北海道遺産は、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、次世代へ継承したいものとして北海道遺産構想推進協議会が選定した有形無形の財産群である。現在(2022年10月現在)、北海道遺産は74件になっている。
北海道遺産を活用することで、北海道民自身によって北海道に新たな活力を生み出す町おこし運動を北海道遺産構想と呼ぶ。北海道遺産構想推進協議会は北海道遺産構想を推進するために設置された民間主体の機関である。北海道遺産の目的は、北海道ならではの価値を掘り起こし、観光などへ活用することによってそれらの価値をさらに高め、将来へ繋げていくことにある。
1997年4月に、当時の堀達也北海道知事により提唱された「北の世界遺産構想」が始まりである。同年8月に北海道庁内に設置された「北の世界遺産推進方策検討プロジェクトチーム」により1999年5月に発表された報告書によって、北海道遺産構想の枠組みが出来上がった。1999年から2000年にかけて北海道が北海道遺産の候補を公募した。2001年に設立された北海道遺産構想推進協議会により北海道遺産が選定され、同年10月22日、応募総数約1万6000件の中から第1回選定分の25件が決定した。2003年、第2回選定分の候補が公募された。応募総数9107件の中から、2004年10月22日に第2回選定分27件が決定した。平成30年(2018)11月1日に行われた北海道遺産第3回選定証授与式において、新たに15遺産が北海道遺産に選定。2022年(令和4年)10月には第4回選定6件を決定・公表した。これで北海道遺産は合計74件にのぼっている。
01.稚内湾北防波堤ドーム(稚内市)
02.留萌のニシン街道(旧佐賀家漁場,旧花田家番屋)(留萌地域)
03.増毛の歴史的建物群(駅前の歴史的建造物群と増毛小学校)(増毛町)
04.空知の炭鉱関連施設と生活文化(空知地域)
05.石狩川(流域市町村)
06.北海道大学札幌農学校第2農場(札幌市)
07.小樽みなとと防波堤(小樽市)
08.京極のふきだし湧水(京極町)
09.昭和新山国際雪合戦大会(壮瞥町)
10.内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群(函館市,伊達市など)
11.姥神(うばがみ)大神宮渡御祭(江差町)
12.上ノ国の中世の館(たて)(上ノ国町)
13.福山(松前)城と寺町(江差町)
14.函館山と砲台跡(函館市)
15.路面電車(函館市、札幌市)
16.螺湾(らわん)ブキ(足寄町)
17.旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群(上士幌町)
18.霧多布湿原(浜中町)
19.摩周湖(弟子屈町)
20.根釧台地の格子状防風林(中標津町など)
21.ワッカ/小清水原生花園(北見市、小清水町)
22.ピアソン記念館(北見市)
23.アイヌ語地名(北海道各地)
24.アイヌ文様(北海道各地)
25.北海道のラーメン(北海道各地)
26.宗谷丘陵の周氷河地形(稚内市)
27.天塩川(流域市町村)
28.旭橋(旭川市)
29.土の博物館『土の館』(上富良野町)
30.雨竜沼湿原(雨竜町)
31.北海幹線用水路(空知地域)
32.江別のれんが(江別市)
33.開拓使時代の洋風建築(時計台,豊平館,清華亭など)(札幌市)
34.札幌苗穂地区の工場・記念館群(札幌市)
35.ニッカウヰスキー余市蒸留所(余市町)
36.積丹半島と神威岬(積丹半島)
37.スキーとニセコ連峰(ニセコ地域)
38.北限のブナ林(黒松内町)
39.登別温泉地獄谷(登別市)
40.五稜郭と箱館戦争の遺構(函館市など)
41.函館西部地区の街並み(函館市)
42.静内二十間道路の桜並木(新ひだか町)
43.モール温泉(音更町)
44.野付半島と打瀬舟(別海町、標津町)
45.森林鉄道蒸気機関車『雨宮21号』(遠軽町)
46.オホーツク沿岸の古代遺跡群(網走地域)
47.流氷とガリンコ号(紋別市など)
48.屯田兵村と兵屋(北海道各地)
49.北海道の馬文化(ばん場、日高のサラブレット、北海道和種馬」など)(北海道各地)
50.アイヌ口承文芸(北海道各地)
51.サケの文化(北海道各地)
52.ジンギスカン(北海道各地)
53.利尻島の漁業遺産群と生活文化(利尻島)
54.旭川家具(旭川市)
55.三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林(旭川市)
56.増毛山道と濃昼(ごきびる)山道(増毛町・石狩市)
57.北海道集治監
(樺戸、空知、釧路、網走、十勝)(月形町・三笠市・網走市・標茶町・帯広市)
58.小樽の鉄道遺産(小樽市)
59.大友亀太郎の事績と大友堀遺構(札幌市)
60.パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)(札幌市)
61.札幌軟石(札幌市)
62.蝦夷三官寺(有珠善光寺、様似等院、厚岸国泰寺)(伊達市・様似町・厚岸町)
63.しかべ間歇泉(鹿部町)
64.むかわ町穂別の古生物化石群(むかわ町)
65.北海道の簡易鉄道(鶴居村など)
66.千島桜(北海道各地)
67.松浦武四郎による蝦夷地踏査の足跡(北海道各地)
68.江差追分(江差町)
69.しもかわの循環型森林文化
70.北海道米のルーツ「赤毛米」
71.今金・備利河(ぴりか)の鉱山遺跡
72.仙台藩白老元陣屋
73.十勝三股の樹海
74.下の句かるた
01.稚内湾北防波堤ドーム(稚内市)
稚内−樺太大泊間の旧稚泊航路整備の一環として、冬季の北西越波防止のために建設された半アーチ式ドーム。海上からの高さ14m、柱間6mの円柱70本を並べた長さ427mの世界でも類を見ない独特の景観と構造を持ち、港湾土木史に残る傑作であるとともに、旧樺太航路時代の記憶を残す歴史的遺産。設計者は、当時26歳の土木技師・土谷実。
02.留萌のニシン街道(旧佐賀家漁場、番屋,旧花田家番屋と生活文化)(留萌地域)
ニシン漁は、松前藩の時代から北上するニシンを追い千石場所を変えながら、地域にさまざまな物語を残した。豊漁、薄漁、凶漁と気まぐれに押し寄せるニシンに翻弄され、いったん群来を見ると番屋では数の子や身欠きニシン作りにあけくれた。ある年、ニシンは忽然と姿を消したが、そんなニシン漁の賑わいをニシン街道の番屋と生活文化が今に伝える。
03.増毛の歴史的建物群(駅前の歴史的建物群と増毛小学校)(増毛町)
旧増毛駅前のふるさと歴史通りには、明治中期に建てられた国重要文化財「旧商家丸一本間家」を始め、日本海の風雪にも耐えた石造りや木造の建物が並ぶ。高台にある旧増毛小学校は、戦前に建築され平成23年度まで使用されていた木造校舎。現在はそのまま保存され、そのたたずまいは古き佳き時代を感じさせる。
04.空知の炭鉱関連施設と生活文化(空知地域)
空知地域は、最盛期の1960年代に約110炭鉱、約1,750万tの規模を誇る国内最大の産炭地として、北海道開拓や日本の近代化を支えてきた。エネルギー政策の転換により1990年代には全ての炭鉱が閉山したが、立坑櫓や炭鉱住宅、独特の食文化や北海盆踊りなど、今でもヤマ(炭鉱)に関する多くの記憶を残している。
05.石狩川(流域市町村)
大雪山系を源とし、上川、空知、石狩の大平野を形成して日本海に注ぐ大河川。北海道開拓の歴史の中で、度重なる洪水と闘いながらも、交通・物資輸送の道として大きな役割を担い、また、鮭漁など北海道の歴史と文化が刻み込まれている母なる川。石狩川の地引き網漁は江戸時代に始まり、昭和期には遠方からも多くの見物客が訪れたほどである。
06.北海道大学札幌農学校第2農場(札幌市)
「札幌農学校第2農場」は、クラーク博士の大農構想により、1877(明治10)年に建築した模範家畜房(モデルバーン)や穀物庫(コーンバーン)をはじめとするわが国最古の洋式農業建築群を揃えており、ここから日本の畑作・酪農の技術普及が進んだ。施設内には、明治初期に輸入したアメリカ製畜力機械など、近代農業史を語る貴重な資料も展示されており、例年春から秋には一般公開も行われている。
07.小樽みなとと防波堤(小樽市)
「港湾工学の父」廣井勇により建設された北防波堤は、セイロン(現スリランカ)のコロンボ港防波堤を参考にし、独特の傾斜ブロック工法を採用した日本初の外洋防波堤。ケーソン工法を取り入れた島防波堤とともに、今も現役で機能している。防波堤に守られた小樽のみなとは北海道移住の玄関口となり、また物流拠点、貿易港として、商都・小樽の繁栄を支えている。
08.京極のふきだし湧水(京極町)
蝦夷富士「羊蹄山」に降った雨や雪解け水が濾過され、地中のミネラルを加えながら数十年の長い時間を経て流れ出る恵みの湧水。「京極のふきだし湧水」は国内最大級のもので、1日の湧水量は8万トン、30万人の生活水に匹敵する。1985年、環境庁の「名水百選」にも選ばれ、この自然が与えてくれた、おいしい水を求めて訪れる人が絶えない。
09.昭和新山国際雪合戦大会(壮瞥町)
子どもの遊びを、大人が真剣に競う冬のスポーツとして確立したことは、雪国・北海道にふさわしい新しい文化といえる。ルール・用具の開発から、資金集め、企画運営まで地域住民が主体となって進められている。1989年に始まった大会の歴史の中で、まちの若者たちの情熱とアイデアは海を渡り、今では北欧など海外でも「YUKIGASSEN」が開かれている。
<関連>
◇競技者 選手10名基本(試合出場選手は7名)・補欠選手2名・監督1名で構成。フォワード4名、バックス3名で構成。監督は、競技者を兼ねることができる。
◇競技方法 ・フォワードは、自コートのバックラインより前方のすべてを競技範囲とする(自陣バックラインから後方には下がることはできない)・競技者はフォワード4名、バックス3名で構成する・センターラインを超えて相手コートに4人目の競技者が入ったチームはそのセット負けとなる(競技者がセンターラインを越え相手コートに入ることができるのは3名以内)・競技者交替は、セット間で行う。・ 一度交替した競技者でも、次のセットで競技に復帰できる。
◇競技時間 ・競技時間内に、雪球を相手チームの競技者に投げ当てる・競技時間内に相手チームのチームフラッグを抜く・3セットマッチ(1セット3分間)で、2セット先取したチームを勝ちとする。
◇雪球 ・雪球の大きさは直径6.5〜7cm、1セットに使用できる数は90個・3分の2以下の雪球、アウト競技者が持っている雪球、コート外にある雪球、コート外から入ってきた雪球は無効雪球となる・無効雪球を使用したときは、アウトとなる・競技中に壊れた雪球を、さらに雪を加えてつくり直した雪球、他の雪球と合わせてつくり直した雪球、競技中に新たにつくられた雪球は不正雪球となる・競技中不正雪球をつくったときはアウトとなる・雪球の受け渡しは、直接手渡しで行う、コート上に置く、コート上をころがす、シェルター・シャトーの上に置き行う。
◇コート ・長さ36m、幅10mのコートを使用、コート内にはシェルター5基、シャトー2基の壁があり、双方にチームフラッグを立てる・コートの長辺をサイドライン、短辺をエンドライン、コートを二分するラインをセンターラインという。また、センターラインと エンドラインの間に引かれるラインはバックラインという。(日本雪合戦連盟hp)
◇勝敗 ・競技者1人を1ポイントとして計算する。雪球が体の一部に当たるとアウトとなり、その選手はコートから出る・セット内における勝敗の決定、ポイントは日本雪合戦連盟のホームページ参照。
10.内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群(函館市・伊達市)
内浦湾沿岸は北海道と本州を結ぶ縄文文化の交易路で、函館市の南茅部地域には現在91ヵ所の遺跡が確認されている。また、大船遺跡や垣ノ島遺跡をはじめ、著保内野遺跡で発掘された「中空土偶」は北海道初の国宝に指定されている。伊達市の北黄金貝塚は、縄文早期(7000年前)〜中期(6000〜4000年前)の遺跡で、住居や全国的にほとんど例のない「水場の祭祀場」が発見されている。
11.姥神(うばがみ)大神宮渡御(とぎょ)祭(江差町)
姥神大神宮渡御祭は、神輿渡御の際に、町内の山車(ヤマ)が供奉(お供)し、豊作・豊漁・無病息災を祈念して絢爛豪華に山車が巡行する 祭である。その起源はおよそ370年前の江戸時代初期であり今日まで引き継がれてきた。現在は毎年8月9日から11日の3日間にわたり行われる。神輿に供奉する山車は13台あり、各町内が個々に保存継承している。宵宮祭では各町内が山車に魂入れを行なう。その後、下町と上町の巡行により神輿渡御に供奉する。この行事は京都祇園の系統を引くもので、この期間は江差町全体が躍動する一時である。
12.上ノ国町の中世の館(たて)(上ノ国町)
史跡上之国館跡の一つである上ノ国町の夷王山中腹に広がる山城「勝山館」跡。松前藩の祖とされる武田信廣が1470年頃に天の川左岸の中心部で標高100mの丘陵に築いた館跡で、16世紀にかけて機能し軍事・政治・北方貿易の拠点とされていた。発掘調査では数多くの住居や出土遺物のほか、アイヌが使用した骨角器や和人墓と隣接したアイヌ墓がみつかっている。また、史跡指定地内に建てられた「勝山館跡ガイダンス施設」では、出土品や復元された館の模型および墓のレプリカを見学することができる。
13.福山(松前)城と寺町(松前町)
江戸時代の日本で最後に築城された城郭で、箱館戦争では旧幕府軍と官軍の戦場となった。城の北側には道内唯一の近世的な寺町があり、龍雲院、法源寺、法幢寺など5つの寺や松前藩主松前家墓所が現存している。また、城と寺町の一帯は北海道でもっとも早く見ごろとなる桜の名所でもある。松前町の歴史を知ることは開拓以前の北海道の歴史を理解する上で重要。
14.函館山と砲台跡(函館市)
華やかな夜景で有名な函館山にはもう一つの顔がある。津軽海峡を望む 函館山は明治中期に要塞化が進められ、多数のレンガ壁・コンクリート洞窟掩蔽壕・砲台座が残る。大規模の旧状を残す軍事土木遺産は全国的にも例は少ない。終戦まで立入制限されたため、今も貴重な動植物の宝庫となっており、自然にふれる散策コースとして市民に親しまれている。
15.路面電車(函館市、札幌市)
函館市電は明治期に馬鉄で出発し、1913(大正2)年に電車化、今も市民の足として定着している。路面電車が醸し出す風情を含めて観光都市・函館で果たしている役割は大きい。5年後の1918(大正7)年に始まった札幌市電は、路線の拡大や車両の改良を加え都市交通の中心だったが、地下鉄の開業などによって現在は1路線のみが運行している。ササラ電車は札幌の冬の風物詩。
16.螺湾(ラワン)ブキ(足寄町)
足寄町の螺湾川に沿って自生する螺湾ブキは高さ2〜3mに達する巨大なフキ。かつては高さ4mに及び、その下を馬に乗って通ることができたというが、なぜ大きくなるのかはいまだに謎が多い。また、自生ブキの他にも、農業者が農産物として栽培ブキの生産を行っている。その味は繊細で、ミネラルが豊富で繊維質にも富む。地元では産学官が一体となった商品開発も進めており、足寄町オリジナルのブランドとして知名度を高めている。
17.旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群(上士幌町)
昭和初期に十勝内陸の森林資源の運搬を目的に建設された第1級の鉄道遺産。地元住民を中心とした活動で保存が実現された。中でも季節に よって見え隠れする「タウシュベツ川橋梁」、32mの大アーチを持つ「第三音更川橋梁」が有名。地元NPOの保存・利活用へ向けての活発な活動は全国的にも市民活動のモデルとされている。
18.霧多布湿原(浜中町)
湿原景観を構成するすべての要素が一望できる学術的にも貴重な湿原。一部は「霧多布湿原泥炭地形形成植物群落」として1922(大正11)年に天然記念物に指定され、数百種の高山植物が自生している。春から秋にかけて咲く花々の美しさを楽しみ、タンチョウや白鳥など百種の野鳥も観察できる。地域では湿原保全のナショナルトラスト活動が積極的に展開されている。
19.摩周湖(弟子屈町)
阿寒国立公園の原始の自然に囲まれた「神秘の湖」は世界有数の透明度と美しい乳白色の霧の風景で知られている。摩周湖には流入河川も排水河川もないが水位は一定している。その景観は、北海道の湖沼と山岳の複合景観として最も代表的なもの。摩周湖および周辺環境の保全に向けた「摩周湖宣言」に集約される地域住民の取り組みは高く評価されている。
20.根釧台地の格子状防風林(中標津町など)
中標津町、別海町、標津町、標茶町にまたがる格子状防風林は、スペースシャトルからも撮影されたように、そのスケールにおいても地球規模的な、北海道ならではの雄大なもの。幅180m、総延長648qの林帯は、防風効果だけではなく野生動物のすみかや移動の通路としての機能も果たしている。開拓時代の植民地区画を示す歴史的意義も持つ。
※「開陽台」からこの偉大な防風林を見ることができる。
21.ワッカ/小清水原生花園(北見市、小清水町)
ワッカ原生花園は「龍宮街道」と呼ばれる日本最大の海岸草原。オホーツク海とサロマ湖に面し、春から秋には300種以上の草花が咲き誇る。車の乗り入れ規制や地元漁協による植林など先駆的な試みを展開。小清水原生花園は一時期、花が衰退したが、1993年(平成5年)より野焼きや帰化植物の除去を行い、花のあふれる公園によみがえった。後背部の濤沸湖沿いにあるヒオウギアヤメ群落とそこに放牧される馬の群れは特有の景観。
22.ピアソン記念館(北見市)
アメリカ人宣教師G.P.ピアソン夫妻の私邸として1914年(大正3年)に建てられた。夫妻は道内各地を伝道し、その終着に選んだ地がアイヌ語で「地の果て」を意味する野付牛(現在の北見)。廃娼運動や慈善活動など、夫妻の志は今も北見の精神文化のよりどころとして多くの市民に親しまれている。設計者は近江兄弟社創設者としても知られているW.M.ヴォーリズ。
23.アイヌ語地名(北海道各地)
北海道の地名の多くはアイヌ語に由来するとされている。アイヌ語地名の多くは、知らない場所でも、その名から地形や位置づけが分かるものとなっている。現在は片仮名や漢字で表記され原音と異なる場合もあるが、本来はアイヌ民族の自然と調和した伝統的生活の中から歴史的に形成された。アイヌ文化の自然観などを理解する重要な手がかりとなっている。アイヌ語地名リスト。
24.アイヌ文様(北海道各地)
世界の各民族には、それぞれ独特の精神的意味合いを含めた「文様」がある。アイヌ文様の基本はモレウ(静か・曲がる:渦巻き文様の意)、アイウシ(とげ・つく:とげ文様の意)で、これらを組み合わせ、連続した線で結んでいく。その形状、図案や色彩は、印象深い美的価値を含んでおり、文化的にも秀逸なものとして近年、注目が高まっている。
25.北海道のラーメン(北海道各地)
ラーメンの起源は諸説あるが、戦後急速に北海道民の食生活の中に定着し、寒冷な気候から、コクがあり濃い味のラーメンが、北海道の代表的な食文化として発展した。ラーメンは、北海道の観光資源としても欠かせない存在であり、札幌・函館・旭川・釧路など、地域ごとに特色を持ったラーメンが脚光を浴び、ご当地ラーメンブームの火付け役となった。
26.宗谷丘陵の周氷河地形(稚内市)
宗谷丘陵に見られるなだらかな斜面は、約1万年前まで続いた氷河期の寒冷な気候のもと、地盤の凍結と融解の繰り返しによって土がゆっくりと動くことでつくられたといわれており、周氷河地形と呼ばれる。周氷河地形は北海道に広く分布するが、宗谷丘陵では山火事によってその独特な地形が際立っている。日本最北端のこの丘陵には広大な肉牛牧場が広がり、夏季には豊かな自然に育まれた健康な黒牛が放牧されている。
27.天塩川(流域市町村)
天塩川は延長256km、北海道第2位の長大河川。松浦武四郎は天塩川内陸調査の途上で「北海道」の命名をしたとされる。川の名前の由来となったテッシ(アイヌ語で「梁」(やな)の意味)が数多く点在し、河口まで の160kmを一気に下ることができる日本有数のカヌー適地としても知られ、愛好者たちは20ヶ所のカヌーポートから大河を下っていく。
28.旭橋(旭川市)
「いくつもの時代と思い出を刻みながら、人々の暮らしをみつめてきた橋があります」−『旭橋』という名の豆本の書き出しである。 旭橋は道北の中心都市旭川を流れる石狩川に架かる橋で、1892年(明治25年)、現在の位置に土橋が架けられたのに始まり、1932年(昭和7年)、鋼鉄製のアーチ曲線を描く橋が、当時の最新技術をもって竣工した。川のまち・旭川の象徴。
29.土の博物館『土の館』(上富良野町)
スガノ農機株式会社が開設している「土の館」は、北海道開拓が過酷な気象条件の中で進められた経緯や、土と人間の関わりの大切さを今に伝える。とくに高さ4mの巨大な土の標本展示は世界に類を見ず、1926年(大正15年)に起こった十勝岳噴火による泥流災害の凄さと、どん底から見事に立ち直っていった人々のたくましさを汲み取ることができる。併設のトラクター館には、110年前の蒸気トラクターをはじめ、60〜90年前のトラクターを展示している。
30.雨竜沼湿原(雨竜町)
増毛山地の標高850mにあり、北海道の山地湿原の中ではもっとも大きな高層湿原。大小様々な地塘(ちとう)が700以上あり、独特の景観を見せる。湿原植物も豊富で、1964年(昭和39年)に道指定天然記念物、1990年(平成2年)に暑寒別・天売・焼尻国定公園特別保護地区に指定された。「雨竜沼湿原を愛する会」による活動は、湿原を未来に伝える大切さと難しさを教えてくれる。
31.北海幹線用水路(空知地域)
赤平市から南幌町(7市町)まで延長約80kmにおよぶ北海幹線用水路は、農 業専用では日本で最も長い。空知平野の農地に水を供給するために造られ、 北海道の穀倉を支える役割を果たしている。1924(大正13)年から4年で完 成し、空知川から最大毎秒44tを取水。北海頭首工を起点に、美唄市には調整 池が、砂川、美唄、岩見沢市市街地では親水公園が整備されている。
32.江別のれんが(江別市)
開拓使は内陸開発建築資材にれんがを奨励し、道内8地区17の工場で造られ たれんがによって、北海道庁赤れんが庁舎をはじめ多くの名建築が生まれた。 大正以降、全道一の陶土地帯である江別の野幌周辺へとれんが製造の中心が 移り、現在も3つの工場が稼動している。市内には小学校やサイロ、民家な ど400棟以上のれんが建築物が美しい姿で現存している。
33.開拓使時代の洋風建築(札幌市時計台、豊平館、清華亭など)(札幌市)
札幌市時計台や豊平館は、北海道開拓の初政をになった開拓使の事績を伝え、文明開化の先端をいった北海道の気風をよく表している。時計台は札幌のシンボルであり、近年は2階ホールが音楽会などの場として親しまれている。明治初期の洋風建築は和洋折衷型も含め、工業局庁舎、清華亭、永山邸、札幌農学校の農場建築などが遺されている。
34.札幌苗穂地区の工場・記念館群(札幌市)
札幌市の創成川以東は、豊平川の伏流水や貨物輸送の利便性などによって明治期から「産業のまち」として栄え、今も福山醸造をはじめ、さまざまな工場や倉庫がひしめき、下町的な雰囲気を残している。苗穂駅近隣にある北海道鉄道技術館、サッポロビール博物館、酪農と乳の歴史館、千歳鶴ミュージアムは内容も充実し、北海道の産業史を知る上でも貴重な記念館群を形成し ている。
35.ニッカウヰスキー余市蒸留所
理想のウイスキーづくりをもとめた竹鶴政孝は、澄んだ空気と夏でもあまり気温の上がらない気候に加え、余市川の良質な水にも恵まれた余市町をその適地として選んだ。ニッカウヰスキー余市蒸溜所は1936(昭和11)年、ポットスチルに火が点じられてモルトウイスキーの製造が開始されて以来、当時と変わらない製法でウイスキーの蒸溜、貯蔵を行っている。
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積丹岬・島武意海岸(2006年7月撮影)
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積丹岬・女郎子岩(2006年7月撮影)
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神威岬(2006年7月撮影)
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神威岬(2020年9月撮影)
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積丹半島開発の歴史は古く、ニシン漁の旧大漁場として発達しました。切り立った断崖とシャコタンブルーと形容される神威岬の海岸美は絶景。貴重な自然と産業の古い歴史に加え、明治から昭和初期に栄えた旧ニシン場の遺構として番屋、揚場跡、袋澗、トンネル、旧街道などが保存されている。神威岬の全面禁煙など景観を保護する活動も始まっている。
37.スキーとニセコ連峰(ニセコ地域)
厳しい寒さや雪に閉ざされる北海道の人々にとって、冬期間の最大の娯楽はスキー遊びだった。昭和40年代頃からは「冬のレジャー」と言われるようになり、スキー場の代表格が昭和初期から知名度の高かったニセコ連峰。娯楽が多様化した今日、ウィンタースポーツだけではなく、四季を通じての新しいアウトドアスポーツの拠点となっている。
38.北限のブナ林(黒松内町)
ブナは温帯を代表する樹種で、北海道では渡島半島だけに分布する。黒松内町はその北限で、太平洋側の長万部と日本海側の寿都を結ぶ黒松内低地帯が境界線。黒松内町では、自然の恵みを伝える自然学校の開設など、ブナ林が育む豊かな生物多様性を活かした取り組みが進められている。また、渡島の七飯町には幕末に在住したドイツ人ガルトナーの植林したブナ人工林が残る。
39.登別温泉地獄谷(登別市)
地獄谷は北海道を代表する温泉地・登別温泉最大の源泉である。直径450mの谷底には大地獄を中心に15の地獄があり、毎分3,000Lが湧き出している。登別温泉は「温泉のデパート」と形容され、多泉質が湧き出しており、これは世界的にも珍しい。地獄谷の周辺には表面温度が40〜50度になる大湯沼、頂きから白煙が立ち上り、高山植物の名所としても知られる日和山、登別原始林などが広がる。
40.五稜郭と箱館戦争の遺構(函館市など)
箱館戦争は1868年(明治元年)秋の旧幕府脱走軍の侵攻に始まり、翌年春の新政府軍の反撃により、五稜郭開城で終わった。戦いは道南一帯に及び遺跡や遺構が随所に見られる。榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が上陸した鷲ノ木、蝦夷島臨時政権の根城となった五稜郭や急ぎ造成された四稜郭、猛攻を受けた福山城、開陽丸が沈没した鴎島沖、新政府軍が上陸した乙部海岸、激闘の二股口、土方歳三が戦死した一本木関門など、戦いのすさまじさを偲ばせる。
41.函館西部地区の街並み(函館市)
函館は1859年(安政6年)、横浜、長崎とともに最初に開港し、近代日本の幕開けを告げた町であり、西欧文化に開かれた玄関口として栄えてきた。函館西部地区には、埠頭倉庫群、函館どつく(函館ドック)のような歴史的港湾施設、旧函館区公会堂やハリストス正教会復活聖堂に代表されるハイカラな洋風建築とともに、和洋をたくみに交えてデザインされた商家や住宅が建ち 並ぶ。
42.静内二十間道路の桜並木(新ひだか町)
二十間道路は、和種馬の大型改良のために1872(明治5)年に黒田清隆が進言し、静内町(現・新ひだか町)から新冠町にまたがる地域に開設した御料牧場のための行啓道路。龍雲閣まで直線で約7q、幅20間(約36m)にわたって両側に約2,000本を超える樹齢100年のエゾヤマザクラなどの並木が続く。雄大な日高山脈を背景とした景観はわが国で類を見ないスケールとして知られる。
43.モール温泉(音更町など)
モール温泉は、泥炭を通して湧出するもので独特の黒っぽい湯が特徴。主成分は植物性腐食質で、鉱物成分より植物成分が多いのが他の温泉との違い。また、熱源は地熱に加えて、地下の植物の堆積物による発酵熱と考えられている。モール温泉は日本各地で湧出しているが、北海道では十勝や石狩平野、豊富町などで見られる。十勝地域では、モール温泉を活かした商品開発などにも力を入れている。
44.野付半島と打瀬舟(別海町、標津町)
全長26qの日本最大の砂嘴で、擦文時代の竪穴式住居も見られる。江戸時代には国後へ渡る要所として通行屋が設けられ、北方警備の武士も駐在した。トドワラ、ナラワラの特異な景観や、春と秋に野付湾に浮かぶ打瀬舟の風景が多くの人々をひきつけている。北海シマエビ漁に用いられる打瀬舟は野付湾の風物詩として知られ、霧にかすむ舟影は幻想的。
45.森林鉄道蒸気機関車『雨宮21号』(遠軽町)
「雨宮21号」は東京・雨宮製作所で製造された初の国産11t機関車。1928年(昭和3年)、丸瀬布−武利意森林鉄道に配属され、国有林から伐り出した丸太や生活物資の搬送に携わってきたが1958年(昭和33年)に廃止。地元の強い要望で1976年(昭和51年)、北見営林局から旧丸瀬布町に譲渡され、町は“森林公園いこいの森”を建設、機関車を走らせた。森林鉄道蒸気機関車の動態保存は全国で唯一のもの。
46.オホーツク沿岸の古代遺跡群(網走地域)
オホーツク沿岸地域では縄文、続縄文、擦文、オホーツク文化、アイヌ文化まで各時代の遺跡が分布し、遠軽町(旧白滝村)など内陸部では旧石器時代の遺跡が多く見られる。オホーツク沿岸の遺跡は樺太・シベリアなど大陸諸文化との関係が強く認められ、竪穴住居が連綿と残る常呂遺跡、オホーツク文化遺跡として著名なモヨロ貝塚、縄文後期の朱円周提墓などが代表格。また、2011年(平成23年)には、白滝遺跡群の石器資料の一部が国の重要文化財に指定されている。
47.流氷とガリンコ号(紋別市など)
冬のオホーツク沿岸に押し寄せる海の邪魔者を逆手に取った流氷観光。紋別市ではアラスカの油田開発用に試験的に作られた砕氷船を「ガリンコ号」と名付け、流氷の海へ乗り出した。沖合約500mのオホーツクタワーでは、海底7.5mから流氷観察や流氷下のさまざまな生態の観測ができる。流氷の神秘や流氷がもたらす恵みなど、その大切さを訴え、紋別市は流氷研究国際都市を宣言している。
48.屯田兵村と兵屋(北海道各地)
屯田兵は1875年(明治8年)の札幌郡琴似村に始まり、開拓と軍備のため、1899年(明治32年)の士別、剣淵まで道内各地に37の兵村が置かれた。上湧別町には当時の区画の北兵村地区と南兵村地区が残る。札幌市琴似、士別市、厚岸町太田、根室市和田などに兵屋、札幌市新琴似、江別市野幌に中隊本部の建物が保存され、北見市の信善光寺には屯田兵人形75体が奉られている。
49.北海道の馬文化(ばん馬、日高のサラブレッド、北海道和種馬など)(北海道各地)
北海道の馬の歴史は古く、明治期には農耕など開拓の労働力として人々 と苦労をともにしてきた。農耕馬の力を試したお祭りばん馬は「ばんえい競馬」に発展し、現在は帯広市のみで開催されている。また、速さを求めてはサラブレッドの改良が進み、浦河町の「JRA日高育成牧場」では世界に通用する強い馬づくりに取り組んでいる。また馬産地・日高の牧場風景は観光資源にもなっている。
50.アイヌ口承文芸(北海道各地)
アイヌ民族が育んできた文化「口承文芸」は人から人へ、長い間、途切れることなく語り伝えられてきた。語り手の話を聞いて楽しみ、味わうことで伝えられてきたもので、英雄叙事詩、神謡、散文説話などがある。サコロベ、ユカラなどと呼ばれる英雄叙事詩は、短いメロディーを繰り返しながら、空を飛ぶなど超人的な行動も含まれる壮大なストーリー。
51.サケの文化(北海道各地)
サケは北海道を代表する食材。その歴史は古く、石狩市では、縄文時代の遺跡からサケを捕獲したと推定される仕掛けが発見されている。母川回帰は生命のドラマを生み、自然環境保護の目に見える指標でもある。サケ漁がさかんな標津町では、サケのことをもっと知ってもらおうと、2009年(平成21年)に「標津町サケマイスター制度」を創設した。
52.ジンギスカン(北海道各地)
ジンギスカン料理の発祥については諸説があるが、北海道でもっとも広く、かつ特徴的に発達した。大陸にも原型はみられるが、味付けなど羊肉を美味しく食べる工夫が凝らされ、新しい料理として北海道で確立したといえる。観光の魅力の一つであるとともに、花見などでも定番であるジンギスカンは、鍋を囲んで人と人をつなげる役割も果たしている。
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ジンギスカンの冒険
道民のソウルフード 源流は大正時代の東京?
村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」に、こんな一節がある。
「もちろん政府は親切心から農民に羊を与えたわけではない。来るべき大陸進出に備えて防寒用羊毛の自給を目指す軍部が政府をつつき、政府が農商務省に緬羊飼育拡大を命じ、農商務省が道庁にそれを押しつけたというだけの話である」
明治30年代、北海道北部で牧羊が導入された背景が、実は「大陸進出」にあったと解き明かすくだりだ。
当初は羊毛が目的だったが、「もう少し後になると食べるようになります」と、羊肉分化を研究する元道立滝川畜産試験場研究員の高石啓一さん(70)=滝川市=が解説する。
「もう少し後」の1918(大正7)年7月、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)の日誌に、農商務省が家事科の教授に「羊肉調理方法」の研究を委託し、金75円を送った記録が書き込まれた。
翌年2月、試食会が開かれる。みそをしようゆで溶いた液に肉を半日漬けて焼く「味噌漬焼」など料理 9品があったと、当時の雑誌が伝えている。
同じころ、東京帝大の田中宏獣医学博士が雑誌で「田中式羊料理」を連載。今の漬け込み式のジンギスカンに似た「附焼」「味附浸焼」などの羊肉料理50品を紹介した。
この時期、農商務省は札幌・月寒や滝川など全国5カ所に種羊揚を設置し「緬羊百万頭増殖計画」に乗り出していた。第1次世界大戦で軍需物資だった羊毛の輸入が止まり、政府は明治時代に一度失敗した羊毛の国内自給ヘかじを切った。
当時4,400頭だった羊を100万頭にしようという大胆な計画だが、「羊毛だけで羊を増やすのは不経済。肉利用は不可欠だったのでは」と高石さん。増殖計画が「食」を広げる契機となったとみる。
大学で考案された料理の普及宣伝を担ったのは軍だった。27(昭和2)年、政府の委託で陸軍の外郭団体などが東京で第1回羊肉講習会を開催。東京女高師と陸軍の調理人が考案した羊肉料理や、中国の羊肉料理を実演している。
これを道内で広めたのが山田喜平技師。農商務省などに在籍し、先の講習会に出席した記録もある。32(同7)年に道立滝川種羊揚の初代場長なり、著書で「鍋羊肉(カウヤンロー)又は成吉思汗(ジンギスカン)料理」を紹介した。東京で仕入れた最新料理を羊増産の拠点で広めようとしたのだろうか。自身で著書を2度改訂、たれにショウガの搾り汁を入れる、リンゴ果汁を入れるなどの工夫を重ねている。
戦前、軍に全量徴用された羊毛は戦後、衣料品不足の中で重宝され、一般家庭でも飼う時代が到来。50(同25)年に道立種羊揚に入った近藤友彦さん(84)年=札幌市手稲区=は「自分の初任給が4,450円の時に、羊1頭の毛は最高5,000円。ジンギスカンも一気にブームになった」と振り返る。近藤さんは種羊揚に伝わるレシピを見直し、各地の農協などで実演した。
このころ、各地でジンギスカンが一段と広がった。53(同28)年、旧満州で羊肉料理を覚えた八紘学園(同市豊平区)の創設者・栗林元二郎が、後づけ式の月寒ジンギスカンを食べさせる会員制の成吉思汗倶楽部を発足させると、3年後、滝川ジンギスカンの代名詞・松尾ジンギスカン(滝川市)が創業。「ベル食品」(札幌市西区)の「成吉思汗たれ」もこの年に生まれた。
間もなく羊毛が輸入自由化されて飼養数は下落、輸入頼みになったが、ジンギスカンは道民の胃袋をつかんで、なお放さない。(古源盛一)
●名付け親はだれ?
ジンギスカンの名前の由来には諸説がある。1937(昭和12)年に「成吉思汗鍋料理」を特集した雑誌「料理の友」は、大正時代に北京に在留した「鷲澤某」なる人物が名付け親と紹介。札幌農学校出身で旧満鉄に勤めた駒井徳三が名付けたとの説もある。真相ははっきりしないが、中国大陸でジンギスカンのルーツになる羊肉料理を食べた日本人が、英雄チンギス・ハーンの名をだぶらせたようだ。
羊肉文他を研究する高石啓ーさんによると、大正時代の文献ではジンギスカンの名前は確認できず、昭和の初め以後、新聞・雑誌などに登場し、陸軍にからむ記事が目立つという。「大陸進出が本格化した時期。軍人が、さぞ気に入ったのは間違いないでしょう」
●鍋ってドーム形?
ジンギスカン鍋といえば独特なドーム形が思い浮かぶが、形はさまざま。羊肉料理が試行錯誤された大正時代に網焼きで食べることがあったためか、昭和初期には鍋の形状をした金網も登場。同じころ、鋳物製も出始め、平らな板で切れ目(スリット)が入ったものから、次第に中央がふくらんだものに「進化」した。
炭火の時代からガスになると、スリットから溝ヘ。溝の形も同心円や放射線、渦巻きなど多種多様。漬け込み式のジンギスカンが広まると、汁がたまる鍋の縁が深くなり、煮込みジンギスカンが好まれた名寄市周辺では凹型鍋へと分化した。四角形のもの、屋外で使うアルミ製の使い捨てタイプなど、時代に合わせて形や素材は変遷をたどる。
●肉は道内産なの?
道農政部によると、2012年の道内の羊の飼養頭数は1万1,226頭。ピークの1961年は26万7,820頭、最も低迷した79年は4,750頭で、この数年は1万頭台をキープ、国内全体の8割が道内にいると推定される。一方、農林水産省によると、羊肉(枝肉)の国内生産量は年間143.1t、うち道産は112.8t(いずれも09年)。自給率に換算すると国内全体では0.5% 、道産肉なら0.4% となり、胃袋に入るのは、ほとんどがオーストラリア、ニユージーランド産の輸入肉だ。
牛や豚肉に比べ自給率が大幅に低いためか、羊肉の生産量などは、10年以降、各種統計の全国調査対象から外されている。
(朝日新聞2014.1.1付)
53.利尻島の漁業遺産群と生活文化(利尻町)
日本最北の利尻島には、近世以降の漁業と移住の歴史を物語る漁業遺産群がある。近世には松前藩、近江商人による交易場所がおかれ、アイヌがそれ を支えた。島には、豊漁や航海安全を祈る神社や奉納物が残る。幕末以降は出稼漁民が松前や青森、秋田から渡り漁場を拓いた。その記憶は袋澗や番屋に、生活文化の名残は石碑や獅子舞などに込められた。島の産物は、鰊、昆布、海鼠、鮑などであった。とくに鰊は、〆粕、身欠き鰊として本州に北前船で運ばれた。利尻島を行き来する海の道は「ヒトは北へ、モノは南へ」という交流史をつくりあげた。
54.旭川家具(旭川市)
旭川家具の特徴は、良質な木材を生かし永く使い続けることのできる美しいデザインにあり、北海道の森林資源を生かして技術・技能に優れた職人を多く輩出するなど特出した優位性も併せ持つ。また、地域に公有化される織田コレクションは、世界の名作椅子と優れたデザインの生活用具で構成された極めて貴重な資料群である。家具を中心としたデザインの歴史を俯瞰できる織田コレクションは、地域の産業を世界に繋ぎ、更なる発展を目指している。
55.三浦綾子記念文学館と外国樹種見本林(旭川市)
「北海道は私の文学の根っこ」と語り、35年にわたって書き続けてきた作家・三浦綾子の“聖地”と言えるのが外国樹種見本林。代表作・デビュー作『氷点』の舞台である。ここに建つ三浦綾子記念文学館は市民運動で生まれ、歩みを 続けてきた。2018年9月には、「口述筆記の書斎」を擁する分館も建ち、旭川駅から「氷点通」「氷点橋」「三浦綾子文学の道」を経て見本林へと続く道は、“三浦文学ワールド”と呼ぶにふさわしい。市民が守り育てる文学と森は、氷点のまち・旭川を象徴する癒しと憩いのスポットである。
56.増毛山道と濃昼(ごきびる)山道(増毛町・石狩市)
開削から160年余の歳月を経て、3mを越すクマイザサの中に埋没し、記憶の彼方からも消え去ろうとしていた「増毛山道と濃昼山道」。近世北海道の開拓遺産として、大きな意義があると確信した地域住民を中心に、時には山中泊をしながら復元行動を開始してから約10年、往時の姿を残す良好な状態で遂に2016年に全線復元した。北海道に残された山道の中でも、北海道の名付け親である松浦武四郎は「蝦夷地第一の出来栄え」と評した希少な山道であり、近代化に果たした歴史的役割や機能を体感できる遺構。
57.北海道の(樺戸・空知・釧路・網走・十勝)集治監(月形町・三笠市・網走市・標茶町・帯広市)
北海道は北方にある地理性から、集治監(国立刑務所)の設置が集中した。建設は樺戸(現月形町、1881年)、空知(三笠市、1882年)、釧路(標茶町、1885年)、網走(1891年)、十勝(帯広市、1893年)の順であった。目的は初期の西南戦争政治犯収容、後期に重大犯罪人隔離で、北辺防衛と北海道開拓用の北見と上川道路・鉄道建設(樺戸、空知、網走)、幌内炭鉱開発(空知)、硫黄鉱山開発(釧路)、農地開発(帯広)等で、北海道の初期インフラ整備と地方文化形成をになった。
58.小樽の鉄道遺産(小樽市)
1879年(明治13年)11月28日、小樽手宮―札幌間に、アメリカ人技師クロフォード指導のもと、待望の鉄道が開通。2年後、幌内炭鉱に到達し、石炭の搬出が開始された。港―鉄道結節のまち小樽は急速に発展し、北海道の開発を先導するまちに成長。石炭から石油に、港も日本海から太平洋に移ったが、北海道の発展を支えた鉄道遺産は、国の重要文化財、鉄道記念物にも指定され、野外展示の約50両の車両を含め、鉄道技術の発展を示す貴重な近代遺産として保存されている。また近年、線路跡に散策路を添わせ、各種イベントの会場としても親しまれている。
59.大友亀太郎の事績と大友堀遺構(札幌市)
北海道開拓の中心である札幌の開基は、幕末の大友亀太郎の札幌村建設と大友堀の開削に始まる。大友は1866年(慶応2年)に本州土木技術の後継者として大友堀と札幌村建設を主導した。堀は4km及び、その一部は現創成川として残り、これは島義勇による札幌の東西の起点となった。大友は1870年(明治3年)に札幌を去ったが、その事績は札幌市東区の札幌村郷土記念館内大友関連展示と文書資料で見られる。大友堀の現地遺構は、急速な札幌市の都市化で大方は消失し一部は道道花畔札幌線近辺に残り、貴重な都市歴史遺産として保存されている。
60.パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)(札幌市)
パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)は、20世紀を代表する音楽家、レナード・バーンスタインが1990年に創設した国際教育音楽祭。毎年夏の1カ月間、世界中から厳しいオーディションで選ばれた若手音楽家(アカデミー生)が札幌に集い、欧米トップオーケストラで活躍する首席奏者等の指導を受ける。その成果は、札幌を中心に道内各地の演奏会で披露され、北海道の夏の風物詩として定着。これまで参加したアカミー生は200を越える世界各国・地域のオー ケストラなどで活躍中。北海道から世界に発信する文化事業として成長している。
61.札幌軟石(札幌市)
札幌軟石は、4万年前、支笏火山の大規模な噴火による火砕流が札幌周辺で冷えて固まった岩石(溶結凝灰岩)である。加工しやすく、耐火・防火性に富んだことから、明治初期より札幌をはじめ北海道内の建造物に多く用いられ、個性的な景観も形づくった。古い石蔵がカフェなどに再利用され、採石場跡は公園や緑地として市民に親しまれているのみならず、軟石は現在も市内南区で採掘され、近年は建物の仕上げ材としても人気がある。また、軟石の雑貨が商品化されるなど、札幌軟石の文化は今も脈々と受け継がれている。
62.蝦夷三官寺(有珠善光寺、様似等院、厚岸国泰寺)(伊達市・様似町・厚岸町)
蝦夷三官寺とは、江戸幕府が1804年に現在の伊達市・様似町・厚岸町に建立した3つの寺院の総称である。各寺は蝦夷地で死亡した和人の葬儀とアイヌ民族への仏教布教を目的とし、背景には対ロシア政策として幕府による蝦夷地支配を示す狙いがあった。しかし、アイヌと和人の文化接触は比較的 緩やかであったため、アイヌ文化の儀礼・祭祀の独自性は損なわれず、かつ各寺に対する信仰と崇敬の念が保たれたまま今日に至っている。そこには明治期以降とは異なるアイヌと和人の関係史がみてとれる
63.しかべ間歇泉(鹿部町)
「しかべ間歇泉」は、1924年(大正13年)、温泉の掘削中に偶然発見された。この資源を活用した地域の温泉旅館は、海の恵みに感謝し湯治できる場として栄え、今日の“海と温泉のまち”を築いた。町内30カ所以上の泉源の中でも、103度の高温の温泉が10〜15分間隔で約500度C、高さ約15mまで噴き上がる特徴があり、全国に複数ある間歇泉の中でも、発見されてからこれまで、衰退することなく一定の噴出間隔と温泉量を噴き上げている。地域住民の手により大切に守り継いできた“地域の宝”は、鹿部町の大地を潤し続ける。
64.むかわ町穂別の古生物化石群(むかわ市)
むかわ町穂別地域は、古くから古生物化石の宝庫として研究者や愛好家に知られる。中生代後期白亜紀の海底の地層が分布し、道天然記念物 のクビナガリュウ化石『ホベツアラキリュウ』をはじめとする海生爬虫類やアンモナイトなどが多数産出。地元産の貴重な化石資料を収集・保管・展示する穂別博物館を有する。さらに近年、国内最大の恐竜全身骨格化石・ハドロサウルス科『むかわ竜』が発見され、全国的な注目を集める。日本有数の海と陸の古生物化石が揃う博物館には、国内外の第一線で活躍する研究者が集い、また、子どもたちの学びの場ともなっている。
65.北海道の簡易鉄道(鶴居村など)
大正末期から1965年(昭和40年)代の約50年間、簡易軌道は北の大地の開拓を支えた。入植者の生活に欠かせない存在であり、今も多くの人々が記憶している。簡易軌道は農業・酪農地域の労苦と発展を語る上で、不可欠な存在であるといえる。村営軌道の遺産は、村の強みである美しい自然の保全と共生を推進するとともに、新たな地域資源を活かした観光の起爆剤となり得る。今後は、簡易軌道がかつて存在した他の自治体とも協力体制を構築し、全道的に簡易軌道の歴史を伝え、活用する仕組みをつくっていくことを視野に入れた活動を目指す。
66.千島桜(北海道各地)
毎春、桜前線が北上し、最後に咲く桜として多くの人に親しまれている千島桜。かつて北方領土に住んでいた人々には、「ふるさとの花」として親しまれており、根室市の清隆寺にある千島桜は、国後島から持ち帰り移植され、道内の多くの千島桜の源流と伝えられるなど、「千島桜」と「北方領土」との結びつきは深い。また、千島桜は北海道の植樹用の樹種として選ばれることが多く、官・民による地域づくりの資源の一つとして、次の世代へ継承したい花である。
67.松浦武四郎による蝦夷地踏査の足跡(北海道各地)
松浦武四郎(1818-1888)は、アイヌの人たちの助言と協力を得ながら6度にわたって蝦夷地を探査した。膨大な報告書を幕府に提出したほか、明治政府に必要とされ開拓判官に就いた。武四郎の業績は、北海道の沿岸・内陸を問わず踏査し膨大な記録を作成したこと、蝦夷地に関する多くの書物を出版したこと、北海道の名づけ親としてまた、国・郡の範囲を定めその名称を選定したこと等が上げられ る。北海道各地にある身近な足跡に触れることから、その業績を知らしめ親しまれ将来に伝える手掛かりとなることを期待したい。
68.江差追分
江差追分は、「江差の5月は江戸にもない」とまで謳われたほど鰊漁で栄華を極めた時代に、本州と江差を往来していた北前船の船頭や船子(船員)たちによって伝わったとされる。唄の源流は、信州の馬子唄(木挽き唄)と言われ、江差の海の調べや花街文化、種々の民謡が混合し現在の形が完成した。江差町に根付いた江差追分は、地域の行事や日常生活の中で老若男女問わず唄い継がれた。「一度聞いて惚れ、二度聞いて酔い、三度聞いて涙する」と言われるほ どの唄の魅力により、国内外に愛好者を持ち全国大会も継続して開催されるなど、日本を代表する民謡である。
69.しもかわの循環型森林文化
「経済・社会・環境」の調和による持続的な地域づくりを目指すため、基盤となる森林を活かすための理念である法正林思想※1により「循環型森林(もり)づくり」を行っている。現在、年間50haの伐採、植林、育林の適正な森林管理を60年間サイクルで継続している。この仕組みで、「雇用の場の確保」、「安定的な木材供給」、さらに「木質エネルギー創出」、「森林のメカニズムによる脱炭素」を可能とし、SDGsの目標である『誰一人取り残されない幸せな日本一の町』を創るために、「循環型森林文化創造」を実践するものである。
(※1:毎年の成長量に見合う分の立木を一定量伐採、植林することで、持続的な森林経営が実現される森林のこと)。
SDGsとは、人類がこの地球で暮らし続けていくために、2030年までに達成すべき目標。貧困、紛争、気候変動、感染症。人類は、これまでになかったような数多くの課題に直面している。このままでは、人類が安定してこの世界で暮らし続けることができなくなると心配されている。そんな危機感から、世界中のさまざまな立場の人々が話し合い、課題を整理し、解決方法を考え、2030年までに達成すべき具体的な目標を立てた。それが「持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals:SDGs)」である。持続可能とは、何かをし続けられる、ということ。SDGsは、私たちみんなが、ひとつしかないこの地球で暮らし続けられる「持続可能な世界」を実現するために進むべき道を示した、つまり、ナビのようなもの。(SDGs CLUB)
70.北海道米のルーツ「赤毛米」
「赤毛」は、今や全国的ブランドとなった北海道米の先祖である。寒さに強いこの種もみを使用して、明治6(1873)年に、現在の北広島市島松の地で、中山久蔵が寒地稲作を成功させた。道南以北での稲作は不可能とされた中、中山は高い志と努力を以って稲作を実践し、入植者たちに収穫した稲を無償で分かち、寒地生育の技術指導などの長年の支援をした。この努力により、北海道中に稲作が広まるきっかけをつくった。「赤毛」とこのストーリーは、見本田の復活や学校授業、商品開発など、地域の人々の熱い想いにより、現在も地域の誇りとして保存され、引き継がれている。
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◆中山久蔵と赤毛種
中山久蔵は、1828年(文政11年)、川内国石川郡春日村(現大阪府南河内郡太子町)で松村家次男として生まれ、1845年(弘化2年)、17歳で故郷を離れ大阪、江戸など諸国を巡る。1853年(嘉永6年)に身を寄せた仙台藩が蝦夷地警備の任務を与えられたため、1855年(安政2年)、藩士片倉英馬の従者として胆振国白老郡白老に渡り、以後、白老・仙台を行き来した後、1869年(明治2年)に北海道永住を決意。片倉家を辞して渡道する。
1871年(明治4年)、久蔵は44歳で島松沢で開墾を始め、寒地では困難とされた米づくりにも挑戦。1873年(明治6年)、大野村(現北斗市)から取り寄せた水稲赤毛種を用い、川の水を温める水路(暖水路)や、風呂の湯を水田に注ぐなど、工夫と努力により米の栽培に成功し、10a当たり345kgを収穫。希望者には、その技術と赤毛種の種籾を無償提供した久蔵の功績は、米づくりを道央以北へ拡大。やがて、北海道の米の取れ高は、100万石(15万t)に成長したことから、島松沢は、「寒地稲作発祥の地」呼ばれる。
1881年(明治14年)の明治天皇北海道巡幸では、久蔵宅が行在所に指定され、久蔵は、天皇と直に米づくりについて言葉を交わした。
近年、おいしくなった道産米のルーツは、中山久蔵が改良した赤毛種の種籾。久蔵の挑戦は、北海道農業を豊かにしただけでなく、生活文化や食文化も変えることになった。
2023年(令和5年)は、中山久蔵が現在の北広島市で稲作を成功させてから150年の節目の年。(北広島市エコミュージアムセンター知新の駅展示)
◇住所:〒061-1265 北広島市島松1。
◇電話:011-377-5412。
71.今金・美利河(ぴりか)の金山遺跡
今金町の後志利別(しりべしとしべつ)川上流域には、砂金採掘の遺跡が延長10km以上に渡って随所に見られ、源流域にはカニカン岳金山跡がある。これらは江戸時代前期の松前藩によるものとされている。特に美利河(ぴりか)地区 はその中心地で、現在も地表面に砂金採集遺構が生々しく残る。本流域の産金地帯は当時としては国内最大規模を有し、大ゴールドラッシュの発生を物語る。幕末以降にも採金ブームが起き、特に明治期には北海道的な採掘技術を磨く場として歴史的に重要な位置を占めた。1955年(昭和30年)代まで砂金掘りで生計を立てる者がいて、当時の用具も残されている。
72.仙台藩白老元陣屋
江戸幕府は、1853年(嘉永6年)の黒船来航により鎖国政策を断念して、下田と箱館を開港した。同時に、西欧諸国の日本進出を警戒して、東北地方の各藩に蝦夷地警備を命じた。白老元陣屋は、1858年(安政3年)に仙台藩が構築し、1868(慶応4年)の戊辰戦争により撤退するまで12年間存続した。陣屋遺構には、土塁、掘割の重要遺構のほか、藩士たちが故郷から移植した赤松による歴史的景観などが比較的よく残されている。また、当時勧請した愛宕神社や塩釜神社、御霊を祀る藩士墓地では、地域住民が1世紀以上に渡り、例大祭や供養祭を挙行している。
73.十勝三股の樹海
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三国峠(2019年10月撮影)
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三国峠からの山並み(2022年8月撮影)
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三国峠の大樹海(2019年10月、2020年7月撮影)
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大雪山国立公園の東部に位置する十勝三股は、約100万年前の大規模噴火によって生成したカルデラである。約30万年前には湖水地域となったが、その後消失し樹海が成立した。十勝三股は、エゾマツをはじめとする広大な森林が広がるとともに、永久凍土などの寒冷地帯、温泉などの地熱地帯が共存することで、多様な生物が生息し、生物多様性を高めているという特色がある。また、この豊富な森林資源を求めて、過去、大規模な林業集落も形成され、昭和20〜30年代の最盛期には約1,500人と全国最大を誇り、運搬の旧国鉄士幌線(北海道遺産)とともに、地域の発展に貢献した。
74.下の句かるた
下の句かるたは、北海道に入植した人々により道内に普及した。「木の札」であることと、小倉百人一首の下の句を読み上げる独特の競技は、北海道特有の遊びの文化である。かつては、主に家庭内での楽しみだったが、近年は冬場の室内競技として愛好者が増加している。かるた競技は、厳格な雰囲気の中での対戦や緊張感の下で、礼節やチームワーク等を体験でき、世代を超えた交流や人間関係を学ぶきっかけにもなっている。大人、子ども、性別を問うことなく競技を通して楽しみながら、日本古来の文化に親しむことに加え、地域コミュニティ発展の場として意義がある。