上 野 榛 名 山 巌 殿 寺 (満 行 大 権 現)  三 重 塔

上野榛名山巌殿寺(満行大権現)三重塔


榛名富士:但し榛名山巌殿寺(満行大権現)とは殆ど関係はないと思われる。

榛名山三重塔

元の塔は慶長5年(1600)の建築と伝えるも、腐朽し、江戸末期に改築・明治2年に完成と云う。
概ね和様で唐様を混ぜる。一辺3.5m、高さ16m、銅板葺き。
初重内部は四天柱の後2本があり、神棚を設け、仏像は撤去されていると云う。
現在は神宝殿と称すると云い、復古神道の象徴とも云うべき天之御中主などを祀ると云う。
上野榛名山三重塔11
  同        12
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        :左図拡大図
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上野榛名山三重塔21
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2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
 榛名山三重塔00:絵葉書、大正9年5月2日の記念印あり

榛名山巖殿寺の略歴

中世には「満行権現」、別当を榛名寺、榛名巖寺、榛名山満行寺、榛名山寺、巖殿寺などと称する。
近世には榛名山巖殿寺、満行大権現と称する。満行権現の本地は将軍地蔵とされる。

延喜式神名帳にその名があると云う。その当時・この地のどこかに榛名神社なる社があったのであろう。
但し、中世・近世に文献史料として残るものは満行権現(榛名寺・巖殿寺など)の記録であって、決して榛名神社のそれではない。
蓋し、式内榛名神社なるものは中世には廃絶していたものと考えるのが妥当であろう。

榛名神社巖山遺跡(榛名神社境内)
近年、小金銅仏(地蔵菩薩立像)などの遺物が採集され、建物礎石も確認されたと云う。おそらく寺院跡であろうとされる。
土器片から平安末期の遺跡とされる。

「榛名山邨誌」、「頼印大僧正行状絵詞」によれば
承元四年(1210年)、快良が初代座主に就任、以降、座主は関白道長の子孫が代々受け継ぐと云う。
南北朝期、座主快忠父子は新田氏、執行頼印は足利氏と結び、抗争する。
応安四年(1371)快忠父子は戦死し、執行頼印が座主職を兼帯するという。
当時榛名山は修験の道場としても栄え、一山3100坊と称する。
その後、戦国期には榛名山寺は荒廃し、座主職も空位となる。

慶長19年(1614)、天海僧正の手で「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、復興される。
同年、中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に補任。光明寺は東叡山寛永寺末。
寛永10年(1633)、満行院が法度に背き、欠落し、以降光明院が別当を兼務す。
別当に次ぐ衆徒に中之坊(神護院)、満福院、金剛院、円乗院、実相院の5ヶ寺が組織される。
中之坊は満行院・大坊とともに慶長以前の修験とする。(満福院も慶長以前の創建で、以外は学頭の創建)
吟味役は大坊・般若坊が勤める。以下年寄、脇年寄、行事、山見役、など多くの役職があり、御師が組織化される。
享保19年(1734) 門前集落人口は567人を数える。
天保14年(1843) 門前戸数86戸のうち、宿坊は73戸と云う。(最盛期は94坊と伝える)

2005/12/06追加:「慶応義塾図書館所蔵江戸時代の寺社境内絵図 下」より
 上州榛名山略小図:江戸後期

神仏分離

慶応4年(1868)3月神仏判然令発布。
同年7月神仏判然は神か仏かを迫るもので、時代の変革とともに御師の死活問題であり、御師だけの集会が頻繁に行われる。
同年8月岩鼻県(高崎市岩鼻)より堂塔、仏像、仏具の取片付けが下命される。
同年9月光明寺立会いの上什物等の受渡しが行われ、榛名神社が創建される。
 ※復古神道の常套手段で、廃絶した式内社を「権現」に付会し、旧に復すると称する。実態は寺院の簒奪である。
明治元年11月学頭・別当恭了が還俗・神主となる。最上斎宮と戒名。他の社僧も還俗。
  祭神である「元湯彦命」(満行権現・良く分からない)を廃し、現在の火産霊神と埴山姫神とする。
   ※この現在の祭神は復古神道による捏造であろう。
    「榛名山志」では東殿・饒速日尊、中殿・元湯彦命、西殿・熟真道命とする。
明治3年5月岩鼻県から神仏分離取締・新居守村が赴任。仏像・仏器など破壊。神主は鐸木三郎。
明治5年修験道廃止。
明治6年困窮した御師たちは、杉並木(八本松から惣門までの間)の伐採許可を群馬県令に提出、認可され、伐採する。
明治7年配札勧財取締の通達により、御師は収入源をほぼ失い、困窮する。
明治14年榛名神社教会の設立認可。
昭和27年神道大教榛名大教会と改称。・・・・これは明治以降に強制された新興宗教「国家神道」の亡霊であろう。
 ※Webによれば、現在榛名では以下の教会が所属する。
 榛名大教会、 榛名眞徳坊講社、榛名般若坊講社、榛名吉本坊講社、榛名孝善坊講社、榛名宝蔵坊講社、榛名新宅宮之坊講社、
 榛名宮之坊講社、榛名東之坊講社、榛名東泉坊講社、榛名大龍坊講社、榛名宮本坊講社、榛名大坊講社、
 榛名善徳坊講社、榛名本坊講社、榛名瀧之坊講社

現伽藍

・随身門:重文、弘化4年(1847)上棟、三間一戸八脚門、入母屋造銅板葺:旧仁王門であり、仁王像は明治の神仏分離で破却。
 満行権現仁王門1     同       2
・神幸殿:重文、安政6年(1859)建立、白木。
 満行権現神幸殿1     同       2
・双龍門:重文、安政2年(1855)建立、一間一戸四脚門、入母屋造屋根銅版葺、正面と背面に千鳥破風、四面に軒唐破風を付設。
 満行権現双龍門1     同       2     同       3
・神楽殿:重文、明和元年(1764)再建。
 満行権現神楽殿1     同       2     同       3
・国祖社:重文、享保年中(1716〜35)建立、3×5間、入母屋造屋根銅板葺、妻入、正面向拝一間付設
    ;旧本地堂(本地は将軍地蔵)であり、御祖霊嶽から移転する。
・額殿:重文、文化11年(1814)建立、入母屋造銅板葺、北面は国祖社に繫がる。
 満行権現国祖社・額殿
・本殿:重文、文化3年(1806)再建、3×2間、権現造銅板葺
・幣殿:重文、文化3年(1806)再建、1×3間
・拝殿:重文、文化3年(1806)再建。以上3棟で本社をなす。
 満行権現本社1     同     2     同     3     同     4     同     5     同     6     同     7
          
門前社家町に以下の近世宿坊建築が残ると云う。
・本坊(鐸木家):主屋(江戸中期)・門(薬医門)
 満行権現別当所(本坊)門     同         屋敷
・善徳坊(門倉家):主屋(江戸中期)
 満行権現善徳坊
・般若坊(一宮家):主屋(江戸後期)・長屋門(赤門)を残す。


2006年以前作成:2012/06/10更新:ホームページ日本の塔婆