最近訪問した塔婆・ご提供画像(2006/11/26〜2007/08/30)

過去の訪問塔婆履歴

2007/08/30 松ヶ崎本湧寺 関東檀林・京都檀林のページの「京都松ヶ崎檀林(本涌寺)」の項、「参考:松ヶ崎妙泉寺(廃寺)」の項を参照下さい。
賀茂下社神宮寺 賀茂上社神宮寺・賀茂下社神宮寺のページの「賀茂下社神宮寺」の項を参照下さい。
2007/07/27 大和薬師寺 再訪、詳細は「大和薬師寺」のページを参照ください。
2007/07/19 摂津中山寺大塔1
  同       2
  同       3
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  同      22
  同     相輪
2007年完工(大塔形式)、2007/05月落慶。
(株)能勢建築構造研究所の構造設計、多宝塔再建、構造:SRC+RC+S、組物などは木造と推定される。屋根銅板葺。基壇下は地下式空間で、本尊?安置、ガラスモザイクの仏画がある。
大塔は大願塔と称し、永代供養塔として信徒の位牌を安置すると云う。阿弥陀堂(桃山期?)の北すぐに基壇下地下式空間があり、その上に塔基壇がある。大塔は阿弥陀堂と運営が一体とも思われる構造です。
2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
本中山寺之境内図:絵葉書、「源頼朝公御建立」とある。三重塔と思われる塔婆が描かれています。
なお当図は参詣曼荼羅図を巻物に仕立てたものと思われる。
本中山寺とは不明ですが、摂津中山寺境内図と思われる。

中山寺は聖徳太子建立と云う。多田源氏の庇護を受ける。
文治元年(1185)の兵火で焼失、源頼朝が復興する。伽藍は当初は山上にあった。
戦国期の兵火で荒廃、豊臣秀頼により現伽藍が建立される。山下の現在地に移る。
本堂(慶長8年)、護摩堂(慶長8年)、阿弥陀堂(桃山期?)、山門(正保3年1646)、閻魔堂(江戸中期)、大師堂(江戸中期)などと、近年の建立になる紫雲閣、五百羅漢堂、開山堂、信徒会館、絵馬堂などの堂宇、華蔵院、成就院、総持院、宝蔵院、観音院の5院を有する。
西国33所観音霊場24番札所、但し「宗教」もしくは「信仰」をビジネス化した典型とも思われる浅はかな「寺院」「法人」の雰囲気があります。
「中山寺の栞」大本山中山寺 より
 中山寺古伽藍図:伝来・製作年代など不明、参詣曼荼羅の類とも思われる。
この図によれば、金堂右手に五重塔、山門を入ってすぐに多宝塔が配置されている。
摂津伊丹廃寺復元図
 同 塔跡復元基壇1
 同         2
 同         3
 同         4
 同         5
 同         6
 同 金堂跡復元基壇
 同 現地残存礎石1
 同         2
 同 教善寺残存礎石
 同 臂岡天満宮礎石
 同      水煙1
 同      水煙2
 同 九輪内側残欠1
 同 九輪内側残欠2
 同 九輪外側等残欠
 同      風鐸1
 同      風鐸2
 同  相輪復元模型
史跡。法隆寺式伽藍配置を採る。出土瓦から白鳳期創建とされる。金堂・塔の基檀 が復元整備され公開されている。また水煙・九輪の破片を出土し、これらは伊丹市立博物館に常設展示されている。
塔基壇は一辺12.7mで、半裁した瓦積基壇であった。
「伊丹廃寺」伊丹市立博物館、昭和59年 より
この地の地名は北村字北良蓮寺・南良蓮寺と云う。近世の地誌には竜蓮寺(良蓮寺・霊蓮寺)が天正年中に兵火によって焼失、大きな礎石の残存することなどが記録されている という。また北村教善寺本尊阿弥陀如来立像は霊蓮寺の仏と伝える。
昭和6年この地は住宅地として区画整理、金堂・塔の基壇部分は放置され、雑木林となり、殆ど忘れられた存在であった。昭和33年耕作中に銅製水煙・風鐸・軒丸瓦などが発掘され、本格的な発掘調査が実施される。まづ金堂跡(基壇21×16m、建物14×10m)が確認され、その基壇化粧は栗石と瓦を交互に重ねる珍しい形式で あったと判明した。
昭和34年塔跡基壇を発掘、基壇一辺約13m、建物一辺約6.4m、基壇化粧は瓦積、階段は南側一辺にのみ設置と判明する。
総和37年金堂・塔基壇間を発掘、大量の瓦と水煙・九輪・風鐸などの相輪破片が発掘される。
その後の数次に渡る発掘調査で、伽藍北廻廊外に講堂跡・廻廊跡・僧坊跡・瓦窯跡などが発掘される。
 発掘時伊丹廃寺塔基壇:残存高約20cm、心礎を含め、礎石は全て抜き取られていたようです。
 伊丹廃寺礎石:この写真の礎石の所在が不詳、現地に2、3個、教善寺本堂前、臂岡天満宮本殿右側に伊丹廃寺礎石を見ることが出来る。表面を丁寧に削平もしくは柱座などを造出した礎石が用いられたようです。
 九輪片出土状況:塔・金堂間で出土。
写真:相輪復元模型:1/4のスケール、出土品には僅かに金メッキの跡があったという。
山城宝菩提院塔跡 現在宝菩提院心礎は近くの岡崎氏邸の庭石で現存する。非公開 とされる。心礎とは国民共有の文化財であり、であるならば、文化財として、現地に戻すなどの処置をして、公開が望まれる。
なお宝菩提院は木造菩薩半跏像(国宝・弘仁)を有する。
◆「幻の塔を求めて西東」;一重円孔式:230×130×130cmの大きさで、59.5×20cmの円孔を彫る。白鳳。岡崎邸は旧寺域から南?(東)100mにある。
◆「向日市史 上巻」昭和58年:明治時代に道路拡幅工事で本堂東南の釈迦堂前から塔心礎が出土する。 心礎は2.2×1.2×1.3mの大きさで、径55×30cmの円孔を彫る。また径85及び径65cmの円形柱座を持つ礎石各2個(計4個)が残るという。(いずれも岡崎氏邸)なお、釈迦堂前とは慶昌院前道路という。
 山城宝菩提院塔心礎
平成12年の登窯跡発掘調査等などから、願徳寺創建は飛鳥・白鳳期とされる。縁起では持統天皇の夢告によって創建されたと伝える。平安期には願徳寺と称する。鎌倉期 、東山三条の宝菩提院が、この地願徳寺へ移されたと伝える。
中世には天台寺院として隆盛であったが、応仁の乱で焼亡する。
江戸期には寺地4町寺領17石を有したが、細々と法灯を伝える状態であったようです。
明治維新後、更に衰微し、遂に昭和39年本堂・鐘楼などが解体され創建の地を離れ、西山大原野に移転する。
◆「新撰京都名所圖會 巻5」昭和38年
天台宗延暦寺末、今は本堂兼用の庫裏と鐘楼があるのみ、菩薩半跏像ほか薬師如来立像(重文・藤原)も有する。
 山城宝菩提院:解体・移転直前の貴重な圖會になりました。当時は「緩やかな傾斜地に立地し、竹林や松、椎、桜」の囲まれていた様が表現されています。現在は全くの住宅地と化し、当時を偲ぶものはありません。辛うじて「清泉」(白鳳の泉 と云うようです。)の残骸が残るのみです。
 宝菩提院心礎出土位置:慶昌院北道路が出土地、塔跡写真の左石垣が慶昌院、道路が大原野道、道路右に横断歩道マーク◇が2個ありますが、その間付近から心礎が出土。
2007/07/03 京都妙顕寺 昭和40年、現鐘楼(天明の大火後の再建)は、大門の東隅にあったが、かっての五重塔のあった場所に移築される。
京都本法寺 多宝塔の修復終了。
2007/06/30 山城総神寺ニ層塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同    親誉閣
  同    玄関?
 
昭和25年総神寺創立とされるので、ニ層塔もこの時の建築と推定される。
以下は「相楽郡の寺院」京都府立木津高校郷土史研究クラブ、昭和57年より
総神寺は法華日蓮宗総本山。(但し実態は不詳)開山日誉上人、昭和24年上人は「あらたかきお瀧」があると聞き当地を訪れる。この瀧は後醍醐天皇が笠置から鷲峰山に落ちるとき立ち寄ったが、その時一行の中の将来に悲観した一人の乳母が姫( 後醍醐帝皇女)とともに身を投げた瀧という。上人はこの瀧に打たれたがその姿には後光がさしたという。故にこの瀧を祀り、堂を建立と云う。
この瀧は「千子(チゴ)の瀧」と呼ばれる。
総神寺ニ層塔
山城総神寺位置:相楽郡南山城村童仙房車谷、地図に高塔の記号がある。
 総神寺ニ層塔は正規の塔建築では有りませんしまた造形として優れている訳ではありませんが、木造檜造り、初重3間で舟肘木、二重は2間で平三斗を用いる。基本的には恒久的な寺院建築として 造られる思われる。
 総神寺は法華日蓮宗別格総本山と称する。寺院は本日は無人であったと思われるも、ある一定の教団組織があるようで、かなりの宗教活動が行われていると思われる雰囲気です。また堂宇も一級建築ではありませんが、本堂・庫裏以外にも施設が増強されているようです。(但し戦前の軍国調を連想させるような代物もありますが)本堂・玄関、親誉閣(廟所?)・同拝殿、鐘楼、幾棟かの参籠所、行堂などがある。
「千子の瀧」:地区民に所在を尋ねるも、異口同音に「死ぬぞ」「行かない方が良い」と言われる。
上記の伝説のことと(以下の真偽は不明)信者が転落死したこと・地区民が自殺したことが第1の理由、第2は現在瀧は行場として使われていなくて、瀧に行くのに鎖場があり、鎖場の崖道は崩落しているから危険であるとのことです。所在を聞き、瀧への侵入道を探すも、ブッシュと 昨日から今朝の雨で探索は不能。瀧については「5m位の落差で、瀧というほどのものでもない」と云うのが地区民の言です。
2007/05/06
塔婆」様ご提供
筑前城の原廃寺心礎1
  同         2
「日本の木造塔跡」:個人邸に神宮寺(熊野神社神宮寺)心礎と伝えられる心礎がある。
心礎は1.36×1.2mで、径50/49×1,3/0.9cmの円穴がある。
但し熊野神社は平安期の鎮座とされ、問題を含む。
 ※円穴の深さ「1,3/0.9cm」は、4寸3分〜3寸であるから13〜9cmの単純な誤りであろう。(写真もそのように見える。)
「幻の塔を求めて西東」」:一重円穴式、大きさは160×120×65cm、径48/50×12cmの円穴を持つ。
個人邸宅の庭石となるも、個人で「史跡保存の碑」(昭和63年建立、平成?年再興)も建て、その保有目的も、ほぼ打ち捨てられた状態の「千古の遺物を万世に伝へし」として 、大切にされているようです。
史跡保存の碑文より抜粋:来暦と整備目的が記されている。
「福岡西南の地拾六町字大林の丘陵俗称鐘撞堂に大日如来を本尊として真言宗智光山神宮寺を建立せられたるときの鐘撞堂及伽藍塔の心礎石」であり「他の三個の石亦同じく礎石たり」、「神宮寺は寛永の永の始今の拾六町鎮座の村社熊野神社境内に移されたる」がいつしか「旧蹟は廃墟となり之を顧みる人もなく遷古の情禁じ難きものあり此の幽壊の地祉に我が祖先伝代よりの私有地に属するを奇貨として其の散逸せしことを憂へ千古の遺物を万世に伝へしと企て茲に敢て之を邸内の小苑に移し以て碑建て来歴を誌す」
拾六町に熊野権現が現存、木造大日如来坐像(平安末期から鎌倉前期の作と推定)も現存する。
2007/05/03
塔婆」様ご提供
豊前求菩提山ニ層塔跡 豊前求菩提山護国寺ニ層塔」のページを参照
2007/04/06 越後乙宝寺三重塔・心礎 詳しくは「越後乙宝寺」のページを参照ください。
2007/04/05 出羽慈恩寺三重塔 詳しくは「慈恩寺三重塔」のページを参照ください。
出羽立石寺三重小塔 詳しくは出羽立石寺三重小塔のページを参照ください。
出羽
阿久津八幡宮三重塔1
  同         2
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寛永2年(1625)米沢の豪商鈴木十左衛門が寄進・造立。寛政2年(1790)烈風により倒壊。
寛政9年(1797)高畑村新藤喜兵衛が再建・現存。一辺4.63m、総高20.5m。各重とも和様2手先を用いる。また江戸後期風な彫刻を多用する。
 三重塔初重内部:須弥壇は残存するものの、 正体不明の「鏡」などが置かれているようです。
 別当金蔵院鐘楼:梵鐘は 失われているも、簡易な建築ながら鐘楼が現存する。ここには推定旧三重塔相輪の一部が置かれている。
 三重塔旧相輪1  三重塔旧相輪2  三重塔旧相輪3  三重塔旧相輪4  三重塔旧相輪5
昭和44年「日本の塔総観 下」では「相輪は請花を失い、9輪も8つしかなく、水煙の形はよろしからず・・」とあり、昭和44年以降に相輪の造替があったものと思われ 、その折、旧相輪の一部が鐘楼に保存・展示されているものと推測される。
 阿久津八幡は貞観2年(860)慈覚大師が阿弥陀堂 ・金蔵院を創建したことに始まり、その後八幡太郎義家が鶴岡八幡宮を勧進したと伝える。
 ◇阿久津八幡宮阿弥陀堂跡
中世にはこの地方の信仰の中心として歴代領主から保護され、中世末には伊達氏の外護を受ける。
天文15年(1546)学頭金蔵院ほか衆徒頭千珠院はじめとする12坊、神職33人が附属していた。
伊達氏移封により、上杉家より金蔵院に50石の寄進、その他があった。
明治の神仏分離で本地仏木造聖観音立像(鎌倉期・県文)等仏像3体が亀岡大聖寺に残存する。
2003/7/21:阿久津八幡神社古図(明治) :
参道左の中島に三重塔、右に鐘楼、本地堂、別当金蔵院がある。 南鳥居附近の参道左右に社僧があったようです。金蔵院は現在の社務所の位置にあったが明治45年焼失という。
阿久津八幡宮拝殿:延享4年(1747)建立、本殿は宝暦3年(1753)建立
  同    舞楽殿:様式上室町末期の遺構と思われる。仏堂の様相を呈する。
その他の仏教的な遺物として
阿久津八幡宮経石塔  弁財天堂  、弘法水、石製仏像などが散在する。
2007/04/04 出羽善宝寺五重塔1
  同        2
  同        3
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明治26年(1893)建立。 魚鱗一切供養塔として信仰される。一辺5.4m、総高38m。軸部は和様で組物は唐様を基調とする。本尊は五智如来。
高橋兼吉の建築のようです。心柱は懸垂工法を採る。
天慶年中(938-)妙達上人開基とする。今は曹洞宗の大禅刹。 三河豊川妙厳寺、大雄山最乗寺と並ぶ曹洞宗の三大祈祷所と云う。近世には能登総持寺直末であった。現在、幕末から明治の建立になる大本堂、竜王殿、総門、三門、弥勒堂、五百羅漢堂などの伽藍を備える。
※懸垂工法:寛政3年(1791)谷中五重塔(焼失)、文政元年(1818)日光東照宮五重塔、明治修理・法華経寺五重塔、明治35年善通寺五重塔
出羽羽黒大権現 詳しくは「羽黒大権現」のページを参照ください。
出羽海晏寺三重塔1
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  同        6
平成12年(2000)完成。純和様を用いた本格木造塔です。
青森ヒバ材を使用、白木のまま。高さ約27m。
(株)モトタテ施工。
曹洞宗 。
応永元年(1394)湖海理元和尚の開山。
豪商本間家が檀信徒で、経堂、釈迦堂などは本間光丘の寄進とする。
「X」氏ご提供画像
出羽海晏寺三重塔1    同      2    同      3    同      4
2007/04/03 佐渡蓮華峯寺多宝塔跡 詳細は「佐渡蓮華峯寺」のページを参照ください。
佐渡阿仏房妙宣寺 詳細は「佐渡法華宗諸山」中「妙宣寺」の項を参照ください。
佐渡国分寺跡 詳細は「佐渡国分寺跡」の項を参照ください。
佐渡吉岡薬師堂心礎 詳細は「吉岡薬師堂心礎」の項を参照ください。
佐渡長谷寺多宝塔1
  同        2
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延亨2年(1745)建立。一辺6.1mの大型塔。
下重内部構造:8本の柱を建て、頭貫・台輪を円形に組み、須彌壇を八角とする。これは下重3間とする多宝塔形式で、大塔形式と思われる構造を持ち込んだ唯一の違例です。但し、この構造を採用した意図は不明。
 寺伝では、観音堂安置の弥陀・釈迦・大日・薬師・宝生の五智仏を正保年中(1644-)に五智堂を造って移し、更に延享2年に多宝塔を建立して安置と云う。
2003/5/10:吉田初三郎(佐渡島)
2007/03/27:
「明細帳」 天平年中行基開基、大同年中弘法大師来りて豊山長谷寺と改称す。往古は寺領300貫、坊舎120宇、天正の戦乱で壊滅、慶長以降復興。
堂宇 本堂、玄関、廊下2、鐘楼、仁王門、中門、宝蔵、土蔵2、納屋、護摩堂 境内 1650坪
 ※五智堂(多宝塔)の記述がない理由は不明。
「佐渡志」 大和国小池坊末寺
「子山佐渡志」 蓮華峯寺と同じく・・上杉景勝の国たりし程に越後国吉祥寺属下となる
「寺記歴代」 元禄11年大和国小池坊末改
寺家 5ヶ寺(慶蔵坊、宝蔵坊、東光坊、遍照坊、泉蔵坊)、末寺 4ヶ寺 門徒 7ヶ寺
属下 丸山村西立寺、松ヶ崎村長松寺、同 松前坊、丸山村平泉寺、目黒町村西光寺、多田村弘勒院、岩首村万福院、同 地蔵院、鵜島村泉福寺、柿ノ浦村西楽寺、尾戸村東福寺
2007/04/13追加:
平安初頭山奥の瑞籬平にあった天台宗養禅寺・長楽寺などが現地に移り、長谷寺となったと伝える。
多宝塔のほかに、観音堂、不動堂、十王堂、弘法堂、仁王門などと本坊、遍照院、泉蔵院が現存する。
十一面観音3躯(本尊・重文・平安期)うを有する。
佐渡長谷寺仁王門:左の堂宇は遍照院
  同    観音堂:仁王門から直線の石段上正面は観音堂、右は不動堂、聖天堂、鐘堂(下から)
2007/04/02 越後本成寺二重塔 詳しくは「越後三条本成寺」のページを参照ください。
2007/03/28 紀伊紀三井寺 再訪。現在多宝塔は修理中(内容不明)で見学不能。
紀三井寺多宝塔絵(本堂掲額)
紀伊海禅院
紀伊養珠寺
再訪。
詳しくは「紀伊海禪院」のページを参照下さい。
紀伊東照宮 再訪。詳しくは「紀伊東照宮」のページを参照下さい。
2007/03/21 美濃正家廃寺塔土壇1
  :東から撮影
 同      塔土壇2
  :南から
 同      塔土壇3
  ;東南から
 同 塔土壇・金堂土壇
  :手前は塔土壇、奥が金堂土壇、西より撮影
 同  心礎1・南から
 同  心礎2・西から
 同  心礎3・北から
 同  心礎4・東部分
 同  心礎5・東部分
 同  心礎6・西部分
 同 心礎・四天柱礎石

 同  塔西側柱礎石
 同  塔中央西礎石
 同  塔中央東礎石
 同  塔東側柱礎石

 同     金堂土壇
  :南西より
 同   金堂礎石1
 同   金堂礎石2
 同 金堂土壇状況
塔跡はかなりの程度原形が保たれていたようです。今に土壇と殆どの礎石を残す。
心礎(花崗岩製)は地上式で、現状は二つに割れているが、東側は原位置を保つ。心礎は一辺1.2m(4尺)の正方形で、高さ65cm、中央に径72cm(2尺4寸)の円穴を彫る。
当初心礎表面は削平され、そこに円穴が彫られてと思われるも、残念ながら、心礎表面はほぼ全面にわたり、割られているようで、円穴の深さは不明。
塔の規模は一辺6m(20尺)。礎石上面に焼失時に残された柱の痕跡があり、直径48cm(1尺6寸)程度の柱と推測されたようです。
心礎の割れている理由は、少々疑問ですが、舎利容器目的の盗掘のためと推定されるとの見解もあるようです。いずれにしろ、現状、心礎の周囲は乱掘され、特に西側は二つの四天柱を外した後に心礎の厚さの深さまで掘り込 まれ、出来た空間に半裁した心礎の西側部分を動かして、二つの心礎の間に隙間をつくったものと推定されている。
美濃正家廃寺塔跡:北側から撮影、礎石残存状況が明確に分かります。
側柱はすべて残存し、1個(立木により動く)を除き、すべて原位置を保つ。
四天柱礎は北東の1個は原位置、南側の2個は動かされて、北西のものは亡失。塔基壇は一辺10.2m(34尺)で、版築により築かれ、乱石積の化粧をする。外側は幅約90cm(3尺)の犬走りがめぐり、その外側には雨落溝がある。
但し、発掘調査後、金堂土壇の修復が行われた模様で、周囲に盛土がされ、礎石の据付・亡失礎石の位置表示ブロックの設置がされたと思われるも、土壇の周囲の盛土が 不完全で、崩落が進行し、土壇が荒れているのが気がかりです。(「金堂土壇状況」の写真を参照)

伽藍配置は東に塔、西に金堂、北に講堂(表面では不明)を配する。金堂基壇は11.1m(37尺)×9.9m(33尺)で、乱石積基壇であった。礎石は、身舎の10個がすべて原位置を保ち、廂は1個を除きすべて移動・亡失していたが、根石・礎石抜取穴が確認された。身舎と廂の間隔は1.5m(5尺)。大きさは身舎:桁行3間、梁行2間で、柱間は1.5m(5尺)の等間であり、廂は桁行3間、梁行3間で、桁行中央間は2.7m(9尺)、両脇間は2.4m(8尺)、梁行中央2.1m(7尺)両脇間1.95m(6尺5寸)であった。礎石に残る柱痕跡から柱の径は45cm(1尺5寸)前後と推定された。
なお,金堂の建築様式は,廂の柱が身舎の柱に対して放射線状に位置する特異な様式である。類似の建築として、伊賀夏見廃寺金堂、近江穴太廃寺再建金堂、伯耆上淀廃寺などがある。

寺跡は東西約110m、南北約70mと云う。創建は奈良期で、平安期9世紀後半ごろに火事で焼失したとされる。 廃寺は小高い河岸段丘上に立地し、おそらく退転後は山林化し、そのため良く遺跡は残されたと思われる。
美濃正家廃寺位置
2007/03/17 播磨書写山円教寺 詳細は播磨書写山のページを参照下さい。
備前吉岡廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
 
寺院跡は瀬戸町塩納にある。1981〜82年に発掘調査され、調査時に畦にあった心礎は現在万富公民館に移されている。寺院は方1町の法隆寺式伽藍配置が想定されると云うも、建物規模ははっきりしないとも云う。
心礎は表面を平に削平し、不明確ではあるが2段円孔式の心礎と思われる。
心礎のほぼ半周に沿って、心礎上辺の外周縁が欠損(後代に割られている)していると思われる。
現状心礎の大きさ:120×110×52cm、径63×凡そ2cmの柱座?と径45×凡そ1cmの?孔を穿つ。但し、この2個の円孔の縦面ははっきりとした凹ではなくて、スプーン状の形態(球面)を採る特異なものです。それ故、果たして本当に塔心礎であることについて、若干の疑問がない訳ではない。
出土瓦から創建は7世紀後半で、平安前期まで存続していたとされる。
「吉備の古代寺院」より:
吉岡廃寺伽藍配置想定図  吉岡廃寺心礎実測図
2007/03/10 山城知恩院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
再訪
山城廃妙泉寺 「妙泉寺」のページを参照ください。
2007/03/14
「Y」氏
 ご提供
電気博覧会三重塔模型 (大正7年3月開催電気博覧会)三橋塔とある。
大正7年(1918)3月21日:5月31日まで、電気博覧会開会(東京上野忍池畔)が開催されたようです。
それ以外に、この塔の目的・構造などについては全く不明。継続調査予定。
タイトル:電気博覧会案内 著者名:田多井 祐作/編 出版者:日本電気協会 出版年月:1918
タイトル:電気博覧会報告 著者名:堀江 長吉/著 出版者:電気博覧会事務所 出版年月:1919
の一般図書があるようですが未見。
箱根権現三重塔1
  同       2
「一新諸国道中記」田中菊雄編、求古堂、明14.5、形態 36丁 ; 6×13cm、装丁 和装 本より
箱根権現に三重塔が描かれています。塔の存在については現在未確認。継続調査予定。
箱根権現略歴:
「筥根山縁起」:孝昭天皇代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開き、天平宝字元年(757)、万巻上人が当地に里宮を創建し、箱根三所権現が成立する。
「箱根権現絵巻」:天竺斯羅奈国・波羅奈国の王女・王子が来邦し箱根三所権現・伊豆二所両権現となる。
「吾妻鏡」:石橋山の合戦で敗退した源頼朝を別当・行実が援助。その故などで、箱根権現は、伊豆山権現とともに「二所権現」と称せられ、鎌倉幕府から鶴岡八幡宮に次ぐ社として保護を受け、強大な勢力となる。
永正16年(1519)北条早雲、4415貫余の社領を寄進。北条長綱(早雲次子)は幻庵と号し、別当に就任。
天正18年(1590)秀吉による小田原討伐で、全山が焼亡。
文禄3年(1594)徳川家康が朱印200石を安堵、慶長17年(1612)社殿造営。寛文7年(1667)家綱が社殿造営。
「和漢三才図会」:伊豆国箱根権現、200石、別当東福寺「金剛院」。
明治の神仏分離で別当は還俗、箱根神社に改称した。
興福院(権現東500m)には箱根権現の旧仏である菩薩頭(平安期)、普賢菩薩坐像(永仁5年1297年銘、能善権現本地仏)が伝えられるという。
箱根権現は寺院であるから、当然、延喜式神名帳にはその名を見ない。昭和3年に国幣小社に堕落し、国家神道に組み入れられる。
高野山瑜祇塔 高野山龍光院瑜祇塔の項を参照
武蔵総持寺三匝堂
(西新井大師)
明治17年再建。三重塔と称する向きもあるようですが、これは塔婆建築ではないとされる。
これは「三匝堂」と呼ばれる仏堂形式の一つで、堂内部の三層の階段を栄螺に見立てたもの。別名栄螺(さざえ)堂と呼ばれる。堂内には札所の本尊像等がずらり並んで安置され、参拝者は階段の昇降で、拝することが出来る。江戸本所の羅漢寺(黄檗宗)の栄螺堂が最初とされ、関東地方以北に広まった。現存するものは少なく、都内では唯一のものとされる。
一層:88体の大師像と本尊、二層:13仏、三層:五智如来と二十五菩薩が安置。地下には四国88ヶ所の霊砂が収められている。天保年間に江戸・伊勢屋彦衛門が四国遍路を行い、霊場に砂を集め、88体の大師像を祀ったのが始まりで、明治に堂が荒廃したので、再建されたのが、現在の栄螺堂です。
以上は、「江戸東京の庶民信仰」長沢利明著 平成8年 三弥井書店刊より抜粋。
信濃善光寺雲上殿納骨堂 雲上殿と称する。 善光寺納骨堂。昭和24年落慶。鉄筋コンクリート製。高さ39mの多宝塔に間口55m×奥行16mの翼楼を付設した邪道な建造物です。屋根銅板葺き。
画像:戦前の善光寺観光案内写真帳?中にあるもの。
2007/02/15
JIT日本画像行脚様ご提供
 
武蔵寒山寺ニ層塔1
 同  上  部分図
青梅市、昭和5年に寺院建立、戦前の絵葉書がありますので、ニ層塔は昭和5年頃建立された可能性が高いと思われます。但し諸写真を見た限りでは、正規の塔建築ではなく、簡略な建築と思われます。
Web情報:明治18年、田口米訪(書家)が蘇州寒山寺を訪れた時、主僧の祖信師から釈迦仏木一体を託され帰国。その後
昭和5年小澤太平氏(小澤酒造)の協力により、寒山寺の伽藍を建立。
JIT日本画像行脚様サイトから転載
2007/01/20 讃岐金毘羅大権現 再訪、讃岐金毘羅大権現のページを参照。
2007/01/19 備後浄土寺伽藍
  同    多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同     本堂1
  同     本堂2
  同    阿弥陀堂
駅前渡船・渡船
再訪
尾道−向島間には次の4本の渡船があり、約5分間隔でピストン運行が行われている。
駅前渡船 人100円、二輪車110円、小荷物60円〜、車不可
尾道駅前 <--約4分(700m)--> 富浜:運航時間:6:00〜22:00
イチエンポッポ
福本渡船
人60円、自転車70円、カブ80円、軽四90円、乗用車100円
うずしお小路界隈(土堂1丁目) <--約2分--> 小歌島:運航時間:5:00〜22:00
カネヨシワタシ
尾道渡船
人100円、二輪車110円、車〜4m120円、車〜5m130円
渡し場通り下 (土堂1丁目)<--約3分(250m)--> 兼吉浜:
運航時間:【平】5:40〜22:30 【日】6:00〜22:30
岸本ライン 人100円、二輪110円、車110円〜
市役所西側(久保1丁目) <--約3分--> 彦ノ上:運航時間:7:00〜21:00

※駅前渡船の2杯の船は、浄土寺多宝塔をイメージした船で運行されている。

備後西国寺伽藍
  同   三重塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同    本堂1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同    仁王門
再訪
備後天寧寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
再訪
2007/01/02
「Y」氏
 ご提供
筥崎宮室町時代古図
伊予大三島国幣大社大山祇神社古図
官幣大社大神神社古図

大安寺図
 
絵葉書「筥崎宮室町時代古図」:筥崎宮室町期古図、筥崎八幡宮縁起所載。筥崎八幡宮
絵葉書「伊予大三島国幣大社大山祇神社古図」

絵葉書「官幣大社大神神社古図」
 :参道左(北)が大御輪寺伽藍、本社右(南)が平等寺伽藍群。大御輪寺 ・平等寺
新修日本文化史体系「大安寺図」:新修「日本文化史体系奈良文化」誠文堂新光社、昭和18年
 大和大安寺
2007/01/02 三輪山 三輪山絵図(室町時代・大神神社蔵):上記絵葉書の絵は紙本彩色・文政13年のものとされ、おそらく、室町期「三輪山絵図」の構図を参考にしたものと思われる。(「大神神社史料 第2巻」)
和州三輪大明神絵図:紙本彩色(「大神神社史料 第2巻」)大御輪寺 ・平等寺
2007/01/01
「Y」氏
 ご提供
安藤広重「天のはし立」
安藤広重「和歌の浦」
安藤広重「浅草市」
安藤広重「浅草寺」

尾竹国観「花の東京」

作者不詳「舊都の春」
山口蓬春?「奈良公園」?
川村曼舟「古都の春図」

池田真哉「興福寺大塔」
■山「やさかのたふ」

香嶋?「とうじ」
富岡永洗「尾花集」表紙
切手「安楽寺八角三重塔」
「芸州厳島之図」

「和歌の浦」

「日光山の図」






竹久夢二「故郷の桃」





 

 

「天のはし立」:「日本選景」日本文化振興会、昭和12年、掲載木版摺り、智恩寺多宝塔
「和歌の浦」:「大日本六十余州名所図会」、歴史画報社、昭和9年、掲載印刷もの、海禅院多宝塔
「浅草市」:「大日本六十余州名所図会」、歴史画報社、昭和9年、掲載印刷もの、浅草寺五重塔
「浅草寺」;「名所江戸百景」、「国際画報」か?、大正末か昭和初期?、掲載木版摺り

「花の東京」:明治40年代少女向雑誌口絵(推定)、尾竹国観(1880-1945)、石版画、浅草寺五重塔(推定)
「舊都の春」:明治末か大正初めころの雑誌口絵。石版画。興福寺五重塔(推定)
「奈良公園」(題不明):「日本案内記」鉄道省、昭和9年、口絵(木版画)、作者は推定、興福寺五重塔
「古都の春図」:「日本画大成 28昭和篇(2)」東方書院、昭和8年、川村曼舟(1880-1942)
  興福寺五重塔(推定):左重層堂は東金堂、右手若草山と思われる。(注1)
「興福寺大塔」:「絵画叢誌 第88巻」明治27年、石版画、
「やさかのたふ」:「きやうと(名所と美術の案内)」明治28年、和装本挿絵、木版、作者は解読できず、八坂の塔
「とうじ」:「きやうと(名所と美術の案内)」明治28年、和装本挿絵、木版、東寺五重塔
「尾花集」表紙:「明治文学研究文献総覧」昭和19年、富岡永洗(1864-1905)。谷中五重塔
「安楽寺八角三重塔」:切手発行:1969年2月10日発行
「芸州厳島之図」:「改正日本国尽6-山陰道・山陽道」瓜生寅、明治7年、淡彩木版挿絵、
右端の五重塔は不審。
「和歌の浦」:「改正日本国尽7-南海道」瓜生寅、明治7年、淡彩木版挿絵、
手前紀三井寺、対岸は海禅院であるが、多宝塔であるべきところ三重塔であるのは不審。
「日光山の図」:「日本国尽 3巻東山道」明治5年、日光山中禅寺三重塔
----------------------------------------------------------
注1):可能性は低いが「古都」が京都ならば、東寺(左は金堂、右東山)であろう。それ以外は「春」の題材から醍醐の塔と桜とも解釈される。(この場合、左の堂は 単層の金堂か?、しかし塔の屋根勾配など近世風すぎて醍醐の塔ではないであろう。)八坂の塔の勾欄は五重目のみにしか見られないため、妥当ではない。御室の 五重塔も頭に浮かぶが、可能性はほぼ無いであろう。
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「故郷の桃」:明治末期の少女雑誌口絵と推定。
夢二の故郷である備前邑久郡(本庄村)附近には多くの「塔」が現存する。静円寺(多宝塔)、弘法寺(多宝塔・焼失)、余慶寺、本蓮寺、福生寺、真光寺、千光寺、西大寺・・。少し足を伸ばせば、いずれも目にすることは可能であったと思われます。(目にしたかどうかは知りません。)
この絵の題「故郷の桃」から、邑久郡附近の風景・塔であることは間違いないのでしょうが、いずれの塔であるかは、絵だけでは特定は不能です。あるいは特定の塔を描いたというより、夢二にとって、塔は故郷の日常風景の一つであったというのが正解かも分かりません。

紀伊海禅院江戸浅草寺大和興福寺谷中五重塔安芸厳島日光山中禅寺

2006/12/20 松浦武四郎記念館 木片勧進・草の舎」、「草の舎起し絵1」、「草の家起し絵2」のページを参照下さい。
河内丹比神社神宮寺心礎1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同          6
「美原町史」:丹比神社北に奈良後期以降の瓦が出土する地点があり、平安後期の瓦が特に多いので、平安後期に繁栄した奈良後期創建の神宮寺があったものと推定される。但し発掘調査は未実施のため、詳細は不明。
社務所の前庭に心礎が置かれている。(元位置から移動)心礎は平座凹枘式で、最長77cm、高さ40cm、枘穴径26cm、深さ10cmで、中心から約半分が破損している。
藤野勝弥「南河内発見2塔婆址及びその心礎」(昭和15年)では、旧位置には心礎の跡とともに四天柱礎跡が残存していたとの記載がある。
  河内丹比神社神宮寺心礎:「美原町史」 より
心礎の現状は円穴に土が入れられ、潅木が栽培されていて、鉢に転用されている。そのため、十分な観察は出来ませんが、手で探ると確かに円穴の様なものは確認はできます。周囲はかなり割られていると思われる 。
以上、心礎の現状では一見しただけでは心礎であるとの断定は出来ませんが、「美原町史」の記載を信用すれば、小型ではあるが、心礎であることはほぼ確実と思われる。
河内丹比廃寺南土壇
  同     北土壇
  同  柱座造出礎石
再訪。「美原町史」:藤野勝弥「丹比廃寺」では方2町に瓦の散布を見ると云うも未確認。
創建は出土瓦から7世紀後半と推定され、瓦の火災痕からすぐに焼失したと思われる。
弘仁年間跡地に空海により徳泉寺が創建され、天正年間には松永久秀が寺を棄却し、城を構えたと伝え、さらに久秀の敗退後、再び徳泉寺が造営されると伝える。(昭和14年徳泉寺は焼失と云う。)現地には高さ1,2mの土壇が道路に分断されて残る。心礎は過去の地下げに際し掘り出されたものであり、元位置は不詳。
河内高井田廃寺心礎
  同       跡
  同  柱座造出礎石

 

 

河内高井田ニ層塔1
  同        2

河内鳥坂廃寺。天湯川田神社境内に鳥坂寺塔跡がある。知識寺などとともに奈良期の河内6大寺のひとつであるという。河内6大寺:三宅、大里、山下(大県)、智識、家原、鳥坂。
昭和36年発掘調査:塔心礎と雨落溝を発掘。塔心礎は地下式心礎で、一辺1.2m、高さ63cmの花崗岩製。柱穴の直径は底部で50.5cm、深さ15.5cmの円錐形の舎利孔を持つ。土層の状況は心柱を粘土で巻き、さらに木炭と小石混じり土で互層に構築しているものであった。塔基壇は一辺約9mとされる。
「日本の木造塔跡」:心礎は一辺約1.2mの方形に近く、高さは63cm、中心部はやや高くなり、径54.5×14cmの円穴があり、その中央に径10.5×15.5cmの円錐形の舎利孔 を穿つ。塔跡北(字戸坂)に金堂跡講堂跡がある。金堂礎石は基壇上に10個残存、5間4間の建築、講堂礎石29個が残り、円形柱座を持つ。7間4間の建築。
 高井田廃寺心礎実測図:大阪府文化財調査報告書第19輯より
塔跡は埋め戻され、現地には一辺の説明板があるのみで、地上には何も在りません。本殿横の小祠の基壇に柱座を持つ寺院礎石の転用を見るのみです。なを礎石と思われる石が散在するも不明。
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この鳥坂寺跡に「穢れたもの」がある。現地「顕彰碑?」の文面:「・・この慰霊塔は明治100年を記念し、明治初年以来幾多の事変・戦争に際し、奉国の誠を捧げ戦没された本市在籍・・の英霊をまつり・・其の霊を慰めるべく・・・この地に慰霊塔を建立す 。 書柏原市長何某、文何某。」
この手のものは「靖国神社なるもの」だけで十分ではないか。 「幾多の事変・戦争に」天皇あるいは国家の名において、無差別に市民を駆り出し、「死」に追いやったことを恥じよ。何の反省もなく、戦前の多くの市民を死に至らしめた国家神道と同じ発想の人物が、例えば柏原市長(当時)などという肩書きで 生延び、さらにその系譜は今も「戦後保守」という肩書きで生延びているのが現状なのであろうか。
この「慰霊塔」は主旨から云えば、仏塔とは関係がないが、形態から云えば「ニ層塔」の部類であろう。RC製。
河内知識寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       9
再訪。
2006/12/17 大和大安寺 詳しくは大和大安寺東塔跡(現地説明会 )の項を参照下さい。
2006/12/02 紀伊高野山 再訪
一心院谷金輪塔、五之室谷南院宝塔、本中院谷竜光院瑜祇塔、高野山西塔、高野山根本大塔、高野山東塔、荒川経蔵、五之室谷光台院多宝塔、小田原谷金剛三昧院多宝塔、蓮華谷成福院八角三重塔、高野山徳川家霊台など
2006/11/26 紀伊日光社多宝塔跡 詳しくは「紀伊日光社」のページを参照下さい。

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