page top


「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に―


 2021年(令和3年)7月27日、第44回世界遺産委員会拡大会合(中国福州市/オンライン開催)において、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産一覧表への記載が決定した。





北海道・北東北の縄文遺跡群

◇北黄金貝塚(北海道伊達市)
◇大船遺跡(北海道函館市)
◇垣ノ島遺跡(北海道函館市)
◇キウス周堤墓群(北海道千歳市)
◇入江貝塚(北海道洞爺湖町)
◇高砂貝塚(北海道洞爺湖町)
◇鷲ノ木遺跡(北海道森町)(関連遺産)
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
◇三内丸山遺跡(青森県青森市)
◇小牧野遺跡(青森県青森市)
◇大森勝山遺跡(青森県弘前市)
◇是川石器時代遺跡(青森県八戸市)
◇長七谷地貝塚(青森県八戸市)(関連資産)
◇亀ケ岡石器時代遺跡(青森県つがる市)
◇田小屋野貝塚(青森県つがる市)
◇二ツ森貝塚(青森県七戸町)
◇大平山元遺跡(青森県外ケ浜町)
◇大湯環状列石(秋田県鹿角市)
◇伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市)
◇御所野遺跡(岩手県一戸町)



北海道・北東北の縄文遺跡群(北海道分)


◇北黄金貝塚(伊達市北黄金町)

 縄文前期・中期(約7,000〜4,500年前)の集落遺跡。発掘調査ではA地点、B地点、C地点、A'地点、南斜面貝塚の5か所の貝塚のほか、水場の祭祀場、竪穴建物跡、墓跡などが発見されている。遺跡は、縄文文化を体感できる史跡公園として整備・公開しており、出土品を展示した情報センターを併設している。1987年史跡指定。143,594.02平方メートル。
 北黄金貝塚情報センター
◇電話:0142-24-2122。
◇住所:伊達市北黄金町75。

左から北黄金貝塚情報センター 史跡公園 貝塚跡(2023年4月撮影)




◇大船遺跡(函館市臼尻町)

 太平洋に面した中期の大規模な集落遺跡。これまでに100棟以上の竪穴建物跡、盛土遺構、土坑郡等が確認され、深さ2mを超える大型の建物が特徴的。大量の土器等のほか、クジラ、オットセイ、クリなどの動植物遺体が出土し、当時の生活、生業を知るうえで重要である。
◇住所:〒041-1622 北海道函館市大船町575-1。

大船遺跡埋蔵文化財展示館と大船遺跡・竪穴住居跡(2023年5月撮影)

<竪穴住居跡>
 竪穴住居は、縄文時代につくられた住居の形態である。地面を円形や方形に掘って床とし、柱を立て骨組みをつくり、その上に土やヨシなどで屋根をふいた建物で、床には炉が設けられている。大船遺跡の竪穴住居は規模が大きく、長さ8〜11m、深さ2m以上の住居が見つかっている。炉は、床そのものを火床としたものから土器を埋めたもの、石で囲んで炉へと変化がみられる。この復元住居では、発掘調査の成果をもとに、クリの木を使い、竪穴住居の骨組みを再現している。




◇垣ノ島遺跡(函館市臼尻町)

 縄文時代早期から後期(約9,000年前〜約3,000年前)にかけての長期間にわたり、縄文人の生活の痕跡が残された遺跡である。各期による台地利用の変遷を示す数多くの竪穴住居跡や墓に加え、国内最大級規模の盛り土遺構もみつかっている。 遺物では土器や石器といった生活道具のほか、幼児の足形が付けられた足形付土版や漆塗りの注口土器、装飾品などこれまで20万点以上の遺物が出土している。保存状態も良好で、2011年(平成23年)に国の史跡に指定された。大船遺跡同様に東日本の縄文文化を代表する重要な遺跡である。 2021年(令和3年)7月、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産の一つとして世界遺産登録が決定した。
◇住所:〒041-1622 函館市臼尻町551-1。
◇電話:0138-25-2030(函館市縄文文化交流センター)。

世界文化遺産・垣ノ島遺跡(2021年10月撮影)




◇キウス周堤墓群(千歳市長都)

◇住所:千歳市中央2777。(公共交通機関はない)
◇駐車場:あり。
◇トイレ:あり。

<周堤墓とは>
 縄文時代の終わりに近いころ(縄文時代後期後葉、約3,200年前)、北海道では独特な集団墓が造られた。それは地面に円い大きな穴を掘り(竪穴=たてあな)、その土で竪穴の周囲に土手を盛り、(周堤=しゅうてい)、竪穴内や周堤上に1基〜数十基の墓穴を設けたもので、「周堤墓」と呼ばれている。周堤墓は、一部が関東と芦別市にあるほかは、大部分が恵庭市、千歳市、苫小牧市の石狩低地帯南部に集中して造られている。周堤墓の大きさは、一般的に10〜30mほどだが、キウス周堤墓群では70mを超える大規模な周堤墓が群集しているのが大きな特徴。また、キウス周堤墓群は、現地表面からその形を見ることができる貴重なものとして、1979年に国指定史跡となり、2019年には4.9haから10.9haに史跡の範囲が広がった。

<キウスのアイヌ語地名>
 アイヌ語の地名は、その土地の特徴を示して付けられている。北海道には今もその読み方をもとに付けられた地名が多く残っている。キウスとはアイヌ語の「キ・ウシ」(カヤ・群生するところ)という意味が由来となっていると考えられる。当時は眼前の湖沼や湿地の周辺に茅(かや)が広がっている風景だったのだろう。

<キウス周辺の地形と遺跡>
 キウス周堤墓群は、石狩低地帯の南東にある馬追(まおい)丘陵のすそ野部、標高15〜21mの緩斜面(かんしゃめん)に造られている。かつて大地の眼前は広大な湿地帯となっており、オサツトー(長都沼)やマオイトー(馬追沼)が広がっていた。現在は干拓され、湖沼(こしょう)や湿地はほとんど残っていない。丘陵のすそ野部周辺には、旧石器時代に始まる人々の生活の痕跡(遺跡)が数多く確認されている。また、周堤墓は、高速道路千歳東IC部分にあるキウス4遺跡や南西へ2.4km離れた丸子山(まるこやま)遺跡でも見つかっており、発掘調査が行われている。

<周堤墓研究の今>
 周堤墓は、古くから研究者たちの注目を集めてきた。ここでは、今も研究が進められている周堤墓の始まりについての学説を紹介する。周堤墓は、北東北や北海道で縄文時代後期初頭に造られた環状列石に由来するとの指摘がある。環状列石が礫(れき)を円形に配置した大型の記念物で、墓穴や祭祀(さいし)遺物を伴う点が周堤墓とよく似ているためである。一方、両者は造営時期の連続性や分布域の重なりが明確でなく、遺跡の立地傾向も異なることから、直接的な系譜関係は認められないとする指摘もある。ほかにも竪穴住居をモデルとする説、群集墓の影響を受けて発生したとする説、気候の寒冷化により、人口密度が高まった結果、周辺地域の人々や集落内の繋がり(団結)を強めるための共同作業として周堤墓をつくり始めたとする説など、多様な見解がある。その後、縄文晩期になると、周堤墓は忽然(こつぜん)と造られなくなる。なぜ終焉したのか、造営に携わった人々はどうなったのか、後期後葉の北海道という限られた期間と地域のなかで造られた周堤墓には、これらを含めまだまだたくさんの謎が残されている。

<キウス周堤墓群、驚きの大きさ!>
 キウス周堤墓群のうち1号周堤墓は、周堤の最大径が約83mあり、地表面から分かる縄文時代のお墓の中で最大級の大きさを誇る。シロナガスクジラは全長26m、世界最大級の旅客機ボーイング777は全長74mであるので、比べてみると1号周堤墓の大きさがよくわかる。また、高さが最大なのは2号周堤墓で、竪穴床面から周堤上までは約5mある。2号周堤墓を造るには役3,000uの土を動かしたと計算されている。縄文時代の道具を使って土を掘って運んで積み上げた土の量を1人1日1uだったとすると、25人で120日かかることになる。

<これまでの歩み>
◇紀元前約1200年 キウス周堤墓群が造られる。
◇紀元前約500年 樽前山の噴火により火山灰被覆。
◇1739年 樽前山の噴火により火山灰被覆。
◇1890年(明治23年) 周堤墓を通る由仁街道(現国道337号)が竣工。
◇1901年(明治34年) 河野常吉(こうのつねきち)による現地調査。
◇1917年(大正6年) 河野常吉による現地調査、阿部正己(あべまさき)による現地調査、松坂修吾(まつさかしゅうご)による測量調査。
◇1922年(大正11年) 河野常吉による現地調査(聴き取り)。
◇1930年(昭和5年) 「史跡キウスノチャシ」として1〜5号周堤墓が史跡天然記念物保存法に基づき北海道庁より仮指定される(史跡面積:38ha)。
◇1950年(昭和25年)河野広道(こうのひろみち)による7号周堤墓の調査(石柱のある1基のベンカラのまかれた墓穴を確認)。
◇1964年(昭和39年) 大場利夫(おおばとしお)・石川徹(いしかわとおる)による1号周堤墓の調査(5期の墓穴を確認)。
◇1965年(昭和40年) 大場利夫・石川徹による2号周堤の調査(1基の墓穴を確認、周堤の断面を記録、4号周堤墓外縁部の墓穴の発見・調査(石棒出土)。
◇1968年(昭和43年) 大場らの調査結果をもとに「千歳キウス環状土籬(どり)群」として1〜6号周堤墓が北海道文化財に指定される(史跡面積41,615.05u)。
◇1978年(昭和53年) 千歳市教育委員会と奈良国立文化財研究所による共同測量調査(11号・12号周堤墓を発見)。
◇1979年(昭和54年) キウス周堤墓群として1〜6・11・12号周堤墓の範囲が国史跡に指定される(史跡面積:49,441.00u)。
◇2012年(平成24年) 世界遺産暫定一覧表記載の「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」に構成資産の一つとして追加登録される。
◇2013〜2017年(平成25〜29年) 史跡周辺の詳細分布調査(14号周堤墓を発見)、および地形測量調査。
◇2019年(令和元年) 14号周堤墓を含めた範囲が国史跡に追加される(史跡面積:108,772.06u)。
◇2020年(令和2年) 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つとして世界文化遺産の推薦書が国(文化庁)からユネスコへ提出される。

<7〜10・13号周堤墓について>
 史跡に含まれていない周堤墓の番号について説明する。7号は史跡から300m南西に離れて現存している。8・9・10号は発見当時から削平されていた周堤墓で、その後、位置不明となってしまった。また、史跡から約3km南に離れた13号は誤認と判明し、現在オルイカ1遺跡と名称が変わっている。

(千歳市埋蔵文化財センター文化財普及啓発事業広報資料、2020年=令和2年9月30日発行)

キウス周堤墓群(2021年9月撮影)




◇入江・高砂貝塚(虻田郡洞爺湖町)

<入江貝塚>
 洞爺湖町に所在し、内浦湾を望む標高約20m2の段丘上に立地する。水産資源豊富な内浦湾に面し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていた。集落は竪穴建物による居住域と土坑墓による墓域で構成され、貝塚は段丘の縁や斜面に形成されている。貝塚からは、アサリ、イガイなどの貝類のほか、ニシン、カサゴ、スズキ、マグロなどの魚骨や、エゾシカやイルカ類などの獣骨、さらに釣り針や銛などの骨角器が出土しており、漁労や狩猟が活発に行われていたことを示す。墓域からは筋萎縮症に罹患した成人男性の人骨が検出されており、長期にわたり周囲の人々の手厚い介護を受けながら日常生活を送っていたことを示す。本資産は、定住成熟期前半において、共同の祭祀場や墓地を支えた周辺の集落の典型であり、沿岸地域における生業と精神生活の在り方を示す重要な遺跡である。(縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局)
◇住所:虻田郡洞爺湖町入江。

<高砂貝塚>
 洞爺湖町に所在し、内浦湾を望む標高約10mの低地に立地する。水産資源豊富な内浦湾に面し、後背地には落葉広葉樹の森が広がっていた。遺跡には貝塚と墓域が形成されている。墓域は、土坑墓と配石遺構で構成され、土坑墓は、土器や石器、石製品などの副葬品を伴い、赤色の顔料(ベンガラ)が散布されている。他に、抜歯の痕跡が認められる人骨や胎児骨を伴う妊産婦の墓もある。貝塚からは、タマキビ、ホタテ、アサリなどの貝類や、ニシン、カレイ、マグロなどの魚骨、エゾシカ、イルカなどの哺乳類の骨が出土した。特にアサリやカレイが多くみられることから、貝塚周辺には砂浜が発達していたとともに、一時的な寒冷化であったことを示している。本資産は、定住成熟期後半の貝塚を伴う共同墓地であり、沿岸地域における生業と高い精神性による祭祀・儀礼の在り方を示す重要な遺跡である。(縄文遺跡群世界遺産登録推進事務局)
◇住所:虻田郡洞爺湖町高砂。

世界文化遺産・入江・高砂貝塚(2021年9月撮影)




◇鷲ノ木遺跡(茅部郡森町)

(世界文化遺産関連資産)
 森町に所在し、噴火湾沿岸から約1km内陸の標高70mの河岸段丘上に立地する。北海道内最大規模である環状列石は、外周36.9×33.8mのほぼ円形で、外側を二重にめぐる環状の配石と、中心にある楕円形の配石で構成されている。平均30〜40cmの偏平・棒状の石が多く用いられ、その数は602個にのぼる。二重の環状の配石のうち、外側は石の長軸方向を連ねて配置し、内側は石の長軸方向を中心に向け配置するなどの規則性が見られる。石は多くが地面に埋め込まれており、地面に対し直立か傾いている。石の供給地は、最も近い地点で約1km離れた桂川河口付近とみられている。竪穴墓域は環状列石から南約5mの場所にあり、大きさ11.6×9.2mの竪穴の中に、土坑墓や、供献品や墓標を設置する穴が作られている。遺跡全体が江戸時代に噴火した駒ヶ岳の火山灰に厚く覆われていたため、保存状態はきわめて良好であった。当時の祭祀・儀礼や精神世界を知る上で重要な遺跡である。
◇住所:〒049-2321 茅部郡森町鷲ノ木町。
(jomon-japan.jpから)

鷲ノ木遺跡(2021年10月撮影)



Copyright(c)1999 by Niida Groups ,All Rights Reserved