大 和 薬 師 寺 三 重 塔 ・ 大 和 本 薬 師 寺

大和薬師寺三重塔・大和本薬師寺(薬師寺東塔、東塔心礎、西塔、西塔心礎/本薬師寺東塔跡、西塔跡)

大和薬師寺東塔

大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:
  薬師寺東塔(部分図)、薬師寺東塔2(部分図)  (西塔跡の堂宇は文殊堂・・・西塔の項を参照)

2007/02/07「大和の古塔」:
東塔は天平2年(730)建立とされる。(「扶桑略記」「七大寺年表」)
天禄4年(973)金堂・東西両塔を除く周囲の建物が全て焼失、その後順次復興される。
正平16年(1361)の地震で「一基は九輪落ヌ、一基は大ニユカム」(法隆寺の「嘉元記」)
亨緑元年(1528)西塔、筒井順慶の兵火で焼失。金堂・講堂・中門なども焼失。
正保元年(1644)郡山城主本田正勝による修理。(「延宝8年評定行事日記」)
明和3年(1766)修理(墨書)、嘉永7年(1854)地震による大破、安政3年(1856)修理。
明治31〜33年保存修理。
初重2重は平面3間。三重平面は2間とする。斗栱は雲斗雲肘木ではなくて、原初的な3手先を用いる。
 ○大和薬師寺東塔実測図:「大和の古塔」より
2007/03/03「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」:
 ○薬師寺東塔立面図
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
 ○諸堂図・大和薬師寺東塔
   諸堂図は1巻で、四天王寺金堂・東大寺大仏殿・興福寺金堂ほか8棟・延暦寺根本中堂ほか2棟・洛陽大仏殿・三十三間堂・
   平等院鳳凰堂・東福寺山門ほか3棟・薬師寺東塔・法隆寺五重塔の10件を集める。元禄6年(1693)製作。東京国立博物館蔵。

大和薬師寺東塔

2007/07/27撮影:
大和薬師寺東西両塔
大和薬師寺東塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
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    :左図拡大図
  同       9
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  同      19
  同      20
  同      21
  同     相輪
・塔一辺7.09m、裳階10.51m、高さ33.63m。
基壇一辺48尺2寸、高さ3尺1寸。
・初重裳階5間34尺7寸、中央3間各7尺8寸、両脇間5尺5寸5分、初重3間23尺4寸、各間7尺8寸、
・二重裳階3間25尺2寸、各間8尺4寸、ニ十3間16尺4寸、各間5尺3寸6分6厘
・三重裳階3間18尺3寸、各間6尺1寸、三重2間9尺7寸、各間4尺8寸5分、相輪長32尺8寸、全高111尺

 

2001/3/24撮影:
 大和薬師寺両塔
 大和薬師寺
 大和薬師寺東塔1
    同       2
    同       3
    同       4
    同       5
    同       6
    同       7
    同       9


大和薬師寺東塔平成解体修理
○2013/08/30追加:2011/12/27朝日新聞・夕刊 より
「とうとう覆われる」:明治の修理より約1世紀ぶりに東塔の解体修理が始まるが、素屋根で覆う作業が進行する。
素屋根は鉄骨造で、高さ42.5m、平面は30m×32.5m、塔の東と南には廻廊があるため、北側で4回に別けて組立、ジャッキで南にスライドさせて覆う方法を採る。
なお、解体修理は7年間を予定。
 薬師寺東塔素屋根工事
○2014/09/02追加:2013/07/19朝日新聞 より
 2012/10月時点の三重目屋根:三重目屋根瓦が外される。
 2012年前半の三重目屋根:2012/3月〜2012/6月三重目屋根解体状況
○2015/02/27追加:2014/09/08朝日新聞 より
心柱は2本の木材で継がれる。心柱最大径は90cmで、下の木材は薬17m。
心柱の下部(上部は既に外されている)は垂直に立てた状態で台座に載せ、水平に約10m移動させたという。
 心柱下部の移動:垂直に立てたまま、水平に移動させた状態の写真。左には四天柱 が写る。
内部は大きな空洞があるため、立てたまま新しい木材で補強するという。
 薬師寺東塔の部材に掛る荷重のバランスは悪く、初重脇柱に掛る荷重は柱ごとに違うということが分かるという。
特に西側の柱はそれを支える礎石は地面にめり込むような状態で尋常な状態ではないことが判明する。
 薬師寺東塔西側礎石列
 東塔側柱の貫を抜く     東塔側柱吊上準備     東塔側柱吊上下置     東塔側柱横置
 東塔西側礎石列2
○2015/02/27追加;2015/01/28日朝日新聞
「塔を貫く心柱の下部が28日、報道各社に公開された。」つまり報道各社を通じて広く国民に公開されたということである。
心柱は白蟻に浸食され、その被害は最下部から約2.7mの高さに及びま、また最下部では柱の直径約90cmのうち約70cm達し、浸食された分は空洞である。
心柱の下部は天平期の建立当初のものとされ、江戸期の修理でも白蟻被害のため心柱の下に「根継石」が据えられている。
浸食された部分は切り落とさず、浜松市で昨春に伐採した樹齢約400年の檜の芯材で補修し、年内には心柱を据え直す予定という。
 東塔心柱白蟻浸食状況
○2015/02/27追加;2015/02/26日毎日新聞
26日東塔の発掘調査の結果、天平創建時の基壇を確認してと発表する。(当然、報道各社を通じ国民に発表したと解釈される。)
基壇規模は東西13.3m、南北13.4m、高さ約1.3mで、四方に階段を付設し、切り石を周囲に配する構造である。
また、現状の基壇規模は一辺14.6〜14.7mであるが、それは創建後、中世から明治時代に3回にわたって基壇は拡張され、その結果、創建時の規模より、現基壇は1m以上大きくなったと判明する。高さは現状では75cmであるが、それも後世に地表面が上がったからと判明する。
基壇は土を棒で突き固める「版築」という手法で約25層積み上げて造成される。
基壇上の礎石は最も外側の石(裳階の礎石か)を除いて、創建当初から動かされた形跡がなかった。
 さらに基壇の周囲には板状の石による「地覆石」が配され、その外側に玉石を敷いた「犬走り」も確認される。
地覆の石材は花崗岩、安山石や閃緑岩など複数の種類を使う。
なお当然のことであるが、東塔心礎には舎利孔が確認できなかったという。それは西塔心礎に舎利孔があるからである。
 東塔創建時基壇:外周から犬走り、地覆石、裳階礎石、側柱礎石、四天柱礎石、心礎ときれいに揃う。
 東塔基壇版築
現地説明会が2015/02/28にある予定。
○2015/03/07追加:
「2015/02/26付/報道発表資料」より
・東塔
初重の規模は主屋7.090m四方、裳階10.514四方、総高34.133m、相輪の長さは10.341mである。
・発掘前の基壇外装と敷石
発掘前の基壇外装は明治31-33年の修理に伴い新設された花崗岩切石の檀上積基壇で、一辺14.7〜14.7m、高さ0.75mである。
・主な調査成果
基壇は突棒によって突き固められた版築で築かれる。
 創建時の基壇外装: 切石積基壇であり、東西13.3m、南北13.4m、高さは推定で1.3m前後である。
地覆石は花崗岩が多数を占めるが、安山岩、閃緑岩など複数の材種が混在する。
また地覆石の上には凝灰岩製羽目石を設置するが、束石は認められない。
羽目石の上の葛石は残存しない。なお、地覆石・羽目石とも西塔のそれより一回り小さい。
 中世の基壇外装: 基壇東辺の北側で、創建時基壇外装の外側に乱石積の基壇外装を検出する。
東西は13.9m、南北は不明である。外装を据え付けた土層から15世紀後半を下限とする土器・瓦が出土し、従ってこの外装は15世紀後半以降に構築されたと判断される。また石などの使い方から、近世までは下らないと推定できる。
そして、この外装の大半は現在の基壇によって壊されているため、明治修理時に撤去されたと考えられる。
 近世の基壇外装: 明治5年の壬申検査写真を見ると、基壇西辺のみ中世の基壇外装の外側に切石積基壇外装を付け足した状態であったことがうかがえる。勿論この外装は原位置には残っていない。
明治修理時にこの外装は解体され、裳階礎石の根石や明治修理時に新設された発掘前の壇上積基壇の裏込などに転用されたと考えられる。
 礎石
 心礎は両雲母花崗岩製で、東西1.7m、南北1.80m、厚さ0.40m以上である。
上面は正保修理時に際し、心礎上に設置した根継石の形状に合わせて上面から彫り窪める。
柱座や舎利孔などは確認できない。  →下に掲載の東塔心礎の項を参照。
四天柱礎はいずれも石英閃緑岩で、方形柱座を造り出す。
側柱礎石は四天柱礎と同じく石英閃緑岩で、方形柱座を造り出す。
裳階柱礎は同じく石英閃緑岩で、いずれも方形柱座と地覆座を造り出す。
結論として
基壇外装については、創建時が切石積基壇(一辺13.3〜13.4m)であったが、中世に乱石積基壇(一辺13.9m)に改修され、近世には西面のみ乱石積基壇の外側に切石積基壇を追加し、さらに明治修理時に花崗岩の壇上積基壇(一辺14.6〜14.7m)へ改造する経緯を辿ったものと確認がされる。
 東塔創建時基壇2     東塔基壇版築2: いずれも産経新聞
 東塔創建時基壇平面図
2015/02/28「X」氏撮影画像
◇薬師寺東塔発掘基壇



薬師寺東塔基壇11;左図拡大図
薬師寺東塔基壇12
薬師寺東塔基壇13
薬師寺東塔基壇14
薬師寺東塔基壇15
薬師寺東塔基壇16
薬師寺東塔基壇17
薬師寺東塔基壇18
薬師寺東塔基壇19
薬師寺東塔基壇20
薬師寺東塔基壇21
薬師寺東塔基壇22
薬師寺東塔基壇23

 


薬師寺東塔基壇24:左図拡大図
薬師寺東塔基壇25
薬師寺東塔基壇26
薬師寺東塔基壇27
薬師寺東塔基壇28
薬師寺東塔基壇29
薬師寺東塔基壇30
薬師寺東塔基壇31
薬師寺東塔基壇32
薬師寺東塔基壇33
薬師寺東塔基壇34
薬師寺東塔基壇35

 

 

 東塔中世基壇外装     東塔基壇外装1     東塔基壇外装2:いずれも写真上方が中世基壇外装
 創建時地覆石/羽目石     東塔側柱礎石/裳階礎石
 東塔基壇版築1     東塔基壇版築2     東塔基壇版築3
東塔西石階遺構:
 東塔西石階遺構1     東塔西石階遺構2     東塔西石階遺構3
東塔心柱取外して残置
 東塔取外心柱1      東塔取外心柱2      東塔取外心柱3
現地説明会配布資料 より
 発掘前東塔基壇俯瞰     創建時東塔基壇俯瞰
現地説明板 より
2019/03/06撮影:
 薬師寺東塔初重身舎柱礎石     薬師寺東塔初重天井西南部分

2016/06/10追加:2015/07/01朝日新聞記事
◎「1300年前の極彩」
解体修理中の東塔の初重で創建当初の状態を留めた極彩色の天井絵が発見される。
天井には浄土に咲くという「宝相華」が描かれていたが、2013年に天井の格子を外したところ、格子に隠れていた部分は空気に触れにくかったため、1300年を経ても、鮮やかさを保っていたという。
 薬師寺東塔天井画:奈良教育大青山智史特任准教授提供
 薬師寺東塔天井画復元図:長方形で囲っている部分が今回の発見部分:奈良教育大学大山明彦教授画

2017/01/14追加:
◎薬師寺東塔「新築説」は確定
2016/12/19薬師寺及び奈文研が中間発表
翌20日各報道機関が報道、報道内容の大意は次の通りである。
薬師寺東塔については、扶桑略記には、天平2年(730)3月29日薬師寺東塔を作り始める(「始薬師寺東塔立」)とあるが、飛鳥期である藤原京(694〜710年)からの移建説と平城京遷都後の現在地での新築説との両説が並存していた。
明治36年(1903)関野貞が藤原京の本薬師寺からの移建説を発表したのに対し、美術史家の町田甲一らは平城京遷都後の新築説を唱えたのがその発端である。
奈文研では、東塔の解体修理を実施中であるが、分解されている部材の内、年輪年代測定可能な部材721点について、伐採年代を計測する。その結果、初重の天井板2枚については樹皮が残っていて、伐採年が729年と730年であることが判明する。
また心柱については最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高いと判断されるに至る。
以上の結果から見れば、薬師寺東塔は藤原京からの移建ではなく、平城京での新築であることが確定したと云える。
つまり、年輪年代法による測定の結果が史書の記述と一致し、東塔の移建・新築の論争は平城京で新築されたということでほぼ決着したということになる。
2017/01/09立柱式が執行され、2020年6月が竣工予定である。
 薬師寺東塔天井板1:向かって左が730年伐採、右が729年伐採の天井板。
 薬師寺東塔天井板2:指指す個所が樹皮であり、この板は支輪の裏板という。
 薬師寺東塔心柱1     薬師寺東塔心柱2:ボールペンで指示するのは719年と判定された部分。


大和薬師寺東塔心礎

大和薬師寺東塔心礎:
○「日本の木造塔跡」:
東塔心礎の大きさは1.67×1.5mで、元は出枘式と思われるも、
現状は正保の修理で、心礎上部を削り、さらに106×90×3cmの菱型の穴を彫り、その上に根継石を置き心柱を受ける形に改変される。

2009/12/09追加:上掲
「藤原京薬師寺宝塔の形態と平城京移建 : 薬師寺宝塔の研究 上」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(226)」1974 所収) より
 平城東塔須彌壇・心礎現状:「修理報告書」 より
平成東塔の現在の形は、心柱の下方に高さ3尺5寸余の根継石を置き。その石のズレを防ぐためであろう、心礎上面を浅く掘り窪めてある。
根継石と心柱の間には厚い板を挟んでそこを須彌壇としている。これは須彌壇を新造した正保年中の仕事であろう。

2015/02/28「X」氏撮影画像
◇薬師寺東塔心礎/四天柱礎
上に掲載(「2015/02/26付/報道発表資料」)の通りである。
即ち、
心礎は両雲母花崗岩製で、東西1.7m、南北1.80m、厚さ0.40m以上である。
上面は正保修理時に際し、心礎上に設置した根継石の形状に合わせて上面から彫り窪める。柱座や舎利孔などは確認できない。

東塔心礎・四天柱礎1
東塔心礎・四天柱礎2
東塔心礎・四天柱礎3
東塔心礎・四天柱礎4
東塔心礎・四天柱礎5
薬師寺東塔心礎1:左図拡大図
薬師寺東塔心礎2
薬師寺東塔心礎3
薬師寺東塔心礎4
薬師寺東塔心礎5
薬師寺東塔心礎6
薬師寺東塔心礎7

東塔根継石1
東塔根継石2


2019/03/26追加:
大和薬師寺東塔相輪解体
○「東塔水煙降臨展」法相宗大本山薬師寺 より
標記パンフレットに大和薬師寺東塔の相輪解体の写真掲載が」あるので、転載する。
修理前大和薬師寺東塔全景:左図拡大図
水煙解体に伴う法要:左図拡大図
水煙の吊上げ:左図拡大図

ワイヤーで水煙を吊上げ、心柱の最頂部が現れる。
吊上げた水煙の着地:左図拡大図

吊上げられた水煙は覆屋7Fに着地する。
水煙の組付け:左図拡大図

右は水煙の組付け

左上は水煙上部の組付け

左下は砲弾形擦の上部と水煙の組付け
九輪の解体:左図拡大図
擦菅の解体:左図拡大図

擦菅には擦銘が刻まれる。
擦菅の吊上げ:左図拡大図

下部は兵頭
伏鉢の解体:左図拡大図
蓋板と伏鉢中の木組み:左図拡大図
蓋板を外した露盤:左図拡大図
伏鉢・露盤中の木組み:左図拡大図
伏鉢・露盤中の木組み・2:左図拡大図

2019/04/27撮影:
東塔解体修理現場最終公開:2019/04/27〜05/06
 東塔解体修理最終公開11     東塔解体修理最終公開12     東塔解体修理最終公開13     東塔解体修理最終公開14
 東塔解体修理最終公開15     東塔解体修理最終公開16     東塔解体修理最終公開17     東塔解体修理最終公開18
 東塔解体修理最終公開19     東塔解体修理最終公開20     東塔解体修理最終公開21     東塔解体修理最終公開22
 東塔解体修理最終公開23     東塔解体修理最終公開24     東塔解体修理最終公開25     東塔解体修理最終公開26
 東塔解体修理最終公開27     東塔解体修理最終公開28     東塔解体修理最終公開29     東塔解体修理最終公開30
 東塔解体修理最終公開31     東塔解体修理最終公開32     東塔解体修理最終公開33     東塔解体修理最終公開34
 東塔解体修理最終公開35     東塔解体修理最終公開36     東塔解体修理最終公開37     東塔解体修理最終公開38
 東塔解体修理最終公開39     東塔解体修理最終公開40     東塔解体修理最終公開41     東塔解体修理最終公開42
 東塔解体修理最終公開43     東塔解体修理最終公開44(相輪)     東塔解体修理最終公開45(相輪)
 東塔解体修理最終公開46(相輪)     東塔解体修理最終公開47(相輪)


大和薬師寺東塔相輪

2012年(平成24年)東塔頂上の相輪が外され、2013年9月水煙が地上に降ろされる。
これにともない、水煙などの調査が行われ、その結果、東塔の頂部を飾る水煙などの新調が決定し、新たに鋳造がなされるという。
そして、この新らしく鋳造された水煙などが東塔頂部に納められることとなる。
そこで、今般(2019年3月)奈良期の水煙と平成の水煙を共に拝する機会が薬師寺にて設けられる。
2019/03/06撮影:
○大和薬師寺に於ける「国宝東塔新旧水煙特別公開」 より
  東塔白鳳水煙と平成水煙:法相宗大本山薬師寺サイト より
 東塔白鳳水煙11     東塔白鳳水煙12     東塔白鳳水煙13     東塔白鳳水煙14     東塔白鳳水煙15
 東塔白鳳水煙16     東塔白鳳水煙17     東塔白鳳水煙18     東塔白鳳水煙19
 東塔相輪擦銘1
 東塔相輪擦銘2:擦菅には薬師寺縁起が記される。薬師寺は天武天皇が発願し、持統天皇が造営を引き継ぐという。
  東塔相輪擦銘・擦銘拓本・擦銘活字・擦銘書下:「東塔水煙降臨展」法相宗大本山薬師寺 より
  東塔白鳳水煙0:法相宗大本山薬師寺サイト よりト より

 東塔白鳳蓮弁        東塔古代釘

 東塔平成水煙11     東塔平成水煙12     東塔平成水煙13     東塔平成水煙14
 東塔平成水煙15     東塔平成水煙16


大和薬師寺東塔舎利容器

1)薬師寺東塔平成24年発見江戸期舎利容器

2018/11/21追加:
●東塔舎利容器の概要
平成24年当時の諸報道資料などを総合すると、東塔舎利容器の概要はおよそ次のようであろう。

 平成24年(2012)東塔解体中に、心柱嵯最上部から仏舎利を納めた木製の蓮華形舎利容器が発見される。
心柱の先端を幅9cm高さ15cmに切り取り、白い布に包んだ木箱を納めていた。
木箱の墨書などから、明治期に心柱を加工して納めたと考えられる。
 心柱最上部の解体作業     心柱最上部からの木箱取り出し     心柱最上部の構造
 木箱の墨書:橋本隆遍は大正元年から大正9年までの薬師寺住職であった。寺田亮遍は不詳。
  (舎利容器の心柱への埋納は明治期で、木製の舎利容器は江戸期のもの?と思われる。)
木箱の中には舎利容器があり、その舎利容器は木製で高さは約10cmを計り、中の舎利が見えるように水晶の板が嵌められる。
 薬師寺江戸期舎利容器1     薬師寺江戸期舎利容器2     薬師寺江戸期舎利容器3
一方、薬師寺には、明和4年(1767)に基辧(きべん)によって書かれた「法相宗伝来肉舎利縁起」が伝わる。それによると、玄奘三蔵はインドから赤い舎利を持ち帰り、その舎利は著者の僧、基辧に伝わったという。
奇しくも、今般発見された舎利容器の中に赤い舎利が見え、その赤い舎利は、基辧が伝来品を納めたのではないかとも考えられるが、はっきりはしない。
 薬師寺東西両塔の心礎の形式を見ると、東塔心礎には舎利孔がなく、西塔にはあるので、舎利は西塔に納められたと推定されるが、西塔は室町期に焼失し、それ以来ストゥーパ(仏塔)に舎利の奉安が無い状態であった。
今般発見された東塔埋納舎利(舎利容器)の意味するところは、おそらく「東塔に舎利を納めたいという強い願いが薬師寺にあり、玄奘三蔵以来の由緒のある舎利が選ばれたのではないか」(奈良国立博物館の内藤栄・学芸部長補佐)という。

 ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。

2019/03/30追加:
「薬師寺 第174号」法相宗大本山薬師寺、平成24年12月 所収論考 より
○「仏舎利容器納入箱確認時の東塔心柱頂部の状況について」奈良県文化財保存事務所 薬師寺出張所 より
 水煙を支持する砲弾型の擦を取り外したところ、心柱の頂部に切欠き部があり、その内部に仏舎利容器を納めた箱が確認される。
但し、これについては昭和27年の修理工事報告書にて既に報告されているが、今回改めて確認される。
心柱頂部の切欠きは幅約9cm、高さ約15cm、奥行約14cmで、ここに、幅8.7cm、奥行6.0cm、高さ13.3cmの檜製の木箱を白い布に封入した上、納めてあった。
 心柱頂部の仏舎利容器収納:水煙の擦菅解体後の状況及び切欠き部の埋木を取り外した状況
 仏舎利納入箱墨書銘:納入箱墨書の全容である。

○「確認された仏舎利容器について」奈良国立博物館学芸部長補佐 内藤栄 より
*形状について
 伏せた蓮の葉に未開敷蓮華(みかいふれんげ/開いていない蓮華)を載せた形の、小型の舎利容器である。
蓮華舎利容器:木製、黒漆塗、水晶、金銅、高さ10.2cm、江戸18世紀
蓮華の部分に宝珠形の孔を開け、ここに三枚の棚板のある孔と同じ形の金銅製の枠形を嵌め、舎利を安置する。この部分は舎利室という。
舎利室は両面より水晶製の板をあて、縁金具をはめて水晶板を固定する。
 参考:舎利容器の写真は上述の通り。
      薬師寺江戸期舎利容器1     薬師寺江戸期舎利容器2     薬師寺江戸期舎利容器3
*製作時期
 江戸期には平な棚板を数段有する小型の舎利容器が流行する。鎌倉期の棚板は弧状の棚板が見られ、室町以降には平な棚板が増える傾向がみられる。
 薬師寺に伝来する「法相宗伝来肉舎利縁起」(明和4年/1767)によれば、玄奘はインドで赤い色の舎利を得、合わせて肉舎利150粒を唐にもたらす。玄奘は道昭に10粒を与え、道昭はそれを行基に譲り、行基は3粒を薬師寺東塔の中心に安置したという。
 縁起を著した基辨は慈恩院祐藝得業という人物より舎利を相伝したが、これは玄奘相伝の舎利と伝えられ、その色は玄奘の伝記に見える潤赤のようであると述べる。
 この蓮華形舎利容器に赤い色の舎利が入っていることは興味深い。
なお、薬師寺西塔の心礎には舎利孔があり、創建期に舎利が安置されると推定される。しかし東塔には舎利孔はなく、当初東塔には舎利の奉安はなかったものと思われる。しかし西塔は失われ、明治期には東塔に舎利の安置が希求され、その結果明治33年の修理で舎利が東塔心柱に奉安されたものと思われる。
*相輪上部への舎利安置
 舎利を相輪の頂上に安置した例は古代寺院にその例がある。
敏達天皇13年(584)蘇我馬子は邸宅の一郭に仏殿を建立、翌年馬子は大野丘北に塔を建立し、舎利を相輪の頂上に籠めるといい、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」にはこれが豊浦寺の建立であったと伝える。
 また東大寺東塔では「東大寺要録」第7「構上東塔露盤事」に「匏(ひさご)形中、安置金字最勝王経一部舎利十粒。維時宝宇八歳次甲辰」とある。

○「新史料『法相宗傳来肉舎利縁起』について」薬師寺宝物管理研究所 より
 薬師寺聖教調査において、東塔に安置された仏舎利の縁起について記した「法相宗傳来肉舎利縁起」が発見される。
この史料は薬師寺僧基辨によって明和4年(1767)に著れたもので、史料の裏面には「肉舎利縁起之案/薬師寺東塔」と記され、東塔安置の仏舎利縁起と分かる。
 その本文には「慈恩傳」「元興寺流志」「西京薬師寺流記」を引用して仏舎利の由来を記す。
玄奘三蔵法師は天竺で拝した仏舎利は大きく赤い色をしていた。そこでこれが真の仏舎利であるかどうかを論じたが忽ち大神変が現れ、その疑いは消える。
貞観19年(645)玄奘が唐に帰国するとき、仏舎利を150粒を唐に将来する。
日本の道昭僧都は入唐し玄奘に唯識學を学び、帰朝の際仏舎利10粒を授かる。道昭は帰国の後、東南禅院に安置する。
さらに薬師寺2代別當の行基は道昭に唯識學を学んだ際、仏舎利3粒を与えられ、これを薬師寺東塔に安置したとする。
 法相宗傳来肉舎利縁起

○「薬師寺の仏舎利信仰とその美術」編集局編 より
 嘉保2年(1095)本薬師寺塔跡より三粒の仏舎利が発掘された記録がある。この仏舎利は金堂の中に金銅五重塔を設けて安置されていたという。(「七大寺巡礼私記」など)この仏舎利は多くの人の信仰を集め、藤原師實や藤原宗忠などが参拝するという。(「中右記」など)
現在、薬師寺には次の厨子入り舎利容器が三体残る。
 火焔宝珠装舎利厨子:天文16年(1547)の墨書がある。厨子内には鍛造の火焔宝珠形の中に仏舎利を納める。
 厨子入火焔宝珠形舎利容器:江戸期、金銅製の蓮台に水晶製の舎利壷が安置される。
 厨子入宝塔:二重宝塔が厨子内に安置され、下重には火焔宝珠形の舎利容器が安置され、上重にも水晶製の舎利容器を安置する。
薬師寺西塔の再建の時、平山郁夫画伯よりガンダーラの舎利容器と舎利が寄進され、佐藤潤四郎作のガラス製容器に納められ、昭和53年再建中の西塔へ納入される。
 再興西塔納入舎利容器

2)薬師寺東塔平成30年作成舎利容器

2018/11/21追加:
 現在東塔は解体修理中であるが、今般そこに納める予定の新しく製作した五重の舎利容器が公開される。
この意味は「後世の方々に平成という時代の技術の粋を伝えたい」(薬師寺執事長)ということであるという。
東塔は2020年4月に落慶法要が予定される。
 舎利容器の構造は五重の入子で、ガラス、金、青磁、竹で編んだ筒に漆を塗ったもの、そして、いちばん外側は茜などで染めた絹糸で織り上げた袋となっている。
一番内側のガラス容器は直径5cm高さ4.5cmで、ガラス工芸の白幡明が塊から削り出す。純金の器は彫金の桂盛仁作、青磁の器は陶芸の川瀬忍作、漆器は漆芸の小森邦衛作、一番外側の絹のふくさは志村ふくみ作で、鮮やかなあかね色に金糸を織り込んだものであるという。
 薬師寺平成30年舎利容器1     薬師寺平成30年舎利容器2
 薬師寺平成30年舎利容器3     薬師寺平成30年舎利容器4     薬師寺平成30年舎利容器5

 ▽出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。

2019/06/28追加:
「薬師寺 第199号」法相宗大本山薬師寺、平成31年4月 には
新しく製作した舎利容器および東塔復原水煙についての作者の取って置きの話などの掲載がある。


大和薬師寺諸資料

2006/10/7追加:
「壬申検査記録写真」:明治5年撮影:四つ切写真
 大和薬師寺東塔1    大和薬師寺東塔2
 2014/08/27追加:上記四つ切写真部分図
  薬師寺東塔1部分図
2009/06/06追加:
「Histoire de l'art du Japon : ouvrage(日本美術史)」、La Commission imperiale du Japon a l'Exposition universelle de Paris, 1900
 (巴里万国博覧会臨時博覧会事務局) より
  Tau de l'est du temple Yakoushiji, en Yamato.(大和,薬師寺の東塔)
「Le Japon : essai sur les moeures et les institutions(日本:慣習と国政に関する評論)」、Hitomi, Ichitaro, 1865-1924(人見一太郎)より
  Pagode du temple Yakushi-ji, a Nara, (VIIIe siecle). (奈良,薬師寺の塔<8世紀>)
2008/08/23追加:
「日本之名勝」瀬川光行編、東京:史伝編纂所、明治33年 より
 薬師寺東塔313
 -----------以上明治の保存修理以前の写真-----------
「日本著名建築写真帖」斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年 より
 薬師寺東塔312
「特別保護建造物及国宝帖」内務省宗教局編、東京:審美書院、明43年 より
 薬師寺東塔311

2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1であり、かつ「きかは便郵」とあるので、明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
写真に写る塔婆写真は明治33年の修理後の姿であり、絵葉書の年代観と矛盾しない。
 大和薬師寺東塔絵葉書

2012/07/07追加:
「東京芸術大学芸術資料館蔵品目録 図案・デザイン 建築」第一法規出版、1991 より
 薬師寺三層裳階付大塔雛形:東京芸術大学蔵、木造着色、一辺80.5cm高さ175cm、明治38年購入

2009/12/09追加:
「藤原京薬師寺宝塔の形態と平城京移建 : 薬師寺宝塔の研究 上」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(226)」1974 所収) より

当論文には平城薬師寺伽藍(特に東塔)の移建・非移建論についての各説の紹介(纏め)及び批判がある。
 ※論点は多岐にわたり、煩雑になるので省略。以下には一部の資料及び図版を収録。
◇「諸寺縁起集」(醍醐寺本:建永元年・1206書写)所収薬師寺縁起の塔条には以下のようにあると云う。
「宝塔ニ基 各三重毎重有裳層 高十一丈五尺 縦広三丈五尺 右塔内安置釈迦如来八相成道形也 ・・・・・ 流記云 宝塔四基 ニ口在本寺云々」
 ※「流記云 宝塔四基」は本薬師寺及び平城薬師寺との4塔が一時期並存していたことを示す。(「流記」は天平の流記と考えられる。)
◇「中右記」天承2年(1132)2月28日条には以下のようにあると云う。
「天喜6年(1058)2月23日夜 本寺(法成寺)焼亡時 為■<火+畏の漢字>燼 其後有議移薬師寺塔成ニ基 三重毎有母層 作八相成道 承暦三年(1079)戌十月五日供養」
 ※藤原道長建立法成寺が焼亡し、その再興に当って薬師寺塔2基が移建されたと解釈される。薬師寺とは大和薬師寺であろうと推定される。であるならば、平城薬師寺には今も創建時の東塔が存在する以上その薬師寺とは本薬師でしかありえない。
但し、上記資料の「移(うつ)す」は「模(うつ)す」であろうとの強い批判もある。
また上記資料から各重に裳階(母層)があったことが分かる。
このことは、現在の本薬師寺の東塔跡には裳階の礎石が残らないが、本薬師寺東塔にも裳階があったことを示すことを意味する。
なお、現在の平城東塔の裳階は壁・扉を設けるが、本薬師寺東塔の裳階は吹き放しであったと考えられる。
 本薬師寺東塔復元図:左図が本薬師寺東塔復元立面図、初重裳階は吹き放し。右図は現在の平城薬師寺東塔立面図。
◇宮上茂隆結論(論旨は込み入るので結論のみ)
本薬師寺東塔は解体され、その心柱と塔身部材は平城に運ばれ、西塔として建てられる。
一方現存する平城東塔は少なくとも塔身部分は新造されたものである。
換言すれば、本薬師寺西塔は現地に留められ、本薬師寺東塔は新たに建立されたものと推定される。
そして、本薬師寺東西塔は承暦三年、山城法成寺に移建され。そのとき本薬師寺塔は終焉する。
なお平城薬師寺西塔は、享禄元年(1528)筒井順興の兵火で金堂などとともに焼亡する。
 平城西塔心礎実測図:「薬師寺」町田公一 より
 本薬師寺東塔心礎実測図:「薬師寺」町田公一 より
 本薬師寺西塔心礎実測図:「薬師寺伽藍の研究」足立康 より
 平城東塔須彌壇・心礎現状:「修理報告書」 より
なお、以下の論文では更なる詳説が展開される。
「平城京薬師寺宝塔の建立 (その 1) : 薬師寺宝塔の研究 下」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(248)」,1976 所収)
「平城京薬師寺宝塔の建立 (その 2) : 薬師寺宝塔の研究 下」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(251)」,1977 所収)
 本薬師寺東塔跡礎石実測図:「南都七大寺建築論ニ薬師寺」大岡実 より


大和薬師寺西塔

○西塔は亨緑元年(1528)兵火で焼失。
万治3年(1660)講堂北の文殊堂を西塔跡に移建、昭和9年文殊堂は腐朽し北側に移建改築。(※その後の文殊堂については不詳。)

○大和名所圖會 寛政3年(1791)刊より:上に掲載
  薬師寺東塔(部分図)、薬師寺東塔2(部分図) ←西塔跡には文殊堂がある。

昭和56年再興塔

2002/10/13撮影:
 大和薬師寺西塔1
    同       2
    同       3
    同       4
 大和薬師寺西塔:日没直前 に撮影

2007/07/27撮影:
 大和薬師寺西塔1
   同       2
   同       3:左図拡大図
   同       4
   同       5
   同       6
   同       7
   同       8
   同       9
2015/02/28「X」氏撮影画像
 大和薬師寺西塔11
 大和薬師寺西塔12

2009/06/06追加:
「五重塔はなぜ倒れないか」
      上田篤、新潮選書、1996 より
 大和薬師寺西塔断面図

2013/08/30追加:
「薬師寺西塔内陣特別公開」リーフレットより
 大和薬師寺西塔

2019/03/06撮影:
 大和薬師寺西塔21     大和薬師寺西塔22     大和薬師寺西塔23     大和薬師寺西塔24     大和薬師寺西塔25
 大和薬師寺西塔26     大和薬師寺西塔27     大和薬師寺西塔28     大和薬師寺西塔29
2019/04/27撮影:
 大和薬師寺西塔31     大和薬師寺西塔32     大和薬師寺西塔33     大和薬師寺西塔34     大和薬師寺西塔35
 大和薬師寺西塔36     大和薬師寺西塔37     大和薬師寺西塔38     大和薬師寺西塔39     大和薬師寺西塔40
 大和薬師寺西塔41     大和薬師寺西塔42     大和薬師寺西塔43     大和薬師寺西塔44     大和薬師寺西塔45
 大和薬師寺西塔46     大和薬師寺西塔47     大和薬師寺西塔48     大和薬師寺西塔49     大和薬師寺西塔50
 大和薬師寺西塔51     大和薬師寺西塔52(相輪)     大和薬師寺西塔53(水煙)


大和薬師寺西塔心礎

大和薬師寺西塔心礎:
「大和の古塔」:
当初の礎石は心礎のほか外柱礎2個を残す。心礎は7尺6寸×6尺3寸の自然石で、中央に三段に円孔を彫る。
さらに上段には外周に排水孔があり、一方に水抜き穴がある。
  大和薬師寺西塔心礎1    大和薬師寺西塔心礎実測図
(一重は柱穴、二重は石蓋、三重は舎利孔と推定される。なお西塔心礎石蓋は今東院堂に保存されている。)
「日本の木造塔跡」:
心礎の大きさは2.1×1.64mで、穴の中心から90cmのところに東と西に段がある。三段式で、径95×16.7cmの円穴と径42×8.8cmの蓋受孔、径30×21cmの舎利孔を穿つ。石蓋も残存する。穴の底周壁沿いに巾4.2深さ2.4cmの排水溝があり、北側に排水隋道を貫通させる。心礎のほか四天柱礎が2個残り、礎石には方形の柱座を造る。基壇は壇上積みで一辺13.3m、高さ1.5m。
2007/12/24追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
  大和薬師寺西塔心礎図:上平面図、下は断面図:柱座・石蓋孔・環状排水溝がある。
2009/12/09追加:上掲
「藤原京薬師寺宝塔の形態と平城京移建 : 薬師寺宝塔の研究 上」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(226)」1974 所収) より
 平城西塔心礎実測図:「薬師寺」町田公一 より
2011/05/29追加:「写真でみる日本古代木造塔の心礎」<岩井隆次氏寄贈写真>立正大学博物館、平成15年 より
 大和薬師寺西塔心礎2
2011/05/29追加:「佛教考古學論攷」 より
 大和薬師寺西塔心礎3
2012/07/07追加」
 薬師寺東塔と西塔心礎:「日本仏塔の研究 [1], [2].」石田茂作、講談社、昭和45年 より
○2015/03/07追加:
「2015/02/26付/報道発表資料」より
西塔
昭和51年に基壇の全面発掘調査が行われ、その結果基壇規模は一辺13.7m、高さ約1.3mと判明する。
心礎は飛鳥周囲で産出する石英閃緑岩で、長径2.7m、短径1.9m、厚さ0.9m以上を測り、上面に方形の柱座を造り出し、中央に三重の円孔を同心円状に彫り込んだ舎利孔を設ける。
 薬師寺西塔発掘平面図
2019/04/27撮影:
東塔解体修理現場にあり。
 薬師寺西塔心礎模型1     薬師寺西塔心礎模型2     薬師寺西塔心礎模型3


大和薬師寺伽藍

※近年、企業化?が進み、寺院は俗化する。
そのため、幾多の混乱を乗り越え今世に伝えられた天平の塔婆・仏像等々が泣いているようにも見える。
ニ度と行く気のしない寺院の一つになっていることを憂う。

□印は2001/03/24撮影、○印は2007/07/27撮影、◇印は2019/03/06撮影、▽印は2019/04/27撮影:
 ▽昭和13年薬師寺航空写真
南門:重文・室町期
 ▽薬師寺南門1     ▽薬師寺南門2     ▽薬師寺南門3     ▽薬師寺南門4
金堂:昭和再建堂
 □大和薬師寺金堂  ※旧金堂は天文-弘治年間の建立とされ、昭和50年興福寺講堂跡へ仮金堂として移建される。
 ○大和薬師寺金堂1     ○  同    金堂2     ○  同    金堂3
 ◇大和薬師寺金堂4     ◇大和薬師寺金堂5
 ▽大和薬師寺金堂6
講堂:平成15年落慶
 ○大和薬師寺講堂
 ◇大和薬師寺講堂2     ◇大和薬師寺講堂3
 ▽大和薬師寺講堂4
食堂:
 ◇大和薬師寺食堂
 ▽大和薬師寺食堂2

東院堂:
創建は奈良期、弘安8年(1285)再建、享保18年(1733)西向に造替される。鎌倉期の建築で国宝。本尊は聖観音立像(白鳳期・国宝)。
 □大和薬師寺東院堂:東院堂 (国宝、弘安8年・1285再建、桁行7間梁間4間)
 ○大和薬師寺東院堂1     ○ 同    東院堂2     ○ 同    東院堂3     ○ 同    東院堂4
 ○ 同    東院堂5
 ▽薬師寺東院堂6     ▽薬師寺東院堂7     ▽薬師寺東院堂8     ▽薬師寺東院堂9     ▽薬師寺東院堂10
 ▽薬師寺東院堂11     ▽薬師寺東院堂本尊

 ◇大和薬師寺鐘楼      ◇大和薬師寺不動堂
 ◇薬師寺玄奘三蔵院
 ◇大唐西域壁画殿1     ◇大唐西域壁画殿2

 ▽薬師寺本坊門
 ▽塔頭地蔵院1     ▽塔頭地蔵院2     ▽塔頭地蔵院3     ▽塔頭地蔵院4     ▽塔頭地蔵院5
 ▽塔頭大乗院
 ◇塔頭龍眼院(奥は世尊院)
 ◇塔頭法光院     ▽塔頭法光院2:右端は金蔵院
 ◇塔頭法輪院1     ◇塔頭法輪院2
 ◇塔頭円成院
 ◇塔頭福蔵院他
 ▽塔頭八幡院1     ▽塔頭八幡院2

 ◇大和薬師寺北門跡1     ◇大和薬師寺北門跡2     ◇大和薬師寺北門跡3     ◇大和薬師寺北門跡4

薬師寺八幡宮
 伽藍南に鎮守薬師寺八幡宮がある。
 寛平年中(889〜898)宇佐から勧請と伝える。
 現存社殿・脇殿・座小屋は慶長8年(1603)豊臣秀頼の造営。
 社殿は西面、本殿に両脇殿が付設、社殿前庭西側(北と南)に座小屋が配置される。
 座小屋は後世の補修が多いものの中世の宮座を受け継ぐ建物あるいは廊とも云われる。
 三柱の神像(僧形八幡神、神功皇后、仲津姫命)は国宝。
 社殿(重文)3間社流造、檜皮葺。脇殿(重文)各桁行3間、梁間1間、切妻、檜皮葺、十九所明神を祀る。
2007/07/27撮影:
 薬師寺八幡宮1    同     2    同     3    同     4    同     5    同     6    同     7
2019/04/27撮影:
創建は寛平8年(896)と伝える。
慶長元年(1596) の地震で倒壊、現社殿(重文)は慶長8年(1603)豊臣秀頼によって再建される。
延宝4年(1676)から享保末年頃(1734)の間に描かれた「伽藍寺中之図」には、八幡社本殿の左右から回廊(座小屋・御廊)が取り付き、中門と楼門 が描かれているという。
しかし、宝永4年(1707)の地震で「八幡宮楼門石居五、八寸斗落入。御廊破損ス。御殿者無別条。」とあり、 本殿は別条なかったが、楼門と座小屋は破線という。現在の座小屋は倒壊を免れた部分で切り揃えられたため、南面と北面で長さが異なり、現在に至ると至るという。
 鎮守八幡社南座小屋     鎮守八幡社北座小屋
 鎮守八幡社本殿:現在修理中     参考:鎮守八幡社本殿:修理中なので、大和薬師寺のサイトから転載
 参考:現地説明板・本殿
 参考:現地説明板・安置像
 本殿には中央八幡大菩薩(僧形八幡神)坐像、左右に神功皇后(仲哀妃・應神母)坐像、仲津姫(應神妃)坐像(何れも国宝)を祀る。
 脇殿には板絵着色神像(永仁3年/1259・重文)を祀る。

薬師寺東塔西塔模型(ガラスボトル入り)・・・ボトルアーキテクチャー

2016/07/29朝日新聞(夕刊)掲載
2015年製作、高さ77.6cm、スケールは1/44、メニコンの技術顧問田中勇輝氏製作。
大和薬師寺がこの塔の評判を聞き、メニコンに東塔の奉納を申し出、メニコンが受諾し、2016/09に薬師寺に搬入予定という。
 ガラスボトル入り東塔・西塔模型1     ガラスボトル入り東塔・西塔模型2:いずれも手前が西塔、奥が東塔
2019/03/06撮影:
ボトルアーキテクチャは特注のガラスボトルの中に入った木造の薬師寺塔婆である。
約8500の部品を1本の丸太から削り出しガラスドームの中で44分の1スケールの大きさで作りあげているという。
 ボトルアーキテクチャー東塔1     ボトルアーキテクチャー東塔2
 ボトルアーキテクチャー西塔1     ボトルアーキテクチャー西塔2

○「薬師寺十字廊の発掘調査(平城519次調査)現地説明会資料」:2014/02/15
 十字廊とは「薬師寺縁起」では「十字の廊一宇 東西14丈1尺、南北5丈6尺、高さ9尺2寸、食殿と云ふ。
右は天禄4年(973)2月27日に焼亡す。而して別当増祐、寛弘2年(1005)を以て造立せり。但し南北は本の如し。」という。
食堂の北側に位置し、食堂に関係する建物であろうか。


大和本薬師寺

天武天皇の発願により起工し、持統天皇・文武天皇の時代に完成したとされる。完成から20年後には平城宮に寺籍を移す。
一部堂塔は平安中期まで法燈を保っていたことが知られる。伽藍配置は平城京薬師寺と同一、同距離とされる。
「日本の木造塔跡」:
現状は東西両塔跡土壇と金堂跡土壇と各々に心礎・礎石を残す。
 「大和の古塔」:大和本薬師寺実測図
 舎利の荘厳は知られないが、天武朝創建薬師寺において嘉保2年(1095)塔跡から発見された舎利容器は石辛櫃に中に金銅筥(あるいは壷)に舎利3粒を納めていたと云う。(「中右記」「七大寺日記」「七大寺巡礼私記」)

東塔跡:
心礎、四天柱礎全部、側柱礎9(亡失1個、破損2個)を残す。
心礎の大きさは2.1×1.8mで、径96cm・深さ18cmの柱穴、蓋受孔(径43×8.5cm)、舎利孔(径30×24cm)を持つ三段式心礎である。心礎以外の礎石は1個を除きいずれも一辺67cmの方形造出しがあり、 その内8個は地覆座を持つ。
塔の一辺は7.13mとされる。
 大和本薬師寺東塔跡  大和本薬師寺礎石1   同         2   同         3   同         4
 「大和の古塔」:本薬師寺東塔心礎実測図
2008/01/08撮影:
 大和本薬師寺塔跡礎石11   同         12   同        13   同        14   同        15
   同           16   同        17   同         18   同        19
2009/12/09追加:上掲
「藤原京薬師寺宝塔の形態と平城京移建 : 薬師寺宝塔の研究 上」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(226)」1974 所収) より
 本薬師寺東塔心礎実測図:「薬師寺」町田公一 より
「平城京薬師寺宝塔の建立 (その 2) : 薬師寺宝塔の研究 下」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(251)」,1977 所収)
 本薬師寺東塔跡礎石実測図:「南都七大寺建築論ニ薬師寺」大岡実 より

2008/02/28撮影:

大和本薬師寺遠望
中央左奥は金堂跡土壇、中央手前土壇は西塔跡土壇、中央右奥は東塔土壇
大和本薬師寺東塔土壇
  同   東塔礎石21
  同   東塔礎石22
  同   東塔礎石23
  同   東塔心礎24
  同   東塔心礎25
  同   東塔心礎26
  同   東塔心礎27
  同   東塔心礎28
  同   東塔心礎29:左図拡大図

西塔跡:
礎石は心礎のみ残る。大きさは2.1×2.1mで、径38×10cmの出臍を持つ。柱座の造出はない。
 大和本薬師寺西塔跡   同      心礎1   同         2
2008/01/08撮影:
 大和本薬師寺西塔跡土壇2   同  西塔跡心礎11   同  西塔跡心礎12   同  西塔跡心礎13
2008/02/28撮影:
 大和本薬師寺西塔土壇21   同          22   同  西塔跡散乱瓦
2009/09/01追加;
「飛鳥の寺院 飛鳥の考古学図録3」明日香村教育委員会、平成19年 より
 本薬師寺西塔発掘:南東より撮影
2009/12/09追加:上掲
「藤原京薬師寺宝塔の形態と平城京移建 : 薬師寺宝塔の研究 上」宮上茂隆(「日本建築学会論文報告集(226)」1974 所収) より
 本薬師寺西塔心礎実測図:「薬師寺伽藍の研究」足立康 より

金堂跡:
巨大なかつ精巧な礎石15個(7間4間)が整然と残る。
 大和薬師寺金堂礎石1   同          2
2008/01/08撮影:
 大和本薬師寺金堂跡礎石11   同         12   同         13


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