近  江  金  勝  寺  ・  近  江  狛  坂  寺  跡

近江金勝寺・近江狛坂寺跡

近江金勝寺

近江金勝寺概要

金勝山大菩提寺と号する。通称湖南アルプスと呼ばれる金勝山の山上にある。
創建については以下の諸説がある。
・「寺伝」では天平5年(733)良弁が、聖武天皇の勅を奉じ、紫香楽宮の鬼門鎮護のため創建したと云う。
・「類聚三代格」の寛平9年(897)太政官符では、金勝寺は金粛菩薩の霊地であり、ここで修行していた興福寺願安が弘仁年中(810-)伽藍を建立し、金勝寺と号したと云う。
・「興福寺官務牒疏」(嘉吉元年<1441>)では、白鳳元年(672)役小角が修行し、養老元年(717)金粛菩薩が開基したという。
 ※金粛菩薩とは良弁のことと解釈するのが通説とされる。
 ※2010/02/18追加:
 「興福寺官務牒疏」は椿井政隆による創作・偽書(椿井文書) であり、信頼をおくことは出来ない。慎重な史料検討が必要である。
・「続日本後紀」では、天長10年(833)「金勝山大菩提寺、定額寺に列する」と云う。
後に天台化し、往時は、山中に36坊、周囲には25別院があったとする。(別院の幾つかは現在も法灯を伝える。)

近江金勝寺絵図など

2007/12/24追加:
○金勝寺四至絵図

「興福寺官務牒疏」:「牒疏」による15世紀の金勝山の実態は「大菩提寺、・・号金勝寺、・・僧坊山上36院、・・」「観音寺、・・在東南隅、号阿星山、僧坊24宇・・・」「如来寺、・・在金勝山麓、僧坊6宇・・・」「鳴谷寺、在同処、僧坊5宇・・・」「金胎寺、在金勝山下、僧坊9宇・・・」「観応寺、在・・北側、僧坊15宇・・・」「善応寺、在・・北側山下広野、僧坊5宇」であったと云う。

金勝寺四至絵図:大講堂付近に三重塔を描く。・・・・・2009/10/17画像入替。
       (左図拡大図)
 

○「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006 より
 近江金勝寺概略図:現在の本堂・山門 がある平坦地及びその南東谷などに坊舎が展開していたと思われる。また本堂西の丘状尾根には古代伽藍の平坦地がある。ここに「金勝寺四至絵図」(上掲)で描 かれる講堂・三重塔などがあったと推測される。この地点は発掘調査され遺構が出土する。(後述)
近世には衰微する。現在は山上に仁王門、本堂(本尊釈迦如来・平安・重文)、二月堂(軍荼利明王・平安・重文)、虚空蔵堂(虚空蔵菩薩・平安・重文)などを残し、山麓に里坊がある。他に木造毘沙門天立像(重文)も残す。

2009/10/16追加:
○「金勝寺」栗東歴史民俗博物館、1995 より

◇金勝寺四至絵図

金勝寺四至絵図2:左図拡大図 :紙本墨画、97.5×111.5cm、金勝寺蔵
 この絵図は天暦8年(954)の「近江国金勝寺」禁制の宣旨を絵画化したもので、絵画の成立は中世末あるいは慶長頃と推定される。

 ※上掲金勝寺四至絵図と同一の絵図

金勝寺四至絵図3:上記の部分図


◇興福寺別院金勝寺圖略

興福寺別院金勝寺圖略:左図拡大図
 紙本着色、113.6×80.4cm、金勝寺蔵

寛正9年(1468)画圖、寛文8年(1668)模写、天明3年(1783)模写・・とある。
椿井文書の通例の手口(中世文書を近世に書写)である。
 ※この絵図は偽書であり、信憑性はない。
南北の動石(揺石・震巌であろう)から中門を経て大堂に至る参道と中央の中門と北門と二天大門を繋ぐ東西参道の2参道が描かれ、もし現在の本堂が大金堂の位置を継承し、さらに東西参道が現在の金勝林道であれば、基本的に正確性は保持されているものと推定される。
また動石(揺石)のある参道と大金堂への参道は一切経蔵のところで「クランク」している(動石のある参道は直接中門の正面に直接至らず、一度中門の西に出て、それから右折して中門に至る構造)が、これも金勝寺境内概略図 (下掲)の「クランク」位置に良く符合している。
 おそらく、椿井は現地を踏査して描いたものであろう。
揺石の右に「浄嚴坊」があるが、伝浄厳坊墓は金勝寺境内概略図(下掲)に示した位置にある。

 ※2010/02/18追加:
  この絵図は椿井政隆による「椿井文書」の一つで、中世の文書と偽装する偽書である。

2009/11/18追加:
 注)栗東歴史民俗博物館「金勝寺」では以上の見解を示すが、疑問がある。即ち「金勝寺」では圖略の東西参道が現在の金勝林道の前提に立つが、圖略の東西は現在の金勝林道ではなく、現在の仁王門前を東西に横切る形であったとみるべきであろう。仁王門東の金勝林道の位置から仁王門前・現在の本坊(と称する簡素な寺務所の建物)を貫く通路の痕跡が現在もある。これが圖略の東西参道であろう。このように考えた方が圖略や金勝寺境内之景(明治期・後出)により適切に符合するであろう。

 ※揺石は「東海道名所圖會」所収「金勝山震巌」の項で絵入りで掲載される。
 圖會に取上げられるあるいは多くの人の集う絵を見ると、近世には揺石を経る参道は機能していたものと判断される。
 2009/11/18追加:大雑把に揺石(震巌)を探索するも不明(現存するかどうか不明)。

2020/09/13追加:
○「椿井文書−日本最大級の偽文書−」馬部隆弘、中公新書2584、2020 より
椿井政隆は、理由は不明であるが、衰退した山岳寺院である金勝寺を往時の姿として盛大に描くことに執心していた。
興福寺別院たる金勝寺の下部組織である「別院」を設け、勢力規模を誇張する。
現在、25別院の一つを描いた「金勝寺別院鈎安養寺之絵図」、「金勝寺別院宝光寺四至封彊界図」、「大般若寺繪圖」が残り、さらに宝光寺の下部である別院を描いた「上の笠堂絵図」(笠堂医王寺繪圖)、「下の笠堂絵図」(西照教笠寺)も残る。
 →鈎安養寺近江宝光寺     →椿井文書

2009/10/16追加:
○「忘れられた霊場をさぐる」栗東市教育委員会、平成17年 より

◇金勝寺境内概略図

金勝寺境内概略図:左図拡大図

図のA・B地点は発掘調査を実施。
A地点は8×6間の礎石建物(礎石の一部は抜取穴)と32×26mの基壇を発掘。
B地点は8×9mで南に張出しを持つ基壇があり3×3間の礎石を発掘。
「金勝寺四至絵図」からAは大講堂、Bは三重塔の遺構との見方も可能であろう。
9世紀後半-10世紀初頭の遺物が多く出土したことから、この時期の建物と推定される。

南谷をはじめ、東谷、西谷、北谷などにもかなりの数の坊舎跡と思われる平坦地がある。

2009/11/18追加:
 注)上図のクランクの位置について:栗東歴史民俗博物館「金勝寺」では、興福寺別院金勝寺圖略(上出)の東西参道が現在の金勝林道の前提に立つが、圖略の東西は現在の金勝林道ではなく、現在の仁王門前を東西に横切る形であったとみるべきであろう。仁王門東の金勝林道の位置から仁王門前・現在の本坊(と称する簡素な寺務所の建物)を貫く通路の痕跡が現在もある。これが圖略の東西参道であろう。このように考えた方が圖略や下図(「金勝寺境内之景」)により適切に符合するであろう。

2009/11/18追加: 「1985年度栗東町埋蔵文化財発掘調査資料集」栗東市文化体育振興事業団埋蔵文化財調査課、2001 より
 金勝寺調査地全体図:1985年のA地点・B地点の発掘調査が行われる。
 金勝寺B地点発掘図:B地点では3×3間の建物跡を発掘、三重塔跡であろうとも推定される。

◇金勝寺境内之景
 金勝寺境内之景:(「近江宝鑑」明治 所収) ・・・・(2009/11/19文意修正)
この図によれば明治期には、仁王門に面して東西参道があったと思われる。
仁王門南に東西参道を挟んで、石階がある(◎に南の文字がある石階)が、これが現在の南北参道であろう。
但し、現在の南北参道は石階ではなく、この意味では多少現状との整合性を欠くであろう。
なお本堂右(東)には日吉社および十二社が描かれるが、現在は退転し跡地は良く分からない。

近江金勝寺現況(2009/10/16追加) :▽は2009/11/08撮影画像
 金勝寺本堂1     金勝寺本堂2     ▽金勝寺本堂3     ▽金勝寺香水館
  :元禄期の建立で仮堂のままと云う。しかし仮堂としても本格的な建築であろう。
  本尊丈六の木造釈迦如来坐像(重文・平安)、左檀は良弁僧正坐像、右檀は願安上人坐像を安置。
 金勝寺二月堂1     金勝寺二月堂2
  :木造軍茶利明王立像(重文・平安)を安置、堂の天井に届く巨像である。像高360.5cm。
 金勝寺仁王門     ▽金勝寺仁王門2

 ◆金勝寺推定三重塔跡
 金勝寺虚空蔵堂金勝寺境内概略図(上掲)の B地点に(昭和末期)建立される。
  この地は発掘調査され、3×3間の礎石を発掘、塔跡とも推定される。(塔跡の可能性が高いと思われる。)
  木造虚空蔵菩薩半跏像(重文・平安)、木造毘沙門天立像(重文・平安)を安置。
  ▽虚空蔵堂俯瞰     ▽虚空蔵堂見上:三重塔跡推定地に虚空蔵堂が近年建立される。虚空蔵堂は檜造で建立される。

 A地点遺構(推定講堂遺構):虚空蔵堂上方に遺構が保存される。
  ▽A地点保存遺構:講堂推定地とされる。12個を越える礎石を発掘。
  ▽A地点発掘礎石:礎石は径約58cmの円座を造り出す。現在表面には復元礎石を展示する。(現地説明板中の写真)

 金勝寺参道1     金勝寺参道2
 ▽金勝寺南北参道東石垣:下記の年紀を刻む石が組み込まれている。
 ▽南北参道石垣延宝2年年紀:延宝2年(1674)の年紀が残る。
 ▽仁王門前東西参道跡:写真右端が推定東西参道跡

 ▽南谷推定坊舎跡平坦地:南谷には多くの平坦地が残る。
 
金勝寺から西方の山中に狛坂寺跡がある。(山中には以下のような遺物がある。)
 茶沸観音(狛坂磨崖仏と同時代と推定)    重岩・線彫の仏像


近江狛坂寺跡(史蹟)

金勝寺の西方山中に狛坂寺跡がある。     ※狛坂寺跡に至る山中
平安初期に興福寺願安が金勝寺別院として伽藍を建立(「狛坂寺縁起」)と伝えるも詳細は不明。
なお近年狛坂寺跡から白鳳期の瓦が出土したともいい、創建は願安以前に溯ることも考えられる。
狛坂寺は文保2年(1318)及び永正12年(1515)焼失と伝える。
天保10年(1839)本堂・坊舎を再建、門前には10軒余の人家があったという。
 しかし明治の廃仏で廃寺、堂宇・人家は姿を消すと云う。
現在、狛坂寺跡には、磨崖仏・石製露盤・堂舎石垣・5×4間と思われる建物の礎石などを残す。

近江狛坂寺石製露盤(2009/10/16追加)

石製露盤があり、何らかの塔婆があったと思われるも不詳。(寡聞にして狛坂寺塔婆の絵図・記録類は全く耳にせず。)
 → 近江狛坂寺石製露盤

近江狛坂寺跡現況(2009/10/16追加)

狛坂寺の史料は乏しいが
金勝寺四至絵図狛坂寺部分:3宇が描かれるも、具体的には不詳。
  :金勝寺四至絵図 或は 金勝寺四至絵図2(何れも上掲)の西方に狛坂寺伽藍が描かれる。
興福寺別院金勝寺圖略部分図:狛坂寺伽藍として山門・観音殿・太子堂・祖師堂・薬師堂・狛坂神社・坊舎9坊が描かれる。
  :興福寺別院金勝寺圖略(上掲)に狛坂寺伽藍が描かれる。
○「忘れられた霊場をさぐる」栗東市教育委員会、平成17年 より
 狛坂寺境内概略図:明治時代の古図(未見)には本堂・庫裏・廊下・茶所が描かれると云う。これを地図に投影したものであろう。
 石垣・平坦面がかなり多くしかも良好に残る。
○狛坂磨崖仏
 狛坂磨崖仏1     狛坂磨崖仏2
  :狛坂寺縁起によれば狛坂寺の創建が平安初期であるのでその頃の造作となるが、作風(統一新羅の影響が見られる)から奈良後期の渡来系工人の作という見解が有力である。

○狛坂寺境内概要図2:A遺構、B遺構、5×4間堂跡は記憶による概略で必ずしも正確でない。
... 5×4間堂跡土壇:南から撮影
5×4間堂礎石1:南列礎石(西から)
5×4間堂礎石2:西列礎石(南から)
5×4間堂礎石3:南列礎石(東から)
5×4間堂礎石4:西南隅礎石
本堂跡石垣1;西南隅 の部分
本堂跡石垣2:西面、左平坦地は「B」
本堂跡平坦地:南から
本堂跡背面基壇?:北から、確証なし
「A」地点祠?跡:祠?石製基壇、石塔残欠、近世の瓦の散乱など を見る
「B」地点平坦地:右は本堂跡石垣
庫裏南石垣1:石垣上面が庫裏跡と思われる。
庫裏南石垣2:石垣右は参道、西から
 

 


2009/10/16作成:2020/09/13更新:ホームページ日本の塔婆