たちがダイナミックに生きていたのを感じる。自分たちのルーツを知るものがあるのは、とても大事なことだ」と田澤さん。資料は、いまを生きる子孫たちに民族の証しを伝えている。
(泉賢司) 朝日新聞道内版2013.10.26付


(左)樺太アイヌの儀礼用の冠へ卜ムイェヘなどを見る田澤守さん=小樽市総合博物館本館 (中)ピウスツキが110年前にサハリンで収集した女性用の帽子。大陸の影響がうかがえる (右)子供用の獣皮製の着物もピウスツキがサハリンで収集した


樺太アイヌが犬ぞりにまたがり滑走やかじ取りにはいたスキー。自瀬矗(のぶ) の南極探検では樺太アイヌの隊員が犬ぞりを担当した=いずれもアイヌ文化振興・研究推進機構提供



◆樺太アイヌ強制移住のウソ

樺太アイヌ強制移住のウソ 大高未貴(ジャーナリスト)

「稚内樺太記念館」の年表には「強制移住」のシールが。なぜー?

●もう一つの歴史戦

 慰安婦問題の欺瞞を、一次資料をもとに解説した『赤い水曜日』の著者、韓国の国史教科書研究所所長の金柄憲氏は「慰安婦問題は国際詐欺劇」と断罪している。史実や慰安婦証言の信憑性の検証もおざなりに、日本政府が何度も謝罪を繰り返した結果、現在進行形でドイツなどに慰安婦像が建てられ続けているのだ。
 徴用工問題も、いわゆる徴用工≠ニ呼ばれる人々は朝鮮半島から志願してやってきたにもかかわらず、強制連行された≠ニして訴訟が起こされ、九月末には韓国の地裁が、差し押さえられた三菱重工業の資産を売却するよう命じるなど事態は深刻の度を増している。
 2015年、日本の外務省の佐藤地ユネスコ大使は、ユネスコ世界遺産委員会において「(端島など、一部の産業施設で)過去1940年代に韓国人などが自分の意思に反して(against their will)%ョ員され、強制的に労働(forced to work)≠ウせられたことがあった」と発言し、河野洋平氏同様、韓国や反日活動家たちに言質を取られてしまった。
 日本と朝鮮半島・中国における過去の歴史問題において、一番大事な論点が強制≠ニいう文言だ。朝日新聞が強制性≠ネどといった広義の解釈を入れてから、問題は悪化の一途をたどっている。
 在サハリン韓国人問題、慰安婦問題、徴用工問題に次いで、いわゆる活動家らが用意しているとみられる戦後補償の一つが、エンチュウ(樺太アイヌ)強制移住問題≠セ。
 それまで日本は単一民族国家だったが、2008年、アイヌを先住民と日本政府が認めてしまった結果、アイヌには莫大な予算が拠出されている。
 たとえばアイヌに関しての五輪関連拠出が17億円、白老のアイヌ文化復興の国立施設「ウポポイ」の建設費に約200億円、予定来場者に満たない分は税金で補?している。
 内閣府のアイヌ施策推進室に問い合わせたところ、北海道国土交通省の対応だった。文科省なども拠出しており、一体トータルでいくら拠出しているのか把握していないという杜撰さだ。あまりにも不可解なバラマキについてたびたび指摘されているので、予算もあえてマスコミにつつかれないように複雑な措置を講じているとしか思えない。
 ともあれ、樺太アイヌ強制移住プロパガンダの背景に迫りたい。
 きっかけは北海道元道議会議員の小野寺まさる氏がチャンネル桜北海道で「稚内市樺太記念館」の年表にシールが貼られていたと指摘したことによる。「移住」から「強制移住」と、史実と異なることが上書きされていたのだ。ほかにも「樺太アイヌ強制移住」について朝日新聞が旗振り役を務め報道していることを知り、妙な胸騒ぎを覚え、稚内に飛んだ。
 史実から言えば、明治8年(1875年)の樺太・千島交換条約によって、樺太アイヌは日露どちらかへの帰属を自らの意思で決定せねばならなくなり、樺太アイヌは日本国民になるか、ロシア国民になるかを自由意思で選択した結果、樺太アイヌは日本国民になることを望んで宗谷に来たのだ。
 そのことは樺太・千島交換条約第4条にも記されている。
《樺太島及クリル島に在る土人は現に住する所の地に永住し且其儘現領主の臣民たるの権なし故に若し其自己の政府の臣民足らんことを欲すれば其居住の地を去り其領主に属する土地に赴くべし。又其儘在来し地に永住を願はば其の籍を改むべし。各政府は土人去就決心の為め此条約附録を右土人に達する日より3カ年の猶予を与へ置くべし》
 つまり、日本政府が権力を行使して樺太アイヌの人々を無理矢理移住させたわけではなく、ロシア国民になれば、彼らはそのまま樺太の地に残ることができたのだ。
 では、本人の意思がいつの間に、それに反して強制≠ノなったのか。
 結論から述べれば、「本人の意思」で日本を選択し、日本にやってきたのなら何の補償も得られない。ところが、強制移住≠ウせられたと偽れば、補償金が発生する可能性もある。その証拠に《アイヌ有識者懇 補償・教育 要望相次ぐ》《サハリンから道内に強制的に移住させられた樺太アイヌの子孫の田澤守さん(樺太アイヌ協会会長)は強制移住の謝罪と補償を求めた》(北海道新聞/2008年10月14日付)という記事や、《アイヌ民族の権利保障を市民団体が冊子政策提言へ》と題した記事(朝日新聞/2018年4月21日付)で、田澤氏の「少数者に寄り添った政策を進めて欲しい」というコメントも報じられている。
 では、一体誰が歴史を書き換えたのか。『アイヌ先住民族、その不都合な真実20』(展転社)の著者・的場光昭氏はこう断言する。
「樺太アイヌの強制連行というか強制移住というのを最初に言い出したのは、恵泉女学園大学の教授・上村英明氏です。彼はアイヌと琉球の人々を先住民族だといって国連を舞台にロビー活動している市民外交センター共同代表です。琉球(沖縄)、アイヌモシリ(北海道)の独立、つまり国家分断工作ですよ。先住民として認めさせるために、三つの強制移住をでっち上げました。一つは樺太アイヌの強制移住。それからアイヌの子どもたちの親からの引き離しと東京への強制移住。そしてもうひとつが千島アイヌの色丹島への強制移住。これらはいずれも嘘、でっち上げです」
 一方、水面下でアイヌ政策に不都合な真実は、行政が廃棄処分していたことも発覚した。
的場 「私は一次資料を古本などで収集しています。たとえば『蝦夷風俗彙纂』前編後編とありますが、実はこれ、北海道虻田町の図書館で廃棄処分されていたものです。本の後ろに廃棄のスタンプが押してありますでしょ?
 この本は今、アイヌの歴史を捏造している連中にとって不都合な真実がたくさん書かれています。要するに、明治15年(1882)にこの開拓使がアイヌに対して、どういう政策が必要かということで、アイヌの実態を知るために江戸期のアイヌ文献をたくさん抜粋しています。こういう貴重なものが破棄処分になっているんですよ」

●樺太記念館の見解

 樺太アイヌ強制移住のでっち上げとは、どういうものだったのか。
「稚内市樺太記念館」の年表記述問題について、担当の稚内市教育委員会教育部長・S氏に記念館で取材に応じていただく予定だったが、口頭だと言葉に間違いがあってもいけないということで、書面にて質問のやりとりをさせていただくことになった。
 その質問状の一部を紹介しよう。
《【年表の表記について】
(「1875年8月 樺太アイヌ841人、宗谷に強制移住となる」
「1876年9月 宗谷の樺太アイヌ、小樽を経て江別の対雁に強制移住」
 とありますが、当初、「強制」という文言はなく「移住」でした。
 @記述がシールで変更されたのはいつ頃ですか? それはどなたの判断で行われたのでしょうか? その際、有識者の意見はヒアリングされたのでしょうか?
 A樺太アイヌが「強制移住」させられたとするのは正しい史実でしょうか? 根拠があれば教えていただけますでしょうか?
 B移住=「自主的」、強制移住=「本人の意思に反して」⇒書き換えは180度違う意味になります。
 樺太アイヌは強制移住させられたと主張されるのであれば、北海道に住んでいた先人が樺太アイヌの方々を差別し、非人道的な対応をしたという話になりますが、市が運営する施設として、それを是とするのでしょうか?
 C古い文献には樺太アイヌの意思で北海道にわたってきたという記述も散見されます。大事な一次資料の記述を反転させた記述となりますが、稚内市は今後も強制移住≠フ記述のままにしておくのでしょうか? それとも一次資料に基づいて、以前の記述に戻す予定はあるでしょうか?》
 これに対して、どのような経緯で誰が書き換えを命じたのか、などといった質問に対する回答はなかった。ただ、独自調査によれば約2年前にシールが貼られたという。
 先方からの回答で肝心な部分を挙げるとすれば、
「『千島・樺太交換条約締結により、アイヌの人々のあずかり得ないところで移住を余儀なくされた』故に『本人の意に反したもの』」
 つまり、強制移住≠セったというわけだ。
 これに関して私は、10月2日に再質問状を送った。その要点を記したい。
 樺太記念館は「強制移住」について、「(樺太アイヌは)本人の意思に反して、あずかり得ないところで移住を余儀なくされた」からと強弁しているが、この論旨で言えば、ロシアを選択した樺太アイヌもロシアに強制移住≠ニいうことになるが、果たしてロシア政府がそれを公式に認めるだろうか。
 また、いくつかの古い文献にあった記述も、S教育部長に紹介した。
 その一つが、昭和11年(1936)に発刊された北海道庁編纂『新撰北海道史』である。 《明治8年、樺太、千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み、開拓使は之を石狩川沿岸の対雁に置いて、農業教授所、漁場等を与え篤く之を保護することとした》
 とある。
 ほかには、西鶴定嘉氏の『樺太アイヌ』(1974年)で、《復帰土人とは、明治8年9月千島・樺太交換後、我が統治を希望する土人804人を(札幌郡)対雁に移したのだが、樺太南方が復び邦領に回復せらるるに及んで故郷に復帰した土人をいう》
 という一文を紹介した。
 皮肉なことに西鶴氏の本は「稚内市樺太記念館」の資料室に置かれていたものだ。さらに、日本政府が樺太アイヌを保護し、優遇をはかっていた事例も出し、
《日本政府にとって樺太アイヌの受け入れは、財政的負担が大きく、日本政府が強制的に樺太アイヌに日本移住を選択させる合理的な理由が見当たりません。それでも樺太記念館側が強制移住だった≠ニ判断されるならば、納得し得る根拠をお示しください》
 と問いかけた。さらに昨今の歴史戦についても触れ、トータルな回答を切望した。
 ところが、残念なことにS教育部長からの2回目の回答も「あずかり得ないところ」を繰り返しただけの、初回とは変わらない趣旨だった。
 まともにとり合ってもらえないことが伝わってきて、サジを投げたくもなったが、この問題は私的なものではなく、日本の未来を担う子供たちにかかわる問題である。
 この先どう教育すべきか、政治的な利害関係を含む大人の都合で改竄された北海道の歴史を、子供たちに伝えていくことが許されるのか。教育委員会も真摯に考え、答えを出してほしいと切に願い、3度目の質問状を送った。

●二冊の本

 S教育部長の二回目の回答において、気になる点があった。
強制移住≠フ論拠として、『稚内百年史』(1978年発行)と『対雁の碑』(樺太アイヌ史研究会編/1992年発行)の2冊を挙げていたのだ。そこで早速、目を通したのだが、唖然とした。これらの本は「強制移住」が虚偽だということを間接的に証明するものだったからだ。
 まず『稚内百年史』だが、《1875年、樺太・千島交換条約にもとづいて、日本移住を求める樺太アイヌ841人が北海道に移住することになって》とあった。確かに宗谷から対雁には「強制移住」と表記されているが、この件については、的場氏が強制移住ではない≠ニ一次資料をもとに丁寧な分析に基づいて断言しているので、誌面の都合上、詳しい説明は省略する。
 次に『対雁の碑』だ。執筆者は石井清治氏、田崎勇氏、豊川重雄氏。1971年、北海道ウタリ協会石狩支部結成大会で議長を務めたのが豊川氏。その後、クリスチャンセンターで再開された大会の議長が石井氏だとある。この本の正直な感想を述べれば、学術研究の成果物というより、いわゆる活動家の主張が綴られたものと言っても過言ではなかろう。にもかかわらず、教育委員会がこのような記述内容に問題のある書籍を、年表記述の書き換えの根拠にしていることに驚きを禁じ得ない。
 実は、その点について著者たちも自認しているのだ。
《明治初期に行われた樺太アイヌ強制移住≠ニいう暴挙を、専門家ではない我々が調査を続け、一冊の本にまとめたかった真意はここにある》
 そして、
《近年、日本政府は先の大戦の戦争責任を様々な方面から追及され、その責任を果たさざるを得なくなってきた。中国や樺太残留者の事、朝鮮・韓国から強制連行した人たちの事、従軍慰安婦の事、等々日本政府が果たさなければならない責任は大きい。そういう責任を追及していく中で、領土問題でこれほどまでに翻弄させられた樺太アイヌに対する日本政府の責任は回避できないことである》
 などと、著者らが歴史戦の延長線上に樺太アイヌ強制移住≠ニいう文言を強引に仕込んだことが見て取れなくもない。ちなみに『対雁の碑』が出版された前年の91年には、朝日新聞の慰安婦報道大キャンペーンが始まっている。

●資料が示す事実

 ともあれ『対雁の碑』の冒頭から強制移住≠ナないことが明白にわかる記述がある。
 1979年(昭和54)11月11日に対雁で行われた第1回樺太移住殉難者慰霊墓前祭の実行委員会の河村三郎代表の挨拶を紹介しているのだが、「明治8年に日ロの間で締結された樺太千島交換条約によって、865名の樺太人がこの対雁の地に移住し開拓にあたりました(略)」とある。つまり河村氏は強制移住≠ネどとは言っていないのだ。
 また同書には、ご丁寧にも強制移住≠ナないことが一目瞭然の資料も紹介されている。
 たとえば、1875年の樺太・千島交換条約の際、《此時政府に於いては樺太土人を伴うべからずと内訓せしも、長谷部・堀両判官は成るべく之を伴はんと欲し、土人中にも是非移住を望むものあり、寄って841名伴侶来れり》(犀川会資料/332頁)とある。
 つまり、樺太人、自ら移住を望んだことが明記されている。
 ところが、史実を歪曲するかのような曖昧模糊とした解釈が続く。
《維新から日も浅く、政府としては多くの国費を要することはなるべく避けたいという気であったろうから、アイヌの移住を好まない事情もあったとは考えられるが、現地にあたっては長い間の両者の関係から、アイヌが移住を望んだのか、あるいは現地の役人が奨めたのか、その間微妙なものがあったと思われる》
 他にもこんな事例が紹介されている。「日本人と一緒に北海道に行きたいと云った(樺太アイヌ」に対し、時の明治政府、黒田清隆開拓使長官の言葉はこうであった。
《然らば、来ようと思ふものは連れて来よう。イヤだといふものは其優に置かう》(『あいぬ物語』山辺安之助)
 また、『北海道殖民状況報文』の《従来該当ノ土人二シテ我皇化ヲ慕ヒ我国管轄ノ民タランコトヲ請ヒ其郷地オ望見シ得ラルベキ地方へ移住センコトヲ願フ者ノミ其願ヲ許シ》といった記述も紹介している。
 つまり、当時の政府は、強制移住どころか樺太アイヌの移住を推奨していなかったことが明白である。
 ところが、著者らは《これらの資料・文献で見る限りではピウスッキーや高倉新一郎の『日本人に誘われて』とする以外は、アイヌの希望による移住のように書かれている》などと、アイヌの希望≠そうでなかったかのように誘導するため窮迫した移転≠セの、憶測を書き連ねているが、いずれも政府による強制移住≠立証できてはいない。

●アイヌ共和国?

 このような文脈で、白を黒に塗り替えるべく捻り出された詭弁が《樺太アイヌの人たちのまったくあずかり知らぬところでふたつの国家による「国境」画定によって、彼らは永い間住み慣れた故郷を捨て日本へ移住する者、ロシア流刑植民との紛争、流刑囚徒や兵士の暴行迫害にあいながらもなお故郷を捨てがたく樺太に残る者(略)》という記述である。
 まさにこの詭弁こそ、S教育部長からの2回に及ぶ回答と同じであったことは失笑せざるを得ない。
 著者は「あずかり知らぬ」、その根拠を示していない。示すことができないので、日露双方の取り決めにアイヌが口出しできず、本人の意思に反して「強制移住」させられたと拡大解釈したのだ。慰安婦問題にしても「強制連行」の証拠が出ないので、「本人の意思に反して」と問題点をすり替えられたが、それと同じ構図である。
 一次資料たり得る数々の文献からも、樺太アイヌの北海道への移住が自由意思によるものであったことは疑うべくもない事実であり、「樺太アイヌの人たちのまったくあずかり知らぬところ」などという実に乱暴な理由付けに、一体だれが「はい、そうですか」と首を縦に振るだろうか。
 その詭弁の証拠に『対雁の碑』の著者らはこんな言い訳を入れている。
 《しかし何と言っても、資料の不足から推測、推察にとどまることが多く、はっきりと結論づけることができない部分の多かったことが残念である》
 などと心境を吐露しているのだ。つまりこれを換言すれば、「強制移住を証明できる資料が見当たらなかったが、我々の推測(憶測?)、推察をもって強制移住と判断した」ということではなかろうか。
 また、あとがきにはこうある。
《私たち(執筆者3名※注大高)が初めて会したのは、1990年の6月5日のことでした。その日のメモをみると、樺太アイヌ強制移住史をまとめるにあたっての目標が次のように書かれています。
・この強制移住は日本近現代史における重大な民族間題であると位置付ける。
・強制移住という悲惨と苦難の歴史ではあるが、樺太アイヌの民族の尊厳が貫かれるような歴史像をめざす》
 そして、結びに《いま問題になっている北方四島にしても、これを国連の統治に移し、各地のアイヌから希望を募り、ここにアイヌ共和国をつくる−−突飛な夢物語だろうか。 (略)アイヌ新法やアイヌの主張に対し、今ここで和人が応えるべき時が来ていると切に思うのである》とある。
 つまり、最初から結論ありきの活動家によるプロパガンダと言っても過言ではなく、歴史検証には到底及ばない本ではなかろうか。
 年表の書き換えについて「有識者より修正後の記述がより正確・適切であるとのご意見をいただいている」と、稚内市教育委員会からの回答にあったが、一体有識者とは誰なのか、ぜひ教えていただきたいものだ。この先もまだ、このような本を論拠に年表記述書き換えを正当化しようと試みるのなら、いずれ北海道には彼らが主張するようなアイヌ共和国≠ェできるだろう。アイヌの主張に応じて謝罪と補償をしていく覚悟があるのか、改めて問いたい。

●朝日新聞ですら報道を正す

 ちなみに朝日新開は樺太アイヌ問題について、どのように報じているだろうか。調べた限り、1989年から2013年にかけて「樺太アイヌ強制移住」といった趣旨の報道を15回行っている。
 特に1992年には3回も報じており、これは1991年8月11日、植村隆記者が《元朝鮮人従軍慰安婦戦後半世紀重い口開く》などと金学順さんが女子挺身隊として慰安婦にされたと、慰安婦報道の口火を切った翌年であり、戦後補償をテーマにした慰安婦問題との関連性が疑われる。
 ところが、2015年以降の報道には「強制移住」という表記が消え、以下のように書かれている。

《1875年(明治8年)千島樺太交換条約が締結され、日本国籍を選んだ樺太アイヌ民族は日本へ移住することとなった》
《1875年(明治8年)日ロ間で千島樺太交換条約が結ばれる。先祖代々南部に住んでいたアイヌ民族約2千人は、ロシア領となった故郷に残るか、北海道に残るかの選択を迫られた》(2015年11月14日付)

 2015年以降、なぜこのように朝日新聞が表現を史実に忠実に基づいて戻したのか。それには慰安婦報道の訂正が関連しているようだ。
 2014年8月5日、朝日新聞は慰安婦問題に関する「慰安婦問題を考える」・「読者の疑問に答えます」と題した検証記事を掲載し、「朝鮮人慰安婦を強制連行した」などと述べた吉田清治氏証言を虚偽と認定した上で、関連記事16本を取り消した。
 吉田清治証言は、秦郁彦氏をはじめ、多くの有識者がその虚偽を長年にわたって指摘し続けた結果、ついに朝日新聞が誤報を認めた。こうした状況が「樺太アイヌ 強制移住」という表記の訂正を促したものと思われる。
 本来ならば、過去の紙面における表記について訂正謝罪を入れるべきだが、慰安婦問題のように外部から指摘を受けていなかったからか、その翌年からこっそりと「強制移住」の表記は消えている。
 このように樺太アイヌの北海道移住を「強制移住」と報じていた朝日新聞社も史実に基づき、誤った表記を訂正しているのだ。稚内市も展示内容の修正を、ぜひとも検討してもらいたい。

●中国化する日本の大学

 年表改竄問題とは別に、もう一つの改竄問題が、的場氏の指摘により浮上した。
 前述した『新撰北海道史』に、アイヌの集団の写真が掲載されており、「明治8年、樺太、千島交換条約後、樺太の土人八百数十人帰化を望み(略)」という説明が添えられているが、北海道の中学生全員と全国の中学校に各1冊ずつ配布されている「アイヌ民族‥歴史と現在」という冊子にも同様の写真が掲載されており、なんと、その説明文が《江別に強制移住させられた樺太アイヌの人たち》と書き換えられていたのだ。
 的場氏によれば、
「『アイヌ民族‥歴史と現在』は北海道の中学2年生全員に配られています。さらに全国で約1万の中学校にも配布されていますので、合計10万冊を超えた部数が配られているわけです。この写真はウポポイの国立アイヌ民族博物館をはじめ全道の博物館に置かれて来館者に無料で頒布されている小冊子『アイヌ民族〜歴史と文化』にも掲載され、同じ説明がなされています」
 という。
 私は早速、中学生用の「アイヌ民族‥歴史と現在」を人手したが、呆れるほかなかった。指導のポイントにはこうある。
《北海道が日本の一部にされたのは、先住民族であるアイヌ民族の理解を得たものではない。(小学校では日本とロシアの関係まで示すのは難しいが)まさしく「アイヌ民族にことわりなく、一方的に日本の一部にした」ものであることを理解させたい》
「アイヌ民族‥歴史と現在」の事情について詳しい小野寺氏に話をうかがった。

小野寺 「私はこのような『捏造された歴史』がいくつも書かれている副読本でアイヌに関する教育が行われているのは大問題だと思い、2011年から何度かにわたり道議会で記述の再検証並びに訂正要求をしたのですが、冊子を発行した公益財団法人アイヌ民族文化財団が、訂正はアイヌ差別≠セと騒ぎ立て、朝日新聞や北海道新聞も加勢した結果、いまだに修正されていません。実に嘆かわしい。ともあれ過剰なウポポイPRを筆頭に、これから北海道に展開されるアイヌ関連施設の請負い工事も国土交通省の管轄です。アイヌ・キャンペーンの根深さは想像を絶します。
『アイヌ民族‥歴史と現在』には最後のページに執筆者が並んでいますが、一人もアイヌの専門家がいないのは大問題です。しかも委員長である阿部一司公益社団法人北海道アイヌ協会元副理事長は、北朝鮮の主体思想研究会の主要メンバーであることが判明しています」

 北朝鮮の影響がアイヌ・キャンペーンにも絡んでいるのだろうか。それとともに、中国による赤い侵略阻止≠煖i緊の課題である。
 気になった記事を紹介しよう。
《日本比較文化学会 北洋大に道支部 奥村学長「アイヌ文化など追求」》
(北海道新聞/2021年9月23日付)と題されたものだ。北洋大学は2021年3月まで苫小牧駒澤大学という名称だった。2018年に学校法人駒澤大学から「学校法人京都育英館」に移管・譲渡されており、経営も実質的には京都育英館の松尾英孝理事長に握られている。
《(京都育英館は)平成25年4月に設立され、京都看護大学や苫小牧市に隣接する白老町で北海道栄高校(生徒数371人)の運営を手がけている。(略)中国・瀋陽市では、東北育才外国語学校を設立、経営している》
《一部大学関係者や寄付行為者である曹洞宗の関係者の間では、移管譲渡までの経緯が不透明なうえ、苫駒大が中国人大学になり、駒大グループが中国化するのではないかという不安が広がっている》(産経新聞/2017年6月19日付)
 京都育英館は多くの中国人留学生を東大・京大といった一流大学に送り込んでいる専門学校だ。もちろん東北育才外国語学校と中国共産党の絡みもある。いわば一部の中国人留学生の日本の大学への「サイレント・インベージョン(静かなる侵略)」の橋渡し役ともいえなくもない。
 こういった経緯を持つ北洋大が「アイヌ」に力を入れると宣言しているのだ。一部のアイヌ関係者は、アイヌ自治区≠声高に叫んでいる。2020年7月に白老でオープンしたウポポイ(民族共生象徴空間)には「民族共生」という言葉が入っているが、中国は弾圧しているウイグル、チベット、南モンゴルのことを「民族共生」と称している。その欺瞞を再認識すべきだろう。

●未来の子供たちのためにも

 樺太アイヌ問題は、冒頭でも書いたように、徴用工問題とも深くかかわっている。
 徴用工問題に関わっている活動家や弁護士は、自著の中でお決まりの表現をする。歴史研究家の竹内康人氏が編著した『戦時朝鮮人強制労働調査資料集』(神戸学生青年センター出版部)には、
《北海道炭礦汽船はアイヌモシリでの植民地開発を狙った企業ですが、北海道各地の炭鉱に数万人の朝鮮人を連行しています》
 とある。
 竹内氏は産業遺産情報センターを一方的な視点でやり玉に挙げた「実感ドドド!」というNHKの番組でコメンテーターとして出演していた人物で、彼が調査した朝鮮人強制労働<潟Xト2,000社以上の日本企業リストが、韓国の徴用工問題における訴訟のベースになっている。
 また、中国人強制労働の花岡事件や三菱マテリアル80億円和解などといった戦後補償裁判をたくさん手掛けている内田雅敏弁護士は自著で、
《植民地支配は経済的な収奪のみでなく、文化の破壊を伴います。日本は明治以降、沖縄・アイヌモシリ(北海道)で内国植民地を経営し、経済的な収奪と並んで、沖縄、アイヌの文化を破壊し、言語を否定し、それを韓国にも持ち込みました》(『元徴用工 和解への道−−戦時被害と個人請求権』ちくま新書)
 と記述している。
 彼らの思惑通りに事が進めば、いずれ日本地図から北海道という文字が消え、アイヌモシリ=i北海道)という文字が浮かび上がるのだろうか。実際に一部のアイヌの活動家たちはアイヌ自治権を主張し、「和人は借地料を支払え」と叫んでいる。
 最後に樺太記念館にも大きなパネルで展示してもらいたい大事な記事を紹介したい。
《晴れて戸籍を得る 樺太アイヌ1,000人 近く多年の念願達す》と題された戦前の朝日の記事だ(1932年)。
《立派な日本國民でありながら今まで無籍者の歎をかこつてゐた樺太土着のアイヌ族約1,000名が、愈晴れて戸籍を輿へられ民法上の権利義務を享受することゝなつた−−》
 果たして、樺太アイヌが樺太から泣く泣く強制移住させられたのだとしたら、日本戸籍を得ることを長年にわたって祈念し、晴れて%本国民となるだろうか。
 取材の最終日、私は稚内市北方記念館・開基百年記念塔に登った。眼下には紺碧のオホーツク海が広がり、その先に樺太がかすんで見えた。下の公園の乙女の像では手を合わせた。 日ソ不可侵条約を破って侵略してきたソ連軍の生贅にならぬよう、樺太真岡郵便局で自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられた像だ。また、陸海空の自衛隊も日夜北方に睨みをきかせて駐屯している。
 稚内は日本の最北の防人の地として様々な歴史的なドラマを乗り越えながら、国防の要衝であり続けてきた。歴史の改竄は内憂外患、放っておけば内に秘めたる安全保障の脅威ともなり得る。
 どうか稚内市教育委員会は、先人たちが遺してくれた誇りある歴史を子供たちに伝えるために襟を正していただきたい。
…… …… …… …… ……
  おおたか みき
1969年生まれ。フェリス女学院大学卒業。世界100カ国以上を訪問。チベットのダライラマ十四世、台湾の李登輝元総統、世界ウイグル会議総裁ラビア・カ−ディル女史などにインタビューする。『日本を貶める−「反日謝罪男と捏造メディア」の正体』『習近平のジェノサイド捏造メディアが報じない真実』(ワック)など著書多数。「サンケイ・ワールド・ビュー」(レギュラー)、「虎ノ門ニュース」などに出演している。

Will 2022年1月号から

 



◆アイヌ3

アイヌ3 (ウィキペディアから)2021.12.28

 アイヌ(アイヌ語: Ainu / Aynu, ロシア語: Айны)は、北は樺太から、北東の千島列島・カムチャツカ(勘察加)半島、北海道を経て、南は本州北部にまたがる地域に居住していた民族である。
 アイヌは永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。すなわち生業から得られる毛皮や海産物などをもって、黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の先住民族のイテリメン族と交易を行っていた。また和人とも交易を行い米などの食料や漆器、木綿、鉄器などを入手していた。
 19世紀に列強の国々による領土拡張の際、世界各地で、多くの先住民族が列強の国々に編入され、アイヌも同様の運命をたどった。1855年に日露和親条約で北方地域における国境線決定により、当時の国際法の下、日本とロシアの各々の領土が確定し編入された以降、アイヌは日本国民またはロシア国民となった。
 アイヌは、元来は狩猟採集民族であり、文字を持たず、物々交換による交易を行う。独自の文化を有する。母語はアイヌ語。独特の文様を多用する文化を持ち、織物や服装にも独特の文様を入れる(かつては、身体にも刺青を入れた)。家(住居)(アイヌ語で「チセ」)は、(昭和期以降の学者らが)「掘立柱建物」と呼ぶ建築様式である。
 1878年(明治11年)、イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌの男性。
 現在、アイヌは日本とロシアに居住する「少数民族」であり、日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住しているが、その正確な数はわかっていない。
 日本の国会は、2019年(平成31年)4月19日にアイヌ民族を「 日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族 」と認定して支援を行うアイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律を制定した。


アイヌ
 アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族(和人、シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。
 アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。
 地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。
 大和民族(和人)は、中央政権から見て開拓されていない東方や北方に住む人々を古代中国の呼び名より「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉であったが、大正時代以降には次第に侮蔑感とともに使われるようになったとされる)」と呼称し、次第にこれが渡嶋から北の人々を指す言葉となり「アイノ」(=アイヌ)と同一して呼ばれるようになる。 その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。
 アイヌの民族形成の過程を「縄文文化と続縄文文化のプレアイヌ」→「擦文文化のプロトアイヌ」→「近世アイヌのアイヌ」→「近代以降のアイノイド」と変化していくと1972 年「典型的なアイヌ文化」(埴原氏ほか)で規定する枠組みと民族集団形成のモデルが提示された。

ウタリ
 ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが、長年の差別の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、1961年から2006年にかけ、行政機関の用語としても使用されていた。

蝦夷
 朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。
 東北の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、平安時代後期までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。東北地方は弥生時代から稲作文化が流入していた一方、アイヌ語地名も散見され、古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下するなど、歴史的にも和人、アイヌの混交の地であったとも考えられている。
 中世以降、アイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた。北海道、樺太は遅くとも平安時代末に和人の定着が見られるまでは、多種多様な種族部族のアイヌが分散、集落での対立が多く、統一した民族ではなかった。また、文字が無く、どのような統治状態なのか全く分かっていない。
 また、中国東北部の民族からはアイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。

歴史
 アイヌは、人類学的には日本列島の北海道縄文人と近く、約3万8千年前に海を渡った本州以南との交易も行われた。本州以南で農耕文化の弥生時代が始まったころ、北海道では狩猟採集生活様式が継続する続縄文文化の生活様式が営まれていた。オホーツク人と緊張状態にあった続縄文人からの要請を受け、ヤマト王権の介入(助け)(阿倍比羅夫の蝦夷征討)が見られた7世紀以降、東北地方から石狩低地帯への古墳文化人の子孫の移住が見られ、これをきっかけに擦文文化が始まる。移住者たちは江別古墳群や祭祀に用いる語彙などの痕跡を残したが、地元人と同化したとみられている。これら擦文文化やオホーツク文化は、アイヌ文化の原型が見られるものである。一方で、「蝦夷」にアイヌが含まれていたかどうかには議論がある。
 13〜14世紀頃には狩猟・漁撈・採集と一部の農耕を組み合わせ、交易を行うアイヌの文化的特色が形成された。遅くとも平安時代末ころから道南に和人の定着が始まり、蝦夷管領安東氏の存在した13〜14世紀になると、和人による農耕が盛んになる。
 擦文時代に自製していた土器は、アイヌ文化の成立と共に作られなくなり、代わりに和人との交易で移入された鉄鍋や漆器が使用されるようになる。住居も縄文時代から続く竪穴式住居から、地面と同じ高さの床を持つチセへ移行する。擦文時代の住居には備えられていたかまどがすたれ、炊事は囲炉裏でのみ行われるようになる。また、多くの遺跡からキビ・アワ・オオムギの種子や農具としての鎌が出土し、鍬先・鋤先出土(9か所)例も有る擦文時代から、農耕を行った形跡のない上川アイヌ(日高アイヌはアワ、ヒエを収穫)、オオウバユリ製デンプン、エゾシカ、サケが主な食べ物であった時代へと移行する。
 アイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には道南でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草を入手し、対価を鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていた。また、清から伝わった蝦夷錦などの衣服を当初はアイヌを介し輸入した(山丹交易)。北千島を除き、郷村制が敷かれ、アイヌの有力者を役蝦夷に任命。アイヌは百姓身分に位置づけられていた。1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった(乱後「交易の条件は少しよくなりました」)。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄領とした。幕末、箱館奉行によって、アイヌも和人も分け隔てなく疱瘡対策の種痘を行い、同時にアイヌの呼称は「蝦夷」から「土人」に改称された。これは当時、純粋に「土地の人」や「地元の人」の意味で用いられた言葉である。
 イオマンテの一場面。熊を檻から引き出し、ロープをかけて広場に連れ出す。右から、熊の世話係だった女性が従う。
 1771年(明和8年) - 択捉島のアイヌと羅処和島のアイヌが団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する事件が発生している。1806年・1807年には、植民地建設を行っていた露米会社のフヴォストフが千島アイヌを襲撃。米、衣服などを掠奪し部落や舟を焼き払ったので、多くの餓死者がでた。その他、小規模な海賊行為が横行していた。
 1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた。
 明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、和人の人口が増加した。戸籍制度において、アイヌの人々は日本国の「平民」とされるが、イオマンテや入墨、耳環など、アイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。1871年には女子の入墨とチセウフイカ(故人を弔うためその家を焼く風習)が禁止される。
 同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、アイヌ語の禁止などは行われなかったものの、教育が日本語で行われたことでアイヌ語話者は漸減していく。1875年、地租改正によってアイヌの土地も私有財産と見做されるが、多くのアイヌは地権という概念に馴染めず、和人にこれを詐取される者が続出し(貨幣契約経済に馴染めぬ彼らが「従来の耕地は、焼酎一本、酒一升に依って轉々として人手に渡り)、多くが移住を余儀なくされる。また、乱獲による動物の減少を防ぐためとして伝統的な狩猟、漁撈も制限され、生活も困窮の一途をたどっていく(実際、江戸期から交易のためにアイヌによって乱獲されたラッコ[一枚米大俵十]、ワシ[十箇米小俵二十]は絶滅又は寸前。近代漁法の導入で河川の鮭・鱒は激減)。
 そこで開拓使は土人漁業組合を組織。解散後に財産・収益を分配するが、一戸当たりの配分額は百六十七円余(教員給与の16年分)であった。直接受け取ったアイヌは、蓄財を好まぬ性癖から全て失い離散。開拓使に保管利殖を頼んだアイヌには、大正末期まで莫大な給与が支払われる。 他方政府は1899年に北海道旧土人保護法を施行し、土地の無償下付(5町歩=約5haで民間開拓と同じ)や農具の給付、無償医療の提供、冬季生活資糧の給付など、様々な救済措置を実施する。しかし農耕を忌避する文化から、アイヌは給与地をおおむね和人に賃貸し狩猟採集生活を脱しきれなかったため、生活改善は遅れた。この実情に鑑み、不当な賃貸借契約を破棄させアイヌの手に取り戻したのが昭和12年に可決・施行した改正保護法で、土地の無償給与(8,338町歩、一戸あたり2.2町歩)、進学者への学資、住宅改築8割補助金の給付等のアイヌ保護育成策をも構じる。
 昭和21(1946)年政府は一部保護施策を除き保護法を全廃。生活保護法を適用することに改める。1948年マッカーサーが指令した農地改革法により不在地主地は無条件で解放されアイヌは土地を失ったが、和人との混住によって自立自営の精神を涵養する機会を与えた。

宗教
 アイヌの宗教はアニミズムに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。

仏教
 文化4年(1807)ロシア船が来寇した時にはこれに帰依する五百人余のアイヌが仏幡を立ててこれを守ったと記録されている。これとは伊達市の有珠善光寺およびその本尊阿弥陀如来で、開基は827年、1613年に再興されたと伝える。

キリスト教
 北千島(新知郡・占守郡)に住む千島アイヌはロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になったが、国力の乏しい当時の日本にとって生活物資の補給は大変困難であり、開拓使の官吏が北千島の住民を説得し色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。色丹島に移住した千島アイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした。
 また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった」と記述している。

建築
 アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床式倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。
 アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれる壕や崖などで囲まれる空間が造営されることも多かった。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用の砦であったという説などがあり、これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。

衣装
 アイヌの伝統衣装はアミプと呼ばれ、特にオヒョウやシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパラミプラ」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカプウル」がある。
 江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖や陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。

口承文芸
 アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはユーカラ(ユカ?、叙事詩)などの歌謡と、ウエペケレ(昔話)などの散文に大別される。大正時代にアイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』が出版されたほか、金田一京助、知里真志保らによるユーカラ研究がある。現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている。

古式舞踊
 祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リムセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年にユネスコの無形文化遺産に登録。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。

言語
 アイヌの言語であるアイヌ語は孤立した言語であり、日本語とは系統が全く異なる。言語類型論上は、膠着語に属する日本語とは異なり、抱合語に分類される。北海道、樺太、千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」(critically endangered) な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である。危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された。系統的には「孤立した言語」とされており、縄文時代の言語をそのまま残しているという説がある。文字を持たない民族であったが、北海道はもとより、東北地方北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。
 最近の研究によると、アイヌ語は縄文人ではなくオホーツク人に由来していることが示唆されている。

人口と分布
 現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。
 アイヌの伝統的な人口分布地は、北海道、樺太、千島列島、カムチャツカ、東北地方北部である。なお、北海道、千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである。
 江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
 1756年に弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島で漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。
 1875年の樺太千島交換条約後、困難な生活物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが開拓使によって説得の上色丹島へ移住させられた(『千島巡航日記』)。
 1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた。
 1945年にソビエト連邦が日本に参戦し、南樺太と千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された。
 1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある。この結果を裏付ける他の研究はない。
 北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された。1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる。
 1992年に日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキが樺太アイヌの女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔は日本にいる。
 2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振・日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。
 2017年の調査では、道内のアイヌ人口は約1万3000人となっている。これは2006年の2万4000人から急激に減少しているが、これは調査に協力している北海道アイヌ協会の会員数が減少したことと、個人情報の保護への関心の高まりから、調査に協力する人が減っていることが挙げられ、実際の人数とは合致しないと考えられている。

現在
 現在の日本政府が日本(北海道)の先住民として認識しているのはアイヌのみである。ただし、国連人種差別撤廃委員会はアイヌ民族以外に琉球民族も先住民だとし、日本政府とは異なる見解をしめしている。
 アイヌ居留地は存在しないが、釧路阿寒、平取町二風谷、白老等をはじめとする「全道各地」に多数が居住するほか、白老や阿寒湖温泉では観光名所としてアイヌコタンが存在する。
 平成18年の北海道の調査によれば、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、はい、と答えた人が16.8%、そのほかに別の誰かが受けたことを知っていると答えた人が、19.8%であった。このうち、直近7年間に自分が差別を受けたという人は2%程度であり、平成25年の調査でも同様である。
 しかし、平成28年の法務省の調査によれば、「家族・親族・友人・知人が差別を受けている」と回答した人が51%であり、近年は差別が深刻化していることも見て取れる。また、同調査で、アイヌの人々に対する差別や偏見の有無について日本国民全体を対象にアンケートをしたところ、国民全体の18%のみが「あると思う」と答えているのに対し、アイヌの人々は72%が「あると思う」と答えており、差別や偏見に対する大きな認識のギャップがあることが見て取れる。
 アイヌとして生活する者が周囲から差別的に扱われる順番として、第一に義務教育課程でアイヌ文化を扱った授業を受けた時、第二に婚姻・結婚、次に就職など社会に出た場合、とされる。中でも義務教育時代に受けた差別は普遍的な経験になっている、とされる。
 明治以降は和人との通婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少しているが、大和民族との通婚が増えている理由として西浦宏巳は1980年代前半に二風谷のアイヌ調査で、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと指摘している。アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造(1938年11月生)のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人(1922年11月21日生)は、和人の両親から生まれたが幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという。
 長い間、和人による差別や蔑視をうけた事により、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、和人への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年は自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。

日本における認識
 2020年に内閣府はアイヌに対して知っていることで世論調査を行った。
 アイヌの存在93.6%、アイヌが先住民族91.2%、アイヌ語がある81.3%であった。一方で中世以降アイヌと和人の間に争いがあった44.1%、明治以降アイヌが独自の文化を制限され貧しい暮らしを余儀なくされた46.3%、アイヌのなかで文化の復興保存活動をしている46.5%と負の歴史などでは過半数を割る結果であった。
 文筆家の古谷経平は日本テレビで起こったアイヌに対して不適切な内容が放送された事に対し日本人の歴史認識の低さを指摘した。日本人はアイヌの土地を侵略し征服したというアイヌ側の視点を無視し開拓者が北海道を作ったと和人側の認識しか持っていない、同化政策などアイヌに対する加害を無視して歴史を教えている。自分は明治に北海道に移住した人間の子孫であるが後ろめたい歴史があるから開拓者の子孫とは名乗らないと記事に記した。

形質
 形質人類学では古モンゴロイドに属す。
 明治以来、アイヌは他のモンゴロイド(新モンゴロイド)に比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。これまでアイヌの起源論については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、遺伝的にはコーカソイドとの類縁性はなく、歯冠形質においても明らかにモンゴロイドの系統に属することが判明している。また系統的に類縁性があるのは琉球人である。(ヨーロッパ人と似た外観を持つのはアイヌの一部で、大多数がシベリア人・北アジア人に似ており、特にチュクチ人に最も類似する、との分析もある。)アイヌは北海道の縄文人の子孫とされるが、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究もある。
 2015年のアイヌを対象にした遺伝子分析により、顔の特徴に関連するDNA対立遺伝子が見つかった。 このDNA対立遺伝子はヨーロッパ人に一般的であり、一部のアイヌがヨーロッパ人のような顔の外見を持つ理由とされる。このDNA対立遺伝子は縄文時代にシベリアから到着したと考えられている。

遺伝子調査
 一塩基多型(SNP)に基づく遺伝子調査により、アイヌと琉球人は類似性が非常に高い集団であることがわかっている。また、アイヌの3分の1以上に、本土和人/本土日本人との遺伝子交流が認められている。東アジア大陸部の他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、和人)の特異性が示されている。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示唆している。アイヌ集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。
 アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループD1a2aが87.5%(うちD1a2a*が13/16=81.25%、D1a2a1aが1/6=6.25%)と大半を占める。ハプログループD1a2aは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2が2/16=12.5%と報告されている。
 母系を示すmtDNAハプログループについては、51人の調査で、ハプログループYが21.6%、ハプログループDが17.6%、ハプログループM7aが15.7%、ハプログループG1が15.7%などとなっている。
 アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる。
 日本人の起源としては「二重構造モデル」がかねてから主流であるが、総合研究大学院大学と東京大学の遺伝子調査により、二重構造モデルの予言した通りにアイヌ人は本土日本人より琉球人と近いことが裏付けられた。

北海道縄文人集団
 アイヌは北海道縄文人の子孫とされるが、北海道の縄文人は本州や九州の縄文人とは異なっていたとされる。(本州・九州縄文人は現代の東アジア人に似ていたが、北海道縄文は古代シベリア人に近縁であったとされる。瀬口(2014)によると、縄文人は旧石器時代の多様な集団から派生し、様々なルートで日本にやってきたとされる。)
 母系の系統を表すミトコンドリアDNAの系統解析から、北海道の縄文時代人・続縄文時代人の母系系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団の母系系統の頻度分布と大きく異なることがわかっている。また、坂上田村麻呂による蝦夷征討以前の東北地方の古墳時代人には、北海道の縄文人・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察されることから、東北地方の縄文人も北海道の縄文人・続縄文人と同じ系統に属する可能性が指摘された。これを受けて東北地方縄文時代人のDNAと北海道縄文時代人のDNAが比較され、北日本縄文人の遺伝子型の中心となっているのはハプログループN9bおよびM7aであることがわかった。
 北海道縄文人集団には、N9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている。このうち、N9bの頻度分布は64.8%と非常に高い。N9bはアムール川下流域の先住民に高頻度で保持されている。また、D10はアムール川下流域の先住民ウリチにみられる。G1bは、主に北東アジアにみられるハプログループGのサブグループで、カムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない。

他の先住民族との関連
 近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太(サハリン)起源とされるオホーツク文化は5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消している。
 2009年、北海道で発見されたオホーツク文化遺跡の人骨が、現在では樺太北部や外満州のアムール川河口一帯に住むニヴフに最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族、コリャーク人とも祖先を共有することがDNA調査でわかった。また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるハプログループY遺伝子が確認され、アイヌとオホーツク人との遺伝的共通性も判明した。アイヌ民族は縄文人や本土日本人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった。
 天野哲也北海道大学教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした。増田隆一北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した。この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた。
 HLA IおよびHLA II遺伝子、ならびにHLA-A、-B、および-DRB1遺伝子頻度の遺伝分析では、アイヌはアメリカ大陸の先住民族、特にトリンギット島などの太平洋岸北西部沿岸の人口に関連性が高いとされた。アイヌといくつかのアメリカ先住民の主な祖先は、シベリア南部の旧石器時代の集団に遡るとされている。
 2004年の頭蓋特性の再評価で、アイヌの縄文人よりもオホーツク人に類似するという結果が出ている。

諸説
 自然人類学の中には(特に日本人(和人)の学者の中には)「アイヌも本土日本人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つ」とする学者もいた。
 また日本人(和人)の側に立って日本人(和人)を研究する研究者であり、「南方系の縄文人、北方系の弥生人」という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、「アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立した」と主張した(2009年)。また「アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫」と主張した。

他文化との関連
 アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代、擦文時代を経て、擦文文化人が道北や樺太、道東に展開したオホーツク人を排除・混血しながら北海道や樺太南部に広がりアイヌ文化の形成に至ったという説がある。この説は、アイヌの熊送りの儀式が北海道縄文人や東北地方には見られず、当時のオホーツク人などをはじめユーラシア大陸の狩猟民族の典型的な宗教文化であることと符合する。また、熊送りについては諸説あり、縄文時代に行われたイノシシ祭りに由来し、弥生時代以降に対象動物が熊に置き換わったとする説もある。弥生時代以降、熊毛皮は本州方面への出荷品となっていたという。
 擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた[要出典]。近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになっている。また、アイヌは、ニヴフをはじめアムール川流域に住むウリチ/山丹人との関連も強く示唆されている。擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている)の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。

先住民族の権利
 1950年代のアメリカ合衆国で先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた。
 1997年、アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを先住民族と認定されなかった。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。
 2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せに基づき実施している。その際には、家系図や戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。
 2008年5月12日に鈴木宗男が国会に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。」と答弁している(ただし「先住民族」との認識ではない)。6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた(ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)。一方で、『菊と刀』などの著作で知られる文化人類学者ルースベネディクトは、その著作の中で繰り返し、アイヌを日本の先住民族(indigenous group)と書いている。
 2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請」が行われた。
 2019年4月19日、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律が成立し、同月26日公布された。同法1条の目的規定において「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌの文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務,政府による基本方針の策定、民族象徴共生空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の作成及び内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」と規定され、法制上アイヌの人々が北海道の先住民族であることを明記した。
 同法に基づき、国有林野におけるアイヌにおける儀式の実施その他アイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取について共同使用権の取得に関する規定、内水面さけ採捕事業についての漁業法及び水産資源保護法上の許可の配慮規定などが設けられるにいたった。
 2018年12月、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した。

自民党議員によるアイヌ民族否定
 2014年8月に東区選出の札幌市議会議員で自由民主党所属の金子快之がTwitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところ」とアイヌ民族は今は存在しないとする書き込みを行っていたことが判明、アイヌの団体などから批判され、自民党の市議会会派から除名された後、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議をうけた。金子は、北海道アイヌ協会がアイヌ民族の認定を行っていることに対し「アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しない」とし、「アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定しており、出自がアイヌでなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌとしての優遇措置を受けられる、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在しているなどといったことを市議会で告発した。アイヌの文化や歴史自体を否定するものではないとしつつも、利権の問題には今後も取り組んでいくと述べた。しかし一方で除名処分に際し『アイヌ民族は先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない。
 その後の金子は辞職を拒否して保守系無所属の市議となり、2015年の札幌市議選では東区選挙区から再選を目指したものの落選した。

墓地の盗掘と遺骨返還
 北海道や千島、樺太の開発と学術調査が本格化した明治以降、国内外の民族学者や考古学者らが、アイヌを含む北方先住民族の墓地を盗掘して、遺骨を乱雑に扱ったり、国外に持ち出したりした例があった。北海道大学では1995年に「北大人骨事件」が発覚。北大は学内で保管するアイヌの遺骨(16人分)を、日本政府のガイドラインに沿って子孫ら祭祀継承者へ渡す「アイヌ遺骨等返還室」を2015年4月に設置した。またドイツの学術団体「ベルリン人類学・民族学・先史学協会」(BGAEU)は2017年7月31日、ドイツ人旅行者のゲオルク・シュレジンガーが1879年に札幌市内のアイヌ墓地から持ち出したアイヌの遺骨1体を、在ベルリン日本大使館で北海道アイヌ協会へ返還した。この遺骨は8月2日に北海道大学のアイヌ納骨堂に納められた後、同月4日に慰霊祭(イチャルパ)で供養される予定である。



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