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 わが国の文化財や伝統文化を通じた地域の活性化を図るためには、その歴史的経緯や, 地域の風土に根ざした世代を超えて受け継がれている伝承、風習などを踏まえたストーリーの下に有形・無形の文化財をパッケージ化し、これらの活用を図る中で、情報発信や人材育成・伝承, 環境整備などの取組を効果的に進めていくことが必要です。
 文化庁では、地域の歴史的魅力や特色を通じてわが国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として認定し、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群を総合的に活用する取組を支援します。
 世界遺産登録や文化財指定は、いずれも登録・指定される文化財(文化遺産)の価値付けを行い, 保護を担保することを目的とするものです。一方で日本遺産は, 既存の文化財の価値付けや保全のための新たな規制を図ることを目的としたものではなく、地域に点在する遺産を「面」として活用し、発信することで, 地域活性化を図ることを目的としている点に違いがあります。(日本遺産ポータルサイトから)



北海道の日本遺産4ストーリー



北海道の日本遺産4カ所の要旨

1.江差の5月は江戸にもない−ニシンの繁栄が息づく街−

 江差の海岸線に沿った段丘の下側を通っている町並みの表通りに、 切妻屋根の建物が建ち並び、暖簾・看板・壁にはその家ごとの屋号が掲げられている。 緩やかに海側へ下っている地形にあわせて蔵が階段状に連なり、 海と共に生きてきた地域であることがうかがえる。 この町並みは、江戸時代から明治時代にかけてのニシン漁とその加工品の交易によって形成されたもので、 その様は「江差の五月は江戸にもない」と謳われるほどであった。 ニシンによる繁栄は、江戸時代から伝承されている文化とともに、 今でもこの地域に色濃く連綿と息づいている。(日本遺産ポータルサイトから)
 ◆自治体=江差町
 ◆構成文化財=江差の町並み、旧中村家住宅、江差姥神町横山家、旧檜山爾志郡役所庁舎、かもめ島、折居伝説とその資料、瓶子岩、姥神大神宮、北前船係船柱及び同跡、厳島神社、厳島神社の石鳥居、厳島神社の手水石、かもめ島の階段跡、江差商人の宴席跡、ニシン漁とニシン交易の古文書、江差沖揚音頭、江差鮫踊り、江差追分、江差追分踊り、江差三下り、姥神大神宮渡御祭、江差姥神大神宮祭礼山車松寳丸及び附属品、江差姥神大神宮祭礼山車神功山人形及び附属品、江差餅つき囃子、三平汁、ニシン漬け。

◆旧中村家住宅
 中歌町に残された旧中村家は、江戸時代から日本海沿岸の漁家を相手に海産物の仲買商を営んでいた近江商人の大橋宇兵衛が建てたもの。家屋は、当時江差と北陸を往復していた北前船で運んできた越前石を積み上げた土台に、総檜切妻造りの大きな二階建て。さらに母屋から浜側まで文庫倉、下の倉、ハネ出しまで続く通り庭様式で、当時の問屋建築の代表的な造りとなっている。入館料・大人200円、小中高生100円、開館時間・9時〜17時、問い合わせ01395‐2-1617

  1 旧檜山爾志郡役所(江差町郷土資料館) 2 いにしえ街道 3 旧中村家住宅
  4 江差追分会館 5 姥神大神宮 6 旧横山家住宅 7 旧関川家別荘
  8 江差をPRする国道沿いの立て看板


2.荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間〜北前船寄港地・船主集落〜

 日本海や瀬戸内海沿岸には、山を風景の一部に取り込む港町が点々とみられます。そこには、港に通じる小路が随所に走り、通りには広大な商家や豪壮な船主屋敷が建っています。また、社寺には奉納された船の絵馬や模型が残り、 京など遠方に起源がある祭礼が行われ、節回しの似た民謡が唄われています。これらの港町は、荒波を越え、動く総合商社として巨万の富を生み、各地に繁栄をもたらした北前船の寄港地・船主集落で、時を重ねて彩られた異空間として今も人々を惹きつけてやみません。
 ◆自治体=函館市松前町※小樽市※石狩市。(※印は2018年5月24日認定)
 ◆構成文化財=函館山、箱館奉行所跡、高田屋屋敷跡、高田屋本店跡、厳島神社、福山波止場、沖口役所跡、松前屏風、松本家土蔵及び松本家資料、福山城下町遺跡、龍雲院、松前藩主松前家墓所、松前沖揚げ音頭、難船図絵馬、松前祇園ばやし、厚田神社船絵馬、石狩八幡神社鳥居、石狩弁天社狛犬、旧白鳥番屋(石狩市はまます郷土資料館)、浜益沖揚げ音頭、

大野町から望む函館山


3.カムイと共に生きる上川アイヌ〜大雪山のふところに伝承される神々の世界〜

 美しく厳しい大雪山のふところに、カムイ〜神〜を見出し共に生きた“上川アイヌ”。彼らは激流迸る奇岩の渓谷に魔神と英雄神の戦いの伝説を残し、神々への祈りの場として崇めた上川アイヌの聖地には、クマ笹で葺かれた家などによりコタンを形成し祈りを捧げ続ける。上川アイヌは「川は山へ溯る生き物」と考え、最上流の大雪山を最も神々の国に近く、自然の恵みをもたらす、カムイミンタラ〜神々の遊ぶ庭〜として崇拝してきた。神々と共に生き、伝承してきた上川アイヌの文化は、この大地に今も息づいている。
 ◆自治体=上川町旭川市富良野市愛別町上士幌町上富良野町鹿追町士幌町新得町当麻町東川町比布町
 ◆構成文化財=アイヌ古式舞踊、神居古潭~魔神と英雄神の激闘~(神居古潭おう穴群“ニッネカムイ・オ・ラオシマ・イ”~魔神の足跡~、魔神の胴体“ニッネカムイ・ネトパ・ケ”、魔神の頭“ニッネカムイ・サパ”)、カムイノミ、石狩川、嵐山~チノミシリ~、チカプニ、チノミシリカムイノミ、チセ・プ・ヌササン・アシンル・メノコル、大雪山~カムイミンタラ~(旭岳、羽衣の滝、天人峡、層雲峡、銀河・流星の滝、黒岳、大雪高原沼、大函、原始ヶ原、十勝岳、然別湖、三国峠の大樹海、五色ヶ原、ヌプカの里)、高山植物、高山蝶(ウスバキチョウ、アサヒヒョウモン、ダイセツタカネヒカゲ、カラフトルリシジミ)、ヌプリコロカムイノミ、フクロウ神事、総乙名クーチンコロの碑・松井梅太郎の碑、木彫技術(木彫り熊)、上川アイヌに関する資料一式(川村カ子トアイヌ記念館所蔵)、上川アイヌに関する資料一式(旭川市博物館所蔵)、突哨山(突哨山チャシ、地獄に通ずる穴)、石垣山(サン山の神、アイヌの古戦場)、立岩・人喰い刀岩、水神龍王神社。


◆三国峠の大樹海
 北海道の国道では最も高い標高1,139mの三国峠から見下ろす大樹海は、約100万年前の大噴火で形成されたカルデラである。東大雪の山々に囲まれたその地には現在、針葉樹と広葉樹の混交林が広がり、美しい景観をつくっている。かつて中心地には、旧国鉄士幌線の終着駅と集落があった。木材の積み出し基地として栄え、1960年(昭和35年)には2000人を超える人々が暮らしていた。 

三国峠の大樹海


4.本邦国策を北海道に観よ〜北の産業革命『炭鉄港』〜

 「住友赤平炭鉱立坑櫓・周辺施設」(赤平市)、「北炭ローダー基礎」(小樽市)、「室蘭市旧室蘭駅舎」(室蘭市)など道内12自治体の文化財45点で構成し、それらを歴史的な経緯や伝承、風習といった「ストーリー」でつないでいる。
 ◆自治体=赤平市小樽市室蘭市夕張市岩見沢市美唄市芦別市三笠市栗山町月形町沼田町安平町
 ◆構成文化財=空知川露頭断層、北炭幌内炭鉱音羽坑、樺戸集治監本庁舎(月形樺戸博物館)・空知集治監・典獄官舎レンガ煙突、夕張の石炭大露頭「夕張24尺層」、小林酒造建造物群、旧北炭夕張炭鉱天龍坑、炭鉱の記憶マネジメントセンター石蔵、夕張鹿鳴館(旧北炭鹿ノ谷倶楽部)、幌内変電所、北炭幾春別炭鉱錦立坑櫓、三菱美唄炭鉱竪坑櫓、旧北炭滝ノ上水力発電所、北炭新幌内鉱坑口、旧北炭夕張炭鉱模擬坑道(夕張市石炭博物館)、旧北炭清水沢水力発電所、北炭赤間炭鉱スリ山、採炭救国坑夫の像、人民裁判の絵、旧栄小学校(安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄)、星槎大学(旧頼城小学校)校舎および体育館、三笠市役所庁舎、住友奔別炭鉱立坑櫓・周辺施設、住友赤平炭鉱立坑櫓・周辺施設、日本製鋼所旧火力発電所、恵比寿・大黒天像、瑞泉閣、日本製鋼所室蘭製作所製造複葉機エンジン「室0号」、工場景観と企業城下町のまちなみ、小樽港北防波堤、北炭ローダー基礎、色内銀行街(旧三井物産及び旧三菱商事小樽支店)、旧三菱合資会社室蘭出張所、旧北炭室蘭海員倶楽部、手宮線跡及び附属施設、旧手宮鉄道施設、小樽中央市場、旧北海道炭礦鉄道岩見沢工場(岩見沢レールセンター)、旧室蘭駅舎、朝日駅舎、岩見沢操車場跡、唐松駅舎、クラウス15号蒸気機関車、蒸気機関車D51 320号車、旧三井芦別鉄道炭山川橋梁、美唄鉄道東明駅舎・4110形式十輪連結タンク機関車2号。


◆日本遺産「炭鉄港」の構成文化財の空知川露頭炭
 2021年、日本遺産「炭鉄港」の構成文化財の空知川露頭炭を直で見ることができる展望デッキ(写真)が完成した。この完成によって、大きく蛇行する空知川の下流左岸に露頭炭層を見ることができる。住所:赤平市赤平。問い合わせ:札幌開発建設部 空知川河川事務所 (北海道芦別市滝里町683) 電話0124-24-4111。
 赤平は石狩炭田の北東部に位置するところ。その歴史は、1857年(安政4年)、松浦武四郎が空知川沿いに石炭を発見したことに始まるといわれている。明治の早い時期から炭層調査が行われていたが、実際に採掘されたのは大正になってから。次々に炭鉱が開鉱し、昭和に入ってますます活気づき、1952年(昭和27年)ころ、まちは繁栄を極めた。しかし、その後、石炭政策により、工業のまちへと変革。花づくりやアウトドアスポーツも盛んで、観光のまちとしても知られている。空知川の川岸にしばしば見られる露出した石炭層は、炭都・赤平の素顔と歴史を静かに物語る。(現地の立て看板から)
 日本遺産「炭鉄港」の構成文化財になっている空知川露頭炭。炭層が崖になっているため昨年まではカヌー等での川からのアプローチだったが、2021年からは展望デッキが完成し、大きく蛇行する空知川の下流左岸に露頭炭層を見ることができるようになった(写真)。

空知川の川岸にある露頭炭と看板(2021年7月撮影)

樺戸集治監
 樺戸集治監は、明治14年(1881)9月3日に開庁した。旧刑法や改正監獄即に即した本格的な集治監で、未開の北海道の地に国事犯などの重罪人を隔離して開拓に当たらせ、あわせて新天地で囚徒の自力更生を進めようとした。集治監の建設によって初代典獄・月形潔の姓をとって命名された月形村が誕生し、村は集治監を拠点として発展した。

月形樺戸博物館

小林酒造株式会社
 のどかに広がる田園、なだらかに連なる丘陵、そして清らかな夕張川。この美しく穏やかな町・栗山に蔵を構える小林酒造は百十余年の伝統を慈しみながら、生命の水を育み続けている。小林酒造は創業明治11年。『北海道でしか醸せない、味わえない酒とは?』という答えを長い間一貫して追及してきた。商標の『北の錦』は初代、小林米三郎が北海道のこの地で錦を飾ってやろうという意気込みを表したもの。北の錦のある栗山町は夕張をはじめ旧産炭地に囲まれている。昭和20〜30年に多くの炭坑員に愛されて出荷数をぐんぐん伸ばしていった時代があった。北の錦が東映の大ヒット映画『鉄道員(ぽっぽや)』の本編の印象的なシーンに登場するのも、そういった背景があるからだろう。
 当社の特徴は造り酒屋では極めて珍しい西洋建築のレンガ蔵・札幌軟石の石蔵。一万坪の敷地内には18棟もの蔵が点在し、築100年蔵としては全国でも有数の規模を誇っている。また、地元の方々の力で96年に旧事務所に『蔵元 北の錦記念館』。それに引き続き100年蔵を活用した夕張川眺望テラス付きの『酒の郷なつかしホール・広場』なる屋内外のコンサートホールが誕生。99年の加藤登紀子さんの『ほろ酔コンサート』をこけら落としにさまざまな演奏会が活発に行われている。
 当社の核をなす明治の石蔵とレンガ蔵は夏場にあっても冷房装置なしに室温15度以下を持続できる特殊な蔵である。私たちは、この環境こそが私たち(北の錦)の酒造りの基盤だと認識して酒造りを営んでいる。当社の主流は古酒製品で純米酒は5年、原酒で1〜2年、大吟醸は3年という商品が看板になっている。長く酒を寝かせても着色がほとんどなく、そのかけがえない上品な香りとコクが北の錦の命だと考えている。
 北の錦は、平成20年に130周年を迎えた。そして、2008年からは、糖類などの添加物を完全廃止。北海道唯一の100%全商品、本醸造以上の酒造りを実現した。2010年からは100%北海道産米への切替にチャレンジする。地元栗山町は、全国一の米どころ空知の南にある町。お米のお酒の味を、過度のアルコール添加や糖分で、伸ばしていく方法は本意ではない。白米を使う比率を、さらに高めて_  うちの南杜氏は道産米を操る名人、脇田前杜氏に長年にわたり技術を叩き込まれた生粋の道産子。先代の米三郎からの至上命令だった『内地米(山田錦)に負けない道産米酒』。30年間努力してきて、ようやくお客さんに認められようとしている。ここ数年発売している道産米の限定純米酒は全部完売している。道産のお米をつかって良い酒だと褒められるのが一番うれしい。私たちには『北海道の造り酒屋が北海道米を使わないで北海道がよくなるはずはない』って気概がいつもある。農家とのより深いつながりを持って、ずっと頑固で大地にしっかり根を張った酒を造っていきたい。(小林酒造株式会社HPから)

小林酒造株式会社

旧住友赤平炭鉱立坑
 1895年に空知炭礦(歌志内市)の疎水坑が空知川に向けて開設されたのが、赤平最初の炭鉱着工と考えられている。 その後1913年に下富良野線が開通し、沿線の炭鉱開発が急速に進んだ。1918年に茂尻炭礦、1937年には豊里炭鉱、1938年に住友赤平炭鉱、赤間炭鉱と大手4炭鉱が開坑。赤平は石炭産業とともに発展し、1950年代には鉱業都市としてその最盛期を迎えた。しかし、その後のエネルギー革命により炭鉱の合理化が進み、1994年の住友赤平炭鉱の閉山により約100年に及ぶ炭鉱の歴史に幕が下ろされた。市内には多くの炭鉱遺産が残っており、これらに触れることで、北海道そして日本の近代化を支えてきた石炭産業の歴史や当時の生活を実感することができる。(赤平市HPから)

旧住友赤平炭鉱立坑

 ■櫓の高さ 43.8m
 ■立坑構造 深さ650m、内径6.6m
 ■年間揚炭能力 140万t
 ■工事期間 昭和34年9月〜昭和38年2月
 米国地質学者スミス・ライマンは、明治5年から3年間にわたって、北海道の地質調査にあたったが、同行した助手の一人である板(ばん)市太郎は、明治19年から20年にかけて空知炭田を調査した。この調査により、上赤平・上神歌志内地区の優良な炭層を知り、明治31年に試掘鉱区を取得した。後に坂上赤平炭礦を経営し、炭鉱開発を進めた。しかし、志半ばの大正9年に病没。やがて、この優良鉱区は大正13年に坂炭礦が住友合資会社との共同経営を経て、住友坂炭鉱鰍フ主要な鉱区となった。さらに昭和13年8月には、住友鉱業叶ヤ平礦業所が設置され、大規模な石炭採掘を開始し、戦時下の重要物資、戦後は日本経済復興の原動力として、石炭は大増産され、赤平一の大型炭鉱へと成長した。住友石炭赤平炭砿の成長とともに、赤平村は農村地域から炭鉱都市へと変貌していった。昭和30年代に入り、マイナス(地下)350mから上の炭量は20年間の稼行で枯渇し、さらに深部の開発が必要になった。深部開発により生産規模の開発を図るため、出炭と従業員の搬送のスピード化が望まれ、住友石炭赤平炭砿はビルド鉱として大規模投資に踏み切り、完成以降平成6年2月の閉山まで、立坑は31年間、炭鉱都市赤平のシンボルとして稼動してきた。


◆「777段」ズリ山階段
 炭坑のまち赤平の象徴として市内中央に腰を据え、火祭りの火文字の点火の舞台ともなるズリ山。そのズリ山に777段の階段がつくられ、ズリ山階段としては日本一を誇る。頂上の展望広場からは、市内全域はもとより十勝岳、暑寒別岳など、雄大な景色が一望できる。

ずり山の看板とずり山の頂上から赤平市街を望む


◆旧住友奔別(ぽんべつ)炭礦立坑
・櫓の高さ:50.52m
・立坑構造:深さ750m、内径6.4m
・昇降機:搭乗人員64人
・工事期間:昭和31年1月〜昭和35年9月
 北海道開拓史の調査によって、明治13年(1880年)に発見された奔別炭山は、明治35年(1902年)、民間により開坑に着手した。昭和3年(1928年)に住友炭礦株式会社の経営となった。昭和35年(1960年)、奔別・弥生両鉱の深部開発を図るためにこの立坑を建設し、同年弥生炭礦は奔別炭礦に統合された。立坑の高さは50.52mで規模、設備とも当時では東洋一と言われた。一つの立坑で人間、石炭、資材を並行して昇降させるこのシステムは国内初の試みであった。昭和46年(1971年)9月、奔別炭礦は住友石炭鉱業株式会社の合理化で同社より分離の上、奔別炭礦株式会社として新発足したが、直後の10月に閉山、69年の歴史を閉じた。閉山が決まり、坑口の密閉作業が終えたばかりの立坑で、大音響とともに外壁が吹き飛ぶほどのガス爆発が起こり、立坑付近で機械撤去をしていた作業員に死傷者を出す事故が発生した。住所:三笠市奔別町260。

旧住友奔別炭礦立坑


◆滝の上発電所
 滝の上発電所は、大正14年、北炭「北海道炭鉱汽船梶vが社内電力を自家発電で供給するという、当時としては画期的な計画のもとに建設されたもの。夕張川・千鳥ケ滝上流500mの位置に取水えん堤を築いて導水し、滝の落差を利用してタービンを回すシステム。現在でも、出力2,340kwの電力を供給する水力発電所として稼働している。赤レンガ造りの発電所は、当時の代表的な洋風建造物で、全盛期にあった炭鉱の姿を象徴している。所在地 夕張市滝ノ上5番地。

滝の上発電所


◆旧室蘭駅舎
 旧室蘭駅舎は明治45年(1912年)に建造。北海道内駅舎の中では最古の木造建築物。建築様式は、寄せ棟造り、明治の洋風建築の面影を残す屋根や白壁づくりの外観、外回りは入母屋風で「がんぎ」と呼ばれるアーケード様式で、全国でも珍しい建築物。平成11年(1999年)7月、「国の登録有形文化財」に登録され、平成22年(2010年)10月、JR北海道の「準鉄道記念物」に指定された。現在は観光案内所。また、文化庁は、旧室蘭駅舎など「炭鉄港」を2019年度日本遺産に認定した。室蘭市海岸町1丁目5番1号。

旧室蘭駅舎(室蘭観光協会)


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