安  芸  厳  島  五  重  塔  ・  多  宝  塔

安芸厳島五重塔・多宝塔

2008/05/13追加
安芸国厳島之図:『安芸国厳島勝景図』(「扶桑名勝図」)享保5年(1720)

 安芸国厳島勝景図:下図拡大図(437KB)

ほぼ中央部に五重塔・千畳敷、中央やや右に本社、右部中央に多宝塔

安芸厳島

2006/07/29撮影:
安芸厳島:左図部分拡大図
 左端:五重塔、大経堂、右端:多宝塔

五重塔・大経堂

厳島神社鳥居

安芸厳島五重塔(重文)

応永14年(1407)諸人(ほとんど女性)の勧進によって建立される。
天文2年(1533)大改修(露盤銘による)。
高さ15間1尺(約27.6m)。唐様を基調とする。屋根檜皮葺き。
心柱は初重天上から建つ。
初重柱は上部を金襴巻(朱漆塗)とし,それぞれ彩色の寄附者の名が記されているという。また内陣の天井は雲竜,来迎壁は表に蓮池,裏に白衣観音,周囲の壁板は瀟湘八景を添景とした真言八祖の壁画が描かれるという。
明治維新の神仏分離により安置仏・釈迦如来三尊は大願寺に移されたという。

2000/12/26撮影画像:
 厳島五重塔01    厳島五重塔02     厳島五重塔03     厳島五重塔04     厳島五重塔05    厳島五重塔06

○「X」氏ご提供画像(2001/9月撮影)
 巌島神社五重塔

2006/07/29撮影:
 五重塔・大経堂・本社1
 五重塔・大経堂・本社2
 五重塔・大経堂・本社3
 五重塔・大経堂・本社4
 厳島五重塔1
 厳島五重塔2
 厳島五重塔3
 厳島五重塔4
 厳島五重塔5
 厳島五重塔6
 厳島五重塔7
 厳島五重塔8:左図拡大図
 厳島五重塔9
 厳島五重塔10
 厳島五重塔11
 厳島五重塔12
 厳島五重塔13
 厳島五重塔14
 厳島五重塔15

2014/02/08追加:
○「A」氏(岡山模型店DAN)2010/08/06撮影・ご提供
 厳島五重塔21     厳島五重塔22     厳島五重塔23
2014/02/14追加:
○「A」氏(岡山模型店DAN)2010/08/06撮影・ご提供
 厳島五重塔21+:上掲「厳島五重塔21」の高精細画像       厳島社殿景観

2022/01/03
○仲良しの
M様撮影ご提供画像
2022年お正月休暇で長崎・広島に遊び、その時に厳島に立ち寄り、撮影された画像である。

安藝厳島五重塔下図拡大図


※M様は小生の仲良し様である。
20歳半ばの普通の女の子で、職業はセックスワーカ―の業態の一つである”風俗嬢”である。
高い職業意識(プロ意識)をもってお仕事をされていて、人間の生き様について教えられることが多々ある。

厳島五重塔古写真

明治初頭の多宝塔

2003/5/10追加:2012/09/28文面追加;
「大日本全国名所一覧」所収、本書に収録の写真は「イタリア公使ラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニが明治10年(1877)〜明治13年の公使の任務を終えて帰国した時に、日本のお土産として持ち帰った日本全国に及ぶ名所旧跡等を当時の写真技術で写した写真集がイタリアに残されていた」のであるが、その写真集の写真であると云う。
 ○明治初頭の厳島五重塔
以上であるので、明治初頭から明治13年までの写真であろう。
この写真には、少なくとも、相輪は上がり、軒支柱はまだなく、この写真以降に相輪は除去され、軒支柱が立てられたものと推定される。

2012/09/28追加:
 厳島絵葉書五重塔1:明治初頭末期
この写真は相輪はあるが(ただし少し傾いているように見える)、支柱が既に設置されている写真である。
まず、大正2年の太修理後ではありえないから、上記の明治初頭の写真から少し時代の下った頃のものと推定される。
全くの推定ではあるが、この写真から、明治初頭末期には支柱が入れられ、腐朽のためか相輪は傾き、この後危険防止のためであろうか相輪は取除かれたものと推定される。

明治中後期の多宝塔

2007/09/14追加:
「厳島写真画帖」、福田富吉編、厳島町:福田富吉、明治42年 より
 厳島五重塔211(本社)     厳島五重塔212(大経堂)     厳島五重塔213(左図部分)
 厳島五重塔214(南東下 から)  厳島五重塔215(左図部分)
   ※この明治42年刊行写真帖の五重塔写真は何れも相輪の請花より上が欠落し、各重の軒四隅には垂下防止の支柱がある。
    下掲載の明治44年刊行の写真帖の五重塔写真は相輪は完備、軒支柱はない。
    以上から推測すると(現在、修理記録は未掌握)、少なくとも明治後期には相輪が落ち、軒支柱で軒を支える時代があったが
    明治後期にかなり大がかりな修理があったものと思われる。
「厳島百選」、藤谷寅蔵編、広島:藤谷寅蔵、明治44年
 厳島五重塔311:この写真では既に相輪は完備、軒支柱は撤去されている。
2012/09/28追加:
 厳島絵葉書五重塔2
相輪はなく、支柱があるため、明治中後期の写真であろう。
 なお、五重塔の修理時期については以下のように推定される。
明治維新前は大聖院子院金剛院に属するも、明治の神仏分離で厳島神社の所有となると云う。
大正2年に解体修理、昭和26年屋根葺替。
大正2年に五重塔解体修理と云うことに関しては、
「明治34年(1901)から大正8年(1919)厳島神社の古建築群の本格的修理が行われる。
当初、五重塔、多宝塔、末社豊国神社本殿(千畳閣)は修理計画に入っていなかったが、最終段階で修理事業に組み込まれ修理が行われる」と云う情報があるので妥当であろう。
また
明治43年3月末の見聞として、修理以前には「今各重支柱ヲ挿入シ九輪ヲ除去シアルガ故ニ格好整ハズ」ということであったが、昭和6年の見聞として「太修理が終り、古い相輪を上げて修復」とある。(「日本古建築行脚」天沼俊一、昭和17年)
除去された相輪は保存されたいたようで、太修理で再度上げられたものと推定される。
 以上のように大正2年に五重塔の大修理が竣工とすれば、上の掲載の明治44年刊「厳島百選」の写真で「相輪は完備、軒支柱は撤去されている」のは矛盾であるが、この理由は今のところ全く分からない。
2017/01/13追加:
○s_minaga蔵絵葉書:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月間の発行であろう。
 安藝宮島五重塔絵葉書     五重塔及び千畳閣絵葉書:何れも、相輪を欠き、軒支柱を施す写真である。

大正2年(大修理)以降の多宝塔

2006/08/12追加:宮島地区点描中の「宮島絵葉書」より転載。
 厳島五重塔・千畳敷1    厳島五重塔・千畳敷2    厳島五重塔・千畳敷3    厳島五重塔・千畳敷4

2006/08/12追加:
 厳島五重塔・千畳敷5    厳島五重塔・千畳敷6

2012/09/28追加:
 厳島絵葉書五重塔3     厳島絵葉書五重塔4:何れも戦前と推定される。


厳島多宝塔(重文)


大永3年(1523)禅僧周歓が建立と伝える。
その当時は多宝院と称したと思われる。
高さ:15.6m、基本的に和様を用いるも、禅宗様が一部混ざる。
屋根杮葺き。
各面の中央間4面の蟇股には梵字が彫刻される。
宝永年中(1704〜1711)に改修される。<宝永3年九輪を再興>

2006/07/29撮影:
 厳島多宝塔1
 厳島多宝塔2
 厳島多宝塔3
 厳島多宝塔4:左図拡大図
 厳島多宝塔5
 厳島多宝塔6
 厳島多宝塔7

明治の神仏分離の処置で、本尊薬師如来(重文)は大願寺に遷される。
明治13年宝山神社となり、加藤清正が祀られる。清正は金比羅社に祀られていたという。
 (近世初頭の恐ろしい時代に翻弄されたとしか言いようがない。)
大正7年加藤清正は豊国神社(大經堂・千畳閣)に合祀される。おそらくこの時多宝塔は厳島神社所有となる。
 ※2023/04/08追加:
清正が金比羅社あるいは多宝塔に祀られていた理由については、まったく分からない。

2000/12/26撮影画像:
  厳島多宝塔01  厳島多宝塔02  厳島多宝塔03

X氏ご提供画像(2001・9月撮影)
  厳島神社多宝塔

2006/08/12追加:宮島地区点描中の「宮島絵葉書」より転載。
  厳島多宝塔1    厳島多宝塔2

2007/09/14追加:
○「厳島写真画帖」、福田富吉編、厳島町:福田富吉、明治42年 より
  厳島多宝塔211
○「厳島百選」、藤谷寅蔵編、広島:藤谷寅蔵、明治44年 より
  厳島多宝塔321
2014/07/25追加:
○「特別保護建造物集成. 第1至6輯」岡本定吉編、建築工芸協会、大正8年 より
 大正8年頃宝山神社多宝塔
2023/05/08追加:
○サイト「広島県文書館」 より転載
 厳島多宝塔301:寶山神社とあるので、明治後期から大正期のものと思われる。
 厳島多宝塔302:「3.9.5」のスタンプがあり、厳島二重塔とあるので、昭和3年迄頃のものであろう。大正3年ではないだろう。
 厳島多宝塔303:年代は不明であるが、上の絵葉書と同時期くらいと思われる。


「中国名所圖會」
巻之3より:厳島、
記事:「五重塔(麓の森の岡の山にあり。この山を塔の岡といふ。 塔の中に金剛界の大日如来を安置す。)」
 ○五重塔図(部分図)

巻之3より:厳島、弥山:
記事:多宝塔(方2間にして、高さ九輪までおよそ12間)」
 ○弥山全図(部分図)・・右端中央に多宝塔が 見える。
巻の4より:弥山
記事:「多宝塔(御神馬屋の上なり。二重の宝塔にして荘厳結構なり。方2間、高11間。)」
(巻の3の記事とは高さが違う表記であり、また方2間とは意味不明である。)
 ○多宝塔図( 弥山全図多宝塔部分図)


※芸州厳島絵図には、多くの「神社」の鎮座も描写されているが、神社記事は割愛。
※明治の神仏分離による「処置」については、殆ど掌握できず。
五重塔・多宝塔・大経堂などのいくつかの仏堂塔については、本尊などは撤去されたが、堂塔は現在に伝えられる。
また多くの厳島社僧は、大願寺・大聖院・光明院などの十指に満たない寺院のみが存続し、大部は廃寺となったと推測される。

「藝州厳島圖會」
巻之1より:厳島全図
 厳島全図(全4図のうち表2と表3を合成した図)・・・画像容量大。
  中央左が本社でその左に五重塔、その右に多宝塔がある。
 厳島全図中の中央部分拡大図(部分図)・・・左は五重塔・右は多宝塔

巻之2より:
 ・本地堂:本社の後にあり、本尊十一面観世音菩薩。・・・夏堂とも称する・・・
 ・宝庫:御手洗川の辺にあり、・・・
   厳島本地堂・宝庫
 ・鐘楼:同所の山上にあり・・・
 ・山王社:本社の東坂本にあり・・・
 ・荒胡子社:山王社の北大経堂の麓にあり、・・・
 ・金剛院:大願寺の子院にして、同社の本願なり。
 ・五重塔[五層塔]:大宮の右の方、岡の上に建てたり。方ニ間半、九輪までの高さ凡十丈。
   本尊釈迦如来、脇士文殊普賢両菩薩。応永14年丁亥七月建立といへり。されども何某の所建にや、詳ならず。
   天文ニ年に至りて年齢ここに二百ニ十余年、殆ど頽壊に及ばんとせしに、人々是を歎きて再造せしかば壮観旧に復し・・・
   九輪再興の時の銘露盤にあり。南のひらに天文ニ年癸巳三月十七日、上野前司藤原興藤、前掃部頭藤原広就、
   大願寺道本 西のひらに大願寺沙弥衆慶祐尊、海宗歓端?阿、東の側・・・・・
 ・大経堂:桁20間、梁10間5尺余、縁幅8尺四方、欄干をつけたり。俗に千畳敷といふ。五層当の傍にあり。
   本尊釈迦如来、脇士阿難迦葉・・・・
   ○大経堂・五重塔全図  五重塔図(部分図)
   千畳敷・五層塔・転法輪蔵:上記の全体図
    ※天正15年(1587)豊臣秀吉が、千部経を読誦するためにに発願し、安国寺恵瓊に命じ、大経堂として建立する。
     <桁行正面13間(約40m)、背面15間、梁間8間(約21m)、単層、入母屋造、屋根本瓦葺>
    秀吉没後は、天井の板張りや建造物の外構など未完成で現在に至る。
    明治5年本尊の釈迦如来坐像、阿難尊者像、迦葉尊者像は大願寺に遷し、豊臣秀吉靈神を祀り、豊国神社と改称する。
    大正7年宝山神社(厳島多宝塔)の祭神加藤清正霊神を合祀する。
    現在、豊国神社(千畳敷)は厳島神社末社である。
   2006/07/29撮影:厳島大経堂
 ・納経堂:大経堂の傍にあり、・・
 ・転法輪蔵:大経堂の麓にあり、2丈5尺四方の輪蔵にして、一切経ををさめたり、・・
 ・龍宮界蔵:輪蔵に同じ・・。
   二所の輪蔵は、天文5年大願寺道本上人・・・大内義隆に請ひ、・・・天文11年・・・寄附せられき。・・・・
 ・円城院:南町にあり、社僧なり。奥坊神納寺と称す。・・仁和寺の末派に属す、・・・
 ・道成山無量寿院神泉寺:浄土宗なり、・・南町にあり。・・
   ※壇ノ浦で入水した二位の尼の屍が有の浦に漂着したといわれ、神泉寺に尼を弔、阿弥陀堂を建立し、
   尼の木像を祀るという。後に神泉寺は廃寺、光明院に木造は遷座する。
 ・華降山以八寺光明院:神泉寺に隣れり。浄土宗京都知恩院末。・・末寺4宇。・・・・・
   ※現存、誓真和尚が修行した寺。
 ・谷原(やつがはら):紅葉谷の右手をのぼりて平広の原あり。・・・
 ・谷薬師堂:同所にあり。
 ・人麿社:中間谷にあり。
 ・中間薬師堂:同所のおくにあり。
 ・道祖神社:幸町にあり。
 ・北薬師堂:薬師町にあり。
 ・宝光院;薬師町にあり、社僧寺なり、天和年中仁和寺末派に属せり。・・
 ・龍上山西方寺宝寿院:同所のおくにあり、真言宗仁和寺の派。・・・・・
   ※現存
 ・福寿院;大悲山と号す、宝寿院の抱地なり。
 ・廃愛染院:宝寿院に境内にありて、・・・本尊愛染明王は宝寿院にをさめたり。
 ・神力寺:西蓮町の上にあり、・・
 ・大御堂:同所にあり、俗に大仏といふ。この御堂は本社の艮にあり、鬼門の鎮守・・・
 ・廃龍翔寺跡:西蓮町の上の山にあり、・・・
 ・存光寺:存光寺町にあり。禅宗佐伯郡廿日市洞雲寺派なり、・・・和州多武の峰浄土院存光和尚の開基にして・・・・
   ※現存
 ・仁王門:同所(長浜小浦へこゆる山路か?)にあり、往昔本宮の仁王門なりといへども其証なし。延宝6年再び創立す。
   厳島仁王門
 ・角仏堂:小浦の後にあり、役小角を安置せり。

巻之3より:
 ・預坊:宝庫の上の山の麓にあり、社僧なり、開基不詳、本尊不動・・・
 この余、櫔木(かしのき)坊、大乗坊、正覚坊等の社僧寺ありしかども今廃してなし。
 ・宝泉院:南町にあり。南照山松寿寺と号す。京師仁和寺に属す。・・・・
 ・亀居山大願寺:
   大西町にあり、放光院と号す。京師嵯峨大覚寺末派なり。古文書に本願寺とあり、今も本願大願寺と称する・・・。
   本尊薬師如来、・・・護摩堂・・・鎮守住吉大明神社・・・
   什宝 弘法大師自作尊像、・・・弁財天拾六神像・・・・
   ※厳島弁財天を祀る。
   厳島大願寺
   2006/07/29撮影:厳島大願寺
 ・大蔵坊:大願寺のうちにあり、同寺の末院・・
 ・泉光院:中西町にあり、これも大願寺の子院なり・・
 ・廃仙蔵坊:あせ山のみちにあり。
 ・十王堂:同所にあり。
 ・廃真珠院:木比屋谷にあり。
 ・華蔵院:神厩町にあり、社僧なり、開基不詳、本尊阿弥陀・・・京都仁和寺末・・
 ・地蔵院:同町にあり、社僧なり、開基不詳、本尊阿弥陀・・
 ・廃蓮乗坊:大西町の上にありて大願寺の子院なりしといふ。
 ・多宝塔:
   中西町岡上に建てり。方2間半余、高さ8間余ニ層なり。本尊薬師如来(行基の作なり)
   大永3年6月にはじめて建立せりといふ。その後宝永3年に九輪の再興ありき。
   銘に厳島御大工野阪太兵衛尉公春、同太郎作雅春、同小工豊島谷次郎、冶工藝陽佐西郡廿日市住山田氏貞能とあり。
   厳島多宝塔図(部分図)
 ・廃多宝院:多宝塔のかたはらにあり、もと塔の本寺なりしとぞ。
 ・大湯屋跡:往昔南町にあり・・・・・・
 ・廃瑞光寺:南町にありし。
 ・以中庵:同所(紅葉谷)にあり、光明院の抱地。
 ・瀧山水精寺大聖院:
   弥山の麓にあり。真言宗天正年中京都仁和寺に属せり。
   本尊不動・・弁財天女・・客殿・・護摩堂・・鎮守2宇・・、当院は本宮の別当職にして世にこれを座主と称す。・・・・・
   ※大師堂を除き、明治21年全焼、現伽藍はその後の再建と云う。
   厳島大聖院
   2006/07/29撮影:厳島大聖院
 ・瀧本坊:大聖院の麓にあり、社僧なり、・・
 ・龍灯院:同所にあり、開基不詳・・・・・・
 ・増福坊:中西町にあり、天和年中に京師仁和寺に属す・・・
 ・愛染院:増福坊に同じ、社僧なり以下みなしかり・・・
 ・菩提院:本尊不動・・・
 ・西方院:瀧町にあり、開基不詳、・・・当寺いにしへは東坊と称せり。
   天正年中仁和寺の御室仁助法親王この嶋に御止住ありし故を以って、西方院家の号を賜ひて御門下に准せられき。・・・・
   ※絵図中の挿絵では、通常の社僧の寺構えをはるかに超える寺格であったようです。
 ・多聞坊:瀧町にあり・・・・
 ・修善院:同上、本尊釈迦・・・
 ・執行坊:胴上、本尊不動・・
 ・東泉坊:同上瑠璃山と号す。本尊薬師・・・
 ・松の坊:上に同じ、本尊阿弥陀・・
 ・長楽寺:上に同じ、本尊日輪観音・・
 ・荒神堂:瀧町の山にあり。
 ・瀧薬師堂:同所
 ・棚守将監屋敷:当家は大宮の棚守職にして舞方を兼司り・・・・

巻之4より:
 弥山:
  ・・夫当山は高野弘法大師の開基なり。・・・・
   厳島弥山
 ・石地蔵堂、経塔、大師堂、火消不動堂、祈不動堂、瀧宮、愛染堂・・
 ・仁王門:・・・これより上弥山の本山にして・・・
 ・大日堂:・・・弥山の本堂にして所謂神護寺これなり・・・
 ・覚鑁堂:一に興教堂といふ・・・
 ・聖天堂、毘沙門堂、鐘撞堂、文殊堂、大威徳明王堂、虚空蔵堂、行者薬師堂・・・・
 ・求聞持堂:本尊虚空蔵(弘法大師作)・・・
 ・三鬼堂:瑞垣20間、盤石のうへに建つ。祭神三座・・・
 ・奥院大師堂、弥勒堂、日輪観音堂、十王堂、飛不動堂・・・

巻之5:
 本ページの主題からは特に取り上げるものはなし。

2003/5/18追加:
厳島屏風図」・・江戸初期と推定、落款:松本山雪
  厳島屏風図   五重塔部分図   多宝塔部分図

2007/01/01:「Y」氏ご提供
 「芸州厳島之図」:「改正日本国尽6-山陰道・山陽道」瓜生寅、明治7年、淡彩木版挿絵、右端の五重塔は不審 、多宝塔であろう。

2013/08/09追加:
「旅行手記」松浦武四郎(「松浦武四郎紀行集. 中」 1975 所収) より
 ※「幕末の探検家松浦武四郎と一畳敷」では、「社寺雑記」(野帳)に記載あり。天保8年(1837)前後に厳島を訪れたと思われる。
  厳島景観圖
向かって左手に五重塔、右手に多宝塔が描かれる。


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