最近訪問した塔婆・ご提供画像(2009/06/25〜2009/12/20)

過去の訪問塔婆履歴

2009/12/17
及び
2009/12/20
山城石清水八幡宮 再訪。
宝塔院宝塔(東谷宝塔・琴塔)跡実測。
残存土壇上に礎石13個が残り、その内11個はほぼ原位置を保つと思われる。
原位置を保つ礎石から、宝塔院宝塔の下重平面は方5間であることが判明する。
2009/12/13 和泉久米田寺 再訪。
  和泉久米田寺
箱作多宝塔跡 紀伊広八幡宮多宝塔、在箱作多宝塔跡
  紀伊広八幡宮・紀伊法蔵寺・和泉箱作・安芸三瀧寺多宝塔
2009/12/11 近江南滋賀廃寺心礎11
  同         12
  同         13
  同         14
  同         15
  同         16
  同         17
  同       塔土壇
再訪。
近江崇福寺塔土壇11
近江崇福寺塔礎石11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
再訪。

近江崇福寺小金堂跡11     同         12
 近江崇福寺金堂跡11     同        12     同        13
    同        14     同        15
 近江崇福寺講堂跡11     同        12     同        13
  近江崇福寺経蔵跡11     同        12
  近江崇福寺弥勒堂跡11     同         12     同         13

2009/12/10 近江法光寺1
 同     2
 同     3
「紙本著色法光寺境内絵図」(江戸期)が残ると云う。<未見>
当絵図には五重塔、釈迦堂、大堂、桜本多寶院、こもしき元三大師行場などの堂宇と近在の様子が描かれると云う。
法光寺は伝教大師の創建で延暦寺末、往時は堂舎24宇30余坊があったと伝える。あるいは貞観5年(863)小槻宿禰今雄の創建とも云う。 本尊は秘仏薬師如来。
元亀2年(1571)の兵火で焼失、延享3年(1746)再興される。現在も、こもしき、大堂、桜本、釈迦堂の地名(小字)を残すと云う。
法光寺 の現況は丘の麓にほぼ南面して数棟の堂宇を残すのみで、伝えられるような大伽藍を偲ぶものはない。現寺域の南などにおそらく堂塔があったような地割を示すも不詳。
2009/11/28
「X」氏ご提供画像
(株)千寿院三重塔1
  同        2
  同        3
簡易な三重塔がある。詳細は不詳。かなりの小型塔と思われる。建築としては函を三重に積んだような構造及び外観であり、正規の塔建築ではない。建築としても粗末なもの と思われ、「擬製塔婆」とするしか無いであろう。
なお、千寿院は株式会社であり、名称は高槻動物霊園と称し、その業種は動物を対象とした霊園業であり、宗教法人ではない。
2009/11/29 石清水八幡宮 再訪。 石清水八幡宮
山城足立寺心礎1 再訪。 山城足立寺跡
2009/11/08
「X」氏ご提供画像
丹波日圓寺塔跡1
  同    塔跡2
日圓寺に塔跡が残る。 「X」氏情報では塔跡は寺院西の民家の裏手の山裾にある。現地には礎石と思われる7個残る。三重塔と伝承する。以上のほかは詳細不詳。
中照山と号する。高野山真言宗。天平19年(747)行基の開創と伝える。綾部市井根町寺の段34
日圓寺のページ中の「日圓寺縁由記」では
「とりまく力蔵坊、明王院等の十九坊及七堂三門、弥陀の玉堂、五間表多宝塔、鐘楼、仁王楼閣、護摩堂等その結構(すがた)は善美を尽し、珠髪は日に映え、宝鐸は月に輝き、遠くは華水山日閼伽(あか)の潤(たに)、近くは湯屋を呼称する浴室を構え、殿内二季修制す。」とある。
 ※五間表多宝塔とは不明ながら、初重平面5間の大塔形式の塔を意味するのであろうか?
近辺には塔跡・仁王門跡や寺の段・奥の坊・湯屋・仁王堂の坂など地名を残すという。
現在は無住、丹後舞鶴円隆寺住職が兼帯。
2009/11/12 越中宮後キンケン塚心礎 (現時点では亡失)  越中宮後キンケン塚
※宮後キンケン塚(塔土壇と推定される)から池尻真光寺へ移すと云うも、現在心礎の所在が不明。
越中寺家廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
越中寺家廃寺夫婦岩1
  同         2
  同         3
  同         4
越中寺家日吉権現
寺家廃寺:砺波郡福野町寺(現砺市寺)寺家
○「幻の塔を求めて西東」:柱座造出一重円孔式、大きさ140×87cm、径70×5cmの柱座造出、径19×17cmの円孔を持つ。白鳳。
○2008/07/16追加:
「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
皇孫(みこ)塚の伝承を持つ地に鏡岩と呼ばれる心礎がある。この心礎に着目した長島勝正氏は近くの神社(日吉山王権現)にある夫婦岩なる枘孔のある礎石と一対(心礎とその脇柱礎)のものとの指摘をした。
心礎は凝灰岩質で風化が進み、円形柱座は不明瞭になっている。
「越中志徴」では心礎の孔から鏡を得たとあり、舎利容器などの納入物があったと思われる。なお未だ瓦が出土せず、堂塔は瓦葺以外の屋根であった可能性がある。
○2009/11/25追加:
◇「福野町史 通史編」福野町史編纂委員会、平成3年(南砺市教育委員会様ご提供) より
寺家日吉権現社が現地にある。日吉権現神職の始まりは以下と伝える。天正13年(1585)増山城下の「吉岡うたま」が井波大蓮寺に入寺し了宝と改名、天正16年寺家村に移住する。享保2年(1717)では惣坊山泉竜寺と号する。
日吉権現付近に3個の礎石が残る。
一つは皇孫塚(みこつか)といわれ、田中にある。これは心礎であろう。
明治初年この礎石を掘り上げようとしたところ、その人は病気になったとの伝承を持つ。
残りの2つは夫婦岩で、元は田中にあったが、今は山王権現境内に移されて在る。これは内径20cmの柱座と方形の繰り出しを持つ。
 越中寺家廃寺心礎     越中寺家廃寺心礎実測図
 越中寺家廃寺夫婦岩     越中寺家廃寺夫婦岩実測図
◇寺家やその西には院林(ここにも山王権現がある)などの地名があり、何らかの寺院があったものと推定される。しかし明確な遺構が発見されたわけではない。(例えば、平成19年想定廃寺跡付近を発掘するも、寺跡は確認できなかったと 云うWeb情報もある。)
夫婦岩は付近の田中から掘り出された云い、おそらく枘孔を持つ礎石であろう。一帯は奈良期〜室町期の遺跡とされる。
現状、心礎の田中にあり、条件(作物成育中、水を入れた時期、休耕中でも雨中でヌカルムなど)によっては接近が困難の場合がある。心礎の保存・亡失の防止などの観点から、適切な保存措置が望まれる。 (今般も雨中・強風・ヌカルミで接近は相当困難であった。勿論田圃は私有地であろうから、この点も接近するには気後れがする。また、万一私有物の売却などの事態が発生した場合、保全処置が後手に回り亡失などの惧れがあるとも思われる。)
越中増山城心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
増山城二の丸心礎石:砺波市増山字城山
○「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、大きさ156×120cm、径28×25、径7×3cmの二重円孔を穿つ、和田川沿いの千光寺から遷すという。白鳳末。
○2008/07/16追加:
二ノ丸は構造的に見て最も防御された区画であるため、主郭(本丸)と考えられる。心礎は籏台石として転用されていると思われる。(二之丸には仏教施設があったと云う説もある。)
 増山城二之丸心礎:この画像はpublic domainに属する(public domain宣言画像)。
○2009/11/25追加:
現地説明板では「
神水鉢」」と云い、窪みには常時水が溜まっており、渇水時にも枯れることはないと解説する。
籏台石とする説もある。また籏台石を塔心礎とし、ニノ丸は仏教施設が存立した空間であったとする説もある。
 ※増山城:南北朝期には和田城してその存在が知られる。戦国期には神保氏の拠点であり、永禄3年(1560)上杉謙信の富山城攻略後、神保氏は増山城に篭城する。永禄5年(1565)神保氏、上杉氏に降伏し、増山城を本拠地とする。
天正4年上杉謙信、増山城の神保氏を攻略、天正9年(1581)織田軍の攻略を受け落城。元和の一国一城令により廃城。
 ※二ノ丸:増山城の本丸(主郭)。北東角には鐘楼堂(隅櫓)がある。
○以上のように、増山城心礎が心礎かどうかは不明であるが、二重の円孔を持つことや、実見した第一印象では塔心礎の印象であり、塔心礎であることはほぼ間違いないであろう。
「神水鉢」とは後世の作り話の臭いがする。
では如何なる性格の心礎なのか。まず、この山城に塔婆の建立があったとは考え難く、またあったとしても中世後期に心礎を必要とした塔などほぼありえないであろうから、この心礎は付近の寺院から搬入し、本丸庭園の蹲などに転用したものと考えるのが自然であろう。
籏台石であるとか心礎を籏台に転用とかも後世の思い付きにしか過ぎず、そもそもこの心礎が旗台の役を果たすに適するかどうかと考えれば、適さないことは自明のことであろう。
 典拠や根拠は不明ながら、「幻の塔を求めて西東」では千光寺からの移転と云う。千光寺に塔婆の建立があったということは仄聞しないが、かなり可能性のあることと思われる。
 ※千光寺:富山県砺波市芹谷1111
高野山真言宗、芹谷山と号する。大宝3年(703)法道上人(天竺僧円徳)と伝えられる。後に弘法大師空海によって再興。永禄年間(1558-70)上杉謙信の越中攻略ですべて焼失、近世に加賀藩主の祈祷所となり再建。観音堂安置銅造観世音菩薩立像は奈良期のものと推定される。
観音堂(文政2年)、本堂、閻魔堂、鐘楼、稲荷堂、土蔵(天明5年)、経堂、庫裡、山門(寛政9年)
御幸門(通用門・高岡高岳山瑞竜寺裏門を明治5年に移建)などを有する。
 かなりの古寺との伝承を持ち、古代に塔婆の建立を見たことは十分考えられるであろう。 また当寺は和田川沿いにあり、同じく和田川沿いの増山城の数キロ上流に位置する。水運で搬入するのに好都合であろう。
越中国分寺薬師堂
越中国分寺薬師堂東側
越中国分寺推定塔跡1
越中国分寺推定塔跡2
薬師堂前土壇残欠1
薬師堂前土壇残欠2

越中国分寺:高岡市伏木一宮国分堂
現在は薬師堂一宇を残す。薬師堂の残る一画で、金堂もしくは講堂であろうと推定される土壇の残欠が存在する。(不明瞭)
また、約20m南東の墓地は土壇様の高まりを残し、塔跡と推定されている。(土檀は不明瞭、塔跡とする根拠は薄弱)
現地は宅地化し、上記以外の遺跡は確認されていない。
2009/09/14追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
「国分寺薬師如来堂」と称する江戸期の堂宇が残る。境内に礎石と思われる石が2個見られる。堂内には弘仁期の破損した天部2躯、弘仁末期帝釈天像、南北朝期の文殊菩薩坐像、鎌倉期の毘沙門天像・地蔵菩薩像がある。この内文殊・地蔵の2躯は明治維新の時、神仏分離で一宮気多社から移した本地仏である。因みにこの薬師堂は気多社別当慶高寺(元禄期再興)の末寺であった。

高岡・山藤三重小塔11
  同         12
  同         13
  同         14
  同         15
  同         16
  同         17
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  同         19
  同         20
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  同         25
  同         26
  同         27
  同         28
  同         29
平成9年完成。設計施工は富山県砺波市(株)白井大工(宮大工白井宏氏)。
その他の詳細は不詳。
三重小塔は越中高岡・山藤商会(銘木商・木材商・建築)事務所エントランス吹き抜けに置かれる。
(詳しい法量は不詳、初重一辺約60cm、屋内塔婆としてはかなりの大型塔である。)
完成後10数年を経年するも、屋内塔でかつ手入れが行き届いていると推定され、今も新築の雰囲気を残す。全て欅材を使用して作られる。但し内部は作られず、この意味では本建築ではなくて、塔の工芸品の要素が強いであろう。軸部・組物など基本的に和様の手法を用いる。屋根銅板葺。相輪は地元高岡の銅鋳物であろう。
 ※(株)白井大工施工塔婆は越中氷見永明院五重塔、越中高岡山藤三重小塔、加賀心蓮社多宝塔がある。白井大工永明院五重塔
越中小窪廃寺心礎 越中小窪廃寺心礎  心礎は移転・現存
2009/11/11 飛騨国分寺 再訪。 飛騨国分寺三重塔  飛騨国分寺心礎
飛騨石橋廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
飛騨石橋廃寺b:吉城郡(現高山市)国府町広瀬町石橋
○「岐阜県史 通史編 原始」:石橋廃寺の遺構は明らかでないが、水田区画整備事業中に多くの瓦の出土と、築地跡・礎石の遺存を見た。
※但し上記の整理事業で寺跡は殆ど破壊を受けたものと思われる。近年は付近は宅地化しつつある。
なお光寿庵跡(上広瀬・伽藍配置は不明)が石橋廃寺東側山中にある。光寿庵跡と石橋廃寺の両廃寺の出土瓦は同范と云う。地理的にもほぼ同一地域であり、おそらく石橋廃寺と同一氏族によって建立されたとみるべきであろう との見解が有力である。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、148×80×64.8cmの大きさで、26×12cmの円孔を持つ。国府町役場隣の庭にある。白鳳末。
※心礎は広瀬古墳(円墳)の東すぐに置かれる。当然設置場所から見て、現位置ではない。
○現地説明板:奈良時代前期の寺院である。伽藍配置は分からない。東山中にある光寿庵とは上寺・下寺の関係にあった。心礎は明治12年に出土。花崗岩製。
 国府広瀬古墳:横穴式石室を残す。平野部の耕作地にありながら、今日まで墳丘・石室が伝えられる。(下記の同様)
○なお東約100mにこう峠口古墳があり今も往時の面影を残す。蓋し古代地方権力の中心地であったのであろうか。この古墳は横穴式石室で、玄室の高さ3m、羨道を含む長さは13,5mを測る。
 こう峠口古墳1     こう峠口古墳2:こう峠は国府峠であろう。
(飛騨塔の腰廃寺)
飛騨上町廃寺心礎
飛騨上町塔の腰廃寺 飛騨円光寺に移転現存
飛騨沢廃寺心礎 飛騨沢廃寺 飛騨円光寺に移転現存
飛騨杉崎廃寺主要部1
(中門・金堂・塔・石敷)
  同     主要部2
  同     塔跡1
  同     塔跡2
  同     塔跡3
  同     塔跡4
  同     塔跡5
  同     塔礎石1
  同     塔礎石2
  同     塔礎石3
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3

  同     金堂跡1
  同     金堂跡2
  同     金堂跡3
  同     講堂跡1
  同     講堂跡2
  同     中門跡
  同     鐘楼跡
  同    伽藍配置図
  同    伽藍復元図
  同    宮谷寺跡碑
  同  心礎旧位置石碑
吉城郡古川町(現飛騨市)杉崎 (宮谷寺跡、岡前廃寺)
○「岐阜県史 通史編 原始」: 塔心礎は不正の長方形で、径70cmの円穴と径32×12cmの円孔を穿つ。また放射状排水溝を持つ。心礎北西20mには身舎3間×2間で、四面庇の建物礎石が遺存する。さらに東に転移した礎石が約10個ある。
○「日本の木造塔跡」:金堂跡東南に塔跡があり心礎1個が残る。心礎は1.2×0.9mで、径70cm(磨耗のため極めて浅い)と径32×10cmの円孔を穿つ。昭和5年の犬塚行蔵氏の観察では排水溝は波形に7本外に出ていたという。(現在では痕跡のみではっきりとは確認できないとされる。)
中世末まで空谷寺と称し文献で確認される。岡前は「御構え」を意味すると云う。
 (本記載は発掘調査前の状況のものであろう。)
○「岐阜県吉城郡古川町杉崎廃寺跡発掘調査報告書」古川町教育委員会、1998 より
昭和6年大字名から杉崎廃寺と命名されるも、地元では宮谷寺跡と伝えられる。
平成4年から7年まで発掘調査(土地改良事業計画が端緒)、
調査前塔心礎:心礎は農道の傍らにあった(石碑も設置)が、ここには基壇が無く、移動していたことが確認される。心礎は花崗岩製で、大きさは130×97cm高さは約50cmを測り、上面に径70cmの柱座があり、さらに中央に径33×深さ10cmほどの円孔がある。柱座穴の周囲には幅5cmほどの浅い溝を彫り、そこから放射状に小溝を6本出す。
塔跡の礎石発掘状況から一辺は4.2m(14尺)であり、柱間寸法は14尺の三つ割、もしくは中央間は5尺両脇間は4.5尺ともとれる。これから判断すると、塔の規模は小型ではあるが、極端に小さいものではない。瓦の出土は金堂跡と同様に極端に少なく、また軒丸瓦の出土はなく、恐らく檜皮葺の屋根の棟だけを瓦で覆った構造と推測される。
 杉崎廃寺金堂・塔発掘遺構     杉崎廃寺塔発掘遺構
 杉崎廃寺塔発掘図    杉崎廃寺心礎図     杉崎廃寺塔復元基壇    発掘前心礎写真
○2009/11/21追加:写真は2009/11/11撮影
小規模な伽藍である。金堂の東に塔を配し、中門・金堂・講堂が南北直前上に並ぶ類例のない伽藍である 。また伽藍中心部の全面に玉石が敷き詰められ、見事な荘厳を見せ、これも寺院遺構では類例を見ない。さらに金堂遺構なども稀に見る良好な残存状況で今日に残る。
寺院は白鳳期の創建で、礎石の焼失痕から、8世紀に全部が焼け落ちたと推定される。瓦の出土書状況から、瓦は金堂・塔に一部使用されたが、屋根は檜皮葺と思われると云う。
2009/11/08 近江金勝寺 再訪。 近江金勝寺
近江常楽寺 再訪。 近江常楽寺
近江長寿寺 再訪。 近江長寿寺
近江善水寺 元亀2年(1571) 織田信長比叡山焼き討ち後、当山も焼き討ちを受け、本堂、仁王門、塔、六所権現社を残し全山焼亡と伝える。
 (以上の伝承<典拠は不明>から、何らかの塔婆が存在したものと推定される。蓋し湖南の天台の大寺の一山であり、同じく湖南の常楽寺・長寿寺、あるいは湖東 の天台三山その他の天台大寺の伽藍構成から見て、層塔のあった蓋然性は極めて高いであろう。
但し、塔婆の存在が遺構・遺物などで実証された訳でも、また絵図などの史料がある訳ではない。)
2009/11/18追加:
「忘れられた霊場をさぐる」栗東市文化体育振興事業団、平成17年(2005) より
 近江善水寺遺構図:中尾付近の図、不動寺は東尾の一郭か?、西尾の遺構は 情報なし。
 岩根山善水寺之景:明治30年頃の善水寺、『大日本名蹟図誌』に所収か?。
2009/11/08撮影画像
 近江善水寺本堂1  近江善水寺本堂2  近江善水寺本堂3  近江善水寺本堂4
 近江善水寺本堂5  近江善水寺本堂6
本堂の他にはわずかに以下などの堂宇のみが残る。
 善水寺元三大師堂:正徳3年(1713)再建。
 善水寺観音堂:元禄9年(1696)東尾観音堂を中尾岩久蔵院跡に移す、本尊は丈六聖観音坐像(平安期)を安置。
行者堂:明治9年飯道寺岩本院行者堂を移したものと云う。
なお、本堂内に以下の仏像を安置する。
本尊薬師如来座像(重文・平安期・正暦4年(993)の年紀あり)、梵天立像・帝釈天立像(重文・平安期)、
四天王立像<広目天・多聞天・増長天・持国天>(重文・平安期)、不動明王座像(重文・平安期)、兜跋毘沙門天立像(重文・平安期)
※以上十躯の一具像は、正暦年間の頃の比叡山根本中堂諸尊を模刻し当山に奉安されたものと伝える。
金剛力士像二躯(重文・平安期・旧仁王門に安置・仁王門は昭和28流失・西坂の途中に跡地あり・・・未見)
持国天・増長天立像(重文・鎌倉期・旧二天門に安置)、金銅誕生釈迦仏立像(重文・天平)
その他十二神将や客仏など多くの古仏を安置する。
近江少菩提寺跡 少菩提寺絵図2:「円満山少菩提寺四至封彊之絵図」:西応寺蔵
少菩提寺絵図部分トレース      少菩提寺境内概略図
2009/11/08撮影画像
少菩提寺石造多宝塔:重文・塔高448cm。
少菩提寺地蔵三尊;中尊は像高158cm・鎌倉期、両脇侍は南北朝期。
少菩提寺閻魔像:総高160cm、閻魔像高58cm。他4体を刻む。
少菩提寺一石五輪塔:少菩提寺西の阿弥陀石像(墓碑)が無数に散乱する山中にある。中世末期のものと推定される。
2009/11/18追加:
少菩提寺主要部は上記の石造物のある谷筋ではなく、この谷の東北の谷筋にあり、今般は未見。
上記の椿井権之輔の少菩提寺絵図2には三重塔があり、また近江の他の天台大寺の堂塔構成からみて、塔婆ほぼ間違いなく塔婆の建立があったと推定されるも、塔婆の伝承地 などについては未だ拝聴せず。
なお西応寺(少菩提寺禅祥坊の後身)、菩提禅寺(少菩提寺の遺仏と云う木造阿弥陀仏如来像・平安期・重文を有する)なども残る。
2009/11/05 祇園感神院 祇園感神院 推定多宝塔跡、祇園社本地堂本尊など(大蓮寺)
山城清水寺・子安塔 山城清水寺・子安
2009/10/18
「X」氏ご提供画像
阿波鯖大師堂多宝塔1
  同         2
阿波八坂山鯖瀬大師堂:海陽町鯖瀬、般若心経塔。
平成21年5月完工。近江石山寺多宝塔をモデルとする。正規の木造塔(和様を用いる)。
(但し「背面は扉と窓を省略し白壁」とする。)
大きさは不明であるが、稀に見る風格の多宝塔であろう。
もともと、鯖大師堂は行基庵(行基来錫と伝える)と称したと云う。享保2年(1717)真言宗より曹洞宗に転宗、昭和16年再び真言宗に転宗し、鯖大師教会と称し、四国霊場の番外となる。現在は弘法大師を本尊とし、行基菩薩は脇侍と云う。「阿波名所図会」では「行基さん」とある。
要するに四国遍路が隆盛になり、(時流の流れに乗るというような意味で)行基が弘法大師に替わったという見解があり、 事情は恐らくそのとおりであろうと思われる。
阿波立善廃寺心礎
阿波隆禅寺円形二重小塔
阿波立善廃寺心礎・隆禅寺円形二重小塔・隆禅寺多宝小塔
2009/10/18 下総光明寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
平成4年建立。木造塔、伝統様式(一部唐様を混ぜる)で造作される。木割はやや貧弱な印象を受ける。屋根黒褐色彩色銅板葺。高さ約14m。
 多宝塔図1     多宝塔図2「X」氏ご提供画像
補蛇落山と号す、真言宗豐山派。寺伝では文亀2年(1502)覚鑁(興教大師)を開祖とし、尊慶が開基したと云う。※北朝年号康永4年(1345)2月の陰刻がある板碑が墓地の奥にあると云う。<縦210cm、幅46cm>本尊は金剛界大日如来。
 光明寺阿弥陀堂:寛文年中(1661-73)の建立伝える、阿弥陀三尊像を安置、寺伝の「土中よりみずから光を放った」阿弥陀如来はどうかは不明。
その他近年の建立になる山門、本堂、鐘楼、開山堂などの堂宇を有する。
 光明寺山門     光明寺山内
船橋市飯山満:飯山満は中世以来の歴史を持つ地と思われる。
下総妙行寺六角二重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
建築時期不詳、RC造。詳細不詳。かなり大型の二重塔である。(昭和46年以前に建立と思われる)
この二重塔は大荒行堂背後に建つ。大荒行堂と二重塔は連結される。
 原木山大荒行堂     大荒行堂・二重塔1     大荒行堂・二重塔2
原木山と号す。天文7年(1538)円増院日進上人の開基、原木村40余戸を悉く法華とする。
宝暦12年(1762)中山法華経寺の火災の折、日法上人作の「日蓮大菩薩板御影」当寺に運ぶ。「火中出現防火日蓮大師の像」と称する。
寛政3年(1791)大津波により当寺および附近一帯は流失する。
現在、山門、本堂、鐘楼、祖師堂、庫裡を有し、裏には荒行堂、庭園などがあり、広い境内は美しく手入がなされている。
 原木山山門     原木山本堂1     原木山本堂2
  原木山祖師堂    原木山鐘楼      原木山庫裏
2009/10/17 池上本門寺 再訪。 池上本門寺
      池上本門寺日樹上人五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔
       池上南谷檀林
武蔵平間寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和58年竣工。RC。総高31.5m。一応外観は正規の塔建築として設計される。八角五重塔。
初重に金剛界五智如来像、真言八祖尊影、二重に両界曼陀羅、恵果阿闍梨像、弘法大師像、覚鑁上人像(興教大師)像を安置。
真言宗智山派大本山。川崎大師と通称する。多くの新造かつ大規模の堂宇から成り立つ。
要するに、構えやその精神は関東智山派の典型と思われ、近年の東京付近への人口集中とともに、時流に乗り現今の隆盛を見るに至ったものと思われる。
図    1   図      2:写真は「N」氏ご提供、1995/01/02撮影。
2009/10/10 近江大宝天王宮
 (現近江大宝神社)
◆当社には三重塔があったものと推定されるが、詳細は全く不明。
◆鎮座は大宝元年(701)と伝える。当初は小平井村信濃堂<シナンド>(栗東市小平井)に降臨、霊仙寺村(栗東市霊仙寺)を経て、最終的には綣 <まき>村(現在地)追来社(伊不伎社)に鎮座と伝える。社号は大宝天王宮と号する。(「神社啓蒙」「和漢三才図絵」「牛頭天王暦編」等)
平安前期から天台宗が入り、その影響化に入ると思われる。
永亨5年(1433)足利義教公社領寄進、天文14年(1545)佐々木定頼社殿修復。
元亀2年(1571)織田信長山門破却、神領没収。江戸幕府からは庇護を受け、社殿修復がなされる。
正徳3年(1713)には、本殿、境内社34、三重搭大日、護摩堂、薬師堂、神楽堂、鐘桜堂、経堂等があったという。(根拠の資料は不明)
江戸初期には京都北野徳勝院(北野祠官三家の内の一院)末寺である神応院が別当となる。
明治の神仏分離令で、佛眼寺(京都四条道場金蓮寺末寺、大宝山と号す大宝天王宮)と分離、大宝天王宮を大宝神社と改号する。 別当神応院禪覺は還俗、足助武雄を名乗り、神主となり足助氏は現在に至る。 永正3年(1506)修理銘のある小津神社旧蔵本であった大般若経は焼き捨てられると云う。
◆「大宝神社所蔵品展」栗東歴史民俗博物館、平成10年 より
・「綣村旧領絵図」 :(江戸期)
南西から北東に中仙道が通じ、西に佛眼寺、東に天王社があり、参道がほぼ西やや北から東やや南方向に参道が続き、参道北に天王社社殿がほぼ南面して配置される。
入手した絵図は小さく不鮮明であるが、天王社社殿はほぼ現状のままと思われ、塔は勿論顕著に仏堂と思われる堂宇は絵図には認められない。この絵図で見る限り近世には顕著な仏堂は退転していたものと思われる。絵図西方の佛眼寺・地蔵堂及び南方の西琳寺・本覺寺は現存する。
・現境内に次の案内掲示がある。
 江州栗太郡綣村大宝天王社内(元亀以前のもの)
鳥居 (社参道すじ) (馬場) 社家西坊 護摩堂 薬師堂 岩神神楽堂 門 拝殿 十禪師 本社 若宮権現 月読宮 鐘楼堂 経堂 御池 熊野権現その他<計8社> 三社 神輿堂
 (社参道すじ)三重塔大日 蘇民将来 その他<19社>
・・・但し要約
 ※これの典拠は不明、また方位や詳細な位置関係も不明で伽藍配置は明確にはできない。
以下を含む中世・近世に古文書約1600点を残す。
・「侍衆寺坊衆宮衆名書」(文安3年・1446)・・・多くの時衆と思われる人名が書かれる。
・「大寳天王縁起」(桃山)、・「綣村天王社古帳」、・「今宮應天大寳天王社神主職譲状」(室町)、・「当社天王社御定式」(正長元年・1428)、・「天王社従先規并西坊家法」(延宝7年・1679)
20数体の神像が伝わるも牛頭天王の像は伝わらない。
佛教関係の堂宇は現存しないが、次の仏像・什器が伝わる。
・薬師堂本尊薬師如来(本地仏、綣区会議所安置、江戸期)
護摩堂本尊不動三尊像(平安期、綣区会議所安置)
木造阿弥陀如来坐像(鎌倉、神宮寺である仏眼寺左脇檀に安置、伝来不詳)
御正体(懸仏)残欠(鎌倉〜室町、纔かに本殿内陣に3体が残る)
大宝天王宮梵鐘:寛文11年(1671)、冶工国松庄右衛門正次
◆大宝天王宮現況
大宝天王宮参道:西から撮影、奥の左手に社殿があり南面する。参道すじに三重塔があったとされ、またこの参道が中以来のものならば、この参道の左右に三重塔があったものと思われる。
四脚門(両築地付):享保3年(1718)京都宝鏡寺門跡の寄進
・追来(おふき)神社本殿(重文・弘安6年<1283>建立:棟札現存):一間社流造としては日本最古の遺講と云う。桧皮葺。古来は意布伎(伊不伎)神社と記される。 社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。中世以降若宮権現と称する。祭神は伊吹山の神と云う。社内には木造狛犬一対(鎌倉期、重文)が伝えられる。
  追来神社本殿1      追来神社本殿2      追来神社本殿3      追来神社本殿4
稲田姫神社本殿:安土桃山期、写真右は本社
時宗大宝山佛眼寺:神宮寺、近年本堂、山門、鐘楼 を改築     佛眼寺地蔵堂:近年の改築
近江金勝寺 近江金勝寺
近江狛坂寺跡

近江狛坂寺跡

2009/09/29 播磨野条廃寺 ○「古代寺院からみた播磨」:昭和初期には東西70m、南北80mの範囲を土塁状様のものが方形に囲み、その中に土壇があった。薬師寺式とされる。
昭和32年に西塔?跡発掘:1辺10mの基壇を確認。8世紀中葉建立。
○「X」氏情報:伽藍配置を記した説明板が土壇の傍らに立っている。
○「古代洲聚落の形成と発展過程」:「下里川東岸に位置し、伽藍配置の現状をほとんど完存している。ただし心礎の出土なく・・・」
「東西70m、南北80mの回廊をめぐらし、内区に2基の塔婆が東西に並立し、中央に金堂があり、背後に講堂があったと推定される。現状では回廊・西塔址・金堂址は明らかに認められるが、東塔址・講堂址はやや明瞭を欠いている。中門址は金堂正面において低平となれるため容易に推測できるが、南大門址は認めるに至らない。・・・注目すべきは東塔と西塔址の出土瓦は質量とも顕著な差があることで、東塔址は塔婆ではなくて他の堂舎であったことも推定されるし、あるいは早くから塔は焼失し、他の堂舎が代建されていたと考えるべきか。講堂址は極めて狭長なもので、回廊に接していない。・・西塔址・金堂址には未だ礎石が残存し埋没されているものと思われる。・・ ・面白いのは西方に更に回廊があることで、東西の回廊は北方で連結されていたと推測される。西方回廊内には・・・現状ではその西端に約6mの方形土壇が明瞭に認められるのみで、瓦および礎石の一部が表れている。
 野条廃寺実測図(「古代聚落の形成と発展過程」からトレースおよび加工)
2009/10/05追加
○「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
現存の遺阯一郭のプランは東西約63m約76mの凡そ方形を示し、これを周縁づけて幅約4m高さ約30cmの土塁が繞っている。
この中央に不正形の東西約30m南北約21m高さ約50cmの土壇(B)が残る。その南方には土饅頭形の約15m×14mの土讃(A)も残す。これ等土壇及び付近では多くの古瓦が検出される。
更にこの西方約20m付近には上に述べた土塁と同じ規模のものが約70mに亘り稍湾曲して残存する。更に少し西に径約6m高さ50cmのコンリン塚と称する土盛があり、若干の古瓦を出土する。しかし、この土塁及び塚と主要伽藍との関係は全く手掛かりがなく不明とするしか無い。
礎石は全く存しない。また文献・口碑・伝説の類も皆無である。
 播磨野条廃寺実測図2
○加西市のサイト:野条廃寺 より
 播磨野条廃寺塔基壇:西から撮影
○加西市のサイト:発掘情報 より
昭和14年頃には、付近の田畑に瓦が散布し、東西約70m、南北約80mの方形の土塁が巡り、その区画内に堂塔跡の土壇が残っていた。
昭和31年甲陽史学会によって発掘調査が実施される。調査の結果、基壇跡は一辺長9.7m、礎石の抜取痕から建物平面は方三間で一辺長5.4mの奈良期の塔基壇が判明する。
その後塔基壇は自然崩壊が進行する。そのため、平成20年12月から21年3月に確認調査を実施。
その結果、瓦は平安初頭とされる播磨国府系瓦が出土し、白鳳・奈良期の瓦は出土せず、塔の創建は平安初頭と推定される。
塔土壇は版築と判明、基壇化粧は川原石を乱石積した基壇で、その根石には小型の板石状の割石が並べられていた構造であることも判明する。またこれ等の化粧材の多くは火を受けた形跡を留める。礎石は全く残存しないが、今回の発掘でずべての礎石の根石の検出があった。
 播磨野条廃寺塔基壇2     野条廃寺西側基壇化粧     野条廃寺東側基壇化粧
なお調査後塔跡は保存のため盛土をする。
○読売新聞(2009年03月07日) から
 播磨野条廃寺跡
播磨一乗寺三重塔31
  同        32
  同        33
  同        34
  同        35
  同        36
  同        37
  同        38
  同        39
  同        40
  同        41
  同        42
  同        43
  同        44
  同        45
  同        46
  同        47
  同        48
  同        49
  同        50
  同        51
再訪。 →播磨一乗寺

護法堂 :重文、鎌倉もしくは室町前期の建築と推定。毘沙門天を祀る。一間社春日造、身舎側面一間。組物は出組、軒支輪付。
播磨一乗寺護法堂1     同        2     同        3     同        4
一乗寺妙見堂・弁天堂:三間社が妙見堂
妙見堂:重文、室町期もしくは桃山期の建立と推定。三間社流造浜床付。
蟇股と扉構は室町期か、木鼻・組物・妻飾など大部分は後補。
播磨一乗寺妙見堂1     同        2     同        3
弁天堂:重文、室町前期の建立と推定。一間社隅木入春日造。昭和18年解体修理で本瓦葺を現在の檜皮葺に変更。
播磨一乗寺弁天堂1     同        2     同        3
金堂;重文、寛永5年(1628)再建・桁行9間梁間8間。
播磨一乗寺金堂1     同       2     同       3
法華山本坊地蔵院   法華山隣聖院   法華山隣聖院隣地:隣聖院の隣にある廃坊跡か?
法華山坊舎新築;坊舎名未確認、近年までここは石垣のみ残る廃坊跡であった。
2009/10/05追加:
○「日本真景・播磨・垂水名所図帖」大正〜昭和初期
法華山三重塔図

播磨白国廃寺1
  同     2
  同     3
 :池中の土壇は円形の石積であったが、現在は方形のコンクリートで護岸される。
写真及び航空写真で分かるように池中の島には橋が架かるも、堤防には接続せず、島に立ち入りは出来ない。従って4個遺存すると云う伽藍石を見ることはできない。
島にある弁財天祠は現存と思われる。
 

附録:
 播磨隋願寺
 並びに
 播磨廣峯牛頭天王

「播磨上代寺院阯の研究」鎌谷木三次、成武堂、昭和17年 より
○白国廃寺:
白国の南方に弁天池(白国池)があり、池中に土壇が残る。土壇は東西約5m・南北約6m・現在の高さ約2mで、周囲は積石されていて、檀上に弁財天の小祠がある。さらに壇上および檀下付近に火中した伽藍石が4個遺存する。俚俗ではこの土壇を「塔の阯」と呼ぶと云う(長田亀松氏の言)。
白国池(土檀)を含む西方・南方は池と同一の台地にあり、かつここには疎らながら古瓦を出土する。
出土古瓦の文様は残欠ではあるが奈良末期の様相を呈する。ここに古代寺院が営まれたことは確実であろう。
 播磨白国廃寺土壇:南から撮影、戦前、土壇は円形に積石され、付近は一面の田畑であった。
 播磨白国廃寺地籍図:池中の土壇を含む点線の円付近が寺址と推定される。
 播磨白国廃寺付近地図:寺院推定地は小学校・幼稚園・宅地に 変貌し、戦前の面影はない。
 播磨白国廃寺航空写真:上の地図及び写真はGoogle地図
更に白国の地名は「新羅訓(シラクニ)であり、これは新羅人がこの地に宿したことに因る」(風土記)とあり、この地には渡来人が住し、この寺院の創建に関与した可能性が考えられる。
但し、想定される寺院跡地は現在、田畑であり池であり顕著な旧規を偲ぶものはない。
さてこの寺院跡については以下の史料がある。
「峯相記」には「白國山麓龜井寺有 是山陰中納言・・・安和年中炎上、後再興ナシ」とあり、中世には白國山麓に亀井寺があったことが知られる。
 ※「峯相記」は貞和4年(1348)頃成立。書名は峯相山鶏足寺の山号による。
近世(江戸期)の地誌類には以下のように記される。
「名所拾録」(元禄5年)では「亀井寺旧跡・・・峯相記に見えたり。白國の地今池となる」
「播州續古所拾考」では「同村(白国村)龜井寺跡 村より5町西の方。・・・この他龜井寺堂塔跡は同村大地(池?)の内。等(東か)西4方(間?)南北3間4尺の芝地残。」
「播磨諸所随筆」では「龜井寺跡 芝地あり同村(白国村)より5町西の方。大池の内。4間四方。」
「播磨古跡便覧」(寛延3年)では「龜井寺旧跡 国衙庄白国村に跡あり、山陰中納言の愛子の開基。峯相記に見えたり。」
「播磨鑑」では「龜井寺 国衙庄白国村に有寺跡。今に布目の古瓦あり。村より5町酉の方。堂塔の跡は同村大地(池か)の□(内か)。東西4間南北3間4尺の芝地残る。」
「村翁夜話集」では「大池の内、空地右は龜居寺塔之跡と申伝候。」
即ち白国廃寺は伝承の通り亀井寺跡であると見て差し支えないであろう。また堂塔の跡として芝地(方4間・7m内外)が大池の中に残っていることが知られる。
但し古代寺院である白国廃寺が亀井寺に繫るのか、古代寺院跡に亀井寺が建立されたのかは良く分からない。
 ※白国廃寺西約500mに北平野廃寺がある。また白国廃寺の北の山塊は廣峯山でであり牛頭天王が祀られ、北東のには増位山が迫り隋願寺がある。


○附録:増位山随願寺
厩戸皇子(聖徳太子)が高麗僧慧便に命じ、増位寺を開基し、後に行基が中興する。当初法相宗であったが、承和元年(834)天台宗となる。(乾元元年・1302「播州増位山随願寺集記」)
播磨天台六山の一つとして大いに隆盛する。
天正元年(1753)別所長治によって攻略され、全山焼失と云う。
近世初頭には姫路城主榊原忠次が菩提寺となし、伽藍を復興する。近世は寺領500石を有し、この期も30坊を数えると云う。
平成21年江戸期の建築ながら、以下5棟が重文指定になる。
 増位山絵図:播州名所巡覧図絵
・本堂(附:厨子、鬼瓦):桁行7間梁間9間、入母屋造本瓦葺。元禄5年(1692)の大鬼瓦銘がある。
唐様を用いる。
 播磨隋願寺本堂1       同       2       同       3
・経堂(附:石碑):3間×6間、平面は礼堂と正堂とを並べた撞木造。
 播磨隋願寺経堂1       同       2
・鐘楼:享保3年(1718)の瓦銘、3間×2間、入母屋造本瓦葺。
 播磨隋願寺鐘楼1       同       2
・開山堂(附:厨子):3間×3間、寛永18年(1641)と承応3年(1654)の墨書がある。屋根本瓦葺。
宝暦11年(1761)、同13年の銘がある。
 播磨隋願寺開山堂1       同        2
・唐門:榊原忠次墓所唐門、享保16年(1731)の瓦銘がある。屋根本瓦葺。
 播磨隋願寺唐門1       同       2
 常行堂(念仏堂):屋根修理中であるも、おそらく資金不足で難渋と思われる。
 隋願寺推定坊舎跡;旧参道付近にある。
○附録:廣峯牛頭天王(廣峯山)
天平5年(733)帰朝した吉備真備が都への途中この地で神威を感じ、天平6年白幣山(廣峯山奥)に異神(牛頭天王)を祀ると云う。天禄3年(972)現在の広峰山頂に遷座。
延喜式神名帳には記載を見ないと云う。
貞観11年(869)京都祇園観慶寺感神院(祇園社)に牛頭天王を分祠と云う。<貞応2年(1223)の文書には「祇園本社播磨国広峯社」とあると云う。>但し、祇園感神院の信仰は御霊信仰の側面が強いが、廣峯では農業(稲作の豊饒)信仰の側面が強いと云う。
近世には天王山増福寺、広嶺山増福寺と称し、江戸東叡山寛永寺末寺であった。この頃社家は34家(「廣峯三十四坊」)を数えると云う。(寛文年中33家、安永年中25家)江戸後期には廣峯(大別当)・肥塚・魚住・小松原・椙山・谷・谷口・神崎・金田・竹田・柴田・内海・福原・粟野・大坪・芝・馬場などが知られる。また社家の下には半農の「手代」が50数家あり、社家の支配下にあった。
明治維新で社領72石などは上地、神職の世襲禁止などで、社家・手代の多くは下山、転職していった。戦後も産業構造の変化により、殆どの神社関係者は下山する、現在社殿の南、東、背後などに社家の跡地・石垣・石階・土塀・廃屋などを残す。(肥後家・魚住家の2家が辛うじて残ると云う。)
 ※なお、備後江熊(えのくま)祇園牛頭天王社(戸手天王社、戸手祇園社)の社伝では以下のように云う。この社は天武天皇治世の頃創建され、天平6年吉備真備が当社を播磨白幣山に勘定したのが現在の廣峯牛頭天王と云う。 なお当社別当は早苗山天竜院天王寺と称し、本地堂が現存する。
 廣峯山絵図:播州名所巡覧図絵
 廣峯牛頭天王拝殿本殿     拝殿本殿平面図
・本殿:重文、文安元年(1444)再興、桁行11間、梁間3間、正面1間通り庇付き、一重入母屋造、屋根桧皮葺。を含む)である。平面は内陣(内々陣)、外陣 (内陣)及び庇(外陣)からなる。内陣は桁行2間を一室として三社が並列する。各社とも一間社流造見世棚付きの宮殿を置き、他の一間を仏間とする。
これは基本的には山城宇治上神社本殿(国宝・三社を覆屋入れる)の形式であるが、さらに三社を囲って横に仏座をつくり、外陣と庇を付け、脇に附属室(供物所、神饌所)を 付設した複雑な構造を持つ。
 廣峯牛頭天王本殿1       同        2       同        3
・拝殿:重文、長禄3年(1459)造営、寛永3年(1626)大破し、姫路城主本多忠政が修理。桁行10間、梁間4間、一重、入母屋造、屋根本瓦葺。 本殿に比して、東端を欠き桁行10とする。
平面は8間の身舎の四方に庇をつけ、また正面には縋破風を付けて縁を取り込む。
 廣峯牛頭天王拝殿1       同        2
 廣峯牛頭天王神門:元禄10年(1697)建立
 廣峯牛頭天王社家跡       同     社家跡2
書寫山圓教寺 再訪 書寫山圓教寺
2009/09/06 尾張大御堂寺 尾張大御堂寺五重塔跡
2009/08/08 瀬戸田耕三寺 瀬戸田耕三寺五重塔・三重塔 再訪
備後向上寺三重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
再訪
広島二葉山平和塔 仏舎利塔 (日本山妙法寺慰霊塔) 、昭和41年落慶。日本山妙法寺が建立し、広島市に寄贈と云う。内部には仏舎利3粒(インド・ネール首相寄贈、セイロン国寄贈、モンゴル仏教徒寄贈)を奉安。
2009/06/26 上野柳澤寺五重塔11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
  同      仁王門
  同      本堂
  同      赤門
  同      客殿
平成12年(2000)3月落慶。総高21.5m、構造は鉄骨であるが、木造塔(檜)と云う。地下は納骨堂。初重には裳階を付設。屋根銅板葺。本尊釈迦如来。総工費約7億円。
画1柳澤寺ご提供:2000/12/09画像使用許諾
船尾山と号する。天台宗比叡山延暦寺に属する。本尊は千手観音。近世、山子田村に30石の寺領を有する。
現在、本堂(観音堂)・客殿・鐘楼・仁王門・表門・山王堂・書院・阿弥陀堂・五重塔等を配する。
寺伝では弘仁年間(810-824)最澄が東国布教の際、群馬太輔満行の協力を得て、船尾山麓に楊澤寺を建立したのが始まりと伝える。千葉常将の兵乱で焼失もあったが、中世には談義所も置かれ、この地方の天台宗の中では枢要な寺院であった。
近世に入っても叡山の直末として栄え、天明6年(1786)の末寺書上では末寺15ヶ寺を数える。
(平凡社刊「日本歴史地名体系10・群馬県の地名」から要約。)
画2:2004/8/5「X」氏撮影。
赤門:客殿の前にある。「開かずの門」、宝暦年中の建立。
客殿:寄棟瓦棒葺、延宝年中の建立。
仁王門前には旧参道と推定される道があり、その左右には坊舎があったものと推定される構えが残る。
上野水澤寺六角二重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
  同           8
  同           9
天明7年(1787)建立、六角二重塔の構造を採る。下重一辺9尺(2.7m)・上重一辺4尺5寸(下重の半分)。基本的に唐様の意匠を用いる。下重は吹放で、中央に回転軸を持った六角輪転座を設け、そこに六地蔵を安置する。この六角輪転座は経蔵の輪蔵の形式を用いる。上重には大日如来を安置。屋根銅板瓦棒葺、多宝塔風相輪を載せる。
本堂:本尊十一面千手観世音菩薩安置、天明7年建築、屋根方形造銅板葺、正面に唐破風の向拝を付設。
 上野水澤寺本堂1     同    本堂2     同    本堂3     同    本堂4
仁王門:天明7年の建築、間口三間・奥行二間、平板銅板葺重層入り母屋造。
 上野水澤寺仁王門1     同    仁王門2     同    仁王門3
上野満行権現三重塔 上野榛名山巌殿寺(満行大権現)三重塔
上野不動寺多宝塔跡 上野松井田不動寺多宝塔
側柱礎石は完存と思われる。
初重平面は3間、中央間と両脇間は等間であり、1間は約130cm(芯-芯)
側柱礎石の大きさは100cm内外×70cm内外を測る。
参考:上野妙義権現 上野松井田不動寺多宝塔の中の白雲山石塔寺の項参照
2009/06/25 武蔵三学院三重塔 武蔵三学院
武蔵成就院三重塔 武蔵成就院
武蔵
寺内廃寺遺構模型1
  同        2
 :左は金堂跡、右は塔跡
寺内廃寺復元模型1
  同        2
寺内廃寺出土土器1
  同        2
寺内廃寺位置図
「X」氏撮影画像・情報
塔基壇西半分は破壊とされるが、写真によるとかなり明瞭に土壇が残されていると思われる。
金堂跡土壇は微かなマウンドが残り、講堂跡土壇は明瞭に残る。
  □ 武蔵寺内廃寺塔跡1    同        2
寺内廃寺は8世紀半ばに創建され、10世紀半ばまで存続したとされる。「花寺」と墨書された土器が出土した。
1991年〜1992年の発掘調査(ゴルフ場造成に伴う)で、寺地区画溝を北辺で570m、西辺200m、東辺170mに渡り確認。
寺院地面積は約129,000uとされる。
平成4年の発掘調査で平安期の概ね良好に遺存する基壇建物跡4棟などを発掘、この4棟は金堂・講堂・中門・東塔跡と推定された。
なおこの基壇建物は、ゴルフ場の残存緑地として現状で保存され、かつ町の史跡として指定されているが、民間の管理地なので、フェンスで囲み、施錠され、自由には見学できない状態と思われる。
平成8年の発掘調査で寺内廃寺跡に続くと推定される、道路跡およびその側溝を確認。
伽藍配置は南北に中門、金堂、講堂が並び金堂東に塔を配置する。
推定講堂基壇規模は、推定で幅21m、奥行18mを測り、残存礎石の位置から、講堂は桁行3間、梁行4間の南北に庇の付く建物とされる。
推定金堂基壇規模は、推定で幅15m、奥行13.5mを測り、残存礎石の位置から、桁行5間、金堂は梁行4間の四面庇付の建物とされる。
推定中門:礎石は確認されなかったが、桁行3間、梁行2間の八脚門が推定された。
金堂東側の基壇建物跡は塔と推定された。但しこの遺構は後世の林道開削で基壇の西半分が破壊されている。
基壇は、現況で30〜40cmの高さをもち、およそ12m四方の規模と推定される。礎石は残存せず、基壇の中央に径2.8mほどの心礎の掘込みが確認された。基壇の軸が他の基壇と比べ西側に約 15度振れている。
また伽藍中心部の東は「東院」などの付属施設があったとされる。
サイト「報告書オープンブックス」に「江南町埋蔵文化財発掘調査報告書 第13集 寺内遺跡範囲確認調査関連報告書 2002」(PDF)が掲載されている。(しかも利用条件は「無条件」とされている。)
  □ 寺内廃寺概要図:上記より転載(部分)
2008/11/04追加:「渡来人と仏教信仰 武蔵国寺内廃寺をめぐって」柳田敏司、雄山閣出版、1994 より
・東塔:金堂中心より心礎まで21m、金堂基壇と塔基壇は約6mとかなり接近する。また伽藍中軸線に対し塔の中軸線は西に約15度傾斜する(理由不明)。基壇西側は林道で大きく削平される。基壇化粧は川原石積基壇と推定される。基壇上部もかなり削平され礎石は1個も遺存しない。わづかに径2.8mの心礎抜取穴と根石の礫が残存する。また心礎破片と考えられる礫片もある。基壇一辺は約12mと推定される。
・金堂:土壇を残す。基壇化粧は破壊され不明であるが、川原石積基壇であったと推定される。基壇規模は約15×13.5mと推定される。礎石はかなり(12個)残存し、その他抜取穴・根石も多く残存する。金堂建物は5間×4間(三間四面)であり、正面3間と背面1間に階段がある。建物四面には縁が廻る。
・講堂:金堂の背後約45mにある。22×16m高さ50〜60cmの土壇を残す(基壇規模は21×18mに復原)。礎石も多く遺存し、また後世の開墾で破砕されたと思われる破砕礫が散乱する。建物は礎石から3間2面庇切妻の構造と推定される。
・その他中門・南門・参道跡の発掘を見る。なお寺院は8世紀前半から10世紀後半まで存続したと推定される。
 武蔵寺内廃寺遺構図(部分)    武蔵寺内廃寺東塔基壇    武蔵寺内廃寺金堂基壇
2009/07/04追加:
熊谷市立江南文化財センター談:「寺内廃寺は史跡指定され保存されている。現状、現地はゴルフ場内であり、立入ることは出来ない。またゴルフ場外から塔土壇などをみることは出来ない。」
撮影画像は何れも、江南文化財センターに展示。
武蔵
東小平中山廃寺塔跡11
  同         12
  同         13
  同         14
  同         15
  同         16
  同      実測図2
  同      発掘図2
平成15年の児玉町総合運動公園造成工事の先行発掘調査で判明する。
塔礎石のみ、現在地に移設し、復原する。
塔跡では塔土壇および原位置を保つ心礎・四天柱礎石3個、脇柱礎石4個が発掘される。
初重1辺は3m。柱間は等間と思われる。
心礎は一段式、大きさは115×105cm、上面に径25×深さ15cmの円孔を穿つ。(法量は「X」氏による)
出土瓦から奈良期後期の創建と推定される。
塔跡のほか、金堂(仏堂)跡・講堂跡なども検出と云うも詳細は不詳。
 武蔵中山廃寺心礎   同    復元塔跡   同    発掘塔跡   同    塔跡実測図
  ※写真:発掘塔跡、塔跡実測図は現地説明板から転載
  ※復元塔跡は武蔵成身院の西すぐ、武蔵成身院百体観音堂(三匝堂)の北すぐにある 。
2009/07/04追加:2009/06/25実測
心礎の大きさは110×115cm厚さは不明、径19×17cm(深さ)の円孔を穿つ。
側柱脇間100cm、中央間100cm、四天柱間も100cmを測る。(何れも芯-芯)
武蔵歓喜院多宝塔 武蔵歓喜院
世良田長楽寺(東照宮) 上野:世良田長楽寺(東照宮)
群馬栗原邸五重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
平成2年完成。個人邸の庭にある。総高7.3m。米松・檜使用。個人が独力で建造。雲肘木を使用。
(2009年現在)製作者は既に他界し、手入れはされていないと思われ、小塔は少々荒れる。
太田市尾島町出塚
上野明王院ニ層塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     不動堂
○「尾島町近世社寺建築調査報告書」新田郡尾島町教育委員会、平成10年 より
大師堂と称する。建築年代を示す史料はないが、この建物は明治初年に住職が購入したと伝える。階段がないことや天井裏の造作から当初は平屋建であったと推定される。2階は明治初年に購入したときに増築されたものと思われる。建築の特徴から見て、江戸中期の建物と推定される。
ニ層塔、1階は平面3間(5.65m)、2階は平面1間(2.82m)。<平面図>
屋根銅板葺、1階軒は船(せがい)造で持ち出した1軒半繁垂木、2階半繁垂木。
1階は側柱を方柱とし、舟肘木を置く。内部には4本の円柱を建て、2階の側柱となる。2階には擬宝珠勾欄を廻らす。
1階円柱(四天柱)内に須彌壇を置き、厨子を安置する。天井は1・2階とも格天井で彩色を施す。
 上野明王院大師堂平面図      同   大師堂1階内部      同   大師堂2階内部
○明王院は呑嶺山明王院安養寺と号す、真言宗豊山派。
寺伝では、康平4年(1061)源頼義が開基、頼空上人(大和興福寺)を開山とする。
新田義重が中興し、元弘3年(1333)新田義貞が 伽藍を整備と云う。江戸期の絵図では、2間巾堀を廻らす百余間四方の境内地と、その周辺に十二坊の跡地の位置等が示されていると云う。
「新田触不動」として知られる。また寺域は新田義貞屋敷跡と推定される。(但し確証はない)
上野延命寺宝塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
建築年代不明(ごく近年と思われる)。RC造。万霊供養塔「常寂光殿」と称する。納骨堂であろう。
天台宗。伊勢崎市曲輪町。

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