尾  張  性  海  寺  (多宝塔 宝塔 心礎)

尾張性海寺(多宝塔・宝塔・心礎)

尾張性海寺多宝塔

室町中後期建立。重文。
総高約13m、一辺3,64m。
塔内には愛染明王を安置する。塔前面に拝殿を付設する。
(以前は拝殿は塔に連結されていたが、現在は切り離される。)

2005/02/20撮影:
尾張性海寺多宝塔1
  同        2
  同        3:(左図拡大図)
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13

2001/01/13撮影:
尾張性海寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4

2008/06/06撮影:
尾張性海寺多宝塔21
  同        22
  同        23
  同        24
  同        25
  同        26
 同  多宝塔拝殿内部
 

 

 

 


  

性海寺は弘法大師創建という。(寺伝)
建長5年(1253)大塚の領主長谷部氏が僧良敏(熱田宮司)とともに伽藍を再興。
天正年中(1573-91)兵火で焼失。慶安元年(1648)伽藍再興。
山号(大塚山)地名(大塚)の由来は本堂裏に大塚と呼ばれる古墳があり、それに由来すると思われる。(推測)
近年、境内西側はアジサイ公園?性海寺歴史公園?として整備されるも、なぜアジサイなのか、なぜ歴史公園なのか意味不明。
公共工事ならば公金の無駄使いであり、それ以上にこのような「工事」は性海寺の歴史環境の破壊そのものと思われる。

2007/03/05「日本建築史基礎資料集成・塔婆U」:
 性海寺多宝塔断面図

尾張名所図会 後編巻之2より
記事:「 愛染塔(境内にあり。二重の高塔なり。弘法大師作の愛染明王の大像を安置す、もと本堂に安置したりを、後この塔中にうつす。明王憤怒の面容儀形、威霊にしておそろしく、感応勝れたれば、世人殊に崇敬し、縁日には参詣の男女群をなせり。また塔の東の続きに拝殿あり)」
 □尾張性海寺絵図

2014/07/25追加:
「特別保護建造物集成. 第1至6輯」岡本定吉編、建築工芸協会、大正8年
 大正8年頃性海寺多宝塔

2006/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正末期から昭和初期の撮影
  尾張性海寺多宝塔

尾張性海寺宝塔

◆尾張性海寺本堂
 2005/02/20撮影:
  尾張性海寺本堂(重文)
    桁行3間、入母屋造杮葺き、唐破風向拝付。慶安年中の再建とされるが、本堂須弥壇などは鎌倉期の遺構を残すという。
 
2008/06/06撮影:
  尾張性海寺本堂11       同       12        同       13

◆尾張性海寺宝塔(重文)

鎌倉弘安4年(1282)頃の建立。本堂内安置。
1階は佛龕(安置仏は銅製善光寺三尊仏と云う)、軒は二軒扇垂木、 総高261cm(あるいは総高263cm、塔身径77cm)。
黒漆塗、塔身は反花式の台座上にはめ込まれ、組高欄を廻らす。本堂須弥壇は黒漆塗、高さ68cm、幅234cm、奥行156cm。
禅宗様の上下繰型やひも框を使用、中間の格狭間や高欄は和様であるとされる。
 □尾張性海寺宝塔

2007/12/10追加;
「小塔巡拝の記(五)中部地方の小塔(2)」吉田実、史迹と美術 第604号、1990より
 尾張性海寺宝塔
尊勝塔と呼ばれる。初重は佛龕で善光寺本尊の模写鋳造阿弥陀如来像を安置する。正面と両側面は黒漆塗の扉を開く。上部は亀腹。
上重軸部は12本の円柱をたて、和様の四手先斗栱を組む。屋根杮葺形の板葺。相輪は木製。
 

2008/02/10「X」氏撮影画像

2008/06/06撮影


性海寺宝塔21:上図拡大図   性海寺宝塔22      
 


性海寺宝塔11    性海寺宝塔12    性海寺宝塔13:上図拡大図   
性海寺宝塔14    性海寺宝塔15    性海寺宝塔16

2008/10/18追加:
尾張名所図会 後編巻之2より
「本堂(承久3年<1221>信濃善光寺の本尊を模刻したる阿弥陀・観音・勢至一光三体の像を龕塔に内に納めて安置す。また尊勝陀羅尼をもこめし故、尊勝塔と号す。塔背に二十五菩薩を画けり。巨勢金岡の筆なり。塔の脇立の四天王の像は運慶の作。・・・)」

尾張性海寺心礎

寡聞にして、性海寺心礎についてはほとんど情報がない。
僅かに、石田茂作「佛教考古學論攷 四 佛塔編」に写真の掲載と「幻の塔を求めて西東」に寸法の記載を見るのみ。

2005/02/20:
心礎の見学申込での寺院側の対応は、「心礎のようなものは無い」との見解を採る。
「無い」という意味は、文字通り「かってはあったが今は(売却・破壊・盗難などの理由で)無い」との意味なのか あるいは「心礎はあるが見学拒否の口実」(近年の世情は物騒である)かのどちらかであろう。
思うに、
石田論文掲載写真(下記)及び1990年撮影画像などから庫裏もしくは客殿の庭にあったことは疑いようがない。
さらに、以上のほかに様々な状況証拠もあり、寺院側の対応は一般人を寄せ付けない「拝観拒否」である可能性が高いと思われる。

 □尾張性海寺心礎:石田茂作「佛教考古學論攷」から転載

心礎及びこの心礎に関係した「廃寺」の実態は全く不明。(情報が皆無)
1990年の心礎撮影画像がある。
○1990年撮影画像:
  尾張性海寺心礎1
   同        2
   同        3:左図拡大図
   同        4

●「幻の塔を求めて西東」:1重円孔式、160×130×50cm、径16×7cmの孔がある、奈良後期。
奈良後期とした根拠は不明、心礎の形式から見て、「奈良終末期」のものと推定される。

 

近年撮影と思われる心礎画像がある。

 尾張性海寺心礎21:左図拡大図

この写真によれば、径16cmの円孔の周囲には明らかに「柱座」を浅く彫り窪める加工を施すように見える。

 


2006年以前作成:2014/07/25更新:ホームページ日本の塔婆