摂 津 永 福 寺 多 宝 塔 ・  狭 山 山 不 動 寺 第 1 多 宝 塔

攝津梶原永福寺(畑山神社)多宝塔

摂津梶原永福寺(畑山神社)

山崎通分間延絵図に見る永福寺(寛政年中(1789-1801)編修)

永福寺部分図: 永福寺多宝塔が描画されている :下図拡大図

梶原村部分図:向かって右が一乗寺、左 が永福寺:
下図拡大図

元亀年中(1570-74)林丹波守、金仙寺の三十番神を勧請し、永福寺と号したのが始まりと伝える。
 ※林丹波守の事蹟は不詳、境内に供養塔がある。供養塔銘は寛永13年10月7日とあるという。
 ※金仙寺は当初真言宗であったが、日親上人西国折伏の折の最初の道場となり、一乗寺<梶原一乗寺>と改号する。
慶長年中、火災焼失。
宝永3年(1706)現在の社殿及び多宝塔などが再興されると云う。
 ※山崎通分間延絵図では、
  鳥居、山門、多宝塔、拝殿、本殿(三十番神・天満宮・春日社合祀)、永福寺山門、本堂、庫裏?などの伽藍が描かれる。

明治の神仏分離で、神祇官(復古神道)から法華宗の三十番神は「実ニ不謂次第ニ付、向後禁止被仰出候」とされ、
明治5年、祭神を春日大神・菅原道真とし、永福寺は廃され、畑山神社と改称、村社となる。
 ※明治元年十月十八日「太政官より法華宗諸本寺へ達」では、
  特に法華宗の三十番神を取り上げ、「皇祖太神」及び「其他之神祇」を「配祠」するのは「不謂次第ニ付」き「禁止」とされ、
  この「達」を厳格に適用すると三十番神を廃社とするか、寺院を廃寺とするしかないであろうと思われる。
この永福寺の廃寺の経緯は史料がないので明確な裏付けを欠くが、永福寺三十番神も神仏分離の対象となり、三十番神は廃棄、天神・春日のみを祭神とした「神社」に捏造され、永福寺は廃寺、本殿・拝殿・多宝塔・山門が畑山神社として収奪されたものであろう。

現本殿(一間流造背面3間桧皮葺)および拝殿(入母屋造桟瓦葺)は江戸中期<宝永3年>の建築と云われる。
であるならば、上図(「山崎通分間延絵図」)の三十番神堂及び拝殿が畑山神社本殿に転用されたのは想像に難くない。
繰り返すが、つまり「畑山神社」は明治維新までは永福寺という寺院であり、その伽藍は三十番神堂及び拝殿・山門・鳥居であったのである。明治維新の神仏分離の処置で永福寺は廃寺 とされ、「畑山神社」なる神社が捏造されたと云うことなのである。
なおかって多宝塔内にあった位牌には「寛文辛丑年当畑番神之拝殿廊架造建焉」と刻んでいたという。
 (拝殿は寛文年中の建立で、畑番神と云われていたとも思われる。)

昭和35年多宝塔を西武鉄道に売却。現在は多宝塔は狭山山不動寺に移築されている。
売却理由は記念碑によると社殿等の修繕費用捻出のためと云う。売却金額は五百万円と記念碑に刻す。
なお、神仏分離で当然棄却されるべき多宝塔が棄却されなかった理由は不明。

なお付近一帯は梶原寺(7世紀後半創建・中世まで残存)の地とされ、瓦が出土すると云う。

2012/04/28追加:
◆「三島郡の史跡と名勝」天坊幸彦、1961 より
畑山神社:春日大神、菅原道真を祀る。社伝によれば、元亀年中林丹波守、金仙寺の鎮守三十番神を合祀し、新に殿舎を造営、二重宝塔を建て、精舎に改めて立源山永福寺と名けしと云ふ。蓋しこの三十番神は理元入道、社職高兵衛介の日蓮上人を迎えてその開眼をなし・・・。
慶長年中火災あり、殿舎什宝悉く焼く。是に於て村民協議金穀を募りて再興す。現在の社殿即ち是なり。境内636坪にして、本殿・拝殿・多宝塔は其棟札によれば宝永3年(1706)7月13日大工喜右営門の作る所、塔内安置の位牌に深智院常是日在禅定門といふありて其裏面に
 這日在者寛文辛丑年当畑番神之拝殿廊架造建焉
とあれば是又拝殿造立の年代を知るを得べし。
境内に五輪塔あり。寛永13年10月7日妙法蓮華経龍源院宗雲霊とあり。伝えて林丹波守墓(或は供養塔)と云ふ。
正倉院文書、類聚国史、攝津志に梶原寺の名がある。梶原寺の地は神社一帯に亘る地域を包みたるものなるべく、境内には古瓦布目のものを掘り出すことあり。

摂津永福寺多宝塔跡

現状、塔跡には土壇が残る。
その上には多宝神社が創建される。

2002/04/20撮影:
 摂津永福寺多宝塔跡:左図拡大図
  ※明治の神仏分離で永福寺は畑山神社に換骨奪胎される。
 摂津畑山神社多宝塔跡1
   同           2
   同           3

2016/01/23撮影:
摂津永福寺多宝塔跡:
 摂津永福寺多宝塔跡11     摂津永福寺多宝塔跡12     摂津永福寺多宝塔跡13     摂津永福寺多宝塔跡14
摂津永福寺現況:
 摂津永福寺山門     永福寺三十番神拝殿     永福寺三十番神堂
林丹波守五輪塔:
現地の説明板によれば、林丹波守とは旗本林正利のことという。正利は小早川秀秋の家臣であり、関ヶ原の合戦で武功をあげる。秀秋没後、徳川家康に仕え、旗本となり美濃国可児に領地を得る。(「慶長9年(1604)8月 林正利宛徳川家康領知朱印状写」 及び 「慶長9年(1604)閏8月 林正利宛幕府奉行人知行目録写」 が「可児市史 第5巻資料編」に収録される)
慶長13年正利は美濃国で没し、梶原の永満寺(永福寺)に埋葬されるという。
五輪塔には寛永13年の年紀や正利の法名が刻まれるというので、供養塔と思われる。
なお隣の宝篋印塔の由来は不明という。
 林丹波守五輪塔1     林丹波守五輪塔2
 林丹波守五輪塔3:殆ど判読できないが、「寛永13年10月7日妙法蓮華経龍源院宗雲霊」とあるという。


摂津梶原永福寺多宝塔(畑山神社多宝塔・狭山山不動寺第1多宝塔)

狭山山不動寺両塔
(向かって左:播磨掎鹿寺多宝塔、右摂津梶原永福寺多宝塔)

慶長12年(1607)建立。(林丹波守寄進という。)
宝永3年(1708)に修理か?。
移建の時、慶長12年の墨書が出てきたというも、宝永3年の銘も存在するという。慶長12年建立されるも大破、宝永3年大修理されたというべきか。
 ※棟札に宝永3年(1706)7月13日大工喜右営門の名があるという。
一辺3.9m、高さ約14m。軸部に若干唐様が混在する。
安置仏は現地に残され(?)、何もないという。
なお、現在相輪の一部が毀損し、少し傾いているようである。

2003/03/27撮影:
 摂津永福寺多宝塔1
       (左図拡大図)
 摂津永福寺多宝塔2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
2007/11/06追加:
「O」氏ご提供(1998/01/03撮影)
 摂津永福寺多宝塔11
   同        12
   同        13
   同        14
   同        15
   同        16
   同        17
   同        18
   同        19
   同        20

播磨掎播磨掎鹿寺多宝塔       狭山山不動寺
 


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